ラファエロに関してはタルコフスキーの批判がある(『映像のポエジア』でその一面性がカルパッチョの多様性と比較されている)。とはいえ天才の代名詞として使われるだけはあって、アテナイの学堂などは当時のギリシア哲学受容の状況を良く示している(
地図、図解、
改訂版関係図)。
以下、wikiより。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%86%E3%83%8A%E3%82%A4%E3%81%AE%E5%AD%A6%E5%A0%82
「プラトンが指を天に向けているのに対し、アリストテレスは手のひらで地を示している。これは、プラトンの観念論的なイデア論の哲学に対し、アリストテレスの哲学の現実的なさまを象徴していると考えられる。」
http://commons.wikimedia.org/wiki/File:Raffaello_Scuola_di_Atene_numbered.svg?uselang=ja
1ゼノン
2エピクロス
3フェデリーコ2世?
4ボエティウス、アナクシマンドロス、エンペドクレス?
5アヴェロエス
6ピタゴラス
7アルキビアデス、アレクサンダー大王?
8アンティステネス、クセノフォン?
9ヒュパティア、フランチェスコ・マリーア1世・デッラ・ローヴェレ?
10アイスキネス、クセノフォン?
11パルメニデス、ユークリッド?
12ソクラテス
13ヘラクレイトス(ミランジェロがモデル)
14ティマイオスを持つプラトン(レオナルドダヴィンチがモデル)
15倫理を持つアリストテレス
16ディオゲネス
17プロティノス?
18ユークリッド、生徒を従えたユークリッドもしくはアルキメデス(ブラマンテがモデル)?
19ストラボン、ゾロアスター
20プトレマイオス
21画家のプロトゲネスに扮したソドマ
R アペレス(ギリシア時代の有名な画家)に扮したラファエロ
• 1: Zeno of Citium
• 2: Epicurus
• 3: Frederik II of Mantua?
• 4: Boethius or Anaximander or Empedocles?
• 5: Averroes
• 6: Pythagoras
• 7: Alcibiades or Alexander the Great?
• 8: Antisthenes or Xenophon?
• 9: Hypatia or Francesco Maria I della Rovere)?
• 10: Aeschines or Xenophon?
• 11: Parmenides or Euclid?
• 12: Socrates
• 13: Heraclitus (features of Michelangelo)
• 14: Plato holding the Timaeus (features of Leonardo da Vinci)
• 15: Aristotle holding the Ethics
• 16: Diogenes of Sinope
• 17: Plotinus?
• 18: Euclid or Archimedes with students (features of Bramante)?
• 19: Strabo or Zoroaster?
• 20: Ptolemy
• R: Raphael as Apelles
• 21: Il Sodoma as Protogenes
5番のアヴェロエスはスピノザが後に展開した能産的自然の用語を最初に使用したと言われる。柄谷行人によればクセノファネス(クセノパネス)などに原型がある。プラトン、アリストテレスの目的論的な考え方に対抗した哲学者はラファエロの評価の対象ではないらしいが(そもそもタイトルがアテネ〜だ)、それでもエピクロスやユークリッド、ピタゴラスなどの扱いは興味深い。
以下もwikiより
参考:
再改訂:
_______
ソ ク ラ テ ス 以 前_______
| イタリア、 イオニア、 |
|(エレア学派)(ミレトス学派) (独自の主張) |
| | タレス 水 |
| | | |イオニア諸都市
| | アナクシマンドロス 無限定 |前560年 リディア王国に併合
| |クセノパネス_|| |前546年ペルシアに併合
|普←| | |アナクシメネス →変 ピタゴラス |
|遍 | | | |空気 化 (サモス島→南伊)|前499or8年
