http://www.freeassociations.org/
https://love-and-theft-2014.blogspot.com/2021/04/blog-post_43.html?m=1
世界史
https://ja.hegel.net/j32333.htm
いつの間にか日本語対応していた。
哲学史講義、宗教哲学講義、美学講義
☆『エンチクロペディー』、参照:http://hegel.net/、作業中:http://nam21.sakura.ne.jp/hegel/jp/e0.htm、
リンク:哲学体系目次(論理学/自然哲学/精神哲学)
/\
/_哲学
/\絶対的\
芸術_\/_宗教
/\<精神哲学> /世界史
/__\ /__\
/\主観的\ /\客観的\
/__\/__\ /__\/__\
/\ /\
/__\ 『エンチクロペディー』/__\
/\概念論\ /有機体学\
/__\/__\ /__\/__\
/\ <論理学>/\ /\ <自然哲学>/\
/__\ /__\ /__\ /__\
/\有論/\ /\本質論\ /\力学/\ /\物理学\
/__\/__\/__\/__\ /__\/__\ /__\/__\
(ギリシア、追記、全体系=別サイト版)
以前のブログ記事の改訂版です(Firefox,Safari推奨、Explorerは文字化けします)。
☆、精神哲学、絶対的精神、映画版
/\
/__\
/\哲学/\
/__\/__\
/\<絶対的精神>\
/__\ /__\
/\芸術/\ /\宗教/\
/__\/__\ /__\/__\
/\ /(世界史)
/__\ 『精神哲学』 (国内)国家(国際法)
/\心理学\ /\人倫/\
/__\/__\ /家族\/市民\
/\<主観的精神>\ /\ <客観的精神>\
/__\ /__\ /__\ /__\
/人間学/\ /\現象学\ /\法 /\ /\道徳/\
/__\/__\/__\/__\ /__\/__\ /__\/__\
/\ /\
(絶対理念)\ /__\
(生命) 理念 (認識) /\動物/\
/______\ 『エンチクロペディ』 /__\/__\
/\ /\ /\<有機体学> /\
/推論\ 概念論 /__\ /__\ /__\
/ 主観的\ /客観 \ /地質学/\ /\植物/\
/[概念]_判断_\ /______\ /__\/__\ /__\/__\
/\ /\ /\ /\
/ \ / \ /__\ 『自然哲学』 /化学\
/限度 \ 『論理学』 /現実性 \ /絶対力学\ /\個別的個体
/______\ /______\ /__\/__\ /形態\/_特殊化
/\ <有論> /\ /\ <本質論>/\ /\ <力学> /\ /\ <物理学> /\
/ \ / \ / \ / \ /__\ /__\ 元素の過程 /(音)(熱)
/ 質 \ / 量 \ /存在本質\ / 現象 \ 空間と時間\ /有限力学\ 一般的個体\ /特殊個体
/______\/______\ /______\ /______\/__\/__\/__\/__\ /天体\/元素\ /重力\/凝集力
論理学
予備概念
客観性に対する思想の第一の態度 形而上学
客観性に対する思想の第二の態度 経験論 批判哲学
客観性に対する思想の第三の態度 直接知
論理学の詳細な把握と区分
存在論
• 質
• 存在
• 定在
• 向自存在
• 量
• 純粋量
• 定量
• 度
• 限度
本質論
• 現存の根拠としての本質
• 純粋な反照諸規定
• 同一性
• 区別
• 根拠
• 現象
• 現象の世界
• 内容と形式
• 関係
• 現実性
• 実体性の関係
• 因果性の関係
• 交互作用
概念論
• 主観的概念
• 概念としての概念
• 判断
• 質的判断
• 反照の判断
• 必然性の判断
• 概念の判断
• 推論
• 質的な推論
• 反照の推論
• 必然性の推論
• 客観
• 機械論
• 化学論
• 目的論
• 理念
• 生命
• 認識
• 認識
• 意欲
• 絶対理念
ヘーゲル論理学
/\
/体系と方法
/絶対理念\
/本性\/方法、弁証法
/\ /\
/類_\ 理念 /善の理念
/\生命/\ /\認識/真の理念
/個体\/過程\/分析\/総合\
/\ (算術、解析)/\
/必然性 /__\
/\推論/\ <概念論> /\目的的関係
/質_\/反省\ /__\/__\
/\ /概念 /\ /\
/__\主観的 /必然性 /__\ 客観的/__\
/\概念/\ /\判断/\ /\機械的\ /化学的/\
/__\/__\/質_\/反省\/__\/__\/__\/__\
/\ /\
/ \ /__\
/ \ /交互作用\
/______\ /__\/__\
/\ /\ /\ /\
/ \ 限度 / \ <論理学> /__\ 現実性/__\
/ \ / \ /\実体性\ /\因果性\
/______\/______\ /__\/__\/__\/__\
/\ /\ /\ /\
/ \ / \ /__\ /__\
/対自存在\ <存在論> / 度 \ /\物 /\ <本質論> /\相関/\
/______\ /______\ /__\/__\ /__\/__\
/\ /\ /\ /数学 /\ /\ /\ /\
/ \ 質 / \ / \ 量 / \ /根拠\存在本質/ \ /__\ 現象 /__\
/ 存在 \ /現存在/\ /純粋量 \ /定量 \ /反省規定\ /\ 実存\ /現象世界\ /内容と形式
/______\/___/__\/______\/______\/同一性/区別\/__\/__\/__\/__\/__\/__\
推論
/\
/普2\
/水は氷か水か水蒸気である、
/__\/__\
/\ 個別 /\
/__\<選言>/__\
◎これは氷でも水でもない、 /\ 故にこれは水蒸気である。
/個1\/__\/__\/特3\
/\ /\
/特2\ /個2\
人間は考える動物である、\ <必然性> /\ところで乙はある、
/__\/__\ 個別 /__\/__\
/\ 普遍 /\ /\ 特 /\
/__\<定言>故にカール /__\<仮言>/__\
◎カールは人間である、 /は考える。 /故に甲がある。/もし乙があるなら、甲がある、
/個1\/__\/__\/普3\/特3\/__\/__\/普1\
二つの物または規定が /\ /\
第三のものに等しいときは、 /普2\ /普2\
二つは互いに等しい。 /聖人は死なない、 /\月はひとつの地球である、
「第四格」 /______\ /__\/__\
/\ 個別 /\ /\ 個別 /\
/ \「第三格」 \ <推論> /__\<類比>/__\
◎トムは死ぬ定めだ、\ /トムは聖人ではない。 個別 地球は住民を持つ、 /故に月は住民を持つ。
/個1____\/____特3\ /個1\/__\/__\/特3\
/\ /\ /\ /\
/特2\ 普 ◎故にX=Z 普 /個2\ /特2\ /個2\
ところでガイウスは\X=Y <定有、質> アンヌは愚かだ、 ところでガイウスは\ <反省> /\「すべての個別」
一個の人間である、\普遍「第四格」 /______\ 一個の人間である、\ 特殊 金、銅etcは伝導体である、
/\ 普遍 /\数学的 Y=Z / \ 特殊 /\ /\ 普遍 /\ /\ 特殊 /\
すべての \「一般的」 \ 普 / \「第二格」故に\ /__\<総体性>故にガイウス /故に\<帰納>/__\
/人間は死す、 /故に彼は\ ◎アンヌは金髪だ、/金髪は \すべての人間は死す、/\は死す。 /金属は伝導体 /◎金、銅は金属である、
/個1____\/_死す。普3\/特1____\/愚かだ。普3\/個1\/__\/__\/普3\/特3\である。/__\/普1\
英 独
普遍 G A 類
特殊 P B 種
個別 I E 個
◎の例題はhttp://hegel.net/より
自然哲学
自然を考察する諸々の仕方
自然の概念
分類
力学
• 空間と時間
• 空間
• 時間
• 場所と運動
• 物質と運動
• 慣性的物質
• 衝撃
• 落下
• 絶対的な力学
物理学
• 普遍的な個体性の物理学
• 自由な物理的な天体
• 光
• 対立の天体
• 個体性の物体
• 元素
• 空気
• 対立の元素
• 個体的な元素
• 元素の過程
• 特殊な個体性の物理学
• 比重
• 凝集力
• 音
• 熱
• 統体的な個体性の物理学
• 形態
• 個体的な物体の特殊化
• 光にたいする関係
• 特殊な物体性における区別
• 特殊な個体性における統一性、電気
• 化学的な過程
• 合一
• ガルヴァーニ電気
• 火の過程
• 中性化、水の過程
• その統体性における過程
• 分離
有機体学
• 地質学的自然
• 植物的自然
• 動物的有機体
• 形態
• 同化
• 類の過程
• 類と種
• 性関係
• 個体の病気
• 個体の死
ヘーゲル自然哲学、論理学、法の哲学(Firefox,Safari推奨、Windows-Explorerは文字化けします)。追記:2010年、新バージョン(別頁)
☆、映画版
/死
/病気\
/類の過程\
類と種\/性_\
/\ /\
各器官\ 動物 /機械的刺激
再生産\形態/\ /\同化/\
感覚、刺激\/器官\/感官\/肉体化
/\ /\
/_陸\ <有機体学> /果実\
/\環境/\ /一般的類\
/大気\/_海\ 生殖前\/立ち枯れ
/\ /\ /\ /\
地軸の位置 地質学/有機物 無性生物\ 植物 /水へ\
太陽系における地球 /地球の生成過程/\形態/\ /\変態/\
/太陽\月、彗星/位置\/地殻\/分化\/成長\/光へ\/空気へ
/\ /\
/ \ /分離\
/惑星軌道\ /\化学/\
/______\ /合一(電気、火、水、統一)
/\ /\ /\ 個別的 /\
地軸を中心に回転\絶対力学/__\ <自然哲学> /結晶\ 個体 /統一、電気
/\自転/\ /\公転/\ /\形態/\ /\特殊化\
地軸固定\/拡張\/逸脱\/集中\ /無形\/磁気\/対光\/物質性
/\ /\ /\ /\
/ \ / \ (雷)\ /__\
場所と運動\ 力学 / 落下 \ /元素の過程 物理学 /\(音)(熱)
/______\ /______\ (大気的緊張)\(雲、雨) /__\/__\
/\ /\ /\ 物質と運動/\ /\ /\ /\ /\
/ \空間と時間 \ / \有限力学/ \ 個体性_\一般的個体 個体的元素 /__\特殊個体/弾性\
/ 空間 \ / 時間 \ /慣性的 \ /衝撃 \ /\天体/\ /\天体/\ /\重力/\ /\凝集力\
/______\/______\/______\/______\/光_\/対立\/空気\/元素\/__\/__\/癒着\/一貫性
ヘーゲル自然哲学の最後の方でホメオパシー(同種療法、長谷川訳 576頁。第373節。上の図で言えば頂点に近い「病気」の項)について言及されているので驚いたことがある。
個別(病気の動物)→特殊(薬)→普遍(有限な生)、という図式らしい。
(エンチクロペディー373~4参照)
自然哲学における個体についての論述はゲーテの影響を受けながらも当時としてはかなり具体的かつ先進的なもの(背伸びしたもの?)だったのではないかと思う。
精神哲学
精神の概念
分類
主観的精神
• 人間学 心
• 自然な心
• 自然的性質
• 自然的変化
• 感覚
• 感ずる心
• 情感する心の直接態
• 自己感情
• 習慣
• 現実的な心
• 精神の現象学 意識
• そのままの意識
• 感性的意識
• 知覚
• 悟性
• 自己意識
• 欲望
• 承認する自己意識
• 普遍的自己意識
• 理性
• 心理学 精神
• 理論的精神
• 直観
• 表象
• 想起
• 構想力
• 記憶
• 思惟
• 実践的精神
• 実践的感情
• 衝動と恣意
• 幸福
• 自由な精神
客観的精神
• 法
• 所有
• 契約
• 不法に対する法
• 道徳
• 計画
• 意図と福祉
• 善と悪
• 人倫
• 家族
• 市民社会
• 欲求の体系
• 司法
• 警察と組合
• 国家
• 国内法
• 対外法
• 世界史
絶対的精神
• 芸術
• 宗教
• 哲学
☆
/CフィヒテDシェリング
/__\
/\近代/Bカント
/Aヤコービ__ \
/\ /復興
新プラトン派_\ 哲学 /__\
タレスから/ギリシア\ /\中世/スコラ
アリストテレス_独断,懐疑\/アラビア__\
/詩 教団
絵_音楽 <絶対的精神> 父_表象_子
/\個別/\ /\完成/\
/建築\/彫刻\ /定義\/移行\
/\ /\ /\ /\
/__\ 芸術 /__\ /祭祀\ 宗教 /自由\
/\理念/\ /\形態/\ /\概念/\ /\規定/\
/__\/__\/__\/__\ [概念]\/_知\ /直接\/分裂\
/\ /世界史
/__\ /__\
/\自由/\ 『精神哲学』 /\国家/国際法
/__\/__\ 国内法\/__\
/\ /\ /<倫理=共同世界>
/__\ 心理学 /幸福\ 教育と解体 福祉行政と職業団体
/\理論/\ /\実践/\ /\家族/\ /\市民/\
/__\/__\ /感情\/衝動と恣意 /婚姻\/資産\ /欲求\/司法\
/\ /\ /\ /\
/__\ <主観的精神> /__\ /__\ <客観的精神> /__\
/現実的な心 /\理性/\ 不法に対する法 /\善と良心
/__\/__\ /__\/__\ /__\/__\ /__\/__\
/\ /\ /\ /\ /\ <法> /\ /\ <道徳> /\
/感覚\人間学 /習慣\ /悟性\ 現象学 /一般\ /__\ /__\ /__\ /__\
/自然な心\ /\感ずる心 /\意識/\ /\自己意識 /\所有/\ /\契約/\ /企図と責任 /意図と福祉
/性質\/変化\直接態\自己感情 /感性\/知覚\ /欲望\/承認\/__\/__\/__\/__\ /__\/__\ /__\/__\
ヘーゲル法の哲学
/\
/ゲルマン
/\世界史\
/東洋\/ギリシア、ローマ
/対外主権 /\
立法権\ 国家 /__\
/\国内法\ /\国際法\
君主権\/統治権/__\/__\
/\ /\
/__\ /__\
教育と解体/\ <倫理=共同世界>/福祉行政と職業団体
/__\/__\ 社会政策\/職業団体
/\ /\ /\ /\
/__\ 家族 /__\ /財産\ 市民 /裁判\
/\婚姻/\ /\資産/\ /\欲求/\ /\司法/\
/__\/__\/__\/__\/満足\/労働\/正義\/現実性
/\ /\
/ \ /__\
/強制と犯罪 /共同体精神
/______\ /__\/__\
/\ /\ /\ /\
/ 不法に対する法 \ <客観的精神> /__\善と良心/__\
無邪気な不法\ / 詐欺 \ /\善、主観 /\良心/\
/______\/______\ /__\/__\/__\/__\
/\ /\ アンティゴネー\ /\
/ \ / \ オイディプス__\ /__\
/ 譲渡 \ <法> / 交換 \ /\結果/\ <道徳> /\自由/\
/______\ /______\ /__\/__\ /__\/__\
/\ /\ /\ /\ /\ /\ /\ /\
/ \ 財産 / \ / \ 契約 / \ /__\企図と責任 \ /__\意図と福祉__\
/ 所有 \ /物の使用\ /わがまま\ / 贈与 \ /\関心/\ /\行動/\ /\一般/\ /\特殊/\
/______\/______\/______\/______\/__\/__\/__\/__\/__人格__\/__法/__\
カントと違い、ヘーゲルは人倫という共同体の習俗を普遍的な命題と捉えて固定化した。
インド、中国の存在感が増す現在、柄谷行人の言うようにヘーゲルの時代の歴史観がよりリアルになっているのではないだろうか?
序 TOP 、旧バージョン(別頁)
/D地理、E区分(東洋 、ギリシア、ローマ、ゲルマン)
/民族\
/C行程/\
/原理\/原始\
/\ /\
/哲学\ 序論 /国家\
/A捉え方\ /B理念/\
/事実\/反省\/自然\/理性の狡知
ヌース
☆ ☆、TOP、序論、東洋 、ギリシア 、ローマ、ゲルマン 、映画版
/法=自由の概念
/__\
啓蒙とフランス革命(法、政府、愛国心)
フリードリッヒ大王、カント、1791人権宣言\/__ナポレオン
/\ /\
/__\ 近世 /_フリードリヒ大王
/宗教改革\ /\国家形成
ルター、魔女裁判_\/異端審問、1648ウェストファリア条約
王国裁判所\ /\
/__\ /君主制、ルネッサンス、学問と芸術
カール大帝のフランク王国/\ <ゲルマン世界> /\ /\
帝国分裂、協会分裂\/__\ 1215マグナ=カルタ /_1338レンゼの会議
/\ カリフ 1122ヴォルムス協約 /\
メロヴィング王家__\ 古代 /大帝国 封建制と_\ 中世 /__騎士団
民族大移動/\ /\回教/\ 位階組織/\ /十字軍/\
クロヴィウス、フランク王国、東ゴート王国_\/マホ\/トゥー/コンスタンツ\/__\/フランシスコ修道会
/\ メット ル の和議 /\
ユダヤ、エジプト\ ポワティエの /__\
/\ /\ 戦い /\ /\
ペルシャ/小アジア /__\/__\
/\ /メディア、ペルシャ /\ /\
/ \ペルシア/ \ <ヘーゲル世界史> /__\ /__\
ゼンド民族\ /キュロス王の死 /\ /\ /\ /\
/__\/__\/アッシリア、バビロニア、 /__\/__\/__\/__\
/\ /\ /没落 /\
/易経\ /ラマ教 マケドニア王国\ /東ローマ帝国
/四庫全書\ <東洋世界> / 仏教 \ /\外交/\ <古典的世界> /帝政時代\
/______\ /仏陀__シャーマニズム ペルシア戦争\/ペロポネソス戦争 /帝政\/キリスト教
/\ /\ /\ /\ /\ /七賢人 /\ /\
/国家\ 中国 /懲罰法 ヴェーダ\インド / \ /__\ギリシア/政治的、 /__\ローマ /__\
/ 書経 \ /皇帝 /\ / \ /マヌ法典\ /\精神/\ /\個人/\第2回ポエニ戦争以前 /第2回ポエニ戦争
/__家族__\/始皇帝/官僚\カースト、バラモン______\/トロヤ戦争_\/主観\/客観\/リキニウス法\/グラックス兄弟
ホメロス ギリシア神話
序論
序論(改訂版):
ゲルマン\
/__\
/E区分/\
/東洋\/ギリシア、ローマ
/\ D地理と /\
北米_\ 区分 /__\ ヨーロッパ)
/新世界/\ /旧世界/\ アジア、
オーストラリア\/南米\/規定\/旧世界(アフリカ、
/\ /\
/__\ 経過、民族精神
哲学的、歴史哲学 序 /C行程/\
/__\/__\ 概念_\/_端初
/\ /専門的 /\ B理性観と/\
根本的、\A種類 /批判的 /__\ 行程 /実現形態、国家
/資料的/\ /反省的/\ /\原理/\ /\理念/\
/__\/__\一般史\実用的\/ヌース/__\/本性\/手段(理性の狡知)
東洋世界 TOP、序論、東洋 、ギリシア 、ローマ、ゲルマン
/ギリシア世界への移行
エジプト、ヘロドトスの報告他\
/\ユダヤ、エジプト
/精神\/唯一神、ダビデ、分裂
ダレイオス1世\ 帝国と /\
/教育\各地域 /フェニキア人
/ペルシャ\ /小アジア\
/宗教\/行軍\/シリアのユダヤ人
/\ /ペルシャ、キュロス王の死
/__\ /__\
/ミトラ/\ /\対リディア戦争
/__\/__\ ペルシア /__\/__\
/\ /\ /\ /\
/__ゼンド民族/__\ /__アッシリア他__\
ゾロアスター教/\ アフラ・マズダ /\ /\ /\メディア、ペルシャ
『アヴェスター』\/__\/__\/__\アッシリア=バビロニア\/__\
/\ 『王書』 /\
精神の欠如\ /_シャーマニズム
/\結語/\ /\仏教/\
/__\/__\ /仏陀\/_ラマ教、モンゴル
四庫全書、ライプニッツ 宗教、 /\ プラーナ\ 倫理、 /\
/__\ 学問 /_春秋 <東洋世界> /学問\ 国家 /__\
/\易経/\ /\学問/\ /\ /\ / 国家形態、歴史
/__\/__\/老子\/孔子\ 、 /倫理\/芸術\/__\/__\
/\ /\ /\ ヴェーダ /\
/__\ /__\ /__\ マハーバーラタ /__\
/\皇帝/\ /\懲罰法\ /二地域/\ /\宗教/\
/__\/__\ 中国 /__\/__\ インダス川\/ガンジス川 インド /__\/__\
/\ /\ /\ /\ /\ /\ /\ /\
詩経__国体の精神/__\ /皇帝\行政と法/__\ /__\ 地理 /東インド会社 /__\ 社会 /_マヌ法典、ヴェーダ
/\歴史/\ /\家族/\ /\始皇帝\ /\官僚/\ /\民族性\ /世界史関連 /カースト\ /\バラモン
歴史区分/書経\/精神\/__\/科挙\/__\/書経\/__\/カースト、バラモン_\/__\/__\/__\/__\/__\
地理区分
ペルシャ=対立
中国= インド=
客観的な存在 主観的な運動
中国史:
/\
/__\
精神の欠如/\
/__\/__\
/\ /\
/__\ 結語 /__\
/\模倣/\ /\自尊心\
/__\/__\/__\/__\
偶然、精神の喪失\ /乾隆帝『四庫全書』、ライプニッツ
/__\ /__\
/\ /\ 宗教、学問 /\記録/\
/__\/__\ /書経\/春秋\
/\ 易経 /\ /\ /\
/__\占い巫術/__\ 表意文字\ 学問 /孔子\
四大祭、生け贄/\ /\天 /\ /\漢字/\ /\哲学/『道徳経』
/__\/__\/__\/__\/__\/__\/易経\/老子\
/\ /財産法の変化(始皇帝)
/__\ /_道徳の否定
参照:フェヌロン『テレマック』/\ /肉体的/\
/__\/__\ /__\/__\
/\ /\ /\ /\
/__\ 皇帝 /__\ 中 国 /__\懲罰法 /__\
/\ /\ /\ /\ /権利なし\ /\外面的\
/__\/__\/__\/__\ 、 /__\/__\/__\/__\
/\ /\ 皇帝\ /\
詩経、礼記\ /__\ /__\ /__\
/\経(文化) 国体の精神 /五つの義務 /\ /\ 行政と法 /\17世紀、明の革命
/易経\/__\ /__\/__\ /武官\/文官\ /__\/__\
/\ /\ /\ /\ /\ /\ /\ /\
/__\ 歴史 /春秋\ /__\ 家族 /__\ /__\ 科挙 /__\ /__\ 官僚 /__\
/地理区分\ /歴史区分\ /\精神/\ /\ /\ /\ /\ :『玉嬌梨』\ /\書経/\ /\ /\
/__\/__\(伏羲)/書経\/__\/__\/__\/__\/__\/__\/__\/__\/__\/__\/__\/__\
ギリシア
/ローマへの推移、
/__\ポルピュリオス
ギリシアの解放\第三期、没落
/__\/アカイア同盟
アリストテレス\ /\
/_マケドニア王国__\
アレクサンダー大王/\ /\東洋遠征、業績とその後
/__\/__\/__\/__\
政体、文化\ /\
会食の風習\ /__\
/スパルタ\ /スパルタの堕落
/性格\/経済\ 外交 /__\/__\
/\ /\ /\ペロポネソス/ソクラテスとプラトン
/_ペルシア戦争/ペリクレス /__\ 戦争/ \
/\ /\ /アテネ/\ 堕落の外的根拠 堕落の内的根拠 <古典世界>
/__\/__\/概観\/個人\/戦争の/結果\/アテネ/ソフィスト
/\ 性格 の堕落 /\
/彫刻\ /__\
/\芸術/\ /\第一期から第二期への推移
/__\/__\ /__\/__\
ギリシア神話\ /\ /\ 政治的、 /\
ヘロドトス__\基本的性格__\ <ギリシア> /__\ 国家/都市国家
自然解釈/\ /\密儀/\ /\概説/\ /\共和国の三要素
/__\/__\/ホメロスとヘシオドス /七賢人/__\/神託\/奴隷制
/\ /\ /\ /\
/__\ /__\ /歌謡\ (キリスト教との相違)
/\ /\ /王家の没落 /\競技/\ /\偶然的要素
/__\/__\ 精神 /__\/__\ /__\/__\ 個人 地方神\/密儀\
/\ 地理と /\ /\ 政治的要素/\ /\ /\ /\ /\
/__\ 民族性/__\ /__\ /__\ /__\ 主観 /__\ /__\ 客観 /_運命
/\雑居/\ /\ /\ /\外来人\ /\トロヤ戦争 /\道具/\ /\装飾/\ /神の本性\ /\特殊な神々
/__\/__\/農業\/_海\/__\/__\/__\/__\/__\/__\/__\/__\/理念\ゼウス族/自然から精神へ
と巨人族
ローマ
/末期
/原理\
/\文化/\
/性格\/文化の頽廃
/\東ローマ帝国/\
/__\ /西ローマ帝国の滅亡
コンスタンティノープル/\ /\分裂/アッティラのフン族や
/__\/__\/__\/__\ ヴァンダル族による来襲
/\ /原理
/__\ 帝政時代 /発展\
個人の人格、権利/\ /\教会/\
/__\/__\懐疑主義、無関心/創立\/展開\
/\ /\エピクロス主義、 キリスト /\
/__\ 帝政 /__\ /宥和\ 教/奇蹟\
/\序 /\ /皇帝の性格 /\地盤/\ /\キリスト教の啓示
世俗的\/精神的/__\/__\/西洋\/ユダヤ/三位\/キリスト
/\ 一体 /\
/__\ /__\
/\ /\ (アントニウス自殺)
/__\/__\ /__\/__\
/\ /\ (オクタヴィアヌスの統一)
/__\(平和?)__\ <ローマ> /__\ /__\
/\ /\ /\ /\ (第2回三頭政治) (クレオパトラ)
/__\/__\/__\/__\ /__\/__\/__\/__\
神殿、祭礼、競技\ /結語 /\ /\
ギリシアからの借物\ /外戦と戦術、性格 /__\ 第2回ポエニ戦争 /_「歴史は繰り返す」
/\宗教/\第2回ポエニ戦争以前/\共和政前期 ポンペイウス出現 から帝政まで /\意義/\
二重性、良心\/散文的 /初期\/平民、リキニウス法 /__\/__\ /__\/__\
/\ 精神の /法律、性格 /\王政と共和政/\ ギリシ\第1回から /マリウス、 /\ /\
貴族と平民\ 諸要素/__\ /__\ 前期/滅亡、原理 ア制服_\第3回 /スッラと抗争 /__\カエサル/__\
/\成立/\ /\人倫/\ /\ 序/\ /王政時代\ /\第2回\ 共和\状勢/\ /三頭政治\ /\統一とローマの性格
リヴィウス説_\/家族\/公共\/(貴族→平民)/神政\/七王\/カルタゴ、_\政堕落\グラック/__\/__\/__\/__\
リキニウス法 階級 ハンニバル対スキピオ スの改革
第3回でカルタゴ滅亡へ
ゲルマン世界
/法=自由の概念
/影響\
/\革命/\
/動因\/分析\
フリードリッヒ二世\ /独と仏
/__\啓蒙とフランス革命(法、政府、愛国心)
/\原理/\ /\啓蒙/\
/善悪\/新旧\/最終\/カント、ナポレオン、1791年人権宣言
魔女裁判\ 段階 /\
/__\ /__\
/ 影響、結果 /\フリードリヒ大王(二世)
/__\/__\ 近世 /__\/__\
ミケランジェロ\ /\ /\ /1648ウェストファリア条約
/__\宗教改革/__\ /__\国家形成/__\
教会の堕落\ /\精神/\ /王権確立\ /\宗教戦争
/__\/__\/ルター/__\/__\/__\/__\/__\
王国裁判所\ /ルネッサンス、学問と芸術、新大陸
/__\ /__\
/国家組織\ 1338レンゼの会議\推移の考察
/__\/__\ 国王_\/_法王
カール大帝のフランク王国 /\ 君主制へ /\
/__\ /__\ <ゲルマン世界> 平和的\ の推移/英1215マグナ=カルタ
フランク王国\ 帝国分裂、協会分裂 /\推移/\ /\各国/\
/__\/__\/__\/__\ /特殊\/自由\/独、伊/仏_\
/\ サラセン王朝滅亡 1183コンスタンツの和議 /\
/__\ /文化\ 1122ヴォルムス協約、都市 /学問\
/国家形態\ /\カリフ大帝国 /教権政治\ /\結果/\
メロヴィング王家/__\ 古代 /__\/__\ 国会と教会\/矛盾\ 中世 /__\/_フランシスコ修道会、騎士団
/\ /\ /\ /\ 兵制、主観性\ 封建制と /各国 /\ /\
スラヴ\民族大移動__\ /__\ 回教 トゥール /__\位階組織/衰亡\ /__\ 十字軍/__\
ゲルマン三種\ /\性格/\ /マホメット ポワティエの 王国分裂/\ /\封建制度 /\状勢/\ /\経過/\
/_ロマン民族\/__\/__\/__\/__\/戦い\/__\/分割\/外敵\/客観化/私人\/__\/__\/__\/__\
クロヴィウス、フランク王国、 732
東ゴート王国
☆、→2010年、新バージョン(別頁)
/法=自由の概念
/__\
啓蒙とフランス革命(法、政府、愛国心)
フリードリッヒ大王、カント、1791人権宣言\/__ナポレオン
/\ /\
/__\ 近世 /_フリードリヒ大王
/宗教改革\ /\国家形成
ルター、魔女裁判_\/異端審問、ウェストファリア条約
王国裁判所\ /\
/__\ /君主制、ルネッサンス、学問と芸術
カール大帝のフランク王国/\ <ゲルマン世界> /\ /\
帝国分裂、協会分裂\/__\ 1215マグナ=カルタ /_1338レンゼの会議
/\ カリフ 1122ヴォルムス協約 /\
メロヴィング王家__\ 古代 /大帝国 封建制と_\ 中世 /__騎士団
民族大移動/\ /\回教/\ 位階組織/\ /十字軍/\
クロヴィウス、フランク王国、東ゴート王国_\/マホ\/トゥー/コンスタンツ\/__\/フランシスコ修道会
/\ メット ル の和議 /\
/ユダヤ、エジプト ポワティエの /__\
/\ /\ 戦い /\ /\
ペルシャ/小アジア /__\/__\
/\ /メディア、ペルシャ /\ /\
/ \ペルシア/ \ <ヘーゲル世界史> /__\ /__\
ゼンド民族\ /キュロス王の死 /\ /\ /\ /\
/__\/__\/アッシリア、バビロニア、 /__\/__\/__\/__\
/\ /\ /没落 /\
/易経\ /ラマ教 マケドニア王国\ /東ローマ帝国
/四庫大全\ <東洋世界> / 仏教 \ /\外交/\ <古典的世界> /帝政時代\
/______\ /仏陀__シャーマニズム ペルシア戦争\/ペロポネソス戦争 /帝政\/キリスト教
/\ /\ /\ /\ /\ /七賢人 /\ /\
/国家\ 中国 /懲罰法 ヴェーダ\インド / \ /__\ギリシア/政治的、 /__\ローマ /__\
/ 書経 \ /皇帝 /\ / \ /マヌ法典\ /\精神/\ /\個人/\第2回ポエニ戦争以前 /第2回ポエニ戦争
/__家族__\/始皇帝/官僚\カースト、バラモン______\/トロヤ戦争_\/主観\/客観\/リキニウス法\/グラックス兄弟
ホメロス ギリシア神話
改定前:
ヘーゲル『歴史哲学講義』↓
/啓蒙とフランス革命
フリードリッヒ大王,カント,1791人権宣言
/\近世/国家形成
ルター,宗教改革,魔女裁判\/異端審問,ウェストファリア条約,フリードリヒ大王
/\ <キリスト教/\
カール大帝のフランク王国\ 世界>/1215マグナ=カルタ,1338レンゼの会議,ルネッサンス
/\古代/\ /\中世/\
民族大移動\/回教\ /コンスタ,十字軍
/\ ンツの和議 /\
ユダヤ,エジプト /__\
/ペルシア\ <世界史> /\ /\
ゼンド民族\/キュロス王の死 /__\/__\
/\<東洋世界>/\マケドニア敗北\<古典的世界>\
四庫大全\ /仏教\ ペルシア、ペロポネソス/帝政,キリスト教,東ローマ帝国
/\中国/\ /\インド\戦争/ギリシア\戦争/ローマ \
/書経\皇帝_ヴェーダ\/マヌ\/トロヤ戦争 \/リキ\/第2回ポエニ戦争
法典 ニウス法
http://yojiseki.exblog.jp/8219229
『歴史哲学講義』
/啓蒙と革命
/__\
/\近世/国家形成
宗教改革\/__\
/\ <キリスト教/\
/__\ 世界>/_ルネッサンス
/\古代/\ /\中世/\
/__\/__\ /__\/__\
/\ /\
/__\ /__\
/ペルシア\ <世界史> /\ /\
/__\/__\ /__\/__\
/\<東洋世界>/\ /\ <古典的世界>\
/__\ /__\ /__\ /__\
/\中国/\ /\インド\ /ギリシア\ /\ローマ\
/__\/__\/__\/__\ /__\/__\ /__\/__\
中国史: /\
/__\
太平天国の乱、孫文\中華人民共和国
/中華民国_毛沢東
/\ <近世~近代>\
15_\ 13~21__\
フビライ、元\ /\ /\ /\
チンギスハン__\/_明\16_\/_清\
/三国時代 /\
蜀_呉_魏\ /南宋(遼、金)
/\ /\ <中国史> /\ /\
後漢__\/__\ 五代十国_宋\/_11
/<古代~中世>/\ /隋 <中近世>/\
/前4\前6~3/前1\ ~南北朝_\4~12/__\
前/\ /\ 秦\ /\ /\ 南北朝 /\ /\
6_春秋戦国_\/__\漢__\ /十六国/5_\/唐_\楊貴妃\
孔子 司馬遷 晋
老子
殷_周
中国史(映画版) /\
/21\
/\ 青い凧、クンドゥン
阿片戦争\阿Q正伝、南京1936、紅いコーリャン
/\ <13~21>ラスト・エンペラー
水滸伝 金瓶梅 _\ /康熙王朝、グリーン・デスティニー、
マルコポーロの冒険\ /\ /\ /\チャイニーズ・ゴースト・ストーリー、天地大乱、ウォーロード
モンゴル/_迎春閣波_ \ /__鄭成功、英雄~国姓爺合戦~
/\ 之風 /\
レッドクリフ__\ /南宋(遼、金)
/\ /\ <中国史> /\ /\
後漢_\/__\ 北宋、王安石_\/__\
/<前6~3> /\ /\<4~12>/\
/__\ /__\ ~南北朝_\ /9_敦煌
/ \ /\始皇帝暗殺 /\ /\ /\ /\ /\
/__戦国__\/__\漢 \ /十六国/__\西遊記\/__\
孔子 項羽と 晋 楊貴妃
老子 劉邦
(釈迦) 覇王別姫
~前11殷 封神榜、周
夏
☆
/\
/_CフィヒテDシェリング
Aヤコービ Bカント
/__\/__\
/\ <近代> /\
ベーコン\ /__\
/とベーメ\ /知性の時代
/__\/__\ /__\/__\
/\ /\
/__\ /__\
新プラトン派 『哲学』 /\復興/\
/__\/__\ /__\/__\
/\<ギリシア~>\ /\ <中世> /\
タレスから 独断主義 /__\ /__\
アリストテレス /と懐疑主義 /アラビア\ /\ スコラ\
/__\/__\/__\/__\ /__\/__\ /__\/__\
/\ /教団
/_詩\ /__\
/\ /音楽 /\表象/\
/絵_\/__\ <絶対的精神> /父_\/_子\
/\ /\ /\ <完成> /\
/__\ <個別>/__\ /__\ /__\
/\建築/\ /\彫刻/\ /\定義/\ /\移行/\
/__\/__\ /__\/__\ /__\/__\ /__\/__\
/\ /\ /\ /\
/__\ /__\ /__\ 『宗教』 /(1ペルシア,ユダヤ,
/\芸術/\ 『芸術』 /ロマン的\ /\祭祀/\ /\C自由\エジプト,
/__\/__\ /__\/__\ /__\/__\ /_2ギリシア,3ローマ)
/\ /\ /\ /\ /\ <概念> /\ /\ <規定> /(中国,
/__\<理念>/__\ /__\ <形態>/__\ /__\ /__\ /__\ 印度,仏教,
/\美 /\ /\自然/\ /象徴的/\ /\古典的\ /\[概念] \ /\知 /\ /A直接的自然 /\B分裂 \
/__\/__\/__\/__\ /__\/__\ /__\/__\/__\/__\/__\/__\ /__\/__\ /__\ラマ教)
おまけ:
ヘーゲル美学講義
/劇詩(原理/上演/歴史、ファウスト、群盗、シェークスピア)
叙事詩/種類\抒情詩
/\ 詩/\
/散文\/表現\
/オランダ、ドイツ)/\ /\
(ビザンティン/イタリア/歴史\ロマン的/手段と内容
/\絵画/\ /\音楽/\
/一般\/特殊\/一般\/特殊(リズム/ハーモニー/メロディー)
/\ /歴史(エギプト/ギリシア/キリスト教、
様々な工法\ /__\ ミケランジェロ)
/\ロマン的 <個別> /\表現法と素材、歴史
/一般\/特殊\ 表現法\/材料\
/\ /ローマ /\ /\
古典的建築へ、ピラミッド 建築 /ギリシア、 /_体現 彫刻 /個性\
/\象徴的\ /\古典的\ /\原理/\ /\理想形\
民族統一\/彫刻的/一般\/特殊\/内容\/_形\/一般\/特殊\
/独創性 /ゲーテ、西東詩集
手法\/様式 /解体\
/芸術家/\ /\個人/小説
想像力/天分/霊感__\/客観性 /人格\/冒険物語、偶然/喜劇(ドン
/\ /\ /\ /カール大帝 キホーテ)
/ \ 芸術 /外界の性質 <美学講義> /教団\ロマン的/忠誠\
/そのもの\ /特質 \ /\宗教/\ /\騎士道\
/______\そのもの_行動\ /救済\/_愛\/名誉\/_愛\
/\ /\ /\ /ローマ
/ \ /_限界 /消滅\ /風刺詩
/美の理念\ <理念> / 欠陥 \ /\比喩/\ <特殊な形態> /\解体/\
/______\ 有機体内部_依存\ /外形\/意味\ アンティ/運命\/擬人\
/\ /\ /\ /\ エジプト\ /\ ゴネー\ /\
/ \ 美 / \ / \ 自然 /_調和 /本来\象徴的 /__\ 変身/否定\ 古典的/個性\
/理念 \ /理念の存在 /そのもの\ / 統一 \ /\無意識\ /\高遠/\ 物語\過程/\ /\理想形\
/______\/______\/______\/規則_法則性\/統一\/空想的/汎神論/高遠\/動物\/神々\/理想\/種々\
ゾロ インド 犠牲/狩り 神託
カント、シラー、 アスター
イロニー(シュレーゲル)
/\
/_詩\
/\ /音楽
/絵_\/__\
/\ /\
/__\ <個別>/__\
/\建築/\ /\彫刻/\
/__\/__\ /__\/__\
/\ /\
/__\ /__\
/\芸術/\ 『芸術』 /ロマン的\
/__\/__\ /__\/__\
/\ /\ /\ /\
/__\<理念>/__\ /__\ <形態>/__\
/\美 /\ /\自然/\ /象徴的/\ /\古典的\
/__\/__\/__\/__\ /__\/__\ /__\/__\
http://yojiseki.exblog.jp/7740680/
『精神現象学』では、個別→特殊→普遍、あるいは人倫(個別)→法(普遍)→道徳(特殊)だったが、ここでは、類(普遍)→種(特殊)→個(個別)の順に記述が進む。
おまけ2:『ヘーゲル宗教哲学講義』
参照、『ヘーゲル宗教哲学講義』創文社(1827年版Aと1831年版Bの二つを所収。上記図で採用したのは主に後者)。
/\
/__\
/\教団/\
/__\/__\
/\ /\
/__\ 精神 /__\
/\父 /\ /\子 /\
/__\/__\/__\/__\
/\ /\
/__\ /殉死\
/(A三位一体) <完成> /\和解/\
/__\/__\ /理念\/キリストA
/\ /\ /\ /\
/__\ 概念 /ベーメ /__\ 表象 /善と悪、和解へ
/(B証明) /\カント\ /\分裂/\ /\対立/\
プラトン、ピタゴラス学派\/__\/__\/主観\/世界\/自然\/堕罪、創世記
/\ /\
/ (国家B) /祭祀\
/主体性の断念 /\ローマ\
/______\ /目的\/形象\
/\ /\ /\ /\
/ \ 祭祀 / \ <宗教哲学講義> エジプトA謎B発酵\ 自由 /自由と美
敬虔な祈り\ /和解、犠牲 /\ /\ /\ギリシア
/______\/______\ ペルシア、ユダヤ崇高\/苦痛\/有限\/B証明、ソクラテス、カント
/(スピノザ) /(A証明) /\ フェニ /\
/汎神論、 スピノザ モンゴル、シャーマン\ キア /_汎神論A
/絶対 \ <概念> アンセ 思考 \ /\ /\ <規定> 仏教とラマ教
/______\ ルムス____カント エスキモー\/アフリカ /_無\/合一\
/\ /\ /\ 諸形式 /\ /\ /\ /\ /\
/ \ 概念 / \ / \ 知 / \ /__\直接的、自然 \ /_道家 分裂 /祭祀、移行A
/ 主観 \ / 客観 \ /信仰、感情 / 表象 \ /\呪術/\ /\祈り/\ /\中国/\ /\インド\
/______\/______\/______\/______\/__\/__\/__\/__\/度量\/特殊\/実在\/多様\
(一なる)
別バージョン:
ヘーゲル『宗教哲学講義』諸宗教分類表
(堀池信夫『中国哲学とヨーロッパの哲学者』下584頁より。原本は縦書き)
_________________________________________________
| | | |精神的なものと | |
| | | |自然的なものの統一 |原始宗教(理神論)|
| | | |__________|_________|
| | |直接的宗教 |宗教的契機が感性的な| |
| | |(自然的宗教) |もののうちにあり、超| |
| | | |出の契機が自然性のう|呪術 |
| | | |ちに閉じ込められてい| |
| | | |るもの | |
| | |________|__________|_________|
| |自然宗教 | |度量の宗教 |中国の宗教 |
| | | |__________|_________|
| | |意識の自己内分裂|想像の宗教 |インドの宗教 |
| | | |__________|_________|
|実定宗教 | | |自己内存在の宗教 |仏教 |
| | |________|__________|_________|
| | | |善の宗教・光の宗教 |ペルシャの宗教 |
| | | |__________|_________|
| | |自由の宗教への移|苦悩の宗教 |シリアの宗教 |
| | |行段階の宗教 |__________|_________|
