金曜日, 3月 05, 2010

今井凌雪と黒澤明


                   (映画リンク::::::::::
NAMs出版プロジェクト: 今井凌雪&黒澤明
http://nam-students.blogspot.jp/2010/03/blog-post_05.html(本頁)

姫路城 聖地巡礼
~~~


ソラリスについて
https://x.com/dannydrinkswine/status/1998515234525556859?s=61

ヴェンダース1991

黒澤明の後期作品の題字を書いた今井凌雪。
彼も天才だった。
Ryosetsu Imai, who designed the title lettering for Akira Kurosawa’s later films.
He was a genius, too.


今井凌雪(1922~2011)




『イワン雷帝』(及び『影武者』)と形式化の極限:メモ
http://nam-students.blogspot.jp/2013/12/blog-post_1.html

NAMs出版プロジェクト: 『影武者』再考:メモ
https://nam-students.blogspot.jp/2014/08/blog-post.html
NAMs出版プロジェクト: Akira KUROSAWA 1990
https://nam-students.blogspot.jp/2017/03/akira-kurosawa.html
姿三四郎


脳科学と黒澤明


『乱』以降(『影武者』は未確認)の題字を担当している今井凌雪氏は、書道界の重鎮だそうだが、黒澤映画の最も重要なスタッフと言えるのではないでしょうか?
『蝦蟇の油』や『全集黒澤明』の題字も担当しています。
(参考:http://yojiseki.exblog.jp/i29/


以下、wikipediaより
黒沢明監督作品「乱(1985)」、「夢(1990)」、「まあだだよ(1993)」の題字を担当したことでも知られ、2002年には、映画「阿弥陀堂だより」題字も担当している。






















_________
黒澤明
KUROSAWA Akira NHK 1981 0101
『戦争と平和』『白痴』を語る。
https://youtu.be/xqcglKFBMog

ひるまえほっと20151021




KUROSAWA AKIRA NHK1981 0101
ひるまえほっと20151021
(1981年放送NHK「マイ・ブック」は『大系黒澤明』第3巻(講談社2010年)に書き起こし、再録された。)

追記:

今井凌雪氏への黒澤映画関連に特化したインタビューが望まれたが、、、


- 訃報:今井凌雪氏死去 88歳=雪心会創設者
lincs.co.jp › 書ブログ › 書の万華鏡 - キャッシュ
2011/08/03 – 今井 凌雪氏(いまい・りょうせつ、本名=潤一=じゅんいち、書家)書法研究雪心会会長。 7月26日、膵臓がんのため死去、88歳。 連絡先は会長を務めていた雪心会事務局。 お別れの会を行うが、日取りなどは未定。喪主は長男、浩一氏。



_____

The Kurosawa黒沢明全作品集―姿三四郎から乱まで  1985/06
https://www.amazon.co.jp/dp/4924609110/


(上記所収「映画についての雑談」(1975)は『大系黒澤明』第4巻(2010年)に再録された。)

https://i.imgur.com/uNXFZxA.gif
https://i.imgur.com/H56gpCY.gif
https://i.imgur.com/ikU3bum.gif
 

『乱』旧DVDよりラストシーン
https://i.imgur.com/bblQBDL.gif
https://i.imgur.com/8VosY3P.gif
 

黒澤明 アカデミー名誉賞
https://youtu.be/jJHWKUeGz2E



《「この断片と断片の間のあやしい生命--これこそ映画のいのちがはじ
まるところであるが--それを的確につかむ事こそ、フイルムの断片を
っなぐ仕事の本質なのである」
(黒澤明「映画の編集について」『キネマ旬報』1948年1月下旬号)

 黒澤は、この「間」に映画そのものがあると考える。

「カットとカット、シーンとシーン、シークエンス(ひと続きの画面)と
シークエンスのつなぎ目に映画があるんですよ。映画の流れのつなぎ目
に映画そのものがある。つなぎ方の呼吸が大事で、その呼吸から映画
が出てくるといってもいいのだけれ」(「黒澤明の世界『語る』」
「朝日新聞(夕)」一九九四年四月十四日)》

黒澤明全作品と全生涯269頁より孫引き(朝日の方は『大系』には未収録?)

 

1971年, 昭46, 61歳, 1月、ユーゴ国旗勲章チトー大統領より授与される。 3月、サントラ盤「黒澤明の世界・七人の侍」黒澤明監修(東宝レコード)が発売される。 3月6日、 ...
61歳, 1月、ユーゴ国旗勲章チトー大統領より授与される。 ... 8月26日、東芝EMIより、台本や絵コンテ、スチール写真、また関係者などの話をまとめたCD-ROM「黒澤明 The ...
1971年 ユーゴ国旗勲章(旧ユーゴ。当時のチトー大統領から授与された) 1984年 レジオン・ドヌール・オフィシェ勲章(仏)下の賞より一等下位にあたる。

1971年 ユーゴ国旗勲章(旧ユーゴ。当時のチトー大統領から授与された)




1971年 ユーゴ国旗勲章(旧ユーゴ。当時のチトー大統領から授与された)

1971: Order of the Yugoslav Flag (awarded by then-President Tito of the former Yugoslavia)


黒澤 明(または黒沢 明、くろさわ あきら、1910年〈明治43年〉3月23日 - 1998年〈平成 ... 1971年:ユーゴスラビア国旗勲章; 1976年:文化功労者; 1981年:イタリア ...

1971年12月22日、衝撃的なニュースが舞い込みました。「映画監督 黒澤明 自殺未遂」。自宅浴室で、カミソリを使用して自殺を図ったのです。幸い傷も浅く、

 
 
slowslow2772
⁦‪@slowslow2772‬⁩
⁦‪@LPioletaux‬⁩ ⁦‪@FelixM72990828‬⁩ ユーゴスラビアのチトーに似ているが自信ありません
 
2024/02/14 15:56
 
 
https://x.com/slowslow2772/status/1757660167888683270?s=61
1971年1月黒澤明はチトーから授与されている。

黒澤明

曖昧さ回避この項目では、映画監督について説明しています。同姓同名の歌手については「ロス・プリモス」をご覧ください。
この記事の項目名には分野により以下のような表記揺れがあります。 過去の議論
  • 黒澤明
  • 黒沢明

黒澤 明(または黒沢 明、くろさわ あきら、1910年明治43年〉3月23日 - 1998年平成10年〉9月6日)は、日本映画監督脚本家映画プロデューサー位階従三位

第二次世界大戦後の日本映画を代表する監督であり、国際的にも有名で影響力のある監督の一人とみなされている[3][4]。ダイナミックな映像表現、劇的な物語構成、ヒューマニズムを基調とした主題で知られる[3]。生涯で30本の監督作品を発表したが、そのうち16本で俳優の三船敏郎とコンビを組んだ。

青年時代は画家を志望していたが、1936年P.C.L.映画製作所1937年東宝に合併)に入社し、山本嘉次郎監督の助監督や脚本家を務めたのち、1943年に『姿三四郎』で監督デビューした。『醉いどれ天使』(1948年)と『野良犬』(1949年)で日本映画の旗手として注目されたあと、『羅生門』(1950年)でヴェネツィア国際映画祭金獅子賞を受賞し、日本映画が国際的に認知されるきっかけを作った。その後『生きる』(1952年)、『七人の侍』(1954年)、『用心棒』(1961年)などが高い評価を受け、海外では黒澤作品のリメイクが作られた。1960年代後半に日本映画産業が斜陽化する中、ハリウッドに進出するも失敗し、その後は日本国内で製作資金を調達するのが難しくなったが、海外資本で『デルス・ウザーラ』(1975年)、『影武者』(1980年)、『』(1985年)、『』(1990年)を作り、国内外で多くの映画賞を受けた。1985年に映画人初の文化勲章を受章し、1990年にはアカデミー名誉賞を受賞した。没後に、映画監督として初の国民栄誉賞が贈られた。

生涯

誕生から監督デビューまで

生い立ち

1910年3月23日東京府荏原郡大井町(現:東京都品川区東大井三丁目)の父が勤めていた荏原中学校の職員社宅に、父・勇と母・シマの4男4女の末っ子として生まれた[5][6]。兄姉は茂代、昌康、忠康(既に夭折)、春代、種代、百代、丙午である[7]。シマは大阪の商家の出身だった[8]。勇は秋田県仙北郡豊川村(現・大仙市豊川)の士族の家の出身[注釈 3]で、陸軍戸山学校の教官を務めたあと、1891年日本体育会の創立とともに要職に就き、日本体育会体操学校と併設の荏原中学校に勤務していた[5][6][9]。勇は厳格な父親だったが、当時は教育上好ましくないと思われていた映画に理解があり、進んで家族を連れて映画見物に出かけた。黒澤は連続活劇ウィリアム・S・ハート英語版主演の西部劇をよく観ていたという[5]

1915年南高輪幼稚園に入園し、翌1916年に南高輪尋常小学校に入学した[10]。しかし、1917年に勇が日本体育会を退職したため、職員社宅を退去して小石川区西江戸川町(現・文京区水道一丁目)に転居し、黒田尋常小学校に転入した[10]。当時の黒澤は知能的に遅れていて、泣き虫のいじめられっ子だったという[11]。そんな黒澤の成長を助けたのが担任の立川精治で、生徒の自由な発想を大事にするという斬新な教育方法で黒澤の才能を見出した[12][11]。立川は図画の時間で好きな絵を自由に描かせ、黒澤が描いた絵が個性的すぎてみんなが笑う中、立川はその絵をとても褒めた[11]。それ以来、黒澤は絵を描くことが好きになり、同時に学校の成績も伸び、やがて級長にもなった[12]。小学校5年の時には剣道を習い始め、高野佐三郎の道場に通うも三日坊主で終わり、自信も失くして放棄した[10][13]

立川とともに黒澤の成長を助けたのが、級友の植草圭之助と4つ上の兄の丙午である。植草は黒澤よりも泣き虫で、自分を客観的に見つめさせる存在だったという[11]。丙午は秀才だが気性が激しく、自滅的な行動や皮肉めいたところが多かったが、軟弱な黒澤をしごき、黒澤の自立心を目覚めさせた[5][8]関東大震災とそれに伴う朝鮮人虐殺事件の時には、丙午は黒澤を壊滅した街に連れて行き、無数の死骸の山を見せつけて、恐ろしさを克服することを教えた[14]。頑迷な厭世観を持つ丙午は、黒澤にとって反面教師的な存在となり、人生の否定的な面や歩いてはならない面を身をもって教えてくれ、黒澤作品の強い人生肯定を特徴とする作風に影響を与えた[15]。また、自伝『蝦蟇の油』のなかで「関東大震災は、私にとって、恐ろしい体験であったが、また、貴重な経験でもあった。それは、私に、自然の力と同時に、異様な人間の心について教えてくれた。」と述べ、当時をこう振り返っている。

焼け出された親類を捜しに上野へ行った時、父が、ただ長い髭を生やしているからというだけで、朝鮮人だろうと棒を持った人達に取り囲まれた。私はドキドキして一緒だった兄を見た。兄はニヤニヤしている。その時、「馬鹿者ッ!!」と、父が大喝一声した。そして、取り巻いた連中は、コソコソ散っていった。 — 黒澤明、『蝦蟇の油』none

町内の、ある家の井戸水を、飲んではいけない、と云うのである。何故なら、その井戸の外の堀に、白墨で書いた変な記号があるが、あれは朝鮮人が井戸へ毒を入れたという目印だと云うのである。私は惘れかえった。何をかくそう、その変な記号というのは、私が書いた落書きだったからである。私は、こういう大人達を見て、人間というものについて、首をひねらないわけにはいかなかった。 — 黒澤明、『蝦蟇の油』none

1922年、黒田小学校を首席で卒業し、卒業式では総代として答辞を読んだ[10][12]。黒澤は東京府立第四中学校を受験したが失敗し、京華中学校に入学した[16]。中学時代は勉学よりも読書に打ち込み、ドストエフスキートルストイツルゲーネフなどのロシア文学に熱中したほか、夏目漱石樋口一葉国木田独歩などの日本文学もたくさん読み、黒澤の人間形成に大きな影響を与えた[12][17]。黒澤は作文で才能を示すようになり、1924年に自然を描写した作文『蓮華の舞踏』が学友会誌に掲載されると、国語教育では名の知れた小原要逸先生から「京華中学創立以来の名文」と褒められた[16]1926年にも同誌に作文『或る手紙』が掲載された[18]。中学時代は神楽坂にある洋画専門館の牛込館に通ってたくさんの外国映画を見ていたが、その中でもアベル・ガンス監督の『鉄路の白薔薇フランス語版』(1923年)は黒澤が映画監督を志すのに大きな影響を与えた[19][20][21]

画家時代

黒澤は中学在学中に画家を志し、小林萬吾主宰の同舟舎洋画研究所に通った[16]1927年に京華中学校を卒業し[10]東京美術学校の受験に失敗すると川端画学校に通い、1928年油絵『静物』が第15回二科展に入選した[12][16]1929年には造形美術研究所(のちのプロレタリア美術研究所)に通い、日本プロレタリア美術家同盟に参加し、洋画家の岡本唐貴白土三平の実父)に絵を学んだ[10][16]。同年12月の第2回プロレタリア美術大展覧会では5つの政治色の強い作品を出品し[注釈 4]1930年の第3回プロレタリア美術大展覧会では『反×ポスター』を出品して官憲に撤回された[12][16][22]。そのうち政治的主張を未消化のまま絵にすることに疑問を感じ、絵を描く熱意を失っていった[23]。同年に徴兵検査を受け、父の教え子である徴兵司令官の好意で兵役免除となり[10]終戦まで徴兵されることはなかった[8]

やがて非合法活動に身を投じ、日本共産党系の無産者新聞の下部組織で街頭連絡員をした[22]。黒澤が非合法活動に参加したのは「日本の社会に漫然たる不満と嫌悪を感じ、ただそれに反抗する[23]」ためで、自ら共産主義者を名乗ったこともなければ、マルクス主義を深く学んで実践する政治的人間になる気もなかった[8][22]。やがて弾圧が激しくなり、運動費も届かない窮乏生活の中で高熱を出して倒れ、仲間との連絡が途絶えたのを機に、1932年春までに非合法活動から身を引いた[10][12]。その後は丙午が住む神楽坂の長屋に居候し、映画や寄席に熱中した[12]。丙午は須田貞明の名で活動弁士となり、若手新進の洋画説明者として人気を集めていたが、トーキーの普及で弁士の廃業が相次ぎ、弁士のストライキで争議委員長として闘うも敗北し、1933年7月に伊豆湯ヶ島温泉の旅館で愛人と服毒自殺を遂げた[15][16][注釈 5]。その4ヶ月後には長兄の昌康も病死し、残された男子である黒澤が跡取りとなった[16]1934年に一家は恵比寿に転居し[18]、黒澤は雑誌の挿絵を描くアルバイトなどをして生計を立てた[15]

助監督時代

1936年、どこかで就職しなければならないと思っていた黒澤は、たまたま新聞記事で見たP.C.L.映画製作所(翌年に東宝に合併)の助監督募集に応募した[15]。最初の試験は「日本映画の根本的欠陥を例示し具体的にその矯正方法を述べよ」という小論文で、黒澤は「根本的欠陥は矯正しようがない」と回答し、それで試験を通過して最終面接まで残った[25]。同社は原則として大学卒を採用するつもりだったが、黒澤の絵や文学に対する理解と才気に注目した山本嘉次郎の推薦により、学歴は旧制中学だけながら例外として合格となり、同年4月に入社した[15][26]。助監督入社の同期には関川秀雄丸山誠治がいた[27]。最初の仕事は矢倉茂雄監督の『処女花園』のサード助監督だったが、この作品1本で仕事が嫌になり、退社を考えるも同僚の説得で思いとどまった[25][27]

その次に参加した『エノケンの千万長者』(1936年)から山本のサード助監督を務めた[10]。山本組での仕事は楽しく充実したものであり、黒澤は映画監督こそが自分のやりたい仕事だと決心した[15]。山本組の助監督仲間には谷口千吉本多猪四郎がおり、黒澤は2人の家に居候することもあった[25]1937年に山本組の製作主任をしていた谷口が本社異動になり、黒澤が新たに山本組の製作主任についた[注釈 6][28]。助監督育成に力を入れる山本の下で、黒澤は脚本執筆からフィルム編集、エキストラロケーションの会計までも担当し、映画作りで大切なことを学んだ[29]。面倒見のよい山本は自分の作品を犠牲にして、黒澤たちB班が撮影したフィルムを採用し、上映された完成作品を見ながらアドバイスをした[30]。黒澤はそんな山本を「最良の師」と仰いだ[31]

山本監督の『』(1941年)ではB班監督と編集を務めた。黒澤は他の仕事で忙しい山本から演出のほとんどを任され、監督昇進への踏み台とした[32]。この『馬』の東北地方でのロケーション撮影を通して、黒澤は主演の高峰秀子との間に恋が芽生えた[32]。しかし、『馬』が公開されたあとに2人の結婚話が新聞沙汰になると、会社側は将来を嘱望された助監督とスターになりかけていた女優の恋を放ってはおけず、高峰の養母が強く反対していたこともあり、山本が破断役となり、恋は不実に終わった[33]

黒澤は助監督生活を送りながら、山本の「監督になるにはシナリオを書け」という助言に従い脚本を執筆した[29]。初めてその才能が認められたのが『達磨寺のドイツ人』(1941年)で、山本の推挙で映画雑誌に掲載されることになったが、記者が受け取った原稿をなくし、黒澤は3日ほど徹夜してもう一度書き直した[34]。この作品はドイツ人建築家ブルーノ・タウトの評伝を元にして、タウトと寄寓先の村の人たちとの交流を描き、伊丹万作に「特に視覚的に鮮明の印象を与えることを注目すべきである」と評価された[32]。『馬』以降は実質的に助監督の仕事はしなくなり、脚本執筆に集中した[18]1942年に執筆した『静かなり』は情報局国民映画脚本募集で情報局賞を受賞し、『雪』は日本映画雑誌協会の国策映画脚本募集で1位に入賞した[32]

監督デビュー

1942年、黒澤は監督処女作に『達磨寺のドイツ人』を企画するが、戦時中のフィルム配給制限により実現しなかった[35][36]。続けて『森の千一夜』『美しき暦』『サンパギタの花』『第三波止場』などを企画するが、これらもフィルム配給制限に加え、内務省の事前検閲で却下された[16][18]。『サンパギタの花』では、誕生日を祝うシーンが検閲官から米英的だと批判され、黒澤は「天皇の誕生日を祝う天長節もいけないのか」と反論するも却下された[35][37]。次に山中峯太郎原作の『敵中横断三百里』を企画するが、今度は会社が新人監督にはスケールが大きすぎるとして見送った[32][38]。なかなか処女作が実現しない黒澤は、生活のために脚本を書き続けた。その中には伏水修監督の『青春の気流』(1942年)、山本薩夫監督の『翼の凱歌』(1942年)などの戦意高揚映画もあり、黒澤は「意欲を傾けられるような仕事ではなかった」と述べている[39]

黒澤の監督処女作は『姿三四郎』(1943年)となった。1942年9月、黒澤は富田常雄同名小説の新刊書広告を見かけると、広告文だけで映画化を思い立ち、発売されるとすぐに買い求めて一気に読み、プロデューサーの森田信義を説得して映画化権を獲得させた[40]。『姿三四郎』は当時の日本映画の中で新鮮味と面白さとを合わせ持った映画的な作品として注目され、その視覚性やアクション描写、卓越した演出技術などが高く評価された[41]1943年3月に国民映画賞奨励賞を受賞し、12月には優れた新人監督に贈られる山中貞雄賞を木下惠介とともに受賞するなど[10]、黒澤は新人監督として周囲の期待を集め、東宝重役の森岩雄は「黒澤さんの監督としての地位は、この処女作一本で確立したといってもいいであろう」と述べている[40]

監督第2作の『一番美しく』(1944年)の完成後、黒澤は森田の勧めで主演の矢口陽子(本名は喜代)と結婚し、1945年3月頃に山本夫妻の媒酌で明治神宮で結婚式を挙げた[42][43]。この頃の東京は空襲を受けており、同居していた両親たちはすでに秋田に疎開していた。黒澤が住んでいた恵比寿も空襲で危ないということで、同じく家族が疎開していた堀川弘通祖師ヶ谷にある実家に転居した。その翌日に恵比寿の家は空襲で焼失した。それから数年間は堀川家で生活し、堀川は家主であるのに黒澤家に居候しているような気分になったという[43]。同年に黒澤は処女作の続編『續姿三四郎』を完成させ、次に桶狭間の戦いを描く『どっこい!この槍』の製作に着手したが、馬が調達できなくて中止し、急遽の「安宅」と歌舞伎の「勧進帳」を元にした『虎の尾を踏む男たち』を監督した[16]。この作品は終戦を挟んで撮影され、終戦直後にGHQの検閲で封建制助長により非合法作品となり、1952年まで上映禁止にされた[44]

終戦後から『赤ひげ』まで

終戦後の5年間

終戦後の最初の仕事は、川口松太郎の依頼で執筆した戯曲『喋る』で、1945年12月に有楽座新生新派により上演された[16]。戦後の初監督作は『わが青春に悔なし』(1946年)であるが[注釈 7]、当時の会社は東宝争議で組合が映画製作に強い権限を持つようになり、この作品も組合主導の企画審議会から楠田清監督の『命ある限り』と内容が類似していると言われ、改稿を余儀なくされた[16]1946年10月には第2次東宝争議が発生し、ストに反対した所属スターが「十人の旗の会」を率いて退社し、新東宝の設立に参加した。スター主義の新東宝に対抗するため、黒澤など東宝のスタッフたちは伊豆の旅館に集まり、組合中心で5本の監督主義作品を企画した。そのうち黒澤は『素晴らしき日曜日』(1947年)を監督し、谷口監督の『銀嶺の果て』とオムニバス映画四つの恋の物語』(どちらも1947年)第1話「初恋」の脚本を執筆した[46]

1948年公開の『醉いどれ天使』は、山本監督の『新馬鹿時代』(1947年)で使われた闇市の大規模なオープンセットを活用するための企画として作られた[16]。この作品では『銀嶺の果て』でデビューしたばかりの三船敏郎と初めてコンビを組み、主人公の結核を患う若いヤクザ役に起用した。また、『姿三四郎』から黒澤作品に出演していた志村喬をアル中医師役で初めて主役に抜擢し、以後は黒澤作品の主役を三船と志村とで分け合う時期が続いた[47]。作曲家の早坂文雄とも初めてコンビを組んでおり、1955年に早坂が亡くなるまで二人は私生活でも親友関係となった[48]。『醉いどれ天使』は黒澤作品で初めての傑作と目され、キネマ旬報ベスト・テンで1位に選ばれ、毎日映画コンクールで日本映画大賞を受賞した[49]

同年3月、東宝争議で映画製作が十分にできなくなったことから、山本、谷口、成瀬巳喜男、プロデューサーの本木荘二郎と同人組織「映画芸術協会」を設立した[16]。その翌月に第3次東宝争議が開始すると、黒澤は製作現場を守るため組合側に加わり、同協会は争議終結まで開店休業状態となった[50]。黒澤は組合の立場を代弁する「東宝の紛争 演出家の立場から」という文章を発表し[16]、8月に東宝の監督やプロデューサーによる芸術家グループが会社側を批判する声明文に署名した[10]。さらに給料支払いを止められた組合員の資金カンパのため、『醉いどれ天使』を劇化して全国各地を巡業し、チェーホフの戯曲『結婚の申込み』も演出した[16]。10月19日に第3次東宝争議は終結した[10]

争議終結後は東宝を離れ、映画芸術協会を足場にして他社で映画製作をすることになった。最初の他社作品は、助監督時代から脚本を執筆した縁故がある大映での『静かなる決闘』(1949年)で、菊田一夫の戯曲『堕胎医』を原作にしている[16]。その次に新東宝と映画芸術協会が共同製作した『野良犬』(1949年)は、黒澤が好きだったジョルジュ・シムノンの犯罪小説を意識した作品で、ピストルを盗まれた新人刑事が老練刑事とともに犯人を追うという内容だが、これは実際の刑事の話を元にしている[51]。この作品は日本で刑事映画のジャンルを決定づける古典となり、芸術祭文部大臣賞を受賞するなど好評を受けた[16]

国際的名声の獲得

1950年、黒澤は松竹で『醜聞』を監督後、大映から再び映画製作を依頼されて『羅生門』を監督した。この作品は橋本忍芥川龍之介の短編小説『藪の中』を脚色したシナリオを元にしており、武士の殺害事件をめぐり関係者の証言が全部食い違い、その真相が杳として分からないという内容だった。しかし、その内容だけでは長編映画として短すぎるため、黒澤が同じ芥川の短編小説『羅生門』のエピソードなどを付け足して脚本を完成させた[52]。作品はその年度の大映作品で4位の興行成績を収めたが、批評家の評価はあまり芳しいものではなかった[16][53]。しかし、1951年9月にヴェネツィア国際映画祭金獅子賞を受賞し、さらに第24回アカデミー賞名誉賞を受賞するなど、海外で相次ぐ賞賛を受けた。黒澤は映画祭に出品されたことすら知らず、釣りの帰りに妻から連絡を受けたという[54]。『羅生門』は欧米が日本映画に注目するきっかけとなり、日本映画が海外進出する契機にもなった。また、複数の登場人物の視点から1つの物語を描く話法は、同作で映画の物語手法の一つとなり、多くの作品で繰り返し使われることになった[16]

その次に松竹で監督した『白痴』(1951年)は、黒澤が学生時代から傾倒するフョードル・ドストエフスキー同名小説が原作で、黒澤にとって長年の夢となる映画化だったが、4時間25分に及ぶ完成作品は会社側の意向で大幅短縮され[55]、激怒した黒澤は山本宛ての手紙に「こんな切り方をする位だったら、フィルムを縦に切ってくれたらいい[56]」と訴えた。日本の批評家には悉く酷評されたが、ドストエフスキーの本場のソ連では高く評価された[53]。これが最後の映画芸術協会での他社作品となり、1951年に東宝は争議で疲弊していた製作部門を再建するため、黒澤など映画芸術協会の監督と専属契約を結んだ[57]。東宝復帰第1作である『生きる』(1952年)はキネマ旬報ベスト・テンの1位に選ばれるなど高い評価を受け、第4回ベルリン国際映画祭ではベルリン市政府特別賞を受賞した。

黒澤は次に本物の時代劇を作ろうと意気込み、橋本と『侍の一日』を構想するが資料不足で断念し、盗賊から村を守るために百姓が侍を雇うという話を元にして『七人の侍』(1954年)の脚本を執筆した[57][58]。撮影は1953年5月に開始したが、製作費と撮影日数は予定より大幅超過し、最終的に撮影日数は約11ヶ月に及び、通常作品の5倍以上にあたる予算を計上した[59]。作品は興行的に大成功したが、公開当時の国内では必ずしも高評価を受けることはなかった[59]ヴェネツィア国際映画祭に出品されると銀獅子賞を受賞し[60]、その後は日本国内でも国外でも映画史上の名作として高く評価されるようになり[57]2018年イギリスBBCが発表した「史上最高の外国語映画ベスト100」で1位に選ばれた[61]

1955年2月、黒澤はカンヌ国際映画祭の審査員に要請されるも辞退した[10]。『生きものの記録』(1955年)の完成後、黒澤は東宝と3本の契約を残していたが、それらを「時代劇三部作」として企画し、自らのプロデュースで若手監督に作らせようとした[注釈 8][57][63]。1本目の『蜘蛛巣城』(1957年)はシェイクスピアの『マクベス』の翻案だが、大作映画になるため黒澤が監督することになった[57]。結局、残る2本も黒澤が監督することで話が進み[63]、2本目にゴーリキー原作の『どん底』(1957年)を監督した。この間に海外合作のオムニバス映画『嫉妬』に参加する話があり、の「鉄輪」を題材にしたエピソードを企画するも製作中止となった[注釈 9][18][34]

1957年10月、黒澤はロンドンナショナル・フィルム・シアター英語版の開館式に招待され、初めての海外渡航を行った[64]。10月15日の開館式では、映画芸術に貢献した映画人としてジョン・フォードルネ・クレールヴィットリオ・デ・シーカローレンス・オリヴィエとともに表彰された[64]。その翌日には第1回ロンドン映画祭の開会式に出席し、『蜘蛛巣城』がオープニング上映された[64]。黒澤はフォードを尊敬し、彼の作品から影響を受けたことを公言していたが[21][30][65]、ロンドン滞在中にフォードと初めて会い、『ギデオン』の撮影現場を訪問したり、昼食を共にするなどの交友を持った[66]。その次にパリに渡り、シネマテーク・フランセーズを訪問したり、ジャン・ルノワールと夕食を共にしたりして過ごした[66]。黒澤はこの旅行を通して映画が芸術として認知されていることを直に知り、映画人として強い自負を持つようになった[64]。これ以後、黒澤は日本の政治が映画に無関心であることや、映画産業に対する危機感を事あるごとに言及するようになった[注釈 10]

黒澤プロダクション設立

時代劇三部作の3本目となる『隠し砦の三悪人』(1958年)は興行的に大ヒットし、第9回ベルリン国際映画祭監督賞国際映画批評家連盟賞を受賞した。しかし、撮影は予定より大幅遅延し、製作費も破格の1億9500万円を計上したため、黒澤作品にだけ高額な製作費が許されることについて社内外から批判が出た[57][68]1958年末に黒澤は東宝との契約が切れたが、東宝は黒澤を社内に抱え込むのは危険としつつも、記録的ヒット作を放つ黒澤との関係を完全に絶つことも得策ではないと考えていた[57]。そこで1959年4月1日に黒澤と東宝が折半出資して、利益配分制による「黒澤プロダクション」を発足し、東宝本社内に事務所を設けた[69]。黒澤は映画製作の自由を手に入れたが、同時に経済的責任を背負うことになり、興行収入にも気を配らなければならなくなった[70]

