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ジル・ドゥルーズ 『プルーストとシーニュ 〔増補版〕』 (宇波彰 訳/叢書・ウニベルシタス)
「しかし、器官のない身体とは何であろうか。クモもまた、何も見ず、何も知覚せず、何も記憶していない。(中略)眼も鼻も口もないクモは、ただシーニュに対してだけ反応し、その身体を波動のように横切って、えものに襲いかからせる最小のシーニュがその内部に到達する。『失われた時を求めて』は、大聖堂や衣服のように構築されているのではなく、クモの巣のように構築されている。語り手=クモ。その巣そのものが、或るシーニュによって動かされるそれぞれの糸で作られ織りなされつつある『失われた時を求めて』である。巣とクモ、巣と身体は、ただひとつの同じ機械である。」
(ジル・ドゥルーズ 『プルーストとシーニュ』 より)
ジル・ドゥルーズ
『〔増補版〕 プルーストとシーニュ
― 文学機械としての『失われた時を求めて』』
宇波彰 訳
叢書・ウニベルシタス
法政大学出版局 1974年2月25日初版第1刷発行
/1986年6月30日増補版第5刷発行
vii 241p
四六判 丸背クロス装上製本 カバー
定価2,000円
Gilles Deleuze : Proust et les signes, 1964/1970/1976
本書「訳者まえがき」より:
「本書は、一九六四年に初版が出版され、一九七〇年に「アンチロゴスまたは文学機械」の部分を加えた第二版が出版された。邦訳はこの第二版によって、一九七四年に刊行されたが、ドゥルーズは一九七六年に、新たに「狂気の現存と機能――クモ――」を追加した第三版を刊行(中略)したのである。」
「この第三版は、第二版の第八章「アンチロゴスまたは文学機械」を新たに「第二部」として独立させ、それを五章に分割し、そのあとに結論(中略)を追加したものである。」
「そこで、この増補版の翻訳も、本来からすれば新しい構成にしたがって章を立て直すべきものではあるが、さまざまな事情から、(中略)旧版の末尾に新しく「狂気の現存と機能――クモ――」の部分を付け加えるというかたちで刊行せざるをえないので、その点に関して読者のかたがたの諒恕をお願いしたい。」
目次:
訳者まえがき――増補版に際して――
第三版の序
第二版の序
第一章 シーニュ
第二章 シーニュと真実
第三章 習得
第四章 芸術のシーニュと本質
第五章 記憶の二次的役割
第六章 セリーとグループ
第七章 シーニュの体系の多元性
第八章 アンチロゴスまたは文学機械
結論 思考のイマージュ
〔増補版・第二部〕 結論 狂気の現存と機能――クモ――
訳注
訳者あとがき
付録 ドゥルーズとプルースト (宇波彰)
以下は第三版の目次:
http://www.puf.com/Quadrige:Proust_et_les_signes#Table_des_mati_C3_A8res
Proust et les signes
Gilles Deleuze PUF (1964/1970/)1976
Table des matières
Avant-propos
Première partie – Les signes
Les types de signes
Signe et vérité
L’apprentissage
Les signes de l’art et l’Essence
Rôle secondaire de la mémoire
Série et groupe
Le pluralisme dans le système des signes
Conclusion. L’image de la pensée
Seconde partie – La machine littéraire
Antilogos
Les boîtes et les vases
Niveaux de la Recherche
Les trois machines
Le style
Conclusion. — Présence et fonction de la folie : l’Araigné
◆本書より◆
「第八章 アンチロゴスまたは文学機械」より:
