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土曜日, 11月 10, 2012

デュルケム『自殺論』と同業組合

参考:
統計5
https://nam-students.blogspot.com/2020/01/5.html
ボロメオの環と共同幻想論と交換図:メモ(性的トーテム)
http://nam-students.blogspot.jp/2013/10/blog-post_28.html 

hicksian (@hicksian_2012)
サッシャ・ベッカー&ルドガー・ウイスマン「デュルケーム『自殺論』再訪 ~プロテスタント教徒はカトリック教徒よりも自殺傾向が高い?~」 econ101.jp/%e3%82%b5%e3%8… via ⁦‪@econ101jp‬⁩
https://twitter.com/hicksian_2012/status/1220442549661376512?s=21
:貧困率も調べないと



https://twitter.com/fujiihikaru/status/1215226821194600448?s=21
藤井光/Hikaru Fujii (@fujiihikaru)
1990年~2015年のアメリカ合衆国で、各州で最低賃金を1ドル増にしていれば2万7千件(2ドル増なら5万7千件)以上の自殺を防げた可能性がある、という研究報告が出たという記事。好況時よりも失業率が高い不況時に最低賃金を上げることで、生命を守る効果があるとのことです。
npr.org/sections/healt…

舞田敏彦 (@tmaita77)
失業率とシンクロする自殺率の推移 newsweekjapan.jp/stories/world/…「失業率(X)が1%上がると、自殺率(Y)は1.949上がると推計できる。人口を1億2000万人と仮定すると、実数でみて年間の自殺者が2339人増える計算」。長期的な共変関係より定式化。

https://twitter.com/tmaita77/status/1219603933988966400?s=21

______

ドゥルーズを読んでいると、集団主義のデュルケムより個人主義?のタルドの方が面白い、などと言ってみたくなるが、デュルケムもやはり重要だ。
例えば、興味深いことに、デュルケムの著名な『自殺論』のラストにおいては自殺を防ぐセーフティネットとして、同業組合が言及されている。

http://keisic.com/suicide.htm#3-3

宗教社会、家族社会、政治社会などのほかにも、これまで問題にされなかったもう一つの社会がある。それは、同種のすべての労働者、あるいは同じ職能のすべての仲間がむすびついて形成する職業集団ないしは同業組合である。p.489、中公文庫

この社会は、同じ労働に従事している個人によって構成され、かれらの利害は連帯し、一体化してさえいるので、社会的な観念や感情をはぐくむうえでこれほどうってつけの地盤はない。出自、教養、職業などが同一のため、職業活動は共同生活にとってこのうえなく豊富な素材をなしている。p.489

職業集団は、他のあらゆる集団にもまして次の三つの利点をそなえている。すなわち、常時存在していること、どこにでも存在していること、そしてその影響は生活の大部分の面にわたっていること、である。p.486

同業組合は、個人をとり囲み、精神的孤立状態から個人を引きだすにたるだけの十分なものをそなえている。他の集団が現在問題の多いものであるだけに、それは、この不可欠な役目を果たすことのできる唯一の集団となっている。p.486


__________

追記:

デュルケムの採用した自殺の4類型を、無理矢理、柄谷行人の交換図(の座標軸)にあてはめると以下のようになるだろう。

   宿命的
 利己的十利他的
   アノミー X

X=アソシエーション

http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1234276402
http://ja.wikipedia.org/wiki/エミール・デュルケーム#.E8.87.AA.E6.AE.BA.E3.81.AE.E5.9B.9B.E5.88.86.E9.A1.9E




利他的自殺(集団本位的自殺)……凝集性の高い帰属集団の絶対的な価値規範・同調圧力を押し付けられる状況において、その状況に上手く適応できずに自己犠牲のプレッシャーに抑圧されて自罰的に自殺する類型。集団主義的環境への適応障害の悪化。

利己的自殺(自己本位的自殺)……凝集性の低い帰属集団で他者と価値観・目的意識を共有できないことによって、『極度の孤独感(不安感)・無価値感』を感じて自己疎外的に自殺する類型。個人主義的環境への適応障害の悪化。

アノミー的自殺(匿名的自殺)……中心的価値基準や社会規範が不在のアノミー社会(無規範社会)において、『際限のない選択の自由』に上手く適応できずに生きる方向性(自己の存在意義)を見失って虚無的に自殺する類型。自由な欲望追求(幸福追求)の結果として、理想自我と現実自我の落差が限界を超えて大きく開き、自分の努力によって主観的な幸福を実現できないことに絶望する類型。自由主義的環境への適応障害の悪化。

宿命的自殺……帰属集団の行為規範や道徳的価値観(伝統・慣習)などによって、『個人の行動の選択肢』が狭められ自己束縛状態に追い込まれて自殺する類型。絶対に職業的責任を放棄できないと認知するワーカホリックの人や政治的社会の権力者が自殺するケースなどが該当する。伝統主義(権威主義)的環境への適応障害の悪化。




国の自殺率順リスト

国の自殺率順リスト(くにのじさつりつじゅんリスト)は、世界の国々を粗自殺率(Crude suicide rates per 100,000 population)を記載する表である。男性の粗自殺率は男性の人口から、女性の粗自殺率は女性の人口からそれぞれ導き出されたものである。国全体の粗自殺率は、男性・女性それぞれの粗自殺率を平均したものではなく、国民全体の自殺者数を国民全体の人口で割って導き出している(男女比が1:1であるとは限らないため)[1]。世界保健機関(WHO)が統計&公開している自殺統計データは、粗自殺率(Crude Sucide Rate per 100,000 population)、年齢調整別自殺率(Age-standardized suicide rates per 100,000 population) の2種類あるが、本表ではCrude Sucide Rateを記載している。
国際的に見ると、現・旧社会主義国韓国日本における自殺率が高く、ラテンアメリカ諸国や自殺が宗教的に禁じられているイスラム諸国では自殺率が統計上低い傾向がある。WHOによると2015年の世界の10~19歳の若者の死因一位は交通事故、二位が大気汚染などによる呼吸器疾患、三位が自殺である。欧州南アジアを含む地域で自殺が死因の1位または2位を占めている[2][3]

41 件のコメント:

  1. デュルケムの採用した自殺の4類型を、無理矢理、柄谷行人の交換図(の座標軸)にあてはめるとどうなるだろうか?

       利他的
    アノミー十宿命的
       利己的 X

    これだとアソシエーション(=x)は利己的かつ宿命的(な自殺???)になってしまう。

    以下のようにした方がいいかも知れない。

       宿命的
     利己的十利他的
       アノミー X

    この方がしっくり来る(デゥルケムの定義だと上がしっくりくるが、日本語に基づくと2番目がしっくり来る。)。

    もしくは、

       利他的
     宿命的十アノミー
       利己的 X

     これは無理がある、、、

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  2. 自殺論は中公バックス版がお勧め

    返信削除
  3. デュルケムも3分割か4分割かで迷っている
    宿命的は補注で付記されたもの

    返信削除
  4. 【新製品/介護】大和ハウス、排泄自動処理ロボットの販売開始 臭いほぼなし[12/12/11]
    1 :やるっきゃ騎士φ ★:2012/12/11(火) 13:31:50.83 ID:???
    大和ハウス工業の樋口武男会長は10日、大阪市内で講演し、
    寝たきりの高齢者らの排泄を自動処理するロボットの販売を始めることを
    明らかにした。
    販売するのは、介護機器メーカーのエヌウィック(宮城県仙台市)が開発した
    自動排泄処理ロボット「マインレット爽(さわやか)」。
    今年9月に同社と販売代理店契約を結び、全国の介護事業者を対象に
    レンタル品として来年1月7日から販売する。
    価格は59万8千円で、年間350台の販売を目指す。

    おむつのような専用カバーを装着して排尿、排便すると内蔵のセンサーが
    感知し、吸引から温水洗浄、乾燥までを自動で行う。
    吸引された排泄物は接続したタンクにため、トイレに流すことができる。
    15層の消臭フィルターにより、臭いはほとんどないという。

    ソースは
    http://www.sankeibiz.jp/econome/news/121211/ecc1212111145000-n1.htm
    自動排泄処理ロボット「マインレット爽」
    http://www.sankeibiz.jp/images/news/121211/ecc1212111145000-p1.jpg
    ■エヌウィック http://www.minelet.com/
     マインレット爽
     http://www.minelet.com/lineup.html
      仕組みを示す画像は
      http://www.minelet.com/image86.jpg

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  5. 2ちゃんねる ■掲示板に戻る■ 全部 1- 最新50
    【インタビュー】元社員・原田節雄氏が分析する、ソニー凋落の原因とは? [12/12/11]
    1 :依頼@@@@ハリケーン@@@φ ★:2012/12/15(土) 09:10:34.81 ID:???
    今年9月の中間決算で約400億円の最終赤字を計上、11月には格付け会社のフィッチ
    から投機的水準の「ダブルBマイナス」に引き下げられたソニー。この凋落の原因はなん
    なのか。元社員である原田節雄氏が、内部事情や社内制度を細かく分析することで答えよう
    とするのが『ソニー 失われた20年 内側から見た無能と希望』だ。

    ***

    ―タイトルの「失われた20年」ですが、これは創業者のひとりである盛田昭夫さんが
    会社から完全に離れた1993年から約20年ということですね。

    「そうです。私はソニーを3つの時期に分けて考えています。まず1945年から始まる
    『成長期』。創業者の井深大(いぶかまさる)さんと盛田昭夫さんが牽引していました。
    それが、1993年に大賀典雄さんが実権を完全に握るようになって第2期の『停滞期』が
    始まります。彼は仕事ができて自分の地位を脅かしかねない人を徐々に排除しました。
    しかし彼の周囲には、井深さんや盛田さんが見いだした仕事のできる人がまだたくさん
    いた。それで組織が回っていたわけです。

    第3期が1996年から現在までの『衰退期』。出井(いでい)伸之さん、ハワード・
    ストリンガーさんが実権を握るようになり、彼らの周りから井深さんや盛田さんが選んだ
    優秀な人がいなくなります。ゴマスリ社員ばかり近づいてくるようになるのです」

    ―本書でも井深さん、盛田さんが偉大だったということは何度も繰り返してらっしゃいますね。

    「彼らはベンチャーから始めているから、会社のさまざまな部署をしっかり把握している。
    社員にどんな人がいて、その人は優秀かどうか、どんな仕事が向いているか、家族構成まで
    わかっていました。そして、ソニーが大企業になった後も、社内をひとりで歩いて誰にでも
    気さくに声をかけていた。私が仕事をしているとき、ふと人の気配を感じて振り返ったら
    井深さんや盛田さんが背後にいて、仕事内容について質問されるという経験を何度もしま
    したよ。彼らはそうやって現場のことを把握し、同時に力のある社員を見つけていったん
    だと思います」

    ソース
    http://news.livedoor.com/article/detail/7220830/

    (つづく)

    2 :@@@ハリケーン@@@φ ★:2012/12/15(土) 09:11:24.83 ID:???
    >>1のつづき

    ―現在の上層部は社内のことがわかってない?

