参考:
アドルノと音楽
http://nam-students.blogspot.com/2010/05/blog-post.html
「哲学は音楽と兄弟のような関係にある」アドルノ(『否定弁証法(1966)』邦訳p.135)
ホ メ ー ロ ス |
☆ブルックナー | | プラトン
バッハ |(聖書) | パスカル
| シェークスピア | ライプニッツ
モーツァルト | |<ヴォルフ>
_|_ゲーテ | スピノザ
(ドンジョバンニ)| |☆カフカ |☆キルケゴール
|_|_イプセン __|_カント
ベートーベン__|_|________| |
前期 | | |__|_ヘーゲル
後期 |_|*ゴッホ |
シューベルト |_|☆ゲーテ | ヘルダー
☆ブラームス |_|_ヘルダーリン |☆ハイデッガー
ワーグナー | ボードレール | ショーペンハウアー
マーラー | プルースト ☆ハイネ| フロイト、ニーチェ
|☆ポー、☆ボードレール|
ドビュッシー | マラルメ | ベルグソン
ラヴェル | マラルメ |
ストラビンスキー | ドストエフスキー | ユング、ニーチェ
シェーンベルク | カフカ | フロイト、マルクス
ベルク | ボードレール | フロイト
ヴァーレーズ | | A・フロイト
シュトックハウゼン | ジョイス |
ケージ |*<デュシャン> | フッサール
ウェーベルン | カフカ、クレー | フロイト、ベンヤミン
アイスラー |(勝負の終わり) | アドルノ
シューマン? | カフカ、ベケット |<ドゥルーズ>
アドルノを参照して作成した、音楽・文学・哲学の対応表。
*は美術関連。( )内は作品名。☆は大幅に時代が違うので要注意。
< >内はアドルノの直接言及なし。
下記の指摘を受け、アドルノ理論における音楽・文学・哲学のアレゴリカルな対応表を作成してみた。
浅田 ただ、ベートーヴェンといい、シェーンベルクやベルクといっても、文学に対応物
を求めることはできるでしょう。第一のピークである後期ベートーヴェンは、アドルノに
とってヘルダーリンとほぼパラレルなんですね。べートーヴェンの中期までの作品は、闘
争を通じての偉大な勝利という正反合の肯定弁証法の図式に則っていて、それがブルジョ
ワ革命と対応する。しかし、後期の作品になると、そのような弁証法が宙吊りにされ、シ
ンボリックな統一が破綻して、アレゴリカルな断片の散乱したような状態になっていくわ
けで、それはナポレオンの敗北以後の状況と対応している。それは、しかし、後期ベート
ーヴェンを通じてでなくとも、ヘルダーリンを通じて捉えられるわけでしょう。そして、
ある意味でそれに対応するもうひとつのピークがシェーンベルクとそれ以後ということに
なるわけだけれども、それは文学で言うとカフカなりベケットなりで代表されるんでしょ
うからね。
(浅田彰「アドルノのアクチュアリティ」「批評空間」1997.1より。浅田のは
モダンジャズの弁証法 に関しても触れており
☆ 、この共同討議は興味深い。)
あるいは、
アドルノを参照して作成した、音楽・文学・哲学のアレゴリカルな対応表。
ホ メ ー ロ ス |
(ブルックナー) | | プラトン
バッハ |☆聖書 | パスカル
| シェークスピア | ライプニッツ
モーツァルト | |<ヴォルフ>
| _|_ゲーテ | スピノザ
☆ドン・ジョバンニ| |(カフカ) |(キルケゴール)
| | イプセン _|_カント_________
ベートーベン__|_|_________| | |
| | |_|_ヘーゲル______ |
後期ベートーベン|_|*ゴッホ | | |
シューベルト | |(ゲーテ) | ヘルダー | |
ショパン | | | | |
ブラームス |_|_ヘルダーリン |(ハイデッガー) | |
ワーグナー | ボードレール | ショーペンハウアー | |
マーラー | プルースト、(ハイネ|_フロイト、ニーチェ | |
|、ポー、ボードレール)/ | | | |
ドビュッシー | /| ベルグソン | | | |
ラヴェル | マラルメ | | | | | |
ストラビンスキー | ドストエフスキー| | ユング、__| | | |
(ヴァーレーズ) |________/ |<A・フロイト> | | |
シェーンベルク_ /| カフカ______ | マルクス__ | | |
ベルク_____| |(ボードレール) || | | |_|
ヴェーベルン__| |*クレー___ || ベンヤミン | |_|
ワイル | ブレヒト__| || | |_|
アイスラー |☆勝負の終わり_ || アドルノ__|
シュトックハウゼン | ジョイス | ||
ケージ____ |*<デュシャン>|_|| フッサール
シューマン、_| | ベケット、__| |<ドゥルーズ>
プレスリー |<夏目漱石> |<柄谷行人>
*は美術関連。
☆は作品名。
( )内は大幅に時代が違うので要注意。
< >内はアドルノは言及していない。
http:// yojisek i.exblo g.jp/10 619662/
http:// nam-stu dents.b logspot .com/20 10/05/b log-pos t.html
付録:アドルノ語録
「哲学は音楽と兄弟のような関係にある」(『否定弁証法(1966)』邦訳p135)
「オデュッセウスは歌声を聞く。だが、彼はマストにつけられたままだ。(略)自らは歌を聞くことがない仲間たちは、歌の危険を知っているだけでその美を知らない。オデュッセウスと自らを救うために、かれらはオデュッセウスをマストに縛ったままにしておく。(略)縛られている者はいわばコンサート会場にいる。のちの聴衆のように身じろぎもせず、じっと耳を澄まして。(略)こうして先史世界との離別に際して、芸術の享受と肉体労働とは別々の道を歩むのである。」(『啓蒙の弁証法(1947)』岩波文庫p74-5 、『現代思想の冒険者たち アドルノ』p153-4)
「『英雄』第一楽章は、(略)つまりブルックナー流のプラトン的理念を持つ箇所。」(『ベートーヴェン(1993)』p159)
「ブルックナーの第九交響曲のアダージョの有名な和音のようである。響きの面を含む様々なコントラストが深められ、それとともに眺望も深まる。」(『マーラー』p134)
「ブルックナーの多くの箇所と似て、なめらかな移行の代わりに、大きな調性の領野と領野の間を見通す眺望的連関を可能にする。」(『マーラー(1960)』p38)
「<嬰ハ短調のフーガ>(注:第一巻と記述されるが第二巻の誤り?)は、あたかも等しい重要さをもった線の緻密な編み物であるかのように始まり、(略)」(『プリズメン(1955)』p207)
「バッハとパスカルを合わせて考えること。バッハにおける「秩序」は実際のところ、おそらく機械論的合理主義という契機なのかもしれない。」(『ベートーヴェン(1993)』p121)
「芸術作品の社会に対する関係はライプニッツのいうモナドに比較することができる。作品、特に概念からほど遠い音楽は、窓もなく、したがって社会を意識せず、いずれにせよつねに不可避的に社会に伴われることはなく、社会を表象する。」(『音楽社会学序説』p359)
「シェークスピアをバロックに含めるうるかぎりで」(『キルケゴール(1933)』p121)
http://youtube.com/watch?v=K_IaJDqz2Zo
「オペラの舞台では『魔笛』のザラストロの僧や『フィガロ』の終幕にはっきりと見てとれるモーツァルトのヒューマニティの清らかな表現は、民族的二元論によって形成されたものである。ヒューマンなものとは、無暴力的な精神化による自然との和解である。まさしくそれがモーツァルトにおいてイタリア的なものとのあいだにおこったのであり、彼はそれをふたたび歴史的にひとつの民族的中心すなわちウィーンに遺産としてのこしたのであった。」(『音楽社会学序説』p278)
「歴史哲学的にみるなら、モーツァルトの独自性をなしているのは、音楽の宮廷的で儀式的な本質、つまり「絶対主義的な」本質が、市民的主観性と均衡を保っていることである。モーツァルトの成功を決定しているの点は、おそらくこのへんにあるように思われる。ゲーテ(ヴィルヘルム・マイスター』)との密接な関係。」(『ベートーヴェン(1993)』p96)
「キルケゴール~早くも『ドン・ジョバンニ』に、ワーグナーをまってはじめて音楽的に解放されることになるむき出しの自然の魔力を聴き取り、(略)」(『キルケゴール(1933)』p42)
「わたしは実際にはキルケゴールとカフカの関係に固執しますが、関係とは結局のところ弁証法的神学の関係であって、(略)」(『ベンヤミン(1970)』p108)
「社会的客観性に対するベートーヴェンの立場は、(略)むしろ哲学--かなりの点でカント哲学、決定的な点でヘーゲル哲学--の立場であって、(略)」(『音楽社会学序説(1962)』p357)
「道徳の弁証法について何か知りたいなら、(略)これらのイプセン作品よりも具体的で、同時に首尾一貫したものを見つけることは出来ないでしょう。『野鴨』が扱っているのは、一人の人間が、道徳法則、あるいは当の人物によって純粋な道徳的要求とほとんどカント的に呼ばれる要求を主張することによって、いかに自身、不道徳的になっていくかという問題です。」(『道徳哲学講義(1996,原講義は1963)』p264)
「ヘルダーリンは、悲劇の計算可能な法則について語っている。この理論が言う、予め決定されている対象とは、ベートーヴェンの場合、交響曲タイプの展開部ということになるであろう。」(『ベートーヴェン(1993)』p102)
「ヘルダーリンの中間休止の概念と類似」(『ベートーヴェン(1993)』p102)
「後期ベートーヴェンの歴史的な位置は潜在的な現代であり、いまだ印象主義者だと感じてはいたが本当はそれとはまったく逆であったファン・ゴッホと似ている。」(『マーラー』p173)
「シューベルトのハンガリーふう」(『音楽社会学序説』p280)
『冬の旅』(『新音楽の哲学』p193)
「シューベルトのハ長調交響曲のフィナーレ」(『音楽社会学序説』p282)
「個人が誇った自由には、ヘーゲルがはじめて見てとったように、否定的な側面が含まれていた。(略)こうした否定的な側面--この側面がシューベルトの連弾のためのピアノ曲のタイトル『人生(レーベン)の嵐』にも込められている--を、生は保持してきた。商品生産における無秩序(アナーキー)は、社会の自然発生性を表現しているのであって、この起源が生という言葉の用法のうちに共鳴している。生という言葉は、本質的に社会的であるものを指す生物学的カテゴリーなのである。」(『否定弁証法』p318-9。「アナーキー」を肯定的に使用した晩年の画期的な例。)
「音楽におけるブルジョア的特性の形成については、『ショパン、書簡集』を参照。」(『ベートーヴェン』p47)
http://yojiseki.exblog.jp/10485350/
「ハイデガーは哲学のもつ表現不可能性を直接主題化して扱うことによって哲学をせきとめ、意識の無効宣言のところまで逆行させる。(略)ヘルダーリンを悪用して時代の乏しさのせいにされたものは、実は、自分が時代を超えていると妄想している思考の貧しさである。」(『否定弁証法(1966)』p136)
"He refuses to follow Briinnhilde to Valhalla when the Absolute denies him the happiness of individuation that is libelled by Wagner and Schopenhauer alike:
If I must die I shall not go to Valhalla.
