火曜日, 12月 06, 2011

くじ引き関連資料 +ヴェネツィアのくじ引き

参考:
freeassociations: マナン1995,ハンセン1991 くじ引き The Principles of Representative Government 
https://freeassociations2020.blogspot.com/2021/11/19951991-principles-of-representative.html

くじ引き関連資料 +ヴェネツィアのくじ引き
http://nam-students.blogspot.com/2011/12/blog-post_06.html @

以下くじ引きに関して以前書いたものを少し訂正して転載させていただきます。
(資料:スピノザモンテスキュールソーアテネヴェネツィア
・・・・・・・・・・・・・・
結論として、私見を述べさせていただければ、くじ引きの利点は以下4つあると思います。、

1、誰でも代表を引き受けられる能力を持つべきだという統整的理念(=能力の平等性)の普及。
2、決選投票という心理的軋轢を避けられる。
3、決定の恣意性の自覚。(多くの社民制が陥る)首相公選政がベストだと思い込むようなポピュリズムの回避。
4、参加者がひとつの時間と場所を共有できる。

そもそも、くじ引きが民主主義の王道(アテネ、ヴェネツィアは別格として、アリストテレス、モンテスキュー、スピノザ、ルソーによる言及がある)であったということが忘れられていることが問題であり、今日のくじ引き批判は、単なる知識人の歴史への無知にその原因があります(そもそもNAMでは選挙プラスくじ引きだから民主的発想の改善、あるいは補完であることが自覚されています)。
柄谷さんが自分で考えたというニュアンスで広めようとしたことにも問題がありますが、くじ引きが「統整的理念」(「超自我」と言ってもいい)であることはもう少し理解されてもいいと思います。


上記の理解を手助けするために、くじ引きに関して、以下、歴史的及び基礎的な資料を引用させていただきます。スピノザはヴェネチア(ヴェニス)を、モンテスキューはアテネ(アテナイ)を手本にしています。ルソーは両者を統合していますが、その主権移譲的な社会契約説に関しては、プルードンも指摘した通り注意が必要だと思います。
 ヴェネチアに関しては、中公文庫版『社会契約論』の訳注が詳細に解説しているのでそのまま引用しました。ちなみに帝国主義以降(海外への資本の輸出以降)、くじ引きは(資本主義そのものがくじ引き的だから?)まったく政治学の議論の俎上に乗らなくなります。
 写真2は、S・ドーによるギリシア・アテネの「抽選器復元図」(1939)です(球を上から入れる仕組みになっています。橋場弦著『丘のうえの民主政』p147より)。
以下は別サイトにあるくじ引き関連資料(改訂前)です。
http://blog.livedoor.jp/yojisekimoto/archives/50790316.html

追記:
ヴェネツィアでは『ヴェネツィア歴史図鑑』↓によると銅球と金の球を使ってくじ引きをしていたようです。

http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4887216882/ref=ord_cart_shr/250-8642134-6970623?%5Fencoding=UTF8&m=AN1VRQENFRJN5

また、日本に関しては、くじ(串が語源といわれる)は神託として扱われる傾向が強いので、少し傾向が異なると思いますが、事例が集まり次第いずれご報告させていただきたいと思います(NAMの事例に関しては写真(=3)のみご紹介させていただきました)。

//////以下、資料///////////////////

スピノザ『国家論』畠中尚志訳、岩波文庫p139>
 第八章第二七節

 諸事のとり決めならびに官吏の選任にあたってすべての貴族が同じ力を持つためには、そしてすべての事務の決裁が迅速であるためには、ヴェニス国の人たちの守った手続きが最も推薦に値する。彼らは官吏を任命するにあたり会議体から若干名を抽籤で選び、この人々が順次に選ぶべき官吏を指名し、続いておのおのの貴族は指名された官吏の選任に対し賛成あるいは反対の意見を投票用小石によって表明する。あとになって誰が賛成あるいは反対の意見であったかがわからないように。こうすればすべての貴族が決議にあたって同じ権威を持ちかつ事務が迅速に決裁されるばかりでなく、その上おのおのの者は(これは会議にあって何より必要なことであるが)誰からも敵意を持たれる心配なしに自分の意見を表示する絶対的自由を有することになる。

/////////////////////////

モンテスキュー『法の精神』井上尭裕訳、中央公論社、世界の名著p379>
 第二篇第二章
 
 籤による投票は民主制の性質をもち、選択による投票は貴族制の性質をもつ。
 抽籤はだれをも苦しめない選び方である。それは、各市民に、祖国に奉仕したいというもっともな希望を残す。
 しかし、それは、それ自体として欠陥をもっているから、偉大な立法者たちは、それを規制し、矯正するために競いあった。
 アテナイでは、ソロンが、全軍職は選択により任命され、元老院議員と裁判官は、籤で選ばれるよう定めた。
 彼は、大きな出費を要する政務官職は選択にょり与えられ、他の職は籤で与えられることを望んだ。
 しかし、抽籤を修正するために、彼は、立候補した者の中からしか選べないこと、選ばれた者は、裁判官により審査されること、だれもが、選ばれた者を不適格として弾劾しうることを規定した。それは、同時に、抽籤にも選択にも相通じていた。政務官職の終わりには、人は、自分の行動した仕方について、いま一度審査を受けなければならなかった。無能な人々は、抽籤に自分の名を出すのを、大いにきらったにちがいない。

////////////////////////

ルソー『社会契約論』井上幸治訳、中公文庫p145-147>
 第四編第三章 選挙について

 執政体と施政者の選出は、さきに述べたように複合的な行為であるが(第三編十七章参照)、それを行なうには、二つの方法がある。すなわち選挙と抽籤(ちゅうせん)である。両者ともに、今日まで、多くの共和国で採用されてきており、現在でもなお、ヴェネツィアの統領の選挙では、この二つがきわめて複雑にまじり合った方法が行なわれている(*1)。          
「抽籤による選任が民主政の本質である」とモンテスキューは言っている (*2)。賛成である。しかし、どうしてそうなのか。モンテスキューは続けて言っている。「抽籤はだれも傷つけない選び方である。それは、各市民に祖国に奉仕できるという、もっともな期待をもたせるのである」しかし、理由はこの点にあるのではない。
 政府の首長を選ぶことは政府の権能であって、主権の権能ではない点に注意すれば、なにゆえに抽籤による方法がより民主政の本性にかなっているかがわかるだろう。民主政においては、行政は、その行為が簡単ならば簡単なほど、よりよく行なわれるのである。
 真の民主政においては、施政者の職は、いかなる場合でも、利益ある地位ではなく、わずらわしい負担であって、とくにある特定の個人を選んで、これを押しっけることは正当ではない。ただ法律のみが、籤(くじ)に当たったものにこの負担を屈することができる。なぜならば、この場合には、条件は全員にとって平等であり、選択は人間の意志になんら依存せず、したがって、法律の普遍妥当性をそこなうような特定の適用は、まったく存在しないからである。
 貴族政においては、執政体が執政体を選び、政府は自分の手で自分を維持する。そして、投票制が最も所を得ているのは、この政体においてである。
 ヴェツィアの統領の選出の例は、この二つの方法の区別をくずすどころか、確証するものである。つまり両者の混合したこの形式は、混合政府に適合しているのである。なぜかといえば、ヴェネツィアの政府を真の貴族政とみなすのは誤りであるから。そこでは人民がまったく統治に参与していないとしても、貴族身分が、それ自体人民なのである。数多くの貧しいパルナボト(*3)たちは、いかなる施政官の職にも近づいたことがなく、その貴族の身分によって、ただ実質のともなわない「閣下」の称号と、大評議会への出席権をもっているにすぎない。この大評議会は、ジュネーヴのわれわれの総評議会(*4)と同じくらい多人数からなっており、その有力な構成員も、われわれの単なる市民と同じ程度の特権しかもっていない。二つの共和国のあいだの極端な差異を除いて考察すれば、ジュネ?ヴのブルジョア身分が、まさにヴェネツィアの貴族身分にあたり、ジュネーヴの二世居住民と居住民(*5)の両身分は、ヴェネツィアの都市民と民衆にあたり、ジュネーヴの農民は、イタリア半島のヴェツィア領内の従属民にあたるといってさしつかえない。要するにどのような見方でヴェネツィア共和国を考察しようとも、その規模が大きいことを別にすれは、その政府は、ジュネーヴのそれよりも、貴族政的であるとはいえない。両者の違いのすべては、われわれは終身の首長をもっていないので、ヴェネツィアのように抽籤にたよる必要さえないということに尽きる。
 抽籤による選出は、真の民主政においては、ほとんどなんの不都合も生じないであろう。全員が、習俗や才能によっても、あるいはまた政治的原則や財産によっても、まったく平等であるから、選択はほとんど無関心なものとなるであろう。しかし、さきに述べたように(*6)、真の民主政は、かつて存在したことがなかった。
 選挙と抽籤が混用される場合、前者は軍職のように特別の才能を要する地位を満たすのに用いられるべきであり、後者は司法官職のように良識、正義、公正などの徳をもっていればまにあう地位に適している。なぜなら、よく構成された国家においては、これらの資質は、全市民に共通のものだからである。
 君主政体においては、抽籤も投票も行なわれない。君主のみが、当然、唯一の統治者であり、施政者であるのだから、その代理官の選択権も、君主だけに属している。サン=ピエール神父(*7)が、フランス国王顧問会議を増設し、その構成員を投票により選ぶことを提案したとき、彼は政体を変えるよう提案しているのだということがわかっていなかった。
 残るところは、人民の集会で投票を行ない、それをとりまとめるしかたについて述べることであろう。しかし、この点については、ローマ国制の歴史事実が、私の立てうる格率のすべてを、いっそう明白に説明するであろう。二十万人もの人々が参加した評議会で、公私の政務がいかにして取り扱われていたかを、多少、細部にわたって見ることも、公正な読者にとっては不当なこととは思われない。

中公文庫・訳注
*1 ポーラヴォンの注解によれば十三世紀から共和政の終わりまで統領の選挙は次のように行なわれたという。ヴェネツィアの大評議会は、まず三十人の市民を選び、これらが九人の市民を、その九人が四十人の市民を選び、その四十人中の十二人がくじで選ばれ、二十五人の市民を選び、そのうちの十一人がくじで選ばれ、その十一人が四十一人を選び、その人たちが統領を選んだ。
*2 『法の精神』第二編第二章参照。
*3 バルナバ会員のこと。ここでは、ヴェネツィア市中に聖バルナバ教会があり、その地区に住む比較的貧しい貴族をいう。
*4 ジュネーヴの主権を握る上層階級にあたる市民とプルジョア(町人)の総会をいう。これにより、小委員会または二十五人会が法の執行を委任された。
*5 当時のジュネーヴ人はシトワイヤン(市民)、ブルジョア(町人)、アピタン(居住民)、ナティフ(二世居住民)、シュジェ(隷属民)の五階級に分かれていた。前の二者は千六百人以下で行政・立法に参加。市民は、市民または町人の子供で、市で生まれていなけれはならない。町人は町人証明書を得た着で、各種職業に従事した。町人の息子は、市区以外で生まれると市民になれない。居住民は市の居住権を買った外国人、二世居住民は市内に生まれた居住民の子供たち。彼らは商業に従事する権利をもたず、さらに多くの職業につくことが禁じられ、しかも主に彼らが課税の対象になった。隷属民はその地方に生まれたといなとにかかわらず、この地区に居住する農民で、最も無力な存在であった。
*6 第三編第四章参照。
*7 フランスの聖職者。『永久平和草案』で知られる。
一六五八〜一七四三。ルソーはその『顧問会議制度論』を分析、批判した。


補記
アリストテレス「政治学」第4巻15章(岩波文庫及び世界の名著8所収)では、くじ引きと選挙の組み合わせが考察されています。
彼自身は貴族制を支持したと思われるのでくじびきという「民主制のやり方」を推奨していないようです(アテネにも影響を与えたイオニアにおけるイソノミアの平等という理念とくじ引きとの関係は今後研究したい*)。


ヘロドトスが伝えるペルシアのオタネスの言葉では、イソノミアの特徴に真っ先に抽籤が挙げられている。

参考:
以下、http://blogs.yahoo.co.jp/tessai2005/41967342.htmlより

歴史家のヘロドトスは、ペルシア王ダレイオスの即位(B.C. 521年)のいきさつを述べる中で、前王カンビュセスの没(B.C. 522年)後の王位継承争いを鎮(しず)めたダレイオスの仲間7人の討論を紹介している。討論は、今後ペルシアはいかなる政治体制を選ぶべきかという問題をめぐっておこなわれた。オタネスは万民同権の平等政治(民主政)をとるべきだと主張し、メガビュソスは優れた少数者による寡頭政治(貴族政)を主張し、ダレイオスは最も優れた一人による独裁政治(君主政)を採用すべしと主張した。


「… 独裁者というものは父祖伝来の風習を破壊し、女を犯し、裁きを経ずして人命を奪うことだ。それに対して大衆による統治は先ず第一に、万民同権(イソノミア――イソス「平等」原理にもとづく政治)という世にも美わしい名目を具えており、第二には独裁者の行なうようなことは一切行なわぬということがある。職務の管掌は抽籤により、役人は責任をもって職務に当り、あらゆる国策は公論によって決せられる。されば私としては、独裁制を断念して大衆の主権を確立すべしとの意見をここに提出する。万事は多数者にかかっているからだ」岩波文庫『歴史』(3:80)339頁



その他の参考文献:
『丘のうえの民主政—古代アテネの実験 』 写真2所収
橋場 弦 (著)
http://www.amazon.co.jp/丘のうえの民主政?古代アテネの実験-橋場-弦/dp/4130230492/sr=8-1/qid=1168908777/ref=sr_1_1/503-5582828-5887142?ie=UTF8&s=books

アリストテレス『政治学』 (岩波文庫)
http://www.amazon.co.jp/政治学-アリストテレス/dp/4003360451/sr=1-4/qid=1168908867/ref=sr_1_4/503-5582828-5887142?ie=UTF8&s=books


写真1



世界の歴史〈4〉ギリシア (1974年) [古書] 写真1所収
村田数之亮、河出書房新社
http://www.amazon.co.jp/世界の歴史〈4〉ギリシア-1974年/dp/B000J9EJAY/sr=1-22/qid=1168908961/ref=sr_1_22/503-5582828-5887142?ie=UTF8&s=books

写真2、アリストテレス『アテナイ人の国制』(岩波文庫より)↓



アリストテレス『アテナイ人の国制』(岩波文庫)写真2所収(研究過程の詳細な解説付き、最重要文献)
http://www.amazon.co.jp/%E3%82%A2%E3%83%86%E3%83%8A%E3%82%A4%E4%BA%BA%E3%81%AE%E5%9B%BD%E5%88%B6-%E3%82%A2%E3%83%AA%E3%82%B9%E3%83%88%E3%83%86%E3%83%AC%E3%82%B9/dp/4003360478/sr=1-4/qid=1169475746/ref=sr_1_4/249-9681056-2452320?ie=UTF8&s=books


参考:
転載、書評、アリストテレス『アテナイ人の国制』(岩波文庫)

結局、現代政治はここから始め直した方がいいのではないだろうか?

