土曜日, 4月 27, 2013

ニーチェ:インデックス

                       (リンク:::::::::


NAMs出版プロジェクト: ニーチェ『ツァラトゥストラ』
http://nam-students.blogspot.jp/2013/04/blog-post_27.html

テオグニス、シレノス
https://freeassociations2020.blogspot.com/2022/04/theognis-6600540.html

NAMs出版プロジェクト: 権力への意志
http://nam-students.blogspot.jp/2016/10/blog-post_26.html

NAMs出版プロジェクト: キルケゴール:メモ
http://nam-students.blogspot.jp/2012/01/blog-post_28.html 

NAMs出版プロジェクト: ニーチェ:メモ(シュタイナー)
http://nam-students.blogspot.jp/2012/01/blog-post_5.html

NAMs出版プロジェクト: ニーチェ『善悪の彼岸』2:20
http://nam-students.blogspot.jp/2015/10/20.html

ニーチェ(『道徳の系譜』)、ドゥルーズ(『ニーチェと哲学』)
http://nam-students.blogspot.jp/2015/09/httpnam-students.html

作曲者ニーチェ
http://nam-students.blogspot.jp/2011/02/blog-post_17.html

老子の受容史(西洋編):メモ
http://nam-students.blogspot.jp/2013/05/blog-post_4.html

NAMs出版プロジェクト: 仏教:メモ
http://nam-students.blogspot.jp/2016/12/blog-post_1.html

Mahler: Symphony 3, movement 4 (Nietzsche: Midnight Song)

http://www.youtube.com/watch?v=GZ4MtSIvK_4

"O Mensch! Gib acht"
http://sp.nicovideo.jp/watch/sm20934554


グスタフ・マーラー   Gustav Mahler ( 1860 - 1911 ) オーストリア

「 おお人間よ! 心せよ 」
           交響曲第3番第四楽章より
O Mensch! Gib acht  

      詩: フリードリッヒ・ニーチェ

おお人間よ! おお人間よ! 
心せよ! 心せよ!
何を語っているのか 深い真夜中は?
「われは眠っていた われは眠っていた
深き夢より われは目覚める
世界は深い
はるかに深いのだ 昼間が考えていたよりもずっと
おお人間よ! おお人間よ! 
深い 深い 深いのはその苦悩 深いのはその苦悩
だが快楽は -心の苦悩よりなお深いのだ
苦悩は語る:消え去れ!と
だがあらゆる快楽は永遠を求める
深い 深い永遠を求めるのだ!」

O Mensch! O Mensch!
Gib acht! Gib acht!
Was spricht,die tiefe Mitternacht?
"Ich schlief,ich schlief
Aus tiefem Traum bin ich erwacht!
Die Welt ist tief!
und tiefer,als der Tag gedacht!
O Mensch! O Mensch!
Tief ! Tief ! Tief ist ihr Weh!,Tief ist ihr Weh!,
Lust Lust tiefer noch als Herzeleid!
Weh spricht: Vergeh! Weh spricht: Vergeh!
Doch alle Lust will Ewigkeit -,
will tiefe,tiefe Ewigkeit!"


詩の出典は『ツァラトゥストラ』第三部 61 第二の舞踏の歌 Das andere Tanzlied より。第四部 81 酔歌 Das trunkne Lied でも出てくる。 いずれも各部最終章から一つ前の章の大事なところで掲げられる詩である。以下で紹介するようにニーチェの石碑にも使われている。







Der Nietzsche-Stein bei Surlej am Silvaplanersee
The "Zarathustra Rock" at Lake Silvaplana 


ある日私はシルヴァプラーナ湖に沿って森を幾つか通り抜けていった。スールレイ近くにピラミッド型をして聳えている巨大な岩があり、私はそばで休止した。そのとき、この思想が私に到来したのであった(『この人を見よ』ツァラトゥストラはこう語った) 

_____

名言・格言『フリードリヒ・ヴィルヘルム・ニーチェさんの気になる言葉+英語』一覧リスト
http://iso-labo.com/labo/words_of_FriedrichWilhelmNietzsche.html

There are no facts, only interpretations.

事実というものは存在しない。存在するのは解釈のみである。
Friedrich Nietzsche - Wikiquote
https://en.wikiquote.org/wiki/Friedrich_Nietzsche

  • There are no facts, only interpretations.
    • Notebooks (Summer 1886 – Fall 1887)
    • Variant translation: Against that positivism which stops before phenomena, saying "there are only facts," I should say: no, it is precisely facts that do not exist, only interpretations…
      • As translated in The Portable Nietzsche (1954) by Walter Kaufmann, p. 458




90 Comments:

Blogger yoji said...

モジトル:2009年09月 - ライブドアブログ - Livedoor
スールレイ村より右方向へ向かえば、超お金持ち滞在のサン・モリッツ(St.Moritz)は車 で5分くらい。 お宿から歩い ... ここは「ニーチェ博物館」でした… ... 場所としては Silvaplana・シルヴァプラーナと橋でつながる

湖の対岸でSurlej・スールレイ。

3:37 午前  
Blogger yoji said...

永劫回帰を思いつく直前、ニーチェはスピノザを発見しています。
ニーチェとスピノザに関しては、(すぐにニーチェがスピノザの理性主義に反発して決別するので無理もないですが)入門書ではほとんど語られないが最重要項目だと思います。
(それでも講談社学術文庫『ニーチェ』(山崎庸佑)、中公新書『ニーチェ』(藤田健治)は少しスピノザに言及していますが。)

「僕はすっかりびっくりして、うっとりしているんだ! 僕には先駆者がいるのだ、なんという先駆者だろう! 僕はほとんどスピノザを知らなかった、僕がいまスピノザをもとめたというのは、ひとつの「本能的な行為」であったのだ。彼の傾向がすべて、――認識をもっとも力づよい情熱とする――僕の傾向にそっくりというだけではない。彼の説の五つの主要な点に僕は僕の姿をみたのだ。この最も異質な最も孤独な思想家は、まさに僕にもっとも近い、――彼は意志の自由を否定する、目的を、道徳的世界秩序を、非利己的なものを、そして悪を否定する。………つまりだね、高い高い山に登った時のように、ときどき僕の息を詰まらせたり、僕の血を流させたりした僕の孤独が、少なくともいまは、二人連れの孤独なのだ――ふしぎだね!」
(ニーチェ。1881年7月30日、オーヴァーベック宛て書簡。ちくま文庫ニーチェ全集別巻1上500頁より)

ヨベル『異端の系譜』によれば、のちにニーチェの力への意志がスピノザのコナトゥスに、運命愛が知的愛に対抗して提出される。隠者志向=ツァラツストゥラといった相似点も見出せます。

3:57 午前  
Blogger yoji said...

漫画の出来がいい
知識ゼロからのニーチェ入門 [単行本]
ttp://www.amazon.co.jp/dp/4344902599/

4:03 午前  
Blogger yoji said...

<根本概念「永劫回帰思想」は、これまで達することのできなかった至高の肯定である。この考えがひらめいたのは、1881年の8月のことであった。わたしは1 枚の紙切れに、大急ぎでメモをとり、追記として「人間と時間とを超えて横たわる六千フィート」と書いた。その日わたしは、シルヴァプラーナ湖のそばの林を散歩していた。わたしはスルライ村からさほど離れていない大きなピラミッド型をした岩のそばで立ち止まった。まさにそのとき、この考えがひらめいたのであった。>
(『この人を見よ』より 参考:http://blog.tane1q.com/?eid=536744)

4:11 午前  
Blogger yoji said...


http://www.youtube.com/watch?v=GZ4MtSIvK_4


グスタフ・マーラー   Gustav Mahler ( 1860 - 1911 ) オーストリア

「 おお人間よ! 心せよ 」
           交響曲第3番より
O Mensch! Gib acht  

      詩: フリードリッヒ・ニーチェ

おお人間よ! おお人間よ! 
心せよ! 心せよ!
何を語っているのか 深い真夜中は?
われは眠っていた われは眠っていた
深き夢より われは目覚める
世界は深い
はるかに深いのだ 昼間が考えていたよりもずっと
おお人間よ! おお人間よ! 
深い 深い 深いのはその苦悩 深いのはその苦悩
だが快楽は -心の苦悩よりなお深いのだ
苦悩は語る:消え去れ!と
だがあらゆる快楽は永遠を求める
深い 深い永遠を求めるのだ!
http://s3.amazonaws.com/static2.postcrossing.com/postcard/medium/9cadfd26daae9cf27dac3751ac2ed666.jpg
http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/2/25/Nietzsche-Stein_01.jpg

4:22 午前  
Blogger yoji said...

ニーチェの闘争は法廷モデル
(だからドゥルーズはカントの批判をニーチェが受け継いでいると言った)
電波系ではない

4:38 午前  
Blogger yoji said...

ニーチェの闘争は法廷モデル
(だからドゥルーズはカントの批判をニーチェが受け継いでいると言った)
勘違いされているが電波系ではない

4:39 午前  
Blogger yoji said...

ニヒリズムという語は、1733年にドイツ人Friedrich Lebrecht GoetzがDe nonismo et nihilismo in theologia caeterisque eruditionis partibus obviotというラテン語の書でラテン語で用いている。連続論に対置された原子論の意味だった。今まで最高の価値と人々がみなし、目的としていたものが無価値となった歴史的事態のことを言うときが多い。 心理学者を自認するニーチェによれば、ニヒリズムは上記のような「精神状態」で、2080年ごろまで続くことになるが、このニヒリズムにおいて私たちが取りうる態度は大きく分けて2つある。
すべてが無価値・偽り・仮象ということを前向きに考える生き方。つまり、自ら積極的に「仮象」を生み出し、一瞬一瞬を一所懸命生きるという態度(強さのニヒリズム、能動的ニヒリズム)。
何も信じられない事態に絶望し、疲れきったため、その時々の状況に身を任せ、流れるように生きるという態度(弱さのニヒリズム、受動的ニヒリズム)。
ニーチェは前者を肯定し、永遠回帰の思想の下、自らを創造的に展開していく、鷲の勇気と蛇の知恵を備えた「超人」になることをすすめた。社会的には、どんな事態でも傍観する姿勢から、ある種の攻撃性があると考える。キリスト教をニーチェがニヒリスティックだとして批判するときは、現世を無化矮小化しているという意味での、ニーチェ固有の語法でのニヒリズムを見ている。
ハイデガーによれば、ニヒリズムの温床は、現実や現世からの超越を主張する形而上学的立場だとされる。したがって「ニヒリズムの超克」という視点は、キリスト教サイドから、それ自身がニヒリズムだとされた。そのため、キリスト教ニヒリズムの克服を主張したニーチェは「ヨーロッパで最初の完全なニヒリスト」とも見なされる。「ニーチェの最も過激な門人」と評されるエルンスト・ユンガーは、現代世界は、ニヒリズムの境界を通過したと言い、ハイデガーとニヒリズム論を交換している。

3:29 午前  
Blogger yoji said...

[
>>553
「完全な無神論は完全な信仰へ至る道」(ドストエフスキー
『悪霊』)っていうような否定神学的
態度のことだろ?

6:35 午後  
Blogger yoji said...

(ドゥルーズのニーチェ解釈はどちらかと言えばスピノザ寄りだが)
ライプニッツの多元論とスピノザの一元論を折衷し得たのが永遠回帰
超人思想=進化論への内在的反措定でもある

5:35 午後  
Blogger yoji said...


http://oshiete.goo.ne.jp/qa/3307676.html
No.6
0件
回答者:noname#116065回答日時:2007/09/02 09:33
少しだけ挙げるとするなら
「新ジャングルの王者ターちゃん」
「まじかる☆タルるートくん」

ドラゴンボールの天下一武道会の要素をジャンプ編集部が悪用し始めてからこの手のトーナメント戦はジャンプの定番となりましたね。
幽遊白書同様元々そういった漫画じゃなかったのに人気がいまひとつ伸びなかったりマンネリ化してきたらよくこの手を使う。

7:48 午後  
Blogger yoji said...

790 7/2(火)02:34 O
真の男性は二つのものを、すなわち
危険と遊戯を求める。
だから
彼は女性を最も危険な玩具として求める。
(ツァラトストラ)
791 7/2(火)02:45 O
結婚は、
偉大な愛の能力も
偉大な友情の能力もない
平均的人間のために、
それゆえ大多数の者のために
考えだされた。
しかし愛と友情の双方の能力を持つ
あの極めて小数の者のためにも
考えだされた。(遺稿)

2:09 午後  
Blogger yoji said...

790 7/2(火)02:34 O
真の男性は二つのものを、すなわち
危険と遊戯を求める。
だから
彼は女性を最も危険な玩具として求める。
(ツァラトストラ)
791 7/2(火)02:45 O
結婚は、
偉大な愛の能力も
偉大な友情の能力もない
平均的人間のために、
それゆえ大多数の者のために
考えだされた。
しかし愛と友情の双方の能力を持つ
あの極めて小数の者のためにも
考えだされた。(遺稿)

2:09 午後  
Blogger yoji said...

