ページ

月曜日, 4月 08, 2019

クレメント・グリーンバーグ(Clement Greenberg ,1909~1994)


クレメント・グリーンバーグ(Clement Greenberg, 1909年1月16日 - 1994年5月7日)はアメリカ合衆国美術評論家リトアニアユダヤ人の子としてニューヨークに生まれる。アート・スチューデンツ・リーグ・オブ・ニューヨーク卒業後、シラキューズ大学を卒業。抽象表現主義とその代表的存在であるジャクソン・ポロックを擁護し、後には「ポスト・ペインタリー・アブストラクション」の運動を理論的に主導した。

 http://re-modernism.com/aboutmodernism/

グリーンバーグも絵画のモダニズムについてはこう表現しています。

しかしながら、絵画芸術がモダニズムの下で自らを批判し限定づけていく過程で ── 平面性だけが、その芸術にとって独自のものであり独占的なものだったのである ──
平面性、二次元性は、絵画が他の芸術と分かち合っていない唯一の条件だったので、それゆえモダニズムの絵画は、他には何もしなかったと言えるほど平面性へと向かったのである。⑶

 

モダニズムの絵画 ⑶65pグリーンバーグ批評選集


そしてグリーンズバーグは最初のモダニストは哲学者のカントにあると言及しています。

「私は、モダニズムを哲学者カントによってはじめられたこの自己‐批判的傾向の強化、いやほとんど激化ともいうべきものと同一視している」⑸

 モダニズムの絵画 ⑸p62グリーンバーグ批評選集

 https://kotobank.jp/word/%E3%82%B0%E3%83%AA%E3%83%B3%E3%83%90%E3%83%BC%E3%82%B0-831541

グリンバーグ

米国の美術批評家。ニューヨーク生れ。1930年代よりマルクス主義の立場から文学および美術の評論活動を行うが,1930年代後半以降,芸術作品を成立させている形式的・内的側面の分析を手がけるようになり,いわゆるフォーマリズムformalism批評の先駆となる。1940年代にはポロックの作品を擁護し,また,1950年代にはモーリス・ルイスやケネス・ノーランドらの絵画作品を検討することによって,〈カラー・フィールド・ペインティング〉や〈ハード・エッジ〉などの概念を含む〈ポスト・ペインタリー・アブストラクションpost-painterly abstraction(絵画的抽象以後の抽象)〉を提唱し,美術批評家として主導的役割を果たした。著書に《芸術と文化》(1961年)をはじめ,著作集全4巻がある。
→関連項目抽象表現主義

出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報


https://www.amazon.co.jp/B00SQX9ODM

モダニズムのハード・コア―現代美術批評の地平 批評空間  第2期臨時増刊号 Kindle版2015

美術批評の基礎文献でありながら、長らく入手困難だった名著が電子書籍で復刊。

【共同討議】
モダニズム再考
磯崎新+柄谷行人+浅田彰+岡崎乾二郎

【評論】
クレメント・グリーンバーグ/マイケル・フリード/T・J・クラーク/ロザリンド・クラウス/ベンジャミン・ブクロー/岡崎乾二郎/松浦寿夫/田中純/丸山洋志

【ディスカッション】
マイケル・フリード/ベンジャミン・ブクロー/ハル・フォスター/ロザリンド・クラウス/ダグラス・クリンプ/ジョイ・ナイト 他

【インタビュー】
ジョセフ・コスース

【セミナー】
岡崎乾二郎+田中純+丸山洋志+浅田彰+松浦寿夫



【共同討議】モダニズム再考 磯崎新+柄谷行人+浅田彰+岡崎乾二郎
磯崎 …空間はぼくにとっては建築的な快楽なのです 。肉体化しています 。古典建築を見に行くのは 、その空間を食べに行くような感じです 。ピーター[・アイゼンマン]もそこは同じですが 、いざ設計 、となるとそうはいかない。

