土曜日, 1月 07, 2012

ヒューム:メモ

                    (リンク:::::::::
ヒューム:メモ
 http://nam-students.blogspot.jp/2012/01/blog-post_07.html(本頁)
NAMs出版プロジェクト: 『人性論』:ヒューム再考
 http://nam-students.blogspot.jp/2014/11/blog-post_23.html
NAMs出版プロジェクト: 経済学者ヒューム
 http://nam-students.blogspot.jp/2015/09/blog-post_28.html
NAMs出版プロジェクト: ケインズ『貨幣論』『貨幣改革論』:メモ
 http://nam-students.blogspot.jp/2015/10/1979-john-maynard-keynes-treatise-money.html
『経験論と主体性 : ヒュームにおける人間的自然についての試論』ドゥルー ズ:メモ
 http://nam-students.blogspot.jp/2015/11/blog-post_2.html
フッサール:内的時間意識の現象学 (ちくま学芸文庫) | エトムント フッサー ル, Edmund Husserl 

以下、元タイトル:スピノザ、ヒューム、フレーゲ
 http://yojiseki.exblog.jp/12119936/

フレーゲは自らの個数言明の理論に確証をもたらすものとして、(半ば批判的にではあるが)スピノザを引用している(邦訳『算術の基礎』49節、109頁。むろんフレーゲはスピノザとは逆に表象から概念が始まっても構わないと考えていて、この時点では実念論的ではない)。

「我々は物を共通の類に還元した後でのみその数の概念の下に考えることができる」(邦訳『スピノザ往復書簡集』書簡50、238頁)

スピノザが硬貨を例に挙げていることが重要なのだがここでは割愛する。
さらに、フレーゲは63節で数の一意的対応の根拠にヒュームを持ち出している(参考:旧投稿)。

ここにヒューム、スピノザは経験論、決定論の区別なく、数学の基礎に位置づけられる。
なお、フレーゲの試みはラッセル、より本質的にはゲーデルに破壊されたとはいえ、ゲーデル数と自然数の対応など、ゲーデルもフレーゲの理論を借り、突き詰めることでフレーゲ理論に反駁したという点が重要である。

今日まで、スピノザ、ヒュームが、カント(フレーゲは前掲書で「カントの改善」を試みたと言っている)によって神秘主義、懐疑主義者とされてしまった弊害は大きい(なおカントも『遺稿』ではスピノザの土俵に立ち返っているが)。

追記:
ネグリ、ハートは『野生のアノマリー』(邦訳297頁)『コモンウェルス』(未邦訳)で上記のスピノザの言説を引用し、政治学的に展開しているようである。
『野 生のアノマリー』はアルチュセールの影響を受け、あまりに政治的だったが(あまりに政治的なので、スピノザが硬貨を例に挙げたことの経済学的な重要さ〜プ ルードンの相互主義に通じる〜が理解できていないようだが)、それでも書誌的な研究はしっかりしていたし、彼らはそれを続けていることになる。


補足:
普遍論争と「ヒュームの原理」
http://yojiseki.exblog.jp/10082812/

クワインは20世紀の論理学の三つの立場(論理主義/直観主義/形式主義)を普遍論争の3つの立場(実念論/概念論/唯名論)に対応させている(邦訳『論理的観点から』より)。

さて、論理主義の代表フレーゲに「ヒュームの原理」(略称HP)というものがある(命名はジュージ・ブーロス『フレーゲ哲学の最新像』)。数を認識する時、一対一対応が最も確実で、幾何学等の延長は不確実になるというものだ。

「ヒュームの原理」は、フレーゲの『算術の基礎』(§63、著作集2勁草書房122頁)において、デイヴィッド・ヒュームの『人間本性論』第1巻第3部第一節からの引用というかたちで言及されている。「例えば、二つの数を集成する各々の単位がそれぞれ常に相応するとき、我々は二つの数が等しいと宣言する。」(岩波文庫人性論1p123)☆。

ヒュームはカントと対照させると、実念論の近代初期版と言える。実感を強調したヒュームは数学を分析的なものと考え、あくまでも実体を重視した。カントはそれに対して数学を総合的なものと捉え、様相を擁護した。先のクワインの指摘はヒュームとフレーゲを実念論に位置づけるものということになり、カント(唯名論者とする)との比較においては的確であることがわかる。

ちなみに、フレーゲの立場は、数学大系を準備しうるものだということがわかっており、再評価されている。
ライプニッツ影響もあるが(フレーゲはライプニッツの『不可識別者同一の原理』を支持しており、これは必然的にカント的空間論を採用しないことを意味する)、そこにヒュームの名前がでるのは面白い。

一対一対応は、秋山仁が数学を日常に見出すことができるといったときの四つの事例のなかのひとつである「靴を下駄箱に入れること」に相当するだろう。

そもそもクワインの冒頭の指摘も一対一対応だ。一対一対応を実念論者?スコトゥスのこだわった一義性に変換すれば神学にも応用できる考え方だ。

ただし、ゲーデルが破壊した形式主義に対して、唯名論は破壊されてはいない。また,ゲーデルはカントの哲学を新しい世界観(=例えば相対性理論)に対応していないとは考えていなかった。ここに論理学(純粋)と哲学(非純粋)の対応と同時に浮かび上がる非対応があるような気がする。

再考したい。

参考サイト:
The Frege reader
著者: Gottlob Frege,Michael Beaney
http://books.google.co.jp/books?id=4ktC0UrG4V8C&pg=PA110&dq=hume+frege+63&lr=&as_brr=3&cd=13#v=onepage&q=hume%20frege%2063&f=false
When two numbers are so combined, as that the one has always an unite answering to every unite of the other, we pronounce them equal;

Hume http://www.gutenberg.org/files/4705/4705-h/4705-h.htm#2H_4_0021

☆:
ヒュームの原理(wiki)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%92%E3%83%A5%E3%83%BC%E3%83%A0%E3%81%AE%E5%8E%9F%E7%90%86


実感を強調したヒュームは数学を分析的なものと考え、あくまでも実体を重視した。カントはそれに対して数学を総合的なものと捉え、様相を擁護した。

ちなみに、フレーゲの立場は、数学体系を準備しうるものだということがわかっており、再評価されている(集合論のパラドクスもヒュームの原理を道具にしている)。

ヒュームは、カントが独断的に述べたような不可知論者では断じてない。


参考:
デイヴィッド・ヒューム(David Hume、ユリウス暦1711年4月26日(グレゴリオ暦5月7日 )- 1776年8月25日)は、スコットランド・エディンバラ出身の哲学者である。イギリス経験 論を代表する思想家であり、歴史学者、政治思想家...



David Hume の肖像画:



デイヴィッド・ヒューム(1711~1776)の肖像画(アラン・ラムゼイという同じ画家による)

File:Painting of David Hume.jpg - Wikipedia

Allan Ramsay (1713–1784) Link back to Creator infobox template wikidata:Q560792

https://en.wikipedia.org/wiki/File:Painting_of_David_Hume.jpg

1753年
 ↓
1766年

ファイル:David Hume.jpg - Wikipedia

https://ja.wikipedia.org/wiki/ファイル:David_Hume.jpg




追記:
ヒューム「人性論」~アインシュタイン

 アインシュタインは回顧録の中でヒュームについて触れている。それによれば、特殊相対性理論誕生の直前、かれは、「ヒュームの『人性論』を熱心にまた、畏敬の念を持って読み」、「核心部分の推論は、ヒュームの理論によって促進された」という。
 
 19世紀末、アインシュタインや他の物理学者を悩ませていた問題があった。
それは、光の速度と同時性に関するものである。
 窓を閉めて一定の速度で走る列車を考えてみる。この列車の中で、野球の二人の投手二人が列車の両端から中央にある的に向かってまったく同じように、かつ同時にボールを投げるとする。このとき、どちらのボールが先に的に当たるだろうか。答えは同時である。
 しかも列車の中の観察者にとってボールの速度は同じに見える。
 線路の脇でこれを観察する人を考えてみよう。進行方向に向かって投げたボールは目にも止まらぬ速度で進むのに対し、逆方向に投げたボールはのろのろと動くように見える。ボールの速度は観察者によって異なって見えるのである。

 次にボールを光に置き換えてみる(鉄道も銀河鉄道をイメージしていただきたい)。
 ここで話が変わる。光は、ボールと異なり、観察者が動いているか否かにかかわらず一定の速度で目に飛び込んでくることが知られている。車内の観察者にとっては、ボールのときと変わる点はなにもない。同時に放たれた光は同時に的に当たる。
 問題は(銀河)鉄道の脇に佇んでいる観察者である。この観察者にとって、進行方向に向かう光も逆方向に向かう光も同じ速度に見える。しかし、列車は動きつつあるから、進行方向に向かう光は、逆方向に向かう光に比べより長い距離を進まなければならない。したがって、逆方向への光のほうが進行方向への光よりも先に的に当たるはずである。ここで「矛盾」が生じてしまった。
 
 ヒュームならこのことを矛盾と考えなかったであろう。立場が異なれば、観察観察事実も異なり得る。
観察は光が目に飛び込んできたときに生じるからである。
アインシュタインは、観察事実の相対性をヒュームから学び、車内の人間が、「二つの光が同時に放たれ、同時に的に当たる」ことを観察するとき、車外の人間は、「進行方向への光が先に放たれ、同時に的に当たる」ことを観察すると考えることで矛盾を解決した。
人間の科学が物質の科学にフィードバックされた瞬間であった。

備考:アインシュタインの特殊相対性理論は、一般に
  E=mC(の2乗)
という、人類が発見したもっとも美しい公式という数式でも表されます。
なおこの公式は、いわゆる原子爆弾の実現可能性も含んでいます。
また、相対論的思考は、量子力学においても、電子の観察可能性についても類似の議論が行われることとなります。


アインシュタイン『バートランド・ラッセルの認識論についての注意』(1944) ?

「田井塾」実験:「アインシュタインの言葉の泉」

http://inter-tai.com/newpage5.html

※以下「バートランド・ラッセルの認識論に関する所見」(1944年)より


●ラッセルが最近発表した著書『意味と真理』(「Meaning and Truth」)で行った機知に富んだ分析には感動しますが、しかし、にもかかわらず、ここでも形而上学恐怖症のにおいが何らかの弊害をもたらしているとやはり感じます。

●この危機は、現代の経験主義的哲学が一種の病に掛かって、宿命的な「形而上学恐怖症」に陥ったことに原因があります。実は、この恐怖症は、感覚的な理解を無視し、これがなくても理解できると考えられていた、かなり昔の哲学と双子の関係にあります。

●ここで言おうとしていることは、これからお話することでご理解いただけますでしょう。ヒュームは自分の明快な批評で哲学の発展に決定的な一撃を加えただけでなく、また、哲学にとって危機とも言うべき状況をもたらしました(とは言え、ここに彼の責任はありません)。

●また、この「概念体系」は、(論理的に)任意に与えられたゲームの規則に従う記号を持った自由な(任意の論理的に可能な)ゲームでもあります。ここに述べたことは、日常生活における思考にも、またきわめて意識的かつ体系的に組み立てられた科学的思考にも応用できるでしょう。

●思考が「形而上学」や意味のない無駄話に退化しないようにするためには、概念体系の中にある多くの見解を感覚的な理解としっかり結び付けなければなりません。ただし、ここで言う概念体系とは、感覚的な理解を整理し、これを吟味するために使われるもので、出来るだけ統一的かつシンプルに構築されている必要があります。

●私は後者の主張(思考は感覚的な理解と結び付いた時にはじめて物質的な内容になるということ)は完全に正しいと思います。しかし、これを基にして指示が出され、ある思考が思考領域から排除されるとすれば、それは間違っています。もしこれを徹底的に行ったなら、すべての思考を「形而上学的」としてことごとく排除してしまうことになるからです。

●ヒュームの批判を支持する立場に立つと、感覚的な理解によって導かれない概念や見解は、それが「形而上学的」な性質を持っているため、思考から取り除かれねばならないという考えに容易にたどり着きます。なぜなら、思考は感覚的な理解と結び付いた時にはじめて物質的な内容になるからです。

As soon as one is at home in Hume’s critique one is easily led to believe that all those concepts and propositions which cannot be deduced from the sensory raw material are, on account of their “metaphysical” character, to be removed from thinking.


●しかし、日常生活の単純な概念を考察するようになればなるほど、複雑な習慣の無数の概念の中から独立した思考の産物を見出すことが難しくなります。そしてここで発生するのが宿命的な(現在の物の状態を理解するために致命的な)考え方です。すべての概念は「抽象化」の方法によって、つまりその内容のある部分を切り捨てることによって感覚から得られるという考え方がそれです。それでは、ここで、この考え方が私にとってなぜ宿命的に思えるのか、この点を詳しくお話することにしましょう。

●たとえば、自然級数は明らかに、ある種の感覚を簡単に整理する方法を創り出した人間の知性が発明したものです。しかし、この概念を私たちの感覚から直接導き出す方法となると、それは存在しません。私はここで数の概念を特別に選びました。なぜなら、この概念は、科学以前の思考に関係し、にもかかわらず、簡単に気付くように、構造的な性質を持っているからです。

●このこと(思考過程で発生する概念は知性の自由な創造物であること)はたった次の理由から簡単には分かりません。それは、この問題に純粋に論理的にアプローチするにしても、私たちが一定の概念や見解をある種の感覚と強く結び付ける習慣を持っているため、感覚的に理解される世界が不透明な壁によって概念と見解の世界と切り離されていることに気付けないでいるということです。

●私は実際には、さらにもっと大切なことを主張すべきだと思います。つまり、私たちの思考過程や言葉で表現することによって発生する概念のすべては、純粋に論理的な観点からすると、感覚から得ることの出来ない知性の自由な創造物である、ということです。

●もちろん現在は上(注:ここでは「下」)に挙げた概念は、だれもが知っているように、カントが考えていたような確実性も内的な必然性も持っていません。しかし、私の考えでは、カント流の次のような問題提起、つまり、論理的な観点から考察する場合、思考過程の中で私たちはある種の「根拠」に基づいて、感覚と関連しない概念を使っている、という考えは正しいと思います。

●もし私たちが信頼できる知識を持っているとすれば、それは純粋な思考に基づいたものでなければなりません。たとえば、幾何学の定理とか因果関係の原理と関連したものがそうです。これらのタイプの知識は、いわゆる、思考手段の一部ですから、したがって、初めに感覚から得られることはありません(つまり、これらはア・プリオリな知識なのです)。

●ここで登場するのがカントです。彼が提案した考えは、そのままの表現形式では受け入れられないものでしたが、しかし、ヒュームのジレンマ、つまり、「経験主義的に発生しているものすべてをことごとく認識することはできない(ヒューム)」という問題の解決に向けての一歩となるものでした。

●人は信頼のできる知識を求めます。正にそれゆえに、ヒュームの役割は失敗に終わったのです。私たちの唯一の認識の源である感覚器官から入ってくる未加工材料は私たちを徐々に信じたり、期待したりするようにはできても、しかし、それを認識したり、ましてや法則として理解したりするようにはできないからです。

●ヒュームは自分の後に生きた優秀な哲学者たちの発展に影響を与えています。彼の精神は、ラッセルの哲学の論文を読む時にも感じられます。彼の正確で簡潔な表現がしばしば私にヒュームを思い出させるのです。

●物事をこのように(下記のように)解釈したため、ヒュームはあらゆる種類の知識に対して懐疑的な態度を取るようになりました。ヒュームの著書を読むと、いかに多くの(しかも時にひじょうに尊敬すべき)哲学者が彼の後でどれほど無知なことを書いていることか、また自分の文章を好意的に理解してくれる読者をよく見つけることが出来たものだと驚かれることでしょう。

●ヒュームは、(たとえば、因果関係のような)本質的なものと見なさねばならない概念は私たちの感覚によって与えられる素材からは得られないと考えていました。

●大体ではありますが(しかも、まだ漠然とした表現になっていますが)、おそらく、現在はこれ(☆)が一般に受け入れられている見解です。しかし、これは、純粋な思考だけで現実を認識することが不可能であることを実際に誰かが証明したという事実を基にして得られるものではなく、むしろ、(上に述べた意味で)経験主義的な手法によって知識が源となり得ることがすでに証明されているという考えを基にして得られるものです。これを原理として完全に明快な、正確な形ではじめて提出したのがガリレイとヒュームでした。

●そして、物に関する私たちの知識はすべて私たちの感覚器官によって得られる加工された原料だけで出来ていると次第に考えられるようになって行きました。☆

●しかし、正に同じ物理学的な思考方法を実際に使用し、成果が得られるにつれ、純粋に思弁的な手段で物および物と物の間の関係を認識できるという自信が揺らぎはじめました。


Albert Einstein

—.  1944/1981j.  Remarks on Bertrand  Russell's Theory  of  Knowledge. 

 In  Ideas  and Opinions,  ed. Carl Seelig,  29‒35.  Trans.  Paul  Arthur  Schilpp.  New  York:  Dell  Publishing. 


Einstein, Albert (1949)  Autobiographical Notes. P. A. Schilpp, trans. and ed., La Salle and Chicago: Open court, 1979; reprinted and corrected from P. A. Schilpp, ed.,  Albert Einstein: Philosopher-Scientist. Evanston, IL: Library of Living Philosophers. 

http://philsci-archive.pitt.edu/2149/1/Norton.pdf

 (1949, p. 51):

 Today everyone knows, of course, that all attempts to clarify this paradox [of light that leads to special relativity] satisfactorily were condemned to failure as long as the axiom of the absolute character of time, or of simultaneity, was rooted unrecognized in the unconscious. To recognize clearly this axiom and its arbitrary character already implies the essentials of the solution of the problem. The type of critical reasoning required for the discovery of this central point was decisively furthered, in my case, especially by the reading of David Hume’s and Ernst Mach’s philosophical writings.


アインシュタイン自伝ノート 1978

https://www.amazon.co.jp/gp/aw/d/448901127X/



An earlier remark in a letter of December 14, 1915, to Moritz Schlick (Papers, A, Vol. 8A, Doc. 165) makes the relative importance of Hume and Mach clear: 

Your exposition is also quite right that positivism suggested rel. theory, without requiring it. Also you have correctly seen that this line of thought was of great influence on my efforts and indeed E. Mach and still much more Hume, whose treatise on understanding I studied with eagerness and admiration shortly before finding relativity theory.







