(dall’intervista a Michel Foucault realizzata da Serge Moati il 25 aprile 1977 e tradotta da noi)
Moati: Qual è secondo lei la funzione di un giudice nella società? ...A cosa serve?
Foucault: A cosa serve? Se fossi cattivo... ma anche se non lo sono, lo dirò lo stesso. Serve, in fondo, a permettere alla polizia di funzionare. Ora, si crede sempre che il grande avvenimento del XVIII secolo sia la riforma giudiziaria, l’acquisizione delle libertà, e via dicendo. Di importante, nel XVIII secolo, c’è stata un’invenzione, un’invenzione il cui merito non è stato abbastanza riconosciuto ai suoi inventori, che sono dei francesi: si tratta della polizia. La polizia, nella sua forma moderna, è un’invenzione del XVIII secolo e della monarchia amministrativa. E infatti la polizia è stata, dal XVIII secolo in poi, un’istanza formidabile di regolazione sociale, di sorveglianza perpetua, di correzione incessante del comportamento degli uomini; e un’istanza non tanto di giustizia quanto di normalizzazione. Non si trattava tanto di far applicare la legge, quanto di ottenere un comportamento normale, conforme, degli individui. E questo lo ha fatto la polizia, lo ha fatto per tutto il XVIII secolo, e lavorando negli interstizi di un potere giudiziario che in fondo era troppo ampio, discontinuo, disattento e così via. Bene, e credo che questa funzione poliziesca... della quale si dice sempre che dev’essere subordinata alla polizia, che è in fondo il vero zoccolo duro su cui funziona attualmente la giustizia... La giustizia non è fatta che per registrare a livello ufficiale, a livello legale, a livello rituale anche, questi controlli che sono essenzialmente dei controlli di normalizzazione e che vengono assicurati dalla polizia. La giustizia è al servizio della polizia; lo è storicamente e, di fatto, istituzionalmente.
Il 13 gennaio 2014 il tribunale del riesame di Torino ha confermato l’arresto (avvenuto il 9 dicembre) di Chiara Zenobi, Claudio Alberto, Mattia Zanotti, Nicolò Blasi, così come l’ipotesi di reato formulata dai Pm Antonio Rinaudo e Andrea Padalino per i fatti avvenuti a Chiomonte il 14 maggio 2013: «attentato con finalità terroristiche».
Nelle carte dell’inchiesta, gli inquirenti, forzando il piano strettamente giuridico, sostengono una tesi squisitamente politica. Dopo aver fatto una breve storia degli atti legislativi e dei vertici internazionali che hanno portato all’installazione del cantiere di Chiomonte, i magistrati sostengono che si tratta di procedure democratiche. L’azione contro il cantiere – assieme allo stillicidio di pratiche di contrasto di cui il faldone giudiziario fornisce un ampio elenco – viene definita «terroristica» non tanto per le sue caratteristiche specifiche, ma in quanto si oppone alla democraticità di una decisione intergovernativa. Seguiamo questa logica. Tutte le imposizioni dello Stato hanno un involucro legale, cioè sono formalmente basate sul Diritto. Tutto ciò che mette realmente in discussione un progetto statale è dunque passibile di «terrorismo». Rimane solo il dissenso platonico. Dare concretezza al proprio NO, che in fondo è la caratteristica essenziale del movimento No Tav, risulta quindi antidemocratico. Benito Mussolini avrebbe detto «nulla fuori dallo Stato, nulla contro lo Stato». Il totalitarismo parla oggi un linguaggio diverso. Non ti stanno bene le nostre imposizioni democratiche? Sei un terrorista.
参考:
http://www.ritsumei.ac.jp/acd/gr/gsce/db1990/9400fm06.htm
『ミシェル・フーコー思考集成VI 1976-1977 セクシュアリテ/真理』
201 寛容の灰色の曙 森田祐三訳
「ル・モンド」紙、九九九八号、一九七七年五月二十三日、24ページ、(一九六三年製作、一九六五年イタリア公開、ピエル・パオロ・パゾリーニの「愛の集会」について)
「そぞろ歩いたり、日なたぼっこをしている集団に、パゾリーニはたまたま通りかかったかのようにマイクを差し出し、誰にともなく、セックスや夫婦、快楽や家族、婚約とその習慣、売春とその料金といった諸々のことが交錯する、未決定の領域である「愛」について質問をする。」(本文より)
26 Comments:
http://blog.livedoor.jp/kay_shixima/archives/52482541.html
「いつの日か、世紀はドゥルーズ的なものになるだろう」(「劇場としての哲学」1970,コレクション3)、かつてミッシェル・フーコーはドゥルーズを讃えるテクストの冒頭にこう書き記しました。この言葉の現代的意義を我々はもう一度問い直さねばならないのです。
http://1libertaire.free.fr/MFoucault244.html
Theatrum philosophicum
Michel Foucault
« Theatrum philosophicum », Critique, no 282. novembre 1970, pp. 885-908. (Sur G. Deleuze, Différence et Répétition. Paris. PUF, 1969, et Logique du sens, Paris, Éd. de Minuit, coll. « Critique », 1969.)
Dits Ecrits tome II texte n°80
Il me faut parler de deux livres qui me paraissent grands parmi les grands : Différence et Répétition, Logique du sens. Si grands sans doute qu'il est difficile d'en parler et que peu l'ont fait. Longtemps, je crois, cette oeuvre tournera au-dessus de nos têtes, en résonance énigmatique avec celle de Klossowski, autre signe majeur et excessif. Mais un jour, peut-être, le siècle sera deleuzien.
https://opac.lib.city.yokohama.lg.jp/opac/OPP1500?ID=11&SELDATA=TOSHO&SEARCHID=4&START=11&ORDER=DESC&ORDER_ITEM=SORT4-F&LISTCNT=10&MAXCNT=1000&SEARCHMETHOD=SP_SEARCH&MENUNO=0
カント全集 13 批判期論集
著者名等 カント/〔著〕 ≪再検索≫
著者名等 坂部恵/編 ≪再検索≫
著者名等 有福孝岳/編 ≪再検索≫
著者名等 牧野英二/編 ≪再検索≫
出版者 岩波書店
出版年 2002.03
大きさ等 22cm 508,9p
NDC分類 134.2
内容 内容:
ランベルト往復書簡集の公告 谷田信一/訳.
医師たちへの告示 谷田信一/訳.
七つの公開声明 北尾宏之/訳.
シュルツ著『宗教の区別なき万人のための人倫論試論』についての論評 福谷茂/訳.
偽版の違法性について 円谷裕二/訳.
G・フーフェラント著『自然法の原則にかんする試論』についての論評 円谷裕二/訳.
L・H・ヤーコプの『メンデルスゾーンの「暁」の検討』に対する二、三の覚え書き 円谷裕
二/訳. 思考の方向を定めるとはどういうことか 円谷裕二/訳.
純粋理性批判の無用論 福谷茂/訳.
弁神論の哲学的試みの失敗 福谷茂/訳.
哲学における最近の高慢な口調 福谷茂/訳.
誤解から生じた数学論争の解消 田山令史/訳.
魂の器官について 谷田信一/訳.
哲学における永遠平和条約の締結が間近いことの告示
内容 遠山義孝/訳.
人間愛からの嘘 谷田信一/訳.
出版稼業について 谷田信一/訳.
R・B・ヤッハマン著『カントの宗教哲学の検討』への序文 谷田信一/訳.
Ch・G・ミールケ編『リトアニア語=ドイツ語辞典』へのあとがき 谷田信一/訳.
形而上学の進歩にかんする懸賞論文 円谷裕二/訳. 解説. 索引あり
形而上学の
に
考古学への言及no.100
フーコー思考集成3:155
「司法はポリスに奉仕する」(ミシェル・フーコー)は思考集成に収録されていないのだろうか?
『ミシェル・フーコー思考集成 全10巻』筑摩書房
http://www.arsvi.com/w/fm05.htm#01c
Que représente le corps policier dans une démocratie? Lors d’une entrevue accordée en 1977, le célèbre philosophe Michel Foucault parlait de la police comme d’une « formidable instance de régulation sociale, de surveillance perpétuelle, de correction incessante du comportement des gens. Une instance non pas tellement de justice que de normalisation ». [10]
[10] Serge Moati. Michel Foucault : la justice et la police. Antenne 2, 02min03s, 25 avril 1977.
