ゴダール関連で補足:
浅田彰の映画関連での貢献で重要なのはゴダールよりもパゾリーニへの言及だろう。
「パゾリーニは、ゴダールの本のイタリア語版(Jean-Luc Godard,Il cinema e il cinema,1971)に
寄せた序文で、ゴダールは自分の記号論を批判したけれども、ゴダールこそは、メタ言語でも
あるような言語としての映画を撮っている作家であり、そのメタ言語としての映画によって、
映画についての「生きた記号論」を実践している、意識せざる言語学の探究者なのである、と
言っている。あれは非常に正確な評価でしょう。」(浅田彰『映画の世紀末』(2000年)339頁)
初出『批評空間』(1999.4.1 「いま批評の場所はどこにあるのか」掲載号 )II-21 ★
参考:
パゾリーニ映画祭・メモリアル
http://www005.upp.so-net.ne.jp/guillo/pppstudy/ppp/cinefes.htm
また会場で売られていた「批評空間」なる雑誌(・・不勉強なわたしはこの雑誌の存在すら知り
ませんでしたが)には、98年秋に京都大学で行われたという四方田・浅田彰氏の対談「パゾリ
ーニ・ルネッサンス」が掲載されていて、そこには四方田氏によるパゾリーニ研究のおそらくは
膨大な成果の一端が概括的に披露されており、この20年以上にも渡る我が国の「パゾリーニ
空白時代」を埋めるに足る、極めて充実した対談だったと思います。多分この対談が我が国の
パゾリーニ本格研究の再スタート地点ともいえるでしょう。
その他では「GQ」という雑誌では「イタリアの前衛伝説」という特集記事の一部にパゾリーニ
が取り上げられ、田中氏の紹介文もありましたが、なによりも目を引いたのはパゾリーニが表紙
を飾って「パゾリーニを知っているか?」などというコピーがついていたことでした。これには
わたしも素朴にびっくりしました。パゾリーニはこれで、おそらく初めて日本の雑誌の表紙を飾
ったのではないでしょうか?
ちなみに若き日のアガンベンが『奇跡の丘』に出演しているのは有名な話。
Giorgio Agamben no "Evangelho segundo Sao Mateus", de Pasolini
https://youtu.be/anZg7SyjZ2s
http://yojiseki.exblog.jp/11980199/
スピノザとパゾリーニ
スピノザからヘーゲル(総合)ではなく、スピノザからニーチェ(断片)の系譜にゴダールをおくのが正しい。ただゴダールは平行論的であっても汎神論を受け継いでいない。ブレヒト経由でマルクス的であるかに見えて、実はカント的な批判哲学に親和性がある。ドイツ的なものに逆らいながら。
スピノザに近いのはパゾリーニだ。ゴダール作品から俳優を借りた『豚小屋』で主人公が見る夢(主人公自身が豚に食べられる夢)は、シナリオ段階ではスピノザの夢と命名されていた。この作品のストーリーの交差こそ平行論的だ。マルクス主義者のパゾリーニは一つの意味を提示するが、身体をなくした主人公の精神はアレゴリカルに身体と分離している。
「私は、映画は本質的かつ本来的に、詩的なものであるという意見です。その理由として私はこう言ってきました。
すなわち、映画は夢のようであり、夢に近いものであるからと。また、映画のシークェンスも、さらにそのシーク
ェンスの事物までも実に詩的であるからだと。撮影された木は詩的ですし、撮影された人間の額も詩的です。なぜ
なら、それらの物理的存在がそれ自身詩的なものであり、一つの表出であり、神秘にみちており、あいまいさに溢
れており、多面の価値を意味するものであり、また一本の木すらが言語体系における一つの記号だからです。しか
し、だれが木によって語るのでしょうか。それは神、または現実それ自身です。だから、一つの記号としての木
は、われわれを神秘的な語り手とコミュニケートするようにさせるのです。だから、事物を物理的にただ素直に再
生する映画は、本質的に詩的なのです。このことは、歴史以前の問題というか、ほとんど映画以前の問題に属す
るものです。
私たちが歴史的事実としての映画。コミュニケーションの手段としての映画などを持ったとき、はじ
めて、映画もまたあらゆるコミュニケーションのメディアと同じように、異った種類のものへと発展していくので
す。ちょうど文学が散文のための言語と韻文のための言語を持っているように、映画も持っています。私が言っ
ているのはこのことです。ですからこの場合は、映画が詩的な一形式であるがあるがゆえに本来的に詩的であるな
どということは忘れるべきです。くり返して言いますが、それはあくまでも歴史以前の、無形の、非自然的な問題
なのです。もっとも陳腐な西部劇や古い商業映画を見るようなときでも、もしそれを月並みでない見方で見るなら
ば、どんな映画にも、映画の物理的存在自体に本来的に備わっている夢的で詩的なものを発見しないではおかない
でしょう。しかし、このことはそのまま詩的映画だということにはなりません。詩的映画とは、詩人が一篇の詩
を書こうとするときに特別な技術を用いるのとちょうど同じように、特別な技術を用いた映画です。あなたが一冊
の詩の本を開くならば、あなたはたちまちそこに文体や、リズムなど一切を読みとれるでしょう。あなたは手段と
しての言語を見、また詩句の音節を認めるのです。ところで、映画の中にも、あなたが詩に見るものとまったく同
じものを見つけることができます。その文体を通して、つまりカメラの動きやモンタージュを通して見るのです。
ですから、映画を作るということは、詩人になることなのです。」
『パゾリーニとの対話』p185波多野哲朗訳、晶文社、1972.4より
/////////
http://plaza.rakuten.co.jp/yojiseki/diary/200411220000/
宮崎駿監督の『ハウルの動く城』は、『紅の豚』にもましてファシズムと戦争(+環境破壊)への批判に満ち満ちていました。映画それ自体が戦争機械(byドゥルーズ)であることによって、プルードンの『戦争と平和』と同じような誤解を生むでしょうが、シュールレアリズムと商業主義の重要な合体が(着地点が見失われているとはいえ*)行なわれていると思います。
この作品は、イラクの戦争を強度において凌駕している作品として、『座頭市』とならんで映画史的には並べられると思います。
さて以下本題です。
前世紀において、ファシズムについてもっとも鋭い考察をしたのはパゾリーニだと思います。
次に、イタリアの映画監督パゾリーニ(1922-1975)がファシズムについて語っている言葉を御紹介します。
~今日、考古学的な反ファシズムの形が存在していて、これは真の反ファシストの免許を手に入れるのに都合のいい口実となっている。すなわち、もはや存在しない、そしてもう二度と存
在することのない古典的ファシズムを対象目標とする、安易な反ファシズムのことだ。
(中略)
最後に、親愛なるカルヴィーノ(引用者注:イタリアの著名な小説家)、君にひとつ言っておきたい、モラリストとしてではなく、分析者として。わたしの主張に対する『メッサッジューロ』紙上の君の性急な答えのなかに、二重に不幸な一言が思わず漏れている。この一節だ。「今日の若いファシストをわたしは知らないし、かれらと知り合う機会が訪れないように願っている」しかし、(1)当然ながら、君にはこういった機会ほ訪れないだろう。これは、列車のコンパートメントや店の行列で、路上で、パーティーで、君が若いファシストと出会ったとしても、"君がかれらを認識しない"からでもある。(2)若いファシストと一度も出会わないことを願うのは冒漬的だ。なぜなら、反対に我々ほかれらを見つけだし、出会うためにあらゆることをしなければならないからだ。かれらは宿命として予定された(悪)の代弁者ではない。"かれらはファシストになるために生まれてきたのではないのだ"。だれも----かれらが青年になって、どんなものかはわからないが、なにかの理由、あるいは必要性にしたがって選択できる状態になったとき----かれらに民族主義者としてファシストの格印を押すものはいなかった。ひとりの若者をこういった選択に走らせるのは、絶望と焦燥の残忍な形なのだ。そしておそらくかれの運命を違ったものにするには、かれの人生におけるささいな別の経験、たったひとつの出会いだけで、十分だったことだろう。
(パゾリーニ「海賊評論(一)"68年"その後」『現代詩手帳』大辻康子訳、1998.7より)
ただし、パゾリーニはファシズムについて、別の新たな定義をしています。つまり「均質化を成し遂げたという点で、消費社会こそ真のファシズムだ」と主張するのです。