木田元「マッハとニーチェ 世紀転換期思想史」 - 日々平安録

http://d.hatena.ne.jp/jmiyaza/touch/20020923/1154148794

 わたしがマッハという物理学者の存在の大きさを知ったのは、ポパーの「果てしなき探求 知的自伝」(岩波書店)の中の「物理学における主観主義との闘い」と「ボルツマンと時間の矢」の章においてであった。「物理学における主観主義との闘い」は「エルンスト・マッハに比肩しうるほどの知的衝撃を二十世紀に与えた人はほとんどいなかった」と書き出されている。ポパーによれば、マッハは、ポパーが批判する物理学における主観主義を導入した張本人なのであり、アインシュタインは一度マッハの陣営に入りかけ引き返したが、ボーア、パウリ、ハイゼンベルグらは主観主義者にとどまったのである。

 本書においても、アインシュタインが、自分の仕事においてマッハの著作とヒュームの「人性論」が非常に助けになったということを述べているマッハへの追悼文が引用されている。マッハはニュートン的な絶対空間と絶対時間を否定し、われわれの感覚にあらわれるものだけを物理学の対象をすべきであるとしたからである。しかし、それ以上に18世紀イギリスのアダム・スミスの同時代人であるヒューム哲学アインシュタインの発想に大きな影響をあたえたというほうが驚きである。


以下木田マッハ...より

アインシュタインは、一九一六年のマッハへの追悼文のなかで、さらに次のようにさえ言っている。


私の仕事にとってマッハとヒュームの研究が非常にたすけになった。マッハは古典力学の弱点を認め、半世紀も前に一般相対性理論を求めるにあとちょっとのところまできていた。……マッハがまだ若く彼の頭脳が柔軟であった時期に、物理学者たちのあいだで光速の一定性ということが問題にされているようであったら、マッハこそが相対性理論を発見したであろう……。(マッハ『認識の分析』の「訳者附録」での引用による)


アインシュタインは、一九〇二年にベルンで特許局に就職したあと、ソロヴィンやハビヒトやその他二、三の友人といっしょに、マッハ[力学史]の他の著作とともにヒュームの『人性論』を読んだそうである。


Einstein, Albert (1916) “Ernst Mach,”  Physikalische  Zeitschrift, 17, pp. 101-104;  Papers, Vol. 6, Doc. 29



Volume 6: The Berlin Years: Writings, 1914-1917 (English translation supplement) page 141

http://einsteinpapers.press.princeton.edu/vol6-trans/153?ajax



157夜『マッハ力学』エルンスト・マッハ|松岡正剛の千夜千冊

http://1000ya.isis.ne.jp/0157.html

エルンスト・マッハ


マッハ力学

内田老鶴圃 1931 講談社 1981

Ernst Mach

Die Mechanik In Ihrer Entwicklung 1883・ 1933

[訳]伏見譲


マッハ力学史と同じ



89 Comments:

Blogger yoji said...

改定版:

論理主義の代表フレーゲの主張に「ヒュームの原理」(略称HP)というものがある(命名はジュージ・ブーロス『フレーゲ哲学の最新像』)。数を認識する時、一対一対応が最も確実で、幾何学等の延長は不確実になるというものだ。

「ヒュームの原理」は、フレーゲの『算術の基礎』(§63、著作集2勁草書房122頁)において、デイヴィッド・ヒュームの『人間本性論』第1巻第3部第一節からの引用というかたちで言及されている。「例えば、二つの数を集成する各々の単位がそれぞれ常に相応するとき、我々は二つの数が等しいと宣言する。」(岩波文庫人性論1p123)。

実感を強調したヒュームは数学を分析的なものと考え、あくまでも実体を重視した。カントはそれに対して数学を総合的なものと捉え、様相を擁護した。

ちなみに、フレーゲの立場は、数学体系を準備しうるものだということがわかっており、再評価されている。
ヒュームは、カントが独断的に述べたような不可知論者ではない。

11:40 午後  
Blogger yoji said...

改定版:

論理主義の代表フレーゲの主張に「ヒュームの原理」(略称HP)というものがある(命名はジュージ・ブーロス『フレーゲ哲学の最新像』)。数を認識する時、一対一対応が最も確実で、幾何学等の延長は不確実になるというものだ。

「ヒュームの原理」は、フレーゲの『算術の基礎』(§63、著作集2勁草書房122頁)において、デイヴィッド・ヒュームの『人間本性論』第1巻第3部第一節からの引用というかたちで言及されている。「例えば、二つの数を集成する各々の単位がそれぞれ常に相応するとき、我々は二つの数が等しいと宣言する。」(岩波文庫人性論1p123)。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%92%E3%83%A5%E3%83%BC%E3%83%A0%E3%81%AE%E5%8E%9F%E7%90%86

実感を強調したヒュームは数学を分析的なものと考え、あくまでも実体を重視した。カントはそれに対して数学を総合的なものと捉え、様相を擁護した。

ちなみに、フレーゲの立場は、数学体系を準備しうるものだということがわかっており、再評価されている。
ヒュームは、カントが独断的に述べたような不可知論者ではない。

11:43 午後  
Blogger yoji said...

改定版:

論理主義の代表フレーゲの主張に「ヒュームの原理」(略称HP)というものがある(命名はジュージ・ブーロス『フレーゲ哲学の最新像』)。
数を認識する時、一対一対応が最も確実で、幾何学等の延長は不確実になるというものだ。

「ヒュームの原理」は、フレーゲの『算術の基礎』(§63、著作集2勁草書房122頁)において、デイヴィッド・ヒュームの『人間本性論』第1巻
第3部第一節からの引用というかたちで言及されている。「例えば、二つの数を集成する各々の単位がそれぞれ常に相応するとき、我々は二つの数が
等しいと宣言する。」(岩波文庫人性論1p123)。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%92%E3%83%A5%E3%83%BC%E3%83%A0%E3%81%AE%E5%8E%9F%E7%90%86

実感を強調したヒュームは数学を分析的なものと考え、あくまでも実体を重視した。カントはそれに対して数学を総合的なものと捉え、様相を擁護した。

ちなみに、フレーゲの立場は、数学体系を準備しうるものだということがわかっており、再評価されている。
ヒュームは、カントが独断的に述べたよう
な不可知論者では断じてない。

11:44 午後  
Blogger yoji said...

改定版:

論理主義の代表フレーゲの主張に「ヒュームの原理」(略称HP)というものがある(命名はジュージ・ブーロス『フレーゲ哲学の最新像』)。
数を認識する時、一対一対応が最も確実で、幾何学等の延長は不確実になるというものだ。

「ヒュームの原理」は、フレーゲの『算術の基礎』(§63、著作集2勁草書房122頁)において、デイヴィッド・ヒュームの『人間本性論』第1巻
第3部第一節からの引用というかたちで言及されている。「例えば、二つの数を集成する各々の単位がそれぞれ常に相応するとき、我々は二つの数が
等しいと宣言する。」(岩波文庫人性論1p123)。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%92%E3%83%A5%E3%83%BC%E3%83%A0%E3%81%AE%E5%8E%9F%E7%90%86

実感を強調したヒュームは数学を分析的なものと考え、あくまでも実体を重視した。カントはそれに対して数学を総合的なものと捉え、様相を擁護した。

ちなみに、フレーゲの立場は、数学体系を準備しうるものだということがわかっており、再評価されている。

ヒュームは、カントが独断的に述べたような不可知論者では断じてない。

11:44 午後  
Blogger yoji said...

実無限に関する様々な立場について
カントール
http://www.geocities.jp/mickindex/cantor/cnt_uSU_jp.html

 つまり実無限は三つの主要な立場において問題となりえます。第一に、実無限は永遠して全能の神、または能産的自然において現れる限りで問題となり、その場合実無限は絶対的なもの(Absolute)と呼ばれます[5]。第二に、実無限は具体的に、または所産的自然において現れる限りで問題となり、その場合実無限は超限的なもの(Transfinitum)と呼ばれます。そして第三に実無限は抽象的に、つまりそれが実無限数の形で、あるいは私の呼び方によれば超限数の形で、あるいはより一般的な超限順序型(思考可能な数あるいは認識可能な数)という形で人間によって認識されうる限りにおいて問題となります。

 これら三つの問題のうち、第一の問題は除外して残りの二つに限定するならば、自ずと四つの異なる立場が出てきます。これらの立場は実際に、過去や現在において主張されているものです。

 まず第一の立場では、実無限は具体的にも抽象的にも否定されます。これはゲルディル、コーシー、モワニョーらの前出の著作において、またCh.ルヌーヴィエ氏[6](氏の『哲学的教説の体系的分類の概要』第1部 100ページ (パリ, au Bureau de la Critique philosophique, 1885)を参照してください。)、あるいは全てのいわゆる実証主義者とその亜流において見られる主張です。

 第二の立場では、実無限は具体的には肯定されるが抽象的には否定されます。この立場は、私の論文「一般集合論の基礎」の16ページで強調したように、デカルト、スピノザ、ライプニッツ、ロックその他多くの人々において見られます。ここでも最近の著者を一人選ぶならば、「実無限は矛盾しているか? ルヌーヴィエ氏への回答」(Revue philos. de Ribot, 第9巻, 1880)という論文で実無限を具体的に擁護しているヘルマン・ロッツェ氏[7]を挙げておきましょう。ルヌーヴィエの回答は同じ雑誌の同じ巻に収録されています。

 第三の立場では、実無限は抽象的には肯定されるが具体的には否定されます。一部の新スコラ学派はこの立場に立ちますが、同学派の大部分は、1879年8月4日のレオ13世の回勅『天使博士トマス・アクィナスの意図に従って刷新されるべきカトリック諸学派におけるキリスト教哲学について』から強い影響を受け、四つの立場のうち第一のものを未だに擁護しようと試みています。

 最後に第四の立場では、実無限は具体的にも抽象的にも肯定されます。この立場こそ、私が唯一正しいと考えるものですが、支持する人はごく少数です。この立場を全面的に、その全ての結果において主張している者となると、現在のところ恐らく私一人だけです。しかし私は、私がこの立場を擁護する最後の者にはならないだろうということを確信しております。

 神における実無限の問題に対する哲学者の立場を振り返ると、八つの立場に諸学派を分類できますが、面白いことに、その全ての立場が [現在も] 主張されているようなのです。もしこの八つの立場に分類しがたい著者がいるとすれば、実無限についての三つの問題のうち1つかそれ以上について、特定の立場を取らなかった者だけでしょう。

10:25 午後  
Blogger yoji said...


エポックエポカーエアポケットエケットエポケーエエプクパケエポックエポッットエケー


                   ↓


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括弧を付けるとわかり易い
カッコつけるために括弧を付けるのではない





「「「「「「「「「「エポケー」」」」」」」」」」」」
                   
           ↓

          エポケー





括弧はいつでも
とりはずせなければならない



三木清のボルツァーノ論(「ボルツアーノの「命題自体」」)は以下からpdfリンクが貼ってある。
http://www.geocities.co.jp/Bookend-Ryunosuke/8891/mikizenshu.html   

11:27 午後  
Blogger yoji said...

http://d.hatena.ne.jp/tsuka_ryo/20101218/1292606876
2010-12-18
J.N.モハンティ『フッサールとフレーゲ』Add Starsakstyle

読書 | 02:27 | J.N.モハンティ『フッサールとフレーゲ』を含むブックマーク

分析哲学の祖・フレーゲと、現象学の祖・フッサール

離れた場所からスタートしたと思われがちなこの二人が、実際は近い場所にいて近い問題意識をもっていて、興味深い交流もあった、という内容。常々こういう大陸哲学と分析哲学の両方を論理に組み込んだ本がもっと出てこんかなーと思っているのだがこういう手法は70年代以降のアメリカの現象学の研究者のあいだでは割とオーソドックスなんだとか。いいなあ。

世界内的意味論の立場に立つ


フレーゲによるフッサール著『算術の哲学』への批判的な書評でフッサールは考え方を改めた、



という哲学者フェレスダール以来のスタンダードな両者の関係についての理解に対して、著者モハンティはこう異論を唱える。フッサールはフレーゲの批判より前に自分の立場の弱点には気づいていたこと、結局はフレーゲの立場を極めようとすれば現象学に至らざるを得ない、だから、フッサールの優位性は揺るがないんだよ、と。

自分にとっては魅力的なテーマだけれども訳者解説にもあるようにモハンティはちょっとフッサールに肩入れしすぎているところがあって、フレーゲ的意味論の画期性を過小評価しがちなところがある。でも哲学史の岐路の、この「前夜」な感じというか、うずうずしている感じというか、そういうのが伝わってきてこの時期ってすごく面白いと思った。意外な組み合わせの哲学者同士の関係とか、ツイッターでいうと、フォローしている中のクラスタの違うと思っていた2人がやりとりしてるのをみた時の感じ?あと、特殊な学術用語作りすぎて他の哲学と接続しづらくなってしまったわけだけど、やっぱ現象学って面白いな、と。「超越的~」とかキャッチーなネーミングの専門用語とか謎めいたテクストとか、(広義の)現象学に惹きつけられる人や「現象学こそが哲学だ」と思う人がいるのは理解できる*1。

というか、ちょっとネタバレすると、元々自分は華麗な飛躍に魅せられるタイプなんだけど、自分の観測範囲に現象学~フランス現代思想読者とか多すぎて、「天の邪気要素」がトリガーとなって分析系に向かったことは否定できない、というのがありますね笑
フッサールとフレーゲ

フッサールとフレーゲ

作者: J.N.モハンティ,貫成人
出版社/メーカー: 勁草書房
発売日: 1991/02

11:29 午後  
Blogger yoji said...



*1:といってもフッサールは出自が数学で、logicに対する関心は生涯を通じてやむことはなかった。ポストモダニズムの直接の引き金となったのはむしろフッサールの弟子ハイデガーだったり教え子にラカンがいるコジェーヴ

11:31 午後  
Blogger yoji said...

ネグリのコモンウェルスは邦訳が出た

4:51 午前  
Blogger yoji said...


http://bladerunner.tou3.com/Entry/659/
http://twilog.org/Khatru/date-130411
数学者の秋山仁は、中学高校までの数学だったか、とにかく数学ができるためには
次の四つの能力があれば十分だ、とどこかで書いていた。

1 下駄箱に靴をそろえて入れることができる
2 辞書が引ける
3 カレーライスが作れる
4 最寄駅から自宅までの地図が描ける

 1の靴をそろえられるということは「1対1の対応」の概念が理解できているということで、
2の辞書が引ける、すなわち辞書で目的の単語を見つけられるというのは「順序」の概念が
分かっているということであり、
3のカレーが作れるというのは「手順を整理し観察・実行」ができるということを意味し、
4の地図が描けるということは「抽象能力」がある(3次元のものを2次元に移して
考えられる、よけいな風景を省いて道順だけ抜き出して描ける、といった)
……という意味だそうだ。




http://twilog.org/Khatru/date-130411

"微積分が好きだなんて言う学生は、数学科に向いてないんじゃないかな。だって、本物の微積分ならいいけれど、極限値にしても、「限りなく何とかに近づく」なんていう、あいまいなものだ。「限りなく君を愛す」みたいで文学的な表現だよ。"
"地図を描けるというのは抽象能力があるということです。だって、三次元のユークリッド空間のものを平面に帰着させるんだから。また、一対一の対応が下駄箱のテストでわかる。さらに、観察能力がカレーライスをつくれるか否かで試せるし、順序関係を把握する能力があるか否か
辞書をちゃんと引けるか否かでチェックできる。このくらいのことができれば、あとはコツコツ努力すれば、フィールズ賞とまではいかないかもしれないが、大学入試の数学なんかヘッチャラですよと、いいかげんな話をしたら、翌日の朝日新聞の社説にそのことが書かれちゃった"
『秋山仁の遊びからつくる数学』

10:46 午後  
Blogger yoji said...

D・ヒューム「人間本性論(人性論)」詳細目次(ver. 0.1.3)-gooブログ
http://blog.goo.ne.jp/celsius220/e/bb246ff8b53a680445c20f2022664ee3
David Hume "A Treatise of Human Nature"

第1巻 「知る」ということ
イントロダクション
第1部 観念──その起源・合成・結合・抽象
1-01 観念の起源
1-02 主題の区分[なぜ観念を先に論ずるか]
1-03 記憶と想像
1-04 観念の結合または連合
1-05 関係
1-06 本体(substance)とおまけ(mode)
1-07 抽象的な観念
第2部 時間と空間の観念
2-01 空間と時間の観念の無限分割可能性について
2-02 空間と時間の無限分割可能性について
2-03 空間と時間の観念における諸性質
2-04 反論への回答
2-05 続き
2-06 存在の観念と外的存在について
第3部 知識(knowledge)と半知識(probability)
3-01 知識
3-02 半知識および因果の観念
3-03 なぜ原因は常に必然的(necessary)なのか
3-04 因果の推理(reasoning)の構成要素
3-05 感覚と記憶の印象
3-06 印象から観念への推論(inference)
3-07 観念または信念の本性
3-08 信念の原因
3-09 因果関係以外の関係・習慣による結果
3-10 信念の影響
3-11 偶然の半知識
3-12 複数の原因をもつ半知識
3-13 哲学的ではない半知識
3-14 必然的結合の観念
3-15 原因と結果を判定するための規則
3-16 動物の理性について
第4部 懐疑論およびその他の哲学体系について
4-01 理性についての懐疑論
4-02 感覚についての懐疑論
4-03 古代哲学
4-04 近代哲学
4-05 魂(soul)の非物質性
4-06 人格の同一性(identity)
4-07 第1巻の結論

第2巻 感情
第1部 誇りと卑下(humility)
1-01 主題の区分
1-02 誇りと卑下、その対象と原因
1-03 対象と原因はどこからくるか
1-04 印象と観念の関係
1-05 誇りと卑下についてこの関係が及ぼす影響
1-06 この体系の限界
1-07 悪徳と徳(vice and virtue)
1-08 美とブサイク(deformity)
1-09 外的な長所(advantage)と短所(dis-)
1-10 所有(property)と富裕(rich)
1-11 愛と名声
1-12 動物の誇りと謙遜について
第2部 愛と憎しみ
2-01 愛と憎しみの対象と原因
2-02 この体系を確証するための実験
2-03 難問の解決
2-04 同胞の愛(love of relations)
2-05 富者や権力者に対する尊敬(esteem)
2-06 博愛(benevolence)と怒り(anger)
2-07 同情(compassion)
2-08 悪意(malice)と妬み(envy)
2-09 「博愛と怒り」の「悪意と妬み」との混合
2-10 尊敬と侮蔑
2-11 恋愛感情、両性間の愛について
2-12 動物の愛と憎しみ
第3部 意志と直接感情
3-01 自由と必然
3-02 続き
3-03 意志の、行為に影響する動機
3-04 暴力的な感情の原因
3-05 習慣の結果
3-06 想像が感情に及ぼす影響
3-07 時間・空間的な近接と距離
3-08 続き
3-09 直接感情(direct passions)
3-10 好奇心と真理への愛

第3巻 道徳
第1部 徳と悪徳一般
1-01 分別(distinction)は理性からはもたらされない
1-02 分別は道徳感覚からもたらされる
第2部 正義と不正義
2-01 正義の徳は自然(natural)か人為(artificial)か
2-02 正義と所有の起源
2-03 所有を決定する規則
2-04 同意による所有の移転(transference)
2-05 約束の責務
2-06 正義と不正義についてのさらなる考察
2-07 政府(統治組織)の起源
2-08 忠誠(allegiance)の源泉
2-09 忠誠をはかる
2-10 忠誠の対象
2-11 国家間の法
2-12 貞操(chastity)と慎み(modesty)
第3部 その他の徳と悪徳
3-01 自然の徳と悪徳の起源
3-02 心の偉大さ
3-03 善良さと博愛
3-04 自然の能力(才能)
3-05 自然の徳についてのさらなる考察
3-06 第3巻の結論
付録

2:14 午前  
Blogger yoji said...