| | | |謎の宗教 |エジプトの宗教 |
| |_________|________|__________|_________|
| | |崇高の宗教 |ユダヤの宗教 |
| | |________|____________________|
| |精神的個性の宗教・|美の宗教 |ギリシャの宗教 |
| |自由な主観性の宗教|________|____________________|
| | |合目的の宗教・ | |
| | |悟性の宗教 |ローマの宗教 |
|_________|_________|________|____________________|
|概念・絶対的宗教・| |
|完成された宗教 | キリスト教 |
|_________|_______________________________________|
実定宗教と自然宗教を背理的なものと考えるなら両者の分類に異論が出るかも知れない。
また、ヘーーゲル全体系も(三角形ではなく)上記のような格子状の図で図解できるだろう。
ちなみにライプニッツは中国の「理」とヨーロッパの「神」との間に相似を見出した。
追記:
ヘーゲル『宗教哲学講義』諸宗教分類表、三角形バージョン
大枠は『歴史哲学講義』と同じだが、微妙に違う。
(参照:堀池信夫『中国哲学とヨーロッパの哲学者』下584頁より。原本は縦書き)
/\
/__\
/\ /\
/__\/__\
/\ /\
/__\ /__\
/\ /\ /\ /\
/__\/__\/__\/__\
/\ 概念・絶対的宗教・ /\
/__\ 完成された宗教 /__\
/\ /\ /\ /\
/__\/__\ キリスト教 /__\/__\
/\ /\ /\ /\
/__\ /__\ /__\ /__\
/\ /\ /\ /\ /\ /\ /\ /\
/__\/__\/__\/__\/__\/__\/__\/__\
/\ /\
謎の宗教\ /__\
/エジプト\ /\ /\
/__\/__\ ヘーゲル『宗教哲学講義』 /__\/__\
/自由の宗教への移・ 合目的の宗教・悟性の宗教
/_行段階の宗教/__\ /__\ローマ /__\
/ペルシャ\ /シリア/\ /\ /\ /\ /\
善の宗教・光の宗教_\/_苦悩の宗教\ /__\/__\/__\/__\
/\ 実定宗教A /\ /\ 実定宗教B /\
/__\ 自己内存在の宗教 /__\ 精神的個性の宗教・ /__\
/\ /\ 自然宗教 /\仏教/\ /\ /\ 自由な主観性の宗教/\ /\
/__\/__\ /__\/__\ /__\/__\ /__\/__\
原始宗教\ 直接的宗教/\ /\意識の /\ /\ ユダヤ /\ /\美の宗教 /\
(理神論)(自然的宗教)_\ 度量の宗教\自己内分裂__\ /__崇高の宗教/__\ /__\ギリシャ/__\
精神的なもの\ /\呪術/\ /\中国/\ /インド/\ /\ /\ /\ /\ /\ /\ /\ /\
と自然的なもの\/__\/__\/__\/__\/想像の宗教_\/__\/__\/__\/__\/__\/__\/__\/__\
の統一 宗教的契機が感性的な
もののうちにあり、超
出の契機が自然性のう
ちに閉じ込められてい
るもの
/教団
/__\
/\表象/\
/父_\/_子\
/\ <完成> /\
/__\ /__\
/\定義/\ /\移行/\
/__\/__\ /__\/__\
/\ /\
/__\ 『宗教』 /(1ペルシア,ユダヤ,
/\祭祀/\ /\C自由\エジプト,
/__\/__\ /__ 2ギリシア,3ローマ)
/\ <概念> /\ /\ <規定> /(中国,
/__\ /__\ /__\ /_印度,仏教,
/\[概念] \ /\知 /\ /A直接的自然 /\B分裂 \
/__\/__\/__\/__\ /__\/__\ /__\/_ラマ教)
『宗教哲学講義』1831
『法の哲学』
/世界史
/__\
/\国家/国際法
国内法\/__\
/<倫理=共同世界>
教育と解体 福祉行政と職業団体
/\家族/\ /\市民/\
/婚姻\/資産\ /欲求\/司法\
/\ /\
/__\ <客観的精神> /__\
不法に対する /\善と良心
/__\/__\ /__\/__\
/\ <法> /\ /\ <道徳> /\
/__\ /__\ /__\ /__\
/\所有/\ /\契約/\ /企図と責任 /\意図と福祉
/__\/__\/__\/__\ /__\/__\ /__\/__\
『歴史哲学講義』
/啓蒙と革命
/__\
/\近世/国家形成
宗教改革\/__\
/\ <キリスト教/\
/__\ 世界>/_ルネッサンス
/\古代/\ /\中世/\
/__\/__\ /__\/__\
/\ /\
/__\ /__\
/ペルシア\ <世界史> /\ /\
/__\/__\ /__\/__\
/\<東洋世界>/\ /\ <古典的世界>\
/__\ /__\ /__\ /__\
/\中国/\ /\インド\ /ギリシア\ /\ローマ\
/__\/__\/__\/__\ /__\/__\ /__\/__\
<人倫>
『エンチクロペディー』
/\
/_哲学
/\絶対的\
芸術_\/_宗教
/\<精神哲学> /\
/__\ /__\
/\主観的\ /\客観的\
/__\/__\ /__\/__\
/\ /\
/__\ 『エンチクロペディー』/__\
/\概念論\ /有機体学\
/__\/__\ /__\/__\
/\ <論理学>/\ /\ <自然哲学>/\
/__\ /__\ /__\ /__\
/\有論/\ /\本質論\ /\力学/\ /\物理学\
/__\/__\/__\/__\ /__\/__\ /__\/__\
/CフィヒテDシェリング
/__\
/\近代/Bカント
/Aヤコービ__ \
/\ /復興
新プラトン派_\ 哲学 /__\
タレスから/ギリシア\ /\中世/スコラ
アリストテレス_独断,懐疑\/アラビア__\
/詩 教団
絵_音楽 <絶対的精神> 父_表象_子
/\個別/\ /\完成/\
/建築\/彫刻\ /定義\/移行\
/\ /\ /\ /\
/__\ 芸術 /__\ /祭祀\ 宗教 /自由\
/\理念/\ /\形態/\ /\概念/\ /\規定/\
/__\/__\/__\/__\ [概念]\/_知\ /直接\/分裂\
/\
/__\
/\自由/\
/__\/__\
/\ /\
/__\ 心理学 /幸福\
/\理論/\ /\実践/\
/__\/__\ /感情\/衝動と恣意
/\ /\
/__\ <主観的精神> /__\
/現実的な心 /\理性/\
/__\/__\ /__\/__\
/\ /\ /\ /\
/感覚\人間学 /習慣\ /悟性\ 現象学 /一般\
/自然な心\ /\感ずる心 /\意識/\ /\自己意識
/性質\/変化\直接態\自己感情 /感性\/知覚\ /欲望\/承認\
追記:
『ヘーゲル現象学の理念』( 2002 創文社 細川 亮一)における説の図解。
意識
感覚=パルメニデスからヘラクレイトス1:1:1
知覚=レウキッポス1:1:1
悟性=プラトン「ソピステス」1:1:2
自己意識
生命=アリストテレス「霊魂論」1:1:3:3a
主従=アリストテレス「政治学」1:1:3:3bβ
(ストア主義1:2A、
懐疑主義1:2D)
不幸な意識=新プラトン派1:3
『哲学史講義』より、ギリシア哲学
/\
/ \
/ \
/<新プラトン派>
/\ /\ <哲学史>
/ \ / \
/_____\ /____\
アリストテレス政治学 / / \
アリストテレス霊魂論<ギリシア哲学> / \
/ \ / \
/<タレスから>\ /<ソフィストからソクラテス派まで>
パルメニデスから / \ / ストア主義 /懐疑主義
ヘラクレイトス /「ソピステス」 / \
レウキッポス__/_____\ /______/_____\
『精神現象学』より(その後の哲学史と大分違う)
/\
/ \
/<理性>\
/ \
/ /\
/_______/__\
/ 悟性= / /不幸な意識=新プラトン派
プラトン「ソピステス」<精神現象学> ___
/ /ストア主義/懐疑主義
/<意識> / / <自己意識>
/ 知覚=レウキッポス /主従=アリストテレス「政治学」
感覚=パルメニデスから 生命=アリストテレス「霊魂論」
ヘラクレイトス_/____/_______/________
哲学史講義の方はアリストテレスまでのギリシア哲学を圧縮して第一篇に収めている。
『精神哲学』と『精神現象学』との対応(改訂版):
/F絶対知
/__\
/\ /\
/__\/__\
/\<絶対的精神>\
/__\ /__\
/E2芸術宗教 /\E1,3宗教
/__\/__\ /__\/__\
/\ /\
/__\ /_D1人倫
/C1心理学\ 『精神哲学』 /\ /\
/__\/__\ /__\/__\
/\<主観的精神>\ /<客観的精神>/\
/__\ /_C理性 /__\ /__\
/\ /\ /\現象学\ /\D2法/\ /\D3道徳
/__\/__\/A意識,B自己意識/__\/__\ /__\/__\
<エンチクロペディー>
『精神現象学』:
A意識/B自己意識/C理性(C1心理学)/
D精神(章の順序が違う)/E宗教(E2芸術宗教)/F絶対知
(章の番号は恣意的なもの。意識から理性までは哲学史と対応しているという説がある。)
参考:wikipedia『エンチクロペディー』
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A8%E3%83%B3%E3%83%81%E3%82%AF%E3%83%AD%E3%83%9A%E3%83%87%E3%82%A3%E3%83%BC
☆
/\
/ \
/シェリング
/______\
/\ /\
/__\ /__\
/カント/\ /フィヒテ\
ヤコービ\/__\/__\/__\
/\ /\
三位一体\ /__\
/\ /\ 近代 /\ /\
/神_\/対立\ /__\/__\
/ベーコンとベーメ\ ライプニッツ\<知性の時代>ルソー、啓蒙思想
/ \ / \ ヴォルフ_\ /フランスの哲学
/ベーコン\ /ベーメ \ <形而上学の時代>/<移行期>
/______\/______\デカ_\ロック\バークリー、スコットランド派
~プロクロス\ ルト、 ホッブズ、 ヒューム /\
/アレク スピノザ、 グロティウス / \
/サンドリア派 マルブランシュ /宗教改革\
プロティノス~__ポリフュリオス、ヤンブリコス /______\
/\ /\ キケロ\ /~ペトルス・ラムス
/ 新プラトン主義 \ ヘーゲル哲学史 /__\ルネサンス_ブルーノ
/フィロン\ / グノーシス 古代研究/\ /\独自の試み
/______\カバラ__主義\ /__ガッサ_\/__\/カルダーノ
/\ /\ /\ ンディ /\
/ \ / \ / \ / \
/ アリスト 古代 /懐疑主義\ /ユダヤ人\ 中世 スコラ派一般
プラトン__テレス /______\ /______\ /______\
~アナク\ /~キクニ学派 /\ /\ /\ /\ /\ /オッカム、ベーコン
サゴラス_\ギリシア/ソクラテス派 / \ヘレニズム \ / \アラビア/ \ / \スコラ /__\
/\ /\ / /\ /ストア派\ エピクロス\ /議論派 \ /アリスト\ 対キリスト教 /\歴史/\スコトゥス
タレ_\レ_エン/ソフィ/ソク\/______\/______\/______\/_テレス注釈\/______\アンセルムス_トマス・アクィナス
ス~ ウキ ペド スト ラテス アベラール~
パル ッポ クレス
メニ ス、
デス、 デモ
ヘラク クリトス
レイト
ス、ピタゴラス
|_______________|
↓☆拡大
/\
/__\
/\ /\
/__\/__\
/\ /\
/__\ /__\
/\ /\ /\ /\
/__\/__\/__\/__\
/\ /論理学
/__\ /__\
/精神哲学\ <客観的理念> /精神哲学\
/__\/__\ /__\/__\
/\ /\ /\アリストテレス\
/__\プラトン/ \ /__\ /__\
/弁証法/\ /自然哲学\ /形而上学\ /自然哲学\
/__\/__\/__\/__\/__\/__\/__\/__\
/\ /\
/ \ /__\
/知性と物質 /\キクニ学派
/______\ /__\/_ディオゲネス
/\アナクサゴラス\ /\ソクラテス学派\
/ \ / \ <古代ギリシア> /__\ /__\
/一般的 \ /部分的均質 /メガラ学派 /\キュレネ学派
/______\/______\ エウクレイデス_\/__\/__\/__\
ヘラクレイトス\ /\ /\ /\
/ \ / \ /__\ /__\
パルメニデス /\ 一般的 / \ /\ /\ 主観、内省的 /\運命/\
エレア派__/ゼノン /______\ /__\/__\ /__\/__\
アナク/\ /\ /\ /\ /\ソフィスト /\ /\ソクラテス /\
シメネス_\ 単純 / \ / \ 即物的/ \ / \ / \ /__\ /__\
/\ /\ / \ レウキッポス\ / \ / \ / \ /イロニー\ /\善 /\
タレス\/アナ\/ピタゴラス_\/デモクリトス\エンペドクレス\/プロタゴラス\/ゴルギアス_\/__\/__\/__\/__\
クシ
マン
ドロス
追記:
細川亮一『ヘーゲル現象学の理念』の説 だと、『精神現象学』は『哲学史講義』と並行対応関係にあり、『哲学史講義』は『精神現象学』と一緒に読むといいそうだ。
以下、『精神現象学』内の章:対応する哲学者、及びキーワード、頁数は長谷川訳『哲学史講義』より。
意識
感覚:パルメニデス(本来の哲学が始まる、上p238)からヘラクレイトス(一般的な過程、上p279)
知覚:レウキッポス(自立存在の定義、正なるものを負なるものの空虚として.上p297)
悟性:プラトン「ソピステス(ソフィスト)」(抽象的な統一、中p56)
自己意識
生命: アリストテレス「霊魂論」(一般的、中p164)
主と僕:アリストテレス「政治学」(服従、中p186,189)
ストア派(自然な素朴さ、中p215,220)
懐疑派(内容の否定、中p300)
不幸な意識:
新プラトン主義(統一、三位一体、中p339,408)
以上。
新プラトン主義に関しては、『ヘーゲル「新プラトン主義哲学」註解 』(山口誠一)などが最新研究らしい。
ちなみに『精神現象学』を機械的に図解すると以下になる。
/絶対知
*啓示_\
/\宗教/\
/自然\/芸術\
/\ ~絶対知 /良心、美しい魂
自覚_\ドンキ /_道徳
/\理性/ホーテ/\精神/\ディドロ
/観察\/実現\/人倫*/教養\
/\ ゲーテ、シラー /\
「ソフィスト」\ /_新プラトン主義
/ 悟性 \ <精神現象学> /不幸な意識(*後に頻出)
/_プラトン_\ /__\/__\
ヘラク/\ /\ /\ /\
レイトス\ 意識 / \ /__\自己意識 /懐疑派
/ 感性 \ / 知覚 \ /\生命/\ /主と僕/\
/パルメニデス\/レウキッポス\アリストテレス\/同_\/ストア派
「霊魂論」「政治学」
☆年表(映画版〜21)
、メモ、TOP /\ 13〜21
/__\
/\21/\惑星ソラリス
2001年宇宙の旅__\/__\
ゾラの生涯、日清戦争走向共和、西太后\ /\マルコムX、地獄の黙示録、ホワイト・バッジ
龍馬暗殺_明治_チェスを /__13デイズ、JFK、 アラビアのロレンス、ラストエンペラー、
/\19/する人/\20/史上最大の作戦、非情城市 あらくれ、大いなる幻影、十月、橋のない川、
ナポレオン_会\阿片戦争/_北京の55日、二百三高地、日露戦争、阿Q正伝 、戦艦ポチョムキン、西部戦線異常なし
コロンブス\ 議は 遥かなる戦場 叛乱 /\
/__\踊る 風と共に去りぬ ラインの悲愴曲、パトリオット、ダントン、グレースと公爵
Tirante el Blanco \15/花の乱、祇園祭 /\18 浪花の恋の物語、近松物語、郡上一揆
一休さん、勘合貿易__\/_ジャンヌダルク裁判 /_元禄忠臣蔵_享保の改革
ブレイブハート\MUSA -武士-、朝鮮龍の涙 エリザベス、利休 /好色一代男
元、元寇日蓮と蒙古大襲来、マルコポーロ もののけ姫 影武者、イワン雷帝 /_元禄、名誉革命、康熙王朝
ZEN\13/\ デカ\14/明 /\16無敵艦隊/\17/\鄭成功、英雄〜国姓爺合戦〜
モン_\日蓮_\/メロン/迎春\/華麗\鉄砲_\/江戸\/清_天草四郎時貞、クロムウェル、レンブラント
/\ゴル 神の 太平記 閣之 なる 伝来記 ブルーノ /虎の尾を踏む男たち、鎌倉
/ \ 道化師 風波 激情 ルター、黄金の日日 新平家物語、キングダム・オブ・ヘブン
/ 3 \ フランチェスコ 1000日のアン /\12/炎のアンダルシア
火の鳥黎明篇、卑弥呼_レッド_古墳時代 <歴史映画による世界史> /__\/地獄門、山椒大夫
クレオパトラ\ クリフ 後漢、卑弥呼〜 /\ /院政、羅生門、第一回十字軍クルセイダーズ
/クォヴァディス/ \ 恋や恋なすな恋、陰陽師__\ /__\
/ 1 \ / 2 ローマ帝国の滅亡〜 神聖ローマローエングリン10/宋 /\11/\
奇跡の丘_ベンハー\/______\ 菅原道真、高麗〜太祖王建\/風と\/源氏\/敦煌\
/\ /\ 聖徳太子、遣隋使 雲と 物語 /太祖王建〜
商鞅、新大秦帝国\ ジュリアス・シーザー 朱蒙 /_隋、飛鳥 虹と /__アルフレッド大王
マウリヤ朝/ 前4 \ グレートウォーリアーズ前1\ /\6 /\ 、女帝 空海\9 /\
/梁滅亡墨攻、アレキサンダー /______\ ソドンヨ_\/__\ /最澄\バイキング
仏教 /\ 秦、始皇帝 /漢武大帝 /\ /\ /\ /平安
臥薪嘗胆 女の平和\ ハンニバル\暗殺 / \ 太王四神記 西ローマ帝国滅亡 大祚榮_\ カール大帝_\
/ 前6 孔子 / 前5 \ / 前3 \ / 前2 \ /\ 4/\ /\5 /\ 唐\7 /\ /\ 8/\大仏開眼
/____釈迦\/___300\日本誕生_弥生\漢〜項羽と劉邦\/キリ\/__\/アッティラ_\ザ・メッ/遣唐使/奈良\楊貴妃、天平の甍
イントレ アショカ 覇王別姫 スト教公認 中国南北朝 セージ 大化改新 アッバース朝アラビアンナイト
ランス 長平の戦い、麦田 開創盛世 ウマイア朝
アケメネス朝ペルシア、オリエント統一 西遊記
前7アッシリア王国(オリエント統一、滅亡)
前8末アッシリア、セミラミス女王Queen Of Babylon
前11キング・ダビデ
〜前11殷 封神榜
前12トロイ、トロイのヘレン
前14縄文〜
十戒
前30〜20ピラミッド
〜天地創造
TOP、世界史
☆:INTOLERANCE
/\
/_ D\20世紀
/\ /\
/__\/C _\16世紀
前1〜/\前6から21/\
1世紀B _\ /__\
/\ /\ /\ /\
/A _\/__\/__\/__\
前6世紀
Aバビロニア編 紀元前539年の新バビロニア王国。
Bユダヤ編 紀元前4年のエルサレム。
C中世編 16世紀のパリ。『王妃マルゴ』でも描かれた1572年の聖バーソロミューの虐殺。
D現代編 20世紀初頭のある西洋の町。
☆
地政学的制約は、国家の歴史的発展にも影響を及ぼす。
以下、『世界共和国へ』(p63,60)より
封建的 古典古代的 アジア的 古典古代的 封建的
____________________________________
亜周辺 周辺 中核 周辺 亜周辺
(西欧州) (ギリシア (エジプト・ (朝鮮) (日本)
・ローマ) インド・中国)
↓ ↓ ↓
絶対主義国家 東ローマ帝国 絶対主義国家
(アジア的国家)
サーカーの理論を参考にすると歴史のサイクルは、武→知→富→労、の繰り返し。
|
国家(官僚) 武 宗教
|
__富______|_____労____
|
|
資本 知 X
おまけ:ヘーゲルを4区分で区分けし直してみた。
______________________<物質>_____________________
| | | | | | | | |
| 特殊個体|一般的個体| 有限力学|空間と時間| 現象 |存在本質 | 量 | 質 |
| | | | | | | | |
|____物理学____|____力学_____|____本質論____|____存在論____|
| | | | | | | | |
|個別的個体| X | 絶対力学| X | 現実性 | X | 限度 | X |
| | | | | | | | |
|_____|___自然哲学____|_____|_____|____論理学____|_____|
| | | | | | | | |
| 植物 | 地質学 | | | 客観 | 主観 | | |
| | | | | | | | |
|___有機体学____|_____X_____|____概念論____|_____X_____|
| | | | | | | | |
| 動物 | X | | | 理念 | X | | |
| | | | | | | | |
客_____|_____|_____|_____◉_____|_____|_____|_____主
観 | | | | | | | 観
| 道徳 | 法 | 現象学 | 人間学 | | | | |
| | | | | | | | |
|___客観的精神___|___主観的精神___|_____|_____|_____|_____|
| | | | | | | | |
| 人倫 | X | 心理学 | X | | | | |
| | | | | | | | |
|_____|___精神哲学____|_____|_____|_____X_____|_____|
| | | | | | | | |
| 宗教 | 芸術 | | | | | | |
| | | | | | | | |
|___絶対的精神___|_____X_____|_____|_____|_____|_____|
| | | | | | | | |
| 哲学 | X | | | | | | |
| | | | | | | | |
|_____|_____|_____|____<精神>___|_____|_____|_____|
208 Comments:
_______________________________________________
| | | | | | | | |
| | | | | | | | |
| | | | | | | | |
|_____|_____|_____|_____|_____|_____|_____|_____|
| | | | | | | | |
| | | | | | | | |
| | | | | | | | |
|_____|_____|_____|_____|_____|_____|_____|_____|
| | | | | | | | |
| | | | | | | | |
| | | | | | | | |
|_____|_____|_____|_____|_____|_____|_____|_____|
| | | | | | | | |
| | | | | | | | |
| | | | | | | | |
|_____|_____|_____|_____|_____|_____|_____|_____|
| | | | | | | | |
| | | | | | | | |
| | | | | | | | |
|_____|_____|_____|_____|_____|_____|_____|_____|
| | | | | | | | |
| | | | | | | | |
| | | | | | | | |
|_____|_____|_____|_____|_____|_____|_____|_____|
| | | | | | | | |
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| | | | | | | | |
|_____|_____|_____|_____|_____|_____|_____|_____|
| | | | | | | | |
| | | | | | | | |
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:
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/\
/__\
精神の欠如 /\
/__\/__\
/\ /\
/__\ 結語 /__\
/\ /\ /\ /\
/__\/__\/__\/__\
/\ /\
/__\ /__\
四庫全書、ライプニッツ/\ 宗教、学問 /\ /\
/__\/__\ /__\/春秋\
/\ /\ /\ /\
/__\ 易経 /__\ /__\ 学問 /__\
/\ /\ /\ /\ /\老子/\ /\孔子/\
/__\/__\/__\/__\/__\/__\/__\/__\
/\ /\
/__\ /__\
/\ /\ /\ /\
/__\/__\ /__\/__\
/\ /\ /\ /\
/__\ 皇帝 /__\ 中 国 /__\懲罰法 /__\
/\ /\ /\ /\ /\ /\ /\ /\
/__\/__\/__\/__\ 、 /__\/__\/__\/__\
/\ /\ /\ /\
/__\ /__\ /__\ /__\
/\ /\ 国体の精神 /\ /\ /\ /\ 行政と法 /\ /\
/詩経\/__\ /__\/__\ /__\/__\ /__\/__\
/\ /\ /\ /\ /\ 皇帝 /\ /\ /\
/__\ 歴史 /__\ /__\ 家族 /__\ /__\ 始皇帝/__\ /__\ 官僚 /__\
/歴史区分\ /\書経/\ /\精神/\ /\ /\ /\科挙/\ /\ /\ /\書経/\ /\ /\
/_地理区分_\/__\/__\/__\/__\/__\/__\/__\/__\/__\/__\/__\/__\/__\/__\
:
/\
/__\
精神の欠如/\
/__\/__\
/\ /\
/__\ 結語 /__\
/\模倣/\ /\自尊心\
/__\/__\/__\/__\
偶然、精神の喪失\ /乾隆帝『四庫全書』、ライプニッツ
/__\ /__\
/\ /\ 宗教、学問 /\記録/\
/__\/__\ /書経\/春秋\
/\ /\ /\ /\
/__\ 易経 /__\ 表意文字\ 学問 /孔子\
四大祭、生け贄/\ /\天 /\ /\漢字/\ /\哲学/『道徳経』
/__\/__\/__\/__\/__\/__\/易経\/老子\
/\ /財産法の変化(始皇帝)
/__\ /_道徳の否定
参照:フェヌロン『テレマック』/\ /肉体的/\
/__\/__\ /__\/__\
/\ /\ /\ /\
/__\ 皇帝 /__\ 中 国 /__\懲罰法 /__\
/\ /\ /\ /\ /権利なし\ /\外面的\
/__\/__\/__\/__\ 、 /__\/__\/__\/__\
/\ /\ 皇帝\ /\
詩経、礼記\ /__\ /__\ /__\
/\経(文化) 国体の精神 /五つの義務 /\ /\ 行政と法 /\17世紀、明の革命
/易経\/__\ /__\/__\ /武官\/文官\ /__\/__\
/\ /\ /\ /\ /\ /\ /\ /\
/__\ 歴史 /春秋\ /__\ 家族 /__\ /__\ 科挙 /__\ /__\ 官僚 /__\
/地理区分\ /歴史区分\ /\精神/\ /\ /\ /\ /\ :『玉嬌梨』\ /\書経/\ /\ /\
/__\/__\(伏羲)/書経\/__\/__\/__\/__\/__\/__\/__\/__\/__\/__\/__\/__\
:
ペルシア ローマ
中国 インド エジプト ギリシア
この並びの方がいい
多分ヘーゲルはエジプトに詳しくなかった
:
ペルシア ローマ
対立 分裂
静 動 二極 統一
中国 インド エジプト ギリシア
インドはギリシア
ペルシャはローマ二似ているとされる
エジプトはギリシアへの橋渡しである
/\
/__\
/\ /\
/__\/__\
/\ /\
/__\ /__\
/\ /\ /\ /\
/__\/__\/__\/__\
ゲーム理論:n=3のときの解の例、図解
A(120,0,0)
x2=50 /\
x1+x3=70/ \ x3=60
\ / \x1+x2=60
\/ \ /
/\ \/
/ \ 4 /\
___/____\____/__\________
/ F\ /E \ x1=40
/ 5\/6 \x2+x3=80
/ D/\ \
/_________/__\_______\
/ \ C(0,0,120)
B(0,120,0)
A=(120,0,0) B=(0,120,0) C=(0,0,120)
D=(10,50,60) E=(40,20,60) F=(40,50,30)
提携合理性の条件を
コアの制約条件という
制約条件は基本三角形上に図示でき、
三角形DEFがコアを示す
bin.t.u-tokyo.ac.jp/game08/ppt/game10.ppt
:
(x1,0,0)
|
|
/ \
/ \
(0,x2,0) (0,0,x3)
よく見られるような需給がx状に交差する図では一つの解が必ずあることになってしまうが、
ノイマンが考案した上記の図には、複数の解を量的に図示できるメリットがある。
むろん解がない場合も図示できる(中の三角形が空のとき)。
:
(x1,0,0)
|
|
|____
/ (0,0,x3)
(0,x2,0)
↑
x1
1|
|\
| \ ←二人交渉ゲームのコア
| \
|___\____x2
0 1 →
(『ゲーム論の基礎』オーマン 44頁より)
コア=解の集合
:
アフリカ→シュメール→エジプト→ギリシア→イスラム
↓ ↓↑ ↓↑
インドーーーーーヘレニズム時代 モンゴル
↓ ↓↑
中国ーーーーーーーーーーーーーー→朝鮮→日本
アフリカ→シュメール→エジプト→ギリシア→イスラム
↓ ↓↑
インドーーーーーヘレニズム時代
↓
中国ーーーーーーーーーーーーーー→朝鮮→日本
:
→ユダヤ
↑ →イスラム
アフリカ→シュメール→エジプト→ギリシア→ヨーロッパ
↓ ↓↑ ↓↑
インドーーーーーヘレニズム時代 モンゴル
↓ ↓↑
中国ーーーーーーーーーーーーーー→朝鮮→日本
:
_______________________
| | | | |
| | | | |
| | | | |
|_____|_____|_____|_____|
| | | | |
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|_____|_____|_____|_____|
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| | | | |
| | | | |
|_____|_____|_____|_____|
| | | | |
| | | | |
| | | | |
|_____|_____|_____|_____|
:
_______________________
| | | | |
| | | | |
| | | | |
|_____|_____|_____|_____|
| | | | |
| | | | |
| | | | |
|_____|_____|_____|_____|
| | | | |
| | | | |
| | | | |
|_____|_____|_____|_____|
| | | | |
| | | | |
| | | | |
|_____|_____|_____|_____|
:
_______________________
| | | |
| | | |
| | | |
| |_____|_____|
| | | |
| | | |
| | | |
|___________|_____|_____|
| | |
| | |
| | |
| | |
| | |
| | |
| | |
|___________|___________|
:
孔子『論語』
集合論的に整理され得る概念は、写像関係にもある。
_______________________
| | | 孝 弟|
| | 義 | 礼 |
| | | 智 信|
| |_____徳_____|
| | | |
| | 善 | 学 |
| | | 仁 |
|___________|_____|_____|
| | |
| 天 | |
| | |
| 道 | |
| | |
| | |
| | |
|___________|___________|
:
孔子『論語』
集合論的に整理され得る諸概念は、写像関係にもある。
_______________________
| | |孝 弟 質|
| | 義 | 礼 文|
| | | 智 信|
| |_____徳_____|
| | | |
| | 善 | 学 書|
| | | 仁 |
|___________|_____|_____|
| | |
| 天 | |
| | |
| 道 | |
| | |
| | |
| | |
|___________|___________|
:
孔子『論語』
集合論的に整理され得る諸概念は、写像関係にもある。
_______________________
| | |孝 弟 質|
| | 義 善 | 礼 文|
| | | 智 信|
| |_____|_____|
| | | |
| | 徳 | 学 書|
| | | 仁 |
|___________|_____|_____|
| | |
| 天 | |
| | |
| 道 | |
| | |
| | |
| | |
|___________|___________|
:
孔子『論語』
集合論的に整理され得る諸概念は、写像関係にもある。
_______________________
| | |孝 弟 質|
| | 善 | 礼 文|
| | | 智 信|
| 義 |_____|_____|
| | | |
| | 徳 | 学 書|
| | | |
|___________|_____|_____|
| | |
| 天 | |
| | |
| 道 | 仁 |
| | |
| | |
| | |
|___________|___________|
:
孔子『論語』
集合論的に整理され得る諸概念は、写像関係にもある。
_______________________
| | |孝 弟 質|
| | 善 | 礼 文|
| | | 智 信|
| 義 |_____徳_____|
| | | |
| | 売 | 学 書|
| | | |
|___________|_____|_____|
| | |
| 天 | |
| | |
| 道 | 仁 |
| | |
| | |
| | |
|___________|___________|
_______________________
親指側
|
イチロー| 王
A1 | A2
____|_________
B1 | B2
長島 | 松井
|
踵側
右足の重心(上から)
:
孔子『論語』
集合論的に整理され得る諸概念は、写像関係にもある。
中庸は集合同士の交わる地点を意味する。
_______________________
| | |孝 弟 質|
| | 善 |礼 聖 文|
| | |剛 智 信|
| 義 |_____徳__政__|
| | | 詩|
| | 売 | 学 書|
| | | 知 楽|
|___________|_____|_____|
| | |
| 天 | |
| | |
| 道 | 仁 |
| | |
| 聖? | |
| | |
|___________|___________|
:
孔子『論語』
集合論的に整理され得る諸概念は、写像関係にもある。
中庸は集合同士の交わる地点を意味する。
_______________________
| | |孝 弟 質|
| | 善 |礼 聖 文|
| | |剛 智 信|
| 義 |_____徳__政_名|
| | | 詩|
| | 売 | 学 書|
| | | 知 楽|
|___________|_____|_____|
| | |
| 天 | |
| | |
| 道 | 仁 |
| | |
| 聖? | |
| (怪力乱心) | |
|___________|___________|
:
孔子『論語』
集合論的に整理され得る諸概念は、写像関係にもある。
中庸は集合同士の交わる地点を意味する。
_______________________
| | |孝 弟 質|
| | 善 |礼 聖 文|
| | |剛 智 信|
| 義 |_____|__政_名|
| | | 詩|
| | 徳 | 学 書|
| | | 知 楽|
|___________|_____|_____|
| | |
| 天 | |
| | |
| 道 | 仁 |
| | |
| 聖? | |
| (怪力乱心) | |
|___________|___________|
:
孔子『論語』
集合論的に整理され得る諸概念は、写像関係にもある。
中庸は集合同士の交わる地点を意味する。
_______________________
| | |孝 弟 質|
| | 善 |礼 聖 信|
| | |剛 智 文|
| 義 |_____|倹_政_名|
| | | 詩|
| | 徳 | 学 書|
| | | 知 楽|
|___________|_____|_____|
| | |
| 天 命 | |
| | |
| 道 | 仁 |
| | |
| 聖? | |
| (怪力乱心) | |
|___________|___________|
親指側
|
イチロー| 王
A1 | A2
____|_________
B1 | B2
長島落合| 松井
|
踵側
右足の重心(上から)
パラレルAⅡ・BⅠ
「両脚の間に軸を作る
(パラレル型)」
『陸上版』によると
A…下り坂得意
B…上り坂得意
パラレル…直線得意
クロス…カーブ得意
だそう。だから駅伝で「山の神」と呼ばれる選手はB2が多いんだと
サッカー版の俊輔のフリーキックの解説でもあったように、左右の直線的な体重移動を伴うのがクロス型の特徴。
テレ朝系のナンダという番組で
4スタンス理論
という
ものについて、特集が組まれていたのですが、つま先かかかとか、
足の内か外かという組み合わせで4つの分類ができるとのことです
親指側
|
イチロー| 王
A1 | A2
____|_________
B1 | B2
長島落合| 松井
|
踵側
右足の重心(上から)
パラレルAⅡ・BⅠ
「両脚の間に軸を作る
(パラレル型)」
『陸上版』によると
A…下り坂得意
B…上り坂得意
パラレル…直線得意
クロス…カーブ得意
だそう。だから駅伝で「山の神」と呼ばれる選手はB2が多いんだと
サッカー版の俊輔のフリーキックの解説でもあったように、左右の直線的な体重移動を伴うのがクロス型の特徴。
:
孔子『論語』
集合論的に整理され得る諸概念は、写像関係にもある。
中庸は集合同士の交わる地点を意味する。
_______________________
| | |孝 弟 質|
| | 善 |礼 聖 信|
| | |剛 智 文|
| 義 |_____|倹_政_名|
| | | 詩|
| | 徳 | 学 書|
| | | 知 楽|
|___________|_____|_____|
| | |
| 天 命 | |
| | |
| 道 | 仁 |
| | |
| 聖? | |
| (怪力乱神) | |
|___________|___________|
子曰:「吾未見好德如好色者也。」9:18
子曰:「已矣乎!吾未見好德如好色者也!」
15:13
先生が言われた。
「私はまだ美人を好むように徳を好む人を見たことがない。」
『森の生活』と東洋思想:メモ(転載)
http://nam-students.blogspot.jp/2010/02/blog-post_22.html
徳にはこの他に「孝」・「忠」・「恵」と云うものもありますが、そもそもそれらを包括する「徳」と云うのは一体何でしょうか?広辞苑を引いてみますと。
①心に養い身に得たところ。人道を悟って行為に表すこと。
②道徳的に善い行為をするような性格の習慣。
③生来有する性質、天性、品性。
④人を感化し敬服させる力・・・・等々。 どうもピンと来ません。
徳という言葉は頻繁に使われているけれども、改めて「徳とは何ですか?」と問われて、スカッと一発で答えられる人は殆んどいないということでしょう。私もコリャイカン!と思いまして、アレコレ書物をひっくり返してみましたが、どうもピンと来るものがない。漢和辞典を引いても、スカッとした説明がない。
これは困ったことだと思っておりましたが、ある時フト、漢字は象形文字・表意文字であるから、文字の一つ一つは元来現象や形態を象ったものである筈だ!と云うことに気が付いた。ならば、文字の由来を調べてみれば、何か手掛かりが得られるんじゃなかろうか?と考えまして、もう一度漢和辞典を引いてみましたら、何と、そこにちゃんとあるではないですか。徳の原字は 「悳」であると。
「悳」=直+心、つまり「生まれたままの素直な心で生きること」。これが徳の本来の意味であった訳です。勿論、漢和辞典にはこのような説明は載っておりません。私の推測です。時代が移り変わりまして、次第に世の中が複雑になって参りますと「素直な心」だけでは追いつかなくなりまして、「心で思っているだけではダメだ!実践行為が伴わなくては!」となった。そこで行動を表わす「彳」(テキ)が加わって
「 」なる文字となるがどうも縦に長すぎておさまりが悪い。そこで・・・・・・
となった。漢字には面白いところがありまして、納まりの悪い文字は倒したり、横に持ってきたりする習慣がある。例えば、想(おも)うは相+心ですが
となったりいろいろあります。
となったり
となったりいろいろあります。
徳と言う文字も恐らくそんな所ではないだろうか?と思った訳です。これで徳の意味はスッキリ致しました。つまり徳とは、「素直な心で素直に生きよ! 真っ直ぐな心で真っ直ぐに生きよ‼」と云うこと。「曲がった心でヒネクレて生きるな!」ということであります。では、その徳を具体的に云うとどうなるか?