~真のファシズムは、お人好しの社会学者が「消費社会」と名づけたものである、とわたしは心からそう考えている。無害で端的に内容を表すように見える定義だ。しかし実際はそうではない。現実をよく観察すれば、とくに物、風景、都市計画、そしてなによりひとびとの周辺を読むことができれば、この冷酷非情な消費社会のもたらしたものが、独裁体制、つまりまさにファシズムそのものがもたらしたものであることがわかる。
(中略)
消費社会というこの新しいファシズムは、逆に、若者を根底から変貌させた。かれらの心の奥に触れ、いままでとは別の感覚、思考方法、生き方、文化モデルを与えた。もはやムッソリーニの時代のように、芝居がかったうわべだけの軍隊的統制が問題なのではない。若者の魂を奪い、変貌させた現実の統制が問題なのだ。これの意味するところは、結局のところ、この「消費文明」は独裁的な文明であるということだ。要するにファシズムということばが権力の横暴を意味するなら、「消費社会」はファシズムを実現したのである。~
(パゾリーニ「海賊評論(二)現代のファシズム」『現代詩手帳』大辻康子訳、1998.7より)
パゾリーニのこの指摘は1974年(前者は3月後者は7月発表)にしては先駆的な認識だと思います(これはドゥルーズの規律社会から管理社会への移行の指摘とも響きあう認識です)。日本では石油ショック以降も、ヴィジョンがないままに大量生産、大量消費、大量廃棄を繰り返してきました。三島由紀夫などはこれに近い認識を提示しましたが、多分に美学的なものに留まったと思います。映画監督の山田洋次が地方色豊かなロケ地を選ぶのに苦労し出したのがこの時期だと言います。
最後に参考までに、『ロゴパグ』でも引用された彼の詩の一節を紹介します。
わたしは過去の力である。
わたしの愛は伝統にのみ由来する。
廃墟から、教会から、
祭壇の壁画から、
アペニンと前アルプスの忘れられた村から、
わたしは到来する、兄たちが生きたところから。
わたしは狂人のようにトゥスコラナを彷獲(さまよ)い、
野良犬のようにアッピア街道を廻る。
そしてわたしは成長した胎児として、
いかなる現代人よりも現代的に
兄たち、もはや存在しない兄たちを探しまわる。
*注:
その映画内にあらわれる社会学的な問題に対する解決策のヒントとして、ルーカスはくじ引きを、宮崎駿は地域通貨をそれぞれ研究する必要があるように思う。
追記:
映画理論に関して言えば、「モンタージュは、死が生前の行為を時間の埒外に置くためにする選択に似ている」と書いたパゾリーニは、その映画論に記号論を援用しながらもその記号的映画論そのものを自己目的化しなかったことが特筆されます。
/////////
現在のネット社会最大の問題として、人々は状況判断するデータベースを持っていない
だからコピペとしてでもデータベースを提示する必要がある
ただし同じコピペでもソースを明示する必要はある
その点、ネトウヨのソース主義は(そこだけは)正しい
「ひとりの若者をこうした選択(ファシストになること)に走らせるのは、絶望
と焦躁の残忍な形なのだ。そしておそらくかれの運命を違ったものにするには、
かれの人生におけるささいな別の体験、たったひとつの出会いだけで、十分だっ
たことだろう」
パゾリーニがカルヴィーノを批判した文(現代詩手帳98年7月号49頁)
http://d.hatena.ne.jp/kairiw/20050125
浅田彰の映画関連での貢献で重要なのはゴダールよりもパゾリーニへの言及だろう。
「パゾリーニは、ゴダールの本のイタリア語版(Jean-Luc Godard,Il cinema e il cinema,1971)に
寄せた序文で、ゴダールは自分の記号論を批判したけれども、ゴダールこそは、メタ言語でも
あるような言語としての映画を撮っている作家であり、そのメタ言語としての映画によって、
映画についての「生きた記号論」を実践している、意識せざる言語学の探究者なのである、と
言っている。あれは非常に正確な評価でしょう。」(浅田彰『映画の世紀末』(2000年)339頁)
初出『批評空間』(1999.4.1 「いま批評の場所はどこにあるのか」掲載号 )II-21
恐ろしいほど感動的なまでに誠実で正確なパゾリーニのゴダール評。これ以上のゴダール論を読んだ記憶がない。
Premessa
In una intervista su Vie nuove Godard mi ha chiamato 《burocrate ». Si è posto, Godard, il problema linguisti- co della parola « burocrate »? No, ma evidentemente l'ha implicato. Tutte le peripezie di questa parola, dalla base del suo uso canonico (ministeri e affini), al luogo, analo- go ma oltre la linea di demarcazione rivoluzionaria -, dello stalinismo, il suo ritorno, sotto forma metaforica, nelle autocritiche dei Partiti comunisti dopo il XX Con- gresso, e la graduale rarefazione di tale uso (culminato nel mondo culturale cecoslovacco, ma anche sovietico du- rante gli anni ottimistici, kruscioviani), il rimbalzo, poi, di tale parola in ambienti tout-court anticomunisti di si- nistra, comprendente in un solo semantema 《seniore >>, sempre più metaforico, comunisti staliniani, comunisti anti-staliniani, e comunisti mezzi e mezzi; e infine il suo revival, in un luogo « misto », che comprende avanguar- die e movimenti studenteschi, in cui « burocrate >> è de- finizione denigratoria ugualmente in senso estetico e in senso politico, ecc., ecc. Godard ha colto il «< significato >> del 《 significante » burocrate, come un ornitologo che in- filzi con l'ago un insetto al volo. Perché l'ha fatto, nei miei confronti? Perché io mi occupo di linguistica e di semiologia (male, da dilettante, come peraltro asseriscono alcuni professori universitari, autori cronologicamente dietro mia iniziativa di fumosi e illeggibili scritti di semiologia del cinema, forse culturalmente esatti, ma sen- za un'idea). Nel momento in cui mi occupo di linguistica e di semiologia sono, per Godard, dunque, un rompisca- tole. E quindi un burocrate. Perché l'università è buro- - cratica; perché l'accademia è burocratica; perché la spe- cializzazione è burocratica; perché il lavoro è burocrati- co. E Godard, temendo di essere mangiato da tutta que- sta burocrazia, sospende ogni « distinguo » e si difende in blocco dai rompiscatole. In cosa consiste, insomma, l'evidente equivoco del mio dolce, umanissimo amico Godard?
