<バザンが例として引いている名高いシーン、、、若い女中が、、、一連の機械的な、うんざりする動作を続ける。、、水をまいて蟻を追いはらい、、彼女は妊娠した自分の腹に目をむける。あたかも世界のあらゆる悲惨がそこから生まれるかのように。一連の動作が続くうちに、突然出現するのは一つの純粋な光学的状況であって、若い女中はこれに答えることも反応することもできない。、、、、これは見る人の映画であって、もはや行動の映画ではない。>
(シネマ2邦訳p.2-3)
2頁ウンベルトD
Umberto D Vittorio De Sica PARTE 1
58頁
<タルコフスキーは、長大な射程をもつテクストを書いていて、重要なのは、ショットの中を時間が流れるそのあり方であり、…「ショットにおける時間の圧力」であると述べている。…タルコフスキーが拒否しているのは、映画が、まさに相対的な様々な単位によって働く言語活動のようになることなのである。>
タルコフスキー
Tarkovsky on Art Part One
http://www.youtube.com/watch?v=V27XlEDLdtE
参考:「記号とは効果なのである」(ドゥルーズ『批評と臨床』280頁)
第3章 回想から夢へ―第三のベルクソン注釈
63頁
<客観的なものと主観的なもの…。それら二つの項が…識別不可能な点へ落ち込んで一体になろうとする…。『ヨーロッパ1951年』のヒロインは、工場のいくつかの特徴を見て、囚人たちを見たと思い込む。>
ヨーロッパ1951年
Ingrid Bergman - Europa '51 [R. Rossellini, 1952]
http://www.youtube.com/watch?v=_hy2RXXnC68
84バンドワゴン
The Band Wagon - Fred Astaire and Cyd Charisse
http://www.youtube.com/watch?v=yuJxYmJlEHY
第4章 時間の結晶
94勝手に逃げろ/人生
Sauve qui peut (la vie) de Godard - Bande annonce
114頁
<ドヴジェンコの『ズヴェ二ゴーラ』、ヒッチコックの『めまい』、レネの『ジュテーム・ジュテーム』。レネのこの映画の中の不透明な球体は、最も美しい結晶イメージの一つ…。潜在的なもの…二重化する純粋な潜在性、時間を定義するものとしての「自己による自己の触発」なのだ。>
Je t'aime, je t'aime, Alain Resnais, 1968 [excerpts]
http://www.youtube.com/watch?v=5VnilJjdQTc
第5章 現在の諸先端と過去の諸層―第四のベルクソン注釈
137、146市民ケーン
<非時系列的な時間の逆説的な性格、つまり過去一般の先在、過去のあらゆる層の共存、最も収縮した度合いの存在…。こういったものが、時間についての映画の最初の傑作であるウェルズの『市民ケーン』において見いだされる着想である。>
137頁
1. Citizen Kane (1941)
http://www.youtube.com/watch?v=IGUYOQUzrKU
158審判
170頁
<『ジュテーム・ジュテーム』の機械は過去の諸層を攪拌し、断片化する。>
171ミュリエル、去年マリエンバートで、プロビデンス
第6章 偽なるものの力能(175-217頁)
178黒澤明白痴(第7章 246頁にもドストエフスキーと比較した記述あり)
The Idiot 1951
381
<現代的イメージ…イメージがもはや合理的切断によって連結されるのではなく、非合理的切断において再連結される。われわれはその例としてゴダールの系列を提示し…とりわけレネにおいてそれを見た(『ジュテーム・ジュテーム』において、すべてがそのまわりをめぐり、行きかう契機とは、典型的な非合理的切断である)。>381頁
『ジュテーム・ジュテーム』(第4章114頁、第5章170頁でも言及されていた)
Alain Resnais - Je t'aime, je t'aime - Dialogue about cats
http://www.youtube.com/watch?v=-TgCvi7KK3w
Alain Resnais - I love you, I love you (Je t'aime, je t'aime) - 1968, English subs
《出来事の地平つまり出来事の「蔵(ぞう)réserve」を引き合いに出している日本の僧、道元のテクストをも参照されたい。》(邦訳文庫版『哲学とは何か』(#2:67^)370(394)頁) We refer also to the Zen text of the Japanese monk Dôgen, which invokes the horizon or “reserve(蔵)” of events: Shôbogenzo, trans. and with commentary by René de Ceccaty and Ryôji Nakamura (Paris: La Différence, 1980). ルネ・ド・セカティ,中村亮二
http://www.sudoc.fr/023101695 Titre : Shôbôgenzô : la réserve visuelle des événements dans leur justesse / Dôgen ; textes choisis, traduits et annotés par Ryôji Nakamura et René de CeccattyAlphabet du titre : latinAuteur(s) : Dōgen (1200-1253). Auteur Nakamura, Ryôji. Traduction. Notes Ceccatty, René de (1952-....). Traduction. Notes Date(s) : impr. 1980Langue(s) : françaisPays : FranceEditeur(s) : [Paris] : Ed. de la Diffèrence, impr. 1980Description : 1 vol. (159 p.) : 1 carte, couv. ill. ; 24 cm
57 Comments:
詐欺師(八潮版・アメリカの文学)
メルヴィル全集〈第11巻〉信用詐欺師
ツァラツゥストゥラ
バルタザールの風変わりな毎日 (創元推理文庫) モーリス・ルブラン
バルタザールのとっぴな生活 (アルセーヌ・ルパン全集 (別巻 2)) モーリス・ルブラン
ラピラート
上記を挙げ、シネマ2でもセリーの思考を擁護しつつもドゥルーズにプルードンへの言及はない
第6章 偽なるものの力能(175-217頁)
178黒澤明白痴
http://www.peteava.ro/id-625654-akira-kurosawa-1951-hakuchi-the-idiot-part-1
http://www.peteava.ro/id-625654-akira-kurosawa-1951-hakuchi-the-idiot-part-2
http://www.peteava.ro/id-625656-akira-kurosawa-1951-hakuchi-the-idiot-part-3
http://www.peteava.ro/id-625654-akira-kurosawa-1951-hakuchi-the-idiot-part-4
183
ロブグリエ 嘘をつく男
187
ヨーロッパ横断特急
188
Subterfuge Faux fuyants (1983) 逃げ口上
189
ラ・ピラート
ラ・ピラート 投稿者 Bouscarle
190
シュレンドルフ 偽造者
215
アメリカの影、フェイシズ
他のレビュアーの方が、「本は使うモノ」と言っているのは、記号と事件―1972‐1990年の対話 (河出文庫)のp.21に書いてあることでしょう。
「一冊の本を読むには二通りの読み方がある。一つは本を箱のようなものと考え、箱だから内部があると思い込む立場、これだとどうしても本のシニフィエを追い求めることになる。・・・こうして注釈が行われ、解釈が加えられ、説明を求めて本についての本を書き、そんなことが際限なくつづけられるわけだ。
もう一つの読み方では、本を小型の非意味機械と考える。そこで問題になるのは『これは機械だろうか。機械ならどんな風に機能するのだろうか』と問うことだけだろう。読み手にとってどう機能するのか。もし機能しないならば、何も伝わってこないならば、別の本にとりかかればいい。・・・説明すべきことは何もないし、理解することも、解釈することもありはしない。電源に接続するような読み方だと考えていい。」
他のレビュアーの方が、「本は使うモノ」と言っているのは、記号と事件―1972‐1990年の対話 (河出文庫)のp.21に書いてあることでしょう。
「一冊の本を読むには二通りの読み方がある。一つは本を箱のようなものと考え、箱だから内部があると思い込む立場、これだとどうしても本のシニフィエを追い求めることになる。・・・こうして注釈が行われ、解釈が加えられ、説明を求めて本についての本を書き、そんなことが際限なくつづけられるわけだ。
もう一つの読み方では、本を小型の非意味機械と考える。そこで問題になるのは『これは機械だろうか。機械ならどんな風に機能するのだろうか』と問うことだけだろう。読み手にとってどう機能するのか。もし機能しないならば、何も伝わってこないならば、別の本にとりかかればいい。・・・説明すべきことは何もないし、理解することも、解釈することもありはしない。電源に接続するような読み方だと考えていい。」
文庫版P156
「この状況を定式化するることを覚悟の上で言えば、これはラッセルのいう
別の種類のナンセンスにかかわるのである。すなわち、二者択一あるいは
排他的離説はひとつの原理との関係で決定されるが、にもかかわらず
この原理そのものが二者択一の両項または二つの下部集合を構成していて、
この原理自身が二者択一のなかにはいっている。」
これの論理構造を説明してください。
難しいです。
320 :考える名無しさん :sage :2011/12/23(金) 13:44:41.05 0
>>317,319
要はお前が勉強不足なだけ。
よくそれで「陳腐」とか言えるな。
321 :考える名無しさん :sage :2011/12/23(金) 15:17:22.25 P
「クレタ島の人は嘘つきだとクレタ島の人が言った」という命題は、真実か否か?
