http://www.freeassociations.org/
参考:
問いただす人 ジョージ・バークリー 1735 信用貨幣論の始祖
https://love-and-theft-2014.blogspot.com/2021/07/blog-post_2.html
フィロナス
「ハイラス、向こうの泉の水をごらんなさい。そして、どのようにして、あの水が円柱の中である高さまで昇るようにさせられているのかをごらんなさい。その高さになると水は止まり、またそれが、そこから昇りはじめた貯水場へと戻っていきますよね。水の上昇と下降は、重力という同じ一様な法則あるいは原理から生じているのですよ。まさにそのように、はじめ懐疑主義へ導くように見えたのと同じ原理が、ある点まで追求されると、人々を常識へと立ち返らせるのです。」
(ジュージ・バークリ『ハイラスとフィロナスの三つの対話』岩波文庫のラストより)
微分積分に関してはニュートンとライプニッツの優先権争いが有名だが、バークリもまたニュートンに反論を提出している(「有限な線の無限小な部分を使用し或いは想うことは必要ではなく、可感的極小より小さな量を使用し或いは想うことさえ必要ない」岩波『人知原理論』132節)。
微分における無限に対する扱いがダブルスタンダードだというのだ。それは今日の眼から見ても無視できない問題であり続けている(今日ではdy/dyは関数ではないという考え方をして矛盾を回避するのが普通だ)。
バークリには後のマルクスらがマッハを批判するような主旨のことはわかりきっていたし、マルクスが数学に関する遺稿でバークリと似た視点を提出(「dy/dxをその不定の表現0/0でおきかえることによって、吾々はここで積極的な誤りを犯す」『数學に関する遺稿』50頁)しているということは、バークリはマルクスを先取りしていたとも言える。
___
加藤論考 (ドゥルーズ論)
https://www.shitennoji.ac.jp/ibu/docs/toshokan/kiyou/58/kiyo58-21.pdf
ブルトン
404
これに対してブルトンは驚き、ナジャには直接話さないまでも次のような説明を付け加えるのである。「<しかし、ナジャ、何て奇妙なんだ! 君は知ることはできないし、私が読んだばかりの作品の中にほとんど同じ形で表現されているまさにこのイメージを君はどこで手に入れているんだ>。(そして私は、バークレーの、1750年版における、『ハイラスとフィロナウスの対話』の第三巻の頭に、それが挿絵の対象になっていることを彼女に説明したい気に駆られる、そこでは≪同じ力が水を上に押し上げ、そして下に向ける≫(下線ラテン語)という説明文が添えられていて、それは本の最後で、理想主義的態度の擁護の観点から、重要な意味を持つのである)。」(PI p.698)
附録:
微分・積分がかんたんにマスターできる本 (アスカビジネス) 間地 秀三より
28 Comments:
http://www.askaboutireland.ie/reading-room/history-heritage/big-houses-of-ireland/george-berkeley-and-dysar/works-of-george-berkeley/
導関数S'=3/2x
[967]11/7(水)08:22 ↓
素因数分解のビジュアル化
(窓)http://www.datapointed.net/visualizations/math/factorization/animated-diagrams/
Disputatio metaphysica de principio individui, quam Deo O.M. annuente et indulti inclytae philosoph. Facultatis in illustri academia Lipsiensi praeside viro excellentissimo et clarissimo DN.M.Jacobo Thomasio eloquent. P.P.Min.Princ. Colleg. Collegiato praeceptore et fautore suo maximo publicé ventilandam proponit G.G.Leibnizius, Lips. Philos. et B.A.Baccal. Aut. et Resp. 30 Maji Anni 1763. ライプツィヒ公刊 Ak6.1,3-19 Ak2.1,3 G4,15-26 Dut2,11-14,400 Ravier1 Erdmann1-5山本(=
山本信『ライプニッツ哲学研究』東京大学出版会、1953, 復刻版1975)133要約
(個体化の原理についての形而上学的討論1663)
http://nam-students.blogspot.jp/2008/12/leibniz-metaphysical-disputation-on.html
10:24 午前
yoji said...
タイトル ライプニッツ哲学研究 / 山本信 著
ライプニッツ テツガク ケンキュウ
raipunittsu tetsugaku kenkyū
出版事項 東京 : 東京大学出版会, 1953.3
トウキョウ : トウキョウダイガクシュッパンカイ
tōkyō : tōkyōdaigakushuppankai
配架場所 請求記号 現況
中央 B1研究書庫 ロ04 03321 利用可能
戸山 4F学習図書 134 181 欠本
形態 360,12p ; 22cm
分類 134.1 njb/8
別著者等 山本 信, 1924-2005
ヤマモト, マコト, 1924-2005
yamamoto, makoto, 1924-2005
件名 Leibniz, Gottfried Wilhelm, Freiherr von, 1646-1716
10:26 午前
yoji said...
ライプニッツ哲学研究 / 山本信 著 133頁
第二節 個体性
ライプニッツの最初の作品は、『個体の原理についての形而上学的討論』(Disputatio metaphysica de principio indi‐
vidui.1663)(GIv15-26)であった。この論文の中で彼は中世スコラ以来の問題、個体化の原理(principium individua‐
tionis)を取扱い、四つの代表的な意見をあげて、博識と技巧とを示しつつ、一つを弁護し三つを論駁してゐる。その
論ずるところによれば、個体化の原理は一般者或いは普遍者の否定的限定(negatio)でもなく、本質或いは形相に結
合されてそれを固定するところの外的なものとしての存在或は質料(existentia, materia)でもなく、haecceitas 即
ち、種の類に対する如く種に対して付加されるところの、それ自身形相たる個体差或いは質料(differentia individuifi‐
ca, numerica)でもない。個体はそれ自身において積極的肯定的なもの(ens positivum)であり、「すべての個体はそれ
の存在性全体によって個体化される」(omne indiviiduum sua tola entitate individuatur)、云々。唯名論的立場からする
個体そのものの積極性の主張が、明らかに看取される。尤も、ここでライプニッツが弁護し主張しようとしている提
説は、他の諸説に対する論駁の鮮かさに比して甚だ曖昧である。しかしながらこれは、唯名論的立場にとってはむし
ろ当然のことである。個体化の原理が本来的に問題とされるのは、普遍者に何らかの意味で優先性と実在性とを帰す
る立場からである。従って、現実に存在するものは既に個体であるとする立場においては、個体化ということが、少
くとも昔ながらの形では、問題になり得ない。即ちそこで問題なのは、「個体化の」ではなくて、まさに題名の示す
通り「個体」の原理であり、個体そのものの内容的分析解明である。そしてこれが展開され仕上げられて後期の個体
論に至った、と見ることができるであろう。
3:04 午前
yoji said...