「罪性が、同性愛のセリーにおいて現れるのは当然のことである。そして、プルーストが、呪われた種族としての男の同性愛の図を描く力が想起されよう。それは、《呪いがかかり、嘘といつわりの誓いの中で暮さねばならぬ種族……母のない子……友情のない友人……罪が見つかるまでの束の間の名誉、しばらくの自由しかなく、不安定な地位しかない。》シーニュとしての同性愛は、ギリシャ的なもの、ロゴスとしての同性愛に対立する。しかし読者は、この罪性が、現実的であるよりも外見的なものだという印象を持つ。そして、もしもプルースト自身が、自分の計画の独自性について語り、彼自身、多くの《理論》を経過したのだと宣言するとすれば、それは、彼が呪われた同性愛を特別に孤立させることでは満足しないからである。呪われた種族、あるいは、罪ある種族というテーマは、すべて、植物の性についての無実のテーマとからまり合っている。プルーストの理論の複合性が偉大なのは、それがいくつかのレヴェルを動かしているからである。第一のレヴェルでは、異性間の愛の集合体が、その対照と反復において示される。第二のレヴェルでは、この集合体が、二つのセリーまたは方向に分割される。ひとつは、ゴモラのセリーまたは方向で、(中略)もうひとつはソドムのセリーまたは方向で、(中略)もしこの第二のレヴェルが最も深いものでないとすれば、それはまさにこのレヴェルが、それが分解する集合体と同じく統計学的なものだからである。この意味において、罪性は、道徳的または内化されたものとしてよりも、むしろ社会的なものとして体験される。」
「すでに、同性愛のふたつのセリーの中で、プルーストが関心を持っているもの、また、このふたつのセリーを、厳密にたがいに補うものにしているもの、それは、それらのセリーが実現する分離の予言である。(中略)しかし、もしふたつの性が、同じ個人の中で、同時に存在しまた分離されていることを考えるならば、つまり、最初の両性具有という神秘の中で、ふたつの性は隣接してはいるが、区別され、コミュニケーションがないということを考えるならば、箱または閉ざされた壺という隠喩が、その完全な意味を持つことになるだろう。ここで、植物のテーマが、生きている大きなロゴスとの対立で、完全な意味を持つに至る。両性具有は、今ではなくなってしまった動物的全体性の特質ではなく、同一の植物に、ふたつの性が実際に閉じこめられていることである。《男性器官は、女性器官とは、ひとつの壁によって分離される。》そしてそこに、第三のレヴェルが位置づけられる。与えられた性を持った個人(しかし、与えられた性は、かならず全体的または統計学的である)は、おのれの内部に、それと直接のコミュニケーションができない異性を含んでいる。(中略)第一のレヴェルは、異性間の愛の統計学的集合体によって規定された。第二のレヴェルは、これも統計学的な、ふたつの同性愛的方向によって規定された。(中略)しかし、第三のレヴェルは、両性にわたるものであり(《まちがって同性愛と呼ばれているもの》)、集合体も個人をも越えている。第三のレヴェルは、個人の中に、コミュニケーションのない、部分的事物であるふたつの性の断片の共存を示している。その結果それは植物と同じようになる。つまり、両性具有体は、その女性的部分が生殖でき、あるいは、その男性的部分が、生殖させる力を持つためには、ひとつの第三者(昆虫)を必要とする。異常なコミュニケーションが、区別された性のあいだを横断する次元で形成される。」
「それが帰属する全体の中で、意味を発見すべき器官でありオルガノンであるロゴスに対して、機械であり機械装置であるアンチロゴスが対立する。そしてこのアンチロゴスの意味は、単に機能にのみ依拠するのであり、そしてその機能は、分離された部分に依存する。現代の芸術作品には、意味の問題はない。使用の問題があるだけである。
なぜ機械なのか。このように理解された芸術作品は、本質的に生産的であり、それも真実を生産するものだからである。」
「問題は、プルーストによって、いくつかのレヴェルで提起されている。ひとつの作品を統一させるものは何か。われわれと作品のあいだに、《コミュニケーションをさせる》ものは誰か。芸術の統一性があるとすれば、それを作るのは誰か。部分をまとめるひとつの統一、断片を全体化するひとつの全体を、われわれは探求することを断念した。なぜならば、有機体的全体性としてのロゴスも、論理的統一としてのロゴスも、いずれも拒否するのが、部分または断片の、特性であり、性質だからである。しかし、それらの断片の全体としての、この多様なものの、この多様性の統一であるところのひとつの統一が、存在するし、また存在しなくてはならない。