Let hell hold me fast! "
("In search of Wagner"p142)
「芸術が芸術自身にとっての対象に化してしまう、という帰結は、初期シェリングやショーペンハウアーの内に孕まれ、ついにワーグナー、ニーチェに至って破壊的に貫徹された。」(『キルケゴール(1933)』p13)
「ショーペンハウアーにおいてすでに、死の救済の衣装をまとわせるとともに、「世界救済者」という尊大な概念もまた告知されているのだ。そしてこの世界救済者がヴァーグナーにおいてその全作品のイデオロギー的頂点を形づくることになる。」
(『ヴァーグナー試論』邦訳178頁 高橋順一訳)
「ヴァーグナーのオペラには、ショーペンハウアーが「悪しき商品の外見」と名づけた目眩ましの傾向が存在する。」(同100頁)
「フロイト理論における、自我に対するエスと超自我との了解という事柄は、マーラーにぴったりである。(略)第八交響曲の「過ぎ去りゆくものはすべてただ一つの比喩」の第一稿は、何十年もアルバン・ベルクの家にあったが、トイレットペーパーの上に書かれている。マーラーの隠された衝動は、上部構造を拒絶し、音楽文化の内在が覆い隠しているものへと迫ろうと欲する。」(『マーラー』p53-4)
「プルーストとの類似は、心の内なるモノローグの類似である。(略)この音楽の精神は、マーラーが若い頃に傾倒していたニーチェと合致する。(略)音楽はマーラーの中で、ポーとボードレールの戦慄を、すなわち虚無の味(グー・ドウ・ネアン)を、今になって手に入れる。」(『マーラー(1960)』p196)
「マーラーの音楽においてはじめて、ハイネの本質は完全に明らかとなった」(『マーラー(1960)』p244、原典は『文学論ノート1』)
「ドビュッシーがベルグソンの哲学および印象主義の生活感情とかかわりをもつことを、完全無欠に証明してくれと要求されるや、たちまち曖昧模糊としてしまうのである。」(『音楽社会学序説(1962)』p335)
「ラヴェルにマラルメというものがなく、(略)」(『楽興の時』p91)
「ベンヤミンはカフカの叙事文学を健全なる人間悟性の病と呼んだが、『兵士の物語』の破損した慣習の数々は、市民時代を通じて健全なる人間悟性が音楽において意味したものすべての傷痕なのである。」(『新音楽の哲学(1949)』p251)
「ストラヴィスキーとその流派は、音楽上のベルグソニスムの終わりを用意する。」(『新音楽の哲学(1949)』p269)
「ストラヴィンスキーは実際、ニーチェのヴァーグナーに対する敵対関係の過程を最後まで突き詰めたのである。」(『新音楽の哲学』p247。注:p266にニーチェのヴァーグナー批判がストラヴィンスキーにそのまま当てはまるという指摘がある。)
「ストラヴィンスキーにおけるロシア的なもの(略)。ドストエフスキーにみられる異国的なものは、自我の、自身そのものとの非同一性に起因している。」(『新音楽の哲学(1949)』p203)
「集団的で真正なものが生じること(略)。この(注:ストラヴィンスキーの)野望とC・G・ユングの学説との間の非常な親近性は、この作品性は(略)明白である。」(『新音楽の哲学(1949)』p227)
「ストラヴィンスキーはユングの元型論を、マーラーの音楽の啓蒙的意識はフロイトのカタルシス論を思い出させる。」(『マーラー』p55)
「魔術から解放された世界にあって、科学の模像(仮晶)となることで救われようとする芸術の絶望的な試みは、芸術にとって禍となる。その振舞いは、心理学において攻撃者への同化(注:アンナ・フロイトの概念)と呼ばれているものにひとしい。(略)どうすれば技術化された世界の経験を、(略)自家薬籠中のものにできるかを証立てているのは、エドガー・ヴァーレーズの仕事である。」(『不協和音(1956)』p284)
「異化の魅力と暴力を、(略)手に入れたいのだ。(略)ある程度まではシェーンベルクも、この点ではカフカと似たような反応の仕方をした。」(『プリズメン』p422)
「シェーンベルクはベートーヴェンとブラームスのこのような傾向を受け入れることによって、古典主義的な市民時代の音楽遺産を我がものとすることができる。それは唯物論的弁証法がヘーゲルに対してもっている関係と似たような意味においてなのである。」(『新音楽の哲学(1949)』p86)
「批判的かつ断片的(略)。シェーンベルクにピカソ、ジョイスにカフカ、またプルーストなどは皆、この点において一致している。」(ベンヤミン「複製技術時代の芸術作品」より引用した原注。『新音楽の哲学(1949)』p183)
「この宥和するするようなものは、オペラ『ルル』の中に明白に現れている。(略)性的なものの虚偽的な昇華の原理」(新音楽の哲学(1949)』p53)
「『ルル』がカタルシスたりうるのは、アリストテレス的ならぬフロイト的な意味においてである。それは、(略)文明過程の変更修正をおこなう上級審なのである。」(『アルバン・ベルク』p256)
「万人を呑み込んでいく近代の全体性のなかにあっては、何ものも、自然であるゆえをもって、容赦され、称揚される気遣いはない、その一点において、ベルクは、他のいずれの作品にもまして、ボードレール的である。」(『アルバン・ベルク』p258)
「伝統がそのつもりになれば呼び戻せるようなものではないという見方は、伝統とは忘れられたものの回帰であるという、フロイトのみごとな知見に一致する。(略)ヴェーベルンの作品九のバガテルの第一曲は、(略)どんな曲にもまして、古典の成果が生かされている。」(『不協和音(1956)』p234-5)
「筆蹟からしてベンヤミンはウェーベルンを想起させるが、シェーンベルクのウェーベルンについての言葉によるなら、ベンヤミンは動物的温かさをタブーで覆ったのである。」(『ベンヤミン(1970)』p52)
「そして彼(注:ベンヤミン)が彼の選びだしたクレーの寓意『新しき天使』を、与えず受け取る天使と命名するとき、これもまたニーチェの一思想の言い換えなのだ。」(『ベンヤミン(1970)』p52)
「アドルノは、例えばシュトックハウゼンとケージの作品を重要視し、文学作品において彼はベケットの小説と戯曲を、(略)哲学的反省の対象とした。」(『アドルノ伝』p520)
http://yojiseki.exblog.jp/9573674/
「『フィネガンズ・ウェイク』との親和性は、(略)シュトックハウゼンの作品に対する親和性と同様に見逃しがたい(略)」(『アドルノ伝』p520)
「ケージのピアノ・コンサートをアドルノは「鍵となる現象」のうちの一つとみなしていた。これらの現象は「情け容赦のない偶然性を自分の法として課し、そのことによって意味のようなものを、つまり驚愕を感じる」ものである。」(『アドルノ伝』p712、引用された文の原典は『美の理論』)
「フッサールによれば、音響学に由来する命題のうちには偶然性の契機が潜んでいる。」(『認識のメタクリティーク(1956)』p301、参考Logik1929)
「ジャズの技術面に精通した連中は蛮声をあげるエルヴィス・プレスリーの取り巻きたちをチンピラだと軽蔑しているが、(略)」(『『音楽社会学序説(1962)』p31)
「そのプログラムは、歴史的に言うと、それに関してニーチェが思い描いていたことに一番近いかもしれません。ここで考えている思考とは、確かに体系ではないけれども、自分のなかで体系や体系衝動を消化している思考のことであり、かつて体系形成の力となることを目指していたその力を、個別的なものの分析のなかで保持している思考である、ということになるでしょう。」(『否定弁証法講義』p72)
追記:
モーツァルトの父親はヴォルフ=ライプニッツの影響を受けたらしい(Mozart: A Cultural Biography Robert W. Gutman ↓)。
"...Indeed, Leopold Mozart's correspondence from time to time echoes Wolff's voice, ... it served as a welcome stopgap to cautious Germans like Leopold Mozart, ..."(Robert W. Gutman "Mozart"p25)
また、モーツァルトとスピノザを重ねる伝記作家もいる(メイナード・ソロモン↓)。
「物がその存在を失っていく傾向に直面して、モーツァルトはスピノザの言う「すべての物は、できる限りその存在を続けようと努力する」(注:
エチカ第3部定理6 )という言葉に似た立場を選択する。美もまた相剋しあう諸傾向の混乱の中から出てくるものであるが、究極的にそれは産出というより支配である。美は癒し、慰め、変容させ、保存し、記憶し、約束し、死者を葬り、延らせ、そしてわれわれが失ったものばかりでなく、たとえ象徴の中のことにせよ、われわれのものとなるはずだったものすらも、思い出させてくれるのである。モーツァルトの音楽の美とは、それの持つすべての可能性を費い切ってしまうまで、ないしは、少なくともそれらの可能性が多岐で無限であることを実例として示すまで、静止してしまうのを拒否することの中にある。」(邦訳メイナード・ソロモン『モーツァルト』p583)
ちなみに、アドルノの社会学においては、ウェーバーとデュルケムがカントとヘーゲルに対応すると『社会学講義』の訳者がそのあとがきで述べている。
また、ドゥルーズはフーコーのことをヴァーレーズにたとえている。
参考:
『啓蒙の弁証法』岩波文庫p74-5 (『現代思想の冒険者たち アドルノ』p153-4)
『音楽・メディア論集(1927-68)』p20(フロイト)
『楽興の時(1928-62)』p132(ジャズ,印象主義),148(ドビュッシー/ジャズ),158(ベルク,ジャズの音色)
『キルケゴール(1933)』p13(ショーペンハウアー,ワーグナー),42(モーツァルト,自然の魔力),121(シェークスピア,バロック?)