Badiou interviews Michel Foucault (1965) 1/3 English Subtitles
http://youtu.be/PFyB09FrtaY
Foucault, Michel『ミシェル・フーコー思考集成Ⅱ 1964-1967 文学/言語/エピステモロジー』
http://www.arsvi.com/b1990/9400fm4.htm
1965
30 哲学と心理学 慎改康之訳
(アラン・バデューとの対話)、『教育テレビ・ラジオ放送資料集』一九六五年二月二十七日、65-71ページ。
この討論は、つづくNo.31と同様、一九六五-一九六六年度、ディナ・ドレフュス企画、ジャン・フレシェ監修のもとに教育テレビ・ラジオ放送によって制作された番組である。
これらの番組は最近、国立教育資料センターおよびナタン出版社によって、『哲学者の時代』シリーズにビデオカセットとして再版された。一方、「カイエ・フィロゾフィック」誌増刊号(一九九三年六月)にもこれらの番組内容の逐語的な転写が掲載されているが、それはここに収録したテクストと大きく異なっている。なお、ここに収録したテクストのみが、討論の参加者たちによる見直しを通過したものである。
31 哲学と真理 慎改康之訳
(アラン・バデュー、ジョルジュ・カンギレム、ディナ・ドレフュス、ジャン・イポリット、ポール・リクールとの対談)、『教育テレビ・ラジオ放送資料集』一九六五年三月二十七日、1-11ページ。前項No.30の紹介事項を参照。
「第一部(J・イポリット、G・カンギレム)」「第二部(M・フーコー、P・リクール)」「第三部(J・イポリット、G・カンギレム、P・リクール、M・フーコー、D・ドレフュス)」「第四部(J・イポリット、G・カンギレム、P・リクール、A・バデュー、D・ドレフュス)」という構成になっている。
「しかし、おのれから出発して表明され得るような人間の本質、また、可能な認識すべての基礎であると同時に認識の可能な限界そのものの基礎でもあるような人間の本質を規定しようと試みる、そのときから、ひとは誤謬推理のただなかにいるのです。」(本文より)
Debate Noam Chomsky & Michel Foucault - On human nature [Subtitled]
http://youtu.be/3wfNl2L0Gf8
Foucault, Michel『ミシェル・フーコー思考集成Ⅴ 1974-1975 権力/処罰』
http://www.arsvi.com/b1990/9400fm7.htm
1974
◆132 人間的本性について一正義対権力 石田英敬・小野正嗣訳
(N・チョムスキー、F・エルダースとの討議、アイントホーヘン、一九七一年九月。翻訳A・ラビノヴィッチ)、F・エルダース編『返り水-人類の基本的関心』ロンドン、スーヴェニア・プレス、135-197ページ(オランダのテレビによる、フランス語と英語による討議。一九七一年九月にアイントホーヘン高等技術学校にて収録)。
「フーコー一(…)スピノザの言葉を使ってあなたにお答えしましょう。私があなたに申し上げたいのは、プロレタリアートは、自分たちの闘いが正しいと考えているから支配階級と闘っているわけではない、ということです。プロレタリアートが支配階級と闘うのは、歴史においてはじめて、彼らが権力を奪取したいと望んだからなのです。そして、支配階級の権力を転覆させたいがゆえに、この闘いが正しいのだと考えるのです。
チョムスキー一同意しかねますね。
フーコー一人は勝つために闘うのであって、それが正当だからなのではありません。」(本文より)
http://youtu.be/3wfNl2L0Gf8?t=55m50s
http://youtu.be/3wfNl2L0Gf8?t=56m
Debate Noam Chomsky & Michel Foucault - On human nature [Subtitled]
http://youtu.be/3wfNl2L0Gf8
Foucault, Michel『ミシェル・フーコー思考集成Ⅴ 1974-1975 権力/処罰』
http://www.arsvi.com/b1990/9400fm7.htm
1974
◆132 人間的本性について一正義対権力 石田英敬・小野正嗣訳
(N・チョムスキー、F・エルダースとの討議、アイントホーヘン、一九七一年九月。翻訳A・ラビノヴィッチ)、F・エルダース編『返り水-人類の基本的関心』ロンドン、スーヴェニア・プレス、135-197ページ(オランダのテレビによる、フランス語と英語による討議。一九七一年九月にアイントホーヘン高等技術学校にて収録)。
「フーコー一(…)スピノザの言葉を使ってあなたにお答えしましょう。私があなたに申し上げたいのは、プロレタリアートは、自分たちの闘いが正しいと考えているから支配階級と闘っているわけではない、ということです。プロレタリアートが支配階級と闘うのは、歴史においてはじめて、彼らが権力を奪取したいと望んだからなのです。そして、支配階級の権力を転覆させたいがゆえに、この闘いが正しいのだと考えるのです。
チョムスキー一同意しかねますね。
フーコー一人は勝つために闘うのであって、それが正当だからなのではありません。」(本文より)
Debate Noam Chomsky & Michel Foucault - On human nature [Subtitled]
http://youtu.be/3wfNl2L0Gf8?t=56m
http://youtu.be/3wfNl2L0Gf8?t=55m50s
Foucault, Michel『ミシェル・フーコー思考集成Ⅴ 1974-1975 権力/処罰』
http://www.arsvi.com/b1990/9400fm7.htm
1974
◆132 人間的本性について一正義対権力 石田英敬・小野正嗣訳
(N・チョムスキー、F・エルダースとの討議、アイントホーヘン、一九七一年九月。翻訳A・ラビノ
ヴィッチ)、F・エルダース編『返り水-人類の基本的関心』ロンドン、スーヴェニア・プレス、135-
197ページ(オランダのテレビによる、フランス語と英語による討議。一九七一年九月にアイントホ
ーヘン高等技術学校にて収録)。
「フーコー一(…)スピノザの言葉を使ってあなたにお答えしましょう。私があなたに申し上げたいのは、
プロレタリアートは、自分たちの闘いが正しいと考えているから支配階級と闘っているわけではない、と
いうことです。プロレタリアートが支配階級と闘うのは、歴史においてはじめて、彼らが権力を奪取した
いと望んだからなのです。そして、支配階級の権力を転覆させたいがゆえに、この闘いが正しいのだと考
えるのです。
チョムスキー一同意しかねますね。
フーコー一人は勝つために闘うのであって、それが正当だからなのではありません。」(42〜43頁より)
Debate Noam Chomsky & Michel Foucault - On human nature [Subtitled]
http://youtu.be/3wfNl2L0Gf8?t=56m
Foucault, Michel『ミシェル・フーコー思考集成Ⅴ 1974-1975 権力/処罰』
http://www.arsvi.com/b1990/9400fm7.htm
1974
◆132 人間的本性について一正義対権力 石田英敬・小野正嗣訳
(N・チョムスキー、F・エルダースとの討議)
「フーコー一(…)スピノザの言葉を使ってあなたにお答えしましょう。私があなたに申し上げたいのは、
プロレタリアートは、自分たちの闘いが正しいと考えているから支配階級と闘っているわけではない、と
いうことです。プロレタリアートが支配階級と闘うのは、歴史においてはじめて、彼らが権力を奪取した
いと望んだからなのです。そして、支配階級の権力を転覆させたいがゆえに、この闘いが正しいのだと考
えるのです。
チョムスキー一同意しかねますね。
フーコー一人は勝つために闘うのであって、それが正当だからなのではありません。」(42〜43頁より)
Debate Noam Chomsky & Michel Foucault - On human nature [Subtitled]
http://youtu.be/3wfNl2L0Gf8?t=56m
http://yojiseki.exblog.jp/5792100/
スピノザの「マルチチュード」とプルードン
プルードンは『革命と教会における正義』(邦訳なし)の第八章(「良心と自由」)でスピノザの『エチカ』から、精神の感情に対する関係に関した部分(第5部定理20備考)を引用している。
この引用部分にはネグリによって有名になった「マルチチュード」という言葉が入っているが、実は『エチカ』には「マルチチュード」という語の用例はここにしかないのだ。
以下、プルードンの引用した箇所を転載する。
「これをもって私は感情に対するすべての療法を、あるいはそれ自体のみで見られた精神が感情に対してなしうる一切のことを、総括した。これからして感情に対する精神の能力は次の点に存することが明白である。
1 感情の認識そのものに。
2 我々が混乱して表象する外部の原因の思想から感情を分離することに。