浅田 …グリーンバ ーグ主義を単純化した場合 、モダニズムというのは自己批判による自己純化のプロセスであり 、絵画で言えばフラットな平面性へと自己を還元していくプロセスだということになると 、その論理をもっとリテラルに推し進めれば 、それこそドナルド ・ジャッドなんかがやったみたいに 、平面の外枠だけ取り出して並べていくというふうなことになり 、だからある意味で 、グリーンバ ーグ主義みたいなものをリテラルに徹底すると 、グリーンバ ーグ自身の意図を超えて 、ミニマリズムになってしまうということになるわけですね 。…

柄谷 …つまり 、いわゆるマルクス主義という形で影響力をもったのは 、実は科学と道徳だと 、ぼくは思うんです 。そのなかであらためて芸術の領域を確定しなければならなかったわけですね 。グリーンバ ーグが言っているのは 、ぼくが読んだところでは 、彫刻に対する絵画とか 、そういう狭い領域の純粋形式化だけれども 、もっと広い意味で 、芸術の領域を確定しようとしたわけでしょう 。それに対して 、いま言われた最近の P Cは 、いわば道徳の優位なんですよ 。それに対して 、芸術の自律性を言う人はいないんですか 。

岡崎 たまには言いたいんですけどね (笑 ) 。

 

結局モダニズムの本質とはその芸術が

他の芸術と分かち合えない特質な部分に目を向けて

その芸術のみでしか成立できない表現を追求することによって(絵画なら平面性、建築なら空間性、写真なら現実の再現性)

その芸術内での固有性を突き詰めていく姿勢です。

 

最後にもう一度クレメントグリーンバーグ批評選集から

モダニズムの本質について記述を引用してみたいと思います。

 

モダニズムの本質は、ある規律そのものを批判するために ── それを破壊するためにではなく、その権能の及ぶ領域内で、それをより強固に確立するために── その規律に独自の方法を用いることにある。⑵

 

そしてこのモダニズムの考え方はそれぞれの分野内で純粋芸術を目指す考え方なので、行き詰まりを迎えてモダニズムを批判する運動として多様性を許容するポストモダンの時代へと変化していくのでした。

 

 

 

参考文献:

グリーンバーグ批評選集

モダニズムの起源 ⑴48p ⑷ 56p 57p

モダニズムの絵画 ⑵62p ⑶65p ⑸p62


「モダニズムの絵画 」M o d e r n i s t  P a i n t i n g

クレメント・グリーンバーグ C L E M E N T  G R E E N B E R G

を含め、

引用部分は『モダニズムのハードコア』kindleサンプルで読めます


私が言いたいのはただ、あらゆる芸術が結局のところ傾向的であり、様式自体傾向そのものにほかならないにもかか
わらず、それでもやはり傾向がまったく同じでもその傾向を表現する芸術的イメージが多層的な底なしの深みを獲得
することもできるし、ラファエロが『シスチナのマドンナ』でおこなったように、プラカードのようにあからさま
に表現されることもありうるということだ。マルクスでさえも、芸術において傾向は、それがソファーのスプリング
のように外に出てこないように隠しておかなければならないと語っている。

タルコフスキー『映像のポエジア』73頁


Sculpting in Time: Reflections on the Cinema- 51 ページ
https://books.google.co.jp/books?isbn...
Andrey Tarkovsky, ‎Kitty Hunter-Blair - 1989 - ‎プレビュー - ‎他の版
Even Marx said that tendency in art had to be hidden, so that it didn't stick out like springs out of a sofa. Of course ... He knows that aesthetic structure has no need of manifestos, that the power of art does not lie there but in emotional persuasiveness, in that unique life force of which Gogol wrote in the letter quoted earlier.