『新音楽の哲学(1949)』p86(シェーンベルク,唯物論),86(ブラームス),87(ワーグナー),90(ジャズ),
112(シェーンベルク),183(ベンヤミン"断片的,カフカ,ジョイス,プルースト")
203(ドストエフスキー),210(ムソルグスキー317),227(ユング),232(ショーペンハウアー),
233(マッハ),247(ストラビンスキー,ニーチェ),251(カフカ),267(印象派),276(ソナタ),277(ヘーゲル),
301(退行),307(シェーンベルク, 表現主義)
『In search of Wagner(1952)』,p90(ボードレール),第十章(ヘーゲル,ショーペンハウアー,ニーチェ)
『プリズメン(1955)』p210(バッハ=融合),422(シェーンベルク,カフカ),423(キルケゴール,カフカ:参照『ミニマ・モラリア』p352)
『不協和音(1956)』p284(ヴァーレーズ,アンナ・フロイト)
『マーラー(1960)』p38(ブルックナー,眺望的連関),p44(ブルックナー),53(フロイト),90(カフカ),95(ショーペンハウアー),129(ソナタ形式),189,196(プルースト,ニーチェ)
『音楽社会学序説(1962)』p115(アイスラー),118(モーツァルト),243(ブロッホ,地方主義),335(ベルグソン,ドビュッシー),357(ヘーゲル,ベートーベン),359(モナド)
『否定弁証法(1966)』p135(音楽,哲学),21,151,204(ライプニッツ=全体,同一性,統一)
『ベルク(1968)』p251(マックス・エルンスト),254(ワイル),256(ボードレール),258(フロイト的)
『ベンヤミン(1970)』p52(ウェーベルン),108(カフカ,キルケゴール)
『Sound figures(Klangfiguren ,1978)』p104(Webern,Klee,Kafka)
『ベートーヴェン(1993)』p51,96(モーツァルト,ゲーテ),67(カント,へーゲル),102(ヘルダーリン),103(ハムレット,ゲーテ),121(バッハ,パスカル,機械論的合理主義),159(ブルックナー,プラトン的)
『否定弁証法講義』p72(ニーチェ)
『道徳哲学講義』p132,252(ベートーベン),264(イプセン『野鴨』=カント定言命令),181(シラー×)
『アドルノ伝(2003)』p280(ワーグナー),371−2(アイスラー),520(ケージ,ジョイス,シュトックハウゼン)
*シューベルト「野ばら」「魔王」の元ネタはヘルダーと言われる。
追記:
浅田 ただ、ベートーヴェンといい、シェーンベルクやベルクといっても、文学に対応物
を求めることはできるでしょう。第一のピークである後期ベートーヴェンは、アドルノに
とってヘルダーリンとほぼパラレルなんですね。べートーヴェンの中期までの作品は、闘
争を通じての偉大な勝利という正反合の肯定弁証法の図式に則っていて、それがブルジョ
ワ革命と対応する。しかし、後期の作品になると、そのような弁証法が宙吊りにされ、シ
ンボリックな統一が破綻して、アレゴリカルな断片の散乱したような状態になっていくわ
けで、それはナポレオンの敗北以後の状況と対応している。それは、しかし、後期ベート
ーヴェンを通じてでなくとも、ヘルダーリンを通じて捉えられるわけでしょう。そして、
ある意味でそれに対応するもうひとつのピークがシェーンベルクとそれ以後ということに
なるわけだけれども、それは文学で言うとカフカなりベケットなりで代表されるんでしょ
うからね。
(浅田彰「アドルノのアクチュアリティ」「批評空間」1997.1より。浅田のはモダンジャズの弁証法に関しても触れており、この共同討議は興味深い。)
追記(某掲示板投稿原稿):
浅田彰の指摘(「アドルノのアクチュアリティ」「批評空間」1997.1)を受け、アドルノ理論
における音楽・文学・哲学のアレゴリカルな対応表を作成してみた。
「哲学は音楽と兄弟のような関係にある」アドルノ(『否定弁証法(1966)』邦訳p.135)
ホ メ ー ロ ス |
(ブルックナー) | | プラトン
バッハ |☆聖書 | パスカル
| シェークスピア | ライプニッツ
モーツァルト | |<ヴォルフ>
_|_ゲーテ | スピノザ
☆ドン・ジョバンニ| |(カフカ) |(キルケゴール)
|_|_イプセン __|_カント
ベートーベン__|_|________| |
前期 | | |__|_ヘーゲル
/後期 |_|*ゴッホ |
シューベルト | |(ゲーテ) | ヘルダー
(ブラームス) |_|_ヘルダーリン |(ハイデッガー)
ワーグナー | ボードレール | ショーペンハウアー
マーラー | プルースト、ハイネ、| フロイト、ニーチェ
| ポー、ボードレール |
ドビュッシー | マラルメ | ベルグソン
ラヴェル | マラルメ |
ストラビンスキー | ドストエフスキー | ユング、ニーチェ
シェーンベルク | カフカ | フロイト、マルクス
ベルク | ボードレール | フロイト
ヴァーレーズ | | A・フロイト
シュトックハウゼン | ジョイス |
ケージ |*<デュシャン> | フッサール
ウェーベルン | カフカ、クレー | フロイト、ベンヤミン
アイスラー |☆勝負の終わり | アドルノ
シューマン? | カフカ、ベケット |<ドゥルーズ>
*は美術関連。☆は作品名。( )内は大幅に時代が違うので要注意。< >内はアドルノの直接言及なし。
28 Comments:
ホ メ ー ロ ス |
(ブルックナー) | | プラトン
バッハ |☆聖書 | パスカル
| シェークスピア | ライプニッツ
モーツァルト | |<ヴォルフ>
_|_ゲーテ | スピノザ
☆ドン・ジョバンニ| |(カフカ) |(キルケゴール)
|_|_イプセン __|_カント
ベートーベン__|_|________| |
前期 | | |__|_ヘーゲル
/後期 |_|*ゴッホ |
シューベルト | |(ゲーテ) | ヘルダー
(ブラームス) |_|_ヘルダーリン |(ハイデッガー)
ワーグナー | ボードレール | ショーペンハウアー
マーラー | プルースト(ハイネ、| フロイト、ニーチェ
| ポー、ボードレール)|
ドビュッシー | マラルメ | ベルグソン
ラヴェル | マラルメ |
ストラビンスキー | ドストエフスキー | ユング、ニーチェ
シェーンベルク | カフカ | フロイト、マルクス
ベルク | ボードレール | フロイト
ヴァーレーズ | | A・フロイト
シュトックハウゼン | ジョイス |
ケージ |*<デュシャン> | フッサール
ウェーベルン | カフカ、クレー | フロイト、ベンヤミン
アイスラー |☆勝負の終わり | アドルノ
シューマン? | カフカ、ベケット |<ドゥルーズ>
*は美術関連。☆は作品名。( )内は大幅に時代が違うので要注意。< >内はアドルノの直接言及なし。
アドルノを参照して作成した、音楽・文学・哲学のアレゴリカルな対応表。
ホ メ ー ロ ス |
(ブルックナー) | | プラトン
バッハ |☆聖書 | パスカル
| シェークスピア | ライプニッツ
モーツァルト | |<ヴォルフ>
_|_ゲーテ | スピノザ
☆ドン・ジョバンニ| |(カフカ) |(キルケゴール)
|_|_イプセン __|_カント
ベートーベン__|_|________| |
前期 | | |__|_ヘーゲル
/後期 |_|*ゴッホ |
シューベルト |_|(ゲーテ) | ヘルダー
(ブラームス) |_|_ヘルダーリン |(ハイデッガー)
ワーグナー | ボードレール | ショーペンハウアー
マーラー | プルースト(ハイネ、| フロイト、ニーチェ
| ポー、ボードレール)|
ドビュッシー | マラルメ | ベルグソン
ラヴェル | マラルメ |
ストラビンスキー | ドストエフスキー | ユング、ニーチェ
シェーンベルク | カフカ | フロイト、マルクス
ベルク | ボードレール | フロイト
ヴァーレーズ | | A・フロイト
シュトックハウゼン | ジョイス |
ケージ |*<デュシャン> | フッサール
ウェーベルン | カフカ、クレー | フロイト、ベンヤミン
アイスラー |☆勝負の終わり | アドルノ
シューマン? | カフカ、ベケット |<ドゥルーズ>
*は美術関連。☆は作品名。( )内は大幅に時代が違うので要注意。
< >内はアドルノの直接言及なし。
アドルノを参照して作成した、音楽・文学・哲学のアレゴリカルな対応表。
ホ メ ー ロ ス |
(ブルックナー) | | プラトン
バッハ |☆聖書 | パスカル
| シェークスピア | ライプニッツ
モーツァルト | |<ヴォルフ>
_|_ゲーテ | スピノザ
☆ドン・ジョバンニ| |(カフカ) |(キルケゴール)
|_|_イプセン __|_カント
ベートーベン__|_|________| |