つまり、原理ではなく、多様なものと、その分裂した部分の《効果》であるようなひとつのもの、ひとつの全体が存在しなくてはならない。このひとつのもの、ひとつの全体は、原理としては作用せず、効果として、機械の効果として機能するであろう。それはひとつのコミュニケーションであって、原理として措定されるものではなく、機械と、その分解された部分品、コミュニケーションのないその部分の運動の結果として生まれてくるものであろう。哲学的には、閉ざされた部分、あるいは、コミュニケーションのないものから結果するコミュニケーションという問題を最初に提起したのは、ライプニッツである。戸口も窓もない《モナド》のコミュニケーションを、どのように構想すべきであろうか。ライプニッツの巧みな答は、つぎの通りである。つまり、閉ざされたモナドは、その属性の無限のセリーの中で、同一の世界を展開・表現することにより、また、それぞれのモナドが、他のモナドとは異なった、明確な表現の領域を持って満足することにより、したがってすべてのモナドが、神が展開せしめる同じ世界についての異なった視点であることにより、すべての同じ材料を処理する、というのである。このようにして、ライプニッツの答は、神というかたちのもとに――この神は、それぞれのモナドの中に、世界または情報についての同じ材料を入れ(《予定調和》)、また、孤立したモナドのあいだに、自発的な《対応》を基礎づける神であるが――あらかじめ存在する。統一と全体性とを回復する。プルーストにとっては、もはやそのような見方は不可能である。彼にとっては、さまざまな世界が、その世界に対する視点に対応し、また、統一性・全体性・コミュニケーションは、機械の結果としてのみありうるものであって、あらかじめ存在する材料を構成するものではない。」
「多様なカオスに還元されたひとつの世界においては、統一性として役立つものは――それもあとからであるが――、他のものにかかわらない限りでの、芸術作品の形式的構造だけである。しかし、すべての問題は、この形式的構造の基盤を知ることであり、また、この形式的構造によってのみ可能となる統一性を、どのようにしてもろもろの部分を文体に与えるかを知ることである。ところで、プルーストの作品における横断的次元、横断性が、非常にさまざまな方向で重要であることについては、すでに述べた通りである。この横断性によって、汽車の中で、ひとつの風景についてさまざまな視点を統一することではなく、この横断性に固有の次元にしたがって、またその次元のなかで、それらの視点とのあいだにコミュニケーションをさせることが可能となるのであり、それらの視点に固有の次元によってでは、相互のコミュニケーションはできない。この横断性によって、メゼグリーズの方とゲルマントの方との特異な統一と全体性とが可能になり、しかも両者の差異または距離がなくなることはない。《それらの道のあいだにいくつかの横断線ができた。》この横断性が、冒涜の基礎となり、いつも蜜蜂が訪れている。蜜蜂は、それ自体では区別されている二つの性を連絡させる、横断的な昆虫なのである。ひとつの光が、或る宇宙から、天文学的世界と同じほど異なった別の宇宙へと確かに伝わるようにするのもこの横断性である。したがって、新しい言語上の約束や、作品の形式的構造は、横断性である。それはすべての文章を横切り、書物全体の中で、ひとつの文章から別の文章へと移行し、『失われた時を求めて』を、プルーストが愛した、ネルヴァル、シャトーブリアン、バルザックなどの本と結びつける。なぜならば、もしもひとつの芸術作品が公衆とコミュニケーションを作り、さらに彼らに刺激を与えるならば、また、その作品が、同じ芸術家のほかの作品とコミュニケーションを作り、それらの作品を刺激するならば、また、他の芸術家の作品とコミュニケーションを作り、その作品ができるようにと刺激するならば、それは常にこの横断性の次元においてである。この次元では、統一性と全体性がそれ自体で確立されて、対象または主体を統一したり全体化したりすることはない。(中略)この次元は、さまざまな視点を互いに入りこませ、閉ざされたままの、閉じられた壺にコミュニケーションをさせる。(中略)彼らはそれぞれ囚われた者で、みな横断的にコミュニケーションをするのである。これが語り手の時間であり次元であって、これはそれらの部分を全体化しないままで、それらの全体であり、統一しないままで、それらすべての部分の統一性であるという力を持っているのである。」