"пружина из матраса"против обнаружения которой предостерегал еще [Карл]Маркс. (Андрей Тарковский: начало--и пути : воспоминания, интервью, ... Андрей Арсеньевич Тарковский, ‎М Ростоцкая - 1994 - )


Tendenz in der Kunst muss unbedingt versteckt werden, damit sie nicht wie eine Sprungfeder aus dem Sofa ragt

http://deacademic.com/dic.nsf/dewiki/76705 Die Kunstauffassung Tarkowskis



たとえばオウイデイウスは、芸術は目立たないようにすることのなかにある」と語り、エンゲルスは「作者のまなざしが隠されていればいるほど、それほど芸術作品はすばらしいものになる」と主張していた。


映像のポエジア 69頁



 マルクスは言っている。「もし芸術を享受したいと思うならば、芸術の素養を身につけなけばならない。」芸術家は、分かりやすくということを特別の理念にすべきではない。それは、理解されにくいことをめざすという、それとは正反対の目的と同様、ばかげたことである。
映像のポエジア 248頁





以下大月全集37巻
エンゲルスからマーガレット・ハークネス宛書簡 4月初め より

36頁
(46)
私は、あなたが、社会的·政治的見解に栄光をそえるために、むきだしの社会主義小説、私たちドイツ人が言う
「傾向小説(テンデンロマーン)」をあなたが書かなかったことに欠点を見るつもりは毛頭ありません。私が言おうとしていることは,そ
れとはまったくちがうのです。作者の見解がかくされていればいるほど、それだけ芸術作品にとってはよいのです。
私の言うリアリズムは、作者の見解がどうあろうとも、ふっと表面に出てくることがあるものなのです。一例を挙げ
てみましょう。私が過去、現在、未来のすべてのゾラたちよりもはるかに偉大なリアリズムの大家と考えるバルザッ
クは、『人間喜劇』のなかでフランス「社会」の、とくに「パリの世界」の、たいへんすばらしいリアリスティック
な歴史を私たちにあたえています。彼は、年代記風に一八一六年から一八四八年までほぼ年を追って、台頭するブル
ジョアジーの貴族社会への侵入をえがいておりますが、この貴族は一八一五年以後に自己を再編成し、できるかぎりフランスの古い礼儀の基準をもういちど建て直したのです。

大月全集37巻36頁
書簡1888年no.19 エンゲルスからマーガレット・ハークネスへ 4月初め 35







経済学・哲学草稿
3:6お金

芸術を楽しみたいと思えば、芸術性のゆたかな人間にならねばならない。他人に影響をあたえたいと思えば、実際に生き生きと元気よく他人に働きかける人にならねばならない。

長谷川宏訳


経済学・哲学草稿

人間を人間として、また世の中にたいする彼のあり方を人間的なあり方として前提するならば、きみは愛をただ愛
とのみ、信頼をただ信頼とのみ、等々、交換することができる。きみが芸術を楽しみたいならば、きみは芸術的な教
養のある人間でなければならない。きみが他の人々に影響力を及ぼしたいならば、きみは実際に他の人々を活気づけ
鼓舞するようなはたらきをもつ人間でなければならない。きみの人間にたいするーーおよび自然にたいするーーどん
なあり方でも、それはきみの現実的個人的な生き方のある特定の、きみの意志の対象に見合った表現でなければなら
ない。きみが愛することがあっても、それにこたえる愛をよび起こすことがないならば、換言すればきみの愛が愛と
して、それにこたえる愛を生み出すことがないならば、きみが愛する人間としてのきみの生活表現によって、きみ自
身を、愛された人間たらしめることがないならば、きみの愛は無力であり、一つの不幸なのである。


マルクス
大月全集40巻489頁




マルクス・エンゲルス芸術論 上巻 / リフシッツ,エルペンベック/編 / 岩波書店 / 1957.11 

マルクス・エンゲルス芸術論 下巻 / リフシッツ,エルペンベック/編 / 岩波書店 / 1962.1 

13 件のコメント:

  1. 参考:
    http://re-modernism.com/aboutmodernism/
    グリーンバーグは絵画のモダニズムについてはこう表現しています。

    しかしながら、絵画芸術がモダニズムの下で自らを批判し限定づけていく過程で ── 平面性だけが、
    その芸術にとって独自のものであり独占的なものだったのである ──
    平面性、二次元性は、絵画が他の芸術と分かち合っていない唯一の条件だったので、それゆえ
    モダニズムの絵画は、他には何もしなかったと言えるほど平面性へと向かったのである。⑶
    (モダニズムの絵画 ⑶65pグリーンバーグ批評選集)