790 7/2(火)02:34 O
真の男性は二つのものを、すなわち
危険と遊戯を求める。
だから
彼は女性を最も危険な玩具として求める。
(ツァラトストラ)
791 7/2(火)02:45 O
結婚は、
偉大な愛の能力も
偉大な友情の能力もない
平均的人間のために、
それゆえ大多数の者のために
考えだされた。
しかし愛と友情の双方の能力を持つ
あの極めて小数の者のためにも
考えだされた。(遺稿)

2:09 午後  
Blogger yoji said...

790 7/2(火)02:34 O
真の男性は二つのものを、すなわち
危険と遊戯を求める。
だから
彼は女性を最も危険な玩具として求める。
(ツァラトストラ)
791 7/2(火)02:45 O
結婚は、
偉大な愛の能力も
偉大な友情の能力もない
平均的人間のために、
それゆえ大多数の者のために
考えだされた。
しかし愛と友情の双方の能力を持つ
あの極めて小数の者のためにも
考えだされた。(遺稿)

2:09 午後  
Blogger yoji said...


http://blogs.dion.ne.jp/le_fou/archives/9536577.html
「そういう批判は当たり前だと思ってましたけど、ちょうど合宿中に読んだ本で、
『キノコは風通りの悪いところに生える』って。僕の好きな、フリードリヒ
・ニーチェというドイツの哲学者がいるんですけど、その人が批判とか意見って
いうのはね、そういうのがなければ、人間は成長しないって。その言葉を僕は大好きで」

10:26 午前  
Blogger yoji said...


http://www.youtube.com/watch?v=GZ4MtSIvK_4


グスタフ・マーラー   Gustav Mahler ( 1860 - 1911 ) オーストリア

「 おお人間よ! 心せよ 」
           交響曲第3番より
O Mensch! Gib acht  

      詩: フリードリッヒ・ニーチェ

おお人間よ! おお人間よ! 
心せよ! 心せよ!
何を語っているのか 深い真夜中は?
われは眠っていた われは眠っていた
深き夢より われは目覚める
世界は深い
はるかに深いのだ 昼間が考えていたよりもずっと
おお人間よ! おお人間よ! 
深い 深い 深いのはその苦悩 深いのはその苦悩
だが快楽は -心の苦悩よりなお深いのだ
苦悩は語る:消え去れ!と
だがあらゆる快楽は永遠を求める
深い 深い永遠を求めるのだ!
http://s3.amazonaws.com/static2.postcrossing.com/postcard/medium/9cadfd26daae9cf27dac3751ac2ed666.jpg
http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/2/25/Nietzsche-Stein_01.jpg



第三部
61 第二の舞踏の歌
Das andere Tanzlied
より

8:35 午前  
Blogger yoji said...


http://www.youtube.com/watch?v=GZ4MtSIvK_4


グスタフ・マーラー   Gustav Mahler ( 1860 - 1911 ) オーストリア

「 おお人間よ! 心せよ 」
           交響曲第3番第四楽章より
O Mensch! Gib acht  

      詩: フリードリッヒ・ニーチェ

おお人間よ! おお人間よ! 
心せよ! 心せよ!
何を語っているのか 深い真夜中は?
われは眠っていた われは眠っていた
深き夢より われは目覚める
世界は深い
はるかに深いのだ 昼間が考えていたよりもずっと
おお人間よ! おお人間よ! 
深い 深い 深いのはその苦悩 深いのはその苦悩
だが快楽は -心の苦悩よりなお深いのだ
苦悩は語る:消え去れ!と
だがあらゆる快楽は永遠を求める
深い 深い永遠を求めるのだ!
http://s3.amazonaws.com/static2.postcrossing.com/postcard/medium/9cadfd26daae9cf27dac3751ac2ed666.jpg
http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/2/25/Nietzsche-Stein_01.jpg



第三部 61 第二の舞踏の歌 Das andere Tanzlied より

第四部 81 酔歌 Das trunkne Lied でも出てくる

いずれも各部最終章から一つ前の大事なところである

8:40 午前  
Blogger yoji said...

http://www.kinokuniya.co.jp/f/dsg-02-9783826034039
Die sich mit Nietzsche und Platon befassende Studie verortet beide Denker in einem dynamischen philosophischen Spielraum. Auf den ersten Blick erscheinet es als ein bereits hinlänglich bekannter Versuch, der die beiden Denker in ihrer Unterschiedlichkeit hervortreten, und ihre Konturen aus einer, sie jeweils als Antipoden darstellenden, umfangreicheren metaphysischen Bestimmung gewinnen lässt. Hier wird jedoch ein anderer Ansatz versucht, der auf ein anders geartetes Verhältnis Nietzsche-Platon hinweist und es in einem zum Teil neuen Licht erscheinen läßt. Ausgangspunkt und zugleich grundlegende These dieser Studie ist der Begriff der Umdrehung und die von Nietzsche selbst in einer Notiz der Jahre 1870-1871 angekündigte Umdrehung des Platonismus: Meine Philosophie ist umgedrehter Platonismus [...] (N 7 [156]1870-71, KSA 7, 199). Die Schritte zur Veranschaulichung der von Nietzsche angekündigten Umdrehung beginnen mit einer Unterscheidung: Platon undPlatonismus besagen nicht dass
elbe, sondern gerade in der Entfaltung ihres radikalen Unterschiedes kommt der Sinn von Nietzsches philosophischer Umdrehung zur Geltung.

10:54 午前  
Blogger yoji said...

http://quotes.dictionary.com/my_philosophy_is_inverted_platonism_the_further_a


My philosophy is inverted Platonism: the further a thing is from true being, the purer, the lovelier, the better it is. Living in illusion as a goal!
Share

Friedrich Nietzsche
Friedrich Nietzsche (1844–1900), German philosopher, classical scholar, critic of culture. Friedrich Nietzsche, Sämtliche Werke: Kritische Studienausgabe, vol. 7, p. 199, selection 7[156], eds. Giorgio Colli and Mazzino Montinari, Berlin, de Gruyter (1980). Unpublished fragments dating to Late 1870April 1871.

Read more at http://quotes.dictionary.com/my_philosophy_is_inverted_platonism_the_further_a#TmdyV95MBcGQGdYT.99

10:55 午前  
Blogger yoji said...

http://webcatplus.nii.ac.jp/webcatplus/details/book/423933.html
わが生涯より : 他六篇
ニーチェ 著 ; 小野浩 訳
[目次]
目次
わが敎養施設の將來について / p5
ホメロスと古典文獻學 / p159
ホメロスの比武 / p191
ギリシャの音樂劇 / p217
ソクラテスと悲劇 / p239
ディオニュソス的世界觀 / p261
わが生涯より / p293
解說 / p333
譯註 / p358
索引 / p1
「国立国会図書館のデジタル化資料」より

10:55 午前  
Blogger yoji said...

http://www.ac.auone-net.jp/~oknehira/HigekiNoTanjou.htm
彼のいうドイツ悲劇とはまさに「ニーベルンゲンの歌」なので、これも読んでみた。


自己批評の試み(1886)
音楽の精髄からの悲劇の誕生(1870-1871)
リヒャルト・ワーグナーに宛てた助言(1871)
1.アポロ的夢幻とディオニュソス的陶酔
2.ディオニュソス的ギリシア人
3.アポロ的文化の基底
4.アポロ的・ディオニュソス的なギリシア文化の推移
5.抒情詩人の解釈
6.詩と音楽との関係
7.悲劇合唱団の起源
8.サチュロスと演劇の根源現象
9.ソフォクレスとアイスキュロス
10.悲劇の秘教
11.悲劇の死とエウリピデス
12.エウリピデスの美的ソクラテス主義
13.ソクラテスの主知的傾向
14.ソクラテスとプラトン
15.理論的人間と悲劇的認識
16.音楽と悲劇的神話
17.理論的世界観の芸術的現象
18.アレクサンドリア的文化
19.楽天主義的オペラ文化と悲劇の再生
20.現代文化の様相
21.ワーグナーの楽劇
22.芸術としての音楽的悲劇と美的観衆
23.ドイツ神話の再生
24.音楽の不協和音
25.不協和音の人間化

参考:ニーチェ全集

                             

10:56 午前  
Blogger yoji said...

http://www.kinokuniya.co.jp/f/dsg-02-9783826034039

ダイナミックな哲学的範囲内ニーチェとプラトン学習位置の両方思想家でseisedている。 一見すると、それは彼らの多様性2思想家をemerge、すでによく知られている実験として見られるものとし、対掌は、大きな形而上学的判定を行うなど、それぞれの場合において、この種の彼らの輪郭を獲得することができます。 しかし、ここでは、異なるアプローチが関係ニーチェプラトンの別の種類を指しており、試行され、それは部分的に新しい光の中で表示されることがあります。 N 7 [156] 1870年から1871年には、[...](私の哲学はプラトン哲学に反転されています。開始点、および本研究の本質的な論文は、革命のとニーチェ1870から1871年の概念はプラトン哲学の年間革命ノートで発表されているKSA 7、199)。 ニーチェが発表した革命を説明するための手順は、区別で始まる:プラトンundPlatonismusはその意味するものではありません
同じですが、正確にニーチェの哲学的な革命の意味での彼らの急進差の開発で真価を発揮。

10:57 午前  
Blogger yoji said...


利用規約の一部改訂:
報酬を伴った秘密裏に行われる編集に対して制約を課すための改訂案にご意見をお寄せください。

悲劇の誕生

この記事はウィキペディアの品質基準を満たしていないおそれがあります。
そのため、この記事を整理して下さる協力者を求めています。(2013年2月)
『悲劇の誕生』(ひげきのたんじょう、Die Geburt der Tragödie)はフリードリヒ・ニーチェによって19世紀(1872年)に書かれた著作。『音楽の精神からの悲劇の誕生』(Die Geburt der Tragödie aus dem Geiste der Musik)が正式なタイトル。
造形芸術をギリシャの神アポロン、音楽芸術をディオニュソスに象徴させ、悲劇(および劇文学)を両者の性質をあわせ持った最高の芸術(文学)形態であるとした。
アポロンに理性を象徴させ、ディオニュソスに情動を象徴させた。
ディオニュソス的根底にルター、カント、バッハ、ベートーベン、ドイツ精神がつながるとした。
三大悲劇詩人ソフォクレス、アイスキュロス、エウリピデスのうち、エウリピデスは悲劇を終わらせ、ソクラテス的な主知主義へと導いた存在であると述べている。
ニーチェはこの本の中でリヒャルト・ワーグナーの楽劇に悲劇の再生を見ている。
主な訳書[編集]

『悲劇の誕生』 秋山英夫訳、岩波文庫 最も重版
『悲劇の誕生』 西尾幹二訳、中公クラシックス、2004年
元版は『世界の名著 ニーチェ』、中央公論社 1966年、訳者最初期の著作
『ニーチェ全集2 悲劇の誕生ほか』 塩屋竹男訳、ちくま学芸文庫、1993年
元版は理想社版『ニーチェ全集2』
白水社版 『ニーチェ全集1 悲劇の誕生ほか』、(浅井真男訳、1979年)
関連項目[編集]

詩学
ギリシア神話
ギリシア哲学
ギリシア悲劇
西洋古典学
ディオゲネス
この「悲劇の誕生」は、哲学に関連した書きかけ項目です。この記事を加筆・訂正して下さる協力者を求めています(Portal:哲学)。
カテゴリ: ニーチェの著作1870年代の書籍

10:59 午前  
Blogger yoji said...

7[一五六]
 私の哲学は逆転したプラトン主義。真に存在するものから遠ざかれば遠ざかるほど、より純粋に、よ
り美しく、より良くなってゆく。仮象のうちなる生が目的。

1870年末-1871年4月
(ニーチェ全集第一期第一巻白水社267頁より)




My philosophy is inverted Platonism: the further a thing is from true being, the purer, the lovelier, the better it is. Living in illusion as a goal!
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Friedrich Nietzsche
Friedrich Nietzsche (1844–1900), German philosopher, classical scholar, critic of culture. Friedrich Nietzsche, Sämtliche Werke: Kritische Studienausgabe, vol. 7, p. 199, selection 7[156], eds. Giorgio Colli and Mazzino Montinari, Berlin, de Gruyter (1980). Unpublished fragments dating to Late 1870April 1871.