さてライプニッツによれば、実体は究極的主語として、その実体について言われ得るあらゆる述語を含むところの
概念を有するのであった(一一三〜四頁参照)。かかる「完全な概念」によって、実体は常に一個の個体に決定されてい
るのである(determine a un individu, Glv435b)。この完全概念即ち個体的概念が含む述語の数は絶対的に無限でなけ
ればならない。その数が無限でない場合には、それらの述語が内在する主語は充分個体に決定されていない。「有限
数の述語を幾ら取ったところで、残りのすべてを決定することができないから同じことである。一定の一人のアダム
を決定するものは、そのすべての述語を絶対的に含んでいなければならない。一般性を決定して個体となすのは、こ
の完全概念である」(Gll54b)。種や偶有性の概念においては事物の一般的抽象的本質が考へられるだけであるのに対
し、個体の概念の中にはそのもののあらゆる個別的具体的状態が含まれており、その連鎖を辿ってゆけば宇宙の全系
列が含まれるに至る(Gll39b,277c‐8a,lv433b,vll311b)。「個体性は無限を含む」(G v268b)のである。
宇宙全体との関係におけるこれらの無数の述語は、その実体にとって章に外的な規定なのではない。ライプニッツ
によれば、外的規定には必ず内的規定が対応している(Gv211a,vll311b)。従って、各実体が無数の述語によって個
回に決定されているといふことは、それぞれ内容的に他から区別されていることにほかならない。二つの実体が全く
相等しくて、ただ数においてのみ異なる、ということはあり得ず、そこには必す内的規定に基づく差異が存するので
ある(Glv433c,v100a,213b,vl608b, vll395a)。この点に関しライプニッツは、好んでトマス・アクィナスの天使論を
引合いに出している。周知のやうに、トマスによれば、質料と形相とからなる合成実体の個体化の原理は、いわゆる
「指示された質料」(materia signata)であるが、単純実体即ち質料をもたぬ叡智体である天使については、これは妥
当しない。天使はその各々が最低種なのであって、合成実体における如く種においては同一で数において異なる、と
いふことはなく、個体があるだけ種が存するのである。ところがライプニッツは、この天使について言はれたことが
すべての実体に当て嵌まると主張する。即ち、その概念の中にそれ自身で説明され得る差異を有するものは、種におい
て異なると言われるが、まさにすべての個体的実体はその概念自身において、従って「種において」、異なっている
のである(Gll42b,54c,131c-2a, vll433c)。そこで今度は逆に、もし全く相等しい規定をもち、如何なる点でも相互
に識別され得ぬ二つのものを考へるならば、この二つは実際には一にして同じものであって、ただ同一のものを二つ
の名で呼んでいるにすぎない、といふことになる。幾何学において対象を先づ二つと仮定しておき、次に実はそれが
一つであることを示すやり方、これと同じ事情がここにも存するのである(GMI372b,395c)。かくしてライプニッツの
実体論は、かの処女論文における個体の積極性の主張と結びつく。各々の実体は、それ自身の内容の充実と具体性と
において、他のすべてのものから区別された個体性を有する、即ち、「それの存在性全体によって個体化される」の
である。このこと以外に「個体化の原理」は存しない(Gv214a)。
134〜5頁
3:49 午前
yoji said...
1675年ころの微分法発見によって変化の系列がそれを構成する法則性に規定され、延長的性質を究極としない質的内包的なものに価値が置かれるようになる。251頁
http://note.chiebukuro.yahoo.co.jp/detail/n38327
□introduce
「ε-δ論法」を聞いたことがあるだろうか.
(ε:イプシロン,δ:デルタ)
高校で理系だった人なら,関数の「連続」や「収束」という言葉が記憶にあるはずだ.
それを学ぶときは高校では,「無限大」や「無限小」という
数Ⅲ極限特有の考え方をつかって理解していたことだろう.
しかし,「連続」とは、ただ単に「途切れずに繋がっている」
という曖昧なものでは許されない.
つまり,「連続」や「収束」の定義は、もっと厳密なものが必要なのだ.
ここで,微積分の歴史を見てみる.
「微分積分学」を創設したのは、ニュートンやライプニッツである.
創設した当時は,「無限大」という実数の範囲では定義できない概念を使っていて,
18世紀になって,オイラーが発展させても,この点だけは改善されなかった.
級数の発散や収束に関しては,無頓着なままで理論を発展させていったため、
誤った結論に導かれてしまうことがしばしばあった.
そこで登場するのが「ε-δ 論法」である.
19世紀になってカール・ワイエルシュトラスがこれを完成させて、
これによって「無限小」や「無限大」という概念を一切出さずに
収束・連続を「厳密に」定義できるようになったのである.
しかしライプニッツ流の無限小・無限大を用いる解析も超実数を用いることで
現代では正当化されていて,「超準解析」や「無限小解析」と呼ばれる.
理系大学生が数学を学ぶときに,まず一番最初にぶつかる問題は
この「ε-δ論法」を用いて関数の連続性や数列の収束の
厳密な証明が介入してくる当たりである.
しかし,先に述べた通り,「連続」や「収束」を厳密に定義する必要がある以上,
ここを曖昧にしてはいけないのである.
確かに,厳密な議論は難しいが,
曖昧な言葉の定義を式で正確に表せることがこの論法の利点なのだ.
□「ε-δ論法」
○ε-δ論法の式
極限の式:「x→aのとき,f(x)→b」⇔「lim(x→a) f(x)=b」
ε-δ論法:「∀ε> 0,∃δ> 0 s.t.∀x∈R , | x-a | 0, ∀δ>0 s.t. ∃x∈R ,| x-a | ε1・・・(③)(ε1=ε0/10など)
そのときでも,同様に対応するδ1が存在して,
0 < |x-a| 0, ∃δ>0 s.t. x∈R, 0<|x-2|<δ」⇒「|x^2-4|<ε」が成立する.
これで,x→2のときx^2→4となることがε-δ論法によって示された.