Consiste nel credere ingenuamente che ogni lingui- stica e ogni semiologia siano normative. - « >> Ora, la norma, e la normatività, sono effettivamente antropofaghe; bisogna effettivamente preservare, nei loro confronti, la propria integrità fisica. Però - ed è questo il punto ignoto a Godard non è affatto vero che la linguistica e la semiologia siano normative. Anzi, in real- tà, in quanto scienze, non lo sono mai (lo diventano solo nelle scuole o nelle accademie). La linguistica e la se- miologia non sono che strumenti di descrizione interna, e quindi di comprensione specializzata »> - cioè pro- fonda dell'opera. (Perché ormai solo la specializza- zione, gergale, può consentire la profondità.) Ora, il ci- nema di Godard è un cinema specializzato proprio in questo senso: ed ha contribuito a creare il cinema come linguaggio che ha come oggetto se stesso = gio. Solo che Godard, gergalmente, non lo sa. Ma ciò metalinguag- non significa niente e non esclude la realtà della cosa. Godard ha un'idea mitica del cinema: e nel momento in cui fa del 《cinema sul cinema >> fa del 《 mito sul mi- to », è vero. Tuttavia, a parte objecti, cioè da parte mia, che lo studio, ciò non toglie che Godard, proprio col suo cinema come metalinguaggio, faccia della semiologia vivente » sul cinema. « E adesso rovescio la situazione. Godard dà del buro- crate (del creatore di « norme >>) a me, che invece sono un semplice (dilettante) analista, ricercatore oggettivo di norme esistenti. Invece la realtà è che il « creatore >> di norme (dunque il « burocrate ») è lui. Infatti, facendo del cinema sul cinema, in ogni suo film, Godard ha istituito necessariamente una serie di strumenti stilistici, formali . grammaticali, onde attuare questa operazione e... « metalinguistica >> di riflessione del cinema su se stesso. E perché questo è avvenuto? Perché Godard è nel fondo della sua natura un saggista (o, per meglio dire, un mo- ralista tipico della cultura francese): l'incontro tra il ri- cercatore linguistico inconsapevole (anzi, faziosamente ostile a ogni forma di consapevolezza), e il moralista di fondo, non poteva non far sì che l'invenzione di nuove norme non fosse normativa. Il moralista è sempre precetti- stico e, anche se in modo adorabile, terroristico. Le prove? Ebbene, almeno metà del cinema nuovo in tutto il mondo è godardiano, cioè obbedisce a delle regole, segue delle norme, stabilite, sia pure senza intenzione normativa, da Godard. In tutto il mondo, ripeto. Segno della sua im- portanza, miracolosa: ma anche della sua « autorità ». Da cui egli, uomo delizioso fraterno e non paterno - - - si difende anche con rabbia, ingenua. In conclusione: tutti i film di Godard, com'è noto, sono dei 《contes philosophiques », il cui pensiero filo- sofico è essenzialmente linguistico. Di conseguenza il pre- sente libro è un libro completamente metaforico: e un bravo studente universitario (non certamente allievo del professor Garroni) potrebbe tradurlo, letteralmente tra- durlo, in un manuale dove si spiegano, nel loro nascere e nel loro definirsi, le condizioni mentali, prima, e poi tecniche, attraverso cui si rende normativo il cinema co- me metacinema.
Pier Paolo Pasolini
前提
『ヴィ・ヌオーヴェ』のインタビューで、ゴダールは私を「官僚」と呼びました。ゴダールは「官僚」という言葉の言語的問題を提起したのでしょうか?いいえ、しかし、彼は明らかにそれを暗示していました。この語の変遷、すなわち、その標準的な用法(省庁など)の基盤から、類似しているが革命的境界線を越えたスターリニズムの位置、第20回大会後の共産党の自己批判の中での比喩的な形でのその復活、そしてこの用法の漸進的な希薄化(チェコスロバキア文化界で頂点に達したが、楽観的なフルシチョフ時代のソ連文化界でも頂点に達した)、そして、ますます比喩的になっている単一の「上級」の意味体系、スターリニスト共産主義者、反スターリニスト共産主義者、手段と手段の共産主義者を含む、左翼の反共産主義環境全体でのこの語の復活。そして最後に、前衛芸術や学生運動を含む「混合」の場において、その復活が起こった。そこでは「官僚」という言葉は、美的意味においても政治的意味においても、等しく蔑称的な意味を持つ。ゴダールは、飛んでいる昆虫を針で刺す鳥類学者のように、官僚的な「記号表現」の「<意味>」を捉えた。なぜ彼は私に対してそうしたのだろうか?それは、私が言語学と記号学を扱っているからだ(一部の大学教授が主張するように、アマチュアとして、私の独断で映画の記号学に関する曖昧で判読不能な論文を時系列順に執筆している。文化的には正確かもしれないが、アイデアは欠落している)。私が言語学と記号学を扱う時、ゴダールにとって私は厄介者となる。したがって、私は官僚なのだ。なぜなら、大学は官僚的だからだ。アカデミーは官僚的だからだ。専門化は官僚的だからだ。仕事は官僚的だからだ。そしてゴダールは、こうした官僚主義に飲み込まれることを恐れ、あらゆる「区別」を放棄し、トラブルメーカーから集団で自らを守ろうとする。つまり、私の優しく、実に人間的な友人ゴダールに対する明らかな誤解とは一体何なのだろうか?
それは、あらゆる言語学と記号学が規範的であると素朴に信じることにある。 - « >> さて、規範と規範性は事実上、人食いである。人はそれらとの関係において、実際に自らの身体的完全性を保たなければならない。しかしながら――そしてこれはゴダールには知られていない点だが――言語学と記号学が規範的であるというのは全く真実ではない。実際、科学としてそれらは決して規範的ではない(学校やアカデミーにおいてのみそうなる)。言語学と記号学は、作品の内的記述のための、ひいては専門的な――つまり深い――理解のための道具に過ぎない。(なぜなら、専門用語で言えば、専門化だけが深みを許すからである。)さて、ゴダールの映画はまさにこの意味で専門化された映画である。そして、映画は、それ自体を対象とする言語としての映画=gioの創造に貢献した。専門用語で言えば、ゴダールだけがそれを知らない。しかし、このメタ言語は何の意味も持たず、事物の現実性を排除するものではない。ゴダールは映画について神話的な考えを持っている。そして彼が「映画についての映画」を作る時、彼は「神話についての神話」を作っている、というのは事実だ。しかし、オブジェクティを除けば、つまり、それを研究する私の立場からすれば、ゴダールがまさにメタ言語としての映画を用いて、映画についての「生きた記号学」を作っているという事実は変わりない。 「そして今、私は状況を逆転させる。ゴダールは私を官僚(「規範」の創造者)と呼ぶが、私は単なる(アマチュアの)分析家、既存の規範の客観的な研究者なのだ。しかし現実には、規範の「創造者」(つまり「官僚」)は彼自身なのだ。実際、ゴダールは映画についての映画を作ることで、それぞれの作品において、必然的に一連の様式的、形式的、そして文法的ツールを確立し、この操作、そして映画が自らを省察する「メタ言語的」な思考を実行してきた。なぜこのようなことが起こったのか?それは、ゴダールが根っからのエッセイスト(あるいは、より正確に言えば、フランス文化の典型的な道徳家)だからだ。無自覚な言語研究者(実際、あらゆる形態の意識に対して偏見を持って敵対する)と根っからの道徳家との出会いは、新しい規範の創造が規範的ではないことを確実にするに違いない。道徳家は常に教訓的であり、たとえ愛らしい形であっても、テロリストである。その証拠は?さて、世界の新しい映画の少なくとも半分はゴダール的だ。つまり、たとえ規範的な意図がなくても、ゴダールが確立した規則や規範に従っている。繰り返すが、世界において。それは彼の重要性の、奇跡的な証であると同時に、彼の「権威」の証でもある。父性的な性格ではなく、兄弟のような、愛すべき男である彼は、その権威から、無邪気に怒りをもって自らを弁護する。結論として、ゴダールの映画はすべて、周知のとおり「哲学物語」であり、その哲学的思考は本質的に言語的である。したがって、本書は完全に比喩的な書物である。そして、優秀な大学生(もちろんガローニ教授の教え子ではない)なら、それを文字通り翻訳して、まず精神的条件、次に技術的条件、それらを通してメタシネマとしての映画が規範とされるものの誕生と定義が説明されるマニュアルにできるだろう。
ピエル・パオロ・パゾリーニ
前提
『ヴィ・ヌオーヴェ』のインタビューで、ゴダールは私を「官僚」と呼びました。ゴダールは「官僚」という言葉の言語的問題を提起したのでしょうか?いいえ、しかし、彼は明らかにそれを暗示していました。この語の変遷、すなわち、その標準的な用法(省庁など)の基盤から、類似しているが革命的境界線を越えたスターリニズムの位置、第20回大会後の共産党の自己批判の中での比喩的な形でのその復活、そしてこの用法の漸進的な希薄化(チェコスロバキア文化界で頂点に達したが、楽観的なフルシチョフ時代のソ連文化界でも頂点に達した)、そして、ますます比喩的になっている単一の「上級」の意味体系、スターリニスト共産主義者、反スターリニスト共産主義者、手段と手段の共産主義者を含む、左翼の反共産主義環境全体でのこの語の復活。そして最後に、前衛芸術や学生運動を含む「混合」の場において、その復活が起こった。そこでは「官僚」という言葉は、美的意味においても政治的意味においても、等しく蔑称的な意味を持つ。ゴダールは、飛んでいる昆虫を針で刺す鳥類学者のように、官僚的な「記号表現」の「<意味>」を捉えた。なぜ彼は私に対してそうしたのだろうか?それは、私が言語学と記号学を扱っているからだ(一部の大学教授が主張するように、アマチュアとして、私の独断で映画の記号学に関する曖昧で判読不能な論文を時系列順に執筆している。文化的には正確かもしれないが、アイデアは欠落している)。私が言語学と記号学を扱う時、ゴダールにとって私は厄介者となる。したがって、私は官僚なのだ。なぜなら、大学は官僚的だからだ。アカデミーは官僚的だからだ。専門化は官僚的だからだ。仕事は官僚的だからだ。そしてゴダールは、こうした官僚主義に飲み込まれることを恐れ、あらゆる「区別」を放棄し、トラブルメーカーから集団で身を守ろうとする。要するに、我が愛すべき、実に人間的な友人ゴダールの明らかな誤解とは一体何だろうか?