Read more at http://quotes.dictionary.com/my_philosophy_is_inverted_platonism_the_further_a#TmdyV95MBcGQGdYT.99

6:56 午後  
Blogger yoji said...

http://www.capurro.de/platonismus.htm

"Meine Philosophie umgedrehter Platonismus: je weiter ab vom wahrhaft Seienden, um so reiner schöner besser ist es. Das Leben im Schein als Ziel." (N I, S. 180)

7:00 午後  
Blogger yoji said...

http://deleuze.web.fc2.com/DR-1.html
…存在の一義性の第三の契機はニーチェによるものである。…
「永遠回帰とは存在の一義性のことであり、この一義性の現実的な実在化
のことである。」(ドゥルーズ『差異と反復』p77)

現代哲学の責務は「プラトン哲学の転倒」として定義された。ところが、
プラトン哲学の転倒には、数多くのプラトン哲学の特徴が保存されている
のであって、これは、たんに避けることができないというだけでなく、望
ましい事態でもある。(p102)

(プラトンにおける)弁証法(問答法)はイロニーであるのだが、この
イロニーは、問題および問いに関する技術である。」(p109)

(p114)「プラトンは最初にプラトンを転倒させるもの」であり、ソピ
ステスにおいて「見せかけを深く究めることによってその見せかけがオリ
ジナルあるいは範型から区別できないということを証明している。」

4:55 午前  
Blogger yoji said...

http://blogs.yahoo.co.jp/saru107f/archive/2011/11/23
本来芸術は感性にもとづくものであり、この感性にもとづく生産能力から旧来の価値体系を転倒しようとする。感性とは時に激情であり、「力への意志」の「力」も「意志」も本質的に激情であるとハイデッガーは説明している。この芸術のもつ感性は超感性的なプラトニズムと正反対なものであり、超感性的なプラトニズムを転倒する基本原理であると言っている。

4:55 午前  
Blogger yoji said...

http://www.ni-club.net/ns-history/thought/god-death.html
ここでニーチェの神の死に関して独特の解釈を示しているハイデガーの論文「ニーチェの言葉〈神は死んだ〉」に触れておきたい。ハイデガーはこの論文で先に引いた『智恵』125番を取り上げ、神の死をめぐるニーチェの思索の意味を捉えようとする。その際にハイデガーが問おうとするのは、ニーチェの神の死に現れる形而上学の問題である。ハイデガーはニーチェの神の死が、ヨーロッパにおける形而上学の最終段階、すなわち形而上学の別な途の可能性がもはや残されていないような、形而上学のある本質的な転倒の局面を示していると考える。それは別な言い方をすれば、神の死がニヒリズムという事態と結びついているということである。「ニーチェ自身は西欧の歴史を形而上学的に、しかもニヒリズムの到来と展開として解釈する。ニーチェの形而上学を考え抜いてみることは、その運命を真理という点に関わりつつ知ることがまだほとんどない現在の人間のあり方および場所についての省察となる」。

ではハイデガーがニーチェの神の死に見ようとしている形而上学の転倒(ニヒリズム)とはいかなるものか。すでに私たちがニーチェの思考の裡に確認した現象と本質の位階関係の転倒にほかならない。神の死とともにヨーロッパの形而上学の核心を形づくってきた「理念・理想」が、「感性的領域」の優位とそれをつうじた両者の区別の消滅によって失われたものである。とするならばニーチェの神の死の思考は形而上学の解体の思考、言い換えれば反形而上学の思考と呼ぶべきなのではないだろうか。じっさいハイデガーもニーチェの上記のような思考の性格を「反プラトニズム」と言っている。だがハイデガーは次のように言う。「形而上学に対するニーチェの反対運動は、その単純なる裏返しとして形而上学の中へ巻き込まれて出口を失っており、その結果形而上学は自らを自らの本質から遮断してしまい、形而上学としての自分自身の本質をけっして思惟することができなくなっている」。こうしたハイデガーのニーチェに対する批判的な視点は、ニーチェの形而上学の転倒(ニヒリズム)がニーチェの価値哲学とその究極的な到達点としての「力への意志」に結びついているとハイデガーが認識していることから生じる。たしかにニーチェは「最高の価値がその価値を喪失すること」としての価値の転換に、形而上学の転倒の核心的事態を見ようとした。しかし一方で価値が複数の力の位階関係によって措定されるとニーチェが言い、かつこのことを根拠としつつ価値定立「力への意志」の現れとされるとき、価値の転換は価値関係そのものの消滅ではなく、「力への意志の形而上学」の誕生を意味する。

こうしてハイデガーはニーチェが形而上学の転倒(ニヒリズム)を言いつつも、結局は形而上学的思考の枠組み(現象 ─ 本質の二元関係)の中で「理念・理想」にかわって「力」を新たな実体=本質として立てたにすぎないと断ずるのである。怪しげな哲学的ジャルゴンを多用する夫子自身の思考はどうなるのかと茶々を入れたくなるようなハイデガーのニーチェ批判だが、ニーチェの思考が形而上学的かどうかということより、ニーチェの思考を形而上学批判のコンテクストにおいて読み込んでいこうとする際の媒介としてこうしたハイデガーの批判は一定の意味、影響を持ちえたと思われる。

4:56 午前  
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http://www.geocities.jp/jbgsg639/kyouiku3.html
 ニーチェの『ツァラトゥストラはこう言った』は、プラトンの「洞窟の比喩」をフレームと
した奇妙な絵画である。「洞窟と太陽で始まり、洞窟と太陽で幕を閉じる大きな円環をなして
いる」(村井 則夫著『ニーチェ?ツァラトゥストラの謎』 108ページ中公新書)という。ただし
ツァラトゥストラの洞窟は山上にあり、洞窟から下降し、洞窟に上昇する。ニーチェの哲学は
「逆転したプラトン主義」(1・3・267)なのである。

4:57 午前  
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from 善悪の彼岸 (光文社古典新訳文庫) (Japanese Edition) by ニーチェ
二八九 隠遁者の哲学
 隠遁者が書いたものからはいつでも荒野のこだまのようなものが、孤独の囁き声のようなものが、孤独のうちでおそるおそる周囲を見回しているような気配が聞きとれるものだ。きわめて強い言葉からも、叫び声そのものからも、ある新しい種類の危険な沈黙と寡黙が響いて聞こえるのだ。隠遁者とは年がら年中、そして昼も夜も、ただ自分の魂だけと親密な諍いと対話をつづけてきた者であり、自分の洞窟の中で──それは迷宮かもしれないが、金鉱であるかもしれないのだ──、穴熊に、宝探しに、宝守りに、あるいは竜になってしまった者のことである。こうした者の抱く想念は、ある独特な黄昏色をおびるようになり、深みの匂いとともに黴の臭いがするものだ。そして近くを通るすべての人に、ある伝えがたいもの、不快なものを冷たく吹きつけるようになる。



隠遁者は、かつて哲学者が──哲学者はつねにまず隠遁者であったとして──、自分だけの最後の言葉を書物のうちに書き残したとは考えていない。そもそも人が書物を書くのは、自分のうちに隠しもっているものを隠すためではないだろうか?──そうだ、隠遁者はそもそも哲学者が「自分だけの最後の言葉」というものをもつことができるものかどうかを疑問に思うだろう。哲学者であれば、すべての洞窟の背後には、もっと深い洞窟が潜んでいるのではないか、潜んでいるに違いないのではないか──表面を越えた彼方には、もっと広々として、見慣れない豊かな世界があるのではないか、あらゆる〈土台〉の下に、あらゆる「根拠づけ」の下に、さらに深淵が潜んでいるのではないか、と。  

from 善悪の彼岸 (光文社古典新訳文庫) (Japanese Edition) by ニーチェ
すべての哲学は、前景の哲学である──これが隠遁者の判断である。「彼がここで立ちどまり、後ろを振り返り、周囲を見回したということ、彼がここをもっと深く掘り下げず、鋤から手を放したということ、そこには恣意的なものがある。──さらには不信をかき立てるものもある」。すべての哲学は、別の哲学を隠しもっている。すべての意見は一つの隠れ場であり、すべての語もまた一つの仮面である。

8:56 午後  
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ドゥルーズ『意味の論理学』(法政版324頁)

すべての洞窟の背後には、もっと深い洞窟が潜んでいるのではないか、潜んでいるに違いないのではないか

二八九 隠遁者の哲学 from 善悪の彼岸 (光文社古典新訳文庫) (Japanese Edition) by ニーチェより

9:00 午後  
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二八九 隠遁者の哲学 from 善悪の彼岸 (光文社古典新訳文庫) (Japanese Edition) by ニーチェより

すべての洞窟の背後には、もっと深い洞窟が潜んでいるのではないか、潜んでいるに違いないのではないか

ドゥルーズ『意味の論理学』(法政版324頁)参照


9:01 午後  
Blogger yoji said...

http://www.tulips.tsukuba.ac.jp/memb/hayashi/nietzsche.html
Jenseits von Gut und Böse『善悪の彼岸』, 146
Wer mit Ungeheuern kämpft, mag zusehn, dass er nicht dabei zum Ungeheuer wird.
Und wenn du lange in einen Abgrund blickst, blickt der Abgrund auch in dich hinein.
怪物とたたかう者は、みずからも怪物とならぬようこころせよ。 そしておまえが
久しく深淵に見入るとき、深淵もまたおまえを見入るのだ。

12:02 午前  
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白水社 : 書籍詳細|ニーチェ全集 [ニーチェ全集 第1期・全12巻]
http://www.hakusuisha.co.jp/detail/index.php?pro_id=01949
【全巻内容】
1 悲劇の誕生/遺された著作〈1870年~1872年〉5篇
2 反時代的考察第1・2・3篇/遺された著作〈1872年~1873年〉5篇
3 遺された断想〈1869年秋~1872年秋〉
4 遺された断想〈1872年夏~1874年末〉
5 反時代的考察第4篇/遺された断想(1875年初頭~1876年春〉
6 人間的な、あまりに人間的な・上
7 人間的な、あまりに人間的な・下
8 遺された断想〈1876年~1879年末〉
9 曙光
10 華やぐ知慧/メッシーナ牧歌
11 遺さ880年初頭~1881年春〉
12 遺された断想〈1881年春~1882年夏〉

白水社 : 書籍詳細|ニーチェ全集 [ニーチェ全集 第2期・全12巻]
http://www.hakusuisha.co.jp/detail/index.php?pro_id=01966
体裁:四六判 上製 504頁刊行年月:1984-08内容:1 ツァラトゥストラはこう語った
2 善悪の彼岸
3 道徳の系譜/ヴァーグナーの場合/遺された著作(1889年)――ニーチェ対ヴァーグナー
4 偶像の黄昏/遺された著作(1888年~1889年)――アンチクリスト・この人を見よ・ディオニュソス頌歌
5 遺された断想〈1882年7月~1883年夏)
6 遺された断想〈1883年5月~1884年初頭)
7 遺された断想(1884年春~1884年秋)
8 遺された断想(1884年秋~1885年秋)
9 遺された断想(1885年秋~1887年秋)
遺された断想(1887年秋~1888年3月)
11 遺された断想(1888年初頭~1888年夏)
12 遺された断想(1888年5月~1889年初頭)/ニーチェ生活記録(1869年~1889年)(M.モンモィナーリ編)

3:14 午前  
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Amazon.co.jp: 道徳の系譜学 (光文社古典新訳文庫) eBook: ニーチェ, 中山 元: Kindleストア
http://www.amazon.co.jp/dp/B00H6XBGQG/

五つ星のうち 5.0
ルサンチマン論を核とするキリスト教批判 2009/6/21
By お気に召すまま トップ1000レビュアー
形式:文庫|Amazon.co.jpで購入済み
『善悪の彼岸』の姉妹編として書かれ、ニーチェには珍しい論文形式だ。ヨーロッパにおける道徳の系譜は、「弱者」に主導権が握られてしまったので、本来、「良いgut」には「悪いschlecht」が対立すべきなのに、「悪しきboese」という新しい概念が捏造されて、「善と悪gut und boese」の対立を主張する「奴隷の道徳」が成立してしまった。その経過をニーチェは丁寧に解明する。『ツァラトゥストラ』のようにハイになっていないので、議論は分りやすい。「美的観照」は性欲を鎮めるというショーペンハウアーの主張を論じた箇所を、既訳と比べてみよう。「美的観照はほかならぬ性的関心に反対作用を及ぼす、従ってそれらはあたかも忽布苦味素(ルプリーン)と樟脳(カンフル)の関係に似ている」(木場深定訳、岩波文庫)。「美的観照こそは性的なを阻む作用をする、それはホップ苦味素が樟脳に作用するのと同じようなものである」(信太正三訳、ちくま学芸文庫)。「美的な観照は、性的な意味での個人的な関心を抑える働きをする。それは[鎮静剤の]ルプリンが、[刺激剤の]カンフルの働きを抑えるのと同じである」(本訳 p202)。中山氏の訳文は、原語を愚直に日本語に置き換えるのではなく、意味がすっと心に入るように訳されているので、文章にスピード感がある。

1:38 午前  
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定本総合
ニーチェ.Nietzsche,Friedrich Wilhelm,
 ❶J.126-7@,149-151@,274,276(『反時代的考察』)/❷M.26-7@,28,130- /❸T.171,186@,428/❺H.81,216-7@(手紙)/◉W(『道徳の系譜』).91@,94-96@,
 『偶像の黄昏』,❷M.26-7@,
 『権力への意志』,❶J.126-7@/❸T.186@,
 『善悪の彼岸』,❸T.187,
 『道徳の系譜学』,❶J.149-151@/❸T.187,428?/◉W.91@,94-96@
西田幾多郎.NISHIDA Kitaro, ❶J.40/❹A.53,203@/❺H.231-,233@