1960年7月7日、黒澤は東京オリンピックの公式記録映画の監督依頼を正式に承諾した[71]。準備に向けて同年開催のローマオリンピックを視察し、その公式記録映画『ローマ・オリンピック1960』の撮影に立ち会って入念に調査した[72]。それを参考にして5億円超えとなる予算案を組織委員会に提出したが、2億5000万円の予算案を提示する組織委員会とは折り合いがつかず、1963年3月22日に「2億5000万円では理想的な作品は無理だ」として監督を辞退した[73]。組織委員会の与謝野秀事務総長の強い慰留もあり、組織委員会内の記録映画委員会の委員として残留し、その後も与謝野からオファーを受けたが、11月5日に正式にオリンピック公式記録映画を降りた[74]

黒澤プロダクションの第1作『悪い奴ほどよく眠る』(1960年)は興行的に失敗したが、その次に手がけた娯楽時代劇『用心棒』(1961年)とその続編『椿三十郎』(1962年)は、その年度の東宝作品で最高の興行収入を記録する成功を収めた。前者はダシール・ハメットの小説『血の収穫』が着想の元となり、後者は山本周五郎の小説『日日平安』を原作としている。どちらの作品も刀の斬殺音や血しぶきなどの残酷描写を取り入れ、従来の時代劇映画の形式を覆すリアルな表現を試みた。これが話題を呼び、その影響を受けて残酷描写を入れた時代劇が数多く作られたが、後年に黒澤は「非常に悪い影響を与えてしまった」と述べている。その次に監督した『天国と地獄』(1963年)はエド・マクベインの犯罪小説『キングの身代金』が原作のサスペンス映画で、その年度の興行成績で1位を記録した[57]

黒澤プロダクションの設立以後は、作品を重ねるごとに興行収入記録を更新したが、その分作るたびに製作費も巨額になった。『赤ひげ』(1965年)では製作期間が2年に及び、予算は過去最高の2億6600万円を計上した。この作品は山本周五郎の『赤ひげ診療譚』が原作であるが、一部にドストエフスキーの『虐げられた人びと』を元にしたエピソードを挿入している[57]。黒澤はこの作品を「僕の集大成」と語り[75]テレビ放送の普及で日本映画の観客数が減少する中、スタッフたちの能力を最大限に引き出して、映画の可能性を存分に追求しようとした[76]。やはりその年度で最高の興行収入を記録し、キネマ旬報ベスト・テンでは1位に選出された。しかし、これが三船とコンビを組んだ最後の作品となった。

海外進出から死去まで

ハリウッド進出と挫折

『赤ひげ』公開後、黒澤は東宝に対して巨額の借金を抱えていた[77]。黒澤プロダクションは東宝との契約で5本の作品を作り、その配給で4億円前後の高収入をあげていたが、東宝と交わした利益配分制だと黒澤は利益を上げられず、芸術的良心に忠実な作品を目指して時間と予算をかけるほど、東宝に搾取されて損をする仕組みになっていた[77][78]1966年7月に黒澤は東宝との専属契約を解消して完全独立し、黒澤プロダクションは東京都港区東京プリンスホテル4階に事務所を構えた[77]。この頃の黒澤は日本で権威的とみなされ、それ故の批判や誹謗中傷を受けることが目立った[57]。孤立心を深めた黒澤は、日本映画産業が斜陽化していたこともあり、より自由な立場で新たな自己表現の段階に挑戦するため、それだけの製作費が負担できる海外に活動の場を求めるようになった[57][79]。すでに黒澤は欧米からいくつものオファーを受けていた[77]

1966年6月、黒澤はアメリカエンバシー・ピクチャーズ英語版と共同製作で『暴走機関車』を監督することを発表した[80]。この企画はライフ誌に掲載された、ニューヨーク州北部で機関車が暴走したという実話を元にしており、出演者は全員アメリカ人にすることが決定していた[80]。しかし、英語脚本担当のシドニー・キャロル英語版と意見が合わず、プロデューサーのジョーゼフ・E・レヴィーンとも製作方針をめぐり食い違いが生じた[79][80][81]。例えば、黒澤は70ミリフィルムカラー映画を想定していたのに対し、アメリカ側はスタンダードサイズモノクロ映画で作ろうと考えていた[81][82]。黒澤は130人ものスタッフを編成し、本物の鉄道を使用して撮影する準備をしていたが[83]、アメリカ側との意思疎通に欠き、同年11月に黒澤から撮影延期を提案し、事実上の製作頓挫となった[81][83]。この企画は1985年アンドレイ・コンチャロフスキー監督で映画化されたが、内容は大きく改変された[34]

1967年4月、真珠湾攻撃が題材の戦争映画『トラ・トラ・トラ!』を20世紀フォックスと共同製作し、黒澤が日本側部分を監督することが発表された[84]。黒澤は東映京都撮影所で撮影を始めたが、軍人役に演技経験のない財界人を起用したことや、黒澤の演出方法に馴染めないスタッフとの間に軋轢が生じたことから、スケジュールは大幅に遅れた[57]。黒澤の映画作りの方法とハリウッドの映画作りの方法はうまく合わず、ついに遅延を無視できなくなった20世紀フォックスにより事実上の解任が決定し、1968年12月に表向きは健康問題を理由に監督を降板することが発表された[57][79][85]

1969年6月24日、三船などが発起人になり「黒澤明よ映画を作れの会」が赤坂プリンスホテルで開かれ、関係スタッフや淀川長治など黒澤を応援する人たちが集まった[82]。その翌月には木下惠介市川崑小林正樹とともに「四騎の会」を結成し、日本映画の斜陽化が進む中、若手監督に負けないような映画を作ろうと狼煙を上げた[86]。その第1作として4人の共同脚本・監督で『どら平太』を企画するが頓挫した[34]。結局、黒澤が単独で『どですかでん』(1970年)を監督することになり、自宅を担保にして製作費を負担するが、興行的に失敗してさらなる借金を抱えた[57]。黒澤以外の四騎の会の監督はテレビ番組を手がけていたが、黒澤もテレビと関係を持つようになり、1971年8月31日に名馬の雄姿を紹介する日本テレビのドキュメンタリー番組『馬の詩』を監修し、同局で『夏目漱石シリーズ』『山本周五郎シリーズ』を監修する計画もあった[57][86]。同年12月22日早朝、黒澤は自宅風呂場でカミソリで首と手首を切って自殺を図るが、命に別状はなかった[57][86]

海外資本での映画製作

1973年3月14日、黒澤はソ連の映画会社モスフィルムと『デルス・ウザーラ』(1975年)の製作協定に調印した。黒澤がソ連で映画を作るという話は、自殺未遂前の1971年7月、黒澤が第7回モスクワ国際映画祭に出席したときに持ちかけれ、それから本格的な交渉が行われていた[87]。黒澤はソ連側から芸術的創造の自由を保証され、1974年4月から約1年間にわたり撮影をしたが、シベリアの過酷な自然条件での撮影は困難を極めた[88]。作品は第48回アカデミー賞ソ連代表作品として外国語映画賞を受賞し、黒澤の復活を印象付けた[88]1977年には再びソ連で作ることを画策し、エドガー・アラン・ポーの短編小説『赤死病の仮面』を元にした『黒き死の仮面』の脚本を執筆したが、映画化は実現しなかった[注釈 11][34]。この頃の黒澤はメディアへの露出が増え、1976年から1979年までサントリーリザーブのテレビCMにも出演した[90]

1978年7月1日、黒澤はイタリアダヴィッド・ディ・ドナテッロ賞で外国監督賞を受賞し[91]、その副賞であるファーストクラスの航空券を使ってアメリカに10日間旅行した[92]。黒澤はジョージ・ルーカスなどと昼食を共にしたり、フランシス・フォード・コッポラの邸宅を訪ねるなどの交友を持った[92]。アメリカ滞在中、黒澤はルーカスと次回作『影武者』(1980年)の資金援助の相談もした[93]武田信玄の影武者を描く『影武者』は国内の映画会社と資金交渉が難航していたが、ルーカスの働きかけで20世紀フォックスが世界配給権を引き受ける代わりに出資することが決まり、ルーカスはコッポラを誘って海外配給の共同プロデューサーについた[93]。『影武者』はオーディションで無名俳優や素人を起用したり、主演予定だった勝新太郎の降板騒動が起きるなど、公開前からマスコミを賑わせた[88]。当時の日本映画で過去最高となる27億円の配給収入を記録し、第33回カンヌ国際映画祭パルム・ドールを受賞した[88]

『影武者』の興行的大成功で、黒澤は次回作に『』(1985年)を作ることにした。同作は毛利元就三本の矢の教えにシェイクスピアの『リア王』を組み合わせた作品で、1976年に初稿を執筆していたが、資金調達が実現しないままだった[88]1981年10月に黒澤は渡米し、ニューヨークで行われたジャパン・ソサエティー主催の「黒澤作品回顧上映会」に出席したあと、『乱』の資金についてルーカスとコッポラに相談した[10][94]。『乱』はフランスの映画製作者セルジュ・シルベルマンの出資で製作が実現することになったが、1983年3月にフランの海外流出が制限されたため製作延期となった[88]。黒澤は『乱』のために招集したスタッフに仕事を与えるため、急遽をテーマにしたドキュメンタリー映画『能の美』を企画し、黒澤監修で佐伯清を監督に起用したが、製作費が高額になるため中止した[34]

同年11月1日、神奈川県横浜市緑区に自前の映画スタジオである「黒澤フィルム・スタジオ」を開設し[10]、同月に『乱』はヘラルド・エースの参加で製作再開した[88]。『乱』は日本映画で最大規模となる26億円もの製作費が投じられたが、興行収入は16億円にとどまり巨額の赤字を出した[95]。それでも国内外で多くの映画賞を受賞し、1986年3月の第58回アカデミー賞では4部門にノミネートされ、ワダ・エミ衣裳デザイン賞を受賞した。黒澤も監督賞にノミネートされたが、これはシドニー・ルメットが黒澤をノミネートさせるためのキャンペーンを行った結果である[96][97][注釈 12]。また、黒澤は同賞でジョン・ヒューストンビリー・ワイルダーとともに作品賞のプレゼンターも務めた[96][97]

晩年と死去

晩年期の作品は、家族や師弟など身辺に目を向け、自伝的な要素が強くなった[88]。『』(1990年)は自身が見た夢を元にしたアンソロジー的作品で、その挿話の一つには早世した姉に対する追慕が現れている[99]。この作品もやはり国内の映画会社で資金調達ができず、スティーヴン・スピルバーグの計らいでワーナー・ブラザースが出資と世界配給を引き受けたほか、ルーカスのILMが特殊合成に協力し、マーティン・スコセッシゴッホ役で出演するなど、海外の映画人の協力により作られた[88][99]。その後は国内資本での映画製作が続き、『八月の狂詩曲』(1991年)は村田喜代子芥川賞作品『鍋の中』が原作で、『まあだだよ』(1993年)では内田百閒をめぐる師弟愛を描いたが、これが黒澤の最後の監督作品となった[88]

1993年11月、山本周五郎の2つの短編小説を元にした『海は見ていた』の脚本を執筆し、映画化準備をするも資金調達が上手くいかず断念した[88]。そこで同じ山本原作の『雨あがる』の脚本に取りかかるが、1995年3月に定宿である京都の旅館「石原」で執筆中に転倒骨折し、脚本は完成することなく終わり、それ以降は車椅子生活を強いられた[34][100]。その間の1996年日本エアシステムの機体MD-90のデザインを担当し、1997年にはカルピスのために自筆の絵コンテをCGでアニメーション化したテレビCM「初恋」を制作し、初めてのCM制作でデジタル表現に取り組んだ[10][101]。同年12月には三船が死去したが、翌1998年1月24日の本葬にはリハビリのため出席することができず、長男の久雄が弔辞を代読した[102]

1998年9月6日午後0時45分、東京都世田谷区成城の自宅で脳卒中により死去した[100][103]。88歳没。9月13日に黒澤フィルム・スタジオでお別れの会が開かれ、岡本喜八司葉子、谷口千吉、仲代達矢香川京子千秋実侯孝賢など約3万5000人が参列した[104][105]。ルーカス、ルメット、スコセッシ、テオ・アンゲロプロスアッバス・キアロスタミなどからは弔電が届いた[104]。海外でも黒澤の死去はトップ級のニュースとして報道され、フランスのジャック・シラク大統領も追悼談話を発表した[106]。黒澤は無宗教だが、妻(1985年に死去)が眠る鎌倉市安養院に納骨され、「映明院殿紘国慈愛大居士」の戒名が送られた[10][102]従三位に叙された[107]

作風

テーマ

黒澤作品は強い人間信頼と人生肯定を特徴とし[108]、現実社会で困難な状況に追い込まれた主人公が、それを契機にして人間的に再生する姿を描くことが多い[57]。評論家の都築政昭は、黒澤作品の主人公は強い正義感と犠牲的な精神で困難に立ち向かうが、そのような人物は現実感に乏しいため、黒澤は人間のあるべき姿を願望として描いていると指摘している[109]。映画批評家の佐藤忠男は、黒澤は生きる意味を探求するというテーマをくり返し描いていると指摘している[110]。終戦後に作られた『醉いどれ天使』『静かなる決闘』『野良犬』などでは、主人公は強い正義感や使命感を持って社会悪と闘い、逞しく生きる的な英雄として描かれており、敗戦後の混沌とした社会に対して肯定的に生きることの意義を訴えている[111][110]。その作風は人生の意義、社会的献身の意義を問う『生きる』と『赤ひげ』で頂点に達したとみなされている[3][110]

黒澤は師匠と弟子の関係をテーマに扱い、人間的に未熟な青二才がすぐれた師匠の教えを受けて一人前に成長するという物語を描くことが多い[17]。そのテーマは監督第1作の『姿三四郎』から描かれており、この作品では青年柔道家の三四郎が師匠の矢野正五郎の教えを受けながら、心身両面で成長してすぐれた柔道家になる姿を描いている[17][112]。そのほかの師弟関係を描いた例として、『野良犬』の佐藤刑事と村上刑事、『七人の侍』の勘兵衛と菊千代、『椿三十郎』の三十郎と若侍たち、『赤ひげ』の新出去定と保本登が挙げられる[113]。1950年代までは三船敏郎が弟子に相当する主人公を演じていたが、『椿三十郎』『赤ひげ』では三船は未熟な者を指導する側の役を演じた[57]

黒澤はその時々で自身が関心を持つ社会問題をテーマに採り上げ、批判的内容の作品を作っている。例えば、『醜聞』ではイエロー・ジャーナリズム、『生きる』では官僚主義、『悪い奴ほどよく眠る』では汚職、『天国と地獄』では誘拐、『生きものの記録』『夢』『八月の狂詩曲』では原爆をテーマに扱っている[57]。佐藤によると、黒澤作品の社会批判の姿勢は、通常の社会批判映画を作る映画作家が好むような問題の犠牲者に観客の同情を集めたり、大衆に連帯をうながすという物語の形式を極端に避けており、その代わりに黒澤作品の主人公は大衆をあてにせず、個人的な解決方法を取ることが多いという[114][115]。また、佐藤は自分だけで解決する主人公の描き方について、その独特な生き方は普通の日本人には理解し難いが、そこに日本人の大勢順応的傾向に反対する黒澤の主張が込められていると指摘している[115]

脚本

監督作品は基本的にすべて自分でシナリオを書いているが、大抵の作品には共同執筆者がいた[注釈 13][116]。黒澤は共同執筆をする理由として、「僕一人で書いていると大変一面的になるおそれがある[117]」と語っている。共同執筆の方法は、脚本家全員で同じシーンを書き、それを比較して良いところだけを取り入れて決定稿にするというものだった[118]。大映製作担当の市川久夫は、谷口と共作の『静かなる決闘』の共同執筆について、「毎日、話の段取りを予め決め、同じシーンを二人が別々に書き、終わったところで対照し、よい方に統一しながら書き足してゆくといった方法だった[119]」と述べている。橋本忍小国英雄と共作の『生きる』『七人の侍』では、黒澤と橋本が競うように同じシーンを書き、小国がそれを取捨選択して決めるという役割分担で執筆した[75]。橋本は「黒澤組の共同脚本とは、同一シーンを複数の人間がそれぞれの眼(複眼)で書き、それらを編集し、混声合唱の質感の脚本を作り上げる―それが黒澤作品の最大の特質なのである[118]」と述べている。

製作方法

黒澤は撮影に入る前に、まず被写体を本当にそれらしく作れるかどうかを重視した[120][121]リハーサルは他監督の作品よりもたくさん時間をかけ、俳優が役柄や性格をしっかりと掴み、演技が自然に見えるまで周到に稽古を重ねた[120][注釈 14]。『どん底』では撮影期間が1ヶ月なのに対し、リハーサルにはそれよりも長い40日近くもかけている[123]。また、役の雰囲気を作らせるために、本読みの段階から俳優に衣裳を着けさせたり、撮影期間中も俳優同士を役名で呼ばせたり、役で家族を演じる俳優たちを一緒に住まわせたりした。このため、制作費が莫大になる理由の一つでもあった。[120]

セットも実在感を追求するためリアルに作られ、巨大なセットが組まれた[124]。美術監督の村木与四郎も、黒澤作品のセットの特長を「みんな大きなロケセットを1つデーンと建てちゃう点」と語っている[124]。画面に写らないような細部も作り込んでおり、『羅生門』では門の屋根瓦4000枚のすべてに年号が彫られ、『赤ひげ』では撮影のために焼いた茶碗に茶渋がつけられ、薬棚の引き出しの中にまでが塗られた[121][124]。黒澤はある程度はリアリズムを徹底したが、必ずしも史実通りにすることにとらわれず、視覚的にどう写るかを優先して大胆にイメージを広げることもあった[124][125]。『用心棒』の宿場町シネマスコープの画面に合わせて道幅を広くしており、『蜘蛛巣城』の城門も実際の寸法より大きくしている[125]

黒澤の撮影方法は、複数のカメラでワンシーン・ワンショットの長い芝居を同時撮影するというもので、この手法は「マルチカム撮影法」と呼ばれた[126]。マルチカム撮影法は『七人の侍』で決戦場面など撮り直すことが難しいシーンを、数台のカメラで一度に写すことから始まったもので、次作の『生きものの記録』から本格的に導入した[126][127]。黒澤はこの手法を使うと俳優がカメラを意識しなくなり、思いがけず生々しい表情や姿勢を撮ることができ、普通の構図では考えつかないような面白い画面効果が得られるとしている[75]。撮影監督の宮川一夫によると、黒澤は芝居が止まるのを嫌ってこの手法を使用したという[128]。大抵のシーンでは2、3台のカメラを使用したが、『赤ひげ』では5台のカメラを使って8分に及ぶシーンを長回しで撮影した[126]

編集作業は黒澤自身が行った。黒澤は撮影を素材集めに過ぎないとし、それに最終的な生命を与えるのは編集であると考えていたため、他監督の作品のように編集担当に任せることはせず、自分で編集機を操作した[129][130]。マルチカメラ撮影法を採用してからは、複数カメラで撮影した同じシーンのフィルムをシンクロナイザーにかけ、一番いいショットを選んで繋げるという方法で編集をした[129][131]。複数カメラで長いシーンを撮影すると、スタッフは映像のイメージがつかみづらくなるため、黒澤は撮影したシーンのラッシュフィルムが仕上がるとすぐに編集してスタッフに見せ、ロケーションにも編集機を携行した[129][132]。そのため撮影が終了する頃には、編集もほとんど済んでしまうことが多かった[132]

表現スタイル

黒澤はカメラの動きを観客に意識させないようにした[133]。カメラを勝手に動かすことはなく、俳優が動くときのみカメラを移動させ、俳優が止まればカメラも停止させた[127][133]。カメラが対象物に寄るのも不自然だと考え、ズームレンズは基本的に使わず、その代わりに望遠レンズを多用した[127]。黒澤は『野良犬』のワンシーンで初めて望遠レンズを使い、『七人の侍』から複数カメラの1つに採用した[134]。望遠レンズだと画角が狭くなり、被写体の遠近感が失われて縦に迫るように見えるため、迫力ある画面を生んだ[127][135]。また、望遠レンズを使うとカメラ位置が遠ざかり、その分俳優がカメラを意識しなくなり、自然な表情が撮れるため、黒澤はクローズアップも望遠レンズで撮影した[135]

黒澤は画面に写るものはすべて重要だと考え[131][133]、1つの画面に人や物がたくさん詰まっているような画面構図を好んだ[57]。そのためパンフォーカスを使用して、被写体を画面の手前から奥に立体的に配置し、奥行きのある「縦の構図」にすることが多い[126]。パンフォーカスはレンズの焦点深度を深く絞り、画面内の被写体全部に焦点を合わせる技法である[126][134]。黒澤は『わが青春に悔なし』でパンフォーカスを試みようとしたが、敗戦直後の電力不足で諦めており、『生きる』から存分に活用した[136]。パンフォーカスでレンズを深く絞ると光量が減るため、大量の強いライトを使わなければならず、黒澤が撮影するとスタジオが電力不足になり、他の仕事が出来なくなったという逸話がある[134]

場面転換には「ワイプ」を使用した[131]。ワイプは画面を片側から拭き取るように消して、次の画面を表示する技法である。サイレント映画でよく使われたが[137]、1950年代頃には映画ではほとんど使われなくなり、アメリカではテレビシリーズで採用された[138]。黒澤はワイプをフェードディゾルブなどの代わりに使用したが、これらの技法を全く使用しなかった訳ではなく、フェードは柔らかな印象を与えるときだけ使い、ディゾルブはかなりの時間経過を示すために用いた[138][131]。ワイプの主な使用例は、『生きる』で市役所に陳情に来た主婦がたらい回しにされるシーンで、責任回避する各部署の職員を被写体にしたPOVショット英語版がワイプで重ねられている。

1940年代から1950年代の作品では「アキシャルカット英語版」という技法を使用した[139]。アキシャルカットはディゾルブやトラッキングショットを使用せずに、角度を変えないジャンプカットで焦点距離を変化させる技法で、突然被写体が近づいたり離れたりする印象を与えた[140]。映画批評家のデヴィッド・ボードウェルは、黒澤はアキシャルカットを頻繁に使用して、瞬間的な動作を強調したり、静止した瞬間の時間を延ばしたりしていると指摘している[141]。『姿三四郎』では村井半助が柔道の試合で投げ飛ばされたシーンや、三四郎と小夜が階段を下りながら会話するシーンなどで、アキシャルカットが使用されている[141][142]

映画批評家のドナルド・リチーは、黒澤の色彩表現はイメージの役割に合わせて色を決め、色彩そのものに意味を持たせるというものであるとしている[131]。『どですかでん』では内容に即してセットや地面を赤や黄の原色で染めて、奔放に色を使用している[86]。『影武者』以降は鮮やかな色彩で細部まで描き込んだ絵コンテを用意するようになり、その絵コンテ自体が芸術作品として成立することから、作品発表のたびに画集が出版された[88][143]

太陽を映すショットは当時としは画期的で多くの映画関係者に影響を与えた。[144]

映画技術

黒澤はカラー映画には慎重な態度を取り、『赤ひげ』まで全作品はモノクロ撮影だった[131]。ただし、『天国と地獄』後半のワンシーンでは煙突の煙に着色してパートカラーにする試みをしている[57]。黒澤はカラーに踏み切らなかった理由について、映画の色彩が絵画的な色彩とは程遠く、自分の考える色彩を表現することができないからだとしている[145]。照明技師の石井長四郎と森弘充は、黒澤が重視するパンフォーカス撮影はカラー映画では難しく、そのためにカラーに踏み切らなかったとしている[146]。黒澤初の全編カラー映画は『どですかでん』で、以後の作品はすべてカラーで撮影した。

作品の画面サイズは『どん底』までは、スタンダードサイズ(画面比率は1対1.33)だったが、黒澤は画面が狭すぎるスタンダードサイズに不満があり、『隠し砦の三悪人』以降はシネマスコープ(画面比率は1対2.35)を採用した[147]。黒澤は同作について、「最初のシネスコ・サイズで大きな画面にいろいろ入るので、おもしろくて思う存分撮った[75]」と述べている。『デルス・ウザーラ』では初めて70ミリフィルムを使用したが、『影武者』以降の作品はすべてビスタサイズ(画面比率は1対1.66)で撮影した。撮影監督の斎藤孝雄によると、黒澤は画面全体を埋めなければ気が済まない人で、シネマスコープの広い画面を埋めるのが大変になったことからビスタサイズに変更したという[148]

音楽

黒澤は映画音楽で、わざと映像と音楽の調和を崩す「音と映像の対位法」を好んで使用した[149][150]スクリプター野上照代は「映画音楽は足し算ではなく、掛け算でなければならない」のが黒澤の持論だったとしている[149]。黒澤とコンビを組んだ早坂文雄は、黒澤の映画音楽に対する考え方は「画面と結合することによって、ある連想作用によって、そこになにかが喚起され、その音楽自体に別な意味が附与されてくるようなものでなくてはならない[151]」ものだったとしている。対位法を使用する時は、音源をその画面に登場する既成のレコード曲やラジオから流れる音楽、背景の歌声などの現実音にする場合が多かった[149]。対位法の代表的な使用例は『醉いどれ天使』と『野良犬』で、前者では主人公が闇市を歩くシーンで「かっこうワルツ」を流し、後者では佐藤刑事が犯人に撃たれるシーンで「ラ・パロマ」、村上刑事が犯人と対峙するシーンでクーラウの「ソナチネ」のピアノ曲を流している[151]

黒澤は映画音楽を作曲家任せにせず、作曲家に自分の欲しいイメージを伝え、それに強くこだわった[48]。普段からよく音楽を聞いていた黒澤は、イメージを伝えるために既成曲を示し、それに似た音楽にするよう指示することが多かった[88][152][153]。『羅生門』ではラヴェルの「ボレロ」、『赤ひげ』ではブラームスの「交響曲第1番」やハイドンの「交響曲第94番」、『乱』ではマーラーの「大地の歌」に似た曲が作られている[153]。『赤ひげ』以降はラッシュ時に自分が選んだ名曲を付けるようになり、その曲に合わせて編集することもあった[48][152]。そのため注文の厳しい黒澤と作曲家との軋轢も多く、『影武者』では佐藤勝が降板し、『乱』では武満徹とダビングをめぐり対立することもあった[48]

黒澤組

黒澤は長年東宝に所属していたこともあり、同じスタッフやキャストと仕事をすることが多く、彼らは「黒澤組」と呼ばれた。黒澤組の主な人物と参加作品数は以下の通りである(スタッフは3本以上、キャストは5本以上の参加者のみ記述)[154]

完璧主義

「完全主義という言葉が実際あるかどうか知らないけれど、モノを作る人間が完全なものを目指さないはずがありませんよ」と黒澤はインタビューで言うように、表現に一切の妥協を許さず、「完璧主義」と称されるエピソードが多く存在する。黒澤の映画に対する数々の拘りは『完全主義者』『天皇』という「映画監督・黒澤明」のイメージを作り上げた。[155]

  • 「川の流れを逆にしろ」「馬が演技していない」などの無茶ぶりや「雲待ち」「雨待ち」を行って平気で2、3日潰すこともあった。[156]
  • 「あの家の2階が邪魔になる。」と言って、それを聞いた助監督たちは、その民家に出向き、「この家の屋根を…取り壊させてください!」と頼んだ。そして、撮影後に建て直すと言う条件付で、どうにか、屋根部分を取り壊す許可をもらった。[157]
  • 1957年製作の『蜘蛛巣城』で、三船敏郎演じる武将に無数の矢が浴びせられるシーンでは使用したのは本物の矢を使い、弓道の有段者数人が至近距離から一斉に矢を射た。
  • 1963年製作『天国と地獄』では、滑走する電車の中から鉄橋に差し掛かった時に身代金を投げ渡すシーンで当時としては異例の電車を貸し切っての撮影を行った。ダイヤを乱さぬように、通常の運行車両を貸し切ったため、鉄橋を通過するチャンスは一度きりであり、失敗は許されない。そこで黒澤は、電車の実物大の模型をリハーサルのためだけに造り、何度も何度もリハーサルを重ね本番に挑みNGが許されない一度きりの撮影のため、8台のカメラを同時に回し、なんとか無事一回で成功した。
  • 『天国と地獄』ではバーでのシーン。黒澤は「とにかくたくさんの客で埋め尽くしたい」と言っていたため、スタッフは500人ものエキストラを用意した。しかしそれを見た黒澤は、「少ないな…」と言い、急遽、壁を鏡貼りにさせ、その鏡の映り込みでエキストラが倍の人数に見えるように工夫して撮影した。
  • 『羅生門』の冒頭のすさまじい豪雨が降り注ぐシーン。最初の撮影では、ポンプ車4台を用意し、大量の水を放水した。だが、肉眼で見るのとは違い、カメラで映すと、思ったほどの豪雨にならなかった。そこで黒澤は、水に墨汁を混ぜることで、雨の迫力をました。さらに、雨の日を狙って撮影するという、念には念の入れようだった。しかし、あまりに大量の水を使ったために、この地区は、一時的に水不足になってしまった。
  • 映画『デルス・ウザーラ』では秋になると、黒澤はシベリアの美しい紅葉の山々の中で撮影したいと考えていたが、撮影の前日、季節はずれの雨が降ってしまい、紅葉した葉っぱが全て散ってしまった。その木々を見て黒澤は、スタッフに人工の赤や黄色の葉っぱを作らせ、広大な森中の木々に葉っぱを一枚ずつ貼り付けさせた。
  • また『デルス』の主人公が、野生の虎に出くわすというシーンでは、当初用意された虎を見た黒澤は「この虎は目が死んでいるよ。野生の虎を捕まえてきてくれないか?」と言い出した。実はその虎は、スタッフが撮影用にサーカスから借りてきた虎であり、虎の表情にこだわった黒澤は結局、目や顔のアップシーンでは野生の虎で、全体の動きが要求されるカットには、最初に使ったサーカスの虎で撮影を行った。

人物