それは、あらゆる言語学と記号学が規範的であると素朴に信じていることにある。――「」――さて、規範と規範性は事実上人食いである。人はそれらとの関係において、自らの肉体的完全性を効果的に維持しなければならない。しかし――そしてこれはゴダールには知られていない点だが――言語学と記号学が規範的であるというのは全く真実ではない。実際、科学としてそれらは決して規範的ではない(学校やアカデミーにおいてのみそうなる)。言語学と記号学は、作品の内的記述、ひいては専門的理解、つまり深遠な理解のための道具に過ぎない。(なぜなら、今や専門化、俗語で言うところの専門化だけが深遠さを許容できるからだ。)さて、ゴダールの映画は、まさに専門化された映画なのである。この意味:そしてそれは、映画を、それ自体を対象とする言語、つまり「gio」の創造に貢献してきた。ゴダールだけが、俗語で言えば、それを知らない。しかし、このメタ言語は何も意味せず、事物の現実性を排除するものでもない。ゴダールは映画について神話的な考えを持っている。そして彼が「映画についての映画」を制作する瞬間に、「神話についての神話」を制作している、というのは事実だ。しかし、オブジェクティを除けば、つまり、それを研究する私の立場からすれば、ゴダールがまさにメタ言語としての映画を用いて、「映画についての」生きた記号学を制作しているという事実は変わりない。そして今、私は状況を逆転させる。ゴダールは私を官僚(「規範」の創造者)と呼ぶが、私は単なる(アマチュアの)分析家、既存の規範を客観的に研究する者なのだ。しかし現実には、規範の「創造者」(つまり「官僚」)は彼自身なのだ。実際、ゴダールは映画についての映画を作ることで、それぞれの作品において、必然的に一連の様式的、形式的、そして文法的ツールを確立し、この操作、そして映画が自らを省察する「メタ言語的」な作用を遂行した。なぜこのようなことが起こったのか?それは、ゴダールが根っからのエッセイスト(あるいは、より正確に言えば、フランス文化の典型的な道徳家)だからだ。無自覚な言語研究者(実際、あらゆる形態の意識に対して偏見を持って敵対する)と根っからの道徳家との出会いは、新しい規範の創造が規範的ではないことを確実にするに違いない。道徳家は常に教訓的で、たとえ愛らしい形であっても、テロリストである。その証拠は?まあ、少なくとも。世界の新しい映画の半分はゴダール的だ。つまり、たとえ規範的な意図がなくても、ゴダールによって確立された規則や規範に従っている。繰り返すが、世界においてだ。それは彼の重要性の、奇跡的な証であると同時に、彼の「権威」の証でもある。父性的な性格ではなく、兄弟愛に満ちた彼は、その権威から、ナイーブに怒りをもって自らを弁護する。結論として、ゴダールの映画はすべて、周知のとおり「哲学談」であり、その哲学的思考は本質的に言語的である。したがって、本書は完全に比喩的な書物である。優秀な大学生(もちろんガローニ教授の学生ではない)なら、本書を文字通り翻訳し、メタシネマとしての映画が規範となるまでの、まず精神的条件、そして次に技術的条件を、その誕生と定義において解説するマニュアルへと昇華させることができるだろう。映画についての映画を作るというゴダールは、それぞれの作品において、必然的に一連の様式的、形式的、文法的ツールを確立し、映画が自らを省察するというこの作用と…「メタ言語的」な作用を実現した。なぜそうなったのか?それは、ゴダールが根っからのエッセイスト(あるいは、より正確に言えば、フランス文化に典型的な道徳家)だったからだ。無自覚な言語研究者(実際、あらゆる意識形態に党派的に敵対する)と根っからの道徳家との出会いは、新たな規範の創造が規範的なものにならないことを確実にした。道徳家は常に教訓的で、たとえ愛らしい形であれ、テロリストである。その証拠は?世界中の新しい映画の少なくとも半分はゴダール的だ。つまり、たとえ規範的な意図がなくても、ゴダールによって確立された規則や規範に従っている。繰り返すが、世界中で。これは彼の重要性の、奇跡的な証であると同時に、彼の「権威」の証でもある。父性的な性格ではなく、兄弟愛に満ちた素晴らしい男である彼は、その言葉に怒りを込めて、ナイーブに自己弁護する。結論として、ゴダールの映画はすべて、周知のとおり「哲学談」であり、その哲学的思考は本質的に言語的である。したがって、本書は完全に比喩的な書物である。そして、優秀な大学生(もちろんガローニ教授の教え子ではない)なら、本書を文字通り翻訳し、メタシネマとしての映画が規範となる精神的条件、そして技術的条件を、その誕生と定義において解説するマニュアルへと昇華させることができるだろう。映画についての映画を作るというゴダールは、それぞれの作品において、必然的に一連の様式的、形式的、文法的ツールを確立し、映画が自らを省察するというこの作用と…「メタ言語的」な作用を実現した。なぜそうなったのか?それは、ゴダールが根っからのエッセイスト(あるいは、より正確に言えば、フランス文化に典型的な道徳家)だったからだ。無自覚な言語研究者(実際、あらゆる意識形態に党派的に敵対する)と根っからの道徳家との出会いは、新たな規範の創造が規範的なものにならないことを確実にした。道徳家は常に教訓的で、たとえ愛らしい形であれ、テロリストである。その証拠は?世界中の新しい映画の少なくとも半分はゴダール的だ。つまり、たとえ規範的な意図がなくても、ゴダールによって確立された規則や規範に従っている。繰り返すが、世界中で。これは彼の重要性の、奇跡的な証であると同時に、彼の「権威」の証でもある。父性的な性格ではなく、兄弟愛に満ちた素晴らしい男である彼は、その言葉に怒りを込めて、ナイーブに自己弁護する。結論として、ゴダールの映画はすべて、周知のとおり「哲学談」であり、その哲学的思考は本質的に言語的である。したがって、本書は完全に比喩的な書物である。そして、優秀な大学生(もちろんガローニ教授の教え子ではない)なら、本書を文字通り翻訳し、メタシネマとしての映画が規範となる精神的条件、そして技術的条件を、その誕生と定義において解説するマニュアルへと昇華させることができるだろう。そして、優秀な大学生(もちろんガローニ教授の教え子ではない)なら、それを文字通り翻訳して、まず精神的条件、次に技術的条件、それらを通してメタシネマとしての映画が規範とされるものの誕生と定義が説明されるマニュアルにできるだろう。そして、優秀な大学生(もちろんガローニ教授の教え子ではない)なら、それを文字通り翻訳して、まず精神的条件、次に技術的条件、それらを通してメタシネマとしての映画が規範とされるものの誕生と定義が説明されるマニュアルにできるだろう。
ピエル・パオロ・パゾリーニ
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http://pasolininote.blogspot.jp/
パゾリーニ・ノート
パゾリーニファイルの字幕版、
浜辺での消費社会批判をどなたかyoutubeにupしてくださらないでしょうか?