    「ソニーの一般社員が、ストリンガーさんや現社長の平井(一夫)さんの働いている姿を
    見ることなんてめったにないと思いますよ。そして、1993年から増えていった社外取締役
    の人たちはもともとソニーの人間ではありませんからね。現場の人間のことなどわからない
    のも当然です」

    ―社外取締役が多いということは外に開かれた経営をしているということで評価する人も
    いましたが。

    「とんでもない。ソニーの社外取締役制度は癒着の温床です。というのは、社外取締役は
    会長や社長が連れてくることができる。そして、取締役会のメンバー14名のうち社内の
    人間は2名でした。役員の人事権を握るのは『指名委員会』という5名の組織なのですが、
    そのうち2名が会長と社長で、社長が会長の子飼いだとしたらどうなりますか。会社の命運
    を決める役員任命権を会長ひとりで牛耳ることができる。これでは、集団指導体制の中国の
    ほうがガバナンスがきいてますよ。

    おまけにその役員メンバーの大半が文系で、技術のことなどわかっていません。事業を熟知
    している人がいないのです」

    ―では、今年6月に新しく社長になった平井さんも期待薄ということでしょうか。

    「今までのしがらみを断ち切っていく決意をすること、そのための地盤を作って実行する
    ことが第一歩です。それができないとソニーの凋落は止まらないでしょう」

    (撮影/高橋定敬)

    ●原田節雄(はらだ・せつお)

    1947年生まれ。ジャーナリスト。工場から欧州の事業所、本社のヘッドクオーターまで
    ソニーのさまざまな現場を経験。2008年に内閣総理大臣賞を受賞。2010年に退社

    『ソニー 失われた20年 内側から見た無能と希望』

    さくら舎 1680円

    ソニーはなぜiPodを作れなかったのか。なぜサムスンに負けてしまったのか。本書では
    徹底して歴代首脳と社内のシステムの変化を追い、いかにソニーが自壊していったかを追う

    -以上-



    ヒット&ラン
    ソニー本社六階

    特に後者は私的官僚制を描いた名著
    前者は映画への投資失敗を描いている


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  6. 組織論、
    くじ引き

    返信削除
  7. NAMs出版プロジェクト: くじ引き関連資料 +ヴェネツィアのくじ引き
    http://nam-students.blogspot.jp/2011/12/blog-post_06.html

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  8. デュルケムはサン=シモン研究をしていた。
    プルードンにも興味を持っていた。
    デュルケムを調べると、その前を歩いていたモースの大きさもあらためてわかる。

    返信削除
  9. 『社会学講義』にプルードンへの言及がある。

    返信削除
  10. http://www.kagomma.net/saito/travaux/durkheim_socialism.html
    2.社会主義の道徳的な力

    上述のとおりプルードンの社会主義の理論構築は分業への注目から始まった。デュルケムも,分業を生産力の観点からではなく,道徳の観点から眺め,分業が道徳の進化にはたす役割の大きさに注目した。これによって,かれは自由主義経済学を強く批判する立場を獲得する。さらには,サン・シモンの産業主義も自由主義経済学と同じ錯誤に陥っていると断ずる。

    サン・シモンの産業主義についての内在的批判はすでにフーリエがおこなっているが,デュルケムのそれはさらに辛辣である。産業主義は社会に幸せをもたらすどころか,社会を生き地獄に変える,というのだ。生産性の向上,富の増進は人々の物欲をかきたて,焦燥をあおるだけだからである。

    1893年の『社会分業論』でデュルケムは,豊かさや変化がけっして幸福にはつながらないことを次のように明言する。

    D「くりかえしていえば,そのおかげでわれわれが幸福になるわけではない。……われわれの幸福とは,欲望が刺激されるゆえにこそ大きくなる,というものではない。……われわれにとって,分業が,経済学者たちにとってとはまったく別の様相であらわれるゆえんは,かくのごとくである。経済学者たちにとっては,分業の本質はより多くの生産ということだ。われわれにとっては,より大なる生産性ということは,分業という現象の必然的な一帰結,ひとつの残響にすぎない」(Div 258-259: 264-265頁)

    そして,1895~96年の講義(社会主義論)でのサン・シモン批判も同じトーンで展開される。

    D「果てしなき欲求は自己矛盾である。……持っている以上に持つことを絶えず休みなく求めること,次に到達するであろう点を追い抜くだけのために,到達した点を乗り越えんとして働くことは目的といえない。……飽くことをしらぬ渇きは苦痛のもとになるだけである。どんなことをしても,それは決して癒されない」(Soc 223-224: 230頁)
    「サン・シモンが見逃したと思われるのは,これである。社会平和を実現する手段は,一方では経済的欲求を一切の制約から解放することであり,他方ではそれらの経済的欲求をかなえることによって満足させることだ,と彼は考える。ところが,そのような企ては相矛盾する」(Soc 225: 232頁)

    この無間地獄から脱却するにはどうしたらよいか。デュルケムの回答はきわめて明快である。いわば知足の精神に似た心構えが賞揚される。

    D「大多数の人が自分たちの境遇に満足することである。……自分たちはより多く持つ権利をもたないのだと納得することである」。(Soc 226: 233頁)

    そのためには「諸個人がその優位性を認め,自発的にそれに従い,自分たちにたいして命令する権利」をもつ集合力 forces collectives,道徳力 force moraleが必要である。今日,その道徳力はどこに存するか。「それは職業集団もしくは同業組合である」(Soc 229: 236頁)

    ここから,組織内における自由の極大化をめざす「フーリエ主義およびプルードンの相互主義」にたいしても批判が向けられることになる。デュルケムはこれら「アナーキーな傾向」をもつ社会主義派(Soc 44: 25頁)について,その志を評価しながらも,個性のとらえ方の誤りをつく。

    プルードンは『19世紀における革命の一般理念』(1851年)において「最良のアソシアシオン」のあり方をこう説明している。「アソシアシオンはけっして経済力ではない。それはもっぱら一つの精神的絆」である。そして,最良のアソシアシオンとは「団結の利点すべてを失わないようにしながら,結社員が自らの自立性を享受する」もの,「自由が最大で献身が最小」のものでなければならない。このプルードンの言い方では,ふつうのアソシアシオンは各人の自由を損ないがちで,構成員にしばしば自己犠牲を求めるものであるかのようである。つまり,集合性は個性を抑制する,と読めてしまう(Idee 105-106頁)。デュルケムはそのように読み,プルードンのうちに功利主義者と同様の錯誤を認めるのである。

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  11. デュルケムによれば,集合生活こそが個性を育む。「分業の本質はこれまで共有だった諸機能をわかちあうことにある」から,集合生活が深まるにつれ機能の専門分化が進行し,ここから各自の個性が育っていく。「個性は社会の産物」であり,「個性は既存の社会環境のなかで彫琢されるのだから,それは必然的にこの社会環境の特徴を帯びる。……個性は集団的秩序から自由でありながら,いぜんとしてこれに順応する」(Div 260-264: 266-269頁)。

    1896~97年の講義(『社会学講義』として刊行)では,職業道徳の形成に触れながら,デュルケムは同業組合の必要性を説く。

    すなわち,集団の規律といえばすぐに軍隊的な組織を想起するのは皮相な見方にすぎない。集団の規律とは「同一の対象への共同の愛着を規範の形で表現」したものなのだ。「集合的規律は,各個人の生活だけでなく,かれらの心情にもとづく共同生活の総括であると同時にその条件でもある」。とすれば経済生活においては職業集団こそが個人の成長をささえる最良の道徳的環境ということになる。「私が同業組合体制が必要不可欠だと考えるのは,経済的理由によるのではなく,道徳的理由によるのである。つまり,それだけが経済生活の道徳化を可能にするからである」(Lec 66-67: 62-63頁)。

    3.同業組合の機能

    デュルケムも自覚しているように,職業集団 groupes professionnelles はよいとしても同業組合 corporations といえば中世ギルドを想起させ,過去への後戻りを求めているかのような誤解をまねきやすい。それでもなおデュルケムがこの用語を好むのは組合 syndicats では集団の機能,すなわち道徳力が十全に発揮されないと思われるからである。『社会分業論』の第2版序文(1902年)はそれを説明する。

    デュルケムはいう。「雇主と労働者とは……それぞれその力に優劣こそあれ,自立的な二つの国家と同じ状況なのだ」。そこにおける「闘争を解決するのは,つねに弱肉強食の法則であって,戦闘状態は完全に生きつづける」(Div VII 6頁)。いずれの側においても,組合は「私的な結合であって,法的権威もなければ,どんな規制力もない」(Div VII: 5頁)ためにこういうことが起こる。したがって,同一職業内の諸個人によって形成される集団を,公的に制度化する必要がある。「ひとたび集団が形成されるや,そこから道徳生活が姿をあらわしてくる」(Div XVI: 12頁)。職業集団をつくれば,いわば事物の力により必然的に徳化,すなわち一般的利害にたいする個別利害の従属がすすむはずだ。

    さらに同業組合は,家族も地域社会も宗教社会も及ばぬ重要な機能をはたす。それは国家と個人のあいだに介在する第二次的集団として,国家の権力から個人を守る。この第二次的集団としては同業組合ほど適したものはない。それは個人の近くに存在し,経済生活で個人のあらゆる要求を感じとり,少なくとも家族と同じ永続性をもっているからである(Div XXXVI: 27頁)。

    デュルケムは,外面的な進歩や繁栄のかげで人々の心が蝕まれている現在の状態を,まさしく「病弊」ととらえる。進歩を善とし,物質的な豊かさを幸福と結びつける風潮にたいし,デュルケムはアノミーという概念を用いてその虚妄をつく。1897年の『自殺論』の「アノミー的自殺」の章は,欲望の肥大化に歯止めをかけるものがなく,あきらめることが許されなくなった社会での生きづらさを繰り返し語る。

    D「万国博覧会[の成功]は……社会の繁栄を増すとされている。……しかし,自殺率の著しい増加によって,その成功がけっきょくは帳消しにされてしまう……。それはとくに1878年の博覧会のさいに起こったようにみえたことである」(Sui 268-269: 297頁)
    「貧困が自殺を防止する。……貧しければ貧しいほど,それだけ人は,自分の欲求の範囲を際限もなくひろげようとはしないものである。……反対に,豊かさは,それが与える力から,自分の力でなんでもできるという幻想をいだかせる」(Sui 282: 312頁)
    「人びとをとらえる狂気じみた焦燥は,あきらめとはほど遠い感情である。……社会はそれに慣れてしまい,むしろ常態とみなす習わしになっている。……ともかく進歩を,それも可能なかぎり急速な進歩を強調する説が,ひとつの信仰箇条となってしまった」(Sui 286: 317頁)