(未完成です.①2012/03/01 5:10 ②2012/03/02 2:14)
http://note.chiebukuro.yahoo.co.jp/detail/n38327
http://blogs.yahoo.co.jp/kazuya_kagamihara/35597304.html
微分法、とくに、テイラー展開とかについてマルクスの研究のあとがうかがえます。
「最初に差をとる操作を定立し、ついでこれをふたたび止揚することは、文字どおり無に導く。微分操作の理解において困難な点はことごとく(一般に否定の否定の理解におけるそれと同様に)この操作がこのような簡単な手続といかにして区別されるのか、またそれゆえいかにして実際的な成果に導くのか、を見定めることである。」
と微分について深い見識が述べられています。
よくわからんけど、微分というのは弁証法でいう否定の否定と関連があるようです・・・・。
学生のとき、文庫になっているマルクスの本はほとんど買った(読んだとはちっと違う)のですが、この本を読むのは初めて・・・。
それにしても、経済学・哲学だけでなく、数学にまで研究をすすめていたマルクスの偉大さにあらためて思いをいたし、数学と弁証法の関係についても考察を深めるためには、今度、自然弁証法の本でも読んでみようかなと思っているミラーでした・・・・。
微分が運動の表現であることについて
微分という数学の計算が運動の表現であることは、ある意味では自明のことだとも思われる。それは、ニュートンが自らの力学の解析に利用するために発明した計算であり、ニュートン力学は、動力学として運動の解析をするものだからだ。だから、その生まれてきた過程を見れば、微分が運動を表現している、それは位置情報の関数を微分することによって速度が得られ、速度を微分すれば加速度が得られるというように、運動を表しているものと受け取ることが出来る。
だが、微分が運動の表現であるということをこの意味で知っているというのは、知識としてそれを把握しているということにしか過ぎないのではないかと僕は感じる。マルクスは、エンゲルスが「数学に通じた人」と呼んでいたが、マルクスが残した数学に関する論文が「数学手稿」(大月書店)として本になっている。これを見ると、微分が運動の表現であるということを、実感として述べようとしていたのではないかと感じるところがある。以下、それを考えてみようと思う。
板倉さんが指摘したように、運動というのは、論理の言葉で記述しようとするとどうしても矛盾したような表現が入ってしまう。ゼノンのパラドックスは、その矛盾した点を鋭く突いたものになっている。この、ゼノンのパラドックスの表現との類似性も微分という計算が持っているのではないかと僕は感じる。
まずは、「限りなく近づく」という極限の表現の中に、運動する状態というものが記述されているのを感じるが、これを静止の表現である論理・数学の世界で表現するとどのような矛盾が現れるかを見てみたい。マルクスが考察の対象としているのは、簡単な1次関数<y=ax>の微分についてだ。
この関数において、xとx1という二つの異なった値を考える。それぞれの値のときのyはであり,<y1=ax1>であると考える。このとき、x1をxの方へ近づけると、それに伴ってy1もyに近づいていく。この過程の途中の一瞬を静止したものとして表現すれば、
y1-y=a(x1-x)
というものになる。このx1は近づいていく過程ではxに一致することはないので、<x1-x>は0(ゼロ)になることはない。そこで、この<x1-x>で両辺を割ってやると、
(y1-y)/(x1-x)=a
という表現を得る。これは、
△y/△x=a
という表現としても書かれる。これは、「限りなく近づく」という極限の運動を、ある一瞬の静止画像として表現したものだが、この表現自体は運動ではない。「限りなく近づく」ということが表現されていないからだ。だから、この静止だけでは運動にはならないが、運動を静止としてしか表現できない論理では、ゼノンが語るように「運動」というものは、「止まっていると同時に止まっていない」という矛盾した表現として語ることになる。この矛盾が微分の表現にどのような形で現れるかを見てみたい。上の表現で極限に到達した状態を想像すると、そこではx1がxに一致した姿が得られる。極限に到達した時は、そこで運動が終わったことを意味し、静止した表現になるからだ。そこでは、
x1―x=0になり、それに伴ってy1-y=0になる。
このとき、上の表現は、
0/0=a
と書かれることになり、0で割り算をするという、数
学法則に反する矛盾が現れる。ゼノンがその表現において形式論理学上の矛盾を引き出したように、微分の表現は、数学上の矛盾・すなわち形式論理学的な矛盾の表現を導く。この矛盾を数学はどうやって処理しているだろうか。形式論理的な矛盾を許容すれば、数学はまったく無用の役立たないものになる。その真理性はまったく信用できないものになるのだ。矛盾した数学体系では、あらゆる命題が定理として導かれてしまう。つまり、正しいか正しくないかという区別が意味をなさなくなるのだ。
この「0/0」という表現に対して、それは限りなく近づくという過程を表しているのだから、本当は0ではないのだという考えを、マルクスは「気休め」だとして排除している。極限というのは、x1とxが一致した状態を想定して、そこまで運動をしつづけるのだと考えているのである。つまり、極限まで考えれば、計算は0にしないわけにはいかない。実際に微分の計算では、最終的な答えを出す段階では<x1-x>を0にしなければ導関数を決定することが出来ない。上の1次関数では分かりにくいが、x^2をxの2乗の表現として2次関数を書いてみると、
y1=x1^2、y=x^2
において、x1がxに近づいていき、その極限を考えると、
y1-y=x1^2-x^2
=(x1+x)(x1-x)
従って、
△y/△x=(y1―y)/(x1―x)
=x1+x
この微分の計算において、x1とxを一致させなければ、2次関数「Y=x^2」の導関数が2xになるという計算を導くことが出来ない。この計算においては、x1はxと一致しなければならないのだ。極限に至る過程を静止画像で切り取れば0/0という表現にはならない。しかし、極限にまで至った運動の表現では、どうしても0/0という矛盾した表現が必要になる。
マルクスは、この0/0の表現を「否定の否定」として理解すべきであるという書き方をしている。つまり、単純に0の割り算として出てきたのではなく、ある考察の過程として、否定の否定を経て、導き出されたものとして過程の違いを見なければならないということだ。これはたいへん難しいということを感じる。だが、この表現を「否定の否定」として理解しなければ、微分が運動の表現であるということを実感することが出来ないのではないかと思う。
「否定の否定」の過程をもっと判りやすく見ることが出来ないかと思う。それには、次のような例を利用するといいのではないかとも感じる。無限小数の表現において、9が無限に続くような次の表現を考えてみる。
0.9999999999999………
上の「…」の部分は、9が無限に続くことを表現しているのだが、実際には無限に書くことは出来ないので、点を書くことによって象徴的な表現にしてある。これは、実は極限を表現していると考えることが出来る。そうすると、上の数は、極限としては正確に1と一致すると考えるのが数学的な形式論理の考えになる。これは、見た感じからする直感とはかけ離れるような印象を与える。上の数字はどうしても1と同じには見えないのだ。
上の数字が無限に続くものではなく、どこかで止まってしまったらそれは1と一致することはない。どんなに9がたくさんあっても、それは1に近い数ではあっても、決して1ではない。しかし、9が無限にたくさんあれば、それは極限を表していると解釈でき、極限であるならばそれは正確に1と一致するのである。極限の最後までの過程を人間が見ることは出来ない。これを見ようとすると、ゼノンが語ったようなパラドックスが起こる。無限の過程を有限の存在である人間が把握したという前提が必要になってしまうからだ。