最後に、親愛なるカルヴィーノ(引用者注:イタリアの著名な小説家)、君にひとつ言っておきたい、
モラリストとしてではなく、分析者として。わたしの主張に対する『メッサッジューロ』紙上の君の性急
な答えのなかに、二重に不幸な一言が思わず漏れている。この一節だ。「今日の若いファシストをわたしは
知らないし、かれらと知り合う機会が訪れないように願っている」しかし、(1)当然ながら、君にはこう
いった機会は訪れないだろう。これは、列車のコンパートメントや店の行列で、路上で、パーティーで、君
が若いファシストと出会ったとしても、"君がかれらを認識しない"からでもある。(2)若いファシストと
一度も出会わないことを願うのは冒漬的だ。なぜなら、反対に我々はかれらを見つけだし、出会うために
あらゆることをしなければならないからだ。かれらは宿命として予定された(悪)の代弁者ではない。
"かれらはファシストになるために生まれてきたのではないのだ"。だれも----かれらが青年になって、
どんなものかはわからないが、なにかの理由、あるいは必要性にしたがって選択できる状態になった
とき----かれらに民族主義者としてファシストの格印を押すものはいなかった。ひとりの若者をこう
いった選択に走らせるのは、絶望と焦燥の残忍な形なのだ。そしておそらくかれの運命を違ったもの
にするには、かれの人生におけるささいな別の経験、たったひとつの出会いだけで、十分だったことだろう。
(パゾリーニ「海賊評論(一)"68年"その後」『現代詩手帳』大辻康子訳、1998.7より)
855 :考える名無しさん:2014/04/23(水) 02:22:55.80 0
最後に、親愛なるカルヴィーノ(引用者注:イタリアの著名な小説家)、君にひとつ言っておきたい、
モラリストとしてではなく、分析者として。わたしの主張に対する『メッサッジューロ』紙上の君の性急
な答えのなかに、二重に不幸な一言が思わず漏れている。この一節だ。「今日の若いファシストをわたしは
知らないし、かれらと知り合う機会が訪れないように願っている」しかし、当然ながら、君にはこう
いった機会は訪れないだろう。これは、列車のコンパートメントや店の行列で、路上で、パーティーで、君
が若いファシストと出会ったとしても、"君がかれらを認識しない"からでもある。若いファシストと
一度も出会わないことを願うのは冒漬的だ。なぜなら、反対に我々はかれらを見つけだし、出会うために
あらゆることをしなければならないからだ。かれらは宿命として予定された(悪)の代弁者ではない。
"かれらはファシストになるために生まれてきたのではないのだ"。だれも----かれらが青年になって、
どんなものかはわからないが、なにかの理由、あるいは必要性にしたがって選択できる状態になった
とき----かれらに民族主義者としてファシストの格印を押すものはいなかった。ひとりの若者をこう
いった選択に走らせるのは、絶望と焦燥の残忍な形なのだ。そしておそらくかれの運命を違ったもの
にするには、かれの人生におけるささいな別の経験、たったひとつの出会いだけで、十分だったことだろう。
(パゾリーニ「海賊評論(一)"68年"その後」『現代詩手帳』大辻康子訳、1998.7より)
855 :考える名無しさん:2014/04/23(水) 02:22:55.80 0
最後に、親愛なるカルヴィーノ(引用者注:イタリアの著名な小説家)、君にひとつ言っておきたい、
モラリストとしてではなく、分析者として。わたしの主張に対する『メッサッジューロ』紙上の君の性急
な答えのなかに、二重に不幸な一言が思わず漏れている。この一節だ。「今日の若いファシストをわたしは
知らないし、かれらと知り合う機会が訪れないように願っている」しかし、当然ながら、君にはこう
いった機会は訪れないだろう。これは、列車のコンパートメントや店の行列で、路上で、パーティーで、君
が若いファシストと出会ったとしても、"君がかれらを認識しない"からでもある。若いファシストと
一度も出会わないことを願うのは冒漬的だ。なぜなら、反対に我々はかれらを見つけだし、出会うために
あらゆることをしなければならないからだ。かれらは宿命として予定された〈悪〉の代弁者ではない。
"かれらはファシストになるために生まれてきたのではないのだ"。だれも----かれらが青年になって、
どんなものかはわからないが、なにかの理由、あるいは必要性にしたがって選択できる状態になった
とき----かれらに民族主義者としてファシストの格印を押すものはいなかった。ひとりの若者をこう
いった選択に走らせるのは、絶望と焦燥の残忍な形なのだ。そしておそらくかれの運命を違ったもの
にするには、かれの人生におけるささいな別の経験、たったひとつの出会いだけで、十分だったことだろう。
(パゾリーニ「海賊評論(一)"68年"その後」『現代詩手帳』大辻康子訳、1998.7より)
40年前のパゾリーニ監督殺害事件、再捜査で新展開 伊 写真2枚 国際ニュース:AFPBB News
http://www.afpbb.com/articles/-/3033351?pid=14893523
【12月3日 AFP】イタリアの映画監督で詩人の故ピエル・パオロ・パゾリーニ(Pier Paolo Pasolini)氏が1975年11月2日、当時17歳の青年によって殺された事件が、40年近い歳月を経て新たな展開を見せている。
2010年に事件の再捜査を始めた検察官は、パゾリーニ氏殺害で有罪判決を受けたピーノ・ペロージ(Pino Pelosi)元受刑者が、これまで述べてきた単独で同氏を殺害したという主張を覆し、別の2人の人物が同氏を殴打して殺害したと証言したという。
また2日の報道によると、パゾリーニ氏が事件当時着用していた衣服から採取されたDNAサンプルから、少なくとも3人のDNAが検出された。
多くのイタリア人は、パゾリーニ氏が同性愛者で急進的な思想を抱いていたためか、あるいは当時存在した政党「キリスト教民主主義(Democrazia Cristiana)」が支配していた権力層が同氏の作品を危険視していたために、ネオファシストの一団によって殺害されたと考えてきた。
当時、男娼だったペロージ元受刑者は裁判で、首都ローマ(Roma)近郊のリゾート地オスティア(Ostia)の海岸で、パゾリーニ氏に強姦されそうになり殺害したと証言。その後、禁錮9年の判決が言い渡された。しかし、この証言の信ぴょう性については常に疑問の声が上がっていた。
中でも、ペロージ元受刑者はパゾリーニ氏よりもかなり小柄だったため、同氏を押さえつけて激しく殴ることが可能だったのかという点が特に疑問視された。パゾリーニ氏は死亡当時、複数の骨折を負い、睾丸(こうがん)をつぶされ、さらに体の一部を焼かれた状態だった。
報道によると、ペロージ元受刑者は新たな証言で、パゾリーニ氏が所有する車から同氏と2人で降りたところで、2台の車と1台の原付自転車でやって来た少なくとも6人のグループに襲撃されたと述べている。また襲撃者たちのうち2人が、同氏を棒で叩きのめした後に車でひいたと話している。(c)AFP
40年前のパゾリーニ監督殺害事件、再捜査で新展開 伊 写真2枚 国際ニュース:AFPBB News
http://www.afpbb.com/articles/-/3033351?pid=14893523
【2014年12月3日 AFP】イタリアの映画監督で詩人の故ピエル・パオロ・パゾリーニ(Pier Paolo Pasolini)氏が1975年11月2日、当時17歳の青年によって殺された事件が、40年近い歳月を経て新たな展開を見せている。