「人を思いやるに素直であれ!」 ⇒ 仁
「正義を貫くに素直であれ!」 ⇒ 義
「礼を尽くすに素直であれ!」 ⇒ 礼
「知を磨くに素直であれ!」 ⇒ 知
「人を信じるに素直であれ!」 ⇒ 信
と云う五つの実践徳目、即ち「五徳」になる訳です。(「五常(ごじょう)」ともいう)さて、その仁・義・礼・知・信なる五徳でありますが、論語を百回以上読んでみますと孔子はどうもこの五つの徳目を同列、並列には論じていない。五つがそれぞれバラバラに独立していると見ていない。義も礼も知も信も、全て根っこに仁がある!と考えているようなのであります。孔子はこれを「道に志し、徳により、仁による!」(仮名論語81頁)と云っている。
つまり、「仁あっての義、仁あっての礼、仁あっての知、仁あっての信であるぞ!」と述べているのであります。これでまたまた目からウロコが一枚剥がれました。 よく考えてみればその通りですね。仁がなく義のみが独り歩きすれば、「正義の為には手段を選ばず」となってしまって暴虐無惨を極めることとなる。仁がなく礼のみが独り歩きすれば、実のこもらない上辺だけの虚礼となる。仁がなく知のみが独り歩きすれば、自分さえ良ければ人はどうなろうと構わないとする、冷酷非常な利己知・狡猾知となってしまう。仁がなく信のみが独り歩きすれば、人を殺すことが正当化されてオウム真理教やイスラム原理主義のような狂信者の固まりとなる。
つまり、徳はすべて「仁ベース」である!と云うことです。(カクテルを作る要領だ!!)絵に描くと
この構図は、しっかりと腑に落としておいて下さい。ここが分っていないと論語を百篇読んでもダメ、百年勉強してもダメです。単なる物知りになるだけで、活学したとは云えんでしょう。殆んどの人が論語のツマミ食いで終わってしまうのは、実は、この構図が分っていないからなのです。論語510章中、仁に関する章が58章も出て来るのはこのせいなのです。
次には中庸であります。南宋の儒者、朱子は中庸を「不偏不倚、過不及なくして(不偏不倚無過不及)平常の理なり。及ち、天命の当に然るべき所にして、精微の極なり」・『中庸とは、円満に具足して、恒久不変の真理なり。及ち天の意志そのままに、精妙にして万に一つも取りこぼしがない』と定義します。
分り易く云いますと、「偏らず、倚りかからず、過ぎる事無く、不足することなく」と云うことです。ここを以て現代人は、中庸のことを足して二で割る妥協論のように捉えがちですが、そうではない。両方の都合の良い所で折り合いをつける折衷論に近いけれども、もうちょっと奥行きがある。
中庸も文字で説明した方が、本来の意味をつかみ易いでしょう。
http://www.niigata-ogawaya.co.jp/rongo3/rongo-kaigan-1.htm
http://sanotomo3.blogspot.com/2011/01/3.html
さて「仁」とは何でしょうか?
日本語訳では「人間愛」とか、「他者を愛する気持ち」とか言われています。また加地伸行『論語』の別の個所の注では、白川静『字統』より、
「仁」は、人間愛。「仁」字の「二」は敷物を表わし、「仁」は人がその上に座る形で、<暖かい。なごむ>の意味となり、それが抽象化された。
ともあります。
:
書 | 礼
__|__
|
徳 | 仁
書は歴史
細川亮一『ヘーゲル現象学の理念』の説 だと、『精神現象学』は『哲学史講義』と並行対応関係にあり、『哲学史講義』は『精神現象学』と一緒に読むといいそうだ。
以下、『精神現象学』内の章:対応する哲学者、及びキーワード、頁数は長谷川訳『哲学史講義』より。
意識
感覚:パルメニデス(本来の哲学が始まる、上p238)からヘラクレイトス(一般的な過程、上p279)
知覚:レウキッポス(自立存在の定義、正なるものを負なるものの空虚として.上p297)
悟性:プラトン「ソピステス(ソフィスト)」(抽象的な統一、中p56)
自己意識
生命: アリストテレス「霊魂論」(一般的、中p164)
主と僕:アリストテレス「政治学」(服従、中p186,189)
ストア派(自然な素朴さ、中p215,220)
懐疑派(内容の否定、中p300)
不幸な意識:
新プラトン主義(統一、三位一体、中p339,408)
ちなみに『精神現象学』を上記を参考に機械的に図解すると以下になる。
(その後の哲学史と大分違う)
『ヘーゲル現象学の理念』( 2002 創文社 細川 亮一)における説の図解。
/絶対知
/__\
/\ /\
/__\/__\
/\ 理性 /\
/__\ /__\
/\ /\ /\ /\
/__\/__\/__\/__\
/\ /\
「ソフィスト」\ /_新プラトン主義
/ 悟性 \ <精神現象学> /不幸な意識
/_プラトン_\ /__\/__\
ヘラク/\ /\ /\ /\
レイトス\ 意識 / \ /__\自己意識 /懐疑派
/ 感性 \ / 知覚 \ /\生命/\ /主と僕/\
/パルメニデス\/レウキッポス\アリストテレス\/同_\/ストア派
「霊魂論」「政治学」
/絶対知
*啓示_\
/\宗教/\
/自然\/芸術\
/\ ~絶対知 /良心、美しい魂
自覚_\ドンキ /_道徳
/\理性/ホーテ/\精神/\ディドロ
/観察\/実現\/人倫*/教養\
/\ ゲーテ、シラー /\
「ソフィスト」\ /_新プラトン主義
/ 悟性 \ <精神現象学> /不幸な意識(*後に頻出)
/_プラトン_\ /__\/__\
ヘラク/\ /\ /\ /\
レイトス\ 意識 / \ /__\自己意識 /懐疑派
/ 感性 \ / 知覚 \ /\生命/\ /主と僕/\
/パルメニデス\/レウキッポス\アリストテレス\/同_\/ストア派
「霊魂論」「政治学」
細川亮一『ヘーゲル現象学の理念』の説 だと、『精神現象学』は『哲学史講義』と並行対応関係にあり、『哲学史講義』は『精神現象学』と一緒に読むといいそうだ。
以下、『精神現象学』内の章:対応する哲学者、及びキーワード、頁数は長谷川訳『哲学史講義』より。
意識
感覚:パルメニデス(本来の哲学が始まる、上p238)からヘラクレイトス(一般的な過程、上p279)
知覚:レウキッポス(自立存在の定義、正なるものを負なるものの空虚として.上p297)
悟性:プラトン「ソピステス(ソフィスト)」(抽象的な統一、中p56)
自己意識
生命: アリストテレス「霊魂論」(一般的、中p164)
主と僕:アリストテレス「政治学」(服従、中p186,189)
ストア派(自然な素朴さ、中p215,220)
懐疑派(内容の否定、中p300)
不幸な意識:
新プラトン主義(統一、三位一体、中p339,408)
ちなみに『精神現象学』を上記を参考に機械的に図解すると以下になる。
(その後の哲学史と大分違う)
『ヘーゲル現象学の理念』( 2002 創文社 細川 亮一)における説の図解。
/絶対知
/__\
/\ /\
/__\/__\
/\ 理性 /\
/__\ /__\
/\ /\ /\ /\
/__\/__\/__\/__\
/\ /\
「ソフィスト」\ /_新プラトン主義
/ 悟性 \ <精神現象学> /不幸な意識
/_プラトン_\ /__\/__\
ヘラク/\ /\ /\ /\
レイトス\ 意識 / \ /__\自己意識 /懐疑派
/ 感性 \ / 知覚 \ /\生命/\ /主と僕/\
/パルメニデス\/レウキッポス\アリストテレス\/同_\/ストア派
「霊魂論」「政治学」
あるいは、
/絶対知
*啓示_\
/\宗教/\
/自然\/芸術\
/\ ~絶対知 /良心、美しい魂
自覚_\ドンキ /_道徳
/\理性/ホーテ/\精神/\ディドロ
/観察\/実現\/人倫*/教養\
/\ ゲーテ、シラー /\
「ソフィスト」\ /_新プラトン主義
/ 悟性 \ <精神現象学> /不幸な意識(*後に頻出)
/_プラトン_\ /__\/__\
ヘラク/\ /\ /\ /\
レイトス\ 意識 / \ /__\自己意識 /懐疑派
/ 感性 \ / 知覚 \ /\生命/\ /主と僕/\
/パルメニデス\/レウキッポス\アリストテレス\/同_\/ストア派
「霊魂論」「政治学」
細川亮一『ヘーゲル現象学の理念』の説 だと、『精神現象学』は『哲学史講義』と並行対応関係にあり、『哲学史講義』は『精神現象学』と一緒に読むといいそうだ。
以下、『精神現象学』内の章:対応する哲学者、及びキーワード、頁数は長谷川訳『哲学史講義』より。
意識
感覚:パルメニデス(本来の哲学が始まる、上p238)からヘラクレイトス(一般的な過程、上p279)
知覚:レウキッポス(自立存在の定義、正なるものを負なるものの空虚として.上p297)
悟性:プラトン「ソピステス(ソフィスト)」(抽象的な統一、中p56)
自己意識
生命: アリストテレス「霊魂論」(一般的、中p164)
主と僕:アリストテレス「政治学」(服従、中p186,189)
ストア派(自然な素朴さ、中p215,220)
懐疑派(内容の否定、中p300)
不幸な意識:
新プラトン主義(統一、三位一体、中p339,408)
ちなみに『精神現象学』を上記を参考に機械的に図解すると以下になる。
(その後の哲学史と大分違う)
『ヘーゲル現象学の理念』( 2002 創文社 細川 亮一)における説の図解。
/絶対知
/__\
/\ /\
/__\/__\
/\ 理性 /\
/__\ /__\
/\ /\ /\ /\
/__\/__\/__\/__\
/\ /\
「ソフィスト」\ /新プラトン主義
/ 悟性 \ <精神現象学> /不幸な意識
/_プラトン_\ /______\
ヘラク/\ /\ /\ /\
レイトス\ 意識 / \ /__\自己意識 /懐疑派
/ 感性 \ / 知覚 \ /\生命/\ /主と僕/\
/パルメニデス\/レウキッポス\アリストテレス\/同_\/ストア派
「霊魂論」「政治学」
あるいは、
/絶対知
*啓示_\
/\宗教/\
/自然\/芸術\
/\ ~絶対知 /良心、美しい魂
自覚_\ドンキ /_道徳
/\理性/ホーテ/\精神/\ディドロ
/観察\/実現\/人倫*/教養\
/\ ゲーテ、シラー /\
「ソフィスト」\ /_新プラトン主義
/ 悟性 \ <精神現象学> /不幸な意識(*後に頻出)
/_プラトン_\ /__\/__\
ヘラク/\ /\ /\ /\
レイトス\ 意識 / \ /__\自己意識 /懐疑派
/ 感性 \ / 知覚 \ /\生命/\ /主と僕/\
/パルメニデス\/レウキッポス\アリストテレス\/同_\/ストア派
「霊魂論」「政治学」
細川亮一『ヘーゲル現象学の理念』の説 だと、『精神現象学』は『哲学史講義』と並行対応関係にあり、『哲学史講義』は『精神現象学』と一緒に読むといいそうだ。
以下、『精神現象学』内の章:対応する哲学者、及びキーワード、頁数は長谷川訳『哲学史講義』より。
意識
感覚:パルメニデス(本来の哲学が始まる、上p238)からヘラクレイトス(一般的な過程、上p279)
知覚:レウキッポス(自立存在の定義、正なるものを負なるものの空虚として.上p297)
悟性:プラトン「ソピステス(ソフィスト)」(抽象的な統一、中p56)
自己意識
生命: アリストテレス「霊魂論」(一般的、中p164)
主と僕:アリストテレス「政治学」(服従、中p186,189)
ストア派(自然な素朴さ、中p215,220)
懐疑派(内容の否定、中p300)
不幸な意識:
新プラトン主義(統一、三位一体、中p339,408)
ちなみに『精神現象学』を上記を参考に機械的に図解すると以下になる。
(その後の哲学史と大分違う)
『ヘーゲル現象学の理念』( 2002 創文社 細川 亮一)における説の図解。
/絶対知
/__\
/\ /\
/__\/__\
/\ 理性 /\
/__\ /__\
/\ /\ /\ /\
/__\/__\/__\/__\
/\ /\
「ソフィスト」\ /新プラトン主義
/ 悟性 \ <精神現象学> /不幸な意識
/_プラトン_\ /______\
ヘラク/\ /\ /\ /\
レイトス\ 意識 / \ /__\自己意識 /懐疑派
/ 感性 \ / 知覚 \ /\生命/\ /主と僕/\
/パルメニデス\/レウキッポス\アリストテレス\/同_\/ストア派
「霊魂論」「政治学」
あるいは、
/絶対知
*啓示_\
/\宗教/\
/自然\/芸術\
/\ 理性 /良心、美しい魂
自覚_\ドンキ /_道徳
/\ /ホーテ/\精神/\ディドロ
/観察\/実現\/人倫*/教養\
/\ ゲーテ、シラー /\
「ソフィスト」\ /_新プラトン主義
/ 悟性 \ <精神現象学> /不幸な意識(*後に頻出)
/_プラトン_\ /__\/__\
ヘラク/\ /\ /\ /\
レイトス\ 意識 / \ /__\自己意識 /懐疑派
/ 感性 \ / 知覚 \ /\生命/\ /主と僕/\
/パルメニデス\/レウキッポス\アリストテレス\/同_\/ストア派
「霊魂論」「政治学」
:
あるいは、
/絶対知
*啓示_\
/\宗教/\
/自然\/芸術\
/\ 絶対知へ /良心、美しい魂
自覚_\ドンキ /_道徳
/\理性/ホーテ/\精神/\ディドロ
/観察\/実現\/人倫*/教養\
/\ ゲーテ、シラー /\
「ソフィスト」\ /_新プラトン主義
/ 悟性 \ <精神現象学> /不幸な意識(*後に頻出)
/_プラトン_\ /__\/__\
ヘラク/\ /\ /\ /\
レイトス\ 意識 / \ /__\自己意識 /懐疑派
/ 感性 \ / 知覚 \ /\生命/\ /主と僕/\
/パルメニデス\/レウキッポス\アリストテレス\/同_\/ストア派
「霊魂論」「政治学」
あるいは、
/絶対知
*啓示_\
/\宗教/\
/自然\/芸術\
/\ /良心、美しい魂
自覚_\ドンキ /_道徳
/\理性/ホーテ/\精神/\ディドロ
/観察\/実現\/人倫*/教養\
/\ ゲーテ、シラー /\
「ソフィスト」\ /_新プラトン主義
/ 悟性 \ <精神現象学> /不幸な意識(*後に頻出)
/_プラトン_\ /__\/__\
ヘラク/\ /\ /\ /\
レイトス\ 意識 / \ /__\自己意識 /懐疑派
/ 感性 \ / 知覚 \ /\生命/\ /主と僕/\
/パルメニデス\/レウキッポス\アリストテレス\/同_\/ストア派
「霊魂論」「政治学」
あるいは、
/絶対知
*啓示_\
/\宗教/\
/自然\/芸術\
/\ /良心、美しい魂
自覚_\ドンキ /_道徳
/\理性/ホーテ/\精神/\ディドロ
/観察\/実現\/人倫*/教養\
/\ ゲーテ、シラー /\
「ソフィスト」\ /新プラトン主義
/ 悟性 \ <精神現象学> /不幸な意識(*後に頻出)
/_プラトン_\ /______\
ヘラク/\ /\ /\ /\
レイトス\ 意識 / \ /__\自己意識 /懐疑派
/ 感性 \ / 知覚 \ /\生命/\ /主と僕/\
/パルメニデス\/レウキッポス\アリストテレス\/同_\/ストア派
「霊魂論」「政治学」
あるいは、
/絶対知
*啓示_\
/\宗教/\
/自然\/芸術\
/\ /良心、美しい魂
自覚_\ドンキ /_道徳
/\理性/ホーテ/\精神/ディドロ
/観察\/実現\/人倫*/教養\
/\ ゲーテ、シラー /\
「ソフィスト」\ /新プラトン主義
/ 悟性 \ <精神現象学> /不幸な意識(*後に頻出)
/_プラトン_\ /______\
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レイトス\ 意識 / \ /__\自己意識 /懐疑派
/ 感性 \ / 知覚 \ /\生命/\ /主と僕/\
/パルメニデス\/レウキッポス\アリストテレス\/同_\/ストア派
「霊魂論」「政治学」
あるいは、
/絶対知
*啓示_\
/\宗教/\
/自然\/芸術\
/\ /良心、美しい魂
自覚_\ドンキ /_道徳
/\理性/ホーテ/\精神/\
/観察\/実現\/人倫*/教養\ディドロ
/\ ゲーテ、シラー /\
「ソフィスト」\ /新プラトン主義
/ 悟性 \ <精神現象学> /不幸な意識(*後に頻出)
/_プラトン_\ /______\
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レイトス\ 意識 / \ /__\自己意識 /懐疑派
/ 感性 \ / 知覚 \ /\生命/\ /主と僕/\
/パルメニデス\/レウキッポス\アリストテレス\/同_\/ストア派
「霊魂論」「政治学」
細川亮一『ヘーゲル現象学の理念』の説 だと、『精神現象学』は『哲学史講義』と並行対応関係にあり、『哲学史講義』は『精神現象学』と一緒に読むといいそうだ。
以下、『精神現象学』内の章:対応する哲学者、及びキーワード、頁数は長谷川訳『哲学史講義』より。
意識
感覚:パルメニデス(本来の哲学が始まる、上p238)からヘラクレイトス(一般的な過程、上p279)
知覚:レウキッポス(自立存在の定義、正なるものを負なるものの空虚として.上p297)
悟性:プラトン「ソピステス(ソフィスト)」(抽象的な統一、中p56)
自己意識
生命: アリストテレス「霊魂論」(一般的、中p164)
主と僕:アリストテレス「政治学」(服従、中p186,189)
ストア派(自然な素朴さ、中p215,220)
懐疑派(内容の否定、中p300)
不幸な意識:
新プラトン主義(統一、三位一体、中p339,408)
ちなみに『精神現象学』を上記を参考に機械的に図解すると以下になる。
(その後の哲学史と大分違う)
『ヘーゲル現象学の理念』( 2002 創文社 細川 亮一)における説の図解。
/絶対知
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/\ 理性 /\
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「ソフィスト」\ /新プラトン主義
/ 悟性 \ <精神現象学> /不幸な意識
/_プラトン_\ /______\
ヘラク/\ /\ /\ /\
レイトス\ 意識 / \ /__\自己意識 /懐疑派
/ 感性 \ / 知覚 \ /\生命/\ /主と僕/\
/パルメニデス\/レウキッポス\アリストテレス\/同_\/ストア派
「霊魂論」「政治学」
あるいは、
/絶対知
*啓示_\
/\宗教/\
/自然\/芸術\
/\ /良心、美しい魂
自覚_\ドンキ /_道徳
/\理性/ホーテ/\精神/\
/観察\/実現\/人倫*/教養\ディドロ
/\ ゲーテ、シラー /\
「ソフィスト」\ /新プラトン主義
/ 悟性 \ <精神現象学> /不幸な意識(*後に頻出)
/_プラトン_\ /______\
ヘラク/\ /\ /\ /\
レイトス\ 意識 / \ /__\自己意識 /懐疑派
/ 感性 \ / 知覚 \ /\生命/\ /主と僕/\
/パルメニデス\/レウキッポス\アリストテレス\/同_\/ストア派
「霊魂論」「政治学」
細川亮一『ヘーゲル現象学の理念』の説 だと、『精神現象学』は『哲学史講義』と並行対応関係にあり、『哲学史講義』は『精神現象学』と一緒に読むといいそうだ。
以下、『精神現象学』内の章:対応する哲学者(及びキーワード)。
意識
感覚:パルメニデス(本来の哲学が始まる)からヘラクレイトス(一般的な過程)
知覚:レウキッポス(自立存在の定義、正なるものを負なるものの空虚として)
悟性:プラトン「ソピステス(ソフィスト)」(抽象的な統一)
自己意識
生命: アリストテレス「霊魂論」(一般的)
主と僕:アリストテレス「政治学」(服従)
ストア派(自然な素朴さ)
懐疑派(内容の否定)
不幸な意識:
新プラトン主義(統一、三位一体)
『ヘーゲル現象学の理念』( 2002 創文社 細川 亮一)における説の機械的な図解。
(その後の哲学史や体系と大分違う)
/絶対知
*啓示_\
/\宗教/\
/自然\/芸術\
/\ /良心、美しい魂
自覚_\ドンキ /_道徳
/\理性/ホーテ/\精神/\
/観察\/実現\/人倫*/教養\ディドロ
/\ ゲーテ、シラー /\
「ソフィスト」\ /新プラトン主義
/ 悟性 \ <精神現象学> /不幸な意識(*後に頻出)
/_プラトン_\ /______\
ヘラク/\ /\ /\ /\
レイトス\ 意識 / \ /__\自己意識 /懐疑派
/ 感性 \ / 知覚 \ /\生命/\ /主と僕/\
/パルメニデス\/レウキッポス\アリストテレス\/同_\/ストア派
「霊魂論」「政治学」
/死
/病気\
/類の過程\
類と種\/性_\
/\ /\
各器官\ 動物 /機械的刺激
再生産\形態/\ /\同化/\
感覚、刺激\/器官\/感官\/肉体化
/\ /\
/_陸\ <有機体学> /果実\
/\環境/\ /一般的類\
/大気\/_海\ 生殖前\/立ち枯れ
/\ /\ /\ /\
地軸の位置 地質学/有機物 無性生物\ 植物 /水へ\
太陽系における地球 /地球の生成過程/\形態/\ /\変態/\
/太陽\月、彗星/位置\/地殻\/分化\/成長\/光へ\/空気へ
/\ /\
/ \ /分離\
/惑星軌道\ /\化学/\
/______\ /合一(電気、火、水、統一)
/\ (様相) /\ /\ 個別的 /\
地軸を中心に回転\絶対力学/__\ <自然哲学> /結晶\ 個体 /統一、電気
/\自転/\ /\公転/\ /\形態/\ /\特殊化\
地軸固定\/拡張\/逸脱\/集中\ /無形\/磁気\/対光\/物質性
/\ /\ /\ /\
/ \ / \ (雷)\ (質) /__\
場所と運動\ 力学 / 落下 \ /元素の過程 物理学 /\(音)(熱)
/_(関係)_\ /______\ (大気的緊張)\(雲、雨) /__\/__\
/\ /\ /\ 物質と運動/\ /\ /\ /\ /\
/ \空間と時間 \ / \有限力学/ \ 個体性_\一般的個体 個体的元素 /__\特殊個体/弾性\
/ 空間 \ / 時間 \ /慣性的 \ /衝撃 \ /\天体/\ /\天体/\ /\重力/\ /\凝集力\
/_(質)__\/__(量)_\/_____(関係)_____\/光_\/対立\/空気\/元素\/__\/__\/癒着\一貫性
(質)
カントは、
質 量
関係様相
ヘーゲル
様相
関係
関係
質 量
/\ /\
(絶対理念)\ /__\
(生命) 理念 (認識) /\動物/\
/______\ 『エンチクロペディ』 /__\/__\
/\ /\ /\<有機体学> /\
/推論\ 概念論 /__\ /__\ /__\
/ 主観的\ /客観 \ /地質学/\ /\植物/\
/[概念]_判断_\ /______\ /__\/__\ /__\/__\
/\ /\ /\ /\
/ \ / \ /__\ 『自然哲学』 /化学\
/限度 \ 『論理学』 /現実性 \ /絶対力学\ /\個別的個体
/______\ /______\ /_(様相)_\ /形態\/_特殊化
/\ <有論> /\ /\ <本質論>/\ /\ <力学> /\ /\ <物理学> /\
/ \ / \ / \ / \ /__\ /__\ 元素の過程 (質)/(音)(熱)
/ 質 \ / 量 \ /存在本質\ / 現象 \ 空間と時間\ /有限力学\ 一般的個体\ /特殊個体
/______\/______\ /______\ /______\/_(量)__\/_(関係)_\ /天体\/元素\ 重力@\/凝集力
@にカントの質への異議がある
様相
質
量 関係
[212]10/1(月)21:33 P↓
インドの論理学は比喩を組み込んでいるから
3段論法ではなく5段論法になる
単なる修辞学というより最初から啓蒙活動が組み込まれているのだ
もちろん西欧論理学の優位は揺るがないがそのあたりもう少し謙虚になって欲しい
不合理なものを排除することで可能になる合理性は共同体に依存しており脆弱だ
ヘーゲル批判はボルツァーノがやったようにやらないと意味がない
モチベーションは
愛と怒り
愛の方が少しだけ大きい
http://plato.stanford.edu/entries/bolzano/
Bernard Bolzano (Stanford Encyclopedia of Philosophy)
ゲーム理論:n=3のときの解の例、図解
A(120,0,0)
x2=50 /\
x1+x3=70/ \ x3=60
\ / \x1+x2=60
\/ \ /
/\ \/
/ \ 4 /\
___/____\____/__\________
/ F\ /E \ x1=40
/ 5\/6 \x2+x3=80
/ D/\ \
/_________/__\_______\
/ \ C(0,0,120)
B(0,120,0)
A=(120,0,0) B=(0,120,0) C=(0,0,120)
D=(10,50,60) E=(40,20,60) F=(40,50,30)
提携合理性の条件をコアの制約条件という
制約条件は基本三角形上に図示でき、三角形DEFがコアを示す
http://bin.t.u-tokyo.ac.jp/game08/ppt/game10.ppt
(x1,0,0)
|
|
|____
/ (0,0,x3)
(0,x2,0)
よく見られるような需給がx状に交差する図では一つの解が必ずあることになってしまうが、
ノイマンが考案した上記の図には、複数の解を量的に図示できるメリットがある。
むろん解がない場合も図示できる(中の三角形が空のとき)。
↑
x1
1|
|\
| \ ←二人交渉ゲームのコア
| \
|___\____x2
0 1 →
コア=解の集合
(『ゲーム論の基礎』オーマン 44頁より)
ゲーム理論:n=3のときの解の例、図解
A(120,0,0)
x2=50 /\
x1+x3=70/ \ x3=60
\ / \x1+x2=60
\/ \ /
/\ \/
/ \ /\
___/____\_G__/__\________
/ F\ /E \ x1=40
/ \/ \x2+x3=80
/ D/\ \
/_________/__\_______\
/ \ C(0,0,120)
B(0,120,0)
A=(120,0,0) B=(0,120,0) C=(0,0,120)
D=(10,50,60) E=(40,20,60) F=(40,50,30)
G=(40,40,40)
提携合理性の条件をコアの制約条件という
制約条件は基本三角形上に図示でき、三角形DEFがコアを示す
http://bin.t.u-tokyo.ac.jp/game08/ppt/game10.ppt
(x1,0,0)
|
|
|____
/ (0,0,x3)
(0,x2,0)
よく見られるような需給がx状に交差する図では一つの解が必ずあることになってしまうが、
ノイマンが考案した上記の図には、複数の解を量的に図示できるメリットがある。
むろん解がない場合も図示できる(中の三角形が空のとき)。
↑
x1
1|
|\
| \ ←二人交渉ゲームのコア
| \
|___\____x2
0 1 →
コア=解の集合
(『ゲーム論の基礎』オーマン 44頁より)
48 :考える名無しさん :sage :2010/11/01(月) 23:52:24 P
ヘーゲル『精神現象学』(1807年)の「意識」の章の終わりあたりより、翻訳の比較です。
以下、同じ箇所を引用してみました。
/////////////
「知覚を越えて高まったとき、意識は現象という媒語を通じて超感覚的なものと推理的に連結したものとして現われてきて、現象という媒語を通じて[超感覚的なものという] この背景(後ろの根拠)を観じている。」
金子武蔵訳、岩波書店『精神の現象学』上p166
「知覚を超えて高まったとき、意識は、現象という媒語[中間]によって、超感覚的なものと推理的に結ばれて、現われる。この媒語を通じて意識はその背景を見るのである。」
樫山欽四郎訳、平凡社上p203
「知覚を超えた境地にある意識は、現実界を媒介とし、現実界の背後を透視するというかたちで超感覚的世界とつながっている。」
長谷川宏訳、作品社p117
「意識[自身はというと、それ]は知覚よりは高まっているから、現象という中項を介して超感覚的なもの[内なるもの]と連結するのであり、意識はその中項を介してこの[超感覚的なものという]背景を覗き見るのである。」
牧野紀之訳、未知谷p311
"Raised above perception, consciousness exhibits itself closed in term of appearance, through which it gazes into this background [lying behind appearance]."
"HEGEL'S Phenomenology of Spirit"translated by A.V.Miller,p103
"Erhoben ?ber die Wahrnehmung stellt sich das Bewu?tsein mit dem ?bersinnlichen durch die Mitte der Erscheinung zusammengeschlossen dar, durch welche es in diesen Hintergrund schaut."
G.W.F. Hegel"Ph?nomenologie des Geistes"
(p)http://www.marxists.org/deutsch/philosophie/hegel/phaenom/kap3.htm
49 :考える名無しさん :sage :2010/11/01(月) 23:54:18 P
追加:精神の章の冒頭。
「理性が精神であるのは、あらゆる実在性であるという確信が真理にまで高められ、そうして理性が自分自身を自分の世界として、また、世界を自分自身として意識しているときである。」
金子武蔵訳、岩波書店『精神の現象学』下p731
「全実在であるという確信が真理に高められ、理性が自己自身を自己の世界として、世界を自己自身として意識するようになったとき、理性は精神なのである。」樫山欽四郎訳、創文社『ヘーゲル精神現象学の研究』p388
「物の世界すべてに行きわたっているという理性の確信が真理へと高められ、理性がおのれ自身を世界として、また、世界をおのれ自身として意識するに至ったとき、理性は精神である。」
長谷川宏訳、作品社p296
「理性は[今や]精神となっている。[自分は]全ての実在であるという[自己意識の主観的]確信が[客観的]真理にまで高まり、その確信が自分の世界との一体性を自覚するに至ったからである。」
牧野紀之訳、未知谷p618
"REASON is spirit, when its certainty of being all reality has been raised to the level of truth, and reason is consciously aware of itself as its own world, and of the world as itself. "
"THE PHENOMENOLOGY OF MIND "Translated by J. B. Baillie(先出とは違うmindバージョン。)
(p)http://www.class.uidaho.edu/mickelsen/texts/Hegel%20Phen/hegel%20phen%20ch%20VI.htm
(p)http://www.class.uidaho.edu/mickelsen/ToC/Hegel%20Phen%20ToC.htm
"Die Vernunft ist Geist, indem die Gewi?heit, alle Realit?t zu sein, zur Wahrheit erhoben, und sie sich ihrer selbst als ihrer Welt und der Welt als ihrer selbst bewu?t ist."
G.W.F. Hegel"Ph?nomenologie des Geistes"
追記:『精神現象学』に関して
概念を把握でき、読みやすく、本の造りもいい(高価だが金子訳ほどではない)という点で牧野訳が一番推薦できると最近は考えています。金子訳と長谷川訳の長所短所をふまえ
ているという部分も評価できます。
『精神現象学』最終部(絶対精神)の詩、各種訳:比較
様々な精神の国の杯があってこそ
精神は無限に豊かに泡立つのである。
(牧野紀之訳)
もろもろの精神のかかる国という盃よりのみ
絶対精神に泡立つは その無限
(金子武蔵訳)
„Aus dem Kelche dieses Geisterreiches schäumt ihm seine Unendlichkeit“
(Hegel)
(シラーの原詩↓では絶対精神ではなく最高存在者 (das höchste Wesen) )
Fand das höchste Wesen schon kein gleiches,
Aus dem Kelch des ganzen Seelenreiches
Schäumt ihm – die Unendlichkeit.
http://gutenberg.spiegel.de/buch/3352/66
『精神現象学』最終部(絶対精神):
様々な精神の国の杯があってこそ
精神は無限に豊かに泡立つのである。
(牧野紀之訳)
もろもろの精神のかかる国という盃よりのみ
絶対精神に泡立つは その無限
(金子武蔵訳)
„Aus dem Kelche dieses Geisterreiches schäumt ihm seine Unendlichkeit“
(Hegel)
(シラーの原詩↓では絶対精神にあたるものは最高存在者 (das höchste Wesen) )
Fand das höchste Wesen schon kein gleiches,
Aus dem Kelch des ganzen Seelenreiches
Schäumt ihm – die Unendlichkeit.
http://gutenberg.spiegel.de/buch/3352/66
http://www33.ocn.ne.jp/~hegellesen/page026.html
LE-524-4 Die Freundschaft Aus dem Kelche dieses Geisterreiches/Schumt ihm seine Unendlichkeit.(この精神の王国の杯から、精神の無限が沸き立つ)細かいことは別にして、シラーの詩『友情』(1782)の結論部分が問題なのである。世界の支配者、至高存在は自分に似せて精神を作った、しかし同胞を見出すことはなかった、ただ、無限を見出しただけだった。ヘーゲルは文のはじめをnur(唯一)にし、なによりdie Unendlichkeit(無限)をseine Unendlichkeit(精神の無限)に置き換えることで、シラーの詩の末尾の意味を変えている。この諸精神と神性の、より楽観的な、弁証法的繋がりを招き入れているのである。
nur -
aus dem Kelche dieses Geisterreiches
schaumt ihm seine Unendlichkeit.