    『自殺論』の末尾で示される「実践的な結論」も同業組合の必要性である。デュルケムは,社会の「病弊」を除くためにぜひとも同業組合の再建が必要だと訴える。

    D「事実,アノミーは,社会のある部分において,集合的な力,すなわち社会生活を規制すべく構成された集団の欠如が起こることによって生まれる。……同業組合のおもな役割は……社会的機能,わけても経済的機能に規制をくわえ,要するに現におちいっている無秩序状態からそれらを脱却させることにある」(Sui 440: 491頁)。

    しかし,この主張はたしかに資本家と労働者の協調を呼びかけているように読めてしまう。労働運動の側から厳しく批判されたのは当然である。デュルケムはブルジョワ側にくみする者とみなされ,保守主義者あるいは反動と規定された。ジョルジュ・ソレルもデュルケムを「社会主義の最大の敵」(TD 2)というが,その手ごわさにたいしては畏敬の念も示す。したがって,ソレルによるデュルケム評は多少屈折したものとなる。

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  12. 4.ソレルのデュルケム批判

    ソレルは1892年に44才で土木局をやめてからパリに住む。ソルボンヌに出入りして,当時流行しはじめた「社会学」の知識吸収にいそしんでいるから,1893年にそこで開かれたデュルケムの学位論文『社会分業論』の公開審査も傍聴しただろう(Portis 1982: 12)。そして,1895年にデュルケムの『社会学的方法の規準』が出るやすぐさま批判論文「デュルケム氏の諸理論」を書く。社会主義評論誌『社会生成』創刊号(1895年4月)の巻頭に掲載される。(同年の5月号に後半部が掲載)

    この論文で,ソレルはまずデュルケムがかなりの難敵であることを正直に認める。ソレルはデュルケムを評して,自由主義経済学の強烈な批判者であること,きわめて進歩的な精神で問題にアプローチしていること,公正な経済とともに人々の知的成長と道徳の向上を求めていること,などを挙げる。デュルケムは「たぐいまれな英知をそなえる思索者であると同時に,闘うために完全武装した学者」(TD 2)と見なされる。

    世間的・通俗的には,こけおどしのビッグワードを連ねたり,あれこれ数字を並べると,いかにも科学っぽく見える。内容が理解しがたく,わかりにくいほど,ありがたがられる。しかし,デュルケムはこうしたまがいものの科学とまったく無縁の人である,とソレルはいう。これはほとんど讃辞に近い。

    スペンサーが子どもじみた仮説を唱えるのにたいし,デュルケムの理論はまさしく現実に立脚している,とまでいう。ところが,その現実の分析から,本当ならばいやおうなしに社会闘争の重要性が見えてくるはずなのに,なぜかデュルケムはここへ来ると掘り下げが弱くなる。すなわち,分業の理論から階級の理論が出てこない。それがソレルによる第一の批判点となる。

    ソレルは『規準』から次の個所を引用する。「社会の密度の増大による闘争 la lutte のいっそうの激化のため,専門化されていない職務に依然としてたずさわっていた個人がこれに生き残ることがいよいよ困難になったという事実」(Reg. 186: 193頁。ちなみに,この文中の「闘争」は宮島喬訳では「競争」)。しかし,とソレルは反駁する。闘争の激化は社会の密度が増大したことの結果なのであろうか。

    S「社会主義はこのプロセスの研究に,社会学者たち les sociologistes がシステマチックに黙殺しているひとつのファクターをもちこむ。すなわち,分業と階級分化の不可分性である。階級は闘争のために形成され,デュルケム氏が語るものとはまったく異なる力を分業にもたらし,分業のあり方に大きな影響をおよぼす。われわれは,階級闘争の理論によって本当の歴史のプロセスをたどることができるのである。その点,デュルケム氏の説は図式的で単なる理屈にすぎない」(TD 24)

    デュルケムは当時盛り上がり始めた労働組合の運動(サンディカリスムの胚胎)に期待せず,むしろ否定的な立場をとった。目標をかかげて前進するという闘争の図柄に賛同できないからである。デュルケムはいう。「歴史は明瞭にあるいは漠然と感じられている目的をめざして発達をとげる,というの[……]は事実に反している」(Reg. 187: 195頁)。社会の変動を諸個人の意欲とか欲望によって説明してはならない。「社会学は,たんなる心理学の系ではないのである」(Reg. 194: 205頁)
    ソレルはここで猛反発する。

    S「社会主義者が目的を掲げるとき,あれこれの幻想にも,集団精神の叫びにも,その他,社会学的なたわごとにも無縁でいられるのは,階級の理論のおかげである。具体的な社会生活のなかで活動する集団としてまとまっている生身の人間,社会主義者の関心はここにある。社会主義者はそこから心理学研究にも新しい道を開き,さらにはこれが社会学研究に大きな貢献をもたらす。[……]こうして正しいポジションをえた心理学は,社会学をより説得力のあるものにする材料の供給源となる」(TD 24)

    ここから批判の第二点に移る。それは,デュルケムにあっては人間の意志の力が認められていない点である。たしかにデュルケムはいう:「社会的事実の決定原因は,個人意識の諸状態ではなく,それに先立って存在していた社会的事実のうちに探求されなければならない」(R夙 202: 218頁)。

    ソレルは反発する。いわく,観念の力をバカにしてはいけない。人権の思想がよい例だ。人権はひとつの仮説にすぎないのに,多くの人がそれを信じれば現実において強大な力を発揮してきたではないか(TD 162)。

    S「われわれが社会科学に求めるべきは,革命的な勢力の進化とその強大さをわれわれに認識させてくれることである。かつては,科学的な理論に敬意が払われ,ひとびとは未来についての科学的な仮説を求めた。われわれは違う。われわれが描きうる未来像は《不確定な》ものでしかない。それも芸術家のイマジネーションでしか語りえないものなのである」(TD 163)
    「われわれは現在についての厳密な認識を追求するが,未来についてはそれを科学的な体裁で扱うのを拒否する。[……]これが唯物論的な社会学理論の結論である」(ibid.)

    社会革命をひとつのポエジーと見,革命の未来像を具体的に描くことを戒めたのは,共産主義者マルクスにほかならない。ソレルはマルクスのそうした言葉を引用しつつ,人間の意志の力を賞揚した。ソレルは1908年の『暴力論』で,自説をさらに発展させ,革命的な個人主義にまで近づく。

    S「戦いは,自己の情熱のうちから自己の行為の動機をくみだす個人によって遂行される,英雄的武勲の積み重ね」(RV 372:下164頁)。
    「総罷業 la greve generale に熱中した労働者集団……は,実際,革命を,人々がなお個人主義的と称しうる一つの巨大な蜂起と想定する」(RV 374-375:下167頁)。

    5.デュルケムとソレルの近さ

    たしかに,階級理論や心理学批判の点で,ソレルとデュルケムは正反対の立場のように見える。しかし,それぞれの社会学の鍵概念,すなわちソレルにおける「神話」mytheとデュルケムにおける「集合的沸騰」effervescence collectiveでとらえなおすと,両者の見かけ上の矛盾は解消する。

    ここではまずソレルの「神話」から見ていこう。ソレルは『暴力論』の序文で,「神話」をこう定義する。

    S「諸々の大社会運動に参加する人々は,彼らの将来の行動をば彼らの主張の勝利を確保する戦いという形象 image の形で心に描いている……。私はこれらの構図 construction を神話と呼ぶ」(RV 34:上48頁)

    さらにソレルはプルードンを引用しつつ,人間の尊厳を断固として防衛すべく覚悟すること,そこにこそ正義がある,といい,人を闘争へとつきうごかすのは科学あるいは理性でなく,道徳的な確信だ,という。

    S「神話は,じっさい,ある集団の信念に一致しているものであり,……それは論駁され得ないものである」(RV 46-47:上63-63頁)

    迫害者に対する殉教者の闘いを例に,「この道徳的な確信は……人間たちがそれに参加することをうけいれる,そして確実な神話として表現される,ある戦時状態に依存する」(RV 319:下110頁)と説明する。

    すなわち,最高の理想のための闘争へ非打算的に身を投じること,これこそが最も崇高な営みであり,生きるにあたいすることがらなのである。

    抑圧された階級であるプロレタリアートは,ゼネラル・ストライキ(いわゆるゼネスト,総罷業)によって自らの存在価値を表現するばかりでなく,集団の闘争をとおして自らを成長させ,社会そのものを倫理的に高め,生きるにあたいする美しいものに変える。ソレルはゼネストの「神話」について,こう解説している。

    S「罷業は,プロレタリアートのうちに,彼らのもつ最も高貴な,最も深刻な,そして最も動的な感情を発生させた。……われわれは,こうして,言語が完全に明確に伝え得ない,あの社会主義の直感を獲得する」(RV 182:上204頁)

    ソレルは総罷業を唱える革命的サンディカリスムのなかに「大きな教育力」(RV 377:下169頁)を見る。

    デュルケムも同じく,集合性がもたらす倫理の高揚に注目しながら,それを説明するさいに「集合的沸騰」という概念を用いる。デュルケムも社会の凝集力を宗教的な現象と見,『宗教生活の原初形態』(1912年)で「集合的沸騰」をこう説明する。

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  13. D「ひとたび諸個人が集合すると,その接近から一種の電力が放たれ,これがただちに彼らを異常な激動の段階へ移すのである」(For 380:上389頁)

    集合生活に入った個人は,そのなかで集合的理想を学びとり,「崇高」なものをめざす欲求を我がものとする。デュルケムはすでに(1890年代の終わり頃の社会学講義のなかで)「社会生活とは,何よりも同一の目的に向かう人びとの努力が調和する共同態 communaute,精神と意志の融合態 communion である」(Lec 55: 50頁)と述べている。また,われわれは彼がソレルの「神話」概念から何かを学んだという証拠を示すこともできない(註3)。したがって,デュルケムの「集合的沸騰」の概念は彼の学説の内的な発展の成果にほかならないともいえよう。われわれは,それぞれの概念を眺めれば,両者のあいだに隔たりよりもむしろ類縁性を強く感じるのである。

    『原初形態』の結論の部分で,デュルケムは人が非合理性につき動かされること,非合理的なるがゆえ活動の躍動感,そうしたものの大切さを認めている。

    D「信仰とは,何にもまして,行動しようとする飛躍であり,しかも,科学はどれほど押し進められても,常に行動からは離れている……。科学は断片的で,不完全である。……ところが,生活は待っていることができない」(Lec 715: 348頁)