3 我々が妥当に認識する物に関係する感情は我々が混乱し毀損して把握する物に関係する感情よりも時間(継続)という点でまさっているその時間(継続)という点に。
4 物の共通の特質ないし神に関係する感情はこれを養う原因が多数(引用者注:=マルチチュード、この場合「群衆」の意味ではない)であるということに。
5 最後に、精神が自己の感情を秩序づけ、相互に連結しうるその秩序に。
しかしながら感情に対する精神のこの能力をいっそう明瞭に理解するためにはまず第一に次のことを注意しなくてはならぬ。我々が一人の人間の感情を他の人間の感情と比較して同じ感情に一人が他の人よりも多く捉われるのを見る時、あるいは我々が同一の人間の諸感情を相互に比較してその人間が他の感情によりもある一つの感情に多く刺激され、動かされるのを知る時、我々はその感情を大と呼ぶ。」
(『エチカ』第5部定理20備考より。引用は岩波文庫から)
ネグリは「以下ヲ欠ク」(『現代思想』1987.9)という論考で、ここでの「マルチチュード」という言葉の用法は『国家論』で展開される群衆論とは一見無関係だが、思考法として深く関係するのだと述べている。
プルードンのスピノザへの評価はアンビバレントなものだが、のちにネグリによって評価された部分をいち早くピックアップしているのは興味深い(ちなみに『以下ヲ欠ク』という言葉は未完となったスピノザの『国家論』の最後に書かれた言葉である)。
この『エチカ』の一節は、自由連想による観念連合をどう集合論的に束ねるかという問題として位置づけられるが、政治的な組織化の問題と直結するということでもある。
ネグリは政治主義的に捉えたが、プルードンのそれは政治組織を経済組織に還元するものであり、人民銀行案などがその具体例だった。
ネグリや上野修(『精神の眼は論証そのもの』)はスピノザを契約論者ではないと述べている。たしかにスピノザはホッブズやルソーのような社会契約論者とは違う。しかし、柄谷行人が『世界共和国へ』でプルードンは社会契約(片務的でない双務的なそれ)をさらに徹底したと述べたように、スピノザもその契約論を力能に重点を置いて徹底したと考える方が、さらなるスピノザの可能性を開くと思う。
そしてその視点こそがプルードンとスピノザをつなぐ潜在的な可能性をも解き放つと思う。
http://yojiseki.exblog.jp/5792100/
ラカンによるプルードン評
ラカンはプルードンの恋愛論(おそらく『革命と教会における正義』におけるそれ)に関して「セミナール2」において以下のように述べています。
「プルードンを読まれることを薦めます。この人は揺るぎない精神の持ち主で、教父のような確かな語調で語る人です。彼は人間の条件についてほんの少し身を引いて考察し、一般に考えられているよりずっと手を焼かされると同時に繊細なこの事柄、つまり貞節に接近しようとしました。(中略)プルードンの思考はことごとくロマンティックな幻想に刃向かうものですが、一見したところ神秘主義的とも見えるような文体で結婚における貞節を規定しようとします。そして彼が解答を見いだすのは象徴的契約としてしか認識できない何ものかにおいてなのです。」(「ソジー」『フロイト理論と精神分析技法における自我―1954-1955 (下) 』岩波書店pp146-7)
相手である異性を通して「すべての男/女」につながろうとする恋人同士の感情の奥に潜む無意識をラカンは、プルードンの相務的契約=相互主義的交換理論をヒントに読み解こうとしています。ラカンもプルードンも原理的な主張と政治的な主張を一つの文章の中で行なおうとしていて文章が難解になる点が似ているのですが、そこから明確な解答を得ようとする方向性も似ています。
二人とも交換=契約によってカオスを脱しようとしているのです。
もちろんラカンは「剰余享楽」(これはセミナール16にある用語)にも注意を払っています。マルクスの用語である剰余価値をラカンは「剰余享楽」と読み替えるなど、思い切った試みをしています。かつて、ラカンはフロイトよりもジャネの方がすぐれていると指摘したことがあるらしいですが(『ラカン』マローニ、新曜社)、マルクスやフロイトに対する見直しもラカンを鍵に行えるかもしれません。
ちなみに、プルードンの交換システムなどは、文学理論とは違う「現実界」のものですが、ラカンの立場からは「象徴界」と「想像界」を含むボロメオの結び目(これはイタリアのボロメオ家の紋章が名称の元になっている)をつなぐ試みとして考えることも出来るでしょう。ラカンとプルードンの違いをあえて指摘するならば、ラカンの方が、契約を保障する象徴的な第三項により多くの構造上の力点を置いている点でしょう。
ところで、『ジャック・ラカン伝』(河出書房新社、p26,69)を読むと、ラカンは若いころスピノザのエチカの構成を表す図面(色付の矢印つき)を部屋に飾っていたそうです。プルードンも『革命と教会における正義』で『エチカ』から引用していましたが(第5部定理20)、これは相互主義の理論的強化に役立つ部分でした。ラカンとプルードンのスピノザ理解(具体的にはラカンの飾った図はどのようなものだったのでしょうか?)も興味深いところです。
スピノザとプルードン
http://yojiseki.exblog.jp/7002538/
「こうしてスピノザは、社会契約論を、政治制度をはじめとするさまざまな社会的経済的システム全体の問題として再検討すべきであるとの考えに至った」柴田寿子「スピノザ政治論とカルヴィニズム」『スピノザと政治的なもの』平凡社(p230)
上記はスピノザの『神学・政治論』を論じた論文の一節だが、まるでプルードンを論じた言葉のようでもある。
多元的なスピノザによる聖書分析をさらに多元的に読み取ることが重要だということだろう。
上記論文は、カルヴィニズム(厳格な決定論を持つプロテスタントの一派)に対する反発がスピノザの時代状況から読みとれるという論文だったが、カルヴィニズムの持つ決定論に関してのアンビバレンツな態度は、ゴドウィンとの比較を可能にするかも知れない。
(なおプルードンは『革命と教会における正義』でスピノザの『エチカ』第五部から引用している。)
http://yojiseki.exblog.jp/5792100/
http://yojiseki.exblog.jp/4900101/
さて、社会契約の持つ一元的な危険性と、スピノザ=プルードンの唱える多元性を図解するとどのようなものになるだろうか?
これは以前別ブログでアップした「都市はツリーではない」が参考になると思う。
http://nam-students.blogspot.com/2008/01/blog-post.html
社会契約がツリー状で、プルードンの試みた交換銀行の相互契約はセミラティス状ということになる。
プルードンは『革命と教会における正義』(邦訳なし)の第八章(「良心と自由」)でスピノザの『エチカ』から、
精神の感情に対する関係に関した部分(第5部定理20備考)を引用している。
この引用部分にはネグリによって有名になった「マルチチュード」という言葉が入っているが、実は『エチカ』には
「マルチチュード」という語の用例はここにしかないのだ。以下、プルードンの引用した箇所を転載する。
「これをもって私は感情に対するすべての療法を、あるいはそれ自体のみで見られた精神が感情に対してなしうる一
切のことを、総括した。これからして感情に対する精神の能力は次の点に存することが明白である。
1 感情の認識そのものに。
2 我々が混乱して表象する外部の原因の思想から感情を分離することに。
3 我々が妥当に認識する物に関係する感情は我々が混乱し毀損して把握する物に関係する感情よりも時間(継続)
という点でまさっているその時間(継続)という点に。
4 物の共通の特質ないし神に関係する感情はこれを養う原因が多数(引用者注:=マルチチュード、この場合「群
衆」の意味ではない)であるということに。
5 最後に、精神が自己の感情を秩序づけ、相互に連結しうるその秩序に。
しかしながら感情に対する精神のこの能力をいっそう明瞭に理解するためにはまず第一に次のことを注意しなく
てはならぬ。我々が一人の人間の感情を他の人間の感情と比較して同じ感情に一人が他の人よりも多く捉われるのを見
る時、あるいは我々が同一の人間の諸感情を相互に比較してその人間が他の感情によりもある一つの感情に多く刺激さ
れ、動かされるのを知る時、我々はその感情を大と呼ぶ。」
(『エチカ』第5部定理20備考より。引用は岩波文庫から)
ネグリは「以下ヲ欠ク」(『現代思想』1987.9)という論考で、ここでの「マルチチュード」という言葉の用法は『国家
論』で展開される群衆論とは一見無関係だが、思考法として深く関係するのだと述べている。
プルードンのスピノザへの評価はアンビバレントなものだが、のちにネグリによって評価された部分をいち早くピックア
ップしているのは興味深い(ちなみに『以下ヲ欠ク』という言葉は未完となったスピノザの『国家論』最後の言葉)。
Badiou interviews Michel Foucault (1965) 1/3 English Subtitles
http://youtu.be/PFyB09FrtaY
Foucault, Michel『ミシェル・フーコー思考集成Ⅱ 1964-1967 文学/言語/エピステモロジー』
