金曜日, 4月 03, 2020

コロナ危機 精神の毒にワクチンを – マルクス・ガブリエル


斎藤幸平 (@koheisaito0131)
マルクス・ガブリエルの「コロナ」論を緊急翻訳しました!危機の時代にこそ人文知を。 コロナ危機 精神の毒にワクチンを – 集英社新書プラス shinsho-plus.shueisha.co.jp/news/8624 ⁦‪@Shueishashinsho‬⁩さんから

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コロナ危機 精神の毒にワクチンを – 集英社新書プラス
https://shinsho-plus.shueisha.co.jp/news/8624

コロナ危機 精神の毒にワクチンを

マルクス・ガブリエル(哲学者・ボン大学教授)

コロナウイルスによる新型肺炎が世界を揺るがしている。ウイルスによって多くの人の命が奪われているだけでない。不況になり、仕事を失う人々も増え、さらには、アジア人に対する人種差別も増加している。ヨーロッパでは「戦争」のメタファーが用いられ、リベラル派のリーダーたちでさえも、まるでつい先日までの右派ポピュリスト政党のように「団結」・「連帯」の必要を唱え、国境閉鎖や市民行動の監視などを徹底化させている。もちろん、すべては必要だ。だが、次のように問うことも重要だろう。この危機は、どのような矛盾を隠蔽し、抑圧を孕んでいるのか? この危機は、どうすれば好機に変えることができるのか? 以下は、General-Anzeigerというドイツの新聞にボン大学のマルクス・ガブリエルが寄稿したコラムの翻訳である。『未来への大分岐』で彼と議論し共通了解できたポイントを数多く含む内容だ。我々は自然科学だけを信奉し頼っていてはいけない。感染の拡大から始まった世界的危機から抜け出すためには、新しい「啓蒙」を作り出し、システムそのものを大転換する必要がここでも述べられている。
 斎藤幸平(『未来への大分岐』編著者)