    そしてグリーンズバーグは最初のモダニストは哲学者のカントにあると言及しています。

    「私は、モダニズムを哲学者カントによってはじめられたこの自己‐批判的傾向の強化、いや
    ほとんど激化ともいうべきものと同一視している」⑸
    (モダニズムの絵画 ⑸p62グリーンバーグ批評選集)

    https://kotobank.jp/word/%E3%82%B0%E3%83%AA%E3%83%B3%E3%83%90%E3%83%BC%E3%82%B0-831541
    グリンバーグ(1909~1994)
    米国の美術批評家。ニューヨーク生れ。1930年代よりマルクス主義の立場から文学および
    美術の評論活動を行うが,1930年代後半以降,芸術作品を成立させている形式的・内的
    側面の分析を手がけるようになり,いわゆるフォーマリズムformalism批評の先駆となる。
    1940年代にはポロックの作品を擁護…

    参照:
    https://www.amazon.co.jp/B00SQX9ODM
    モダニズムのハード・コア―現代美術批評の地平 批評空間  第2期臨時増刊号 Kindle版
    共同討議 モダニズム再考
    磯崎新+柄谷行人+浅田彰+岡崎乾二郎

    返信削除
  2. 私が言いたいのはただ、あらゆる芸術が結局のところ傾向的であり、様式自体傾向そのものにほかならないにもかか
    わらず、それでもやはり傾向がまったく同じでもその傾向を表現する芸術的イメージが多層的な底なしの深みを獲得
    することもできるし、ラファエロが『シスチナのマドンナ』でおこなったように、プラカードのようにあからさま
    に表現されることもありうるということだ。マルクスでさえも、芸術において傾向は、それがソファーのスプリング
    のように外に出てこないように隠しておかなければならないと語っている。

    タルコフスキー『映像のポエジア』73頁

    返信削除
  3. Sculpting in Time: Reflections on the Cinema - 51 ページ
    https://books.google.co.jp/books?isbn...

    Andrey Tarkovsky, ‎Kitty Hunter-Blair - 1989 - ‎プレビュー - ‎他の版
    Even Marx said that tendency in art had to be hidden, so that it didn't stick out like springs out of a sofa. Of course ... He knows that aesthetic structure has no need of manifestos, that the power of art does not lie there but in emotional persuasiveness, in that unique life force of which Gogol wrote in the letter quoted earlier.

    返信削除
  4. ウェブ検索結果
    Marx/Engels Letters - Marxists Internet Archive
    PDFhttps://marxists.catbull.com › download
    Marx began to study political economy at the end of 1843 and by spring 1844 he set himself the task of writing a ... You will have all the less need of me and there is all the more need for me here. Obviously I can't ...

    返信削除
  5. tarkowski_die_kunst_als_sehnsucht_nach_dem_idealen [klasse-waehner]
    http://archiv-klasse-waehner.userweb.mwn.de/doku15af.html?id=tarkowski_die_kunst_als_sehnsucht_nach_dem_idealen
    ztlich tendenziös und schon der Stil nichts anderes als Tendenz ist, so kann diese Tendenz sich doch entweder in einer vielgestalten Tiefe der dargestellten Bilder verlieren oder aber bis zum Plakativen hin offensichtlich sein, wie das bei Raffaels »Sixtinischer Madonna« der Fall ist. Sogar Marx sprach davon, man müsse die Tendenz in der Kunst unbedingt verstecken, damit sie nicht wie eine Sprungfeder aus dem Sofa rage. Wenden wir uns nun zur Klärung meiner Position gegenüber dem schöpferischen Tun einem der mir besonders nahestehen den Filmkünstler zu - Luis Bunuel. In seinen Filmen stoßen wir immer wieder auf das Pathos des Nonkonformismus. Bunuels leidenschaftlicher, unversöhnlich