前期 | | |__|_ヘーゲル
/後期 |_|*ゴッホ |
シューベルト |_|(ゲーテ) | ヘルダー
(ブラームス) |_|_ヘルダーリン |(ハイデッガー)
ワーグナー | ボードレール | ショーペンハウアー
マーラー | プルースト(ハイネ、| フロイト、ニーチェ
| ポー、ボードレール)|
ドビュッシー | マラルメ | ベルグソン
ラヴェル | マラルメ |
ストラビンスキー | ドストエフスキー | ユング、ニーチェ
シェーンベルク | カフカ | フロイト、マルクス
ベルク | ボードレール | フロイト
ヴァーレーズ | | A・フロイト
シュトックハウゼン | ジョイス |
ケージ |*<デュシャン> | フッサール
ウェーベルン | カフカ、クレー | フロイト、ベンヤミン
アイスラー |☆勝負の終わり | アドルノ
シューマン? | カフカ、ベケット |<ドゥルーズ>
*は美術関連。☆は作品名。( )内は大幅に時代が違うので要注意。
< >内はアドルノの直接言及なし。
アドルノを参照して作成した、音楽・文学・哲学のアレゴリカルな対応表。
ホ メ ー ロ ス |
(ブルックナー) | | プラトン
バッハ |☆聖書 | パスカル
| シェークスピア | ライプニッツ
モーツァルト | |<ヴォルフ>
_|_ゲーテ | スピノザ
☆ドン・ジョバンニ| |(カフカ) |(キルケゴール)
|_|_イプセン __|_カント
ベートーベン__|_|________| |
前期 | | |__|_ヘーゲル
/後期 |_|*ゴッホ |
シューベルト |_|(ゲーテ) | ヘルダー
(ブラームス) |_|_ヘルダーリン |(ハイデッガー)
ワーグナー | ボードレール | ショーペンハウアー
マーラー | プルースト(ハイネ、| フロイト、ニーチェ
| ポー、ボードレール)|
ドビュッシー | マラルメ | ベルグソン
ラヴェル | マラルメ |
ストラビンスキー | ドストエフスキー | ユング、ニーチェ
シェーンベルク | カフカ | フロイト、マルクス
ベルク | ボードレール | フロイト
ヴァーレーズ | | A・フロイト
シュトックハウゼン | ジョイス |
ケージ |*<デュシャン> | フッサール
ウェーベルン | カフカ、クレー | フロイト、ベンヤミン
アイスラー |☆勝負の終わり | アドルノ
シューマン? | カフカ、ベケット |<ドゥルーズ>
*は美術関連。☆は作品名。( )内は大幅に時代が違うので要注意。
< >内はアドルノの直接言及なし。
アドルノを参照して作成した、音楽・文学・哲学のアレゴリカルな対応表。
ホ メ ー ロ ス |
(ブルックナー) | | プラトン
バッハ |☆聖書 | パスカル
| シェークスピア | ライプニッツ
モーツァルト | |<ヴォルフ>
_|_ゲーテ | スピノザ
☆ドン・ジョバンニ| |(カフカ) |(キルケゴール)
|_|_イプセン __|_カント
ベートーベン__|_|________| |
前期/ | | |__|_ヘーゲル
後期 |_|*ゴッホ |
シューベルト |_|(ゲーテ) | ヘルダー
(ブラームス) |_|_ヘルダーリン |(ハイデッガー)
ワーグナー | ボードレール | ショーペンハウアー
マーラー | プルースト(ハイネ、| フロイト、ニーチェ
| ポー、ボードレール)|
ドビュッシー | マラルメ | ベルグソン
ラヴェル | マラルメ |
ストラビンスキー | ドストエフスキー | ユング、ニーチェ
シェーンベルク | カフカ | フロイト、マルクス
ベルク | ボードレール | フロイト
ヴァーレーズ | | A・フロイト
シュトックハウゼン | ジョイス |
ケージ |*<デュシャン> | フッサール
ウェーベルン | カフカ、クレー | フロイト、ベンヤミン
アイスラー |☆勝負の終わり | アドルノ
シューマン? | カフカ、ベケット |<ドゥルーズ>
*は美術関連。☆は作品名。( )内は大幅に時代が違うので要注意。
< >内はアドルノの直接言及なし。
アドルノを参照して作成した、音楽・文学・哲学のアレゴリカルな対応表。
ホ メ ー ロ ス |
☆ブルックナー | | プラトン
バッハ |(聖書) | パスカル
| シェークスピア | ライプニッツ
モーツァルト | |<ヴォルフ>
_|_ゲーテ | スピノザ
(ドンジョバンニ)| |☆カフカ |☆キルケゴール
|_|_イプセン __|_カント
ベートーベン__|_|________| |
前期 | | |__|_ヘーゲル
後期 |_|*ゴッホ |
シューベルト |_|☆ゲーテ | ヘルダー
☆ブラームス |_|_ヘルダーリン |☆ハイデッガー
ワーグナー | ボードレール | ショーペンハウアー
マーラー | プルースト ☆ハイネ| フロイト、ニーチェ
|☆ポー、☆ボードレール|
ドビュッシー | マラルメ | ベルグソン
ラヴェル | マラルメ |
ストラビンスキー | ドストエフスキー | ユング、ニーチェ
シェーンベルク | カフカ | フロイト、マルクス
ベルク | ボードレール | フロイト
ヴァーレーズ | | A・フロイト
シュトックハウゼン | ジョイス |
ケージ |*<デュシャン> | フッサール
ウェーベルン | カフカ、クレー | フロイト、ベンヤミン
アイスラー |(勝負の終わり) | アドルノ
シューマン? | カフカ、ベケット |<ドゥルーズ>
*は美術関連。( )内は作品名。☆は大幅に時代が違うので要注意。
< >内はアドルノの直接言及なし。
「ショーペンハウアーにおいてすでに、死の救済の衣装をまとわせるとともに、
「世界救済者」という尊大な概念もまた告知されているのだ。そしてこの世界
救済者がヴァーグナーにおいてその全作品のイデオロギー的頂点を形づくるこ
とになる。」
『ヴァーグナー試論』邦訳178頁 高橋順一訳
「ヴァーグナーのオペラには、ショーペンハウアーが「悪しき商品の外見」と名づけた目眩ましの傾向が存在する。」同100頁
徳永(恂) ぼくは音楽はわからないんで、ちょっと伺いたいんですが、彼のジャズ論というの
は…(以下略)
浅田(彰) 率直に言って、偏見だと思いますね。もちろん、シンコペーションのような要素は
秩序を破壊するどころか逆に強化する予定された逸脱にすぎないとか、ジャズは黒人の音
楽ではなく白人か黒人の音楽と称して売り出した商品だとか、いろいろと鋭いことは言っ
ている。それに、そもそも戦前はビッグ・バンドのスウィング・ジャズくらいしかなかっ
た。しかし、戦後、ビーバップからフリーまで、チャーリー・パーカーやバド・パウエル
からオーネット・コールマンやセシル・テイラーまでのジャズの歴史というのは、モダン
・ジャズという名前の通り、否定に否定を重ねて先鋭化していくというモダュズムの運動
を、もっとも典型的に、しかも、きわめて急速に反復してみせたようなものですよ。それ
でも、アドルノは最後になるまでジャズをまったく認めないわけでしょう。それは、べー
トーヴェンからシェーソベルクに至る音楽をもって絶対の規準とするという姿勢から来る
バイアスです。しかし、その意味では、ジャズは大衆音楽だからいけないというのではな
くて、ストラヴィンスキーも同罪なんですよ。
1997年批評空間12号、31頁
「意志は自由なのか」という問いーアドルノ『否定弁証法』第三部I、1−10|Le Cahier blanc -白色ノート
http://ameblo.jp/abime/entry-10513748281.html
まず、アドルノは「意志は自由なのか」という問いを疑似問題として重要であると述べる。つまり、これは、前提としている「意志」と「自由」のふたつの術語の定義が曖昧であるが故に、自由か非自由か、という二者択一の問いとしては、答えのない問いである。
アドルノは、「意志は自由である」というテーゼと「意志は自由ではない」というふたつのテーゼがアンチノミーになったのはなぜか、と問う。そして、カントにとって永遠の理念であった自由の概念および自由の経験的内実が歴史的なものであるとの疑念はカントに浮かばなかった、ということを指摘する。カントにおける超越論的なものという理念は、歴史的なものを排除する。そして、個体化の原理は、社会的連関から個人を隔離しがちである。しかしーとアドルノは述べるー「自由はまず、孤立化されうるものではなく、むしろ社会の中に編み込まれている。つぎに自由は、当面はつねにただ一瞬の自発性でしかないもの、つまり、そこへ至る道が現在の状況のもとでは閉ざされている歴史の終結点なのである」(テオドール・W・アドルノ『否定弁証法』作品社、p.266)
また、非自由の経験も歴史的経験に準拠していることをアドルノは述べる。「自由と非自由は単純に対立するのではなくて、相互に浸透し合っているのである」(同、p.267)ちなみに、非自由とは、「別様にはなしえない nicht anders können」ことであって、存在者の自由は、一方ではこの非自由に、他方では経験的意識に基づいている。