|パルメニデス|____|__ヘラクレイトス |
イオニアの反乱| ゼノン | 火(イオニア、エフェソス)|
| |___折_衷__| |
|(エレア派) | |
| | (多元論者) |
| | エンペドクレス(シチリア島) |
| | | |
| | アナクサゴラス(イオニア→アテネ) |
| | |______ペリクレス |
| | (原子論者) エウリピデス |
| |__レウキッポス |
| |_デモクリトス |
|______________|____________|
|
_ポ リ ス を 基 盤 に|し て い た 人 々_
| |末裔 |
| ソクラテス ←対立→ ソフィスト |
| ||| |
| |||_クセノポン(軍人、弟子) (犬儒派)
| ||______________アンティステネス
| _プラトン ディオゲネス
| | | |
| | アリストテレス |
|_|_____|___________________|
| アレクサンダー大王 アルキメデス
| エウクレイデス
| (アレクサンドリア)
_|___ヘ レ ニ ズ ム 時 代 以 降_____
| | ゼノン(ストアの開祖)|
| | キケロ |
| | (懐疑主義)(エピクロス主義)(ストア主義) |
| | ピュロン エピクロス セネカ |
| |影響 エピクテートス |
| (新プラトン主義) マルクス・ |
| プロティノス アウレリウス |
| プロクロス |
|___________________________|
(『30分でわかる哲学&思想』 小須田健 13頁より:改)
______
ソ ク ラ テ ス 以 前________
| イタリア、 イオニア、 |
|(エレア学派)(ミレトス学派) (独自の主張) |
| | | |
| | タレス 水 |
| | | イオニア諸都市 |
| | アナクシマンドロス 無限定 前560年 |
| | || なもの リディア王国に併合
| |クセノパネス_|| 前546年 |
| | | | | ペルシアに併合 |
| | | |アナクシメネス |
| | | | |空気 ピタゴラス |
| | | | | (サモス島→南伊) |
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| | | | | 前499or8年 |
|普←| | | | →変 イオニアの反乱
wiki
|遍 | | | | 化 |
|パルメニデス|____|__ヘラクレイトス |
| | | 火(イオニア、エフェソス)|
| ゼノン__折_衷__| |
|(エレア派) | |
| | (多元論者) |
| | エンペドクレス(シチリア島) |
| | | |
| | アナクサゴラス(イオニア→アテネ) |
| | |________ペリクレス |
| | (原子論者) エウリピデス |
| |__レウキッポス(ミレトス→エレア) |
| |_デモクリトス |
|______________|____________|
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_ポ リ ス を 基 盤 に|し て い た 人 々_
| |末裔 |
| ソクラテス ←対立→ ソフィスト |
| ||| |
| |||_クセノポン(軍人、弟子) (犬儒派)
| ||______________アンティステネス
| | | |
| _プラトン ディオゲネス
| | | |
| | アリストテレス |
|_|_____|___________________|
| アレクサンダー大王 アルキメデス
| エウクレイデス
| (アレクサンドリア)
_|___ヘ レ ニ ズ ム 時 代 以 降_____
| | ゼノン(ストアの開祖)|
| | キケロ |
| | (懐疑主義)(エピクロス主義)(ストア主義) |
| | ピュロン エピクロス セネカ |
| |影響 エピクテートス |
| (新プラトン主義) マルクス・ |
| プロティノス アウレリウス |
| プロクロス |
|___________________________|
(『30分でわかる哲学&思想』 小須田健 13頁より:改)
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ソ ク ラ テ ス 以 前________