    返信削除
  6. 大月全集37巻37頁

    19 エンゲルスからマーガレット・ハークネスへ 4月初め 35

    36頁
    (46)
    いう意味をもっています。ところであなたの人物たちは、
    それはそれとして十分に典型的です。しかし彼らをとりま
    き、彼らを行動させている状況については、おそらく同じ
    ほどにはそうではありません. T都会の娘』では、労働者
    階級は自分ら自身を助けることができず、自分ら自身を助
    けるために一所懸命な試みをやろうとさえもしない受身の
    大衆としてあらわれています。彼ら自身感じなくなったみ
    じめさから彼らをひっぱりだそうとするすべての試みは、
    外部から、上から出てきほす。さてもしこれが一八00年
    か一八一○年ごろ、サソーシモンやロバート·オーエンの
    時代の正確な叙述だったとしても、ほぼ五0年のあいだ、
    戦闘的プロレタリアートの大部分の闘争に参加したという
    栄誉をもつ男にとっては、一八八七年にはそうは見えかね
    よす。労働者階級をとりほく抑圧的な環境に反発する彼ら
    の反抗的な反応、人間としての彼らの立場を回復しようと
    する 衝動的、半意識的よたは意識的な11彼らの試み
    は、歴史の一部をなしており、したがってリアリズムの分
    野で一つの場を要求しなければなりません。
    私は、あなたが、社会的·政治的見解に栄光をそえるた
    めに、むきだしの社会主義小説、私たちドイツ人が言う
    「傾向小説(テンデンロマーン)」をあなたが書かなかったことに欠点を見るつ
    もりは毛頭ありません。私が言おうとしていることは,そ
    れとはまったくちがうのです。作者の見解がかくされてい
    ればいるほど、それだけ芸術作品にとってはよいのです。

     私の言うリアリズムは、作者の見解がどうあろうとも、ふ
    っと表面に出てくることがあるものなのです。一例を挙げ
    てみましょう。私が過去、現在、未来のすべてのゾラたち
    よりもはるかに偉大なリアリズムの大家と考えるバルザッ
    クは、『人間喜劇』のなかでフランス「社会」の、とくに
    の世界」の、
    たいへんすばらしいリアリスティック
    な歴史を私たちにあたえています。彼は、年代記風に
    一六年から一八四八年\でほぼ年を追って、台頭するブル
    ジョアジーの貴族社会への侵入をえがいておりますが、こ
    の貴族は一八一五年以後に自己を再編成し、できるかぎり
    フランスの古い礼儀の基準をもういちど建て直したのです。
    彼は、彼にとって模範的なこの社会の最後の遺物がいかに
    俗な金持の成上がり者の侵入の境にだんだん屈服し、ま
    たは彼によって破滅させられたかをえがき、貴夫人-そ
    の不義密通は、彼女が結婚させられた仕方に完全に一致し
    て自分を主張する方法にほかならなかった11が、現金や
    キャシュミア織物ほしさに夫を欺いたブルジョアの奥様に
    とって代わられたしだいをえがき集した。そしてこの中心
    の描写のまわりに、彼はフランス社会の完全な歴史をとり
    まとめており、これから私は経済的なこまかいこと(たと
    キャシュ

    返信削除
  7. 1
    マルクス・エンゲルス芸術論 下巻 / リフシッツ,エルペンベック/編 / 岩波書店 / 1962.1
    2
    マルクス・エンゲルス芸術論 上巻 / リフシッツ,エルペンベック/編 / 岩波書店 / 1957.11

    返信削除
  8. Title 転向期の中野重治をめぐる覚え書 Author(s) - 一橋大学機関リポジトリ (Adobe PDF)
    hermes-ir.lib.hit-u.ac.jp/rs/.../1/ronso0550201130.pdf
    エフ・シルレルはエンゲルスの言葉を、バルザックが「世界 私には「世界観」という言葉が果して中野の定義どおりに使.
    社会主義リアリズム論争ノートⅥ - 日本中国当代文学研究会 (Adobe PDF) -htmlで見る
    dangdaiwenxue.sakura.ne.jp/kaihou/.../kaihou015001.pdf
    中野重治の「エンゲルスについてのエフ・シルレルの注釈について」における発言は、. エンゲルスのバルザック評と社会主義 ...
    中野重治 - 石川県 (Adobe PDF) -htmlで見る
    www.pref.ishikawa.jp/shiko-kinbun/event/nakanoura.pdf
    おどる男」「軍楽」「むらぎも」「甲乙丙丁」. 「五勺の酒」「梨の花」(坂井市丸岡図書館所蔵). 「『暗夜行路』雑談」(日本近代文学館 ...
    企画展「中野重治の手紙―『愛しき者へ』展」 | 神奈川近代文学館
    www.kanabun.or.jp/exhibition/2587/
    中野重治(1902~1979)は、大正末期、みずみずしい抒情溢れる詩や評論を発表して文学活動を始めました。プロレタリア文学 ...
    中野重治全集 - Webcat Plus
    webcatplus.nii.ac.jp/webcatplus/details/book/36321.html
    Webcat Plus: 中野重治全集. ... 小説「一つのタイプ」について / 358; エンゲルス についてのエフ・シルレルの註釈について / 366 ...

