水曜日, 10月 28, 2009

プルードンによるクールベ論

以下は岩波新書『クールベ』(坂崎坦著)に付されたプルードン(Pierre Joseph Proudhon,1809年1月15日-1865年1月19日)によるクールベ論である。訳者によるプルードンの著書(『芸術の原理およびその社会的使命について』未邦訳)の要約なのか、プルードン自身のこうした単文があるかは原文が確認できなかった。

参考:
死の床のプルードン
http://nam-students.blogspot.com/2018/07/blog-post_72.html

後記:
1946年「『クールベ』雄山閣によると、原文は坂崎による要約だろうが1863年の展覧会パンフの構想を再現したものだろう
それが1865年に発展的に一冊にまとまった
https://raforum.info/dissertations/spip.php?article142

http://nam-students.blogspot.jp/2018/05/blog-post_81.html

付録・クールベ覚え書



ギュスターヴ・クールベ (Gustave Courbet, 1819年6月10日 - 1877年12月31日)

      1 芸術の原理およびその社会的使命について

 美を評価できるのは人間だけで、人間は人間および事物の美醜を認識し、この認識をば新享楽手段、洗練された快楽となすところの、審美眼ないし能力を持っている。これが人間の持つ詩的感性である。ここに美しいもの、怖ろしいもの、崇高なもの、下劣なものに対する敏感な「感覚(サンチマン)」が認められる。そこに人間は「自己評価」ないし「自尊心」の衝動を受ける。対象を再現する「模倣」の能力は、かかる感覚から生ずるのである。以上が、三つの芸術的基礎工作である。これになおつけ加うべきは、実の概念は純粋な精神的内容ではなく、客観的現実を持つものであり、この本質的に客観的な芸術も、非常に個性的、動的、自由なものであり、美の印象は束の間の(瞬間的な)ものであり、したがって美の影像(イマージュ)は、これを観念(理想)の裏切りに対し防衛せねばならない。芸術家の持つ審美的感情は、哲学的精神と反比例する筈である。これらの付言からつぎのことが生ずる。すなわち芸術の発展は、外部(環境)の成長に支配され、純粋に想像的芸術は膠着停滞の外ないであろう。

 これが芸術の根本原理である。芸術の目的は、観念(理想)である。写実主義と理想主義(観念主義)は、ほとんど相容れぬ言葉となった。しかし現実と理想(芸術家にあって)とは分離できない。理想は、概念に相応するもの、これに関連するものである。概念は、心があるものから作る繁殖力ある、特殊的、典型的観念である、物質的なものの抽象である。したがって理想は普遍を意味し、現実を意味するものではない。観察する個人に対立するものであり、よって現実(レエル)の対立を意味する。さらに概念は純粋完全な典型、完全、絶対である。ゆえに理想はわれわれの前に全的対象として現われるところの完全な形式(フォルム)である。しかしこの理想は存在しないから、これをそのまま表現し描写することは不可能である。しからばこの理想は芸術において如何なる役割を果すであろうか?

 自然というものは、その中の諸理想ないし諸典型に基づき特殊な具体化をやっている。芸術家のやることも、ちょうどこの自然の作用と同じである。すなわち芸術家は、われわれに伝えようと欲するところの、自己のある概念(イデ)に基づく影像(イマージュ)を作り上げつつ、自然そのものを継続するのである。かくして芸術は、本質には具体的、特殊的、決定的であること、自然と同じである。芸術はこの特殊的、具体的フォルムのおかげで、美と崇高の感情、完全への愛、理想(イデアル)をばより深く注入(作品へ)することができる。したがって芸術は、「人間の精神的、肉体的完成のための、自然および人生の理想主義的(観念主義的)表現」である。諸主要芸術的表現の検討は、この理論によるこの定義の、正当なことを立証するであろう。