| イタリア、 イオニア、 |
|(エレア学派)(ミレトス学派) (独自の主張) |
| | | |
| | タレス 水 |
| | | イオニア諸都市 |
| | アナクシマンドロス 無限定 前560年 |
| | | | なもの リディア王国に併合
| |クセノファネス | 前546年 |
| | | | | ペルシアに併合 |
| | | | アナクシメネス |
| | | | |空気 ピタゴラス |
| | | | | (サモス島→南伊) |
| _|_|__|___|____|| |
|| | | | | | 前499or8年 |
|x | | | | x イオニアの反乱
wiki
|普←| | | | →変 |
|遍 | | | | 化 |
|パルメニデス |___|___ヘラクレイトス 火 |
|(前515ー450) | (前540ー480) |
| | | (イオニア、エフェソス) |
| ゼノン__折_衷__| |
|(エレア派) | |
| | (多元論者) |
| | エンペドクレス(シチリア島) |
| | | |
| | アナクサゴラス(イオニア→アテネ) |
| | |________ペリクレス |
| | (原子論者) エウリピデス |
| |__レウキッポス(ミレトス→エレア) |
| |_デモクリトス |
|______________|____________|
|
_ポ リ ス を 基 盤 に|し て い た 人 々_
| |末裔 |
| ソクラテス ←対立→ ソフィスト |
| ||| |
| |||_クセノポン(軍人、弟子) (犬儒派)
| ||______________アンティステネス
| | | |
| _プラトン ディオゲネス
| | | |
| | アリストテレス |
|_|_____|___________________|
| アレクサンダー大王 アルキメデス
| エウクレイデス
| (アレクサンドリア)
_|___ヘ レ ニ ズ ム 時 代 以 降_____
| | ゼノン(ストアの開祖)|
| | キケロ |
| | (懐疑主義)(エピクロス主義)(ストア主義) |
| | ピュロン エピクロス セネカ |
| |影響 エピクテートス |
| (新プラトン主義) マルクス・ |
| プロティノス アウレリウス |
| プロクロス |
|___________________________|
(『30分でわかる哲学&思想』 小須田健 13頁より:改)
タレス(ターレス、タレースとも、古希: Θαλής、希: Thalēs、紀元前624年 - 紀元前546年頃)
アナクシマンドロス(Αναξιμανδρος Anaximandros、紀元前610年頃 - 紀元前546年)
クセノパネス(希: Ξενοφάνης、英: Xenophanes)は、紀元前6世紀のギリシア哲学者。
アナクシメネス(Anaximenes of Miletus、Άναξιμένης、紀元前585年 - 紀元前525年)
ピタゴラス(希:Πυθαγόρας、英:Pythagoras、紀元前582年 - 紀元前496年)
ヘラクレイトス(Ηράκλειτος Hērakleitos、 紀元前540年頃 - 紀元前480年頃?)
パルメニデス(Parmenidēs 紀元前500年か紀元前475年-没年不明)イオニア地方のコロフォンの人。紀元前545年頃、25歳で故郷を去り南イタリアのザンクレというところで暮らした。
アナクサゴラース(Αναξαγορας、Anaxagoras、紀元前500年頃 - 紀元前428年頃)
エレアのゼノン(ギリシア語 Ζήνων Έλεάτης、ラテン語・英語・フランス語 Zeno、ドイツ語 Zenon、 紀元前490年頃 - 紀元前430年頃)プロタゴラス(Πρωταγόρας, 紀元前500年? - 紀元前430年?)
エンペドクレス(Empedocles、紀元前490年頃 – 紀元前430年頃は、古代ギリシアの自然哲学者、医者、詩人、政治家。アクラガス(現イタリアのアグリジェント)の出身。ピュタゴラス学派に学び、パルメニデスの教えを受けたとされる。
レウキッポス Leukippos(生没年不詳)紀元前440-430年頃に活動したギリシア哲学者。
デモクリトス Dēmokritos(紀元前460年頃-紀元前370年頃)