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ジル・ドゥルーズ『プルーストとシーニュ』を読む
『プルーストとシーニュ』におけるジル・ドゥルーズは、プルーストによる『失われた時を求めて』の作品世界を貫通するものは、「シーニュ」による支配なのだと述べている。
何らかの対象が、シーニュを発する。すると、それを受容した認識主体は、そのシーニュを解読し、その意味をときほぐし明らかにすることを迫られる。……とはいえ、そのような解読・解釈の行為はすぐさま可能になることでもなく、その技法を習得するために、主体は時間の流れの中に身を置かなければならない……。
習得は本質的にシーニュにかかわる。シーニュは、時間的な習得の対象であって、抽象的な知識の対象ではない。習得することはまず第一に、ひとつの物質・対象・存在を、あたかもそれらが解読・解釈を求めるシーニュを発するものであるかのように考えることである。(中略)われわれに何かを習得させるすべてのものがシーニュを発し、習得の行為はすべて、シーニュまたは象形文字の解釈である。プルーストの作品の基礎は、記憶のはたらきの提示ではなく、シーニュの習得である。
プルーストの作品は、シーニュの習得によってひとつの統一性を得、またその驚くべき多元性をも得ている。(ジル・ドゥルーズ『プルーストとシーニュ〔増補版〕』、p4~5、ルビは省略)
当然のことではあるが、『失われた時を求めて』という長大な小説は、実に多種多様な要素を含む。しかし、「シーニュ」という概念を提示することで、作品全体に貫通するものを把握できると、ドゥルーズは考えているのだ。
例えば、社交界の様相を描くことは、『失われた時を求めて』においてかなりの分量を占めるものだ。そして、その社交界とは、次のようなものであるのだとドゥルーズは言う。
『失われた時を求めて』の第一の世界は、社交界の世界である。これほど限られた空間の中で、これほどすみやかに、これほど多くのシーニュを発し、また凝集する場はほかにはない。(中略)その結果、習得する者の仕事は、なぜ或るひとがひとつの社交界に《受け入れられる》か、またなぜ或るひとがそうでなくなるのか、どのようなシーニュに社交界が従うのか、何がその社交界の立法者であり、偉大な説教者であるかを理解することである。(同、p6)
社交界のシーニュは、ひとつの行動または思考に置き換えられたものとして現れる。それは行動と思考のかわりになっている。したがってそれは、超越的な意味作用や、観念的な内容のような、何か別のものにかかわるひとつのシーニュではなく、その意味から、そこにあると想定された価値を奪い去ったようなシーニュである。そのために、行動という立場から判断すると、社交界は人を失望させる残酷なもののように見え、思考の立場から判断すると、ばかげたもののように見える。そこでは、ひとびとは考えたり行動したりするのではなく、シーニュを作るのである。ヴェルデュラン夫人の家では、何一つこっけいなことは語られない。そして、ヴェルデュラン夫人は決して笑わない。しかし、コタールは、自分がこっけいなことを語っているのだというシーニュを示し、ヴェルデュラン夫人は、自分が笑っているというシーニュを示す。(同、p7)
これはつまり、社交界とは、「実際にそう思っている」ことや「実際にそう行動している」ことではなく、そう考えそう行動しているのだという記号を示し、それが周囲に承認されていることこそが重要な世界である、ということだろう。
そして、『失われた時を求めて』においてこれまた重要な要素を占める恋愛にしても、やはりシーニュが問題となるのだという。
『失われた時を求めて』の第二の領域は、愛の領域である。シャルリュスとジュピアンとの出会いは、読者をしてもっとも驚くべきシーニュの交換に立ち合わせる。愛を抱くようになるということは、彼が持っているか発するところのシーニュによって、そのひとを個体化するということである。それはそのようなシーニュを感知できるようになるということであり、それらのシーニュについて習得することである(たとえば若い娘たちのグループの中で、アルベルチーヌがゆっくりと個性を得て行くことがそれである)。友情は、観察と会話とで育って行くことができるが、愛は、沈黙した解釈から生まれてそれを養分とする。愛される者は、ひとつのシーニュとして、《魂》として現れる。そのひとは、われわれにとっては未知の、ひとつの可能な世界を表現する。愛される者は、解読すべきひとつの世界、つまり解釈すべきひとつの世界を含み、包み、とりこにしている。(中略)愛するということは、愛される者の中に包まれたままになっているこの未知の世界を展開し、発展させようとすることである。われわれの《世界》に属していない女たち、われわれのタイプにさえ属していない女たちを容易に愛するようになるのはこのためである。(同、p8~9、ルビは省略)