世界史の構造
ニーチェ.Nietzsche,Friedrich Wilhelm,『道徳の系譜』(13),(121「遠近法的倒錯」),(190),191@^487,195@^488,(318)


1:42 午前  
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哲学の起源
ニーチェ,54,119,120@,
   『権力への意志』,119,120@

1:42 午前  
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yojisekimoto shared from 道徳の系譜学 (光文社古典新訳文庫) (Japanese Edition) by ニーチェ2章8節より

やがて人は「すべてのものには価格がある。どんなものでも金を払えば手に入れることができる」というおおまかな一般命題に到達したというわけだ──これがもっとも古く、もっとも素朴な正義の道徳的な基準であり、地上に存在するすべての「好意」とすべての「公正」とすべての「善意」とすべての「客観性」の端緒となったのである。
Note: 世界共和国へ~94頁世界史の構造191頁参照、別訳
yojisekimoto shared from 道徳の系譜学 (光文社古典新訳文庫) (Japanese Edition) by ニーチェ
負い目という感情や個人的な義務という感情はすでに指摘したように、存在するかぎりでもっとも古く、もっとも原初的な人格的な関係に根ざすものである。すなわち買い手と売り手の関係、債権者と債務者の関係から生まれてきたものなのだ。
Note: 世界共和国へ94~6頁世界史の構造191頁参照(別訳)
yojisekimoto shared from 道徳の系譜学 (光文社古典新訳文庫) (Japanese Edition) by ニーチェ
神にたいする〈負い目〉の感情は数千年にわたって強まりつづけた。しかも地上において神の概念と神への感情が成長し、高揚するに応じて、ますます強くなっていったのである(異教徒との闘争、勝利、和解、融合のすべての歴史が、すべての民族的要素の位階が最終的に決定されて、あの大いなる人種の総合にいたるまでのすべての出来事が、これらの民族の神々の系譜の混乱に現れている。こうした出来事はこれらの神々の争いと勝利と和解の伝説にも姿を示しているのである。世界国家の実現に向かう道は、つねに世界神に向かう道でもある。独立した貴族階級が支配権を握っている専制体制が生まれるところではつねに、何らかの一神教が生まれるものである)。
Note: 世界共和国へ91頁世界史の構造195頁参照

2:14 午前  
Blogger yoji said...

遠近法的倒錯,❸T.349

2:45 午前  
Blogger yoji said...

遠近法的倒錯
世界史の構造121
定本トランスクリティーク349



http://www.geocities.co.jp/CollegeLife-Library/1959/notes/anachronism01.htm#NOTE
以下など見よ。「結果であるものを原因ととることによって」……「原因と結果をとりちがえる」……『人間的、あまりに人間的な』三九・六〇八。「哲学者に関する著作のための準備草案」中「一 一八七二年秋および冬から」『哲学者の書 ニーチェ全集3』ちくま学芸文庫版pp.308-311。詳しく論じたのは『偶像の黄昏』中「四大誤謬」の章。……他に?
かうしたニーチェによる因果性批判を、柄谷行人は「遠近法的倒錯」といふ呼び名で弘めたものだ。早くは『日本近代文学の起源』の「Ⅰ 風景の発見」(初刊一九八〇年八月、講談社文芸文庫版p.45)にニーチェが言ったとしてこの語が持ち出されてゐるが、『内省と遡行』の標題論文中「序説」(一九八五年初刊、講談社学術文庫版p.11)で「ニーチェのいう「結果を原因とみなす」遠近法的倒錯」といふ風に特に因果顛倒のこととして述べられ、『探究Ⅱ』「第九章 超越論的動機」(一九八九年六月初刊、講談社学術文庫版pp.220-221)では「系譜学的であることは、結果であるものを原因とみなす「認識の遠近法的倒錯」をえぐり出すこと」と説かれる。また「そのことを最初にいったのは」スピノザであるとして、『エチカ』からの引用を掲げてゐる(同前pp.225-226)。ところでしかし、引用符で括られてゐるが「遠近法的倒錯」といふそのものズバリの言葉はニーチェに見當らない。「結果の代りに由來。なんといふ遠近法の反轉!」(『善惡の彼岸』三二。信太正三譯『善悪の彼岸 道徳の系譜 ニーチェ全集11』〈ちくま学芸文庫〉一九九三年八月、p.68該當)といふ箇所で、どうだ? だが、このUmkehrung der Perspektiveを遠近法的倒錯と譯した邦文があったのかどうか、あっても果して適譯か。第一これは「結果を原因とみなす」のでなく逆、由來(Herkunft)を結果(Folgen)の代替にしてゐる。ニーチェ全集を繙くと、結果を原因と見做す遡及方向の逆轉でなく原因を結果と捉へる向きの誤謬を論じた箇所も散見する。例へば、「年代記的逆転」のため「原因があとになって結果として意識される」ことを述べ、さうした誤認を「文献学の欠如」と名づけた遺稿……尤もその斷章中では「結果がおこってしまったあとで、原因が空想される」とも説き、何やら循環端無きが如しであるが(『權力への意志』四七九、原佑譯『権力への意志 下 ニーチェ全集13』〈ちくま学芸文庫〉一九九三年十二月)。柄谷の引例にあるスピノザも「目的論は、実は原因であるものを結果と見なし、反対に〈結果であるものを原因〉と見なす」と雙方向で論じてゐた。それにニーチェの場合、原因・結果といふ單語でなく「意圖」や「目的」といふ概念を俎上に載せた所が多いかも。といふことで、「遠近法的倒錯」といふ成句、特にその意味を結果を原因に代入する方向に限るのは、ニーチェでなくそれを發想源とした柄谷行人の創意に歸する方が良ささうだ。實際遠近法パースペクティブと言ふよりもはや、遡行的レトロスペクティブな視線ではある。

3:42 午前  
Blogger yoji said...

遠近法的倒錯
世界史の構造121
定本トランスクリティーク349
定本版第一巻冒頭にも遠近法の考察はあるがカント経由に書き換えられている。

3:47 午前  
Blogger yoji said...

yojisekimoto shared from 善悪の彼岸 (光文社古典新訳文庫) (Japanese Edition) by ニーチェ
 そして一万年ほど前になると、地球のいくつかの大陸で一歩ずつ進歩が遂げられた。こうしてある行為の価値は、もはや結果によってではなく、その起源によって決定されるようになったのである。この大きな現象を全体として眺めてみると、まなざしと判断基準がきわめて洗練されてきたことが指摘できる。貴族的な価値と、「起源」にたいする信仰が支配的になったことの影響が、知らず知らずのうちに現れてきたのである。これは狭義の道徳的な時代の特徴と考えることができるだろう。こうして自己認識の最初の試みが行われたのだった。結果ではなく起源を重視するとは、何という遠近法の転換だろう! これが長いあいだの闘いと逡巡の後に実現された転換であることは確実なのだ!
Note: 遠近法の転換2:32遠近法的倒錯世界史の構造121定本トランスクリティーク349定本版第一巻冒頭にも遠近法の考察はあるがカント経由に書き換えられている。

3:54 午前  
Blogger yoji said...

エチカ1付録より

 しかしまだ付け加えたいことがある。それは、目的に関するこの説は自然をまったく転倒するということである。なぜならこの説は、実は原因であるものを結果と見、また反対に(結果であるものを原因と)見る。次にこの説は本性上さきなるものをあとにする。また最後にこの説は最高かつ最完全なものを最不完全なものにする。というのは、(前の二つは自明であるからこれを略すとして、)定理二一、二二および二三から明らかなように、神から直接的に産出される結果は最完全であり、そして物は産出されるためにより多くの中間原因を要するに従ってそれだけ不完全である、ところがもし神から直接的に産出される物は神が自己の目的を達するために造ったのだとすれば、最後のもの〜〜それのために始めのものが造られたところの〜〜はすべてのもののうちで最も価値あるものになるからである。

3:56 午前  
Blogger yoji said...

http://nam21.sakura.ne.jp/spinoza/#note1f

4:03 午前  
Blogger yoji said...

原因と結果の倒錯は悦ばしき知識でも言及される

4:07 午前  
Blogger yoji said...


http://www.cscd.osaka-u.ac.jp/user/rosaldo/121016ManMachine.html

「現存在の遠近法的性格はどこまで及ぶのか、あるいはまた、現存在は何かそれとは別な性格をも有っているのか、解釈もなく・「意味(ジン)」もない現存在 はまさに「愚にもつかぬもの(ウンジン)」となりはしないか、他面、一切の現存在は本質的に解釈する現存在ではないのか。こうしたことがらは、当然なが ら、知性のこのうえなく勤勉な・極めて几帳面で良心的な分析や自己検討をもってしても解決されえないものである。それというのも、こうした分析をおこなう 際に人間の知性は、自己自身を自分の遠近法的形式のもとに見るほかなく、しかもその 形式の内でのみ見るほかはないからである。わわわれは自分の存在する片隅の周囲を見ることができない。そのほかにもどんな種類の知性や遠近法がありうるのかを知ろうとすることな どは、徒な好奇心でしかない」――ニーチェ『悦ばしき知識』信太正三訳、374節、p.442.、1993

4:11 午前  
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■ 遠近法、遠近法主義、Perspektive, Perspektivismus (→今後の展開はこちらです)
「生存の遠近法的性格はどこまで及んでいるのだろうか。あるいは,生存にはまだほかに何らかの性格もあるのだろうか,解釈なき生存,〈意味〉 (Sinn) なき生存とはまさに〈ナンセンス)(Unsinn) にならないだろうか,他方から言えば,一切の生存は本質的に解釈する存在ではないだろうか」――悦ばしき知恵(#374)
「人間の知性はその分析に際して,自分自身を自らの遠近法にもとづく諸形式のもとで見るほかはなく,これらの形式のなかでしか見ることができ ない」――悦ばしき知恵(#374)
「遠近法的なもの」=「一切の生の根本条件」――善悪の序文
「あらゆる信仰,真であると思うことはいずれも必然的に誤りであるということ,これは,真の世界などというものはまったく存在しないからであ る。すなわち、それはわれわれに由来する遠近法的仮象(perspektivischer Schein) である」――遺稿(II.10.34)※( )内の読み方=白水社版 II 期、10巻、断片番号34
「私が理解する仮象とは,現実的で唯一の,事物の現実(Realität) である。……それゆえ,私は〈仮象〉を〈現実〉に対置するのではなく,反対に仮象を現実として受け取るのであり,この現実は,空想の産物である〈真理の世 界〉への変容に抵抗するものである」――遺稿(II.8.480)
「われわれの空間と時間の知覚」は誤謬――『人間的』I.19
「われわれがいま世界と呼んでいるものは,一連の誤謬と空想の産物であり,それは有機的な生命体の全発展のなかでしだいに発生し,互いに結び ついて成長して,いまでは過去全体の蓄積された宝としてわれわれに相続されたものである」――『人間的』I.18
遠近法への影響関係では、ショーペンアウアー、やフリードリヒ・ランゲ(『唯物論史』)
「ニーチェが「遠近法」という表現を用いるようになるのは,彼がシュピーアやタイヒミュラーを再読した1885年頃からであり,しかも形而上 学の根本概念を「遠近法的仮象」として解体するという文脈においてである」――大石紀一郎『ニーチェ事典』55ページ。
「「存在」や「実体」は経験の誤った解釈によって成立した概念であるとされ「自己」や「主観」といった概念も「遠近法的仮象」であって「見る ときの一種の遠近法をもう一度見る行為そのものの原因として措定する」ことによって「捏造」されたものだという[遺稿11 .9.146, 215]――大石(55ページ)
ヘーゲルの絶対精神=「危険な古い概念的虚構」で「能動的な解釈をする力」を欠く。――『系譜』III.12
「〈本質〉や〈本質性〉というのは何か遠近法的なもの」で、あって「根抵にあるのはつねに〈それは私にとって何か?〉(われわれにとって,あ らゆる生物にとってなど)という問いである」とされる[遺稿II .9.187]。
「従来の解釈はすべて生に対して一定の意義を持っていた一一生を維持し,耐えられるものにし,あるいは疎外し,洗練し,またおそらくは病的な ものを分離して死滅させるものであった」――遺稿 II.8.454
「動物界のある特定の種の維持と力の増大に関して有益であるという観点にしたがって」遠近法的に見られ,整えられ,選ばれること」――遺稿 II.11.208
「真理とは,それなくしてはある特定の種の生物が生きられないような種類の誤謬である」――遺稿 II.8.306 →『権力への意志(下)』ちくま文庫版(#493)
仮象=唯一の現実、「この現実に対する特定の名称が〈力への意志〉であろう」――遺稿 II.8.408
「あらゆる人間の向上はより狭い解釈の克服を伴い,達成された強化と力の拡張はいずれも新たなパースベクティヴを開き,新たな地平を信ずるこ とである」――遺稿 II.9.156
「世界の多義性は力の問題であり」――遺稿 II.9.163, 172
「すべてのものが生成であるとすれば、認識は存在を信じることにもとづいてのみ可能である」――『権力への意志(下)』(#518)
「遠近法的に見ることしか,遠近法的な〈認識〉しか存在しない,そして,われわれがある事柄についてます多くの情動を発言させ,ますます多く の眼,さまざまに異なる眼を同じ事柄に向けるすべを心得ているならば,この事柄についてのわれわれの〈概念〉,われわれの〈客観性〉はいっそう完全になる であろう」――『系譜』III.12
ニーチェの光学=遠近法(『生成の無垢(下)』番号92では、人間の認識を蜘蛛の活動と 比喩して(!)遠近法=光学について語っている)
「同一のテクストが無数の解釈を許容する。つまり,〈正しい〉解釈などというものは存在しない――遺稿 II.9.54

4:12 午前  
Blogger yoji said...