ソクラテス(希:Σωκράτης、古代ギリシア語発音:[sɔːˈkratɛːs] ソークラテース。英:Socrates、英語発音: /ˈsɑkrəˌtiːz/ サクラティーズ。紀元前469年頃 - 紀元前399年4月27日)
プラトン(プラトーン、希:Πλάτων、羅:Plato/Platon、英:Plato 英語発音: /ˈpleitou/ プレイトウ、紀元前427年 - 紀元前347年)
アリストテレス(古典ギリシア語: Ἀριστοτέλης、Aristotélēs,Aristoteles前384年 - 前322年3月7日)
ソクラテス以前の哲学者
ミレトス学派 タレス - アナクシマンドロス - アナクシメネス
エフェソス学派 ヘラクレイトス
ピタゴラス教団 ピタゴラス - アルクマイオン - フィロラオス - アルキタス - ロクリスのティマイオス
エレア派 クセノパネス - パルメニデス - ゼノン - メリッソス
原子論 レウキッポス - デモクリトス
ソフィスト プロタゴラス - ゴルギアス - プロディコス - ヒッピアス
多元論 アナクサゴラス - エンペドクレス - アルケラオス
その他 アポロニアのディオゲネス
参考:
http://philos.fc2web.com/index.html
以下、
プラトンと資本主義
アリストテレス全集17
より
参考:以下、『ソクラテス以前の哲学者』(広川 洋一)より
・・・・・・・・
アテネの学堂 解説
http://art.pro.tok2.com/R/Raphael/Athens.htm
アテナイの学堂
ティマイオスを持ったプラトンと、ニコマコス倫理学を持ったアリストテレス
9 Comments:
音楽、建築、原発、政治、中国、歴史、分類、図像学
文学、東洋思想、プラトン、アリストテレス、リンク:::::
NAMs出版プロジェクト: 判断力批判:メモ、付リンク
ゴッホの生涯
http://kajipon.sakura.ne.jp/kt/gogh.html
1890年(37歳)、死まで7ヶ月。1月、テオ夫妻に男の子が生まれ、テオは敬愛する兄と同じ“ヴィンセント”と名付けた。めでたいことではあるが、自分が見捨てられることを心配したヴィンセントは、出産後にまた発作に襲われた。同月、著名な批評家アルベール・オーリエがヴィンセントの作品を絶賛する評論を発表。「(ゴッホの)作品全体を通じて目につくのは、過剰である。力の過剰、情熱の過剰、表現の荒々しさの過剰…(略)彼の色彩は信じ難いほどにまばゆい。私の知る限り、彼は色彩というものを真に心得ている唯一の画家である」。2月、ヴィンセントは赤ん坊の誕生を祝福して『花咲くアーモンドの枝』を描き上げ、この絵はゴッホ家代々の家宝となった(可憐に咲く白い花に健やかに育って欲しいという願いが込められている)。
ヨハンナと赤ん坊 『花咲くアーモンドの枝』 優しさに満ちた作品
同月は画家として大きな出来事が起きた。ブリュッセルの『20人会』展に6作品が選出され、しかもそのうちの『赤い葡萄畑』が400フラン(今の4万円くらい?)で売れたのだ!ヴィンセントの絵が売れたのはこれが初めて。買い手はベルギーの女流画家アンナ・ボック。アンナはヴィンセントがアルルで友人となった画家兼詩人ウジェーヌ・ボックの姉だ。結局、この作品が生涯で売れた唯一のものとなった。一方病状は良好とは言えず、2月下旬に発作で倒れ、約2ヶ月の間創作から遠ざかった。3月、パリの『アンデパンダン展』に10点が展示され、画家仲間から好評を得る。特にモネは「今展で最も優れている」と激賞した。少しずつ、そして確実に世間に認められ出した。
●終焉の地、オーヴェール(1890.5-7)
5月16日、サン=レミの病院を出て、夜行列車で新たな静養地、パリ北西部(30km)のオーヴェール・シュル・オワーズに向かう。同地は芸術家村として知られ、また画家兼精神科医のポール・ガシェ(当時62歳)がいることから、ピサロが芸術に造詣が深いガシェの下での療養を勧めてくれた。途中でパリのテオ一家を訪ね、初めて妻子と出会う。赤ん坊は4ヶ月。兄が次々と送った絵は、全く売れない為に家中に溢れかえっていた。ヨハンナが思い出を綴っている「テオは兄を坊やのゆりかごのある部屋へ通しました。兄弟は黙って眠る赤ん坊に見入りました。2人とも目に涙を浮かべていました」「私たちの家は彼の絵でいっぱいで、どの部屋の壁にも彼の絵が掛かっていました。食堂には『ジャガイモを食べる人々』、居間には『アルルの風景』と『ローヌ川の夜景』、ベッドの下もソファの下も、小さな空き部屋の押入れの下も、カンバスでいっぱいでした」。5月20日、オーヴェールに到着し、ラヴー夫婦が営むレストラン“ラヴー亭”の3階屋根裏に下宿した(2階は家賃が高かった)。天窓が唯一の窓で、夏は40度まで暑くなる3畳ほどの狭い部屋だ。