    しかも,デュルケムは,「集合的理想が個人のうちに化身して,個人化し……自律的な活動の源泉となる」(For 704:下335頁)とまで述べるにいたる。もちろん,デュルケムは個人がいだく理想もじつは集合生活のなかで育まれたものであるとして,個性が集合性からの産物であることを一貫して強調してはいる。しかし,個性が集合性を脱して自律的な活動を始めることを認めるとき,デュルケムはソレルが『暴力論』で主張した個人主義的な社会主義のごく間近なところにいる。もはや両者の隔たりはほとんどないとさえいえよう。

    じっさい,ソレルによる「デュルケム批判」の結論は,デュルケムの胆力の欠如を嘆くというものであった。進むべき道の半ばで立ち止まり,あえて先に進もうとしないことへのいらだち,強力な味方になるべき者が敵方に与しようとしていることへの反感が行間にあふれている。少し長いが,その結論部分を最後に引用して,本稿をしめくくりたい。

    S「デュルケム……は研究をおしすすめ,社会主義に入り込むギリギリのところまで来てしまった。私が思うに,彼は自分の大胆さに何度もおびえ,そのまままっすぐ進めば,自分の考えをきちんと形にできたはずなのに,そうしなかった。
    はたしてデュルケムはそれまでの自分の立場を乗り越えようとするだろうか。もし,そうすれば,いやでもマルクスから階級の概念を借用せざるをえまい。そして,おそらくそのとき彼は,彼とわれわれとを分かつ境界線を完全に踏み越えてしまうだろう。社会哲学にとっては幸せなことである。私はまっさきに彼を先生と呼んで歓迎しよう。マルクスの理論を高等教育の場できちんと論じられるような学者は彼以外にはいない。なぜなら,彼のみが,歴史の変動のなかに科学的な法則と変化の物質的な条件をつかみとれる哲学的素養としっかりした批判精神をそなえた,唯一のフランス人社会学者だからである」(TD 179-180)



    1896年からの講義は「習俗と法の物理学」と題して行われるが,1950年にようやく刊行されたその講義録『社会学講義』を読むと,その主眼は自由主義経済学批判である。[戻る]
    宮島喬[1987 : 7]によれば,「原子論的な方法的個人主義を批判し,諸要素の結合から生じる一種独特な sui generis な属性(今日のタームでいえば創発的特性と等価であろう)に注目し,これを組織的に考察していること」は,「デュルケムが当時の社会学理論のパラダイム革新の流れにたいして行った独自の寄与」のひとつである。
    また,Keith SAWYER[2002]はデュルケムをことさら創発特性の理論家として強調してみせる。[戻る]
    註3)デュルケムが1897年7月15日付でモースにあてた書簡には,「ソレルからまったくバカげた手紙をもらった」(Let 78)とある。このモースは,ソレルの編集する雑誌『社会生成』(1895年の創刊号の巻頭論文がソレルのデュルケム批判である)に,しばらく関わっており,書評などを寄せている(これについては,Let 63 の注を見よ)。したがって,デュルケムはソレルによる批判論文を読んでいる,と推察することはできる。[戻る]

    参考文献
    プルードン,デュルケム,ソレルからの引用には以下の略号を用いた。

    PROUDHON, Pierre-Joseph

    Sys
    Systeme des contradictions Economiques, ou Philosophie de la misere (1846), Geneve, Slatkine,, 1982.
    Idee
    Idee generale de la revolution dans la 19e siecle. (1851), Geneve, Slatkine,, 1982. 陸井四郎他訳『19世紀における革命の一般理念』,三一書房,1971年。
    Jus III
    De la Justice dans la Revolution et dans l'Eglise (1858), t. 3, Geneve, Slatkine,, 1982.

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  14. DURKHEIM, Emile

    Div
    De la division du travail social (1893), PUF, 1998. 田原音和訳『社会分業論』,青木書店,1971年。
    Reg
    Les regles de la methode sociologique (1895), Flammarion, 1988. 宮島喬訳『社会学的方法の規準』,岩波文庫,1978年。
    Sui
    Le Suicide (1897), PUF, 2002. 宮島喬訳『自殺論』,中公文庫,1985年
    For
    Les formes elementaires de la vie religieuse (1912), Le Livre de Poche, 1991. 古野清人訳『宗教生活の原初形態』,岩波文庫(上下),1975年
    Soc
    Le socialisme (1928), PUF, 1992. 森博訳『社会主義およびサン・シモン』,恒星社厚生閣,1977年。
    Lec
    Lecons de sociologie (1950), PUF, 1990. 宮島喬・川喜多喬訳『社会学講義』,みすず書房,1974年。
    SSA
    Le science social et l'action, PUF, 1970. 佐々木交賢・中嶋明勲訳『社会科学と行動』,恒星社厚生閣,1988年。
    Let
    Lettres a Marcel Mauss, PUF, 1998.

    SOREL, Georges

    TD
    "Les Theories de M.Durkheim", Le Devenir Social, vol.1, avril-mai, 1895.
    RV
    Reflexions sur la violence, Paris, Riviere, 1908 (4e ed. 1919). 木下半治訳『暴力論』,岩波文庫(上下),1965年。

    その他の参考文献

    アロン, レイモン, 1967, 北川隆吉他訳『社会学的思考の流れ II』,法政大学出版局,1984年。
    BESNARD, Philippe et al. (dir), 1993, Division du travail et lien social, La these de Durkheim un siecle apres, Paris, PUF.
    BORLANDI, Massimo et al. (dir), 1995, La sociologie et sa methode, Les Regles de Durkheim un siecle apres, Paris, L'Harmattan.
    DOCKES, Pierre et al. (dir), 2000, Les traditions eonomiques francais 1848-1939, Paris, CNRS Edition.
    ギデンス, アントニー, 1971, 犬塚先訳『資本主義と近代社会理論』,研究社,1974年。
    浜口晴彦, 1989, 『社会学者の肖像』,勁草書房。
    稲井誠, 2001, 「《Economie Sociale》を巡って」『大阪市大論集』第100号,pp. 25-52。
    中久郎, 1979, 『デュルケームの社会理論』,創文社。
    中島道男, 1997, 『デュルケムの〈制度〉理論』,恒星社厚生閣。
    宮島喬, 1987, 『デュルケム理論と現代』,東京大学出版会。
    PERRU, Olivier, 2000, "Pour une epistemologie du concept d'association chez Emile Durkheim et chez Max Weber", Philosophique 27/2.
    PORTIS, Larry, 1982, Georges Sorel, edition en langue francaise, Paris, Maspero.
    ROLLAND, Patrice, 1989, "La reference proudhonienne chez Georges Sorel", Mil neuf cent, Cahiers Georges Sorel, no. 7.
    佐々木交賢, 1978, 『デュルケーム社会学研究』,恒星社厚生閣。
    SAWYER, R. Keith, 2002, "Durkheim's Dilemma: Toward a Sociology of Emergence" ,Sociological Theory (American Sociological Association), 20:2.

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  15. デュルケム
    宗教生活の原初形態
    上298

    集合的トーテミズムと
    個人的トーテミズムとの間には、性的トーテミズムがあるとされる

    フレーザー経由のこの概念が吉本へ受け継がれたのだろう

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  16. マクルーハンやレヴィストロースは文化をホットとクールに分けた
    ケネス・クラークはワイセツ感覚なヌードとネイキッドを区別した
    >感覚と感情の関係はいかに?てのはある 分けて考えるべき

    『発生的感性論―子ども、プリミティブなレベルから』
    Genetic(科学的) aesthetics(笑)

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  17. デュルケムの『宗教生活の原初形態』(岩波文庫上298)で、集合的トーテミズムと
    個人的トーテミズムとの間には、性的トーテミズムがあるとされる。

    フレーザー経由のこの概念が吉本へ受け継がれたのだろう。

    レビストロースの構造主義を数学的に再検証する必要は依然あるが、この辺りの教養が
    空洞化しているのが気がかりだ。

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  18. デュルケムの『宗教生活の原初形態』(岩波文庫上298)で、集合的トーテミズムと
    個人的トーテミズムとの間には、性的トーテミズムがあるとされる。
    (clan totem, sex totem, individual totem)
    フレーザー経由のこの概念が吉本の共同幻想論へ受け継がれたのだろう。

    レヴィ・ストロースの構造主義を数学的に再検証する必要は依然あるが、この辺りの教養が
    空洞化しているのが気がかりだ。
    ちなみにデュルケムが参照したフレイザーの『トーテミズム』に邦訳は今のところまだない。

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  19. 【社会】後絶たぬ鉄道自殺 ホームドア普及でも歯止めかからず
    1 :幽斎 ★@転載禁止:2014/05/11(日) 12:41:35.62 ID:???0
    後絶たぬ鉄道自殺 ホームドア普及でも歯止めかからず
    http://sankei.jp.msn.com/affairs/news/140511/dst14051110010004-n1.htm

     ホームからの飛び込みなどによる鉄道での自殺が後を絶たない。
    国土交通省によると、平成24年度は全国で631件(30分以上の遅延などを生じる)
    で前年より30件も増えた。自殺の抑止効果もあるとされるホームドアの普及も進むが、
    歯止めがかからない状態だという。「根本的な策は見えない」。鉄道関係者らは頭を痛めている。

     今月8日午前、首都圏の鉄道担当者は人身事故の一報に時計を確認し、
    思わずため息をついた。事故が起きたのは埼玉県ふじみ野市の東武東上線踏切。
    男性が遮断機をくぐり抜け準急電車にはねれ、死亡した。自殺とみられるという。
    午前10時28分。「以前は影響の大きくなるラッシュ近辺の自殺はなかった。
    最近は一般論も通用しないくらい頻繁に起きる」(担当者)

     国交省によると、輸送障害のうち、自然災害や車両故障など鉄道会社内部の要因を除いた、
    自殺を含む「部外要因」の件数は増加傾向にある。平成4年度は636件だったが、
    14年度は1096件。24年度は2千件を突破し、2231件に達した。

    増え続ける事故に、小田急電鉄は飛び込みの多い駅や踏切に、自殺の抑止効果が
    高い青色LED照明を取り入れた。乗務員の巡回も強化している。
     東京メトロは、ホームドアの普及を進める。21年度は南北線や丸ノ内線の一部だけだったが、
    24年度は全179駅の半分程度の84駅まで拡大。自殺を含む人身事故は、
    ほぼ半減の7件まで減ったという。担当者は「転落防止が目的だが、自殺の抑止にも効果がある」とみている。
     24年度の自殺が231件と前年より16件増えたJR東日本は今月10日に御徒町駅にホームドアを設置、
    東急電鉄も昨年、中目黒駅などに増やした。鉄道各社は整備を加速させる。
    ただ、各社とも「無理にホームドアを乗り越えるケースは防げず、自殺を抑える決定打にはならない」と口をそろえる。
     最近では首都圏などで相互乗り入れが進み、いったん事故が起きると、社の垣根を越え影響が広範囲に及ぶ傾向も出ている。
     8日の東武東上線の人身事故でも東京メトロは有楽町線や副都心線への同線からの乗り入れを一時中止した。
    「大勢に負担をかけることを考えてほしい」。担当者は訴えている。