…音楽といっても、
アドルノがもっぱら考えているのはベートーヴェンからシェーンベルクに至る音楽な
んですね。主題と主題を対立させながら変形して弁証法的に展開させていく音楽。それは、
ベートーヴェンの段階では、主調の第一主題と属調の第二主題をテーゼとアンチテーゼと
し、いわゆる主題労作の過程でそれらを変形してジンテーゼに向かうという形をとるんだ
けれども、シェーンベルクの段階までくると、主題や動機が絶えず変形されながら対位法的
に練り合わされていくわけで、その道程では、機械的な反復はできるかぎり排され、すべて
の素材が一瞬一瞬変形されていくので、主題や動機といったものが清算されるところまで
行ってしまい、まさしくジンテーゼなき否定弁証法が繰り広げられるのだ、と。そういう
音楽について、アドルノは「作曲し尽くす」auskomponierenとか「徹底的に分節する」
durchdialektisierenとか言うんだけれども、それを理論で言えば、「徹底的に弁証法化す
る」durchdialektisierenということになるんでしょう。いずれにせよ、その種の音楽を論
じるときのアドルノは、さすがに見事というほかない。『アルバン・ベルク』(法政大学出
版局)なんて本当に素晴らしいし、徳永さんの言われた不変性ということで言えば、三六
年の論文から六八年の論文までを一冊にまとめてまったく違和感がないとレうのも驚くべ
きことです。しかしそれは、最初に選んだその種の音楽以外のものをアドルノが一貫して
排除したということでもあるんですね。バルトークあたりは辺境的なものとして大目に見
られるものの、ストラヴィンスキーになると、反動そのものだと決めつけられるーー機械的
な反復の中でひたすら熱狂して、「春の祭典」で言えば集団が少女を犠牲に捧げる、あれは
アルカイックな儀式のファンスティックな再訪にほかならないのだ、と。いわんやジャズ
なんかはまったく認められない。ベンヤミンは、映画のような複製技術時代の大衆芸術に
ある種の革命的可能性を見るわけですけれども、アドルノは、それに対抗するかのように、
ジャズ批判を書いたりするわけでしょう。その意味でも、彼は狭い閉域に籠ったと言える
んじゃないか。ちなみに、そうやって新ウィーン学派を特権化したアドルノは、抽象表現
主義を特権化したグリンバーグと似ているかもしれませんね。
1997年批評空間12号、30頁
徳永(恂) ぼくは音楽はわからないんで、ちょっと伺いたいんですが、彼のジャズ論というの
は…(以下略)
浅田(彰) 率直に言って、偏見だと思いますね。もちろん、シンコペーションのような要素は
秩序を破壊するどころか逆に強化する予定された逸脱にすぎないとか、ジャズは黒人の音
楽ではなく白人か黒人の音楽と称して売り出した商品だとか、いろいろと鋭いことは言っ
ている。それに、そもそも戦前はビッグ・バンドのスウィング・ジャズくらいしかなかっ
た。しかし、戦後、ビーバップからフリーまで、チャーリー・パーカーやバド・パウエル
からオーネット・コールマンやセシル・テイラーまでのジャズの歴史というのは、モダン
・ジャズという名前の通り、否定に否定を重ねて先鋭化していくというモダュズムの運動
を、もっとも典型的に、しかも、きわめて急速に反復してみせたようなものですよ。それ
でも、アドルノは最後になるまでジャズをまったく認めないわけでしょう。それは、べー
トーヴェンからシェーンベルクに至る音楽をもって絶対の規準とするという姿勢から来る
バイアスです。しかし、その意味では、ジャズは大衆音楽だからいけないというのではな
くて、ストラヴィンスキーも同罪なんですよ。
浅田彰、同31頁☆
浅田 ただ、ベートーヴェンといい、シェーンベルクやベルクといっても、文学に対応物
を求めることはできるでしょう。第一のピークである後期ベートーヴェンは、アドルノに
とってヘルダーリンとほぼパラレルなんですね。べートーヴェンの中期までの作品は、闘
争を通じての偉大な勝利という正反合の肯定弁証法の図式に則っていて、それがブルジョ
ワ革命と対応する。しかし、後期の作品になると、そのような弁証法が宙吊りにされ、シ
ンボリックな統一が破綻して、アレゴリカルな断片の散乱したような状態になっていくわ
けで、それはナポレオンの敗北以後の状況と対応している。それは、しかし、後期ベート
ーヴェンを通じてでなくとも、ヘルダーリンを通じて捉えられるわけでしょう。そして、
ある意味でそれに対応するもうひとつのピークがシェーンベルクとそれ以後ということに
なるわけだけれども、それは文学で言うとカフカなりベケットなりで代表されるんでしょ
うからね。
(浅田彰「アドルノのアクチュアリティ」「批評空間」32頁、1997.1より。浅田のはモダ
ンジャズの弁証法に関しても触れており☆、この共同討議は興味深い。)
523 :考える名無しさん :sage :2013/04/01(月) 22:29:26.36 0
「英知においては悲観主義者、だが意志においては楽観主義者であれ。」
アルチュセールが座右の銘にしていたという、グラムシの言葉。浅田彰さんが『構造と力』で紹介しています。
原文はどうなってるんだろ?と思って、ネットで調べてみました。
まず、イタリアのヤフーに飛んで、で検索するも、それらしき言葉は見つからず。原文はイタリア語ではないのか・・・?
次に、フランスのヤフーに行って、で検索したら、出てきました。
Je suis pessimiste par l'intelligence mais optimiste par la volonté.
「私は知性によって悲観主義者、だが意志によって楽観主義者である。」
命令文じゃないですね。しかも、「英知」というより「知性」です。
この「par(によって)」のニュアンスがもう一つピンと来ないので、さらにアメリカのヤフーで検索すると・・・
I am a pessimist because of intelligence, but an optimist because of will.
because of です。「私は知性ゆえに悲観主義者、だが意志ゆえに楽観主義者である。」
なるほど・・・
やっぱり、日本語ヴァージョンが一番いいですね。誤訳みたいだけど(笑)。
(p)http://ameblo.jp/gokigoki/entry-10015113762.html
524 :考える名無しさん :sage :2013/04/02(火) 21:18:56.56 0
イタリア語版でググったら
pessimismo dell'intelligenza,ottimismo della volonta と
Bisogna opporre al pessimismo dell'intelligenza l'ottimismo della volonta.
て2つ出て来たよ。どちらにしても主語は「私」ではないのでは?
525 :考える名無しさん :sage :2013/04/02(火) 21:30:40.42 P
その言葉は彼が何度も別の形で言ってるので(一人称のバージョンもある)
そういう議論をしても仕方がない
526 :考える名無しさん :sage :2013/04/02(火) 21:49:00.34 0
なるほど。ごめんね。
527 :考える名無しさん :sage :2013/04/02(火) 21:56:58.15 P
何か言い方きつかったようでごめん
でも実はグラムシ自身が引用として使っているけれど
その元ネタがそのままでは見つからないある意味謎の言葉
バッハ教会音楽はパスカル
バッハ器楽曲はライプニッツに対応
http://www.glorychrist.com/?p=5638
バッハとパスカル
J・セバスチャン・バッハは晩年、失明の危機を迎えましたが、それでも夜遅くまでローソクを灯して創作を続けました。「私は目が見えるかぎり書かなければならない」と言い、ローソクが燃え尽きると「ローソク。ローソク」と妻のマグダレーナに叫んでいたそうです。手術がうまくいかず、ついに失明が決定的になった夜、彼は動揺した様子もなく妻に聖書からキリスト生誕の箇所を読むように頼みました。妻が読み終わると、彼は静かに語りました。「私たちは苦しみを悲しんではならないのだ。この苦しみは、私たちの苦しみをすべて背負われた主イエス・キリストに近づくためのものなのだ。」
フランスのパスカルは天才的な数学者であり、また「パンセ」という不朽の名作を残したクリスチャン哲学者でもありました。彼は三十代、病気と貧困に苦しみ、短い生涯を閉じます。晩年はどんな労働もできない体になりましたが、それでも杖にすがり、あるいは人の手を借りて、毎日のようにパリの教会を巡り歩いたといいます。彼はこう言っています。「どうか私をかわいそうだと思わないでください。・・・・病はクリスチャン本来の状態です。」パスカルにとっても、病気の苦しみはキリストに近づく道だったのでしょう。
7:15 午前
yoji said...