2010年に事件の再捜査を始めた検察官は、パゾリーニ氏殺害で有罪判決を受けたピーノ・ペロージ(Pino Pelosi)元受刑者が、これまで述べてきた単独で同氏を殺害したという主張を覆し、別の2人の人物が同氏を殴打して殺害したと証言したという。
また2日の報道によると、パゾリーニ氏が事件当時着用していた衣服から採取されたDNAサンプルから、少なくとも3人のDNAが検出された。
多くのイタリア人は、パゾリーニ氏が同性愛者で急進的な思想を抱いていたためか、あるいは当時存在した政党「キリスト教民主主義(Democrazia Cristiana)」が支配していた権力層が同氏の作品を危険視していたために、ネオファシストの一団によって殺害されたと考えてきた。
当時、男娼だったペロージ元受刑者は裁判で、首都ローマ(Roma)近郊のリゾート地オスティア(Ostia)の海岸で、パゾリーニ氏に強姦されそうになり殺害したと証言。その後、禁錮9年の判決が言い渡された。しかし、この証言の信ぴょう性については常に疑問の声が上がっていた。
中でも、ペロージ元受刑者はパゾリーニ氏よりもかなり小柄だったため、同氏を押さえつけて激しく殴ることが可能だったのかという点が特に疑問視された。パゾリーニ氏は死亡当時、複数の骨折を負い、睾丸(こうがん)をつぶされ、さらに体の一部を焼かれた状態だった。
報道によると、ペロージ元受刑者は新たな証言で、パゾリーニ氏が所有する車から同氏と2人で降りたところで、2台の車と1台の原付自転車でやって来た少なくとも6人のグループに襲撃されたと述べている。また襲撃者たちのうち2人が、同氏を棒で叩きのめした後に車でひいたと話している。(c)AFP
http://ci.nii.ac.jp/naid/110007467279
『異端的経験論』にみるパゾリーニのシナリオ論
LA TEORIA PASOLINIANA DELLA SCENEGGIATURA IN EMPIRISMO ERETICO
野村 雅夫
NOMURA MASAO
大阪大学大学院
パゾリーニ『奇跡の丘』
ちなみに好きな詩を見つけてその理由を説明できるようになりなさい
それが教師時代のパゾリーニの教えだった
白井(佳夫) パゾリーニはお好きですか。
黒澤 好きですよ。だんだん難解になってきたけれどもね。
山田(宏一) どの辺がお好きなんですか。
黒澤 ぼくはやっぱり一番好きなのは『奇跡の丘』〔一九六四年〕かな。その後は、変ったことをしなければいけない、という風になっちゃった気がするね。どうも、そういう変な風潮が世界全体にあるね。そうじゃなくて、もっとわかりやすくて、ちゃんとしたことをいえて、いいんだと思うんだ。あまりにも、みんな異様なことをすることによって自己主張しようとする傾向が、映画だけじゃなくて一般に、出てきている。これはぼくは本道じゃないと思う。自然に異様なものが当然生まれてくる場合もありますがね。そうじゃなくて、無理をして、わからなく、不可解にしているような感じがしますね。
大系黒澤明第2巻518頁
どですかでん公開時の座談会より
白井(佳夫) パゾリーニはお好きですか。
黒澤 好きですよ。だんだん難解になってきたけれどもね。
山田(宏一) どの辺がお好きなんですか。
黒澤 ぼくはやっぱり一番好きなのは『奇跡の丘』〔一九六四年〕かな。その後は、変ったことをしなければいけない、という風になっちゃった気がするね。どうも、そういう変な風潮が世界全体にあるね。そうじゃなくて、もっとわかりやすくて、ちゃんとしたことをいえて、いいんだと思うんだ。あまりにも、みんな異様なことをすることによって自己主張しようとする傾向が、映画だけじゃなくて一般に、出てきている。これはぼくは本道じゃないと思う。自然に異様なものが当然生まれてくる場合もありますがね。そうじゃなくて、無理をして、わからなく、不可解にしているような感じがしますね。
大系黒澤明第2巻518頁
どですかでん公開時の座談会より
(初出「キネマ旬報』一九七〇年九月下旬号)
Yuji Nishiyama (@yuji_nishiyama)
2018/05/03 5:47
高等師範学校の中庭にて、大学改革に反対する討論会「大学の死」。注目は哲学者ジョルジョ・アガンベンの参加。夕方に自著『業(カルマ)』をめぐる講演があり、そのまま討論会に合流。パゾリーニの例を引きながら、従来の意味とは異なる「アクション」を再考しよう、と語った。 pic.twitter.com/I7JH6YCtlK
https://twitter.com/yuji_nishiyama/status/991781353195700225
パゾリーニ「不純行為」#2『愛しいひと』42~3頁より
AMADO MIO preceduto da ATTI IMPURIby Pier Paolo Pasolini
一月からぼくらは芝居のけいこを始めた。民話劇『子供たちと小妖精(エールフィ)たち』で、戦争が終わったらすぐにもカスティッリオーネで公演するつもりで、ぼくがそのために書きおろしたものだ。あの日々のけいこはぼくの少年たちにとって無上の喜びの瞬間をなしたし、思うに彼らは大人になってからも、自分たちの少年期のある種の象徴(エンブレム)として思い出すことだろう。ニシューティは小妖精のひとりで、ぼく自身は人喰い鬼(オールコ)だった。しかし民話の筋立ても言っておかなければならない。なん人かの小妖精が、父親の人喰い鬼と一緒に、森の真ん中で、追い剥ぎをして暮らしていたが、ときたま人を喰うこともあった。いまは彼らの掘っ立て小屋の前、緞帳下の空き地にいる。舞台に立った彼らはまちがいなしにいじわるで皮肉屋で邪悪な役に扮するのだけれども、と同時に感じのよい少年たちであってもよい。するとそこに歌声が聞こえてくる。子供が二人、家出をして、冒険を求めて森に入り込んだのだ。人喰い鬼と小妖精たちは子供の声を聞きつけて、身を隠す。そしてあの二人が野営地にさしかかったとたん、跳び出して彼らを生け捕りにしてしまう。人喰い鬼がなにがしか悪事をはたらきにでかけているあいだ、捕虜の番をするのは小妖精たちの役目だ。こうして戯曲の核心にぼくらは入る。「よい」世界があることを子供たちが小妖精たちに明かして見せることに、この戯曲の核心はあるのだけれども、はたしてどうやって? 小妖精たちに遊びを教えることを通して。小妖精たちはだんだんに子供たちの遊びにひきこまれていく。そしてとうとうみな一緒に逃げ出す決心をする。ちょうどそのとき子供たちの叔父さんが折よくふいにやって来たので。だが、なんとしたことか、いちばん肝心なときになって人喰い鬼が帰ってきて叔父さんと決闘をはじめる。この果たしあいは初めのうちこそ互いにお世辞と善意の抗議でしのぎを削っていたのに、やがて公然と険悪になって、グロテスクな闘いから凄まじい闘いへと変化する。しかし人喰い鬼が虎、怪物、ジャッカルなどの助勢を求めてよばわると、森からは小鳥たちのさえずりとヴァイオリンの音色が彼にこたえ、人喰い鬼が闇と嵐を求めると、あたり一面に燦然と光がふりそそぎ、ついに絶望しきった彼がおこがましくもその山刀に訴えると、袋のなかにあるのは山刀のかわりにパイプだ。よいひとも改心したひとも歌いながら退場する。
スピノザ
あなたは "倫理"を覚えていますか?
「私たちは苦しんでいる
考えられない自然の一部
それ以外には...»
JULIAN
«何かが私たちの中で起きた時、私たちは苦しんでいると言われています。
そのうちの私たちは部分的な原因を除いて... "いいよ!