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  20. 舞田敏彦 (@tmaita77)
    2020/02/20 21:00
    死亡者の年齢中央値

    男性:
     未婚者66.3歳 < 有配偶者81.3歳
    女性:
     未婚者81.9歳 > 有配偶者78.3歳

    面白いね。女性は未婚者が長生きする。

    デュルケムは『自殺論』で,「離婚を禁じることは,女性を逃げ場のない牢獄に閉じ込めるようなものだ」と言っているけど。

    https://twitter.com/tmaita77/status/1230462180421599232?s=21

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  21. 資料トップ
    巻号一覧
    この資料について
    J-STAGEトップ/社会学評論 / 35 巻 (1984-1985) 2 号 / 書誌
    デュルケームの儀礼論における集合力と象徴
    飯田 剛史
    著者情報
    ジャーナル フリー
    1984 年 35 巻 2 号 p. 178-192

    DOI https://doi.org/10.4057/jsr.35.178
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  22. 宗教生活の原初形態

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  23. 基本形態
    ちくま
    ある ( 1 8 ) 。社会は 、一種独特の s u i g e n e r i s一つの実在である 。社会は固有の性格をもっていて 、それは宇宙のどこにも見出せない 、あるいは同じ形では見出せないのである 。社会を表わす表象は 、それゆえ 、純粋に個人的な表象とはまったく異なる内容をもっている 。そして 、前者は後者に何ものかを付加するものだということを 、あらかじめ断言できるのである 。両者が形成される様式そのものが 、双方の区別を際立たせている 。集合表象は 、単に空間においてのみならず時間においても広がりをもった膨大な協働の所産である 。これを形作るために 、多数のさまざまな人間精神が 、彼らの観念と感情とを結び付け 、混ぜ合わせ 、組み合わせたのであり 、永きにわたる世代の全体が 、彼らの経験と知識とをそこに積み重ねたのである 。それゆえそこには 、個人の知性よりも無限に豊かで複雑な 、きわめて特殊な知性が集中されているかのようである 。こうして 、経験的認識の射程を越える能力を理性がどのようにして手に入れたのかが理解される 。理性はこの能力を 、何か訳の分からない神秘的な効力に負っているのではなく 、 ─ ─ありふれた決まり文句に従えば ─ ─単に 、人間が二重であるという事実に負っているのである 。人間のうちには二つの存在がある 。すな

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  24. 凡例
    序論探求の目的 ─ ─宗教社会学と認識の理論☆

    第一部前提問題第一章宗教現象と宗教の定義第二章基本的宗教についての主要な見解 ─ ─一 、アニミスム第三章基本的宗教についての主要な見解 (つづき ) ─ ─二 、ナチュリスム第四章基本的宗教としてのト ーテミスム ─ ─問題の歴史これを取り扱うための方法第二部基本的信念第一章本来的にト ーテム的な信念 ─ ─一 、名前と記章としてのト ーテム第二章本来的にト ーテム的な信念 (つづき ) ─ ─二 、ト ーテム動物と人間第三章本来的にト ーテム的な信念 (つづき ) ─ ─三 、ト ーテミスムの宇宙論的体系と類の概念第四章本来的にト ーテム的な信念 (おわり ) ─ ─四 、個人的ト ーテムと性的ト ーテム第五章これらの信念の起源 ─ ─一 、諸学説の批判的検討第六章これらの信念の起源 (つづき ) ─ ─二 、ト ーテム原理ないしはト ーテム的マナの概念と力の観念第七章これらの信念の起源 (おわり ) ─ ─三 、ト ーテム原理ないしはト ーテム的マナの概念の発生内容一覧

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  25. 一般意志と理性 自由と自己保存について――スピノザからルソーを読む(Adobe PDF)
    www.jstage.jst.go.jp/article/kyoyobukiyo/42/0/.../en
    ルソーの『社会契約論』における一般意志は少々理解しがたい概念である。「個別意志」 の. 集合体としての「全体意志」ではなく、「 ...

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  26. 宗教生活の基本形態 (全 ) ─ ─オ ーストラリアにおけるト ーテム体系エミ ール ・デュルケ ーム山亮訳

     2:4
     集合的ト ーテミスムと個人的ト ーテミスムとのあいだには 、どちらともよく似た中間形態が存在している 。それは性的ト ーテミスムである 。これはオ ーストラリアにのみ 、しかも少数の部族においてのみ見られる 。それはとりわけ 、ヴィクトリア州やニュ ー ・サウスウェ ールズ州において報告されている ( 5 5 ) 。マシュ ーズが 、自分が訪れたオ ーストラリアのすべての場所でこれが観察された 、と言明しているのは事実だが 、しかし彼の断定を支持するだけの明確な事実は報告されていない ( 5 6 ) 。
     これらさまざまな民族においては 、それぞれどのような個別の氏族に所属していても 、一方では部族のすべての男性が 、他方ではすべての女性が 、二つの異なる社会のようなものを形成していて 、それらは対立さえしている 。ところで 、これら二つの性別団体は 、特定の動物と神秘的な絆によって結びついていると信じられている 。


    ( 5 6 ) [ M a t h e w s , " [ E t h n o l o g i c a l N o t e s o n t h e ] A b o r i g i n a l T r i b e s [ o f N . S . W a l e s a n d V i c t o r i a ] " , i n J o u r n a l a n d P r o c e e d i n g o f t h e R . S o c i e t y o f N . S . W a l e s , X X X V I I I , [ 1 9 0 4 , ] p . 3 3 9 .ワラムンガ族の以下の慣習のなかにも性的ト ーテミスムの痕跡を見出すべきであろうか 。死者を埋葬する前に腕の骨が取って置かれ 、女性の場合には 、この骨を包んだ樹皮にエミュ ーの羽毛が 、男性の場合にはミミズクの羽毛が 、添えられるのである ( N o r t h . T r . , p . 1 6 9 ) 。
    ( 5 7 )各々の性別集団が二つの性的ト ーテムをもつ事例も挙げられている 。こうしてウルンジェリ族はクルナイ族の性的ト ーテム (エミュ ームシクイとルリオ ーストラリアムシクイ )とウォトジョバルク族の性的ト ーテム (コウモリとヨタカモリフクロウ )とを併せもつようになったのであろう 。 H o w i t t , N a t . T r . , p . 1 5 0を見よ 。 ( 5 8 ) J . G . F r a z e r , T o t e m i s m , [ E d i n b u r g h , A d a m & C h a r l e s B l a c k , 1 8 8 7 , ] p . 5 1 .

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  27. クルナイ族では 、すべての男性は 、エミュ ームシクイ (イエ ールング Y e e r ù n g 〔 * 6 〕 )の兄弟とみなされており 、すべての女性はルリオ ーストラリアムシクイ 〔 * 7 〕 (ディ ートグン D j e e t g ù n )の姉妹とみなされている 。男性はみなイエ ールングであり 、女性はみなディ ートグンなのである 。ウォトジョバルク族やウルンジェリ族では 、コウモリとヨタカ n i g h t j a r (フクロウの一種 )とが 、それぞれこの役割を果たしている 。また別の部族では 、キツツキがヨタカと入れ換わっている 。各々の性は 、このように縁続きの動物を 、最大の敬意をもって扱うにふさわしい守護者とみなすのであり 、したがって 、この動物を殺したり食べたりすることは禁じられるのである ( 5 7 ) 。
     このように 、この動物守護者は 、氏族のト ーテムが氏族集団に対して果たすのと同じ役割を 、各々の性別社会に対して果たしている 。したがって性的ト ーテミスムという表現 ─ ─これはフレ ーザ ーから借用したのだが ( 5 8 ) ─ ─は当を得ている 。この新種のト ーテムはとりわけ 、それもまた集合的であるという意味において氏族のト ーテムに類似している 。それは無差別に 、同じ性の諸個人全員のものとなるのである 。それは 、動物守護者と 、対応する性とのあいだに 、系譜関係や血縁関係が含意されているという点でも 、氏族のト ーテムに類似している 。クルナイ族では 、すべての男性はイエ ールングの 、またすべての女性はディ ートグンの血を引いているとみなされている ( 5 9 ) 。一八三四年にこの奇妙な制度を最初に指摘した観察者は 、次のような言葉でこれを記述している 。 「女たちは 、ティルムンというツグミ大の小鳥 (これはキツツキの一種である )が最初に女を作った 、とみなしている 。この鳥は 、女だけが崇敬しているのである ( 6 0 ) 」 。それゆえこれは大祖先なのである 。しかし他方ではこの同じト ーテムは 、個人的ト ーテムにも似ている 。実際 、性別集団の各構成員は 、対応する動物種の特定の個体に個人的に結びついている 、と信じられている 。両者の生命は 、その動物の死が人間の死をも引き起こすほど 、きわめて緊密に連結されている 。 「コウモリの生命は人間の生命だ ( 6 1 ) 」とウォトジョバルク族は言う 。これこそは 、単に各々の性がそのト ーテムを尊敬するばかりではなく 、もう一方の性の構成員も等しくこれを尊敬するよう義務づけられていることの理由なのである 。この禁忌のどのような違反でも 、男女のあいだに ( 6 2 ) 、まさに流血の乱闘を引き起こすのである 。
     結局のところ 、これらの [性的 ]ト ーテムにおいて真に独自なのは 、それらがある意味では部族のト ーテムに近いという点である 。実際それらは 、部族のすべては一組の神話的存在から生じたとされていることに起因している 。そのような信念は 、部族的な感情が十分な力を手に入れ 、氏族の個別主義に抗してある程度まで優位に立つようになったことを 、まさに含意しているように思われる 。男性と女性とで異なる起源が割り当てられているという事実に関してはもちろん 、両性が分離状態で生活していることにその理由を求めなけれねばならない ( 6 3 ) 。