■ 遠近法、遠近法主義、Perspektive, Perspektivismus
「生存の遠近法的性格はどこまで及んでいるのだろうか。あるいは,生存にはまだほかに何らかの性格もあるのだろうか,解釈なき生存,〈意味〉 (Sinn) なき生存とはまさに〈ナンセンス)(Unsinn) にならないだろうか,他方から言えば,一切の生存は本質的に解釈する存在ではないだろうか」――悦ばしき知恵(#374)
「人間の知性はその分析に際して,自分自身を自らの遠近法にもとづく諸形式のもとで見るほかはなく,これらの形式のなかでしか見ることができ ない」――悦ばしき知恵(#374)
「遠近法的なもの」=「一切の生の根本条件」――善悪の序文
「あらゆる信仰,真であると思うことはいずれも必然的に誤りであるということ,これは,真の世界などというものはまったく存在しないからであ る。すなわち、それはわれわれに由来する遠近法的仮象(perspektivischer Schein) である」――遺稿(II.10.34)※( )内の読み方=白水社版 II 期、10巻、断片番号34
「私が理解する仮象とは,現実的で唯一の,事物の現実(Realität) である。……それゆえ,私は〈仮象〉を〈現実〉に対置するのではなく,反対に仮象を現実として受け取るのであり,この現実は,空想の産物である〈真理の世 界〉への変容に抵抗するものである」――遺稿(II.8.480)
「われわれの空間と時間の知覚」は誤謬――『人間的』I.19
「われわれがいま世界と呼んでいるものは,一連の誤謬と空想の産物であり,それは有機的な生命体の全発展のなかでしだいに発生し,互いに結び ついて成長して,いまでは過去全体の蓄積された宝としてわれわれに相続されたものである」――『人間的』I.18
遠近法への影響関係では、ショーペンアウアー、やフリードリヒ・ランゲ(『唯物論史』)
「ニーチェが「遠近法」という表現を用いるようになるのは,彼がシュピーアやタイヒミュラーを再読した1885年頃からであり,しかも形而上 学の根本概念を「遠近法的仮象」として解体するという文脈においてである」――大石紀一郎『ニーチェ事典』55ページ。
「「存在」や「実体」は経験の誤った解釈によって成立した概念であるとされ「自己」や「主観」といった概念も「遠近法的仮象」であって「見る ときの一種の遠近法をもう一度見る行為そのものの原因として措定する」ことによって「捏造」されたものだという[遺稿11 .9.146, 215]――大石(55ページ)
ヘーゲルの絶対精神=「危険な古い概念的虚構」で「能動的な解釈をする力」を欠く。――『系譜』III.12
「〈本質〉や〈本質性〉というのは何か遠近法的なもの」で、あって「根抵にあるのはつねに〈それは私にとって何か?〉(われわれにとって,あ らゆる生物にとってなど)という問いである」とされる[遺稿II .9.187]。
「従来の解釈はすべて生に対して一定の意義を持っていた一一生を維持し,耐えられるものにし,あるいは疎外し,洗練し,またおそらくは病的な ものを分離して死滅させるものであった」――遺稿 II.8.454
「動物界のある特定の種の維持と力の増大に関して有益であるという観点にしたがって」遠近法的に見られ,整えられ,選ばれること」――遺稿 II.11.208
「真理とは,それなくしてはある特定の種の生物が生きられないような種類の誤謬である」――遺稿 II.8.306 →『権力への意志(下)』ちくま文庫版(#493)
仮象=唯一の現実、「この現実に対する特定の名称が〈力への意志〉であろう」――遺稿 II.8.408
「あらゆる人間の向上はより狭い解釈の克服を伴い,達成された強化と力の拡張はいずれも新たなパースベクティヴを開き,新たな地平を信ずるこ とである」――遺稿 II.9.156
「世界の多義性は力の問題であり」――遺稿 II.9.163, 172
「すべてのものが生成であるとすれば、認識は存在を信じることにもとづいてのみ可能である」――『権力への意志(下)』(#518)
「遠近法的に見ることしか,遠近法的な〈認識〉しか存在しない,そして,われわれがある事柄についてます多くの情動を発言させ,ますます多く の眼,さまざまに異なる眼を同じ事柄に向けるすべを心得ているならば,この事柄についてのわれわれの〈概念〉,われわれの〈客観性〉はいっそう完全になる であろう」――『系譜』III.12
ニーチェの光学=遠近法(『生成の無垢(下)』番号92では、人間の認識を蜘蛛の活動と 比喩して(!)遠近法=光学について語っている)
「同一のテクストが無数の解釈を許容する。つまり,〈正しい〉解釈などというものは存在しない――遺稿 II.9.54

http://www.cscd.osaka-u.ac.jp/user/rosaldo/121026perspectivism.html

4:13 午前  
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yojisekimoto shared from 善悪の彼岸 (光文社古典新訳文庫) (Japanese Edition) by ニーチェ
精神と善についてプラトンのように語ることは、真理を転倒させること、すべての生の土台となる条件としての遠近法をみずから否定することにほかならない。
Note: 序

4:16 午前  
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「遠近法的なもの」=「一切の生の根本条件」――善悪の序文
「あらゆる信仰,真であると思うことはいずれも必然的に誤りであるということ,これは,真の世界などというものはまったく存在しないからであ る。すなわち、それはわれわれに由来する遠近法的仮象(perspektivischer Schein) である」――遺稿(II.10.34)※( )内の読み方=白水社版 II 期、10巻、断片番号34

4:17 午前  
Blogger yoji said...

定本1:149頁


『道徳の系譜』第一論文_13 - 世界樹の果実 - Yahoo!ブログ
http://blogs.yahoo.co.jp/sod0630/35883342.html
──だがわれわれは引き返そう。 「よい(グート)」の"もう一つの"起源の問題、 すなわち《反感》をもった人間が考え出した「よい」の問題がその解決を待っているから。 ──仔羊どもが大きな猛禽を恨むのは異とするに足りないことだ。 しかしそれは、大きな猛禽が小さな仔羊を捉えることを咎め立てる理由にならない。 また仔羊どもが 「あの猛禽は『悪い(ベーゼ)』、従って、猛禽になるべく遠いもの、 むしろその反対物が、すなわち仔羊が──『善い』というわけではないか」 と互いの間で言い合うとしても、この理想の樹立にはいささかの難ずべき点もない。 もっとも、猛禽の方ではこれに幾らか嘲笑的な眼を向けながら、 「俺たちは奴らを、あの善良な仔羊どもをちっとも恨んでなんかいない。 俺たちは奴らを愛してさえいるのだ。柔らかい仔羊より旨いものはないから」 と恐らく独り言を言うであろう。 ──強さに対してそれが強さとして現われ"ない"ことを要求し、 暴圧欲・圧服欲・支配欲・敵対欲・抵抗欲・祝勝欲で"ない"ことを要求するのは、 弱さに対してそれが弱さとして現われないことを要求するのと全く同様に不合理である。 ある量の力とは、それと同量の衝動・意志・活動の謂いである──というよりはむしろ、 まさにその衝動作用・意志作用・活動作用そのものにほかならない。 それがそうでなく見えるのは、ただ、すべての作用を作用者によって、 すなわち「主体」によって制約されたものと理解し、かつ誤解するあの言語の誘惑 (および言語のうちで化石となった理性の根本誤謬)に引きずられるからにすぎない。 あたかも一般人が稲妻をその閃きから引き離し、 閃きを稲妻と呼ばれる一つの主体の"作用"と考え、活動と考えるのと同じく、 民衆道徳もまた強さを強さの現われから分離して、 "自由に"強さを現わしたり現わさなかったりする無記な基体が 強者の背後に存在しでもするかのように考えるのだ。 しかしそういう基体はどこにも存在しない。 作用・活動・生成の背後には何らの「存在」もない。 「作用者」とは、単に想像によって作用に附け加えられたものにすぎない ──作用が一切なのだ。 実際を言えば、一般人は稲妻をして閃らしめるが、これは作用を重複させるのだ。 それは作用=作用とも言うべきものであって、同一の事象をまず原因として立て、 次にもう一度その結果として立てるのだ。 自然科学者たちは、「力は動かす、力は原因になる」などと言うが、 これより勝れた言い表わしではない。 ──あらゆる彼らの冷静さ、感情からの自由にも拘らず、 現今の科学全体はなお言語の誘惑に引きずられており、 「主体」という魔の取り換え児の迷信から脱却していない (例えば、原子(アトーム)がそういう取り換え児であり、カントの「物自体」も同様である)。 内攻して陰で微かに燃え続けて復讐と憎悪の感情が、"強者は自由に"弱者になれるし、 猛禽は自由に仔羊になれるというこの信仰を自分のために利用し、 その上この信仰を他のあらゆる信仰にもまして熱心に保持するとしても、 それは別に異とすべきことではない。 ──実に、この信仰によってこそ彼らは、 猛禽に対して猛禽であることの"責めを負わせる"権利を獲得するのだ・・・・・・ 抑圧された者、蹂躙された者、圧服された者が、無力の執念深い奸計から、 「われわれは悪人とは別なものに、すなわち善人になろうではないか。 そしてその善人とは、暴圧を加えない者、何人をも傷つけない者、 攻撃しないもの、返報しない者、復讐を神に委ねる者、われわれのように隠遁している者、 あらゆる邪悪を避け、およそ人生に求むるところ少ない者の謂いであって、 われわれと同じく、辛抱強い者、謙遜な者、公正な者のことだ」 ──と言って自ら宥めるとき、この言葉が冷静に、 かつ先入見に囚われることなしに聴かれたとしても、それは本当は、 「われわれ弱者は何といっても弱いのだ。 われわれは"われわれの力に余る"ことは何一つしないから善人なのだ」 というより以上の意味はもっていない。 ところが、この苦々しい事態、昆虫類 (大きな危険に際して「大それた」真似をしないために死を装うことを厭わないあの昆虫類) でさえもっているこの最も低級な怜悧さは、無力のあの贋金造りと自己欺瞞とのお陰で、 諦めて黙って待つという徳の派手な衣装を着けたのだ。 あたかも弱者の弱さそのものが──すなわち彼の"本質"が、かれの行為が、 彼の避けがたく解き離しがたい唯一の現実性の全体が── 一つの自由意志的な行為、 なんらかの意欲されたもの、何らかの選択されたもの、 一つの"事蹟"、一つの"功績"ででもあるかのように。 この種の人間は、自己保存・自己肯定の本能からあらゆる虚偽を神聖化するのを常とするが、 同時にまたこの本能からして、あの無記な、 選択の自由を持つ「主体」に対する信仰を"必要"とする。 主体(通俗的に言えば"魂")が今日まで地上において最善の信条であったのは、 恐らくこの概念によって、死すべき者の多数に、 あらゆる種類の弱者や被圧迫者に、弱さそのものを自由と解釈し、 彼ら自身の云為を"功績"と解釈するあの崇高な自己欺瞞を可能にしたからであった。

4:22 午前  
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http://blogs.yahoo.co.jp/sod0630/folder/1533916.html?m=lc&p=4

4:31 午前  
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yojisekimoto shared from 道徳の系譜学 (光文社古典新訳文庫) (Japanese Edition) by ニーチェ
たとえば民衆が雷をその雷光から分離して、雷光は雷という主体の行為であり、主体の作用であると考えるのと同じように、民衆の道徳もまた強さ〈そのもの〉と強さの〈現れ〉を分離して考える。あたかも強い者の背後にはもっと別の無頓着な〈基質〉のようなものが控えていて、それが強さを現すのも現さないのも、自由に決めることができると考えるようなものである。しかしこうした基質などは存在しないのだ。行為、作用、生成の背後には、いかなる「存在」もない。「行為者」とは行為の背後に想像でつけ足したものにすぎない──行為がすべてなのである。  民衆は雷が光るというとき、行為を二重にしているのである。それは作用が作用すると言うようなものなのだ。[雷光という]同じ一つの現象をまずその原因とみなして、次にはその作用とみなしているのである。自然科学者は「力が動かす、力が原因である」などと語るとき、同じようなことをしているのである。──わたしたちの科学もすべて、冷静で、情動に左右されることはないと称しながらも、言葉の誘惑に負けているのであり、騙されて「主体」という〈取り替え子〉を押しつけられ、これを追い払うことができないでいるのである…
Note: 弱き者の自己欺瞞1:13定本第一巻149頁参照、別訳