「ヒュームの原理」は、フレーゲの『算術の基礎』(§63、著作集2勁草書房122頁)において、デイヴィッド・ヒュームの『人間本性論』第1巻
第3部第一節からの引用というかたちで言及されている。「例えば、二つの数を集成する各々の単位がそれぞれ常に相応するとき、我々は二つの数が
等しいと宣言する。」(岩波文庫人性論1p123)。

2:16 午前  
Blogger yoji said...


3-14 必然的結合の観念

ドゥルーズが差異と反復第二章冒頭で言及?

2:18 午前  
Blogger yoji said...

1:3:14
ヒューム

4:11 午前
yoji said...
The repetition of perfectly similar instances can never alone give rise to an original idea, different from what is to be found in any particular instance…Since therefore the idea of power is a new original idea, not to be found in any one instance…it follows, that the repetition alone has not that effect, but must discover or produce something new, which is the source of that idea (Treatise 163).

The repetition of AB in-itself does not produce a new original idea, but the observation of the resemblance between As does produce, Hume claims, "a new impression in the mind." (T 165) And from here we're off to the races and Hume offers his well know account of the belief in causal necessity.


http://www.newappsblog.com/2012/06/repetition.html


D・ヒューム「人間本性論(人性論)」詳細目次(ver. 0.1.3)-gooブログ
http://blog.goo.ne.jp/celsius220/e/bb246ff8b53a680445c20f2022664ee3
David Hume "A Treatise of Human Nature"

第1巻 「知る」ということ
イントロダクション
第1部 観念──その起源・合成・結合・抽象
1-01 観念の起源
1-02 主題の区分[なぜ観念を先に論ずるか]
1-03 記憶と想像
1-04 観念の結合または連合
1-05 関係
1-06 本体(substance)とおまけ(mode)
1-07 抽象的な観念
第2部 時間と空間の観念
2-01 空間と時間の観念の無限分割可能性について
2-02 空間と時間の無限分割可能性について
2-03 空間と時間の観念における諸性質
2-04 反論への回答
2-05 続き
2-06 存在の観念と外的存在について
第3部 知識(knowledge)と半知識(probability)
3-01 知識
3-02 半知識および因果の観念
3-03 なぜ原因は常に必然的(necessary)なのか
3-04 因果の推理(reasoning)の構成要素
3-05 感覚と記憶の印象
3-06 印象から観念への推論(inference)
3-07 観念または信念の本性
3-08 信念の原因
3-09 因果関係以外の関係・習慣による結果
3-10 信念の影響
3-11 偶然の半知識
3-12 複数の原因をもつ半知識
3-13 哲学的ではない半知識
3-14 必然的結合の観念
3-15 原因と結果を判定するための規則
3-16 動物の理性について
第4部 懐疑論およびその他の哲学体系について
4-01 理性についての懐疑論
4-02 感覚についての懐疑論
4-03 古代哲学
4-04 近代哲学
4-05 魂(soul)の非物質性
4-06 人格の同一性(identity)
4-07 第1巻の結論

第2巻 感情
第1部 誇りと卑下(humility)
1-01 主題の区分
1-02 誇りと卑下、その対象と原因
1-03 対象と原因はどこからくるか
1-04 印象と観念の関係
1-05 誇りと卑下についてこの関係が及ぼす影響
1-06 この体系の限界
1-07 悪徳と徳(vice and virtue)
1-08 美とブサイク(deformity)
1-09 外的な長所(advantage)と短所(dis-)
1-10 所有(property)と富裕(rich)
1-11 愛と名声
1-12 動物の誇りと謙遜について
第2部 愛と憎しみ
2-01 愛と憎しみの対象と原因
2-02 この体系を確証するための実験
2-03 難問の解決
2-04 同胞の愛(love of relations)
2-05 富者や権力者に対する尊敬(esteem)
2-06 博愛(benevolence)と怒り(anger)
2-07 同情(compassion)
2-08 悪意(malice)と妬み(envy)
2-09 「博愛と怒り」の「悪意と妬み」との混合
2-10 尊敬と侮蔑
2-11 恋愛感情、両性間の愛について
2-12 動物の愛と憎しみ
第3部 意志と直接感情
3-01 自由と必然
3-02 続き
3-03 意志の、行為に影響する動機
3-04 暴力的な感情の原因
3-05 習慣の結果
3-06 想像が感情に及ぼす影響
3-07 時間・空間的な近接と距離
3-08 続き
3-09 直接感情(direct passions)
3-10 好奇心と真理への愛

第3巻 道徳
第1部 徳と悪徳一般
1-01 分別(distinction)は理性からはもたらされない
1-02 分別は道徳感覚からもたらされる
第2部 正義と不正義
2-01 正義の徳は自然(natural)か人為(artificial)か
2-02 正義と所有の起源
2-03 所有を決定する規則
2-04 同意による所有の移転(transference)
2-05 約束の責務
2-06 正義と不正義についてのさらなる考察
2-07 政府(統治組織)の起源
2-08 忠誠(allegiance)の源泉
2-09 忠誠をはかる
2-10 忠誠の対象
2-11 国家間の法
2-12 貞操(chastity)と慎み(modesty)
第3部 その他の徳と悪徳
3-01 自然の徳と悪徳の起源
3-02 心の偉大さ
3-03 善良さと博愛
3-04 自然の能力(才能)
3-05 自然の徳についてのさらなる考察
3-06 第3巻の結論
付録

2:19 午前  
Blogger yoji said...

http://cruel.org/econthought/profiles/humebio.html
 ヒュームの立場は単純にこういうことだ:因果律それ自体は、意味ある命題じゃない。というか、「因果律」自体は「概念の関係」でもないし(たとえば、「朝日がニワトリを鳴かせる」という命題を否定しても、矛盾は生じない)。さらにそれは、具体的な感覚にさかのぼることもできない。したがってそれは「事実を述べたもの」でもない。われわれは、感覚的なデータと因果関係があるという命題との間に「必然的な結びつき」を持っていない。単にある現象が起きて、続いて別の現象が起きることから、前者が後者を引き起こしているのだと「想定」する(が、実際にそれを知ることはない)。でも、そんな想定をしないことだって十分に可能だ。有名なビリヤードの玉の例をとって、ヒュームはこれを見事に論じる。

 ヒュームの議論では、因果律は、単に結びつきの習慣、一種の「信念」でしかなく、とことん無根拠で無意味だ。 Enquiry でかれはこう書く:

「まわりの外的な物体を見回して、因果律の作用を考えるとき、どれ一つとして必然的な結びつきや力を発見することはできない。(中略)われわれは、一つの出来事が実際に、確かに他のことに続いて起こることを見いだせるだけだ」
(D. Hume, 1748: p.67)

そしてさらに、以下のように述べる:

「だが、ある特定の事象系列が、あらゆる状況で、別の事象系列を結びついている場合、我々はもはや、片方の事象がもう片方を予見していると言うことに何のためらいも持たない。(中略)そのときわれわれは、片方の事象を『原因』、もう片方の『結果』と呼ぶ。そしてその両者の間に何らかの関係があると想定する。片方の中にある力が、間違いなくもう片方を引き起こして、それが実に強い確実性と必然性を持ってそれが機能するというわけだ」
(D. Hume, 1748: p.80-81)

 でもヒュームは、これが誤解のもとだと警告した。ニワトリが鳴くから朝日が昇るのか? 歴史的に言って、ニワトリの鳴き声は日の出に確かに先立つので、とても一貫性のある予測現象となはる。でも、そこに因果関係が見つかると考えるだろうか? バカ言っちゃいけない。初めて人がこの現象を見たら、それは単に「連結した」事象でしかない。でもそれが何度も繰り返されるにしたがって、想像力がそこに関わってきて、ぼくたちはそこに「結びつき」を見いだす――でもこれは、ヒュームが指摘するように単なる人間の「感触」でしかない。ぼくたちが、X が Y を引きおこすといったら、「われわれは単に、それがわれわれにとっては結びつきを獲得して、そうした(因果関係)の推定をもたらすようになった、と言っているにすぎない」 (p.82) が、実際の事態を考えるなら、われわれの知覚認識は単に「X が先に起こりがちで、Yが後から起こりがちだ」としか語らない。

11:34 午後  
Blogger yoji said...

http://www.systemicssystem.com/ja/%E3%83%92%E3%83%A5%E3%83%BC%E3%83%A0%E3%81%AE%E6%87%90%E7%96%91%E8%AB%96
例えば、ビリヤードのボールが真直ぐ他のボールに向かっていくのを見る時、たとえ接触ないし衝突の結果として第二のボールの運動がたまたま私に示唆されたとしても、その原因から異なる百の出来事が同様に帰結したかもしれないと考えていけないだろうか。二つのボールが完全に静止するということはあってはならないのか。最初のボールが真直ぐ戻ってきたり、二番目のボールから、任意の方向・方角へ飛び離れたりしてはいけないのか。これらの想定はすべて無矛盾で不可能ではない。私たちのアプリオリな推論は、この採択に対していかなる根拠をも私たちに示すことはできないだろう。[3]

『人間知性研究』An Enquiry concerning Human Understanding



http://www.amazon.co.jp/dp/4588150367/
Amazon.co.jp: 人間知性研究―付・人間本性論摘要: デイヴィッド ヒューム, David Hume, 斎藤 繁雄, 一ノ瀬 正樹: 本
8 人中、7人の方が、「このレビューが参考になった」と投票しています。
5つ星のうち 4.0 経験に強く立脚したヒューム哲学 2008/5/6
By θ トップ1000レビュアー
形式:単行本
ヒュームの哲学のエッセンスがコンパクトにまとまっている本。

ヒュームの哲学は、理性への強い懐疑と、経験への立脚が特徴的である。

因果律の分析は特に有名である。
ある玉Åが別の玉Bにぶつかり、Bがはじかれて動いたとしよう。このとき、Aを原因、Bを結果と見るものは何だろうか。
自然の中に原因や結果が隠れているわけではない。いくら頭で考えても、どこかから因果律が降ってくるわけではない。
原因や結果は、我々が経験的に学び取った、世界を見るための手段なのである。

自由と必然に対するヒュームの見解はさばさばしている。
まず、必然は偶然と対峙され、自由は必然と対峙させられているので、自由と偶然性は同一視できる。
しかし、人間の認識の方法(因果律)からして、すべてのものは因果的に必然であるように見られ、偶然は存在しない。

また、奇跡論法も有名だ。
人はあることを信じるか否かを、そのことの確信度を証拠によって積み上げ、信じない方の確信度と比較することよって決めている。
さて、奇跡は経験に反しており、したがって奇跡を伝える証言は信憑性が低い。
そうした証言が信用できるのは、証言を廃棄するよりも信じるほうが妥当だといえるぐらいの状況(地球上の全員の証言が一致するなど)でしかないが、そういった状況ではもはやその事柄は奇跡とは呼ばれていない。
だから奇跡は存在しないし、奇跡を信じるのは、もっとも信用できる経験を放り出すようなものだ。

論理実証主義や現代哲学に通ずるところもあり、今読んでも決して古くは感じない。
一読に値する。



11:43 午後  
Blogger yoji said...

財津理の思想研究 ドゥルーズ/ラカン/ハイデガー 新・ドゥルーズ『差異と反復』改訳と解釈1
http://zaitsu.blog137.fc2.com/blog-entry-105.html
新・ドゥルーズ『差異と反復』改訳と解釈1
亀のように、のろのろとした歩みではあるが、本日から、あらためて『差異と反復』第二章の改訳と注釈を発表していこう。『差異と反復』でも、注目すべき語句を、本文全体に求めて、その使い方を確認していく。

この第二章は時間論である。その前半で、ドゥルーズは、おもに哲学と文学を渉猟して、三つの時間を、あたかも三つの段階を登るように描写していく。

1、時間の第一の総合:生ける現在、その現在のエレメントとしての過去と未来。
2、時間の第二の総合:純粋過去、その過去のエレメントとしての現在と未来。
3、時間の第三の総合:永遠回帰における未来、その未来のエレメントとしての過去と現在。

そして、第二章の後半では、その三つの時間が、精神分析の分野で反復される。

本日は、第二章の第1段落の訳文のみを公表する。注釈は次回で示す。

                        ∴

第二章 自分自身に向う反復【注1】

第一節 反復:何かが変化させられる【注2】

反復する事物のなかでは、反復によって何も変化しないが、しかし反復を観照する精神のなかでは、反復によって何かが変化する【注3】――ヒュームのこの有名な主張【注4】は、わたしたちを、或る問題の核心に連れてゆく。現前するそれぞれのもの〔例えば時計の音〕は互いに完全に独立しているという意味を、権利上【注5】、反復は含んでいるのだから、どうして反復は、反復する事例や要素のなかで、何かを変化させることがあろうか。反復における不連続性と瞬間性の規則は、次のように定式的に表現される――ひとつの〔先行する〕ものが消えなければ、もうひとつの〔後続する〕ものは現れない。瞬間的精神【注6】としての物質の状態が、その例である。それにしても、反復は出来あがるそばから壊れるのだから、どうして、「二番目」、「三番目」、また「それは同じだ」と言うことができようか。反復は、即自をもっていない【注7】。その代わり、反復は、反復を観照する精神のなかでは、何かを変化させる。それが、変更【注8】の本質である。ヒュームは、例として、事例の反復、すなわち〈AB、AB、AB、A・・〉というタイプの反復を取り上げている。どの事例も、どの客観的なシークエンス〈AB〉も、ほかの〈AB〉から独立している。反復は、(ただし正確には、ひとはまだ反復を語ることはできないのだが)、事物のなかでは、つまり〈AB〉という〈物の状態〉のなかでは、何も変化させない。その代わり、観照する精神のなかに、ひとつの変化が生じる。すなわち、或る差異が、何か新たなものが、精神のなかに生じるのである。Aが現れると、いまや私はBの出現を待ち受ける【注9】。それはまさに、反復の対自【注10】なのだろうか。すなわち、必然的に反復の構成【注11】に関与せざるをえない或る根源的な主観性なのだろうか。反復のパラドックスとは、次のようなことではないだろうか。すなわち、ひとが反復を語ることができるためには、反復を観照する精神のなかにその反復が導入する差異つまり変化によるほかはないということ。つまり、精神が反復から抜き取る【注12】或る差異によるほかはないということ。

11:52 午後  
Blogger yoji said...

財津理の思想研究 ドゥルーズ/ラカン/ハイデガー ドゥルーズ『差異と反復』の改訳と解釈
http://zaitsu.blog137.fc2.com/blog-category-15.html
                         ∴

5月16日の記事「ドゥルーズ『差異と反復』の改訳と解釈2」で、次回は訳文を解説すると書いたが、まだ訳文の量が少ないので、もうしばらく改訳を進めることにしたい。

(原書p96の本文の9行目から。ハードカバー版訳書119頁、本文上段10行目から。)

まず、前回の訳文を少し訂正する。

「 第二章 それ自身へ向う反復

反復、それは何かが変化させられるということ
反復は、反復する事物のなかでは何も変化させないが、反復を観照する精神のなかでは何かを変化させる――ヒュームのこの有名な主張は、わたしたちを、或るひとつの問題の核心に連れていく。現前する〔=呈示される〕それぞれのもの〔例えば時計の音〕は互いに完全に独立しているという意味が、権利上、〔物質的〕反復に折り込まれているのだから、どうして反復は、反復する事例や要素のなかで何かを変化させることがあろうか。反復における不連続性と瞬間性の規則は、次のように定式的に表明される――ひとつのものが消えなければ、もうひとつのものは現れない。例を挙げるなら、瞬間的精神としての物質の状態である。」

(以上に続けて、今回の訳)

「反復は出来あがるそばから壊れてゆくのだから、じっさい、どうしてわたしたちは、「二番目」、「三番目」、また「それは同じだ」と言うことができようか。反復は、即自をもっていないのだ。それに対して、反復は、反復を観照する精神のなかで何かを変化させる。そのようなことが、〔反復における〕変更の本質である。ヒュームは、範例として、〈AB、AB、AB、A・・〉というタイプの反復、つまり事例の反復を取り上げている。どの事例も、すなわち、どの客観的なシークエンス〈AB〉も、ほかの〈AB〉から独立している。反復は、(ただし正確には、わたしたちはまだ反復を語ることはできないのだが)、事物のなかでは、つまり〈AB〉という〈物の状態〉のなかでは、何も変化させない。それに対して、観照する精神のなかでは、ひとつの変化が生じる。すなわち、或るひとつの差異が、何か新たなものが、精神のなかで生じるのである。」
2012-05-30(04:38) : ドゥルーズ『差異と反復』の改訳と解釈 :
このページのトップへ
ドゥルーズ『差異と反復』の改訳と解釈2
読書家なら誰にとっても「理解」可能な訳文を制作すること、それが改訳の目標である。
以下、原文を少しずつ訳出して、ある程度のまとまった段階で、解釈あるいは解説を付す。
翻訳に関する文法的な説明は最小限にとどめる。原則的に、財津の観点から、1992年の初訳よりも砕いて訳す。その砕き方の根拠については、別に機会に論じる。
発表した訳文に、後になってから修正を加える場合がある。
なお、〔〕内の語句は、財津による補いである。




(原書p96の本文の1行目から2行目、および原書巻末の目次のなかの小見出しの改訳。ハードカバー版訳書119頁、第二章の本文、1行目から3行目まで。)

「 第二章 それ自身へ向う反復

反復、それは何かが変化させられるということ
反復は、反復する事物のなかでは何も変化させないが、反復を観照する精神のなかでは何かを変化させる――ヒュームのこの有名な主張は、わたしたちを、或るひとつの問題の核心に連れていく。権利上、反復には、現前する〔=呈示される〕それぞれのもの〔例えば時計の音〕は互いに完全に独立しているという意味が折り込まれている。そうであるからには、どうして反復は、反復する事例や要素のなかで何かを変化させることがあろうか。反復における不連続性と瞬間性の規則は、次のように定式的に表現される――ひとつのものが消えなければ、もうひとつのものは現れないだろう。例を挙げるなら、瞬間的精神としての物質の状態である。」

次回は、以上の文章の解説。

なお、本日からカウンターを設置した。2012年1月からの累計。

11:57 午後  
Blogger yoji said...

http://www.systemicssystem.com/ja/ヒュームの懐疑論#cite_note-3

頻繁な反復の後、心は、一方の対象が現われるとすぐにいつもの付随物を習慣により思い起こし、その付随物を、最初の対象との関係ゆえに、より強い光ものもとに配慮するように決定されてしまう。そこで、私が必然性という観念を持つことができるのは、この印象あるいは決定であるということになる。[2]


A Treatise of Human Nature, Book1. Part3. Section14. (author) David Hume

12:03 午前  
Blogger yoji said...