これを、クレタ島人は嘘つきだ、と見なせば、間違いです。なぜなら、この命題を主張したの
がクレタ島人であるために、主張を真に受けることは、嘘を受け入れることになる、と。
ならば、クレタ島人は嘘を言わないのか、といえば、これも間違いです。クレタ島人は嘘つ
きである、とクレタ島人が言っているからです。嘘を言わないはずのクレタ島人が、クレタ島
人は嘘をつくと主張しています。
「クレタ島人の嘘つき」パラドックス問題を解決したのは、バートランド・ラッセルです。
「私は、ついにこの難攻不落と考えられてきた矛盾命題
を解いた」と。それが、クラス理論です。
文章を分割する手法です。
いかにもラッセル哲学の特徴をよく表しています。文章は記号の固まりである、とする見方です。
他のレビュアーの方が、「本は使うモノ」と言っているのは、記号と事件―1972‐1990年の対話 (河出文庫)のp.21に書いてあることでしょう。
「一冊の本を読むには二通りの読み方がある。一つは本を箱のようなものと考え、箱だから内部があると思い込む立場、これだとどうしても本のシニフィエを追い求めることになる。・・・こうして注釈が行われ、解釈が加えられ、説明を求めて本についての本を書き、そんなことが際限なくつづけられるわけだ。
もう一つの読み方では、本を小型の非意味機械と考える。そこで問題になるのは『これは機械だろうか。機械ならどんな風に機能するのだろうか』と問うことだけだろう。読み手にとってどう機能するのか。もし機能しないならば、何も伝わってこないならば、別の本にとりかかればいい。・・・説明すべきことは何もないし、理解することも、解釈することもありはしない。電源に接続するような読み方だと考えていい。」
他のレビュアーの方が、「本は使うモノ」と言っているのは、記号と事件―1972‐1990年の対話 (河出文庫)のp.21に書いてあることでしょう。
「一冊の本を読むには二通りの読み方がある。一つは本を箱のようなものと考え、箱だから内部があると思い込む立場、これだとどうしても本のシニフィエを追い求めることになる。・・・こうして注釈が行われ、解釈が加えられ、説明を求めて本についての本を書き、そんなことが際限なくつづけられるわけだ。
もう一つの読み方では、本を小型の非意味機械と考える。そこで問題になるのは『これは機械だろうか。機械ならどんな風に機能するのだろうか』と問うことだけだろう。読み手にとってどう機能するのか。もし機能しないならば、何も伝わってこないならば、別の本にとりかかればいい。・・・説明すべきことは何もないし、理解することも、解釈することもありはしない。電源に接続するような読み方だと考えていい。」
文庫版P156
「この状況を定式化することを覚悟の上で言えば、これはラッセルのいう
別の種類のナンセンスにかかわるのである。すなわち、二者択一あるいは
排他的離説はひとつの原理との関係で決定されるが、にもかかわらず
この原理そのものが二者択一の両項または二つの下部集合を構成していて、
この原理自身が二者択一のなかにはいっている。」
「クレタ島の人は嘘つきだとクレタ島の人が言った」という命題は、真実か否か?
これを、クレタ島人は嘘つきだ、と見なせば、間違いです。なぜなら、この命題を主張したの
がクレタ島人であるために、主張を真に受けることは、嘘を受け入れることになる、と。
ならば、クレタ島人は嘘を言わないのか、といえば、これも間違いです。クレタ島人は嘘つ
きである、とクレタ島人が言っているからです。嘘を言わないはずのクレタ島人が、クレタ島
人は嘘をつくと主張しています。
「クレタ島人の嘘つき」パラドックス問題を解決したのは、バートランド・ラッセルです。
「私は、ついにこの難攻不落と考えられてきた矛盾命題
を解いた」と。それが、クラス理論です。
文章を分割する手法です。
いかにもラッセル哲学の特徴をよく表しています。文章は記号の固まりである、とする見方です。
ライプニッツの真なるものの力能は複数世界だったが、ニーチェ的力能は同一世界での多元性である。
ボルヘス原作の『はみだした男(他者たち)』が例示される。
視覚はもはや、行動にすっかりとってかわり行動の代理となる。
小津における固定ショットの再発見は
ブラウン運動であり、様々な規模における運動の多様性となる(第6章)。
並行関係はデュラスにおいては音声的イメージと視覚的イメージの間に見られる(第9章)。
それは哲学と映画でも同じだ(第10章 結論)。
視覚はもはや、行動にすっかりとってかわり行動の代理となる。
小津における固定ショットの再発見は
ブラウン運動であり、様々な規模における運動の多様性となる(第6章 179頁)。
ライプニッツの真なるものの力能は複数世界だったが、ニーチェ的力能は同一世界での多元性である。
ボルヘス原作の『はみだした男(他者たち)』が例示される(第6章 187頁)。
並行関係はデュラスにおいては音声的イメージと視覚的イメージの間に見られる(第9章)。
それは哲学と映画でも同じだ(第10章 結論)。
映画=時間
視覚はもはや、行動にすっかりとってかわり行動の代理となる。
小津における固定ショットの再発見は
ブラウン運動であり、様々な規模における運動の多様性となる(第6章 179頁)。
ライプニッツの真なるものの力能は複数世界だったが、ニーチェ的力能は同一世界での多元性である。
ボルヘス原作の『はみだした男(他者たち)』が例示される(第6章 187頁)。
並行関係はデュラスにおいては音声的イメージと視覚的イメージの間に見られる(第9章)。
それは哲学と映画でも同じだ(第10章 結論)。
1の隠れたテーマは狂気
2のテーマは系列
世界自体が狂った後、系列的認識(ヒューム、ニーチェ、スピノザ)によって生き残ろうとしているような気がしてならない
http://nodaeki.cocolog-nifty.com/coco/2011/05/post-8c4e.html
(459)黒澤明は本物の「天才」である
「どうも黒澤明の映画というのは、今まで自分が思っていたようなものとは違うのかもしれない…」そんな予感が生まれて、私はその年の12月25日放送第30回目の「まあだだよ」まで、全作品を録画しながら観た。
いや~、どれもこれも素晴らしいじゃないか!「どですかでん」、「デルス・ウザーラ」、「まあだだよ」…、評判がよくなかったって?なにを言うか!何度でも繰り返して観るべき名作だよ!
黒澤自身が失敗作と認める「白痴」、完全な赤字興行だったという「生きものの記録」、いやいや、結構結構、失敗も赤字も関係ない!これを観ずして死ねるものか!