 芸術は、それが正義および科学へ服従させられていた間は非常に栄えた。芸術が、芸術のための芸術であろうと欲した時、芸術は一国民族の衰頼、堕落を開始した。歴史の教えるところがこれである。だからエジプトでは、その起源からして、社会的、政治的、宗教的使命を受入れたのである。而してこうした使命が、他民族による征服のために、他の文化の制覇のために消滅してしまった時、芸術の火も消えてしまった。ギリシャも同様である。芸術が宗教的でなくなった時、預廃(デカダンス)が始まったのである。ルネッサンス時代においても信仰というものが世に存在しなかったために、芸術は結局フォルムに対する偶像崇拝は到達し、したがって芸術の崩壊が来た。そこで宗教改革が起こって、新たな、超自然的な、象徴的な偶像崇拝を挫折せしめた。宗教改革はかかる偶像崇拝を廃止したのであった。かくてそこには庶民、俗人(非宗教的な)のみが残り、こうした俗人の生活の研究が芸術を再び盛んにした。すなわちレンブラントが現われた。レンブラントは絵画におけるルーテルである。フランス革命は審美的方面に関心を持つ暇が無かったゆえに、あらゆるものをひっくりかえそうとした。そして審美学のことは他日に譲ったのである。一時古代が悦ばれた。

 つぎに起こった問題は、ルネッサンス以来古代に啓示された芸術のかわりに、何故フランス芸術というものが無かったのであろうか、ということであった。浪浸主義画家と古典主義画家の争いもこの点に存した。両派はついに和解するところが無かった。これは浪浸主義画家も、古典主義画家に匹敵する誤謬を犯したからである。というのは、古典派は古代のみを崇めたと同様、浪浸派も中世紀のみを認めたので、双方とも現代生活を描くということがデカダンスに陥らないため、芸術にとって甚だ肝要であるということを顧慮しなかったからであった。この不合理を、シュナヴァール氏は年齢によってきまる美的感性の減退に帰しているが、写実主義乃至自然主義派は、こしうた不合理をまったく廃棄してしまおうと考えた。

 そして、こうした主張は如何にして実現せられたか? クールベが人間をあるがままの姿において、単なる諷刺、嘲笑の悦びからでなく、一般教化の目的として、美術的ニュース(報告)として、その人それぞれの意識の地金をそのままに現わして描いたところの、『市場帰りのフラジェーの農夫達』『居ねむる糸つむぎの女』『オルナンの埋葬』『水浴の女連』の諸傑作によって、これは示されたのである。これこそ真の近代芸術の出発点である。すなわち絵画はその時代の表現でなくてはならない、その時代の倫理的役割を果すものでなくてはならないからである。上述の諸作品は、いずれもその主題が、異論なしにこうした時代的であることを証明しているのである。これを倫理的観点から見ればどうであろうか。『市場帰りのフラジューの農夫達』と『居ねむる糸つむぎの女』は、単純で静かで上品なフランシュ・コンテ地方、一般にフランスの、良き農民生活を示したものである。


『オルナンの埋葬』はグロテスクだと非難された、実際グロテスクである。脂肪肥りで変な格好のブルジョア女を措いた『水浴の女達』では、美食家で運動嫌いのこの女の愚劣と利己心は用心している。



クールベの芸術は、諷刺、攻撃、皮肉、風俗画でなく、真実を反映する鏡である、写実主義芸術である。認識し論争し叱責し判別する意味において批評主義的芸術である。理性を補助する、倫理的な、合理的な、推理的な芸術である。観察の芸術であって、単なる霊感の芸術ではない。

 この批評主義芸術理論は、クールベの新作品数点によって肯定せられた。『石割人夫』の画は、貧困への奴隷を示す。賦役とか強制労働とか大衆の労働として、社会の強健分子の各々に課された貧困への奴隷を示すものである。石工たちは、福音書の寓言に値する。それは実践倫理である。『セーヌ河畔の娘達』はこれに対立するもので、帝政時代のエレガントな女たちである。瞑想的で夢見がちな、それでいて倣慢で、姦通、離婚、自殺を平気でやる彼女たちは、いつまでも見ていると怖ろしくなってくる。見ているだけでも、悪事から転向させ得るであろう。

(『石割人夫』は第二次世界大戦のドレスデン爆撃で焼失。)

さらにクールベは、『ヴィーナスとプシュケ』によって、その教化を続ける。この画はこの時代特有の淫蕩と偽善とを現わしたものである。最後に、『僧侶連』ないし『会議の帰途』も、「僧侶に求める厳粛な徳をば、僧侶の中に支持するだけの、宗教的訓練の急激な没落(無力)」を証明するものである。というのは、この画は、単に酩酊しているところを描くために、表現せられたのではなかった。目的はそれよりもはるか彼方に在った。


                (『会議の帰途』の元の絵はカトリック教徒に買い取られて消失。)