人間知性研究 〈新装版〉 « 法政大学出版局
http://www.h-up.com/bd/isbn978-4-588-12129-6.html

人間知性研究
第一章 哲学の異なった種類について
第二章 観念の起源について
第三章 観念の連合について
第四章 知性の作用に関する懐疑的疑念
第五章 これらの疑念の懐疑論的解決
第六章 蓋然性について
第七章 必然的結合の観念について
第八章 自由と必然性について
第九章 動物の理性について
第十章 奇蹟について
第十一章 特殊的摂理と未来〔来世〕の状態について
第十二章 アカデミー的あるいは懐疑的哲学について

人間本性論摘要
序言
『人間本性等々についての論考』と題して最近公刊された書物の摘要


主著『人間本性論』第1巻をよりよく書き直したという本書で、ヒュームは、因果論を深め、自由と必然、奇跡や摂理などを新たに論じた。『人間本性論摘要』を付す。

デイヴィッド・ヒューム(ヒューム,D.)
(David Hume)
1711年4月26日生まれ。スコットランドを代表する哲学者。エディンバラ大学で学び、哲学やその他の分野についての執筆活動をするとともに、フランス大使秘書などに就く。ルソーとの交流とその破綻はよく知られている。1776年8月25日死去。おもな著作は、『人間本性論』(1739-40)、『人間本性論摘要』(1740)、『人間知性研究』(1748)、『道徳原理研究』(1751)、『宗教の自然史』(1757)、『イングランド史』(1754-61)など。死後『自然宗教に関する対話』(1779)が公刊された。


『人間知性研究』An Enquiry concerning Human Understanding

7:56 午後  
Blogger yoji said...

http://www.systemicssystem.com/ja/%E3%83%92%E3%83%A5%E3%83%BC%E3%83%A0%E3%81%AE%E6%87%90%E7%96%91%E8%AB%96
例えば、ビリヤードのボールが真直ぐ他のボールに向かっていくのを見る時、たとえ接触ないし衝突の結果として第二のボールの運動がたまたま私に示唆されたとしても、その原因から異なる百の出来事が同様に帰結したかもしれないと考えていけないだろうか。二つのボールが完全に静止するということはあってはならないのか。最初のボールが真直ぐ戻ってきたり、二番目のボールから、任意の方向・方角へ飛び離れたりしてはいけないのか。これらの想定はすべて無矛盾で不可能ではない。私たちのアプリオリな推論は、この採択に対していかなる根拠をも私たちに示すことはできないだろう。[3]

人間知性研究An Enquiry Concerning Human Understanding, Section4. Part1. (author) David Hume

7:58 午後  
Blogger yoji said...

401科学理論不思議の国のトムキンスhttp://www.ne.jp/asahi/micro/cosmos/bn/kengaku/kenlib/NDC9/n401.html
 トムキンスは相対性理論の国を探検した後、量子力学の国を冒険する。量子力学は、たとえ話をしようとしても非常に困難で、映像化しにくい理論である。ガモフは量子力学の原理をビリヤードの玉として解説している。そして、量子力学の不確定性の概念を、何匹にも広がる虎に例えて視覚化している。

8:01 午後  
Blogger yoji said...

768夜『不思議の国のトムキンス』ジョージ・ガモフ|松岡正剛の千夜千冊
http://1000ya.isis.ne.jp/0768.html
 やがてトムキンスはもうひとつの夢、「量子の部屋」を見る。これは教授が例の講演で、「すべての運動はただ“お粥”のようなものであらわされる」と言ったその“お粥”が、トムキンスのどこかに引っ掛かっていて、それが夢になったものだった。
 いったい何が“お粥”のようなのか。この「量子の部屋」の比喩的解説が、またまた痛快でみごとなのである。
 場面はビリヤードルームに変わっている。ここでは最初に「非可換の無限行列」が説明されるのだが、その前にトムキンスはここのビリヤードの球が突かれるたびに、ぼわぼわっと広がりながら進んでいくのに腰を抜かしてしまったのだ。
 トムキンスはそれが“量子”という「拡がる物質」だと聞いて、なぜ今夜はウィスキーを飲んでいないのにこのようなものが見えるのか、何の見当もつかない。ただ、なるほどこれが“お粥”なのかと思うばかり、それにしても粥状の球とは、どうにも意味がわからない。そこで教授が「この二つの量子の球がぶつかると、どうなるだろうねえ」と、さらに難題をふっかけて不気味に笑った。
 その直後に目の前で起こったことを、トムキンスはとうてい誰にも話せない。衝突した「拡がる球」は互いに交じったまま、なんとあらゆる方向に進み始めたのだ! しかもどんどん拡がっていく。いわゆる角運動量ゼロのS波の散乱である。
 得意満面の教授は混乱するトムキンスを尻目に、もっととんでもないことを言い出した。量子の球が拡がったのは、この世界では球が「だいたいここにある」とか「一部はどこか他のところにある」としか言えないような、そういう状態をあらわしているのだと説明するのである。
 まさにハイゼンベルクの不確定性原理を説明している場面だが、いま読んでもまことに巧みに書いてある。教授は偉そうに、続けてこう言った、「一方を決めれば、他方がますます拡がっていくじゃろう」。

8:05 午後  
Blogger yoji said...

Mr Tompkins in Paperback by George Gamow | 9781139635851 | NOOK Book (eBook) | Barnes & Noble
http://www.barnesandnoble.com/w/mr-tompkins-in-paperback-george-gamow/1102165287?ean=9781139635851

Table of Contents
Foreword
Preface
Introduction
1 City Speed Limit 1
2 The Professor's Lecture on Relativity which caused Mr Tompkins's dream 9
3 Mr Tompkins takes a holiday 19
4 The Professor's Lecture on Curved Space, Gravity and the Universe 31
5 The Pulsating Universe 44
6 Cosmic Opera 55
7 Quantum Billiards 65
8 Quantum Jungles 85
9 Maxwell's Demon 95
10 The Gay Tribe of Electrons 112
10 1/2 A Part of the Previous Lecture which Mr Tompkins slept through 128
12 Inside the Nucleus 136
13 The Woodcarver 149
14 Holes in Nothing 166
15 Mr Tompkins Tastes a Japanese Meal 177
Show Less

9:11 午後  
Blogger yoji said...

トムキンスの冒険 (G・ガモフ コレクション) 白義さんの感想 - 読書メーター
book.akahoshitakuya.com>...>トムキンスの冒険
2013年9月7日 ... 純粋にアリス的なSFおとぎ話としても、多くのガジェットが極めて達者な異能もののごとく 描かれていてハチャメチャに面白い。量子ビリヤードはイーガンの短編に出てきた量子 サッカーの元ネタだろうか。極微な原子、分子の世界と生命現象の ...

9:12 午後  
Blogger yoji said...

http://www.geocities.jp/ita_iluvatar/egan/bg.html
グレッグ・イーガン "Border Guards"
著者のページでオンラインで読めます。
読み始め。冒頭で描かれてる「量子サッカー」は 大学の量力の演習にピッタリかも。 長方形の井戸型ポテンシャルの中でゴールに波動関数の振幅を50% 以上 集めれば得点になるゲームです。各プレイヤーはδ関数型の ポテンシャルとして振舞います。いろいろ動き回ることで異なる波数の モードを混ぜて波束を作ろうとします。 ただしこのゲームではプレイヤー毎に受け持つ波数が違うようです。 i番目のプレイヤーの効果を式で書くと こんな感じです。あるいは (Piへの射影・xi・Piへの射影)と書いてもいいかも。 Piは他のプレイヤーとオーバーラップする部分があり、 「おーい、(8,2)のモードをパスするから、受け取れ!」とか言ってプレー してます。
射影演算子とx は交換しないんで、各プレイヤーの寄与 Hi も 交換しません。Hi Hj ≠ Hj Hi。交換するなら、時間発展の演算子は 各プレイヤーの寄与の積 U= ΠUi (ただし Ui = exp[i∫Hi(t) dt]) となって簡単だけど、そうではないので 複雑になります(なんか一次元でも十分複雑な気もする)。 各プレイヤーの寄与が単なるδ関数なら交換するけど、そうで無いところが ミソです。実空間でなく、波数空間でポジション分担している感じです。

舞台となる宇宙は 3トーラスと書いてあるけど、早い話が計算物理で よく使う周期境界条件ですね。X,Y,Z 方向どちらも一定距離L進むと 元に戻ってくるというやつ。 上下左右前後に無限に自分の鏡像(反転はしてないけど)が見えることに なります。 そうでない場合は「世界の端」で特殊な 処理が必要になって面倒だし、本来無限に大きい系では 無視できる人工的な端の効果が出て来て良くないのです。

9:19 午後  
Blogger yoji said...

授業で書いたけどせっかくだからうp。「しあわせの理由」要約
http://haitenai.nablog.net/blog/c/20216963.html


・ボーダー・ガード
 イーガン節炸裂と言われる作品。遠い未来、宇宙に拡散した人類は、遠大な寿命を手にしていた。この話には2つの大きな軸があり、まず1つめは量子サッカー。量子力学の知識があるとないとでは理解しやすさに差が出るのだが、ボールがフィールド全体に確率で偏在する波動であるとし、ゴールの中に存在する確率をある程度高めたら点が入るというルール。量子サッカーを見るだけでも十分におもしろい。
 もう1つが、主人公が量子サッカーをを通じて出会う女性の話。ずば抜けて量子サッカーのうまい彼女について、しかし誰も正体を知らない。彼女のもつ秘密とは何なのか。超科学を手にしたことで変化したもの、変化しなかったものについて考えさせられる。

9:21 午後  
Blogger yoji said...

http://www.systemicsblog.com/ja/2011/humean_skepticism/
頻繁な反復の後、心は、一方の対象が現われるとすぐにいつもの付随物を習慣により思い起こし、その付随物を、最初の対象との関係ゆえに、より強い光ものもとに配慮するように決定されてしまう。そこで、私が必然性という観念を持つことができるのは、この印象あるいは決定であるということになる。[2]

因果関係が主観的な結合だとするならば、その必然性は客観的ではなく、したがって、ある原因に対して、いつもとは異なる他の結果が生じるということも想像可能である。

例えば、ビリヤードのボールが真直ぐ他のボールに向かっていくのを見る時、たとえ接触ないし衝突の結果として第二のボールの運動がたまたま私に示唆されたとしても、その原因から異なる百の出来事が同様に帰結したかもしれないと考えていけないだろうか。二つのボールが完全に静止するということはあってはならないのか。最初のボールが真直ぐ戻ってきたり、二番目のボールから、任意の方向・方角へ飛び離れたりしてはいけないのか。これらの想定はすべて無矛盾で不可能ではない。私たちのアプリオリな推論は、この採択に対していかなる根拠をも私たちに示すことはできないだろう。[3]


http://www.systemicsblog.com/ja/2011/humean_skepticism/
↑ A Treatise of Human Nature, Book1. Part3. Section14. (author) David Hume
↑ An Enquiry Concerning Human Understanding, Section4. Part1.(author) David Hume
人性論
人間知性研究

1:47 午前  
Blogger yoji said...

動いけ第二章
経験論と主体性に関連

1:48 午前  
Blogger yoji said...

http://d.hatena.ne.jp/cool-hira/20130222/1361480864
Quantum Mechanics: The Uncertainty Principle 動画 YouTube

http://www.youtube.com/watch?v=Fw6dI7cguCg

Walter Lewin MIT Heisenberg's Uncertainty Principle 動画 YouTube

http://www.youtube.com/watch?v=V0c7ZOLvigo

Lecture 34: Heisenberg's Uncertainty Principle

http://xoax.net/physics/crs/classical_mechanics_mit/lessons/Lecture34/

The Adventures of Mr Tompkins.mov 動画 YouTube

http://www.youtube.com/watch?v=DMPkxueh_gA

Quantum Bz'llz'am's - Physics

http://www.physics.princeton.edu/~steinh/ph115/TompkinsQuantumBilliards.pdf

やっぱり神はサイコロを振らない? 2004年12月号 日経サイエンス

「神はサイコロを振らない」。そう言ってアインシュタインが量子力学を批判したのは有名な話だ。彼は観測される現象が偶然に選ばれるという量子力学のあいまいさに納得せず,最終的にはすべてが古典力学で説明できるのではないかと考えていた。

こうしたアインシュタインの考えは長く否定されてきたが,最近,徐々に賛成する研究者も増えてきた。古典力学から量子力学を導き出す試みがさかんになっており,その代表は「隠れた変数理論」と呼ばれる理論だ。

http://www.nikkei-science.com/page/magazine/0412/sp_07.html

なにはさておき量子論 第3章 ハイゼンベルクの不確定性原理

この位置のわからなさを(Δx)で表し、運動量のわからなさを(Δp)で表すと、

   Δx・Δp=h

であることを、ハイゼンベルクは証明した。(hは、プランク定数である)

勘違いしないでほしい。位置と運動量を掛けた値がプランク定数になるのではない。

「位置の不確定さ」と「運動量の不確定さ」を掛けたものがプランク定数になるのだということ。

   つまり、電子の位置を正確に知ろう(Δx=0)とすれば、その運動量はなくなる(Δp=∞)

   逆に、電子の運動量を正確に知ろう(Δp=0)とすれば、その位置はなくなる(Δx=∞)

これは、実験の精度の問題ではない。物質に関する根元的な問題である。だから「不確定性原理」という。

http://www1.odn.ne.jp/~cew99250/html/C_3.html

『これが物理学だ!マサチューセッツ工科大学「感動」講義』(ウォルター・ルーウィン著 東江一紀訳) 本の話WEB

http://hon.bunshun.jp/articles/-/1156

MIT白熱教室 「神はサイコロを振らないのか? ~量子力学と不確定性原理」 2013年2月16日 NHK Eテレ

【講義者】MIT物理学名誉教授 ウォルター・ルーウィン

今回の講義は超難解、しかし、頭がしびれるほどの知的快感を味わえます。テーマは、原子や電子など、目に見えないミクロの世界が舞台です。

そこは「量子力学」が支配する不思議な世界。

電子はどうやって運動するのか? 光は波なのか粒なのか? そして「不確定性原理」とは…。

量子力学の超難解な理論を丁寧に紐解き、明解な実験で証明します。

「神はサイコロを振らない」という有名なアインシュタインの言葉にはどんな意味が込められているのか?

http://www.nhk.or.jp/hakunetsu/mit/130216.html

不思議の国のトムキンス ウィキペディア(Wikipedia)より

不思議の国のトムキンス (Mr. Tompkins in Wonderland) は1940年にケンブリッジ大学出版局から出版された科学空想物語で、著者ジョージ・ガモフは原子核のアルファ崩壊理論やビッグバン宇宙論で知られた世界的な物理学者である。そしてこれは、主人公トムキンスが夢の中で相対性理論や量子力学の効果が日常的に容易に観察出来る不思議な世界に入り込んで色々と思いがけない出来事を体験する、というかたちでこれら非日常的な物理の世界を解き明かす楽しい本である。

1:56 午前  
Blogger yoji said...

【内容】

第7話の前半ではトムキンスは町の玉突き場へ出かけ、ここで突かれた玉が「粥のように」広がるのを目にする。居合わせた教授が、この玉は量子定数がとても大きいので不確定性関係が目に見えると教えてくれ、零点振動やトンネル効果を実験して見せてくれる。後半は量子効果に関する教授の講演内容である。

----------------

『不思議宇宙のトムキンス』 ジョージ ガモフ、ラッセル スタナード/著、青木薫/訳: 白揚社 2001年発行

量子ビリヤード (一部抜粋しています)

カウンターでビールを受け取り、椅子に掛けようとしたとき、トムキンスはビリヤードの玉が弾(はじ)ける音を聞いた。そういえばパブの奥にはビリヤードがあったな、と思い出したトムキンスは、ちょっと覗いてみることにした。ビリヤード・ルームでは、ワイシャツ姿の男たちが自分の順番を待ちながら、賑やかに飲んだり話したりしている。トムキンスは台のそばでゲームを眺めることにした。

     ・

球が一番たくさん転がっていくように見えるのは、衝突の方向である。

「これはまさに、確率の好例ですな」背後で耳慣れた声がした。

肩越しに振り向くと教授が立っている。

「先生でしたか。よかった、おそらくあなたならここで起こっていることがおわかりでしょう」

「もちろんです。この店のご主人は、わたしなら”誇大量子効果症”とでも言うものにかかった球を使っているようですな。もちろん、自然界の物体はすべて量子法則にしたがいますが、プランク定数(量子効果の大きさを表す数値)は、それはそれは小さいのです――普通はね。しかし、ここにある玉では、プランク定数が非常に大きくなっている。おそらく1くらいでしょうか。これはとても都合がよろしい。われわれはこの目で量子現象を見ることができるのですから。普通ならこの手の現象は、きわめて高度に洗練された観測を行なったうえで、推論によって理解するしかないのです」

教授は思案顔で続けた。

「こちらのご主人がどういうルートでこの玉を手に入れられたのか、非常に興味がありますな。厳密に言えば、われわれの世界には存在しないはずのものなのです。どんな物体に対しても、プランク定数は同じなのですから」

「ほかの世界から持ち込んだのかもしれませんね」トムキンスが言った。「ところで、この玉はどうしてこんなに広がるんですか?」

「ああ、それはその玉の位置が確定していないせいです。玉の位置を正確にとらえることができず、せいぜい”だいたいはこのへんい”とか”どこかほかの場所にもいくらかある”くらいのことしか言えないのです」

     ・

ぼやけた玉は台の上をのろのろと転がっている。それを教授はゲームの開始時に使う木でできた3角形の枠の中に入れた。すると玉は枠の中で暴れているように見えた。3角の枠の中が、ぼやけた象牙の玉でいっぱいになった。

「どうです! 玉に位置を2角の枠内に制限しました。さきほどまでわれわれにわかっていたのは、玉が台の上のどこにあるということだけでしたね。それに枠内に制限された玉の速度をご覧なさい。速度の不確かさは跳ね上がりましたね」

「玉が暴れるのを止めることはできますか?」トムキンスが尋ねた。

「できません。物理的に不可能です。空間に閉じ込められた物体はすべて、ある運動をするのです。われわれ物理学者は、それを”ゼロ点運動”呼んでいます。そういった物体が静止していることは不可能なのです。もしも物体が静止すれば、われわれはその速度を確実に知ることはできるでしょう。速度ゼロというわけです。しかし物体の位置がかなり確実にわかっている場合――この3角形に閉じ込められた玉のようなものですが――われわれはその速度を知る事ができないのです」

----------------

どうでもいい、じじぃの日記。

2/16、NHK Eテレ MIT白熱教室 「神はサイコロを振らないのか? ~量子力学と不確定性原理」を観た。

MIT ウォルター・ルーウィン教授がハイゼンベルクの不確定性原理を説明するのに持ち出した、ジョージ・ガモフ著『不思議宇宙のトムキンス』の中の量子ビリヤード。

三角形の枠の中にビリヤードのボールを入れると、たちまち高速で動き出す(h/4π=1)。

「空間に閉じ込められた物体はすべて、ある運動をするのです。われわれ物理学者は、それを”ゼロ点運動”呼んでいます。そういった物体が静止していることは不可能なのです。もしも物体が静止すれば、われわれはその速度を確実に知ることはできるでしょう。速度ゼロというわけです。しかし物体の位置がかなり確実にわかっている場合――この3角形に閉じ込められた玉のようなものですが――われわれはその速度を知る事ができないのです」

アインシュタインは言った。「神はサイコロを振らない」って。

アインシュタインは「特殊相対性理論」で、あらゆる物体に含まれる、あらゆるエネルギーが表現されてしまう公式を発表した。

「質量」 X 「光の速度」の2乗という、途方もなく簡単な数式。

 E = mc2

まさにシンプル・イズ・ビューティフル!