サングラスは1960年代以降の黒澤のトレードマークである。黒澤は強い照明を使う撮影と、常に自ら編集作業にたずさわっていたこともあって眼を悪くしていたが、尊敬するジョン・フォードも同じく眼を傷めており、フォードと会った時に彼から「眼を大事にしろ」と忠告されたのがきっかけで、『用心棒』からサングラスを着用するようになった[108][158]。黒澤はフォードを真似てサングラスだけでなく、『椿三十郎』からハンチング帽も被るようになった[108][158]。それまではピケ帽を愛用し、『デルス・ウザーラ』以後はキャプテン帽を被った[108]

青年時代に画家を志していた黒澤は、ポール・セザンヌフィンセント・ファン・ゴッホなど後期印象派の画家が好きだったが、富岡鉄斎前田青邨などの日本画家も好きだと発言していた[22][159]。前田からは兜の絵を貰い、その絵を大事にしていたが、黒澤家の家計が逼迫した時に売却したという[160]。映画界に入ってからは絵コンテはじめ映画のため以外で絵を描くことはなかったが、晩年は水彩や墨で仏画を描くようになり、それらの絵に押す篆刻の制作にも熱中した[159]。また、黒澤は自分で絵を描いたクリスマス・カードを手作りし、国内外の知人に送っていた[159]。野上によると、黒澤は時間があれば絵を描き、机の上に絵を描く道具を置いておくと、サインペンでも絵具でも手当たり次第使って、子供のように黙って絵を描いていたという[161]

私生活の黒澤はグルメで知られ、とくに肉料理を好んだ[162]。小泉堯史によると、黒澤は晩年になっても食欲は落ちず、ステーキなどを頬張っていたという[162]。黒澤家の食卓の代表的な料理は牛肉料理で[163]、黒澤家に行けば美味しい牛肉が食べられると海外の映画関係者にまで知れ渡っていた[164]。そのため牛肉代だけで食費が高くつき、1ヶ月の牛肉代が100万円を突破することもあり、税務署に疑われるという出来事もあったという[165]。黒澤はスタッフの食事にまでうるさく、夏には撮影現場にかき氷の屋台を用意したこともあった[166]。黒澤は酒豪としても知られ[167]ジョニー・ウォーカーホワイトホースなどのウイスキーを愛飲した[168][169]

黒澤は寂しがり屋の話し好きで、気の合う人とは話が尽きないような人物だった[170]。お酒もみんなと一緒に賑やかに飲むのが好きで、地方ロケでは毎日のように夜は宴会となり、俳優やスタッフたちと車座になり、一緒に夕食をしながら飲むことが多かった[108][171]。酔いが進むと黒澤はスタッフたちに輪唱をさせ、黒澤が指揮者になりみんなを何組かに分けて歌わせたという[108][172]。黒澤組の常連俳優である土屋嘉男によると、黒澤は輪唱が上手くいかないとダメ出しをし、まるで撮影の時と同じようになったと述べている[173]

評価・影響

批評

黒澤は助監督時代から演出や脚本の力量が認められ、監督処女作でいきなり大きな注目と称賛を受けた数少ない監督だった[41]。多くの監督作品が高評価を受けており、戦後のキネマ旬報ベスト・テンでは25作品が10位以内に選出された[174]。批評家からは視覚的演出力、劇的で緻密な脚本構成、絵画的造形力などが高く評価される反面、強い娯楽性や独自の倫理観には賛否が分かれることもあった[175]1960年代の政治運動の激しい時代には、若い世代により反黒澤論も書かれたが、それらの多くは黒澤作品における武士道的ストイシズム、反庶民的ヒロイズム、家父長制権威主義に反発している[176]。作品が西洋的であることから日本人離れしていると見なされることもあり、海外では最も西洋的な日本人監督と考えられているが[53][177]、フランスの映画研究家サッシャ・エズラッティは「彼(黒澤)はそのインスピレーションを、その生まれた国の土の中と同様に、国境の外からも得るという、非常に大きな教養を持った男である。黒澤はその国民的な性格を完全に保ちながら、日本映画に世界性を持たせたという功績を持っている[178]」と評価している。

評論家の多田道太郎は「黒澤明は、おそらく日本映画史上初めての映画芸術の中に個人をもち込もうとした作家」と高く評価している[179]。都築や映画批評家の岩崎昶は、黒澤を「観念的作家」と評価した[180][181]。哲学者の梅原猛は黒澤を愛の作家であるとし、「黒澤明は、どのような文学者よりも人間愛に富んでいるようだ。彼の作中人物は、戦後のいかなる文学者の作品より、生き生きとした愛の行為の実践者である」と評している[182]増村保造は黒澤の画面作りを高く評価し、その絵画性は表現主義フリッツ・ラングの作画力に近いとしている[183]。一方、映画批評家の飯田心美は、黒澤の絵画性について「黒澤は人物を素描するかわりに色彩を駆使し、多彩な色調のなかにモチーフを展開してゆくタイプである。そして、その画法も清水宏のごとき水彩のタッチではなく、あくまで人の目を射るごとき油彩である」と評し、その印象をフォーヴィスムの絵画と重ねた[179]

批判

一方で映画製作者だった角川春樹のように、黒澤信者からアンチ黒澤に転向した人物も存在する。角川は「今まで観た映画のベストは『七人の侍』と『ゴッドファーザー』だ」と公言し、少年時代から黒澤をリスペクトして、映画製作を夢見ていたが、映画『影武者』の有楽座で行われたワールド・プレミアにて、東宝の社長だった松岡功の紹介があったにも関わらず、黒澤に無視された上に握手も拒否され、その後、プレミア上映の最中に、微醺状態の黒澤がジョージ・ルーカスフランシス・フォード・コッポラを引き連れて姿を現すと、自身が遅れてきたことを理由に上映を中止させ、最初からやり直しをさせる光景を見て幻滅し、以降プロデュースする意欲は一切なくなったという。角川は『影武者』に関して、「私がプロデューサーなら20分切る」「時代考証も疎か」「合戦シーンも『七人の侍』に比べると迫力がなかった」と批判し、取材の最後に「何が黒澤天皇だ(笑)」と吐き捨てている[184]

映画監督の評価と影響

国内外の多くの映画監督が黒澤の影響を受け、その作品を賞賛している。黒澤と同時期に活躍したイングマール・ベルイマンは、自作の『処女の泉』(1960年)を「黒澤の観光気分のあさましい模倣」と述べている[186]フェデリコ・フェリーニは黒澤作品を見ることは「アリオストを読むようなものだ」と賞賛している[187]サタジット・レイは『羅生門』の光の使い方に影響を受けたことを明らかにしている[188]アンドレイ・タルコフスキーは好きな作品の1本に『七人の侍』を挙げている[189]ベルナルド・ベルトルッチヴェルナー・ヘルツォークも、影響を受けた監督の一人として黒澤の名を挙げている[190][191]

スタンリー・キューブリックのアシスタントを務めたアンソニー・フルーウィン英語版によると、キューブリックは黒澤を偉大な映画監督の一人と考え、高く評価していたという。黒澤もキューブリックを賞賛しており、1990年代後半にキューブリック宛てにファンレターを送ったが、それに感激したキューブリックは返信の内容に悩み、数ヶ月もかけて返事を書き直すも、その間に黒澤が亡くなってしまい、ひどく動揺したというエピソードがある[192]

1970年代以降のハリウッド映画で活躍したコッポラ、ルーカス、スピルバーグ、スコセッシ、ジョン・ミリアスなどは黒澤を尊敬する師と仰ぎ、それぞれの作品も黒澤から強い影響を受けている[193][194][195][196]。コッポラは「私たち(ルーカスとコッポラ)は黒澤監督の"芸術的な息子"といっていい存在」と語り、黒澤をノーベル文学賞に推薦しようとしたことがある[197]。コッポラの監督作『ゴッドファーザー』(1972年)の冒頭の結婚式のシーンは、『悪い奴ほどよく眠る』の影響を受けている[88]。スピルバーグは黒澤を「現代の映画界におけるシェイクスピア[198]」と評し、「映画製作者としてのぼくの仕事に多大な影響を与えた。映像はもちろんアートにおけるぼくの審美眼は、彼の影響を受けている[199]」と述べている。

また、アレクサンダー・ペインは黒澤のファンで、『七人の侍』『赤ひげ』を好きな映画に挙げている[200]アレハンドロ・ゴンザレス・イニャリトゥは19歳の時に見た『生きる』に衝撃を受けたことを明かし、自身の作品である『BIUTIFUL ビューティフル』を製作した際に影響を受けたことを認め、黒澤を「映画のストーリーの構成を変えようとした天才のうちの一人」と高く評価した[201]ウェス・アンダーソンアニメーション映画犬ヶ島』(2018年)で黒澤の影響を受けていることを明言している[202]。そのほか、サム・ペキンパー[203]アーサー・ペン[204]リドリー・スコット[205]ジョージ・ミラー[206]ジョン・ウー[207]チャン・イーモウ[208]三池崇史[209]塚本晋也[210]、助監督出身者は一作品に就いただけの野村芳太郎加藤泰中平康らを含めると膨大な人数となるが、初期の堀川弘通、中期に就いて最多の本数でチーフをつとめた森谷司郎[211]、晩年期の小泉堯史[212]らが黒澤の影響を受けた愛弟子として名を挙げられることが多い。

リメイクと諸作品への影響

これまでに黒澤作品は国内外で何度もリメイクされている。ハリウッド映画では、ジョン・スタージェス監督の『荒野の七人』(1960年)が『七人の侍』、マーティン・リット監督の『暴行』(1964年)が『羅生門』を公式にリメイクし、それぞれ舞台を西部劇に移し替えている[57]セルジオ・レオーネ監督のマカロニ・ウエスタン荒野の用心棒』(1964年)は、『用心棒』を非公式でリメイクした作品で、黒澤は東宝とともに著作権侵害で告訴し、和解に応じた製作者側から日本などの配給権と世界興行収入の15%を受け取っている[213]内川清一郎監督の『姿三四郎』(1965年)は、黒澤プロダクションが『姿三四郎』『續姿三四郎』を合わせてリメイクした作品で、黒澤自身がプロデューサーを務めた[57]

スター・ウォーズシリーズは黒澤作品から部分的な影響を受けている。ルーカスによるシリーズ1作目『スター・ウォーズ エピソード4/新たなる希望』(1977年)のストーリーのアイデアは『隠し砦の三悪人』を元にしており、黒澤作品で特徴的なワイプによる場面転換も採用している[214]C-3POR2-D2は、『隠し砦の三悪人』の登場人物である百姓の太平と又七がモデルであることをルーカス自身が認めている[215]。シリーズ7作目の『スター・ウォーズ/フォースの覚醒』(2015年)では、J・J・エイブラムス監督がシーンの構図とキャラクターの立ち位置を『天国と地獄』を参考にしたことを明らかにし[216]、シリーズ8作目の『スター・ウォーズ/最後のジェダイ』(2017年)では、ライアン・ジョンソン監督が脚本に『羅生門』などの影響を受けたことを明らかにしている[217]

2020年発売のPlayStation 4ゲームソフトGhost of Tsushima』は、黒澤の時代劇映画から強い影響を受けており、黒澤に敬意を込めてゲーム画面をモノクロで表示し、1950年代の黒澤作品の質感を再現した「Kurosawa Mode(黒澤モード)」という機能を搭載している[218]。同作の開発者の一人であるジェイソン・コーネルは、黒澤作品の演出とカメラワークを大いに参考にし、風を使用した演出も黒澤作品で風が効果的に使われていることに触発されたと語っている[219]

レガシー

没後、数本の未映像化脚本が映画化された。『雨あがる』は黒澤の助監督を務めた小泉堯史が脚本を完成させ、2000年映画化作品を公開した[34]。同年に四騎の会で企画した『どら平太』が市川崑監督で映画化され、2004年には『海は見ていた』が熊井啓監督で映画化された[34]。また、2017年3月に中国の映画会社である華誼兄弟中国語版が『黒き死の仮面』の映画化を発表し[220]、同年5月には中国企業のジンカ・エンターテインメントも未映像化脚本10本の映画化を発表したが[221]、どちらもその後の進展は報道されていない。

黒澤の名を冠した賞や施設も作られた。1986年にサンフランシスコ国際映画祭に「黒澤明賞」が制定され、黒澤自身が第1回受賞者となり、2002年まで授与された[222]。2004年には東京国際映画祭に「黒澤明賞」が設けられた。同賞は「日本文化の再創造への象徴となり、広く世界の映画文化の発展に貢献すること」を目的に設立され、2008年まで授与された[223]2010年カリフォルニア州アナハイム大学映画学校黒澤明スクールオブフィルム」が開校し、美術学修士号が取得できるオンライン教育プログラムを提供している[224]

1998年に佐賀県伊万里市で黒澤明記念館を建設する計画がスタートし、1999年7月2日に伊万里市の商業施設に仮施設となる「黒澤明記念館サテライトスタジオ」が開館した[225]。記念館は黒澤明文化振興財団が寄付金を募って建設する予定だったが、2010年1月に寄付金の約3億8000万円が財団の決算書類の流動資産に記載されていないことが発覚した。翌月、黒澤明文化振興財団の黒澤久雄らは「資金の大半は仮施設の運営などで使い果たしてしまった」と陳謝したが、実際は資金の私的利用によるもので、不正利用した費用全額は久雄が払うという方向で決定した[226][227]。その後、財団側が多額の資金を集めて記念館を作ることが現実的でないとした上で、サテライトスタジオを本記念館にリニューアルしたいとの意向を示し、記念館建設を事実上断念することを決めたが、2011年3月6日にサテライトスタジオも閉館した[228][229]

2009年5月、黒澤プロダクションと龍谷大学の共同プロジェクトで「黒澤デジタルアーカイブ」を開設し、未公開の創作ノートやメモ、絵コンテ、台本、撮影時の写真などの資料が、インターネット上で一般公開された[230]

作品

監督作品

黒澤が自作と認めた監督作品は30本あり[注釈 7]、そのすべてで脚本を執筆した(共同執筆を含む)[注釈 13]。※印はプロデューサーを兼任した作品。

脚本作品

特記がない限りは『大系黒澤明 別巻』の「解説・黒澤明の脚本」による[34]

その他の作品

特記がない限りは『大系黒澤明 第4巻』と『黒澤明集成』の年表による[10][18]

映画
  • 美しき鷹(1937年、山本嘉次郎監督) - 製作主任
  • 地熱(1938年、滝沢英輔監督) - 製作主任
  • 藤十郎の恋(1938年、山本嘉次郎監督) - 製作主任
  • 綴方教室(1938年、山本嘉次郎監督) - 製作主任
  • エノケンのびっくり人生(1938年、山本嘉次郎監督) - 製作主任
  • エノケンのがっちり時代(1939年、山本嘉次郎監督) - 製作主任
  • 忠臣蔵 後篇(1939年、山本嘉次郎監督) - 助演出
  • のんき横丁(1939年、山本嘉次郎監督) - 製作主任
  • ロッパの新婚旅行(1940年、山本嘉次郎監督) - 製作主任
  • エノケンのざんぎり金太(1940年、山本嘉次郎監督) - 製作主任
  • 孫悟空 前後篇(1940年、山本嘉次郎監督) - 製作主任
  • (1941年、山本嘉次郎監督) - 製作主任
  • 五十万人の遺産(1963年、三船敏郎監督) - 編集協力 ※ノンクレジット[57]
  • 野良犬(1973年、森崎東監督) - 原作
テレビ番組
  • 馬の詩(1971年、日本テレビ) - 監修 ※ドキュメンタリー
テレビCM
舞台
  • 喋る(1945年、新生新派公演) - 脚本
  • 酔いどれ天使(1948年、東宝従業員組合) - 演出[16]
  • 結婚の申込み(1948年、東宝従業員組合) - 演出[16]
作詞

受賞

黒澤は国内外で多数の映画賞を受賞しており、作品はアカデミー賞、世界三大映画祭のカンヌ国際映画祭ヴェネツィア国際映画祭ベルリン国際映画祭のすべてで受賞経験がある。また、1976年に映画人として初めて文化功労者に顕彰され[10]1985年に同じく映画人初となる文化勲章を受章した[88]1990年には第62回アカデミー賞名誉賞を受賞した。授賞式のプレゼンターはスピルバーグとルーカスが務め、黒澤は受賞スピーチで「私はまだ映画がよく分かっていない」と語ったり、会場からは笑いに包まれた。[99]。没後の1998年10月、「数々の不朽の名作によって国民に深い感動を与えるとともに、世界の映画史に輝かしい足跡を残した」功績により、映画監督初となる国民栄誉賞が贈られた[234]2009年にはシェイクスピア作品に縁のある、または影響を受けた芸術家を対象とするシェイクスピア・ホール・オブ・フェームの殿堂入りを果たした[235]

英国映画協会サイト・アンド・サウンド英語版誌が10年毎に発表した映画監督のランキングでは、1982年に批評家投票で5位[236]1992年に監督投票で3位[237]2002年に批評家投票で6位[238]、監督投票で3位[239]に選ばれた。また、1996年エンターテインメント・ウィークリー誌が発表した「50人の偉大な映画監督」リストで6位[240]、2002年にMovieMaker誌が発表した「史上最も影響力のある映画監督25人」のリストで12位[240]2007年Total Film誌が発表した「100人の偉大な映画監督」で11位[241]にランクした。

映画賞

以下の表は、黒澤の主な映画賞の受賞とノミネートのリストである。このリストには、黒澤個人が受賞した賞(監督賞、脚本賞、生涯功労賞など)だけではなく、黒澤が直接受賞したがどうかにかかわらず作品自体に与えられた作品賞や外国語映画賞も含まれる(プロデューサーが受賞者である賞も、黒澤作品の受賞・ノミネートとしてリストに含める)。

黒澤明の主な映画賞の受賞とノミネートの一覧
部門作品名結果出典
山中貞雄1943年-姿三四郎受賞[60]
毎日映画コンクール1947年監督賞素晴らしき日曜日受賞[60]
1948年日本映画大賞醉いどれ天使受賞
1952年日本映画大賞生きる受賞
脚本賞受賞
1963年日本映画大賞天国と地獄受賞
脚本賞受賞
1965年日本映画大賞赤ひげ受賞
1980年日本映画大賞影武者受賞
監督賞受賞
1985年日本映画大賞受賞
監督賞受賞
1998年特別賞-受賞[242]
キネマ旬報ベスト・テン1948年日本映画ベスト・テン『醉いどれ天使』1位[60]
1952年日本映画ベスト・テン『生きる』1位
1965年日本映画ベスト・テン『赤ひげ』1位
日本映画監督賞受賞
ブルーリボン賞1950年脚本賞羅生門受賞[60]
1958年作品賞隠し砦の三悪人受賞
1965年作品賞『赤ひげ』受賞
1980年作品賞『影武者』受賞
1985年作品賞『乱』受賞
監督賞受賞
1998年特別賞-受賞[243]
ヴェネツィア国際映画祭1951年金獅子賞『羅生門』受賞[60]
イタリア批評家賞受賞[244]
1954年銀獅子賞七人の侍受賞[60]
1965年国際カトリック映画事務局賞『赤ひげ』受賞
サン・ジョルジョ賞受賞
1982年栄誉金獅子賞-受賞[244]
ナショナル・ボード・オブ・レビュー賞1951年監督賞『羅生門』受賞[245]
外国語映画賞受賞
1985年監督賞『乱』受賞[246]
外国語映画賞受賞
アカデミー賞1951年名誉賞『羅生門』受賞[247]
1971年外国語映画賞どですかでんノミネート[248]
1975年外国語映画賞『デルス・ウザーラ』受賞[88]
1980年外国語映画賞『影武者』ノミネート[249]
1985年監督賞『乱』ノミネート[250]
1989年名誉賞-受賞
英国アカデミー賞1952年総合作品賞『羅生門』ノミネート[251]
1955年総合作品賞『七人の侍』ノミネート[252]
1980年作品賞『影武者』ノミネート[253]
監督賞受賞
1986年外国語作品賞『乱』受賞
脚色賞ノミネート
全米監督協会賞1952年長編映画監督賞『羅生門』ノミネート[254]
1986年ゴールデン・ジュピリー特別賞-受賞
1992年D・W・グリフィス賞-受賞
ベルリン国際映画祭1954年ベルリン市政府特別賞『生きる』受賞[60]
1959年監督賞『隠し砦の三悪人』受賞
国際映画批評家連盟賞受賞
ゴールデングローブ賞1963年外国語映画賞『天国と地獄』ノミネート[255]
1965年外国語映画賞『赤ひげ』ノミネート
1980年外国語映画賞『影武者』ノミネート
1985年外国語映画賞『乱』ノミネート
1990年外国語映画賞ノミネート
モスクワ国際映画祭1965年映画労働組合賞『赤ひげ』受賞[60]
1971年ソ連映画人同盟賞『どですかでん』受賞
1975年金賞デルス・ウザーラ受賞[256]
国際映画批評家連盟賞受賞
1979年名誉賞-受賞[60]
フランス映画批評家協会賞1977年外国語映画賞『デルス・ウザーラ』受賞[257]
ダヴィッド・ディ・ドナテッロ賞1977年外国監督賞イタリア語版『デルス・ウザーラ』受賞[258]
1981年外国監督賞『影武者』受賞
1986年外国監督賞『乱』受賞
ナストロ・ダルジェント賞1977年外国監督賞『デルス・ウザーラ』受賞[259]
1981年外国監督賞『影武者』受賞[260]
カンヌ国際映画祭1980年パルム・ドール『影武者』受賞[88]
セザール賞1981年外国映画賞『影武者』受賞[261]
1986年外国映画賞『乱』ノミネート[262]
牧野省三1981年--受賞[60]
川喜多賞1984年--受賞[60]
東京国際映画祭1985年国際映画批評家連盟賞『乱』受賞[263]
1998年特別功労賞-受賞[264]
全米映画批評家協会賞1985年作品賞『乱』受賞[244]
監督賞2位
ニューヨーク映画批評家協会賞1985年監督賞『乱』次点[244]
外国語映画賞受賞
ロサンゼルス映画批評家協会賞1985年監督賞『乱』次点[265]
外国語映画賞受賞
生涯功労賞-受賞
ボストン映画批評家協会賞1985年作品賞『乱』受賞[266]
映画の日」特別功労大章1985年--受賞[267]
1998年--受賞
ロンドン映画批評家協会賞1986年監督賞『乱』受賞[244]
外国語映画賞受賞
ボディル賞1986年非アメリカ映画賞『乱』受賞[268]
アマンダ賞英語版1986年外国語映画賞『乱』受賞[244]
BFIフェローシップ賞英語版1986年--受賞[269]
サンフランシスコ国際映画祭1986年黒澤明賞-受賞[60]
日本アカデミー賞1990年作品賞『夢』ノミネート[270]
監督賞ノミネート
1991年作品賞八月の狂詩曲ノミネート[271]
監督賞ノミネート
脚本賞ノミネート
1998年協会栄誉賞-受賞[272]
2000年脚本賞雨あがる受賞[273]
ゴールデン・アロー賞1998年特別賞-受賞[274]
日刊スポーツ映画大賞1998年特別賞-受賞[275]
エランドール賞1999年特別賞-受賞
全米脚本家組合賞2013年ジャン・ルノワール[注釈 15]-受賞[276]

その他の賞

栄典・称号

ドキュメンタリー作品

  • AK ドキュメント黒澤明フランス語版』(1985年、クリス・マルケル) - 『乱』の撮影現場を記録した作品[288]
  • Kurosawa: The Last Emperor』(1999年、アレックス・コックス[190]
  • 『黒澤明からのメッセージ 美しい映画を』(2000年、黒澤久雄)[289]
  • Kurosawa』(2001年、アダム・ロウ)[290]
  • Akira Kurosawa: The Epic and the Intimate』(2010年)[290]
  • 黒澤 その道英語版』(2011年、カトリーヌ・カドゥ) - 黒澤に影響を受けた11人の監督にインタビューした作品[291]
  • 『Life work of Akira Kurosawa黒澤明のライフワーク』(2022年、河村光彦) ー 『乱』の撮影現場を1年間記録した作品(映倫「次世代への映画推薦委員会」推薦)

書籍

著書・対談集
画集、創作ノート

脚注

注釈

  1. 現:東京都品川区東大井
  2. 黒澤優の夫は、歌手の松岡充である。
  3. 勇の先祖は代々神職をしていたが、戊辰戦争官軍に味方し、その功績で帯刀を許されて士族になった[5]
  4. その5つの作品は『建築場に於ける集会』(水彩画)、『農民習作』『帝国主義戦争反対』『農民組合へ』(以上油絵)、『労働組合へ』(ポスター)である[22]
  5. 黒澤の自伝によると、丙午(須田貞明)は「30歳になる前に死ぬ、人間30を越すと醜悪になるばかりだ」と口癖のように言っていたという。丙午はアルツィバーシェフの『最後の一線』を「世界最高の文学」と推奨し、主人公の自殺への信条に賛同していて、黒澤はそれが文学青年である兄の誇張した考えに過ぎないと思っていたが、兄の口癖の通り27歳で自殺した[24]
  6. 東宝の助監督はサード、セカンド、チーフと昇進するが、プロデューサー・システムを導入して製作者の権限を強化していたこともあり、チーフ助監督を「製作主任」と呼んでいた。黒澤はセカンドをやらずにチーフに昇進している[16]
  7. a b 黒澤は『わが青春に悔なし』の完成前に、山本と関川秀雄とともに『明日を創る人々』(1946年)を共同監督しているが、黒澤はこれを「自分の作品とは思えない」として自作のリストから外している[45]
  8. 時代劇三部作は、黒澤が小國英雄菊島隆三橋本忍と企画を練り、当初は『蜘蛛巣城』(本多猪四郎監督)、『隠し砦の三悪人』(鈴木英夫監督)、『仇討ち』(堀川弘通監督)で決定したが、『仇討ち』は話が暗いとして取り上げず、『用心棒』に変更された[57][62]。『仇討ち』は1964年今井正監督で『仇討』として映画化された[62]。最終的に三部作は『蜘蛛巣城』『どん底』『隠し砦の三悪人』となった。
  9. 『嫉妬』の他のエピソードは、キャロル・リードジャン・コクトーヴィットリオ・デ・シーカロベルト・ロッセリーニが担当する予定だった[34]
  10. 1976年に文化功労者に打診されたときは「政治が映画に関心を持ってくれた」と受け止めてもらうことを決め、受章時のインタビューでは、各国とも文化政策の一環として映画に力を入れているが、日本の政治は映画に無関心であると主張した。また、日本映画界をめぐる危機感についても言及し、このままだと残るのはポルノと暴力ものだけで、次々と名監督が無くなる中、残った私は日本映画の荒廃に責任を感じていると語った[67]
  11. 黒澤は『黒き死の仮面』の舞踏会のシーンをフェデリコ・フェリーニに演出させ、手塚治虫のアニメーションを部分的に使うことも考えていた[34]。1976年に手塚は「黒澤さんね。日本では作れなくて、ソ連で『デルス・ウザーラ』を作ったけれど、また今度、ソ連で映画を作るんです。そのとき、ぼくは黒澤さんといっしょに仕事することに…。(中略)恐怖映画なんだ。エドガー・アラン・ポーの短編を映画化するんだ[89]」と述べている。
  12. 黒澤の監督賞ノミネートに向けた運動を行うと表明したルメットは、『乱』がD・W・グリフィスの『イントレランス』やアベル・ガンスの『ナポレオン英語版』と並ぶ傑作になると信じ、このような美意識と奥深さを結びつけることが出来るのは黒澤だけだと語った[98]
  13. a b 自作と認めている30本のうち、脚本にクレジットがないのは『わが青春に悔なし』と『素晴らしき日曜日』の2本だけだが、この2本も黒澤が脚本に参加している[34]
  14. 東宝の大部屋俳優であった中島春雄は、完璧主義者の黒澤は時代劇でも現代劇と同様のリアルで自然な芝居を追求していたといい、東映時代劇調の大仰な芝居では通用しなかったことを証言している[122]
  15. 外国の優れた脚本家に贈られる賞で、黒澤のほか橋本忍菊島隆三小国英雄の3人も合わせて受賞した。

出典

  1. 田草川 2006, p. 368.
  2. 島 1991, p. 83.
  3. a b c 岩本憲児「黒澤明」『世界映画大事典』、日本図書センター、2008年7月、p. 310。
  4. 10 Most Influential Directors Of All Time” (英語). WhatCulture.com2020年10月29日閲覧。none
  5. a b c d e 都築 2010, pp. 90–92.
  6. a b 大系4 2010, p. 202.
  7. 堀川 2000, p. 12.
  8. a b c d ガルブレイス4世 2015, pp. 14–20.
  9. 研究会 1999, pp. 30–31.
  10. a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t 「黒澤明 関連年表」(大系4 2010, pp. 798–843)
  11. a b c d 黒澤 1990, pp. 16–24.
  12. a b c d e f g h 都築 2010, pp. 94–96.
  13. 黒澤 1990, pp. 72–73.
  14. 黒澤 1990, pp. 95–99.
  15. a b c d e f 都築 2010, pp. 98–102.
  16. a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x 浜野保樹「解説・黒澤明の形成」(大系1 2009, pp. 680–714)
  17. a b c 佐藤 1996, pp. 236–238.
  18. a b c d e f g 西田尚善編「年表」(集成 1989, pp. 283–294)
  19. 堀川 2000, pp. 17–18.
  20. 「『ナポレオン』の日本公開にあたって」(『ナポレオン』パンフレット、1983年)。大系3 2010, p. 344に所収
  21. a b リチー 1985, p. 408.
  22. a b c d e 堀川 2000, pp. 24–30.
  23. a b 黒澤 1990, pp. 143–147.
  24. 黒澤 1990, pp. 156–157.
  25. a b c ガルブレイス4世 2015, pp. 28–33.