http://www.geocities.co.jp/MusicHall/9088/gakusya/bach/1.html
バッハ(1685~1750) ライプニッツ(1646~1716)・・ライプチィヒ生まれの数学者(微積分の発見者)哲学者。正統派プロテスタント というわけで、バッハが31歳の時まで活躍していたライプニッツについての本を読むにつけ、 私が想像していたバッハ像は実はライプニッツの事だったのではないかと思うくらい重なる部分が多い。 (プラトンを継承しルネッサンスの思想家達を学び、ドイツ神秘主義を受け継いだプロテスタンティズムに身を置く。 そして正統派プロテスタントでありながら、カルヴァン派やカトリックとの接近、調和を目指した。) マルティン・ゲック著「ヨハン・セバスティアン・バッハ第Ⅲ巻 器楽曲/様々なる地平」p146以降に そのライプニッツに関する文が出てくる。 [個々のモナドは全世界を表す。 これは振動の体系とと定義付ける事ができる。 そしてその体系が世界の振動の体系に編入される。 「最高度の段階において、モナドは完全な長調の和音を発する。」 -フランスの構造主義哲学者ジル・ドゥルーズは、ライプニッツのイメージをこのような言葉で再現している。 そして彼は音楽から借用されたあるイメージを追及する。 それはライプニッツが1687年4月30日付けのアルノー宛の手紙の中で、 何ゆえ個々のモナドがー互いにそうとは知らずしてー世界の調和の中で共鳴しあうかを説明する際に持ち出したものである。 個々のモナドは音楽の歌い手たちに匹敵する。歌い手は他のパートを知らないまま 自分のパートを歌う。それでも作曲家が定めたものに従って、全体が調和するのである。]
http://izumi-math.jp/F_Nakamura/slim/slim_7.htm
実は、バッハの音楽理論はデカルトの哲学に似ている。著書、方法序説の中では「明証的に真と認めることなしには、いかなることも真であるとして受け取らない」そして「困難は分割せよ」と述べている。モチーフから繰り広げられるバリエーション(進化)を愛したバッハとどこか似ているのである。
そしてヘンデルは、パスカルと似ている。デカルトが分割した末のエッセンスから新たに論理を再構築したのに対し、パスカルは統合的に論理を見なおす。分割と統合、デカルト(バッハ)とパスカル(ヘンデル)の違いである。私達が問題を解くとき、いつもこの二つの考えがぶつかり逡巡する。でも人は誰でもバッハになれるというわけではない。論理が組立てられないから誰かの論理を参考にする。パクり、統合的に解釈するのである。パスカル的な考え方の方が組し易いわけだ。ヘンデルの装飾音は、パクりのデフォルメの一過程なのかもしれない。
http://yojiseki.exblog.jp/10618231/
アドルノ参照、音楽=哲学対照表:
音 楽 | 哲 学 |参照元:『否定弁証法』p21,135(兄弟),151
バッハ |ライプニッツ(モナド) |『プリズメン』p210『音楽社会学序説』p359
| ヘンデル | |『否定弁証法』p204(ライプニッツ)
| | | |
|モーツァルト(イタリア的)| |『音楽社会学序説』p115,276
| 『ドン・ジョバンニ』| キルケゴール | 『キルケゴール』p42
ハイドン (自然の魔術)| |
| | | |
ベートーベン前/後期 | |カ ン ト |『音楽社会学序説』p276(ドイツ的),357(カント)
(ソナタ形式/ | |ヘ ー ゲ ル(弁 証 法) |『新音楽の哲学』p277(ヘーゲル)
| 地方ドイツ的) | | |『新音楽の哲学』p276(ソナタ形式)
| | | | |
| シューベルト | | |
| (ハンガリー的) | | | 『新音楽の哲学』p280
|ムソルグスキー | | | 『新音楽の哲学』p210,317
| (ロシア) | | |
ワーグナー(ロマン主義、魔術|ショーペンハウアー |『アドルノ伝』p280『マーラー』p95
| 、唯名論的)| | 『マーラー』p87『新音楽の哲学』p87,232
|_ブラームス*____|| | 『新音楽の哲学』p86
|_ブルックナー(素朴)|| | 『マーラー』p44
| || |*シンコペーション『不協和音』p78
|_マーラー______|| フロイト(自我=エス) | 『マーラー』p53(フロイト),129(ソナタ形式)
| || /ニーチェ/プルースト | 『マーラー』P143(シェーンベルク),196(ニーチェ)
ドビュッシー(印象主義) || ベルグソン? |『新音楽の哲学』p267『音楽社会学序説』p335
/ジャズの理念☆、音色◯ || |『楽興の時』p132(◯ジャズの音色),148(☆ジャズの理念)
|| |
ストラビンスキー* ||ユング/マッハ/ニ ー チェ |『新音楽の哲学』p227,233,247(ニーチェ)
(退行、野蛮?、 || | |『新音楽の哲学』p301
キュビスム) || | | 『新音楽の哲学』p90(△ジャズ)
/ジャズ△ || (反体系)| 『否定弁証法講義』p72(ニーチェ)
|| | |
シェーンベルク*_____|| マルクス(唯物論的弁証法) | 『新音楽の哲学』p86(唯物論),112,307(表現主義),
表現主義、後期/ジャズ△| | /フロイト | | 90(△ジャズ)『メディア論集』p20(フロイト)
| | | |
ベルク◯_| | | |◯ジャズの音色『楽興の時』p132,158(ベルク)
ヴェーベルン_| |ヘーゲル | |『不協和音』p235
ワイル? |ブレヒト | |『不協和音』p142(歌唱運動),175(プラトン,着想信仰)
| | |
アイスラー |アドルノ(否定弁証法)_| |『音楽社会学序説』p115『アドルノ伝』p371-2
| |
ヴァーレーズ |アンナ・フロイト(攻撃者への |『不協和音』p284
| 同化)|
参考:
『音楽・メディア論集(1927-68)』p20(フロイト)
『楽興の時(1928-62)』p132(ジャズ,印象主義),148(ドビュッシー/ジャズ),p158(ベルク,ジャズの音色)
『キルケゴール(1933)』p42(モーツァルト,自然の魔力)
『新音楽の哲学(1949)』p86(シェーンベルク,唯物論),86(ブラームス),87(ワーグナー),90(ジャズ),
112(シェーンベルク),
203(ドストエフスキー),210(ムソルグスキー317),227(ユング),232(ショーペンハウアー),
http://yojiseki.exblog.jp/10618231/
アドルノ参照、音楽=哲学対照表:
音 楽 | 哲 学 |参照元:『否定弁証法』p21,135(兄弟),151
バッハ |ライプニッツ(モナド) |『プリズメン』p210『音楽社会学序説』p359
| ヘンデル | |『否定弁証法』p204(ライプニッツ)
| | | |
|モーツァルト(イタリア的)| |『音楽社会学序説』p115,276
| 『ドン・ジョバンニ』| キルケゴール | 『キルケゴール』p42
ハイドン (自然の魔術)| |
| | | |
ベートーベン前/後期 | |カ ン ト |『音楽社会学序説』p276(ドイツ的),357(カント)
(ソナタ形式/ | |ヘ ー ゲ ル(弁 証 法) |『新音楽の哲学』p277(ヘーゲル)
| 地方ドイツ的) | | |『新音楽の哲学』p276(ソナタ形式)
| | | | |
| シューベルト | | |
| (ハンガリー的) | | | 『新音楽の哲学』p280
|ムソルグスキー | | | 『新音楽の哲学』p210,317
| (ロシア) | | |
ワーグナー(ロマン主義、魔術|ショーペンハウアー |『アドルノ伝』p280『マーラー』p95
| 、唯名論的)| | 『マーラー』p87『新音楽の哲学』p87,232
|_ブラームス*____|| | 『新音楽の哲学』p86
|_ブルックナー(素朴)|| | 『マーラー』p44
| || |*シンコペーション『不協和音』p78
|_マーラー______|| フロイト(自我=エス) | 『マーラー』p53(フロイト),129(ソナタ形式)
| || /ニーチェ/プルースト | 『同』P143(シェーンベルク),196(ニーチェ)
ドビュッシー(印象主義) || ベルグソン? |『新音楽の哲学』p267『音楽社会学序説』p335
/ジャズの理念☆、音色◯ || |『楽興の時』p132(◯音色),148(☆理念)
|| |
ストラビンスキー* ||ユング/マッハ/ニ ー チェ |『新音楽の哲学』p227,233,247(ニーチェ)
(退行、野蛮?、 || | |『新音楽の哲学』p301
キュビスム) || | | 『新音楽の哲学』p90(△ジャズ)
/ジャズ△ || (反体系)| 『否定弁証法講義』p72(ニーチェ)
|| | |
シェーンベルク*_____|| マルクス(唯物論的弁証法) | 『新〜』p86(唯物論),112,307(表現主義),
表現主義、後期/ジャズ△| | /フロイト | | 90(△ジャズ)『メディア論集』p20(フロイト)
| | | |
ベルク◯_| | | |◯ジャズの音色『楽興の時』p132,158(ベルク)
ヴェーベルン_| |ヘーゲル | |『不協和音』p235
ワイル? |ブレヒト | |『不協和音』p142(歌唱),175(プラトン,着想信仰)
| | |
アイスラー |アドルノ(否定弁証法)_| |『音楽社会学序説』p115『アドルノ伝』p371-2
| |
ヴァーレーズ |アンナ・フロイト(攻撃者への |『不協和音』p284
| 同化)|
5つ星のうち 5.0 「反復進行原理」による脱弁証法, 2013/6/15
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レビュー対象商品: ヴァーグナー試論 (単行本)
ヴァーグナー試論 [単行本]
テオドール・W・アドルノ (著), 高橋 順一 (翻訳)
原書:Versuch über Wagner, Knaur, 1964.