量子力学は嫌いです。わかりませ~ん。

1:57 午前  
Blogger yoji said...

ヒュームのビリヤード
『人間知性研究』

ガモフのビリヤード
『不思議の国のトムキンス』

イーガン
『ボーダー・ガード』

ヒュームも原因と結果の一対一対応を提示
量子ビリヤードも位置と速度の背反はするが一対一対応を提示している
単なる懐疑論ではない

2:02 午前  
Blogger yoji said...

「二つの数を並べてみて、その一方を構成する単位が他方の単位と一つ一つつねに対応すれば、二つの数は等しいとわれわれは言う。」

(ヒューム『人性論』中公クラシックス41頁)

8:16 午後  
Blogger yoji said...

『人間本性論』第1巻第3部第一節
「例えば、二つの数を集成する各々の単位がそれぞれ常に相応するとき、我々は二つの数が等しいと宣言する。」(岩波文庫人性論1p123)。

8:18 午後  
Blogger yoji said...

「たとえば、二つの数を並べてみて、その一方を構成する単位が他方の単位と一つ一つつねに対応すれば、二つの数は等しいとわれわれは言う。」

(ヒューム『人性論』中公クラシックス41頁)


8:18 午後  
Blogger yoji said...

「例えば、二つの数を集成する各々の単位がそれぞれ常に相応するとき、我々は二つの数が等しいと宣言する。」
(ヒューム『人性論』1:3:1 第一巻岩波文庫123頁)

8:22 午後  
Blogger yoji said...

http://www21.atwiki.jp/p_mind/m/pages/82.html
ヒュームは人間の「知覚(perception)」を、「印象(impression)」と「観念(idea)」に分ける。印象とは直接的に与えられた知覚であり、そうした印象が組み合わされたり、また後に記憶や想像によって再現されたものが観念である。つまりヒュームは「知覚」という語を「意識」とほぼ同じ意味で用いている。

ヒュームは知覚の重要な原則として、われわれの別個な知覚はすべて別個の存在であること、そしてその別個の存在の真の結合をわれわれは何も知覚しないこと、という二つを挙げ、その二つの原則は両立しない矛盾したものと考えていた。

ヒュームは「想像」を、観念どうしを結びつける連想能力として、「類似」「接近」「因果」の三つの原理に分ける。また、観念を比較する原理として、「類似」「量」「質」「反対」「同一性」「時空」「因果」の七つを想定した。それらのうち「類似」「量」「質」「反対」は、比較される観念にのみ依存する数学的性質をもち、確実性があるとした。それに対して「同一性」「時空」「因果」は、経験に依存し、蓋然性をもつとした。

ヒュームはどんなに高度で複雑な観念(複合観念)でも、それは構成要素としての個々の観念に分解されるのだと考えた。そしてそれらの観念は必ずそれに対応する印象を背後にもっている。したがって、どんなに抽象的な観念も、それ自体においては個体的な要素を中に含んでいる。たとえば我々が人間という観念を持つ場合、我々は個別の人間を離れた普遍――抽象観念としての人間を表象するわけではなく、自分がこれまでに見てきた多くの具体的な人間を束にして表象しているに過ぎない。

印象というものの存在性格について、二元論者であるジョン・ロックは、それを直接には知ることはできないが、客観的に存在すると考えられる外部の物質が、人間の心に働きかける結果生じるのだとした(知覚因果説)。ジョージ・バークリーは純粋に観念論者であり、印象や観念とは人間の心の中にのみ生じるものであって、それに対応する外部の客観的実在を想定するのはナンセンスだといった。ヒュームは懐疑主義者であり、印象とは我々が心の中に感じる経験ではあるが、我々はその経験をそのままに受けとめ、問題にすればよいのであり、経験する主体とその客体を対立させて、それぞれの存在性格を云々するのはナンセンスだとする。

2:51 午前  
Blogger yoji said...

http://www21.atwiki.jp/p_mind/m/pages/82.html
ヒューム
     知覚(perception)=意識
     /      \
印象(impression)__観念(idea)
直接        |反省
         想像
        /  \
       /    連結:類似、接近、因果
    比較:
類似、量、質、反対(数学的、確実性)
同一性、時空、因果(蓋然性)

ヒュームは人間の「知覚(perception)」を、「印象(impression)」と「観念(idea)」に分ける。印象とは直接的に与えられた知覚であり、そうした印象が組み合わされたり、また後に記憶や想像によって再現されたものが観念である。つまりヒュームは「知覚」という語を「意識」とほぼ同じ意味で用いている。

ヒュームは知覚の重要な原則として、われわれの別個な知覚はすべて別個の存在であること、そしてその別個の存在の真の結合をわれわれは何も知覚しないこと、という二つを挙げ、その二つの原則は両立しない矛盾したものと考えていた。

ヒュームは「想像」を、観念どうしを結びつける連想能力として、「類似」「接近」「因果」の三つの原理に分ける。また、観念を比較する原理として、「類似」「量」「質」「反対」「同一性」「時空」「因果」の七つを想定した。それらのうち「類似」「量」「質」「反対」は、比較される観念にのみ依存する数学的性質をもち、確実性があるとした。それに対して「同一性」「時空」「因果」は、経験に依存し、蓋然性をもつとした。
http://www21.atwiki.jp/p_mind/m/pages/82.html


ヒュームはどんなに高度で複雑な観念(複合観念)でも、それは構成要素としての個々の観念に分解されるのだと考えた。そしてそれらの観念は必ずそれに対応する印象を背後にもっている。したがって、どんなに抽象的な観念も、それ自体においては個体的な要素を中に含んでいる。たとえば我々が人間という観念を持つ場合、我々は個別の人間を離れた普遍――抽象観念としての人間を表象するわけではなく、自分がこれまでに見てきた多くの具体的な人間を束にして表象しているに過ぎない。

印象というものの存在性格について、二元論者であるジョン・ロックは、それを直接には知ることはできないが、客観的に存在すると考えられる外部の物質が、人間の心に働きかける結果生じるのだとした(知覚因果説)。ジョージ・バークリーは純粋に観念論者であり、印象や観念とは人間の心の中にのみ生じるものであって、それに対応する外部の客観的実在を想定するのはナンセンスだといった。ヒュームは懐疑主義者であり、印象とは我々が心の中に感じる経験ではあるが、我々はその経験をそのままに受けとめ、問題にすればよいのであり、経験する主体とその客体を対立させて、それぞれの存在性格を云々するのはナンセンスだとする。

3:42 午前  
Blogger yoji said...

http://www21.atwiki.jp/p_mind/m/pages/82.html
ヒューム
     知覚(perception)=意識
     /      \
印象(impression)__観念(idea)
直接        |反省
複数       想像
        /  \
       /    連結能力:類似、接近、因果
  比較原理:
類似、量、質、反対(数学的、確実性)
同一性、時空、因果(蓋然性)

ヒュームは人間の「知覚(perception)」を、「印象(impression)」と「観念(idea)」に分ける。印象とは直接的に与えられた知覚であり、そうした印象が組み合わされたり、また後に記憶や想像によって再現されたものが観念である。つまりヒュームは「知覚」という語を「意識」とほぼ同じ意味で用いている。

ヒュームは知覚の重要な原則として、われわれの別個な知覚はすべて別個の存在であること、そしてその別個の存在の真の結合をわれわれは何も知覚しないこと、という二つを挙げ、その二つの原則は両立しない矛盾したものと考えていた。

ヒュームは「想像」を、観念どうしを結びつける連想能力として、「類似」「接近」「因果」の三つの原理に分ける。また、観念を比較する原理として、「類似」「量」「質」「反対」「同一性」「時空」「因果」の七つを想定した。それらのうち「類似」「量」「質」「反対」は、比較される観念にのみ依存する数学的性質をもち、確実性があるとした。それに対して「同一性」「時空」「因果」は、

3:45 午前  
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ヒュームの知性論:

     知覚(perception)=意識
     /      \
印象(impression)__観念(idea)
直接        |再現、反省
複数       想像
        /  \
    比較原理:   連結能力:
類似、量、質、反対   類似、接近、因果
(数学的、確実性)
同一性、時空、因果
(蓋然性)

ヒュームは人間の「知覚(perception)」を、「印象(impression)」と「観念(idea)」に分ける。印象とは直接的に与えられた知覚であり、そうした印象が組み合わされたり、また後に記憶や想像によって再現されたものが観念である。つまりヒュームは「知覚」という語を「意識」とほぼ同じ意味で用いている。

ヒュームは知覚の重要な原則として、われわれの別個な知覚はすべて別個の存在であること、そしてその別個の存在の真の結合をわれわれは何も知覚しないこと、という二つを挙げ、その二つの原則は両立しない矛盾したものと考えていた。

ヒュームは「想像」を、観念どうしを結びつける連想能力として、「類似」「接近」「因果」の三つの原理に分ける。また、観念を比較する原理として、「類似」「量」「質」「反対」「同一性」「時空」「因果」の七つを想定した。それらのうち「類似」「量」「質」「反対」は、比較される観念にのみ依存する数学的性質をもち、確実性があるとした。それに対して「同一性」「時空」「因果」は、経験に依存し、蓋然性をもつとした。
http://www21.atwiki.jp/p_mind/m/pages/82.html


ヒュームはどんなに高度で複雑な観念(複合観念)でも、それは構成要素としての個々の観念に分解されるのだと考えた。そしてそれらの観念は必ずそれに対応する印象を背後にもっている。したがって、どんなに抽象的な観念も、それ自体においては個体的な要素を中に含んでいる。たとえば我々が人間という観念を持つ場合、我々は個別の人間を離れた普遍――抽象観念としての人間を表象するわけではなく、自分がこれまでに見てきた多くの具体的な人間を束にして表象しているに過ぎない。

印象というものの存在性格について、二元論者であるジョン・ロックは、それを直接には知ることはできないが、客観的に存在すると考えられる外部の物質が、人間の心に働きかける結果生じるのだとした(知覚因果説)。ジョージ・バークリーは純粋に観念論者であり、印象や観念とは人間の心の中にのみ生じるものであって、それに対応する外部の客観的実在を想定するのはナンセンスだといった。ヒュームは懐疑主義者であり、印象とは我々が心の中に感じる経験ではあるが、我々はその経験をそのままに受けとめ、問題にすればよいのであり、経験する主体とその客体を対立させて、それぞれの存在性格を云々するのはナンセンスだとする。

3:49 午前  
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ヒュームの知性論:

     知覚(perception)=意識
     /    \
印象(impression)__観念(idea)
直接         |再現、反省
複数         |
          想像
         /  \
    比較原理:    連結能力:
類似、量、質、反対    類似、接近、因果
(数学的、確実性)
同一性、時空、因果
(蓋然性)

ヒュームは人間の「知覚(perception)」を、「印象(impression)」と「観念(idea)」に分ける。印象とは直接的に与えられた知覚であり、そうした印象が組み合わされたり、また後に記憶や想像によって再現されたものが観念である。つまりヒュームは「知覚」という語を「意識」とほぼ同じ意味で用いている。

ヒュームは知覚の重要な原則として、われわれの別個な知覚はすべて別個の存在であること、そしてその別個の存在の真の結合をわれわれは何も知覚しないこと、という二つを挙げ、その二つの原則は両立しない矛盾したものと考えていた。

ヒュームは「想像」を、観念どうしを結びつける連想能力として、「類似」「接近」「因果」の三つの原理に分ける。また、観念を比較する原理として、「類似」「量」「質」「反対」「同一性」「時空」「因果」の七つを想定した。それらのうち「類似」「量」「質」「反対」は、比較される観念にのみ依存する数学的性質をもち、確実性があるとした。それに対して「同一性」「時空」「因果」は、経験に依存し、蓋然性をもつとした。
http://www21.atwiki.jp/p_mind/m/pages/82.html


ヒュームはどんなに高度で複雑な観念(複合観念)でも、それは構成要素としての個々の観念に分解されるのだと考えた。そしてそれらの観念は必ずそれに対応する印象を背後にもっている。したがって、どんなに抽象的な観念も、それ自体においては個体的な要素を中に含んでいる。たとえば我々が人間という観念を持つ場合、我々は個別の人間を離れた普遍――抽象観念としての人間を表象するわけではなく、自分がこれまでに見てきた多くの具体的な人間を束にして表象しているに過ぎない。

印象というものの存在性格について、二元論者であるジョン・ロックは、それを直接には知ることはできないが、客観的に存在すると考えられる外部の物質が、人間の心に働きかける結果生じるのだとした(知覚因果説)。ジョージ・バークリーは純粋に観念論者であり、印象や観念とは人間の心の中にのみ生じるものであって、それに対応する外部の客観的実在を想定するのはナンセンスだといった。ヒュームは懐疑主義者であり、印象とは我々が心の中に感じる経験ではあるが、我々はその経験をそのままに受けとめ、問題にすればよいのであり、経験する主体とその客体を対立させて、それぞれの存在性格を云々するのはナンセンスだとする。

3:51 午前  
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ヒュームの知性論:

     知覚(perception)=意識
     /    \
印象(impression)__観念(idea)__複合観念
直接         |再現、反省 |
複数         |      |
          想像      |
         /  \    /
    比較原理:    連結能力:
類似、量、質、反対    類似、接近、因果
(数学的、確実性)
同一性、時空、因果
(蓋然性)

ヒュームは人間の「知覚(perception)」を、「印象(impression)」と「観念(idea)」に分ける。印象とは直接的に与えられた知覚であり、そうした印象が組み合わされたり、また後に記憶や想像によって再現されたものが観念である。つまりヒュームは「知覚」という語を「意識」とほぼ同じ意味で用いている。

ヒュームは知覚の重要な原則として、われわれの別個な知覚はすべて別個の存在であること、そしてその別個の存在の真の結合をわれわれは何も知覚しないこと、という二つを挙げ、その二つの原則は両立しない矛盾したものと考えていた。

ヒュームは「想像」を、観念どうしを結びつける連想能力として、「類似」「接近」「因果」の三つの原理に分ける。また、観念を比較する原理として、「類似」「量」「質」「反対」「同一性」「時空」「因果」の七つを想定した。それらのうち「類似」「量」「質」「反対」は、比較される観念にのみ依存する数学的性質をもち、確実性があるとした。それに対して「同一性」「時空」「因果」は、経験に依存し、蓋然性をもつとした。
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ヒュームはどんなに高度で複雑な観念(複合観念)でも、それは構成要素としての個々の観念に分解されるのだと考えた。そしてそれらの観念は必ずそれに対応する印象を背後にもっている。したがって、どんなに抽象的な観念も、それ自体においては個体的な要素を中に含んでいる。たとえば我々が人間という観念を持つ場合、我々は個別の人間を離れた普遍――抽象観念としての人間を表象するわけではなく、自分がこれまでに見てきた多くの具体的な人間を束にして表象しているに過ぎない。

印象というものの存在性格について、二元論者であるジョン・ロックは、それを直接には知ることはできないが、客観的に存在すると考えられる外部の物質が、人間の心に働きかける結果生じるのだとした(知覚因果説)。ジョージ・バークリーは純粋に観念論者であり、印象や観念とは人間の心の中にのみ生じるものであって、それに対応する外部の客観的実在を想定するのはナンセンスだといった。ヒュームは懐疑主義者であり、印象とは我々が心の中に感じる経験ではあるが、我々はその経験をそのままに受けとめ、問題にすればよいのであり、経験する主体とその客体を対立させて、それぞれの存在性格を云々するのはナンセンスだとする。

3:55 午前  
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ヒュームの知性論:

     知覚(perception)=意識
     /    \
印象(impression)__観念(idea)__複合観念
直接         |再現、反省 
複数         |      
          想像      
         /  \    
    比較原理:    連結能力:
類似、量、質、反対    類似、接近、因果
(数学的、確実性)
同一性、時空、因果
(蓋然性)

ヒュームは人間の「知覚(perception)」を、「印象(impression)」と「観念(idea)」に分ける。印象とは直接的に与えられた知覚であり、そうした印象が組み合わされたり、また後に記憶や想像によって再現されたものが観念である。つまりヒュームは「知覚」という語を「意識」とほぼ同じ意味で用いている。

ヒュームは知覚の重要な原則として、われわれの別個な知覚はすべて別個の存在であること、そしてその別個の存在の真の結合をわれわれは何も知覚しないこと、という二つを挙げ、その二つの原則は両立しない矛盾したものと考えていた。

ヒュームは「想像」を、観念どうしを結びつける連想能力として、「類似」「接近」「因果」の三つの原理に分ける。また、観念を比較する原理として、「類似」「量」「質」「反対」「同一性」「時空」「因果」の七つを想定した。それらのうち「類似」「量」「質」「反対」は、比較される観念にのみ依存する数学的性質をもち、確実性があるとした。それに対して「同一性」「時空」「因果」は、経験に依存し、蓋然性をもつとした。
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ヒュームはどんなに高度で複雑な観念(複合観念)でも、それは構成要素としての個々の観念に分解されるのだと考えた。そしてそれらの観念は必ずそれに対応する印象を背後にもっている。したがって、どんなに抽象的な観念も、それ自体においては個体的な要素を中に含んでいる。たとえば我々が人間という観念を持つ場合、我々は個別の人間を離れた普遍――抽象観念としての人間を表象するわけではなく、自分がこれまでに見てきた多くの具体的な人間を束にして表象しているに過ぎない。

印象というものの存在性格について、二元論者であるジョン・ロックは、それを直接には知ることはできないが、客観的に存在すると考えられる外部の物質が、人間の心に働きかける結果生じるのだとした(知覚因果説)。ジョージ・バークリーは純粋に観念論者であり、印象や観念とは人間の心の中にのみ生じるものであって、それに対応する外部の客観的実在を想定するのはナンセンスだといった。ヒュームは懐疑主義者であり、印象とは我々が心の中に感じる経験ではあるが、我々はその経験をそのままに受けとめ、問題にすればよいのであり、経験する主体とその客体を対立させて、それぞれの存在性格を云々するのはナンセンスだとする。

3:55 午前  
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ヒュームの知性論:
      知覚(perception)=意識
     /    \
印象(impression)__観念(idea)__複合観念
直接         |再現、反省 
複数         |      
          想像      
         /  \    
    比較原理:    連結能力:
類似、量、質、反対    類似、接近、因果
(数学的、確実性)
同一性、時空、因果
(蓋然性)

ヒュームは人間の「知覚(perception)」を、「印象(impression)」と「観念(idea)」に分ける。印象とは直接的に与えられた知覚であり、そうした印象が組み合わされたり、また後に記憶や想像によって再現されたものが観念である。つまりヒュームは「知覚」という語を「意識」とほぼ同じ意味で用いている。