(Hegel)
Aus dem Kelch des ganzen Seelenreiches
Schaumt ihm - die Unendlichkeit.
(Schiller)
(中澤)
http://www.zeno.org/Philosophie/M/Hegel,+Georg+Wilhelm+Friedrich/Ph%C3%A4nomenologie+des+Geistes/C.+(DD)+Das+absolute+Wissen/VIII.+Das+absolute+Wissen
Hegel, Georg Wilhelm Friedrich, Phänomenologie des Geistes, C. (DD) Das absolute Wissen, VIII. Das absolute Wissen - Zeno.org
. Ihre Aufbewahrung nach der Seite ihres freien, in der Form der Zufälligkeit erscheinenden Daseins ist die Geschichte, nach der Seite ihrer begriffenen Organisation aber die Wissenschaft des erscheinenden Wissens; beide zusammen, die begriffene Geschichte, bilden die Erinnerung und die Schädelstätte des absoluten Geistes, die Wirklichkeit, Wahrheit und Gewißheit seines Throns, ohne den er das leblose Einsame wäre; nur –
aus dem Kelche dieses Geisterreiches
schäumt ihm seine Unendlichkeit.
『精神現象学』最終部(絶対精神):
様々な精神の国の杯があってこそ
精神は無限に豊かに泡立つのである。
(牧野紀之訳)
ただ---
もろもろの精神のかかる国という盃よりのみ
絶対精神に泡立つは その無限
(金子武蔵訳)
この精神の王国の杯から、精神の無限が沸き立つ
(長谷川宏訳)
„nur-
Aus dem Kelche dieses Geisterreiches
schäumt ihm seine Unendlichkeit“
(Hegel)
(シラーの原詩↓では絶対精神にあたるものは最高存在者 (das höchste Wesen) )
Fand das höchste Wesen schon kein gleiches,
Aus dem Kelch des ganzen Seelenreiches
Schäumt ihm – die Unendlichkeit.
http://gutenberg.spiegel.de/buch/3352/66
http://www33.ocn.ne.jp/~hegellesen/page026.html
ヘーゲルは文のはじめをnur(唯一)にし、なによりdie Unendlichkeit(無限)をseine Unendlichkeit(精神の無限)に置き換えることで、シラーの詩の末尾の意味を変えている。この諸精神と神性の、より楽観的な、弁証法的繋がりを招き入れているのである。
»Was vernünftig ist, wird wirklich, und das Wirkliche wird vernünftig« (Vorlesungsnachschrift WS 1819/20; Heidelberg).
ヘーゲル法哲学講義録1819/20: 紀伊國屋書店BookWeb
bookweb.kinokuniya.co.jp › 和書 › 詳細検索 - キャッシュ
2002年8月25日 – ヘーゲルホウテツガクコウギロク181920 ヘーゲル法哲学講義録 1819/20 原書名:Georg Wilhelm Friedrich Hegel,Philosophie des Rechts.Die Vorlesung von 1819/20 in einer Nachschrift.(Henrich,Dieter). ヘンリッヒ,ディーター【 ...
Henrich, Dieter『ヘーゲル法哲学講義録 1819/20』
www.arsvi.com › BOOK - キャッシュ
『ヘーゲル法哲学講義録 1819/20』 Henrich, Dieter 1983 Georg Wilhelm Friedrich Hegel, Philosophie des Rechts.Die Vorlesung von 1819/20 in einer Nachschrift, Suhrkamp =200208 中村 浩爾・牧野 広義・形野 清貴・田中 幸世訳,『ヘーゲル法 ...
「理性的なものは現実的であり、現実的なものは理性的である」(『法哲学講義』)
http://webcache.googleusercontent.com/search?q=cache:HXXPZM5eo94J:www.nagoya30.net/temple/kyosin/sin-iti/eseo/eseo_06.html+&cd=6&hl=ja&ct=clnk&gl=jp&client=firefox-a
»Was vernünftig ist, wird wirklich, und das Wirkliche wird vernünftig«
(Vorlesungsnachschrift WS 1819/20; Heidelberg).
「理性的なものは現実的であり、現実的なものは理性的である」
(『法哲学講義』)
[396]10/9(火)17:14 0
ボルツァーノ
ヘーゲル批判
(窓)http://books.google.ca/books?id=oA1NDDirneQC&pg=PA31
カント批判
(窓)http://books.google.ca/books?id=oA1NDDirneQC&pg=PA356
Theory of Science: Attempt at a Detailed and in the Main Novel Exposition of ...
著者: Bernard Bolzano
1837年『知識学Wissenschaftslehre』
諸学の基礎を「命題自体 Satz an sich」、「真理自体 Wahrheit an sich」、「表象自体 Vorstellung an sich」と三つの概念をもとに、
客観主義的な論理学的な立場から打ちたてようと試みる。
http://nam-students.blogspot.jp/2010/10/1verite-5memoire-7-botanique.html
NAMs出版プロジェクト: 『百科全書』の口絵
http://nam-students.blogspot.jp/2010/02/blog-post_24.html
NAMs出版プロジェクト: ヘーゲル「討論テーゼ」
Bernard Bolzano Theory of Science
Bernard Bolzano hegel Theory of Science
Theory of Science: Attempt at a Detailed and in the Main Novel Exposition of ... - Bernard Bolzano - Google ブックス
/絶対知
*啓示_\
/\宗教/\
/自然\/芸術\
/\ ~絶対知 /良心、美しい魂
自覚_\ドンキ /_道徳
/\理性/ホーテ/\精神/\ディドロ
/観察\/実現\/人倫*/教養\
/\ ゲーテ、シラー /\
「ソフィスト」\ /_新プラトン主義
/ 悟性 \ <精神現象学> /不幸な意識(*後に頻出)
/_プラトン_\ /__\/__\
ヘラク/\ /\ /\ /\
レイトス\ 意識 / \ /__\自己意識 /懐疑派
/ 感性 \ / 知覚 \ /\生命/\ /主と僕/\
/パルメニデス\/レウキッポス\アリストテレス\/同_\/ストア派
「霊魂論」「政治学」
意識
自己意識
理性(観相術などはこのa観察にあたる)
精神
宗教
絶対知
観相術はカントの人間学でも触れられていた
https://picasaweb.google.com/lh/photo/TDf-cEeNGYFale8AzdAm7tMTjNZETYmyPJy0liipFm0?feat=directlink
『ヘーゲル現象学の理念』は癖のある専門書なので、(値段的な面でも)正直微妙なのですが、やる気を出していただくとこちらも嬉しいです。
少し古いですが金子武蔵の『ヘーゲルの精神現象学』(ちくま学芸文庫)が定番の解説書としてはいいのではないかと思います。
こちらはカントとの比較を行っている部分が興味深いです。
追記:
佐野正晴さんというかたが『精神現象学』マッピングというものを作成しておられます。
http://homepage3.nifty.com/luna-sy/re09.html
これを見ると、不幸な意識が啓示宗教のところでもう一度扱われていることなどの見当がついて便利です。
ヘーゲル『精神現象学』は〈超・娯楽読み物〉である
佐野正晴
0
よくあるアンケートに「もし無人島で余生を過ごすことになって、一冊だけ本の携帯が許されるとしたら、あなたは何を持ってゆくか」という質問がある。私の答は、思案するまでもなく決まっている。ヘーゲルの『精神現象学』である。
しかも、叙述の文体がまた、気づかぬうちに変わってゆく。最初は、一人称の独白体で始まったはずである。それが、いつのまにか三人称の客観描写になってしまう。長い独白が終わって、地の文章に移り、作者が顔を出して語りはじめたのか。それとも、独白はまだ続いていて、その中で劇中劇が語られているのか。いかようにも解釈可能である。
「承認を求める生死を賭けた闘争(主人と奴隷)」という話がある。これがどうも本筋らしいので、それを追いかけてゆくと、いつのまにか立ち消えになってしまう。では終わったのかと思うと、思いがけないところで、続きが顔を出す。作者は、決して忘れてはいないのだ。そうかと思うと、突然に「人相術」「骨相術」なぞという不可解なエピソードが現れる。なんで、こんなところで、こんな話が飛び出すのか。著者は狂っているとしか思えないのだが、ふと冷静になって、距離を置いて眺めると、まさにしかるべきところにしかるべき話題として、差し挟まれていたのだということが分かる。著者は、どこまでも論理的なのである。
あまりにもすさまじいラビリンスなので、私はマップ作りをすることにした。パソコンのロール・プレイング・ゲームによくある『なんとかダンジョン』というたぐいのゲームを攻略するときの手である。この『精神現象学』のマップ作りは、楽しい苦労であった。まさしく、ミステリーの楽しさそのものなのである(現在、私の手元には完成したマップがある。元素の周期律表のような形のもので、話題の相互関係と話の流れが分かるようにしてある。『精神現象学』をこれから読もうというかたで、ご希望のかたには無料で提供します)。
http://homepage3.nifty.com/luna-sy/re09.html
http://kamome.lib.ynu.ac.jp/dspace/bitstream/10131/1042/1/KJ00004166703.pdf#search='精神現象学+目次+観相術'
見る/開く (Adobe PDF)
とともに、 カント ・ヘーゲル双方に共通の関心事であった 「人間学」 の 「人相術'頭蓋論」 を橋. 頭僅に、 同じその身体論的問題 ... 現代の現象学的身体論どに則るなら、 「身体」 は、 もはや幾何学的 一 物理学的に極めて特定された、. 二次元空間と して遠近法的 ...
kamome.lib.ynu.ac.jp/dspace/bitstream/.../KJ00004166703.pd...
View/Open - HERMES-IR (Adobe PDF)
正_______反
|量 | 質|
|__カント__|
|関係 | 様相|
|___|___|
ヘーゲル 合
正_______反
|量 | 質|
|__カント__|
|関係 | 様相|
|___合___|
ヘーゲル
大方のヘーゲル批判には同意するがヘーゲルを乗り越えるには
代替案が必要
(ボルツァーノを除く)分析哲学は代替案にならない
その意味で柄谷の『世界史の構造』で人類ははじめてヘーゲルを超えたと思う
「超えた」と言ってもカント的なアンチノミーは維持されるが、、、
人間学
カントの終えた地点から
ヘーゲルは始める
[456]2/3(日)08:16 P↓
ヘーゲルは△
カントは□
ニヒリズムは×
スピノザは☆
すべては◯
アリストテレスだと、
講義草稿からできた著書群は、だいたい、次のように分類されました。
•1論理学
• 2自然学(物理学・心理学・生物学)
•3形而上学
• 4実践学(倫理学・政治学)
• 5制作術
/作る=制作術
/__\
行う=実践学\
(倫理学・\/政治学)
/\ /\
/__\ /・生物学)
/\論理学\見る=理論学、「自然学」「数学」「神学」
/__\/__\/(物理学・心理学・
ヘーゲルだと、
• 論理学
• 自然学(物理学・生物学)数学
• 実践学(倫理学・政治学)心理学
• 制作術
• 形而上学 神学
/作る=制作術
/__「神学」
心理学 行う=実践学\
(倫理学・\/政治学)
/\ /\
/__\ /・生物学)
/\論理学\見る=理論学、「自然学」
/__\/__\/(物理学・
「数学」
自然哲学を学問の中心におく
進めば精神
遡行すれば論理学
論理学内に数学、言語学と全体図が内包
アポリアたる世界史は
哲学最後の再帰的自己規定であり
さらなる外部体系を要請する
すなわち
歴史、自然史、社会史内世界史
ディドロ百科全書を外部に拡大しているバージョンと捉えることができる
NAMs出版プロジェクト: 『百科全書』の口絵
上から展開
http://ntaki.net/di/a3/index.htm
ドイツ観念論年譜
関係者の生存年表 v.1.2 * 印刷はブラウザーIE6.0で、<A4、横、上余白15mm、下余白10mm、
左余白20mm、右余白20mm>で、1枚です。
哲学・神学者 誕生 死亡 期間 *右端の列が、「享年」となっておらず、
シェリング Schelling Friedrich Wilhelm Joseph 1775 1854 79 「期間」なのは、「死亡年-誕生年」の
シュレーゲル(弟) Schlegel Friedrich von 1772 1829 57 自動計算で出しているためです。
ヘーゲル Hegel Georg Wilhelm Friedrich 1770 1831 61
シュライエルマッハ Schleiermacher Friedrich Ernst Daniel 1768 1834 66
シュレーゲル(兄) Schlegel August Wilhelm von 1767 1845 78
フィヒテ Fichte Johann Gottlieb 1762 1814 52
バルディリ Bardili Christoph Gottfried 1761 1808 47
シュルツェ Schulze Gottlob Ernst 1761 1833 72
ラインホルト Reinhold Karl Leonhard 1758 1823 65
マイモン Maimon Salomon 1753 1800 47
ヤコービ Jacobi Friedrich Heinrich 1743 1819 76
レッシング Lessing Gotthold Ephrain 1729 1781 52
メンデルスゾーン Mendelssohn Moses 1729 1786 57
カント Kant Immanuel 1724 1804 80
Hegel,
ヘーゲル
年表& 著作
1795
『民族宗教とキリスト教』(草稿)
「イエスの生涯について」(草稿)
『キリスト教の実定性』(草稿)
1798:
『カル親書』(訳、注解)
『ヴュルテンベルクの最近の内情について』(パンフレット)
『キリスト教の運命とその精神』(草稿)(細谷貞雄・岡崎英輔訳、白水社、1998)
1799
『経済学原理』(訳、注解)
『ドイツ憲法論』緒論(草稿)
イェーナ大学に就職
1800
『一八〇〇年体系断片』(草稿)
1802
「差異論文」(『フィヒテとシェリングの差異』戸田洋樹訳、公論社、1980.)(『理性の復権 : フィヒテとシェリングの哲学体系の差異』山口祐弘ほか訳、批評社、1985)
「遊星の軌道について」(「惑星軌道論」村上恭一訳、法政大学出版局、1991.)
『懐疑主義と哲学との関係』加藤尚武ほか訳、未来社、1991.5
「自然法論文」(『近代自然法批判』松富弘志・国分幸・高橋洋児訳、世界書院、1995)
『信仰と知』(『信仰と知』久保陽一訳、改訂版、公論社、1980)
『ドイツ憲法論』(清書稿)
「人倫の体系」(『人倫の体系』上妻精訳、以文社、1996)
1803-06
「イェーナ精神哲学大系(いわゆる実在哲学I・II)」(『イェーナ精神哲学』尼寺義弘訳、晃洋書房、1994.3)(『イェーナ体系構想―精神哲学草稿1(1803‐04年)・精神哲学草稿2(1805‐06年)』加藤尚武監訳、座古田豊・栗原隆・滝口清栄・山崎純訳、法政大学出版局、1999.12.)
1806-07
『精神現象学』Phänomenologie des Geistes, (『精神現象学』上・下、平凡社ライブラリー、樫山欽四郎訳、1997)(『精神の現象学』 上・下 、金子武蔵訳、岩波書店、2002)(『精神現象学』長谷川宏訳、作品社、1998) (『精神現象学』牧野紀之訳、未知谷、2001) (La phénoménologie de l'esprit, tr. de Jean Hyppolite. Paris : Aubier Montaigne, 1939-1941) 四つ全訳がありますが、一番正確なのはやはり金子訳、訳注も詳しいしね。批判も多い長谷川訳は大意というか、いったいヘーゲルが何を言いたいのかつかむのにはたいへん便利。樫山訳はあんまり理解しやすい訳ではない。ドイツ語学の衰退を嘆いていらっしゃる牧野氏の訳はちょっと誤訳が多いので見てびっくりするのには最適。
1807-1808
バンベルク新聞の編集長につく。
1808
ニュルンベルクのギムナジウムの校長および哲学予備科の教授になる。
1812
『論理学1巻第1分冊』存在論 Wissenschaft der Logik, 1(武市健人訳『大論理学 』(上1・上2・)岩波書店、 改訳版1956)(寺沢恒信訳『大論理学1』以文社、1977)(西村左右光訳『論理学 存在論(1832)〈その1〉』ウインかもがわ、2002)岩波のは漢字が古いやつです。最新の刷ではどうなってるのかは知らないけど。以文社のはなかなかいいのではないでしょうか。
1814
『大論理学』第1巻第2分冊(本質論)(武市健人訳『大論理学 』中)(寺沢恒信訳『大論理学2』以文社、1983)
1816
『論理学2巻』概念論 Wissenschaft der Logik, 2(『大論理学』(下巻)武市健人訳、岩波書店、1956)(『大論理学〈3〉』寺沢 恒信訳、以文社、1999)
ハイデルブルク大学の正教授になる。
1817
『哲学的諸学のエンチクロペディー』Encyklopedie der philosophischen Wissenschaften im Grundrisse(第2版 1827、第3版 1830)(『エンチクロペディー』樫山欽四郎ほか訳、河出書房新社、1987)
第1篇 論理学(存在論;本質論;概念論) (『小論理学』真下信一・宮本十蔵訳、改訳、岩波書店、1996.7.)(『小論理学』上・下、牧野紀之訳、鶏鳴出版、2004)(『論理学 哲学の集大成・要綱〈第1部〉』長谷川宏訳、作品社、2002)(『論理学・形而上学』(ヘーゲル哲学体系初期草稿:1)田辺振太郎ほか訳、未来社、1971.)
第2篇 自然哲学(力学;物理学;有機的な自然学)(『自然哲学』上・下、本多修郎訳、未来社、1973・1984)(『自然哲学』上・下、加藤尚武訳、岩波書店、1998.3-1999.2)『 (『自然哲学』(ヘーゲル哲学体系初期草稿:2-3)本多修郎訳、未来社、1973-1984.)
第3篇 精神哲学(主観的精神;客観的精神;絶対的精神) (『精神哲学』船山信一訳、改訳、岩波書店、1996.8)
1818
ベルリン大学の正教授になる。
1817-25
「自然法と国家学あるいは法哲学」
(法学部学生P.ヴァンネンマン手稿『自然法および国家学に関する講義―1817/18冬学期講義、ハイデルベルク・1818/19冬学期序説(付録)』ベルリン 阪南大学翻訳叢書、尼寺義弘訳、晃洋書房、2002)
(C.G. ホーマイヤー『自然法および国家法―『法の哲学』第二回講義録 1818/19 冬学期』ベルリン 阪南大学翻訳叢書、尼寺義弘訳、晃洋書房、2003)
(ディーター・ヘンリッヒ編集『ヘーゲル法哲学講義録 1819/20』中村浩爾・形野清貴・牧野広義・田中幸世訳、法律文化社、2002)
1819-28
『哲学史講義』Vorlesungen über die Geschichte der Philosophie(1833-36に出版)(第二版『哲學史』[諸版対照表付]上:武市健人訳・中1:眞下信一訳・中2:宮本十蔵・太田直道訳・下1-3:藤田健治訳、岩波書店、1996-1997.) (ズーアカンプ版『哲学史講義』上・中・下 、長谷川宏訳、河出書房新社、1992)
1820-29
『美学講義』(1837-42に出版)(『ヘーゲル美学講義』長谷川宏訳(上・ 中・下)作品社 、1995)(『美學』(ヘーゲル全集 ; 18a-c, 19a-c, 20a-c)竹内敏雄訳、岩波書店、1995.9-1996.5.)
1821
『法哲学要綱』Grundlinien der Philosophie des Rechts(『法の哲学―自然法と国家学の要綱』上・下、上妻精・佐藤康邦・山田忠彰訳、岩波書店、2000-2001)(『法哲学講義』長谷川、作品社、2000)
『宗教哲学講義』(1832に出版)(『宗教哲学』(上・中・下)木場深定訳、岩波書店、2003)
1822-31
「世界史の哲学」1-5, Vorlesungen über die Philosophie der Geschichte(カール・ヘーゲル編集『歴史哲學』(ヘーゲル全集 ; 10-10b) 武市健人訳(上・下)岩波書店、1995)(カール・ヘーゲル編集『歴史哲学講義』(上・下)長谷川 宏訳、岩波文庫、岩波書店、1994)
1824-25
「法哲学の講義」(『法哲学講義』長谷川、作品社、2000)
1831.11.14 コレラで病死。
1832-1845 ヘーゲル全集版の刊行が始まる。
1877 書簡集が刊行される。
1905『イェーナ講義』が刊行される。
1931 岩波書店がヘーゲル全集を刊行開始する。
1933-39 コジェーヴの「精神現象学講義」(レーモン・クノーによって編集され、1947年に刊行)。
1938 フランスで『エンチュクロペディ』以外の著作が翻訳され、刊行され始める。
『哲学入門』(岩波文庫 青 629-5)武市健人訳、岩波書店、1952
1798-1831 政治論文集 ヘーゲル政治論文集、金子武蔵, 上妻精訳、上, 下、岩波書店, 1967. (岩波文庫)
ヘーゲル教育論集 上妻精編訳、国文社 , 1988.1
『ヘーゲル批評集』1・2、海老沢善一訳、梓出版社、1992、2000
http://tetsugaku.tripod.com/philosophe/hegel.html
だから、そこでは「揚棄」という語がーー否定と保存(肯定)とが結びついた「揚
棄」という語がーー独自の働きかたをする。
たとえば、ヘーゲルの法哲学を例に取れば、揚棄された私法=道徳、揚棄された道
徳=家族、揚棄された家族=市民社会、揚棄された市民社会=国家、揚棄された国家
=世界史、となっている。現実においては私法、道徳、家族、市民社会、国家、等々
は存続しているわけで、ただ、それらが運動の要素にーー孤立して存在するのではな
く、たがいに解体し合ったり産出し合ったりする、人間の生存や存在様式の要素
にーーなっているというだけのことだ。
それらは、現実の世界にあるときは、運動するものとしてあるというその本質が隠
されている。その不賢が前面に出てきて明白な姿を取るには、思考を、哲学を、僕た
ねばならない。となると、わたしの真の宗教的存在は、わたしの宗教哲学的存在てあ
り、わたしの真の政治的存在はわたしの法哲学的存在であり、わたしの真の自然的存
在はわたしの自然折‥学的存在であり、わたしの真の芸術的存在はわたしの芸術哲学的
存在であり、わたしの真の人問的存在はわたしの哲学的存在だ、ということになる。
同様に、宗教、両家、自然、芸術の真の存在は、「宗教∴内宮・自然こ云術」哲学だ
七いうこ七になる ごか、わたしに七つ万雷数行学、等々だけが京数の真の存在だと
なれば、わたしも宗教哲学者でなければ真に宗数的ではないことになり、現実の宗教
世路や現実の宗数的人間を奔走することになる。しかし、同時に、わたしがそうした
現実に対訳する、わたし白身の疎外された存在の内部で、わたしは現実の定款世界や
京数的人間の存在を確証する、わたし自身の存在は現実の哲学的表現にほかならない
のだから。また、現実の宗救世田々や宗教的人間を、それら独白の根源的な形態におい
て確証することにもなる。現に目の前にあるのは、本来の真なる存在がIJ?すなわち、
わたしの哲学的存在がj??‐感覚的な殼をまとって、見かけの上での他なる存在として、
比喩的な存在として、あらわれたものとされるのだから。
別の例でいうと、揚棄された質=量、揚棄された量=限度量、揚棄された限度量=
本質、揚棄された本質=現象、揚棄された現象=現実、揚棄された現実=概念、揚棄
された概念=客観性、揚棄された客観性=絶対理念、揚棄された絶対理念=自然、揚
棄された自然=主観的精神、揚棄された主観的精神=共同の客観的精神、揚棄された
共同の精神=芸術、揚棄された芸術=宗教、揚棄された宗教=絶対知。
一方で、こうした揚棄は田万考された存在を揚棄するものだから、思考された私有財
財産は揚棄されて道徳の思考となる。
マルクス『経済学・哲学草稿』長谷川宏訳 光文社文庫194ー5頁
だから、そこでは「揚棄」という語がーー否定と保存(肯定)とが結びついた「揚
棄」という語がーー独自の働きかたをする。
たとえば、ヘーゲルの法哲学を例に取れば、
☆
揚棄された私法=道徳、
揚棄された道徳=家族、
揚棄された家族=市民社会、
揚棄された市民社会=国家、
揚棄された国家=世界史、
となっている。現実においては私法、道徳、家族、市民社会、国家、等々
は存続しているわけで、ただ、それらが運動の要素にーー孤立して存在するのではな
く、たがいに解体し合ったり産出し合ったりする、人間の生存や存在様式の要素
にーーなっているというだけのことだ。
(略)
別の例でいうと、
揚棄された質=量、
揚棄された量=限度量、
揚棄された限度量=本質、
揚棄された本質=現象、
揚棄された現象=現実、
揚棄された現実=概念、
揚棄された概念=客観性、☆
揚棄された客観性=絶対理念、
揚棄された絶対理念=自然、
揚棄された自然=主観的精神、
揚棄された主観的精神=共同の客観的精神、
揚棄された共同の精神=芸術、
揚棄された芸術=宗教、
揚棄された宗教=絶対知。
一方で、こうした揚棄は田万考された存在を揚棄するものだから、思考された私有財
財産は揚棄されて道徳の思考となる。
マルクス『経済学・哲学草稿』長谷川宏訳 光文社文庫194ー5頁
だから、そこでは「揚棄」という語がーー否定と保存(肯定)とが結びついた「揚
棄」という語がーー独自の働きかたをする。
たとえば、ヘーゲルの法哲学を例に取れば、揚棄された私法=道徳、揚棄された道
徳=家族、揚棄された家族=市民社会、揚棄された市民社会=国家、揚棄された国家
=世界史、となっている。現実においては私法、道徳、家族、市民社会、国家、等々
は存続しているわけで、ただ、それらが運動の要素にーー孤立して存在するのではな
く、たがいに解体し合ったり産出し合ったりする、人間の生存や存在様式の要素
にーーなっているというだけのことだ。
(略)
別の例でいうと、揚棄された質=量、揚棄された量=限度量、揚棄された限度量=
本質、揚棄された本質=現象、揚棄された現象=現実、揚棄された現実=概念、揚棄
された概念=客観性、揚棄された客観性=絶対理念、揚棄された絶対理念=自然、揚
棄された自然=主観的精神、揚棄された主観的精神=共同の客観的精神、揚棄された
共同の精神=芸術、揚棄された芸術=宗教、揚棄された宗教=絶対知。
一方で、こうした揚棄は田万考された存在を揚棄するものだから、思考された私有財
財産は揚棄されて道徳の思考となる。
マルクス『経済学・哲学草稿』長谷川宏訳 光文社文庫194ー5頁
だから、そこでは「揚棄」という語がーー否定と保存(肯定)とが結びついた「揚
棄」という語がーー独自の働きかたをする。
たとえば、ヘーゲルの法哲学を例に取れば、
☆
揚棄された私法=道徳、
揚棄された道徳=家族、
揚棄された家族=市民社会、
揚棄された市民社会=国家、
揚棄された国家=世界史、
となっている。現実においては私法、道徳、家族、市民社会、国家、等々
は存続しているわけで、ただ、それらが運動の要素にーー孤立して存在するのではな
く、たがいに解体し合ったり産出し合ったりする、人間の生存や存在様式の要素
にーーなっているというだけのことだ。
(略)
別の例でいうと、
揚棄された質=量、
揚棄された量=限度量、
揚棄された限度量=本質、
揚棄された本質=現象、
揚棄された現象=現実、
揚棄された現実=概念、
揚棄された概念=客観性、☆
揚棄された客観性=絶対理念、
揚棄された絶対理念=自然、
揚棄された自然=主観的精神、
揚棄された主観的精神=共同の客観的精神、
揚棄された共同の精神=芸術、
揚棄された芸術=宗教、
揚棄された宗教=絶対知。
一方で、こうした揚棄は思考された存在を揚棄するものだから、思考された私有財
財産は揚棄されて道徳の思考となる。
マルクス『経済学・哲学草稿』長谷川宏訳 光文社文庫194ー5頁
だから、そこでは「揚棄」という語がーー否定と保存(肯定)とが結びついた「揚
棄」という語がーー独自の働きかたをする。
たとえば、ヘーゲルの法哲学を例に取れば、
☆
揚棄された私法=道徳、
倫理◯
揚棄された道徳=家族、
揚棄された家族=市民社会、
揚棄された市民社会=国家、
揚棄された国家=世界史、
となっている。現実においては私法、道徳、家族、市民社会、国家、等々
は存続しているわけで、ただ、それらが運動の要素にーー孤立して存在するのではな
く、たがいに解体し合ったり産出し合ったりする、人間の生存や存在様式の要素
にーーなっているというだけのことだ。
(略)
別の例でいうと、
論理学◯
有論◯
揚棄された質=量、
揚棄された量=限度量、
揚棄された限度量=
本質、
揚棄された本質=現象、
揚棄された現象=現実、
概念論◯
揚棄された現実=概念、
揚棄された概念=客観性、☆
揚棄された客観性=絶対理念、
揚棄された絶対理念=
自然、
精神
揚棄された自然=主観的精神、
揚棄された主観的精神=共同の客観的精神、
絶対精神◯
揚棄された共同の精神=芸術、
揚棄された芸術=宗教、
揚棄された宗教=絶対知。
一方で、こうした揚棄は思考された存在を揚棄するものだから、思考された私有財
財産は揚棄されて道徳の思考となる。
マルクス『経済学・哲学草稿』長谷川宏訳 光文社文庫194ー5頁
だから、そこでは「揚棄」という語がーー否定と保存(肯定)とが結びついた「揚
棄」という語がーー独自の働きかたをする。
たとえば、ヘーゲルの法哲学を例に取れば、
☆
揚棄された私法=道徳、
倫理◯
揚棄された道徳=家族、
揚棄された家族=市民社会、
揚棄された市民社会=国家、
揚棄された国家=世界史、
となっている。現実においては私法、道徳、家族、市民社会、国家、等々
は存続しているわけで、ただ、それらが運動の要素にーー孤立して存在するのではな
く、たがいに解体し合ったり産出し合ったりする、人間の生存や存在様式の要素
にーーなっているというだけのことだ。
(略)
別の例でいうと、
論理学◯
有論◯
揚棄された質=量、
揚棄された量=限度量、
揚棄された限度量=
本質、
揚棄された本質=現象、
揚棄された現象=現実、
概念論◯
揚棄された現実=概念、
揚棄された概念=客観性、
揚棄された客観性=絶対理念、
揚棄された絶対理念=
自然、
精神
揚棄された自然=主観的精神、
揚棄された主観的精神=共同の客観的精神☆、
絶対精神◯
揚棄された共同の精神=芸術、
揚棄された芸術=宗教、
揚棄された宗教=絶対知。
一方で、こうした揚棄は思考された存在を揚棄するものだから、思考された私有財
財産は揚棄されて道徳の思考となる。
マルクス『経済学・哲学草稿』長谷川宏訳 光文社文庫194ー5頁
だから、そこでは「揚棄」という語がーー否定と保存(肯定)とが結びついた「揚
棄」という語がーー独自の働きかたをする。
たとえば、ヘーゲルの法哲学を例に取れば、
☆
揚棄された私法=道徳、
倫理◯
揚棄された道徳=家族、
揚棄された家族=市民社会、
揚棄された市民社会=国家、
揚棄された国家=世界史、
となっている。現実においては私法、道徳、家族、市民社会、国家、等々
は存続しているわけで、ただ、それらが運動の要素にーー孤立して存在するのではな
く、たがいに解体し合ったり産出し合ったりする、人間の生存や存在様式の要素
にーーなっているというだけのことだ。
(略)
別の例でいうと、
論理学◯
有論◯
揚棄された質=量、
揚棄された量=限度量、
揚棄された限度量=
本質、
揚棄された本質=現象、
揚棄された現象=現実、
概念論◯
揚棄された現実=概念、
揚棄された概念=客観性、
理念◯
揚棄された客観性=絶対理念、
揚棄された絶対理念=
自然、
精神
揚棄された自然=主観的精神、
揚棄された主観的精神=共同の客観的精神☆、
絶対精神◯
揚棄された共同の精神=芸術、
揚棄された芸術=宗教、
揚棄された宗教=絶対知。
一方で、こうした揚棄は思考された存在を揚棄するものだから、思考された私有財
財産は揚棄されて道徳の思考となる。
マルクス『経済学・哲学草稿』長谷川宏訳 光文社文庫194ー5頁
だから、そこでは「揚棄」という語がーー否定と保存(肯定)とが結びついた「揚
棄」という語がーー独自の働きかたをする。
たとえば、ヘーゲルの法哲学を例に取れば、
☆
揚棄された私法=道徳、
倫理◯
揚棄された道徳=家族、
揚棄された家族=市民社会、
揚棄された市民社会=国家、
揚棄された国家=世界史、
となっている。現実においては私法、道徳、家族、市民社会、国家、等々
は存続しているわけで、ただ、それらが運動の要素にーー孤立して存在するのではな
く、たがいに解体し合ったり産出し合ったりする、人間の生存や存在様式の要素
にーーなっているというだけのことだ。
(略)
別の例でいうと、
論理学◯
有論◯
揚棄された質=量、
揚棄された量=限度量、
揚棄された限度量=
本質、
揚棄された本質=現象、
揚棄された現象=現実、
概念論◯
揚棄された現実=概念、
主観◯
揚棄された概念=客観性、
理念◯
揚棄された客観性=絶対理念、
揚棄された絶対理念=
自然、
精神
揚棄された自然=主観的精神、
揚棄された主観的精神=共同の客観的精神☆、
絶対精神◯
揚棄された共同の精神=芸術、
揚棄された芸術=宗教、
揚棄された宗教=絶対知。
一方で、こうした揚棄は思考された存在を揚棄するものだから、思考された私有財
財産は揚棄されて道徳の思考となる。
マルクス『経済学・哲学草稿』長谷川宏訳 光文社文庫194ー5頁
◯は補足
だから、そこでは「揚棄」という語がーー否定と保存(肯定)とが結びついた「揚
棄」という語がーー独自の働きかたをする。
たとえば、ヘーゲルの法哲学を例に取れば、
☆
揚棄された私法=
道徳、
倫理◯
揚棄された道徳=家族、
揚棄された家族=市民社会、
揚棄された市民社会=国家、
揚棄された国家=世界史、
となっている。現実においては私法、道徳、家族、市民社会、国家、等々
は存続しているわけで、ただ、それらが運動の要素にーー孤立して存在するのではな
く、たがいに解体し合ったり産出し合ったりする、人間の生存や存在様式の要素
にーーなっているというだけのことだ。
(略)
別の例でいうと、
論理学◯
有論◯
揚棄された質=量、
揚棄された量=限度量、
揚棄された限度量=
本質、
揚棄された本質=現象、
揚棄された現象=現実、
概念論◯
揚棄された現実=概念、
主観◯
揚棄された概念=客観性、
理念◯
揚棄された客観性=絶対理念、
揚棄された絶対理念=
自然、
精神
揚棄された自然=主観的精神、
揚棄された主観的精神=共同の客観的精神☆、
絶対精神◯
揚棄された共同の精神=芸術、
揚棄された芸術=宗教、
揚棄された宗教=絶対知。
一方で、こうした揚棄は思考された存在を揚棄するものだから、思考された私有財
財産は揚棄されて道徳の思考となる。