人間が見ることが出来るのは、極限の果てに静止した状態だけで、無限の過程を見ることは出来ない。有限の、運動がどこかで静止している状態は、上の数字は1と一致することはない。1との一致は否定される。しかし、運動の極限の果てでは、この否定が再び否定され、1との一致が結論される。微分の計算において無限の果てで、その差が0(ゼロ)になるという状態は、単にその場で0の割り算をしたという、過程なしの状態ではない。ある過程の果てに到達した結果として「否定の否定」が隠されているものとして受け止めることによって、形式論理的な矛盾ではありながらも、弁証法的な矛盾として生かされることになるのではないだろうか。
運動は、その過程を把握しなければ運動として理解することが出来ない。しかし、過程を表現することは形式論理では出来ないのだろうと思う。形式論理では、運動の一瞬の姿の静止画像か、運動の結果としての静止か、どちらかでなければ表現できないのではないだろうか。
微分における極限の運動の表現は、その過程を象徴的に表現しようとすれば、表現の中に矛盾が入り込んでくるのではないかと思う。これは、板倉さんが指摘したゼノンのパラドックスが持っている特長とよく似ているものではないかと思う。過程の表現は、正確には出来ない。それは象徴的に表現するしかないのではないかと思う。
正確に表現できるのは、一瞬の静止画像と、極限が行き着いた果ての静止だけではないかと思う。それが、数学におけるイプシロン―デルタの論理と呼ばれる工夫になっているのではないかと思う。任意の正の数イプシロンで極限の運動の過程の一瞬の姿を表現し、究極的な運動の結果としては、正確に=(イコール)で結ばれる関係として記述されるのではないだろうか。
数学におけるイプシロン―デルタの論理での表現は、あくまでも静止の状態の表現であり、だからこそ数学としては正確な表現になるが、運動を表現したものではなくなる。運動という要素が入り込むのは、イプシロンにおける任意性というものだ。それが任意のものであるということで、運動の過程のすべてを含んでいる。これをいっぺんに把握することは実無限の把握になって、現実に可能かどうかが問題にされるが、もしある具体的な正の数を設定すれば、その時はいつでも可能だという解釈をすれば、可能無限の範囲に入り、それは有限の存在である人間にも把握が可能だという考え方も出来る。
数学的な論理の世界と現実の世界には、表現におけるずれがいつも存在しうる。運動の表現はその最たるものだろう。それでも数学が現実に適用されて有効性を持ちうるというのは、数学が現実の世界とのつながりを持つものであることの証拠でもあるだろう。この現実の世界とのつながりという点も、弁証法性を持っているものだと思われる。数学は現実を離れて論理の世界に入らなければ、絶対的な真理性というものを持ち得なくなる。しかし、現実とまったく無関係だといってしまえば、それが現実に適用できるということが、その正当性を語ることが出来なくなってしまう。このあたりの、現実世界と数学との関係は、シカゴ・ブルースさんのトラックバックとの関連で考えてみたいものだと思う。
http://blog.livedoor.jp/khideaki/archives/51311261.html
http://blog.livedoor.jp/khideaki/archives/51311261.html
マルクスは、この(微分における)0/0の表現を「否定の否定」として理解すべきで
あるという書き方をしている。つまり、単純に0の割り算として出てきたのではなく、
ある考察の過程として、否定の否定を経て、導き出されたものとして過程の違いを見
なければならないということだ。これはたいへん難しいということを感じる。だが、
この表現を「否定の否定」として理解しなければ、微分が運動の表現であるという
ことを実感することが出来ないのではないかと思う。
http://blog.livedoor.jp/khideaki/archives/51311261.html
マルクスは、この(微分における)0/0の表現を「否定の否定」として理解すべきで
あるという書き方をしている。つまり、単純に0の割り算として出てきたのではなく、
ある考察の過程として、否定の否定を経て、導き出されたものとして過程の違いを見
なければならないということだ。これはたいへん難しいということを感じる。だが、
この表現を「否定の否定」として理解しなければ、微分が運動の表現であるという
ことを実感することが出来ないのではないかと思う。
…
数学的な論理の世界と現実の世界には、表現におけるずれがいつも存在しうる。
運動の表現はその最たるものだろう。それでも数学が現実に適用されて有効性を
持ちうるというのは、数学が現実の世界とのつながりを持つものであることの
証拠でもあるだろう。この現実の世界とのつながりという点も、弁証法性を持っ
ているものだと思われる。数学は現実を離れて論理の世界に入らなければ、絶対
的な真理性というものを持ち得なくなる。しかし、現実とまったく無関係だと
いってしまえば、それが現実に適用できるということが、その正当性を語ること
が出来なくなってしまう。
http://blogs.yahoo.co.jp/kazuya_kagamihara/35597304.html
「最初に差をとる操作を定立し、ついでこれをふたたび止揚することは、文字どおり無
に導く。微分操作の理解において困難な点はことごとく(一般に否定の否定の理解にお
けるそれと同様に)この操作がこのような簡単な手続といかにして区別されるのか、また
それゆえいかにして実際的な成果に導くのか、を見定めることである。」(マルクス『数学手稿』)
http://blog.livedoor.jp/khideaki/archives/51311261.html
マルクスは、この(微分における)0/0の表現を「否定の否定」として理解すべきで
あるという書き方をしている。つまり、単純に0の割り算として出てきたのではなく、
ある考察の過程として、否定の否定を経て、導き出されたものとして過程の違いを見
なければならないということだ。これはたいへん難しいということを感じる。だが、
この表現を「否定の否定」として理解しなければ、微分が運動の表現であるという
ことを実感することが出来ないのではないかと思う。
…
数学的な論理の世界と現実の世界には、表現におけるずれがいつも存在しうる。
運動の表現はその最たるものだろう。それでも数学が現実に適用されて有効性を
持ちうるというのは、数学が現実の世界とのつながりを持つものであることの
証拠でもあるだろう。この現実の世界とのつながりという点も、弁証法性を持っ
ているものだと思われる。数学は現実を離れて論理の世界に入らなければ、絶対
的な真理性というものを持ち得なくなる。しかし、現実とまったく無関係だと
いってしまえば、それが現実に適用できるということが、その正当性を語ること
が出来なくなってしまう。
http://blogs.yahoo.co.jp/kazuya_kagamihara/35597304.html
「最初に差をとる操作を定立し、ついでこれをふたたび止揚することは、文字どおり無
に導く。微分操作の理解において困難な点はことごとく(一般に否定の否定の理解にお
けるそれと同様に)この操作がこのような簡単な手続といかにして区別されるのか、また
それゆえいかにして実際的な成果に導くのか、を見定めることである。」
(マルクス『数学手稿』)
http://blog.livedoor.jp/khideaki/archives/51311261.html
マルクスは、この(微分における)0/0の表現を「否定の否定」として理解すべきで
あるという書き方をしている。つまり、単純に0の割り算として出てきたのではなく、
ある考察の過程として、否定の否定を経て、導き出されたものとして過程の違いを見
なければならないということだ。これはたいへん難しいということを感じる。だが、
この表現を「否定の否定」として理解しなければ、微分が運動の表現であるという
ことを実感することが出来ないのではないかと思う。
…
数学的な論理の世界と現実の世界には、表現におけるずれがいつも存在しうる。
運動の表現はその最たるものだろう。それでも数学が現実に適用されて有効性を
持ちうるというのは、数学が現実の世界とのつながりを持つものであることの