社交界のシーニュは軽薄であり、愛と嫉妬のシーニュは苦しみを与える。しかしもしも、ひとつの身ぶり・抑揚・挨拶が解釈さるべきものであることをあらかじめ知っていなかったら、誰が真実を探求するだろうか。愛されるひとの嘘が与える苦しみをあらかじめ体験していなかったら、誰が真実を探求するだろうか。知性による観念は、しばしば苦悩の《代用品》である。(同、p29)
以上のような、『失われた時を求めて』における「シーニュ」の問題が重要であるのは、それが「芸術」の問題にそのまま直結するものであるからだ。
芸術の世界は、シーニュの究極の世界である。そして、非物質化されたものとしてこれらのシーニュは、観念的本質の中にその意味を見出す。そこで、啓示された芸術の世界は、他のすべてのもの、特に感覚的なシーニュに対して反応する。芸術の世界は感覚的なシーニュを統合し、美的な意味で色どり、それらのシーニュの中にまだあった半透明なものの中に浸透する。それによって、感覚的なシーニュが、その物質的な意味の中に具体化された観念的本質にすでにかかわっていたことをわれわれは理解する。しかし、芸術がなければ、われわれはそのことを理解できないであろうし、また、マドレーヌの分析に対応する解釈のレヴェルを越えることもできないであろう。すべてのシーニュが芸術へと集中するのはこのためである。すべての習得は、きわめてさまざまな方法によって、すでに、芸術そのものの無意識的な習得である。最も深いレヴェルにおいては、本質的なものは芸術のシーニュの中にある。(同、p16~17、ルビは省略)
ドゥルーズが『プルーストとシーニュ』において指摘するところによれば、『失われた時を求めて』の主人公が最終的に芸術家として覚醒するに至るのは、社交や恋愛を通してシーニュの習得に時間をかけてきたことと無関係なことなのではなく、むしろその延長上にこそあるものなのだ……ということなのだろう。
確かに、『失われた時を求めて』を通読してみれば、主人公の芸術家としてのスタンスは、いかにも中途半端なものであるように見える。彼は小説を書くことを試みながらも自分の納得のいく作品をものすることはできず、長期間に渡って挫折し続ける。その一方、華やかな貴族の出入りする社交界に足を踏み入れることが可能になるや、細やかな人間関係の機微を渡り歩き、おそろしく細密に張り巡らされたルールやコードを熟知するまでにもなる。さらには、恋愛関係の進展の過程で、繊細極まりない感情の推移が描かれることにもなる。……ところが、最終篇たる『見出された時』に至って、主人公が芸術家としての自身の使命に目覚めることになると、自分がそれまでに長い長い時間をかけてきていた社交や恋愛などの人間関係は、芸術の価値に比べたら全く取るに足らない無価値なものであったとして、その意義が全否定されることにもなる。
以上のように、表面上の筋立てだけに注意して『失われた時を求めて』を読んでいる限り、「社交」や「恋愛」のテーマは、単に放棄されたようにしか見えない。そしてそれ以上に、主人公としての自身の振る舞いを回想する話者の視点は、既に「社交」や「恋愛」に意義を認めないものであるはずにもかかわらず、なぜかまさにその「社交」や「恋愛」を異常に細やかに語ってみせるのか説明ができない……ということにもなる。
そのような意味では、ドゥルーズが提示する「シーニュ」の概念は、『失われた時を求めて』の作品全体に通底するテーマを抽出することに成功していると言える。シーニュの究極的な形態が「芸術」であることは確かではあるのだが、これに比べれば「社交」や「恋愛」は単に無価値であるということではなくて、むしろ「社交」や「恋愛」を通してシーニュの解読を習得した者だからこそ「芸術」に到達しえた……ということなのだから。
だから、ドゥルーズにとって、『失われた時を求めて』の話者は、シーニュに取り囲まれた世界の中で徹底してシーニュを解読することのみをなす主体である。ゆえに、ドゥルーズは次のように書くことになるわけだ。