断片的な全67章のうち20章近くに抽選(くじ引き)が言及されるこの古典(索引がありがたい)は、
アリストテレスが記述したものとされている。同著者の「政治学」(大文字の政治体制について論じ
たものだが、ヴェネツィアが模範にしたであろう選挙プラスくじ引きの詳細な記述を含む)にくらべ
るとこちらはアテナイの実際の政治の具体的な描写のみを記録しており、読みやすく、その分、著者
の謙虚な姿勢がうかがわれる。

アリストテレスは決してアテネを理想だとは考えなかったようだが、それでもここに見習うべきもの
を見い出しているようだ。

実際のくじ引きのやり方(器具の記述を含む)など、後の研究者の研究成果も全集(邦訳第16巻)
にまとめられた時からさらに追加されているようである。

抽選器に関しては、年代や使い道によって、木製のポータブルなものだったり、石作りの抽選器だっ
たり、使い分けていたようだ。とくに評議会選出を解説した第43章、陪審員制度を解説した第63・64
章が興味深い。その他、道路建設係や会計監査官選出にもくじ引きが使われたようだ(第54章)。

資料的には、脚注にあるスターリング・ドゥ博士による抽選器復原図(p283)が貴重だと思う。「丘のう
えの民主政」(東大出版)にも転載された図だが、訳者が同博士から図を提供してもらったいきさつ
もあとがきに書かれており、こうしたくじ引きを含んだ民主主義のあり方が研究途上であることをう
かがわせて興味深い。

研究者以外の一般の人が読む機会は少ないだろうが、民主主義のあり方に興味のある人には、ぜひ一
度は参照して欲しい本である。




写真3




(写真3は2002年のNAM代表くじ引き選挙時のもの)→2002年NAMくじ引き選出(4分)




写真4


写真4はmixiコミュニティ「NAM再建準備会」管理人選出で使用した<黒ひげ危機一髪・スターウォーズバージョン>。工具を挿し、ライトセーバーが飛んだ人間が勝ち(ジョージ・ルーカス公認のおもちゃだが、オーソドックスなタイプの黒ひげが一番が使いやすい)。



アテネと同じく「球」を使ったヴェネティアのくじ引きに関しては前出の『ヴェネツィア歴史図鑑』(東洋書林)が図版入りで詳しい。
http://www.amazon.co.jp/gp/product/4887216882/sr=1...
追記:ヴェネツィアに関してはその後資料を以下に追加しました。
http://yojiseki.exblog.jp/d2008-01-22



ヴェネツィアのくじ引き


以前も書きましたが(くじ引き関連資料)、『ヴェネツィア歴史図鑑』(東洋書林、pp.32-33)によるとヴェネツィアではドージェ(Doge)と呼ばれる総督を決めるときに銅球と金の球を使ってくじ引き(+選挙)をしていたようです。
アリストテレス、スピノザ、モンテスキュー、ルソーも、ギリシアのアテネで確立し近代資本主義それ自体が「くじ引き的」に不安定化するまでは重宝されたこの方式に注目していました。
現代ではようやく柄谷行人がくじ引きを再発見しましたが()、日本でも始まる裁判員制度の実施に伴い、参加者の自覚を促す効用のあるこの方式は今後再評価されるべきでしょう。


以下前出書より

総督の選出は最初は市民大集会に委ねられていたが、後に限られた人数の選挙人で行うようになった。選挙の仕組みは徐々に整えられ、1268年の法で明確に規定された。不正を防止するために、抽選と投票を交互に繰り返して総督選挙会議のメンバーとなる41人を指名したのである。まず、「バッロッティーノ(抽選係)」と呼ばれる少年が球を無作為に選んで、大評議会の30歳以上の議員に一つずつ手渡した。金色の球を受け取った30人は、抽選により9人にまで減らされ、この9人が40人の議員を推薦した。この時、9人は投票で40人を選んだが、7票以上を獲得しないと選出が承認されなかった。その後、抽選を行って40人を12人に減らし、この12人が新たに25人の選挙人を選んだ。再び抽選でこれを9人に減らし、この9人が投票で45人を選んだが、抽選でもうー度11人に減らした。この11人が総督の選挙人の選挙人となり、総督選挙会議の41人のメンバーを選出したのである。そして、最後に選ばれた41人が最終的に総督候補者を指名した。候補者の数だけ用意された投票箱に、深紅色の球を入れて投票するという方法をとった。この投票で25票以上を獲得した者が総督に選ばれた。

下:選挙の複雑な仕組みを象徴的に図解した版画。


下:1709年の選挙で使用された投票用紙。この時はジョヴァンニ・コルネールが総督に選出されている。


下:選挙の仕組みを解説した印刷物。参考:http://digilander.libero.it/venexian/ita/elezioni.htm 左記サイトgoogle翻訳




「大評議会の間」の見取り図と投票の様子。↓



最終投票で球を数える際に使用した木製の手。↓




「バッロッティーノ(抽選係)」と呼ばれる少年の絵。↓




補記(2011/12/14):

先日のヴェネツィア展にも組合(スクオーラ,Scuola)の民主的運営に使った投票用(抽籤にも使用した?)の壷が出展されていたようだが、以下のサイトなどを見るとヴェネツィアでは国家運営だけではなく同業者組合の運営にまでくじ引き(むろん投票も)が浸透していたことがわかる。
(一緒に展示されたカルパッチョの絵にはタルコフスキーが指摘するように民主主義〜それは複数の視線の交差で表現される〜が内在している。)
Scuola Grande di San Rocco
http://www.scuolagrandesanrocco.it/it/gallery.html?start=135



Ambito Veneto, Urna per l'estrazione della "Bala d'oro"
Sec. XIX
Genere: Tesoro
Collocazione: Scuola Grande



Ambito Veneto, Urna per ballottazione (votazione a "bossoli" e "ballotte")
Sec. XVIII, legno dipinto,33x25 - 14
Genere: Tesoro
Collocazione: Scuola Grande



Ambito Veneto, Urna per votazioni
Sec. XVI, alt. 25,5 larg. 31 - larg. piede 15
Genere: Tesoro
Collocazione: Scuola Grande

なお、投票及び抽籤用の球にはヴェネツィアンビーズが使われていたのではないかと推察するが、確証はない。


追加資料:

以下、『図説古代ギリシア』(東京書籍2004)より





参考:
サウル、サムエル前書より:口語訳聖書(旧約)
http://nam-students.blogspot.jp/2015/12/blog-post_6.html
口語訳聖書 - サムエル記上
http://bible.salterrae.net/kougo/html/1samuel.html
サウル、イスラエル最初の王はくじ引きで決まった。
(というよりも正確には預言で決まっていて、民を納得させるために(サムエルが)くじ引きを使った。)

おみくじのルーツ:元三大師百籤(がんざんだいしひゃくせん)

77 Comments:

Blogger yoji said...

「ドゥカーレ宮殿」では、独特の政治システムが作られていた。
宮殿の中に広さ1300平方mの部屋がある。ここに1000人以上の商人が集まった。ベネチアは王や君主をいただいたことは一度もない。一貫性として商人たちによる共和制をとっていた。壁には歴代の総督たちの肖像が飾られている。総督は、商人たちの間から、選挙で選ばれた。選挙では談合や陰謀を排除するための仕組みが作られた。まず1000人以上の貴族の中から抽選で30人選び、再度抽選し9人とし、その9人が投票して40人を選出し、ということを10段階繰り返して、最後に一人の総督を選び出す。「抽選」という偶然の要素を組み込んで、選挙の意図的な操作を不可能にした。例え総督に選ばれても、守るべき規則は100項目以上もあった。…
[テレビ番組「世界遺産への招待状 スペシャル版 ベネチア」]

http://labellavitaet.blog40.fc2.com/blog-entry-1447.html


http://kixsfo.fc2web.com/europe/IT4.html


テレビ番組「世界遺産への招待状 スペシャル版 ベネチア」

 2010年11月20日放送。

5:44 午前  
Blogger yoji said...

1月4日放送 15:15 - 15:45 NHK総合
世界遺産への招待状



Special Travel イタリア 決定版!ベネチア

イタリアの世界文化遺産で、水の都とも呼ばれているベネチア。ベネチアの地理やその出来方と歴史を、現地の本屋を営んでいるその他一般人が教えた。

世界に誇るベネチアの歴史ある数々の建物。その中の1つ、ドゥカーレ宮殿の内部と当時に中で行われていた政治のシステムの内容に密着。

ベネチアの伝統工芸品、ベネチアングラスの歴史を職人のその他一般人が語った。


陸のベネチアで、同じく世界文化遺産に登録されているパッラーディオ様式のヴィラ群。その中のヴィラと呼ばれる家の1つを所有している、日本通のその他一般人が家の内部や、現地で行われている農業について語ってくれた。

6:08 午前  
Blogger yoji said...

2011年1月4日放送 15:15 - 15:45 NHK総合



世界遺産への招待状


Special Travel イタリア 決定版!ベネチア

6:09 午前  
Blogger yoji said...

http://www.la-gatta.com/venetian/history.html

ヴェネツィアのくじ引きで使った球はビーズではないだろうか?

11:17 午後  
Blogger yoji said...

大正八年、この品川御殿山の応挙館にて、「絵巻切断事件」がおこる。
国宝「佐竹本 三十六歌仙」(鎌倉期:現存する最古の歌仙図)の絵巻物が佐竹家より売りに出され、あまりの高値に一人で購入出来ないため、絵巻物を切断して一枚一枚切り売りにされることになった。
絵巻物の処遇について相談を受けた鈍翁さんは、これを一人で購入できる者はいないため、切断を決意したという。文化財保護法がない時代とはいえ、益田鈍翁の威光がなければ、世間を納得させることなど出来ない決断だったそうだ。

切断というと刺激的な言葉だが、巻物は1枚1枚描かれた絵を張り合わせて巻物にしていくので、実際は、「剥がされ」て一枚一枚ばらばらにされていた。
切断された絵巻物は、最も高価なものは当然色鮮やかな女流歌仙で、斎宮女御、伊勢、小野小町である。誰もが高価であっても、当然女流歌仙図を欲しがり、購入はくじ引きとなった。

応挙館にて、青竹を切って作られた抽選の筒に、真鍮の棒が入れられ、抽選が行われた。みんな、緊張のあまりなかなか息が揃わなかったそうだ。

http://shingetsu-koro.whitesnow.jp/puzzle.html

9:14 午前  
Blogger yoji said...

NHK出版 秘宝三十六歌仙の流転
に抽籤に使われた抽籤棒の写真がある

9:27 午前  
Blogger yoji said...

http://www.anotherpanacea.com/2011/08/democracy-means-asking-the-right-questions/
“[T]he rule of the multitude [plêthos de archon] has… the loveliest name of all, equality [isonomiên]…. It determines offices by lot, and holds power accountable, and conducts all deliberating publicly. Therefore I give my opinion that we make an end of monarchy and exalt the multitude, for all things are possible for the majority.” (Herodotus 1982, 3.80)

Here Otanes identifies democracy with the strict equality accomplished through lots, rather than election by popular balloting. Though this might seem too random when compared to the collective choice of representatives, the appeal of this vision of isonomy is that the lottery supplies an equal opportunity for rulership to each citizen, guaranteeing equality well in excess of the American ideal of equality ‘before the law.’ But note that this equality is only possible when combined with two forms of accountability: that accounting by which an officer must give an accurate tally of expenditures during the administration or be held liable, and the figurative accountability by which the officer owes his fellow citizens his reasons for the decisions made in the public deliberations before, during, and after the decision is taken. Obviously, the use of lots only functioned insofar as citizenship was radically restricted, and Otanes justifications for the ‘rule of the multitude’ fell flat against Darius’ account of the tendency of all regimes to fall into monarchy insofar as both oligarchies and democracies produce agonistic tensions from which one man eventually emerges the victor and is designated the most excellent and the wisest of the contenders. (Herodotus 1982, 3.82)

2:44 午前
yoji さんは書きました...

http://plaza.rakuten.co.jp/sebook/diary/200706050000/
 第3巻は、エジプト遠征の成功に気を良くしたカンビュセスは、

 次にエチオピアに遠征します。

 このエチオピア遠征・・カンビュセス軍は砂漠に苦しめられます。

 結果は、史上最悪の行軍とも言われる「カンビュセスの籤(くじ)」の話となります。

 「・・兵士たちは地上に草の生えている限りは、これを食って生き延びたが、

  いよいよ砂漠地帯に入ると、彼らの内で戦慄すべき行為に出るものが現れた。

  十人一組で籤をひき、籤に当たった者を一人ずつ食ったのである。」

2:48 午前  
Blogger yoji said...


http://plaza.rakuten.co.jp/artaxerxes/6000/

 結局7人の貴族のうち、4人までがダレイオスの意見に賛成したので、辞退したオタネスを除く6人のうちから大王が抽籤で選ばれることになり、結局ダレイオスが選ばれた。ダレイオス1世(在位前522~486年)である。ダレイオスは内政を整えるとともに、北方のスキュティア(ウクライナ)やギリシアに対する遠征も行い(どちらも失敗に終わったが)、国威を発揚した。彼はあちこちの碑文に書きつけた。
「偉大なる神アフラマズダの御意により余は王である」

 実際はこの「民主主義論争」は作り話ではないかという説もある。実際はダレイオス(ペルシア名ダーラヤワウ。ダレイオスというのはギリシャ語訛り)自身が簒奪者であり、オタネス(ウタナ)やメガビュゾス(バガブクサ)といった有力貴族の支持を得て、正当な後継者スメルディス(ペルシア名バルディヤ)を倒して王位に就いたと考えられるからである。バルディヤが偽者であったというのはダーラヤワウの言いがかりに過ぎず、実際、バルディヤの即位後は平穏だったのに対し、ダーラヤワウの即位後には、帝国各地で叛乱が起き、彼はその鎮圧に数年を要しているからである。
 ともあれ、「民主主義の時代」に生きる我々は、ダレイオスの主張をはね返すことが出来るだろうか。もっとも、北朝鮮みたいな、オタネスの主張がもろに当てはまる国は現代にもたくさんあるが。

4:37 午前  
Blogger yoji said...

ヘロドトスが伝えるペルシアのオタネスの言葉では、イソノミアの特徴に真っ先に抽籤が挙げら
れている。

「… 独裁者というものは父祖伝来の風習を破壊し、女を犯し、裁きを経ずして人命を奪うことだ。
それに対して大衆による統治は先ず第一に、万民同権(イソノミア――イソス「平等」原理にも
とづく政治)という世にも美わしい名目を具えており、第二には独裁者の行なうようなことは一
切行なわぬということがある。職務の管掌は抽籤により、役人は責任をもって職務に当り、あら
ゆる国策は公論によって決せられる。されば私としては、独裁制を断念して大衆の主権を確立す
べしとの意見をここに提出する。万事は多数者にかかっているからだ」
岩波文庫『歴史』上(3:80)339頁

4:38 午前  
Blogger yoji said...


http://tengaku2.blogspot.jp/2011/12/blog-post_18.html?m=1
メガビュゾスが右のような意見を述べると、三番目にダレイオスが自説を披瀝して次のようにいった。
「私はメガビュゾスが大衆についていわれたことはもっともと思うが、寡頭政治についての発言は正しくないと思う。すなわちここに提示された三つの体制――民主制、寡頭制、独裁制がそれぞれその最善の姿にあると仮定した場合、私は最後のものが他の二者よりも遥かに優れていると断言する。最も優れたただ一人の人物による統治よりもすぐれた体制が出現するとは考えられぬからで、そのような人物ならば、その卓抜な識見を発揮して民衆を見事に治めるであろうし、また敵に対する謀略にしても、このような体制下でもっともよくその秘密が保持されるであろう。しかし、寡頭制にあっては、公益のために功績を挙げんと努める幾人もの人間の間に、ともすれば個人的な激しい敵対関係が生じ易い。各人はいずれも自分が首脳者となり、自分の意見を通そうとする結果、互いに激しくいがみ合うこととなり、そこから内紛が生じ、内紛は流血を呼び、流血を経て独裁制に決着する。これによって見ても、独裁制が最善のものであることがよく判る。
一方民主制の場合には、悪のはびこることが避け難い。さて公共のことに悪がはびこる際に、悪人たちの間に生ずるのは敵対関係ではなく、むしろ強固な友愛感で、それもそのはず、国家に悪事を働く者たちは結託してこれを行うからだ。このような事態が起り、結局は何者かが国民の先頭に立って悪人どもの死命を制することになる。その結果はこの男が国民の賛美の的となり、賛美された挙句は独裁者と仰がれることになるのだ。この事例から見ても、独裁制が最高の政体であることが明らかではないか。
これを要するに、一言にしていえば、われわれの自由はそもそもどこから得られたものか、誰が与えてくれたか、ということなのだ。それは民衆からであったか、あるいは寡頭制からであったか、それとも独裁制からであったのか。されば私の抱く見解は、われわれは唯一人の人物によって自由の身にして貰ったのであるゆえに、あくまでこの体制を堅持することと、それは別としてもこの結構な父祖伝来の風習を破棄するようなことがあってはならぬということである。そのようなことをして良いわけがないからだ。」

4:40 午前  
Blogger yoji said...