  26. 佐藤 1996, p. 241.
  27. a b 堀川 2000, pp. 35–39.
  28. ガルブレイス4世 2015, pp. 35–36.
  29. a b 黒澤 1990, pp. 194–203.
  30. a b 黒澤明、井上ひさし「ユーモアの力・生きる力」(全集6 1988, pp. 341–378)
  31. 黒澤 1990, pp. 179, 187.
  32. a b c d e 都築 2010, pp. 104–108.
  33. 高峰秀子『わたしの渡世日記 (上)』新潮社〈新潮文庫〉、2012年1月、324-325頁。none
  34. a b c d e f g h i j k l m 浜野保樹「解説・黒澤明の脚本」(大系別巻 2010, pp. 344–377)
  35. a b 黒澤 1990, pp. 219–223.
  36. ^ 黒澤 2001, p. 226.
  37. ^ 黒澤 2001, pp. 227–228.
  38. ^ 黒澤 2001, pp. 231–232.
  39. ^ 黒澤 1990, pp. 227–231.
  40. a b 都築 2010, pp. 110–117.
  41. a b 岩本憲児「批評史ノート」(全集1 1987, pp. 417–423)
  42. ^ ガルブレイス4世 2015, pp. 77–78.
  43. a b 堀川 2000, pp. 78–79.
  44. ^ 都築 2010, p. 126.
  45. ^ 大系1 2009, p. 192.
  46. ^ 都築 2010, p. 139.
  47. ^ 都築 2010, pp. 146.
  48. a b c d 都築 2010, pp. 351–355.
  49. ^ ガルブレイス4世 2015, p. 130.
  50. ^ 黒澤 1990, pp. 302–308.
  51. ^ 都築 2010, p. 157.
  52. ^ 都築 2010, p. 174.
  53. a b c 岩本憲児「批評史ノート」(全集3 1988, pp. 321–329)
  54. ^ 黒澤 1990, pp. 342–343.
  55. ^ 都築 2010, pp. 188, 192.
  56. ^ 研究会 2004, p. 26.
  57. a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y z 浜野保樹「解説・世界のクロサワと挫折」(大系2 2009, pp. 668–717)
  58. ^ 橋本 2006, pp. 103–130.
  59. a b 都築 2010, pp. 209–210.
  60. a b c d e f g h i j k l m n o p q 「受賞歴」(大系4 2010, pp. 854–859)
  61. ^ 英BBCが選ぶ史上最高の外国語映画1位に「七人の侍」”. 映画.com (2018年11月12日). 2020年10月20日閲覧。
  62. a b 菊島隆三「すぐれた作品のかげにはストイックなまでの自虐」(ドキュメント 1974)。キネマ旬報 2010, pp. 108–116に所収
  63. a b 「黒澤明 新作の構想を語る」(『映画の友』1956年7月号)。大系2 2009, pp. 271–280に所収
  64. a b c d 大系2 2009, p. 286.
  65. ^ 黒澤和子編「黒澤明が選んだ百本の映画」(『文藝春秋』1999年4月号)。大系3 2010, pp. 643–665に所収
  66. a b 黒澤明「ロンドン・パリ十日間」(『キネマ旬報』1957年12月上旬号)。大系2 2009, pp. 287–294に所収
  67. ^ 「日本映画の荒廃に責任を感じます」(朝日新聞1976年10月26日夕刊)。大系3 2010, p. 140に所収
  68. ^ 田中純一郎日本映画発達史Ⅳ 史上最高の映画時代』中央公論社〈中公文庫〉、1976年3月、305-306頁。
  69. ^ 「藤本取締役の進退伺い事件」(『映画年鑑』1960年)。大系2 2009, pp. 349–350に所収
  70. ^ ガルブレイス4世 2015, p. 335.
  71. ^ 「総監督に黒澤明氏 東京五輪の記録映画製作」(朝日新聞1960年7月7日)。大系2 2009, p. 397に所収
  72. ^ モルモット吉田 (2020年1月1日). “黒澤明監督版『東京オリンピック』はなぜ実現しなかったのか 前編”. CINEMORE. 太陽企画株式会社. 2020年3月13日閲覧。
  73. ^ 「迷路に入った栄光の五輪映画」(『キネマ旬報』1963年9月上旬号)。大系2 2009, pp. 397–400に所収
  74. ^ モルモット吉田 (2020年1月2日). “黒澤明監督版『東京オリンピック』はなぜ実現しなかったのか 中編”. CINEMORE. 太陽企画株式会社. 2020年3月13日閲覧。
  75. a b c d 「黒澤明、自作を語る『姿三四郎』~『赤ひげ』」(映画作家 1970)。キネマ旬報 2010, pp. 29–63に所収
  76. ^ 都築 2010, p. 337.
  77. a b c d 田草川 2006, pp. 42–45.
  78. ^ 田中純一郎『日本映画発達史Ⅴ 映像時代の到来』中央公論社〈中公文庫〉、1976年7月、305-306頁。
  79. a b c 都築 2010, pp. 360–364.
  80. a b c ガルブレイス4世 2015, pp. 455–462.
  81. a b c 大系2 2009, p. 460.
  82. a b 野上 2014, p. 49.
  83. a b 田草川 2006, pp. 57–62.
  84. ^ ガルブレイス4世 2015, pp. 456–462.
  85. ^ ガルブレイス4世 2015, pp. 475–477.
  86. a b c d 都築 2010, pp. 366–367, 372.
  87. ^ ガルブレイス4世 2015, pp. 533–534.
  88. a b c d e f g h i j k l m n o p q 「解説・黒澤明の復活」(大系3 2010, pp. 714–743)
  89. ^ ジョン・ギラーミン手塚治虫「キングコングと鉄腕アトム、もし戦かば!?」『週刊プレイボーイ』1976年12月7日号、pp. 193-194.
  90. a b 野上 2014, p. 69.
  91. ^ David di Donatello 1978, a Firenze Olmi premia Kurosava” (イタリア語). Rai Teche2020年9月18日閲覧。
  92. a b オーディ・E・ボック「素顔の黒澤明」(『話の特集』1979年6月号)。大系3 2010, pp. 260–271に所収
  93. a b ガルブレイス4世 2015, pp. 566–567.
  94. ^ 川村 2009, p. 82.
  95. ^ 原正人「最大の赤字作『乱』」(『映画プロデューサーが語るヒットの哲学』日経BP、2004年)。大系3 2010, pp. 330–342に所収
  96. a b ガルブレイス4世 2015, pp. 600–602.
  97. a b Nick Pope / 翻訳: Yuka Ogasawara (2021年4月28日). “アカデミー賞で「監督賞」を受賞していない、伝説の映画監督6人”. Esquire(エスクァイア). 株式会社ハースト婦人画報社2021年7月19日閲覧。
  98. ^ MATHEWS, JACK (1985年12月11日). "SNUB AND BE SNUBBED AS 'RAN' MISSES OSCAR BID"Los Angeles Times(英語). 2024年2月8日閲覧
  99. a b c ガルブレイス4世 2015, pp. 620–623, 625–627.
  100. a b 都築 2010, pp. 446–449.
  101. a b カルピス食品、黒澤明監督初のCM「初恋」放映”. 日本食糧新聞 (1997年5月14日). 2020年10月11日閲覧。
  102. a b 都築 2010, p. 484.
  103. ^ AK News -黒澤監督:追悼版-<その1>”. 2020年2月19日閲覧。
  104. a b 田沼雄一「黒澤明監督・お別れの會ルポ 今日はハッピーエンドです」(『キネマ旬報』1998年10月下旬秋の特別号)。キネマ旬報 2010, pp. 178–180に所収
  105. ^ 黒澤明監督・お別れの會”. 2020年2月19日閲覧。
  106. ^ AK News -黒澤監督:追悼版-<その2>”. 2020年2月19日閲覧。
  107. ^ 武冨薫 (2016年1月3日). "叙位最高位「正一位」 最後に贈られたのは1917年の織田信長"NEWSポストセブン(SAPIO2016年1月号)小学館. 2024年2月8日閲覧
  108. a b c d e f 都築 2010, pp. 84–86.
  109. ^ 都築政昭『日本映画の黄金時代』小学館、1995年7月、465-472頁。ISBN 9784093871396
  110. a b c 佐藤 1996, pp. 244, 249–250.
  111. ^ 都築 2010, pp. 130–132.
  112. ^ 都築 2010, p. 49.
  113. ^ 佐藤忠男「作品解題」(全集6 1988, pp. 227–256)
  114. ^ 佐藤 1996, pp. 239–240.
  115. a b 佐藤忠男「ヒューマニズムの時代」『講座日本映画5 戦後映画の展開』、岩波書店、1987年1月、33-35頁、ISBN 9784000102551
  116. ^ 都築 2010, pp. 243–246.
  117. ^ 清水千代太「黒澤明に訊く」(『キネマ旬報』1952年4月号)。集成2 1991, pp. 100–112に所収
  118. a b 橋本 2006, pp. 174–177.
  119. ^ 市川久夫『人間走馬燈』私家版、2002年、85頁。
  120. a b c 都築 2010, pp. 248–250.
  121. a b リチー 1985, pp. 387–388.
  122. ^ 別冊映画秘宝編集部 編「中島春雄(構成・文 友井健人/『映画秘宝』2010年7月号、8月号の合併再編集)」『ゴジラとともに 東宝特撮VIPインタビュー集』洋泉社〈映画秘宝COLLECTION〉、2016年9月21日、173頁。ISBN 978-4-8003-1050-7
  123. ^ 「製作メモランダ」(全集4 1988, pp. 426–433)
  124. a b c d 都築 2010, pp. 348–349.
  125. a b 西村雄一郎「『乱』メインスタッフ・インタビュー 村木与四郎」(『キネマ旬報』1985年5月上旬号)。集成 1989, pp. 107–110に所収
  126. a b c d e 都築 2010, pp. 253–255.
  127. a b c d 堀川 2000, pp. 179–181.
  128. ^ 花村禎次郎「宮川一夫に聞く 吐く息、吸う息…その一瞬も間をあかせない」(ドキュメント 1974)。集成2 1991, pp. 125–129に所収
  129. a b c 都築 2010, pp. 269–271.
  130. ^ リチー 1985, pp. 400–402.
  131. a b c d e f リチー 1985, pp. 391–393.
  132. a b 「特別対談 黒澤明+ヴィム・ヴェンダース 30本目の黒澤作品『八月の狂詩曲』をめぐって」(『03 Tokyo calling』1991年6月号)。大系4 2010, pp. 518–524に所収
  133. a b c 西村雄一郎「『乱』メインスタッフ・インタビュー 斎藤孝雄」(『キネマ旬報』1985年5月上旬号)。集成 1989, pp. 115–118に所収
  134. a b c 研究会 1999, pp. 360–361.
  135. a b 都築 2010, pp. 258–260.
  136. ^ 堀川 2000, p. 96.
  137. ^ Goodwin, James (1993). Akira Kurosawa and Intertextual Cinema. The Johns Hopkins University Press. p. 143
  138. a b ガルブレイス4世 2015, p. 54.
  139. ^ HITCHCOCK / KUROSAWA: THE AXIAL CUT” (英語). Cole Smithey (2017年9月17日). 2020年10月21日閲覧。
  140. ^ Common editing terms explained” (英語). inspiredfilmandvideo.co.uk. 2010年4月21日時点のオリジナルよりアーカイブ。2020年10月21日閲覧。
  141. a b Bordwell, David (2009年12月8日). “Kurosawa’s early spring” (英語). David Bordwell2020年10月21日閲覧。
  142. ^ Bordwell, David (2009年11月27日). “Seed-beds of style” (英語). David Bordwell2020年10月21日閲覧。
  143. ^ 西村 1990, pp. 313–314.
  144. ^ 日本映画史に輝く傑作を解剖 『羅生門』展 国立映画アーカイブ”. 美術展ナビ (2020年9月16日). 2023年9月9日閲覧。
  145. ^ 「黒澤明監督にカンヌの”熱い日”」(『平凡パンチ』1980年6月16日号)。大系3 2010, pp. 153–157に所収
  146. ^ 佐藤忠男「石井長四郎/森弘充に聞く あらゆる疲れを忘れさせる「本番OK」の笑顔」(ドキュメント 1974)。集成2 1991, pp. 133–137に所収
  147. ^ 都築 2010, p. 291.
  148. ^ 山口猛「斎藤孝雄撮影監督に聞く」(『キネマ旬報』1990年8月上旬号)。集成2 1991, pp. 145–147に所収
  149. a b c 野上 2014, p. 297.
  150. ^ 岩宮眞一郎『最新 音楽の科学がよくわかる本』秀和システム〈How-nual 図解入門〉、2012年、152,154頁。
  151. a b 秋山邦晴「黒澤映画の音楽と作曲者の証言」(ドキュメント 1974)。集成2 1991, pp. 228–260に所収
  152. a b 野上 2014, pp. 304–307.
  153. a b 西村 1990, pp. 108–110, 213–219, 287.
  154. ^ 参加作品数は『全集黒澤明』第1巻~最終巻の「製作メモランダ」による。
  155. ^ SmaSTATION-5”. 2023年9月9日閲覧。
  156. ^ 深田晃司監督、黒澤明監督の撮影エピソードに本音ポロリ「羨ましい」 : 映画ニュース”. 映画.com (2023年3月11日). 2023年9月9日閲覧。
  157. ^ (3ページ目)「映画をモノにしたのは黒澤明だけ」木村大作が明かす”. AERA dot. (アエラドット) (2018年1月28日). 2023年9月9日閲覧。
  158. a b 研究会 1999, pp. 12–13.
  159. a b c 大系4 2010, 口絵.
  160. ^ 田草川 2006, p. 445.
  161. ^ 野上 2014, p. 171.
  162. a b 映画監督 小泉堯史さん”. PRESIDENT online2020年10月30日閲覧。
  163. ^ 島 1991, p. 150.
  164. ^ 和子 2004, p. 104.
  165. ^ 島 1991, p. 33.
  166. ^ 野上 2014, pp. 131–132.
  167. ^ 和子 2004, p. 110.
  168. ^ 都築政昭『黒澤明と「七人の侍」 "映画の中の映画"誕生ドキュメント』朝日ソノラマ、1999年9月、194頁。
  169. ^ 黒澤和子「ウイスキー命 黒澤明の食卓」『今宵もウイスキー』新潮社〈新潮文庫〉、2015年3月、71-72頁。
  170. ^ 土屋 1999, pp. 104, 256.
  171. ^ 野上照代「黒澤監督を間近から見て」(映画作家 1970)。集成3 1993, pp. 36–40に所収
  172. ^ 野上 2014, p. 16.
  173. ^ 土屋 1999, p. 140.
  174. ^ 『キネマ旬報ベスト・テン85回全史 1924-2011』キネマ旬報社〈キネマ旬報ムック〉、2012年5月、77頁。
  175. ^ 岩本憲児「批評史ノート」(全集1 1987, pp. 417–423, 全集2 1987, pp. 345–353, 全集3 1988, pp. 321–329, 全集4 1988, pp. 365–374, 全集5 1988, pp. 381–391, 全集6 1988, pp. 257–270)
  176. ^ 岩本憲児「批評史ノート」(全集5 1988, pp. 381–391)
  177. ^ ガルブレイス4世 2015, p. 154.
  178. ^ 映画作家 1970, p. 109.
  179. a b 岩本憲児「批評史ノート」(全集6 1988, pp. 257–270)
  180. ^ 都築 2010, pp. 62–64.
  181. ^ 「『蜘蛛巣城』をめぐって 岩崎昶との往復書簡」(『映画評論』1957年3・4月号)。全集4 1988, pp. 312–329に所収
  182. ^ 都築 2010, pp. 35, 40–42.
  183. ^ 増村保造「壮大にして悲壮な天才」(『キネマ旬報』1974年5月下旬号)。集成 1989, pp. 6–26に所収
  184. ^ 伊藤彰彦『最後の角川春樹』毎日新聞出版、2021年11月、181-182頁。
  185. ^ Akira Kurosawa to Ingmar Bergman: “A Human Is Not Really Capable of Creating Really Good Works Until He Reaches 80”” (英語). Open Culture (2013年12月26日). 2020年10月28日閲覧。
  186. ^ Bergman on Bergman: Interviews with Ingmar Bergman. Simon & Schuster. (1973). p. 120
  187. ^ コスタンツォ・コスタンティーニ 著、中条省平・中条志穂 訳『フェリーニ・オン・フェリーニ』キネマ旬報社、1997年12月、269頁。
  188. ^ サタジット・レイ「黒澤明」(『わが映画 インドに始まる』第三文明社、1993年)。大系3 2010, pp. 602–606に所収
  189. ^ Tarkovsky's Choice” (英語). Nostalghia.com2020年7月26日閲覧。
  190. a b アレックス・コックス(監督) (1999). Kurosawa: The Last Emperor (テレビ映画). イギリス: チャンネル4.
  191. ^ Cronin, Paul (2014). Werner Herzog – A Guide for the Perplexed: Conversations with Paul Cronin. Faber & Faber
  192. ^ Wrigley, Nick (2019年11月22日). “Stanley Kubrick, cinephile” (英語). BFI2020年5月27日閲覧。
  193. ^ 都築 2010, p. 18.
  194. ^ 佐藤 1996, p. 265.
  195. ^ Patterson, John (2011年9月1日). “Why Hollywood can't get enough Akira Kurosawa remakes” (英語). The Guardian2020年10月28日閲覧。
  196. ^ Scorsese, Martin (2008年11月1日). “Akira Kurosawa” (英語). Architectural Digest2020年10月28日閲覧。
  197. ^ 「80年代冒頭の話題作に賭ける老若監督のこの情熱」(『週刊朝日』1979年11月30日号)。大系3 2010, pp. 158–162に所収
  198. ^ 「黒澤明・追悼」(『キネマ旬報』1998年10月下旬号)。大系3 2010, pp. 681–704に所収
  199. ^ スティーヴン・スピルバーグ「夢追い人。」(『エスクァイア』日本語版1990年9月号)。大系3 2010, p. 388に所収
  200. ^ Dempsey, Dylan Kai (2018年5月2日). “'Never Ask for Permission': Alexander Payne’s Seven-Step Filmmaking Crash Course” (英語). No Film School2020年10月29日閲覧。
  201. ^ Feld, Rob (2010年). “Simple Beauty”. Directors Guild of America2020年10月29日閲覧。
  202. ^ Sharf, Zack (2017年3月13日). “Wes Anderson’s ‘Isle of Dogs’ is Inspired By Akira Kurosawa and Christmas Television Specials” (英語). Indie Wire2020年10月29日閲覧。
  203. ^ Conterio, Martyn. “Where to begin with Sam Peckinpah” (英語). BFI2020年10月29日閲覧。
  204. ^ Arthur Penn on Akira Kurosawa” (英語). Criterion2020年10月29日閲覧。
  205. ^ No.41: Ridley Scott” (英語). BBC2020年10月29日閲覧。
  206. ^ 「マッドマックス 怒りのデス・ロード」ジョージ・ミラー監督記者会見”. INTRO2020年10月29日閲覧。
  207. ^ ジョン・ウー、貧しさから生まれた映画哲学を明かし日本の若手映画監督たちにエール!”. シネマトゥディ (2015年10月29日). 2020年8月1日閲覧。
  208. ^ 張芸謀 (1999年8月23日). “Akira Kurosawa” (英語). TIME2020年10月29日閲覧。
  209. ^ Takashi Miike: Why I am bringing Japanese classics back to life” (英語). The Guardian.com2020年10月29日閲覧。
  210. ^ 塚本晋也監督”. CINEMA DISCOVERIES2020年10月29日閲覧。
  211. ^ 加山雄三『オヤジの背中』読売新聞社、1992年11月、225頁。
  212. ^ 黒澤組出身の小泉堯史監督が最大級の賛辞を贈る「岡田さんには世界のミフネのようになってほしい」現代人の心にも響く良質な時代劇『蜩ノ記』が公開”. ぴあ関西版WEB2021年3月20日閲覧。
  213. ^ 「『用心棒』の盗作事件」(『映画年鑑 1967年版』)。大系2 2009, pp. 378–380に所収
  214. ^ Barber, Nicholas (2016年1月4日). “The film Star Wars stole from” (英語). BBC2020年5月27日閲覧。
  215. ^ ガルブレイス4世 2015, p. 333.
  216. ^ J・J・エイブラムス監督「SW フォースの覚醒」は黒澤明監督作などを参考に”. 映画.com2020年10月30日閲覧。
  217. ^ 『スター・ウォーズ/最後のジェダイ』脚本に黒澤明作品の影響があった ― 撮影直前に追加されたシーンとは”. THE RIVER (2017年12月22日). 2020年10月30日閲覧。
  218. ^ S. Eto (2020年7月9日). “『Ghost of Tsushima』の「Kurosawa Mode」はただのモノクロ表示じゃない! フィルム粒子や50年代風サウンドで当時の時代劇を完全再現”. Game*Spark. 株式会社イード2020年10月30日閲覧。
  219. ^ YamaChan (2020年7月14日). “「Ghost of Tsushima」開発者インタビュー。Sucker Punchは鎌倉時代の侍をどう描いたのか”. 4gamer.net2020年10月30日閲覧。
  220. ^ 黒澤明の“幻の脚本”「黒き死の仮面」が中国で映画化”. 映画ナタリー (2017年3月6日). 2020年10月18日閲覧。
  221. ^ 黒澤明の未映像化脚本9作品が中国企業により映画化 カンヌで発表”. 映画.com (2017年5月19日). 2020年10月18日閲覧。
  222. ^ AWARDS & TRIBUTES” (英語). サンフランシスコ国際映画祭2020年5月27日閲覧。
  223. ^ 17th 2004 FESTIVAL”. 東京国際映画祭2020年5月27日閲覧。
  224. ^ The Anaheim University Akira Kurosawa School of Film” (英語). アナハイム大学2020年5月27日閲覧。
  225. ^ 財団沿革”. 財団法人 黒澤明文化振興財団. 2010年4月6日時点のオリジナルよりアーカイブ。2019年3月23日閲覧。
  226. ^ “「寄付金使い果たした」黒澤財団理事長が陳謝 : 社会”YOMIURI ONLINE(読売新聞). (2010年2月19日).  オリジナルの2010年2月22日時点におけるアーカイブ。 2019年3月23日閲覧。
  227. ^ 黒澤明文化振興財団の寄付金問題”. コトバンク朝日新聞 朝刊 佐賀全県 1地方 (2010年4月6日). 2020年11月9日閲覧。
  228. ^ “黒澤明記念館の新設断念 財団側、佐賀・伊万里市に回答”asahi.com. (2010年5月7日).  オリジナルの2010年5月10日時点におけるアーカイブ。
  229. ^ “黒澤明記念館スタジオ閉館 運営財団、寄付金使い果たし - 社会”asahi.com(朝日新聞社). (2011年3月7日).  オリジナルの2011年5月11日時点におけるアーカイブ。 2019年3月23日閲覧。
  230. ^ Hot Angle 黒澤デジタルアーカイブ”. 龍谷大学. 2021年3月6日時点のオリジナルよりアーカイブ。2021年3月6日閲覧。
  231. ^ 研究上映会『愛の世界 山猫とみの話』報告記”. 黒澤明研究会2021年6月3日閲覧。
  232. ^ マキノ雅弘『映画渡世 地の巻 マキノ雅弘自伝』平凡社、1977年8月。
  233. ^ パナソニックDVD“ドリーム”「黒澤の夢」”. 放送ライブラリー2021年8月29日閲覧。
  234. ^ 国民栄誉賞受賞一覧” (PDF). 内閣府2020年10月27日閲覧。
  235. ^ 黒澤明、レオナルド・ディカプリオらがシェイクスピアの殿堂入り”. 映画.com (2009年2月16日). 2022年5月21日閲覧。
  236. ^ Sight and Sound Poll 1982: Critics” (英語). 2020年5月27日閲覧。
  237. ^ Sight and Sound Poll 1992: Critics” (英語). 2020年5月27日閲覧。
  238. ^ Sight and Sound Top Ten Poll 2002: Critics' Top Ten Directors” (英語). Sight & Sound. BFI. 2002年9月14日時点のオリジナルよりアーカイブ。2020年5月27日閲覧。
  239. ^ Sight and Sound Top Ten Poll 2002: Directors' Top Ten Directors” (英語). Sight & Sound. BFI. 2002年9月19日時点のオリジナルよりアーカイブ。2020年5月27日閲覧。
  240. a b Greatest Film Directors and Their Best Films – Introduction” (英語). Filmsite.org2020年5月27日閲覧。
  241. ^ The Greatest Directors Ever by Total Film Magazine” (英語). Filmsite.org2020年5月27日閲覧。
  242. ^ 毎日映画コンクール 第53回(1998年)”. 毎日新聞. 2020年12月19日閲覧。
  243. ^ ブルーリボン賞ヒストリー 第41回”. シネマ報知. 2009年2月7日時点のオリジナルよりアーカイブ。2020年12月19日閲覧。
  244. a b c d e f Awards” (英語). IMDb2020年12月19日閲覧。
  245. ^ 1951 Award Winners” (英語). National Board of Review2020年12月19日閲覧。
  246. ^ 1985 Award Winners” (英語). National Board of Review2020年12月19日閲覧。
  247. ^ THE 25TH ACADEMY AWARDS” (英語). oscar.org2020年12月20日閲覧。
  248. ^ THE 44TH ACADEMY AWARDS” (英語). Oscars.org2020年12月20日閲覧。
  249. ^ THE 53RD ACADEMY AWARDS (1981)” (英語). oscars.org2020年12月20日閲覧。
  250. ^ "Akira Kurosawa(Search Results)"Oscars.org (英語). AMPAS. 2024年2月8日閲覧
  251. ^ Film in 1953” (英語). BAFTA Awards2020年12月20日閲覧。
  252. ^ Film in 1956” (英語). BAFTA Awards2020年12月20日閲覧。
  253. ^ BAFTA Awards Search” (英語). BAFTA Awards2020年12月19日閲覧。
  254. ^ FILTERS – Akira Kurosawa” (英語). dga.org2020年12月19日閲覧。
  255. ^ Akira Kurosawa” (英語). Golden Globes2020年12月19日閲覧。
  256. ^ 40 years ago today: Dersu Uzala wins at the Moscow International Film Festival” (英語). Akira Kurosawa info. 2020年6月9日閲覧。
  257. ^ Prix SFCC de la Critique 1977” (フランス語). Syndicat Français de la Critique de Cinéma2020年12月19日閲覧。
  258. ^ Akira Kurosawa” (イタリア語). Premi David di Donatello2020年12月19日閲覧。
  259. ^ 1977 (Albo d'oro)” (イタリア語). Nastri d'Argento2020年12月19日閲覧。
  260. ^ 1981 (Albo d'oro)” (イタリア語). Nastri d'Argento2020年12月19日閲覧。
  261. ^ CEREMONIES ARCHIVES 1981” (フランス語). Académie des César2020年12月19日閲覧。
  262. ^ CEREMONIES ARCHIVES 1986” (フランス語). Académie des César2020年12月19日閲覧。
  263. ^ 1st Tokyo International Film Festival” (英語). Fipresci2020年12月20日閲覧。
  264. ^ 『映画の賞事典』日外アソシエーツ、2009年12月、226頁。
  265. ^ Mathews, Jack (1985年12月16日). “Critics Choose 'Brazil' As Best Picture Of 1985”Los Angeles Times 2020年12月19日閲覧。
  266. ^ BSFC Winners: 1980s” (英語). Boston Society of Film Critics2020年12月19日閲覧。
  267. ^ 映画の日 特別功労大章・特別功労章及び感謝状贈呈者一覧”. 映画産業団体連合会2014年12月13日閲覧。
  268. ^ Ikke-amerikanske film” (デンマーク語). Bodilprisen2020年12月19日閲覧。
  269. ^ BFI Fellows” (英語). BFI2020年12月19日閲覧。
  270. ^ 第14回日本アカデミー賞優秀作品”. 日本アカデミー賞2020年12月19日閲覧。
  271. ^ 第15回日本アカデミー賞優秀作品”. 日本アカデミー賞2020年12月19日閲覧。
  272. ^ 第22回日本アカデミー賞優秀作品”. 日本アカデミー賞2020年12月19日閲覧。
  273. ^ 第24回日本アカデミー賞優秀作品”. 日本アカデミー賞2020年12月19日閲覧。
  274. ^ GOLDEN ARROW AWARDS 受賞者一覧”. 日本雑誌協会2020年12月19日閲覧。
  275. ^ 歴代の受賞者・受賞作品”. 日刊スポーツ映画大賞. 日刊スポーツ. 2020年12月19日閲覧。
  276. ^ 黒澤明監督ら、米脚本家組合功労賞受賞!”. シネマトゥディ(2013年1月25日). 2020年12月19日閲覧。
  277. ^ 国際交流基金30年史編纂室 編『国際交流基金30年のあゆみ』国際交流基金、2006年9月、286頁。
  278. ^ 日本文化デザイン賞 第3回 金沢 「あそびの再発見」(1982年)”. 日本文化デザインフォーラム2022年5月21日閲覧。
  279. ^ 読売新聞文化部 編『映画百年 映画はこうしてはじまった』キネマ旬報社、1997年5月、230頁。
  280. ^ 黒澤 明/ 1990年(第1回)創設特別賞”. 福岡アジア文化賞2020年10月25日閲覧。
  281. ^ 黒澤明”. 高松宮殿下記念世界文化賞2020年10月25日閲覧。
  282. ^ 黒澤明”. 京都賞2020年10月25日閲覧。
  283. ^ Kurosawa Sig. Akira - Le onorificenze della Repubblica Italiana” (イタリア語). quirinale.it2020年10月25日閲覧。
  284. ^ 『映画年鑑 1987年版』時事通信社、1986年12月、6頁。
  285. ^ KUROSAWA Akira - Le onorificenze della Repubblica Italiana” (イタリア語). quirinale.it2020年10月25日閲覧。
  286. ^ 『映画年鑑 1992年版』時事通信社、1991年12月、6頁。
  287. ^ 名誉都民顕彰者一覧” (PDF). 東京都生活文化局2020年10月25日閲覧。
  288. ^ AK ドキュメント黒澤明”. 映画.com2020年10月29日閲覧。
  289. ^ 黒澤明からのメッセージ-美しい映画を-”. イメージアイブラリー.  武蔵野美術大学2020年10月29日閲覧。
  290. a b Maunula, Vili (2015年9月16日). “Documentaries on Akira Kurosawa” (英語). Akira Kurosawa info2020年10月29日閲覧。
  291. ^ 『黒澤 その道』カンヌで初公開!クリント・イーストウッド、マーティン・スコセッシ、宮崎駿が出演!日本では公開できない幻の作品”. シネマトゥディ (2011年5月16日). 2020年10月29日閲覧。

参考文献[編集]

関連文献[編集]

外部リンク[編集]



78 Comments:

Blogger yoji said...