ヒュームは知覚の重要な原則として、われわれの別個な知覚はすべて別個の存在であること、そしてその別個の存在の真の結合をわれわれは何も知覚しないこと、という二つを挙げ、その二つの原則は両立しない矛盾したものと考えていた。

ヒュームは「想像」を、観念どうしを結びつける連想能力として、「類似」「接近」「因果」の三つの原理に分ける。また、観念を比較する原理として、「類似」「量」「質」「反対」「同一性」「時空」「因果」の七つを想定した。それらのうち「類似」「量」「質」「反対」は、比較される観念にのみ依存する数学的性質をもち、確実性があるとした。それに対して「同一性」「時空」「因果」は、経験に依存し、蓋然性をもつとした。

ヒュームはどんなに高度で複雑な観念(複合観念)でも、それは構成要素としての個々の観念に分解されるのだと考えた。そしてそれらの観念は必ずそれに対応する印象を背後にもっている。したがって、どんなに抽象的な観念も、それ自体においては個体的な要素を中に含んでいる。たとえば我々が人間という観念を持つ場合、我々は個別の人間を離れた普遍――抽象観念としての人間を表象するわけではなく、自分がこれまでに見てきた多くの具体的な人間を束にして表象しているに過ぎない。
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4:00 午前  
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ヒュームの知性論:

     知覚(perception)=意識
     /    \
印象(impression)__観念(idea)__複合観念
直接         |再現、反省 
複数         |      
          想像      
         /  \    
     比較原理    連結能力
    /| | \  / | \
   量、質、反対、類似、接近、因果
   (数学的、確実性)
   同一性、時空、因果
     (蓋然性)

ヒュームは人間の「知覚(perception)」を、「印象(impression)」と「観念(idea)」に分ける。印象とは直接的に与えられた知覚であり、そうした印象が組み合わされたり、また後に記憶や想像によって再現されたものが観念である。つまりヒュームは「知覚」という語を「意識」とほぼ同じ意味で用いている。

ヒュームは知覚の重要な原則として、われわれの別個な知覚はすべて別個の存在であること、そしてその別個の存在の真の結合をわれわれは何も知覚しないこと、という二つを挙げ、その二つの原則は両立しない矛盾したものと考えていた。

ヒュームは「想像」を、観念どうしを結びつける連想能力として、「類似」「接近」「因果」の三つの原理に分ける。また、観念を比較する原理として、「類似」「量」「質」「反対」「同一性」「時空」「因果」の七つを想定した。それらのうち「類似」「量」「質」「反対」は、比較される観念にのみ依存する数学的性質をもち、確実性があるとした。それに対して「同一性」「時空」「因果」は、経験に依存し、蓋然性をもつとした。

ヒュームはどんなに高度で複雑な観念(複合観念)でも、それは構成要素としての個々の観念に分解されるのだと考えた。そしてそれらの観念は必ずそれに対応する印象を背後にもっている。したがって、どんなに抽象的な観念も、それ自体においては個体的な要素を中に含んでいる。たとえば我々が人間という観念を持つ場合、我々は個別の人間を離れた普遍――抽象観念としての人間を表象するわけではなく、自分がこれまでに見てきた多くの具体的な人間を束にして表象しているに過ぎない。
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4:05 午前  
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ヒュームの知性論:
      知覚(perception)=意識
     /    \
印象(impression)__観念(idea)__複合観念
直接         |再現、反省 
複数         |      
          想像      
         /  \    
     比較原理    連結能力
    /| | \  / | \
   量、質、反対、類似、接近、因果
   (数学的、確実性)
   同一性、時空、因果
     (蓋然性)

ヒュームは人間の「知覚(perception)」を、「印象(impression)」と「観念(idea)」に分ける。印象とは直接的に与えられた知覚であり、そうした印象が組み合わされたり、また後に記憶や想像によって再現されたものが観念である。つまりヒュームは「知覚」という語を「意識」とほぼ同じ意味で用いている。

ヒュームは知覚の重要な原則として、われわれの別個な知覚はすべて別個の存在であること、そしてその別個の存在の真の結合をわれわれは何も知覚しないこと、という二つを挙げ、その二つの原則は両立しない矛盾したものと考えていた。

ヒュームは「想像」を、観念どうしを結びつける連想能力として、「類似」「接近」「因果」の三つの原理に分ける。また、観念を比較する原理として、「類似」「量」「質」「反対」「同一性」「時空」「因果」の七つを想定した。それらのうち「類似」「量」「質」「反対」は、比較される観念にのみ依存する数学的性質をもち、確実性があるとした。それに対して「同一性」「時空」「因果」は、経験に依存し、蓋然性をもつとした。

ヒュームはどんなに高度で複雑な観念(複合観念)でも、それは構成要素としての個々の観念に分解されるのだと考えた。そしてそれらの観念は必ずそれに対応する印象を背後にもっている。したがって、どんなに抽象的な観念も、それ自体においては個体的な要素を中に含んでいる。たとえば我々が人間という観念を持つ場合、我々は個別の人間を離れた普遍――抽象観念としての人間を表象するわけではなく、自分がこれまでに見てきた多くの具体的な人間を束にして表象しているに過ぎない。
http://www21.atwiki.jp/p_mind/m/pages/82.html

4:05 午前  
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ヒュームの知性論:
      知覚(perception)=意識
     /    \
印象(impression)__観念(idea)__複合観念
直接         |再現、反省 
複数         |      
          想像      
         /  \    
     比較原理    連結能力
    /    \  /   \
   量・質・反対・類似・接近・因果
   (数学的、確実性)
   同一性・時空・因果
     (蓋然性)

4:11 午前  
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ヒュームの知性論:
      知覚(perception)=意識
     /    \
印象(impression)__観念(idea)__複合観念
直接         |再現、反省 
複数         |      
          想像      
         /  \    
     比較する原理  連結能力
     /     \/  \
    /      /\   \
  _量_質_反対_類似 因果 接近
 |   同一性_時空_ |
 |          ||
(数学的、確実性)  (蓋然性)

4:33 午前  
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ヒュームの知性論:
      知覚(perception)=意識
     /    \
印象(impression)__観念(idea)__複合観念
直接         |再現、反省 
複数         |      
          想像      
         /  \    
     比較する原理  連想能力
     /     \/  \
    /      /\   \
  _量_質_反対_類似 因果 接近
 |   同一性_時空_ |
 |          ||
(数学的、確実性)  (蓋然性)

4:41 午前  
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ヒュームの知性論:
      知覚(perception)=意識
     /    \
印象(impression)__観念(idea)__複合観念
直接         |再現、反省 (実体、
複数         |       様相、
          想像       関係*)
         /  \    
      連想能力  *関係の性質、比較する原理
       /  \/     \
      /   /\      \
     接近 因果 類似_量_質_反対_
        | __同一性_時空   |
        ||           |
      (蓋然性)    (数学的、確実性)




ヒュームの知性論:
      知覚(perception)=意識
     /    \
印象(impression)__観念(idea)__複合観念
直接         |再現、反省 (関係*、
複数         |       様相、
          想像       実体)
*        /  \    
関係の性質、比較する原理 連想能力
     /     \/  \
    /      /\   \
  _量_質_反対_類似 因果 接近
 |   同一性_時空_ |
 |          ||
(数学的、確実性)  (蓋然性)


ヒュームの知性論:
      知覚(perception)=意識
     /    \
印象(impression)__観念(idea)__複合観念
直接         |再現、反省 
複数         |      
          想像      
         /  \    
     比較する原理   連結能力
      /   \  /\
     /     \/  \
    /      /\   \
  _量_質_反対_類似 因果 接近
 | 同一性_時空___ |
 |          ||
(数学的、確実性)  (蓋然性)


ヒュームの知性論:
      知覚(perception)=意識
     /    \
印象(impression)__観念(idea)__複合観念
直接         |再現、反省 
複数         |      
          想像      
         /  \    
     比較原理    連結能力
    /    \  /  \
   量_質_反対_類似・因果・接近
   (数学的、確実性) |
   同一性_時空__(蓋然性)


ヒュームの知性論:
      知覚(perception)=意識
     /    \
印象(impression)__観念(idea)__複合観念
直接         |再現、反省 
複数         |      
          想像      
         /  \    
     比較原理    連結能力
    /    \  /  \
   量・質・反対・類似・因果・接近
   (数学的、確実性) |
   同一性_時空____|
     (蓋然性)



ヒュームの知性論:
      知覚(perception)=意識
     /    \
印象(impression)__観念(idea)__複合観念
直接         |再現、反省 
複数         |      
          想像      
         /  \    
     比較原理    連結能力
    /    \  /|\
   量・質・反対・類似 | 接近
   (数学的、確実性) |
   同一性_時空____因果
     (蓋然性)

ヒュームは人間の「知覚(perception)」を、「印象(impression)」と「観念(idea)」に分ける。印象とは直接的に与えられた知覚であり、そうした印象が組み合わされたり、また後に記憶や想像によって再現されたものが観念である。つまりヒュームは「知覚」という語を「意識」とほぼ同じ意味で用いている。

ヒュームは知覚の重要な原則として、われわれの別個な知覚はすべて別個の存在であること、そしてその別個の存在の真の結合をわれわれは何も知覚しないこと、という二つを挙げ、その二つの原則は両立しない矛盾したものと考えていた。

ヒュームは「想像」を、観念どうしを結びつける連想能力として、「類似」「接近」「因果」の三つの原理に分ける。また、観念を比較する原理として、「類似」「量」「質」「反対」「同一性」「時空」「因果」の七つを想定した。それらのうち「類似」「量」「質」「反対」は、比較される観念にのみ依存する数学的性質をもち、確実性があるとした。それに対して「同一性」「時空」「因果」は、経験に依存し、蓋然性をもつとした。

ヒュームはどんなに高度で複雑な観念(複合観念)でも、それは構成要素としての個々の観念に分解されるのだと考えた。そしてそれらの観念は必ずそれに対応する印象を背後にもっている。したがって、どんなに抽象的な観念も、それ自体においては個体的な要素を中に含んでいる。たとえば我々が人間という観念を持つ場合、我々は個別の人間を離れた普遍――抽象観念としての人間を表象するわけではなく、自分がこれまでに見てきた多くの具体的な人間を束にして表象しているに過ぎない。
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5:08 午前  
Blogger yoji said...

ヒュームの知性論:
      知覚(perception)=意識
     /    \単純
印象(impression)__観念(idea)__複合観念
直接         |再現、反省 (実体*、
複数         |       様相、
          想像     __関係)
         /  \   |
      連想能力  関係の性質、比較する原理
       /  \/     \
      / * /\      \
     接近 因果 類似_量_質_反対_
        | __同一性_時空   |
        ||           |
      (蓋然性)    (数学的、確実性)

5:15 午前  
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ヒュームの知性論:
      知覚(perception)=意識
     /    \単純
印象(impression)__観念(idea)__複合観念
直接         |再現、反省 (実体*、
複数         |       様相、
          想像     __関係)
         /  \   |
      連想能力  関係の性質、比較する原理
       /  \/     \
      / * /\      \
    接近 7因果 1類似_4量_5質_6反対_
        | _2同一性_3時空      |
        ||               |
      (蓋然性)       (数学的、確実性)

『人性論』1:1:4~6
実体も単純観念の集まりで、様相に比べて因果性があるだけとされる。

5:21 午前  
Blogger yoji said...

ヒュームの知性論:
      知覚(perception)=意識
     /    \単純
印象(impression)__観念(idea)__複合観念
直接         |再現、反省 (実体*、
複数         |       様相、
          想像     __関係1~7)
         /  \   | 
      連想能力  関係の性質、比較する原理
       /  \/       \
     b/ *c/\a       \
    接近 7因果 1類似_4量_5質_6反対_
        | _2同一性_3時空      |
        ||               |
      (蓋然性)       (数学的、確実性)

『人性論』(1:1:4~6)
実体もまた単純観念の集まりで、様相に比べて因果性があるだけだとされる。

5:42 午前  
Blogger yoji said...

ヒュームの知性論:
      知覚(perception)=意識
     /    \単純
印象(impression)__観念(idea)__複合観念
直接         |再現、反省 (実体*、
複数         |       様相、
          想像     __関係1~7)
         /  \   | 
      連想能力  関係の性質、比較する原理
       /  \/       \
     b/ *c/\a       \
    接近・7因果・1類似_4量_5質_6反対_
        | _2同一性_3時空      |
        ||               |
      (蓋然性)       (数学的、確実性)

『人性論』(1:1:4~6)
実体もまた単純観念の集まりで、様相に比べて因果性があるだけだとされる。

5:47 午前  
Blogger yoji said...

ヒュームの知性論:
      知覚(perception)=意識
     /    \単純
印象(impression)__観念(idea)__複合観念
直接         |再現、反省 (実体*、
複数         |       様相、
          想像     __関係1~7)
         /  \   | 
      連想能力  関係の性質、比較する原理
       /  \/       \
     b/ *c/\a       \
    接近、7因果、1類似_4量_5質_6反対_
        | _2同一性_3時空      |
        ||               |
      (蓋然性)       (数学的、確実性)

『人性論』(1:1:4~6)
実体もまた単純観念の集まりで、様相に比べて因果性があるだけだとされる。

5:47 午前  
Blogger yoji said...

ヒュームの知性論:
      知覚(perception)=意識
     /    \単純
印象(impression)__観念(idea)__複合観念
直接         |再現、反省 (実体*、
複数         |       様相、
          想像     __関係1~7)
         /  \   | 
      連想能力  比較する原理=関係の性質
       /  \/       \
     b/ *c/\a       \
    接近、7因果、1類似_4量_5質_6反対_
        | _2同一性_3時空      |
        ||               |
      (蓋然性)       (数学的、確実性)

『人性論』(1:1:4~6)
実体もまた単純観念の集まりで、様相に比べて因果性があるだけだとされる。

5:48 午前  
Blogger yoji said...

 ヒュームの知性論:
      知覚(perception)=意識
     /    \単純
印象(impression)__観念(idea)__複合観念
 直接、       |再現、反省 (実体*、
 複数        |       様相、
          想像     __関係1~7)
         /  \   | 
      連想能力  比較する原理=関係の性質
       /  \/       \
     b/ *c/\a       \
    接近、7因果、1類似_4量_5質_6反対_
        | _2同一性_3時空      |
        ||               |
      (蓋然性)       (数学的、確実性)

『人性論』(1:1:4~6)
実体もまた単純観念の集まりで、様相に比べて因果性があるだけだとされる。実体を後回しに定義するあたりが経験論的帰納法らしい。

5:58 午前  
Blogger yoji said...

ヒュームの知性論:
      知覚(perception)=意識
     /    \単純
印象(impression)__観念(idea)__複合
 直接、複数     |再現、反省  観念
          想像      (実体*、
         /  \      様相、 
      連想能力  比較する原理=関係1~7)
       /  \/         \
     b/ *c/\a         \
     接近、7因果、1類似_4量_5質_6反対_
     |   |  __3時空_2同一性    |
     |   | |  (源泉)        |
     |  (蓋然性)   |   (数学的、確実性)
     |__________|

9:12 午後  
Blogger yoji said...

ヒュームの知性論:
      知覚(perception)=意識
     /    \単純
印象(impression)__観念(idea)__複合
 直接、複数     |再現、反省  観念
          想像      (実体*、
         /  \      様相、 
      連想能力  比較する原理=関係1~7)
       /  \/         \
     b/ *c/\a         \
     接近、7因果、1類似_4量_5質_6反対_
     |   |  __3時空_2同一性    |
     |   | |  (源泉)        |
     |  (蓋然性)   |   (数学的、確実性)
     |__________|

9:12 午後  
Blogger yoji said...

 ヒュームの知性論:
      知覚(perception)=意識
     /    \単純
印象(impression)__観念(idea)__複合
 直接、複数     |再現、反省  観念
          想像      (実体*、
         /  \      様相、 
      連想能力  比較する原理=関係1~7)
       /  \/         \
     b/ *c/\a         \
    接近、7因果、1類似_4量_5質_6反対_
     |  |  __3時空_2同一性    |
     |  | |  (源泉)        |
     | (蓋然性)  |    (数学的、確実性)
     |________|

9:15 午後  
Blogger yoji said...

 ヒュームの知性論:
      知覚(perception)=意識
     /    \単純
印象(impression)__観念(idea)__複合
 直接、複数     |再現、反省  観念
          想像      (実体*、
         /  \      様相、 
      連想能力  比較する原理=関係1~7)
       /  \/         \
     b/ *c/\a         \
    接近、7因果、1類似_4量_5質_6反対_
     |  |  __3時空_2同一性    |
     |  | |  (源泉)        |
     | (蓋然性)  |    (数学的、確実性)
     |________|
連想の性質である接近と関係の性質である時空は後者が前者の源泉であり実質同じ。
ここから、連想は蓋然的であり同一性を除く関係性は確実的であるという結論になる。

9:23 午後  
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http://blogs.yahoo.co.jp/azurite_2727/27883344.html
ヒューム「人性論」~アインシュタイン
2007/2/1(木) 午前 5:22思想練習用





 第5章 アインシュタイン

 アインシュタインは回顧録の中でヒュームについて触れている。それによれば、特殊相対性理論誕生の直前、かれは、「ヒュームの『人性論』を熱心にまた、畏敬の念を持って読み」、「核心部分の推論は、ヒュームの理論によって促進された」という。
 
 19世紀末、アインシュタインや他の物理学者を悩ませていた問題があった。
それは、光の速度と同時性に関するものである。
 窓を閉めて一定の速度で走る列車を考えてみる。この列車の中で、野球の二人の投手二人が列車の両端から中央にある的に向かってまったく同じように、かつ同時にボールを投げるとする。このとき、どちらのボールが先に的に当たるだろうか。答えは同時である。
 しかも列車の中の観察者にとってボールの速度は同じに見える。
 線路の脇でこれを観察する人を考えてみよう。進行方向に向かって投げたボールは目にも止まらぬ速度で進むのに対し、逆方向に投げたボールはのろのろと動くように見える。ボールの速度は観察者によって異なって見えるのである。

 次にボールを光に置き換えてみる(鉄道も銀河鉄道をイメージしていただきたい)。
 ここで話が変わる。光は、ボールと異なり、観察者が動いているか否かにかかわらず一定の速度で目に飛び込んでくることが知られている。車内の観察者にとっては、ボールのときと変わる点はなにもない。同時に放たれた光は同時に的に当たる。
 問題は(銀河)鉄道の脇に佇んでいる観察者である。この観察者にとって、進行方向に向かう光も逆方向に向かう光も同じ速度に見える。しかし、列車は動きつつあるから、進行方向に向かう光は、逆方向に向かう光に比べより長い距離を進まなければならない。したがって、逆方向への光のほうが進行方向への光よりも先に的に当たるはずである。ここで「矛盾」が生じてしまった。
 
 ヒュームならこのことを矛盾と考えなかったであろう。立場が異なれば、観察観察事実も異なり得る。
観察は光が目に飛び込んできたときに生じるからである。
アインシュタインは、観察事実の相対性をヒュームから学び、車内の人間が、「二つの光が同時に放たれ、同時に的に当たる」ことを観察するとき、車外の人間は、「進行方向への光が先に放たれ、同時に的に当たる」ことを観察すると考えることで矛盾を解決した。
人間の科学が物質の科学にフィードバックされた瞬間であった。

備考:アインシュタインの特殊相対性理論は、一般に
  E=mC(の2乗)
という、人類が発見したもっとも美しい公式という数式でも表されます。
なおこの公式は、いわゆる原子爆弾の実現可能性も含んでいます。
また、相対論的思考は、量子力学においても、電子の観察可能性についても類似の議論が行われることとなります。

8:00 午前  
Blogger yoji said...


http://www.ed.ac.uk/about/edinburgh-global/news-events/news/humeinfluence-250411
Jean-Jacques Rousseau
Hume and Rousseau were initially great admirers of each other’s work, with the philosopher helping the Swiss-French writer secure asylum in England when forced to flee France. But the relationship dissolved into acrimony when the paranoid Rousseau accused Hume of plotting against him.
Albert Einstein
Einstein is famous for perceptive insights that changed physics forever. What is less known is how he arrived at them: “I studied [Hume] with fervour and admiration shortly before the discovery of relativity. It is very well possible that without these philosophical studies I would not have arrived at the solution.”