 クールベの作品の物語るところは、大体以上の如きものである。もちろんそこにはいくつかの欠点がある。すなわち遠近法や均衡に欠陥がある。黒っぼい配色、それも単一な配色で面白くない。また甚だしい誇張もある。服装のだらしなさがある。ポンチ絵式のところがある。往々残忍なところもある。一体クールベは、思想家であるよりも画家である。彼は、画家の範囲を出なかった。彼の概念はきわめて簡単である。しかし甚だ倣慢であったから、自分ではそれを知ってはいない。こういう留保をやれば、後は写実主義、批評主義派は、人間的、哲学的、解剖的、総合的、デモクラティックで、進歩主義であり、事実存在の理由があるといっていいのである。しかし、写実派はまだ完全に自己意識が足りない。それは理論を欠いている。彼らは純粋の写実派というものは不可能であるということを知る必要がある。写実派は、その観念(理想)が意識に、科学に、真理に法律に従属せしめられるから、同時に観念主義(理想主義)だといえるであろう。のみならず芸術の史的発展において、写実派はほんの一時的にその一発展段階に存在するに過ぎない.新しい情勢が生じ、精神美を肉体的に結合させ、人間の実を、同時にドグマおよび宗教から独立した人間の徳を、創造するであろう。

 クールベは、この史的発展の本質的因子である。そのゆえにクールベに光栄あれ。画家の中では、彼はモリエールを模倣し、すぐれたコメディを絵画に移入させた最初の人であり、まずわれわれのあるがままの婆を描いてわれわれに報告し、われわれを懲戒し、矯正しようと真面目に企てた。つぎに彼は寓話画でわれわれを悦ばせ、絵草紙でへつらうかわりに、われわれの姿を自然のままでなく、情欲および悪徳の現われのままに、これを表現する勇気を持った。
 願わくば、画家たちのクールベを模倣せんことを。ただし彼らの時代、国土、彼らの見解に即して表現すべきである。願わくばその概念を具体化せんとする彼らが、芸術を正義と効用とに結び付けんことを。

 〔この一文は、一八六三年、プルードンがクールベの意見を参考にしつつ執筆したもので、これが公け
 になったのはプルードンが死んだ一八六五年より以後である。〕


追記:
上野の西洋美術館の研究資料センターで、以下のクールベの描いたプルードン像(『1953年のプルードン』、1965年、プチ・パレ)の資料を入手した。
Bulletin du Laboratoire du Musée du Louvre no.4 p.31 MARTINE ECALE: 'A propos du portrait de Proudhon 'より
この絵は改変する前の元のバージョン。完成形では消された夫人の姿が映っている。
(掲載論文では以下のように2つのバージョンが比較されている。↓)

娘の成長具合から見て、1856年の間違いだという指摘もある。
http://oyavinet.exblog.jp/3054127/

その後、プルードン夫人の肖像Portrait de Madame Euphrasie Proudhonは、別途描かれた。

9 Comments:

Blogger yoji said...

浅田彰

http://realkyoto.jp/article/asada-akira_kurose-yohei_5/
ついでに思い出せば、ポンピドー・センターで開催された『前衛芸術の日本』展
(1986-1987)のシンポジウムに蓮實重彦・柄谷行人・中上健次とともに参加した、
ちょうどそのとき、中上健次を興奮させた学生デモの盛り上がりにコアビタシオン
(保革共存)相手である右派のシラク首相が手を焼いているのを尻目に、左派のミ
ッテラン大統領がオルセー美術館の開館式を執り行ったのでしたが、当時の関係者の
話では、右派のジスカール・デスタン前大統領はオルセー美術館を(つまり19世紀フ
ランス美術を)本当はドラクロワの《民衆を率いる自由の女神》から(つまり1830年
革命で成立した金融ブルジョワジー支配から)始めたがったのに対し、ミッテラン大
統領はクールベの《オルナンの埋葬》から(つまり1848年の社会主義革命から)始め
るよう主張し、実際にドーミエ(七月王政批判)とクールベ(1848年革命)が起点に
置かれることになった、ということでした。美術史がそこまで政治的な意味をもつこ
とが日本には十分に伝わっていないように思っていたのですが、久松知子のような若
い画学生がオルセー美術館を訪ねてまさにそのポイントに敏感に反応したというのは
嬉しい驚きです。

12:35 午後  
Blogger yoji said...