この南仏からオーヴェールへの転地療養は正解だった。絵筆がよく走り、発作の再発もなく、約2ヶ月という短期間に約80点もの作品を描き残した(一日に一作以上のハイペース!)。ガシェ医師もヴィンセントの作品をこよなく愛してくれた。6月8日にはテオ一家がピクニックで遊びに来てくれた。ヨハンナいわく「ヴィンセントは甥のオモチャとして小鳥の巣を持って駅まで迎えに来てくれました。彼は自分が赤ん坊を抱いて歩くと言い張り、ガシェ家の庭にいる動物(山羊、孔雀、犬、猫、兎、鳩、鴨、亀)をすっかり子どもに見せてしまうまで休みませんでした。私たちは戸外で食事をとり、ゆっくりと散歩しました。大変穏やかで、幸せな1日でした」。
翌月(7月6日、死の3週間前)、今度はヴィンセントがテオ一家に招待されパリを訪ねる。ヨハンナの兄夫婦やロートレックも招待され皆で楽しいひとときを過ごす…はずだった。テオは上司が印象派を低く見ているので画商として独立したいと言い、不安になったヨハンナが家計の苦しさを訴えて夫婦は喧嘩になり(テオは兄だけでなく母にも仕送りをしていた)、ヴィンセントは自分への援助がいかにテオ一家の負担になっているかを痛感した。
逃げるようにオーヴェールに戻ったヴィンセントは心労でヘトヘトになった。自分のためにテオ夫婦は喧嘩をしている…。「こっちに帰って来てから、僕もとても気が滅入っている。君たちを襲っているあの嵐が、僕の上にも重くのし掛かってくるのをずっと感じている。どうすればいいのか。僕も生活も根っこからやられており、そして僕の足もよろめいている。実は僕は心配でたまらなかった。僕のことが重荷で、君は僕を荷厄介に感じているのではないかと」。その後、『ドービニーの庭』を描き上げ、7月25日には遺作とされる『カラスのいる麦畑』を完成させた。「今にも嵐になりそうな空の下に麦畑が広がる絵だが、僕はここに究極の悲しさと孤独を表せないかと思った。この絵を早く君にも見て欲しい。なるべく早くパリに持って行こうと思っている。見ればきっと、口では言えないものを、じかに君に語ってくれると思うからだ」。
『カラスのいる麦畑』(これが最後の作品と言われている)
ゴッホが「極度の悲しみと孤独感を表現した」と語った遺作。怒りに満ちた空は2つの雲を圧倒し、
泥の道は曲がりくねって消え、麦畑もまた空と戦う怒れる海のように沸き立っている。水平線
(世界)は容赦なくこちらへ押し寄せるが、大地は盛り上がり、天は垂れ込めて観る者の退路を防ぐ。
※本物の絵の前に立つと、悲しい絵のはずなのに、彼の澄み切った精神を感じた。不思議だけど…。
7月27日夕刻、ヴィンセントはオーヴェール城裏手の麦畑(農家の中庭とも)でピストル自殺を試み腹を撃った。だが、急所を逸れて死ぬことすら上手く行かなかった。宿に戻って苦しんでいるところを家主が見つけガシェが呼ばれた。ガシェが「大丈夫、助かる」と励ますと「それならもう一度撃たねばならない」とヴィンセント。テオの住所を言おうとしないので、ガシェはテオの職場に連絡をとった。そのため弟は翌朝まで事件を知らなかった。駆けつけて泣き濡れるテオに「また、しくじってしまったよ」とヴィンセント。そして「泣かないでおくれ。僕は皆のために良かれと思ってやったんだ」と慰めた。ヴィンセントは真夏のうだるように暑い屋根裏部屋で、2日間苦しんだ後、7月29日午前1時半にテオに看取られながら絶命した。最期の言葉はオランダ語で「家に帰りたい」。オーヴェールの司祭は自殺者の葬儀を拒否し、隣村の司祭が呼ばれた。
葬儀の様子は参列した親友の画家ベルナールが詳しく書き残している。「遺体が安置された部屋の壁には、晩年の作品すべてが掛けられていた。それは彼を取り巻く後光のように見えたが、絵が輝かしく天才的であるだけに、彼の死は我々画家にとっていっそう悲しいものだった。棺には質素な白布が掛けられ、大量の花が置かれていた。それは彼が愛したヒマワリや黄色のダリアなど黄色の花ばかりだった。黄色は彼の好きな色で、彼が芸術作品の中だけでなく、人々の心の中にもあると考えた光の象徴だった」「遺体は3時に友人たちの手で霊柩車に運ばれた。テオがずっとすすり泣いているのが哀れだった…。外は狂おしいほど太陽が照りつけていた。私たちは故人の人柄について、彼の芸術家としての勇気、画家の共同体の夢、彼から受けた影響について語り合いながらオーヴェールの丘を登った。彼が葬られる共同墓地はまだ新しく、新しい墓標が点在しているだけだった。青空の下、収穫間近の麦畑が眼下に広がっていた。気候はまさに彼の好みにぴったりで、彼はまだ幸福に生きられたのにと思わずにはいられなかった」。葬儀にはピサロやタンギー翁らも参列し、埋葬時にガシェは涙に暮れながら「彼は誠実な人間で、とても偉大な芸術家だった。彼には人間性と芸術というたった2つの目的しかなかった」と告別の言葉を捧げた。