II ポリス・抽籤・民主政
― 西欧政治思想史における「共和主義」理解をめぐって―
安 武 真 隆
http://www.kansai-u.ac.jp/Keiseiken/books/sousho147/147_02.pdf#search='Herman+Hansen+Mogens+アテネ'


したがって、アリストテレスは、現に認識できる多様な国制のあり方を観察 し、そのなかから相対的に評価できるものを抽出した上で比較検討し、具体的 な文脈におけるその実現可能性を探るという方法を採用する11)。その限りで、 唯一の理想的な統治形態を追求したプラトンとは対照的に、アリストテレスの 姿勢は現実的・複眼的である。彼は、さまざまな国制のあり方を比較検討した 上で、共通の利益を目指しているか否か、そして支配者の数(一人、複数、少 数)に応じて、それらをさしあたり六つに分類している。以下、『政治学』第
3 巻第 7 章の記述に従い、それを図で示しておこう。
公共の利益を目指す
支配者の利益を目指す
単独支配
王政
僭主政
少数支配
貴族政
寡頭政
多数支配
「国制」
民主政
ここで興味深いのは、現代の用法では正しい統治形態とされる「民主政」を、 アリストテレスが「貧困者の利益」のためにある逸脱形態に位置づけているこ とである。彼によれば、「民主政」では貧者も富裕者も平等に扱われるが、そ の極限状態では、「法の支配」が消滅し、民会決議のみがあらゆる決定権を持 つようになる。こうなるとプラトンが懸念したように、民衆扇動者が現れ、



抽籤という制度について、ソクラテスが、船長、大工頭、笛吹きの選抜に籤 を使わないことを根拠に、この制度を揶揄したことは有名である14)。そして、 抽籤制度に対する信頼感のなさ、という点で、我々はソクラテスと同じ地平に ある。しかし、アリストテレスの定式を持ち出せば、今日の我々がアテナイの 政治を「直接民主政」と形容する際に中心的な機関として想定する「民会」の 存在以上に、抽籤制度の使用が「民主政」であるかどうかの指標として重要で あったことが浮上する。実際、アテナイの運営において、民会は限定的な役割 を果たしたに過ぎず、むしろ抽籤によって担当者を決定していた評議会、民衆 裁判所、立法者評議会という民会とは区別される三機関が、第一級の政治的役 割を果たしていた15)。さらに、アテナイにおける制度的実践をつぶさに検討す るならば、ソクラテスの批判を封じるような、抽籤制度の運用が一定の合理性
(45)

を備えていたことが明らかとなるのである。
マナンは、ハンセンの研究に依拠しながら(Hansen 1991)、抽籤がアテナ イで機能した条件を以下の 5 点に要約している。第一に、抽籤母体は事前に立 候補したものに限定されるため、自信のない者は立候補しないことによって抽 籤の対象から排除される。第二に、Dokimasia と呼ばれる形式的な資格審査が 事前に行われ、両親に対する態度、税・軍事上の義務の履行の有無が確認され る。第三に、抽籤によって決定された役職の任期は、概して一年に限定され、 連続しての再任はない場合もあった。第四に、退任後の会計報告、民会と裁判 所による監督が課せられる上、第五に、在任中も、市民であれば誰でも告発・ 停職・懲罰要求ができ、その役人に問題があれば処罰される危険性が伴った(無 罪であれば、復職)のである。
このように、アテナイの実践においては、役職者の選出にあたって、無能・ 無責任な市民が担当しないよう、自ら進んで立候補した者の中から抽籤され、 公職者弾劾制度によって、その在任中・後、他の市民からの告発・停職・懲罰 要求を受ける可能性があり、退任後の会計報告も義務づけられていた。職務の 複雑さ・専門性(あるいは規模)が一定の範囲に収まっていたという条件を看 過するわけにはいかないが、抽籤制度が一定の資格審査や、役職上の説明責任 とセットで使用されることにより、役職者による不正も、さらにソクラテスが 懸念する無能力者による役職の占有という危険性も、ある程度是正されていた ことが推測されるのである16)。


12)ちなみにアリストテレスによれば、このような混合に基づく「中間的な国制」はめった に生じなかったという。なぜならば、当時のギリシア世界の覇権を争ったアテナイとスパ ルタはともに、一方は「民主政」、他方は「寡頭政」という自国の国制を手本にし、それ を他の国に押し付けたからである( 4 ─11)。
13)このことは、アリストテレスにおけるzoon politikon概念が「中庸」概念とどう整合する のか、という解釈上の難点を残すことにもなる。なお参照、関口 2007, 22─23。

14)クセノフォン、I . 2. 9. 15)

特に、民衆裁判所は一定の政治権力、とりわけ民会の決定を覆すことのできる権能を持
(60)
成果である。なお参照、橋場 1993, 1997。
16)同様の制度設計が窺えるのが、民衆裁判所の裁判官や公共事業を監督する監督官の任用 に抽籤制度が用いられていたことである。(Manin 1995).

9:21 午前  
Blogger yoji said...

Kansai University Repository: Ⅱ ポリス・抽籤・民主政 ― 西欧政治思想 ...
タイトル: Ⅱ ポリス・抽籤・民主政 ― 西欧政治思想史における「共和主義」理解 をめぐって―. その他のタイトル: Ⅱ Polis, Lot, and Democracy: an Interpretation of“ Republicanism”. 著者: 安武, 真隆. 発行日: 2008年3月31日. 出版者: 関西大学経済・ 政治 ...
kuir.jm.kansai-u.ac.jp/dspace/handle/10112/594
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第Ⅱ章 安武真隆 ポリス・抽籤・民主政─西欧政治思想史における「共. 和主義」理解 をめぐって─. 本章は、ビジネス・エシックス研究に見られる法学・政治学の語彙からの 類. 推に注目し、その源泉たる政治思想に立ち返り、企業の社会的責任を扱う際に ...
www.kansai-u.ac.jp/Keiseiken/books/sousho147/147_00.pdf
JAIRO | Ⅱ ポリス・抽籤・民主政 ― 西欧政治思想史における「共和主義 ...
Ⅱ ポリス・抽籤・民主政 ― 西欧政治思想史における「共和主義」理解をめぐって―Ⅱ ポリス・抽籤・民主政 ― 西欧政治思想史における「共和主義」理解をめぐって―. Ⅱ Polis, Lot, and Democracy: an Interpretation of“ Republicanism”. "/安武, 真隆/" 安武, ...
jairo.nii.ac.jp/0161/00000340/en
PDF - KAKEN - 科学研究費助成事業データベース (Adobe PDF)
安武真隆「ポリス・抽籤・民主政:西欧. 政治思想史における『共和主義』理解をめぐ. って 」ビジネス・エシックス研究班編『ビジ. ネス・エシックスの新展開』関西大学経済政. 治 研究所,2008 年,37-67 頁。 9.石橋章市朗「観光振興の政策過程―宮崎. 県における ...

9:25 午前  
Blogger yoji said...

あ み だ く じ
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マ カ メ ア カ
ル ラ シ サ ン
ク タ ア ダ ト
ス ニ 

 下のフォームに必要事項を記入するだけで簡単にあみだくじが出来ます。
上のあみだくじがきちんと表示されないときは、フォントの設定を変更してみてください。
(窓)http://www2u.biglobe.ne.jp/~hannya/donzoko/amida94/amida94.cgi
19 11/11(月)03:39 P↓
(窓)http://www2u.biglobe.ne.jp/~hannya/donzoko/amida94/index.html

6:20 午後  
Blogger yoji said...


http://www.geocities.jp/kiyijp/08.html
以下、『NAM原理』より

 官僚制の弊害は、権力の固定化にある。しかし官僚制や中央権力をたんに一般的に
否定するのではなく、その弊害を避けるためにはどうすればよいかを考えるべきである。
くじ引き制の導入こそ、その解である。具体的にいえば、無記名選挙によって選んだ
複数の候補者の中からくじ引きで代表を選ぶというシステムである。これは、権力が
集中する場に偶然性を導入することであり、それによってその固定化を阻止するもの
である。したがって無記名投票による普通選挙、つまり議会制民主主義がブルジョワ
的な独裁であるとすれば、くじ引きこそプロレタリアート独裁だ、というべきである  P64

5:05 午前  
Blogger yoji said...



柄谷行人『哲学の起源』(岩波書店)

カール・ポパーは『開かれた社会とその敵』において、イソノミアという概念を使っている。彼によれば、イソノミアは次の三つの原理にある。(1)出生、血縁、富などの自然的特権を認めない、(2)個人主義的である、(3)市民の自由を保護することが国家の任務であり目的である。

12:40 午前  
Blogger yoji said...

ヘロドトス『歴史 中』(松平千秋訳、岩波文庫)
 オタネスがペルシアの七長老を前にして、ペルシアは民主制を採用
すべきであると意見を述べたという話を信じようとしないギリシア人に
とっては、世にも不可思議なとしか思えぬようなことが起こったので、
それをここにお話ししよう。つまりこの時マルドニオスは、イオニアの
独裁者をことごとく排除して、各都市に民主制を敷かせたのである

6:43
中222頁

9:41 午前  
Blogger yoji said...

暴力の規模が小さければ「テロリスト」と呼ばれ、
暴力の規模がすさまじく、巨大で継続的なものが「アメリカ」である。

古代のキリスト教思想家アウグスティヌスが取り上げている、
アレキサンダー大王と海賊の会話のエピソードを想起してほしい。

あるとき、アレキサンダー大王は、海賊を捕らえた。

大王が海賊に、海を荒らすのは、どういうつもりか」と問うたとき、海賊はすこしも臆すところなく、「陛下が全世界を荒らすのと同じです。ただ、わたしは小さい舟でするので盗賊とよばれ、陛下は大艦隊でなさるので、皇帝とよばれるだけです」と答えたのである。(アウグスティヌス『神の国』第1巻、272頁、岩波文庫)


http://jiyuu-gennsou.at.webry.info/200805/article_6.html

10:19 午前  
Blogger yoji said...

ピケティ推奨のランシエールは近代的自意識にとらわれくじ引きに否定的


民主主義への憎悪
著者名等  ジャック・ランシエール/〔著〕  ≪再検索≫
著者名等  松葉祥一/訳  ≪再検索≫
著者等紹介 【ランシエール】1940年アルジェ生まれ。パリ第8大学名誉教授。哲学、美学。
著者等紹介 【松葉】1955年生まれ。現在、神戸市看護大学教授。哲学、倫理学。
出版者   インスクリプト
出版年   2008.7
大きさ等  20cm 241p
注記    La haine de la de´mocratie./の翻訳
NDC分類 311.7
件名    民主主義  ≪再検索≫
要旨    不平等の拡大を条件の平等にすり替え、社会問題を脱政治化する新たな支配のイデオロギ
ーを撃ち、資本=国家に抗する政治を露出させるランシエール政治哲学のアクチュアルな
展開。
目次    勝利した民主主義から犯罪的な民主主義へ;政治あるいは失われた牧人;民主制、共和制
、代表制;憎悪の理由;講演 デモクラシー、不合意、コミュニケーション;訳者解説 
デモクラシーとは何か
内容    不平等の拡大を条件の平等にすり替え、社会問題を脱政治化する新たな支配のイデオロギ
ーを撃ち、資本=国家に抗する政治を露出させる。ランシエール政治哲学のアクチュアル
な展開。

5:51 午前  
Blogger yoji said...

プルードンもくじ引きに否定的だったから一概に言えないが

5:52 午前  
Blogger yoji said...

20150414
得票同数…熊本市議選、決着は“くじ引き” 日本テレビ系
http://headlines.yahoo.co.jp/videonews/nnn?a=20150414-00000047-nnn-pol
《公職選挙法に基づくくじ引き…数字が書かれた10本の棒が容器に入れられ、少ない数字を引いた方が当選になる。その結果、少ない数字を引いた民主党現職の田辺正信さんが当選となった。》

3:28 午前  
Blogger yoji said...

熊本市議選、得票同数で最後の1議席を「くじ引き」 TBS系 http://headlines.yahoo.co.jp/videonews/jnn?a=20150414-00000050-jnn-pol
《10本の棒の先にそれぞれ1から10の番号がついています。2人の候補者が1本ずつ引いて、若い番号の候補者が当選となります。…公職選挙法第95条第2項の規定により…》

3:40 午前  
Blogger yoji said...


http://nam-students.blogspot.jp/2011/12/blog-post_06.html
くじ引きの利点
誰でも代表を引き受けられる能力を持つべきだという統整的理念の普及。
決選投票という心理的軋轢を避けられる。
決定の恣意性の自覚(首相公選制ようなポピュリズムの回避)。
参加者がひとつの時間と場所を共有できる。

3:46 午前  
Blogger yoji said...

【国際】カナダ議員、コイン投げ制し再選 同数得票で プリンスエドワードアイランド州©2ch.net
1 :brown_cat ★ 転載ダメ©2ch.net:2015/05/21(木) 17:20:52.30 ID:???*
カナダ議員、コイン投げ制し再選 同数得票で
2015年05月21日 16:47 発信地:モントリオール/カナダ

【5月21日 AFP】カナダのプリンスエドワードアイランド(Prince Edward Island)州で実施された選挙で、2人の候補者の得票数が
同数であることが分かり、コインを投げて当選者が決められた。地元メディアが20日、報じた。

 今月4日に同州で行われた選挙では、集計の結果、プリンスエドワードアイランド自由党(Prince Edward Island Liberal Party)の
現職議員が、カナダ保守党(Conservative Party of Canada)の候補者に2票差で勝利していた。だが裁判所が19日に再集計を
行ったところ、1票が誤って数えられていたことが判明、両者の得票数が実際には1173票と同数であったことが分かった。

 州の選挙法では、得票数が同数の場合はコイン投げで当選者を決めることになっている。コインの表か裏かは、候補者の名字の
アルファベット順で割り当てられる。

 地元日刊紙シャーロットタウン・ガーディアン(Charlottetown Guardian)によれば、コインの裏を割り当てられた現職のアラン・
マクアイザック(Alan McIsaac)氏は、コイン投げの結果、対立候補のメアリー・エレン・マクイニス(Mary Ellen McInnis)氏に
勝利したことが告げられた後、震えながら法廷から現れたという。

「私が今回得た教訓は、1票、1票に重みがあるということだ。みんなにそのことを分かってもらいたい」と、マクアイザック氏は同紙に
コメントしている。(c)AFP

http://www.afpbb.com/articles/-/3049407

1:40 午前  
Blogger yoji said...