http://www.arsvi.com/b1990/9400fm4.htm
1965
30 哲学と心理学 慎改康之訳
(アラン・バデューとの対話)、『教育テレビ・ラジオ放送資料集』一九六五年二月二十七日、65-71ページ。
この討論は、つづくNo.31と同様、一九六五-一九六六年度、ディナ・ドレフュス企画、ジャン・フレシェ監修のもと
に教育テレビ・ラジオ放送によって制作された番組である。
これらの番組は最近、国立教育資料センターおよびナタン出版社によって、『哲学者の時代』シリーズにビデオカセ
ットとして再版された。一方、「カイエ・フィロゾフィック」誌増刊号(一九九三年六月)にもこれらの番組内容の
逐語的な転写が掲載されているが、それはここに収録したテクストと大きく異なっている。なお、ここに収録したテ
クストのみが、討論の参加者たちによる見直しを通過したものである。
31 哲学と真理 慎改康之訳
(アラン・バデュー、ジョルジュ・カンギレム、ディナ・ドレフュス、ジャン・イポリット、ポール・リクールと
の対談)、『教育テレビ・ラジオ放送資料集』一九六五年三月二十七日、1-11ページ。前項No.30の紹介事項を参照。
「第一部(J・イポリット、G・カンギレム)」「第二部(M・フーコー、P・リクール)」「第三部(J・イポリット、
G・カンギレム、P・リクール、M・フーコー、D・ドレフュス)」「第四部(J・イポリット、G・カンギレム、P・リ
クール、A・バデュー、D・ドレフュス)」という構成になっている。
「しかし、おのれから出発して表明され得るような人間の本質、また、可能な認識すべての基礎であると同時に認識の
可能な限界そのものの基礎でもあるような人間の本質を規定しようと試みる、そのときから、ひとは誤謬推理のただな
かにいるのです。」(本文より)
プルードンは『革命と教会における正義』(邦訳なし)の第八章(「良心と自由」)でスピノザの『エチカ』から、
精神の感情に対する関係に関した部分(第5部定理20備考)を引用している。
この引用部分にはネグリによって有名になった「マルチチュード」という言葉が入っているが、実は『エチカ』には
「マルチチュード」という語の用例はここにしかないのだ。以下、プルードンの引用した箇所を転載する。
「これをもって私は感情に対するすべての療法を、あるいはそれ自体のみで見られた精神が感情に対してなしうる一
切のことを、総括した。これからして感情に対する精神の能力は次の点に存することが明白である。
1 感情の認識そのものに。
2 我々が混乱して表象する外部の原因の思想から感情を分離することに。
3 我々が妥当に認識する物に関係する感情は我々が混乱し毀損して把握する物に関係する感情よりも時間(継続)
という点でまさっているその時間(継続)という点に。
4 物の共通の特質ないし神に関係する感情はこれを養う原因が多数(引用者注:=マルチチュード、この場合「群
衆」の意味ではない)であるということに。
5 最後に、精神が自己の感情を秩序づけ、相互に連結しうるその秩序に。
しかしながら感情に対する精神のこの能力をいっそう明瞭に理解するためにはまず第一に次のことを注意し
なくてはならぬ。我々が一人の人間の感情を他の人間の感情と比較して同じ感情に一人が他の人よりも多く捉われ
るのを見る時、あるいは我々が同一の人間の諸感情を相互に比較してその人間が他の感情によりもある一つの感情
に多く刺激され、動かされるのを知る時、我々はその感情を大と呼ぶ。」
(『エチカ』第5部定理20備考より。引用は岩波文庫から)
ネグリは「以下ヲ欠ク」(『現代思想』1987.9)という論考で、ここでの「マルチチュード」という言葉の用法は
『国家論』で展開される群衆論とは一見無関係だが、思考法として深く関係するのだと述べている。
プルードンのスピノザへの評価はアンビバレントなものだが、のちにネグリによって評価された部分をいち早くピ
ックアップしているのは興味深い(ちなみに『以下ヲ欠ク』という言葉は未完となったスピノザの『国家論』最
後の言葉)。
ネグリ、フーコー、ドゥルーズがプルードンに言及していないのは、マルクス主義的言説空間の中に彼らがいたからだ。
サルトルはプルードンに言及している。
プルードンは『革命と教会における正義』(邦訳なし)の第八章(「良心と自由」)でスピノザの『エチカ』から、
精神の感情に対する関係に関した部分(第5部定理20備考)を引用している。
この引用部分にはネグリによって有名になった「マルチチュード」という言葉が入っているが、実は『エチカ』には
「マルチチュード」という語の用例はここにしかないのだ。以下、プルードンの引用した箇所を転載する。
「これをもって私は感情に対するすべての療法を、あるいはそれ自体のみで見られた精神が感情に対してなしうる一
切のことを、総括した。これからして感情に対する精神の能力は次の点に存することが明白である。
1 感情の認識そのものに。
2 我々が混乱して表象する外部の原因の思想から感情を分離することに。
3 我々が妥当に認識する物に関係する感情は我々が混乱し毀損して把握する物に関係する感情よりも時間(継続)
という点でまさっているその時間(継続)という点に。
4 物の共通の特質ないし神に関係する感情はこれを養う原因が多数(引用者注:=マルチチュード、この場合「群
衆」の意味ではない)であるということに。
5 最後に、精神が自己の感情を秩序づけ、相互に連結しうるその秩序に。
しかしながら感情に対する精神のこの能力をいっそう明瞭に理解するためにはまず第一に次のことを注意し
なくてはならぬ。我々が一人の人間の感情を他の人間の感情と比較して同じ感情に一人が他の人よりも多く捉われ
るのを見る時、あるいは我々が同一の人間の諸感情を相互に比較してその人間が他の感情によりもある一つの感情
に多く刺激され、動かされるのを知る時、我々はその感情を大と呼ぶ。」
(『エチカ』第5部定理20備考より。引用は岩波文庫から)
ネグリは「以下ヲ欠ク」(『現代思想』1987.9)という論考で、ここでの「マルチチュード」という言葉の用法は
『国家論』で展開される群衆論とは一見無関係だが、思考法として深く関係するのだと述べている。
プルードンのスピノザへの評価はアンビバレントなものだが、のちにネグリによって評価された部分をいち早くピ
ックアップしているのは興味深い(ちなみに『以下ヲ欠ク』という言葉は未完となったスピノザの『国家論』最
後の言葉)。
ネグリ、フーコー、ドゥルーズらがプルードンに言及していないのは、マルクス主義的言説空間の中に彼らがいた
からだろう。サルトルはプルードンに言及している。
『フーコーコレクション』ちくま学芸文庫(全6巻+1巻)
◆フーコー・ガイドブック
◆1 狂気・理性
◆2 文学・侵犯
◆3 言説・表象
◆4 権力・監禁
◆5 性・真理
◆6 生政治・統治
* 第1巻は著作のごく簡単な要約と『思考集成Ⅰ』所収の年譜、以降は『思考集成』の選集
『フーコー・コレクション 1 狂気・理性』
Foucault,Michel 1994 Dits et écrits 1954-1988,Edition établie sous la direction de Daniel Defert et Francois Ewald, Gallimard.
=20060510 小林 康夫・石田 英敬・松浦 寿輝 訳,筑摩書房,442p.
■目次
ビンスワンガー『夢と実存』への序論
心理学の歴史 1850‐1950
科学研究と心理学
『狂気の歴史』初版への序
狂気は社会のなかでしか存在しない
ルソーの『対話』への序文
父の“否”
狂気、作品の不在
哲学と心理学
宗教的逸脱と医学
十七世紀の医師、裁判官、魔法使い
文学・狂気・社会
狂気と社会
解説:小林康夫
『フーコー・コレクション 2 文学・侵犯』
■目次
ルーセルにおける言うことと見ること
かくも残酷な知
侵犯への序言
言語の無限反復
夜明けの光を見張って
距たり・アスペクト・起源
幻想の図書館
アクタイオーンの散文
空間の言語
血を流す言葉
J=P・リシャールのマラルメ
書くことの義務
物語の背後にあるもの
外の思考
彼は二つの単語の間を泳ぐ人だった
アリアドネーは縊死した
作者とは何か
解説:小林康夫
『フーコー・コレクション 3 言説・表象』
■目次
侍女たち
世界の散文
歴史の書き方について
これはパイプではない
科学の考古学について―「認識論サークル」への回答
『ポール・ロワイヤルの文法』序文
ジャン・イポリット1907‐1968
ミシェル・フーコー『言葉と物』英語版への序文
第七天使をめぐる七言
劇場としての哲学
ニーチェ、系譜学、歴史
私の身体、この紙、この炉
解説:松浦寿輝
『フーコー・コレクション 4 権力・監禁』
■目次
GIP(監獄情報グループ)の宣言書
監獄についての調査、沈黙の鉄格子を打ち破ろう
歴史への回帰
大がかりな収監
知識人と権力
人民裁判について―マオイスト(毛沢東主義者)たちとの討論
監獄的監禁について
狂人の家
監獄についての対談― 本とその方法
ミシェル・フーコー―哲学者の回答
地理学に関するミシェル・フーコーへの質問
医学の危機あるいは反医学の危機?