4:31 午前  
Blogger yoji said...


http://www.abebooks.com/servlet/BookDetailsPL?bi=301095666
Gesammelte Werke. Musarionausgabe. Bd. 16: Aus d. Nachlass: Studien aus d. Umwerthungszeit 1882-1888.
Nietzsche, F.,
Published by München Musarion (), 1925
Used / Quantity Available: 1
From Zentralantiquariat Leipzig GmbH (Leipzig, Germany)
Bookseller Rating:

9:47 午前  
Blogger yoji said...


http://anou.mo-blog.jp/koan/2007/01/post_37c0.html
「円環の渇きが、君たちの内部にある。あらゆる円環は自分自身にふたたび到達しようとして、環をなし、めぐるのである。そして、君たちの徳の行いのすべては、消えてゆく星に似ている」(ニーチェ)

8:34 午前  
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ニーチェ『悦ばしき知識』 三七四節 われわれの新しい無限
 世界は、われわれにとって、ふたたび無限のものとなった。というのもわれわれは世界が無限の解釈の可能性にさらされていることを拒むことはできないからだ

3:17 午前  
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http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/philo/1399882640/
81 :考える名無しさん:2014/07/21(月) 00:47:44.43 0
永遠回帰にはスピノザとライプニッツ両者からの影響があると思う。

ニーチェが永遠回帰を発見したのは1881年8月だが、その直前にニーチェはスピノザを
賞賛する手紙を書いている。肯定という主題がはじめて出現したのだ。

ライプニッツに関しては、永劫回帰の発見以後の1886年、ニーチェはライプニッツに
よる「意識は表象の一偶有性にすぎない」というテーゼを賞賛している(『悦ばしい
知識』第5章「われら恐れを知らぬ者」357)。
アガンベンは「つまるところ、ツァラトゥストラの永遠回帰は、ライプニッツの『弁神論』
の無神論的な変種でしかない」とまで言っている(『バートルビー』)。

シュタイナーによれば、ニーチェはデューリングから永劫回帰のアイデアを得たと言う
(シュタイナー『ニーチェ』)。ニーチェの蔵書のなかにあるデューリングの著書には
ニーチェの書き込みが残っているのだ。
現在の一瞬を極小小粒子の特定の連関結合(Kombination)として描いている点において、
ニーチェはデューリングの『厳密な科学的世界観と生命形成論としての哲学教程』(1875年)におけ
る記述の否定的記述から永劫回帰の説をあみだしたことになる(邦訳シュタイナー『ニーチェ』p197)。
ただしデューリング自身はライプニッツの影響を受けているから、間接的にこれもライプニッツ
経由と言える。

ニーチェにはスピノザとライプニッツ両方が必要で、永遠回帰は両者の統合だったと思う。
だからこそスピノザ(一元論)とライプニッツ(多元論)を共存させたドゥルーズがニーチェを賞賛したのだ。
思えば『差異と反復』はまるまる一冊、永遠回帰に捧げられていると言っていい。
『ツァラトゥストラ』を読めば、東洋思想の重要性は明らかで、仏教からの影響も考えるべきだが、
シュタイナーの言うように、永遠回帰は最新物理学への、超人思想は最新生物学(=進化論)への
ニーチェなりの回答と取るべきかもしれない。

12:02 午前  
Blogger yoji said...

アンチクライストなど昨今ありふれているが、新約聖書に対して
代替物をつくった人は歴史上ニーチェ以外にいない
ただドゥルーズくらいしかツァラトゥストラを刺激的に解釈した
人がいないから、イマイチ現代日本人にはその凄さがわからない
東洋にいるとさらにわからない
自分は>>81を書いた者だが哲学史的に重要性を指摘してもやはり
伝わらない、と考えている
オススメはやはり以下のようなアニメになる
ニーチェ『ツァラトゥストラ』 http://youtu.be/KWHmVBhdBTs

9:20 午前  
Blogger yoji said...

>>99
「道徳の系譜」を読むといい

簡単に言うと、罪に対して罰が与えられるのは
「『罪を犯さない』という理性的判断を怠ったから」
だからそもそも理性を持ってない人(狂人)は罰の対象にしてはいけない。
犯罪を犯した時点で「理性的判断を怠った人」は
たとえその後に理性を失おうと、罰の対象となる。

まあニーチェによれば、罰のエッセンスは
「被害者が、加害者から苦痛を取り立てる権利の行使」で
等価交換の原理が根底にあるらしいから
犯罪が行われた時点で加害者と被害者の間に交換契約が成立するんだけど
狂人の場合その取引が成立してないってことになるんじゃないかな。

まあこれって法学とか法哲学とか倫理とかの領分で、いろんな立場があるから
「目的刑」「応報刑」とかで調べてみるといいかも

10:00 午前  
Blogger yoji said...


nous dirons avec Gilles Deleuze : repetition (premiere partie) ,difference (deuxime partie) , machine desiro-sociale(troisime partie).

MOI , JE SUIS
UNE MACHINE



Nous éclatons de rire rien qu’à voir « l’homme et le monde placés l’un à côté de l’autre, que sépare la sublime prétention du petit mot : « et » ! F. Nietzsche, le gai savoir, V, 346

<「人間と世界」が、「と」(und)という微々たる一語の尊大な不遜に隔たれながら併称されるのを聴くやいなや、われわれは笑い出してしまう!>
(ニーチェ「悦ばしき知識」第五書346『われわれの疑問符』 )

Moi Je , projet de film (1973)
Jean-Luc Godard, documents p.199,215,219

Jean-Luc Godard : Documents (1 DVD): Nicole Brenez, Michael Witt, David Faroult, Augustin Gimel: Livres
http://www.amazon.fr/gp/product/2844262996/

参考:

Two Bicycles: The Work of Jean-Luc Godard and Anne-Marie Miéville - Jerry White - Google ブックス
http://books.google.co.jp/books?id=BY3ZAgAAQBAJ&pg=

1:04 午前  
Blogger yoji said...

https://ja.m.wikiquote.org/wiki/フリードリヒ・ニーチェ

『善悪の彼岸』
Jenseits von Gut und Bose

怪物と闘う者は、その過程で自らが怪物と化さぬよう心せよ。おまえが長く深淵を覗くならば、深淵もまた等しくおまえを見返すのだ。 --146節
"Wer mit Ungeheuern kämpft, mag zusehn, dass er nicht dabei zum Ungeheuer wird. Und wenn du lange in einen Abgrund blickst, blickt der Abgrund auch in dich hinein."

7:56 午前  
Blogger yoji said...

(AKB48 夢のエントリーシート)須藤凜々花(NMB48) ニーチェ先輩 尊敬してます:朝日新聞デジタル
http://digital.asahi.com/articles/ASHB26QRBHB2UCVL010.html?rm=568
 私がもっとも尊敬するのはニーチェ先輩です。中学1年生の時の教科書に載っていた
肖像画のふき出しに「神は死んだ」という言葉が書いていて「格好いい」と思いました。

 ニーチェ先輩はぶれないところが好きです。「人生を危険にさらせ」という名言を残し、
「自分に誠実でいろ!」と教えてくれました。自分に正直に生きることは難しいです。空気を
読ませる環境に息苦しさを感じながらも、自分がぶちこわすと冷たい目で見られますが、
それを怖がっていては何もできない。だから、私は出る杭になろうと決めました。その背中を
押してくれたのがニーチェ先輩です。



須藤 凜々花 bot @ririka_love_n
自分の実力以上のことをやり遂げようとして、その為に倒れていく人を私は愛する。 byニーチェ先輩
7h ago

2:53 午前  
Blogger yoji said...

ニーチェはスピノザを絶賛する手紙のすぐ後に
永劫回帰を発見している
ただし彼の超人説はダーウィン進化論に
永劫回帰説は(ライプニッツ、デューリング経由の)原子論に由来する

シュタイナーのこうした指摘は半ば正しい
ニーチェの読者も現代科学に無関心であるべきではないだろう

11:06 午後  
Blogger yoji said...

権力への意志

四九〇 (473─74)
 主観を一つだけ想定する必然性はおそらくあるまい。おそらく多数の主観を想定しても同じくさしつかえあるまい、それら諸主観の協調や闘争が私たちの思考や総じて私たちの意識の根底にあるのかもしれない。支配権をにぎっている「諸細胞」の一種の貴族政治? もちろん、たがいに統治することに馴れていて、命令することをこころえている同類のものの間での貴族政治?

『内省と遡行』「序説」16頁、「言語・数・貨幣 第1章」164頁に引用

五一八 (500─501)
 私たちの「自我」が、私たちにとっては、私たちがそれにしたがってすべての存在をつくりあげたり理解する唯一の存在であるなら、それもまことに結構! そのときには、或る遠近法的幻想が──一つの地平線のうちへのごとく、すべてのものをそのうちへとひとまとめに閉じこめてしまう見せかけの統一が、ここにはあるのではなかろうかとの疑問がとうぜんおこってくる。肉体を手引きとすれば巨大な多様性が明らかとなるのであり、はるかに研究しやすい豊富な現象を貧弱な現象の理解のための手引きとして利用するということは、方法的に許されていることである。(結局、すべてのものが生成であるとすれば、認識は存在を信ずることにもとづいてのみ可能である。)

内省と遡行15~6頁164頁

四七七 (673─74)
 主は内的世界についてもその現象性を固執する。すなわち、私たちが意識するすべてのものは、徹頭徹尾、まず調整され、単純化され、図式化され、解釈されている

内省と遡行9頁163頁

492
主観が主観に関して直接問いたずねること、また精神のあらゆる自己反省は、危険なことであるが、その危険は、おのれを、偽って解釈することがその活動にとって有用であり重要であるかもしれないという点にある。それゆえ私たちは肉体に問いたずねるのであり、鋭くされた感官の証言を拒絶する。言ってみれば、隷属者たち自身が私たちと交わりをむすぶにいたりうるかどうかを、こころみてみるのである。

内省と遡行9頁163頁
─────────────

4:17 午前  
Blogger yoji said...

フロイト超自我・図解
http://yojiseki.exblog.jp/7759962/

フロイト超自我・図解
フロイトによる無意識の図解。

基本的に、
意識Bw
前意識Vbw
無意識Ubw
と並んで、斜めに抑圧が入る。

「自我とエス」(1923)より、エスの図 ↓(超自我はまだ入っておらず、「聴覚帽」が自我の上に斜めにのっている。最新の脳科学を取り入れた結果かもしれない)。
a0024841_0454778.jpg

『続精神分析入門』(1933)より 超自我が入った図↓(横向きに掲載されることもあるがフロイト原典は未確認。Ichを強調しているから本来は横向きだろうが上図との比較の便宜上、縦にした)。
エスの下が開いているのは身体領域の本能エネルギー(リビドー)が取り込まれるためらしい。
参考:http://www.kbc.gr.jp/concerto/study/seisinbunseki.html
a0024841_0561055.jpg


超自我が加わることでフロイト理論は難解さが増した。実際超自我の位置づけはフロイト自身の中でも変化している(ちなみにフロイトは図よりも実際は意識の部分が大きいと注意している*)。

下記サイトより日本語訳バージョン。
http://www.2px.jp/psycho/p3.htm

a0024841_11931100.gif

http://filmplus.org/thr/2004.html
フロイト自身の図解ではないが、超自我の位置づけに関しては上記サイトの図↓がわかりやすい。超自我が無意識・前意識・意識と広範囲を横断することがよく明示されている。
a0024841_0461676.gif

以下は集団の理想が外部にある状態を説明したもの(自我理想)。ラカンの記載法だとi(a)。超自我(理想自我)とは直接関係ないが、再び内部から外部へ超自我=理想が移行した場合と似ていなくもない。
「集団心理学と自我の分析」(1921)より自我理想の図↓
a0024841_0463075.jpg


ちなみにエスはドイツ語で非人称の主語、「それ」のこと。諸説*あるがフロイトがグロデック経由でニーチェから借りた言葉と言われる**。邦訳『エスとの対話』解説(p284)で詳しく引用されている。

「論理学者たちの迷信に関して言えば、私はこれらの迷信家たちが承認したがらないひとつの小さな簡短な事実を何度でも繰り返し強調しようーーひとつの思想というものは「それ es」が欲するときにやって来るもので、「われ ich」が欲するときにやって来るのではない、と。」(『善悪の彼岸』第17節より)

7:27 午後  
Blogger yoji said...

http://www.geocities.jp/jbgsg639/sutta.html
 ニーチェの読んだ『スッタニパータ』は、

Sutta Nipata by M. Coomaraswamy
Keywords: Buddhism; Pali; Canon; Tipitaka; Tripitaka; Khuddaka; Nikaya; Sutta; Nipata; translation Pages: 187
http://static.sirimangalo.org/pdf/coomaraswamysuttanipata.pdf