証拠でもあるだろう。この現実の世界とのつながりという点も、弁証法性を持っ
ているものだと思われる。数学は現実を離れて論理の世界に入らなければ、絶対
的な真理性というものを持ち得なくなる。しかし、現実とまったく無関係だと
いってしまえば、それが現実に適用できるということが、その正当性を語ること
が出来なくなってしまう。
マルクスは微分ではなく、集合論とグラフ理論を研究すべきだった。
http://blogs.yahoo.co.jp/kazuya_kagamihara/35597304.html
「最初に差をとる操作を定立し、ついでこれをふたたび止揚することは、文字どおり無
に導く。微分操作の理解において困難な点はことごとく(一般に否定の否定の理解にお
けるそれと同様に)この操作がこのような簡単な手続といかにして区別されるのか、また
それゆえいかにして実際的な成果に導くのか、を見定めることである。」
(マルクス『数学手稿』)
http://blog.livedoor.jp/khideaki/archives/51311261.html
マルクスは、この(微分における)0/0の表現を「否定の否定」として理解すべきで
あるという書き方をしている。つまり、単純に0の割り算として出てきたのではなく、
ある考察の過程として、否定の否定を経て、導き出されたものとして過程の違いを見
なければならないということだ。これはたいへん難しいということを感じる。だが、
この表現を「否定の否定」として理解しなければ、微分が運動の表現であるという
ことを実感することが出来ないのではないかと思う。
…
マルクスは微分ではなく、集合論とグラフ理論を研究すべきだった。
集合論ばかりだとバディウみたいになってしまうが、、、
http://blogs.yahoo.co.jp/kazuya_kagamihara/35597304.html
「最初に差をとる操作を定立し、ついでこれをふたたび止揚することは、文字どおり無
に導く。微分操作の理解において困難な点はことごとく(一般に否定の否定の理解にお
けるそれと同様に)この操作がこのような簡単な手続といかにして区別されるのか、また
それゆえいかにして実際的な成果に導くのか、を見定めることである。」
(マルクス『数学手稿』)
http://blog.livedoor.jp/khideaki/archives/51311261.html
マルクスは、この(微分における)0/0の表現を「否定の否定」として理解すべきで
あるという書き方をしている。つまり、単純に0の割り算として出てきたのではなく、
ある考察の過程として、否定の否定を経て、導き出されたものとして過程の違いを見
なければならないということだ。これはたいへん難しいということを感じる。だが、
この表現を「否定の否定」として理解しなければ、微分が運動の表現であるという
ことを実感することが出来ないのではないかと思う。
…
集合論が実在論的なわけ
と、ここまでなら、述語などの関数として考えたときのパラドクス文と、集合として考えたときのパラドクス文とは、きちんと対称的になっていて、非対称なところは見えない。しかし、前節までで考察してきたようにこの両者は非対称である。
パラドクス文を関数として見るとき、その関数がどんなものかを知るためには、何か関数の対象になりそうなものを持ってきて、これに対してどのような関係を持つか、どのような変換をするかが分かれば良い。或る一つの対象に対してどんな関係が持たれたかが分かれば、その関数の外延的意味を少しだけ知ることができる。或る百個の対象に対してどんな関係が持たれたかが分かれば、その関数の外延的意味ががずいぶん分かってくる。そして、世界中のあらゆる対象に対して、関係が持たれるか否か関係が持たれるとすればどんな関係になるかが分かれば、その関数の外延的意味がはっきり分かるのだと言えるだろう。
そこで、もしその関数の力が及ぶ範囲から外れてしまうような対象があったとしても、その関数はその対象に対して関係が持てないというだけで、関数自身が意味を失ってしまうことにはならない。だから、関数の対象は、そのたびに必要なものだけを持ちよってきて当てはめてみたり関係づけてみたりすればいいのであって、あらかじめ全てのものごとがどう関係するかを知っていなければならないというようなものではないのだ。
一方、パラドクス文を集合として見るとき、話は違ってくる。集合は要素の集まりである。そして、それがどんな集合であるかを決めるためには、何かの対象がその集合の要素になるかならないかが、分からなければならない。集合を外延的に表現しようとするとき、たとえば集合{0,1,2,3}などのようにその要素の全てを書き出すことができたり、決定することができたりするのであれば、その集合の要素を全て知ることができ、集合を正しく表現できる。
しかし、内包的に表現しようとする場合には、その集合の要素を全て知ることができなくなることがある。たとえば「集合の集合」などは、どう考えても、その要素の全てを挙げることなどできるわけがない。だから、このような場合には、世界中にあるあらゆる対象(モノコト)を一つ一つ持ってきて、その集合の要素であるか否かを確かめられなければならないのだ。つまり、何かを集合として見るということは、何かの対象がその集合の要素であるか否かを決定できることである。…と言えるだろう。
それゆえ、その集合の要素であるか否かが決定できないような対象がたった一つあっただけで、それが集合ではないことの証明になってしまうのだ。
パラドクスの述語バージョンと集合バージョンに、もともと違いがあったのではなく、それを関数として見るか集合として見るかに決定的な違いがあったのだ。
ここに、集合と関数の非対称性があり、集合論の実在論性がある。
この意味で、集合論は実在論を土台としている。一つの集合を内包的表現で言おうとすれば、世界中のあらゆるモノやコトがその集合の要素であるか否か決まっていなければならない。あらゆるモノコトがあらゆる分類に対して決定可能であること必要なのである。
ラッセルの間違い
蛇足ながら、もう一つ付け加えておくと、だから、ラッセルは間違えている。パラドクスの述語バージョンと集合バージョンは、自己言及によるダブルバインドという点で同じ内容のものであるのだが、この二者は非対称なのだ。
ラッセルが「ある状況では、確定した集合が一つの全体を形成しないことがある、と私は結論します。」と言ったのはその通りである。しかし、「wを述語ではないと結論せざるを得ません。」と言ったのは早計だったと結論せざるを得ない。「それ自身に述語づけられない述語である」という述語wは、そのwがそれ自身に述語づけられない述語であるかどうかを問うことが不可能であるのだけれど、それだからといって、これを述語でないと結論付けてしまってはいけないのだ。
ラッセルの個人的書簡について指摘するのは気が引けるし、ラッセルのような偉大な学者に突っ込みをいれられるほどの自信があるわけでもないが、この点ではラッセルは間違っていると思う。どうだろうか。
http://sets.cocolog-nifty.com/blog/2011/02/8-76bc.html
マルクスは微分ではなく、集合論とグラフ理論を研究すべきだった。
集合論ばかりだとバディウみたいになってしまうが、少なくとも現代数学の基礎だし、
グラフ理論はネットワーク理論の基礎だ。
http://blogs.yahoo.co.jp/kazuya_kagamihara/35597304.html
「最初に差をとる操作を定立し、ついでこれをふたたび止揚することは、文字どおり無
に導く。微分操作の理解において困難な点はことごとく(一般に否定の否定の理解にお
けるそれと同様に)この操作がこのような簡単な手続といかにして区別されるのか、また
それゆえいかにして実際的な成果に導くのか、を見定めることである。」
(マルクス『数学手稿』)
http://blog.livedoor.jp/khideaki/archives/51311261.html
マルクスは、この(微分における)0/0の表現を「否定の否定」として理解すべきで
あるという書き方をしている。つまり、単純に0の割り算として出てきたのではなく、