今井凌雪氏への黒澤映画関連に特化したインタビューが望まれたが、、、


- 訃報:今井凌雪氏死去 88歳=雪心会創設者
lincs.co.jp › 書ブログ › 書の万華鏡 - キャッシュ
2011/08/03 – 今井 凌雪氏(いまい・りょうせつ、本名=潤一=じゅんいち、書家)書法研究雪心会会長。 7月26日、膵臓がんのため死去、88歳。 連絡先は会長を務めていた雪心会事務局。 お別れの会を行うが、日取りなどは未定。喪主は長男、浩一氏。

11:31 午前  
Blogger yoji said...

【映画】米ニューヨークで「乱」上映会 仲代達矢、黒沢監督との秘話明かす

プレビュー
1 禿の月φ ★ 6/17(月)05:22 ?P↓
米ニューヨークの「映像博物館」で15日、シェークスピアの悲劇「リア王」を翻案した
映画「乱」(黒沢明監督、1985年)の上映会が開かれた。主演した仲代達矢(80)が
駆け付け、撮影の裏話を明かしたり役者人生を振り返ったりして映画ファンと交流した。

「乱」は、仲代演じる戦国時代の武将が、家督を譲った長男らから
裏切られ、非業の死を遂げるストーリー。仲代も客席で鑑賞した。

仲代は城が燃えるシーンについて、城の製作費が約4億円に上ったため
「黒沢さんは私に『(撮影の際)絶対転ぶなよ。ひと転び4億円だぞ』と
(念を押した)」と明かし、笑いを誘った。

また「黒沢さんは(自分より)三船敏郎さんとのコンビ(の方)が
もっと素晴らしかったんだろう」と振り返り、謙そんする一幕も。

仲代は「シナリオ、撮影、俳優、照明の全部が大好きなのは、
私を発掘してくれた小林正樹監督とコンビを組んだ
映画『切腹』(62年)だ」とも述べた。(共同)

ソース:スポニチ Sponichi Annex
(窓)http://www.sponichi.co.jp/entertainment/news/2013/06/16/kiji/K20130616006025170.html
画像:15日、米ニューヨークの映像博物館で語る仲代達矢
(窓)http://www.sponichi.co.jp/entertainment/news/2013/06/16/jpeg/G20130616006025200_view.jpg

6:37 午後  
Blogger yoji said...

黒澤明などは我々一般人と違うもの(美しいもの)を見ている
これは生理学的、遺伝学的な事実だ

世界的に彼の映画を理解できる人が増え
彼らの子孫は遺伝的変化を遂げつつある

これなども別次元からのメッセージと言えよう

ちなみに「美」とは脳全体を使わせるものとして定義出来る

8:19 午後  
Blogger yoji said...

パリ・1960 [単行本]
龍野 忠久 (著)

によれば

小林秀雄と黒澤明の対談は
1957-9の新年号

時事通信社


世界週報か
映画年鑑か
その他

と推測できる

毎日のムックに写真があったはず

7:36 午後  
Blogger yoji said...


http://fanblogs.jp/pdyz92as/daily/201309/20
2013年09月20日
島津保次郎 オヤジの蛮行 <その66>
◆戦争を庶民の目で見つめ、憎悪したオヤジ <その3>

 この〝山本周五郎の『日本婦道記』の挿話『荒姫』をベースにした、黒澤版ジャンヌ・ダルクの話〟は・・・とその前に、この〝荒姫〟の物語は、現在、出版されている 『小説 日本婦道記』(全11篇、新潮文庫) の中にはない。これの原作は『笄堀(こうがいぼり)』といい、山本が戦時中に雑誌『婦人倶楽部』に連載していた〝日本婦道記〟シリーズ中の一篇である(現在、短編集『髪かざり』全17篇〔新潮文庫〕に収録 *1) 。ココでは『笄堀』だと判りにくいので、『荒姫』で通します。
 
 改めまして--この〝黒澤版ジャンヌ・ダルクの話〟は、東宝砧撮影所内でも知れ渡っていて、当然、島津オヤジの耳にも入っていた。

 植草圭之助は黒澤からの脚本依頼に腹が決まらず、『荒姫』の話を聞かされてから3ヶ月後の昭和20年6月、久しぶりに砧撮影所を訪れる。そして撮影所の食堂で、島津オヤジや 山形雄策 、そしてオヤジと親しい人気弁士の 徳川夢声 とテーブルを囲むことになる。
 その時、ちょうどそこへ黒澤と昵懇の少壮プロデューサー・本木荘二郎がやってきて、植草に『荒姫』の原作を手渡した。すると島津は、

 卓に向かい合っている島津監督がギョロッと〔本木を睨んで〕、
「ああ、例のジャンヌ・ダルクか、知ってる。あれはあかんよ、意見聞かれたから 竹井君〔竹井諒 *2〕 に言っといた。会社じゃアメ公の本土上陸に備えての好企画だって熱こんでいるが、そんな! こんなときこそ芸術をつくらんけりゃぁ」         (『わが青春の黒沢明』植草圭之助、文春文庫)  ※〔〕内ジャズ野郎註。

 戦争嫌いなオヤジは黒澤の『荒姫』には猛反対であった。しかも、〝こんなときこそ芸術をつくらんけりゃぁ〟とは、さすが、である。銀座で弟子の吉村公三郎に「国策を撮れ」とけしかけられた時(9月18日付、<その64>)、島津は「君たち若いものでやるんだな」と言った、と紹介したが、その本心は、勇み立つ吉村に言いたかった事は

 「こんなときこそ芸術を作れ!」

  だったに違いない。





 続けて、島津は本木や植草達に向かってこんなことを言った。

〔島津〕「…(略)…ぼくが言いたいのは、アメ公たちがやってきたとき、日本でも、こんな時期に、こんな凄え映画作っていたのかって、奴等、肝をつぶすような芸術映画〔を〕撮って貰いたいんだよ。『虎の尾』みたいな日本の伝統に根ざしたものを。もっと立派な映画を。黒沢明にはそれができるんだよ。だから言ってるんだ、会社も目先に捉われず、冷静にってな」
〔夢声〕「まったく同感の極みです。まさに、まさに」
 夢声が島津の手をつよく握った。
 酔いのためか島津監督の眼が滲むのを見た気がした。      (前掲書) ※〔〕内、ジャズ野郎註。

〝アメ公たちがやってきたとき、日本でも、こんな時期に、こんな凄え映画作っていたのかって、奴等、肝をつぶすような芸術映画〔を〕撮って貰いたいんだよ〟というのは、 『私の鶯』 製作時、助監督の池田督に語った抱負と同じである。

 オヤジは、その反骨の魂は、少しもブレずに、一貫してそこにあった・・・まったくカッコイイぜ、オヤジ! 
 である。

*1「 『笄堀』の〝日本婦道記〟シリーズ」  昭和18年(1943)に山本周五郎が『婦人倶楽部』に連載していた『日本婦道記』シリーズは第17回の直木賞に選出されたが、山本はコレを辞退した。『日本婦道記』は山本が受賞を辞退したことで有名な短編集であり、『笄堀』の原案は埼玉県は蓮田にあった忍城を豊臣秀吉方の軍勢が攻めた天正18年(1590)の故事による。
 詳細はウェブサイト「行田歴史・古代蓮モバイル」 http://www.kodaihasu.com/gr/modn/115/index.htm 
を参照のこと。そして『笄堀』は、この当時、紙芝居作品にもなっている。

*2 「竹井諒」 竹井は東宝の企画部長で、東宝に入社した池部良が文芸部に配属された頃【8月15日付け、
<その49>】には、すでに東宝にあり、脚本課長も兼ねていた。
 元々は演劇青年で、大正14年(1925)東亜キネマに入社後、強者の業界人(映画人)の 森田信義 や渾大防五郎 とともに、または前後する形で、新興キネマ、J・O、東宝と渡り歩く。戦後は東宝のゼネラル・プロデューサーとなり、配下に 藤本真澄 、田中友幸 、本木荘二郎 を持ったが、東宝争議の混乱の中で生まれた新東宝の製作責任者となる。大正14年の『潮』を手始めにおびただしい数の脚本(&原作)がある。




投稿者:ジャズ野郎|00:45 |島津保次郎

7:37 午前  
Blogger yoji said...

The Kurosawa黒沢明全作品集―姿三四郎から乱まで

以前出版されていた『悪魔のように細心に天使のように大胆に』*に「影武者」と「乱」の写真を加えたもの。「乱」までの映画のパンフ?の拡大版と考えてもいいが、全集未収録のエッセイ「映画についての雑談」がとても貴重だ。
志賀直哉のエッセイを引いて映画とは何かを語り、他には助監督時代のエピソード、戦闘機一機分の予算で映画学校を造れ?など。興味深い内容だ。
キネマ旬報の世界の映画作家シリーズのインタビューを流用した写真と言葉の見開きページも、佐藤忠男の批評とともにとても見やすい。
ファンは必携だと思う。


旧版『悪魔のように〜』ハードカバー版(縦書きののハードカバーと改訂された横書きのソフトカバー版がある。ソフトカバー版が本書の前身になる)にあったのにカットされたエッセイは以下。
「シナリオについて」『全集黒澤明』第3巻
「映画の編集について」第2巻
「牡丹と青桐」第2巻所収


8:45 午後  
Blogger yoji said...

The Kurosawa黒沢明全作品集―姿三四郎から乱まで

以前出版されていた『悪魔のように細心に天使のように大胆に』*を改訂し、「影武者」と「乱」の写真を加えたもの。「乱」までの映画のパンフ?の拡大版と考えてもいいが、全集未収録のエッセイ「映画についての雑談」がとても貴重だ。
志賀直哉のエッセイを引いて映画とは何かを語り、他には助監督時代のエピソード、戦闘機一機分の予算で映画学校を造れ?など。興味深い内容だ。
キネマ旬報の世界の映画作家シリーズのインタビューを流用した写真と言葉の見開きページも、佐藤忠男の批評とともにとても見やすい。
ファンは必携だと思う。


旧版『悪魔のように〜』ハードカバー版(縦書きののハードカバーと改訂された横書きのソフトカバー版がある。ソフトカバー版が本書の前身にあたる)にあったのにカットされたエッセイは以下。
「シナリオについて」『全集黒澤明』第3巻
「映画の編集について」第2巻
「牡丹と青桐」第2巻所収

8:46 午後  
Blogger yoji said...


http://kenkyuyoroku.blog84.fc2.com/blog-entry-482.html
『全集黒沢明』全6巻(岩波書店、1987.11~1988.4)



第1巻 1987.11.18
 
*はじめに シナリオと映画‥‥‥‥‥‥ i
姿三四郎‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 1
一番美しく‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥51
続姿三四郎‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 105
虎の尾を踏む男達‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 149
達磨寺のドイツ人‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 167
雪‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 217
敵中横断三百里‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 275
随筆‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 337
蓮華の舞踏‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 339
或る手紙‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 340
忠臣蔵後篇撮影日記‥‥‥‥‥‥‥‥ 344
「馬」のスタッフ―裏方ものがたり‥ 348
わかりきった事‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 359
「雪」について‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 369
「雪」梗概‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 371
雪の世界に遊ぶ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 373
十月の桜‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 378
一番美しく‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 380
「敵中横断三百里」前記‥‥‥‥‥‥ 382
新米演出家の日記から‥‥‥‥‥‥‥ 383
「姿三四郎」の七つの格闘場面‥‥‥ 391
「土俵祭」の脚本について‥‥‥‥‥ 395
「一番美しく」演出覚え書‥‥‥‥‥ 397
「一番美しく」の演出‥‥‥‥‥‥‥ 398
*作品解題(佐藤忠男)‥‥‥‥‥‥‥ 401
*批評史ノート(岩本憲児)‥‥‥‥‥ 415
*シナリオ注(野上照代)‥‥‥‥‥‥ 425
*製作メモランダ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 443
 

第2巻 1987.12.18
 
わが青春に悔なし‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 1
素晴らしき日曜日‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥47
酔いどれ天使‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥77
静かなる決闘‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 119
野良犬‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 159
山小屋の三悪人‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 217
随筆‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 255
東北の風物‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 257
映画が自由になる為めに‥‥‥‥‥‥ 261
能・庭・山‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 268
牡丹と青桐‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 270
映画批評について‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 272
近頃考えた事‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 276
アメリカ映画の故郷‥‥‥‥‥‥‥‥ 279
原節子の魅力‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 281
節っちゃんについて‥‥‥‥‥‥‥‥ 284
「素晴らしき日曜日」について‥‥‥ 286
木下さんへの手紙‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 287
「素晴らしき日曜日」演出前記‥‥‥ 291
中北君に‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 293
健全なる企業精神‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 295
映画の編集について‥‥‥‥‥‥‥‥ 296
シナリオ三題‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 301
「酔いどれ天使」人物クロッキイ‥‥ 304
三船君について‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 306
神経質について‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 307
「酔いどれ天使」の演出ノートから‥ 308
東宝の紛争‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 313
生れッ放しの千石君について‥‥‥‥ 316
*作品解題(佐藤忠男)‥‥‥‥‥‥‥ 319
*批評史ノート(岩本憲児)‥‥‥‥‥ 343
*シナリオ注(野上照代)‥‥‥‥‥‥ 355
*製作メモランダ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 385
 

第3巻 1988.1.18
 
醜(スキャンダル)聞‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 1
羅生門‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥49
白痴〔前篇・後篇〕‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥73
生きる‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 147
肖像‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 203
殺陣師段平‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 237
随筆‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 277
こうしたらよい映画が出来る―私の理想‥‥ 279
志村喬さんの人柄‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 282
「羅生門」製作前記‥‥‥‥‥‥‥‥ 283
木村功君‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 284
「白痴」演出前記‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 285
イノさんについて‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 285
シナリオについて‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 286
しみじみと感情を湛えて―「生きる」演出前記‥‥ 290
映画に“生きる”‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 291
*作品解題(佐藤忠男)‥‥‥‥‥‥‥ 299
*批評史ノート(岸本憲児)‥‥‥‥‥ 319
*シナリオ注(野上照代)‥‥‥‥‥‥ 331
*製作メモランダ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 367
 

第4巻 1988.2.18
 
七人の侍‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 1
生きものの記録‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥97
蜘蛛巣城‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 141
どん底‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 175
隠し砦の三悪人‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 219
決闘鍵屋の辻‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 271
随筆‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 309
活劇の夢と現実―「七人の侍」完成に際して‥‥ 311
「生きものの記録」について‥‥‥‥ 312
「蜘蛛巣城」をめぐって―岩崎昶との往復書簡‥‥ 312
ロンドン・パリ十日間‥‥‥‥‥‥‥ 330
*作品解題(佐藤忠男)‥‥‥‥‥‥‥ 341
*批評史ノート(岩本憲児)‥‥‥‥‥ 363
*シナリオ注(野上照代)‥‥‥‥‥‥ 375
*製作メモランダ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 425
 

第5巻 1988.3.18
 
悪い奴ほどよく眠る‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 1
用心棒‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥69
椿三十郎‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 117
天国と地獄‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 157
赤ひげ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 221
暴走機関車‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 279
*作品解題(佐藤忠男)‥‥‥‥‥‥‥ 361
*批評史ノート(岩本憲児)‥‥‥‥‥ 379
*シナリオ注(野上照代)‥‥‥‥‥‥ 393
*製作メモランダ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 433
 

第6巻 1988.4.18
 
どですかでん‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 1
デルス・ウザーラ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥53
影武者‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥95
乱‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 147
随筆‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 207
助監督時代の思い出‥‥‥‥‥‥‥‥ 209
「デルス・ウザーラ」前記‥‥‥‥‥ 210
映画「デルス・ウザーラ」の創作要項‥‥ 210
タルコフスキイと「惑星ソラリス」‥ 216
早坂のこと‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 220
当たり前の話‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 221
「影武者」序―画集に寄せて‥‥‥‥ 222
ジョン・カサベテスの「グロリア」を見て‥‥ 224
この画集に寄せて―「乱」付記‥‥‥ 225
無名塾へのメッセージ‥‥‥‥‥‥‥ 226
*作品解題(佐藤忠男)‥‥‥‥‥‥‥ 227
*批評史ノート(岩本憲児)‥‥‥‥‥ 257
*シナリオ注(野上照代)‥‥‥‥‥‥ 271
*製作メモランダ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 325
<対談>
ユーモアの力・生きる力(黒沢明,井上ひさし)‥‥ 341
*年譜(草薙匠)‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 379

サイトtopへ戻る

[ 2011/02/04 20:02 ] く 黒沢明 | TB(0) | CM(0)

8:47 午後  
Blogger yoji said...

大系黒澤明:簡易目次
大系黒澤明 第1巻/黒沢明/著 浜野保樹/編・解説 講談社 本・コミック : オンライン書店e-hon
http://www.e-hon.ne.jp/bec/SA/Detail?refShinCode=0100000000000032332853&Action_id=121&Sza_id=C0&Rec_id=1008&Rec_lg=100813
商品の内容
[要旨]
画家志望時代から『羅生門』『白痴』まで幻だった脚本・ノベライズを多数発掘。全著述・全発言を集大成し「世界のクロサワ」の全貌を明かす。
[目次]
第1章 少年・画家志望時代―1924~1935
第2章 助監督時代―1936~1943
第3章 新進監督時代(戦前・戦中)―1943~1945
第4章 新進監督時代(戦後)―1946~1948
第5章 東宝争議―1948~1950
第6章 グランプリ―1950~1951
出版社・メーカーからのコメント
幻の脚本を多数発掘!巨匠の人生を集成する中学の作文にはじまる第1巻は、『白痴』演出記の’51年まで。黒澤プロにもなかった脚本、秘蔵の写真・ポスターなど、散逸していた文章以外にも数々の発見が。

大系黒澤明 第2巻/黒沢明/著 浜野保樹/編・解説 本・コミック : オンライン書店e-hon
http://www.e-hon.ne.jp/bec/SA/Detail?refShinCode=0100000000000032358327&Action_id=121&Sza_id=C0&Rec_id=1008&Rec_lg=100813
商品の内容
[目次]
第1章 東宝への復帰(1952~1957)
第2章 時代劇三部作(1957~1959)
第3章 黒澤プロダクション(1959~1965)
第4章 苦難の時代(1966~1973)
第5章 監督自身による作品評と側近たちの黒澤像
解説 世界のクロサワと挫折
[出版社商品紹介]
栄光から失意の時代へ。東宝からの独立、海外資本との不調、そして衝撃の自殺未遂。作品は「どですかでん」まで。未公開の写真・衣装
出版社・メーカーからのコメント
『七人の侍』で築いた栄光から失意の時代へ名作を陸続と世に送った輝きから、東宝からの独立、海外資本との不調、そして衝撃の自殺未遂。作品は『どですかでん』まで。未公開の写真・衣装画なども多数掲載。

大系黒澤明 第3巻/黒沢明/著 浜野保樹/編・解説 本・コミック : オンライン書店e-hon
http://www.e-hon.ne.jp/bec/SA/Detail?refShinCode=0100000000000032386768&Action_id=121&Sza_id=C0&Rec_id=1008&Rec_lg=100813
商品の内容
[要旨]
シベリアの極寒と闘った『デルス・ウザーラ』。『影武者』勝新太郎、主役降板までの真相。カンヌ映画祭、アカデミー賞など世界からの賞賛。音楽にも妥協を許さず火花を散らした舞台裏。イタリアで『夢』の絵コンテが絵本になっていた。巨匠が選び解説した「世界の名画百本」リスト。息子と娘が綴った偉大なる父の最後の日々。「わが息子」コッポラ、ルーカスへ遺した言葉。
[目次]
第1章 デルス・ウザーラ
第2章 影武者
第3章 乱
第4章 最後の三部作
第5章 最晩年のメッセージ
第6章 追悼
[出版社商品紹介]
海外からの賞賛と国内からの批判。斜陽の映画界を晩年まで背負わされた悲劇。アカデミー賞受賞の一方で、興行の不振に悩む巨匠にも、人生を振り返る時がきた。
出版社・メーカーからのコメント
『影武者』から遺作にいたる晩年の人生模様海外からの賞賛と国内からの批判。斜陽の映画界を晩年まで背負わされた悲劇。アカデミー賞受賞の一方で、興行の不振に悩む巨匠にも、人生を振り返る時がきた。

大系黒澤明 第4巻/黒澤明/著 浜野保樹/編・解説 本・コミック : オンライン書店e-hon
http://www.e-hon.ne.jp/bec/SA/Detail?refShinCode=0100000000000032417728&Action_id=121&Sza_id=C0&Rec_id=1008&Rec_lg=100813
商品の内容
[要旨]
「蝦蟇の油」に編者による註と多数の関連写真を併載。認め合った監督同士ゆえ、大島渚と丁丁発止のやりとり。ガルシア・マルケスと核をめぐる白熱した論争。筑紫哲也、武満徹、村上龍、大友克洋らとの異色対談。音楽、映像、ユーモア、粋について大いに語りつくす。戦争末期の雑誌から黒澤自身の随筆を発掘。趣味の篆刻、墨跡や恒例のクリスマスカードをカラーで。これ以上ない詳細な年表を47ページにわたり掲載。
[目次]
第1章 自伝
第2章 「黒澤明のわが映画人生」(インタビュー=大島渚)
第3章 黒澤明語る(聞き手=原田眞人)
第4章 自作を語る
第5章 対談 海外の映画人たちと
第6章 対談 日本の表現者たちと
第7章 補遺
第8章 資料編
[出版社商品紹介]
大島渚に語った「我が人生」の全容を初公開。各界有名人との対談。新発見の「続姿三四郎」「七人の侍」などの随筆を追加掲載。
出版社・メーカーからのコメント
大島渚に語った「我が人生」の全容を初公開『羅生門』で筆が置かれた自伝を補足する大島インタビュー。各界有名人との対談。新発見の『続姿三四郎』『七人の侍』などの随筆を追加掲載。詳細な年譜、資料も

大系黒澤明 別巻/黒澤明/著 浜野保樹/編・解説 本・コミック : オンライン書店e-hon
http://www.e-hon.ne.jp/bec/SA/Detail?refShinCode=0100000000000032502867&Action_id=121&Sza_id=C0&Rec_id=1008&Rec_lg=100813
『七人の侍』『トラ・トラ・トラ!』の原点となった作品など一挙公開。『明日を創る人々』秘蔵台本など、幻の脚本を発掘・初公開。
[目次]
静かなり(1942年)
陽気な工場(1942年)
森の千一夜(1942年)
サンパギタの花(1943年)
天晴れ一心太助(1945年)
どっこい!この槍(1945年)
明日を創る人々(1946年)(山形雄策・山本嘉次郎)
棺桶丸の人々(1951年)(橋本忍)
能の美(1983年)
こんな夢を見た(1988年)
[出版社商品紹介]
全集未収録、存在を忘れられていた脚本を発見。「明日を創る人々」、ラジオドラマ「陽気な工場」などを収録。

11:56 午後  
Blogger yoji said...


http://ameblo.jp/lull-b/entry-10458093343.html
佐藤「ああ、それそれ。その、戦後派ってやつだよ、君は。遊佐もそうかもしれん。君には遊佐の気持ちが分かりすぎるんだよ」
村上「そうかもしれませんね。僕も復員の時、列車の中でリュック盗まれたんですよ」
佐藤「ほおう…」
村上「ひどく無茶な、毒々しい気持ちになりましてね。あの時だったら、強盗ぐらい平気でやれたでしょう。でも、ここが危ない曲がり角だと思って、僕は…逆のコースを選んで、今の仕事志願したんです」
佐藤「うーん…まあ、やっぱりね…」

7:10 午後  
Blogger yoji said...



http://ameblo.jp/lull-b/entry-10458093343.html
佐藤「ああ、それそれ。その、戦後派ってやつだよ、君は。遊佐もそうかもしれん。君には遊佐の気持ちが分かりすぎるんだよ」
村上「そうかもしれませんね。僕も復員の時、列車の中でリュック盗まれたんですよ」
佐藤「ほおう…」
村上「ひどく無茶な、毒々しい気持ちになりましてね。あの時だったら、強盗ぐらい平気でやれたでしょう。でも、ここが危ない曲がり角だと思って、僕は…逆のコースを選んで、今の仕事志願したんです」
佐藤「うーん…まあ、やっぱりね…」



勘兵衛「勝ったのはあの百姓たちだ。わしたちではない。」


(赤子を受けた)菊千代「こいつは俺だ !…俺もこのとおりだったんだ!…」


http://www.asahi-net.or.jp/~AN4S-OKD/okyda/eiga/039024.html
赤ん坊を抱く法師。その赤ん坊に手を伸ばす木こり。「何をする。この赤子から肌着まで剥ぐつもりか」「わしのところに子供が6人いる。6人育てるも7人育てるも同じ苦労だ」「私は恥ずかしいことを言ってしまったようだな」「無理もねえ。今日と言う今日。人を疑わずにいられるはずがねえ。恥ずかしいのはわしだ。わしにはわしの心がわからねえ」「いや。ありがたいことだ。おぬしのおかげで、私は生きていくことができそうだ」赤ん坊を木こりに渡す法師。木こりは赤ん坊を抱えて、羅生門を出て雨の上がった外に向かって歩き出すのであった。


http://www.asahi-net.or.jp/~AN4S-OKD/okyda/eiga/039024.html
赤ん坊を抱く法師。その赤ん坊に手を伸ばす木こり。
「何をする。この赤子から肌着まで剥ぐつもりか」
「わしのところに子供が6人いる。6人育てるも7人育てるも同じ苦労だ」
「私は恥ずかしいことを言ってしまったようだな」
「無理もねえ。今日と言う今日。人を疑わずにいられるはずがねえ。恥ずかしいの
はわしだ。わしにはわしの心がわからねえ」
「いや。ありがたいことだ。おぬしのおかげで、私は生きていくことができそうだ」
赤ん坊を木こりに渡す法師。木こりは赤ん坊を抱えて、羅生門を出て雨の上がった
外に向かって歩き出すのであった。


白痴,黒澤明氏は、明治43年3月26日生まれ、東京府荏原郡大井町で、現在の品川区東 大井で生まれています。 ...

大野綾子 : 久我美子
「あの人のように…人を憎まず、ただ愛してだけゆけたら… 私 …
私なんて馬鹿だったんだろう… 白痴だったの…私だわ!」



大野綾子(久我美子)
「あの人のように…人を憎まず、ただ愛してだけゆけたら… 私 …
私なんて馬鹿だったんだろう… 白痴だったの…私だわ!」


と木下惠介. インタビュー 久我美子:「白痴」で私は、自分の役柄にめぐり会えたと思いました. 1994年 臨時 ...

久我美子 - 略歴・フィルモグラフィー -KINENOTE(キネノート)
http://www.kinenote.com/main/public/cinema/person.aspx?person_id=97207
対談 :久我美子×香川京子 最終回
2000年12月上旬号
対談 :久我美子×香川京子
2000年11月下旬特別号
特別対談 日本の映画監督を語る:久我美子×香川京子
1998年臨時増刊 黒澤明と木下惠介
インタビュー 久我美子:「白痴」で私は、自分の役柄にめぐり会えたと思いました
1994年臨時増刊 竹中直人の小宇宙
「119」キャスト&スタッフ紹介:久我美子
1978年8月下旬号
メモリアル・ポート:久我美子
1959年9月下旬号
グラビア CLOSE-UP:久我美子
1958年1月上旬新春特別号
特別グラビア:久我美子
1956年11月上旬号
特別口絵:久我美子
1956年7月下旬号
座談会 戦後新人俳優の生活と意見:乙羽信子×久我美子×香川京子×三国連太郎×佐田啓二×南博×井沢淳×田中純一郎
1956年1月上旬新年特別号
特別口絵:久我美子
1955年4月上旬陽春特別号
特別グラフィック ポートレート:久我美子
1955年増刊 日本映画大鑑 映画人篇
グラフィック:久我美子
1954年5月上旬号
現代が求める新しいタイプと演技:久我美子
1954年4月上旬春の特別号
グラフィック 映画人クロースアップ:久我美子
1954年2月上旬ベスト・テン発表特別号
「にごりえ」の感想:
1953年増刊 アメリカ映画大鑑 '53-'54年
アンケート ごひいきスタア:久我美子

7:15 午後  
Blogger yoji said...

「そうかもしれませんね。僕も復員の時、列車の中でリュック盗まれたんですよ」
「ほおう…」
「ひどく無茶な、毒々しい気持ちになりましてね。あの時だったら、強盗ぐらい平気
でやれたでしょう。でも、ここが危ない曲がり角だと思って、僕は…逆のコースを選んで、
今の仕事志願したんです」

7:15 午後  
Blogger yoji said...

三井弘次
「畜生、せっかくの踊り、台無しにしやがった、バカヤロウ」

1:52 午後  
Blogger yoji said...

9月6日は黒澤明の命日
Akira Kurosawa (1910-1998)

「くだらん奴が、くだらんという事は、くだらんものではない証拠で、つまらん奴がつまらんという事は、大変面白いという事でしょう」

9:33 午後  
Blogger yoji said...