結論から言えば、黒澤作品はすべて「素晴らしい」のだ。霊的向上を願う者は須らく観るべし!などと、おだをあげたくもなるというものだ。
霊的といえば、昨日私は黒澤の4作目になる「虎の尾を踏む男達」を久し振りに再観した。これは昭和20年、日本の敗戦を挟んで撮影されたもので、相当な物資不足の中で撮られた作品であり、セットなどもかなりセコイ。
そんな不利な条件で撮影されたものだが、やはり「単なる映画」を超えた精神的・霊的エネルギーというものは十分感得することができた。
450 :名無しさん@恐縮です:2012/09/20(木) 12:19:55.69 ID:U4e+3R0B0
「必要なのは鏡だ」(タルコフスキー『惑星ソラリス』)
記号と事件―1972‐1990年の対話 (河出文庫)のp.21
「一冊の本を読むには二通りの読み方がある。一つは本を箱のようなものと考え、箱だから内部があると思い込む立場、これだとどうしても本のシニフィエを追い求めることになる。・・・こうして注釈が行われ、解釈が加えられ、説明を求めて本についての本を書き、そんなことが際限なくつづけられるわけだ。
もう一つの読み方では、本を小型の非意味機械と考える。そこで問題になるのは『これは機械だろうか。機械ならどんな風に機能するのだろうか』と問うことだけだろう。読み手にとってどう機能するのか。もし機能しないならば、何も伝わってこないならば、別の本にとりかかればいい。・・・説明すべきことは何もないし、理解することも、解釈することもありはしない。電源に接続するような読み方だと考えていい。」
2002.11.08 (金)
最後の収録曲
下巻の特典盤の最後に収録した曲は「七人の侍」です。つまりこのCD企画の最後の収録曲が「七人の侍」ということです。その「七人の侍」は黒澤明が口ずさむものです。
1973年、「デルス・ウザーラ」のロケハンでモスクワを訪れていた黒澤一行をタルコフスキーらが歓迎してくれ、一夜レストランで歓迎会が行われました。その時の模様を野上さんがカセットで収録していました。メンバーは黒澤監督、松江陽一プロデューサー、野上さん、アンドレイ・タルコフスキー、通訳の女性、です。
お酒が入ってご機嫌な黒澤は早坂文雄のことを話します。「七人の侍」の時、早坂に音楽的には無理なことを言って、テーマのメロディーを途中から1オクターブ上げさせたこと(これはM39のことだと思います)を説明しながら、テーマを口ずさみます。収録したのはこれです。本当に短いものではありますが。
そして早坂は自分にとって本当に親友だったこと、ちょうど明日が早坂の命日であることを言います。タルコフスキーは、私はレコードを擦り切れるくらい聴いているので、新しいレコードを毎年一枚ずつ送ってほしいと言います。黒澤は、喜んで送りますよと応じます。これはおそらく東宝レコードの「黒沢明の世界」(上巻の特典盤)のことだと思われます。本当に楽しそうな宴席です。
タルコフスキーが早坂さんに乾杯しましょうと言い、皆で乾杯をします。
周りの音がうるさく、そのノイズに埋もれてしまいそうな録音ですが、なんとか音質補正をし、収録しました。聴いているこちらも嬉しくなるような音です。
これがこのCDの最後の収録曲です。
2002. 11. 8 岩瀬
http://www.thm-store.jp/company/rep_n.php?offset=210&key_word_enc=&key_area=&key_year=all
130 :名無しさん@13周年:2012/11/15(木) 20:07:34.75 ID:2Ed68RU00
さ あ 、 も り あ が っ
て
ま
い
り
ま
し
た
・
・
・
1の隠れたテーマは狂気
2のテーマは系列
世界自体が狂った後、系列的認識(ヒューム、ニーチェ、スピノザ)によって生き残ろうとしているような気がしてならない
http://nam-students.blogspot.jp/2012/05/blog-post_10.html
NAMs出版プロジェクト: ロッセリーニ『ソクラテス』
@yojisekimoto: “@nhk_news: 【速報 JUST IN 】映画監督の大島渚さん死去 http://t.co/wBsoHQEZ #nhk_news”
深海に生きる魚族のように
自らが燃えなければ
何処にも光はない
http://t.co/8txGTxkB
せっかく破を鶴巻に譲ったのに、巨神兵制作会見での記者の質問をきっかけに
庵野はQで再びエヴァを奪還した
これはQ冒頭のシンジ奪還と対応する
またこの両監督の関係は劇中のカヲルシンジの関係にも対応する
好きな絵を存分に展開するのはいいがこれなら破も庵野主導でつくるべきだった
ドゥルーズ『シネマ2 時間=イメージ』英訳版への序文(拙訳)
ギリシャの哲人ども以来カントまで何世紀にもわたって、哲学にはある革命が起こっていた。運動に対する時間の従属は転倒され、時間は普遍的な運動のものさしであることをやめ、いよいよそれそのものとしてあらわれ、矛盾にみちた運動を創造するようになる。時間はタガが外れてしまった、というハムレットのことばは、時間がもはや運動に従属させられることもなくなり、むしろ運動が時間に従属させられるようになったということを意味している。これと同じ経験、同じ転倒を、映画はそれそのものの領域で、より早く推移する状況のなかで繰りかえしている、といえるだろう。戦後、古典映画と呼ばれる運動=イメージは、直接的な時間=イメージに道をゆずった。こうした一般的観念はもちろん、適切化され、修正され、具体的な事例に当てはめられねばならない。
なぜ第二次世界大戦は一個の変化とみなされるのか? 実はヨーロッパでは、もはやどう反応すればいいかわからないような状況や、もはやどう描写すればいいかわからないような空間が戦後の時代にぐっと増加したのである。見捨てられて誰も住まないような、廃倉庫や、不毛の大地や、破壊あるいは再建の途上にある都市などといった「空間以上の何ものでもない空間」だ。そして空間以上の何ものでもない空間には、ミュータントのたぐいの、新種の登場人物が跋扈する。彼らは行動するよりまず見ようとする、見者たちである。それゆえロッセリーニの三部作、『ヨーロッパ1951年』、『ストロンボリ、神の土地』、『ドイツ零年』に出てくるのは、破壊された都市にいる子供であり、ストロンボリ島にいる異邦の女性であり、周りにあるものを「見る」ことにつとめはじめるブルジョワ女性なのである。状況は異常なものであるか、あるいは真逆に日常の陳腐なものであったり、またその両者が同時にあらわれていたりする。崩壊しつつあるもの、あるいは少なくともそのポジションを失いつつあるものこそが、古い映画の行動=イメージを構成していた感覚=運動図式である。そして感覚=運動の結びつきがゆるめられたおかげで、スクリーン上にあらわれてきたのが「純粋状態にある若干の時間」という時間なのだ。時間は運動に由来するものであるのをやめて、それそのものとしてあらわれるとともに「偽りの運動」として自らをあらわす。それゆえ現代映画においては「間違ったつなぎ」が重要なのであって、イメージどうしはもはや理にかなったカット割りやつながりによって結びつけられることもなく、間違ったつなぎ方と不合理なカット割りによって結びつけなおされる。身体でさえもが、もはやまったく運動するもの、すなわち運動の主体あるいは行動の道具ではなくなり、むしろ時間の現像者[レヴェラトゥール]となって、その飽きや待ちぼうけを通して時間を見せつけるようになる。
映画的イメージが現前している、ということはまったく適当でない。現前しているものは「表象=再現前している」イメージであるが、絵画におけるそれのように映画においては、イメージそのものでないかぎり、それが表象=再現前しているものと混同されるということは決してない。イメージそのものはその要素どうしの間における関係性の体系であり、すなわち、ただ流れていくだけのうつろいやすい現前=現在からなる時間の関係性の一群である。わたしはこの意味において、タルコフスキーがショットにおける「時間の圧力」によって映画を定義するとき、彼はモンタージュとショットの区別をこころみているのだと考えている。イメージに固有のものは、それが創造的であるかぎりで、表象された対象のなかには見られないような、そして現前するところにまで自らをおとしめさせることのないような時間の関係性を知覚可能にし、可視化するのである。たとえば、ウェルズにおけるフィールドの深さや、ヴィスコンティにおけるトラッキング・ショットをとりあげよう。われわれは交差する空間よりもむしろ、時間のなかへと追いこまれる。サンドラの車は、ヴィスコンティの映画の冒頭において、すでに時間のなかで運動しているし、ウェルズの登場人物は空間内において場所を変えるよりもむしろ、時間において広大な場所を占めている。
これは時間=イメージがフラッシュバックや、あるいは回想とさえも何の関係もないということである。回想は以前のものの現前にすぎないが、現代映画における記憶喪失の登場人物たちは、文字どおり過去へと沈降していったり、回想においても隠されているものを可視化することによって警告をうけたりする。フラッシュバックは手がかりにすぎないが、偉大な作家に用いられるとき、そこにはもっとずっと複雑な時間構造を見せつけることになる(たとえば、マンキーウィッツにおける「分岐する」時間という、時間が異なったコースをとりえた瞬間の再獲得など)。あらゆる場合において、われわれが時間構造とか直接的な時間=イメージと呼んでいるものは、純粋に経験的な時間の連続――過去=現在=未来、を明らかに超えていっている。それはたとえば、別個の持続どうしや持続の複数のレベルどうしの共存である。ある単独のできごとはさまざまなレベルに属しうる。過去という広がりは、非=年代的な秩序においても共存するのだ。われわれはこれを、ウェルズの力強い大地の直観や、さらには死地から帰還するレネの登場人物たちに見いだしている。
まだたくさんの時間構造が存在する。この本の全体的な目的は、映画的イメージが把握し、また明らかにしてきたものであったり、科学の教説、その他の芸術がわれわれに明らかにするもの、あるいは哲学がわれわれに理解できるようにするものなどに影響を与えうるものであったりを、それぞれの方法で提供することである。映画はまだ、イメージの創造物においてしかあらわれえないような時間の関係性を可視化しようとする研究の出発点にあるのだから、映画の死について語るのはばかげている。テレビを必要としているのは映画ではない――映画芸術によって豊かにされないかぎり、テレビのイメージは残念ながら現前でありつづけるのだから。ヴィジュアルとサウンドの間の、あるいは見られるものと話されるものとの間の関係と分離は、(ピエール・ペローやストローブ、ジーバーベルクらがそれぞれ異なった方法でしているような)イメージにおける時間の獲得のために問題をよみがえらせ、映画に新たな力をもたらす。そう、当初の力を保っているかぎり、映画は虐殺によって命を落としたりはしないのだ。逆にわれわれは戦前の映画やさらにはサイレント映画にさえも、すでに運動=イメージを画期的に進歩させたり、あるいは押しとどめたり、または包括したりしてきたような、きわめて純粋な時間=イメージに目をむけなければならない。たとえば小津の静物画は、時間の不変の形態としてのものなのか? など。
この運動と時間についての冒険を翻訳するという労について、ロバート・ガレータとヒュッフ・トムリンソンに謝意を表したい。 ジル・ドゥルーズ 1988年7月
http://blog.livedoor.jp/aryusan_nikki/archives/51568752.html
平倉圭「識別不可能性の〈大地〉――ジル・ドゥルーズ『シネマ2*時間イメージ』」 : 革命の日の朝の屑拾い日記
http://mgccinema.exblog.jp/5796587
平倉圭「識別不可能性の〈大地〉――ジル・ドゥルーズ『シネマ2*時間イメージ』」
やっと平倉圭さんによるドゥルーズの『シネマ2』への書評、「識別不可能性の〈大地〉」を読むことができました。『思想』2007年第7号、130-142ページ。
大変おもしろく、刺激を受けまくりましたが、これはドゥルーズの「映画観」がいかに単純なものであるかを白日の下に晒してしまったという意味で、実に罪つくりな「書評」でもあるでしょう。ドゥルーズ読みに殴られるかもしれないのを覚悟でざっくりまとめてしまえば、要するに『シネマ2』の基本的な発想は、
直接には第二次世界大戦を契機として、人間をただただ圧倒するようなイメージが出現する → イメージだけではますます収拾がつかなくなる → 言葉、カモン!