ある考察の過程として、否定の否定を経て、導き出されたものとして過程の違いを見
なければならないということだ。これはたいへん難しいということを感じる。だが、
この表現を「否定の否定」として理解しなければ、微分が運動の表現であるという
ことを実感することが出来ないのではないかと思う。
マルクスは微分ではなく、集合論とグラフ理論を研究すべきだった。
集合論ばかりだとバディウみたいになってしまうが、少なくとも現代数学の基本だし、
グラフ理論はネットワーク理論の基礎だ。
http://blogs.yahoo.co.jp/kazuya_kagamihara/35597304.html
「最初に差をとる操作を定立し、ついでこれをふたたび止揚することは、文字どおり無
に導く。微分操作の理解において困難な点はことごとく(一般に否定の否定の理解にお
けるそれと同様に)この操作がこのような簡単な手続といかにして区別されるのか、また
それゆえいかにして実際的な成果に導くのか、を見定めることである。」
(マルクス『数学手稿』)
http://blog.livedoor.jp/khideaki/archives/51311261.html
マルクスは、この(微分における)0/0の表現を「否定の否定」として理解すべきで
あるという書き方をしている。つまり、単純に0の割り算として出てきたのではなく、
ある考察の過程として、否定の否定を経て、導き出されたものとして過程の違いを見
なければならないということだ。これはたいへん難しいということを感じる。
…
マルクスは微分ではなく、集合論とグラフ理論を研究すべきだった。
集合論を政治学に適応するだけだとバディウみたいになってしまうが、少なくとも現代
数学の基礎だし、グラフ理論はネットワーク理論を生んだ。
http://blogs.yahoo.co.jp/kazuya_kagamihara/35597304.html
「最初に差をとる操作を定立し、ついでこれをふたたび止揚することは、文字どおり無
に導く。微分操作の理解において困難な点はことごとく(一般に否定の否定の理解にお
けるそれと同様に)この操作がこのような簡単な手続といかにして区別されるのか、また
それゆえいかにして実際的な成果に導くのか、を見定めることである。」
(マルクス『数学手稿』)
http://blog.livedoor.jp/khideaki/archives/51311261.html
マルクスは、この(微分における)0/0の表現を「否定の否定」として理解すべきで
あるという書き方をしている。つまり、単純に0の割り算として出てきたのではなく、
ある考察の過程として、否定の否定を経て、導き出されたものとして過程の違いを見
なければならないということだ。これはたいへん難しいということを感じる。
…
マルクスは微分ではなく、集合論とグラフ理論を研究すべきだった。
集合論を政治学に適応するだけだとバディウみたいになってしまうが、少なくとも現代数
学の基礎だし、グラフ理論はネットワーク理論(資本論に足りないのはこれ)を生んだ。
http://blogs.yahoo.co.jp/kazuya_kagamihara/35597304.html
「最初に差をとる操作を定立し、ついでこれをふたたび止揚することは、文字どおり無
に導く。微分操作の理解において困難な点はことごとく(一般に否定の否定の理解にお
けるそれと同様に)この操作がこのような簡単な手続といかにして区別されるのか、また
それゆえいかにして実際的な成果に導くのか、を見定めることである。」
(マルクス『数学手稿』)
http://blog.livedoor.jp/khideaki/archives/51311261.html
マルクスは、この(微分における)0/0の表現を「否定の否定」として理解すべきで
あるという書き方をしている。つまり、単純に0の割り算として出てきたのではなく、
ある考察の過程として、否定の否定を経て、導き出されたものとして過程の違いを見
なければならないということだ。これはたいへん難しいということを感じる。
…
マルクスは微分ではなく、集合論とグラフ理論を研究すべきだった。
集合論を政治学に適応するだけだとバディウみたいになってしまうが、少なくとも現代数
学の基礎だし、グラフ理論はネットワーク理論(資本論には複数のノードが足りない)
を生んだ。
http://blogs.yahoo.co.jp/kazuya_kagamihara/35597304.html
「最初に差をとる操作を定立し、ついでこれをふたたび止揚することは、文字どおり無
に導く。微分操作の理解において困難な点はことごとく(一般に否定の否定の理解にお
けるそれと同様に)この操作がこのような簡単な手続といかにして区別されるのか、また
それゆえいかにして実際的な成果に導くのか、を見定めることである。」
(マルクス『数学手稿』)
http://blog.livedoor.jp/khideaki/archives/51311261.html
マルクスは、この(微分における)0/0の表現を「否定の否定」として理解すべきで
あるという書き方をしている。つまり、単純に0の割り算として出てきたのではなく、
ある考察の過程として、否定の否定を経て、導き出されたものとして過程の違いを見
なければならないということだ。これはたいへん難しいということを感じる。
マルクスは微分ではなく、集合論とグラフ理論を研究すべきだった。
集合論を政治学に適応するだけだとバディウみたいになってしまうが、少なくとも現代数
学の基礎だし、グラフ理論はネットワーク理論を生んだ。
http://blogs.yahoo.co.jp/kazuya_kagamihara/35597304.html
「最初に差をとる操作を定立し、ついでこれをふたたび止揚することは、文字どおり無
に導く。微分操作の理解において困難な点はことごとく(一般に否定の否定の理解にお
けるそれと同様に)この操作がこのような簡単な手続といかにして区別されるのか、また
それゆえいかにして実際的な成果に導くのか、を見定めることである。」
(マルクス『数学手稿』)
http://blog.livedoor.jp/khideaki/archives/51311261.html
マルクスは、この(微分における)0/0の表現を「否定の否定」として理解すべきで
あるという書き方をしている。つまり、単純に0の割り算として出てきたのではなく、
ある考察の過程として、否定の否定を経て、導き出されたものとして過程の違いを見
なければならないということだ。これはたいへん難しいということを感じる。
マルクスは微分ではなく、集合論とグラフ理論を研究すべきだった。
集合論を政治学に適応するだけだとバディウみたいになってしまうが、少なくとも現代数
学の基礎だし、グラフ理論はネットワーク理論を生んだ。
http://blogs.yahoo.co.jp/kazuya_kagamihara/35597304.html
「最初に差をとる操作を定立し、ついでこれをふたたび止揚することは、文字どおり無
に導く。微分操作の理解において困難な点はことごとく(一般に否定の否定の理解にお
けるそれと同様に)この操作がこのような簡単な手続といかにして区別されるのか、また
それゆえいかにして実際的な成果に導くのか、を見定めることである。」
(マルクス『数学手稿』)
http://blog.livedoor.jp/khideaki/archives/51311261.html
マルクスは、この(微分における)0/0の表現を「否定の否定」として理解すべきで
あるという書き方をしている。つまり、単純に0の割り算として出てきたのではなく、
ある考察の過程として、否定の否定を経て、導き出されたものとして過程の違いを見
なければならないということだ。これはたいへん難しいということを感じる。…
マルクスは微分ではなく、集合論とグラフ理論を研究すべきだった。
集合論を政治学に適応するだけだとバディウみたいになってしまうが、少なくとも現代数
学の基礎だし*、グラフ理論はネットワーク理論を生んだ。
http://blogs.yahoo.co.jp/kazuya_kagamihara/35597304.html