キリスト教は邪教です!―現代語訳『アンチクリスト』 ニーチェ,フリードリッヒ・ヴィルヘルム(著)
http://bookweb.kinokuniya.co.jp/htm/4062723123.html
http://blog.goo.ne.jp/zen9you/e/fea0ef6ba775f66d31871dd9fffa3107
 19世紀ドイツの哲学者ニーチェの「アンチクリスト」の現代語訳
 
『仏教はキリスト教に比べれば、100倍くらい現実的です。仏教のよいところは
「問題は何か」と客観的に冷静に考える伝統を持っているところです。・・・そういう意味では
仏教は、歴史的に見て、ただ一つのきちんと論理的にものを考える宗教と言っていいで
しょう。』

『仏教が注意しているのは、次の二つです。
一つは、感受性をあまりにも敏感にするということ。なぜなら、感受性が高ければ高いほど、
苦しみを受けやすくなってしまうからです。そしてもう一つは、なんでもかんでも精神的な
ものとして考えたり、難しい概念を使ったり、論理的な考え方ばかりしている世界の中に
ずっといること。そうすると、人間は人格的におかしくなっていくのです。』

『仏教は良い意味で歳をとった、善良で温和な、きわめて精神化された種族の宗教です。
ヨーロッパはまだまだ仏教を受け入れるまでに成熟していません。仏教は人々を平和でほ
がらかな世界へ連れていき、精神的にも肉体的にも健康にさせます。
キリスト教は野蛮人を支配しようとしますが、その方法は彼らを病弱にすることによって
です。相手を弱くすることが、敵を飼い慣らしたり、文明化させるための、キリスト教的
処方箋なのです』
44 :
考える名無しさん
2016/12/03(土) 09:52:32.27 0
 《僕はシュマイツナーの友人ヴィーデマン氏から、仏教徒たちの聖典heiligen Buchernの
ひとつとかいう『スッタ・ニパータ』の英語の本を借りた。そして『スッタ』の確乎たる
結句のひと  つを、つまり「犀の角ように、ただ独り歩め」という言葉を僕はもうふだんの
用語にしているのだ。生の無価値とすべての目標の虚偽とにたいする確信が、しきりと、
ときには僕の心に迫 ってくるのだ、ことに病気でベッドに寝ているときなどにはね。
それで僕は『スッタ』からもっと多くのことを聞きとろうとしているのだ、ユダヤ=キリスト
教的な言い回しと結びつけないで ね。
 ――(三行略)――
 生に執着してはいけないということ、これは明白なことなのだ。だが、実際にもうなに
ものも意志しないということになったら、どこで僕たちは生に耐えていけるのだろうか?
認識せんと 意志することは、生の意志の最後の領域として、意志することと、もはや意志
しないことの、つまり煉獄の領域と涅槃の領域の中間地帯として、残されているように僕は
思うのだ。一方 には、不満を覚え、軽蔑しながら生をふりかえるかぎり、煉獄があり、
他方には、精神(ゼーレ)が生によって純粋観照の状態に近づくかぎり、涅槃があるのだ。》
             (理想社ニーチェ全集第十五巻「書簡集Ⅰ」塚越敏訳)

4:54 午後  
Blogger yoji said...


《「実にこの世においては、怨みに報いるに怨みを以てしたならば、ついに怨みの息むことがない。怨みをすててこそ息む。
これは永遠の真理である。(五)*」

 これは個人と個人との間で生かされる道理であるばかりでなく、国際的にも意味をもっている発言です。
 ここで思い出すのは、第二次世界大戦のあとで講和条約が締結され、世界の諸国はわが国に賠償を要求したのですが、
その時にスリランカ国は、サンフランシスコ条約には参加しましたが、賠償権を放棄しました。その時の声明の中に、
この法句経のことばを引いているのです。
 なぜか。その時、スリランカの政府首脳たちは、仏典のこの文句をひいて言いました。「戦いは終わったのだ。もはや
怨みに報いるに怨みを以てすることをやめよう。この精神でセイロン(スリランカの旧国名)は世界の平和に貢献したい」と。》
中村元『原始仏典』
*ダンマパダ法句経より

新田章『ヨーロッパの仏陀』233頁によれば、同箇所をニーチェは以下の書からの孫引きで『反キリスト者』に引用している。

オルデンベルク『仏陀』(書肆心水)原著1881年刊行
http://www.shoshi-shinsui.com/book-buddha.htm

Amazon.co.jp: 法句経 電子書籍: 荻原 雲来: Kindleストア
https://www.amazon.co.jp/dp/B009MAANEW

世の中に怨は怨にて息むべきやう無し 。無怨にて息む 、此の法易はることなし 。

敵意そのものの消滅を平和の条件としたカントの永遠平和論を想起させる。

5:33 午後  
Blogger yoji said...

《平和とは一切の敵意が終わることで、…》

5:36 午後  
Blogger yoji said...


河出書房新社版権力への意志より

四一五 (479)  
 ヘーゲル。彼の俗うけする側面は戦争と偉人についての教えである。正義は勝利者のところにある、勝利者は人類の進歩を示すからであるとされる。道徳の支配を歴史から証明する試み。
 カント。私たちからは引きはなされており、不可視的ではあるが、現実的な、道徳的価値の王国。
 ヘーゲル。発展は立証されることができ、道徳の王国は可視的となる。
 私たちは、カント的手法でも、ヘーゲル的手法でも欺かれはしない。──私たちはもはや、彼らのごとく、道徳を信ずることはなく、したがって、道徳が権利を保ちつづけるためのいかなる哲学をも基礎づけてはならない。批判主義も歴史主義もこの点では私たちにとってはその魅力をもってはいない。──ところで、いったいそれはどのような魅力をもっているのか?──

四一六 (496)
 ドイツ哲学(ヘーゲル)の意義は、悪、誤謬、苦悩が神性を駁する論拠であるとは感取されないような汎神論を考えだしたことである。この壮大な発意は、あたかもそのときの支配者の合理性がそれで認可されるかのごとく、現存の権力(国家その他)によって悪用された。  ショーペンハウアーは、これに反して、頑固な道徳的人間としてあらわれる。彼はついには、おのれの道徳的評価をあくまで正しいとするために、世界否定者となる。ついには「神秘主義者」となる。



NAMs出版プロジェクト: キルケゴール:メモ
http://nam-students.blogspot.jp/2012/01/blog-post_28.html

9:20 午後  
Blogger yoji said...

ニーチェ名言集|世界傑作格言集
http://kakugen.aikotoba.jp/Nietzsche.htm
・人間のみがこの世で苦しんでいるので、笑いを発明せざるを得なかった。
―「権力への意志」―

 

・人間は深淵に架けられた一本の綱である。
渡るも危険、途上にあるも危険、後ろを振り返るも危険、身震いして立ち止まるのも危険。
―「ツァラトゥストラかく語りき」―

 

・狂気は個人にあっては稀なことである。しかし集団・民族・時代にあっては通例である。
―「善悪の彼岸」―

 

・自殺を想うことは強い慰謝剤である。これによって数々の悪夜が楽に過ごせる。
―「善悪の彼岸」―

 

・怪物と戦う者は、その過程で自分自身も怪物になることのないように気をつけなくてはならない。
深淵をのぞく時、深淵もまたこちらをのぞいているのだ。

『善悪の彼岸』
Jenseits von Gut und Bose

怪物と闘う者は、その過程で自らが怪物と化さぬよう心せよ。おまえが長く深淵を覗くならば、深淵もまた等しくおまえを見返すのだ。 --146節
"Wer mit Ungeheuern kämpft, mag zusehn, dass er nicht dabei zum Ungeheuer wird. Und wenn du lange in einen Abgrund blickst, blickt der Abgrund auch in dich hinein."

6:56 午前  
Blogger yoji said...

#4:
一五七  自殺を想うことは強い慰藉剤である。これによって数々の悪夜が楽に過ごされる。

善悪の彼岸
岩波文庫

6:58 午前  
Blogger yoji said...

《ドイツの哲学者ニーチェの言葉が心理療法的に有益であることがある。それは「自殺念慮は多くの生命を救っている」との言葉である。つまり,人生の重荷が耐え難いものになったとき,人間は自分の人生を閉じる自由をもっているという知識が,生活上の情緒障害に対処しようとしている多くの人びとを救ったのである.》邦訳フロム・ライヒマン『積極的心理療法』1964,1950、210頁

[《#4:一五七  自殺を想うことは強い慰藉剤である。これによって数々の悪夜が楽に過ごされる。》ニーチェ『善悪の彼岸』岩波文庫]

7:03 午前  
Blogger yoji said...


http://yojiseki.exblog.jp/8188461/
ジャッキー・ロビンソン
イチローが安打記録を打った際、42番の背番号をつけていた。これは黒人メジャーリーガー、ジャッキー・ロビンソンのつけていた背番号を当日の出場選手が記念につけたものだ。イチローと張本の記事は多かったがジャッキー・ロビンソンの記事が少なかったので動画を紹介したい。


マルコムXは自伝(邦訳p207)で、ジャッキー・ロビンソンのファンであったことを公言している。

「ジャッキー・ロビンスンがブルックリン・ドジャース軍のメンバーに抜擢された一九四七年の四月のあの日、刑務所中にわきたった興奮はいまだに忘れられない。当時私はジャッキー・ロビンスンのもっともっとも熱狂的なファンだった。彼が試合をしているあいだ、耳をラジオにくっつけて離さなかった。そしてどんな試合でも、最終打席までに彼がどれほどの打率をあげたか計算したああとでなければ、試合が終わったような気がしなかった。」

追記:
マルコム・X(中村とうようによればこの表記が正しい)はビンビイという名前の囚人の知的な態度に感銘を受けて、刑務所内で勉強をし始める。
「無神論的体系」のなかにすべてをおさめる方が、悪態をつくより有効だと気づくのだ(自伝、邦訳p206*)。彼がイスラム教に目覚めるのはそのすぐあとで、上記の野球への熱中はそのあいだにある。ちなみにマルコムが好きな歌手はビリー・ホリデーだそうだ(全盛期の彼女を聞いている)。


「ビンビイは私に、めったに多くを語らなかった。彼は個々の
人間にたいしてつっけんどんだったが、私は彼に好かれている
と感じた。彼と友だちになろうという気になったのは、彼が宗
教を論じるのを聞いたときである。私は自らを、もはや無神論
を越えたものと見なしていた~~つまり私はサタンだった。し
かしビンビイは無神論哲学を、いわば一つの体系のなかにおさ
めたのである、私はそれまでの激しい罵倒による宗教攻撃をや
めてしまった。私の態度は彼にくらべるとじつに迫力のないも
のに思われた。そのうえ彼は、下品な言葉など一度も口にした
ことさえなかったのだ。」
『マルコムX自伝』邦訳206頁

4:52 午前  
Blogger yoji said...

《ビンビイは私に、めったに多くを語らなかった。彼は個々の
人間にたいしてつっけんどんだったが、私は彼に好かれている
と感じた。彼と友だちになろうという気になったのは、彼が宗
教を論じるのを聞いたときである。私は自らを、もはや無神論
を越えたものと見なしていた~~つまり私はサタンだった。し
かしビンビイは無神論哲学を、いわば一つの体系のなかにおさ
めたのである、私はそれまでの激しい罵倒による宗教攻撃をや
めてしまった。私の態度は彼にくらべるとじつに迫力のないも
のに思われた。そのうえ彼は、下品な言葉など一度も口にした
ことさえなかったのだ。》『マルコムX自伝』邦訳206頁 )

4:54 午前  
Blogger yoji said...

《ビンビイは私に、めったに多くを語らなかった。彼は個々の
人間にたいしてつっけんどんだったが、私は彼に好かれている
と感じた。彼と友だちになろうという気になったのは、彼が宗
教を論じるのを聞いたときである。私は自らを、もはや無神論
を越えたものと見なしていた--つまり私はサタンだった。し
かしビンビイは無神論哲学を、いわば一つの体系のなかにおさ
めたのである、私はそれまでの激しい罵倒による宗教攻撃をや
めてしまった。私の態度は彼にくらべるとじつに迫力のないも
のに思われた。そのうえ彼は、下品な言葉など一度も口にした
ことさえなかったのだ。》
(『マルコムX自伝』邦訳206頁 )

4:55 午前  
Blogger yoji said...