~~~
ドゥルーズによって、黒澤と溝口が、ゴダールとエイゼンシュテインが始めて共存することができた
象徴化かもしれないがその作品自体は象徴性を欠いているから否定神学的になる
分類学と言えるのはモデルを探求しているからだし、常に新たなモデルにひらかれている
パゾリーニの自由間接話法の評価だけでもそれは達成している
問題は68年より第二次大戦がドゥルーズにとって決定的で有るということだ
これは対抗運動の敗北で共有すべき認識だ
平倉は蓮實の悪影響でドゥルーズを批判するが、そのような技術主義では解決しない
ドゥルーズによって、黒澤と溝口が、ゴダールとエイゼンシュテインが始めて共存することができた
象徴化かもしれないがその作品自体は象徴性を欠いているから象徴化は内部崩壊する
分類学と言えるのはモデルを探求しているからだし、常に新たなモデルにひらかれているからだ
パゾリーニの自由間接話法の評価だけでもそれは達成している
問題は68年より第二次大戦がドゥルーズにとって決定的で有るということだ
これは対抗運動の敗北で共有すべき認識だ
平倉は蓮實の悪影響でドゥルーズを批判するが、平倉のような技術主義では解決しない問題だ
ドゥルーズによって、黒澤と溝口が、ゴダールとエイゼンシュテインが始めて共存することができた。
象徴化だと言うがその作品自体は象徴性を欠いているから象徴化は内部崩壊する。
分類学と言えるのはモデルを探求しているからだし、常に新たなモデルに開かれているからだ。
例えば、ゴダールにおける「と」への着目、パゾリーニの自由間接話法の評価だけでもそれは達成している。
問題は68年より第二次大戦がドゥルーズにとって決定的で有るということだ。
これは対抗運動の敗北で共有すべき認識だ。
平倉は蓮實の悪影響でドゥルーズを批判するが、平倉のような技術主義では解決しない問題だ。
ドゥルーズによって、黒澤と溝口が、ゴダールとエイゼンシュテインが始めて共存することができた。
象徴化だと言うがその作品自体は象徴性を欠いているから象徴化は内部崩壊する。
分類学と言えるのはモデルを探求しているからだし、常に新たなモデルに開かれているからだ。
例えば、ゴダールにおける「と」への着目、パゾリーニの自由間接話法の評価だけでもそれは達成している。
問題は68年より第二次大戦がドゥルーズにとって決定的であるということだ。
これは対抗運動の敗北で共有すべき認識だ。
平倉は蓮實の悪影響でドゥルーズを批判するが、平倉のような技術主義では解決しない問題だ。
ドゥルーズによって、黒澤と溝口が、ゴダールとエイゼンシュテインが始めて共存することができた。
象徴化だと言うがその作品自体は象徴性を欠いているから象徴化は内部崩壊する。
分類学と言えるのはモデルを探求しているからだし、常に新たなモデルに開かれているからだ。
例えば、ゴダールにおける「と」への着目、パゾリーニの自由間接話法の評価だけでもそれは達成されている。
問題は68年より第二次大戦がドゥルーズにとって決定的であるということだ。
これは対抗運動の敗北で共有すべき認識だ。
平倉は蓮實の悪影響でドゥルーズを批判するが、これは平倉のような技術主義では解決しない問題だ。
ドゥルーズによって、黒澤と溝口が、ゴダールとエイゼンシュテイン、タルコフスキーが始めて共存することができた。
象徴化だと言うがその作品自体は象徴性を欠いているから象徴化は内部崩壊する。
分類学と言えるのはモデルを探求しているからだし、常に新たなモデルに開かれているからだ。
例えば、ゴダールにおける「と」への着目、パゾリーニの自由間接話法の評価だけでもそれは達成されている。
問題は68年より第二次大戦がドゥルーズにとって決定的であるということだ。
これは対抗運動の敗北で共有すべき認識だ。
平倉は蓮實の悪影響でドゥルーズを批判するが、これは平倉のような技術主義では解決しない問題だ。
ドゥルーズによって、黒澤と溝口が、ゴダールとエイゼンシュテイン、タルコフスキーが始めて共存することができた。
象徴化だと言うがその作品自体は象徴性を欠いているから象徴化は内部崩壊する。
分類学と言えるのはモデルを探求しているからだし、常に新たなモデルに開かれているからだ。
例えば、ゴダールにおける「と」への着目、パゾリーニの自由間接話法の評価だけでもそれは達成されている。
問題は68年より第二次大戦がドゥルーズにとって決定的であるということだ。
これは対抗運動の敗北(というより忘却)を意味し、共有すべき認識だ。
平倉は蓮實の悪影響でドゥルーズを批判するが、これは平倉のような技術主義では解決しない問題だ。
ドゥルーズによって、黒澤と溝口が、ゴダールとエイゼンシュテイン、タルコフスキーが始めて共存することができた。
象徴化だと言うがその作品自体は象徴性を欠いているから象徴化は内部崩壊する。
分類学と言えるのはモデルを探求しているからだし、常に新たなモデルに開かれているからだ。
例えば、ゴダールにおける「と」への着目、パゾリーニの自由間接話法の評価だけでもそれは達成されている。
問題は68年より第二次大戦がドゥルーズにとって決定的であるということだ。
これは対抗運動の敗北(というよりその忘却)を意味し、共有すべき認識だ。
平倉は蓮實の悪影響でドゥルーズを批判するが、これは平倉のような技術主義では解決しない問題だ。
単純な父殺し、、、平倉はフロイトを読んだ方がいい。
ドゥルーズによって、黒澤と溝口が、ゴダールとエイゼンシュテイン、タルコフスキーが始めて共存することができた。
象徴化だと言うがその作品自体は象徴性を欠いているから象徴化は内部崩壊する。
分類学と言えるのはモデルを探求しているからだし、常に新たなモデルに開かれているからだ。
例えば、ゴダールにおける「と」への着目、パゾリーニの自由間接話法の評価だけでもそれは達成されている。
問題は1968年より第二次大戦がドゥルーズにとって決定的であるということだ。
これは対抗運動の敗北(というよりその忘却)を意味し、共有すべき認識だ。
平倉は蓮實の悪影響でドゥルーズを批判するが、これは平倉のような技術主義では解決しない問題だ。
単純な父殺し、、、平倉はフロイトを読んだ方がいい。
より一般化するならドゥルーズは始めて映画論に本質的な意味での歴史を導入したのだ。
ドゥルーズによって、黒澤と溝口が、ゴダールとエイゼンシュテイン、タルコフスキーが始めて共存することができた。
象徴化だと言うがその作品自体は象徴性を欠いているから象徴化は内部崩壊する。
分類学と言えるのはモデルを探求しているからだし、常に新たなモデルに開かれているからだ。
例えば、ゴダールにおける「と」への着目、パゾリーニの自由間接話法の評価だけでもそれは達成されている。
問題は1968年より第二次大戦がドゥルーズにとって決定的であるということだ。
これは対抗運動の敗北(というよりその忘却)を意味し、共有すべき認識だ。
平倉は蓮實の悪影響でドゥルーズを批判するが、これは平倉のような技術主義では解決しない問題だ。
単純な父殺し、、、平倉はフロイトを読んだ方がいい。
より一般化するならドゥルーズは始めて映画論に本質的な意味での歴史(やはり映画史ではない)を導入したのだ。
ドゥルーズによって、黒澤と溝口が、ゴダールとエイゼンシュテイン、タルコフスキーが始めて共存することができた。ニーチェ的価値判断がそこにある。
象徴化だと言うがその作品自体は象徴性を欠いているから象徴化は内部崩壊する。
分類学と言えるのはモデルを探求しているからだし、常に新たなモデルに開かれているからだ。
例えば、ゴダールにおける「と」への着目、パゾリーニの自由間接話法の評価だけでもそれは達成されている。
問題は1968年より第二次大戦がドゥルーズにとって決定的であるということだ。
これは対抗運動の敗北(というよりその忘却)を意味し、共有すべき認識だ。
平倉は蓮實の悪影響でドゥルーズを批判するが、これは平倉のような技術主義では解決しない問題だ。
単純な父殺し、、、平倉はフロイトを読んだ方がいい。
より一般化するならドゥルーズは始めて映画論に本質的な意味での歴史(やはり映画史ではない)を導入したのだ。
ドゥルーズによって、黒澤と溝口が、ゴダールとエイゼンシュテイン、タルコフスキーが始めて共存することができた。ベルクソンの時間論というよりもニーチェ的価値判断がそこにある。
象徴化だと言うがその作品自体は象徴性を欠いているから象徴化は内部崩壊する。
分類学と言えるのはモデルを探求しているからだし、常に新たなモデルに開かれているからだ。
例えば、ゴダールにおける「と」への着目、パゾリーニの自由間接話法の評価だけでもそれは達成されている。
問題は1968年より第二次大戦がドゥルーズにとって決定的であるということだ。
これは対抗運動の敗北(というよりその忘却)を意味し、共有すべき認識だ。
平倉は蓮實の悪影響でドゥルーズを批判するが、これは平倉のような技術主義では解決しない問題だ。