「最初に差をとる操作を定立し、ついでこれをふたたび止揚することは、文字どおり無
に導く。微分操作の理解において困難な点はことごとく(一般に否定の否定の理解にお
けるそれと同様に)この操作がこのような簡単な手続といかにして区別されるのか、また
それゆえいかにして実際的な成果に導くのか、を見定めることである。」
(マルクス『数学手稿』)
http://blog.livedoor.jp/khideaki/archives/51311261.html
マルクスは、この(微分における)0/0の表現を「否定の否定」として理解すべきで
あるという書き方をしている。つまり、単純に0の割り算として出てきたのではなく、
ある考察の過程として、否定の否定を経て、導き出されたものとして過程の違いを見
なければならないということだ。これはたいへん難しいということを感じる。…
*
http://sets.cocolog-nifty.com/blog/2011/02/8-76bc.html
関数と集合論は違う。
集合と関数はどう違うか≪ラッセルパラドクスの内包と外延7≫
ウィトゲンシュタインはラッセルのパラドクスについて次のように言っている。
「3・333 関数自身をその関数の入力項にすることはできない。…
関数F(fx)が自分自身の入力項になり得たと仮定してみよう。
そのとき「F(F(fx))」という命題が存在することになる。
ところがこの命題において外側の関数Fと内側の関数Fは異なる意味を持っているのでなければならない。…
かくして、ラッセルのパラドクスは片付く。」(論理哲学論考)
本稿前節までで、ラッセルのパラドクスの形を2つに分けて考えた。
「w={x|x∉x}において、wはwの要素か」という集合の形のものと、「Fx=a(Fx≠xのとき)におけるFa」という関数の形のものとである。関数の形はさらに、問題の部分のみを抽出して、「Fx=a.x≠aにおけるF(Fx) 」として考えてもいいだろう。
この集合式と関数式とを見比べるとウィトゲンシュタインの言っていることがはっきりする。
{x|x∉x}は「自分自身の中に自分自身を含まない」と読むのが普通だろうが、この「自分自身」という言い方は、「自分が自身に代入され、それが無限に循環し続ける」というイメージにつながる。
これに対して、F(Fx)は、「某かのことを2回施す」と読むのが普通だろう。xに対して内側のFが働いてFxにし、さらにそのFxにそとがわのF( )が働いてF(Fx)にするという意味に読まれるべきだろう。しかし、これは無限に循環するイメージには、ならない。実際に、内側の(Fx)と外側のF( )とではその定義域が異なり、別の関数になっているからだ。内側の関数の定義域は「a以外のあらゆる値」であるが、内側の値域が「a」になるため、外側の定義域は「aでありかつaではない」を示すことになり、定義域が空になる。それゆえ、この関数には解が存在できなくなる。
ただ、解は無くなるのだけれど、それだけのことであって、無限循環に陥るものではない。
関数として捉える場合には、その外延すべてを一括りにして考える必要はなく、矛盾する外延を対象から外し取り除くことによって、矛盾自体を捨てることができ、パラドクスが消失していくのだ。
それに対して、集合では、無限にある全ての要素を一括りにして飲み込んでしまうので、「自分が自身の要素になり得ず、かつ、自身の要素として在る」という矛盾の中で、永遠に循環し続けなければならないことになってしまう。つまり、集合として捉えた場合、その外延対象全てを(外延として定めきれないようなものまでひっくるめて)実在するものとしてしまうことによって、パラドクスを生み、身動きできなくなってしまうのである。だから、ラッセルのパラドクスは、集合の実在論的視点が矛盾を抱え込んでしまうことによる混乱だと言えるだろう。
ウィトゲンシュタインが次のように言って集合論を切り捨てているのは、このことが関係しているのかもしれない。
「6・031 集合論は数学では全くよけいである。」
ただし、集合論は本当に哲学的には使えないものなのだろうか。それに対しては慎重に考えるべきだと僕は思う。
それでも、実在論的な視点(言いかえると、神の視点と呼ぶべきもの)による世界把握は、無条件にどこまでも許されるわけではなさそうである。何が許されて。どうなるとダメなのか。その境界があるのだろうか。
http://sets.cocolog-nifty.com/blog/2011/01/7-71db.html
デデキント
5 人中、5人の方が、「このレビューが参考になった」と投票しています。
5つ星のうち 4.0 数学基礎論史の史料として 2013/11/23
By 大和谷 潔
数学基礎論は、確実に存在すると認められる対象を確実に正しいと認められる手続きで扱う学問へと数学を再構成することを目指します。
その二つの柱が、対象の基礎論としての集合論の公理化と、手続きの基礎論としての論理学の形式化です。
本書は、公理的集合論と形式的論理学に関する3篇の歴史的論文(+書評1篇)と1篇の現代的解説を一冊にまとめています。
-----
1, デデキント「連続性と無理数」(30頁)
この論文は、それまで幾何学を経由して定義されていた無理数、そして実数を、有理数のみから定義することを目的とします。
大小順に並べた有理数を一カ所で二つに分割したものを「切断」と呼びます。
ひとつの有理数はひとつの切断を指定します。
その逆は真ではなく、有理数によって指定できない切断が存在します。
このような切断を指定する数の存在を仮定して、これを無理数と定義します。
こうして、切断そのものを、有理数と無理数を合わせた実数と同一視できます。
そして、切断によって定義された実数が、算術や極限への収束など実数に求められる性質をもつことを証明します。
-----
2, デデキント「数とは何か そして何であるべきか」(94頁)
この論文は自然数を集合から基礎付けることを目的とします。
論文1と合わせると、実数解析を集合によって基礎付けることになります。
まず、集合、写像、帰納法など、基本的な集合論を説明します。
つぎに、ある集合Nのひとつの写像φ:N->Nについて、一つの要素を1と定め、2≡φ(n), 3≡φ(φ(n)), ... と自然数を構成します。
そして、これらの数の大小、加算、乗算、冪乗を定義します。
最後に、こうして構成した数の集合を基準として、他の一般的な集合の有限/無限性や要素の個数を扱います。
-----
A, ネーター「前掲のモノグラフに対する説明」(2頁)
-----
B, ツェルメロ「集合論の基礎に関する研究I」(42頁)
この論文は、論文2のうち自然数に関する部分を除いた集合論を、七つの公理を明示して公理論化したものです。
数学史的には、「集合論公理化に対する最初の試み」(「あとがき」より)です。
論文2に比べ、集合論として一層純化されています。
たとえば、論文2は「まず要素ありき」として空集合の存在を認めませんが、この論文は(例外的な扱いですが)認めています。
また、「写像」は、論文2では要素を対応させる「法則」ですが、この論文は二要素をもつ集合の集合として定義します。
-----
C, 訳者「現代の視点からの数学の基礎付け」(106頁)
この論文では、デデキントから100年後の基礎論の姿を、数理論理学の成果を中心に「スケッチ」します。
形式論理学の紹介から始まり、不完全性定理を経て、論文Bの公理の形式化、形式化した集合論のある種の「無矛盾性」まで。
-----
1,2,Bでは、数学の知識は不要です。
1,2の難易度は『集合・位相入門』(松坂和夫)と同程度です。
Bの難度は1,2より少し上です。とくに、集合の集合の集合の...と階層を縦横に行き来して話が進むので、どの階層に注目しているのか見失わないように注意が必要です。
Cは一冊の教科書に相当する範囲を100頁に要約したもので、数理論理学の知識無しで読むのは難しいでしょう(とくに最後30頁は分からず)。
本書のあとには、同レベルの難易度で、幾何学から数を構成する『幾何学基礎論』(ヒルベルト)もおすすめです。
-----
85p,-11:「(a',U')」は「M(a',U')」か(Mはドイツ文字)?