目次:
クナウル社ポケット版への助言
I. 社会的性格
II. 身振り
III. 動機
IV. 響き
V. 音色
VI. ファンタスマゴリー
VII. 楽劇
VIII. 神話
IX. 神と乞食
X. キマイラ
索引
付録「ヴァーグナーのアクチュアリティ」(1963年9月講演)
解説にかえて「仮象と仮象を内破するもの――アドルノのヴァーグナー認識について」高橋順一
ヴァーグナーの作品概要
訳者あとがき
/////以下書評///////
アドルノによるワグナー(ヴァーグナー)批判はワグナーのナチズムとの近縁性をあげつらうような単純なものではない。
それはアドルノに、アドルノ自身の、さらに20世紀のドイツ全体にこびりついた弁証法的思考形式から脱する機会を探るものだからだ。
アドルノによってショーペンハウエルの対立物としてヘーゲルに近いと規定(215頁参照。『指輪』は『精神現象学』に対応する)されるワグナーは、楽劇という現実以上に現実的な幻想によって「労働を隠蔽」するがそれは当初はそれ自身がプチブル批判でもあったのだ(実はミイラ取りがミイラになったとはいえ、ファンタスマゴリー=魔法幻灯(100頁)に対する批判ですらあった)。
つまりワグナーは小市民批判という一点おいて、アドルノと立場が近いのだ。
では、それならば如何にしてワグナーを批判するのか?
(以下私見…)
それは具体的には「反復進行(Sequenz)原理」(38、47、207頁)によってである。
否定弁証法の有効性は文化産業批判という限られた範囲内のものであり、幻想の現実化としての資本主義の産物である芸術の内在的批判には無力だが、この「反復進行原理」は新たな批判基盤を提出する。それはカントの超越論的批判に似ているのではないか?と個人的には思う(感性=音楽、悟性=詩、理性=楽劇、といったヒエラルキーではなく、アンチノミーの維持がその特徴だ)。
25年を隔てた2種のワグナー論は、この原理の深化によって区別される。
ただし、この反復の称揚は、アドルノ自身によって自覚的に展開されたとは言えない(初期には反復は否定的に考えられていた~39頁~)。
『ジークフリート』第3幕の単独公演を提唱(210頁)したりすることに端的に現れるように、全体性(全体主義)にはそれに対する断片化で対抗できるとアドルノは考えているようだ(弁証法はそれら断片の安易な再構成を保証する)。それでも戦後の論考は弁証法に縛られた思考からの脱却が見られるのは確かだ。
むろん本書の大部分を占める戦前の論考が無効というわけではない。アドルノによる文化批判の舌鋒はするどく音楽関連の書と、文化産業批判の書をつなぐ位置に本書はある。
だからワグナーはアドルノにとって最重要の音楽家ではないが、本書はアドルノにとって最重要の書なのだ。
アレゴリーを単純に支持できない、アウラ(後光)の喪失が前提である世代としてベンヤミンと異なる立場から芸術の政治的(というより現実的)再生を探るアドルノの苦闘が読み取れて、本書は秀逸だ。
558 :考える名無しさん :sage :2013/09/14(土) 22:23:07.23 0
自分は
デカルト=バッハ
スピノザ、ライプニッツ=モーツァルト
カント=ベートーヴェン
ヘーゲル=ブラームス
みたいなイメージ
<…音楽といっても、
アドルノがもっぱら考えているのはベートーヴェンからシェーンベルクに至る音楽な
んですね。主題と主題を対立させながら変形して弁証法的に展開させていく音楽。それは、
ベートーヴェンの段階では、主調の第一主題と属調の第二主題をテーゼとアンチテーゼと
し、いわゆる主題労作の過程でそれらを変形してジンテーゼに向かうという形をとるんだ
けれども、シェーンベルクの段階までくると、主題や動機が絶えず変形されながら対位法的
に練り合わされていくわけで、その道程では、機械的な反復はできるかぎり排され、すべて
の素材が一瞬一瞬変形されていくので、主題や動機といったものが清算されるところまで
行ってしまい、まさしくジンテーゼなき否定弁証法が繰り広げられるのだ、と。そういう
音楽について、アドルノは「作曲し尽くす」auskomponierenとか「徹底的に分節する」
durchdialektisierenとか言うんだけれども、それを理論で言えば、「徹底的に弁証法化す
る」durchdialektisierenということになるんでしょう。いずれにせよ、その種の音楽を論
じるときのアドルノは、さすがに見事というほかない。『アルバン・ベルク』(法政大学出
版局)なんて本当に素晴らしいし、徳永さんの言われた不変性ということで言えば、三六
年の論文から六八年の論文までを一冊にまとめてまったく違和感がないとレうのも驚くべ
きことです。しかしそれは、最初に選んだその種の音楽以外のものをアドルノが一貫して
排除したということでもあるんですね。バルトークあたりは辺境的なものとして大目に見
られるものの、ストラヴィンスキーになると、反動そのものだと決めつけられるーー機械的
な反復の中でひたすら熱狂して、「春の祭典」で言えば集団が少女を犠牲に捧げる、あれは
アルカイックな儀式のファンスティックな再訪にほかならないのだ、と。いわんやジャズ
なんかはまったく認められない。ベンヤミンは、映画のような複製技術時代の大衆芸術に
ある種の革命的可能性を見るわけですけれども、アドルノは、それに対抗するかのように、
ジャズ批判を書いたりするわけでしょう。その意味でも、彼は狭い閉域に籠ったと言える
んじゃないか。ちなみに、そうやって新ウィーン学派を特権化したアドルノは、抽象表現
主義を特権化したグリンバーグと似ているかもしれませんね。>
(浅田彰「アドルノのアクチュアリティ」「批評空間」30頁、1997.1より)
<…音楽といっても、
アドルノがもっぱら考えているのはベートーヴェンからシェーンベルクに至る音楽な
んですね。主題と主題を対立させながら変形して弁証法的に展開させていく音楽。それは、
ベートーヴェンの段階では、主調の第一主題と属調の第二主題をテーゼとアンチテーゼと
し、いわゆる主題労作の過程でそれらを変形してジンテーゼに向かうという形をとるんだ
けれども、シェーンベルクの段階までくると、主題や動機が絶えず変形されながら対位法的
に練り合わされていくわけで、その道程では、機械的な反復はできるかぎり排され、すべて
の素材が一瞬一瞬変形されていくので、主題や動機といったものが清算されるところまで
行ってしまい、まさしくジンテーゼなき否定弁証法が繰り広げられるのだ、と。そういう
音楽について、アドルノは「作曲し尽くす」auskomponierenとか「徹底的に分節する」
durchdialektisierenとか言うんだけれども、それを理論で言えば、「徹底的に弁証法化す
る」durchdialektisierenということになるんでしょう。いずれにせよ、その種の音楽を論
じるときのアドルノは、さすがに見事というほかない。 >
(浅田彰「アドルノのアクチュアリティ」「批評空間」30頁、1997.1より)
徳永(恂) ぼくは音楽はわからないんで、ちょっと伺いたいんですが、彼のジャズ論というの
は…(以下略)
浅田(彰) 率直に言って、偏見だと思いますね。もちろん、シンコペーションのような要素は
秩序を破壊するどころか逆に強化する予定された逸脱にすぎないとか、ジャズは黒人の音
楽ではなく白人か黒人の音楽と称して売り出した商品だとか、いろいろと鋭いことは言っ
ている。それに、そもそも戦前はビッグ・バンドのスウィング・ジャズくらいしかなかっ
た。しかし、戦後、ビーバップからフリーまで、チャーリー・パーカーやバド・パウエル
からオーネット・コールマンやセシル・テイラーまでのジャズの歴史というのは、モダン
・ジャズという名前の通り、否定に否定を重ねて先鋭化していくというモダニズムの運動
を、もっとも典型的に、しかも、きわめて急速に反復してみせたようなものですよ。それ
でも、アドルノは最後になるまでジャズをまったく認めないわけでしょう。それは、べー
トーヴェンからシェーンベルクに至る音楽をもって絶対の規準とするという姿勢から来る
バイアスです。しかし、その意味では、ジャズは大衆音楽だからいけないというのではな
くて、ストラヴィンスキーも同罪なんですよ。
(「批評空間」第12号、1997年1月、31頁)
バッハの器楽曲はデカルト
教会音楽はパスカル
モーツァルトの器楽曲はスピノザ
オペラはライプニッツ
ベートーベンはカント
ブラームスはヘーゲル
ハイデガーが聴いた音楽: http://wp.me/p5ELdY-ax @PhiloMandPさんから
では, 例によって例のごとく前置きが長くなってしまいましたが, このよくも悪くも 20 世紀最大の哲学者ハイデガーによる一流の恋文集から笑, いやもうこれね, すごいっすよ笑, ほんーと, 読む価値あります笑, ではでは, ハイデガーがどのような音楽をたしなんでいたかを紹介しましょう.