文語訳舊約聖書 - サムエル前書
http://bible.salterrae.net/meiji/html/1samuel.html
10:17サムエル民をミヅパにてヱホバのまへに集め 10:18イスラエルの子孫にいひけるはイスラエルの神ヱホバ斯くいひたまふ我イスラエルをみちびきてエジプトより出し汝らをエジプト人の手および凡て汝らを虐遇る國人の手より救ひいだせり 10:19然るに汝らおのれを患難と難苦のうちより救ひいだしたる汝らの神を棄て且否われらに王をたてよといへり是故にいま汝等の支派と群にしたがひてヱホバのまへに出よ 10:20サムエル、イスラエルの諸の支派を呼よせし時ベニヤミンの支派籤にあたりぬ 10:21またベニヤミンの支派を其族のかずにしたがひて呼よせしときマテリの族籤にあたりキシの子サウル籤にあたれり人々かれを尋ねしかども見出ざれば 10:22またヱホバに其人は此に來るや否やを問しにヱホバ答たまはく視よ彼は行李のあひだにかくると 10:23人々はせゆきて彼を其處よりつれきたれり彼民の中にたつに肩より以上民の何の人よりも高かりき 10:24サムエル民にいひけるは汝らヱホバの擇みたまひし人を見るか民のうちに是人の如き者とし民みなよばはりいひけるは願くは王いのちながかれ 10:25時にサムエル王國の典章を民にしめして之を書にしるし之をヱホバのまへに蔵めたりしかしてサムエル民をことごとく其家にかへらしむ10:26サウルもまたギベアの家にかへるに神に心を感ぜられたる勇士等これとともにゆけり 10:27然れども邪なる人々は彼人いかで我らを救はんやといひて之を蔑視り之に禮物をおくらざりしかどサウルは唖のごとくせり


口語訳聖書 - サムエル記上
http://bible.salterrae.net/kougo/html/1samuel.html

10:17さて、サムエルは民をミヅパで主の前に集め、 10:18イスラエルの人々に言った、「イスラエルの神、主はこう仰せられる、『わたしはイスラエルをエジプトから導き出し、あなたがたをエジプトびとの手、およびすべてあなたがたをしえたげる王国の手から救い出した』。 10:19しかしあなたがたは、きょう、あなたがたをその悩みと苦しみの中から救われるあなたがたの神を捨て、その上、『いいえ、われわれの上に王を立てよ』と言う。それゆえ今、あなたがたは、部族にしたがい、また氏族にしたがって、主の前に出なさい」。
10:20こうしてサムエルがイスラエルのすべての部族を呼び寄せた時、ベニヤミンの部族が、くじに当った。 10:21またベニヤミンの部族をその氏族にしたがって呼び寄せた時、マテリの氏族が、くじに当り、マテリの氏族を人ごとに呼び寄せた時、キシの子サウルが、くじに当った。しかし人々が彼を捜した時、見つからなかった。 10:22そこでまた主に「その人はここにきているのですか」と問うと、主は言われた、「彼は荷物の間に隠れている」。 10:23人々は走って行って、彼をそこから連れてきた。彼は民の中に立ったが、肩から上は、民のどの人よりも高かった。 10:24サムエルはすべての民に言った、「主が選ばれた人をごらんなさい。民のうちに彼のような人はないではありませんか」。民はみな「王万歳」と叫んだ。
10:25その時サムエルは王国のならわしを民に語り、それを書にしるして、主の前におさめた。こうしてサムエルはすべての民をそれぞれ家に帰らせた。 10:26サウルもまたギベアにある彼の家に帰った。そして神にその心を動かされた勇士たちも彼と共に行った。 10:27しかし、よこしまな人々は「この男がどうしてわれわれを救うことができよう」と言って、彼を軽んじ、贈り物をしなかった。しかしサウルは黙っていた。

サウル、イスラエル最初の王はくじ引きで決まった


4:23 午後  
Blogger yoji said...

アリストテレス『アテナイ人の国制』(岩波文庫)を読むとポータブルな抽選器もあったらしい。
どちらが先かは分からない。
戦場で貧乏籤をひかされるケースもあったろうし、遊動性が平等性と切り離せないのは確かだろう。
遊動性は幸か不幸か資産格差を不可能にする。
アリストテレスは法による支配を重視し、イソノミアという言葉を使わない。
ヘロドトスからは乖離がある。
イオニアが植民都市であることが重要で移動を宿命づけられているのだ。戦争で負ける場合もあるし、
商業に従事するケースもある。

9:53 午前  
Blogger yoji said...

柄谷哲学の起源はくじ引きに言及しない
資料がないのだ

9:54 午前  
Blogger yoji said...

サウルは背が高かったから王に選ばれたという解釈もある


サウル(Saul)は、旧約聖書『サムエル記』に登場する、紀元前10世紀頃のイスラエル王国の最初の王。

目次
生涯 編集


サルヴァトル・ローザ『エン・ドルの口寄せの家でサウルに現れるサムエルの霊』1668年 ルーブル美術館
サムエルが士師としてイスラエルを指導していたころ、民の中から王を求める声が強くなった。サムエルは王政のデメリットを説明するが、民が聞き入れなかったので神の指示によって王になるべき男を捜す。

サウルはベニヤミン族の出身で、父はキシュ、背が高く美しい若者であった。ロバを探しに出てサムエルに会い、サムエルは彼が神が選んだ人であることを悟って油を注ぐ[1]。サウルの選びに関してはこれ以外にも「背が誰よりも高かったため選ばれた」[2]ことや、「アンモン人の来襲時、霊が下って先頭にたって出陣したことから選ばれた」[3]など異なる由来を持つ複数の伝承が並行して記述されている。

サウルは息子ヨナタンや家臣たちと共にイスラエルを率いて、ペリシテ人や周辺民族と勇敢に戦った。しかしアマレク人との戦いで「アマレク人とその属するものを一切滅ぼせ」という神の命令に従わなかったため、神の心は彼から離れた[4]。神の声を伝えていたサムエルもこれ以降サウルに会うことはなかった。

サムエルはサウルをあきらめ、神の言葉によってひそかにエッサイの子ダビデに油を注いだ。ダビデはペリシテの勇者ゴリアテを討って有名になり、竪琴の名手としてサウルに仕えたが、サウルはダビデの人気をねたんで命を狙った。ダビデは逃れ、何度もサウルを殺害するチャンスを得たが、「神の選んだ人に手をかけられない」といってサウルに手を触れなかった。

ダビデの立琴によってサウルから悪霊が出て行った、第一サムエル16章の聖書記事は初期の音楽療法とみなされている。

サウルはペリシテ軍との戦いの中で、ギルボア山で息子たちと共に追い詰められ、剣の上に身を投げて死んだ[5]。また「重傷だったサウルに頼まれて家臣がとどめをさした」との異なる伝承もある[6]。

サウルとヨナタンの遺骨は、次の王となったダビデによって、ベニヤミンの地ツェラの父の墓に葬られた。

サウル王の四男のイシュ・ボシェテがただ一人生き残り、将軍アブネルに支持されて、マハナイムでサウル王朝第2代目の王になった。イシュ・ボシェテが暗殺されるとサウル王朝は滅亡して、ダビデ王朝が始まった。[7]

家族 編集

サウルの家族については『サムエル記』上14:49-51、サムエル記下21:7-14参照。

妻:アヒマアツの娘アヒノアム、アヤの娘リッパ
息子:ヨナタン、イシュビ、マルキシュア、アルモニ、メフィボシェト
娘:ミラブ、ミカル
従兄弟:アブネル(サウルの軍司令官)
脚注 編集

^ 『サムエル記』上9-10
^ 『サムエル記』上10:17-27
^ 『サムエル記』上11:1-14
^ 『サムエル記』上15:1-34
^ 『サムエル記』上31:1-6
^ 『サムエル記』下1:1-11
^ 「新聖書辞典」114ページ
関連項目 編集

サムエル
ダビデ

9:57 午前  
Blogger yoji said...

遊動性は幸か不幸か資産格差を不可能にする。
アリストテレス『アテナイ人の国制』(岩波文庫)を読むとポータブルな抽選器もあったらしい。
どちらが先かは分からない。

基本はアフリカからの移動で平等性を(部族内)システムとして獲得した民族が生き延びた


ユダヤの最初の王サウルもくじ引きで決まった
その後の遊動性を準備するものと言える

10:15 午前  
Blogger yoji said...

カントは思考内で移動したということか

10:15 午前  
Blogger yoji said...

遊動性は幸か不幸か資産格差を不可能にする。
アリストテレス『アテナイ人の国制』(岩波文庫)を読むとポータブルな抽選器もあったらしい。
どちらが先かは分からない。

基本はアフリカからの移動で平等性を(部族内)システムとして獲得した民族が生き延びた

植民都市でイソノミアは初めて可能だった


ユダヤの最初の王サウルもくじ引きで決まった
その後の遊動性を準備するものと言える

カントは思考内で移動したということか

10:16 午前  
Blogger yoji said...

定住以前の狩猟採集社会には、共同寄託はあるが互酬的交換はなかったと考えるべきである。

遊動論

10:38 午前  
Blogger yoji said...

評価(評価: 90%)評価:90%-111件のレビュー
新着. kiyoka t. 【異色作家短編集6】22の短編集。わりと女性目線の一般的な主婦メインのお話が多かった。日常にひそむちょっとした悪意。読み終わった後ぞわぞわする感じ。 この中では、田舎からニューヨークに出てきて戸惑う主人公の心理を描いた、永遠に渡れない交差点の「塩の柱」。歯痛と鎮痛剤の夢うつつの中でだんだんと元の世界に戻れなくなっていく「歯」がよかった。表題作の「くじ」はなんかこわいなあ。ジャクスン らしい狂気、群集心理の残酷さがひたひたと迫ってくる。なんだか内田百間の「件」を思い出した。
後味最悪。『くじ』 | ひなた日和
ameblo.jp/otoko-bana/entry-10908468007.html
小説です。 作者はシャーリイ・ジャクスン。 米国の、1916年生まれの女流作家です。 映画化作品は2枚目の写真『たたり』。 原題は『山荘綺談』(The Haunting of Hill House)で、オリジナル映画版のタイトルは『たたり』。後にリメイクされたのが『ホーンティング』。 いわく因縁のある山荘に調査にやって来たゴーストハンター達を襲う、地味に怖い怪奇現象の物語です。 ( ̄- ̄)v- 屋敷に幽霊がいるのか、調査チームに混じってた女性が勝手に破滅したのか分からんという、実に後味の悪い名作でした。
くじ - AAA!Cafe
f59.aaacafe.ne.jp/~walkinon/kuji.html
ここではシャーリー・ジャクスンの『くじ』の翻訳を掲載しています。 邦訳は『異色作家短編集12 シャーリー・ジャクスン くじ』として深町真理子訳で早川書房より出ています。 原文は http://www.acsu.buffalo.edu/~rrojas/The%20Lottery.htm で読めます。 誤訳などにお気づきの方は、ぜひご一報ください。
怖い話します | 『くじ』を読む
scoby.blog.fc2.com/blog-entry-890.html
今回は怖い話ではないのみならず、ネタバレですので、 この短編を未読の方にはスルーをお勧めします。 最近、英語の復習のために、海外の有名な短編作品で著作権が切れているものを、 ネットで見つけて脳内翻訳するということを、暇を見てやっています。 もともと翻訳で読んでストーリーを知っているので、辞書に頼らずだいたい読めます。 とりあえずは、スタンリイ・エリン『特別料理』 ロアルド・ダール『南から来た男』 そしてシャーリー・ジャクスン『くじ』の3編を読みましたが、 いろいろと新しい発見が ...

3:04 午後  
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New Associationist Movement(NAM)の原理  第二版
2001/07/01
http://nam21.sakura.ne.jp/nams/index.html
われわれはアテネの民主主義から学ぶべきことが一つある。アテネの民主主義は、僭主制を打倒するところから生まれたと同時に、僭主制を二度ともたらさないような周到な工夫によって成立している。アテネの民主主義を特徴づけるのは議会での全員参加などではなく、行政権力の制限である。それは官吏をくじ引きで選ぶこと、さらに、同様にくじ引きで選ばれた陪審員による弾劾裁判所によって徹底的にそれを監視したことである。実際、こうした改革を成し遂げたペリクレス自身が裁判にかけられて失脚している。要するに、アテネの民主主義において、権力の固定化を阻止するためにとられたシステムの核心は、選挙ではなくくじ引きにある。くじ引きは、権力が集中する場に偶然性を導入することであり、そのことによってその固定化を阻止するものだ。それこそが真に三権分立を保証するものである。かくして、もし匿名投票による普通選挙、つまり議会制民主主義がブルジョワ的な独裁の形式であるとするならば、くじ引き制こそプロレタリアート独裁の形式だというべきなのである。アソシエーションは中心をもつが、その中心はくじ引きによって偶然化されている。かくして、中心は在ると同時に無いといってよい。

7:59 午後  
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New Associationist Movement(NAM)の原理  第二版
柄谷行人
2001/07/01
http://nam21.sakura.ne.jp/nams/index.html
われわれはアテネの民主主義から学ぶべきことが一つある。アテネの民主主義は、僭主制を
打倒するところから生まれたと同時に、僭主制を二度ともたらさないような周到な工夫によって
成立している。アテネの民主主義を特徴づけるのは議会での全員参加などではなく、行政権力
の制限である。それは官吏をくじ引きで選ぶこと、さらに、同様にくじ引きで選ばれた陪審員に
よる弾劾裁判所によって徹底的にそれを監視したことである。実際、こうした改革を成し遂げた
ペリクレス自身が裁判にかけられて失脚している。要するに、アテネの民主主義において、
権力の固定化を阻止するためにとられたシステムの核心は、選挙ではなくくじ引きにある。
くじ引きは、権力が集中する場に偶然性を導入することであり、そのことによってその固定化を
阻止するものだ。それこそが真に三権分立を保証するものである。かくして、もし匿名投票に
よる普通選挙、つまり議会制民主主義がブルジョワ的な独裁の形式であるとするならば、
くじ引き制こそプロレタリアート独裁の形式だというべきなのである。アソシエーションは中心
をもつが、その中心はくじ引きによって偶然化されている。かくして、中心は在ると同時に無い
といってよい。

8:03 午後  
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アリストテレス、スピノザ、モンテスキュー、ルソー、が抽選を推奨している
正確には選挙プラス抽選だが
これは決選投票後の心理的軋轢を避けられるし
有能な人材を複数用意するための統整的理念として機能する

4:02 午前  
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1:42 午前  
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1:43 午前  
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アリストテレス、スピノザ、モンテスキュー、ルソー、が抽選を推奨している
正確には選挙プラス抽選だが
これは決選投票後の心理的軋轢を避けられるし
有能な人材を複数用意するための統整的理念として機能する

アリストテレス『アテナイ人の国制』(岩波文庫より)↓抽籤器
https://i.gyazo.com/ea481a506365279b94a2e87ab61770fa.jpg

___
<スピノザ『国家論』畠中尚志訳、岩波文庫p139>
 第八章第二七節

 諸事のとり決めならびに官吏の選任にあたってすべての貴族が同じ力を持つためには、
そしてすべての事務の決裁が迅速であるためには、ヴェニス国の人たちの守った手続きが
最も推薦に値する。彼らは官吏を任命するにあたり会議体から若干名を抽籤で選び、この
人々が順次に選ぶぺき官吏を指名し、続いておのおのの貴族は指名された官吏の選任に
対し賛成あるいは反対の意見を投票用小石によって表明する。…
___

<モンテスキュー『法の精神』井上尭裕訳、中央公論社、世界の名著p379>
 第二篇第二章
 
 籤による投票は民主制の性質をもち、選択による投票は貴族制の性質をもつ。
 抽籤はだれをも苦しめない選び方である。それは、各市民に、祖国に奉仕したいと
いうもっともな希望を残す。

___
<ルソー『社会契約論』井上幸治訳、中公文庫p145-147>
 第四編第三章 選挙について

 執政体と施政者の選出は、さきに述べたように複合的な行為であるが(第三編十七章参照)、
それを行なうには、二つの方法がある。すなわち選挙と抽籤(ちゅうせん)である。
両者ともに、今日まで、多くの共和国で採用されてきており、現在でもなお、
ヴェネツィアの統領の選挙では、この二つがきわめて複雑にまじり合った方法が行なわれている。          
「抽籤による選任が民主政の本質である」とモンテスキューは言っている 。賛成である。

___

柄谷行人
http://nam21.sakura.ne.jp/nams/index.html
アテネの民主主義において、
権力の固定化を阻止するためにとられたシステムの核心は、選挙ではなくくじ引きにある。
くじ引きは、権力が集中する場に偶然性を導入することであり、そのことによってその固定化を
阻止するものだ。それこそが真に三権分立を保証するものである。

1:47 午前  
Blogger yoji said...