マルクス『経済学・哲学草稿』長谷川宏訳 光文社文庫194ー5頁
◯は補足
だから、そこでは「揚棄」という語がーー否定と保存(肯定)とが結びついた「揚
棄」という語がーー独自の働きかたをする。
たとえば、ヘーゲルの法哲学を例に取れば、
☆
揚棄された私法=
道徳、
倫理◯
揚棄された道徳=家族、
揚棄された家族=市民社会、
揚棄された市民社会=国家、
揚棄された国家=世界史、
となっている。現実においては私法、道徳、家族、市民社会、国家、等々
は存続しているわけで、ただ、それらが運動の要素にーー孤立して存在するのではな
く、たがいに解体し合ったり産出し合ったりする、人間の生存や存在様式の要素
にーーなっているというだけのことだ。
(略)
別の例でいうと、
論理学◯
有論◯
揚棄された質=量、
揚棄された量=限度量、
揚棄された限度量=
本質、
揚棄された本質=現象、
揚棄された現象=現実、
概念論◯
揚棄された現実=概念、
主観◯
揚棄された概念=客観性、
理念◯
揚棄された客観性=絶対理念、
揚棄された絶対理念=
自然、
精神
揚棄された自然=主観的精神、
揚棄された主観的精神=共同の客観的精神☆、
絶対精神◯
揚棄された共同の精神=芸術、
揚棄された芸術=宗教、
揚棄された宗教=絶対知。
一方で、こうした揚棄は思考された存在を揚棄するものだから、思考された私有財
財産は揚棄されて道徳の思考となる。
マルクス『経済学・哲学草稿』長谷川宏訳 光文社文庫194ー5頁
◯は補足
だから、そこでは「揚棄」という語がーー否定と保存(肯定)とが結びついた「揚
棄」という語がーー独自の働きかたをする。
たとえば、ヘーゲルの法哲学を例に取れば、
☆
揚棄された私法=
道徳、
倫理◯
揚棄された道徳=家族、
揚棄された家族=市民社会、
揚棄された市民社会=国家、
揚棄された国家=世界史、
となっている。現実においては私法、道徳、家族、市民社会、国家、等々
は存続しているわけで、ただ、それらが運動の要素にーー孤立して存在するのではな
く、たがいに解体し合ったり産出し合ったりする、人間の生存や存在様式の要素
にーーなっているというだけのことだ。
(略)
別の例でいうと、
論理学◯
有論◯
揚棄された質=量、
揚棄された量=限度量、
揚棄された限度量=
本質、
揚棄された本質=現象、
揚棄された現象=現実、
概念論◯
揚棄された現実=概念、
主観◯
揚棄された概念=客観性、
理念◯
揚棄された客観性=絶対理念、
揚棄された絶対理念=
自然、
精神◯
揚棄された自然=主観的精神、
揚棄された主観的精神=共同の客観的精神☆、
絶対精神◯
揚棄された共同の精神=芸術、
揚棄された芸術=宗教、
揚棄された宗教=絶対知。
一方で、こうした揚棄は思考された存在を揚棄するものだから、思考された私有財
財産は揚棄されて道徳の思考となる。
マルクス『経済学・哲学草稿』長谷川宏訳 光文社文庫194ー5頁
◯は補足
だから、そこでは「揚棄」という語がーー否定と保存(肯定)とが結びついた「揚
棄」という語がーー独自の働きかたをする。
たとえば、ヘーゲルの法哲学を例に取れば、
☆
揚棄された私法=
道徳、
倫理◯
揚棄された道徳=家族、
揚棄された家族=市民社会、
揚棄された市民社会=国家、
揚棄された国家=世界史、
となっている。現実においては私法、道徳、家族、市民社会、国家、等々
は存続しているわけで、ただ、それらが運動の要素にーー孤立して存在するのではな
く、たがいに解体し合ったり産出し合ったりする、人間の生存や存在様式の要素
にーーなっているというだけのことだ。
(略)
別の例でいうと、
論理学◯
有論◯
揚棄された質=量、
揚棄された量=限度量、
揚棄された限度量=
本質、
揚棄された本質=現象、
揚棄された現象=現実、
概念論◯
揚棄された現実=概念、
主観◯
揚棄された概念=客観性、
理念◯
揚棄された客観性=絶対理念、
揚棄された絶対理念=
自然、
精神◯
揚棄された自然=主観的精神、
揚棄された主観的精神=共同の客観的精神☆、
絶対精神◯
揚棄された共同の精神=芸術、
揚棄された芸術=宗教、
揚棄された宗教=絶対知。
一方で、こうした揚棄は思考された存在を揚棄するものだから、思考された私有財
財産は揚棄されて道徳の思考となる。
マルクス『経済学・哲学草稿』長谷川宏訳 光文社文庫194ー5頁
◯は補足
だから、そこでは「揚棄」という語がーー否定と保存(肯定)とが結びついた「揚
棄」という語がーー独自の働きかたをする。
たとえば、ヘーゲルの法哲学を例に取れば、
☆
揚棄された私法=
道徳、
倫理◯
揚棄された道徳=家族、
揚棄された家族=市民社会、
揚棄された市民社会=国家、
揚棄された国家=世界史、
となっている。現実においては私法、道徳、家族、市民社会、国家、等々
は存続しているわけで、ただ、それらが運動の要素にーー孤立して存在するのではな
く、たがいに解体し合ったり産出し合ったりする、人間の生存や存在様式の要素
にーーなっているというだけのことだ。
(略)
別の例でいうと、
論理学◯
有論◯
揚棄された質=量、
揚棄された量=限度量、
揚棄された限度量=
本質、
揚棄された本質=現象、
揚棄された現象=現実、
概念論◯
揚棄された現実=概念、
主観◯
揚棄された概念=客観性、
理念◯
揚棄された客観性=絶対理念、
揚棄された絶対理念=
自然、
精神◯
揚棄された自然=主観的精神、
揚棄された主観的精神=共同の客観的精神☆、
絶対精神◯
揚棄された共同の精神=芸術、
揚棄された芸術=宗教、
揚棄された宗教=絶対知。
一方で、こうした揚棄は思考された存在を揚棄するものだから、思考された私有財
財産は揚棄されて道徳の思考となる。
マルクス『経済学・哲学草稿』長谷川宏訳 光文社文庫194ー5頁
◯は補足
『為すところを…』を読むとジジェクがコジェーヴの系譜にあることが
はっきりわかる
他の本だとわからない
サブカル、オペラに興味があれば別の本を推薦するが
ジジェクはカントの4つの二律背反の前半の数学的矛盾を女性的な二重否定 とし、
後半の力学的矛盾を男性的な全称肯定的とした(『否定的なもののもとへの滞留』
ちくま文庫p112)。
これだけで何のことだか分からないが、『為すことを知らざればなり』ではうまく
そうしたラカン仕込みの観念をグレマスの記号論や古典的論理学とつなげて説明し
ている。
ちなみにジジェクはカントとヘーゲルを以下のように図示してもいる(邦訳『為すこ
とを知らざればなり』p366,367)。
http://yojiseki.exblog.jp/iv/detail/index.asp?s=6395606&i=200711/03/41/a0024841_2145867.jpg
http://yojiseki.exblog.jp/6395606/
へ−ゲルは単に円環を閉じたのではないところがミソだ。
ジジェクはコジェーヴ『ヘーゲル読解入門』における図(邦訳p168)をヒントにして
いるに違いない。
『為すところを…』を読むとジジェクがコジェーヴの系譜にあることが
はっきりわかる
他の本だとわからない
サブカル、オペラに興味があれば別の本を推薦するが、、、
以前、ジジェクのヘーゲル論を紹介した際に言及したが、コジェーヴがプラトンの神学との関係において、スピノザ、ヘーゲル、カントを図解していて興味深い。
邦訳『ヘーゲル読解入門』p185-189参照。
プラトンの神学では円環的な知という大きな円に概念という小さな環があった(上)。それに対してスピノザは概念そのものが存在となることで自らが宇宙となり、図では大きな円である宇宙が消える(左下)。
ヘーゲルは概念から絶対知へ至ることで自ら神となる。図では概念の運動は消える(中央下)。以前紹介したジジェクの図とは違うが、アウフヘーベンすることで自ら登った階段を外すと考えれば妥当だと思う。
カントは仮説的に神の概念を想定するので、小さな円は実線ではなく点線で表される(右下)。
完全に納得できるわけではないが、カント哲学とスピノザ哲学の相補性がこれだとうまく説明できる。
コジェーヴ作製の図は他にもあり、ちなみにアリストテレスの多神論的神学は小さな円が数個プラトンのそれに書き加えられたものとなっている。
http://yojiseki.exblog.jp/iv/detail/index.asp?s=7122305&i=200805/18/41/a0024841_2147191.jpg
http://yojiseki.exblog.jp/7122305/
ジジェクはカントの4つの二律背反の前半の数学的矛盾を女性的な二重否定 とし、
後半の力学的矛盾を男性的な全称肯定的とした(『否定的なもののもとへの滞留』
ちくま文庫p112)。
これだけで何のことだか分からないが、『為すことを知らざればなり』ではうまく
そうしたラカン仕込みの観念をグレマスの記号論や古典的論理学とつなげて説明し
ている。
ちなみにジジェクはカントとヘーゲルを以下のように図示してもいる(邦訳『為すこ
とを知らざればなり』p366,367)。
http://yojiseki.exblog.jp/iv/detail/index.asp?s=6395606&i=200711/03/41/a0024841_2145867.jpg
http://yojiseki.exblog.jp/6395606/
へ−ゲルは単に円環を閉じたのではないところがミソだ。
ジジェクはコジェーヴ『ヘーゲル読解入門』における図(邦訳p168,185~189)をヒントにして
いるに違いない。
『為すところを…』を読むとジジェクがコジェーヴの系譜にあることが
はっきりわかる
他の本だとわからない
サブカル、オペラに興味があれば別の本を推薦するが、、、
『為すところを…』を読むとジジェクがコジェーヴの系譜にあることが
はっきりわかる
他の本だとわからない
サブカル、オペラに興味があれば別の本を推薦するが、、、
ジジェクはカントの4つの二律背反の前半の数学的矛盾を女性的な二重否定 とし、
後半の力学的矛盾を男性的な全称肯定的とした(『否定的なもののもとへの滞留』
ちくま文庫112頁)。
これだけで何のことだか分からないが、『為すことを知らざればなり』ではうまく
そうしたラカン&コプチェク仕込みの観念をグレマスの記号論や古典的論理学とつなげて説明し
ている。
ちなみにジジェクはカントとヘーゲルを以下のように図示してもいる(邦訳『為すこ
とを知らざればなり』366,367頁)。
http://pds.exblog.jp/imgc/i=http%253A%252F%252Fpds.exblog.jp%252Fpds%252F1%252F200711%252F03%252F41%252Fa0024841_2145867.jpg,small=800,quality=75,type=jpg
へ−ゲルは単に円環を閉じたのではないところがミソだ。
ジジェクはコジェーヴ『ヘーゲル読解入門』における図(邦訳168,185~189頁)をヒントにして
いるに違いない。
http://pds.exblog.jp/imgc/i=http%253A%252F%252Fpds.exblog.jp%252Fpds%252F1%252F200805%252F18%252F41%252Fa0024841_2147191.jpg,small=300,quality=75,type=jpg
(ジジェクはヘーゲルをプラトン化している。)
『為すところを…』を読むとジジェクがコジェーヴの系譜にあることが
はっきりわかる
他の本だとわからない
サブカル、オペラに興味があれば別の本を推薦するが、、、
ジジェクはカントの4つの二律背反の前半の数学的矛盾を女性的な二重否定 とし、
後半の力学的矛盾を男性的な全称肯定的とした(『否定的なもののもとへの滞留』
ちくま文庫112頁)。
これだけで何のことだか分からないが、『為すことを知らざればなり』ではうまく
そうしたラカン&コプチェク仕込みの観念をグレマスの記号論や古典的論理学とつなげて説明し
ている。
ちなみにジジェクはカントとヘーゲルを以下のように図示してもいる(邦訳『為すこ
とを知らざればなり』366,367頁)。
http://pds.exblog.jp/imgc/i=http%253A%252F%252Fpds.exblog.jp%252Fpds%252F1%252F200711%252F03%252F41%252Fa0024841_2145867.jpg,small=800,quality=75,type=jpg
へ−ゲルは単に円環を閉じたのではないところがミソだ。
ジジェクはコジェーヴ『ヘーゲル読解入門』における図(邦訳168,185~189頁)をヒントにして
いるに違いない。
http://pds.exblog.jp/imgc/i=http%253A%252F%252Fpds.exblog.jp%252Fpds%252F1%252F200805%252F18%252F41%252Fa0024841_2147191.jpg,small=300,quality=75,type=jpg
(ジジェクはヘーゲルをプラトン化している。)
『為すところを…』を読むとジジェクがコジェーヴの系譜にあることが
はっきりわかる
他の本だとわからない
サブカル、オペラに興味があれば別の本を推薦するが、、、
http://beneverba.exblog.jp/15980772/
民主主義と資本主義の結婚は終わった
The Marriage Between Democracy and Capitalism is Over
2011年10月09日 - スラヴォイ・ジジェク
原文:
http://occupywallst.org/article/today-liberty-plaza-had-visit-slavoj-zizek/
http://www.imposemagazine.com/bytes/slavoj-zizek-at-occupy-wall-street-transcript
http://beneverba.exblog.jp/16220243/
私たちは負け犬と呼ばれています。しかし、真の負け犬たちはあそこウォール街にいます。彼らは、数十億もの私たちのお金で、救済措置を受けたのです。私たちは社会主義者と呼ばれています。しかし、ここには既に富裕層のための社会主義が存在しています。彼らは、私たちが私有財産を尊重していないと言います。しかし、二〇〇八年の金融崩壊においては、ここにいる私たちの全員が、昼夜の境なく数週間の破壊活動に及ぶよりも多く、苦労の末に手に入れた私有財産が破壊されたのです。
彼らは、私たちは夢を見ているのだと言います。真に夢を見ている人というのは、ものごとが永遠にそのままの状態であり続けることが可能だと考えている人たちのことです。私たちは夢を見ているのではありません。私たちは、悪夢へと変わろうとしている夢から、覚めつつあるのです。私たちは何一つ破壊していません。私たちはただ、どのように体制が自壊するのかを目撃しているのです。
私たちがみな知っているカートゥーンの古典的な場面があります。断崖へと到達した猫が、下には何もないという事実を無視して、そのまま歩き続けるのです。下を見てそのことに気づいた時に、ようやく落下します。それが私たちがここでやっていることです。私たちは、ウォール街の面々にこう言っているのです。「おい、下を見ろ!」と。
二〇一一年の四月中旬、中国政府は、別の現実やタイム・トラベルを含む内容のTV、映画、小説を、全て禁止しました。これは中国にとって良い兆候です。つまり、人々が未だオルタナティブを夢見ていることを意味しているからです。そのため、そうした夢を禁止しなければならなかったのです。ここでは、そのような禁止は必要ありません。なぜなら、支配体制が私たちの夢見る能力を抑圧すらしないからです。私たちが普段観ている映画を思い浮かべてください。世界の終わりを想像することは容易です。小惑星が地球に激突して、全ての生命体が絶滅するとか、そういったたぐいのものです。しかし、資本主義の終焉を想像することはできません。
それでは一体、私たちはここで何をしているのでしょうか?ここで一つ共産主義時代の、素晴らしく、古いジョークをお話しさせてください。一人の男が、東ドイツからシベリアへと、働くために送られました。彼は、自分の手紙が検閲官によって読まれるであろうことを知っていました。そこで自分の友達にこう言いました。「暗号を決めておこう。もし、私から受け取った手紙が青いインクで書かれていたら、私の言っていることは真実だ。もし赤いインクで書かれていたら、嘘だ」。
一ヵ月後、彼の友達は最初の手紙を受け取りました。全てが青いインクで書かれていました。その手紙にはこう書かれてました。「ここは全く素晴らしいところだ。商店はおいしい食べ物で一杯だ。映画館では西側の面白い映画をやっている。アパートメントは広々として豪華だ。ここで買えないものと言ったら、赤いインクだけだ」。
私たちは、このようなあり方で生きているのです。私たちには、私たちが望むあらゆる自由があります。私たちには、ただ赤いインクがないだけなのです。私たちの不自由を明確に表すための言語が。私たちがそういう風に話すようにと教えられた自由についての話法――「テロとの戦い」とかそういったことです――が、自由を偽ってしまうのです。そして、それがあなたたちがここでしていることなのです。あなたたちは、私たちみなに赤いインクを授けているのです。
そこには危険もあります。自分自身と恋に落ちないようにしてください。私たちはここで楽しい時を過ごしています。だが、覚えておいてください。カーニバルは安上がりなのです。重要なのはその翌日、私たちが日常の生活に戻らねばならなくなった時です。そこに何らかの変化はあるのでしょうか?私はあなたたちに、これらの日々を「ああ、私たちは若く、全ては素晴らしかった」とか、そういった想い出にしてほしくありません。
覚えておいてください。私たちの基本的なメッセージは、「私たちはオルタナティブについて考えることを許されているのだ」ということです。タブーは破られました。私たちは最善の可能世界に住んでいるわけではないのです。しかし、この先に長い道のりがあります。そこには真に困難な問いが、立ちはだかっています。私たちは、私たちが何を望んでいないかを知っています。ですが、私たちは一体何を望んでいるのでしょう?どのような社会組織が資本主義の代わりとなることができるのでしょう?私たちはどのようなタイプの新しいリーダーを望んでいるのでしょう?
覚えておいてください。問題は腐敗でも貪欲でもありません。腐敗へと駆り立てる体制が問題なのです。敵だけに注意するのでなく、既にこの抗議運動を薄めようと画策している偽の友にも注意してください。あなたが、カフェイン抜きのコーヒーを、アルコール抜きのビールを、脂肪抜きのアイスクリームを渡されるのと同様なやり口で、彼らはこれを無害で道徳的な抗議運動に変えようとするでしょう。カフェイン抜きの抗議(A decaffienated protest)です。
私たちがここにいる理由は、私たちがこの世界にうんざりしているからなのです。数ドルをチャリティに寄付することで、コーラの缶をリサイクルすることで、もしくは、スターバックスのカプチーノを買うと、その一%が飢えに苦しむ第三世界の子どもたちのところに行くことで、私たちをいい気分にして、それで良しとしているこの世界に。労働と拷問を外部に委託したその後で、結婚仲介業者が今や私たちの性生活ですら外部に委託しているその後で、私たちの政治的参加もまた長い間委託されるに任せていたことを、私たちは今や理解しています。私たちはそれを取り戻したいのです。
もし、共産主義が一九九〇年に崩壊した体制を意味するのならば、私たちは共産主義者ではありません。今日では、それらの共産主義者たちがもっとも能率的で冷酷な資本主義者であることを、思い起こしてください。今日の中国には、アメリカの資本主義以上にダイナミックな資本主義が存在しますが、それは民主主義を意味しません。それが意味することは、あなたが資本主義を批判しようとする際に、まるであなたが民主主義に反対しているかのように、脅されるような真似を許してはならないということです。民主主義と資本主義の結婚は終わったのです。
変革は可能です。ところで、今日私たちは何を可能だと見なしているのでしょう?メディアを追いかけてみましょう。一方では、テクノロジーとセクシャリティーにおいて、全てが可能であるかのように見えます。月まで旅行に出かけることも可能です。遺伝子工学によって不死になることも可能です。動物であれ何であれとセックスすることも可能です。しかし、社会と経済の領域を見渡してみると、そこではほとんど全てのことが、不可能だと見なされているのです。
あなたが富裕層の税率をちょっとばかり引き上げたいと言えば、「それは不可能だ、競争力を失う」と彼らは言うのです。あなたがもっとヘルスケアにお金がほしいと言えば、「それは不可能だ、全体主義国家のやることだ」と彼らは言うのです。不死になることを約束されているのに、ヘルスケアに費やすお金をほんの少しも上げることができない世界は、どこかが間違っているのではないでしょうか。
おそらく私たちの優先順位を、ここできちんと設定することが必要なのでしょう。私たちはより高い生活水準など望んでいないのです。私たちはより良い生活水準を望んでいるのです。たった一つの意味において、私たちが共産主義者(コミュニスト)であるのは、私たちはコモンズに配慮しているのだということです。自然のコモンズ、知的所有権によって私物化されたもののコモンズ、遺伝子工学のコモンズ。このために、このためだけに私たちは闘うべきなのです。
共産主義は間違いなく失敗しました。しかし、コモンズの問題がまだここにあります。彼らは、ここにいる私たちは非アメリカ的だと言います。しかし、自分たちこそが本当のアメリカ人だと主張する保守派原理主義者たちは、何かによって気付かされなければなりません。キリスト教とは何でしょうか?それは聖霊です。聖霊とは何でしょうか?それは、お互いへの愛で結びついた、信じる者たちによって構成される平等主義の共同体です。そして、自らの自由と責任を所有する者だけが、それをなすことができるのです。
この意味において、聖霊は今ここに存在します。そして、あそこウォール街にいるのは、涜神的な偶像を崇拝する異教徒どもです。だから、私たちに必要なのは忍耐だけです。私が恐れているたった一つのことは、私たちがいつの日にか家に帰り、一年に一度会うようになり、ビールを飲みながら、ノスタルジックに「私たちは、なんて素敵な時をあそこで過ごしたのだろう」などと想い出に耽るというものです。そういうことにならないように、自らに誓いましょう。
私たちは、人々がしばしば何かを欲するのに、本当にはそれを望もうとしないことを知っています。どうか、あなたが欲するものを望むことを恐れないでください。
どうもありがとうございました!
訳者コメント:
昨日投稿した翻訳を別のソースによって補完したもの。「Don't fall in love with yourself」と呼ばれているようだが、「民主主義と資本主義の結婚は終わった」という題名はそのままとした。
10/19の更新:
ウェブ上の文章においては、一つの段落に文字を詰め込みすぎるのは、読みにくいと判断したため、段落分けを細かくした。数カ所のみ、前後どちらの段落に入れるか変えた部分があるが、訳文の変更はなし。
10/30の更新:
今回の更新では、基本的に、この翻訳を元に作成した日本語字幕付き動画を作る際に訳を見直した部分を、今度はこの翻訳そのものに反映した。だが、改めて気づいた部分も併せて変更した。
http://beneverba.exblog.jp/16220243/
私たちは負け犬と呼ばれています。しかし、真の負け犬はあそこウォール街にいます。彼らは、数十億もの私たちのお金で、救済措置を受けたのです。私たちは社会主義者と呼ばれています。しかし、ここでは常に富裕層のための社会主義があるのです。彼らは、私たちが私有財産を尊重していないと言います。しかし、2008年の金融崩壊においては、苦労の末に手に入れた私有財産が多く破壊されたのです。ここにいる私たちが昼夜の境なく数週間の破壊活動に及ぶよりも多く。
彼らは、私たちは夢を見ているのだと言います。真に夢を見ている人というのは、ものごとが永遠にそのままであり続けると考えている人々のことです。私たちは夢を見る人ではありません。私たちは夢から覚めつつあるのです。悪夢へと変わろうとしている夢から。私たちは何一つ破壊していません。私たちはただ、どのように体制が自壊するのかを目撃しているのです。
私たちがみな知っているカートゥーンの古典的な場面があります。断崖へと到達した猫が、そのまま歩き続けるのです。下には何もないという事実を無視して。下を見て、そのことに気づいた時に、ようやく落下します。それが私たちがここでやっていることなのです。私たちは、ウォール街の面々にこう言っているのです。「おい、下を見ろ!」と。
2011年の4月中旬に、中国政府があることを禁止しました。全てのTVや映画や小説において、別の現実やタイム・トラベルを含む内容を扱うことを。これは中国にとって良い兆候です。つまり、人々が未だオルタナティブを夢見るためには、そうした夢を見ることを禁止するべきだ、ということです。ここでは、そのような禁止は必要ありません。なぜなら、支配体制は私たちの夢見る能力を抑圧すらしないからです。私たちがいつも観ている映画を思い浮かべてください。世界の終わりを想像することは容易です。小惑星が全ての生命体を絶滅させるとか、そういったたぐいのものです。しかし、資本主義の終焉を想像することはできません。
それでは、私たちは一体ここで何をしているのでしょう?ここで一つ、素晴らしい、古い共産主義者の時代のジョークをお話しさせてください。ある男が、東ドイツからシベリアへと、働くために送られました。彼は、自分の手紙が検閲官によって読まれるであろうことを知っていました。そこで、自分の友達にこう言いました。暗号を決めておこう。もし、私から受け取った手紙が青いインクで書かれていたら、私の言っていることは本当だ。もし赤いインクで書かれていたら、それは嘘だ。
一ヶ月後、彼の友達は最初の手紙を受け取りました。全ては青いインクで書かれていました。その手紙にはこう書かれてました。ここは全く素晴らしいところだ。商店はおいしい食べ物であふれている。映画館では西側の面白い映画が観られる。アパートの部屋は広々として豪華だ。ここで手に入らないものと言ったら、赤いインクだけだ。
私たちはこのようなあり方で生きているのです。私たちには、私たちが望む全ての自由があります。私たちには、ただ赤いインクがないだけなのです。私たちの不自由を明確に表現するための言語が。私たちがそういう風に話すように教えられた自由についての話法、テロとの戦いとかそういったことです、それが自由を偽ってしまうのです。そして、それがあなたたちがここでしていることなのです。あなたたちは、私たちみなに赤いインクを授けているのです。
そこには危険もあります。自分自身と恋に落ちないようにしてください。私たちはここで素晴らしい時を過ごしています。だが、覚えておいてください。カーニバルは安上がりなのです。重要なのはその翌日、私たちが日常の生活に戻る時です。そこに何らかの変化はあるでしょうか?私はあなたたちに、これらの日々を想い出にしてほしくありません。「ああ、私たちは若く、全ては素晴らしかった」などと。
覚えておいてください。私たちの基本的なメッセージは、「私たちはオルタナティブを考えることを許されているのだ」というものです。もし規則が破られるのなら、私たちは最善の可能世界に住んでいるわけではないのです。この先に長い道のりがあります。真に困難な問いに私たちは直面しています。私たちは、私たちが何を望んでいないかを知っている。だが、私たちは一体何を望んでいるのでしょう?どのような社会組織が資本主義の代わりになるのでしょう?どのようなタイプの新しいリーダーを私たちは望んでいるのでしょう?
覚えておいてください。問題は腐敗でも貪欲でもありません。体制が問題なのです。それがあなたたちに腐敗を強いるのです。敵だけに注意するのでなく、偽の友にも注意してください。既にこの過程を薄めようとしている偽の友に。あなたがカフェイン抜きのコーヒーを、受け取るのと同様なやり方で、アルコール抜きのビールを、脂肪抜きのアイスクリームを、受け取るのと同様なやり方で、彼らはこれを無害で道徳的な抗議運動に変えようとするでしょう。カフェイン抜きプロセスです。
私たちがここにいる理由は、私たちがこの世界にうんざりしているからなのです。コーラの缶をリサイクルして、チャリティとして数ドルを与える世界に。もしくは、スターバックスのカプチーノを買うと、その1%が飢えに苦しむ第三世界の子どもたちのところに行く世界に。私たちを慰めるために。労働と拷問を外注にしたその後で、結婚仲介業者が、今や私たちの性生活ですら日常的に外注しているその後で、私たちは理解しています。私たちの政治的参加もまた長い間外注されるに任せていたことを。私たちはそれを取り戻したいのです。
私たちは共産主義者ではありません。もし共産主義が1990年に崩壊した体制を意味するのならば。思い出してください、今日ではそれらの共産主義者たちが、能率的で冷酷無比な資本主義者であることを。今日の中国では、資本主義が存在します。アメリカの資本主義以上にダイナミックなが資本主義が。しかし、それは民主主義を意味しません。それが意味することは、あなたが資本主義を批判しようとする際に、脅されるようなまねを許してはならないということです。まるであなたが民主主義に反対しているかのように。民主主義と資本主義の結婚は終わったのです。
変革は可能です。ところで、今日私たちは何を可能だと見なしているのでしょう?メディアを追いかけてみましょう。一方では、テクノロジーとセクシャリティーにおいて、全てが可能であるかのように見えます。月まで旅行に出かけることも可能です。不死になることも可能です。遺伝子工学で。動物であれ何であれと、セックスすることも可能です。しかし、社会と経済の領域を見渡してください。そこでは、ほとんど全てのことが、不可能だと見なされているのです。
あなたが富裕層の税率をちょっとばかり引き上げたいと言えば、「それは不可能だ」「競争力を失う」と彼らは言うのです。あなたがもっとヘルスケアにお金がほしいと言えば、「それは不可能だ、全体主義国家のやることだ」と彼らは言うのです。この世界は、どこかが間違っているのです。不死になることを約束されているのに、ヘルスケアに費やすお金をほんの少し上げることもできない世界は。
おそらく私たちの優先事項を、ここできちんと設定することが必要なのでしょう。私たちはより高い生活水準など望んでいないのです。私たちはより良い生活水準を望んでいるのです。たった一つの意味においてのみ、私たちが共産主義者であるのは、私たちはコモンズを望んでいるのだ、ということです。自然のコモンズ。知的所有権によって私物化されたもののコモンズ。遺伝子工学のコモンズ。このために、このためだけに私たちは闘うべきなのです。
共産主義は間違いなく失敗しました。しかし、コモンズの問題がまだここにあります。彼らは、ここにいる私たちはアメリカ人ではないと言います。しかし、自分たちこそが本当のアメリカ人だと主張する保守派の原理主義者たちは、何かによって気づかされなければなりません。キリスト教とは何でしょうか?それは聖霊です。聖霊とは何でしょうか?信じる者たちによって構成される、平等主義の共同体です。お互いへの愛で結びついた者たちによって。そして、自らの自由と責任を所有する者だけが、それをなすことができるのです。
この意味において、聖霊は今ここに存在します。そして、あそこウォール街には、涜神的な偶像を崇拝する異教徒たちがいるのです。だから、私たちに必要なのは忍耐だけです。私が恐れているたった一つのことは、私たちがいつの日か家に帰り、一年に一回会うようになり、ビールを飲みながら、ノスタルジックな想い出に耽るというものです。「なんて素晴らしい時をあそこで過ごしたのだろう」と。そういうことにならないように自らに誓いましょう。
私たちは、知っています。人々がしばしば何かを欲しても、本当にはそれを望んだりしないことを。どうか、あなたが本当に欲するものを望むことをおそれないでください。
どうもありがとうございました。
訳者コメント:
部分的にしか撮影されていないと思われるジジェクのスピーチを、いくつもの動画をかき集め、編集し、その全体を再構成して、日本語訳の字幕を付けたもの。そのために、また私の動画編集作業への不慣れのせいもあって、いくつかの部分で見苦しく、また聞き苦しいものになっている。
http://beneverba.exblog.jp/16220243/
動画:スラヴォイ・ジジェク - 民主主義と資本主義の結婚は終わった [旧版]
民主主義と資本主義の結婚は終わった
The Marriage Between Democracy and Capitalism is Over
2011年10月09日 - スラヴォイ・ジジェク
私たちは負け犬と呼ばれています。しかし、真の負け犬はあそこウォール街にいます。彼らは、数十億もの私たちのお金で、救済措置を受けたのです。私たちは社会主義者と呼ばれています。しかし、ここでは常に富裕層のための社会主義があるのです。彼らは、私たちが私有財産を尊重していないと言います。しかし、2008年の金融崩壊においては、苦労の末に手に入れた私有財産が多く破壊されたのです。ここにいる私たちが昼夜の境なく数週間の破壊活動に及ぶよりも多く。
彼らは、私たちは夢を見ているのだと言います。真に夢を見ている人というのは、ものごとが永遠にそのままであり続けると考えている人々のことです。私たちは夢を見る人ではありません。私たちは夢から覚めつつあるのです。悪夢へと変わろうとしている夢から。私たちは何一つ破壊していません。私たちはただ、どのように体制が自壊するのかを目撃しているのです。
私たちがみな知っているカートゥーンの古典的な場面があります。断崖へと到達した猫が、そのまま歩き続けるのです。下には何もないという事実を無視して。下を見て、そのことに気づいた時に、ようやく落下します。それが私たちがここでやっていることなのです。私たちは、ウォール街の面々にこう言っているのです。「おい、下を見ろ!」と。
2011年の4月中旬に、中国政府があることを禁止しました。全てのTVや映画や小説において、別の現実やタイム・トラベルを含む内容を扱うことを。これは中国にとって良い兆候です。つまり、人々が未だオルタナティブを夢見るためには、そうした夢を見ることを禁止するべきだ、ということです。ここでは、そのような禁止は必要ありません。なぜなら、支配体制は私たちの夢見る能力を抑圧すらしないからです。私たちがいつも観ている映画を思い浮かべてください。世界の終わりを想像することは容易です。小惑星が全ての生命体を絶滅させるとか、そういったたぐいのものです。しかし、資本主義の終焉を想像することはできません。
それでは、私たちは一体ここで何をしているのでしょう?ここで一つ、素晴らしい、古い共産主義者の時代のジョークをお話しさせてください。ある男が、東ドイツからシベリアへと、働くために送られました。彼は、自分の手紙が検閲官によって読まれるであろうことを知っていました。そこで、自分の友達にこう言いました。暗号を決めておこう。もし、私から受け取った手紙が青いインクで書かれていたら、私の言っていることは本当だ。もし赤いインクで書かれていたら、それは嘘だ。
一ヶ月後、彼の友達は最初の手紙を受け取りました。全ては青いインクで書かれていました。その手紙にはこう書かれてました。ここは全く素晴らしいところだ。商店はおいしい食べ物であふれている。映画館では西側の面白い映画が観られる。アパートの部屋は広々として豪華だ。ここで手に入らないものと言ったら、赤いインクだけだ。
私たちはこのようなあり方で生きているのです。私たちには、私たちが望む全ての自由があります。私たちには、ただ赤いインクがないだけなのです。私たちの不自由を明確に表現するための言語が。私たちがそういう風に話すように教えられた自由についての話法、テロとの戦いとかそういったことです、それが自由を偽ってしまうのです。そして、それがあなたたちがここでしていることなのです。あなたたちは、私たちみなに赤いインクを授けているのです。
そこには危険もあります。自分自身と恋に落ちないようにしてください。私たちはここで素晴らしい時を過ごしています。だが、覚えておいてください。カーニバルは安上がりなのです。重要なのはその翌日、私たちが日常の生活に戻る時です。そこに何らかの変化はあるでしょうか?私はあなたたちに、これらの日々を想い出にしてほしくありません。「ああ、私たちは若く、全ては素晴らしかった」などと。
覚えておいてください。私たちの基本的なメッセージは、「私たちはオルタナティブを考えることを許されているのだ」というものです。もし規則が破られるのなら、私たちは最善の可能世界に住んでいるわけではないのです。この先に長い道のりがあります。真に困難な問いに私たちは直面しています。私たちは、私たちが何を望んでいないかを知っている。だが、私たちは一体何を望んでいるのでしょう?どのような社会組織が資本主義の代わりになるのでしょう?どのようなタイプの新しいリーダーを私たちは望んでいるのでしょう?