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  28. ( 5 8 ) J . G . F r a z e r , T o t e m i s m , [ E d i n b u r g h , A d a m & C h a r l e s B l a c k , 1 8 8 7 , ] p . 5 1 . ( 5 9 ) F i s o n e t H o w i t t , K a m i l a r o i a n d K u r n a i , p . 2 1 5 . ( 6 0 ) M a t h e w s , l o c . c i t . , p . 3 3 9に引用されたスレルケルト 【二版以降は T h r e l l d k eとあるが 、これは誤植で初版の T h r e l k e l dが正しい (原典 p . 2 3 6 , n . 2 ) 】 [の言葉 ] 。 ( 6 1 ) H o w i t t , N a t . T r . , p p . 1 4 8 , 1 5 1 . ( 6 2 ) [ F i s o n e t H o w i t t , ] K a m i l a r o i a n d K u r n a i , p p . 2 0 0 2 0 3 ; H o w i t t , N a t . T r . , p . 1 4 9 ; P e t r i e , o p . c i t . , p . 6 2 .クルナイ族では 、これら流血の争いはしばしば結婚によって終止符が打たれるのであり 、これらの争いはこの結婚の儀礼上の前触れのようなものなのである 。また時には 、これらの乱闘が単なる遊びになることもある ( P e t r i e , l o c . c i t . ) 。 ( 6 3 )この点に関しては 、近親婚の禁止とその起源についての私の研究 ( [ E . D u r k h e i m , ] " L a p r o h i b i t i o n d e l ' i n c e s t e e t s e s o r i g i n e s " , i n l ' A n n é e s o c i o l o g i q u e , I , [ 1 8 9 8 , ] p p . 4 4 e t s u i v . )を見よ [小関藤一郎訳 「近親婚の禁止とその起源 」 (同編訳 『デュルケ ーム家族論集 』川島書店 、一九七二年 ) ] 。
    ( 6 4 )しかしながらもっと後 (第二部第九章 )で 、性的ト ーテムと大神とのあいだに 、ある関係が存在していることを見ることになる 。

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  29. 訳註 * 1この箇所は初版の p r a e n o m e nが 、二版以降 p r œ n o m e nと誤植になっている 。 * 2この箇所は初版では c é r é m o n i e s r e l i g i e u s e s p a r t i c u l i è r e m e n t i m p o r t a n t e sであったものが 、二版以降 、 p a r t i c u l i è r e m e n tの直前に t o u tが付加されて強調されている 。ここでは後者による (原典 p . 2 2 4 ) 。 * 3この箇所は初版では a v o i rの三人称単数形の aであったものが 、二版以降 p o s s è d eとなって強調されている 。ここでは後者による (原典 p . 2 2 4 ) 。 * 4この箇所は初版では d e s e s m e m b r e sとなっていたものが 、二版以降 d ' e n t r e s e s m e m b r e sと明確にされている (原典 p . 2 2 7 ) 。 * 5初版から現行版まで一貫して Y a r r a i k a n n aとあるが 、これは誤植で 、 Y a r a i k a n n aが正しい (原典 p . 2 3 2 ) 。 * 6 Y e e r ù n gと次に出てくる D j e e t g ù nの ùは初版では ŭと表記されていた 。 * 7原語は s u p e r b e f a u b e t t eであり 、新英訳では l i n n e tとなっている 。 H o w i t tの N a t . T r . , p . 1 5 0では t h e S u p e r b W a r b l e rとなっている 。現在では S u p e r b F a i r y w a r e nないしは S u p e r b B l u e w a r e nと呼ばれ 、学名は M a l u r u s c y a n e u sである 。オ ーストラリア南東部にのみ分布する固有種の鳥 。

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  30. 宗教生活の基本形態(全)──オーストラリアにおけるトーテム体系エミール・デュルケーム山亮訳

     2:4
     集合的トーテミスムと個人的トーテミスムとのあいだには、どちらともよく似た中間形態が存在している。それは性的トーテミスムである。これはオーストラリアにのみ、しかも少数の部族においてのみ見られる。それはとりわけ、ヴィクトリア州やニュー・サウスウェールズ州において報告されている(55)。マシューズが、自分が訪れたオーストラリアのすべての場所でこれが観察された、と言明しているのは事実だが、しかし彼の断定を支持するだけの明確な事実は報告されていない(56)。
     これらさまざまな民族においては、それぞれどのような個別の氏族に所属していても、一方では部族のすべての男性が、他方ではすべての女性が、二つの異なる社会のようなものを形成していて、それらは対立さえしている。ところで、これら二つの性別団体は、特定の動物と神秘的な絆によって結びついていると信じられている。クルナイ族では、すべての男性は、エミュームシクイ(イエールングYeerùng〔*6〕)の兄弟とみなされており、すべての女性はルリオーストラリアムシクイ〔*7〕(ディートグンDjeetgùn)の姉妹とみなされている。男性はみなイエールングであり、女性はみなディートグンなのである。ウォトジョバルク族やウルンジェリ族では、コウモリとヨタカnightjar(フクロウの一種)とが、それぞれこの役割を果たしている。また別の部族では、キツツキがヨタカと入れ換わっている。各々の性は、このように縁続きの動物を、最大の敬意をもって扱うにふさわしい守護者とみなすのであり、したがって、この動物を殺したり食べたりすることは禁じられるのである(57)。
     このように、この動物守護者は、氏族のトーテムが氏族集団に対して果たすのと同じ役割を、各々の性別社会に対して果たしている。したがって性的トーテミスムという表現──これはフレーザーから借用したのだが(58)──は当を得ている。この新種のトーテムはとりわけ、それもまた集合的であるという意味において氏族のトーテムに類似している。それは無差別に、同じ性の諸個人全員のものとなるのである。それは、動物守護者と、対応する性とのあいだに、系譜関係や血縁関係が含意されているという点でも、氏族のトーテムに類似している。クルナイ族では、すべての男性はイエールングの、またすべての女性はディートグンの血を引いているとみなされている(59)。一八三四年にこの奇妙な制度を最初に指摘した観察者は、次のような言葉でこれを記述している。「女たちは、ティルムンというツグミ大の小鳥(これはキツツキの一種である)が最初に女を作った、とみなしている。この鳥は、女だけが崇敬しているのである(60)」。それゆえこれは大祖先なのである。しかし他方ではこの同じトーテムは、個人的トーテムにも似ている。実際、性別集団の各構成員は、対応する動物種の特定の個体に個人的に結びついている、と信じられている。両者の生命は、その動物の死が人間の死をも引き起こすほど、きわめて緊密に連結されている。「コウモリの生命は人間の生命だ(61)」とウォトジョバルク族は言う。これこそは、単に各々の性がそのトーテムを尊敬するばかりではなく、もう一方の性の構成員も等しくこれを尊敬するよう義務づけられていることの理由なのである。この禁忌のどのような違反でも、男女のあいだに(62)、まさに流血の乱闘を引き起こすのである。
     結局のところ、これらの[性的]トーテムにおいて真に独自なのは、それらがある意味では部族のトーテムに近いという点である。実際それらは、部族のすべては一組の神話的存在から生じたとされていることに起因している。そのような信念は、部族的な感情が十分な力を手に入れ、氏族の個別主義に抗してある程度まで優位に立つようになったことを、まさに含意しているように思われる。男性と女性とで異なる起源が割り当てられているという事実に関してはもちろん、両性が分離状態で生活していることにその理由を求めなけれねばならない(63)。


    (56)[Mathews,"[EthnologicalNotesonthe]AboriginalTribes[ofN.S.WalesandVictoria]",inJournalandProceedingoftheR.SocietyofN.S.Wales,XXXVIII,[1904,]p.339.ワラムンガ族の以下の慣習のなかにも性的トーテミスムの痕跡を見出すべきであろうか。死者を埋葬する前に腕の骨が取って置かれ、女性の場合には、この骨を包んだ樹皮にエミューの羽毛が、男性の場合にはミミズクの羽毛が、添えられるのである(North.Tr.,p.169)。
    (57)各々の性別集団が二つの性的トーテムをもつ事例も挙げられている。こうしてウルンジェリ族はクルナイ族の性的トーテム(エミュームシクイとルリオーストラリアムシクイ)とウォトジョバルク族の性的トーテム(コウモリとヨタカモリフクロウ)とを併せもつようになったのであろう。Howitt,Nat.Tr.,p.150を見よ。

    (58)J.G.Frazer,Totemism,[Edinburgh,Adam&CharlesBlack,1887,]p.51.(59)FisonetHowitt,KamilaroiandKurnai,p.215.(60)Mathews,loc.cit.,p.339に引用されたスレルケルト【二版以降はThrelldkeとあるが、これは誤植で初版のThrelkeldが正しい(原典p.236,n.2)】[の言葉]。(61)Howitt,Nat.Tr.,pp.148,151.(62)[FisonetHowitt,]KamilaroiandKurnai,pp.200203;Howitt,Nat.Tr.,p.149;Petrie,op.cit.,p.62.クルナイ族では、これら流血の争いはしばしば結婚によって終止符が打たれるのであり、これらの争いはこの結婚の儀礼上の前触れのようなものなのである。また時には、これらの乱闘が単なる遊びになることもある(Petrie,loc.cit.)。(63)この点に関しては、近親婚の禁止とその起源についての私の研究([E.Durkheim,]"Laprohibitiondel'incesteetsesorigines",inl'Annéesociologique,I,[1898,]pp.44etsuiv.)を見よ[小関藤一郎訳「近親婚の禁止とその起源」(同編訳『デュルケーム家族論集』川島書店、一九七二年)]。
    (64)しかしながらもっと後(第二部第九章)で、性的トーテムと大神とのあいだに、ある関係が存在していることを見ることになる。



    訳註
    *1この箇所は初版のpraenomenが、二版以降prœnomenと誤植になっている。*2この箇所は初版ではcérémoniesreligieusesparticulièrementimportantesであったものが、二版以降、particulièrementの直前にtoutが付加されて強調されている。ここでは後者による(原典p.224)。*3この箇所は初版ではavoirの三人称単数形のaであったものが、二版以降possèdeとなって強調されている。ここでは後者による(原典p.224)。*4この箇所は初版ではdesesmembresとなっていたものが、二版以降d'entresesmembresと明確にされている(原典p.227)。*5初版から現行版まで一貫してYarraikannaとあるが、これは誤植で、Yaraikannaが正しい(原典p.232)。*6Yeerùngと次に出てくるDjeetgùnのùは初版ではŭと表記されていた。*7原語はsuperbefaubetteであり、新英訳ではlinnetとなっている。HowittのNat.Tr.,p.150ではtheSuperbWarblerとなっている。現在ではSuperbFairywarenないしはSuperbBluewarenと呼ばれ、学名はMaluruscyaneusである。オーストラリア南東部にのみ分布する固有種の鳥。

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  31. 会田誠 小説「げいさい」刊行しました
    makotoaida
    これが「ウェルテル効果」の逆の「パパゲーノ効果」という命名の元になったシーンですね。モーツァルト「魔笛」の中のサイコーのところ。→The Magic Flute -Air de Papageno et Papagena 'Halt ein! o Papageno, und ... https://t.co/7bsRNFtrJ2 @YouTubeより
    2020/09/27 11:33:49・Twitter for iPhone


    https://twitter.com/makotoaida/status/1310044945542049795

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  32. パパゲーノ効果 - Wikipedia

    https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E3%83%91%E3%83%91%E3%82%B2%E3%83%BC%E3%83%8E%E5%8A%B9%E6%9E%9C