◆コロナ危機 精神の毒にワクチンを
 マルクス・ガブリエル(哲学者・ボン大学教授)
 世界の秩序が揺らいでいる。裸眼では見えない宇宙のレベルでは、ウイルスが広がっている。それがどれくらいの規模なのかは私たちにはわからない。どれほど多くの人間がすでにコロナに感染しているか、これからまだ何人が死ぬのか、ワクチンがいつになれば開発されるのか、といったことは誰にもわからないのである。また、ヨーロッパの「例外状態」という前例を見ない措置が、経済や民主主義にどのような影響をもたらすかも不明である。
 コロナウイルスは、単なる感染病ではなく、ウイルス学で言うところのパンデミー(英語ではパンデミック)である。「パン・デミー」という言葉は古代ギリシャ語から来ていて、「全・民衆」を意味する。実際、全民衆、つまり、あらゆる人が平等に、このウイルスに感染している。
 ところが、人間を国境のうちに閉じ込めることに意味があると信じる時、私たちはまさにこの「パン・デミー」の意味をまだ理解していない。ドイツとフランスの国境が閉鎖されると、どうしてウイルスが影響を受けるのだろうか? ウイルスを食い止めるために、他の地域から隔離する必要があるとしても、なぜそれがスペインという国家単位なのだろうか?
 普通、答えは次のようなものだ。健康保険制度は、国民国家的な制度であり、国家がその国境内では、病人の面倒をみないといけないから、と。これは正しいが、問題含みでもある。というのも、パンデミーは、あらゆる人間にかかわる問題だからだ。このことが示すのは、私たちはみな、人間であるという見えない絆で繋がっているということなのである。そう、ウイルスの前では、あらゆる人間は、人間なるものとしてみな同じなのであり、ある種の動物にすぎないのである。他の多くの種の生殺与奪を握る主人たることを買って出た種ではあるけれども。
 ウイルスは何を欲しているのか?
 一般的に、ウイルスは、解決されていない形而上学的問題である。ウイルスが生きているのか、誰も知らない。これは、生命とは何かについてのはっきりとした定義がいまだにないためである。実のところ、正確にいって生命がどこから始まるのか、誰も知らないのだ。生命であるためには、DNAやRNAで十分なのか? それとも、自己増殖する細胞が必要なのか? 私たちはその答えを知らないし、植物、昆虫、さらにはもしかすると私たちの肝臓も意識をもっているかもしれない。この地球の生態システムが一つの巨大生物だとしたら? コロナウイルスは、利潤欲求によって数えきれないほどの生き物を殺してきた人間の奢りに対する、この惑星の免疫反応なのだろうか?
 コロナウイルスは、21世紀に支配的なイデオロギー体系の弱点を暴露する。このイデオロギーには、自然科学と技術の進歩だけで、人間的・道徳的進歩を推し進めることができるという誤解も含まれる。この誤解は、自然科学の専門家が一般的な社会問題を解決できると信じるように、私たちをそそのかす。
 コロナウイルスはこのことをはっきりと証明している。ところが、こうした誤解は危険な過ちであることが判明するだろう。もちろん、私たちはウイルス学者に相談しなくてはならない。ウイルス学者だけが、私たちが人命を救うべく、ウイルスを理解し、食い止めるよう助けることができる。
 けれども、もし、毎年20万人以上の子供が、きれいな水へのアクセスがないために、ウイルス性の下痢で命を落としているとウイルス学者が言う場合には、いったい誰が学者たちの主張に耳を傾けているだろうか? なぜ誰も興味をもたないのだろうか?
 残念ながら、答えははっきりしている。そのような子供たちは、ドイツ、スペイン、フランス、イタリアにはいないからだ。とはいえ、この答えは正しくない。というのも、ヨーロッパの難民収容所には、そのような子供たちがいるからだ。私たちの大量消費システムが引き起こした不正義の状況から逃げてきた結果、彼らはそこにいるのである。
 道徳的進歩なしには、真の進歩はない。人種差別的偏見があらゆるところで明らかになることで、パンデミーはこのことを私たちに教えてくれる。ドナルド・トランプは、ウイルスをなんとしても中国の問題として分類したがる。ボリス・ジョンソンは、イギリス人は社会ダーウィン主義的にこの問題を解決でき、優生学的集団免疫を獲得できると信じている。多くのドイツ人は、自分たちの健康保険制度がイタリアよりも優れており、ドイツ人はこの問題をよりうまく解決できると考えている。どれも危険なステレオタイプであり、愚かな偏見である。
 精神の毒にワクチンを
 私たちはみな同じ船に乗っている。とはいえ、そこに新しいことは何もない。21世紀とは、グローバル化という現象の感染が拡大した世紀だ。コロナウイルスが明らかにしたのは、すでに長らく生じていた事態にすぎない。つまり、私たちには、まったくもって新しいグローバルな啓蒙の理念が必要なのだ。
 ここで、ペーター・スローターダイクの表現を用いて、そのことを新たに解釈しよう。私たちに必要なのは、共産主義Kommunismusではなく、共免疫主義Ko-Immunismusである。そのためには、競争的な国民文化、人種、年齢集団、階級に私たちを分断する精神の毒に抗するワクチンを打たねばならない。
 今、私たちは、前例のないヨーロッパの連帯によって、病人と老人を守っている。そのために、私たちは子供を隔離し、教育機関を閉鎖し、医学上の例外状態を生み出している。そのために、経済が再び活気付くよう、数百万ユーロが投下されている。
 ところが、ウイルスの後にも、以前と同じように振る舞うなら、より酷い危機がやってくるだろう。それはより酷いウイルスであり、その台頭を止めることはできない。つまり、現在EUで起きているアメリカとの経済戦争の継続、私たちが、独裁者に武器と化学兵器作成の知識を与えたために、ヨーロッパに亡命しなくてはいけなくなった移民に対する闘争における人種差別とナショナリズムの広がりなどだ。
 そして、忘れてはならないのが、気候危機である。それはあらゆるウイルスよりもずっと酷い。なぜなら、気候危機は人間のゆっくりとした自己絶滅の結果だからだ。人間の自己絶滅はコロナによって、わずかのあいだ食い止められている。コロナ以前の世界秩序は、普通ではなく、致死的なものであった。なぜ、交通システムを変えるために、同じ数百万ユーロという金額を投資できないのだろうか? なぜ意味のない会議を、経済界の重鎮がプライベートジェットを飛ばす代わりに、オンラインで執り行うことができるようにするために、デジタル化の技術を使えないのか? 知と技術によって近代のあらゆる問題を解決することができるという迷信に比べれば、コロナウイルスは無害であるということに、いつになったら私たちは気がつくのだろうか?
 これは、私たちみな、つまり、ヨーロッパ人だけでなく、あらゆる人間に対する呼びかけである。必要なのは新しい啓蒙である。私たちが盲目的に自然科学と技術に追従しているせいで引き起こされているこの甚大な危機的状況を認識できるようになるよう、あらゆる人間は倫理的に教育されなくてはならない。
 ウイルスに対してあらゆる手段を用いて戦っている時、もちろん私たちは正しいことをしている。突如、連帯と道徳の波が押し寄せている。これはいいことだ。けれども、同時に忘れてはならないのが、科学的専門知識を蔑むポピュリズムから、私の友人のニューヨーカーが「科学を信仰する北朝鮮」と的確に表現した例外状態へと、わずか数週間のうちに移行してしまったということである。
 グローバル資本主義の感染の連鎖
 私たちはグローバル資本主義の感染の連鎖を認識しなければならない。グローバル資本主義は私たちの自然を破壊し、国民国家の市民を愚かにすることで、フルタイムの観光客と商品の消費者にする。だが、そのための商品の生産は長い目で見れば、すべてのウイルスを合わせたよりも、多くの人を殺すことになるだろう。なぜ医学的・ウイルス学的認識は連帯を引き起こすのだろうか? それに対して、自殺的グローバル化から抜け出す唯一の方法は、愚かな定量的経済論理によって駆り立てられ、互いに戦いあう国民国家の集まりを越えた世界秩序であるという哲学的洞察は、なぜ連帯を引き起こさないのか?
 ウイルス学的パンデミーの後に必要なのは、形而上学的パンデミーである。それは、私たちがけっして逃れることのできない、あらゆるものを覆う天の屋根の下にある、すべての民族の集まりである。私たちは今も、そしてこれからも、地球上で生きる生物である。私たちは、死すべき存在であり、弱いままである。
 だから、私たちは形而上学的なパンデミーの地球市民・世界市民になろう。他のどのような選択肢も私たちを絶滅に追いやることになるのであり、いかなるウイルス学者も私たちを救うことはないだろう。
(翻訳:斎藤幸平)