Sigmund Freud
Sigmund Freud
The founder of psychoanalysis was a devotee of Hume. Freud’s book Totem and Taboo was influenced by Hume’s ideas about the animation of the inanimate - the human desire to ascribe a personality to objects.

8:08 午前  
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http://www.hopos2014.ugent.be/node/350
Hume and Einstein’s Special Theory of Relativity

Matias Slavov
University of Jyväskylä

Abstract:
In the 14th of December, 1915, Einstein wrote a letter to Schlick where he declared that it was “Mach, and, even more, Hume, whose Treatise of Human Nature I studied with passion and admiration shortly before discovering the [special] theory of relativity. Very possibly, I wouldn't have come to the solution without those philosophical studies.” Though much ink has been spilled about Mach's influence to Einstein's science, the relationship between Hume's philosophy and Einstein's philosophical analysis related to the special theory of relativity is far less known. What was it about Hume's Treatise, whose german translation Einstein read in the early 1900's, and which was discussed extensively in the “Olympia academy” reading group that Einstein participated in Bern that he found beneficial to the formulation of the special theory of relativity? The quote above does not tell what it was about Hume's philosophy that Einstein implemented to his science. So, what type of connection is there between the two? To answer this question, perhaps the most comprehensive and concise analysis is presented in John D. Norton's article “How Hume and Mach Helped Einstein Find Special Relativity” (2009). Norton's main thesis is that Einstein was most influenced by the way Hume saw concepts, or ideas, to be grounded in experience. If the concept of simultaneity is grounded in sensible experience, such as in a visual experience of immediate light flashes in two mirrors, it follows that there is no absolute simultaneity, since different inertial reference frames observe the timely order of two spatially distant events, the two light flashes, in different order. In addition to Norton’s observation, I contend that there are still at least two important intertwined points between Hume's and Einstein's views. First, they both support an empiricist theory of ideas or concepts. According to their views ideas and concepts are justified by and made meaningful by impressions or sensations. Second, they both insist that adequate ideas or concepts of space and time refer relatively to individual bodies. I shall argue that these two points are symmetrical in Hume and Einstein: the empiricist theory of ideas/concepts entails that the notions of space and time require observable physical objects; in turn, the ideas/concepts of physical objects can be justified and acquired by relevant sensuous impressions, such as vision and touch. As a consequence, their views are relationist and stand in opposition to Newton's understanding of space and time as being absolute. However, though I find Hume's and Einstein's views to overlap about the two points mentioned above, I will argue that Einstein's empiricist remarks about concepts referring to sensations instantiate a more mitigated empiricism than Hume's copy principle. Einstein frequently states that concepts are the “free creation of the human mind,” and that they are not deducible from sensations, or connected to them in any logically necessary way. This is not the case with Hume, since according to his copy principle impressions determine ideas—there is a complete isomorphy between the two—and our will regarding this relation is not free.

8:12 午前  
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父エルンスト・アルベルト・シュリック、母アグネス・アルントのもと、ベルリンの富裕な家庭に生まれた。ハイデルベルク、ローザンヌ、最終的にはマックス・プランクのもとベルリン大学で物理学を学び、1904年に学位論文「非均質媒質中における光の反射について」(Über die Reflexion des Lichts in einer inhomogenen Schicht) を完成させた。ゲッティンゲンで一年間私講師としてすごしたのち、チューリヒで哲学研究に転向した。1908年には小論「生活の知恵」(Lebensweisheit) を発表した。これは幸福主義、つまり幸福こそが倫理の最高の目的だという理論に関するものである。彼の復帰的な評論「近代論理学による真理の本性」(Das Wesen der Wahrheit nach der modernen Logik) は1910年に発表された。それに続いて美学に関する評論を何本か発表するとすぐに、シュリックの関心は認識論、科学哲学、さらには科学に関するより一般的な問題へと移った。この最後のカテゴリで、シュリックは1915年に、わずか10年前の話題であるアルベルト・アインシュタインの特殊相対性理論に関する論文を発表して有名になった。また、彼は、「近代物理学における空間と時間」(Raum und Zeit in der gegenwärtigen Physik) を発表した。この論文では一般相対性理論においてアインシュタインが非ユークリッド幾何学を採用したことを説明するのにアンリ・ポアンカレの幾何学的規約主義を適用することで彼の初期の成果が拡張された。

wiki

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Friedrich Albert Moritz Schlick

1930年ごろのシュリック
生誕 1882年4月14日
ドイツ帝国 ベルリン
死没 1936年6月22日(54歳)
オーストリア ウィーン
時代 20世紀の哲学
地域 西洋哲学
学派 分析哲学、論理実証主義、ウィーン学団
研究分野 論理学、科学哲学、数学の哲学、倫理学
影響を受けた人物:
エルンスト・マッハ、ルートヴィヒ・ヴィトゲンシュタイン、バートランド・ラッセル、マックス・プランク
影響を与えた人物:
ウィーン学団、アルベルト・アインシュタイン、ハーバート・ファイグル、アルベルト・ブルンベルク
テンプレートを表示
フリードリッヒ・アルベルト・モーリッツ・シュリック(Friedrich Albert Moritz Schlick 発音[ヘルプ/ファイル]、1882年4月14日 - 1936年6月22日)は、ドイツの哲学者、物理学者にして論理実証主義とウィーン学団の創立者。

8:21 午前  
Blogger yoji said...

http://www.pitt.edu/~jdnorton/papers/HumeMach.pdf

f philosophers who sought philosophical enlightenment in Einstein’s physical theorizing. Einstein too had long made clear that there was a reverse influence: he in turn drew stimulation from the philosophical literature. From as early as 1912, one could read in his publications in physics that his work on general relativity had been motivated by the writings of Ernst Mach, especially through what Einstein had come to call “Mach’s Principle.” In his autobiographical reminiscences, Einstein now affirmed a similar debt for his special theory of relativity. Though this was not the first time he had made remarks of this type, their prominence in an otherwise brief and authoritative account of the discovery of special relativity could leave no doubt of their importance. He wrote of the decisive moment in which he abandoned the absoluteness of simultaneity and thereby discovered special relativity (1949, p. 51):
Today everyone knows, of course, that all attempts to clarify this paradox [of light that leads to special relativity] satisfactorily were condemned to failure as long as the axiom of the absolute character of time, or of simultaneity, was rooted unrecognized in the unconscious. To recognize clearly this axiom and its arbitrary character already implies the essentials of the solution of the problem. The type of critical reasoning required for the discovery of this central point was decisively furthered, in my case, especially by the reading of David Hume’s and Ernst Mach’s philosophical writings.
An earlier remark in a letter of December 14, 1915, to Moritz Schlick (Papers, A, Vol. 8A, Doc. 165) makes the relative importance of Hume and Mach clear:
Your exposition is also quite right that positivism suggested rel. theory, without requiring it. Also you have correctly seen that this line of thought was of great influence on my efforts and indeed E. Mach and still much more Hume, whose treatise on understanding I studied with eagerness and admiration shortly before finding relativity theory.
It was Hume more than Mach.
Einstein’s avowal of intellectual debts to Hume and Mach have long been recognized and
examined.2 My purpose in this paper is to present a more detailed account of what, I believe,
2 This literature is enormous. For an entry into it, see Holton (1968); Stachel (1989a); and, most recently, Howard (2004).

8:29 午前  
Blogger yoji said...

1058夜『ゲーデル再考』ハオ・ワン|松岡正剛の千夜千冊
1000ya.isis.ne.jp/1058.html
あげく、サークルの指導者モーリッツ・シュリックこそがゲーデルの最初の先生となった( あとで紹介するけれど、シュリックには劇 .... シュリックは、そのころ日の出の勢い をもっていたアインシュタインらとともに「ユダヤ的である」と判断されたのだ。

8:32 午前  
Blogger yoji said...

 アリストテレスが打ち立てた論理の記述法を基盤として、その後、次々に推論のための論理の組み立てがつくられていった。19世紀の終盤になると、ゴットフリート・フレーゲらが登場してこれを数学的な数式に対応できる論理式にまで高めていった。そのための簡潔な論理記号も考案された。基本的な論理記号は「ならば」「かつ」「または」「でない」「同値」5種類からなっていて、これらを組み合わせて(ほかにもあるが)、数学的証明を論理記号による論理式だけで記述しようとしたのである。ちなみに5つの基本的な論理記号は、「ならば‥⊃」「かつ‥∧」「または‥∨」「でない‥¬」「同値‥≡」というふうになる。記号論理学はこういう論理記号を駆使しはじめたのだ。

8:34 午前  
Blogger yoji said...

 1924年、青年となったゲーデルはウィーン大学に進んだ。最初は宇宙や量子のことを解明したくて物理学科をえらんでいるが、半身不随の数学教授フィリップ・フルトヴェングラーに出会って、震撼とした。その影響で、数学科に転向する。フルトヴェングラーは指揮者のフルトヴェングラーの従兄弟にあたる。
 こういう事情があったせいか、このころゲーデルの数学知識ははやくも教授並に達していたようだ。
 そのころのウィーン大学には、ウィーン学団の熱気が急速に沸騰しつつあった。ウィーン学団とはマッハの思想を普及することを目的としていた協会の別名で、数学教授ハンス・ハーンが創立した。ウィーン9区シュトゥルデルホーフ小路にある数学研究所を根城に、ここで1924年から1933年までの7年間、毎週木曜の夕方6時から欠くことのない議論が連打された。
 ゲーデルはこの数学研究所のシュリック・サークルに格別な関心をもつ。あげく、サークルの指導者モーリッツ・シュリックこそがゲーデルの最初の先生となった(あとで紹介するけれど、シュリックには劇的な最後が待っていた)。
 そこにはシュリックだけでなく、カール・メンガー、フィリップ・フランク、オットー・ノイラート、のちに同僚となるルドルフ・カルナップがいた。つねに客分としてかかわっていたのはカール・ポパーとヴィトゲンシュタインと先輩格のボルツマンだった。ノイマンやアルフレッド・タルスキーも時々顔を見せている。
 これだけの錚々たる顔ぶれである。たちまち世界を驚かせる多くの仮説が次々に湧き出て、ウィーン学団とシュリック・サークルの名はすぐさま天下に轟いた。青年ゲーデルはその渦中に一気に飛びこんでいったのだ。そして飛びこむと同時にあっというまに一つの確信に達した。その一つの確信こそ、ゲーデルに不完全性定理を思いつかせた原動力である。

8:36 午前  
Blogger yoji said...

Einstein: His Life and Universe - 574 ページ

books.google.co.jp/books?isbn... - このページを訳す
Walter Isaacson - 2007 - ‎プレビュー - ‎他の版
His Life and Universe Walter Isaacson. 65. ... Swiss Federal Council to Einstein, June 19, 1902. ... Einstein to Moritz Schlick, Dec. 14, 1915. In a 1944 essay about Bertrand Russell, Einstein wrote, “Hume's clear message seemed crushing: the ...


アインシュタイン その生涯と宇宙 下 単行本(ソフトカバー) – 2011/6/23
ウォルター アイザックソン (著), 二間瀬 敏史 (監訳), & 3 その他


8:43 午前  
Blogger yoji said...

アインシュタイン 人を語る

東海大学出版部 TOKAI UNIVERSITY PRESS
http://www.press.tokai.ac.jp/bookpub.jsp?isbn_code=ISBN978-4-486-01213-9
 13 S・ヘッシング編『スピノザ生誕三〇〇年記念論文集』 一九三三年―
  「スピノザは、あらゆる出来事の決定論的な拘束性という思想を実際に首尾一貫
   して人間の思考、感情、行動に適用した最初の人物です」
 14 L・インフェルト『現代科学における世界』 一九三四年―
  「理解することを求めて飢え乾いている読者のなかにこのドラマが呼び起こす緊

9:01 午前  
Blogger yoji said...


アインシュタイン,ひとを語る

序文を中心に

金子 務,板垣 良一編
ジャンル1:歴史/伝記
ジャンル2:自然科学/科学・技術一般
ISBN978-4-486-01213-9 C3010 234頁 四六判
本体価格2400円+税 1993年04月15日
本書は,アインシュタインが自著を含めて様々な著作に寄せた序文を中心に,E・マッハへの追悼文やI・ヴェリコフスキーとの往復書簡などから構成されている。科学者・思想家としてのその発言は,世界の全体に対する好奇心にあふれている。

http://www.press.tokai.ac.jp/bookdetail.jsp?isbn_code=ISBN978-4-486-01213-9

9:04 午前  
Blogger yoji said...

「私の指の掠(かす)り傷よりも、全世界の破滅の方を

   好んだとしても理性に反することにはならない」(ヒューム)

ノルウェーの爆弾テロ犯の“情念について”解説しているかのようだ。

5:07 午前  
Blogger yoji said...

ヒューム

  政府
  l
  世論
  /\
利害1 権利
   /\
権力2 財産3

3つの世論が政府、マイノリティの権威そのものの基礎


ヒューム「政府の第一原理について」岩波文庫市民の国について(上)226~231頁

8:43 午後  
Blogger yoji said...

ヒュームの原理と呼ばれる一対一対応は、
スピノザが思惟と延長において展開しているものと同じだ。
ドゥルーズもまた、系列の思考においてこれを受け継いでいる。
器官なき身体と欲望する諸機械はその極点である。

http://homepage1.nifty.com/kurubushi/card57045.html
 ヒュームの考えも、自我といった実体を否定することに関してはスピノザと同じことだ。
自我なんかない、それは知覚の束にすぎない(→バークリー対ヒューム 自我について)。
しかし、ヒュームがスピノザと違うのは、その束の元になっているものである。ヒュームは
それが知覚だとする。スピノザはそれを観念だとする。知覚というのは我々たちの精神に
現れては消えるものだ。つまりヒュームの方法は、自分の「意識」を振り返ってみることで
ある。これに対して観念とは、唯一の実体である神から出てくるものだ。だからスピノザの
方法は、自分の「意識」を超える構造を見出すことである。
ヒュームは全ての実体を否定するが、スピノザは他の実体的な主体を解体するために、ただ
一つの実体を前提とするのである。

9:14 午前  
Blogger yoji said...

有限性の後で
偶然性の必然性についての試論

人文学を揺るがす思弁的実在論、その最重要作、待望の邦訳。

著者 カンタン メイヤスー 著
千葉 雅也 訳 大橋 完太郎 訳 星野 太 訳

出版年月日 2016/01/30 ISBN 9784409030905
判型・ページ数 4-6・224ページ 定価 本体2,200円+税
目次
序文(アラン・バディウ)

第一章 祖先以前性
第二章 形而上学、信仰主義、思弁
第三章 事実論性の原理
第四章 ヒュームの問題
第五章 プトレマイオスの逆襲
訳者解説 人名索引

内容説明
この世界は、まったくの偶然で、別様の世界に変化しうる。
人文学を揺るがす思弁的実在論、その最重要作、待望の邦訳。

序文:アラン・バディウ
「カンタン・メイヤスーの最初の一冊にして代表作である本書は、さほど長いものではないが、濃密に書かれた書物だ。
アラン・バディウが序文で述べるように、これは一種の「証明」の試みに他ならない。何を証明するのか。ひとことで言えば、事物それ自体を思考する可能性があるということの証明である。
カントの用語を使うならば、本書は、私たちを「物自体」へ向けて改めて旅立たせるものである、と紹介することもできるだろう。」(訳者解説より)

9:50 午後  
Blogger yoji said...

Silva Speculationis » Blog Archive » 純然たる偶然世界へ:メイヤスー
www.medieviste.org/?p=7640
有限性の後で−−必然と偶然についての試論』(Quentin Meillassoux, Après la finitude , essai sur la nécessité de la ... 確かに確率論が失効すれば必然性も失効するという のはわからなくもないけれど、そのことを導くための、数学的議論に根ざした推論が ...


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価格:2,117円 (2015年11月16日現在)
クァンタン・メイヤスー - Wikipedia
ja.wikipedia.org/wiki/クァンタン・メイヤスー
バディウはメイヤスーの処女作『Après la finitude』(2006年)の序文を執筆し、そこで 同書は近代哲学にとっての全く新しい ... メイヤスーは2012年にベルリン自由大学で 行った講義にて、『After finitude』で表明した見解のいくつかを明確化もしくは修正して いる。
Quentin Meillassoux - Wikipedia, the free encyclopedia
en.wikipedia.org/wiki/Quentin_Meillassoux
Badiou, who wrote the foreword for Meillassoux's first book Après la finitude ( 2006), describes the work as introducing an ... Meillassoux clarified and revised some of the views exposed in After finitude during his lectures at the Free University ...

9:54 午後  
Blogger yoji said...

ヒューム、悲劇について

戸山田恐怖の哲学で言及


ヒューム 道徳・政治・文学論集 [完訳版] « 名古屋大学出版会
http://www.unp.or.jp/ISBN/ISBN978-4-8158-0672-9.html
デイヴィッド・ヒューム 著  田中敏弘 訳




価格 8,000円
判型 A5判・上製
ページ数 500頁
刊行年月日 2011年
在庫状況 在庫有り
ISBNコード 978-4-8158-0672-9
Cコード C3010
書籍の内容
文明社会の「人間学」へ —— 。生前のヒュームが最も苦心して改稿を重ね、政治・経済・社会思想から道徳哲学・批評を含む広大な領域を横断的に論述したエッセイ集。多くの読者を獲得し、賢人ヒュームの名声を世に知らしめたもう一つの主著が、本邦初訳を多数含む 「完訳版」 としてよみがえる。

書籍の目次
   第Ⅰ部

1 趣味および情念の繊細さについて
2 言論・出版の自由について
3 政治は科学になりうる
4 統治の第一原理について
5 統治の起源について
6 議会の独立について
7 ブリテンの政体は絶対君主政へ傾いているのか、それとも共和政へ傾いているのか
8 党派一般について
9 グレイト・ブリテンの党派について
10 迷信と熱狂について
11 人間本性の尊厳ないし卑しさについて
12 政治的自由について
13 雄弁について
14 技芸と学問の生成・発展について
15 エピクロス派
16 ストア派
17 プラトン派
18 懐疑派
19 一夫多妻と離婚について
20 著述の簡素と洗練について
21 国民性について
22 悲劇について
23 趣味の標準について

   第Ⅱ部

1 商業について
2 技芸における洗練について
3 貨幣について
4 利子について
5 貿易差額について
6 貿易上の嫉妬について
7 勢力均衡について
8 租税について
9 公信用について
10 若干の注目に値する法慣習について
11 古代諸国民の人口について
12 原始契約について
13 絶対的服従について
14 党派の歩み寄りについて
15 新教徒による王位継承について
16 完全な共和国についての設計案

   第III部

1 エッセイを書くことについて
2 道徳上の偏見について
3 中産層について
4 厚顔と謙虚さについて
5 愛と結婚について
6 歴史の研究について
7 貪欲について
8 ロバート・ウォルポール卿の性格について
9 自殺について
10 霊魂の不滅について

解 題  ヒューム 『道徳・政治・文学論集』 について

書評紹介
『社会思想史研究』 (No.36 2012年、評者: 星野彰男 氏)

10:42 午前  
Blogger yoji said...