『荒姫様』は『わが青春に悔いなし』の後半のヒントに思えてきた - 大衆文化評論家指田文夫の「さすらい日乗」
http://blog.goo.ne.jp/goo1120_1948/e/6e9ef58002567588e29addc13ba192b8


黒澤明の幻の作品『荒姫様』は、山本周五郎の小説『笄堀』を基にした作品として構想された。
そして、この『笄堀』を読むと、それは豊臣秀吉軍による小田原の北條氏攻めの際の、忍城の攻防戦を舞台にしており、和田竜のベストセラー小説『のぼうの城』と同じ題材である。
その中では、300人の城方に対して3万人の石田三成軍が包囲してくる。
すでに城主は小田原に行っていて、城は奥方の真名女が守っている。
多くの老家臣たちが、降伏を言う中で彼女は戦うことを決意し、城外の一般の町人、百姓までも城に入れて大軍と巧妙に戦い、互角以上の戦いに成功する。
その中で、城の女たちは、堀を掘る作業に従事していて、ある日、堀の中で、真名女が昔身につけていた笄を見つける。
そして、城に笄を持って行き、「これはおかたさまのでは・・・」と本丸に行くと、そこにいたのは真名女ではなく、母によく似た娘の甲斐姫だった。
つまり、真名女は、身分を隠して下層の女と一緒に堀の掘削作業に従事していたのである。
こうした一致団結した力のお陰で、城攻めは難航に難航を重ね、ついに北條方が小田原で秀吉方に降参するまで持ちこたえたのである。
まさしく、昭和18年1月に発表された露骨な、しかしよくできた「戦意高揚小説」で、戦後さすがの山本周五郎も『日本婦道記』に入れず、現在は短編集『髪かざり』に収録されている。
だが、この笄堀を奥方が掘っているシーンを考えた時、恐らく黒澤明の『荒姫様』では、この真名女と娘の甲斐姫を原節子が二役で演じるものだったと想像できた。

すると原節子が演じた「二役」と言えば、戦後の『わが青春に悔いなし』である。

             

           

あの作品では、原節子は前半は大学教授のお嬢様として上品に演技している。
だが、恋人の野毛(藤田進)が反戦運動で逮捕、殺害され、彼の故郷の村に行くと、田の泥にまみれ髪振り乱して猛烈な労働に励む。
その変化は見る者に、相当に異常な感じを与える。
それはある意味で、二役のようなもので、原節子に上品なお嬢様と、髪振り乱して働く女を演じさせるというアイディアは、幻の映画『荒姫様』を構想する中で得られたものだと私には思えた。
いよいよもって映画『荒姫様』が見たくなった。
誰かお持ちでないだろうか。

12:51 午前  
Blogger yoji said...


http://game.watch.impress.co.jp/docs/news/705670.html
 ハロルド・ロイド、バスター・キートン、マック・セネットのコメディをよく見た。それからジョン・フォードの「幌馬車」や、黒澤明の「七人の侍」、「用心棒」、「蜘蛛巣城」のアクションシーン、「ベン・ハー」の戦車競走、スティーブン・スピルバーグの特に「激突!」などといったものから映画言語を学び、今のアクションに繋げていった。

・プライベートではどんな車に?

 信用をすべて失いそうだが……レクサスのハイブリッドだ。

・日本に来てからどこかに行った?

 ジブリ美術館に行った。宮﨑駿は、私にとって神。彼の色々な作品の展示を見ている中で素晴らしいアーティストだと感じたし、素晴らしい体験だった。ものすごくハートを感じるし、正直なもの、叡智も感じる。

・ジブリ作品で好きなのは?

 「千と千尋の神隠し」かな。驚きがあるし、優れた作品というのは、先程も言ったがそのイメージが脳裏に焼き付く。それは一生忘れないんだ。



http://www.geocities.jp/hpcriticism/unpublished/kg.html
 黒澤明には、多くの子がいる。フランシス・フォード・コッポラやスティーブン・スピルバーグ、ジョージ・ルーカス、ジョン・ミリアスを始めとして「クロサワ・チルドレン」のリストは際限なく続く。『マッド・マックス』のジョージ・ミラーは「直接的にしろ、間接的にしろ、どんな映画監督もクロサワの影響を受けている」と言っている。クロサワの子どもたちは偉大な父の映画を自分なりに租借し、独自の方法論に高めている。


4:30 午後  
Blogger yoji said...

【映画】フランスで最高勲章、北野武の才能を一瞬で見抜いた巨匠・黒澤明の眼力 「映画の常識なんていらない。自由にやっていい」©2ch.net

1 : 的井 圭一 ★@無断転載は禁止 ©2ch.net2016/10/27(木) 06:06:14.77 ID:CAP_USER9
映画監督・北野武さんが10月25日、フランスで最高勲章にあたる「レジオン・ドヌール勲章」を授与された。
日本人映画監督としては、あの黒澤明さん以来の快挙となる。

黒澤さんといえば「羅生門」で世界的な評価を確立し、代表作「七人の侍」は世界トップクラスの名画として名高い。
「隠し砦の三悪人」など娯楽色の強い作品で、エンターテインメント映画にも強い影響を国内外に与え、スターウォーズの設定にも活かされている。


駆け出し監督だった北野武を黒澤明は絶賛した

その黒澤さんが1990年代初め、自身の別荘に北野さんを招いて、収録した対談がある。
その中で、まだ駆け出しの映画監督だった北野さんを、黒澤さんはこんな言葉で絶賛している。

僕はビートさんの作品、全部好きでね、面白いですよ。とても。余計な説明がなくていいよね。日本の映画は説明が多すぎるよ。

当時「映画の素人」を自認していた北野さんの応答はこうだ。

本当のことをいうと、ほとんど映画をみたことないんですよ。冗談で撮るって言ったら、撮らせてもらえて。全然わかんなかったですね。

(撮影してみても)画が気に入らないんですよ。だから気に入らない画を外してしまえば、あとはしょうがないっていうか。
自分でわかってない画を撮っても、にっちもさっちもいかないですね。わからないまま助監督とかに指示して撮影しても。全然、ダメ。

「常識に従わなくていい、自由にやっていいんですよ」

映画に精通したスタッフに囲まれていると、つい映画界の「常識」に適合した画を撮ろうとしてしまう。それで撮れる画は気に入らない。だから、外す。

黒澤さんはそんな姿勢を「それでいいんだよね」と全面的に肯定する。

「映画だからこうしないといけない、ということはないと思うんだよ。周囲から『映画は映画の時間がある』と言われたことがあるけど、
『俺は現実の時間をそのまま撮っている』って言ったよ。最初は随分、そういうのがあったよ」

「(周囲のスタッフは)ある映画の常識があって、それに従って撮らないといけないと考えているかもしれないけど、そうじゃないんだよね。自由にやっていいんですよ」

北野武に笑顔で語りかけた意味

対談の中で、晩年の黒澤さんは、何かを託すように北野さんに笑顔で語りかけていた。
その姿は、一切の妥協を許さず「黒澤天皇」と畏怖された現場の姿とは、まったく別の何かだった。


フランスで最高勲章、北野武の才能を一瞬で見抜いた巨匠・黒澤明の眼力 「映画の常識なんていらない。自由にやっていい」2016/10/26 12:14
https://www.buzzfeed.com/satoruishido/kurosawa-kitano

4:02 午後  
Blogger yoji said...

20161031
>>691
「七人の侍」の4kデジタルリマスター版を見に行きましたが
素晴らしかったですねえ。
画像が鮮明なのもさることながら
音声の明瞭さも際立っていました。
例えば、
久蔵が野試合をするシーンには
これまで全く聴かれなかった町の物売りの声とかが入っていて
闘う2人とのコントラストが顕著でした。
黒澤明はそんな細かいところまで神経を注いでたんですね。
特に人を斬るシーンで
平成3年に「ブシュ!」という効果音を入れてたのに対し
今度は昭和29年のオリジナルのままで
特に久蔵が種子島に撃たれて倒れるシーンで
銃声がその瞬間より遅れて聞こえるのが
音声遅延の効果を出していて
やはり本来のサウンドトラックをうまく使っているからだと認識しました。
合戦のシーンはテレビ画面では味わえない大迫力でした
やっぱり映画は映画館で観ないと駄目ですね。
TOHOシネマズは消防法に気を使い過ぎず
映画が始まったら会場を十分に暗くして
映画に集中できるようにしていました。
塚口サンサン劇場とは違いますな。
しかも、これだけの大傑作が千百円でみれるなんて夢のようです。
大学時代に黒澤明の映画を見まくった経験が蘇りました!

6:13 午後  
Blogger yoji said...

【世界の巨匠】黒澤明 2【最高傑作】 [無断転載禁止]©2ch.net

758 :
名無シネマ@上映中
2016/11/10(木) 17:25:09.86 ID:K0eva7rw
『乱』はただ優れた映画というだけではない

人類史の頂点に位置するのだ

戦争は起こるだろう
国家と資本は行くところまで行くだろう

ただ美が世界を救う
『乱』が世界を救う



               /\
              /_乱_\
             /\  /\  
            /__\/__\
           /\      /\
          /__\    /__\   
         /\  /\  /\  /\ 
        /__\/__\/__\/__\
       /\              /\
      /__\            /__\ 
     /\  /\          /\  /\
    /__\/__\        /__\/__\
   /\      /\      /\      /\
  /__\    /__\    /__\    /__\
 /\  /\  /\  /\  /\  /\  /\  /\
/__\/__\/__\/__\/__\/__\/__\/__\

12:28 午前  
Blogger yoji said...


________________________________
\  /\  /\  /\  /\  /\  /\  /\  /
 \/__\/  \/__\/  \/__\/__\/__\/
  \  /    \  /    \  /    \  /
   \/______\/      \/______\/
    \  /\  /        \  /\  /
     \/__\/          \/__\/
      \  /            \  /
       \/______________\/
        \  /\  /\  /\  /
         \/__\/  \/__\/
          \  /    \  /
           \/______\/
            \  /\  /
             \/__\/
              \ 乱 /
               \/


               /\
              /_乱_\
             /\  /\  
            /__\/__\
           /\      /\
          /__\    /__\   
         /\  /\  /\  /\ 
        /__\/__\/__\/__\
       /\              /\
      /__\            /__\ 
     /\  /\          /\  /\
    /__\/__\        /__\/__\
   /\      /\      /\      /\
  /__\    /__\    /__\    /__\
 /\  /\  /\  /\  /\  /\  /\  /\
/__\/__\/__\/__\/__\/__\/__\/__\

5:53 午後  
Blogger yoji said...

アメリカは主に黒澤から娯楽性を
ヨーロッパは芸術性を
アジアは社会性を

それぞれ受け取った

佐藤忠男がそう言っていたと思う

9:37 午前  
Blogger yoji said...

黒澤明「私は青二才が好きだ」


野上加山雄三対談
http://www2.toho-movie.jp/movie-topic/1003/09kurosawa_ts.html
…御殿場ロケがあったんだけれど、暇で仕方ないから、生えていた木を「これは切れるかもしれないな」と
思ってやったら、バスッと切れた。「お、切れるよ」なんて思って、それからも2、3本やったんだけれど、
そこに神保さんという小道具さんがかっ飛んできて、「おまえ、バカやろう! 刃こぼれ起こしたらどう
するんだ、なにやってるんだ!」と怒ってね。

そうしたら、その後ろから黒澤さんがスタタタとやってきて、「あ、こりゃまた怒られるかな」と思ったら、
神保さんの頭を押さえてひっくり返して「余計なことをするな!」。怒られたのは神保さんだったんだよ
(会場笑)。…「そうやって刀は覚えるものなんだ」と、黒澤さんはそう言ったんですよ(笑)。

8:25 午後  
Blogger yoji said...


http://plaza.rakuten.co.jp/yojiseki/diary/200409140000/
『明日を創る人々』
2004年09月14日
カテゴリコラム (51)

 14日、『明日を創る人々』という映画をフィルムセンターで見て来ました。
 この映画は東宝争議のあった1946年のメーデーの翌日公開するために急遽作られた組合映画です。黒澤明は演出の三人に名を連ねていますが、この作品は自分の作品として認めていません。
 ただ、僕が見た限り、群集シーンや撮影所のシーン(高峰秀子と藤田進が本人役で出演)に黒澤らしき演出の特徴が見られましたし(効果的な移動撮影が多々あった)、黒澤ファンは見るべき価値のある映画かと思います。(黒澤がエッセイで披露した、「綺麗な夕焼けだなあ」「馬鹿、あれは朝焼けだぜ」という徹夜明けの撮影所で実際にあったというセリフが使われていました。)
 この映画に関しては『天皇と接吻』(平野共余子著)という研究書に詳しいのですが、その本に書いてあったラストと微妙に映画のラストは違いました。映画では、主人公たる家族(これは任意に抽出された家族なので説得力というか面白みはあまりない?)がメーデーの前日の夜、会話をしたあと、メーデーのイメージで終わります。
 その家族の会話で母親の「私が参加するとしたら井戸端組合かね」という映画のラストを締めるセリフが面白かったと思います。
 他には、資本家も手をつないでいるのだから、われわれもそれ以上に手をつながなければといった内容のセリフがよかったと思います。また、合唱団を主役にしていたので、善くも悪くもプラカードを掲げたような作品にはなっていなかったと思います(シナリオが東宝コンツェルンを前提としている点や、多分実際にあった出来事なのでしょうが組合員の子供の死を無理にドラマに取り入れている点、組合運動に戦時中の国民総動員のイメージを引きずっている点、「敵」というよりも「資本家」の描写が弱いという点、また上記の母親の会話に見られるコーポラティブとユニオンの縦横の関係性の把握が弱いところなどが欠点かと思います。)
 プロ野球合併問題と考えあわせても奇妙なリアリティーがある映画でしたが、コアな映画ファンはこうした見方をしないかも知れません。ブレヒトの『クーレ・ワンペ』など同種の映画との歴史的比較検討がなされていないからだと思います。

 黒澤は、確かにこの映画のあと、撮影現場で部所を越えて互いに手伝いあえないようなユニオンに否定的になりました。ただ、この映画に懲りて共同監督をやろうとしなかったかというとそうではありません。例えば銀行からの出資を募った『どら平太』は市川昆、木下恵介監督らとの共同監督を前提に書かれたものでした(のちに市川監督が映画化)。

 『明日~』は、10月2日にもう一度上映されるようです。

5:58 午前  
Blogger yoji said...

明日を創る人々 - Wikipedia
ja.wikipedia.org/wiki/明日を創る人々
明日を創る人々』(あしたをつくるひとびと)は1946年(昭和21年)公開の日本映画。山本 嘉次郎、黒澤明、関川秀雄による共同監督映画。ただし黒澤明は後に名前掲載を拒否 した。 キャスト[編集]. 薄田研二 · 竹久千恵子 · 中北千枝子. スタッフ[編集]. 演出:山本嘉 ...
キャスト-スタッフ-外部リンク

11:30 午前  
Blogger yoji said...

The Kurosawa黒沢明全作品集―姿三四郎から乱まで | |本 | 通販 | Amazon
1985/06
https://www.amazon.co.jp/The-Kurosawa黒沢明全作品集―姿三四郎から乱まで/dp/4924609110/ref=cm_cr_arp_d_product_top?ie=UTF8
5つ星のうち 5.0全集未収録のエッセイが貴重
投稿者 yojiseki 投稿日 2007/11/13
形式: 大型本 Amazonで購入
以前出版されていた『悪魔のように細心に天使のように大胆に』*を改訂し、「影武者」と「乱」の写真を加えたもの。「乱」までの映画のパンフ?の拡大版と考えてもいいが、全集未収録のエッセイ「映画についての雑談」がとても貴重だ。
志賀直哉のエッセイを引いて映画とは何かを語り、他には助監督時代のエピソード、戦闘機一機分の予算で映画学校を造れ?など。興味深い内容だ。
キネマ旬報の世界の映画作家シリーズのインタビューを流用した写真と言葉の見開きページも、佐藤忠男の批評とともにとても見やすい。
ファンは必携だと思う。


旧版『悪魔のように〜』ハードカバー版(縦書きののハードカバーと改訂された横書きのソフトカバー版がある。ソフトカバー版が本書の前身にあたる)にあったのにカットされたエッセイは以下。
「シナリオについて」『全集黒澤明』第3巻
「映画の編集について」第2巻
「牡丹と青桐」第2巻所収

12:32 午後  
Blogger yoji said...

1946年
明日(あした)を創る人々 - Wikipedia
ja.wikipedia.org/wiki/明日を創る人々
1946年(昭和21年)公開の日本映画。
山本 嘉次郎、黒澤明、関川秀雄による共同監督映画。ただし黒澤明は後に名前掲載を拒否 した。

 この映画は東宝争議のあった1946年のメーデーの翌日公開するために急遽作られた組合
映画です。黒澤明は演出の三人に名を連ねていますが、この作品は自分の作品として認めてい
ません。
 ただ、僕が見た限り、群集シーンや撮影所のシーン(高峰秀子と藤田進が本人役で出演)に
黒澤らしき演出の特徴が見られましたし(効果的な移動撮影が多々あった*)、黒澤ファンは見る
べき価値のある映画かと思います。(黒澤がエッセイで披露した、「綺麗な夕焼けだなあ」
「馬鹿、あれは朝焼けだぜ」という徹夜明けの撮影所で実際にあったというセリフ**が使われ
ていました。)
 この映画に関しては『天皇と接吻』(平野共余子著)という研究書に詳しいのですが、その本
に書いてあったラストと微妙に映画のラストは違いました。映画では、主人公たる家族(これは
任意に抽出された家族なので説得力というか面白みはあまりない?)がメーデーの前日の夜、
会話をしたあと、メーデーのイメージで終わります。
 その家族の会話で母親の「私が参加するとしたら井戸端組合かね」という映画のラストを締め
るセリフが面白かったと思います。


以下のエッセイでも無駄な移動撮影が否定されるが、七人の侍の旗制作シーンでもわかるように
室内での移動撮影を黒澤はかなり試している。
**
「映画についての雑談」The Kurosawa黒沢明全作品集―姿三四郎から乱まで 1985/06 所収
https://www.amazon.co.jp/dp/4924609110/

12:44 午後  
Blogger yoji said...

収録作品:大系黒澤明 第4巻(第4巻)/黒澤 明 - 紙の本:honto本の通販ストア
https://honto.jp/netstore/pd-worklist.html?prdid=03253360
honto
電子書籍ストア本の通販ストア店舗情報
お知らせ
17
カート
電子0

通販0

Myメニュー
新規会員登録 ログイン

電子



検索
詳細検索
セーフサーチ
送料無料(~1/31)

1,000円以上の注文で3%OFFクーポン(0120-26)

hontoトップ本の通販ストア芸術・アート大系黒澤明 第4巻作品一覧
映画 ランキング
映画のランキングをご紹介します一覧を見る

1位 stay
映画と本の意外な関係!
町山 智浩 (著)
映画と本の意外な関係!
映画と本の意外な関係!
町山 智浩 (著)
2位 up
デルモンテ平山の「ゴミビデオ」大全
平山 夢明 (著)
デルモンテ平山の「ゴミビデオ」大全
デルモンテ平山の「ゴミビデオ」大全
平山 夢明 (著)
3位 stay
高倉健の背中 監督・降旗康男に遺した男の立ち姿
大下英治 (著)
高倉健の背中 監督・降旗康男に遺した男の立ち姿
高倉健の背中 監督・降旗康男に遺した男の立ち姿
大下英治 (著)
4位 stay
アメコミ映画40年戦記 いかにしてアメリカのヒーローは日本を制覇したか
小野 耕世 (著)
アメコミ映画40年戦記 いかにしてアメリカのヒーローは日本を制覇したか
アメコミ映画40年戦記 いかにしてアメリカのヒーローは日本を...
小野 耕世 (著)
5位 down
ゾンビ論
伊東 美和 (著)
ゾンビ論
ゾンビ論
伊東 美和 (著)

収録作品一覧

大系黒澤明 第4巻

大系黒澤明 第4巻
黒澤 明(著)/ 浜野 保樹(編・解説)
作品 著者 ページ
蝦蟇の油 21−211
幼少期の記憶 黒澤明 述 212−225
解題『蝦蟇の油』 浜野保樹 著 226−228
黒澤明のわが映画人生 大島渚 インタビュー 229−258
黒澤明語る 1 一九九一年一月二三、二七日 原田眞人 聞き手 260−303
黒澤明語る 2 一九九一年六月二七日 原田眞人 聞き手 303−350
映画についての雑談 352−369
『黒澤明全画集』解説 369−372
黒澤明監督に黒澤映画について聞く 佐藤忠男 述 372−401
黒澤明、自作を語る 2 淀川長治 述 401−409
黒澤明、自作を語る 3 淀川長治 述 409−416
黒澤明監督に「音」について聞く 西村雄一郎 述 416−433
外国の監督は、黒澤組の技術は一流中の一流だと絶賛しているよ。 西村雄一郎 述 433−456
一本道からの眺望・黒澤明さん 456−475
スティーブン・スピルバーグ スティーブン・スピルバーグ 述 478−482
ガルシア・マルケス 第1部 創作の秘密 ガルシア・マルケス 述 482−498
ガルシア・マルケス 第2部 核をめぐる論争 ガルシア・マルケス 述 498−517
30本目の黒澤作品『八月の狂詩曲』をめぐって ヴィム・ヴェンダース 述 518−524
現状に憂いつつ83歳でなお世界に飛翔する ジュリー・ドレフュス 述 524−528
映画の秘密。 侯孝賢 述 528−534
日本映画のことを話してるとだんだん腹が立ってくるね… 萩原健一 述 536−548
いま映像とは!?その立て直しはどうする… 村上龍 述 548−555
映像と音楽 武満徹 述 555−566
黒澤明の世界 武満徹 述 566−597
映画にとって音楽は毒薬だ 武満徹 述 597−606
ユーモアの力・生きる力 井上ひさし 述 606−640
芸術は真摯な遊びである 横尾忠則 述 640−649
黒澤映画の、語られなかった舞台裏。 山田洋次 述 649−664
『七人の侍』ふたたび 山田洋次 述 664−681
「世界に通用する映画」を語る!! 井上ひさし 述 681−685
日本映画と、日本人の国際性を問う 筑紫哲也 述 685−690
「映画」をいかに摑むか 筑紫哲也 述 690−698
黒澤明と語る 大友克洋 述 698−704
黒澤明と語る 横尾忠則 述 704−711
映画は粋でなければダメ ビートたけし 述 711−718
映画の魔力アニメの魅力 宮崎駿 述 718−727
日本映画界の宝、この二人の映画愛。 淀川長治 述 728−739
演出について 742
續姿三四郎 742−747
原作者の夢 富田常雄 著 747−748
黒澤明素描 成瀬巳喜男 著 748−749
『七人の侍』撮影開始 749−752
『七人の侍』製作費その他 752−753
腹切って作った『用心棒』の音楽 佐藤勝 著 753−755
『椿三十郎』について 755−756
原作とシナリオは対立するのか 井手雅人 著 756−758
ヒロイズム否定の背後にあるもの〈どですかでん〉の展開 小川徹 著 758−770
われら“六人の侍”『影武者』体験談 阿藤海 述 770−781
『乱』について 井手雅人 著 781−784
再び『乱』について 井手雅人 著 784−788
『夢』制作日誌 788−796
無題 796
資料編 797−859
hontoからのお知らせ一覧
恩田陸・堂場瞬一ら4名の話題作家サイン本プレゼント!
丸善本店にてhontoブックツリーのコラボレーション企画『あの著者が選ぶ「テーマで読む5冊」』スタート!
丸善日本橋店とhontoブックツリーのコラボレーション企画スタート!
電子書籍ストア

小説・文学
経済・ビジネス
男性コミック
女性コミック
ライトノベル
暮らし・実用
雑誌
ボーイズラブ
ラブロマンス
新着予約一覧
特集一覧
本の通販ストア

文庫
経済・ビジネス
男性コミック
女性コミック
暮らし・実用
雑誌
Music
DVD
新刊予約一覧
特集一覧
中古買取
店舗情報

丸善
ジュンク堂
文教堂
店舗検索

会員登録カートを見るお気に入りお知らせ
運営会社サービス利用規約個人情報保護方針個人情報の取り扱いについて特定商取引に基づく表示資金決済法に基づく表示サイトマップヘルプ
Copyright © 2Dfacto,Inc.

2:04 午前  
Blogger yoji said...

(「映画についての雑談」は『大系黒澤明』第4巻に再録された。)

2:07 午前  
Blogger yoji said...

(「映画についての雑談」は『大系黒澤明』第4巻2010年に再録された。)

2:09 午前  
Blogger yoji said...

昭和文学大全集3 志賀直哉 「盲亀浮木」~クマ~(愛犬)短編を長文引用。志賀直哉のキャラ、小説技術が良く出ている。写真のクマは見栄えのする堂々たる犬。どう見てもセッターである。 ( 政党、団体 ) - 反俗日記 - Yahoo!ブログ
http://blogs.yahoo.co.jp/xhhfr149/27039786.html?__ysp=55uy5LqA5rWu5pyoIOW%2Fl%2BizgOebtOWTiSDniqw%3D
  昭和文学大全集3 志賀直哉 「盲亀浮木」 
W。盲亀浮木の意味 - 四字熟語辞典 - goo辞書   仏教講座|親鸞聖人はなぜ、人間に生まれたことを喜べと言 ...