https://shinsho-plus.shueisha.co.jp/news/8624/2

コロナ危機 精神の毒にワクチンを

マルクス・ガブリエル(哲学者・ボン大学教授)

 精神の毒にワクチンを
 私たちはみな同じ船に乗っている。とはいえ、そこに新しいことは何もない。21世紀とは、グローバル化という現象の感染が拡大した世紀だ。コロナウイルスが明らかにしたのは、すでに長らく生じていた事態にすぎない。つまり、私たちには、まったくもって新しいグローバルな啓蒙の理念が必要なのだ。
 ここで、ペーター・スローターダイクの表現を用いて、そのことを新たに解釈しよう。私たちに必要なのは、共産主義Kommunismusではなく、共免疫主義Ko-Immunismusである。そのためには、競争的な国民文化、人種、年齢集団、階級に私たちを分断する精神の毒に抗するワクチンを打たねばならない。
 今、私たちは、前例のないヨーロッパの連帯によって、病人と老人を守っている。そのために、私たちは子供を隔離し、教育機関を閉鎖し、医学上の例外状態を生み出している。そのために、経済が再び活気付くよう、数百万ユーロが投下されている。
 ところが、ウイルスの後にも、以前と同じように振る舞うなら、より酷い危機がやってくるだろう。それはより酷いウイルスであり、その台頭を止めることはできない。つまり、現在EUで起きているアメリカとの経済戦争の継続、私たちが、独裁者に武器と化学兵器作成の知識を与えたために、ヨーロッパに亡命しなくてはいけなくなった移民に対する闘争における人種差別とナショナリズムの広がりなどだ。
 そして、忘れてはならないのが、気候危機である。それはあらゆるウイルスよりもずっと酷い。なぜなら、気候危機は人間のゆっくりとした自己絶滅の結果だからだ。人間の自己絶滅はコロナによって、わずかのあいだ食い止められている。コロナ以前の世界秩序は、普通ではなく、致死的なものであった。なぜ、交通システムを変えるために、同じ数百万ユーロという金額を投資できないのだろうか? なぜ意味のない会議を、経済界の重鎮がプライベートジェットを飛ばす代わりに、オンラインで執り行うことができるようにするために、デジタル化の技術を使えないのか? 知と技術によって近代のあらゆる問題を解決することができるという迷信に比べれば、コロナウイルスは無害であるということに、いつになったら私たちは気がつくのだろうか?
 これは、私たちみな、つまり、ヨーロッパ人だけでなく、あらゆる人間に対する呼びかけである。必要なのは新しい啓蒙である。私たちが盲目的に自然科学と技術に追従しているせいで引き起こされているこの甚大な危機的状況を認識できるようになるよう、あらゆる人間は倫理的に教育されなくてはならない。
 ウイルスに対してあらゆる手段を用いて戦っている時、もちろん私たちは正しいことをしている。突如、連帯と道徳の波が押し寄せている。これはいいことだ。けれども、同時に忘れてはならないのが、科学的専門知識を蔑むポピュリズムから、私の友人のニューヨーカーが「科学を信仰する北朝鮮」と的確に表現した例外状態へと、わずか数週間のうちに移行してしまったということである。
 グローバル資本主義の感染の連鎖
 私たちはグローバル資本主義の感染の連鎖を認識しなければならない。グローバル資本主義は私たちの自然を破壊し、国民国家の市民を愚かにすることで、フルタイムの観光客と商品の消費者にする。だが、そのための商品の生産は長い目で見れば、すべてのウイルスを合わせたよりも、多くの人を殺すことになるだろう。なぜ医学的・ウイルス学的認識は連帯を引き起こすのだろうか? それに対して、自殺的グローバル化から抜け出す唯一の方法は、愚かな定量的経済論理によって駆り立てられ、互いに戦いあう国民国家の集まりを越えた世界秩序であるという哲学的洞察は、なぜ連帯を引き起こさないのか?
 ウイルス学的パンデミーの後に必要なのは、形而上学的パンデミーである。それは、私たちがけっして逃れることのできない、あらゆるものを覆う天の屋根の下にある、すべての民族の集まりである。私たちは今も、そしてこれからも、地球上で生きる生物である。私たちは、死すべき存在であり、弱いままである。
 だから、私たちは形而上学的なパンデミーの地球市民・世界市民になろう。他のどのような選択肢も私たちを絶滅に追いやることになるのであり、いかなるウイルス学者も私たちを救うことはないだろう。
(翻訳:斎藤幸平)