単純な父殺し、、、平倉はフロイトを読んだ方がいい。
より一般化するならドゥルーズは始めて映画論に本質的な意味での歴史(やはり映画史ではない)を導入したのだ。
ドゥルーズによって、黒澤と溝口が、ゴダールとエイゼンシュテイン、タルコフスキーが始めて共存することができた。ベルクソンの時間論というよりもニーチェ的価値判断がそこにある。
象徴化だと言うがその作品自体は象徴性を欠いているから象徴化は内部崩壊する。
分類学と言えるのはモデルを探求しているからだし、常に新たなモデルに開かれているからだ。
例えば、ゴダールにおける「と」への着目、パゾリーニの自由間接話法の評価だけでもそれは達成されている。
問題は1968年より第二次大戦がドゥルーズにとって決定的であるということだ。
これは対抗運動の敗北(というよりその忘却)を意味し、共有すべき認識だ。
ゴダールも結局は戦後派なのだ。
平倉は蓮實の悪影響でドゥルーズを批判するが、これは平倉のような技術主義では解決しない問題だ。
単純な父殺し、、、平倉はフロイトを読んだ方がいい。
より一般化するならドゥルーズは始めて映画論に本質的な意味での歴史(やはり映画史ではない)を導入したのだ。
(フランス映画批評の党派性の弊害を知らない人にはピンとこないだろうが)ドゥルーズによって、黒澤と溝口が、ゴダールとエイゼンシュテイン、タルコフスキーが始めて共存することができた。ベルクソンの時間論というよりもニーチェ的価値判断がそこにある。
象徴化だと言うがその作品自体は象徴性を欠いているから象徴化は内部崩壊する。
分類学と言えるのはモデルを探求しているからだし、常に新たなモデルに開かれているからだ。
例えば、ゴダールにおける「と」への着目、パゾリーニの自由間接話法の評価だけでもそれは達成されている。
問題は1968年より第二次大戦がドゥルーズにとって決定的であるということだ。
これは対抗運動の敗北(というよりその忘却)を意味し、共有すべき認識だ。
ゴダールも結局は戦後派なのだ。
平倉は蓮實的党派性の悪影響でドゥルーズを批判するが、これは平倉のような技術主義では解決しない問題だ。
単純な父殺し、、、平倉はフロイトを読んだ方がいい。
より一般化するならドゥルーズは始めて映画論に本質的な意味での歴史(やはり映画史ではない)を導入したのだ。
(フランス映画批評の党派性の弊害を知らない人にはピンとこないだろうが)ドゥルーズによって、黒澤と溝口が、ゴダールとエイゼンシュテイン、タルコフスキーが始めて共存することができた。ベルクソンの時間論というよりもニーチェ的価値判断がそこにある。
象徴化だと言うがその作品自体は象徴性を欠いているから象徴化は内部崩壊する。
分類学と言えるのはモデルを探求しているからだし、常に新たなモデルに開かれているからだ。
例えば、ゴダールにおける「と」への着目、パゾリーニの自由間接話法の評価だけでもそれは達成されている。
問題は1968年より第二次大戦がドゥルーズにとって決定的であるということだ。
これは対抗運動の敗北(というよりその忘却)を意味し、共有すべき認識だ。
ゴダールも結局は戦後派なのだ。
平倉は蓮實的党派性の悪影響でドゥルーズを批判するが、これは平倉のような技術主義では解決しない問題だ。
単純な父殺し、、、平倉はフロイトを読んだ方がいい。
より一般化するならドゥルーズは始めて映画論に本質的な意味での歴史(やはり映画史ではない)を導入したのだ。
言葉の氾濫に関しては消費社会の問題でありマルクスを読むべきだ。
http://d.hatena.ne.jp/kairiw/20061002
パゾリーニの映画『アポロンの地獄』出演。クレオン役を演じる。
1968年、「Arden of Feversham」原作エリザベス朝時代、作者不詳。ローマ、カルメロ・ベーネ劇場。
「マヤコフスキー協奏演劇 四版」ローマ、カルメロ・ベーネ劇場。
「ドン・キホーテ」原作セルバンテス。ローマ、Teatro delle Arti。
映画「エルミタージュ」Ermitage
映画「トルコの聖マリア」Nostra signora dei Turchi 。出演ベーネ。音楽Cajkovskij、ドニゼッティ、ムソルグスキー、
グノー「ファウスト」、プッチーニ「マノンレスコー」、ラフマニノフ、ロッシーニ、ストラヴィンスキー「ペトルーシュ
カ」、ヴェルディ。ヴェネチア映画祭で、ベルトルッチの『パートナー』とともに衝撃を与える。審査員特別賞受賞。
1969年、映画「カプリッチ」出演ベーネ、A・ヴィアゼムスキー他。カンヌ映画祭出品。
1970年、映画「腹話術」
1971年、映画「ドン・ジョヴァンニ」音楽ビゼー「カルメン」、ドニゼッティ、モーツァルト「ドン・ジョヴァンニ」、ムソルグスキー、プロコイエフ「アレクサンドル・ネフスキー」、ヴェルディ。
1972年、映画「サロメ」 。音楽ブラームス「ドイツレクイエム」、シューベルト、シベリウス、シュトラウス。
1973年、映画「マイナスハムレット」Un Amleto di meno 。原作ジュール・ラフォルグ「ハムレットあるいは子の悲哀」。
音楽ムソルグスキー、ロッシーニ、ストラヴィンスキー「兵士の物語」、ワーグナー「タンホイザー」。
「トルコの聖母」二版、ローマ、アルティ劇場。
1974年、「道化の晩餐」 フィレンツェ。
「ハムレット」プラト、メタスタジオ劇場。
「S.A.D.E.あるいはサレンティーナ憲兵楽団の放蕩と退廃」ミラノ、マンゾーニ劇場。
1975年、「ハムレット」ミラノ・マンゾーニ劇場。
1976年、「ファウスト-マーロウ-バーレスク」プラト、メタスタジオ劇場。
「ロミオとジュリエット」、プラート、メタスタジオ劇場。
ブラジルの映画作家グラウベル・ローシャの映画「クラロClaro」出演。
1977年、「ロミオとジュリエット」、パリ、オペラ・コミーク。
「S.A.D.E.」二版。パリ、オペラ・コミーク。
「リチャードIII世」チェセーナ、ボンキ劇場。
1979年、「オセロ」ローマ、Teatro Quirino。
「マンフレッド」原作バイロン、音楽シューマン。ミラノ、Teatro allaScala。
映画版「オセロ」も作り始める(完成は2002年)
1980年、「マヤコフスキー協奏演劇(マヤコフスキー、ブローク、エセーニン、パステルナーク)五版」ペルージャ、モルラッキ劇場。
「ヒュペーリオン」原作ヘルダーリン、ブルーノ・マデルナによるオペラ。ローマ、Auditorium di Via della Conciliazione。
1981年、「神曲 “ダンテ朗唱”」、ボローニャ。
「ダンテ朗唱とエドアルドを演ずるエドアルド」ローマ。
「ピノッキオ」ピサ、ヴェルディ劇場。
1982年、「オルフェウスの歌、ディノ・カンパーナの詩と音楽」ミラノ、Palazzo dello Sport。
1983年、「マクベス」ミラノ、リリコ劇場。
「エグモント(ゲーテの肖像)」。音楽ベートーヴェン。ローマ、Accademia di S. Cecilia,
「…私は見る-… Mi presero gli occhi…」 F. ヘルダーリンと レオパルディによる。トリノ、コロッセオ劇場。
1984年、「アレッサンドロ・マンゾーニのアデルキ」L'Adelchi de Alessandro Manzoni」ミラノ、リリコ劇場。
1985年、「オセロ」二版、ピサ、ヴェルディ劇場。
1986年 「ロレンザッチョ」原作ミュッセ。フィレンツェ、Ridotto del Teatro Comunale。
1987年、「カンティ」原作レオパルディ。レオパルディの生地であるマチェラータのレカナーティ。
「ハムレットのためのオムレット Hommelette for Hamlet 」ジュール・ラフォルグのオペレッタ草稿による。
バーリ、ピッキーニ劇場。
1989年、「道化の晩餐」二版、ミラノ、カルカノ劇場。
「ペンテジレーア 俳優機械-機械の俳優Pentesilea la macchina attoriale-Attorialit? della macchina」
原作スタティウス、クライスト、ホメロス。ミラノ、Castello Sforzesco。
1990年、「ペンテジレーア」、ローマ、オリンピコ劇場。
1994年、「ハムレット組曲」原作ジュール・ラフォルグ、ヴェローナ、シェイクスピア演劇祭。
「オルフェウスの歌、ディノ・カンパーナの詩と音楽」、オスティア・アンティカ、ロマノ劇場。
1996年、「マクベス:恐怖組曲」アルトー生誕百年記念。音楽ヴェルディ。ローマ、アルジェンティーナ劇場。
1997 年、「マンゾーニのアデルキ」二版、アントニオ・ストリアーノのためのコンチェルト形式の演劇。ローマ。
「カンティの声:レオパルディ、コンチェルト形式の演劇」、ローマ、オリンピコ劇場。
1998年、「ピノッキオ」ローマ、Teatro dell’Angelo。