     クマ
「~帰ろうとすると下から二番目の娘が一匹の子犬の首に両手の間に挟んだまま、、しゃがんでなかなか立とうとしない。
『欲しいわ。この犬ほしいわ』と私の顔を見上げ、殊更、そういう表情をして承知させようとした。またその子犬もどういう気持か、尻尾を垂れ、い彩におとなしくしているのだが、そんなはずはないのだが、もらってもらえるか心配しているようにもみえるのだ。ムク犬で、如何にもゲテモノの犬だった。
~『東京まで連れて行く犬ではないから、引き揚げるとき誰かにもたってもらうんだ』 W、奈良在住13年。上京へ。
こんななことを何度も子供たちに確かめておいた。シェパード、エアデールあるいは日本犬など純粋な犬が良好している時、この雑種のだ権をいつまでも買っておく気はしなかった。それに、そういう犬の野良犬根性には梃子づッた事があり、~小品にも書いたが、駄犬には懲りていた。今はかわいいがいずれあんな犬になりそうと思われたので、予め子供たちにそういっておいた。

結局、熊の様だと云うのでクマとなずけた。
 ココで男の子が学校にだした「熊」という作文の冒頭を映してみる。
『~熊は犬の名前である。熊と名前をもらいだけあって、長い毛がもじゃもじゃしている。唐獅子にも似ているし、熊にも似ているが、やはり犬である以上は犬にも似ている。』
 確かに犬にも似ている犬である。

クマがまだ小さいころ、奈良公園を連れて歩いていると、奈良に遊びに来た女が眼に角を立てて『けったいな犬やなあ』と見下ろして行ったことがある。長い、白と濃い茶の毛が分かれ分かれでなく、ごちゃごちゃに密生しているのが、如何にも汚れているようで汚く見えた。それゆえクマの容貌には極端に卑下していたが、買っているうちに性質の良いことがだんだんはっきりしてくると、自分でもいがない名ほどこの犬が可愛くなった。賢く下品なところがない犬だった。見かけによらぬとはこのことだと想った。

W、買ってきた~家鴨(アヒル)庭の方に下げてくると匂いで知れるのか、クマは異常な好奇心で耳を前向きに立て、尻尾を上げ、それを固くして振りかざしながらついてきた。
~笑死が起こればやめるに違いがないという自信から、クマのいるところで、かまわず、家鴨を袋から出しみた。同時にクマは偉い勢いで飛びかかっていった。庭じゅう大変な騒ぎだ。子供らの悲鳴、私のどなる声、家鴨の驚いた鳴き声、そしてクマだけが黙ってそれを追いかけた。クマが加えて抜けた羽がその辺に飛び散る。しかし愚鈍のようでも家鴨は案外上手に逃げまわり、遂に身体をかまれることはなかった。
~私は男の子に家鴨を捕まえさせて来させ、クマの花に刷りつけるようにして、さんざん尻をなぐってやった。クマは地面に腹をすりつけ、哀しげな目つきをしていたが、それでクマにはこの鳥を追いかけてはならぬことが良くわかった。
~家鴨は群居している習性から、一羽になると酷くさびしがり、庭の中をクマの後ばかりついて歩いき、クマが寝転ぶと、その鼻先に来て自分腹を地面につけ、羽根の間に頭を埋め、寝るというふうで、クマの方はそれに喜ぶ様子もなかったが、家鴨の方はすっかりクマになれ、終始一緒にいるようになった。
~~
そして昨年の春、私たちが出てくるとき、クマも一緒に出てきたが、賢いようでも田舎者のことで、迷子になっては困ると想い、クマは10日間鎖につないでおいた。
~運動に連れて歩き、もう大丈夫だろうと思ったので、、10日目に私はクマを鎖から放してやった。
ところがそれから2,3にちしてクマはやはり迷子になってしまったのだ。
~奈良とと違い東京では佐賀市に出てみたところが、探し当てる見込みはなかった。それでも子供たちを連れ~射的場の山の上から四方を向いて、子供と一緒に大声でクマを呼んでみたりした。ひどく寒い風の吹く夕方であった。
 近所の交番に私自身出かけて届けても、巡査はとても探すわけにはいかにと云い、2,3日して帰らなかったら、廃犬届けをする方がいい、その世話ならするという話だった。
 賢い犬にしては似合わしからぬ事に想われた。電車など一度も見たことのない犬で、電車にはね飛ばされたかもしれず、また、よく自動車を追いかけたりする開けないない犬のことで、ソレにひかれて死んだかもしれぬなどと私たちは話し合った。
 夜、犬の鳴き声がすると、クマの声に聞こえ、起きて、窓を開け、夜中、近所もはばからず大声で呼んでみたこともたびたびであった。
もしかすると、どうしても自家が分からず、奈良に変える気になったのではなかろうかという想像もした。
~『そんなこともあるまいが、とにかく、手紙を出しておく方がいいね』と私は家内に奈良へ手紙を出させた。
 このころ、東海道を西へ向かって、食うものも食わずに歩いているクマの姿を考えると、不快な気持になった。
『もう幾日になるだろう』
『4日の晩のご飯は食べているのですからーー』などと、日を数えたりした。
  

 ある日、私は男の子を連れ神田の本屋に子供の使う虎の巻を買に行くことにしていた。

結局出かけることにして、男の子とその下の女の子を連れて自家を出た。
~~~~~
このバスが江戸川橋の十字路を通る時、私は何気なく外を見ていたが、護国寺の方へ江戸川橋を渡って小走りに駆けていく犬が、遠目にクマに似ているような気がした。
~迷いつつ子供に『あれクマじゃないか?』というと、内で一番動物好きの女の子がたちあがり、興奮して
『クマだクマだ』とおきな声を出した。
 バスはすでに十字路を超え、犬の姿は家に隠れて見えなかったが、私は子供に『次の停留所で待ってなさい』
といい、起っていくと、女車掌はとうせん坊をして
『どうぞ次の停留所でお降り願います』と云った。
『自家のはぐれ犬がいるんだ。一寸おろしてくれ』
『規則でございますから』
 私は女車掌を押しのけてバスから飛び降りたが、運転手は何も言わず、私にために、危険のないだけ速度を緩めてくれた。
~私は見境もなく
『クマーークマ』と大声で呼んだが、犬は振り向こうともしない。私は犬より速く走って間の距離を縮めるより方法はない訳だが、情けないかな、一生懸命走るつもりで、ソレがさっぱり速くないのだ。走ることは得意な方だと想っていたが、、ソレは過去の記憶であって、現在の自分は身体がまるで云うことをきかなかった。
~~
ここで見逃せば再びクマに出会うことはないと想うと、見境構わず『クマーー、クマーー』私はどなった。
~そして私が弱るに従ってクマとの距離はだんだん遠くなっていくのが気が気でなかった。
~~~
『あの犬ですか』戦闘帽をかぶった職工風の若者が、すぐわきの自転車にまたがり、追いかけてくれた。~若者はその前から、犬を追いかけている私を見ていたに違いない。
~若者は間もなく追いついたが恐ろしいのかすぐ捕まえようとせず、自転車で唯、そのあとをついていくのは遠く見えた。
 空の円タクが来たので止めて乗った。
『茶色の大きな犬でしょう?』彼方からきた円タクでクマを見ていたのは好都合だった。
 護国寺の門の前でようやく捕まえることができた。自転車の若者に少しばかりの礼をしようとしたが、なk中受け取らないので無理に渡し、私はクマとともに自動車で~江戸川橋の上で待っていた子供をもせ、神田行きはやめにして~。

江戸川橋に来て、男の子と女の子がのってくると、クマは自分が救われたことを、ハッキリ意識したらしく、非常に喜んだ。そして腰かけている私の両肩に前足をかけ、いくらそれをはずし、座らそうとしても、またしても立って私の肩に両の前足をかけ、わたしの顔の前で長い舌を出し早い息使いをしていた。
 あきらめていたところだったから、自家の者の喜びは非常だった。
牛乳をやり、バターをつけたパンをやり、シュークリームまで与える子供もあった。しかしクマは始めはガツガツ食っていたが、それよりもしばらく眠らしてほしいと云う風に、前足の間に首を入れ、薄眼を開いたり閉じたりしていた。
『偶然かもしれないが、偶然ばかりじゃない気もするね』
『よっぽど縁が深いのね。可愛がってやっていいわ』
『田中に頼んでおいたエアデル、どうするかな、断ろうか』
『そうね、二匹となると、いくらか情愛が薄くなったりするとかわいそうだから、お断りになったら』
~~~
それにしても偶然と云ってしまってもいいものかどうか、わからない気がした。
 私は2,3日、腿の肉が痛み、歩行に不自由した。クマの方もやはり2,3日はすっかり弱っていて寝てばかりいたが、ソレを過ぎるとまた元気なクマに帰った。
~~~
 クマがいなくなって、1週間、私たちの心は何となく晴れなかったし、クマの方はおそらく必死になって私たちを探していただろう。そういう両者にとって十字路での3秒のチャンスは偶然すぎる。

***
 松岡正剛 千夜千冊 1236夜 志賀直哉 http://1000ya.isis.ne.jp/1236.html 転載 
『邦子』発表の頃の直哉と飼い犬クマ  奈良上高畑にて (昭和2年)
イメージ 1

2:45 午前  
Blogger yoji said...


(以下「映画についての雑談」は『大系黒澤明』第4巻(2010年)に再録された。)

映画についての雑談  黒澤明

 映画とは何か?
 これを、的確に定義づけることはむずかしい。
 昔、志賀直哉さんがこれは近ごろの名文であるといって、お孫さんの書いた文章をどこかの雑誌に発表したことがある。[注:志賀直哉「盲亀浮木」]
 それは、「私の犬」という題だが、こんなふうに書いてある。
 私の犬は熊に似ている、狸にも似ている、狐にも似ている……と、その大の特徴をあげて、その点が似ている他の動物の名前を沢山ならべ、そしておしまいに、しかし、犬だから一番犬に似ている、 と書いてある。
 僕は、それを読んで思わず吹き出してしまったのを覚えている。今、こんな話を持ち出したのは、映画というものは、他のいろいろな芸術に似ているからで、映画には、大変文学的なところもあれば、演劇的なところもあるし、哲学的な面も、美術的、音楽的な要素もある。
 しかし、映画はあくまで映画だ、 と言いたい。
 映画を見ていて、映画美というか映画でなければそういう感動もないし、映画以外にはこういうことは表現出来ない、しかもそれが大変うまくいっている、そんな時には見ていて何かゾクゾクッとするような感動がある。 そういうものにひかれてお客さんも見に来るんだと思うし作っている人もそういうことをやりたいからやっている。
 つまり、そこに映画があるんだ、 と僕は考えているだけだ。
 では、そういうものをどんなふうに表現するかというと、僕の場合は、いつの場合でも、プロデューサーなり会社なりの出してきた企画はやったことがない。自分は今こういうことを言いたい、というのが作品になっていく。この自分が言いたいというものが映画の根になる企画だ。それを育てて一本の本にしていくのが脚本だ。その本に花を咲かせ、果実を実らせるのが演出だ。 そして、 その演出の仕事の中には、俳優の演技の指導、撮影、録音、美術、音楽、編集、ダビングという仕事がある訳だが、一応はそう分類しても、僕としてはその全部が一かたまりに溶け合って、 その一つ一つを切り離しては考えられない。
 プロデューサーが持ってきた企画をやる、 そして、 それをあるシナリオライターが書いて、演出だけを引き受けるという人もいるけれど、僕の場合は、最初からおしまいまで全部自分でやっているわけです。

7:02 午後 削除
Blogger yoji さんは書きました...

 『藤十郎の恋』(山本嘉次郎監督・昭和13年)の時、完成が近づくころはもう何日も眠っていない。衣裳部屋へ行くと、おばさんが見かねて布団を延べてくれてちょっと眠りなさいって言ってくれる。でも、そうはしていられない。ただ、一度たまらなくなって1時間ぐらいその布団につんのめるようにして眠ってしまった。そうしたら、その間に、照明さんが荷重(ライトを支える吊り板)から落ちる事故があって……。
 その後セットヘ入って行った僕を山さんが珍しくきつい眼で見て「黒さん、何処へ行ってたの?」と言われたI時は、本当に穴があったら入りたかった。 それからは荷重(にじゅう)の上の照明部は腰を太綱でしばって、落っこちでも大丈夫なようにして……とにかく忙しくて大変だった。
 ある時、徹夜が続いたあと、やっと仕事が終わって表へ出た時の照明部の会話を今でもおぼえている。
 「おい、きれいな夕暁けだなあ!」
 「ばか、あれは朝けだぜ!」

7:03 午後  
Blogger yoji said...


(以下「映画についての雑談」は『大系黒澤明』第4巻(2010年)に再録された。)

映画についての雑談  黒澤明

 映画とは何か?
 これを、的確に定義づけることはむずかしい。
 昔、志賀直哉さんがこれは近ごろの名文であるといって、お孫さんの書いた文章をどこか
の雑誌に発表したことがある。[注:志賀直哉「盲亀浮木」]
 それは、「私の犬」という題だが、こんなふうに書いてある。
 私の犬は熊に似ている、狸にも似ている、狐にも似ている……と、その大の特徴をあげて、
その点が似ている他の動物の名前を沢山ならべ、そしておしまいに、しかし、犬だから一番犬
に似ている、 と書いてある。
 僕は、それを読んで思わず吹き出してしまったのを覚えている。今、こんな話を持ち出した
のは、映画というものは、他のいろいろな芸術に似ているからで、映画には、大変文学的な

ところもあれば、演劇的なところもあるし、哲学的な面も、美術的、音楽的な要素もある。
 しかし、映画はあくまで映画だ、 と言いたい。
 映画を見ていて、映画美というか映画でなければそういう感動もないし、映画以外にはこう
いうことは表現出来ない、しかもそれが大変うまくいっている、そんな時には見ていて何か
ゾクゾクッとするような感動がある。 そういうものにひかれてお客さんも見に来るんだと
思うし作っている人もそういうことをやりたいからやっている。
 つまり、そこに映画があるんだ、 と僕は考えているだけだ。

 『藤十郎の恋』(山本嘉次郎監督・昭和13年)の時、完成が近づくころはもう何日も眠って
いない。衣裳部屋へ行くと、おばさんが見かねて布団を延べてくれてちょっと眠りなさいって
言ってくれる。でも、そうはしていられない。ただ、一度たまらなくなって1時間ぐらいその
布団につんのめるようにして眠ってしまった。そうしたら、その間に、照明さんが荷重(ライ
トを支える吊り板)から落ちる事故があって……。
 その後セットヘ入って行った僕を山さんが珍しくきつい眼で見て「黒さん、何処へ行ってた
の?」と言われたI時は、本当に穴があったら入りたかった。 それからは荷重(にじゅう)の上の
照明部は腰を太綱でしばって、落っこちでも大丈夫なようにして……とにかく忙しくて大変だ
った。
 ある時、徹夜が続いたあと、やっと仕事が終わって表へ出た時の照明部の会話を今でもおぼ
えている。
 「おい、きれいな夕暁けだなあ!」
 「ばか、あれは朝けだぜ!」

7:30 午後  
Blogger yoji said...

2017年4/1(土)公開 映画『乱 4K』予告編 - YouTube


https://m.youtube.com/watch?feature=youtu.be&v=uqG3X9ocJ1s

7:20 午後  
Blogger yoji said...

ジブリの鈴木プロデューサーが宮崎アニメの登場人物は黒澤映画の
登場人物に似ていると言っていた
さらに黒澤映画では主人公だけだが、宮崎アニメにはそうした人物が
4人くらい出てくると…

ただし、
もののけ姫で自然と人間の相克の答えを宮崎駿は探していたというが
その答えは黒澤明がデルスウザーラですでに出していたと思う

デルスという生きた答えを

9:09 午前  
Blogger yoji said...

主人公の行動原理に関しては
内田吐夢の映画と比較するといい

内田吐夢の映画の主人公は自分のために戦うが
黒澤明の映画の主人公は他者のために戦う

それは血縁を超えている

スターウォーズではロボットコンビより
師弟関係がより本質的な黒澤映画からの影響としてあると言える

9:12 午前  
Blogger yoji said...


(以下「映画についての雑談」は『大系黒澤明』第4巻(2010年)に再録された。)

映画についての雑談  黒澤明

 映画とは何か?
 これを、的確に定義づけることはむずかしい。
 昔、志賀直哉さんがこれは近ごろの名文であるといって、お孫さんの書いた文章をどこかの雑誌に発表したことがある。[注:志賀直哉「盲亀浮木」]
 それは、「私の犬」という題だが、こんなふうに書いてある。
 私の犬は熊に似ている、狸にも似ている、狐にも似ている……と、その大の特徴をあげて、その点が似ている他の動物の名前を沢山ならべ、そしておしまいに、しかし、犬だから一番犬に似ている、 と書いてある。
 僕は、それを読んで思わず吹き出してしまったのを覚えている。今、こんな話を持ち出したのは、映画というものは、他のいろいろな芸術に似ているからで、映画には、大変文学的なところもあれば、演劇的なところもあるし、哲学的な面も、美術的、音楽的な要素もある。
 しかし、映画はあくまで映画だ、 と言いたい。
 映画を見ていて、映画美というか映画でなければそういう感動もないし、映画以外にはこういうことは表現出来ない、しかもそれが大変うまくいっている、そんな時には見ていて何かゾクゾクッとするような感動がある。 そういうものにひかれてお客さんも見に来るんだと思うし作っている人もそういうことをやりたいからやっている。
 つまり、そこに映画があるんだ、 と僕は考えているだけだ。
 では、そういうものをどんなふうに表現するかというと、僕の場合は、いつの場合でも、プロデューサーなり会社なりの出してきた企画はやったことがない。自分は今こういうことを言いたい、というのが作品になっていく。この自分が言いたいというものが映画の根になる企画だ。それを育てて一本の本にしていくのが脚本だ。その本に花を咲かせ、果実を実らせるのが演出だ。 そして、 その演出の仕事の中には、俳優の演技の指導、撮影、録音、美術、音楽、編集、ダビングという仕事がある訳だが、一応はそう分類しても、僕としてはその全部が一かたまりに溶け合って、 その一つ一つを切り離しては考えられない。
 プロデューサーが持ってきた企画をやる、 そして、 それをあるシナリオライターが書いて、演出だけを引き受けるという人もいるけれど、僕の場合は、最初からおしまいまで全部自分でやっているわけです。

 『藤十郎の恋』(山本嘉次郎監督・昭和13年)の時、完成が近づくころはもう何日も眠っていない。衣裳部屋へ行くと、おばさんが見かねて布団を延べてくれてちょっと眠りなさいって言ってくれる。でも、そうはしていられない。ただ、一度たまらなくなって1時間ぐらいその布団につんのめるようにして眠ってしまった。そうしたら、その間に、照明さんが荷重(ライトを支える吊り板)から落ちる事故があって……。
 その後セットヘ入って行った僕を山さんが珍しくきつい眼で見て「黒さん、何処へ行ってたの?」と言われたI時は、本当に穴があったら入りたかった。 それからは荷重(にじゅう)の上の照明部は腰を太綱でしばって、落っこちでも大丈夫なようにして……とにかく忙しくて大変だった。
 ある時、徹夜が続いたあと、やっと仕事が終わって表へ出た時の照明部の会話を今でもおぼえている。
 「おい、きれいな夕暁けだなあ!」
 「ばか、あれは朝やけだぜ!」

9:17 午前  
Blogger yoji said...



地道な左翼は2ch等ネットで空中戦なんてしていない
だから出会わない
地域でアナーキズム、自主管理運動をしている
だから地方へ行けば会える

黒澤明は転向したことになっているが
一番美しくなどにあるのは自主管理の思想だ
つまりアナーキズムだ

サンディカリズムといってもいいくらいだ

七人の侍にもそれはある

右翼に皇道派/統制派があるように左翼もいろいろあるということだ

ちなみに、アナーキストのプルードンは最後の著作の最後のページを書かずに
友人に委ねた
黒澤明も雨あがるのシナリオの最後のページを後進に託した

プルードンはトルストイの戦争と平和と少し関係している
(トルストイはベルギーでプルードンに会っている)

黒澤明はプルードンを知らなかったろうが、興味深い

ちなみにプルードンはストライキに反対した
働けば働くほど利益が廻る販路をつくろうとした
黒澤の兄はストライキで疲弊したが当たり前の話だ
いまはクラウドファンディング等もあるから昔の苦労は想像を絶するが

7:18 午前  
Blogger yoji said...

黒澤明は部署を越えて助けあわないようなアメリカ式のユニオンを批判したが
ユニオン(労働組合)とコーポラティズム(協同組合主義)は利害が背反する場合がある

今はタレント組合の必要性が叫ばれるくらいだから
状況が違う
映画界も部門ごとに組合が必要だろう

7:25 午前  
Blogger yoji said...

黒澤明は部署を越えて助けあわないようなアメリカ式のユニオンを批判したが
ユニオン(労働組合)とコーポラティズム(協同組合主義)は利害が背反する場合がある

今の日本はタレント組合の必要性が叫ばれるくらいだから状況が違うが

7:26 午前  
Blogger yoji said...

Amazon | 乱 4K Master Blu-ray BOX | 映画
https://www.amazon.co.jp/dp/B019GNMSU6/ref=sr_1_2?ie=UTF8&qid=1488446865&sr=8-2&keywords=乱+黒澤

5つ星のうち 2.0これが「乱」決定版とは思えない
投稿者 蒼い風車 投稿日 2016/2/28
形式: Blu-ray Amazonで購入
好きな「乱」の4Kリマスター版ということで、早速購入した次第。
早速視聴してみると、なるほど確かに今までのものと比べ、全体の輪郭がハッキリとした印象をうけ、遠近感もよくなったように思います。

しかしながらどこか違和感があり、最近CS時代劇専門チャンネルで放送されたものと比べてみますと、その差は歴然。

4K版は画面が「青みがかっている」のです。
秀虎や楓の方の白い着物も青白くなり、輝きを失い美しさの欠片もありません。
何より照りつけるような夏の日差しの眩しさが、損なわれています。蝉の鳴く城址も、まるで日陰のようです。
また、暗い部分・影となっている部分はより暗くなっています。
例えば、本編開始から2時間ほどの場面、次郎と楓の方が酒を酌み交わす場面では、楓の方の奥にある家具の緑色の装飾が見えにくくなってしまっています。
さらに夕景の終盤は、赤みが無くなり別物の様です。

これが黒澤明監督の意図した通りの画面になっているとは、到底思えません。(特に色彩については)

この素晴らしい作品の決定版として、この4Kリマスター版を推奨するのは憚られます。

それにしても見返す度に思うこと。
高倉健の鉄修理が見たかった。
3 コメント 41人のお客様がこれが役に立ったと考えています. このレビューは参考になりましたか?
はい
いいえ
違反を報告
5つ星のうち 5.0ようやく黒澤、晩年の最高傑作が監督の構想通りの色彩・音響で蘇る日が来たのか??(2016/3/23更新)
投稿者 映画フリーク(子連れフリーク改め) 投稿日 2015/12/18
形式: Blu-ray
実は、他の方のレビューに以下のコメントをさせて頂いたところ多くの方に参考になったとの意見を頂いたので、敢て、その内容をレビューにUPする事にしました。
本BDには賛否両論ある様ですが、購入時の参考にして頂ければ幸いです。

さて、僕もレビューを書いた以上、というかこの作品に思い入れがあるので、コメントさせてください。
僕のレビューにあるとおり本BDの色彩については、僕も「くすんだ様な」「銀残し」みたいと感想していますが、恐らく他のレビュアーの方も同様の印象をお持ちになり「決定版と言い難い」とレビューされたと想定されます。

僕は、「幻の東宝版DVD」「旧角川版BD」「スタジオカナル版BD(世界公開版のBD)」全て所有しています。
で、それぞれ比較検証してみました。
結論から言うと「東宝版」「旧角川版」いずれも彩色の点では遜色ないです。
劇場で見た彩色にイメージがより近い。
また本BDで最後の夕景同様、僕が気になったのは「チャプター42」の秀虎が見上げた空の色、何とも表現し難い「青黒い?凄絶な色」が、ただの「モノクロ」みたいで、ここも本作の重要なシーンで黒澤以外には出せない色彩表現なのに、との思いが僕にもあります。
本シーンも先の2種でも劇場公開時の彩色どおりです。
恐らくCSの放送は「旧角川版」のマスターではと思います。(BS日テレもそうでした)

実は、本BDと彩色の点で、ほとんど同じなのが「スタジオカナル版」です。
もちろん本編の映像・音響(音楽・効果音)は「日本公開版」である事は間違いないのですが最初のクレジットに「スタジオカナル」とある以上、レストアの作業に何らか関与をした可能性が考えられます。
実際アマゾンUKでは「スタジオカナル」から5月に「乱 4Kリマスター版」が発売されるらしく映像特典も本BDと全く同じみたいです。
と言う訳で、僕の考えが当たっているのかもと思うのです。
しかし、「上田正治」さんが監修されていますし、版権が角川にある以上、その角川が「決定版」として発売したのですから、その言葉を信じるしか僕たちには無いのです。

少なくとも以前のどのソフトより解像度が各段にアップしているのは確か。

また、もう一つの可能性としてあまりに見事な「三の城合戦」はシナリオ決定稿でも絵コンテでも「ギラギラした太陽」の下で撮影されるはずが撮影直前に監督の閃きで急遽、霧に包まれた設定となり、その霧待ちで撮影が大幅に伸びたエピソードがある位なので監督自身「くすんだ色合い」で全編を包みたかったのかなあとも考えました。

どちらにしろ、監督自身、そして当時のメインスタッフが故人となられた現在、もう僕たちには何が正解か判断出来ない訳です。
その点が返す返すも残念でなりません。

ちなみに4Kリマスターやニューマスターが返って評判が悪いというケースなら結構あり「トラ・トラ・トラ」とか「燃えよドラゴン」等も散々なレビューです。
まだまだ開発途上の技術なのかもしれません。
やたら長いコメントでごめんなさい。
実は、僕も、いつか「乱 究極版」の発売を願っているのかもしれませんね。
その時は僕のレビューに書いた通り「東宝版DVD」に収録されていた「創ると云う事は素晴らしい」を是非収録して欲しいです。

以下は購入直後のレビューです。

早速、購入したBDを鑑賞しました!
凄いです!!
映像は、当時の日本映画のソフトとしては想定外の高画質・高音質です!
旧版BDとの違いは冒頭から明らか。
山々に配置された警護の武者の背中の矢束が1本1本くっきり鮮明に映し出されています。
全シーンとも旧版の「ぼやけた映像」から「シャープな映像」になり、もう目が画面にクギ付け!
発色もグレードアップが歴然。
意外だったのは、絵コンテのとおり全体が「ギラギラ」した「キツイ色合い」になっていると勝手に想像していたのですが、実際には市川崑の「おとうと」で有名な「銀残し」みたいに「幾分くすんだ色合い」だった事。
透明感が強調された「影武者」(あくまで「クライテリオン版」との比較ですが)とは随分違った印象です。
やはり、黒澤は、同様の時代背景・テーマの作品を連続して発表しても(その経緯は、ご存知の通り)観客に違いを感じさせることが出来る天才だったと改めて実感。
兎に角全シーンが見どころの「戦国絵巻」を心行くまで堪能でき幸せです。
あと音声もDTS-MAが遺憾なく発揮されセリフは聞きやすく、また騎馬戦の音の迫力も半端ないです。
なお特典映像も、このバージョンが上映された東京国際映画祭のシンポジウム等も収録され特典だけで223分というのも嬉しいです。
角川さんは「羅生門」のデジタル修復版や「おとうと 4kリマスター版」等等、本当に素晴らしい仕事をしてくれています。

値段に見合う価値あるソフトであると断言します!

(以下は過去のレビューです:参考まで)
「乱」は、誰が何と言おうとも僕にとって黒澤明の最高傑作のひとつ(もう黒澤の場合「七人の侍」「用心棒」「生きる」「赤ひげ」等の内で、どれが真の最高傑作かを決める事など無意味だと思う、そして「乱」も同じ)であると断言する。
また、この映画に影響された映画等、あげたらきりが無い。高い評価を受けている「プライベートライアン」の「オマハビーチ戦」なんか「乱」の「三の城攻防戦」の「パクリ」のレベルである(無音になる・自分の千切れた腕を持ってる兵士が出てくる等等)しかも「乱」の凄みに及ばない。
公開当時の評論家の本作に対する「バッシング」は、実は黒澤映画では昔からなので全然関係ない。自分で見れば素晴らしさに感動する事は保証する。
しかし「乱」ほど不当な扱いを受け続けた作品も少ない。本作の劇場公開時のプリントは当時の東宝クオリティで発色等、黒澤の絵コンテとは比べ物にならない貧弱な物で音響も最低。黒澤は、試写で落胆したに違いない。
その後も悲劇は続く。本作は日本以外では元々評価が高いため結構早くからクライテリオン社から2Kリマスター版が発売される予定だったが、発売寸前で海外でのソフト化権を失ってしまい「お蔵入り」。
同社の「影武者」のBDの出来が黒澤の絵コンテそのままの再現の様に素晴らしい物だっただけに残念であった。
その後BD化した某社はクライテリオンと違い「海外公開版」のBD化で、画質・音質も某社クオリティで、全然ダメダメな代物。
そして以前の日本版BDは、当時の角川クオリティで、どこがBDか分からない残念な代物。
しかし、今回は4Kリマスター版である。角川の4Kリマスターシリーズは、以前の同社のBDとは全く違う商品で「セーラー服と機関銃」「時をかける少女」等、こんなに綺麗な作品だったかと感動するハイレベルのソフト。「おとうと」に至っては完璧な「銀残し」再現で「これが本当の姿だったのか」と息を呑む程の絶品。
今回も、大いに期待出来ると思う。いや絶対期待に応えてくれるはずだ。
唯一、残念なのは、権利関係で以前、東宝の「乱」DVDの映像特典「創ると云う事は素晴らしい」(「乱」の黒澤自身が出演・解説するメイキング)が収録されない事だ。あれは、埋もれさせては、ならない世界遺産並の貴重な資料である。
角川が本BDを「乱」の決定版と考えるなら是非、東宝と交渉し多少価格が高くなっても権利を獲得し収録して欲しいのものだ。

1:31 午前  
Blogger yoji said...

出演: 仲代達矢, 寺尾聰, 根津甚八, 隆大介, 原田美枝子
監督: 黒澤明
形式: Color, Widescreen
言語: 日本語
字幕: 日本語
リージョンコード: リージョンフリー(全世界共通)
画面サイズ: 1.78:1
ディスク枚数: 2
販売元: KADOKAWA / 角川書店
発売日 2016/02/26
時間: 162 分
おすすめ度: 5つ星のうち 3.8 15件のカスタマーレビュー
ASIN: B019GNMSU6

1:32 午前  
Blogger yoji said...

http://www.youtube.com/watch?v=7Hmbp-oBImI&fmt=18宮崎駿 黒澤明 対談 (1/10) 1993年05月06日

http://www.youtube.com/watch?v=DwlGYoaEqlU&fmt=18宮崎駿 黒澤明 対談 (2/10) 1993年05月06日

http://www.youtube.com/watch?v=D7i9c87mv_c&fmt=18宮崎駿 黒澤明 対談 (4/10) 1993年05月06日

http://www.youtube.com/watch?v=5PIXde447IE&fmt=18宮崎駿 黒澤明 対談 (6/10) 1993年05月06日

http://www.youtube.com/watch?v=V9IEDl0fSaM&fmt=18宮崎駿 黒澤明 対談 (7/10) 1993年05月06日

http://www.youtube.com/watch?v=wGtzyF2UBP0&fmt=18宮崎駿 黒澤明 対談 (10/10) 1993年05月06日

http://www.youtube.com/watch?v=qxr7HG63dA4&fmt=18黒澤明、「世界の若者と語る」−若者の質問に監督が答えます。

http://www.youtube.com/watch?v=GMn23o2pT0s&fmt=18北野武と黒澤明。 奇跡の対談。

全部見つけることできんかった(>_<)

7:11 午後  
Blogger yoji said...

クラシックCD感想メモ  引き続き、黒澤明の映画におけるクラシック音楽
http://clamemo.blog44.fc2.com/blog-entry-883.html

今回は原曲をアレンジしたメロディが使われているケースと、映画作品のコンセプト自体としてクラシックの曲が使われているケースについて思いつく限りで。

①ラベル 「ボレロ」

「羅生門」の中の、ある戦慄的なシーンにおいて、ラヴェルの「ボレロ」をアレンジした音楽が流れます。

②ドヴォルザーク 交響曲第9番「新世界より」

「七人の侍」という映画自体を黒澤監督はドヴォルザークの新世界に喩えています。

③ベートーヴェン 交響曲第9番「合唱」

「赤ひげ」の基本理念として黒澤監督はベートーヴェンの第九を掲げています。

④ハイドン 交響曲第94番「驚愕」

同じく「赤ひげ」で、加山雄三が演じる医師を少女が看病する感動的なシーンで、ハイドン「驚愕」の第2楽章のメロディがアレンジされて流されます。

⑤ブラームス 交響曲第1番

同じく「赤ひげ」のメインテーマ曲として、この交響曲の最終楽章の中心主題のメロディがアレンジされて用いられています。

⑥マーラー 交響曲第1番「巨人」

「乱」のラストでの葬送の場面で、この交響曲の第3楽章のメロディがアレンジされて用いられています。

以上のうち②と⑤は少し知られざるところかもしれません。

②は昨年に出版された四方田犬彦・著「『七人の侍』と現代――黒澤明 再考」 に書かれています(P.66)。

⑤は都築政昭「黒澤明と『赤ひげ』」の中で以下のように言及されています。

音楽担当の佐藤勝は、黒澤との作曲打合せの時、前述のようにいきなりベートーヴェンの第九のレコードを聞かされた。そして黒澤は「無味無臭の音楽を書いてくれないか」と言った。・・・佐藤は「第九」と「無味無臭」という黒澤の言葉の呪縛に苦しんだ。
・・・
 それがブラームスの第1交響曲に似た「保本登のテーマ」となった。ブラームスの第1番はベートーヴェンの不滅の9曲につぐ「第10番」だとさえ言われ、ベートーヴェン風の「暗黒から光明へ」の精神的闘争がテーマであり、特に第4楽章の主要主題がベートーヴェンの第九の“歓喜の合唱”の主題とよく似ているのである。黒澤の第九の呪縛の中にあった佐藤が、ブラームスの第1番に似た音楽を書いたのも自然であろう。
 この「保本登のテーマ」は、冒頭とラストで、また幾多の試練を克服して前向きに歩み出す人生の節々に静かに、優しく、力強く、そして激しく鳴り響く。

1:42 午前  
Blogger yoji said...