もちろん、幕末から明治初期を生きた高橋由一の中に伝統的な日本的感性と新しい西洋美術の衝突を見る従来の見方(高階秀爾に代表され、黒瀬さんの依拠する北澤憲昭にも見られる)は自然な見方であって、かなりの程度まで正しいでしょう。それは承知の上で、僕は(また、はるかに精密な仕方で岡﨑乾二郎も)高橋由一を西洋/東洋の比較文化史にとらわれない真っ当なモダニストとして見直せないかと考えてきました。先にワーグマン/高橋をドーミエ/クールベに擬したのも、その一環です。

もちろん、ナポレオンIII世の第二帝政を批判し、1855年、体制側の万国博覧会に対抗して単独で個展(そこで《オルナンの埋葬》や《画家のアトリエ》が展示された)を開催した、そして1871年のパリ・コミューンで人民委員を務め、その敗北後、スイスに亡命して死ぬことになるクールベに対し、明治維新前後を生きた高橋由一は、琴平山博覧会(1879)に37点もの作品を出品したり(その多くはいまも金刀比羅宮で見られる)、東北各県で自由民権運動を弾圧しつつ土木工事を進めた東北の小ナポレオンIII世とも言うべき県令・三島通庸の下でその土木事業を記録したりしている(螺旋展画閣建設の斡旋を依頼したこともある)。体制側の——というか体制/反体制がはっきりしない時代のクールベと言うべきかもしれない。ただ、それらの作品自体はいたって真っ当なレアリスム絵画と見ることができるというのが僕の考えです。

12:40 午後  
Blogger yoji said...


http://rco-2.cocolog-nifty.com/blog/2012/08/tjclark-the-pai.html
T.J.CLARK, THE PAITING of MODERN LIFE, PARIS IN THE ART OF MANET AND HIS FOLLOWERS, PRINCETON UNIVERSITY PRESS, 1986


方法論の確認のために読む。こちら(http://d.hatena.ne.jp/madhutter/20080926)では『絶対ブルジョワ』と『民衆のイメージ』で前・後編をなすのではないかと述べたが、実は本書を含めて三部作をなすのではないか、とも思えてくる。

大雑把に言って『絶対ブルジョワ』では2月革命後の「革命芸術」の表象問題から始まり、新古典主義と都市化の速度の齟齬が、続く『民衆のイメージ』ではギュスターブ・クールベを主題として、第二帝政期におけるオルナンからパリへと都市の大きさと性格によるクールベ受容の変化と、クールベのリアリズムが実はマニエリズムであったこと等が見られた、と言える。

本書ではそれに続く時代、つまり第二帝政末期のオスマナイゼーションから始まり、マネと彼に続く印象派の絵画について述べられていく。 『絶対ブルジョワ』では「この時代のブルジョワは階級ではなく、ポジションである」と述べられたブルジョワは、オスマナイゼーション以降いまや金利生活者をはじめとした「絶対」ブルジョワ、つまり田舎の痕跡を残さない完全な都市生活者になっている。ここに登場してくるのが印象派の絵画である。 印象派の記述を追う前に、冒頭の方法論についての記述に一瞥を与えておく。

12:59 午後  
Blogger yoji said...

Image of the People: Gustave Courbet and the 1848 Revolution [ペーパーバック]
T. J. Clark (著)

http://www.amazon.co.jp/Image-People-Gustave-Courbet-Revolution/dp/050027245X/ref=sr_1_7?ie=UTF8&qid=1406145625&sr=8-7

1:01 午後  
Blogger yoji said...

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5つ星のうち 5.0 伝説の書・2 2011/5/1
By madhut
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 同じ著者の『絶対ブルジョア』の続編で本論とも言うべきものである。
 内容は実質的なクールベ論、それも第二共和制時代のクールベ論となっている。「歴史とそれに固有の決定因との遭遇は、芸術家自身によってなされる」というクラークの芸術・社会史の謂いにおいて選択された芸術家は、ギュスターブ・クールベというわけである。
 ではその研究方法は、どういうものだろう。避けたいものとして列挙された既成の諸理論や諸公式や直感的類比をいったん退けたうえで残った方法、あるいはクラークがとった方法とは、まずマニアックな探偵調査か警察調書的な一次史料検討の積み上げである。クラークはクールベのスケッチ、書簡、交友関係、当時の出版物といったものを、徹底的に調べあげている。歴史家はおうおうにしてある歴史解釈のなかに芸術家をおき、その文脈においてその作品を位置付けかねない。しかしそれはせいぜい後知恵であり本末転倒なのであって、そうではなくクールベの生を生き直し、そこで彼がたまたま遭遇した構造の一般特性の発見へと向かう。ここでの芸術・社会史の方法をあえて述べるとすると、そういうことになるだろうか。
 芸術家にとっては必ずしもいい形容ではない「反骨の画家」とか「反体制派の画家」とか「革命の芸術家」とか「社会主義リアリズムの先駆者」とか、あげく「絵の才能がなかったのでリアリズムに走り、政治活動... 続きを読む ›
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1:02 午後  
Blogger yoji said...