    パパゲーノ効果 - Wikipedia


    パパゲーノ効果(パパゲーノこうか、英: Papageno effect)は、マスメディアが大衆の自殺を抑制する効果のことを指し[1]、その名前はモーツァルトのオペラ『魔笛』の登場人物・パパゲーノに因んで名付けられている[2]。特に、厳しい環境で自殺念慮を持った個人が、その危機を乗り越えて行った報道内容は、有意な自殺予防効果があるとされている[3]。対極的な効果として「ウェルテル効果」がしばしば名前に挙げられる[3]。

    発見
    2010年9月、オーストリア・ウィーン医科大学准教授のトーマス・ニーダークロテンターラー(Thomas Niederkrotenthaler)が同僚とともに、王立精神科医会の会報「英国精神医学ジャーナル」に論文を発表したのが最初だと言われている[3][4]。

    ニーダークロテンターラーらは、オーストリア国内の新聞報道における、逆境に立ったときの対処方法の紹介と自殺の減少に注目して、初めてこの現象に気がついたという[5]。

    ガイドライン
    以下の6つのものがガイドラインとして挙げられている[6]。

    1)支援先に関する正しい情報を提供する

    2)自殺と自殺対策に関する正しい情報について啓発する

    3)日常生活のストレス要因や自殺念慮への対処法、支援方法について報道する

    4)有名人の自殺報道は特に注意する

    5)自死遺族や友人へのインタビューは慎重に行う

    6)メディア関係者自身が自殺による影響を受ける可能性があることを認識する

    脚注
    "Werther効果とPapageno効果: 自殺予防におけるマスメディアの功罪について". 齊尾 武郎. 2020年3月26日閲覧。
    Sisask, Merike; Värnik, Airi (2012-1). "Media Roles in Suicide Prevention: A Systematic Review". International Journal of Environmental Research and Public Health 9 (1): 123–138. doi:10.3390/ijerph9010123. ISSN 1661-7827. PMC: 3315075. PMID 22470283.
    ^ a b c "インターネット上での若者自殺対策について". NPO法人OVA 代表理事 伊藤次郎. 2020年3月26日閲覧。
    Niederkrotenthaler, Thomas; Voracek, Martin; Herberth, Arno; Till, Benedikt; Strauss, Markus; Etzersdorfer, Elmar; Eisenwort, Brigitte; Sonneck, Gernot (2010-09). "Role of media reports in completed and prevented suicide: Werther v. Papageno effects". The British Journal of Psychiatry: The Journal of Mental Science 197 (3): 234–243. doi:10.1192/bjp.bp.109.074633. ISSN 1472-1465. PMID 20807970.
    "Effect of Educative Suicide Prevention News Articles Featuring Experts With vs Without Personal Experience of Suicidal Ideation: A Randomized Controlled Trial of the Papageno Effect(2019)". Till, Benedikt. 2020年6月21日閲覧。
    "韓国京畿道教育庁における子ども・若者の自殺対策に関する調査". 自殺総合対策推進センター. 2020年6月21日閲覧。
    関連項目
    自殺を予防する自殺事例報道のあり方
    ウェルテル効果

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  34. 脚注 編集

    ^ a b c d e f g h i j 平成15年度厚生科学研究費補助金(こころの健康科学研究事業)自殺と防止対策の実態に関する研究研究協力報告書マスメディアと自殺 (PDF)
    ^ a b 自殺予防 メディア関係者のための手引き (PDF) (横浜市立大学医学部精神医学教室)
    ^ “伊豆大島小史”. 東京都大島町. 2012年6月6日閲覧。
    ^ a b c d e 情報・通信の活用・マスメディアに望むこと (PDF) (自殺予防総合対策センター)
    ^ 政府が取り組むべき自殺対策 (PDF)
    ^ 自殺者急増はタレント自殺報道の影響? 内閣府参与が報告[リンク切れ]
    ^ 韓国自殺予防協会、有名人自殺による‘ウェルテル効果’憂慮
    ^ チェ・ジンシルさん後追い!? 自殺相次ぐ
    関連項目 編集

    自殺を予防する自殺事例報道のあり方
    自殺の名所
    低俗霊DAYDREAM(ウェルテル効果を狙って集団自殺を企てる集団が登場する漫画)
    パパゲーノ効果(ウェルテル効果と対極的な効果を示すもの)

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  35. デュルケムと社会主義

    斉藤悦則

    2003年5月25日,「デュルケムとアソシアシオン」と題して,経済学史学会の全国大会(同志社大学にて)で報告したものを加筆修正した。
    2003年9月5日,脱稿。
    『日仏社会学会年報』第13号(2003年11月刊行予定)に投稿した。

    [Summary]
    Emile Durkheim and Socialism

    Yoshinori SAITO

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  36. デュルケムの著『社会主義およびサン・シモン』(以下『社会主義』と略す)は1895~96年にボルドー大学での講義の原稿を起こしたものである(刊行は1928年)。社会主義の歴史に関するデュルケムの講義は,次年度にフーリエとプルードンを,3年目にはラサールとマルクスを扱う予定であった。しかし,この企ては完遂されず,けっきょくサン・シモンをとりあげた1年間だけで終わった(註1)。

    『社会主義』が本来の構想のほんの一部しか表現できず,未完に終わったことは,後のデュルケム解釈に大きく響くことになる。社会学史の研究者たちがデュルケムの社会主義観を語るとき,それはもっぱらサン・シモンの産業主義との近さ遠さを論じる類いのものとなってしまった。

    一方われわれは,デュルケムが「集合存在」の一種独特(sui generis)な性格に着目し(註2),そしてその道徳的な力に期待を寄せている点において,むしろプルードンとのあいだに強い類縁性を見るのである。

    本稿において,われわれはまずデュルケムがプルードンから学び取ったものの大きさを明らかにする。そして,それがデュルケム「独自」の社会主義の形成につながっていく流れを見る。最後に,同じくプルードンを拠り所に社会主義思想を構築したジョルジュ・ソレルがデュルケムをどう批判しているか,その批判の意味を検討する。

    [注記]
    本文中で,段落をわけてプルードン,デュルケム,ソレルからの引用を示したときは,それぞれ冒頭にゴシックでP,D,Sの略号を付した。書名の略号については「参考文献」を見られたい。引用文の末尾に「頁」とある場合は邦訳の該当頁をさす。

    1.プルードンの集合力理論
    「全体はその諸々の部分の総和とは異なるある別もの」(Reg. 195: 207頁)とは,俗に,これこそいかにもデュルケム的な言葉とされる。しかし,社会という集合存在の,一種独特の性格をリアルにつかまえようとした点では,デュルケムはプルードンの後続者の一人にすぎない。つまり,この点でデュルケムのオリジナリティを言い立てるべきではない。

    プルードンが1846年に書いた『貧困の哲学――経済の矛盾の体系』は,生産力の増進や福祉の向上のための企てが,社会に貧困と悲惨をもたらす皮肉な成り行きを体系的に描き出した。プルードンは,集合存在の独自のメカニズムについての無知が社会の不幸の元凶だと考える。善意の行いでさえ逆に弊害を生む,つまり善が悪を生む,あるいは善が悪に転化する。このメカニズムをとらえるには新しい社会科学が必要である。個別の現象についての観察を積み重ねただけでは全体のメカニズムは見えてこない。個別のものを見るのと同じまなざしで全体を眺めてはならない。これがプルードンの基本的な主張であった。

    プルードンは初期の著作,1840年の『所有とは何か』において,アダム・スミスの分業論をヒントに「集合力理論」を作り始めた。集合力 force collective は個々人の力の総和を大きく上回るのに,労働者への成果の還元は「個」の論理にもとづいてなされる。資本家による収奪の秘密はここにある,というのである。経済学のレベルでは素朴な理論だが,それを社会学的な集合存在の理論に高めていったのがプルードンの功績だといえよう。

    1858年の大著『正義論』(リヴィエール版で全4巻)では,集合存在の道徳的な力が解明される。プルードンは,集合存在こそが自由であるとして,たとえばその第3巻で次のようにいう。

    P「集団が存在すれば必ず,その集団を構成する個々の力とも異なり,それらの総和とも異なる集合力という結果が生じる。……人間の場合,それは自由である。……そして集合力によって,人間はあらゆる内的・外的な宿命から解放され,自らの自律的な生活の主人公となり,神のように絶対となる」(第8研究「良心と自由」第5章「自由の本質とリアリズム」,Jus III 408-409)

    社会(集合存在)のメカニズムを科学的に明らかにすることによって人類は解放される,と考える点でプルードンもやはり時代の子ではあった。そして,自由の第一義を人間による自然の征服とする点で,プルードンもサン・シモンの影響下にあったことがわかる。しかし,財(biens=善きもの)の豊富さを幸福の度合いと相関させるサン・シモンと異なり,プルードンが志向するのは物質的な豊かさでなく,自由の獲得によって人間が「気高い」存在になることであった。宿命に翻弄されるのではなく,自分が主人公となって運命を切り開く,そういう人間の「崇高性」,これが自由の本義であった。
    プルードンは続けていう。

    P「自由の行き着くところ……それは,人類による自然の支配の結果としての普遍的な調和。そこから先は思いも及ばぬ。したがって,最良の意味における正義,これが自由の極地である。そして,両者はついに合体する」(同上第6章「自由の機能」,Jus III 423)
    「自由とは何か。それは人間集合の力である。この力によって人間はあらゆる宿命から解放され,事物を従属させ,現実と観念の限界をこえて自らを気高く美しく成長させる」(同上,Jus III 432-433)

    われわれにとって興味深いのは,このプルードンの主張をデュルケムが『社会分業論』(1893年)でほとんどそのまま繰り返していることである。その部分を以下に引用しよう。

    D「じつは自由それ自体が規制の産物なのである。自由は社会的作用 action sociale の敵であるどころか,その結果なのである。……自由とは自然にたいする社会の征服である。……人間が一個の社会的存在となるかぎりにおいて,自由は少しずつ実現されるにすぎない。ぜなら,人間がもうひとつ別の世界を創造し,それによって自然を支配して,はじめて自然から脱却できるからである。この世界こそ,まさしく社会である。それゆえにもっとも進歩した社会の課題は,正義を創造することであるといってよい」(Div 380-381: 372-373頁)

    自由の実現による「正義」の創造を主張するとき,デュルケムは完全にプルードンになりきっているかのようだ。しかし,デュルケムはまさしくこの道徳の領域においてプルードンの乗り越えを企てる。それによってデュルケムの「社会主義」思想は独自の色彩を帯びることになるのである。