まずは演奏会について, ハイデガーからアーレント宛, 1925年 9 月 14 日の手紙から.
「もしも仕事の手があいたら, 九月二一日にちょっと山を降りてフライブルクへ行ってくる---グルリットがコレギウム・ムジークムで, ドイツ・バロック音楽をプレトリウス・オルガンで演奏するのだ ( プレトリウス, シャイト, パッヘルベル, ブクステフーデ )」
プレトリウス Michael Praetorius , シャイト Samuel Scheidt , パッヘルベル Johann Pachelbel, ブクステフーデ Dieterich Buxtehude いずれも 16 〜 17 世紀頃の音楽家で, 作曲家・オルガン奏者でした.
この演奏会に実際に行ったのかどうか, また感想のようなものは, この書簡集にみられないのが残念ですが, なかなか素敵じゃないですか. ドイツ・バロックだなんて.
今谷 和徳『バロックの社会と音楽 ( 上 ) イタリア・フランス編』( 音楽之友社, 1988 )
今谷 和徳『バロックの社会と音楽 ( 下 ) ドイツ・イギリス編』( 音楽之友社, 1988 )
ハイデガーが演奏会へ行く記録は他にも, 1951 年 2 月 6 日のハイデガーからアーレント宛の手紙にでてきます. 同年の 1 月に, カール・オルフ Carl Orff 『アンティゴネー』Antigone の上演に行っています. このソフォクレスの悲劇をもとにした音楽劇 ( オルフ自身は, 自らの音楽劇を「世界劇」と称していました ) を, ハイデガーは公演を気に入ったようで, 同じ手紙において,
「完全にヘルダーリン訳を使った音楽。これほどのものをわたしは久しく味わったことがない」
「オルフは所作と踊りとことばの根源的な統一にまで遡るもの、そこから激しく生まれ出てくるものを、表現することにかなり成功している。オルフはヘルダーリンをとおして、ある独自の仕方でギリシャ的なものへ到達したのだ。ある瞬間瞬間に、神々がそこにいた。」
と評しています. これは要するにめっちゃヤバかった, と言いたいわけです.
また前述の通り. アーレント宛の手紙の冒頭に, 楽曲名を記載してもいます. たとえば, ベートーヴェン「ピアノソナタ第32番 ハ短調 作品111」 ( 1950 年 4 月 12 日の手紙 ) や ,
ハインリヒ・シェンカー ( 著 ), 山田三香 他 ( 訳 )『ベートーヴェンのピアノ・ソナタ第32番 op.111 批判校訂版: 分析・演奏・文献』( 音楽之友社, 2014 )
バッハ「ブランデンブルク協奏曲 第三番 第二楽章 アレグロ」( 1950 年 3 月 19 日の手紙 ) です. ブランデンブルク協奏曲は他に, 1950 年 10 月 6 日の手紙にも記述がでてきます (「第 1 番 最終楽章」) . 「この曲, 知ってる ? 」みたいなノリで笑.
ヴェルナー・フェーリクス ( 著 ), 杉山好 ( 訳 )『バッハ』 ( 講談社学術文庫, 1999)
いまなら LINE で Youtube の URL を紹介し合うみたいな感じでしょうか.
このように, ハイデガーの著作から音楽についてのまとまった考察を見つけるのはなかなか難しいですが, ハイデガーは音楽をたしなんでいたことがわかります. バッハ, ベートーヴェン, そして当時の最先端だったオルフ, やっぱ音楽でもドイツ! なんですね.
ハイデガーに, 音楽をメインにした考察がなぜ少ないのか. あるいは, ハイデガー哲学で音楽を論じるとどうなるのか. といった空想は面白いかもしれませんが… このエントリーではそこまで突っ込みません.
秋の夜長, ブランデンブルク協奏曲を聴きながら『存在と時間』を読む…, これはちょっと相当なマルチタスク力が必要ですが笑, 両作ともスゴい密度ですので笑, ブランデンブルク協奏曲を聴きながらハイデガーとアーレントの書簡集を読む, なんてのはありかもしれませんね. いや, ないな…, 本読むときは音楽消したいしな…
《浅田 ただ、ベートーヴェンといい、シェーンベルクやベルクといっても、文学に対応物
を求めることはできるでしょう。第一のピークである後期ベートーヴェンは、アドルノに
とってヘルダーリンとほぼパラレルなんですね。べートーヴェンの中期までの作品は、闘
争を通じての偉大な勝利という正反合の肯定弁証法の図式に則っていて、それがブルジョ
ワ革命と対応する。しかし、後期の作品になると、そのような弁証法が宙吊りにされ、シ
ンボリックな統一が破綻して、アレゴリカルな断片の散乱したような状態になっていくわ
けで、それはナポレオンの敗北以後の状況と対応している。それは、しかし、後期ベート
ーヴェンを通じてでなくとも、ヘルダーリンを通じて捉えられるわけでしょう。そして、
ある意味でそれに対応するもうひとつのピークがシェーンベルクとそれ以後ということに
なるわけだけれども、それは文学で言うとカフカなりベケットなりで代表されるんでしょ
うからね。》
(浅田彰「アドルノのアクチュアリティ」「批評空間」1997.1より)
上の指摘を受け、アドルノ理論における音楽・文学・哲学のアレゴリカルな対応表を作成してみた。
ホ メ ー ロ ス |
☆ブルックナー | | プラトン
バッハ |(聖書) | パスカル
| シェークスピア | ライプニッツ
モーツァルト | |<ヴォルフ>
_|_ゲーテ | スピノザ
(ドンジョバンニ)| |☆カフカ |☆キルケゴール
|_|_イプセン __|_カント
ベートーベン__|_|________| |
前期 | | |__|_ヘーゲル
後期 |_|*ゴッホ |
シューベルト |_|☆ゲーテ | ヘルダー
☆ブラームス |_|_ヘルダーリン |☆ハイデッガー
ワーグナー | ボードレール | ショーペンハウアー
マーラー | プルースト ☆ハイネ| フロイト、ニーチェ
|☆ポー、☆ボードレール|
ドビュッシー | マラルメ | ベルグソン
ラヴェル | マラルメ |
ストラビンスキー | ドストエフスキー | ユング、ニーチェ
シェーンベルク | カフカ | フロイト、マルクス
ベルク | ボードレール | フロイト
ヴァーレーズ | | A・フロイト
シュトックハウゼン | ジョイス |
ケージ |*<デュシャン> | フッサール
ウェーベルン | カフカ、クレー | フロイト、ベンヤミン
アイスラー |(勝負の終わり) | アドルノ
シューマン? | カフカ、ベケット |<ドゥルーズ>
*は美術関連。( )内は作品名。☆は時代が違うので要注意。< >内はアドルノの直接言及なし
「哲学は音楽と兄弟のような関係にある」アドルノ(『否定弁証法(1966)』邦訳p.135)
プレスリー |<夏目漱石> |<柄谷行人>
メンデルスゾーンのヴァイオリン協奏曲 - ゜+つくばの子供バイオリン教室 ...
kodomoviolin.blog44.fc2.com/blog-entry-96.html?sp
また、ジョン・ロック、ヴォルフ、ライプニッツ、スピノザなどの哲学に親しみ、これらの 教養がかれの哲学の下地となる。 ... と、子供達だけでもとユダヤ教からキリスト教に 改宗させるなどしてベルリンで銀行家として成功し大富豪となった世にたけた父親を持つ フィリックス・メンデルスゾーン。 ... そのうちこの幼き天才フィリックス・メンデルスゾーン の作曲した音楽も演奏される事になり第二のモーツァルトとまで言われた。
View! - TeaPot (Adobe PDF)
teapot.lib.ocha.ac.jp/ocha/bitstream/10083/.../3/p.55-69.pdf
自然法的 - 哲学的基礎づけ:プーフェンドルフ , ライプニッツ. 5 .二人の体系家: ヴォルフとレアル・ドゥ・クルバン. 6 .神聖ローマ皇帝 .... さをもって,父親のようにそして 慈悲深く探求. していることに ..... でもあったモーツァルトの『魔笛』の中で]想. 像上の 聖職者 ...
ドイツ啓蒙の哲学者若きクリスティアン・ヴォルフの知識体系論―ドイツ啓蒙思想の一潮流 3― (日本語) 単行本 – 2020/8/10
山本 道雄 (著)
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単行本
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ドイツ啓蒙思想研究必携の書
本書はヴォルフ33歳の論理学書に焦点を定め, 若きヴォルフの思想の現代的可能性を剔
抉する試みである。それによって三段論法で身を固めた体系家ヴォルフという通俗的
なヴォルフ像を破壊し、カントとの対比でドイツ学校哲学の歴史に新しい解釈軸を導
入する。
目次
第1論文 ドイツ啓蒙の哲学者若きクリスティアン・ヴォルフの知識体系論
——「ドイツ語論理学」第4章第23、24、25節を中心に——
はじめに
A 時代
B ヴォルフの三段論法論(「形式的推理」論)
C 全体論的・動的な知識体系論
D ヴォルフ vs カント
E 補論——論理学的観点から
第2論文 『ドイツ啓蒙の哲学者クリスティアン・ヴォルフのハレ追放顛末記」補遺
——マールブルクからハレへ、ヴォルフの大学論——
序論
A マールブルクからハレへ
B ヴォルフの大学論
資料 クリスティアン・ヴォルフ『真理の認識における人間知性の力ならびにその正しい使
用についての理性的考察』 山本 道雄 訳
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