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5つ星のうち 5.0 伝説の書・2 2011/5/1
By madhut
形式:ペーパーバック
 同じ著者の『絶対ブルジョア』の続編で本論とも言うべきものである。
 内容は実質的なクールベ論、それも第二共和制時代のクールベ論となっている。「歴史とそれに固有の決定因との遭遇は、芸術家自身によってなされる」というクラークの芸術・社会史の謂いにおいて選択された芸術家は、ギュスターブ・クールベというわけである。
 ではその研究方法は、どういうものだろう。避けたいものとして列挙された既成の諸理論や諸公式や直感的類比をいったん退けたうえで残った方法、あるいはクラークがとった方法とは、まずマニアックな探偵調査か警察調書的な一次史料検討の積み上げである。クラークはクールベのスケッチ、書簡、交友関係、当時の出版物といったものを、徹底的に調べあげている。歴史家はおうおうにしてある歴史解釈のなかに芸術家をおき、その文脈においてその作品を位置付けかねない。しかしそれはせいぜい後知恵であり本末転倒なのであって、そうではなくクールベの生を生き直し、そこで彼がたまたま遭遇した構造の一般特性の発見へと向かう。ここでの芸術・社会史の方法をあえて述べるとすると、そういうことになるだろうか。
 芸術家にとっては必ずしもいい形容ではない「反骨の画家」とか「反体制派の画家」とか「革命の芸術家」とか「社会主義リアリズムの先駆者」とか、あげく「絵の才能がなかったのでリアリズムに走り、政治活動に関与した」とか、その「政治活動」もじつは濡れ衣を着せられて政治犯に仕立てられた田舎物でお人好しのヌケサクのものだった云々といった、クールベについて思い浮かべられるイメージがある。いわばヌケサク・クールベ。そんなヌケサク・クールベの神話がまず解体される。
 第二共和政時代に描かれたリアリズム三部作、『石割職人』、『オルナンの埋葬』、『フレジエの農民、市場からの帰り』、そしてその前哨としての『オルナンの夕食後』の作品分析では、いかに手の込んだ操作がなされているかが丹念に読み解かれていく。その記述は圧巻である。さらに補遺で展開される『クールベさん、こんにちは』の作品分析、その元ネタとされるものを見出し、クールベがいかに手の込んだ操作をそこに行っていったかを読み解いていく作業も、圧巻である。クールベの絵画は一般的にはリアリズムと分類されるが、これらの分析から言えることは彼の画風はむしろマニエリズムであり、それゆえクールベのリアリズムとはマニエリズムのあるあり方だったとも言える。いずれにしてもこうした手の込んだ作品はしかし理解され難いだろうし、高度な知性はかえって「ウツケ」や「ヌケサク」のレッテルを貼られがちともいえる。
 ではそのクールベのマニエリスティックなリアリズムとはどういうものだったろう。1840年代末、すでにリアリズム派という画家の一派は存在していた。著者はクールベのリアリズムを友人の小説家シャンフルーリの作品からの影響とその相違、および1840年代のオノレ・ド・バルザックの小説との関連から導き出してくる。シャンフルーリにとってリアリズムとは当時流通していたパントマイムにおけるパロディーのことだったという。クールベ作品にときおり見られる人を喰ったような作風はシャンフルーリ作品との関連も言えるが、しかしその特徴は『オルナンの夕食後』についての分析で述べられるように「参照源への敬意ではなく、容赦ないその操作にある。模倣ではなく、過去の確信犯的な操作がある。ル・ナンの本質をつかんでディテールを捨象し、何を模倣し、何を変奏し、何を発明するかを意識しつつ、単一イメージにおいて異なる様式をつなぎ合わせる」(73-74 頁)ことにあると言われる。またバルザックの小説においては物語的(narrative)構成ではなくプロット的構成(ミハイル・バフチンのドストエフスキー論が思い出される)がなされていたとされるが、これもクールベのこの時代の画面構成への参照源という。