482 a[sage] 2018/12/31(月) 18:50:10.66 ID:0
アリストテレス、スピノザ、モンテスキュー、ルソー、が抽選を推奨している
正確には選挙プラス抽選だが
これは決選投票後の心理的軋轢を避けられるし
有能な人材を複数用意するための統整的理念として機能する

アリストテレス『アテナイ人の国制』(岩波文庫より)↓抽籤器
https://i.gyazo.com/ea481a506365279b94a2e87ab61770fa.jpg
___
<スピノザ『国家論』畠中尚志訳、岩波文庫p139>
 第八章第二七節
 諸事のとり決めならびに官吏の選任にあたってすべての貴族が同じ力を持つためには、
そしてすべての事務の決裁が迅速であるためには、ヴェニス国の人たちの守った手続きが
最も推薦に値する。彼らは官吏を任命するにあたり会議体から若干名を抽籤で選び、この
人々が順次に選ぶぺき官吏を指名し、続いておのおのの貴族は指名された官吏の選任に
対し賛成あるいは反対の意見を投票用小石によって表明する。…
___

<モンテスキュー『法の精神』井上尭裕訳、中央公論社、世界の名著p379>
 第二篇第二章 …
 籤による投票は民主制の性質をもち、選択による投票は貴族制の性質をもつ。
 抽籤はだれをも苦しめない選び方である。それは、各市民に、祖国に奉仕したいと
いうもっともな希望を残す。
___
<ルソー『社会契約論』井上幸治訳、中公文庫p145-147>
 第四編第三章 選挙について …
 執政体と施政者の選出は、さきに述べたように複合的な行為であるが(第三編十七章参照)、
それを行なうには、二つの方法がある。すなわち選挙と抽籤(ちゅうせん)である。
両者ともに、今日まで、多くの共和国で採用されてきており、現在でもなお、
ヴェネツィアの統領の選挙では、この二つがきわめて複雑にまじり合った方法が行なわれている。          
「抽籤による選任が民主政の本質である」とモンテスキューは言っている 。賛成である。…

1:51 午前  
Blogger yoji said...

ポセイドンとは - コトバンク
kotobank.jp/word/ポセイドン-133217
兄弟とともに父クロノスに吞み込まれ、吐き出されたのち、ゼウスおよびハデスと世界の支配をくじで分割し、海の支配権を得た。
ハデスとは - コトバンク
kotobank.jp/word/ハデス-115325
... 兄弟のゼウス,ポセイドンとともにティタンたちとの戦いに勝ったあと,くじを引いて世界を分け合い,冥界の支配権を引当てた。
ギリシャ神話をざっくりとまとめてみる - VSクロノス、ティターノマキアー勃発
ncode.syosetu.com/n0820dm/4/
この戦いのあと、ゼウス、ポセイドン、ハーデスの三柱はくじを引き、ゼウスは天空、 ポセイドンは海、ハーデスは冥界の支配権を ...



ギリシャ神話の天海冥のくじは誰が用意したんですか?
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ttt********さん2013/3/815:25:04
ギリシャ神話の天海冥のくじは誰が用意したんですか?
ゼウスとポセイドンとハデスがくじで
自分の領地を決めたというのは知っているんですけど

そんな重要なクジを作ったのが誰なのか
そしてどういう形式のくじなのか知らないなーとおもったので質問しました
おしえてください><

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har********さん 2013/3/816:39:58
面白い(興味ある)質問ですね。テオゴニアには書いていないのですが、
オリュンポス神時代の神や人間の予言や行動はデルフォイの信託により決まりますからそれに従ったと思います。(当時はアポロンは生まれていないので、デルフォイの管理者のテミスの予言でしょうね。信託は必ず成就しますし)

肉体的な争い(スポーツ・・レスリングとか円盤投げ)ではないと思います。

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8:44 午後  
Blogger yoji said...

https://mythology.stackexchange.com/questions/98/how-did-zeus-poseidon-and-hades-decide-who-would-rule-what
17

There is some disagreement on this issue.

According to Theogony, lines 881-885 (emphasis mine):

But when the blessed gods completed their toil and made settlement of honors for the Titans by brute force, they urged wide-seeing Olympian Zeus in accord with the advice of Gaia to be king and lord, and he apportioned provinces to them well.
However, in the Iliad, it says this (emphasis mine again):

[185] “Out upon it, verily strong though he be he hath spoken overweeningly, if in sooth by force and in mine own despite he will restrain me that am of like honour with himself. For three brethren are we, begotten of Cronos, and born of Rhea,—Zeus, and myself, and the third is Hades, that is lord of the dead below. And in three-fold wise are all things divided, and unto each hath been apportioned his own domain. [190] I verily, when the lots were shaken, won for my portion the grey sea to be my habitation for ever, and Hades won the murky darkness, while Zeus won the broad heaven amid the air and the clouds; but the earth and high Olympus remain yet common to us all.
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answered Apr 28 '15 at 22:23

durron597
3,55911753
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15

According to Pseudo-Apollodorus, the three brothers drew lots to decide their dominions:

But when Zeus was full-grown, he took Metis, daughter of Ocean, to help him, and she gave Cronus a drug to swallow, which forced him to disgorge first the stone and then the children whom he had swallowed, and with their aid Zeus waged the war against Cronus and the Titans. They fought for ten years, and Earth prophesied victory to Zeus if he should have as allies those who had been hurled down to Tartarus. So he slew their jailoress Campe, and loosed their bonds. And the Cyclopes then gave Zeus thunder and lightning and a thunderbolt, and on Pluto they bestowed a helmet and on Poseidon a trident. Armed with these weapons the gods overcame the Titans, shut them up in Tartarus, and appointed the Hundred-handers their guards; but they themselves cast lots for the sovereignty, and to Zeus was allotted the dominion of the sky, to Poseidon the dominion of the sea, and to Pluto the dominion in Hades.

Source: Apollodorus, Library, 1.2.1
Interestingly, the three brothers shared dominion over the earth. This is why Poseidon is also the god of earthquakes.

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9:55 午後  
Blogger yoji said...

第十五歌船陣からの反撃 (七四六行 )

184~199
全世界は三つに分割され 、兄弟がおのおのそれぞれの権能を割り当てられた 。籤を引いてわたしは灰色の海にいついつまでも住むことになり 、アイデスは暗々たる闇の世界を 、ゼウスは高天と雲の漂う広大な天空を得た 。190?

ホメロス
イリアス
岩波文庫下

ポセイダオン

10:26 午後  
Blogger yoji said...

つまり私は、みなで籤《くじ》を引いてから、灰色の海を常住の住居として割りあてられ、アイデスは、おぼろにかすむ幽冥界を、ゼウスは、高いアイテルと雲との中にある久方《ひさかた》の空を引きあてたが、大地と、それからオリュンポスの高嶺とはまだみんなの共有物なのだ。こうした次第ゆえ、私はすこしもゼウスの心に従って暮らすつもりはまったくない(平気なものだ)どれほど彼《あれ》は力が強いというにしろ三つに一つの分

ibook
イリアス

11:06 午後  
Blogger yoji said...

足利 義教(あしかが よしのり、正字体:義敎)は、室町幕府の第6代将軍(在職:1428年 - 1441年)。第3代将軍・足利義満の子。母は側室の藤原慶子で、第4代将軍・足利義持の同母弟。僧侶時代は義円(ぎえん、正字体:義圓)、還俗直後は義宣(よしのぶ)と名乗った。


第5代将軍・足利義量は将軍とは名ばかりで実権は父の足利義持が握っていたが、応永32年(1425年)に義量が急死した後も、法体の義持が引き続き政治を行なった。その義持も応永35年(1428年)1月に病を得るが、危篤に陥っても後継者の指名を拒否した。そこで三宝院満済や管領・畠山満家ら群臣たちが評議を開いた結果[1]、石清水八幡宮で籤引きを行い[注 2]、義持の弟である梶井門跡義承・大覚寺門跡義昭・相国寺虎山永隆・義円の中から次期将軍を選ぶことになった。

1月17日、石清水八幡宮で籤が引かれ、翌日の義持死亡後に開封された[注 3]。後継者に定まったのは義円だった。このことから「籤引き将軍」とも呼ばれる[注 4][10]。結果は19日に諸大名によって義円に報告され、義圓は幾度か辞退したが、諸大名が重ねて強く要請したため応諾した。これを受けて、同日中に青蓮院を退出して裏松(日野義資)邸に移った。この時、後小松上皇・称光天皇共に日野資教(有光の父で義資の大伯父にあたる)を勅使として義圓の相続を賀したという[10]。



今谷明 『籤引き将軍足利義教』〈講談社選書メチエ〉、2003年。ISBN 4-06-258267-8。
森茂暁 『室町幕府崩壊 将軍義教の野望と挫折』〈角川選書〉、2011年。ISBN 978-4-04-703496-9。

5:20 午前  
Blogger yoji said...

2
^ a b 伊藤 2008, p. 228.
伊藤喜良 『足利義持』 吉川弘文館〈人物叢書〉、2008年。ISBN 978-4-642-05246-7。
臼井信義 『足利義満』 吉川弘文館〈人物叢書〉、1989年、新装板。ISBN 4-642-05150-3。

5:21 午前  
Blogger yoji said...


編集
古代アテネの公職者選出
古代アテネでは、一部を除く公職者は、希望する市民の中からくじで選ばれた。
将軍の決定
室町幕府4代将軍足利義持は子の5代将軍義量に先立たれた後も、後継者を定めず自ら政務を執り続けたため後継者が定まらず、危篤状態に至った際に、側近の三宝院満済や管領畠山満家らが義持の4人の弟の中からくじ引きによって後継を選ぶことを承諾させた。義持の死後、石清水八幡宮において神籤が催され、義持の弟の中から青蓮院義円(のち足利義教)が選ばれて6代将軍となった。
元号の決定
元号の明治は、前越前藩主松平春嶽が選んだ候補の中から、明治天皇が宮中賢所でくじを引いて決定された[2]。

5:24 午前  
Blogger yoji said...

くじ
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%8F%E3%81%98

5:25 午前  
Blogger yoji said...

^ 「明治」の由来は何ですか? 明治神宮 Q&A
http://www.meijijingu.or.jp/qa/gosai/07.html
「明治」の由来は何ですか?(「大正」、「昭和」、「平成」の由来は?)
 明治の由来にはいる前に元号についてご説明いたします。そもそも元号は、漢の武帝の時代の中国に生まれて、朝鮮、日本などへ渡ってきた年の数えかたです。日本で最初に用いたのは大化の改新で有名な「大化(たいか)」(六四五年)の元号ですが、中国や朝鮮ではすでになくなってしまい、日本だけがこの伝統を守っています。
Answer 「明治」の出典は『易経』の中に「聖人南面して天下を聴き、明に嚮(むか)いて治む」という言葉の「明」と「治」をとって名付けられました。明治改元にあたっては、学者の松平春嶽(慶永)がいくつかの元号から選び、それを慶応四年(明治元年)九月七日の夜、宮中賢所(かしどころ)において、その選ばれた元号の候補の中から、明治天皇御自ら、くじを引いて御選出されました。

 翌八日の一世一元※(天皇御一代に一つの元号とする制)の詔で「明治」と改元されたのです。

 「明治」の意味は聖人が南面して政治を聴けば、天下は明るい方向に向かって治まる、と解されています。

※一世一元 明治以前までは年号が頻繁に変わっていましが、大阪の学者中井竹山が『草茅危言』(そうぼうきげん)で初めて頻繁に改元する従来の弊風を改めることを主張しました。また水戸の藤田幽谷の『建元論』にも記されています。幕末には、石原正明や広瀬淡窓も同じ考えを述べており、維新直後、岩倉具視の努力で実現しました。
参考に「大正」「昭和」「平成」の出典由来についても書いておきます。
「大正」の出典 『易経』 「大亨は以って正天の道なり」 天が民の言葉を嘉納し、政(まつりごと)が正しく行われる。
「昭和」の出典 『書経』 「百姓昭明、協和万邦」 国民の平和と世界の共存繁栄を願ったもの。
「平成」の出典 『史記』 「内平かに外成る」 内外、天地とも平和が達成されるとの意味。
『書経』 「地平かに天成る」
※昭和64年1月7日産経新聞
新元号制定は、元号法(54年成立)に基づき、「元号選定手続き」(同年閣議了承)に沿って進められた。首相の委嘱を受け国文学、中国文学、歴史などの学者が提出した候補名を小渕官房長官と味村法制局長官が整理検討して竹下首相に報告。さらに学識経験者ら国民代表や衆参両院の正副議長らの意見を聞いたうえ、臨時閣議で決めた。選定は
1.国民の理想としてふさわしい意味を持つ
2.漢字二字
3.書きやすい
4.読みやすい
5.外国を含め過去に元号やおくり名として使われていない
6.俗用されていない
の六つの基準で行われた。「へいせい」は史記および書経の「内平かに外成る(史記)地平かに天成る(書経)」からとられた。内外、天地とも平和が達成されるとの意味。
※『易経』 五経の一つ。儒家の重要な経典。宇宙の原理・万象の変化を陰陽二元をもって説き、人間道徳も陰陽消長して万物を生成する天道に従うべきだと説く。
※『書経』 五経の一つ。上は尭舜から下は秦の穆公(ぼくこう)にいたる政治史・政教を記した中国最古の経典。
※『五経』 中国の古典である経書のうちでも代表的な五つの書物。『易経』『書経』『詩経』『礼記』『春秋』をいう。前漢の武帝の時代に、この五書を五経と名づけ、それを専攻する五経博士を置き、儒教を国教化したときに始まる。儒家の基本的教科書であった。
※『史記』 二十四史の一つ。黄帝から前漢の武帝までのことを記した紀伝体の史書。

5:26 午前  
Blogger yoji said...

足利義教がクジで征夷大将軍に選ばれた事跡は有名だと思いますが、この時のクジは...
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kur********さん2009/11/2812:28:49
足利義教がクジで征夷大将軍に選ばれた事跡は有名だと思いますが、この時のクジは一体どんな形式のクジだったのでしょう?
いくらなんでもアミダということだけは無いでしょうが・・・いや・・まさか

三宝院満済(義満、義持、義教三代の祈祷僧)は、瀕死の義持に面会し後継者指名を申し入れますが、義持の返事は「面々でよきにはからうように」というものでした。そこで満済は義持の4人の兄弟の名前を書いて八幡様の神前でクジ引きを提案しますと、義持は「承知した。但し、自分が死んでから行うように」とのことでした。

満済の日記にはただ八幡とあるだけでしたが、石清水八幡宮のこととされています。候補者は4名。

青蓮院義円

大覚寺義昭

相国寺永隆

梶井門跡義承

クジ引き将軍誕生までの経過は以下のようになります。三宝院満済の日記「満済准后日記」による。

・正長元年(1428)正月17日

満済が4人の名前を籤に書き、飯粒をねった糊で封をし、その上に宿老・山名時熙が継ぎ目花押で封印をする

・同日戌の終わり(午後9時前)

管領・畠山満家が石清水八幡宮前でクジを引くため出発

・同日亥の終わり(午後11時前)

畠山満家がクジを引いて室町第に帰着

・翌18日巳の半ば(午前10時頃)

四代将軍・足利義持死去

早速、前夜引いておいたクジを開くと、「青蓮院殿」と出る。

・正月19日

管領以下面々が青蓮院門跡に赴き、義円が還俗して六代将軍・義教となる

石清水八幡宮神前で、名前を書いて封印してある4つのクジから一つを引き、それを持ち帰る方式でした。

ナイス 1

sag********さん 2009/11/2820:38:51
四代将軍義持の死後に、
義持の弟である、梶井義承・大覚寺義昭・虎山永隆・義円の
四人の中から石清水八幡宮での神籤で義円(義教)が選ばれました。
籤はギリシャ風に言えば神託です。
それ故に、籤で選ばれた義教は自分は神に選ばれた将軍であるという
王権神授意識の権化でした。

ナイス 0
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ann********さん 2009/11/2812:41:43
石清水八幡宮の神籤ですね。

『満済准后日記』に
「兄弟四人の名を八幡神前御鬮召され」とあるので、
四人の名を書いた石のようなものを神前にならべ、
神職か誰かが手探りで取って神意を占う形式でしょう。

ナイス 0
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5:30 午前  
Blogger yoji said...