    返信削除
  9. 《私が言いたいのはただ、あらゆる芸術が結局のところ傾向的であり、様式自体傾向そのものにほかならないにもかか
    わらず、それでもやはり傾向がまったく同じでもその傾向を表現する芸術的イメージが多層的な底なしの深みを獲得
    することもできるし、ラファエロが『シスチナのマドンナ』でおこなったように、プラカードのようにあからさま
    に表現されることもありうるということだ。マルクスでさえも、芸術において傾向は、それがソファーのスプリング
    のように外に出てこないように隠しておかなければならないと語っている。》
    タルコフスキー『映像のポエジア』73頁

    《たとえばオウイデイウスは「芸術は目立たないようにすることのなかにある」と語り、
    エンゲルスは「作者のまなざしが隠されていればいるほど、それほど芸術作品はすばらしい
    ものになる」と主張していた。》同69頁

    以下大月全集37巻より
    《私は、あなたが、社会的·政治的見解に栄光をそえるために、むきだしの社会主義小説、私たちドイツ人が言う
    「傾向小説(テンデンロマーン)」をあなたが書かなかったことに欠点を見るつもりは毛頭ありません。私が言おうとしていることは,そ
    れとはまったくちがうのです。作者の見解がかくされていればいるほど、それだけ芸術作品にとってはよいのです。
    私の言うリアリズムは、作者の見解がどうあろうとも、ふっと表面に出てくることがあるものなのです。一例を挙げ
    てみましょう。私が過去、現在、未来のすべてのゾラたちよりもはるかに偉大なリアリズムの大家と考えるバルザッ
    クは、『人間喜劇』のなかでフランス「社会」の、とくに「パリの世界」の、たいへんすばらしいリアリスティック
    な歴史を私たちにあたえています。彼は、年代記風に一八一六年から一八四八年までほぼ年を追って、台頭するブル
    ジョアジーの貴族社会への侵入をえがいておりますが、この貴族は一八一五年以後に自己を再編成し、できるかぎり
    フランスの古い礼儀の基準をもういちど建て直したのです。》36頁
    エンゲルスからマーガレット・ハークネス宛書簡 1888年4月初め