88p,-8:「1に属すN」は「1が属すN」?
108-109p:分からず。
158p,+3:「M+N」は「M+M'」?
178p,-8:「r,0」は「{r,0}」?
239p,+2:「P^Q」は論理式の列PとQの連結の意味か。
コメント |
このレビューは参考になりましたか?
自然数の定義0={}, 1={0}, 2={0,1},...
マルクスは微分ではなく、集合論とグラフ理論を研究すべきだった。その時代の限界だが、、、
集合論を政治学に適応するだけだとバディウみたいになってしまうが、少なくとも現代数
学の基礎だし、グラフ理論はネットワーク理論を生んだ。
http://blogs.yahoo.co.jp/kazuya_kagamihara/35597304.html
「最初に差をとる操作を定立し、ついでこれをふたたび止揚することは、文字どおり無
に導く。微分操作の理解において困難な点はことごとく(一般に否定の否定の理解にお
けるそれと同様に)この操作がこのような簡単な手続といかにして区別されるのか、また
それゆえいかにして実際的な成果に導くのか、を見定めることである。」
(マルクス『数学手稿』)
http://blog.livedoor.jp/khideaki/archives/51311261.html
マルクスは、この(微分における)0/0の表現を「否定の否定」として理解すべきで
あるという書き方をしている。つまり、単純に0の割り算として出てきたのではなく、
ある考察の過程として、否定の否定を経て、導き出されたものとして過程の違いを見
なければならないということだ。これはたいへん難しいということを感じる。…
問いただす人 (1971年) (初期イギリス経済学古典選集〈6〉) 単行本 – 古書, 1971/1/1
ジョージ・バークリー (著), 川村 大膳 (翻訳),
https://www.amazon.co.jp/問いただす人-1971年-初期イギリス経済学古典選集%E3%80%886〉-ジョージ・バークリー/dp/B000J9SSNS/
UKIUKI
5つ星のうち5.0 「信用は貨幣に先立つ」最高に頭脳明晰なバークリー
2020年12月6日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
古川顕さんの「貨幣論の革新者」で賞賛されているマクラウド(初著1855出版)の独創性とされているものは、煎じ詰めると「「信用(債務)」は(論理的にも歴史的にも)貨幣にも物々交換にも先立つ」ことの発見である。
これは哲学者バークリーが本書「The Querist(1735 邦題「問いただす人」)で主張したこと。マクラウド本人もバークリーの貢献を認めている。
貨幣のない世界でパン100個と上着1着が等価だと理解されているとして、上着1枚余剰だが相手に交換出来るパンが10個しかなければどうするか。パン90個分を「つけ」にすれば良い。
つまり服屋がパン屋に信用(債務)を与えればよい。
この信用の尺度、符牒の一つとして貨幣が使われるようになった。
物々交換(等価交換)→貨幣経済→信用経済という見方は、貨幣による等価交換が浸透した後の時代から見た錯覚に過ぎず、初めに信用取引があり、その特殊形態として等価交換(即時清算)が生まれた。
言われてみれば実に当然のことだが、貨幣経済の只中でこれを発見するには、バークリーの如き空前絶後の頭脳明晰を必要とした。
マクラウドは銀行実務の中でこれにある程度気づいたのだろうが、あくまでもバークリーの論を読みそれを敷衍したもの。
「ある人は、自分なりのやり方で、自分の消費しうるもの以上を取得したときに、その余剰物と交換に、自分にないものを満たそうとした。これは信用を生まざるを得ない。こういう移転を容易にし、この信用を記録し流通させるために、彼等はやがて、特定の割符、表示、切符あるいは計算具を、協定によって作り出そうとしたのである。(第1部 質問49)」
「どのような媒介物(金属であろうと紙であろうと)が用いられようとも、すべての流通はひとしく信用の流通ではないだろうか。そうして金の方が信用よりも強い通用力をもつなどといえるであろうか。(第3部 質問10)
「国民の富全体が実は国立銀行の資産にほかならないことを理解するのに、何らかの困難があろうか。しかも、国立銀行の信用にかんしてすべての人々を安心させるのに、この点を正確に理解させることほど必要なことがあるであろうか。(第3部質問84)」
「それゆえ、国立銀行は金鉱にもまして有益なものではないだろうか。(第2部質問22)
「だがもし、(国立銀行の設立により)ペンを一走り走らせるだけで100ポンドもの資金を調達できるようになれば、そのことは民間人にとって大きなめぐみではなかろうか。(第2部質問27)」
「国立銀行は国家のもつ真の化金石(Philosopher's Stone 賢者の石)ではなかろうか。」第3部質問132
また、ミルが「経済学原理」1848でフィッシャーに60年先駆けて貨幣の流通速度概念に着目していると指摘しているが、その100年以上前にバークリーは
「迅速に流通するより少ない貨幣は、事実上、緩慢に流通するより多い貨幣に相当するのではなかろうか。換言すれば、流通が貨幣の量と逆に動く場合に、国民が損をすることがありうるだろうか。(第1部 質問22)
と既に指摘している。ミルはバークリーの書評まで書いている(本書解説参照)ので、バークリーの影響は明らか。
ついでに言うとミルは始めて銀行の信用創造を唱えたかも知れないが、信用はあくまでも貨幣の代替物と捉え、信用が貨幣に先立つことは理解していなかったようだ。
バークリーこそ史上最も鋭利で、頭脳明晰な思想家であろう。
コメントを投稿
<< Home