アルベルチーヌに嫉妬する者であり、シャルリュスの解釈者である語り手は、彼自身においては、結局は何なのか。われわれはこの語り手と主人公とを言表行為の主体と言表の主体という二つの主体として区別する必要をまったく認めない。なぜなら、そういう考え方は、『失われた時を求めて』を、それとはかかわりのない主体性のシステム(二重にされ、裂け目を与えられた主体)と関連させることになるからである。存在するのは、ひとりの語り手であるよりも、その機械が、或る位置配置にしたがって、或る区分によって、或る用途のために、或る生産のために機能する場である鎖列である。この意味においてのみわれわれは、主体としては機能しない語り手=主人公が何であるかを問うことができる。(同、p218)
クモもまた、何も見ず、何も知覚せず、何も記憶していない。クモはただその巣のはしのところにいて、強度を持った波動のかたちで彼の身体に伝わって来る最も小さな振動をも受けとめ、その振動を感じて必要な場所へと飛ぶように急ぐ。眼も鼻も口もないクモは、ただシーニュに対してだけ反応し、その身体を波動のように横切って、えものに襲いかからせる最小のシーニュがその内部に到達する。『失われた時を求めて』は、大聖堂や衣服のように構築されているのではなく、クモの巣のように構築されている。語り手=クモ。その巣そのものが、或るシーニュによって動かされるそれぞれの糸で作られ織りなされつつある『失われた時を求めて』である。巣とクモ、巣と身体は、ただひとつの同じ機械である。(同p219)
自分から能動的に活動するようなことは何もなく、感覚器官を持たずにシーニュだけを受け止め、純粋に受動しかしない主体である……そんな『失われた時を求めて』の名前のない話者について、ドゥルーズは「クモ」というメタファーを提示してみせる。
非常に魅力的なヴィジョンである。……しかし、問題なのは、ここでドゥルーズが提示するヴィジョンは、プルーストのテクストに即しておらず、ごく単純な意味での誤読に基づいているということだ。
いったい、ドゥルーズの何が間違っているのだろうか。注意しておかなければならないのは、ドゥルーズは『失われた時を求めて』においてシーニュの問題が通底していることを明らかにしていく過程で、シーニュに対する認識主体の関係は徹底して受動的なものであることを強調していたということだ。認識主体が受動的な存在であるからこそ、その総括として「クモ」のメタファーが提示されることにもなったわけだ。
例えば、ドゥルーズは次のように書く。
プルーストは、人間が、また純粋と考えられる精神の持主さえも、本来、真なるものへの欲求、真実への意志を持っているとは考えない。われわれが真実を探求するのは、具体的な状況によってそうせざるをえない場合、われわれにこの探求を強いる一種の暴力を受ける場合のみである。誰が真実を探求するのか。それは恋人の嘘に押された嫉妬する人である。われわれに探求を強要し、われわれから平和を奪うシーニュの暴力が常に存在している。真実は親和的関係や積極的意志によっては見出されず、無意志的シーニュにおいておのずからあらわれる。(同、p19~20、ルビは省略)
真理は、まえもって存在する積極的意志の作り出すものではなく、思考の中での暴力の結果であるという、このテーマ以上にプルーストが強調するものはほとんど存在しない。明白で、約束によってきめられた意味作用は、決して深いものではない。外的なシーニュの中に包まれ、含まれているような意味だけが深いのである。(同、p20)
われわれは《事物》そのものが、それが発するシーニュの秘密を持っていると考える。われわれは事物の上にかがみ、シーニュを解読するために事物に立ち帰る。(同、p34)
われわれに暴力を加えるものは、われわれの積極的な意志と、注意をこめた仕事のあらゆる成果よりも豊かである。そして、思考よりももっと重要なものとして《思考させるようにするもの》が存在する。(同、p38)
……以上のように読まれる通り、ドゥルーズは、プルーストにおいては主体が能動的に思考し積極的に真実に到達するのではなく、事物が発するシーニュに遭遇するという出来事こそが主体に暴力的に作用し、思考することを強要するととらえている。
しかし、プルーストのテクストは、本当にそのようなものになっているであろうか。
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