覚えておいてください。問題は腐敗でも貪欲でもありません。体制が問題なのです。それがあなたたちに腐敗を強いるのです。敵だけに注意するのでなく、偽の友にも注意してください。既にこの過程を薄めようとしている偽の友に。あなたがカフェイン抜きのコーヒーを、受け取るのと同様なやり方で、アルコール抜きのビールを、脂肪抜きのアイスクリームを、受け取るのと同様なやり方で、彼らはこれを無害で道徳的な抗議運動に変えようとするでしょう。カフェイン抜きプロセスです。
私たちがここにいる理由は、私たちがこの世界にうんざりしているからなのです。コーラの缶をリサイクルして、チャリティとして数ドルを与える世界に。もしくは、スターバックスのカプチーノを買うと、その1%が飢えに苦しむ第三世界の子どもたちのところに行く世界に。私たちを慰めるために。労働と拷問を外注にしたその後で、結婚仲介業者が、今や私たちの性生活ですら日常的に外注しているその後で、私たちは理解しています。私たちの政治的参加もまた長い間外注されるに任せていたことを。私たちはそれを取り戻したいのです。
私たちは共産主義者ではありません。もし共産主義が1990年に崩壊した体制を意味するのならば。思い出してください、今日ではそれらの共産主義者たちが、能率的で冷酷無比な資本主義者であることを。今日の中国では、資本主義が存在します。アメリカの資本主義以上にダイナミックなが資本主義が。しかし、それは民主主義を意味しません。それが意味することは、あなたが資本主義を批判しようとする際に、脅されるようなまねを許してはならないということです。まるであなたが民主主義に反対しているかのように。民主主義と資本主義の結婚は終わったのです。
変革は可能です。ところで、今日私たちは何を可能だと見なしているのでしょう?メディアを追いかけてみましょう。一方では、テクノロジーとセクシャリティーにおいて、全てが可能であるかのように見えます。月まで旅行に出かけることも可能です。不死になることも可能です。遺伝子工学で。動物であれ何であれと、セックスすることも可能です。しかし、社会と経済の領域を見渡してください。そこでは、ほとんど全てのことが、不可能だと見なされているのです。
あなたが富裕層の税率をちょっとばかり引き上げたいと言えば、「それは不可能だ」「競争力を失う」と彼らは言うのです。あなたがもっとヘルスケアにお金がほしいと言えば、「それは不可能だ、全体主義国家のやることだ」と彼らは言うのです。この世界は、どこかが間違っているのです。不死になることを約束されているのに、ヘルスケアに費やすお金をほんの少し上げることもできない世界は。
おそらく私たちの優先事項を、ここできちんと設定することが必要なのでしょう。私たちはより高い生活水準など望んでいないのです。私たちはより良い生活水準を望んでいるのです。たった一つの意味においてのみ、私たちが共産主義者であるのは、私たちはコモンズを望んでいるのだ、ということです。自然のコモンズ。知的所有権によって私物化されたもののコモンズ。遺伝子工学のコモンズ。このために、このためだけに私たちは闘うべきなのです。
共産主義は間違いなく失敗しました。しかし、コモンズの問題がまだここにあります。彼らは、ここにいる私たちはアメリカ人ではないと言います。しかし、自分たちこそが本当のアメリカ人だと主張する保守派の原理主義者たちは、何かによって気づかされなければなりません。キリスト教とは何でしょうか?それは聖霊です。聖霊とは何でしょうか?信じる者たちによって構成される、平等主義の共同体です。お互いへの愛で結びついた者たちによって。そして、自らの自由と責任を所有する者だけが、それをなすことができるのです。
この意味において、聖霊は今ここに存在します。そして、あそこウォール街には、涜神的な偶像を崇拝する異教徒たちがいるのです。だから、私たちに必要なのは忍耐だけです。私が恐れているたった一つのことは、私たちがいつの日か家に帰り、一年に一回会うようになり、ビールを飲みながら、ノスタルジックな想い出に耽るというものです。「なんて素晴らしい時をあそこで過ごしたのだろう」と。そういうことにならないように自らに誓いましょう。
私たちは、知っています。人々がしばしば何かを欲しても、本当にはそれを望んだりしないことを。どうか、あなたが本当に欲するものを望むことをおそれないでください。
どうもありがとうございました。
訳者コメント:
http://beneverba.exblog.jp/16220243/
動画:スラヴォイ・ジジェク - 民主主義と資本主義の結婚は終わった [旧版]
民主主義と資本主義の結婚は終わった
The Marriage Between Democracy and Capitalism is Over
2011年10月09日 - スラヴォイ・ジジェク
私たちは負け犬と呼ばれています。しかし、真の負け犬はあそこウォール街にいます。
彼らは、数十億もの私たちのお金で、救済措置を受けたのです。私たちは社会主義者と
呼ばれています。しかし、ここでは常に富裕層のための社会主義があるのです。彼らは、
私たちが私有財産を尊重していないと言います。しかし、2008年の金融崩壊においては、
苦労の末に手に入れた私有財産が多く破壊されたのです。ここにいる私たちが昼夜の境
なく数週間の破壊活動に及ぶよりも多く。
彼らは、私たちは夢を見ているのだと言います。真に夢を見ている人というのは、もの
ごとが永遠にそのままであり続けると考えている人々のことです。私たちは夢を見る人
ではありません。私たちは夢から覚めつつあるのです。悪夢へと変わろうとしている夢から。
私たちは何一つ破壊していません。私たちはただ、どのように体制が自壊するのかを目撃しているのです。
私たちがみな知っているカートゥーンの古典的な場面があります。断崖へと到達した猫が、
そのまま歩き続けるのです。下には何もないという事実を無視して。下を見て、そのことに気づいた
時に、ようやく落下します。それが私たちがここでやっていることなのです。私たちは、ウォール街
の面々にこう言っているのです。「おい、下を見ろ!」と。
ジジェクがよく例として出すアニメ(カートゥーン)の表現がある。
それはアニメの登場人物が空中にいるということを気がつかないうちは落下しないというものだ。
http://youtu.be/OKZ3-IOlhIw
NAMs出版プロジェクト: The Cartoon Laws of Physics
http://nam-students.blogspot.jp/2011/10/cartoon-laws-of-physics.html?m=0
http://beneverba.exblog.jp/16220243/
動画:スラヴォイ・ジジェク - 民主主義と資本主義の結婚は終わった [旧版]
民主主義と資本主義の結婚は終わった
The Marriage Between Democracy and Capitalism is Over
2011年10月09日 - スラヴォイ・ジジェク
私たちは負け犬と呼ばれています。しかし、真の負け犬はあそこウォール街にいます。
彼らは、数十億もの私たちのお金で、救済措置を受けたのです。私たちは社会主義者と
呼ばれています。しかし、ここでは常に富裕層のための社会主義があるのです。彼らは、
私たちが私有財産を尊重していないと言います。しかし、2008年の金融崩壊においては、
苦労の末に手に入れた私有財産が多く破壊されたのです。ここにいる私たちが昼夜の境
なく数週間の破壊活動に及ぶよりも多く。
彼らは、私たちは夢を見ているのだと言います。真に夢を見ている人というのは、もの
ごとが永遠にそのままであり続けると考えている人々のことです。私たちは夢を見る人
ではありません。私たちは夢から覚めつつあるのです。悪夢へと変わろうとしている夢から。
私たちは何一つ破壊していません。私たちはただ、どのように体制が自壊するのかを目撃しているのです。
私たちがみな知っているカートゥーンの古典的な場面があります。断崖へと到達した猫が、
そのまま歩き続けるのです。下には何もないという事実を無視して。下を見て、そのことに気づいた
時に、ようやく落下します。それが私たちがここでやっていることなのです。私たちは、ウォール街
の面々にこう言っているのです。「おい、下を見ろ!」と。
注:
ジジェクが例として出したアニメ(カートゥーン)の表現の一例。
http://youtu.be/OKZ3-IOlhIw
NAMs出版プロジェクト: The Cartoon Laws of Physics
http://nam-students.blogspot.jp/2011/10/cartoon-laws-of-physics.html?m=0
(日本語字幕版)スラヴォイ・ジジェク - 民主主義と資本主義の結婚は終わった
[1/2] http://youtu.be/zFk0ZXGO3aY
[2/2] http://youtu.be/9uMFl1yr4cM
東欧に出自がある
という意味では哲学版アンディ・ウォーホルと考えればいい
ジジェクはカントの4つの二律背反の前半の数学的矛盾を女性的な二重否定 とし、
後半の力学的矛盾を男性的な全称肯定的とした(『否定的なもののもとへの滞留』
ちくま文庫112頁)。
これだけで何のことだか分からないが、『為すことを知らざればなり』ではうまく
そうしたラカン&コプチェク仕込みの観念をグレマスの記号論や古典的論理学とつなげて説明し
ている(326頁~)。
ちなみにジジェクはカントとヘーゲルを以下のように図示してもいる(邦訳『為すこ
とを知らざればなり』366,367頁)。
http://pds.exblog.jp/imgc/i=http%253A%252F%252Fpds.exblog.jp%252Fpds%252F1%252F200711%252F03%252F41%252Fa0024841_2145867.jpg,small=800,quality=75,type=jpg
へ−ゲルは単に円環を閉じたのではないところがミソだ。
ジジェクはコジェーヴ『ヘーゲル読解入門』における図(邦訳168,185~189頁)をヒントにして
いるに違いない。
http://pds.exblog.jp/imgc/i=http%253A%252F%252Fpds.exblog.jp%252Fpds%252F1%252F200805%252F18%252F41%252Fa0024841_2147191.jpg,small=300,quality=75,type=jpg
(ジジェクはヘーゲルをプラトン化している。)
『為すところを…』を読むとジジェクがコジェーヴの系譜にあることが
はっきりわかる
他の本だとわからない
サブカル、オペラに興味があれば別の本を推薦するが、、、
http://yojiseki.exblog.jp/6395606/
カント、ヘーゲル、ラカン
ジジェクはカントの4つの二律背反の前半の数学的矛盾を女性的な二重否定 とし、後半の力学的矛盾を男性的な全称肯定的とした(『否定的なもののもとへの滞留』ちくま文庫p112)。
これだけで何のことだか分からないが、『為すことを知らざればなり』ではうまくそうしたラカン仕込みの観念をグレマスの記号論や古典的論理学とつなげて説明している。
以下の基本図形があり、
A ---- 反対 ---- E
| \ /|
大 矛 矛 大
小 盾盾 小
| / \ |
I --- 小反対---- O
カントでは:
1. 世界の時間的・空間的無限性
2. 物質の構造
3. 自由の存在
4. 神の存在
といった矛盾の内、最初の2つの数学的矛盾で「反対」に相当し女性性を表し、残りの力学的矛盾が「小反対」で男性性に相当する。
力学的矛盾は共に真であり得る。つまり〈小反対対当〉(subcontrariae)はI-O間の関係であって、一方が偽であれば他方は必ず真であるが、一方が真であるからといって他方は偽とは限らないからだ。
ヘーゲルの弁証法では以下のようになる(p326)。
必然的---- 反対 ---- 不可能的
| \ /|
大 矛 矛 大
小 盾盾 小
| / \ |
可能的 偶然的
ジジェクは以下のように述べる。「必然性と不可能性との対立は可能性の領域に解消する」、「それと共に消滅するものが(略)偶然的なものである。」(p326)
さらにラカンでは以下になる(p328)。
命ぜられたもの---- 反対 ---- 禁じられたもの
| \ /|
大 矛 矛 大
小 盾 盾 小
| / \ |
許されたもの X
一義的にはXは「真実」であるが、これを前出の男性、女性の定義とつなげれば、「性」そのものをつかもうとすることはXをつかもうとするのと同じということになる。
念のためラカンによる性差の図式は以下である。
http://www.ogimoto.com/ronbun/jack.html
( 左が男性、右が女性を表し、反対と小反対が上下逆。)
左:
すべてのXに対してファロスの作用が及んでいる。下
ファロスの作用の及ばないXが少なくとも一つ存在する=父の名。上
(閉鎖集合)
右:
ファロスの作用はすべてのXに及んでいるわけではない。下
ファロスの作用が及ばないようなXは存在しない。上
(開放集合=すべての要素は数え上げられないし、数え上げられてもすべてではない。)*
*
参考図:
(藤田博史『性倒錯の構造』p78より
「集合の図は四角で囲まれているが、実際は開放集合であるから、枠は頭の中で取り払って考えていただきたい。」p77)
ラカンの4つの式は、
I O
A E
として、
伝統的論理学の4つの命題、全称肯定命題(A)、全称否定命題(E)、特殊肯定命題(I)、特殊否定命題(O)のそれぞれに対応するものである。
ただしこう考えるとAを男性的、Oを女性的とした最初の指摘と矛盾する。これはXを認識し損ねているということだろう。
ややこしいが全称肯定命題(男性的)と全称否定命題(女性的)の対立(反対)は女性的で、特殊肯定命題(男性的)、特殊否定命題(女性的)の対立(小反対)は男性的ということか、、。詳しい分析をするにはジジェクが援用したコプチェク(『わたしの欲望を読みなさい』)の文脈を捉え直す必要がある。
アラン・ソーカルに言わせれば、ラカンの論理記号の使い方は間違っているということになるが、ファンクションのfをファルスにしている時点でラカンは確信犯だし、ジジェクに言わせれば論理記号自体の意味内容と表記法自体の裂け目に性差を見いだしたラカンは画期的だということになる。
そしてラカンの考察は昔ながらの論理学にも定位され得る真っ当な成果ということになる。
ちなみにジジェクはカントとヘーゲルを以下のように図示してもいる(p366,367)。
へ−ゲルは単に円環を閉じたのではないところがミソだ。
上記の図はハイデガーが『ツォリコーン・ゼミナール』冒頭で描いた以前紹介したの現存在の図と比べると面白いかもしれない。
(ジジェクはコジェーヴ『ヘーゲル読解入門』における図(邦訳p168)をヒントにしているに違いない。)
http://blog.goo.ne.jp/wamgun/e/cc1a7149484b43d23be63382b23bb56d
★ 力なき美は悟性を憎む。なぜなら、悟性は、美にそれがなし得ないことを要求するからであ
る。だが、死を前にしてしりごみし、破滅から完璧に身を守ろうとするような生ではなく、死
を耐え抜き、そのなかに留まる生こそが精神の生なのである。精神が己の真理を勝ちとるのは、
ただ、自分自身を絶対的分裂のうちに見出すときにのみなのである。この否定的なもののもと
への滞留こそは、それを存在へと転回させる魔法の力なのである。
<ヘーゲル:『精神現象学』序論―ジジェク:『否定的なもののもとへの滞留』扉の引用>
スラヴォイ・ジジェク「厄介なる主体」(1999) - mokoheiの読書記録帳
http://d.hatena.ne.jp/mokohei/20121213/1355401522
P180 「弁証法の過程が進行していく途上では、必然として「失敗の」選択をする必要が
あることを見事に描き出している概念とは、「頑強な愛着」という概念である。この同時に
相反する二重の意味を内包している概念は、ヘーゲルの『精神現象学』のなかを徹頭徹尾
貫いて機能している。一面において、それは道徳に基づいて裁定を下す意識によって蔑まれ
てしまうような幾つかの特別な内容(利益、対象、快楽……)に向けられた病理的な執着の
ことを意味している。……しかし他方で、それよりもはるかに危険な「頑強な愛着」とは、
みずからの倫理基準に病理的に固執し続け、その基準の名のもとにあらゆる行為を罪として
糾弾する、不活発な裁定者としての主体の「取り憑き」である。」
http://zizekintjapan.hatenablog.jp/entry/2013/05/07/18124
ヘーゲルはあなたの名声についてどう思うでしょうか?
彼は何とも思わないでしょう。彼は、―おそらく『精神現象学』の終わりの部分だったと思いますが―「もし哲学者として時代精神についてはっきり述べるとするならば、詰まる所「名声」―たとえ人々が本当にあなたのことを理解していないとしても―である。」とさえ書いています。ひとびとはある程度そのことを感じ取るのです。「人々はどうやって感じ取るのか?」という、美しい弁証法的な問題ですね。
http://blog.goo.ne.jp/wamgun/e/cc1a7149484b43d23be63382b23bb56d
★ 力なき美は悟性を憎む。なぜなら、悟性は、美にそれがなし得ないことを要求するからであ
る。だが、死を前にしてしりごみし、破滅から完璧に身を守ろうとするような生ではなく、死
を耐え抜き、そのなかに留まる生こそが精神の生なのである。精神が己の真理を勝ちとるのは、
ただ、自分自身を絶対的分裂のうちに見出すときにのみなのである。この否定的なもののもと
への滞留こそは、それを存在へと転回させる魔法の力なのである。
<ヘーゲル:『精神現象学』序論―ジジェク:『否定的なもののもとへの滞留』扉の引用>
スラヴォイ・ジジェク「厄介なる主体」(1999) - mokoheiの読書記録帳
http://d.hatena.ne.jp/mokohei/20121213/1355401522
P180 「弁証法の過程が進行していく途上では、必然として「失敗の」選択をする必要が
あることを見事に描き出している概念とは、「頑強な愛着」という概念である。この同時に
相反する二重の意味を内包している概念は、ヘーゲルの『精神現象学』のなかを徹頭徹尾
貫いて機能している。一面において、それは道徳に基づいて裁定を下す意識によって蔑まれ
てしまうような幾つかの特別な内容(利益、対象、快楽……)に向けられた病理的な執着の
ことを意味している。……しかし他方で、それよりもはるかに危険な「頑強な愛着」とは、
みずからの倫理基準に病理的に固執し続け、その基準の名のもとにあらゆる行為を罪として
糾弾する、不活発な裁定者としての主体の「取り憑き」である。」
ヘーゲルはあなたの名声についてどう思うでしょうか?
http://zizekintjapan.hatenablog.jp/entry/2013/05/07/18124
彼は何とも思わないでしょう。彼は、―おそらく『精神現象学』の終わりの部分だったと
思いますが―「もし哲学者として時代精神についてはっきり述べるとするならば、詰まる所
「名声」―たとえ人々が本当にあなたのことを理解していないとしても―である。」とさえ
書いています。ひとびとはある程度そのことを感じ取るのです。「人々はどうやって感じ取る
のか?」という、美しい弁証法的な問題ですね。
多くの訳書があるが、本書の構成はおおよそ以下のとおり。
意識
自己意識
理性
精神
宗教
絶対知
/絶対知
*啓示_\
/\宗教/\
/自然\/芸術\
/\ ~絶対知 /良心、美しい魂
自覚_\ドンキ /_道徳
/\理性/ホーテ/\精神/\ディドロ
/観察\/実現\/人倫*/教養\
/\ ゲーテ、シラー /\
「ソフィスト」\ /_新プラトン主義
/ 悟性 \ <精神現象学> /不幸な意識(*後に頻出)
/_プラトン_\ /__\/__\
ヘラク/\ /\ /\ /\
レイトス\ 意識 / \ /__\自己意識 /懐疑派
/ 感性 \ / 知覚 \ /\生命/\ /主と僕/\
/パルメニデス\/レウキッポス\アリストテレス\/同_\/ストア派
「霊魂論」「政治学」
意識
自己意識
理性(観相術などはこのa観察にあたる)
精神
宗教
絶対知
観相術はカントの人間学でも触れられていた
アンティゴネー - Wikipedia
あらすじ-論説-日本語訳文献-彼女を題材にした舞台作品
アンティゴネーの悲劇は、兄への弔意という肉親の情および人間を埋葬するという人倫 的習俗と神への宗教的義務と、人工的な法律の対立から来るものである。哲学者 ヘーゲルは『精神の現象学』の人倫(Sittlichkeit)の章にて、アンティゴネーを...
ja.wikipedia.org/wiki/アンティゴネー - キャッシュ
アンティゴネ・「喪」と「家」 - Arisanのノート
ヘーゲルの場合、最初から国家の装置としての家族が考えられている。神々の掟は、 国家共同体の無意識のようなものとして、家族と女性のうちに体現されており、この 無意識の根源を持つことによって国家はその実質をえる、みたいな話に ...
d.hatena.ne.jp/Arisan/20060218/p1 - キャッシュ
哲学科教員ブログ: 恐怖の「も」――『アンティゴネー』を読みながら
アンティゴネーの自由は二者択一の自由ではなく、自らの欲望をその果てまで生き抜く 自由である。 それは美しい行為であるが、切ない行為でもある。 ヘーゲルは、この『 アンティゴネー』を高く評価した人だが、その『精神現象学』の「知覚」の章 ...
tetsugakuka.seesaa.net/article/121757837.html - キャッシュ
Dialog 第8回研究会(2003/12/6)
ヘーゲルは、アンティゴネーにおいて、公的な政治世界に屹立して行く男性的精神に 対抗しつつ、その「男性的精神」が生成する基盤となり、そのための犠牲となることに誇り をもち、「家族」の原理を体現する「女性的精神」の典型を見いだした。
www.hmn.bun.kyoto-u.ac.jp/dialog/act8_oogoshi.html - キャッシュ
ジュディス・バトラー『アンティゴネーの主張』
だが、「アンティゴネー」が今、召喚されるのは、それが「国家」の現在に関わるからだ。 ヘーゲルが『精神現象学』において、そしてラカンがそのセミネールの第7巻『精神分析の 倫理』において、ソフォクレスの『アンティゴネー』をどう読んだか、それについては、 ...
www.geocities.co.jp/Hollywood/7547/feb03/kudo2.htm - キャッシュ
Amazon.co.jp: アンティゴネーの主張―問い直される親族関係の ...
第三章の「乱交的服従」の章はアンティゴネー論から現在のジェンダー論や親族論に 発展させているが、それは近親姦のタブーを最も基礎にもつ親族関係について極めて ラディカルに迫っていて、刺激的で興味深く、一読の価値がある。ヘーゲルやラカンの ...
www.amazon.co.jp/review/R243UT8QW17DY7 - キャッシュ
オラース2
ソポクレースの『アンティゴネー』、ヒロイン、アンティゴネーは、兄ポリュネイケスの埋葬 のために、死んで行った。ヘーゲルの『精神現象学』によると、ソポクレースの『 アンティゴネー』に見られるのは、「人間の掟」と「神々の掟」の対立なのだという。つまり 、それは、 ...
www.d6.dion.ne.jp/~kawa-m/horace.htm - キャッシュ
http://www.d6.dion.ne.jp/~kawa-m/horace.htm
『オラース』コルネイユ
ソポクレースの『アンティゴネー』、ヒロイン、アンティゴネーは、兄ポリュネイケスの埋葬のために、死んで行った。ヘーゲルの『精神現象学』によると、ソポクレースの『アンティゴネー』に見られるのは、「人間の掟」と「神々の掟」の対立なのだという。つまり、それは、テーバイの新王、アンティゴネーの叔父ハイモンが守る共同体の掟と、アンティゴネーが死んで守ろうする家族の掟との対立なのだ。しかし、私には、それは、テーバイの掟と、アンティゴネーの掟の対立に見える。国に反逆して死んだ者を埋葬しないのは、国の掟として、当然である。それは、確かに、共同体の掟なのだ。けれども、兄ポリュネイケスを埋葬せよと言うのは、アンティゴネーという一人の人間の掟、アンティゴネーだけの掟ではないか。
アンティゴネーは次のように言う。
…夫ならば、よしんば死んでしまったにしろ、また代りも見つけられます。また、 子供にしろ、その子をなくしたって、他の人から生みもできましょう。ところが、両親ともに、二人ながらあの世へ去ってしまったうえは、もう兄弟というものは、一人だって生れるはずがありませんもの。
この箇所は、文献学的には問題のあるところらしいが、これは、アンティゴネー自身の掟ではないのか。それは、妹一般の掟ではない。兄と妹の関係が、「人倫的実在の最高の予感」(ヘーゲル)を実現しているというのは、理論的、体系的に過ぎるののだ。
その証拠に、『オラース』では、カミーユは、許婚キュリヤスのために、兄オラースに殺される。カミーユがその兄に殺されるのは、アンティゴネーと同じように、カミーユ自身の掟によってなのだ。それは、カミーユの愛と言っていい。
アンティゴネーの愛、兄ポリュネイケスへの愛が、彼女を埋葬へと向かわせたのだ。それが、アンティゴネーの掟なのだ。
同じように、カミーユの愛が、許婚キュリヤスへの愛が、カミーユを、兄オラースあるいはローマに対する怒りに駆り立てたのだ、彼女の掟に従って。
それらは、人それぞれの、個人的なものではないのか。
人間には、あるいは人間の中のある種の人々には、最も大切な人間というものがいるのだ。この世で、たった一人だけの人間を愛することができるということも、一種の才能かも知れないが、それが、アンティゴネーにとって、兄ポリュネイケスであったのであり、カミーユにとっては、許婚キュリヤスだったのだ。その「たった一人だけの人間」が彼女たちの掟なのだ。
その「たった一人だけ」が死に際して葬られないとか、殺されるとかした場合、そのある種の人間は、それが国であろうと、国の掟であろうと、自分がかなわない相手であろうと、反旗を翻さざるを得ないのである、自分自身の掟に従って。
そして、アンティゴネーが、兄ポリュネイケスの埋葬のために、犠牲になって死ぬ処に、『アンティゴネー』の美、アンティゴネーの美しさがあるのだ。カミーユが、自らの掟、愛のために、許婚キュリヤスのために、実の兄オラースに殺される処に、カミーユが、愛のために死ぬというその処に、まさにその犠牲のうえに、『オラース』の美、カミーユの美しさがあるのだ。
カミーユは次のように言う。
そうだ。お兄様に、確実に思い知らせて やろう。真の愛は、死の女神パルカエの手など恐れはしない。しかも運命のいたずらで、たまたま身内に生まれたあの残忍な暴君たちの言う通りにはならないということを。
ここに、カミーユのほんとうの愛があるのだ。
そして、カミーユのモノローグは、アンティゴネーのモノローグと同じだ。カミーユのモノローグは、アンティゴネーのモノローグでもあるのだ。人間はどこかでモノローグを言っていて、一人でぶつぶつ言っているところが最終的な処なのである。それが、アンティゴネーやカミーユのような美しい言葉にはならなくても。少なくとも、私は、クレオンやオラースのようにではなく、アンティゴネーのように、カミーユのように、生きることの方がより美しいと思うのだ。クレオンやオラースの人生には、確かに、立派な生き方があるのも知れない。けれども、それらは、人間への愛ではなく、共同体というものへの愛なのだ。そして、それは、共同体の中に、自らの「自覚的本質」(ヘーゲル)を持つのだ。
『オラース』においては、オラースのローマへの愛は、人間への愛の上にあるのだ。。ローマへの愛は、自分の妹の生よりも、価値があるのだ。一方、カミーユにとって、許婚キュリヤスへの愛は、ローマの上にあるのだ。ローマを愛する人は言うかもしれない、ローマがなければ、カミーユもいない、と。実際、老オラースは、次のように、言うのだ。
許婚が死んでも、お前は男を一人なくし ただけ。このローマの中で、《代わり》を 見つけるのは容易じゃろう。
《代わり》はいないのである。アンティゴネーにとっても、カミーユにとっても。アンティゴネーは、兄ポリュネイケスに同一性を持っている。カミーユは、許婚キュリヤスに同一性を持っている。アンティゴネーにとって、兄ポリュネイケスは、この世界に、「たった一人だけ」なのだ。カミーユにとって、許婚キュリヤスは、この世界に、「たった一人だけ」なのだ。だから、カミーユは言うのだ、私には、その言葉は永遠のリフレインのようにきこえるのだが、そして、それは、兄オラースに対してだけ言っているようには、きこえない。そしてまた、コルネイユが言っているように、きこえるのだが、…
そうだ。お兄様に、確実に思い知らせてやろう。真の愛は、死の女神パルカエの手など恐れはしない。しかも運命のいたずらで、たまたま身内に生まれたあの残忍な暴 君たちの言う通りにはならないということを。
アンティゴネーはギリシア悲劇の題材とされ、ソポクレース『アンティゴネー』が最も著名。
アンティゴネーの悲劇は、兄への弔意という肉親の情および人間を埋葬するという人倫的習俗と神への宗教的義務と、人工的な法律の対立から来るものである。哲学者ヘーゲルは『精神の現象学』の人倫(Sittlichkeit)の章にて、アンティゴネーを人間意識の客観的段階のひとつである人倫の象徴として分析している。
http://tetsugakuka.seesaa.net/article/121757837.html
ところでしかし、この悲劇は、人間の行動には「も」はないというところに成り立っているように解釈できるところもまた興味深い。
つまり、アンティゴネーは反逆者の兄の埋葬へと一直線に突っ走るし、国王クレオンは、あくまでも反逆者の埋葬は禁ずる。
「国葬はしないが、勝手に埋葬するのは関知しない」と、あちらもこちらも立てるということにはならない。
それぞれがそれぞれの課題を一直線に遂行する。
アンティゴネーの自由は二者択一の自由ではなく、自らの欲望をその果てまで生き抜く自由である。
それは美しい行為であるが、切ない行為でもある。
ヘーゲルは、この『アンティゴネー』を高く評価した人だが、その『精神現象学』の「知覚」の章で、知覚の対象が「一でも多でもある」という「もauch」にこだわるのは、おそらくアンティゴネーの分析がその根っこにあるからだろう。
「一か多か」のどちらか一つに固執する時、その認識は「没落するzugrunde gehen」という妙な表現は、そのあたりから出ているにちがいない。
ヘーゲルからおよそ一世紀のち、やはりアンティゴネーを高く評価したヴェイユは、二元論とその二元の間の「も」の問題に苦しんでいたように「も」見える。
もしヴェイユが「To be or not to be」と問いつつ、その問いを超えていったハムレットを読んでいたら、どのように評価していたのかが、興味あるところである。
http://inamasa.blogspot.jp/2011/02/blog-post_04.html
『精神現象学』の目次を読む。
昨日のブログを読み返してみたら,あまりにひどい文章だったので驚き,あわてて推敲しながら補筆・訂正をしましたので,お許しください。いくらかはよくなっているはずです。すでに,読んでしまったという方には,再度,お目通しをいただければ幸いです。
以上,お詫びまで。
さて,『精神現象学』の目次をつらつらと眺めてみる。
大きな柱は,A,B,Cの三つ。
A.意識,B.自己意識,C.理性・精神・宗教・絶対知。
意識の問題は,AとBで終わっているのではなくて,C.理性のなかでもくり返しとりあげられ,議論を深めている。小見出しだけでも,「純粋な状態にある自己意識の観察,および,外界と関係する自己意識の観察」「自己意識と身体──人相学と頭蓋論」「理性的な自己意識の自己実現」という具合である。もっとも,見出しに「自己意識」という表記がでてこないとはいえ,C.理性・精神・宗教・絶対知のいずれも,自己意識と関係しないものはない。精神のなかで取りあつかわれる「共同体」も自己意識抜きには議論は成立しない。宗教も同様である。絶対知にいたっては,自己意識の究極の到達点でもある。
つまり,目次を読み込んでいくだけでも(巻末には丁寧にも,「詳細目次」が提示してあって,しかも,ドイツ語表記と対になっているので,とても役に立つ),そのアウト・ラインはみえてくる。つまり,A.意識,ではもっともプリミティーブな意識の出現から説きはじめ,B.自己意識,にいたって人間の意識がどのように構築されていくかが論じられ,さらに,この自己意識がC.理性・精神・宗教・絶対知,というように細分化し,それぞれに固有の領域を形成しつつ,その精度を高めていく。そして,ついには「絶対知」というゴールにいたりつく,という次第である。
言ってみれば,ヘーゲルのいう「精神」(Geist)の中核をなすものは「自己意識」であることがわかってくる。この自己意識がさまざまに変化・変容しながら,人間としての「精神」を構築していく,とヘーゲルは考えていたようである。そして,その精神の本質としての「否定」運動をくり返しながら(弁証法的に),少しずつ精神の高みへと向っていく。その究極の到達点が「絶対知」である,と。だから,つねに,その中核には「自己意識」がはたらいていることになる,とわたしは理解する。
しかし,わたしの関心は,ヘーゲルのいう「自己意識」のすべてをトータルに理解しようというのではなくて,「自己感情」から「自己意識」へとスライドしていく,そのプロセスを明らかにすることにある。ところが,わたしの不十分なヘーゲル読解では,「自己意識」については詳細な分析がなされているものの,動物次元の「自己感情」ということについては,なにも語ってはいなかったのではないかと記憶する。だから,アレクサンドル・コジェーヴは,ヘーゲルのどの部分から『ヘーゲル読解入門』のあの解釈を引き出したのか,そこを探るしかない,といまのところは考えている。あの「読解」がコジェーヴの独創によるものだとすれば,バタイユが飛びつき,そこをヒントにして『宗教の理論』の発想をえたとしても,不思議ではない。
もし,これが事実だとすれば,バタイユがみずからのテクストの冒頭にコジェーヴの「読解」をもってきた理由は,まことにもっともだ,ということになろう。この課題は,これから時間をかけてじっくりと探っていくことにしよう。
ついでに,『精神現象学』の帯にあるキャッチ・コピーと本文より,という紹介文を転記しておこう。なぜなら,このテクストを読み解く上で,わたしには,とてもありがたい導きの糸(Leitfaden)となっているので・・・・。
「日常的な意識としての感覚的確信から出発して時空の全体を見はるかす『絶対知』に至る意識の経験の旅。揺るぎなき理性への信頼と明晰な論理で綴られる壮大な精神のドラマ。」(キャッチ・コピー)
「力なき美意識が知性を憎むのは,自分にできないことを知性が要求するからだが,死を避け,荒廃から身を清く保つ生命ではなく,死に耐え,死のなかでおのれを維持する生命こそが精神の生命である。精神は絶対の分裂に身を置くからこそ真理を獲得するのだ。精神は否定的なものに目をそむけ,肯定のかたまりになることで力を発揮するのではない。・・・・精神が力を発揮するのは,まさしく否定的なものを直視し,そのもとにとどまるからなのだ。そこにとどまるなかから,否定的なものを存在へと逆転させる魔力がうまれるのである。」(本文より)
熟読玩味するに値する,鋭い切れ味をみるのは,わたしだけではないだろう。こういう文章が随所に点在するこのテクストのすごさは,わたしのような者にもひしひしとつたわってくる。
さて,これからしばらくは『精神現象学』の私的読解を楽しむこととしよう。
なお,蛇足ながら,アレクサンドル・コジェーヴですら『精神現象学』を4回,とにかく強引に読破してみたが,なんのことやらさっぱりわからなかった,という。しかし,ある思想・哲学遍歴をへてのちに,第4章まで読み終えたところで(A.意識からB.自己意識まで),これは「歴史の終焉」を語ったものであり,内容はナポレオンのことだ,と直観したという。そのあとは,面白いように読めるようになったという。そうして,コジェーヴはゼミナール形式の講読をはじめた。そこに集まってきたのはほんのわずかな人たちだったという。しかし,いずれも,のにに大成する大物ばかりである。ちなみに,われわれにもお馴染みの人たちを紹介しておくと以下のとおり。ジャック・ラカン,レーモン・クノー,ロジェ・カイヨワ,モーリス・メルロ=ポンティ,エリック・ヴェイユ,アンドレ・ブルトン,そこにジョルジュ・バタイユである。不思議なのは,ここにサルトルが加わってはいなかったことだ,と伝記作者ミシェル・シュリヤは書いている。
http://www.hmn.bun.kyoto-u.ac.jp/dialog/act8_oogoshi.html
ヘーゲルは、アンティゴネーにおいて、公的な政治世界に屹立して行く男性的精神に対抗しつつ、その「男性的精神」が生成する基盤となり、そのための犠牲となることに誇りをもち、「家族」の原理を体現する「女性的精神」の典型を見いだした。ヘーゲルにとってアンティゴネーは、さまざまな葛藤をもつ個人ではなく、「女性的」とされる「倫理的実体」を体現する自己同一的な主体である。「男性的精神」に対抗する「女性的精神」という内面的な自己同一的原理に自発的に隷従するSUBJECTである。男性は公的領域における自己実現の道を歩み、女性は家族という私的領域にとどまるというジェンダー化された近代公私二元論の倫理的正当性を、ヘーゲルは臆面もなく語っている。地上を支配する「男性」は、それ自体で存立しているのではなく、地下を支配する「女性」の支えがあるからこそ、その権力を維持しうるのだし、「女性」もまた「男性」を通して社会に対する関わりを保つのであり、その表面的な対立は、相補的依存関係の認識によって止揚されるというのだ。
ヘーゲル的弁証法は、男性主体が家族から出て、社会において自由に闘争する主体へと自己生成していくことが、同時に国家という絶対者と一体化するプロセスであることを示しているが、国家と一体化することは、同時に国家の基盤である家族へと回帰することでもある。ヘーゲルが重視した女性役割が、「弔いの女」であることが重要である。最大の敗者とは死者だからである。敗者、死者となるかもしれない危険を乗り越えて主体化の道を突き進むことができるのは、その弁証法の原動力として、どのようなみじめな状況にある敗者、死者をも祀る存在が前提されているのだ。その存在によって、彼は家族の血へ、そして民族の血へと回帰できるのである。
この意味で家族は国家の最大の共犯者に他ならないのだが、ヘーゲルはこのことをむしろ不可視にしようとしている。絶対主義的強権体制下と異なって、近代国民国家では家族の祭祀は強制によるものであってはならず、あくまで家族の自発性に基づいているというそぶりが示されねばならない。それゆえ家族を体現する女性は、国家共同体に全く癒着しているよりも、それに対立できるスタンスをもつ方が望ましい。アンティゴネーのように、一見国家と対立的でありながら、その自己犠牲によって、結果的に国家の礎を強固にする存在が必要になるわけである。
国家は人倫的な家族の祭祀の原理を弁証法的に止揚することで、つまり国民国家と家族は決して対立するのではなく、血の絆という点で内通していることをあらわにしていくことで、「弔いの祭祀」は次の段階に移行しうる。つまり家族祭祀と国家祭祀の一体化である。
このようなヘーゲルのアンティゴネー読解は、家族と国家をめぐる弔いのポリティクスを弁証法的に統一するために、見事に捏造されたものに他ならない。ヘーゲルは、家族祭祀と国家祭祀の内通関係をはからずもあらわにしているが、このようなヘーゲル的コンテクストを解体的に批判することなしに、「弔い」を国家から家族へ取り返せという言説戦略がいかに危ういものであるかは明らかであろう。 ジュディス・バトラーの近著『アンティゴネーの主張』は、アンティゴネーを家族神話から解き放つ読解をパフォーマティヴに試みている。バトラーがアンティゴネーに読みこむのは、ヘーゲル的な「女性的精神」の体現者としてではなく、むしろそうした「男性」「女性」のジェンダーを攪乱するエイジェンシーである。アンティゴネーの欲望は、家族内部の暴力や憎悪を自己犠牲的に受け入れ、浄化していく「埋葬する女性」になることではない。
近代国民国家主体形成のためにアンティゴネーを徹底的に利用するヘーゲルの戦略は、見事に成功し、彼女は近代的ジェンダー世界を象徴するヒロインとなった。「男性的精神」と異質な「女性的精神」という本質主義的神話は、自らの信念に生き、それに殉じたアンティゴネーの物語を通して説得力を持ち、ジェンダー本質主義は自然化され、ヘテロセクシュアリティは本能化された。血縁家族は愛と生の源泉と絶対視され、内部に潜む暴力は無化されてしまったのである。
「弔いのポリティクス」は、現在の日本においては靖国神社問題として論争を呼んでいる。そこでは国家による追悼を望まず、死者を家族に返すことこそ、「戦没者追悼」の国家利用を許さない道であるという主張がなされている。だが、死者を家族が弔うこともまた、弔うべき愛する死者と憎むべき敵とのあいだに境界線を引くことに変わりはないのではなかろうか。つまり、「家族の弔い」を「国家の弔い」と対置できると見なす考え方は、家族がいかに近代国民国家の戦争にとって必要な装置であったかを看過しているのである。
弔いをめぐる家族と国家の葛藤の議論といえば、即座に思い出されるのが、ソフォクレスの『アンティゴネー』である。アンティゴネーは近代思想において最も魅力的に語られてきた「女性イメージ」であるが、その存在を原理的な意味に突き詰めて捉えて、近代のジェンダー・モデルへと典型化したのは、ヘーゲルと言えるだろう。
岩波現代文庫『トランスクリティーク』 moreinfo
http://www.iwanami.co.jp/moreinfo/6002330/top.html
「私の考えでは,資本・ネーション・国家を相互連関的体系においてとらえたのは,『法の哲学』におけるヘーゲルである.それはまた,フランス革命で唱えられた自由・平等・友愛を統合するものでもある.ヘーゲルは,感性的段階として,市民社会あるいは市場経済の中に「自由」を見出す.つぎに,悟性的段階として,そのような市場経済がもたらす富の不平等や諸矛盾を是正して「平等」を実現するものとして,国家=官僚を見出す.最後に理性的段階として,「友愛」をネーションに見出す.ヘーゲルはどの契機をも斥けることなく,資本=ネーション=国家を,三位一体的な体系として弁証法的に把握したのである.
ヘーゲルはイギリスをモデルにして近代国家を考えていた.ゆえに,そこにいたる革命は今後においても各地にあるだろう.しかし,この三位一体的な体制ができあがったのちには,本質的な変化はありえない.ゆえに,そこで歴史は終わる,というのがヘーゲルの考えである.もちろん,ヘーゲル以後にも歴史はあった.しかし,本質的な変化は存在しないというほかない.『法の哲学』は今なお有効なのである.ここでもし歴史は終わっていないというのであれば,あれこれの出来事があるというだけではなく,資本=ネーション=ステートを越えることが可能であるということを示さなければならない.
私が本書で試みたのは,そのようなヘーゲルの批判である.もちろん,私は正面からヘーゲルを扱わなかった.そうするかわりに,カントとマルクスを論じたのである.カントをマルクスから読むとは,カントをヘーゲルに乗り越えられた人ではなく,ヘーゲルが乗り越えられない人として読むことだ.マルクスをカントから読むとは,カントがもっていたがヘーゲルによって否定されたしまった諸課題の実現を,マルクスの中に読むことだ.
しかし,私がヘーゲルのことをあらためて意識したのは,『トランスクリティーク』を日本で出版したあとまもなく起こった事件,すなわち,二〇〇一年の9/11事件,そして,イラク戦争においてである.この時期,アメリカのネオ・コンは,ヨーロッパが支持した国連を,カント主義的夢想として嘲笑した.彼らは,フクヤマとは違ったタイプのヘーゲル主義者だった.ヘーゲルは,カントのいう国家連合には,それに対する違反を軍事的に制裁する実力をもった国家がないから,非現実的だと述べた人である.このとき,私はあらためてカントについて,特に『永遠平和』の問題について考えるようになったのである.