『ヴァン・ゴッホの埋葬』(エミール・ベルナール)
ヴィンセントのポケットの中には最後の手紙が入っていた。「弟よ…これまで僕が常々考えてきたことをもう一度ここで言っておく。僕は出来る限り良い絵を描こうと心に決めて、絶対に諦めることなく精進を重ねてきたつもりだが、その全生涯の重みをかけてもう一度言っておく。君は単なる画商なんてものではない。僕を介して君もまた、どんな悲惨にあってもたじろぐことのない、絵の制作そのものに加わってきたのだ。ともかく、僕は自分の絵に命を賭けた。そのため、僕の理性は半ば壊れてしまったも同然だ」。
http://blogs.dion.ne.jp/dada_2012/archives/10945145.html
http://blog.goo.ne.jp/macgoohan/e/9e07da02da3902b8d053ad944d2d018a
「バットマン」で美術館に押し入ったジョーカーが次々と絵を汚していく手下たちに「待て、こいつは気に入った」
と無傷で残すのがフランシス・ベーコンだった
ポロックの抽象画にひそむフラクタル | 日経サイエンス
http://www.nikkei-science.com/page/magazine/0303/pollock.html
樹木や雲,山なみの形など,自然には一見すると不規則だが,ある種の秩序を含む図形が
現れる。フラクタルと呼ばれる性質だ。著者が再び大学に戻ってコンピューター解析したと
ころ,ポロック作品はまさにフラクタルだとわかった。自然界のフラクタル構造が発見され
たのは1970年代だが,ポロックはその25年前にそれをカンバスに描いていたことになる。
さらに分析を進めると,同じような抽象画でもフラクタル構造を持つのはポロック作品だ
けであること,ポロックの作品は後代のものほどフラクタル構造の複雑さが増していること
など,興味深い事実が見つかった。また,複雑さを示す指標が一定の範囲内にあると,鑑賞
者がリラックスした気分になることも判明した。
フラクタルについては以下を参照:
浅田彰 No.1 1986年放送
http://youtu.be/CScihJCTY08
歴史上の数学者たち: プラトン
http://historicalmathematicians.blogspot.jp/2012/02/blog-post_04.html
ルネサンス期にイタリアの画家ラファエロ・サンティが描いた有名な絵画に、「アテナイの学堂」というものがあります。この絵には有名な古代ギリシアの哲学者たちが描かれていて、絵の中央の二人の人物のうち左側がプラトンであることが分かっています。プラトンが手に持っているのは、プラトンの著書「ティマイオス」です。
この絵に描かれている人物はラファエロと同時代の人物がモデルとなっていて、プラトンのモデルはレオナルド・ダ・ヴィンチであるとされています。
またプラトンと並んで階段を下りているのはアリストテレスで、「プラトンの哲学は中傷的であったので天を指さし、アリストテレスの哲学は現実的であったので地を指さしている」とする説があります。
アテナイの学堂
、ティマイオスを持ったプラトンと、
ニコマコス倫理学を持ったアリストテレス
Giudizio Universale
最後の審判
The Last Judgment (Michelangelo)
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最後の審判 (ミケランジェロ)
バチカン、システィーナ礼拝堂の祭壇壁画
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『最後の審判』(さいごのしんぱん、イタリア語 Giudizio Universale)は、ルネサンス期の芸術家ミケランジェロの代表作で、バチカン宮殿のシスティーナ礼拝堂の祭壇に描かれたフレスコ画である。1541年に完成した。