満済准后日記(まんさいじゅごうにっき)は、室町時代前期の醍醐寺座主であった満済の日記。法身院准后記(ほっしんいんじゅごうき)とも。

記名は本来なく、いずれも後人の命名による。自筆本の大部分が現存し、応永18年(1411年)1月及び同20年(1413年)から同29年(1422年)までの巻子本11軸が国立国会図書館に、応永30年(1423年)から永享7年(1435年)までの冊子本38冊が醍醐寺三宝院に所蔵される(ともに重要文化財)他、1軸が東京大学史料編纂所に、1冊が京都大学に所蔵される。巻子本が当年の具注暦を用いて覚書のような簡略な記述を行うに留まる一方、冊子本が白紙や反故文書の紙背を用いて詳密な記事を残していることから、恐らく満済が日記を書いていく過程で、次第に記事が増えたために暦に書き切れず、途中から改めて冊子を用いることになったと推測される。

満済は将軍足利義持・義教の護持僧として近侍したので、初期には禳災祈祷の記事が多いが、やがて「黒衣の宰相」と称されるごとく幕政の枢密にも携わるようになると、幕府内外の政治・外交の機微に関わる記述が豊富となる。また、満済は将軍と管領以下の諸大名との意思疎通の役割を果たしていたため、守護大名の複雑な動向を窺う上で格好の史料である。当時の記録として貞成親王の『看聞日記』と双璧を成すが、彼が好奇心から噂話までも書き留めたのに対し、満済は情報を客観的に捉えようとし、直接関与・見聞したことにのみ記述を限定しようとする自制的な態度すら認められる。したがって、史料としての信憑性は極めて高いと言えよう。当代きっての学僧・文化人であるゆえに、将軍・朝廷から民衆に至るまでその見識は広く、室町前期の年中行事や世相・文化・思想を知る上でも欠かせない根本史料である。

刊本としては、『京都帝国大学文科大学叢書4』(全3冊)・『続群書類従補遺1』(全2冊)の2種が出版されており、後者の方が比較的普及しているものの、誤字・脱字がまま見られる。なお、冊子本には奉公衆の書状など840通余りの紙背文書があり、これらも『大日本古文書』醍醐寺文書別集(全3冊)として既刊である。

参考文献
編集
村田正志 「満済准后日記」(『群書解題 第8巻 雑部』 続群書類従完成会、1982年、NCID BN01889045。初版は1961年)
田島由紀美 「満済准后日記」(橋本義彦ほか 『日本歴史「古記録」総覧〈古代・中世篇〉』 新人物往来社、1990年、ISBN 9784404017888)
福田豊彦 「満済准后日記」(『国史大辞典 第13巻』 吉川弘文館、1992年、ISBN 9784642005135)
森茂暁 「『満済准后日記』―黒衣宰相がリードした室町政治」(元木泰雄・松薗斉編 『日記で読む日本中世史』 ミネルヴァ書房、2011年、ISBN 9784623057788)
外部リンク
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『満済准后日記』 - 国立国会図書館デジタルコレクション
満済准后日記上(続群書類従) - Google ブックス、応永18年から正長元年(1428年)まで
満済准后日記下(続群書類従) - Google ブックス、正長2年(1429年)から永享7年まで
『満済准后日記』を読む(史華堂)

5:34 午前  
Blogger yoji said...

http://www002.upp.so-net.ne.jp/shikado/muromachi/kuji.htm#kuji5
4.くじ引きは生前に

同日条(続)
その後、管領以下、又相談する様、御没後には神前においてさうなくこの御鬮取り難かるべし。早速に御定め何篇たりといえども、宜しくすべき間、所詮、今日(十七日)、まず密々にこの鬮を給いて開く事をば御没後に沙汰すべき由、評定しおわんぬ。よって御鬮書の事をば面々予に申す間、再三辞退すといえども、しきりに申す間、力無くこれを書きおわんぬ。続飯(そくい)をもって堅くこれを封ず。その上に山名右衛門佐入道、書封しおわんぬ。管領一人、八幡へば参詣せしめ、これを給うべき由、申し定めおわんぬ。よって管領、戌終に参詣す。神前において御鬮を給いて亥終に罷り帰ると云々。酉半ばかりかに、すでに御悪名出来の由、医師三位告げ申しき。仰天せしめて御前に参るところに、もってのほかの御体、なかなか申す限り無し。長老達三・四人祗候す。それ以来は一向に御言語通ぜず、人をも御覧知せられざる御体なり。諸人悲涙に咽(むせ)ぶばかりなり。よって京中猥雑、申すばかりなし。公家・武家・僧俗群参するはもってのほかの事なり。よって御修法、初夜より一向にこれを略す。壇所において密々に祈念するばかりなり。今夜は終宵、同じき御体なり。壇所雑具ならびに本尊仏具等、ことごとく夜中に本坊に返し渡す。十三日より、方々の御祈、同前か。

 義持は「死後に籤を引くように」との意向でしたが、管領以下の面々は、「死後だと混乱するであろうから籤取りは難しい」と難渋します。義持が死んだ後では、籤の結果に不満を持った相続権所有者が蜂起する危険性も視野に入れていたのでしょう。
 しかし義持は意向を変えず、結局、意向に反して「こっそりと生前に籤を引いておく」ことになりました。
 籤に名前を書く役は満済が推挙されます。満済は嫌がったようですが、仕方なく受け入れました。封をした後、山名時煕が書き封を施します。不正が行われないように、また、不正が行われていないことを示すための措置であったようです。

 さて、その籤を持って管領の畠山満家が八幡で籤を引くという段取りに決定しました。早速満家は戌刻の終わり頃(午後9時半頃)に参詣し、亥刻の終わり頃(午後11時半頃)に籤を引いて帰ってきました。
 「八幡」については、『建内記』によれば石清水八幡宮のようですが、洛中から2時間で往復するというのはなかなか大変で、「生前に籤を引くため」にかなり急いだようです。

 さて、義持の病状はいよいよ悪化したと医師三位(允能)が告げてきます。満済が急いで駆けつけた頃にはもう会話もできないほどの危篤状態だったようです。周囲も既に死が迫ったことを悟り、嗚咽が聞こえてきます。「いよいよ」の雰囲気の中、諸寺の行事はすべて延引され、どこも快癒の祈祷を行っていたようです。

5.義持逝去とくじの開封

同年1月18日条
十八日、晴れ。今日巳半ばかりか、御事切れおわんぬ。御年四十三なり。御沐浴等の事、一向に禅僧これを沙汰す。その後床上に安置し奉る。諸人その時これを拝見す。おのおの焼香し申しおわんぬ。おのおの退出す。管領以下諸大名、おのおの一所に参会して、昨日神前において取るところの御鬮、これを開きおわんぬ。管領これを開くなり。青蓮院殿たるべき由御鬮なり。諸人、珍重の由、一同にこれを申す。この御くじの事、今日かの門跡に申し入るるべきかいかんの由、評議する間、予申して云わく、「在方卿に仰せて、吉日を撰ばれ、今明間に申さるるべきか」と云々。その儀むべなるべき由、面々これを申す。すなわち在方卿を召して吉日を撰ぶところに、明日(十九日)、最上の吉日なりと云々。よって、明旦管領以下、かの門跡に参り、まず裏松亭に入れ奉るべき由、定め申しておのおの退出しおわんぬ。故御所御追号の事、勝定院たるべき由、長老達計らい申しおわんぬ。

 この日の巳の半刻頃(午前11時頃)についに義持は死去しました。享年43。
 遺体の沐浴は禅僧が行います。密教系がこれに携わることは無く、真言宗の満済はこれを行うことはできませんでした。

 さて、早速管領以下の諸大名が集まって籤の開封が行われました。満家が開いたところ、「青蓮院殿」の名が書いてありました。青蓮院門跡の義円が後継将軍に決定します。
 さて、義円への通知ですが、陰陽道に通ずる勘解由小路家の賀茂在方に占わせ、明日(19日)が良いとの回答を得ます。早速、明日にでも義円を青蓮院から裏松亭(裏松[日野]義資の邸宅)に移すことも決まります。義持の追号は「勝定院」と決まりました。

 さて、このくじ引きの経緯ですが、「実ははじめから義円にするためにインチキされていた」という

5:41 午前  
Blogger yoji said...

Kohei Kawaguchi (@mixingale)
2019/05/24 17:50
今日のセミナー:くじ上の効用をニューラルネットで表現するのに必要十分な公理を考える。1) 確実性効果などの各種既知のアノマリーが正規化線形関数を活性化関数としてもつ柔軟なNNで表現できる、2) 効率的推定アルゴリズムがある、と考えれば実用性はありそう。公理があると解釈に安心できるし。

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5:36 午前  
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柄谷哲学の起源では
ヘシオドス
ポセイドンのくじ引きに言及

9:55 午前  
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くじ引き民主主義~政治にイノヴェーションを起こす~ (光文社新書) Kindle版
吉田 徹 (著) 形式: Kindle版
2021

「入れ札=選挙」の限界  思想家の柄谷行人は、作家菊池寛の人生と彼の『入れ札』という小説から話を起こして、くじ引き民主主義が意味するところを考察している(『日本精神分析』)。彼は、普通選挙によって無記名投票(=入れ札)が当たり前になった時点で、代表制民主主義は機能しなくなる、という。なぜなら、無記名だと、誰が誰に投票したのかがわからなくなり、代表する者(=政治家)と代表される者(=有権者)との関係が曖昧になるため、政治家は選挙区の代表ではなく、国民全体の代表だとされることになるからだ。しかし、これでは、誰が自分を代表しているのかが不明瞭になる。ここから、秘密投票と無記名投票こそが代表制民主主義を機能させなくなる、という逆説が浮かび上がる。19世紀半ばのフランスやワイマール時代のドイツのように、普通選挙が当たり前になった時代に、自分たちこそが国民を代表する、という反議会主義的な勢力が力を持つ道理である。  彼がこれに代わって推挙するのが、古代アテネで行われていたように、くじで行政職や司法職を宛がう、くじ引き民主主義である。秘密投票のもとでは、誰が誰に投票するかわからないために、有権者が候補者をゆすったり、逆に候補者が有権者を買収したりするようなことも起こり得る。しかし、くじ引きであれば、偶然によってその人が選ばれるわけだから、そうしたことは起こり得ないということになる。あるいは、三権分立のように、複雑な制度上の仕組みを用意しなくとも、権力が同じ所に留まることはないから、権力に対するチェック・アンド・バランスは、恒常的に機能することになるのだ。  もちろん、柄谷は古代アテネに回帰すべきだと唱えているわけではない。そこでは市民権を持たない奴隷や女性がいたからこそ、成人男性が公的な活動に勤しむことができたからだし、職業には向き不向きがあることも事実だからだ。そこで彼が提案するのは、既存の選挙とくじ引きを併用する案だ。具体的には選挙によって予め優秀な集団を選出した後に、その集団のトップをくじ引きで選ぶという手法だ。こうすれば、職務をやりたい人や職務に関心がある人がプールされ、その後の序列は偶然に任され、結果として無益な権力闘争や間違った自尊心を呼び起こすこともなくなる、というわけだ。  こうした柄谷の考察で興味深いのは、組織や企業のトップ、すなわちエリートこそがくじ引きで選ばれるべき、としていることだ。例えば、入学試験でくじを導入しても意味がない、と彼はいう。なぜなら、偏差値競争をすることに生き甲斐を見出す学生は必ず残るだろうから、というのがその理由だ。エリートになりたいという、本人の意思と自由をある程度尊重しながら、エリートの慢心や権力の独占を防ぐためには、組織のトップを選ぶプロセスにおいてこそ、くじ引きが実践されないとならないとする。  こうした提案は、先にみたように、フィレンツェやベネツィアといったイタリアの都市国家が生み出した解決法でもある。一定程度能力のある人間を選抜しつつ、その集団に権力が固定化しないようにして、その結果として対立を緩和するという考えだ。  関連して、組織での昇進も、くじ引きを使って決めた方がよい、という研究もある。イタリア・カターニア大学のチームによるこの研究は、①優秀な社員を昇進させれば組織が発展する、②優秀な社員でも昇進した後の職種が同じものではないためにむしろ能力が発揮できなくなる、という経営学の2つの仮説がともに正しいとした場合、誰を昇進させるかは偶然に任せた方が組織にとってプラスになるとするものだ。その人が本当に優秀かどうかは事前に確実に知ることはできないし、また出世させても同じだけのパフォーマンスを発揮できるかどうかもわからない。そうした場合は、偶然で選んだ方が外れがなくなるという理論だ。この研究は、厳格な審査のもとユニークな研究に与えられるイグ・ノーベル賞の経営学賞を受賞しており、特定の条件下ではくじ引きという偶然も組織的な効率性に貢献し得るということを示している。

3:53 午前  
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くじ引きの歴史②――イタリアの共和国  古代アテネとはまた異なる形で、公職を決めるためにくじ引きが用いられていたのが13世紀から14世紀にかけてのイタリアの都市国家、中でも栄華を誇ったフィレンツェとベネツィア、あるいはボローニャやピサなどの共和国においてだった。  ルネッサンス時代以前の13世紀頃のフィレンツェは、貴族、大ブルジョワ、小ブルジョワ、庶民の各階層からなっており、シニョーリアと呼ばれる複数人からなる執政府によって統治されていた。そのもとには議会も存在していたが、実際の政策は大ブルジョワらが作る7つのギルド(組合)が決定していた。フィレンツェの歴史と切っても切れないメディチ家の支配が確立するのは、もっと後の15世紀のことだ。  政治行政の役職がくじ引きでなされるようになったのは、1328年のことだった。その理由は、各階層の対立とギルドの群雄割拠、さらに教皇派と皇帝派の対立が繰り返されて、都市国家内の対立が激しくなり、これを緩和する必要に迫られたからだ。古代アテネが権力の分散を狙ってくじ引きを導入したのだとすれば、フィレンツェではむしろ権力の分有を実現するためにくじが導入されたのである。  それゆえ、その方法もかなり異なっていた。フィレンツェではまず各組合がシニョーリアとそれを補佐する公職に推薦する者のリストを作成し、これを専門委員会が精査し、その中で認められた者のリストがさらに作られた。それらの者から誰を選ぶかという段階で、初めてくじ引きが行われた。いわば、選挙とくじを混合した形でエリートを選出しようとしたわけだ。当時の住民は約9万人、うち市民権を持つ者が約8000人おり、この中の800人ほどがくじ引きによるシニョーリアの候補者になったとされる。こうした形で公職者の裾野が広がっていたことが、それまで貴族とギルドが支配していた官僚機構に、庶民上位層が参加するきっかけになったともされる。事実、13世紀には豪族のうちの1割がシニョーリア職の半分を占めていたのが、14世紀になってからその割合は低下していったとされる。  もうひとつの強力な都市国家で長い歴史を誇ったベネツィア共和国も、公職者を選ぶ際にくじ引きを用いた。ここで国家元首に相当するのはドージェと呼ばれる君主だったが、世襲制であったために共和国が不安定になることが危惧され、より広範囲からドージェを選出する必要に迫られ、このため1268年にくじ引きを用いることが決まった。くじ引きと多数派による選挙を組み合わせたこの仕組みは極めて複雑なもので、まず議会に当たる大評議会の議員(500人)からくじ引きで30人を選び、その30人をくじでさらに9人に絞った。次に、この9人が40人を投票で選び、この40人を今度はくじを用いて12人にまで減らす。そして、この12人が25人を投票で選び、次にその25人をくじで9人にまで減らし、この9人が45人を投票で、この45人をくじで11人に絞り、これら11人の議員が最終的にドージェを決める41人を選ぶという、くじ引きと投票を10回にわたって用いるというものだった。ちなみに、くじを引くのはもっとも若い評議員が街で最初に出会った8歳から10歳の間の男の子の役目で、彼は自分の前を行進する評議員に壺に入った木玉を手渡すことで、選出をしたというのが面白い。要は、決定の一部を偶然に委ねようとしたのである。  こうした方法が考案されたのは、世襲を求める一部の貴族と、これに反対する貴族との間の争いをくじ引きによって調停しなければならなかったからだ。そのため、くじで選ばれる議員2名が、同じ一族に属するものである時は、1名は辞退しなければならないというルールも設けられた。その一方、国の命運を預ける指導者は、誰でもいいというわけでもない。その人物が優秀だと衆目が一致しなければならないのであれば、投票を組み合わせなければならない。こうして、権力分有のためのくじ引きと、優秀な人物を選出する投票という、そ

3:54 午前  
Blogger yoji said...