『トランスクリティーク』において,私は国家がたんなる上部構造ではなく,自律性をもった主体(エージェント)だということを書いている.それは,国家が先ず他の国家に対して存在することから来ている.したがって,他の国家がある以上,国家をその内部からだけでは揚棄することはできない.ゆえに,一国だけの革命はありえない.ゆえに,マルクスもバクーニンも,社会主義革命は「世界同時革命」としてしかありえないと考えていた.しかし,本書を書いたとき,私はこの問題をさほど深刻に考えていなかった.各国における対抗運動がどこかでつながるだろうと考えていたのである.二〇〇一年以後の事態が示したのは,何もしないなら,各国の対抗運動は資本と国家によって必ず分断されてしまうだろう,ということだ.
ところで,一国だけでは成り立たないのは,社会主義革命だけではない.ルソー的な市民革命もそうである.たとえば,フランス革命はたちまち,諸外国からの干渉と侵入に出会った.そのことが内部に恐怖政治をもたらし,他方で,革命防衛戦争から(ナポレオンによる)征服戦争に発展していったのである.カントはその過程で『永遠平和のために』(一七九五年)を発表したが,そのずっと前に,ルソー的な市民革命がそのような妨害に出会うこと,ゆえに,それを防ぐために諸国家連合が必要だということを考えていた.つまり,「永遠平和」のための構想は,たんなる平和論ではなく,いわば「世界同時革命」論として構想されたのである.だからこそ,ヘーゲルはカントに反対し,ナポレオン戦争を通してヨーロッパ各地に生まれた,資本=ネーション=国家こそ,最終的な社会形態であると考えたのである.
私は本書において,交換様式から社会構成体の歴史を見る視点,さらに,資本=ネーション=ステートを越える視点を提起した.しかし,それはまだ萌芽的なものでしかないことを,私は認める.以後の私の仕事は,それをもっと詳細に,全人類史において解明することであった.そのために,一〇年ほどの時間が必要であった.それは『世界史の構造』(岩波書店,2010年)という本である.『トランスクリティーク』の続編として読んでいただけると幸いである.」
http://prof-takahashi.blogspot.jp/2011/06/blog-post_14.html
この三位一体が不気味な影をおびてふたたび大きく世界史の前面に出てきたのが2001年9・11の「事態」だった。『世界史の構造』の序文で柄谷は次のようにいっている。「資本=ネーション=ステートは実に巧妙なシステムなのである。だが、私の関心はむろん、それを称揚することではなく、それを越えることにある。『トランスクリティーク』を書いた1990年代と、 2001年以後では、私の考えはかなり違っている。私に「世界史の構造」の包括的な考察を強いたのは、 2001年以後の事態なのである。1990年代では、私は、各国における資本と国家ヘの新たな対抗運動を考えていた。明確なヴィジョンがあったわけではないが、漠然と、そのような運動は自然に、トランスナショナルな連合となっていくだろうと考えていたのである。(……)しかし、このようなオプティミズムは、 2001年、ちょうど私が『トランスクリティーク』を出版したころに起こった、9・11以後の事態によって破壊された。(……)このとき、私は、国家やネーションがたんなる「上部構造」ではなく、能動的なエ―ジェント主体として活動するということを、あらためて痛感させられた」(ix頁)。
柄谷行人「世界史の構造」を読む(最終回)資本=ネーション=ステート: 阿QのBook Review
http://straight-line.seesaa.net/article/168415343.html
アソシェーションがどのような社会であるのかは必ずしも明確ではないが、柄谷はアソシェーション以外の形態、共同体(ネーション)、国家、資本が三位一体として強力にタッグを組んで作用してきたのが世界史であり、今後もしぶとく生き残るだろうというのが柄谷の見方である。これまでの思想家、マルクスでさえもこの3つの形態のいずれかでしか考えていないことを柄谷は明らかにする。
この3つの異なった原理にもとづいた、資本=ネーション=ステートこそが我々の世界を規定している強力な力である。この3つの異なった交換の原理にもとづいた形態を侮るな、と柄谷は再三警告する。侮ることによる失敗が、過去のフランス革命、ロシア革命、あるいは逆のファシズムの成功など枚挙にいとまがないからである。ぼくには、資本主義経済(感性)と国家(悟性)がネーション(想像力)によってボロネオの環のように結ばれているから強力なのであるという説明の方が、この本の結論であるアソシェーションよりも、リアリステックに感じた位である。
柄谷のこの三位一体から説明する世界史は充分説得力がある。少なくとも、平板な歴史の説明しか読んだことのないぼくには、新鮮でかつスリリングである。このような視座であらためて、この本の中で再三引用されているヘーゲルやカント、マルクスなどの本を読んでみようかと思うくらいインパクトがあった、と正直に告白しようと思う。
岩波現代文庫『トランスクリティーク』
http://www.iwanami.co.jp/moreinfo/6002330/top.html
「私の考えでは,資本・ネーション・国家を相互連関的体系においてと
らえたのは,『法の哲学』におけるヘーゲルである.それはまた,フラ
ンス革命で唱えられた自由・平等・友愛を統合するものでもある.ヘー
ゲルは,感性的段階として,市民社会あるいは市場経済の中に「自由」
を見出す.つぎに,悟性的段階として,そのような市場経済がもたらす
富の不平等や諸矛盾を是正して「平等」を実現するものとして,国家=
官僚を見出す.最後に理性的段階として,「友愛」をネーションに見出
す.ヘーゲルはどの契機をも斥けることなく,資本=ネーション=国家
を,三位一体的な体系として弁証法的に把握したのである.」
http://prof-takahashi.blogspot.jp/2011/06/blog-post_14.html
『世界史の構造』の序文で柄谷は次のようにいっている。「資本=ネーシ
ョン=ステートは実に巧妙なシステムなのである。だが、私の関心はむろ
ん、それを称揚することではなく、それを越えることにある。」
http://straight-line.seesaa.net/article/168415343.html
アソシェーションがどのような社会であるのかは必ずしも明確ではな
いが、柄谷はアソシェーション以外の形態、共同体(ネーション)、国
家、資本が三位一体として強力にタッグを組んで作用してきたのが世界
史であり、今後もしぶとく生き残るだろうというのが柄谷の見方であ
る。これまでの思想家、マルクスでさえもこの3つの形態のいずれかで
しか考えていないことを柄谷は明らかにする。
http://straight-line.seesaa.net/article/168415343.html
アソシェーションがどのような社会であるのかは必ずしも明確ではな
いが、柄谷はアソシェーション以外の形態、共同体(ネーション)、国
家、資本が三位一体として強力にタッグを組んで作用してきたのが世界
史であり、今後もしぶとく生き残るだろうというのが柄谷の見方であ
る。これまでの思想家、マルクスでさえもこの3つの形態のいずれかで
しか考えていないことを柄谷は明らかにする。
岩波現代文庫『トランスクリティーク』
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「私の考えでは,資本・ネーション・国家を相互連関的体系においてと
らえたのは,『法の哲学』におけるヘーゲルである.それはまた,フラ
ンス革命で唱えられた自由・平等・友愛を統合するものでもある.ヘー
ゲルは,感性的段階として,市民社会あるいは市場経済の中に「自由」
を見出す.つぎに,悟性的段階として,そのような市場経済がもたらす
富の不平等や諸矛盾を是正して「平等」を実現するものとして,国家=
官僚を見出す.最後に理性的段階として,「友愛」をネーションに見出
す.ヘーゲルはどの契機をも斥けることなく,資本=ネーション=国家
を,三位一体的な体系として弁証法的に把握したのである.」
http://prof-takahashi.blogspot.jp/2011/06/blog-post_14.html
『世界史の構造』の序文で柄谷は次のようにいっている。「資本=ネーシ
ョン=ステートは実に巧妙なシステムなのである。だが、私の関心はむろ
ん、それを称揚することではなく、それを越えることにある。」
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アソシェーションがどのような社会であるのかは必ずしも明確ではな
いが、柄谷はアソシェーション以外の形態、共同体(ネーション)、国
家、資本が三位一体として強力にタッグを組んで作用してきたのが世界
史であり、今後もしぶとく生き残るだろうというのが柄谷の見方であ
る。これまでの思想家、マルクスでさえもこの3つの形態のいずれかで
しか考えていないことを柄谷は明らかにする。
この3つの異なった原理にもとづいた、資本=ネーション=ステート
こそが我々の世界を規定している強力な力である。この3つの異なった
交換の原理にもとづいた形態を侮るな、と柄谷は再三警告する。
岩波現代文庫『トランスクリティーク』
http://www.iwanami.co.jp/moreinfo/6002330/top.html
「私の考えでは,資本・ネーション・国家を相互連関的体系においてと
らえたのは,『法の哲学』におけるヘーゲルである.それはまた,フラ
ンス革命で唱えられた自由・平等・友愛を統合するものでもある.ヘー
ゲルは,感性的段階として,市民社会あるいは市場経済の中に「自由」
を見出す.つぎに,悟性的段階として,そのような市場経済がもたらす
富の不平等や諸矛盾を是正して「平等」を実現するものとして,国家=
官僚を見出す.最後に理性的段階として,「友愛」をネーションに見出
す.ヘーゲルはどの契機をも斥けることなく,資本=ネーション=国家
を,三位一体的な体系として弁証法的に把握したのである.」
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『世界史の構造』の序文で柄谷は次のようにいっている。「資本=ネーシ
ョン=ステートは実に巧妙なシステムなのである。だが、私の関心はむろ
ん、それを称揚することではなく、それを越えることにある。」
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『世界史の構造』の序文で柄谷は次のようにいっている。「資本=ネーシ
ョン=ステートは実に巧妙なシステムなのである。だが、私の関心はむろ
ん、それを称揚することではなく、それを越えることにある。」
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アソシェーションがどのような社会であるのかは必ずしも明確ではな
いが、柄谷はアソシェーション以外の形態、共同体(ネーション)、国
家、資本が三位一体として強力にタッグを組んで作用してきたのが世界
史であり、今後もしぶとく生き残るだろうというのが柄谷の見方であ
る。これまでの思想家、マルクスでさえもこの3つの形態のいずれかで
しか考えていないことを柄谷は明らかにする。
この3つの異なった原理にもとづいた、資本=ネーション=ステート
こそが我々の世界を規定している強力な力である。この3つの異なった
交換の原理にもとづいた形態を侮るな、と柄谷は再三警告する。
岩波現代文庫『トランスクリティーク』
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「私の考えでは,資本・ネーション・国家を相互連関的体系においてと
らえたのは,『法の哲学』におけるヘーゲルである.それはまた,フラ
ンス革命で唱えられた自由・平等・友愛を統合するものでもある.ヘー
ゲルは,感性的段階として,市民社会あるいは市場経済の中に「自由」
を見出す.つぎに,悟性的段階として,そのような市場経済がもたらす
富の不平等や諸矛盾を是正して「平等」を実現するものとして,国家=
官僚を見出す.最後に理性的段階として,「友愛」をネーションに見出
す.ヘーゲルはどの契機をも斥けることなく,資本=ネーション=国家
を,三位一体的な体系として弁証法的に把握したのである.」
繰り返しになるがヘーゲルの弁証法は生物学をモデルを持つ。
ヘーゲルの自然哲学は例えば当時のホメオパシーなど雑多なものを含み、純粋主義的で
ないところが興味深い。
ただし論理学的には矛盾を孕んでいる。
例えば論理学的には(フッサールも賞賛した)ボルツァーノがヘーゲルを批判している。
以下、山下正男『論理学史』(225頁)より
「(ボルツァーノは)例えばヘーゲルの好む表現 "運動とは質点Mが同じ瞬間に同じ場所mにあり,
そして,ないことである"(大論理学邦訳岩波中79頁より)を論理学の自殺だときめつけ,運動はそ
うした矛盾律を犯さなくてもつぎのように正しく把握できると主張した. "質点Mが一定の時間T
に運動するとは,Mが同一の場所に静止するようなTの部分tは一つも存在しないということである".」
追記:
マルクスが『資本論』を書いた時、ヘーゲルよりもアリストテレスを意識したかもしれないが、
アリストテレスにしても論理学と共に動物学(分類等)を研究していた。何が言いたいかというと
対象となる現実を持たないと学問も空虚になりがちだということだ。最近のマクロ経済学に
その傾向があるのは危険な兆候だと思う。
ハイデッガー全集32,14頁
現象学体系
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第一部 第二部
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精神現象学 論理学 自然哲学 精神哲学
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現象学体系
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common, pair, and individual illusions
共同、対、個人幻想
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『共同幻想論』の骨格
吉本隆明:『日本語のゆくえ』:p123~124をトポロジーとしてまとめてみたもの
http://www.momoti.com/blog2/2008/02/post_143.php
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/ 対幻想 \
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以下の書籍では幻想にimageの訳語を採用している。
The Critique of the Virtual Shifting Discrusive Space in Japanese Literature ... - Koichi Haga - Google ブックス
http://books.google.co.jp/books?id=Hit0_9wIgjMC&lpg=PA75&ots=FQd1egvsxa&dq=pair%20Illusion%20yoshimoto&hl=ja&pg=PA48#v=onepage&q&f=false
http://www.momoti.com/blog2/bw_uploads/tm_08013103_1.jpg
common, pair, and individual illusions
共同、対、個人幻想
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『共同幻想論』の骨格
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以下の書籍では幻想にimageの訳語を採用している。
The Critique of the Virtual Shifting Discrusive Space in Japanese Literature ... - Koichi Haga -
http://books.google.co.jp/books?id=Hit0_9wIgjMC&lpg=PA75
common, pair, and individual illusions
共同、対、個人幻想
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『共同幻想論』の骨格
吉本隆明:『日本語のゆくえ』:p123~124をトポロジーとしてまとめてみたもの
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The Critique of the Virtual Shifting Discrusive Space in Japanese Literature ... - Koichi Haga -
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図解に関しては、以下の書籍の評価が高い。
http://www.amazon.co.jp//dp/4907221002/
吉本隆明『共同幻想論』の読み方 (テツガクのなる木) [単行本(ソフトカバー)]
宇田亮一 (著)
common, pair, and individual illusions
共同、対、個人幻想
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『共同幻想論』の骨格
吉本隆明:『日本語のゆくえ』:p123~124をトポロジーとしてまとめてみたもの
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共同、対、個人幻想の訳語は以下を参照。
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宇田亮一 (著)
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『共同幻想論』の骨格
吉本隆明:『日本語のゆくえ』:p123~124をトポロジーとしてまとめてみたもの
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吉本隆明『共同幻想論』の読み方 宇田亮一
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『共同幻想論』の骨格
吉本隆明:『日本語のゆくえ』:p123~124をトポロジーとしてまとめてみたもの
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吉本隆明『共同幻想論』の読み方 (テツガクのなる木) [単行本(ソフトカバー)]
宇田亮一 (著)
common, pair, and individual illusions 共同、対、個人幻想
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『共同幻想論』の骨格
吉本隆明:『日本語のゆくえ』:p123~124をトポロジーとしてまとめてみたもの
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共同、対、個人幻想の訳語は以下を参照。
common, pair, and individual illusions
http://ci.nii.ac.jp/naid/110006865306
以下の書籍では幻想にimageの訳語を採用している(異論もある。特にフーコーに
渡した翻訳文は訳語に問題があったとされる)。
The Critique of the Virtual Shifting Discrusive Space in Japanese Literature ... - Koichi Haga -
http://books.google.co.jp/books?id=Hit0_9wIgjMC
図解に関しては、以下の書籍の評価が高い。
http://www.amazon.co.jp//dp/4907221002/
吉本隆明『共同幻想論』の読み方 宇田亮一
common, pair, and individual illusions 共同、対、個人幻想
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/ 対幻想 \
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/| 文学\/ |\
/ \芸術/\ / \
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|個人幻想 | | 共同幻想|
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『共同幻想論』の骨格
吉本隆明:『日本語のゆくえ』:p123~124をトポロジーとしてまとめてみたもの
http://www.momoti.com/blog2/2008/02/post_143.php
http://www.momoti.com/blog2/bw_uploads/tm_08013103_1.jpg
共同、対、個人幻想の訳語は以下を参照。
common, pair, and individual illusions
http://ci.nii.ac.jp/naid/110006865306
以下の書籍では幻想にimageの訳語を採用している(異論もある。特にフーコーに
渡した翻訳文は訳語に問題があったとされる)。
The Critique of the Virtual Shifting Discrusive Space in Japanese Literature ... - Koichi Haga -
http://books.google.co.jp/books?id=Hit0_9wIgjMC
図解に関しては、以下の書籍の評価が高い。
http://www.amazon.co.jp//dp/4907221002/
吉本隆明『共同幻想論』の読み方 宇田亮一
common, pair, and individual illusions
共同、対、個人幻想
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/ 対幻想 \
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/| 文学\/ |\
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|個人幻想 | | 共同幻想|
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『共同幻想論』の骨格
吉本隆明:『日本語のゆくえ』:p123~124をトポロジーとしてまとめてみたもの
http://www.momoti.com/blog2/2008/02/post_143.php
http://www.momoti.com/blog2/bw_uploads/tm_08013103_1.jpg
ラカンで言えば以下、
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/ 現実界 \
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/| 文学\/ |\
/ \芸術/\ / \
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| 想像界 | | 象徴界 |
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共同、対、個人幻想の訳語は以下を参照。
common, pair, and individual illusions
http://ci.nii.ac.jp/naid/110006865306
以下の書籍では幻想にimageの訳語を採用している(異論もある。特にフーコーに
渡した翻訳文は訳語に問題があったとされる)。
The Critique of the Virtual Shifting Discrusive Space in Japanese Literature ... - Koichi Haga -
http://books.google.co.jp/books?id=Hit0_9wIgjMC
図解に関しては、以下の書籍の評価が高い。
http://www.amazon.co.jp//dp/4907221002/
吉本隆明『共同幻想論』の読み方 (テツガクのなる木) [単行本(ソフトカバー)]
宇田亮一 (著)
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/ 現実界 \
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/| 文学\/ |\
/ \芸術/\ / \
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| 想像界 | | 象徴界 |
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| 悟性 |__| 感性 |
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| 想像力 |
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| 国家 |__| 市民社会|
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| ネーション |
\ /
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ボロメオの環
(『世界共和国へ』より)
「市民社会=市場経済(感性)と国家(悟性)がネーション(想像力)によって結ばれている…」
ちなみに、ヘーゲルの歴史哲学講義はライプニッツの弁神論を意識している
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/3.\
/Geist
/______\
/\ /\
/1.\ /2.\
/Logik /Natur
/______\/______\
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/ \
/ 3. \
/Geist \
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/ \ / \
/ 1. \ / 2. \
/Logik \ / Natur\
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/ \
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/______\
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/______\/______\
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/3.\
Geist\
/______\
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/1.\ /2.\
Logik\ Natur\
/______\/______\
http://www.hegel.net/
/\
/ \
/ 3. \
/Geist \
/________\
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/ \ / \
/ 1. \ / 2. \
/Logik \ / Natur\
/________\/________\
http://www.hegel-system.de/de/d0.htm
(窓)http://www.hegel.net/
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/Geist \
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/ \Hegel / \
/ 1. \ / 2. \
/Logik \ / Natur\
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(窓)http://www.hegel-system.de/de/d0.htm
(窓)http://www.hegel.net/
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/ 3. \
/Geist \
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/System der\
/ \Hegel / \
/ 1. \ / 2. \
/Logik \ / Natur\
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(窓)http://www.hegel-system.de/de/d0.htm
(窓)http://www.hegel.net/
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/Geist \
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/\System- /\
/ \Hegel / \
/ 1. \ / 2. \
/Logik \ / Natur\
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(窓)http://www.hegel-system.de/de/d0.htm
(窓)http://www.hegel.net/
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/ 3. \
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/\ Hegel, /\
/ \System/ \
/ 1. \ / 2. \
/Logik \ / Natur\
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(窓)http://www.hegel-system.de/de/d0.htm
(窓)http://www.hegel.net/
/\
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/ 3. \
/Geist \
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/\ Hegel・ /\
/ \System/ \
/ 1. \ / 2. \
/Logik \ / Natur\
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(窓)http://www.hegel-system.de/de/d0.htm
(窓)http://www.hegel.net/
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/ 3. \
/Geist \
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/\ Hegel- /\
/ \System/ \
/ 1. \ / 2. \
/Logik \ / Natur\
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(窓)http://www.hegel-system.de/de/d0.htm
新しいヘーゲル (講談社現代新書) 第四章by 長谷川宏より孫引き
ギリシャ人のもとで芸術は最高の形式に達していて、芸術を通して人びとは神をイメージし、真理を意識しました。だから、ギリシャ人にとっては詩人こそが神々の創造者であり、宗教の内容たる、神の行為や生活や活動を人びとに明確に示す芸術家でした。それも、宗教的な観念や教えが、詩を書く前に一般的な宗教命題や思考の定義として抽象的に存在し、それを踏まえて芸術家がさまざまな像を作りだし、詩のことばで外から飾りたてた、というのではなく、自分の内部に発酵したものを詩という芸術形式によってしか形のあるものにできない、というような芸術制作だったのです。(7)
(7) ヘーゲル『美学講義』(作品社)上巻、一〇九ページ。
芸術の王国の上に立つ領域が宗教です。宗教の意識の形式はイメージです。絶対者は芸術の対象から内面へと移され、主観的なイメージとしてあたえられるので、心や心情、一般化していえば、内面の主観性が宗教の本領です。芸術から宗教への前進を一言でいいあらわすとすれば、芸術は宗教的意識のほんの一面をなすにすぎないといえる。芸術作品が、精神の真理を感覚的対象として打ちたて、この形を絶対者にふさわしいものとしてとらえるとすれば、宗教は、その上に、絶対の対象とかかわりあう内面の祈りをつけくわえる。……祈りが登場してくるには、芸術が感覚的な外形として客観化したものを、主観が心情のうちにとりいれ、みずからそれと一体化することによって、イメージや内密の感情といった内面の状態が絶対者の存在にとって不可欠の要素になるのでなければならない。祈りは、会衆のもっとも純粋で内面的で主観的な礼拝形式です。そこでは客観的なものがいわば食いつくされ消化され、客観的な形をなくした内容が、心や心情の所有物となるのです。(12)
(12) ヘーゲル『美学講義』(作品社)上巻、一一〇-一一一ページ。
絶対精神の第三の形式が哲学です。宗教にあっては、神がどんなものか、神の啓示がどのようになされるかを教えるために、まず神が外面的な形をとって意識にあらわれ、ついでそのイメージが内面化され、会衆の心を動かし満たすものとなる。が、心情やイメージにもとづく内面の祈りは、内面性の最高の形式ではありません。自由な思考こそもっとも純粋な知の形式と認められるべきで、学問は自由に思考しつつ、同じ内容を意識にもたらし、こうして、これまで主観的な感情やイメージの内容にすぎなかったものを、体系的思考によって概念的にわがものにするという、精神的な礼拝が完遂されます。そういう意味で、哲学は芸術と宗教の両面を統一するものです。芸術の客観性は、いまや感覚的な外形は失いつつも、かわりに思想という最高の客観形式を獲得しているし、宗教の主観性は思考の主観性へと純化されています。というのも、思考は、一方で、もっとも内面的で内密な主観性であるとともに、真の思想たる理念は、同時に、もっとも現実的で客観的な一般観念であって、それをとらえるには思考こそがもっともふさわしい形式だからです。(14)
(14) ヘーゲル『美学講義』(作品社)上巻、一一一ページ。
ゴールドバッハ予想
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数字
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38
http://ja.wikipedia.org/wiki/ゴールドバッハの予想
ゴールドバッハの予想
数学において、ゴールドバッハの予想は、加法的整数論の未解決問題の一つである。
全ての 2 よりも大きな偶数は二つの素数の和として表すことができる。
ウェアリングの問題などと共に古くから知られている。この予想は、4 × 1018 まで成立することが証明されていて、
一般に正しいと想定されているが、多くの努力にもかかわらず未だに証明されていない。
4 から 28 までの偶数を 2つの素数の和としてあわらした図。ゴルドバッハは全ての 2よりも大きい偶数が少なくとも一通りで 2つの素数の和として表すことができることを予想した。
http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/d/dd/Goldbach_partitions_of_the_even_integers_from_4_to_28_300px.png
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http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/0/02/Goldbach_partitions_of_the_even_integers_from_4_to_50_rev4b.svg/688px-Goldbach_partitions_of_the_even_integers_from_4_to_50_rev4b.svg.png
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→ユダヤ
↑
アフリカ→シュメール→エジプト→ギリシア/ローマ→イスラム
↓ ↓↑ ↓↑
インドーーーーーヘレニズム時代 モンゴル
↓ ↓↑
中国ーーーーーーーーーーーーーー→朝鮮→日本
→ユダヤ
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アフリカ→シュメール→エジプト→ギリシア/ローマ→イスラム
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インドーーーーーヘレニズム時代 モンゴル
↓ ↓↑
中国ーーーーーーーーーーーーーー→朝鮮→日本
他者=das Andere
例えば、
“Dieses sosehr synthetische als analytische Moment des Urteils, wodurch das
anfängliche Allgemeine aus ihm selbst als das Andere seiner sich bestimmt, ist das
dialektische zu nennen. ”
(Hegel:Wissenschaft der Logik)
「この綜合的であるとともに、また分析的であるところの判断の契機によって、始原の
普遍は自分自身からして自分を自分の 他者 と規定するのであるが、このような判断の
契機は弁証法的な契機と名づけてよい。」
(岩波書店ヘーゲル全集8『大論理学下』366頁)
ヘーゲルの他者は絶対精神に回収されてしまう、、、
結局カントの物自体を認めないヘーゲルに他者は存在しない。
反対にマルクスの唯物論には自己が存在し得ない、、、、
他者=das Andere
例えば、
“Dieses sosehr synthetische als analytische Moment des Urteils, wodurch das
anfängliche Allgemeine aus ihm selbst als das Andere seiner sich bestimmt, ist das
dialektische zu nennen. ”
(Hegel:Wissenschaft der Logik)
「この綜合的であるとともに、また分析的であるところの判断の契機によって、始原の
普遍は自分自身からして自分を自分の 他者 と規定するのであるが、このような判断の
契機は弁証法的な契機と名づけてよい。」
(岩波書店ヘーゲル全集8『大論理学下』366頁)
ヘーゲルの他者は絶対精神に回収されてしまう、、、
結局カントの物自体を認めないヘーゲルに他者は存在しない。
反対にマルクスの唯物論には自己が存在し得ない、、、、
他者=as Andereなのだろうが、ヘーゲルの他者は絶対精神に回収されてしまう、、、
“Dieses sosehr synthetische als analytische Moment des Urteils, wodurch das anfängliche Allgemeine aus ihm selbst als das Andere seiner sich bestimmt, ist das dialektische zu nennen. Die Dialektik ist eine derjenigen alten Wissenschaften, welche in der Metaphysik der Modernen und dann überhaupt durch die Popularphilosophie sowohl der Alten als der Neueren am meisten verkannt worden.”
「この綜合的であるとともに、また分析的であるところの判断の契機によって、始原の普遍は自分自身からして自分を自分の他者と規定するのであるが、このような判断の契機は弁証法的な契機にと名づけてよい。」
岩波書店ヘーゲル全集8『大論理学下』366頁
抜粋: : Georg Wilhelm Hegel. “Wissenschaft der Logik.” Jazzybee Verlag, 2012-08-23. iBooks.
この素材は著作権で保護されている可能性があります。
iBooks Storeでこのブックをご覧ください: https://itunes.apple.com/WebObjects/MZStore.woa/wa/viewBook?id=555998727
抜粋: : Georg Wilhelm Hegel. “Wissenschaft der Logik.” Jazzybee Verlag, 2012-08-23. iBooks.