http://www.youtube.com/watch?v=3aq0oQkkgTM&fmt=18カンヌの黒澤明(1991年 第44回カンヌ映画祭)1/2

http://www.youtube.com/watch?v=e8NHAa-MzZ4&fmt=18カンヌの黒澤明(1991年 第44回カンヌ映画祭)2/2

9:47 午前  
Blogger yoji said...

安養院(あんよういん)は、神奈川県鎌倉市大町にある浄土宗の寺院。山号は祇園山。寺号は長楽寺。本尊は阿弥陀如来。千手観音(田代観音)を安置し、坂東三十三箇所・鎌倉三十三箇所第3番札所である。


安養院 (鎌倉市) - Wikipedia
ja.wikipedia.org/wiki/安養院_(鎌倉市)
安養院(あんよういん)は、神奈川県鎌倉市大町にある浄土宗の寺院。山号は祇園山。 寺号は長楽寺。本尊は阿弥陀如来。千手観音(田代観音)を安置し、坂東三十三箇所・ 鎌倉三十三箇所第3番札所である。
祇園山 安養院長楽寺 | 一墓一会 いちぼいちえ
ichiboichie.com/reien/祇園山 安養院長楽寺/
1225年(嘉禄元年)に北条政子が夫である鎌倉幕府初代将軍源頼朝の菩提を弔うため に創建した寺と伝えられる。当初は長谷笹目ヶ谷(はせささめがやつ)にあったが、1333 年に焼失し、現在地に移転した。 祇園山 安養院長楽寺 神奈川県鎌倉市大町3丁目1− ...
安養院へ御来山歓迎 - 坂東三十三観音
www.bandou.gr.jp/03.htm
第三番祇園山安養院田代寺(田代観音) 浄土宗〒248-0007 神奈川県鎌倉市大町3- 1-22 ℡0467(22)0806 ... 寺合併の由来 一方、嘉禄元年(一二二五)北條政子が夫 、頼朝の菩提を弔うため、笹目ヵ谷に願行上人を閉山として祇園山長楽寺を建立した。



3:47 午前  
Blogger yoji said...

黒澤 明の墓 - 著名人の墓巡り(趣味は墓参り) - Yahoo!ブログ
祇園山長楽寺安養院
http://blogs.yahoo.co.jp/syutentoku/13111553.html?__ysp=6buS5r6k5piOIOWikyDpjozlgIk%3D
2007/7/16(月) 午前 4:25 無題 練習用
facebookでシェア
twitterでつぶやく
イメージ 1

鎌倉の祇園山長楽寺安養院に(世界のクロサワ)の墓があると聞いて出かけた。地図を頼りに順を追って行くと、なんと見た事がある場所に辿り着いた。今は移転して空家になっているが、ネパールで日本語を教えた生徒が来日し、アルバイトをしていたオムレツで有名な店の前だった。以前何度か食べに来た事があったので「なんだ、ここだったのか~」と、妙に懐かしく感じてしまった。車を閉店したその店の駐車場に置き、まず本堂にお参りした。北条政子開基と案内板に書いてあり由緒ある寺のようだ。掃除をしていた女性に「黒澤監督のお墓はどこですか?」と聞くと、とても親切に教えてくれた。「おう、これがあの偉大な監督の墓なのか」と、一瞬やっと来れたという満足心に浸った。お線香に火をつけ合掌、般若心経を唱えると早朝なので静寂な墓地に響き渡り、とても気持ちよいものだった。黒澤作品は若い頃から封切映画館で観ているが、最近はレンタルビデオDVDがいつでも家のテレビで鑑賞出来るので助かる。とにかく黒澤映画をバター臭くした影響は、西部劇の巨匠ジョン.フォードからだそうだ。あの三船敏郎も黒澤映画でその本領が発揮されたのかもしれない。以前海外で映画の話になると、必ず「クロサワは新しい映画撮りましたか?」とよく聞かれたものだった。それこそ有名な映画監督にも影響を与えた偉大な芸術家であった。言葉、宗教、民族、国境を越えて楽しめる映画は世界共通の総合芸術である。
「ずーと楽しませてくれて有難う御座います。とても感謝しております。やすらかに」 南無阿弥陀仏 合掌
(1910~1998)平成10年9月6日没 88才

3:48 午前  
Blogger yoji said...



白井(佳夫) パゾリーニはお好きですか。
黒澤 好きですよ。だんだん難解になってきたけれどもね。
山田(宏一) どの辺がお好きなんですか。
黒澤 ぼくはやっぱり一番好きなのは『奇跡の丘』〔一九六四年〕かな。その後は、変ったことをしなければいけない、という風になっちゃった気がするね。どうも、そういう変な風潮が世界全体にあるね。そうじゃなくて、もっとわかりやすくて、ちゃんとしたことをいえて、いいんだと思うんだ。あまりにも、みんな異様なことをすることによって自己主張しようとする傾向が、映画だけじゃなくて一般に、出てきている。これはぼくは本道じゃないと思う。自然に異様なものが当然生まれてくる場合もありますがね。そうじゃなくて、無理をして、わからなく、不可解にしているような感じがしますね。

大系黒澤明第2巻518頁
どですかでん公開時の座談会より

1:09 午前  
Blogger yoji said...


白井(佳夫) パゾリーニはお好きですか。
黒澤 好きですよ。だんだん難解になってきたけれどもね。
山田(宏一) どの辺がお好きなんですか。
黒澤 ぼくはやっぱり一番好きなのは『奇跡の丘』〔一九六四年〕かな。その後は、変ったことをしなければいけない、という風になっちゃった気がするね。どうも、そういう変な風潮が世界全体にあるね。そうじゃなくて、もっとわかりやすくて、ちゃんとしたことをいえて、いいんだと思うんだ。あまりにも、みんな異様なことをすることによって自己主張しようとする傾向が、映画だけじゃなくて一般に、出てきている。これはぼくは本道じゃないと思う。自然に異様なものが当然生まれてくる場合もありますがね。そうじゃなくて、無理をして、わからなく、不可解にしているような感じがしますね。

大系黒澤明第2巻518頁
どですかでん公開時の座談会より
(初出「キネマ旬報』一九七〇年九月下旬号)

1:15 午前  
Blogger yoji said...

黒澤明は天才だから一般人とは違うものが見えている
黒澤映画ではカットとカットが溶け込むようにつながっているが
一般の人にはわからない
さらに言うとワンカットはどのコマを切りとっても
立体的に見える(見える人には見える)
天才は遺伝的なものということになるが
インタビューなどでは誤魔化している

「だけどもこんなことは常識的なことでしょう」大系4、485頁

9:30 午後  
Blogger yoji said...

最初劇場で影武者を見たときは駄作だと思った
次に時間をおいて再見したときは最高傑作だと思った
黒澤明は見る人の美意識を引っ張り上げる
こういう作家は他にエイゼンシュテインとタルコフスキーくらい

9:26 午後  
Blogger yoji said...

鈴木大拙
禅と日本文化
剣道に
七人の侍の冒頭官兵衛のエピソードの元ネタが紹介される

神陰流建設者が原典

2:35 午前  
Blogger yoji said...

岩波新書99頁

2:35 午前  
Blogger yoji said...

黒沢明監督の脚本、中国が映画化
未映像化の10本を対象
2017/5/19 15:12
 黒沢明監督が執筆し、映像化されずに残った脚本「どっこい!この槍」が、中国で映画化されることが19日、分かった。黒沢プロダクションが明らかにした。

 同プロダクションによると、中国のジンカ・エンターテインメント社が、黒沢監督の未映像化脚本のうち10本を対象に中国語訳を進め、
映画化を検討しており、第1弾として「どっこい―」の製作を決めたという。

 これとは別に、中国の大手配給会社が、黒沢監督が残した未映像化脚本「黒き死の仮面」の映画化を進めており、2020年の公開を目指している。

3:46 午前  
Blogger yoji said...



『蝦蟇の油』
〈作者のことば〉
 自分について書くと云う事は、四方を鏡で囲まれた、その真中に立って、四方を
眺める様なものだ。
 現在の自分から遠い過去の自分まで、見渡す限り続く自分の姿を、さまざまの
角度からいやでも眺めねばならない。
 四六(しろく)の蝦蟇(がま)ではないが、己の姿にたらりたらりと油汗が流れる思いである。
 よって、この私の自伝のようなものに、この表題をつけた。

2:36 午後  
Blogger yoji said...



 私は、そのテレビのインタビューを見ていて、これはまさに「羅生門」だと思った。
 「羅生門」で描いた、人間の性質の悲しい側面を眼のあたりに見る思いがしたのである。
 人間は、ありのままの自分を語る事はむずかしい。
 人間には、本能的に自分自身を美化する性質がある、という事を改めて思い知らされたのであ

 しかし、私も、この社長を笑う事は出来ない。
 私も、この自伝のようなものを書き綴って来たが、果してその中で正直に自分自身について書
いているのだろうか?
 やっぱり、自分自身の醜い部分にはふれずに、自分自身を大なり小なり美化して書いているの
ではあるまいか?
 私は、この「羅生門」の項を書きながら、その事を反省せずにはいられなくなった。
 そして、先に筆を進める事が出来なくなった。
 図らずも、「維生門」は、私が映画人として世界へ出て行く門になったが、自伝を書いて来た私
は、その門から先へは進めなくなってしまった。
 しかし、それもよかろう。
 「羅生門」以後の私については、それ以後の私の作品の中の人間から読みとってもらうのが一
番自然でー番いい。
 人間は、これは私である、といって正直な自分自身については語れないが、他の人間に托して、
より正直な自分自身について語っているものだからだ。
 作品以上に、その作者について語っているものはないのである。


本稿は、昭和五十三年三月より同年九月まで『週刊読売』誌上に
連載したものを、加筆・訂正のうえ、再構成したものである。

『蝦蟇の油』1984年6月22日岩波書店








9:43 午後  
Blogger yoji said...



 私は、そのテレビのインタビューを見ていて、これはまさに「羅生門」だと思った。
 「羅生門」で描いた、人間の性質の悲しい側面を眼のあたりに見る思いがしたのである。
 人間は、ありのままの自分を語る事はむずかしい。
 人間には、本能的に自分自身を美化する性質がある、という事を改めて思い知らされたのであ

 しかし、私も、この社長を笑う事は出来ない。
 私も、この自伝のようなものを書き綴って来たが、果してその中で正直に自分自身について書
いているのだろうか?
 やっぱり、自分自身の醜い部分にはふれずに、自分自身を大なり小なり美化して書いているの
ではあるまいか?
 私は、この「羅生門」の項を書きながら、その事を反省せずにはいられなくなった。
 そして、先に筆を進める事が出来なくなった。
 図らずも、「羅生門」は、私が映画人として世界へ出て行く門になったが、自伝を書いて来た私
は、その門から先へは進めなくなってしまった。
 しかし、それもよかろう。
 「羅生門」以後の私については、それ以後の私の作品の中の人間から読みとってもらうのが一
番自然でー番いい。
 人間は、これは私である、といって正直な自分自身については語れないが、他の人間に托して、
より正直な自分自身について語っているものだからだ。
 作品以上に、その作者について語っているものはないのである。


本稿は、昭和五十三年三月より同年九月まで『週刊読売』誌上に
連載したものを、加筆・訂正のうえ、再構成したものである。

『蝦蟇の油』1984年6月22日岩波書店







9:45 午後  
Blogger yoji said...

黒澤はクールベに肯定的に言及している
日本の自然主義を批判している

7:29 午前  
Blogger yoji said...

どですかでん#68

「これでも、私はね、昔はちょっとした呉服屋をやっていたんです。妻と男の子二人、店員を五人に女中を使って、二
号三号も囲い贅沢にくらしていたんです。ところが、長男と次男が兵隊にとられ、大陸で戦死したという知らせを聞
かされた時から、商売に身が入らず、妻は寝ついて半年ほどで亡くなるし、家は空襲できれいに焼かれて丸裸になり、
二号三号とも別れて、今では夜店で玩具を売っている始末です。ところが、いまでも毎晩、夢の中で、死んだ妻や子
供達と話をするんですよ。みんな、まるで生きているように、笑ったり話したりするんです」
「その時は、結構たのしい思いをしてる訳だ」
「そう言えば、そうですね」
「それは、生きてればこそだね、べつの言葉で言えば、おまえさんが生きているあいだは、その人達も生き
ているわけだ。お前さんは自分を殺して、その人達も殺しちまっていいのかね」
「…あの薬はー時間ほどたつと効くという話だが、もう取返しはつかないのかね」
「あれを飲んでから、まだ五分とはたっていないよ。だいたい、薬というものには必ず、その効きめと反対
の薬がある。たとえば下痢をとめる薬があれば通じをつける薬があるし、胃散を中和する薬と、逆に胃散を出すため
の薬がある、また…」
「いまの毒薬にもそういう薬があるか」
「むろん毒薬には解毒剤というものがあるよ、いま手許に持っているかどうか思い出せないが」
「さあ、その解毒剤をすぐに出せ.…早くしろ、人殺し、解毒剤を早く出せ」
「お前さん、そううろたえることはないよ。さっき、あんたの飲んだ薬はただの胃腸薬だからね」

5:00 午前  
Blogger yoji said...

全集6



「これでも、私はね、昔はちょっとした呉服屋をやっていたんです。妻と男の子二人、店員を五人に女中を使って、二
号三号も囲い贅沢にくらしていたんです。ところが、長男と次男が兵隊にとられ、大陸で戦死したという知らせを聞
かされた時から、商売に身が入らず、妻は寝ついて半年ほどで亡くなるし、家は空襲できれいに焼かれて丸裸になり、
二号三号とも別れて、今では夜店で玩具を売っている始末です。ところが、いまでも毎晩、夢の中で、死んだ妻や子
供達と話をするんですよ。みんな、まるで生きているように、笑ったり話したりするんです」
たんばさん「その時は、結構たのしい思いをしてる訳
だ」
老人「そう言えば、そうですね」
たんばさん「それは、生きてればこそだね、べつの言葉で言えば、おまえさんが生きているあいだは、その人達も生き
ているわけだ。お前さんは自分を殺して、その人達も殺しちまっていいのかね」
 老人は、なるほど、といいたげに頷き、しばらくじっと考えこんで、心配そうにたんばさんに聞く。
「あの薬はー時間ほどたつと効くという話だが、もう取返しはつかないのかね」
たんばさん「あれを飲んでから、まだ五分とはたっていないよ。だいたい、薬というものには必ず、その効きめと反対
の薬がある。たとえば下痢をとめる薬があれぱ通じをつける薬があるし、胃散を中和する薬と、逆に胃散を出すため
の薬がある、また」
 老人は、あわててそれを遮って、
「いまの毒薬にもそういう薬があるか」
 と、噛みつくように聞く。
たんばさん「むろん毒薬には解毒剤というものがあるよ、いま手許に持っているかどうか思い出せないが」
 次の瞬間、老人はたんばさんに掴みかかってきいきい声で叫ぶ。
「さあ、その解毒剤をすぐに出せ」
 たんばさんは、茶箪笥の抽出しをあけて、なかなかみつからないようなふりをして、老人に死の恐ろしさを
 十分に味あわせる。
 老人は、いまや半狂乱になって喚く。
「早くしろ、人殺し、解毒剤を早く出せ」
 たんばさんは、その老人を振り返ってしずかに言う。
「お前さん、そううろたえることはないよ。さっき、あんたの飲んだ薬はただの胃腸薬だからね」
 老人はぽかんと口をあけ、目を丸くしてたんばさんを見つめ、腰が抜けたようにヘなヘなと坐る。









5:32 午前  
Blogger yoji said...

3か4か


影武者は3人で始まり

乱は4で始まる

4騎の会…

7:43 午前  
Blogger yoji said...


2018/02/14
プレミアムシネマ「奇跡の丘」
2/14 (水) 13:00 ~ 15:18 (138分)
NHK BSプレミアム(Ch.3)
番組概要
イタリアの鬼才ピエル・パオロ・パゾリーニ監督が、マタイによる福音書をもとに、
キリストの生涯をリアリズムと詩情豊かに描いた、ベネチア映画祭審査員特別賞受賞の傑作。

《白井(佳夫) パゾリーニはお好きですか。
黒澤 好きですよ。だんだん難解になってきたけれどもね。
山田(宏一) どの辺がお好きなんですか。
黒澤 ぼくはやっぱり一番好きなのは『奇跡の丘』〔一九六四年〕かな。その後は、変った
ことをしなければいけない、という風になっちゃった気がするね。どうも、そういう変な風潮が
世界全体にあるね。そうじゃなくて、もっとわかりやすくて、ちゃんとしたことをいえて、いいん
だと思うんだ。あまりにも、みんな異様なことをすることによって自己主張しようとする傾向
が、映画だけじゃなくて一般に、出てきている。これはぼくは本道じゃないと思う。自然に
異様なものが当然生まれてくる場合もありますがね。そうじゃなくて、無理をして、わからな
く、不可解にしているような感じがしますね。》


大系黒澤明第2巻518頁
どですかでん公開時の座談会より
(初出「キネマ旬報』一九七〇年九月下旬号)



もちろん『奇跡の丘』は傑作だが最高傑作は『豚小屋』だ。
荒野、砂漠の描写が『乱』と相通じる。

3:32 午後  
Blogger yoji said...

只管打坐:

続姿三四郎 https://i.imgur.com/ZQnwBLM.gif
影武者 https://i.imgur.com/ikU3bum.gif

1:01 午後  
Blogger yoji said...



5つ星のうち5.0

美が世界を救う
2003年6月2日
Amazonで購入
この映画はピラミッドだ。数ある黒澤映画の中でも、その芸術性の高さと込められた情熱において、その重要性は明らかである。複数カメラは、一見平面的な画面を再構成し、モンタージュは完璧であり(カットとカットの「間」に映画の秘密があると、監督はアカデミー名誉賞受賞時に語った)、色彩の大胆さは比類ない。エイゼンシュテインの『イワン雷帝』などと共に、永遠のクラシックだろう。私は、眼を患っており、一時的な手術による回復で、「両目で」この映画を一度だけ見たことがあるが、その圧倒的な美しさに打ちのめされた。まさにドストエフスキーの言うように「美が世界を救う」である(そして、増村保造の言葉を借りるなら黒澤は「美の奴隷」なのだ)。『影武者』はこの習作だし(黒澤は「悪魔のように細心に、天使のように大胆に」を体現している)、植木等の明るい笑いも近代を超越している。私は黒澤と時代を共有したことを幸福に思う。そして、日本の評論家は海外の評価との落差を胆に命じるべきである。私は人生最後に見たい映画としてこの映画を選ぶ(といってもほとんど記憶してしまっているが)。研究者にはクリス・マルケルの『AK』をこの作品のメーキングオブとして薦める。ただ人類がこの映画の真の価値を発見するのはかなりあとかもしれない。

1:58 午後  
Blogger yoji said...

黒澤のカンヌ関連動画はフランスのNHK?であるina.frのサイトにいくつかあるが
仲代とのツーショットはなかった

Palme d'or ex aequo pour Akira Kurosawa et Bob Fosse - http://www.ina.fr/video/I00004425

Gala de cloture du 33eme festival de Cannes - http://www.ina.fr/video/CPA80054847/gala-de-cloture-du-33eme-festival-de-cannes-video.html

Deces Akira KUROSAWA - http://www.ina.fr/video/CAB98036610/deces-akira-kurosawa-video.html

6:19 午前  
Blogger yoji said...

くだらん奴が くだらないと言うなら、くだらなくないということ 「くだらん奴が、くだらんと言う事は、くだらんものではない証拠で、つまらん奴がつまらんと言うことは、大変面白いことでしょう」(「虎の尾を踏む男達」日本の検閲官へ向けて) #kuroken

9:56 午後  
Blogger yoji said...

『影武者』
https://i.imgur.com/ikU3bum.gif


『乱』
https://i.imgur.com/8VosY3P.gif

3:08 午前  
Blogger yoji said...


http://www.asahi-net.or.jp/~AN4S-OKD/okyda/eiga/039024.html
赤ん坊を抱く法師。その赤ん坊に手を伸ばす木こり。
「何をする。この赤子から肌着まで剥ぐつもりか」
「わしのところに子供が6人いる。6人育てるも7人育てるも同じ苦労だ」


羅生門は認識の相対性を描いているが主知主義的作品ではない…

1:00 午後  
Blogger yoji said...

夢の中では、皆天才だ 「人間の頭脳がその夢を作る時に、天才的な表現力を駆使しているという驚くべき事実も、また、夢というものが人間の純粋切実な願望のギリギリの表現だからだと考える他ありません。人間は、夢を見ている時、天才なのです。天才のように大胆で勇敢なのです」 #kuroken

9:15 午後  
Blogger yoji said...

カットとカットの繋ぎ目に映画がある 「まだよく分からないけれど,これは映画になったと納得できるところは,繋ぎ目が的確なところだと気が付いたんだ」転換のタイミングが絶妙で,描き出そうとするものに力を与える感じ,間に存在する正真正銘映画的なものなんだと。 #kuroken

11:27 午後  
Blogger yoji said...

https://4travel.jp/travelogue/10707481
山陰・北陸 日本海浪漫紀行 ③丸岡城散策編
1070いいね!
2012/06/02 - 2012/06/02 2位(同エリア216件中)
#歴史・芸術
0 20
montsaintmichel montsaintmichelさん
フォロー
丸岡城は、福井県坂井市丸岡町霞町にある小高い丘陵に築かれた、現存天守閣では最古の平山城です。霞ヶ城という別名通り、春爛漫の桜花に霞んで浮かぶ姿は幻想的で旅情を燻るそうです。最古の天守閣を誇るだけでなく、石瓦葺きの屋根、かつて城を囲んでいたとされる五角形濠(内堀)なども珍しいもので、お城ファンや戦国ファンを魅了して止まないお城だそうです。

桃山時代の1576年、一向一揆に備えた織田信長の命により、柴田勝家が甥の勝豊に築かせました。城郭建築史上重要な遺構とされ、国の重要文化財に指定されている天守閣は、本丸の南西部に位置し、高さ6.2mの野面積みされた石垣の天主台の上に聳え建ちます。天守閣は、古色蒼然とした二重三階望楼型独立式で、通し柱は存在せず、1階が上階を支える初期天守構造となっているのも見ごたえがあります。

古くは、映画『戦国自衛隊』(1980年公開)で、丸岡城の天守閣から景虎がヘリコプターに乗り移るシーンが斬新で印象的でした。覚えておられる方も多いのではないでしょうか?ところで、重要文化財なのによく撮影許可が下りたと感心します。当然、観光のPRにもなったと思いますが…。また、黒澤明監督の映画『乱』(1985年公開)では、丸岡城は炎上する城(三の城)のモデルとされたのですが、事前に監督自ら視察に来られたそうです。何か惹かれるものがあったのでしょう。その足跡を辿ってレポートしたいと思います。
エリア 勝山(福井)

4:57 午前  
Blogger yoji said...

丸岡城は江戸時代と判明

____


明日をつくる人々ー大系黒澤明別館のシナリオは不完全

8:40 午後  
Blogger yoji said...

●黒澤明監督作品の書家による題字。
『蜘蛛巣城』金子鴎亭『天国と地獄』西川寧『乱』から『まあだだよ』今井凌雪 (エンドクレジット表記や記述資料など確認できているもののみ)
なお広告宣伝についての題字などはデザイナーの益川進 (全て敬称略)
https://color-of-cinema.cocolog-nifty.com/blog/2017/10/post-d1bc.html


黒澤明監督映画と今井凌雪先生の題字
https://www.dclog.jp/en/2549444/543776707
先日奈良で開催された今井凌雪先生の回顧展を通して、凌雪先生の映画の題字について興味が湧いてきた。ここでは黒澤明監督の映画に限定してみたい。
ネットの情報を集約してみると、凌雪先生は黒澤映画「乱」(1985)以降の題字を担当されているようである。つまり、「乱」(1985)、「夢」(1990)、「八月の狂詩曲」(1991)、「まあだだよ」(1993)を題字されたのである。
私はこれを機に、凌雪先生が手掛けた映画のDVDをレンタルしてみた。
すると、題字の証拠としてスタッフロールにしっかり「題字 今井凌雪(雪心会)」と映し出されていた。
時代劇や戦争関係の作品が中心となる黒澤映画だが、そのような中でも私が観やすかった作品は、黒澤明監督デビュー50周年に製作された30本目の映画であり、遺作となった「まあだだよ」はとても面白かった。是非一度は観て欲しいと思った作品だ。しかも、この作品の中で思い掛けず登場してくる筆文字「泥棒入口」「泥棒通路→」「泥棒休憩室」「泥棒出口」なども凌雪先生の題字であることは疑い無い。更にまた、登場する「南山壽」は作品の中でもその言葉が話題になる場面があった。
尚、これらの作品を通して、タイトルのみならず、多くスタッフロールに流れる名前なども凌雪先生の揮毫であろうと気付くことができた。
* 日記
* 2014 / 05 / 11 11 : 32


森田氏によると
黒沢以前に映画題字を担当しているそうだが未確認


甲府を開府した武田信玄の父・信虎の晩年を描いた、寺田農 ...
https://www.anemo.co.jp › nobutora-20210908
2021/09/08 — 戦国の名将 武田信玄の父・信虎は、信玄によって追放され、駿河を経て京に住み、足利将軍の奉公衆と ... 題字:森田彦七(『乱』揮毫・今井凌雪門下)

1:24 午前  
Blogger yoji said...

A priest holds a baby in his arms. The woodcutter reaches for the baby.
“What are you doing? What are you doing? Are you going to strip this baby down to its underwear?”
“I have six children, and it is the same hardship to raise six as it is to raise seven.”

Rashomon is a work about the relativity of perception, but it is not a subjectivist work...

9:29 午後  
Blogger yoji said...




slowslow2772
⁦‪@slowslow2772‬⁩


A priest holds a baby in his arms. The woodcutter reaches for the baby.
“What are you doing? Are you going to strip this baby down to its underwear?”
“I have six children, and it is the same hardship to raise six as it is to raise seven.”

Rashomon is not a subjectivist work...

2023/10/15 13:30


https://x.com/slowslow2772/status/1713412038750503367?s=61

9:32 午後  
Blogger yoji said...


“What are you doing?
Taking what little it has left?“
“I have six kids of my own.
Another one wouldn't make a difference.”
“I am ashamed of what I said.”
“It's inevitable to be suspicious of others on a day like this.”

9:37 午後  
Blogger yoji said...

https://x.com/dannydrinkswine/status/1713297374200881329?s=61


赤ん坊を抱く法師。その赤ん坊に手を伸ばす木こり。
「何をする。この赤子から肌着まで剥ぐつもりか」
「わしのところに子供が6人いる。6人育てるも7人育てるも同じ苦労だ」


羅生門は認識の相対性を描いているが主知主義的作品ではない…

9:38 午後  
Blogger yoji said...




DepressedBergman
⁦‪@DannyDrinksWine‬⁩


Rashomon (1950)
Director: Akira Kurosawa

"A film must be made with the heart, not the mind. I think today's young filmmakers have forgotten this & instead they make films through their calculations."

--- Akira Kurosawa pic.twitter.com/I5tnUANyeS

2023/10/15 5:55


https://x.com/dannydrinkswine/status/1713297374200881329?s=61

9:39 午後  
Blogger yoji said...

以下、『トラ・トラ・トラ』関連の小ネタです。島敏光『黒澤明のいる風景』(1991年84~85頁より)。

《「トラ・トラ・トラ」の話もよく聞かせてくれた。
 黒澤明は、山本五十六は立派な軍人であり、本当は戦争に反対をしていた、と力説していたようだったが、僕はあまりそういうことには、興味がなかった。むしろ、僕の印象に残っているのは、話の本筋とはあまり関係ないギャグの話だった。追撃された一機の戦闘機がゴルフ場に不時着する話だ。黒澤明もこの話が気に入っていたらしい。
 戦闘機は着陸と同時に、ゴルフ場の芝生を引きはがしながら前進を続け、ようやく停止をする。命びろいをしたパイロットが戦闘機からはい出して来ると、その目の前に、「ターフは元に戻して下さい」という看板がある。スケールの大きなギャグだ。
 ターフとはゴルフ用語で、ショットの際に引きはがされてしまった芝生の一片のことで、それを元に戻すのがゴルファーのエチケットなのだが、残念ながら僕はこの時、ターフの意味を知らず、笑うことが出来なかった。
 黒澤明は少しシラけたが、結局は親切に、その意味を説明してくれた。
 僕は意味がわかったとたんに、「それは面白いから、ぜひ取り入れてくれ」とはしゃぎまわった。
 しかし、黒澤明は、
「でも、お金がかかりすぎるから、ちょっと無理かもしれないんだ」
 と残念そうに言った。
 僕はその時、「芝生って高いんだなぁ」とつくづく思ったものだ。》

「黒澤明が緊張していた」島 敏光が明かす、黒澤明監督とジョン・フォード監督の映画観のルーツ。『静かなる男』トークショー|The Quiet Man https://youtu.be/7FN_t8blT8M?si=O8MGzN8PdaXfdoFZ @YouTubeより

10:32 午後  

コメントを投稿

<< Home