ソ連およびその他の地域における罪と罰
真理と権力
権力の眼
権力と知
解説:松浦寿輝
『フーコー・コレクション 5 性・真理』
■目次
性現象と真理
身体をつらぬく権力
性の王権に抗して
世界認識の方法―マルクス主義をどう始末するか
性現象と孤独
性の選択、性の行為
倫理の系譜学について―進行中の仕事の概要
快楽の用法と自己の技法
『性の歴史』への序文
自由の実践としての自己への配慮
生存の美学
自己の技法
個人の政治テクノロジー
解説:石田英敬
『フーコー・コレクション6 生政治・統治』
■目次
1.真理と裁判形態……西谷修訳
2.〈生物-歴史学〉(ビオ・イストワール)と〈生物-政治学〉(ビオ・ポリティック)……石田英敬訳
3.ドゥルーズ=ガタリ『アンチ・オイディプス』への序文……松浦寿輝訳
4.社会医学の誕生……小倉孝誠訳
5.汚辱に塗れた人々の生……丹生谷貴志訳
6.「統治性」……石田英敬訳
7.十八世紀における健康政策……中島ひかる訳
8.全体的なものと個的なもの――政治的理性批判に向けて……北山晴一訳
9.啓蒙とは何か……石田英敬訳
10.道徳の回帰……増田一夫訳
11.生命――経験と科学……廣瀬浩司訳
編者解説……石田英敬
■引用
5.汚辱に塗れた人々の生……丹生谷貴志訳
「 こう語る声が聞こえる。あなたはまたもや、一線を超えることも向こう側に出ることも出来ず、よそから或いは下方からやって来る言語(ランガージュ)を聞き取ることも聞き取らせることも出来ない。いつもいつも同じ選択だ。権力の側に、権力が語り語らせることの側についている。何故、この生を、それらが自分自身について語る場所において聞き取ろうとはしないのか? しかし、まず、もし仮にこれらの生が、ある一瞬に権力と交錯することなく、その力を喚起することもなかったとすれば、暴力や特異な不幸の中にいたこれらの生から、一体何が私たちに残されることになったろうか? 結局のところ、私たちの社会の根本的な特性の一つは、運命が権力との関係、権力との戦い、或いはそれに抗する戦いという形を取るということではないだろうか? それらの生のもっとも緊迫した点、そのエネルギーが集中する点、それは、それらが権力と衝突し、それと格闘し、その力を利用し、或いはその罠から逃れようとする、その一点である。権力と最も卑小な実存との間を行き交っ>0210>た短い、軋む音のような言葉たち、そこにこそ、おそらく、卑小な実存にとっての記念碑(モニュメント)があるのだ。時を超えて、これらの実存に微かな光輝、一瞬の閃光を与えているものが、私たちの元にそれらを送り届けてくれる。
要するに私は、世に知られることなき人々の伝説(レジェンド)のために、これらの人々が不幸或いは激怒の中で権力との間に交わしたディスクール群に発して、幾つかの基礎原基を集めてみたいと思ったのである。」(pp.210-211)
「 私がここに集めた文書は同質のものである。そのため、単調に見えてしまう危険がおおいにある。しかしすべてはそれぞれ調和を欠いて機能しているのである。語られていることとその語り方の不調和。嘆き嘆願する者と彼らに対してあらゆる権力を持つ者との間の不調和。提起される問題の微細さとそこに繰り出される権力の大きさとの間の不調和。儀式と権力の言語と、激怒或いは無力者の言語との間の不調和。それらのテクストはラシー>0227>ヌやボシュエ或いはクレビヨンの方を向くようなテクストである。しかし、彼らとともにそれらのテクストが担うのは、民衆のざわめきであり、悲惨、暴力、《卑小なること》と言われもしたことどもであり、同時代の文学が扱うことのできなかったであろうことどもである。(中略)
その不調和が消え去る日がやってくるだろう。その日以降、日常の生の水準で機能するだろう権力は、もはや近くて遠く、全能できまぐれ、あらゆる正義の源泉であり、あらゆる誘惑の対象であり、政治的原理であると同時に魔術的力でもあった君主の権力ではなくなるだろう。司法、警察、医学、精神科学といった多様な制度が絡まり合った、より微細で、分化されつつ連続する網目によって権力は構成されるだろう。そして、そこに形成されることになるディスクールは、もはやかつてのような人工的で不器用な古い演劇性を持>0228>ちはしないだろう。観察と中立性からなる言語であろうとする言葉の中に展開されるディスクールが現れるのだ。その日以降、平凡なものは、行政、ジャーナリズム、科学の効率的だが灰色の格子によって分析されることになるだろう。そこでは、彩りきらめく言葉は、それらの格子から少しばかり離れたところにある文学の中に探しに行くほかないだろう。十七世紀と十八世紀、人々は未だ無骨で野蛮な時代に属していて、そこには様々に媒介的な多様な格子は未だ存在しなかった。悲惨なる者たちの身体とその喧騒は ほとんど直接的に、王の身体と儀礼性に直面していたのである。そこにはまた、共通の言葉も存在せず、叫びと儀式性との、そう言いたければ無秩序とそれが従わねばならなかった形式の厳格さとの間の衝突があった。そこから、その政治のコードの中への日常生活の初めての浮上を遠くから見る私たちの眼に、それらの言語は不思議な閃光を帯びたもの、金切り声と緊迫した強度を帯びたものとして現れるのであり、そしてそれは、ついで人々がこうした事物と人間を《事件》、三面記事や事例として捉えるようになると、消え去るであろう。」(pp.227-229)
「監視し、見張り、不意をつき、禁止し、罰するだけのものであるなら、おそらく権力は軽々と容易に解体されるであろう。しかし、権力は人々をそそのかし刺激し生産するのである。権力は単に耳と眼ではない。それは動かし語らせるのである。」(p.230)
啓蒙とは何か[pp.303-361]
カントの『啓蒙とは何か』の検討
(1) ドイツの啓蒙とユダヤ解放運動が、「両者ともに、どのような共通のプロセスに自分たちが依り処をもつものなのかを知ろうとするようになる」(p.364)。
(2) カントは、一つの全体や、将来の成就から出発して、〈現在〉を理解しようとはしない。彼は〈今日〉は、〈昨日〉にたいして、いかなる差異を導入するものなのか、一つの差異を求めるのである。
(3) カントが、どのように〈現在〉についての哲学的問いを立てるのかを理解するために、重要と思われる特徴を抽出する。以下4点
3-1:啓蒙の特徴は脱出にあり、カントは脱出とは「私たちを〈未成年〉の状態から脱却させる過程である」と記す(pp.366-367)。
3-2:〈脱出〉はカントにおいて、両義的である。「カントはそれを、一つの事実として、起こりつつあるプロセスとして性格づけている」が、「同時に一つの使命、義務として定時している」(p.367)。
3-3:「啓蒙は、人間存在の人間性を構成しているものに影響を及ぼす変化のこと」だというカントの答えは、両義性を伴う。カントは、未成年を脱出するためには二つの条件を定め、それらは二つとも「精神的であると同時に制度的、倫理的であると同時に政治的なものだ」(p.367)。
3-3-1:服従に属することと、理性の使用に属することを明確に区別しなければならない(p.367)。
3-3-2:理性はその公的な使用においてこそ自由であるべきであり、その私的な使用において服従させれれたものであるべきだ(p.370)。
3-4:いかにして理性の使用が、理性にとって必然的な形をとりえるのか、諸個人が可能なかぎり厳格に服従しているときに、いかにして知る勇気が堂々と行使されうるのか、という問題が問われる。→自律的な理性の公的で自由な使用は、服従の最良の保証となる(p.372)。
カントの三大批判都と『啓蒙とは何か』の間に結び付きが存在する。「啓蒙」を、人類が、いかなる権威にも服従することなく、自分自身の理性を使用しようとするモーメントであると描いている(p.372)。
↓
フーコーの仮説:『啓蒙とは何か』が批判的省察と歴史についての考察との、言わば連結部に位置する→歴史についての省察、さらに、自分が物を書く〈時〉、その時だからこそ物を書くというその単独な〈時〉についての個別的な分析、という三者を結び付けて考えたのは初めてのことだった。歴史における差異としての〈今日〉、また、個別的な哲学的使命の動機としての〈今日〉、についてのこのような反省こそ、このテクストの新しさだ、と私には思えるのである(p.374)。
↓
カントのテクストを参照することによって、私は、現代性を、歴史の一時期というよりは、むしろ一つの〈態度〉として考えることができないだろうか(p.375)。→ギリシア人たちのいうエートス
〈現代性〉の態度の必然的な例:ボードレール→一九世紀における現代性の最も先鋭的な意識のひとつを認められる(p.375)
ボードレールの現代性の4つのポイント
(1)「一時的なもの、うつろい易いもの、偶発的なもの」であるが、現代性は、時間の流れを追うだけの流行とは区別される。それは、現在性とは、逃げ去る現在についての感受性の事象ではなく、現在を「英雄化」一つの意志なのだ(p.376)。
→「あなた方は現在を軽蔑する権利がない」(p.377)。