この素材は著作権で保護されている可能性があります。
iBooks Storeでこのブックをご覧ください: https://itunes.apple.com/WebObjects/MZStore.woa/wa/viewBook?id=555998727
他者=das Andere
例えば、
“Dieses sosehr synthetische als analytische Moment des Urteils, wodurch das
anfängliche Allgemeine aus ihm selbst als das Andere seiner sich bestimmt, ist das
dialektische zu nennen. ”
(Hegel:Wissenschaft der Logik)
「この綜合的であるとともに、また分析的であるところの判断の契機によって、始元の
普遍は自分自身からして自分を自分の 他者 と規定するのであるが、このような判断の
契機は弁証法的な契機と名づけてよい。」
(岩波書店ヘーゲル全集8『大論理学下』366頁)
ヘーゲルの他者は最終的には絶対精神に回収されてしまう、、、
結局カントの物自体を認めないヘーゲルに「他者」は存在しない。
反対にマルクスの唯物論には自己が存在し得ない、、、、
自己=主体と考えると、マルクスによる社会ほ構造主義的理解においては、個人から階級以外の特性は捨象される。
http://blogs.yahoo.co.jp/assocy/33357767.html
[資本論第1版序文]
《起こるかもしれない誤解を避けるために一言しておこう。私は決して、
資本家や土地所有者の姿態をバラ色には描いていない。そしてここ
で諸人格が問題になるのは、ただ彼らが経済的諸カテゴリーの人格化で
あり、特定の階級諸関係や階級利害の担い手である限りにおいてである。
経済的社会構成体の発展を一つの自然史的過程ととらえる私の立場は、
他のどの立場にもまして、個々人に社会的諸関係の責任を負わせる
ことはできない。個人は主観的には諸関係をどんなに超越しようとも、
社会的には依然として諸関係の被造物なのである。》
自己=主体と考えると、マルクスによる社会の構造主義的理解においては、
個人から階級以外の特性は捨象される。
http://blogs.yahoo.co.jp/assocy/33357767.html
[資本論第1版序文]
《起こるかもしれない誤解を避けるために一言しておこう。私は決して、
資本家や土地所有者の姿態をバラ色には描いていない。そしてここ
で諸人格が問題になるのは、ただ彼らが経済的諸カテゴリーの人格化で
あり、特定の階級諸関係や階級利害の担い手である限りにおいてである。
経済的社会構成体の発展を一つの自然史的過程ととらえる私の立場は、
他のどの立場にもまして、個々人に社会的諸関係の責任を負わせる
ことはできない。個人は主観的には諸関係をどんなに超越しようとも、
社会的には依然として諸関係の被造物なのである。》
マルクスによる社会の構造主義的理解においては、
個人から階級以外の特性は捨象される。
http://blogs.yahoo.co.jp/assocy/33357767.html
[資本論第1版序文]
《起こるかもしれない誤解を避けるために一言しておこう。私は決して、
資本家や土地所有者の姿態をバラ色には描いていない。そしてここ
で諸人格が問題になるのは、ただ彼らが経済的諸カテゴリーの人格化で
あり、特定の階級諸関係や階級利害の担い手である限りにおいてである。
経済的社会構成体の発展を一つの自然史的過程ととらえる私の立場は、
他のどの立場にもまして、個々人に社会的諸関係の責任を負わせる
ことはできない。個人は主観的には諸関係をどんなに超越しようとも、
社会的には依然として諸関係の被造物なのである。》
マルクスによる社会の構造主義的理解においては、
個人から階級以外の特性は捨象される。
http://blogs.yahoo.co.jp/assocy/33357767.html
[資本論第1版序文]
《起こるかもしれない誤解を避けるために一言しておこう。私は決して、
資本家や土地所有者の姿態をバラ色には描いていない。そしてここ
で諸人格が問題になるのは、ただ彼らが経済的諸カテゴリーの人格化で
あり、特定の階級諸関係や階級利害の担い手である限りにおいてである。
経済的社会構成体の発展を一つの自然史的過程ととらえる私の立場は、
他のどの立場にもまして、個々人に社会的諸関係の責任を負わせる
ことはできない。個人は主観的には諸関係をどんなに超越しようとも、
社会的には依然として諸関係の被造物なのである。》
マルクスによる社会の構造主義的理解においては、
個人から階級以外の特性は捨象される。
http://blogs.yahoo.co.jp/assocy/33357767.html
[資本論第1版序文]
《起こるかもしれない誤解を避けるために一言しておこう。私は決して、
資本家や土地所有者の姿態をバラ色には描いていない。そしてここ
で諸人格が問題になるのは、ただ彼らが経済的諸カテゴリーの人格化で
あり、特定の階級諸関係や階級利害の担い手である限りにおいてである。
経済的社会構成体の発展を一つの自然史的過程ととらえる私の立場は、
他のどの立場にもまして、個々人に社会的諸関係の責任を負わせる
ことはできない。個人は主観的には諸関係をどんなに超越しようとも、
社会的には依然として諸関係の被造物なのである。》
個々人に責任がないということは、主体がないということ。
ここでは主体=自己ということでいい。
マルクスによる社会の構造主義的理解においては、
個人から階級以外の特性は捨象される。
http://blogs.yahoo.co.jp/assocy/33357767.html
[資本論第1版序文]
《起こるかもしれない誤解を避けるために一言しておこう。私は決して、
資本家や土地所有者の姿態をバラ色には描いていない。そしてここ
で諸人格が問題になるのは、ただ彼らが経済的諸カテゴリーの人格化で
あり、特定の階級諸関係や階級利害の担い手である限りにおいてである。
経済的社会構成体の発展を一つの自然史的過程ととらえる私の立場は、
他のどの立場にもまして、個々人に社会的諸関係の責任を負わせる
ことはできない。個人は主観的には諸関係をどんなに超越しようとも、
社会的には依然として諸関係の被造物なのである。》
個々人に責任がないということは、主体がないということ。
ここでは主体=自己ということでいい。
さらにマルクスはユダヤ教徒の家系だった自身を隠蔽したと思う。
参考:
マルクスとユダヤ人問題 神田順司
http://www.ritsumei.ac.jp/acd/cg/lt/rb/625/625pdf/kandaju.pdf
☆『エンチクロペディー』、参照:http://hegel.net/、作業中:http://nam21.sakura.ne.jp/hegel/jp/e0.htm、
リンク:哲学体系目次(論理学/自然哲学/精神哲学)
/\
*国語_哲学
/\絶対的\
芸術_\/_宗教
/\<精神哲学> /世界史
/__\ *社会/__\
/\主観的\ /\客観的\
/__\/__\ /__\/__\
/\ /\
/__\ 『エンチクロペディー』/__\
/\概念論\ /有機体学\
/__\/__\ /__\/__\
/\ <論理学>/\ /\ <自然哲学>/\
/__\*算数 /__\ /__\ *理科 /__\
/\有論/\ /\本質論\ /\力学/\ /\物理学\
/__\/__\/__\/__\ /__\/__\ /__\/__\
*国語
(ギリシア、追記、全体系=別サイト版)
以前のブログ記事の改訂版です(Firefox,Safari推奨、Explorerは文字化けします)。
2014/05/25 20:35、yojisekimoto のメッセージ:
NAMs出版プロジェクト: ゲーデルとライプニッツ:付リンク::::
http://nam-students.blogspot.jp/2012/11/blog-post_407.html
https://itunes.apple.com/jp/book/waido-ban-shi-jieno-da-si/id866996376?mt=11iTunes でブックをチェック:
ワイド版世界の大思想 第3期〈3〉ヘーゲル
ヘーゲル & 樫山欽四郎
哲学, ブック, ノンフィクション
2005年5月1日
アイテムを表示
<理性的なものは現実的であり、現実的なものは理性的である。>本書は「論理学」「自然哲学」「精神哲学」の三部から成る一つの体系であり、なかでも「論理学」はヘーゲルの著作中で最もよく読まれており、ヘーゲルを理解する必読書である。
〈収録タイトル〉
エンチュクロペディー
※この電子書籍は、オンデマンド本「ワイド版世界の大思想」を底本としております。
どのメールリストにも登録されていません。
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長谷川訳373にあるホメオパシーは誤訳だろう
原文にはない
ジョンブラウンはホメオパシーとは別
内容は似ているが
八二
…
弁証法は肯定的な成果を持っている。それは、弁証法が一定の内容を持つからである。言い換えるとそれの内容は真に決して空虚な、抽象的な無ではなくて、一定の諸規定であるからであり、この一定の諸規定は、まさに成果が直接的な無などでなくて一つの成果であるゆえにこそその成果の中に含まれているのである。それゆえ、この理性的なもの〔成果〕は、一つの考えられたものでありまた抽象的なものでもあるが、しかし同時に一つの具体的なものでもある。
…
八二
…
弁証法は肯定的な成果を持っている。それは、弁証法が一定の内容を持つからである。言い換えるとそれの
内容は真に決して空虚な、抽象的な無ではなくて、一定の諸規定であるからであり、この一定の諸規定は、
まさに成果が直接的な無などでなくて一つの成果であるゆえにこそその成果の中に含まれているのである。
それゆえ、この理性的なもの〔成果〕は、一つの考えられたものでありまた抽象的なものでもあるが、しか
し同時に一つの具体的なものでもある。…
八二
思弁的なものあるいは肯定的‐理性的なものは、諸規定の対立措定の中にこの諸規定の統一を把握する、
つまりそれらの解消とそれらの移行との中に含まれている肯定的なものを把握する。
弁証法は肯定的な成果を持っている。それは、弁証法が一定の内容を持つからである。言い換えるとそれ
の内容は真に決して空虚な、抽象的な無ではなくて、一定の諸規定であるからであり、この一定の諸規定
は、まさに成果が直接的な無などでなくて一つの成果であるゆえにこそその成果の中に含まれているのであ
る。それゆえ、この理性的なもの〔成果〕は、一つの考えられたものでありまた抽象的なものでもあるが、
しかし同時に一つの具体的なものでもありまた抽象的なものでもあるが、しかし同時に一つの具体的なもの
でもある。なぜならそれは単純な、形式的な統一ではなくて区別された諸規定の統一だからである。だから
哲学は単なる抽象物とか形式的思想とかには全くかかわらないのであって、哲学はもっぱら具体的な思想だ
けにかかわるのである。思弁的論理学の中には単なる悟性‐論理学が含まれていて、前者から直ちに後者は作
られうる。そのためには、前者から弁証法的なものと理性的なものとを取り除くこと以外には何も必要でな
い。そうすればそれで普通の論理学なるものになる。つまり、有限性のままで何か無限なものとして通用し
ている思想諸規定をたくさん集めて来てこれを記録したものとなる。
八二
(γ)思弁的なものあるいは肯定的‐理性的なものは、諸規定の対立措定の中にこの諸規定の統一を把握する、
つまりそれらの解消とそれらの移行との中に含まれている肯定的なものを把握する。
(1)弁証法は肯定的な成果を持っている。それは、弁証法が一定の内容を持つからである。言い換えるとそれ
の内容は真に決して空虚な、抽象的な無ではなくて、一定の諸規定であるからであり、この一定の諸規定
は、まさに成果が直接的な無などでなくて一つの成果であるゆえにこそその成果の中に含まれているのであ
る。(2)それゆえ、この理性的なもの〔成果〕は、一つの考えられたものでありまた抽象的なものでもあるが、
しかし同時に一つの具体的なものでもありまた抽象的なものでもあるが、しかし同時に一つの具体的なもの
でもある。なぜならそれは単純な、形式的な統一ではなくて区別された諸規定の統一だからである。だから
哲学は単なる抽象物とか形式的思想とかには全くかかわらないのであって、哲学はもっぱら具体的な思想だ
けにかかわるのである。(3)思弁的論理学の中には単なる悟性‐論理学が含まれていて、前者から直ちに後者は作
られうる。そのためには、前者から弁証法的なものと理性的なものとを取り除くこと以外には何も必要でな
い。そうすればそれで普通の論理学なるものになる。つまり、有限性のままで何か無限なものとして通用し
ている思想諸規定をたくさん集めて来てこれを記録したものとなる。
八二
(γ)思弁的なものあるいは肯定的‐理性的なものは、諸規定の対立措定の中にこの諸規定の統一を把握する、
つまりそれらの解消とそれらの移行との中に含まれている肯定的なものを把握する。
(1)弁証法は肯定的な成果を持っている。それは、弁証法が一定の内容を持つからである。言い換えるとそれ
の内容は真に決して空虚な、抽象的な無ではなくて、一定の諸規定であるからであり、この一定の諸規定
は、まさに成果が直接的な無などでなくて一つの成果であるゆえにこそその成果の中に含まれているのであ
る。(2)それゆえ、この理性的なもの〔成果〕は、一つの考えられたものでありまた抽象的なものでもあるが、
しかし同時に一つの具体的なもの
でもある。なぜならそれは単純な、形式的な統一ではなくて区別された諸規定の統一だからである。だから
哲学は単なる抽象物とか形式的思想とかには全くかかわらないのであって、哲学はもっぱら具体的な思想だ
けにかかわるのである。(3)思弁的論理学の中には単なる悟性‐論理学が含まれていて、前者から直ちに後者は作
られうる。そのためには、前者から弁証法的なものと理性的なものとを取り除くこと以外には何も必要でな
い。そうすればそれで普通の論理学なるものになる。つまり、有限性のままで何か無限なものとして通用し
ている思想諸規定をたくさん集めて来てこれを記録したものとなる。
八二
(γ)思弁的なものあるいは肯定的‐理性的なものは、諸規定の対立措定の中にこの諸規定の統一を把握する、
つまりそれらの解消とそれらの移行との中に含まれている肯定的なものを把握する。
(1)弁証法は肯定的な成果を持っている。それは、弁証法が一定の内容を持つからである。言い換えるとそ
れの内容は真に決して空虚な、抽象的な無ではなくて、一定の諸規定であるからであり、この一定の諸規
定は、まさに成果が直接的な無などでなくて一つの成果であるゆえにこそその成果の中に含まれているので
ある。(2)それゆえ、この理性的なもの〔成果〕は、一つの考えられたものでありまた抽象的なものでもある
が、しかし同時に一つの具体的なものでもある。なぜならそれは単純な、形式的な統一ではなくて区別され
た諸規定の統一だからである。だから哲学は単なる抽象物とか形式的思想とかには全くかかわらないのであ
って、哲学はもっぱら具体的な思想だけにかかわるのである。(3)思弁的論理学の中には単なる悟性‐論理学
が含まれていて、前者から直ちに後者は作られうる。そのためには、前者から弁証法的なものと理性的なも
のとを取り除くこと以外には何も必要でない。そうすればそれで普通の論理学なるものになる。つまり、有
限性のままで何か無限なものとして通用している思想諸規定をたくさん集めて来てこれを記録したものとな
る。
自然哲学
3有機的な自然学
C動物的な有機体
b同化
三五九
…
絶対的な形式、すなわち、概念と生命力はむしろ、自己自身に即して自己を止揚する質的な差別性を、絶対
的な対立という弁証法を、もっぱらその魂として持つものである。このような真の無限な否定が認識せられ
ないかぎり、生命の絶対的な同一性を確保するには、まず区別を、反省の産物である単に外面的なものに化
し去る必要がある、と人が考えるのも無理からぬことである。スピノーザの場合に、属性と様相が外面的な
悟性の埓内で論ぜられも、これと同断である。こうして生命から、自己性の跳躍点、自己運動という原理、
自己自身のうちで行なわれる自己分裂なるもの一般が、奪われるに至る。…
/\
/_哲学
/\絶対的\
芸術_\/_宗教
/\<精神哲学> /世界史
/__\ /__\
/\主観的\ /\客観的\
/__\/__\ /__\/__\
/\ /\
/__\ 『エンチクロペディー』/動物\
/\概念論\ /有機体学\
/__\/__\ 地質学\/植物\
/\ <論理学>/\ /\ <自然哲学>/\
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/\有論/\ /\本質論\ /\力学/\ /\物理学\
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論理学区分、
/\
/_哲学
/\絶対的\
芸術_\/_宗教
/\<精神哲学> /世界史
/__\ /__\
/\主観的\ /\客観的\
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/__\ 『エンチクロペディー』/動物\
/\概念論\ /有機体学\
/__\/__\ 地質学\/植物\
/\ <論理学>/\ /\ <自然哲学>/\
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/\有論/\ /\本質論\ /\力学/\ /\物理学\
/__\/__\/__\/__\ /__\/__\ /__\/__\
論理学区分、
予備概念
世界史
548
…つまり民族精神はその中に歴史をもっている。この精神は制限を受けたものであるから、その独立性も従属的
なものである。すなわち民族精神は普遍的世界史に移行する。この世界史上の出来事は特定の民族精神の弁証法
を現わしており、世界審判を現わしている。
http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/philo/1288265500/559
http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/philo/1288265500/559-
理解のためにヘーゲルの言葉だけを書くスレ
1 :考える名無しさん:2010/10/28(木) 20:31:40 0
絶対者は精神である。・・・・これが絶対者の最高の定義である。
この定義を発見し、この定義の意味と内容とを概念によって理解すること・・・
あらゆる宗教、哲学はこの目標をめざしてひしめき合った。
世界史はただこの渇望からのみ理解されるべきである。
559 :考える名無しさん:2014/05/29(木) 20:04:27.31 0
https://itunes.apple.com/jp/book/waido-ban-shi-jieno-da-si/id866996376?mt=11iTunes でブックをチェック:
ワイド版世界の大思想 第3期〈3〉ヘーゲル
ヘーゲル & 樫山欽四郎
2005年5月1日
<理性的なものは現実的であり、現実的なものは理性的である。>本書は「論理
学」「自然哲学」「精神哲学」の三部から成る一つの体系であり、なかでも「論理
学」はヘーゲルの著作中で最もよく読まれており、ヘーゲルを理解する必読書である。
〈収録タイトル〉
エンチュクロペディー
560 :559:2014/06/04(水) 12:33:51.70 0
八二
(γ)思弁的なものあるいは肯定的‐理性的なものは、諸規定の対立措定の中にこの諸規定の統一を把握する、
つまりそれらの解消とそれらの移行との中に含まれている肯定的なものを把握する。
(1)弁証法は肯定的な成果を持っている。それは、弁証法が一定の内容を持つからである。言い換えるとそ
れの内容は真に決して空虚な、抽象的な無ではなくて、一定の諸規定であるからであり、この一定の諸規
定は、まさに成果が直接的な無などでなくて一つの成果であるゆえにこそその成果の中に含まれているので
ある。(2)それゆえ、この理性的なもの〔成果〕は、一つの考えられたものでありまた抽象的なものでもある
が、しかし同時に一つの具体的なものでもある。なぜならそれは単純な、形式的な統一ではなくて区別され
た諸規定の統一だからである。だから哲学は単なる抽象物とか形式的思想とかには全くかかわらないのであ
って、哲学はもっぱら具体的な思想だけにかかわるのである。(3)思弁的論理学の中には単なる悟性‐論理学
が含まれていて、前者から直ちに後者は作られうる。そのためには、前者から弁証法的なものと理性的なも
のとを取り除くこと以外には何も必要でない。そうすればそれで普通の論理学なるものになる。つまり、有
限性のままで何か無限なものとして通用している思想諸規定をたくさん集めて来てこれを記録したものとな
る。
561 :559:2014/06/04(水) 12:46:10.09 0
自然哲学
3有機的な自然学
C動物的な有機体
b同化
三五九
…
絶対的な形式、すなわち、概念と生命力はむしろ、自己自身に即して自己を止揚する質的な差別性を、絶対
的な対立という弁証法を、もっぱらその魂として持つものである。このような真の無限な否定が認識せられ
ないかぎり、生命の絶対的な同一性を確保するには、まず区別を、反省の産物である単に外面的なものに化
し去る必要がある、と人が考えるのも無理からぬことである。スピノーザの場合に、属性と様相が外面的な
悟性の埓内で論ぜられも、これと同断である。こうして生命から、自己性の跳躍点、自己運動という原理、
自己自身のうちで行なわれる自己分裂なるもの一般が、奪われるに至る。…
562 :559:2014/06/04(水) 13:03:41.02 0
世界史
五四八
…つまり民族精神はその中に歴史をもっている。この精神は制限を受けたものであるから、その独立性も従属的
なものである。すなわち民族精神は普遍的世界史に移行する。この世界史上の出来事は特定の民族精神の弁証法
を現わしており、世界審判を現わしている。
563 :559:2014/06/04(水) 13:05:15.35 0
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/_哲学
/\絶対的\
芸術_\/_宗教
/\<精神哲学> /世界史>>562
/__\ /__\
/\主観的\ /\客観的\
/__\/__\ /__\/__\
/\ /\
/__\ 『エンチクロペディー』/動物>>561
/\概念論\ /有機体学\
/__\/__\ 地質学\/植物\
/\ <論理学>/\ /\ <自然哲学>/\
/__\ /__\ /__\ /__\
/\有論/\ /\本質論\ /\力学/\ /\物理学\
/__\/__\/__\/__\ /__\/__\ /__\/__\
論理学区分>>560、
予備概念
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アレクサンドル・コジェーヴの著作より引用
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ところで、日本人の武士の現存在は、彼らが自己の生命を危険に晒すことを(決闘においてすら)やめながら、
だからといって労働を始めたわけでもない、それでいてまったく動物的ではなかった。
「ポスト歴史の」日本の文明は「アメリカ的生活様式」とは正反対の道を進んだ。
おそらく、日本にはもはや語の「ヨーロッパ的」
或いは「歴史的」な意味での宗教も道徳も政治もないのであろう。
だが、生のままのスノビズムがそこでは「自然的」或いは「動物的」な所与を否定する規律を創り出していた。
これは、その効力において、日本や他の国々において「歴史的」行動から生まれたそれ、
すなわち戦争と革命の闘争や強制労働から生まれた規律を遙かに凌駕していた。
なるほど、能楽や茶道や華道などの日本特有のスノビスムの頂点(これに匹敵するものはどこにもない)は
上層富裕階級の専有物だったし今もなおそうである。
だが、執拗な社会的経済的な不平等にもかかわらず、
日本人はすべて例外なくすっかり形式化された価値に基づき、
すなわち「歴史的」という意味での「人間的」な内容をすべて失った価値に基づき、現に生きている。
このようなわけで、究極的にはどの日本人も原理的には、純粋なスノビスムにより、
まったく「無償の」自殺を行うことができる(古典的な武士の刀は飛行機や魚雷に取り替えることができる)。
この自殺は、社会的政治的な内容をもった
「歴史的」価値に基づいて遂行される闘争の中で冒される生命の危険とは何の関係もない。
最近日本と西洋世界との間に始まった相互交流は、結局、日本人を再び野蛮にするのではなく、
(ロシア人をも含めた)西洋人を「日本化する」ことに帰着するであろう。
====
労働の限界生産物[の価値]
(一人当たり,
ブッシェル(例) )
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生|
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物| \
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0 労働投入量(人数)
普遍性(類,一般性)-特殊性(種)-個別性(個)
universal(general) – particular– individual
allgemeine-besondere-einzelnheit
英 独
普遍 G A 類
特殊 P B 種
個別 I E 個
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/\ \ \ ☆混血の
/ /\ \ \ スタート
/ / \…☆……/\ \←7世紀頃?
/ / | \ \
中国 朝鮮 2集団の アイヌ 別の
の漢 民族 混血 人種
民族 日本列島 縄文人の
弥生人の子孫 本土人 子孫
アイヌ人を縄文人(採集狩猟民)の子孫、大陸のアジア人(中国の
漢族と朝鮮人)を渡来人(農耕民)の子孫と仮定するモデル:
/\
/ \
/\ \
/ \ \
/ \ \
/\ \ \ ☆混血の
/ /\ \ \ スタート
/ / \…☆……/\ \←7世紀頃?
/ / | \ \
中国 朝鮮 2集団の アイヌ 別の
の漢 民族 混血 人種
民族 日本列島 縄文人の
弥生人の子孫 本土人 子孫
/\
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/ \ / \
/______\/______\
http://www.nig.ac.jp/nig/ja/2015/08/research-highlights_ja/20150819-2.html
ゲノム規模SNPデータからみたアイヌ人の特徴と日本列島本土人の成立
集団遺伝研究部門・斎藤研究室
http://yojiseki.exblog.jp/7106814
ヘーゲル『精神現象学』各種翻訳の比較
編集 | 削除
ヘーゲル『精神現象学』(1807年)の「意識」の章の終わりあたりより、翻訳の比較です。
以下、同じ箇所を引用してみました。
/////////////
「知覚を越えて高まったとき、意識は現象という媒語を通じて超感覚的なものと推理的に連結したものとして現われてきて、現象という媒語を通じて[超感覚的なものという] この背景(後ろの根拠)を観じている。」
金子武蔵訳、岩波書店『精神の現象学』上p166
「知覚を超えて高まったとき、意識は、現象という媒語[中間]によって、超感覚的なものと推理的に結ばれて、現われる。この媒語を通じて意識はその背景を見るのである。」
樫山欽四郎訳、平凡社上p203
「知覚を超えた境地にある意識は、現実界を媒介とし、現実界の背後を透視するというかたちで超感覚的世界とつながっている。」
長谷川宏訳、作品社p117
「意識[自身はというと、それ]は知覚よりは高まっているから、現象という中項を介して超感覚的なもの[内なるもの]と連結するのであり、意識はその中項を介してこの[超感覚的なものという]背景を覗き見るのである。」
牧野紀之訳、未知谷p311
"Raised above perception, consciousness exhibits itself closed in term of appearance, through which it gazes into this background [lying behind appearance]."
"HEGEL'S Phenomenology of Spirit"translated by A.V.Miller,p103
"Erhoben über die Wahrnehmung stellt sich das Bewußtsein mit dem Übersinnlichen durch die Mitte der Erscheinung zusammengeschlossen dar, durch welche es in diesen Hintergrund schaut."
G.W.F. Hegel"Phänomenologie des Geistes"
http://www.marxists.org/deutsch/philosophie/hegel/phaenom/kap3.htm
追加:精神の章の冒頭。
「理性が精神であるのは、あらゆる実在性であるという確信が真理にまで高められ、そうして理性が自分自身を自分の世界として、また、世界を自分自身として意識しているときである。」
金子武蔵訳、岩波書店『精神の現象学』下p731
「全実在であるという確信が真理に高められ、理性が自己自身を自己の世界として、世界を自己自身として意識するようになったとき、理性は精神なのである。」樫山欽四郎訳、創文社『ヘーゲル精神現象学の研究』p388
「物の世界すべてに行きわたっているという理性の確信が真理へと高められ、理性がおのれ自身を世界として、また、世界をおのれ自身として意識するに至ったとき、理性は精神である。」
長谷川宏訳、作品社p296
「理性は[今や]精神となっている。[自分は]全ての実在であるという[自己意識の主観的]確信が[客観的]真理にまで高まり、その確信が自分の世界との一体性を自覚するに至ったからである。」
牧野紀之訳、未知谷p618
"REASON is spirit, when its certainty of being all reality has been raised to the level of truth, and reason is consciously aware of itself as its own world, and of the world as itself. "
"THE PHENOMENOLOGY OF MIND "Translated by J. B. Baillie(先出とは違うmindバージョン。)
http://www.class.uidaho.edu/mickelsen/texts/Hegel%20Phen/hegel%20phen%20ch%20VI.htm
http://www.class.uidaho.edu/mickelsen/ToC/Hegel%20Phen%20ToC.htm
"Die Vernunft ist Geist, indem die Gewißheit, alle Realität zu sein, zur Wahrheit erhoben, und sie sich ihrer selbst als ihrer Welt und der Welt als ihrer selbst bewußt ist."
G.W.F. Hegel"Phänomenologie des Geistes"
http://www.marxists.org/deutsch/philosophie/hegel/phaenom/kap6.htm
http://www.marxists.org/deutsch/philosophie/hegel/phaenom/index.htm
専門家には金子訳、一般には長谷川訳でいいのではないでしょうか?
ヘーゲルが大急ぎで書いたものなので、早く読める長谷川訳がいいと思います。
細かい訳の問題は、それぞれの訳者の書いた入門書にあたるのがいいと思います。
牧野訳における「序言」「序論」という目次設定は的確だと思いますが、、、
なお英訳にも精神をmindとする バージョンとspiritとするバージョンがあって、意見が分かれます。spiritの方が歴史的には正確でしょうが、mindの方が現在の意味としてはニュアンスが正確に伝わるようです。
追記:
概念を把握でき、読みやすく、本の造りもいい(高価だが金子訳ほどではない)という点で牧野訳が一番推薦できると最近は考えています。金子訳と長谷川訳の長所短所をふまえているという部分も評価できます。
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ヘーゲルの自己意識論:主人と奴隷(メモ)
「僕たることは、自己に押しもどされた意識とし
て、自己のうちに帰り、真の自立態に逆転するで
あろう。」ヘーゲル
精神現象学、自己意識の章に出てくるヘーゲルによる主人と奴隷の弁証法(意識から自己意識へ)は、私見では以下の構図を持つ。
主人(死を以て支配)
奴隷
↓
主人-奴隷(相互承認)
↓
奴隷(労働の優位)
主人
あるいは、
主人 物 奴隷
↓
主人
奴隷 物
↓
奴隷 物
主人
(主人は物を間接的に扱い、奴隷は直接的に扱う)
もしくは、
主人
奴隷
↓
主人-物a-奴隷-物b (*承認)
↓
奴隷 (*労働は直接、物を形成)
主人
正反合ならぬ正合反?
マルクスはこれを資本家と労働者に置き換えた。3ではなくカント的4段階を論理の型にしているが、レトリックは3段階である。
価値形態論だと左右反転にもう一段階使う。
また、両者とも労働が物との関係性で捉えられる。
http://dameinsei.hatenadiary.jp/entry/2013/02/03/171600
「物を形成するなかで自分が自主・自立の存在であることが自覚され、こうして、自主・自立の過不足のない姿が意識にあらわれる。物の形は外界に打ち出されるが、といって、意識と別ものなのではなく、形こそが意識の自主・自立性の真の姿なのだ。かくして、一見他律的にしか見えない労働のなかでこそ、意識は、自分の力で自分を再発見するという主体的な力を発揮するのだ。」(同上、137頁)
https://www.nagaitoshiya.com/ja/1999/master-slave-dialectic-sadism-masochism/
主人と奴隷の弁証法は、『精神現象学』の「自己意識」の章に出てくる。ヘーゲルによれば、「自己意識は即かつ対自的に存在するが、それは、自己意識が小文字の他者に対して即かつ対自的である、つまりもっぱら承認されたものとして存在するかぎりにおいて、かつそのことによってである」[Hegel; Phaenomenologie des Geistes,S.141]。
ヘーゲルの表現は難解だから、分かりやすく説明しよう。
第1段階:例えば、ある人が、前人未到と思われる土地を発見し、「ここはオレの土地だ!」と宣言したとする。そう宣言することは誰にでもできるし、納得しているのは宣言している本人だけである。この真理の主観的段階は、即自的といえる。
第2段階:ところが後から「そこは、実は私が最初に見つけた土地だ」と言い出す男が現れたとする。するとさっきの即自的で主観的な真理は他者によって否定されることになる。これが弁証法の対自的段階である。
第3段階:当然その土地が誰のものかをめぐって、二人の間で争いが起きる。二人は、たんに主観的な真理ではなく、相互主観的(社会的)に承認された客観的真理を求めるようになる。相互承認された真理は、ヘーゲルの弁証法では、即かつ対自的であると言われる。
私と他者という二つの自己意識は、自立的であろうとして、存在を賭けた戦いを行う。それゆえ二つの自己意識の関係は、両者が生死を賭けた戦いを通して、自分自身とお互いの真を確かめるべく規定されている。両者は戦わなければならない。なぜなら両者は、それ自体で存在しているという自分の確信を他者において、そして自己自身において真理へと高めなければならないからである。
自己意識が自立的であり、自分の権利を全うしようとするならば、他者から承認されなければならないが、それが不可能なら相手を殺すしか他はない。だがこのように死によって真を確かめることは、そこから出てくるはずの相互承認された真理を、そしてそれゆえにまた自己自身の確信一般をも破棄してしまう。
意識は、自分の自立的存在を他者に認めさせようとして、他者と戦った。もし他者を死に至らしめてしまえば、自分を勝利者として認めてくれる他者をも失うことになってしまう。自己意識は自立的であろうとするならば、自立的であってはならないのであって、相手が「言うことは何でも聞くから殺さないでくれ」と哀願してきたときには、敵の命を救って、彼を奴隷にしなければならない。こうして自己意識は奴隷から主人として承認される存在となる。
奴隷は、主人の命令で労働し、主人は遊んで暮らす。奴隷の労働の果実は主人に取り上げられ、奴隷はそのおこぼれしか享受することができない。主人は自立的で、奴隷は非自立的である。しかし主人はやがて労働することを忘れるようになる。主人は奴隷がいなければ生きていけなくなる。ここにおいて主人と奴隷の関係が逆転し、主人が非自立的、奴隷が自立的存在となる。
「それゆえ、自立的意識の真理は奴隷の意識である。この自立的意識は、最初は確かに自己の外に現れ、自己意識の真理としては現れない。しかし、支配の本質が、支配がそうなろうと欲したところのものの逆であることを支配が示したように、おそらく隷従の方も、それが徹底して行われるならば、隷従が直接そうであるところのものの逆になるであろう。隷従は、自己内へと押し返された意識として自己へと立ち帰り、真の自立性へと逆転していくであろう」[Hegel; Phaenomenologie des Geistes,SS.147-148]。
以上はヘーゲルの説明である。今回は、かつてサルトルがやろうとしたこと、サドとマゾの間に、ヘーゲルの主人と奴隷の弁証法の関係を見出すことをしてみよう。そして前回分析した金属バット殺害事件にSM関係がなかったかどうかも考えてみよう。
ヘーゲルの自己意識論:主人と奴隷http://philosophy.hix05.com/Hegel/hegel09.jiko.html
主人と奴隷の関係は、一見して一方的な関係に見える。しかしよく見るとそうではない。両者は互いに相手を前提として成り立つ。奴隷が存在しなければ主人はありえないように、両者は一体となって初めて意味を持つようになるのだ。
そこでヘーゲルは、主人―奴隷関係の中に潜んでいる弁証法的な契機を明らかにしていく。
まず、主人は死の威力をもって奴隷を支配する。奴隷は死の脅威に怯えて主人に服従する。つぎに主人は奴隷の労働を通して物を獲得する。奴隷は奴隷で、労働を通して直接物にかかわり合う。しかし、この過程から次のような事態が生じる。
主人は奴隷を支配することを通じて、自分の自立性を獲得できているように見えるが、このことは、いいかえれば、主人の自立性は奴隷との相対的な関係に依存していることを示している。主人は奴隷がいなくなれば主人であることをやめる、ということは、人間としての自立性を失うことを意味する。もはや主人でなくなったものは、物とのかかわりも失うからである。
ところが奴隷の方は、たとえ主人がいなくなったとしても、少なくとも人間としての自立性を失うことにはならない。何故なら、奴隷は労働を通じて直接物にかかわっているのであるし、そのことを通じて人間としての本質に即した生き方をなしえているからだ。人間というものは、労働の経験によって、自分(自己意識)の本質を実現する可能性をつかむのである。
労働について、ヘーゲルは次のように言う。
「労働とは欲望を抑制し、物の消滅にまで突き進まず、物の形成へと向かうものである・・・物を否定しつつ形をととのえる行為というこの中間項は、同時に、意識の個性と純粋な自主・自立性の発現の場でもあって、意識は労働する中で自分の外にある持続の場へと出ていくのだ。こうして労働する意識は、物の独立を自分自身の独立ととらえることになる・・・一見他律的にしか見えない労働の中でこそ、意識は、自分の力で自分を再発見するという主体的な力を発揮するのだ」
人間の本質実現は労働を通じてもたらされる、とするこの思想は、マルクスに多大な影響を与えた。マルクスもまた、労働こそが人間の本質を実現する過程だと考えたのである。そして資本主義社会においては、支配者たる資本家は他人の労働に依存している限り、ヘーゲルのいう「主人」と同じ立場にある。一方ヘーゲルのいう「奴隷」である労働者階級は、労働を通じて人間の本質実現をできる立場にある。それ故、資本主義社会が消滅して共産主義社会がやってくれば、労働するものは、労働を通じて、自己の人間性を全面的に開花させうる立場になる。そうした社会では、人間性は何物にも妨げられることなく、自由でのびのびと花開くことになるだろう。そうマルクスは考えたわけだが、その思想の芽が、ヘーゲルの主人―奴隷関係の議論の中にあったわけである。
哲学史講義 1
G・W・F・ヘーゲル 著
長谷川 宏 訳
河出文庫 文庫 ● 480ページ
ISBN:978-4-309-46601-9 ● Cコード:0110
発売日:2016.09.06(予定)
最大の哲学者、ヘーゲルによる哲学史の決定的名著がついに文庫化。大河のように律動、変遷する哲学のドラマ、全4巻改訳決定版。
『Ⅰ』では哲学史、東洋、古代ギリシアの哲学を収録。
ソクラテスの具体的な仕事は哲学を教えること 、いや 、 (自分の考えを教えるというより )あらゆる階層 、あらゆる年齢 、あらゆる職業の人とつきあうことですが 、この哲学的な交際生活は 、アテネ人の一般的な生活がそうだったように 、外にむかって開かれていた 。つまり 、かれは 、一日の大部分を文字どおり市場でぶらぶらしたり市の体育場をうろつきまわって 、ときには体操もするが 、大抵はおしゃべりをしてすごしました 。 … …ソクラテスのおこなったことは 、 … …一般的に道徳論と名づけられますが 、しかしそれは 、説教 、訓戒 、講義 、陰気な道徳論のたぐいではなかった 。そんなものは 、アテネ人の趣味に合わぬ 、およそアッティカ風の洗練さとは無縁のしろものです 。そこには対等で自由な関係がない 。ソクラテスはアッティカ風の洗練さをいささかもそこなうことなく 、すべての人とことばを交わし 、出しゃばって他人をさとしたり自説を押しつけたりすることなく 、各人の自由を全面的に肯定 ・尊重し 、反面 、一切の下品さをしりぞけました 。かくて 、クセノフォンの対話篇 、いや 、とりわけプラトンの対話篇は 、優美な社交的教養の最高傑作となっています 。 ( 5 )
( 5 )ヘ ーゲル 『哲学史講義 』 (河出書房新社 )上巻 、三八二ペ ージ 。
天界から地上へと降りてくるドイツ哲学とは逆に 、現実の動きは 、地上から天界へと上昇していく 。人びとが話し 、想像し 、イメ ージする事柄や 、話され 、考えられ 、想像され 、イメ ージされた人間から出発して 、そこから生身の人間にたどりつく 、というのではなく 、現実に活動する人びとから出発して 、かれらの現実の生活過程をもとに 、その生活過程のイデオロギ ー的反映や反響の発展ぶりが示されねばならない 。 … …道徳 、宗教 、形而上学その他のイデオロギ ーと 、それに即応する意識形態は 、もはや自立した理念の世界を形成しない 。理念の世界には歴史もなければ発展もなく 、歴史や発展は 、物質的な生産や物質的な流通を拡大していく人間が 、現実の変化にともなって 、思考や思想を変えていくというかたちでしか生じえない 。意識が生活を決定するのではなく 、生活が意識を決定するのだ 。 ( 3 )
( 3 ) K . M a r x ・ F . E n g e l s , W e r k e 3 , D i e t z V e r l a g 1 9 5 9 , S . 2 7 .
わたしの哲学史をみなさんが熱心に聴講してくださったことに感謝しなければなりません 。おかげで満足のいく講義をすることができました 。こういうかたちでみなさんと精神生活を共有できたことを 、 ─ ─いや、共有できたというのは当たらない、いいかえましょう、相ともに精神の絆を結ぶことができたことを、うれしく思います。いまは、精神の絆がいつまでも保たれることを祈るばかりです。みなさん、ごきげんよう。
ヘ ーゲル 『哲学史講義 』 (河出書房新社 )下巻結びの言葉 、五一一ペ ージ 。長谷川訳
G.W.F.ヘーゲル [著] ; 長谷川宏訳
http://ci.nii.ac.jp/ncid/BN07114874
河出書房新社, 1992.1-1993.8
上巻
中巻
下巻
タイトル別名
Vorlesungen über die Geschichte der Philosophie
哲学史講義
タイトル読み
内容説明・目次
巻冊次
上巻 ISBN 9784309230221
内容説明
中国・インドの東洋思想との峻別の後に西洋思想の基盤としてギリシア思想を定置し、共同体の論理より自己の判断に殉じた「ソクラテスの犯罪」に始まる理性の英雄たちのたゆみなき精神の律動を辿る。理性の復権を促す歴史的名著の完訳決定版。
目次
哲学史とはなにか
哲学と哲学以外の領域との関係
哲学史の時代区分、資料、論じかた
中国の哲学
インドの哲学
第1章 タレスからアナクサゴラスまで(イオニアの哲学;ピタゴラスとピタゴラス派;エレア学派;ヘラクレイトスの哲学;エンペドクレス、レウキッポス、デモクリトス;アナクサゴラス)
第2章 ソフィストからソクラテス派まで(ソフィストの哲学;ソクラテスの哲学;ソクラテス派)
巻冊次
中巻 ISBN 9784309230283
内容説明
意識こそ世界の本質とするソクラテスの原理を学問にまで高め、思想を宇宙の本質と捉えるプラトン。存在の本質を追究するべく純粋哲学=形而上学を確立したアリストテレス。ソクラテスに始まる西欧哲学は先の揺籃期を過ぎ、ストア派、エピクロス派、そして懐疑主義による検証を経て、さらにはキリスト教との出会いに伴い、思考する自己意識と無縁な実在は存在しないという共通原理の獲得に至る、歴史的名著・中巻。
目次
第1部 ギリシャの哲学(タレスからアリストテレスまで;独断主義と懐疑主義;新プラトン派)
巻冊次
下巻 ISBN 9784309230313
内容説明
ヨーロッパ中世の核を成したスコラ哲学から、ルネサンスの思想家たちの大胆不敵な言動の活写を経て、ベーコン、ベーメら近代の哲学を語り、カント哲学に対する執拗な批判まで、西欧哲学の流れ、精神の軌跡を辿る感動的名著、ついに完結。
目次
第2部 中世の哲学(アラビアの哲学;スコラ哲学;学問の復興)
第3部 近代の哲学(ベーコンとベーメ;思考する知性の時代;最新のドイツ哲学)
アナクサゴラスまでが上巻
中巻は以下
内容(「BOOK」データベースより)
意識こそ世界の本質とするソクラテスの原理を学問にまで高め、思想を宇宙の本質と捉えるプラトン。存在の本質を追究するべく純粋哲学=形而上学を確立したアリストテレス。ソクラテスに始まる西欧哲学は先の揺籃期を過ぎ、ストア派、エピクロス派、そして懐疑主義による検証を経て、さらにはキリスト教との出会いに伴い、思考する自己意識と無縁な実在は存在しないという共通原理の獲得に至る、歴史的名著・中巻。
内容(「MARC」データベースより)
プラトンの哲学、アリストテレスの哲学、ソクラテスに始まる西欧哲学、ストア派、エピクロス派、懐疑主義による検証を経て、キリスト教との出会いに伴い、思考する自己意識と無縁な実在は存在しないという共通原理の獲得に至る、歴史的名著の中巻。
下巻は以下
ヨーロッパ中世の核を成したスコラ哲学から、ルネサンス思想家たちの大胆不敵な言動の活写を経て、ベーコン、ベーメら近代の哲学を語り、カント哲学に対する執拗な批判まで、西欧哲学の流れ、精神の軌跡を辿る感動の名著の全訳。
長谷川は時代別に三分割
岩波は原書どおり量で分ける
上巻はアナクサゴラス
までという中途半端さ
上巻の標題紙の記述: 改訳哲学史
中巻の1の訳者: 眞下信一
中巻の2の訳者: 宮本十蔵, 太田直道
下巻の訳者: 藤田健治
原著第2版(全3巻)の翻訳
諸版対照表が付された刷次: 上巻:第3刷(1996.9). 中巻の1:第5刷(1996.10). 中巻の2:第1刷(2001.12). 下巻の1:第5刷(1996.11). 下巻の2:第5刷(1996.12). 下巻の3:第6刷(1997.1)
諸版対照表: 各巻末
人名索引: 上中巻末
内容説明・目次
内容説明
本書はヘーゲルの『哲学史講義』全三巻のうち第二巻アリストテレス以下スケプシス主義までの翻訳である。翻訳に当たってはズールカンプ版を底本とした。
目次
アリストテレス(形而上学;自然哲学;精神の哲学;論理学)
ストア派の哲学(自然学;論理学;道徳論)
エピクロスの哲学(規準論;形而上学;自然学;道徳論)
新アカデメイア派の哲学(アルケシラオス;カルネアデス)
スケプシス派の哲学(古い転釈法;後期の転釈法)
「BOOKデータベース」 より
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1
ヘーゲル全集
ヘーゲル全集. 第12
目次・巻号
書誌情報
目次・巻号
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2970868
↓ ヘーゲル全集 [171]
・ 目次
・ 第一部 ギリシャ哲學史(續)
・ 第二章 第一期の第二項/p3
・ A ソフィスト派/p5
・ 1 プロタゴラス/p32
・ 2 ゴルギアス/p41
・ B ソクラテス/p50
・ C ソクラテス派/p129
・ 1 メガラ派/p136
・ a エウクレイデス/p136
・ b エウブリデス/p139
・ c スティルポン/p150
・ 2 キュレネー派/p156
・ a アリスティッポス/p157
・ b テオドロス/p164
・ c ヘゲシアス/p166
・ d アニケリス/p168
・ 3 キュニコス派/p169
・ a アンティステネス/p171
・ b ディオゲネス/p175
・ c 後のキュニコス派/p179
・ 第三章 第一期の第三項/p181
・ A プラトン/p181
・ 1 辯證法/p239
・ 2 自然哲學/p267
・ 3 精神の哲學/p290
・ 人名索引
世界の大思想」第1期第12巻(1972年9月30日初版
ワイド版 世界の大思想07 ヘーゲル 精神現象学 発行日 二〇一三年十二月三〇日 訳 者 樫山欽四郎
「つぼみは、花が咲くと消えてしまう。そこで、つばみは花によって否定されると言ってもよい。
同じように、果実によって花は植物の偽なる定在と宣告され、植物の真として果実が花の
代りとなる。これらの形式は互いに異なっているだけでなく、互いに相容れないものとして
斥け合う。しかし、これらの形式は、流動的な性質をもっているため、同時に有機的統一の
契機となり、この統一にあっては形式は互いに対抗しないばかりか、一方は他方と同じように
必然的である。この等しい必然があって初めて、全体という生命が成り立つのである。けれど
も或る哲学体系に自分の体系が矛盾する場合、一方では言った仕方で矛盾を理解しない
のが普通である。」
世界の大思想版
ーーーーー
精神現象学 (上) (平凡社ライブラリー (200))新書 – 1997/6
G.W.F.ヘーゲル (著), 樫山 欽四郎 (翻訳)
5つ星のうち 4.4
9件のカスタマーレビュー
商品の説明
内容(「MARC」データベースより)
感覚という意識の最も低次の段階から、経験を通じて、精神が〈絶対知〉に達する過程を描く「意識の経験の学」。人間の知の範囲の限界の拡張を試みるヘーゲル第一の主著。66年刊の元訳を補訂。
「本質的には哲学は、特殊を包む普遍という場〔境位〕のなかに在るものである。そのため、哲学の場合には他の諸々の学問の場合よりも一層、事柄そのものは、目的もしくは最終の結果のなかに、しかも完全な本質となって表現されている」
しかしだからといって、「実現の過程は本質的でない」ことはない。
たとえば、「特殊を手に入れるように努力しなければならないと、確信されている」解剖学は「目的やそれに類する普遍性」について語ろうとしても「事実を列記して行くだけの、無思想な方法」である。
序説 上16ー17
「諸々の哲学体系のちがい」は「真理が前進するときの展開」である
序論 上17ー18
登録情報
* 新書: 491ページ
* 出版社: 平凡社 (1997/06)
* 言語: 日本語
* ISBN-10: 458276200X
* ISBN-13: 978-4582762006
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