    返信削除
  10. http://deacademic.com/dic.nsf/dewiki/76705

    Die Kunstauffassung Tarkowskis

    Um die filmspezifische Einstellung von Tarkowski verstehen zu können, muss erst seine Meinung über den Oberbegriff Kunst erläutert werden: Für ihn hat Kunst die hohe Aufgabe, den Sinn und Zweck menschlichen Daseins zu erläutern oder zumindest die Frage danach zu provozieren. In diesem Zusammenhang betont er die Funktion des Erkennens und des Begreifens, die sich auf das Wesen des Lebens und seine unendlichen Möglichkeiten erstreckt. Der Mensch ist zur Suche nach der absoluten Wahrheit verdammt und die Kunst hilft ihm dabei, indem sie immer wieder neue Bilder der Welt entwirft. Innerhalb diesen Strebens hat die Kunst den Anspruch, allumfassend zu sein, denn im Gegensatz zur Wissenschaft gelingt es (mit) ihr, Begriffe wie Unendlichkeit durch Symbole darzustellen und somit die Welt zu erklären. Eine wissenschaftliche Erkenntnis ist ein stufenweiser Prozess ohne absehbares Ende, alles baut aufeinander auf und funktioniert nicht ohne die vorhergegangenen Schritte. Kunst hingegen umfasst auf Anhieb jede Gesetzmäßigkeit des uns Umgebenden, sie entwirft sich jedes Mal neu und ist einzigartig. Tarkowski sieht zwar sowohl die Wissenschaft als auch die Kunst als zwei Arten der Wahrheitsfindung, doch er betont immer wieder, dass es der Kunst vorbehalten ist (im Gegensatz zu jedem verbalen Erklärungsansatz) die Unendlichkeit erfahrbar zu machen (Zitat: …denn der Gedanke ist kurzlebig, das Bild aber ist absolut). Für ihn darf Kunst niemals der reinen Selbstverwirklichung oder ähnlichen egoistischen Zielen dienen, sondern er beschreibt die Kunst als etwas Uneigennütziges, etwas höherem bestimmtes, dessen der Künstler in einer gewissen Form von Selbstaufopferung zu dienen hat. Von Aristoteles nicht weit entfernt, glaubt Tarkowski, dass ein Kunstwerk den Betrachter im tiefsten Innern anspricht, in ihm eine reinigende Erschütterung hervorruft, durch die die Menschen das Gute in sich selbst erkennen und sich ihrer innigsten Gefühle bewusst werden. Trotzdem wird der Mensch niemals in der Lage sein, das Gute zu lernen, er wird durch die Kunst nur dazu befähigt. Die Kunst darf nach Tarkowskis Auffassung niemals eindeutig sein, sie muss vielmehr Widersprüchlichkeiten in sich vereinen im Sinne von Marx (Die Tendenz in der Kunst muss unbedingt versteckt werden, damit sie nicht wie eine Sprungfeder aus dem Sofa ragt) und Engels (Je verborgener die Absichten eines Autors, um so besser ist es für die Kunst). Der Künstler soll nach Harmonie und Ausgewogenheit streben, nach dem höchsten Glück, auch wenn dieses als rein abstrakter Begriff niemals zu erreichen ist, sondern vielleicht gerade der Weg dahin die höchste erreichbare Form des Glücks darstellt.


    Tendenz in der Kunst muss unbedingt versteckt werden, damit sie nicht wie eine Sprungfeder aus dem Sofa ragt) u

    返信削除
  11. 経済学哲学草稿
    3:6お金

    芸術を楽しみたいと思えば、芸術性のゆたかな人間にならねばならない。他人に影響をあたえたいと思えば、実際に生き生きと元気よく他人に働きかける人にならねばならない。

    長谷川宏訳

    返信削除
  12. 40:489頁



    18:19
    maruen.jugemu-tech.co.jp
    人間を人間として、また世の中にたいする彼のあり方を
    人間的なあり方として前提するならば、きみは愛をただ愛
    とのみ、信頼をただ信頼とのみ、等々、交換することがで
    きる。きみが芸術を楽しみたいならば、きみは芸術的な教
    養のある人間でなければならない。きみが他の人々に影響
    力を及ぼしたいならば、きみは実際に他の人々を活気づけ
    鼓舞するようなはたらきをもつ人間でなければならない。
    きみの人間にたいするーーおよび自然にたいするーーどん

    なあり方でも、それはきみの現実的個人的な生き方のある
    特定の、きみの意志の対象に見合った表現でなければなら
    ない。きみが愛することがあっても、それにこたえる愛を
    よび起こすことがないならば、換言すればきみの愛が愛と
    して、それにこたえる愛を生み出すことがないならば、
    きみが愛する人間としてのきみの生活表現によって、きみ自
    身を、愛された人間たらしめることがないならば、きみの
    愛は無力であり、一つの不幸なのである。l xLIII ll

    返信削除
  13.  マルクスは言っている。「もし芸術を享受したいと思うならば、芸術の素養を身につけなけばならない。」芸術家は、分かりやすくということを特別の理念にすべきではない。それは、理解されにくいことをめざすという、それとは正反対の目的と同様、ばかげたことである。
    映像のポエジア 248頁

    返信削除