スピノザ
私はReasonの最初の哲学者(デカルト以来
すでに条件付けされていた)私は言う必要があります: "話す、食べる、
目を覚まし、仕事、行動、消えないでください。
しかし、私の理性の目的は神でした。
私はあなたが真実のための飢えによって生きているふりをすることはできません。
だからあなたが死ぬなら、これがあなたを喜ばせるならば、世界を離れる。
JULIAN
Herdhitze氏とKlotz氏の世界から?
スピノザ
Herdhitze氏とKlotz氏の世界から
[逆
JULIAN
私はすでにこの反対の陰謀の外だった。
スピノザ
しかし、 本当にそれを入力することなく。
JULIAN
確かに良い理由があるでしょう。
スピノザ
はい、あなたが今日あったはずのものの予測は、
あなたが毎日来たこの豚舎で
あなたはどこでオナニーのように失ったのですか?
または神秘的な猛反動で、世界との関係。
855 :考える名無しさん:2014/04/23(水) 02:22:55.80 0
最後に、親愛なるカルヴィーノ(引用者注:イタリアの著名な小説家)、君にひとつ言っておきたい、
モラリストとしてではなく、分析者として。わたしの主張に対する『メッサッジューロ』紙上の君の性急
な答えのなかに、二重に不幸な一言が思わず漏れている。この一節だ。「今日の若いファシストをわたしは
知らないし、かれらと知り合う機会が訪れないように願っている」しかし、当然ながら、君にはこう
いった機会は訪れないだろう。これは、列車のコンパートメントや店の行列で、路上で、パーティーで、君
が若いファシストと出会ったとしても、"君がかれらを認識しない"からでもある。若いファシストと
一度も出会わないことを願うのは冒涜的だ。なぜなら、反対に我々はかれらを見つけだし、出会うために
あらゆることをしなければならないからだ。かれらは宿命として予定された〈悪〉の代弁者ではない。
"かれらはファシストになるために生まれてきたのではないのだ"。だれも----かれらが青年になって、
どんなものかはわからないが、なにかの理由、あるいは必要性にしたがって選択できる状態になった
とき----かれらに民族主義者としてファシストの格印を押すものはいなかった。ひとりの若者をこう
いった選択に走らせるのは、絶望と焦燥の残忍な形なのだ。そしておそらくかれの運命を違ったもの
にするには、かれの人生におけるささいな別の経験、たったひとつの出会いだけで、十分だったことだろう。
(パゾリーニ「海賊評論(一)"68年"その後」『現代詩手帳』大辻康子訳、1998.7より)
855 :考える名無しさん:2014/04/23(水) 02:22:55.80 0
最後に、親愛なるカルヴィーノ(引用者注:イタリアの著名な小説家)、君にひとつ言っておきたい、
モラリストとしてではなく、分析者として。わたしの主張に対する『メッサッジューロ』紙上の君の性急
な答えのなかに、二重に不幸な一言が思わず漏れている。この一節だ。「今日の若いファシストをわたしは
知らないし、かれらと知り合う機会が訪れないように願っている」しかし、当然ながら、君にはこう
いった機会は訪れないだろう。これは、列車のコンパートメントや店の行列で、路上で、パーティーで、君
が若いファシストと出会ったとしても、"君がかれらを認識しない"からでもある。若いファシストと
一度も出会わないことを願うのは冒涜的だ。なぜなら、反対に我々はかれらを見つけだし、出会うために
あらゆることをしなければならないからだ。かれらは宿命として予定された〈悪〉の代弁者ではない。
"かれらはファシストになるために生まれてきたのではないのだ"。だれも----かれらが青年になって、
どんなものかはわからないが、なにかの理由、あるいは必要性にしたがって選択できる状態になった
とき----かれらに民族主義者としてファシストの烙印を押すものはいなかった。ひとりの若者をこう
いった選択に走らせるのは、絶望と焦燥の残忍な形なのだ。そしておそらくかれの運命を違ったもの
にするには、かれの人生におけるささいな別の経験、たったひとつの出会いだけで、十分だったことだろう。
(パゾリーニ「海賊評論(一)"68年"その後」『現代詩手帳』大辻康子訳、1998.7より)
twitt
(略)現存在として実存するとは次のことを意味する。現存在が「開け」られて
いることからもろもろの所与がそれに向かって語りかけてくるが、その意味指示性を認取しうる
ことによってある領域を開けたままにしておくというのがその意味である。
ソドムの市
http://www5b.biglobe.ne.jp/~satonaka/sodom.htm
劇中、大統領達は警備の若者に対しては奴隷の若者達とは違い、信頼を置いて いるフシがあった。パゾリーニは学生運動で学生と機動隊が衝突した際に、真の プロレタリアートは機動隊だと論陣を張ったことがあった。だからもしかしたら その機動隊の若者を警備の若者に重ねあわているのではないかと考えたりもした。
しかしそうではないのである。どちらかと言えば警備の若者は学生達に重ね合 わさる。ブルジョワの子弟である学生、ファシストの手先である警備の若者。彼 等は大統領達に交わって、あの狂乱の宴を何の抵抗もなく楽しんでいるではない か。
そして映画のラスト、彼等はパゾリーニ自身が極めつけのファシスト音楽だと 言っていたカール・オルフの『カルミナ・ブラーナ』の甘い調べの中、ダンスを 踊る。壁には機械・速度・ダイナミズムの美を掲げ、過去の文化遺産や伝統をこ とごとく否定したという未来派の画がかかっている。
彼等の会話は相手の彼女の名前を聞くという貧弱なものでしかない。彼等はパ ゾリーニが『海賊評論』で例に挙げている均質化されてしまった若者でしかない のだ。彼等の貧しい会話が交わされた途端、映画は唐突に終わる‥‥。
西浜のアカウント
@Lisa__Lisa__
その昔パゾリーニが、デモで衝突する大学生(ブルジョア出身)と機動隊(貧困層出身)について「本物のプロレタリアートは機動隊員のほうだ」と言ったという話があるわけですが、いまの日本の機動隊員ってどういう出自の人が多いんでしょう
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২:০০ PM · ২ জুলাই, ২০১২·Twitter for iPhone
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詩人、映画監督にして「マルクス主義者」でもあるパゾリーニの『イタリア共産党を若者の手に!』という詩が面白い。学生と機動隊が衝突し、ブルジョアジャーナリズムが一斉に学生側を支持、これに反発したパゾリーニは、学生はブルジョアの出であるという理由で労働者階級の出の警官の側に立つという
四方田訳詩集
389頁~
https://www.amazon.co.jp/パゾリーニ・コレクション-ソドムの市(オリジナル全長版)-DVD-パオロ・ボナッチェッリ/
product-reviews/B07V4FTTFS/ref=cm_cr_arp_d_paging_btm_next_2?ie=UTF8&reviewerType=all_reviews&pageNumber=2
5つ星のうち5.0 回収された映画(ネタばれあり)
2006年12月5日に日本でレビュー済み
ロラン・バルトはこの映画を回収されない映画と評したが、実はこの映画はパゾリーニ自身によって回収されているのだ。「宗教的行為を行ったら死刑」という定理(byドゥルーズ)にもかかわらず、映画の最後で青年が踊りながら「マルガリータ」という婚約者の名前を言う。これはゲーテによって神聖かつ宗教的な名前として知られている名前だから、青年の発話は宗教的な行為であり映画もここで(定理にしたがって)終わって当然なのだ。パゾリーニは自らの「生の三部作」(パゾリーニ初心者にはこちらを勧める)に楔を打ち込み、自らの性的嗜好と政治的倒錯を回収したのだ。
ファシズムを非現実化し、サドを現実化したというバルトの更なる批判は正しいが、「消費社会こそ真のファシズム」であるというパゾリーニのことばの方が更なる重みを持つと思うのは私だけだろうか?