フレーゲの思想をわかりやすく教えてください - フレーゲの思... - Yahoo!知恵袋
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1353194343
こうして作られた論理学で、従来はわからなかった面白い事実が見つかりました。それは、自然言語の表現の表面的な構造とと、そうした表現の論理的性質を表わす構造とは食い違うということです。例えば「no rabbit runs」のような英語文は単純な主語述語文に見えますが、実はそうではなく「ウサギであり走るものは存在しない」という量化表現となっています。

このことから、フレーゲは自然言語はその論理的性質をかくしてしまっており、不明確な体系だと考えるようになりました。これはラッセルらにも通ずる考えです。


こうした発見から、自然言語表現の本当の性質はどういったものなのかという問題も生じました。
フレーゲは実際には自然言語にそれほど大きな関心を持っていませんでしたが、例えば固有名が先に挙げた論理的な名前と同様のものであり、その意味は指示対象に尽きるはずだなどという議論をしました。
そしてそのなかで発見されたのがフレーゲのパズルです。固有名の意味が指示対象に尽きるならば、「Phosphorus is Hesperus」のような文は「a = a」と内容上変わらないことになってしまうけれど、実際にはきちんと認識上の価値があり、これをいかに説明するかというパズルです。
そこでフレーゲは意味(Bedeutung)は指示対象であるが、表現は意味のほかに意義(Sinn)も持っており、それは指示対象の与えられ方であるという議論を展開しました。



フレーゲの基本的な業績は、次のものにまとめられると思います。

①数学の基礎に関する論理主義の提唱
②古典述語論理の構築
③固有名の内容に関する指示対象と意義の併用説


論理主義は今はそれほど取りざたされないかと思いますが、古典論理は現代の非古典論理すべての基礎にある大きな業績です。アリストテレス以来の論理学上の展開と言っていいでしょう。指示対象と意義の併用説はラッセルの記述説、クリプキの直接指示説などと並ぶ言語哲学上の古典的な立場の一つとなっています。またフレーゲのパズルはクリプキの信念パズルなどと並んで、さまざまな仕方でいまだに論じられるものです。

同時に、彼自身の主張したこととは言えないでしょうが、自然言語表現の背後に隠れた論理的構造があるという発見は、ラッセルの記述説の原動力となると同時に、自然言語の論理的性質の分析こそ第一哲学であるという「言語論的転回」の出発点となりました。


詳しくは飯田隆さんの「言語哲学大全一巻」、「哲学の歴史10」などをご覧ください。

8:30 午後  
Blogger yoji said...

ヒュームとアインシュタイン

http://blogs.yahoo.co.jp/azurite_2727/27883344.html
 アインシュタインは回顧録の中でヒュームについて触れている。それによれば、特殊相対性
理論誕生の直前、かれは、「ヒュームの『人性論』を熱心にまた、畏敬の念を持って読み」、
「核心部分の推論は、ヒュームの理論によって促進された」という。
 19世紀末、アインシュタインや他の物理学者を悩ませていた問題があった。
それは、光の速度と同時性に関するものである。
 窓を閉めて一定の速度で走る列車を考えてみる。この列車の中で、野球の二人の投手二人が
列車の両端から中央にある的に向かってまったく同じように、かつ同時にボールを投げるとする。
このとき、どちらのボールが先に的に当たるだろうか。答えは同時である。
 しかも列車の中の観察者にとってボールの速度は同じに見える。
 線路の脇でこれを観察する人を考えてみよう。進行方向に向かって投げたボールは目にも止ま
らぬ速度で進むのに対し、逆方向に投げたボールはのろのろと動くように見える。ボールの速度
は観察者によって異なって見えるのである。
 次にボールを光に置き換えてみる…

 ヒュームならこのことを矛盾と考えなかったであろう。立場が異なれば、観察観察事実も異
なり得る。
観察は光が目に飛び込んできたときに生じるからである。
アインシュタインは、観察事実の相対性をヒュームから学び、車内の人間が、「二つの光が同時
に放たれ、同時に的に当たる」ことを観察するとき、車外の人間は、「進行方向への光が先に放
たれ、同時に的に当たる」ことを観察すると考えることで矛盾を解決した。
人間の科学が物質の科学にフィードバックされた瞬間であった。

備考:アインシュタインの特殊相対性理論は、一般に
  E=mC(の2乗)
という、人類が発見したもっとも美しい公式という数式でも表されます。
なおこの公式は、いわゆる原子爆弾の実現可能性も含んでいます。
また、相対論的思考は、量子力学においても、電子の観察可能性についても類似の議論が行
われることとなります。

11:17 午後  
Blogger yoji said...

21世紀の哲学は? - 静かの海
http://blog.goo.ne.jp/irienohotori/e/a27ab73fb4faf56ee6e9cec77d6b18ea



 先日のブログで、イギリスBBC放送の視聴者アンケートで、最も偉大な哲学者にマル
クス、2位にヒュームが選ばれたことについて触れた。それとともに、村山斉氏やホーキ
ング博士が宇宙や存在などの解明に関して哲学がもはや役立たずになっていると言ってい
ることにも触れた。

 マルクスはちょうどヒュームの一世紀後の人だが、しばしばヒュームを論じているらし
い。私が知っているのは、マルクスが『経済学批判』のなかの「流通手段および貨幣にか
んする諸学説」でヒュームの貨幣論(「貨幣について」『市民の国について』)を批判的
に論じた箇所くらいなものである。だがここでそれを論ずるつもりはない。ただマルクス
は「ヒュームは一八世紀におけるこの理論(古典派経済学の貨幣論)のもっとも重要な代
表者であるから・・・」と述べてヒュームの理論の概観をはじめていることだけは記して
おこう。

 貨幣論は経済学の問題である。しかし、しばしば人生論に関わってくる。貨幣が人間の
生活、精神にいかなる影響を与えたかというように。貨幣を発明しなければ人間はどんな
にか今より幸福だっただろうかと論じた人々もいた。貨幣を使用するのは人間だけだとし
て動物との区別に利用する人もいる。

 著名な政治思想家ハンナ・アレントは『人間の条件』のなかで「労働が人間を動物から
区別するということを最初に主張したのは、マルクスではなくてヒュームだと思われる」
と述べている。ただし彼女はこれを Adriano Tilgherという人物の " Homo faber" から
知ったようである。だから「と思われる」などと言っているのだろう。

にもかかわらず、ヒュームの哲学では労働はなんら重要な役割を果たしていないとアレ
ントは指摘する。当然と言えば当然だろう。ヒュームはまだ労働価値説には至っていなか
ったのだから。

 ヒュームについてアレントが注目するのは、動物にも思考や推理の能力をもっていると
いうヒュームの考えである。もっとも、動物にそのような能力があるということは、古代
からいろんな人が言っておりなんら目新しいことではないが・・・。
 だがヒュームは一八世紀の、創世記の記述が絶対的と一般に信じられていた時代の人で
ある。

 アレントは、ヒュームが動物と人間を区別するのは知能ではなく労働であると言いなが
ら、その労働が人間をつくるうえで果たした役割などには無関心であったと指摘している
。一方でアレントは、理性でなく労働こそ間を他の動物から人間を区別するとか、神では
なく労働が人間をつくったというマルクスの冒涜的な観念は近代の定式にすぎないと論じ
た。いろいろ面白いことを言う人である。

 ヒュームは動物の理性について次のように述べている。
 「人類と並んで畜類も思惟及び理知を付与されていることは最も明白な真理である」(
『人生論』1、大槻春彦訳、270頁)。また次のようにも述べている。「動物・幼児・普
通人は、最も完熟した天稟と知性を持つ人と同じ情感及び感情を感じることができるので
ある」(同上272頁)。後者の発言は少し言い過ぎのような感もするが、説得力もある。
 そういう点に関してはアリストテレスよりもプリニウスの方が面白い。プリニウスはゾ
ウの知性や信仰心までも語り、人間に恋するイルカの話も書いている。だけどヒュームほ
ど明確にプリニウスの発言を繰り返した人がいたであろうか、中世の教会の説話物語は別
として。だがそのプリニウスもゾウの芸術心まで語ることはできなかった。今日、絵筆を
鼻で握って見事な彩色画を描くゾウの話がテレビデ紹介されたりする。

 夏目漱石はヒュームについてこう言っている。「ヒュームが『人生論』とか『人間の悟
性に関する哲学的論文』等を著した時に、俗人は無論読み手がなかった。教育ある人の中
でもこれを読んだ人は頗る僅少である。その僅少な中で彼を理解したものは極めて少ない
」(漱石『文学評論』上、60頁)。
 一八世紀でのことを指しているのだろうが、漱石が何を根拠にそう言っているのかはわ
からない。この『文学評論』は東京大学での講義録である。東大生の自尊心をくすぐって
ヒュームを読ませようとしたのかもしれない?・・・そんなことはないか。

 漱石がまとめたヒュームの考えの一端はこうである。
 「吾人が平生『我(エゴー)』と名づけつつある実態は、まるで幻影のようなもので、
決して実在するものではないのだそうである。吾人の知る所はただ印象と観念の連続に過
ぎない。」「だから心などという者は別段それ自身に一個の実態として存在するものでは
ないというのがヒュームの主張の一つである」(同上、76頁)。

もう一つ、因果の概念というのもまた習慣の産物として出現するにすぎないというヒュ
ームの考えを紹介したのちこう語っている。
 「経験的に与えられたる己知件(きちけん)から出立して漫(みだ)りに経験の領域以
外に逸脱して、徒(いたずら)に超絶的の議論に移るのは明らかに不法である。従って神
とか不滅とかを口にするのは不法である。これがヒュームが世人からして懐疑派といわれる所以(所以)である」(同上77頁)。

 ヒュームは懐疑論者だとわが国でいわれることも多いが、これは上述の漱石の発言から
始まったのかもしれない。ただし見てわかるとおり、漱石は懐疑派だと決めつけているわ
けでは決してない。ではヒューム自身、自分をどう見ていたか。
 「一切が不確実であって、我々の判断がいかなる物に於ても真偽のいかなる尺度も持た
ない、と唱える懐疑家の真の一員であるか否か、そのように問うとすれば、私は答えよう
、この疑問は全く蛇足であって、私も他の誰も未だ嘗て真剣に且つ絶えずこのような考え
であったことはないのである」(『人生論』2、9頁)。

 前回のブログ(「偉大な哲学者」)でちょっと触れたが、ホーキング博士はヒュームを
イギリスの偉大な哲学者と評価してヒュームの発言を紹介している。もう一度載せる。
 「私たちは現実が本当に存在していることを信じるに足る、道理にかなった理由を持た
ないが、それでも私たちは現実が真実であると思って行動する以外に選択肢がない」。
 
 ホーキング氏は、これをモデル依存実在論を論ずるなかで肯定的に引用している。モデ
ル依存実在論とはあまり聞かない言葉であるが、いまここで詳しく紹介している余裕はな
い。ホーキング氏によると、「モデル依存実在論の下では、あるモデルが本当かどうかは
重要ではありません。そのモデルが観測結果をよく説明するかどうかが重要なのです」と
いう。
 そして同氏はさらに「科学の世界において、私たちはモデルを作ります。しかし、私た
ちは日常生活においても同様にモデルを作っています」「私たちの知覚の世界から観測者
- を取り除くことはできません。この知覚の世界というのは、私たちの感覚が働くこと
によって創られるもののことで、それによって私たちは考えたり判断します」(『ホーキ
ング宇宙と人間を語る』)と語っている。

 ホーキング氏はすごいことを言っているわけである。今日の私の思考力はこのへんまで
、あとはまた考えてみることにしよう。

4:04 午前  
Blogger yoji said...

参考:

フレーゲの主張に「ヒュームの原理」(略称HP)というものがある(命名はジュージ・ブーロス
『フレーゲ哲学の最新像』)。
数を認識する時、一対一対応が最も確実で、幾何学等の延長は不確実になるというものだ。

「ヒュームの原理」は、フレーゲの『算術の基礎』(§63、著作集2勁草書房122頁)において、
デイヴィッド・ヒュームの『人間本性論』第1巻
第3部第一節からの引用というかたちで言及されている。

「例えば、二つの数を集成する各々の単位がそれぞれ常に相応するとき、我々は二つの数
が等しいと宣言する。」
(岩波文庫人性論1p123)。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%92%E3%83%A5%E3%83%BC%E3%83%A0%E3%81%AE%E5%8E%9F%E7%90%86

ヒュームは単なる不可知論者ではない。

3:05 午前  
Blogger yoji said...

「ヒュームの原理」は、フレーゲの『算術の基礎』(§63、著作集2勁草書房122頁)において、デイヴィッド・ヒュームの『人間本性論』第1巻第3部第一節からの引用というかたちで言及されている。「例えば、二つの数を集成する各々の単位がそれぞれ常に相応するとき、我々は二つの数が等しいと宣言する。」(岩波文庫人性論1p123)。
『人間本性論』第1巻第3部第一節   #
「例えば、二つの数を集成する各々の単位がそれぞれ常に相応するとき、我々は二つの数が等しいと宣言する。」(ヒューム『人性論』1:3:1 第一巻岩波文庫123頁)
「たとえば、二つの数を並べてみて、その一方を構成する単位が他方の単位と一つ一つつねに対応すれば、二つの数は等しいとわれわれは言う。」
(ヒューム『人性論』中公クラシックス41頁)

3:30 午後  
Blogger yoji said...


http://ikedanobuo.livedoor.biz/archives/51329795.html
いま私の書いているイノベーションについての本の出発点は、マッハである。彼の名前は、世間ではジェット機の速度の単位でしか知られていないだろうが、本書も指摘するように彼は20世紀の思想の源流ともいうべき存在で、ニーチェもフッサールも彼の影響を受けた。アインシュタインはマッハの追悼文でこう書いている:
私の仕事にとってマッハとヒュームの研究が非常に助けになった。マッハは古典力学の弱点を認め、半世紀も前に一般相対性理論を求めるのにあとちょっとのところまで来ていた。[・・・]マッハがまだ若く、彼の頭脳が柔軟であった時期に、物理学者のあいだで光速の一定性が問題にされていたら、マッハこそが相対性理論を発見したであろう。

5:37 午前  
Blogger yoji said...


ヒュームマッハアインシュタインスピノザニーチェドゥルーズカント

ヒューム
スピノザ
ドゥルーズが接着剤

5:45 午前  
Blogger yoji said...

ヒュームマッハアインシュタインスピノザマルクスドゥルーズニーチェカント

ヒューム
スピノザ
ドゥルーズが接着剤

5:47 午前  
Blogger yoji said...



https://en.m.wikipedia.org/wiki/Hume%27s_principle

When two numbers are so combined, as that the one has always a unit answering to every unit of the other,
we pronounce them equal; and it is for want of such a standard of equality in [spatial] extension, that geometry can
scarce be esteemed a perfect and infallible science. (I. III. I.)

11:19 午前  
Blogger yoji said...

参考:
フレーゲの主張に「ヒュームの原理」(略称HP)というものがある(命名はジュージ・ブーロス
『フレーゲ哲学の最新像』)。
数を認識する時、一対一対応が最も確実で、幾何学等の延長は不確実になるというものだ。

「ヒュームの原理」は、フレーゲの『算術の基礎』(§63、著作集2勁草書房122頁)において、
デイヴィッド・ヒュームの『人間本性論』第1巻第3部第一節からの引用というかたちで言及されている。

「例えば、二つの数を集成する各々の単位がそれぞれ常に相応するとき、我々は二つの数
が等しいと宣言する。」(岩波文庫人性論 第1巻123頁)。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%92%E3%83%A5%E3%83%BC%E3%83%A0%E3%81%AE%E5%8E%9F%E7%90%86

別訳
「たとえば、二つの数を並べてみて、その一方を構成する単位が他方の単位と一つ一つつねに対応
すれば、二つの数は等しいとわれわれは言う。」
(ヒューム『人性論』中公クラシックス41頁)

https://en.wikipedia.org/wiki/Hume%27s_principle

When two numbers are so combined, as that the one has always a unit answering to every
unit of the other, we pronounce them equal; and it is for want of such a standard of equality
in [spatial] extension, that geometry can scarce be esteemed a perfect and infallible science. (I. III. I.)

ヒュームは単なる不可知論者ではない。

11:23 午前  
Blogger yoji said...

参考:
ヒュームとアインシュタイン

http://blogs.yahoo.co.jp/azurite_2727/27883344.html
 アインシュタインは回顧録の中でヒュームについて触れている。それによれば、特殊相対性
理論誕生の直前、かれは、「ヒュームの『人性論』を熱心にまた、畏敬の念を持って読み」、
「核心部分の推論は、ヒュームの理論によって促進された」という。
 19世紀末、アインシュタインや他の物理学者を悩ませていた問題があった。
それは、光の速度と同時性に関するものである。
 窓を閉めて一定の速度で走る列車を考えてみる。この列車の中で、野球の二人の投手二人が
列車の両端から中央にある的に向かってまったく同じように、かつ同時にボールを投げるとする。
このとき、どちらのボールが先に的に当たるだろうか。答えは同時である。
 しかも列車の中の観察者にとってボールの速度は同じに見える。
 線路の脇でこれを観察する人を考えてみよう。進行方向に向かって投げたボールは目にも止ま
らぬ速度で進むのに対し、逆方向に投げたボールはのろのろと動くように見える。ボールの速度
は観察者によって異なって見えるのである。
 次にボールを光に置き換えてみる…

 ヒュームならこのことを矛盾と考えなかったであろう。立場が異なれば、観察事実も異
なり得る。
観察は光が目に飛び込んできたときに生じるからである。
アインシュタインは、観察事実の相対性をヒュームから学び、車内の人間が、「二つの光が同時
に放たれ、同時に的に当たる」ことを観察するとき、車外の人間は、「進行方向への光が先に放
たれ、同時に的に当たる」ことを観察すると考えることで矛盾を解決した。
人間の科学が物質の科学にフィードバックされた瞬間であった。

11:26 午前  

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