(2)遊歩は、「眼を開き、注意を払い、思い出のなかに収集することで満足する」。ボードレールは遊歩の人に、現代性を対置する。→ボードレールの現代性の例=デッサン画家:コンスタンタン・ギース
ボードレールがいう現代性とは、「〈現在〉のもつ高い価値は、その〈現在〉を、そうであるのとは違うように想像する熱情、〈現在〉を破壊するのではなく、〈現在〉がそうある在り方の裡に、〈現在〉を捕捉することによって、〈現在〉を変形しようとする熱情」(p.378)である。
(3)現代性の意志的な態度は、それに欠かすことの出来ない禁欲主義と結びついている。現代的であるとは、過ぎ去る個々の瞬間の流れにおいて、あるがままに自分自身をうけいれることではなく、自分自身を複雑で困難な練り上げの対象とみなすこと(p.379)。
(4)上記の、1、アイロニカルな英雄化 2、現実的なものを変容させるために現実的なものと取り結ぶ自由の戯れ、3、自己禁欲的な練り上げは、社会ではなく、ボードレールが芸術と呼ぶ場所で成立する(p.380)。
フーコーはボードレールの現代性の特徴を、これらボードレール的な現代性の4点によって要約しているのではなく、そうではなく〈哲学的な問い〉が〈啓蒙〉に根差しており、「私たちを啓蒙に結び付けている絆が、教義の諸要素への忠誠というようなものではなく、むしろ一つの態度の絶えざる再活性化なのだ」(p.380)ということを指摘している。→この態度を、〈哲学的エートス〉として特徴づけることができる。
〈哲学的エートス〉のネガティヴな特徴づけ
(1) 啓蒙は受け入れる/拒否するという二者択一を拒否するということを意味している。「弁証法的なニュアンスを導入することなど、この恐喝の外にでることにはならないのだ」(p.381)。
(2) 人間主義のテーマと啓蒙の問題とを混同するような歴史的道徳的混迷主義をも逃れなければならない(pp.384-385)。
〈哲学的エートス〉のポジティヴな特徴づけ
(1)〈哲学的エートス〉は、一つの限界的態度として性格づけることができる。それは、拒絶の態度ではない。ひとは、外と内との二者択一を脱して、境界に立つべきなのだ。批判とは、まさしく限界の分析であり、限界についての反省なのだ(p.385)。
(2)限界に立つことで実行されるこの仕事が、一方では、歴史的調査の領域を開くものであるべきだということ、他方では、変化が可能であり、また望ましくもある場所を把握し、また、その変化がどのようなものであるべきかを決定するために、現実と同時代の試練を自ら進んで受けるべきだ(p.387)。
(3)Q:つねに部分的で局所的な実験にとどまり続けることによって全体的な諸構造に逆に規定されないか?
A1:完全で決定的な認識を断念しなければならないのはその通り。
A2:しかし、無秩序と偶然性においてしか行われることを意味しない。その作業は、固有の賭けられたもの、均一性、体系性、一般性をもつ(pp.388-389)
・固有の賭けられたもの
能力と権力のパラドクスといった技術的諸能力の増大と権力関係の強化とをどのように切り離しうるかということ(p.390)
・均一性
行うことの諸々の様態を組織している合理性の諸形式を対象とするとともに、他人たちが行うことに反応しつつ、またある程度までは自らのゲーム規則を変更しつつ、人間がそれらの実践のシステムのなかで行動するときの自由を対象として扱う(p.390)。
・体系性
如何にして、私たちは私たちの知の主体として成立してきたのか、如何にして私たちは、権力関係を行使し、またそれを被るような主体として成立してきたのか、また、如何にして私たちは、私たちの行動の道徳的主体として成立してきたのか、という体系化である(p.391)。
・一般化
歴史的―批判的調査は、つねに、一つの素材、一つの時代、限定された実践と言説が作り出す一つのまとまりであり、非常に個別的なものだが、西欧社会という尺度において、それらの調査は一般性をもつ(p.391)。→〈問題化〉の諸様式の研究は、一般的な射程を持った諸問題を、歴史的に単独な諸形態において分析するという方法なのである(p.392)。
まとめ
私たち自身の批判的存在論、それをひとつの理論、教義、あるいは蓄積される知の恒常体と見なすのではなく、一つの態度、一つのエートス、私たち自身のあり方の批判が、同時に私たちに課せられた歴史的限界の分析であり、同時にまた、それらの限界のありうべき乗り越えの分析であるような、一つの哲学生活として、それは理解されるべきなのだ。 カントの啓蒙の問いは、一つの哲学態度として理解できる。そしてその哲学態度は、様々な調査の作業に翻訳されなければならない。それらの調査は、技術論的なタイプの合理性であると同時に、諸々の自由の諸戦略ゲームとしてとらえられた諸々の実践の、考古学的であると同時に系譜学的な研究においてこそ、方法論的一貫性を持つことになる(p.393)。
編者解説「啓蒙とは何か(2)」……石田英敬
「 およそ「西欧」の歴史全体を視野に入れ、そのなかで「発明」された「技法」や「政治テクノロジー」から、「認識」の歴史を捉え返し、私たちをとらえている「政治的理性」の批判を実行すること、そうした方法および態度はむしろフーコーにおいては全仕事を通してつねに一貫した戦略であったと考えるべきなのだ。」(p.450)
「「国家」とは、逆説的なことだが、「個人化」の政治テクノロジー抜きには成り立ちえないものだ。「私たちはどのようにして、自分たち自身を、社会として、社会的実体の要素として、国民や国家の一部として、認識するようになったのか」(「個人の政治テクノロジー」、コレクション第5巻408頁)という問いに答えることこそが、「国家」の問いに答えることである。」(p.451)
*作成:石田 智恵
更新:中田喜一, 箱田 徹
UP:20080831 REV:20091226 20100428
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『フーコーコレクション』ちくま学芸文庫(全6巻+1巻)
◆フーコー・ガイドブック
◆1 狂気・理性
◆2 文学・侵犯
◆3 言説・表象
◆4 権力・監禁
◆5 性・真理
◆6 生政治・統治
* 第1巻は著作のごく簡単な要約と『思考集成Ⅰ』所収の年譜、以降は『思考集成』の選集
『フーコー・コレクション 1 狂気・理性』
Foucault,Michel 1994 Dits et écrits 1954-1988,Edition établie sous la direction de Daniel Defert et Francois Ewald, Gallimard.
=20060510 小林 康夫・石田 英敬・松浦 寿輝 訳,筑摩書房,442p.
■目次
ビンスワンガー『夢と実存』への序論
心理学の歴史 1850‐1950
科学研究と心理学
『狂気の歴史』初版への序
狂気は社会のなかでしか存在しない
ルソーの『対話』への序文
父の“否”_______(1/2)
狂気、作品の不在 2
哲学と心理学 2
宗教的逸脱と医学 3
十七世紀の医師、裁判官、魔法使い 3
文学・狂気・社会 3
狂気と社会 3
解説:小林康夫
『フーコー・コレクション 2 文学・侵犯』
■目次
ルーセルにおける言うことと見ること
かくも残酷な知
侵犯への序言
言語の無限反復
夜明けの光を見張って
距たり・アスペクト・起源___________(1/2)
幻想の図書館
アクタイオーンの散文
空間の言語
血を流す言葉
J=P・リシャールのマラルメ
書くことの義務
物語の背後にあるもの
外の思考
彼は二つの単語の間を泳ぐ人だった________(2/3)
アリアドネーは縊死した 3
作者とは何か ___________(3/2)
解説:小林康夫
『フーコー・コレクション 3 言説・表象』
■目次
________________________(/2)
侍女たち 2
世界の散文 2
歴史の書き方について 2___________(2/3)
これはパイプではない 3
科学の考古学について―「認識論サークル」への回答 3
『ポール・ロワイヤルの文法』序文 3
ジャン・イポリット1907‐1968 3
ミシェル・フーコー『言葉と物』英語版への序文
第七天使をめぐる七言
劇場としての哲学__________________(1970:3/1971:4)
ニーチェ、系譜学、歴史
私の身体、この紙、この炉
解説:松浦寿輝
『フーコー・コレクション 4 権力・監禁』
■目次
GIP(監獄情報グループ)の宣言書
監獄についての調査、沈黙の鉄格子を打ち破ろう
歴史への回帰
大がかりな収監
知識人と権力
人民裁判について―マオイスト(毛沢東主義者)たちとの討論
監獄的監禁について____________________(4/5)
狂人の家
監獄についての対談― 本とその方法
ミシェル・フーコー―哲学者の回答____________(5/6)
地理学に関するミシェル・フーコーへの質問
医学の危機あるいは反医学の危機?