 1848年、パリにいたクールベは友人のシャルル・ボードレールとともに「暴動」を見物しつつこうした行動への無関心を示し、さらに銃をとって戦うことへの拒絶をも示している。自分の世界と人生はあくまで絵画にあるという思いがあり、さらに翌年にはサロンでの入選を果たし、画家としての着実な一歩を踏み出したという自負も窺われる。当時の文化人にあってこれほど「非・政治的」であることは、むしろ珍しいのではなかろうか。こののち故郷のオルナンに戻ったとき、彼はサロンでメダルを獲得した英雄として歓待されている。リアリズム三部作はこのオルナン滞在中に1851年のサロンに出品すべく描かれたものだった。
 1851年のサロンはたまたま延期され、その延期期間にクールベはたまたまこれらの絵画を巡回したに過ぎない。しかしオルナン、ブザンソン、ディジョン、そしてパリへと、田舎から地方中核都市へ、そしてパリへと巡回するにつれ、観客の反応は歓迎から黙殺や拒否へと明確に変化していったことが克明に跡付けられる。
 クールベというひとりの芸術家が遭遇した当時の構造が、都市化と近代化という「構造」から跡付けられていくその過程の描写もまた、圧巻である。パリの観客からみれば『オルナンの埋葬』は困惑すべきものだったのである。オルナンになぜ「ブルジョワ」の格好をした人たちがいるのか、この絵画はハイアートの形式を踏襲しながらいっぽうでは大衆文化の形式をも利用しており、また古典的絵画の伝統が参照されているいっぽうでは登場人物は目線を合わせないという現代的な風貌をしており、パリではブルジョワしか許されない埋葬をオルナンの田舎者が荘厳に執り行い、「階級闘争」は都市的現象であって田舎はたとえばジャン・フランソワ・ミレーが描く世界かと思いきやそこにブルジョワと百姓がおり、しかし考えてみればパリのブルジョワも何年か前には田舎から上京してきたか、さもなくば彼らの父親世代あたりが田舎の百姓暮らしから逃れてきたのであり、絵画的にいえば色使いは周到に計算されて構築され、群像は個人を特定できるほどに描かかれ・・・。19世紀中葉のパリにおいてブルジョワジーは「階級」ではなく「ポジション」であったと、著者は述べる。田舎との関係を抹消し、みずからを絶対ブルジョワとして完全に都市化させたとき、神話/物語は完成することになるのだろうが、しかしそれはブルジョワが打倒目標とした封建制と、その基盤を都市に置くか田園/農村におくかの相違こそあれ、構造的にはよく似ている。
 初版が出版されたとき、著者は弱冠30歳だったということになる。ニッコロ・マキャベリの『君主論』やカール・フォン・クラウゼヴィッツの『戦争論』などのように晩年になって書かれる歴史的名著というのはある。それらの名著とはまた異なる伝説の書というべきなのだろうか。美術史学という20世紀において相貌を整えてきた分野にあって、1973年にはあるいは既成理論が幅をきかせつつあったのかもしれない。アダム・スミスがかつて「オックスフォードでは教授たちはもはや教えるふりさえしていない」と18世紀アカデミズムを痛烈に批判したような状況に、あるいは当時のアカデミズムも陥りつつあったのかもしれない。この点でクラークにとって「芸術・社会史」というあり方自体が、学問におけるリアリズムでもあったと言える。それでもしかし、なぜクールベなのか。
 クールベは19世紀フランス絵画史においてはおそらく異質な存在である。その手の込んだ画風はイギリス好みと言えなくもない。いずれにせよ結局のところ、クラークはクールベが好きだったんだろうなぁ、と思う。
 新進気鋭の歴史家(当時)による伝説の書である。
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1:03 午後  
Blogger yoji said...