1999年、「ガブリエル ダヌンツィオ、俳優によるコンチェルト」詩編「イオリオの娘」,ローマ、Teatro dell’Angelo。
2000年, 「アキレスの弱さのなかで、トロイアとシロッコの不可能組曲」原作スタティウス、クライスト、ホメロス。
ローマ、アルジェンティーナ劇場。
2001年、「ダンテ朗唱 Lectura Dantis」オトラント、Fossato del Castello。
2002年5月、逝去。
「テアトロ・ディ・ソットラツィオーネ」と呼ばれるベーネの方法は、オリジナルテキストを削除・抜き取ることで、換骨奪胎する。
ベーネはディドロ、ブレヒト、ワイルド、アルトー、カフカ、マヤコフスキー、レオパルディ、バスター・キートン、パゾリーニ、ブレッソン、タチなどについてよく語ってた。
2002年ベーネが亡くなったとき、この異端児の死に胸をなで下ろしたものも多かったという。
「わたしはどこにも到着しないだろう。わたしはどこにも到着したくない。終点などは存在しない。だれかが到着する地点には興味がない。ひとは狂気にだって到着することができる。そんなことがなんの意味があるのだろうか。」カルメロ・ベーネ
参考文献
http://www.fondazionecarmelobene.it/
http://it.wikipedia.org/wiki/Carmelo_Bene
ジル・ドゥルーズ「マイナス宣言」in「重合」法政大学出版局
ジル・ドゥルーズ「マンフレッド、なみはずれた革新」in「狂人の二つの体制」河出書房新社
http://youtu.be/af-pHcC_M3Y
シネマ2
8
265頁
Carmelo Bene - Capricci (1969)
オイディプス王(前半)
http://www.geocities.jp/hgonzaemon/oedipus-1.html
指摘されるようにドゥルーズは良識を捨て狂気に期待した
ただその成果はニーチェ論よりシネマ1によく表れている
そしてシネマ2に違うものが現れる
系列の思想だ
意味の論理学より包括的に現れるそれは再検討を要する
youtubeでカルメロ・ベーネなどを見るのもいいだろう、、、
ただドゥルーズの分析哲学嫌いが誤解を生んでいるので一言言いたい
ヒュームは一対一対応において懐疑論とはズレると言うことだ
ヒュームの論理は充分論理学の基礎になる
早い話、系列の思想を基礎付けるのはヒュームの論理だ
そこにドゥルーズによるツァラトゥストラ後半部読解のポイントがある
指摘されるようにドゥルーズは良識を捨て狂気に期待した
ただその成果はニーチェ論よりシネマ1によく表れていると思う
そしてシネマ2にはさらに新しい違うものが現れる
系列の思想だ
意味の論理学より包括的に現れるそれは再検討を要する
youtubeでカルメロ・ベーネなどを見ながら読むもいいだろう、、、
ただドゥルーズの分析哲学嫌いが誤解を生んでいるので一言言いたい
ヒュームは一対一対応において懐疑論とはズレると言うことだ
ヒュームの論理は充分論理学の基礎になる
早い話、系列の思想を基礎付けるのはヒュームの論理だ
そこにドゥルーズによるツァラトゥストラ後半部読解のポイントがある
指摘されるようにドゥルーズは良識を捨て狂気に期待した
ただその成果はニーチェ論よりシネマ1によく表れていると思う
そしてシネマ2にはさらに新しい違うものが現れる
系列の思想だ
意味の論理学より包括的に現れるそれは再検討を要する
youtubeでカルメロ・ベーネなどを見ながら読むもいいだろう、、、
ただドゥルーズの分析哲学嫌いが誤解を生んでいるので一言言っておきたい
ヒュームは一対一対応において懐疑論とはズレるということだ
ヒュームの論理は充分論理学の基礎になる
(ベルクソンの円錐形モデルとも矛盾しない)
早い話、系列の思想を基礎付けるのはヒュームの論理だ
そこにドゥルーズによるツァラトゥストラ後半部読解のポイントがある
指摘されるようにドゥルーズは良識を捨て狂気に期待した
ただその成果はニーチェ論よりシネマ1によく表れていると思う
そしてシネマ2にはさらに新しい違うものが現れる
系列の思想だ
意味の論理学より包括的に現れるそれは再検討を要する
youtubeでカルメロ・ベーネなどを見ながら読むもいいだろう、、、
ただドゥルーズの分析哲学嫌いが誤解を生んでいるので一言言っておきたい
ヒュームは一対一対応において懐疑論とはズレるということだ
ヒュームの論理は充分論理学の基礎になる
(それはベルクソンの逆円錐形モデルとも矛盾しない)
早い話、系列の思想を基礎付けるのはヒュームの論理だ
そこにドゥルーズによるツァラトゥストラ後半部読解のポイントがある
ライプニッツのピラミッド : 関本洋司のブログ
http://yojiseki.exblog.jp/7724741/
ライプニッツのピラミッド
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「ライプニッツは、欺かない神についてのデカルトの推論をかなり警戒し、これに不共可能性の水準で新しい根拠を与えている。神は戯れるが、戯れの規則を与えるのだ(略)。この規則とは可能世界は神が選んだ世界と不共可能的ならば、存在にたどりつくことがないということだ。ライプニッツによれば*『アストレー』のような小説だけが、われわれにこのような不共可能的**なものの理念を与えるのである。」(ドゥルーズ『襞 ライプニッツとバロック』邦訳p110)
*(Lettre a Bourguet,decembre 1714)
**または「共不可能的(incompossible)」
≪compossible-incompossible≫
『差異と反復』:共可能-非共可能
『意味の論理学』(宇波):共通可能-共通不可能 および両立可能-両立不可能
小沢訳:共存可能-非共存可能
オノレ・デュルフェ作の『アストレ(ー)』は17世紀パリの貴婦人に流行ったロマン小説で、日本では無名だが、今度エリック・ロメールによって(小説の一部が)映画化され2009年に公開される。
ストーリーは映画の公式サイトに詳しい。
http://www.alcine-terran.com/wagaai/trailer.html(公式サイト予告編)
可能世界なるものがデカルトのような推論によって本質に回収されるのを嫌ったライプニッツがラブストーリーを念頭においていたというのは面白い。
僕だったら黒澤の『乱』のストーリーを不共可能性を扱った代表作にあげたい。
最近、ライプニッツの論理学信奉と、黒澤とタルコフスキーのような芸術家による論理学不信奉の違いはあっても、『弁神論』のラストで触れられた底辺が無限のピラミッドと『乱』のラストで城跡に逆説的に浮かび上がるピラミッドのような美しさは同じものだったのではないかと考えている。
追記:
以下のようなスタッフの証言が実は不共可能性をうまく説明しているかもしれない。
http://www.unifrance.jp/festival/report_view.php?number=657&langue=JAPANESE
「一番好きなのは、お城の迷宮のような庭園でニンフの女ボスのガラテと僕が口論をするシーンなんだ。このロケ地は最後の最後に見つけた場所なんだが、撮影段階になってロメール監督は素晴らしいアイデアを思い付いたんだ。城を出て行くと言い張る僕を引き止めようとしたガラテは、迷路の壁にぶち当たってしまう。このシーンを撮ることによって監督は、状況が硬直状態に陥り、壁にぶち当たったことと現実の動きをドッキングさせて見せているんだ。」
http://movie.felista.jp/e319.html
「私は原作を完全に自分のものにし、なんの気がねもなくのびのびと扱うことができた。ここではっきりとさせておくが、私の脚本はズカが残した脚本とはかなり異なるものである。今回、私は彼の脚本を一切活用しなかった。あとで読み比べてみて、2作に共通のセリフがたったひとつしかないことを確認してニヤリとしたほどである。とは言え、この作品を彼に捧げることは私には重要だった。」
メモ:
ちなみに、ライプニッツの主要論理原則を、ドゥルーズ『襞 』(邦訳p99)を参照して、カントのカテゴリー論と照合すると以下になる。
量 質
類似の原理 同一律、矛盾律
結合法則 アルファベット
関係 様相
十分な理由の 識別不可能原理
原理 モナド1/∞
微分積分dy/dx
追記の追記:
フーリエは『アストレ』からセラドニーCeladonieという概念を抽出し展開している。この造語は精神的ないし感傷的な恋愛情念を意味するらしい。その精神的愛はフーリエの唱える共同体では重要度を増すという。
ところで、フーリエはこの精神的愛を概念化し、官能的愛の次に続くものとして系列的に展開しているが、冒頭で触れた20世紀をハイデガーとともに代表する哲学者のドゥルーズはこうしたフーリエやプルードンの系列的思考法にどれくらい意識的だったのだろうか?