ソ連およびその他の地域における罪と罰
真理と権力
権力の眼
権力と知
解説:松浦寿輝
『フーコー・コレクション 5 性・真理』
■目次
性現象と真理
身体をつらぬく権力
性の王権に抗して________________________(6/7)
世界認識の方法―マルクス主義をどう始末するか__________(7/8)
性現象と孤独__________________________(8/9)
性の選択、性の行為
倫理の系譜学について―進行中の仕事の概要
快楽の用法と自己の技法_____________________(9/10)
『性の歴史』への序文
自由の実践としての自己への配慮
生存の美学
自己の技法
個人の政治テクノロジー
解説:石田英敬
『フーコー・コレクション6 生政治・統治』
■目次
1.真理と裁判形態……西谷修訳
2.〈生物-歴史学〉(ビオ・イストワール)と〈生物-政治学〉(ビオ・ポリティック)……石田英敬訳
3.ドゥルーズ=ガタリ『アンチ・オイディプス』への序文……松浦寿輝訳
4.社会医学の誕生……小倉孝誠訳
5.汚辱に塗れた人々の生……丹生谷貴志訳
6.「統治性」……石田英敬訳
7.十八世紀における健康政策……中島ひかる訳
8.全体的なものと個的なもの――政治的理性批判に向けて……北山晴一訳
9.啓蒙とは何か……石田英敬訳
10.道徳の回帰……増田一夫訳
11.生命――経験と科学……廣瀬浩司訳
編者解説……石田英敬
Foucault, Michel『ミシェル・フーコー思考集成Ⅱ 1964-1967 文学/言語/エピステモロジー』
http://www.arsvi.com/b1990/9400fm4.htm
47 「今日」の診断を可能にする構造主義哲学 増田一夫訳
(G・フェルーとの対談)、「ラ・プレス・ド・チュニジー」紙、一九六七年四月十二日付、3ページ。
インタヴューに「ミシェル・フーコー、自身を語る」「ミシェル・フーコー、チュニジアの感想」という囲み記事がついたもの。
「私が、構造主義に対して距離を取りながらも同時に構造主義をなぞって二重化するような関係をもっているのは、このためなのです。距離を取っているというのは、構造主義を直接に実践する代わりにそれについて語っているからですし、なぞって二重化しているというのは、構造主義の言語を語らずして構造主義について語れないからです。」(本文より)
『フーコー・コレクション6 生政治・統治』
http://www.arsvi.com/b1990/9400fm.htm
5.汚辱に塗れた人々の生……丹生谷貴志訳
「 こう語る声が聞こえる。あなたはまたもや、一線を超えることも向こう側に出ることも出来ず、よそから或いは下方からやって来る言語(ランガージュ)を聞き取ることも聞き取らせることも出来ない。いつもいつも同じ選択だ。権力の側に、権力が語り語らせることの側についている。何故、この生を、それらが自分自身について語る場所において聞き取ろうとはしないのか? しかし、まず、もし仮にこれらの生が、ある一瞬に権力と交錯することなく、その力を喚起することもなかったとすれば、暴力や特異な不幸の中にいたこれらの生から、一体何が私たちに残されることになったろうか? 結局のところ、私たちの社会の根本的な特性の一つは、運命が権力との関係、権力との戦い、或いはそれに抗する戦いという形を取るということではないだろうか? それらの生のもっとも緊迫した点、そのエネルギーが集中する点、それは、それらが権力と衝突し、それと格闘し、その力を利用し、或いはその罠から逃れようとする、その一点である。権力と最も卑小な実存との間を行き交っ>0210>た短い、軋む音のような言葉たち、そこにこそ、おそらく、卑小な実存にとっての記念碑(モニュメント)があるのだ。時を超えて、これらの実存に微かな光輝、一瞬の閃光を与えているものが、私たちの元にそれらを送り届けてくれる。
要するに私は、世に知られることなき人々の伝説(レジェンド)のために、これらの人々が不幸或いは激怒の中で権力との間に交わしたディスクール群に発して、幾つかの基礎原基を集めてみたいと思ったのである。」(pp.210-211)
「 私がここに集めた文書は同質のものである。そのため、単調に見えてしまう危険がおおいにある。しかしすべてはそれぞれ調和を欠いて機能しているのである。語られていることとその語り方の不調和。嘆き嘆願する者と彼らに対してあらゆる権力を持つ者との間の不調和。提起される問題の微細さとそこに繰り出される権力の大きさとの間の不調和。儀式と権力の言語と、激怒或いは無力者の言語との間の不調和。それらのテクストはラシー>0227>ヌやボシュエ或いはクレビヨンの方を向くようなテクストである。しかし、彼らとともにそれらのテクストが担うのは、民衆のざわめきであり、悲惨、暴力、《卑小なること》と言われもしたことどもであり、同時代の文学が扱うことのできなかったであろうことどもである。(中略)
その不調和が消え去る日がやってくるだろう。その日以降、日常の生の水準で機能するだろう権力は、もはや近くて遠く、全能できまぐれ、あらゆる正義の源泉であり、あらゆる誘惑の対象であり、政治的原理であると同時に魔術的力でもあった君主の権力ではなくなるだろう。司法、警察、医学、精神科学といった多様な制度が絡まり合った、より微細で、分化されつつ連続する網目によって権力は構成されるだろう。そして、そこに形成されることになるディスクールは、もはやかつてのような人工的で不器用な古い演劇性を持>0228>ちはしないだろう。観察と中立性からなる言語であろうとする言葉の中に展開されるディスクールが現れるのだ。その日以降、平凡なものは、行政、ジャーナリズム、科学の効率的だが灰色の格子によって分析されることになるだろう。そこでは、彩りきらめく言葉は、それらの格子から少しばかり離れたところにある文学の中に探しに行くほかないだろう。十七世紀と十八世紀、人々は未だ無骨で野蛮な時代に属していて、そこには様々に媒介的な多様な格子は未だ存在しなかった。悲惨なる者たちの身体とその喧騒は ほとんど直接的に、王の身体と儀礼性に直面していたのである。そこにはまた、共通の言葉も存在せず、叫びと儀式性との、そう言いたければ無秩序とそれが従わねばならなかった形式の厳格さとの間の衝突があった。そこから、その政治のコードの中への日常生活の初めての浮上を遠くから見る私たちの眼に、それらの言語は不思議な閃光を帯びたもの、金切り声と緊迫した強度を帯びたものとして現れるのであり、そしてそれは、ついで人々がこうした事物と人間を《事件》、三面記事や事例として捉えるようになると、消え去るであろう。」(pp.227-229)
「監視し、見張り、不意をつき、禁止し、罰するだけのものであるなら、おそらく権力は軽々と容易に解体されるであろう。しかし、権力は人々をそそのかし刺激し生産するのである。権力は単に耳と眼ではない。それは動かし語らせるのである。」(p.230)
啓蒙とは何か[pp.303-361]
カントの『啓蒙とは何か』の検討
(1) ドイツの啓蒙とユダヤ解放運動が、「両者ともに、どのような共通のプロセスに自分たちが依り処をもつものなのかを知ろうとするようになる」(p.364)。
(2) カントは、一つの全体や、将来の成就から出発して、〈現在〉を理解しようとはしない。彼は〈今日〉は、〈昨日〉にたいして、いかなる差異を導入するものなのか、一つの差異を求めるのである。
(3) カントが、どのように〈現在〉についての哲学的問いを立てるのかを理解するために、重要と思われる特徴を抽出する。以下4点
3-1:啓蒙の特徴は脱出にあり、カントは脱出とは「私たちを〈未成年〉の状態から脱却させる過程である」と記す(pp.366-367)。
3-2:〈脱出〉はカントにおいて、両義的である。「カントはそれを、一つの事実として、起こりつつあるプロセスとして性格づけている」が、「同時に一つの使命、義務として定時している」(p.367)。
3-3:「啓蒙は、人間存在の人間性を構成しているものに影響を及ぼす変化のこと」だというカントの答えは、両義性を伴う。カントは、未成年を脱出するためには二つの条件を定め、それらは二つとも「精神的であると同時に制度的、倫理的であると同時に政治的なものだ」(p.367)。
3-3-1:服従に属することと、理性の使用に属することを明確に区別しなければならない(p.367)。