『最後の審判』
イタリア語: Giudizio Universale
Last Judgement (Michelangelo).jpg
作者
ミケランジェロ・ブオナローティ
製作年
1536年 - 1541年
種類
フレスコ
寸法
1370 cm × 1200 cm (540 in × 470 in)
所蔵
バチカン、システィーナ礼拝堂
目次
依頼の経緯
制作
構成
修復作業
複製の展示
脚注
関連項目
依頼の経緯 編集
これより先、ミケランジェロはローマ教皇ユリウス2世よりシスティーナ礼拝堂の天井画を描くよう命じられ[1]、1508年から1512年にかけて『創世記』をテーマにした作品を完成させている。それから20数年経ち、教皇クレメンス7世に祭壇画の制作を命じられ、後継のパウルス3世の治世である1535年から約5年の歳月をかけて1541年に『最後の審判』が完成した。天井画と祭壇画の間には、ローマ略奪という大事件があり、今日、美術史上でも盛期ルネサンスからマニエリスムの時代への転換期とされている。
制作 編集
ミケランジェロが『最後の審判』を描くより前、祭壇画としてペルジーノの『聖母被昇天』が描かれており、ミケランジェロは当初ペルジーノの画を残すプランを提案していた[2]。しかしこの案はクレメンス7世により却下され、祭壇の壁面の漆喰を完全に剥がされてペルジーノの画は完全に失われた(スケッチのみが現存する)。 ペルジーノが描いた『聖母被昇天』には、画の発注主であるシクストゥス4世の姿が描かれていたことが判っており、パッツィ家の陰謀により実父を殺されたクレメンス7世による、事件の黒幕とされるシクストゥス4世への復讐であった可能性が指摘されている。
構成 編集
『最後の審判』には400名以上の人物が描かれている。中央では再臨したイエス・キリストが死者に裁きを下しており、向かって左側には天国へと昇天していく人々が、右側には地獄へと堕ちていく人々が描写されている。右下の水面に浮かんだ舟の上で、亡者に向かって櫂を振りかざしているのは冥府の渡し守カロンであり[3]、この舟に乗せられた死者は、アケローン川を渡って地獄の各階層へと振り分けられていくという。ミケランジェロはこの地獄風景を描くのに、ダンテの『神曲』地獄篇のイメージを借りた。
群像に裸体が多く、儀典長からこの点を非難され、「着衣をさせよ」という勧告が出されたこともある。ミケランジェロはこれを怨んで、地獄に自分の芸術を理解しなかった儀典長を配したというエピソードもある。さらにこの件に対して儀典長がパウルス3世に抗議したところ、「煉獄はともかく、地獄では私は何の権限も無い」と冗談交じりに受け流されたという。また、キリストの右下には自身の生皮を持つバルトロマイが描かれているが、この生皮はミケランジェロの自画像とされる。 また画面左下方に、ミケランジェロが青年時代に説教を聴いたとされるサヴォナローラらしき人物も描かれている。
修復作業 編集
『最後の審判』などの壁画・天井画は、長年のすすで汚れていたが、日本テレビの支援により1981年から1994年までに修復作業が行われた。壁画・天井画は洗浄され製作当時の鮮やかな色彩が蘇った。ミケランジェロの死後、裸体を隠すために幾つかの衣装が書き込まれていたが、これは一部を除いて元の姿に復元された。
複製の展示 編集
大塚国際美術館での展示の様子。
大塚国際美術館 - 実物大のレプリカ。
京都府立陶板名画の庭 - 陶器製のほぼ原寸大のレプリカ。
脚注 編集
^ 美術出版社; 美術出版社編集部; 藤原えりみ; 高階秀爾 『西洋美術史: カラー版』 (7版) 美術出版社、2008年2月10日、88頁。ISBN 9784568400649。
^ 池上英洋 『神のごときミケランジェロ』 新潮社、2013年、95頁。ISBN 978-4-10-602247-0。
^ 中野京子 『中野京子と読み解く 名画の謎 対決篇』 文藝春秋、2016年、227頁。ISBN 978-4-16-390308-8。
関連項目 編集
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ヨハネの黙示録
最後の審判
最後の審判 (ファン・デル・ウェイデンの絵画)
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