モンタージュでごまかしているので俳優に実際に倒錯的行為はさせていないこの映画を見て、個人的にはたいへん元気をもらった。
http://nam-students.blogspot.com/2015/08/blog-post_47.html?m=0
黒澤明とパゾリーニ
バゾリーニは黒澤明をあまり好きではなく、市川崑、溝口健二を絶讃していた。
黒澤明はキネ旬黒澤明集成2or3の座談会で『奇跡の丘』はいいがあとはわからないという旨の発言をしていた。
ただ『乱』と『豚小屋』は心象風景として近いものがある。パゾリーニがシナリオを書いたベルトルッチの『殺し』も『羅生門』に似ている。
そして、
(これを書きたかったのだが)黒澤明没後の黒澤家はまるで『テオレマ』のようでもある。
以前ある黒澤明のファンサイトが著作権問題で騒がれたことがあったが、別のパゾリーニのファンサイトの管理人のようにサイトの管理人が公式の宣伝マンになればよかった…資本に対する分析が足りない。
追記:
全然関係ないが昔、落合信彦?と淀川長治の対談を読んだ記憶がある。
淀川長治が映画を精神の共産主義と呼んでいた。何処かで再読できないだろうか?
blogger-image--1845646599.jpg
サン=山人?
POSTED BY YOJI AT 7:58 午後 icon18_email.gif
2 COMMENTS:
Blogger yoji said...
黒澤明ファンサイトが著作権侵害と炎上し廃止なったことがある
パゾリーニファンサイトは運営者がパゾリーニdvdの解説を書いたり、宣伝の一環として生き残った
マルクス主義を通過した方が生き残った
黒澤明もプルードンに近いのだがファンは鈍感だ
4:04 午前
Blogger yoji said...
シネフィルDVD
@cinefilDVD
「私は溝口同様黒澤も好きではありません。ですが、市川崑の映画は好きです。『ビルマの竪琴』はすばらしい映画でしたし、オリンピックの映画もよかったですね」ピエル・パオロ・パゾリーニ(「パゾリーニとの対話」ジョン・ハリデイより) pic.twitter.com/BWFGMwQrZG
2015/06/11 14:03
https://twitter.com/cinefildvd/status/608862116167077888?s=21
iPhoneから送信
溝口もすきではなかった
3:15 午前
Amazon.co.jp: Su Pasolini. Conversazioni con Jon Halliday
https://www.amazon.co.jp>Pasolini-Conversazioni-Jon-H...
本の詳細 · 本の長さ. 160ページ · 言語. イタリア語 · 出版社. Guanda · 発売日. 1992/9/21 · 寸法. 14.2 x 1.4 x 22 cm · ISBN-10. 8877466227 · ISBN-13. 978- ...
評価:
3.5
-
3件のレビュー
Pasolini par Pasolini : entretiens avec Jon Halliday
https://www.francetosho.com>...
Pasolini par Pasolini : entretiens avec Jon Halliday. 商品説明. préf. Nico Naldini. trad. de l'anglais et de l'italien, annoté et postf. René de Ceccatty ...
Conversazioni con Jon Halliday - Pier Paolo Pasolini ...
https://books.rakuten.co.jp>...
Il cinema, il rapporto col cinema e col suo mondo è l'argomento principale di queste conversazioni tra il critico inglese Jon Halliday e Pier Paolo Pasolini ...
『Su Pasolini. Conversazioni con Jon Halliday』|ネタバレありの ...
https://bookmeter.com>books
P. Paolo Pasolini『Su Pasolini. Conversazioni con Jon Halliday』のネタバレありの感想・レビュー一覧です。
『Su Pasolini. Conversazioni con Jon Halliday』|感想・レビュー ...
https://bookmeter.com>books
P. Paolo Pasolini『Su Pasolini. Conversazioni con Jon Halliday』の感想・レビュー一覧です。ネタバレを含む感想・レビューは、 ...
Pasolini su Pasolini. Conversazioni con Jon Halliday - Pier ...
https://www.ibs.it>pasolini-su-pasoli...
Halliday ritraccia con Pasolini l'intero suo percorso di regista, illustrandone la concezione del "cinema d'autore", affrontando gli aspetti tecnici, ...
溝口好きは確か
邦訳は誤訳
https://books.google.co.jp/books?newbks=1&newbks_redir=0&redir_esc=y&hl=ja&id=Qn4cAQAAIAAJ&dq=pasolini+jon++Halliday%E3%80%80&focus=searchwithinvolume&q=kurosawa
Pasolini su Pasolini: conversazioni con Jon Halliday
Pier Paolo Pasolini, Jon Halliday
Guanda, 1992 - 157 ペー
123
P. - Sfortunatamente, pochissimi film giapponesi arrivano in Italia. Non posso dire di amare Kurosawa proprio quanto Mizoguchi, ma mi è piaciuto quello che ho visto di Kon Ichikawa: L'arpa birmana era un film bellissimo, e molto bello era anche il film sulle Olimpiadi.
P. - Unfortunately, very few Japanese films make it to Italy. I can't say I love Kurosawa quite as much as Mizoguchi, but I liked what I saw of Kon Ichikawa: The Burmese Harp was a beautiful film, and the film about the Olympics was also very good.
P. - 残念ながら、日本映画はイタリアにほとんど入ってこない。
私は溝口ほど黒澤が好きだとは言えないが、市川崑監督の作品は好きだった:
ビルマの竪琴』は美しい映画だったし、オリンピックの映画もとても良かった。
白井[佳夫] パゾリーニはお好きですか。
黒澤[明] 好きですよ。 だんだん難解になってきたけれどもね。
山田[宏一] どの辺がお好きなんですか。
黒澤 ぼくはやっぱり一番好きなのは「奇跡の丘」かな。その後は、変ったことをしなければいけない、という風になっちゃった気がするね。 どうも、そういう変な風潮が世界全体にあるね。 そうじゃなくて、もってわかりやすくて、ちゃんとしたことをいえて、いいんだと思うんだ。あまりにも、みんな異様なことをすることによって自己主張しようとする傾向が、映画だけじゃなくて一般に、出てきている。これはぼくは本道じゃないと思う。自然に異様なものが当然生まれてくる場合もありますがね。 そうじゃなくて、無理をして、わからなく、不可解にしているような感じがしますね。
『黒澤明集成3』キネマ旬報1993年
Kurosawa: I think my favorite film is "Miracle on the Hill. After that, I feel that we are now obliged to do something strange. There is such a strange tendency in the world as a whole. I think it's good to be able to say things that are easy to understand and proper. There is a tendency for people to assert themselves by doing things that are too bizarre, not only in films but in general. I don't think this is the way to go. There are cases in which something bizarre is naturally born. Instead, it seems to me that they are forcing things to be incomprehensible and inexplicable. Yoshio Shirai] Do you like Pasolini?
Akira Kurosawa: Yes, I do. Although it is getting more and more difficult to understand.
Yamada[Koichi] Which part do you like?
KUROSAWA I think my favorite is "The Miracle on the Hill. After that, I feel that we had to do something strange. There is such a strange tendency in the world as a whole. I think it's good to be able to say things that are easy to understand and proper. There is a tendency for people to assert themselves by doing things that are too bizarre, not only in films but in general. I don't think this is the way to go. There are cases in which something bizarre is naturally born. I feel that they are forcing themselves to make it incomprehensible and inexplicable.
Akira Kurosawa Collection 3," Kinema Junpo, 1993
- Do you like Pasolini?
Akira Kurosawa: Yes, I do. Although it is getting more and more difficult to understand.
- Which part do you like?
K: I think my favorite is "The Gospel According to St. Matthew”. After that, I feel that we had to do something strange. There is such a strange tendency in the world as a whole.
『黒澤明集成3』キネマ旬報1993年223頁
slowslow2772
@slowslow2772
Do you like Pasolini?
Akira Kurosawa: Yes, I do. Although it is getting more and more difficult to understand.…My favorite is "…St. Matthew”. After that, I feel that we had to do something strange. There is such a strange tendency in the world as a whole.
『黒澤明集成3』223 pic.twitter.com/VBBSznrwK3
2023/12/07 15:13
https://x.com/slowslow2772/status/1732644358548304011?s=61
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