3-3-2:理性はその公的な使用においてこそ自由であるべきであり、その私的な使用において服従させれれたものであるべきだ(p.370)。
3-4:いかにして理性の使用が、理性にとって必然的な形をとりえるのか、諸個人が可能なかぎり厳格に服従しているときに、いかにして知る勇気が堂々と行使されうるのか、という問題が問われる。→自律的な理性の公的で自由な使用は、服従の最良の保証となる(p.372)。
カントの三大批判都と『啓蒙とは何か』の間に結び付きが存在する。「啓蒙」を、人類が、いかなる権威にも服従することなく、自分自身の理性を使用しようとするモーメントであると描いている(p.372)。
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フーコーの仮説:『啓蒙とは何か』が批判的省察と歴史についての考察との、言わば連結部に位置する→歴史についての省察、さらに、自分が物を書く〈時〉、その時だからこそ物を書くというその単独な〈時〉についての個別的な分析、という三者を結び付けて考えたのは初めてのことだった。歴史における差異としての〈今日〉、また、個別的な哲学的使命の動機としての〈今日〉、についてのこのような反省こそ、このテクストの新しさだ、と私には思えるのである(p.374)。
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カントのテクストを参照することによって、私は、現代性を、歴史の一時期というよりは、むしろ一つの〈態度〉として考えることができないだろうか(p.375)。→ギリシア人たちのいうエートス
〈現代性〉の態度の必然的な例:ボードレール→一九世紀における現代性の最も先鋭的な意識のひとつを認められる(p.375)
ボードレールの現代性の4つのポイント
(1)「一時的なもの、うつろい易いもの、偶発的なもの」であるが、現代性は、時間の流れを追うだけの流行とは区別される。それは、現在性とは、逃げ去る現在についての感受性の事象ではなく、現在を「英雄化」一つの意志なのだ(p.376)。
→「あなた方は現在を軽蔑する権利がない」(p.377)。
(2)遊歩は、「眼を開き、注意を払い、思い出のなかに収集することで満足する」。ボードレールは遊歩の人に、現代性を対置する。→ボードレールの現代性の例=デッサン画家:コンスタンタン・ギース
ボードレールがいう現代性とは、「〈現在〉のもつ高い価値は、その〈現在〉を、そうであるのとは違うように想像する熱情、〈現在〉を破壊するのではなく、〈現在〉がそうある在り方の裡に、〈現在〉を捕捉することによって、〈現在〉を変形しようとする熱情」(p.378)である。
(3)現代性の意志的な態度は、それに欠かすことの出来ない禁欲主義と結びついている。現代的であるとは、過ぎ去る個々の瞬間の流れにおいて、あるがままに自分自身をうけいれることではなく、自分自身を複雑で困難な練り上げの対象とみなすこと(p.379)。
(4)上記の、1、アイロニカルな英雄化 2、現実的なものを変容させるために現実的なものと取り結ぶ自由の戯れ、3、自己禁欲的な練り上げは、社会ではなく、ボードレールが芸術と呼ぶ場所で成立する(p.380)。
フーコーはボードレールの現代性の特徴を、これらボードレール的な現代性の4点によって要約しているのではなく、そうではなく〈哲学的な問い〉が〈啓蒙〉に根差しており、「私たちを啓蒙に結び付けている絆が、教義の諸要素への忠誠というようなものではなく、むしろ一つの態度の絶えざる再活性化なのだ」(p.380)ということを指摘している。→この態度を、〈哲学的エートス〉として特徴づけることができる。
〈哲学的エートス〉のネガティヴな特徴づけ
(1) 啓蒙は受け入れる/拒否するという二者択一を拒否するということを意味している。「弁証法的なニュアンスを導入することなど、この恐喝の外にでることにはならないのだ」(p.381)。
(2) 人間主義のテーマと啓蒙の問題とを混同するような歴史的道徳的混迷主義をも逃れなければならない(pp.384-385)。
〈哲学的エートス〉のポジティヴな特徴づけ
(1)〈哲学的エートス〉は、一つの限界的態度として性格づけることができる。それは、拒絶の態度ではない。ひとは、外と内との二者択一を脱して、境界に立つべきなのだ。批判とは、まさしく限界の分析であり、限界についての反省なのだ(p.385)。
(2)限界に立つことで実行されるこの仕事が、一方では、歴史的調査の領域を開くものであるべきだということ、他方では、変化が可能であり、また望ましくもある場所を把握し、また、その変化がどのようなものであるべきかを決定するために、現実と同時代の試練を自ら進んで受けるべきだ(p.387)。
(3)Q:つねに部分的で局所的な実験にとどまり続けることによって全体的な諸構造に逆に規定されないか?
A1:完全で決定的な認識を断念しなければならないのはその通り。
A2:しかし、無秩序と偶然性においてしか行われることを意味しない。その作業は、固有の賭けられたもの、均一性、体系性、一般性をもつ(pp.388-389)
・固有の賭けられたもの
能力と権力のパラドクスといった技術的諸能力の増大と権力関係の強化とをどのように切り離しうるかということ(p.390)
・均一性
行うことの諸々の様態を組織している合理性の諸形式を対象とするとともに、他人たちが行うことに反応しつつ、またある程度までは自らのゲーム規則を変更しつつ、人間がそれらの実践のシステムのなかで行動するときの自由を対象として扱う(p.390)。
・体系性
如何にして、私たちは私たちの知の主体として成立してきたのか、如何にして私たちは、権力関係を行使し、またそれを被るような主体として成立してきたのか、また、如何にして私たちは、私たちの行動の道徳的主体として成立してきたのか、という体系化である(p.391)。
・一般化
歴史的―批判的調査は、つねに、一つの素材、一つの時代、限定された実践と言説が作り出す一つのまとまりであり、非常に個別的なものだが、西欧社会という尺度において、それらの調査は一般性をもつ(p.391)。→〈問題化〉の諸様式の研究は、一般的な射程を持った諸問題を、歴史的に単独な諸形態において分析するという方法なのである(p.392)。
まとめ
私たち自身の批判的存在論、それをひとつの理論、教義、あるいは蓄積される知の恒常体と見なすのではなく、一つの態度、一つのエートス、私たち自身のあり方の批判が、同時に私たちに課せられた歴史的限界の分析であり、同時にまた、それらの限界のありうべき乗り越えの分析であるような、一つの哲学生活として、それは理解されるべきなのだ。 カントの啓蒙の問いは、一つの哲学態度として理解できる。そしてその哲学態度は、様々な調査の作業に翻訳されなければならない。それらの調査は、技術論的なタイプの合理性であると同時に、諸々の自由の諸戦略ゲームとしてとらえられた諸々の実践の、考古学的であると同時に系譜学的な研究においてこそ、方法論的一貫性を持つことになる(p.393)。
編者解説「啓蒙とは何か(2)」……石田英敬
「 およそ「西欧」の歴史全体を視野に入れ、そのなかで「発明」された「技法」や「政治テクノロジー」から、「認識」の歴史を捉え返し、私たちをとらえている「政治的理性」の批判を実行すること、そうした方法および態度はむしろフーコーにおいては全仕事を通してつねに一貫した戦略であったと考えるべきなのだ。」(p.450)
「「国家」とは、逆説的なことだが、「個人化」の政治テクノロジー抜きには成り立ちえないものだ。「私たちはどのようにして、自分たち自身を、社会として、社会的実体の要素として、国民や国家の一部として、認識するようになったのか」(「個人の政治テクノロジー」、コレクション第5巻408頁)という問いに答えることこそが、「国家」の問いに答えることである。」(p.451)
*作成:石田 智恵
更新:中田喜一, 箱田 徹
UP:20080831 REV:20091226 20100428
フーコーとチョムスキー
https://youtu.be/lyOym-URjgA
https://youtu.be/i_jyKaqF9yc
ミシェル・フーコー「規律社会について」part1 声のみ
https://youtu.be/Cvyj664XeIM
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