原文は1863年の展覧会パンフらしい
1865年に一冊にまとまった
https://raforum.info/dissertations/spip.php?article142

. L’art selon Proudhon et Bakounine

Le cas de Proudhon est délicat : tout en reconnaissant son admiration pour son ami Courbet, on lui a souvent prêté des positions très sectaires en matière d’art – sur lesquels reviennent des critiques contemporains [1]. Du principe de l’art et de sa destination sociale devait être à l’origine une brochure d’exposition à propos d’un tableau de Courbet (« Les Curés » - 1863), et l’ouvrage a pris ensuite la forme d’un traité [2], devenant son principal livre entièrement consacré à l’art. Proudhon y expose qu’il n’est finalement d’art que social. Il propose en outre de mettre les artistes hors du gouvernement, afin que l’œuvre d’art ne devienne jamais une manifestation d’autorité, une entrave à la libre créativité de l’homme. Pour Proudhon, l’étude de l’art et celle de la morale sont inséparables, car l’art ne peut se contenter de refléter les choses mais doit aider à leur transformation. Son but est de réconcilier le juste et l’utile, l’art et la morale – ce qui l’amène à rejeter catégoriquement l’art pour l’art. Il conclut son essai par cette mise en garde adressée aux artistes :


。 ProudhonとBakuninによるアート

プルードンの事件は繊細である。彼の友人クールベットに対する賞賛を認めながら、彼はしばしば現代批評家が芸術において非常に宗派的立場に貸してきた。芸術の原則とその社会的目的から、当初はクールベット(「TheCurés」 - 1863年)の絵画に関する展覧会のパンフレットであり、その後本書は条約[2]、彼の主な本は完全に芸術に専念しています。 Proudhonはそれが最終的に唯一の社会的な芸術であることを明らかにします。彼はまた、アートワークが権威の徴候になることは決してありません。それは人間の自由な創造性への障害です。 Proudhonにとって、芸術と道徳の研究は不可分です。なぜなら、芸術は物事を反映するのに満足できるものではなく、変容を助けなければならないからです。彼の目標は、正義と有用な、芸術と道徳を調和させることであり、それによって彼は芸術のための芸術を断じて拒絶する。彼はアーティストにこの警告を書いて、彼のエッセイを終わらせます:

10:53 午後  
Blogger yoji said...

[1] Voir en particulier Dominique BERTHET, Proudhon et l’art, 2001 et la communication de Robert Damien, « Proudhon et la philosophie de l’art », dans Proudhon, anarchisme, art et société…, 2001

[2] Proudhon veut « démontrer ce en quoi Courbet et ses œuvres contribuent à la transformation de l’art et, au-delà, à la transformation du monde, en subvertissant les codes, en changeant les registres, en niant les règles, en passant outre la bienséance et en faisant "vrai" » (Dominique BERTHET, ouv. cité, p. 74).

[3] Pierre-Joseph PROUDHON, Du principe de l’art et de sa destination sociale, 1865, p. 373.

[1]特にDominique BERTHET、Proudhon and art、2001、Proudhon、Anarchism、Art and Society ...、2001年のRobert Damien、 "Proudhonと芸術の哲学"のコミュニケーションを参照してください。

Proudhonは、「Courbetとその作品がどのように美術の変容に貢献し、それを超えて世界の変容、コードの転覆、登録簿の変更、規則の否認、 妥当性を無視して「真実」を示している(ドミニク・バースト、公開引用、74頁)。

Pierre-Joseph PROUDHONは、アートの原則とその社会的な目的地から、1865年、p。373。

10:55 午後  
Blogger yoji said...

Livre
Livre PROUDHON ET L'ART
Détail de l'ouvrage

PROUDHON ET L'ART
recto • verso
PROUDHON ET L'ART
Dominique Berthet
L'Art en bref
ARTS, ESTHÉTIQUE, VIE CULTURELLE

Cet auteur est complexe, ce qui renforce son intérêt. Ses positions vis-à-vis de l'art comportent certaines ambiguïtés comme celle qui fait de lui, à la fois un défenseur d'un art qualifié de moderne, d'idées avant-gardistes et parallèlement, un moraliste prônant un art " rationnel ", éducateur, au service de la collectivité. Cette étude analyse les positions du philosophe vis-à-vis de l'art, des artistes, des critiques d'art, du public de même que ses relations avec Gustave Courbet.

ISBN : 2-7475-0535-9 • 2001 • 120 pages
EAN13 : 9782747505352
EAN PDF : 9782296195035

* Nos versions numériques sont compatibles avec l'ensemble des liseuses et lecteurs du marché.
Les ebooks publiés avant 2011 sont susceptibles d'être issus d'une scannérisation, merci de consulter l'aperçu pour visualiser leur qualité.

10:56 午後  

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