永遠回帰にはライプニッツからも影響があると思う。

(永遠回帰を発見した1881年8月直前のスピノザを賞賛する手紙>>540 で、
肯定という主題がはじめて出現したが)

ライプニッツに関しては、永劫回帰の発見以後の1886年、ニーチェはライプニッツに
よる「意識は表象の一偶有性にすぎない」というテーゼを賞賛している(『悦ばしい
知識』第5章「われら恐れを知らぬ者」357)。
アガンベンは「つまるところ、ツァラトゥストラの永遠回帰は、ライプニッツの『弁神論』
の無神論的な変種でしかない」とまで言っている(『バートルビー』)。

シュタイナーによれば、ニーチェはデューリングから永劫回帰のアイデアを得たと言う
(シュタイナー『ニーチェ』)。ニーチェの蔵書のなかにあるデューリングの著書には
ニーチェの書き込みが残っているのだ。
現在の一瞬を極小小粒子の特定の連関結合(Kombination)として描いている点において、
ニーチェはデューリングの『厳密な科学的世界観と生命形成論としての哲学教程』(1875年)
におけ る否定的記述から永劫回帰の説をあみだしたことになる(邦訳シュタイナー
『ニーチェ』p197)。
ただしデューリング自身はライプニッツの影響を受けているから、間接的にこれもライプニッツ
経由と言える。

ニーチェにはスピノザとライプニッツ両方が必要で、永遠回帰は両者の統合だったと思う。
だからこそスピノザ(一元論)とライプニッツ(多元論)を共存させたドゥルーズがニーチェを賞賛したのだ。
例えば『差異と反復』はまるまる一冊、永遠回帰に捧げられていると言っていい。
『ツァラトゥストラ』を読めば、東洋思想の重要性は明らかで、仏教からの影響も考えるべきだが、
シュタイナーの言うように、永遠回帰は最新物理学への、超人思想は最新生物学(=進化論)への
ニーチェなりの回答と取るべきだ。

9:20 午前  
Blogger yoji said...

「この人を見よ」は発狂する前の総括で読みやすくまとまってはいるが
ニーチェのリアルな足跡は別の文献で辿ることができる

ドゥルーズは「差異と反復」を読む必要があるが
正直手に余る
「記号と事件」のようなインタビューがいいのではないか?

12:46 午後  
Blogger yoji said...

以下のドゥルーズの言葉はニーチェ的だ

《わたしたちに とっての唯一の教師は、わたしたちに 対して「私と共にやりなさい」と言う…》
(『差異と反復』単行本49頁、文庫上74頁)

12:49 午後  
Blogger yoji said...

マーラー 君に捧げるアダージョ(プレビュー)
https://youtu.be/HzzoVDNbytE

https://mental.or.jp/column/%E3%83%95%E3%83%AD%E3%82%A4%E3%83%88%E3%81%A8%E3%83%9E%E3%83%BC%E3%83%A9%E3%83%BC
映画 「マーラー・君に捧げるアダージョ」 を観てきました。

ドイツ語の原題は「カウチの上のマーラー」カウチとは、精神分析で使用する寝椅子のことです。
マーラーがフロイトの治療を受けたのは1910年ですが、映画では前額法が用いられてい
ましたが、この時期のフロイトは前額法をやめ、自由連想法に切り替えていたはずですの
で、映画の資料に問題があったのかどうか分かりませんが、それ以外のところは大体史実
に忠実に描かれていた様に思います。

参考:
Mahler: Symphony 3, movement 4 (Nietzsche: Midnight Song)
https://youtu.be/GZ4MtSIvK_4
「 おお人間よ! 心せよ 」 交響曲第3番第四楽章より
O Mensch! Gib acht  詩: フリードリッヒ・ニーチェ

おお人間よ! おお人間よ! 
心せよ! 心せよ!
何を語っているのか 深い真夜中は?
「われは眠っていた われは眠っていた
深き夢より われは目覚める
世界は深い
はるかに深いのだ 昼間が考えていたよりもずっと
おお人間よ! おお人間よ! 
深い 深い 深いのはその苦悩 深いのはその苦悩
だが快楽は −心の苦悩よりなお深いのだ
苦悩は語る:消え去れ!と
だがあらゆる快楽は永遠を求める
深い 深い永遠を求めるのだ!」

10:35 午前  
Blogger yoji said...

ニーチェはたしか『悦ばしき知識』で
「絶対的真実は絶対的に存在しないという真実が存在するだけだ」
と書いていたが、普通に読み取ればこの文自体矛盾している。さっき書いたようにトートロジーで無限に繰り返される命題だ。
やはり1つの思想を作り上げるには無限の回帰そのものを絶対的真実と置かざるを得なかったのか。
あらら、そしたら永劫回帰のもとに他のあらゆる事象が絶対化されてしまう。
ニーチェ思想がニーチェ自身の首を絞めていることになる。
この矛盾にニーチェはどの様な結論を出したのだろうか?

2:07 午後  
Blogger yoji said...

永劫回帰を思いつく直前、ニーチェはスピノザを発見しています。
ニーチェとスピノザに関しては、(すぐにニーチェがスピノザの理性主義に反発して決別する
ので無理もないですが)入門書ではほとんど語られないが最重要項目だと思います。
(それでも講談社学術文庫『ニーチェ』(山崎庸佑)、中公新書『ニーチェ』(藤田健治)は少し
スピノザに言及していますが。)

《僕はすっかりびっくりして、うっとりしているんだ! 僕には先駆者がいるのだ、なんという
先駆者だろう! 僕はほとんどスピノザを知らなかった、僕がいまスピノザをもとめたという
のは、ひとつの「本能的な行為」であったのだ。彼の傾向がすべて、――認識をもっとも力
づよい情熱とする――僕の傾向にそっくりというだけではない。彼の説の五つの主要な点に
僕は僕の姿をみたのだ。この最も異質な最も孤独な思想家は、まさに僕にもっとも近い、
――彼は意志の自由を否定する、目的を、道徳的世界秩序を、非利己的なものを、そして
悪を否定する。………つまりだね、高い高い山に登った時のように、ときどき僕の息を
詰まらせたり、僕の血を流させたりした僕の孤独が、少なくともいまは、二人連れの孤独な
のだ――ふしぎだね!》
(ニーチェ。1881年7月30日、オーヴァーベック宛て書簡。ちくま文庫ニーチェ全集別巻1
上500頁より)

ヨベル『異端の系譜』によれば、のちにニーチェの力への意志がスピノザのコナトゥスに、
運命愛が知的愛に対抗して提出される。隠者志向=ツァラツストゥラといった相似点も見出せ
ます。


http://4.bp.blogspot.com/-htZmok639wQ/UZiJzI6AwxI/AAAAAAAAVJY/JikPMKevnKM/s1600/IMG_03377.jpg
《ある日私はシルヴァプラーナ湖に沿って森を幾つか通り抜けていった。スールレイ近くに
ピラミッド型をして聳えている巨大な岩があり、私はそばで休止した。そのとき、この思想が
私に到来したのであった》(『この人を見よ』ツァラトゥストラはこう語った)

4:54 午後  
Blogger yoji said...

ヒュームの懐疑論はヒュームの原理とのちに名付けられる一対一対応を
基礎にしている
単なる不可知論ではない
スピノザで言えば思惟と延長の対応がこれに当たる
ライプニッツの多元論もほとんど同じ基礎から成り立っている


さてニーチェだが
ドゥルーズがスコトゥス、スピノザ、ニーチェという存在の一義性の系譜を
重視したのは正しい
その中でも永遠回帰がライプニッツとスピノザを調停する
懐疑論は結局一つの原理を彫塑する
規定は否定
否定は規定なのだ

5:02 午後  
Blogger yoji said...

651 考える名無しさん[] 2019/04/20(土) 11:04:35.11 ID:0
ラスコーリニコフの選民思想が正しいと知った時には愕然とした
黒沢明のような天才は存在する
ただし倫理的にはより高い要求がなされる

7:06 午後  
Blogger yoji said...

塚谷肇 Tsukatani Hajime (@H_Tsukatani)
2020/09/13 15:19
Man muss fest auf sich sitzen, man muss tapfer auf seinen beiden Beinen stehn, sonst kann man gar nicht lieben.

しっかりと自分自身に落ち着き、勇気をもって自分の両脚で立たなければならない。さもなければ愛することも全くできないのだ。

       ニーチェ『この人を見よ』

https://twitter.com/h_tsukatani/status/1305028370321735684?s=21

4:09 午後  
Blogger yoji said...


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446

[668] Eine Frage der Macht, nicht des Rechtes. – Für Menschen, welche bei jeder Sache den höheren Nutzen ins Auge fassen, gibt es bei dem Sozialismus, falls er wirklich die Erhebung der jahrtausendelang Gedrückten,[668] Niedergehaltenen gegen ihre Unterdrücker ist, kein Problem des Rechtes (mit der lächerlichen, weichlichen Frage: »wie weit soll man seinen Forderungen nachgeben?«), sondern nur ein Problem der Macht (»wie weit kann man seine Forderungen benutzen?«); also wie bei einer Naturmacht, zum Beispiel dem Dampfe, welcher entweder von dem Men schen in seine Dienste, als Maschinengott, gezwungen wird oder, bei Fehlern der Maschine, das heißt Fehlern der menschlichen Berechnung im Bau derselben, sie und den Menschen mit zertrümmert. Um jene Machtfrage zu lösen, muß man wissen, wie stark der Sozialismus ist, in welcher Modifikation er noch als mächtiger Hebel innerhalb des jetzigen politischen Kräftespiels benutzt werden kann; unter Umständen müßte man selbst alles tun, ihn zu kräftigen. Die Menschheit muß bei jeder großen Kraft – und sei es die gefährlichste – daran denken, aus ihr ein Werkzeug ihrer Absichten zu machen. – Ein Recht gewinnt sich der Sozialismus erst dann, wenn es zwischen den beiden Mächten, den Vertretern des Alten und Neuen, zum Kriege gekommen zu sein scheint, wenn aber dann das kluge Rechnen auf möglichste Erhaltung und Zuträglichkeit auf seiten beider Parteien das Verlangen nach einem Vertrag entstehen läßt. Ohne Vertrag kein Recht. Bis jetzt gibt es aber auf dem bezeichneten Gebiete weder Krieg noch Verträge, also auch keine Rechte, kein »Sollen«.

8:22 午前  
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446

[668]法ではなく、権力の問題。 -あらゆる問題でより大きな利益を想定している人々にとって、それが抑圧者に対して何千年もの間落ち込んで抑圧されてきた人々の蜂起であるならば、社会主義に関する法律の問題はありません(ばかげた、薄っぺらな質問で:「あなたはあなたの要求にどこまで屈服すべきですか?」)、しかし力の問題だけです(「あなたはあなたの要求をどこまで使うことができますか?」);したがって、自然の力の場合と同様に、たとえば、機械の神として人間によって強制的に使用される蒸気、または機械のエラーの場合、つまり、機械の構築における人間の計算のエラーの場合機械、それとそれで破壊された人間。その権力の問題を解決するためには、社会主義がどれほど強力であるか、どのような修正において、現在の政治的勢力のゲーム内で強力な手段として使用できるかを知る必要があります。特定の状況下では、それを強化するためにすべて自分で行う必要があります。たとえそれが最も危険であるとしても、あらゆる大きな力で、人類はそれをその目的のための道具に変えることを忘れないでください。社会主義は、新旧の代表である両国の間で戦争が勃発したように見える場合にのみ権利を獲得しますが、両当事者の可能な限り最大の保存と健全性の賢明な計算が1つの契約。契約なしでは権利はありません。しかし、これまで、示された地域では戦争も条約もなかったので、権利も「すべき」もありません。

8:23 午前  
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http://www.zeno.org/Philosophie/M/Nietzsche,+Friedrich/Menschliches,+Allzumenschliches/Erster+Band/Achtes+Hauptst%C3%BCck.+Ein+Blick+auf+den+Staat/446.+Eine+Frage+der+Macht,+nicht+des+Rechtes

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8:24 午前  
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8:25 午前  
Blogger yoji said...

#8
四百四十六権利ではなく力の問題

どんな事がらでも、高い意味の利益に目をとめる人にとっては、社会主義の場合、もしそれが実際に幾千年の間圧迫され下積みにされて来た者のその圧迫者に対する反抗であるのならば、権利の問題(それは「人はどの程度その要求に従うべきか?」という笑うべき軟弱な問いを伴う)はなくて、力の問題(「人はどの程度その要求を利用し得るか?」)があるばかりだ。つまり何か自然力、たとえば蒸気の場合と同じだ。蒸気は人間にからくり神として御用を勤めさせられるか、それとも機械に欠陥がある場合、つまり機械の構造における人間の計算に欠陥がある場合に、機械も人間も一緒にして粉砕してしまうか、どちらかである。あの力の問題を解くには、社会主義がどれくらい強いか、どういう修正を施せばまだ現今の政治的勢力動静の圏内で強力な極として利用され得るかということを知らねばならない。事情によっては自ら全力をつくして社会主義を強めねばならぬこともあろう。人類はすべての大きな力に面して——たとえそれがきわめて危険な力であっても——それを自分の意図の道具とすることを考えねばならない。——権利というものを社会主義が初めて得るに至るのは、二つの力、古いものと新しいものとの代表者たちの間に戦端を開くに至ったように見えながら、できる限りの保有と収益を当てにする利口な打算が両側で何かの契約の要求を起こさせる時である。契約なくして権利はない。だが今までのところこの領域には戦争もないし、契約もない、従ってまた何の権利も、何の「当為」もない。

8:35 午前  

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