それぞれの長所を組み合わせようとしたのがベネツィア共和国の知恵だった。  公職者を選出とくじ引きを併用して選ぶ試みは、15世紀のアラゴン連合王国(スペイン東部とイタリア南部の王国連合体)の各都市でも見られた。「くじ引き(ソーティション)」の語源となる「インサキュラチオン(袋に入れる)」と呼ばれたこの方法は、各選挙区の選挙人として立候補する者の名前を書いた紙を蝋の玉で包み、これを水槽に浮かべた後、7歳の男の子がその中からひとつ選ぶというものだった。こうして選ばれた選挙人には、その地区の代表者を誰にするかを決める権利が与えられた。  以上のような近代以前のくじ引き民主主義には、いくつか共通項がある。ひとつは、人為的決定の中に、神の意志としての偶然の要素を組み込むことである。こうした偶然は予測の可能性を低めることになるが、他方では固定的な権力を回避することになる。人智を超えた偶然の持つ力を人間社会の安定のために利用する仕組みだったのである。共同体の中で特定集団が長期的に支配を確立することは、その恩恵に与れない少数派の反乱を招きかねない。それを避けるには、なるべく均等に権力を配分しなければならない。そのための選挙をしても、すでに権力や権威を持っている集団が有利になってしまう。だから、これを回避するためには、幾何かの自然が持つ力、すなわちくじ引きを用いよう、という考えである。さらに、公職に就くチャンスを各人に等しく分け与えることができれば、忠誠心が涵養され、自治はより強化され、政体の安定という、共同体の目標も達せられることになる。

3:55 午前  
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くじ引きの歴史①――古代アテネ  はるか古から、くじ引きは何かを決定するために、もっとも平等で公正な方法だと考えられてきた。  公的な事柄を決定するために、大々的にくじ引きを広く用いていた例としてもっともよく知られているのは古代アテネだろう。この時代の哲学者、アリストテレスも自著『政治学』で「執政官がくじ引きで選ばれるのが民主的で、選挙で選ばれるのは寡頭制的であるとみなされる」としている。くじ引きという方法を公式に取り入れたのは、血縁支配の排除を目論んだ古代アテネの民主主義の父たるクレイステネスだとされるが、その後ペリクレス将軍の時代になって、さらに広く用いられるようになったという。 「はじめに」でみたように、古代アテネの議会に当たるのは市民権を持つ全員が参加できる「民会(エクレシア)」だった。軍の司令官、財務官、書記官、神官、建造監督官などは選挙されたが、他方で行政部門に当たる「500人評議会」は毎年希望する市民の中から、くじで選ばれた。さらに、この評議会から選出される各事業を担当する当番評議員も、毎日くじ引きで選ぶという徹底ぶりだった。こうした政治的活動全体を支えるのは役人たちだが、彼らもくじ引きで選ばれた。彼らの任期は原則1年、それも再任は認められず、中でも重要な役職に就く執政官(アルコン)も各部族内でのくじ引きによった(なお、ここでいう部族とは、血縁集団ではなく、地区ごとの住民を指している)。  さらにヘイリアイアと呼ばれた民衆裁判所の裁判官もくじ引きで選任されていた。毎年6000人がくじ引きされ、裁判の種類に応じて彼らの中から数百人がさらにくじ引きされるという二重の仕組みをとった。哲学者ソクラテス(彼もまたくじ引きで評議会の一員となったことがあった)を不神罪の刑で処したのも、彼らである。こうした政治・行政・司法での徹底したくじ引きの利用で、アテネの成人男性の約7割が、人生で一回は何らかの公職に就いたとされる。  なぜアテネはここまでくじ引きを多用したのか。それは民主的な政体の実現、すなわち特定の人物や集団の権力が集中することを防ごうとしたからだ。不可避的に特定技能や知識が求められる一部の専門職を除けば、選挙で勝利できる人間は財産や権威を持つ者に限定されてしまう。さらに役人や執政官という職が長期にわたって同じ人間によって占められれば、買収の対象になったり、腐敗の温床になったりしてしまう。それゆえに、なるべく公平に公職を配分し、しかも任期付きにすることで、権力の固定化を防ごうというのがクレイステネスの狙いだった。同様の狙いから、誰でも告発することのできる弾劾裁判、よく知られた陶片追放という仕組みも整えられた。イギリスの歴史家・政治家アクトン卿が友人に向けた手紙に書いた「権力は腐敗する。絶対的な権力は絶対的に腐敗する」という格言は有名だが、その事実を古代ギリシャ人は経験から知っていたのだろう。  歴史的には、古代アテネはその民主主義ゆえにクレオンのようなデマゴーグを生み、衆愚政治へと陥り、混乱の末、衰退していったとされている。しかしその後の研究では、スパルタとの全面戦争やその後の伝染病の蔓延、さらに大国マケドニアとの戦争でもって内乱に陥り、実質的な民主政治を継続できなかったため、こうしたデマゴーグが誕生することになったともされている。徹底した権力の分散があったからこそ、デマゴーグたちが公的な地位に就くことはできず、少なくとも専制君主は古代アテネにはついぞ現れなかった事実がこのことを物語っている。

3:55 午前  
Blogger yoji said...

代表制民主主義への置き換え  こうした古代アテネやイタリア都市国家の経験を知っていたフランスの哲学者モンテスキューは、主著『法の精神』(1748年)で、「くじ引きによる選出は民主主義の本質であり、選挙による選出は貴族政の本質である」と書いた。いうなれば、近代という時代が始まる以前の政治は、くじ引きから成り立っていたのである。実際、イギリスの都市やスイスなどでも、この時代にはくじ引きによる民主主義が実践されていた。  それではなぜ、民主主義のOSは現代に至るまで選挙による代表制民主主義を主軸にするもの、モンテスキューの言葉を借りれば、貴族政へと再び移り変わっていったのだろうか。その鍵は、18世紀からの民主化の歴史に求められる。  第1章で紹介した哲学者マナンは、近代を規定した3つの大きな革命、すなわち、イギリスの名誉革命、フランス革命、アメリカの独立革命という民主化が代表制民主主義の確立を決定的なものにした、としている。これらの革命はそれまで王や貴族が仕切っていた政治空間を切り開き、ブルジョワや平民の政治参加を可能にするものだったが、これらはまた当時のエリートによって主導されたものだったからだ。  イギリスでは1689年に王に対する臣民の権利を確認する「権利章典」が発布され、その後発展していく議会政治の基盤が築かれることになったが、これがむしろ党派間の対立(カトリックかイングランド国教徒か、地主か貴族か)を激化させることになった。ここから、有権者に対する買収が横行し(当時、投票所への移動は候補者の責任とされた)、その負担に耐え切れなくなったホイッグ(カトリックのジェームズ王即位に反対)とトーリー(即位に賛成)は、被選挙権と選挙権を制限することで合意するようになる。つまり、自分たちの負担を軽くし、競争を緩和するために「財産と教養」のある有権者だけが政治に参加できるようにした、というわけだ。そして、イギリスが有権者資格を漸進的に拡大するのは19世紀前半の3度にわたる選挙法改正を待たなければならなかった。  フランスではどうだっただろうか。1789年のフランス革命直後には、全ての成人男性(21歳)に選挙権が与えられることが検討されたものの、テルミドール派(反ロベスピエール派)の反対から、家屋を持ち、税金を納める男性だけに認めることになった。普通選挙派と制限選挙派の間で得られた合意は結局、一般市民が「第一議会」を選挙するものの、他方の「第二議会」の選挙は一定の税金を納める市民(当時の有権者の1%に相当)にしか認めないというものだった。もっとも、こうした方針は、革命の争乱と続くナポレオン戦争でうやむやになり、復古王政を経た後、普通選挙による代表制民主主義が確立するのは1848年の第二共和政のことになる。ただ、まだ1871年(第三共和政)の段階でも、議会(下院)の構成は貴族が34%、大ブルジョワが36%、小ブルジョワが19%と、ほとんどがそれまでの社会の権力者が陣取る場所のままに留まった。  そもそも倒すべき王政を持たなかったアメリカでは、いささか状況が違っていた。アメリカ憲法制定過程(フィラデルフィア会議)では、有権者となるには国籍と年齢(25歳)に基づく制約しか設けないと最終的に合意されたが、最後までもめたのは議員の数だった。案では議員数は「選挙人3万人当たり1人」とすることが提案されたが、案に反対する反フェデラリスト派(反連邦派)たちは、この議員数ではアメリカ社会を反映するのに十分ではないと反論した。他方で、アメリカ建国の父の1人として数えられるマディソンらフェデラリスト派は、選ばれる議員は優れた徳と資質を持っていなければならないと主張し、新たな政体は共和主義的性格、すなわち選挙に基づく貴族政的な仕組みが維持されることになった。つまり、貴族政を持たないアメリカにおいては、その制度の代わりとなるのは、卓越した市民でなければならなかったのである。事実、民衆が大挙して政治に参加することを警戒して、

3:56 午前  
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ハミルトンとマディソンは「人民とその集合的能力を排除する」(『フェデラリスト・ペーパーズ』第63篇)ことの必要性を説いていたのである。  こうした英仏米の歴史的な発展に共通しているのは、旧体制からの離脱を経て、民主的な決定を、どのような仕組みによって保証すべきかという難題に直面したことにあった。近代以前の民主主義は、すでに権力者が誰であるかが明瞭であり、その権力をいかに抑制し、均等に分配するかという観点からくじ引きが用いられていた。しかし、こうした歴史的な権力構造からの解放を果たした近代の革命は、新たな権力を再構築する所から始めなければならなかった。そうした権力を持つのは、一般民衆ではなく、革命を主導した改革派貴族やブルジョワジー、アメリカでは知的なエリートたちだった。言い換えれば、彼らは、人為的な王政や貴族政を作り上げなければならなかったのである。かくして、マナンの整理を借りれば、①統治者は定期的な選挙を通じて選ばれる、②選挙と選挙の間は、統治者には一定の自律性が保証される、③統治者は民衆の意見に従うのではなく、自らの意見を自由に表明できる、④ただし公的な決定は公的な討議にさらされる、という近代の代表制民主主義の原則が確立されることになった。  また、マナンは必ずしも重視していないが、近代の国民国家が発展していくにつれて、領土が広大になり、かつてのように全員が公職に就けるような地理的条件が失われ、さらに市民の多くが生産活動に従事することになり、政治活動に携わるための時間的余裕もなくなったという歴史的経緯も、近代で代表制民主主義が民主主義の基本OSとなった理由のひとつだ。そもそも公正な形で市民を代表しようとくじ引きを導入しようとしても、統計学のような科学が発展する以前の段階では、多くの人口を前にして、社会の鏡としての議会を構成するのは技術的に困難だっただろう。  このようにして、19世紀以降の民主化は、労働者層を中心とした参政権の要求、20世紀は女性参政権を求める運動、つまり議会の窓をこじ開けることを目標にしたものになっていった。そして、外国人や未成年を除けば、普通選挙権がほぼ全面的に認められるようになった現代にあっては、代表制民主主義そのものが、新たな貴族政として立ちはだかることになっているのである。

3:56 午前  
Blogger yoji said...

#1
民主主義の発展経路  本章では、代表制が直面している課題をまとめてきた。その理由は、単に政治家が信頼されていないことから来ている。信頼されない理由は、そもそも「代表する側」と「代表される側」との間には、不可避的にズレが生じるからだ。しかし民主主義への期待はまだ潰えておらず、そのため代表制に代わる意思決定の仕組みや政治参加の在り方が模索され、支持されていることもみてきた。  実は、くじ引き民主主義も、広い意味では代表制民主主義のひとつとみなすことも可能だ。それは、住民や国民を有意に代表する一部の市民が、彼らの代表(議員)となって意思を表明し、指針をまとめるものでもあるからだ。しかし、今の代表制民主主義が、選挙という競争をもとに組み立てられているのに対し、くじ引き民主主義はその名の通り、くじ引きという公平な仕組みによる代表制であることが大きく違う。そして、少なくとも、多くの市民は、一部の人しか立候補できす、一部の人しか投票しない現存の代表制民主主義に愛想をつかし始めているのは確かだ。  フランスの政治哲学者ベルナール・マナンは、民主主義が古代アテネのくじ引き民主主義から代表制民主主義へと移り変わってきた経緯を追って、近代民主主義の原型は「民主的貴族制」にあったとしている。つまり、「選民」たる政治家は自律的に行動することが許されているが、他方で彼らを選ぶのは「民衆」であるという事実から、代表制が貴族制と民主主義の混合的な政治システムだとしたのだ。その後、代表制は政党によって担われることになるが、20世紀終盤から「観衆民主主義」が発展してきたことによって、民主主義は様相を再び大きく変えていったという。ここでは、エリートは信頼されず、政党は公約を守れず、結果として有権者は移り気になり、さらに選挙で感情が動員されることで、強い指導者を求めるような民主主義が出現している現状に警鐘を鳴らしている。  民主主義への幻滅と期待は、時として、民主主義そのものを好ましからざる方向へと導く可能性を持っている。共同体の決定に自らの意見が反映されるべきだ、しかしその回路が閉ざされていると感じられている時、人々は意図せぬ形で操られたり、あるいは過大な要求をしたりするようになるだろう。民主主義が丁寧に設計され、その仕組みや、その仕組みを動かす人々が信頼されていなければ、民主主義は円滑に作動し得ないということは古今東西、多くの思想家や政治学者が指摘してきたところだ。  その最大の元凶は、代表制という、いまの民主主義のOSにあることはこれまでみてきた通りだ。残念ながら、日本国憲法前文にある「権威→権力→福利」というサイクルは、フィクションと化しつつある。ならば、代表制を完全に置き換えないまでにしても、くじ引き民主主義という、対極的な民主主義の仕組みによって、民主主義への期待を満たすことが模索されなければならない。 「民主主義は議会制民主主義につきるものではない。議会制民主主義は一定の歴史的状況における民主主義の制度的表現である。しかしおよそ民主主義を完全に体現した制度というものは嘗ても将来もないのであって、人はたかだかヨリ多い、あるいはヨリ少ない民主主義を語りうるにすぎない」と述べたのは、戦後日本を代表する政治学者の丸山眞男だった。つまりは、選挙を起点とする民主主義は、数多ある民主主義のひとつの種類でしかないのだ。  では、この「ヨリ多い民主主義」はどのように可能になるのか――次章では、そのための試みである、日本を含む世界各国で実践されている、くじ引き民主主義の実態をみてみよう。

3:58 午前  
Blogger yoji said...