ドゥルーズはマルクスに関しては意識的だったが、いわゆる空想社会主義にはあまり関心がなかったのではないか?
それは当時のフランスの思想界が、マルクスとフロイトにあまりにも支配されていたためでもあるだろう。
フーリエ、プルードン、そしてドゥルーズが採用したアンチノミーが揚棄されずに二項が進行する系列的思考は無意識的なフランス的伝統ということかもしれない。
補記(2009.4.12):
その後映画を見た感想としては、この映画においてロメールはモラルというよりも「私の許可なく二度と姿をみせないで!」という主人公セラドンとアストレーとの相互契約を守りつつ、映画としてはエモーション=肉感的欲望を手放さないという離れ業に挑み、その課題に見事に成功しているのではないか?というものだ。
一見些末なエピソードのように見える登場人物による神々の説明、肉体的愛に対する精神的愛の優位などなど、映画のところどころでロメール先生による間接的授業(とはいえカメラは常に登場人物と水平に位置され、決して権威的ではない)が展開されているが、これらは映画のなかで内容としてのモラルの描写として成功している。
おそらく賛否が分かれるであろう部分は、リアリティーを無視した時代描写および自然描写であり、何よりも女装したセラドンとの和解であるラブシーンを描いたラストだ。場内の失笑とともに観客である自分の胸にわき上がったのは、先述したライプニッツ的なモラル=論理を守りつつジャン・ルノワール的欲望を同時に肯定することに成功したロメールの巧みさへの賛美だ。
蓮実重彦はそこにハワード・ホークス的映画装置の作動、つまり映画の自同律を見出しているようだ。たしかにその装置の作動は形式としてのモラル(この場合は映画の自同律)の展開でもあるが、それ以上にそうした形式を主演俳優同士の官能の描写と背理させなかったロメールの手腕が称揚されるべきであり、そこに彼のデビュー作『獅子座』からの一貫性を見るべきだろう。
1の隠れたテーマは狂気
2のテーマは系列
世界自体が狂った後、ドゥルーズは系列的認識(ヒューム、ニーチェ、スピノザ)によって生き残ろうとしている
キューブリックは映画の極意を遺言で残した。
曰く、自動車から降りて歩け。
ポケモンGOのコンセプトと合致する
ドゥルーズ『シネマ2 時間=イメージ』英訳版への序文 より
…
なぜ第二次世界大戦は一個の変化とみなされるのか? 実はヨーロッパでは、もはやどう
反応すればいいかわからないような状況や、もはやどう描写すればいいかわからないような
空間が戦後の時代にぐっと増加したのである。見捨てられて誰も住まないような、廃倉庫や、
不毛の大地や、破壊あるいは再建の途上にある都市などといった「空間以上の何ものでもない
空間」だ。そして空間以上の何ものでもない空間には、ミュータントのたぐいの、新種の
登場人物が跋扈する。彼らは行動するよりまず見ようとする、見者たちである。それゆえ
ロッセリーニの三部作、『ヨーロッパ1951年』、『ストロンボリ、神の土地』、『ドイツ零
年』に出てくるのは、破壊された都市にいる子供であり、ストロンボリ島にいる異邦の女性
であり、周りにあるものを「見る」ことにつとめはじめるブルジョワ女性なのである。状況は
異常なものであるか、あるいは真逆に日常の陳腐なものであったり、またその両者が同時に
あらわれていたりする。崩壊しつつあるもの、あるいは少なくともそのポジションを失いつつ
あるものこそが、古い映画の行動=イメージを構成していた感覚=運動図式である。そして
感覚=運動の結びつきがゆるめられたおかげで、スクリーン上にあらわれてきたのが「純粋
状態にある若干の時間」という時間なのだ。時間は運動に由来するものであるのをやめて、
それそのものとしてあらわれるとともに「偽りの運動」として自らをあらわす。それゆえ
現代映画においては「つなぎ間違い」が重要なのであって、イメージどうしはもはや理に
かなったカット割りやつながりによって結びつけられることもなく、間違ったつなぎ方と不
合理なカット割りによって結びつけなおされる。身体でさえもが、もはやまったく運動する
もの、すなわち運動の主体あるいは行動の道具ではなくなり、むしろ時間の現像者[レヴェ
ラトゥール]となって、その飽きや待ちぼうけを通して時間を見せつけるようになる。
…
ジル・ドゥルーズ 1988年7月
http://blog.livedoor.jp/aryusan_nikki/archives/51568752.html
《…ゴダールは弁証法に頼るような男ではありません。ゴダールで重要なのは、「2」でも
「3」でもないし、それ以外の数でもなくて、接続詞の「と」なのです。「と(ET)」の
用法はゴダールの核心にかかわる重要問題です。なぜ重要かというと、私たちの思考全体が、
おおむね動詞の《être》、つまり「ある(EST)」をもとにして成り立っているからです。…
「と」は特別な接続詞でも、特殊な関係でもなくなり、すべての関係を巻き込むようになる。
そして「と」の数が増えれば、それにあわせて関係の数も増えていく。「と」はあらゆる
関係を転覆させるだけでなく、「ある」という動詞なども残らず転覆させてしまうのです。
「……と……と……と」とたたみかける接続詞「と」の使用は創造的にどもることにつながり、
国語を外国語のようにあやつることにもつながる。そしてこれが、「ある」という動詞にも
とづく規範的で支配的な国語の使用と対立するのです。
もちろん、「と」は多様性であり、多数性であり、自己同一性の破壊でもあるわけです。》
(「カイエ・デュ・シネマ」第二七一号、一九七六年十一月。邦訳『記号と事件』所収)
せんか。ゴダールは弁証法に頼るような男ではありません。ゴダールで重要なのは、「二」でも「三」でもないし、それ以外の数でもなくて、接続詞の「と」なのです。「と(ET)」の用法はゴダールの核心にかかわる重要問題です。なぜ重要かというと、私たちの思考全体が、おおむね動詞の《être》、つまり「ある(EST)」をもとにして成り立っているからです。哲学は、(「空は青色である」といった)属性判断と(「神がある」といった)存在判断をめぐる議論によって、そしてこれが還元可能かどうかという議論のせいで、まったく身動きがとれなくなっている。ところが、この種の議論ではいつも「ある」という動詞が使われるのです。三段論法を見ればわかるとおり、接続詞ですら、動詞の「ある」と釣り合うように使われている。接続詞を解放し、関係一般について考察した人は、イギリスとアメリカの思想家以外にはほとんどいません。ともあれ、関係判断を一個独立した類型に仕立てあげれば、この類型がいたるところに入り込むということがわかってくる。この類型はいたるところに浸透して、あらゆるものを変質させるのです。「と」は特別な接続詞でも、特殊な関係でもなくなり、すべての関係を巻き込むようになる。そして「と」の数が増えれば、それにあわせて関係の数も増えていく。「と」はあらゆる関係を転覆させるだけでなく、「ある」という動詞なども残らず転覆させてしまうのです。「……と……と……と」とたたみかける接続詞「と」の使用は創造的にどもることにつながり、国語を外国語のようにあやつることにもつながる。そしてこれが、「ある」という動詞にもとづく規範的で支配的な国語の使用と対立するのです。
もちろん、「と」は多様性であり、多数性であり、自己同一性の破壊でもあるわけです。たとえば工場の入口は、そこに入るときと、そこか
「カイエ・デュ・シネマ」第二七一号、一九七六年十一月
4:58 午前 削除
Blogger yoji さんは書きました...