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  37. 2.社会主義の道徳的な力

    上述のとおりプルードンの社会主義の理論構築は分業への注目から始まった。デュルケムも,分業を生産力の観点からではなく,道徳の観点から眺め,分業が道徳の進化にはたす役割の大きさに注目した。これによって,かれは自由主義経済学を強く批判する立場を獲得する。さらには,サン・シモンの産業主義も自由主義経済学と同じ錯誤に陥っていると断ずる。

    サン・シモンの産業主義についての内在的批判はすでにフーリエがおこなっているが,デュルケムのそれはさらに辛辣である。産業主義は社会に幸せをもたらすどころか,社会を生き地獄に変える,というのだ。生産性の向上,富の増進は人々の物欲をかきたて,焦燥をあおるだけだからである。

    1893年の『社会分業論』でデュルケムは,豊かさや変化がけっして幸福にはつながらないことを次のように明言する。

    D「くりかえしていえば,そのおかげでわれわれが幸福になるわけではない。……われわれの幸福とは,欲望が刺激されるゆえにこそ大きくなる,というものではない。……われわれにとって,分業が,経済学者たちにとってとはまったく別の様相であらわれるゆえんは,かくのごとくである。経済学者たちにとっては,分業の本質はより多くの生産ということだ。われわれにとっては,より大なる生産性ということは,分業という現象の必然的な一帰結,ひとつの残響にすぎない」(Div 258-259: 264-265頁)

    そして,1895~96年の講義(社会主義論)でのサン・シモン批判も同じトーンで展開される。

    D「果てしなき欲求は自己矛盾である。……持っている以上に持つことを絶えず休みなく求めること,次に到達するであろう点を追い抜くだけのために,到達した点を乗り越えんとして働くことは目的といえない。……飽くことをしらぬ渇きは苦痛のもとになるだけである。どんなことをしても,それは決して癒されない」(Soc 223-224: 230頁)
    「サン・シモンが見逃したと思われるのは,これである。社会平和を実現する手段は,一方では経済的欲求を一切の制約から解放することであり,他方ではそれらの経済的欲求をかなえることによって満足させることだ,と彼は考える。ところが,そのような企ては相矛盾する」(Soc 225: 232頁)

    この無間地獄から脱却するにはどうしたらよいか。デュルケムの回答はきわめて明快である。いわば知足の精神に似た心構えが賞揚される。

    D「大多数の人が自分たちの境遇に満足することである。……自分たちはより多く持つ権利をもたないのだと納得することである」。(Soc 226: 233頁)

    そのためには「諸個人がその優位性を認め,自発的にそれに従い,自分たちにたいして命令する権利」をもつ集合力 forces collectives,道徳力 force moraleが必要である。今日,その道徳力はどこに存するか。「それは職業集団もしくは同業組合である」(Soc 229: 236頁)

    ここから,組織内における自由の極大化をめざす「フーリエ主義およびプルードンの相互主義」にたいしても批判が向けられることになる。デュルケムはこれら「アナーキーな傾向」をもつ社会主義派(Soc 44: 25頁)について,その志を評価しながらも,個性のとらえ方の誤りをつく。

    プルードンは『19世紀における革命の一般理念』(1851年)において「最良のアソシアシオン」のあり方をこう説明している。「アソシアシオンはけっして経済力ではない。それはもっぱら一つの精神的絆」である。そして,最良のアソシアシオンとは「団結の利点すべてを失わないようにしながら,結社員が自らの自立性を享受する」もの,「自由が最大で献身が最小」のものでなければならない。このプルードンの言い方では,ふつうのアソシアシオンは各人の自由を損ないがちで,構成員にしばしば自己犠牲を求めるものであるかのようである。つまり,集合性は個性を抑制する,と読めてしまう(Idee 105-106頁)。デュルケムはそのように読み,プルードンのうちに功利主義者と同様の錯誤を認めるのである。

    デュルケムによれば,集合生活こそが個性を育む。「分業の本質はこれまで共有だった諸機能をわかちあうことにある」から,集合生活が深まるにつれ機能の専門分化が進行し,ここから各自の個性が育っていく。「個性は社会の産物」であり,「個性は既存の社会環境のなかで彫琢されるのだから,それは必然的にこの社会環境の特徴を帯びる。……個性は集団的秩序から自由でありながら,いぜんとしてこれに順応する」(Div 260-264: 266-269頁)。

    1896~97年の講義(『社会学講義』として刊行)では,職業道徳の形成に触れながら,デュルケムは同業組合の必要性を説く。

    すなわち,集団の規律といえばすぐに軍隊的な組織を想起するのは皮相な見方にすぎない。集団の規律とは「同一の対象への共同の愛着を規範の形で表現」したものなのだ。「集合的規律は,各個人の生活だけでなく,かれらの心情にもとづく共同生活の総括であると同時にその条件でもある」。とすれば経済生活においては職業集団こそが個人の成長をささえる最良の道徳的環境ということになる。「私が同業組合体制が必要不可欠だと考えるのは,経済的理由によるのではなく,道徳的理由によるのである。つまり,それだけが経済生活の道徳化を可能にするからである」(Lec 66-67: 62-63頁)。

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  38. ウェルテル効果 - ウェルテル効果の概要 - Weblio辞書

    https://www.weblio.jp/wkpja/content/%E3%82%A6%E3%82%A7%E3%83%AB%E3%83%86%E3%83%AB%E5%8A%B9%E6
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    ウェルテル効果
    出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/08/27 23:57 UTC 版)


    「ウェルテル」は、ゲーテ著の『若きウェルテルの悩み』(1774年)に由来する。本作の主人公、ウェルテルは最終的に自殺をするが、これに影響された若者達が彼と同じ方法で自殺した事象を起源とする[2]。なお、これが原因となり、いくつかの国家でこの本は発禁処分となった[2]。ただし、実在の人物のみならず、小説などによるフィクションの自殺も「ウェルテル効果」を起こすか否かについては諸説分かれている[1]。

    発見
    精神科医のジェローム・モット(Jerome A. Motto)は1967年、「自殺報道の影響で自殺が増える」という仮説を確かめるため、新聞のストライキがあった期間に自殺率が減少するかどうかを調べたが、この仮説はデトロイトでしか証明されなかった上、調査手法における様々な問題点が指摘された[1]。

    その後、社会学者のデイヴィッド・フィリップスが1974年 、ニューヨークタイムズの一面に掲載された自殺と、1947年から1967年までの全米の月間自殺統計を比較することで、報道の自殺率に対する影響を証明し、これをウェルテル効果と名づけた[1]。

    フィリップスの調査は、

    自殺率は報道の後に上がり、その前には上がっていない。
    自殺が大きく報道されればされるほど自殺率が上がる。
    自殺の記事が手に入りやすい地域ほど自殺率が上がる。
    等であり、これらは報道が自殺率へ影響を与えることの証明とされた[1]。

    この理論は、その後1984年に行なわれたイラ・ワッサーマン(Ira M. Wasserman)をはじめとした複数の追試によっても正しいとされた[1]。またフィリップスは、テレビにおける自殺報道にも同様の効果があるとしている[1]。

    その後、報道が影響を与えるのは「自殺率そのもの」ではなく、検死官が自殺と判断するか否かである、との説も提示されたが、フィリップスはこれに対して、「検死官の判断により自殺者数が増えるのであれば、その増加分だけ事故死や殺人などの『自殺以外の死亡者数』が報道後に減少するはずだが、統計上そうはなっていない」、と反証している[1]。

    また、自殺者は報道があってもなくてもいずれ自殺した、報道は単にその「実行時期」を早めたに過ぎないのではないか、との意見に対し、フィリップスは、「仮にそうだとすれば報道直後に自殺数が増えた分、それ以降は数が減ってなければならないはずだが、統計上はそのようになっていない」、と反証している[1]。

    事例

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    日本における事例
    古くは、元禄・享保年間(1700年ごろ)に活躍した劇作家近松門左衛門は、事件を基にした『曽根崎心中』(1703年)・『冥途の飛脚』(1711年)・『心中天網島』(1720年)など、のちに世話物といわれる心中浄瑠璃の台本を発表し、同時期に紀海音も続いた。ところが、これに触発されて心中が流行したといわれ、享保8年(1723年)、幕府は心中物の上演を一切禁止した。新聞報道が未発達な当時、実在した事件に典拠した演劇の効果は、現代のテレビニュース番組などにおける再現ビデオ並みに高く、一種のウェルテル効果に近い現象と言われる。

    明治になって1903年(明治36年)、無名の一高生、藤村操が「人生は不可解である」という遺書を残し、華厳滝へ飛び降り自殺した。この事件が新聞で大きく取り上げられた結果、これを真似たかのような事例が続出し社会問題になった。

    昭和に入ると、1933年に女学生が 三原山(伊豆大島)火口へ投身自殺し、報道後、この年だけで129人が三原山で投身自殺した[3]。太宰治の玉川上水への入水自殺も、多くの後続者を出した例とされる。

    1986年(昭和61年)に、アイドル歌手の岡田有希子が18歳で飛び降り自殺すると、30名余りの青少年が後を追うように自殺し[4]、「そのほとんどが、岡田と同様に高所から飛び降りて自殺した」[4]。「この影響はほぼ1年続き、1986年はその前後の年に比べて、青少年の自殺が3割増加」し[4]、国会の衆議院文教委員会で、江田五月がこの件を採り上げるまでに至る。これがいわゆる「ユッコ・シンドローム」である。

    1998年(平成10年)X JAPANのhideが自宅で急逝した件が自殺だったと報道されると、ファンの後追いとみられる自殺が急増した。結果、警視庁の要請により、YOSHIKIをはじめとしたX JAPANのメンバーが、「自殺を思い留まるように」呼び掛ける記者会見を開くという社会問題にまで発展した。

    2011年(平成23年)、5月の自殺者、特に20代から30代の女性のそれが、13日から急増。自殺対策支援センター ライフリンク代表で内閣府参与の清水康之は『考えられる要因は5月12日に起きたある有名女性タレント(=上原美優)の自殺、と言うか、その自殺報道だ』[5]と指摘した[6]。

    ウィーンにおける事例
    ウィーンの地下鉄では未遂を含め年1,2件程度だった自殺が1984年頃から急増し、ピーク時には未遂を含め年20件程度まで増え、これは自殺報道に起因するものとされた[4]。1987年に精神保健の専門家が自殺報道の方法を定めたガイドラインを策定し、大新聞がこれに従うと、自殺数は急減し、再び年1,2件程度にまで下がった[4]。

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  40. 可能なるアナキズムは

    デュルケムとソレルの間にモースを置く
    そうするとプルードンの位置付けが曖昧になる

    モースとホッブズの対比は正しい

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