自由主義の政治思想 単行本 – 1995/11/1
ピエール マナン (著), Pierre Manent (原著), 高橋 誠 (翻訳), 藤田 勝次郎 (翻訳)
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3:59 午前  
Blogger yoji said...

こちらだった

Manin, Bernard, Principes du gouvernement représentatif, Flammarion, 2019.

4:00 午前  
Blogger yoji said...

Manin, Bernard 1995.Principes du Gouvernement Reprsentatif, [Paris]: Calmann-Levy.

Hansen, Mogens Herman 1991.The Athenian Democracy in the Age of Demosthenes: structure, principles and ideology, Oxford; Cambridge, Mass.: Basil Blackwell.

4:08 午前  
Blogger yoji said...

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4:10 午前  
Blogger yoji said...

Athenian Democracy in the Age of Demosthenes (Bcpaperbacks) ペーパーバック – 1998/12/18
英語版 Mogens Herman Hansen (著)

4:11 午前  
Blogger yoji said...

The Principles of Representative Government (Themes in the Social Sciences) (English Edition) Kindle版
英語版 Bernard Manin (著) 形式: Kindle版
5つ星のうち4.2 5個

4:13 午前  
Blogger yoji said...

freeassociations: マナン1995,ハンセン1991 くじ引き The Principles of Representative Government (Themes in the Social…https://freeassociations2020.blogspot.com/2021/11/19951991-principles-of-representative.html

5:32 午後  
Blogger yoji said...

615 考える名無しさん[sage] 2021/12/24(金) 06:42:02.09 ID:0
評論家の柄谷行人は「私はひとりパチンコに熱中しはじめた。1961年の秋ごろである。
毎朝10時に下北沢のパチンコ屋に出かけ、昼ごろ打ち止めして帰ってから眠るという日々
が2ヶ月位続いた。……毎日店の一区域の台の出具合を記録して「傾向と対策」を
考えていた」と若かりし頃を回想しています。
pic.twitter.com/fe7zmOUdj8

パチンコ誕生博物館
@pachinkotanjo
昨日 20:00
https://twitter.com/5chan_nel (5ch newer account)

12:05 午前  
Blogger yoji said...

Tv29 知られざるベネチア | 文太郎の思考のDNA
http://katobuntaro.blog18.fc2.com/?m&no=509

ベネチア共和国が繁栄した理由には海軍力だけでなく、極めてユニークな政治体制があった。
<ドゥカーレ宮殿>

政治の舞台となった、ドゥカーレ宮殿。この広さ1300mの部屋に1000人以上の商人が集まった。
<大評議会の間>

中世、ベネチアの政治を担っていたのは、商人たちだった。

ベネチアは王や君主を戴いたことは一度もない。一貫して大商人たちによる共和制を採っていた。掲げられているのは、国の代表を務めた歴代の総督たち。

ドージェ(総督)といわれた。
<ドージェ>

ドージェは商人たちの間から選挙で選ばれた。選挙には談合や陰謀を排除するための仕組みが作られた。

一人のドージェを決めるための道程は長い。
まず、1000人以上の貴族中から30人を抽選で選ぶ。その30人を再び抽選によって9人に絞る。今度は、その9人が投票して40人を選ぶ。このように、抽選と投票を10段階繰り返して、最後に一人のドージェを選び出す。
抽選という偶然の要素を組み込むことで、選挙の意図的な操作を不可能にした。排除したのだ。

たとえドージェに選ばれても、権力の独占は許されず、守るべき規則は100項目以上あった。

**********************************************************************

ベネチアの人々が権力の独占を許さず、能力によって人を選び出すシステムを作ったのは、それが、国を安定させるということを知っていたからだ。ベネチアが1千年もの間、独立国家として繁栄し、長続きしたのは、これが大きな理由だ。
繁栄を極めたベネチア。しかし、その始まりの姿は、意外なものだったという。

街の作りにヒントがある。ベネチアの道はまるで迷路。細い橋や路地が複雑に入り込んでいる。
運河で行き止まってしまう道も多い。なぜ、迷路なのか?再び地図へ。
ベネチアは実は、百以上の小さな島からなっている。ベネチアは沢山の島が集まって出来た街だ。
ベネチアが位置しているのは「ラグーナ」といわれる干潟の中。
何本もの川が流れ込む浅瀬だ。
ラグーナには潮の干満で浮いたり沈んだりする島が無数にある。

6世紀の頃、誰もいないこの低湿地帯に住み始めた人々がいた。もともと陸地にいたが、異民族に侵入され、ここに逃げ込んだ。人々は120もの小さな島に街を築き始めた。それがベニスの始まりだった。島々では、その形に応じた町造りが始まった。

島と島を貫く道はなかった。町が発展する度に建物が増え、路地は余計複雑になっていった。
やがて島は橋で繋がれた。こうして、まるで寄せ木細工のような巨大な迷宮都市が出来上がった。
ベネチアの運河は後から人工的に建設されたものではなく、もともと島と島の間を流れる自然の川だった。

5:19 午後  
Blogger yoji said...



https://www.nhk.or.jp/archives/chronicle/detail/?crnid=A201001112200001300100

番組名 世界遺産への招待状 「イタリア 知られざるベネチア」
NHK
放送日時

アナログ総合 2010年01月11日(月) 午後10:00 〜 午後10:42

内容時間

00:42:30

番組内容

「イタリア 知られざるベネチア」

EPG番組概要

中世、海上交易によって巨万の富を蓄えた海洋国家ベネチア。その周辺には「山のベネチア」「陸のベネチア」と呼ばれる世界遺産があった。知られざるベネチアの歴史を探る。

EPG番組内容

今回は、「番組で取り上げてほしい」という要望の多かったベネチアが登場。中世、海上交易によって巨万の富を蓄え、「地中海の女王」と呼ばれたベネチア。無数の運河が縦横無尽に走る水の都だ。その周辺には「山のベネチア」「陸のベネチア」と呼ばれる場所があり、それぞれが世界遺産になっている。その歴史を探ると、華麗なベネチアの意外な歴史が浮かび上がる。周囲の世界遺産とともに、ベネチアの知られざる魅力を発見する。

5:20 午後  
Blogger yoji said...

数学的論考
https://www.hpl.hp.com/techreports/2007/HPL-2007-28R1.pdf

Electing the Doge of Venice: analysis of a 13th Century protocol♦
Miranda Mowbray, Dieter Gollmann1 Enterprise Systems and Storage Laboratory HP Laboratories Bristol HPL-2007-28(R.1)
July 12, 2007*
voting theory, leader election, Venice
This paper discusses the protocol used for electing the Doge of Venice between 1268 and the end of the Republic in 1797. We will show that it has some useful properties that in addition to being interesting in themselves, also suggest that its fundamental design principle is worth investigating for application to leader election protocols in computer science. For example it gives some opportunities to minorities while ensuring that more popular candidates are more likely to win, and offers some resistance to corruption of voters.
The most obvious feature of this protocol is that it is complicated and would have taken a long time to carry out. We will advance a hypothesis as to why it is so complicated, and describe a simplified protocol with very similar features.

ベネチアのドージェの選出:13世紀のプロトコルの分析♦。
Miranda Mowbray, Dieter Gollmann1 Enterprise Systems and Storage Laboratory HP Laboratories Bristol HPL-2007-28(R.1)
2007年7月12日*より
投票理論、リーダー選挙、ベニス
本稿では、1268年から1797年の共和制の終焉までの間、ヴェネツィアのドージェを選出するために使用されたプロトコルについて述べる。このプロトコルにはいくつかの有用な特性があり、それ自体が興味深いだけでなく、その基本的な設計原理が、コンピュータサイエンスにおけるリーダー選挙のプロトコルに適用するために調査する価値があることを示唆するものであることを示す。例えば、より人気のある候補者が勝ちやすいようにしながらも、少数派にある程度の機会を与え、有権者の腐敗にある程度の抵抗力を持たせている。
このプロトコルの最も明白な特徴は、複雑で実行に時間がかかるということである。なぜ複雑なのか、その仮説を立て、よく似た特徴を持つ簡略化されたプロトコルを説明することにする。

9:48 午後  
Blogger yoji said...


ちなみにイスラエル最初の王(サウル)もくじ引きで決まった。
(サムエル記上10:21)

6:14 午前  
Blogger yoji said...

ベネチアのくじ引きは2010年NHKで紹介されたことがあるようです。

「ドージェは商人たちの間から選挙で選ばれた。選挙には談合や陰謀を排除するための仕組みが作られた。』
(NHK「世界遺産への招待状 イタリア 知られざるベネチア」)

1:36 午後  
Blogger yoji said...

ベネチアのくじ引きは2010年NHKで紹介されたことがあるようです。

「ドージェは商人たちの間から選挙で選ばれた。選挙には談合や陰謀を排除するための仕組みが作られた。」
(NHK「世界遺産への招待状 イタリア 知られざるベネチア」)

1:36 午後  
Blogger yoji said...



ヘロドトスが伝えるペルシアのオタネスの言葉では、イソノミアの特徴に真っ先に抽籤が挙げら
れている。

「… 独裁者というものは父祖伝来の風習を破壊し、女を犯し、裁きを経ずして人命を奪うことだ。
それに対して大衆による統治は先ず第一に、万民同権(イソノミア――イソス「平等」原理にも
とづく政治)という世にも美わしい名目を具えており、第二には独裁者の行なうようなことは一
切行なわぬということがある。職務の管掌は抽籤により、役人は責任をもって職務に当り、あら
ゆる国策は公論によって決せられる。されば私としては、独裁制を断念して大衆の主権を確立す
べしとの意見をここに提出する。万事は多数者にかかっているからだ」
岩波文庫『歴史』上(3:80)339頁

ヘロドトスが伝えるペルシアのオタネスの言葉では、イソノミアの特徴に真っ先に抽籤が挙げられている。
「… 大衆による統治は先ず第一に、万民同権(イソノミア――イソス「平等」原理にも
とづく政治)という世にも美わしい名目を具えており、第二には独裁者の行なうようなことは一切行なわぬということがある。職務の管掌は抽籤により、役人は責任をもって職務に当り、あらゆる国策は公論によって決せられる。」
岩波文庫『歴史』上(3:80)339頁


ヘロドトスが伝えるペルシアのオタネスの言葉、
「… 大衆による統治は先ず第一に、万民同権(イソノミア――イソス「平等」原理にも
とづく政治)という世にも美わしい名目を具えており、第二には独裁者の行なうようなことは一切行なわぬということがある。職務の管掌は抽籤により、役人は責任をもって職務に当り、あらゆる国策は公論によって決せられる。」
岩波文庫『歴史』上(3:80)339頁



「… 大衆による統治は先ず第一に、万民同権(イソノミア)という世にも美わしい名目を具えており、第二には独裁者の行なうようなことは一切行なわぬということがある。


「大衆による統治は…万民同権(イソノミア)…という名目を具えており…職務の管掌は抽籤により、役人は責任をもって職務に当り、あらゆる国策は公論によって決せられる。」
ヘロドトス『歴史』岩波文庫上(3:80)339頁

2:49 午後  
Blogger yoji said...



マラブー泥棒⑧


くじ引き  

 実際にアリストテレスの『政治学』が当初の意図に忠実であったならば、命令と服従の可逆性は、「平等な偶然性」に、つまり無にしかもとづかないと力強く主張されたことだろう。だが、そのときアリストテレスは、唯一の容認可能な統治は「誰でもよい者」による統治であると認めなければならなくなったはずだ。「誰でもよい者」による統治は、くじ引きに基礎を置く。くじ引きだけが、ただ一つの可能な正統性なのである。  ランシエールは、くじ引きというアイディアをけっして手放さない。

 くじ引きによる代表制が現行の代表制よりも悪いものになる理由は見当たらない。根本的に私はそう考えている。第一に、くじ引きによる代表制は統治しようと欲する人々を排除する。また第二に、利益誘導型の政策も排除する。そして第三に、選挙という関係に結びついた不純な感情の高まりを排除する。もちろん、「私の家族や管理人、配管工が国家を運営するなんて理解できない」と言い立てることはつねにできる。私たちはそのように言うことができてしまう。だが、なぜとりわけ国家の運営という務めを行政学院の出身者やビジネス弁護士がおこなっているのだろうか。国家は、非常に限定された特殊な利益の代表者や権力で頭がおかしくなった奴らによって運営されなければならないのか。このような連中が跋扈している。現在の国家は権力中毒者と金融に関する利害の代表者によって統治されているのだ(82)。

「厳密にいえば、民主的統治など存在しない(83)」ということが、くじ引きを正当化する。民主主義においては、他の構成員よりも統治に適した能力をもっている者はいない。それゆえに、民主主義は根本的に「統治しえないもの」なのだ。「民主主義は統治しえないものであり、結局のところあらゆる統治はこの統治しえないものに基礎を置いていることを露呈せざるをえない(84)」。統治する適性なるものが存在するとしたら、逆説的にもそれは、「アナーキーな資格、統治する資格も統治される資格もない人々の資格(85)」、つまり統治する資格と統治される資格のどちらかであることに無関心でありつづける人々の資格でしかありえない。くじ引きにおいては、任期は短く、再任できず、兼務も禁止される。まさにくじ引きは、ポリスとアルシ・ポリティークに対立するものなのだ。 舞台化された布置の転換  したがって、くじ引きはただ一つの政治的に正当な代表制のかたちである。だが、それと同時にくじ引きは、偶然にしか依拠しないがゆえに、代表=表象という概念そのものが無意味なのではないかとも思わせるだろう。  とはいえ、ランシエール自身は民主主義を代表=表象不可能なものだとは結論づけない。まさにここにおいて、ランシエールによるアナーキーという概念の核心に刻み込まれた真の困難が現れてくる。問題は、「代表=表象」をどのように理解するかという点にある。  ランシエールはリオタールとは異なり、厳密な意味での根源的な政治的間違いは、いかなる犠牲者も出さないと主張する。「間違いという概念は、[…]いかなる犠牲化のドラマトゥルギーにも結びつかない(86)」。「不和」、「ディセンサス」、「間違い」(ギリシア語のblabè)、「係争」、「計算違い」という一連の類義語は、カタストロフや悲劇を示しているわけではないのである。  それゆえ、計算違いは全滅させることではなく、犠牲に由来するものでもない(87)。たしかに根源的アナーキーは固有な場をもたず、それゆえにある意味では権力を奪取しえない。しかし、だからといって「政治」──つまりポリス──とは異なる政治のトポロジーが現実に存在しえないわけではないのだ。計算違いの位置をずらすことは可能であり、それによって計算違いは見えるようになる。この新たなトポロジーは、「舞台の変化」によって得られる。「舞台の変化」こそが、不和が目に見えるような体制を決めるのだ。ランシエールは、このような体制を今度は「メタ・ポリティーク(88

(82)J. Rancière, « Le peuple est une construction », loc. cit.
(83)J. Rancière, La Haine de la démocratie, op. cit., p. 59.〔ランシエール『民主主義への憎悪』、七二頁〕

7:04 午前  
Blogger yoji said...

(13)Jacques Rancière, « Le peuple est une construction », Ballast, 4 mai 2017, édition en ligne.

7:06 午前  

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