《…ゴダールは弁証法に頼るような男ではありません。ゴダールで重要なのは、「2」でも
「3」でもないし、それ以外の数でもなくて、接続詞の「と」なのです。「と(ET)」の
用法はゴダールの核心にかかわる重要問題です。なぜ重要かというと、私たちの思考全体が、
おおむね動詞の《être》、つまり「ある(EST)」をもとにして成り立っているからです。
哲学は、(「空は青色である」といった)属性判断と(「神がある」といった)存在判断を
めぐる議論によって、そしてこれが還元可能かどうかという議論のせいで、まったく身動き
がとれなくなっている。…「と」は特別な接続詞でも、特殊な関係でもなくなり、すべての
関係を巻き込むようになる。そして「と」の数が増えれば、それにあわせて関係の数も増えて
いく。「と」はあらゆる関係を転覆させるだけでなく、「ある」という動詞なども残らず転覆
させてしまうのです。「……と……と……と」とたたみかける接続詞「と」の使用は創造的にど
もることにつながり、国語を外国語のようにあやつることにもつながる。そしてこれが、「ある」と
いう動詞にもとづく規範的で支配的な国語の使用と対立するのです。
もちろん、「と」は多様性であり、多数性であり、自己同一性の破壊でもあるわけです。》
(「カイエ・デュ・シネマ」第二七一号、一九七六年十一月。邦訳『記号と事件』所収)
《道元、『正法眼蔵』
Dは幾度か道元に触れているが、それは東洋思想へのオリエンタルな興味ではない。ヨーロッパで
スコラ哲学がハイブリッドに興隆しつつある時期を生きた道元は、自身、文化の国際的交通の中で
思考を育んだDは道元の、時は出来事を保存する蔵だという思考に共感する。時間とは、「諸々
の出来事の、各々の速度を通した視覚的な蔵である」(「シネマ2」)。「正法眼蔵」仏語版からのこ
の引用は「有時」第二〇節か。(松本潤一郎)》
(河出文庫、他)
『ドゥルーズ 没後10年、入門のために』2005,181頁
《時間とは「正しさにおいてある出来事の視覚的な貯蔵庫」*である。アントニオーニは「出来事の地平」について
語ったが、西欧の人間にとってそれは二重であって、同時に人間の凡庸な地平であり、また近づきがたく、
たえず遠のく宇宙論的地平なのだ。こうして西欧の映画はヨーロッパ的ヒューマニズムとアメリカ的S F
に分離する。S Fに関心をもたない日本人にこのようなことは起きないと彼は指摘していた。》
『シネマ2』#1原注28邦訳23頁^(28)
*
「正しさにおいてある出来事の視覚的な貯蔵庫」=正-蔵-眼-蔵の逐語訳。仏訳書名でもある。
Le temps, c'est “ la réserve visuelle des événements dans leur justesse ”
GILLES DELEUZE
L’Image-temps. Cinéma 2
https://monoskop.org/images/8/85/Deleuze_Gilles_Cinema_2_L_Image-temps.pdf 28p
《出来事の地平つまり出来事の「蔵(ぞう)réserve」を引き合いに出している日本の僧、道元のテクストをも参照されたい。》(邦訳文庫版『哲学とは何か』(#2:67^)370(394)頁)
We refer also to the Zen text of the Japanese monk Dôgen, which invokes the horizon or “reserve(蔵)” of events: Shôbogenzo, trans. and with commentary by René de Ceccaty and Ryôji Nakamura (Paris: La Différence, 1980). ルネ・ド・セカティ,中村亮二
http://www.sudoc.fr/023101695
Titre : Shôbôgenzô : la réserve visuelle des événements dans leur justesse / Dôgen ; textes choisis, traduits et annotés par Ryôji Nakamura et René de CeccattyAlphabet du titre : latinAuteur(s) :
Dōgen (1200-1253). Auteur
Nakamura, Ryôji. Traduction. Notes
Ceccatty, René de (1952-....). Traduction. Notes
Date(s) : impr. 1980Langue(s) : françaisPays : FranceEditeur(s) : [Paris] : Ed. de la Diffèrence, impr. 1980Description : 1 vol. (159 p.) : 1 carte, couv. ill. ; 24 cm
ヴィンセント・ミネリ、あるいはダンスについて:ジル・ドゥルーズ(宇野邦一ほか訳)『シネマ2―時間イメージ』:
http://tintinnabulum.seesaa.net/article/96422697.html
ダンスがイメージに流動的な世界を与えるというだけでなく、イメージの数だけ世界があるということを発見したのは、ミネリであった。つまりサルトルがいったように、「それぞれのイメージは、世界の雰囲気に包まれている」のである。世界の複数性はミネリの第一の発見であり、映画における彼の天文学的な位置はそれに由来している。ではしかし、どのようにして一つの世界から別の世界へと移行するというのか。ここに第二の発見がある。つまりダンスはもはや世界の単なる運動ではなく、一つの世界から別の世界への移行であり、別の世界への入り口、侵入、探検なのである。もはや、現実世界一般から個別的な夢幻的世界へと移行することが問題なのではない。なぜなら現実的世界は、すでにそれらの架け橋を仮定しているであろうし、『ブリガドーン』での逆転のように、逆に夢の世界のほうが、それらの懸け橋をわれわれに感じているように見えるからである。『ブリガドーン』では、不滅の閉ざされた村は、われわれを現実から遠ざけており、その現実はもはや広大な俯瞰でしか見られることはない。ミネリにおいて、それぞれの世界、それぞれの夢は、それ自身のうちに閉じ、そのすべての内容とともに閉じこもり、夢を見る者もそこに閉じこめられている。そこじはとらわれの夢遊病者、豹女、女管理人、セイレーンがいる。それぞれの舞台装置は最大の力能に達し、状況にとってかわる純然たる世界の描写となる。色彩は夢であり、それは夢がカラーだからではなく、ミネリにおける色彩が、すべてを吸収するほとんど貪り食うような高い価値を獲得しているからである。したがって、そこに忍び込み、吸い込まれなければならない、それでも自分を失ったり、とらわれたりすることのないようにして。ダンスはもはや世界を描く夢の運動ではなく、みずからを深め、ますます激しくなり、別の世界へと入るための唯一の方法となる。その別の世界とは、ある他者の世界、ある他者の夢あるいは過去なのである。『ヨランダと泥棒』と『踊る海賊』は、二つの大成功となるだろう。そこではアステアが、つづいてケリーが、それぞれに若い娘の夢へと入っていくが、これは死の危険をともなう。そしてミュージカルではなく単なるコメディーやドラマにあたるすべての作品においても、ミネリにはダンスや歌にあたるものが必要であり、それがつねに人物を他者の夢へと導くのである。『底流』において、若妻はブラームスの曲に乗って夫の悪夢の奥底までおりていき、見知らぬ弟の夢と愛にたどりつくだろう。そのようにして彼女は一つの世界から別の世界へと移動するのである。そして『時計』において、若い娘の靴の踵を壊し、休暇中の兵隊が見る白昼夢の中へと彼女を導くのは、世界の運動としてのエスカレーターである。『黙示録の四騎士』という壮大な作品において、審美家を彼自身の夢から引き離し、戦争という全面的な悪夢へと彼を投げ込むには、騎士たちの重々しいギャロップと落雷に打たれた父の恐ろしい思いでが必要なのである。それゆえに必然的に現実は、あるときは悪夢の基盤として受けとられるだろう。主人公が、そのように〈他者〉の夢にとらわれたために死にいたる場合のように(『四騎士』のみならず、『ブリガドーン』における、逃亡を試みた者の死)。またあるときは、現実は夢どうしの一致として考えられるだろう。それぞれの夢がたがいに対立物のうちに吸収されるハッピー・エンドにしたがって(たとえば『バラの肌着』において、二つの対立する世界を和解させるダンサー)。舞台装置-描写と運動-ダンスとの関係は、もはやドーネンにおけるように平板な光景と空間の展開との関係ではなく、最良であれ最悪であれ、吸収する世界と諸世界間の移行との関係なのである。ミネリにおいてミュージカルは、かつてないほど記憶の、夢の、時間の謎に近づいた。現実的なものとの識別不可能な点に近づくようにして。それは夢についての奇妙で魅惑的な着想であり、夢はある他者の夢につねにかかわっていればいるからこそ、あるいは傑作『ボヴァリー夫人』におけるように、夢そのものが、人を貪り食う仮借ない力能を、みずからの現実の主体として構成しているからこそ、折り込まれた夢である。
Gene Kelly and Vincent Minelli
Gene Kelly and Vincent Minelli on the set of "Brigadoon"
シネマ2―時間イメージ シネマ2―時間イメージ
ジル・ドゥルーズ Gilles Deleuze
宇野邦一・江澤健一郎・岡村民夫・石原陽一郎・大原理志(訳)
単行本: 491ページ
出版社: 法政大学出版局 (叢書ウニベルシタス)
ISBN-10: 4588008560
ISBN-13: 978-4588008566
発売日: 2006/11
寸法: 19 x 13.8 x 3.4 cm
ララランド落選
20170227
ミュージカルは映画芸術の王道と認められていないということだ
自分も以下のドゥルーズの文章を読むまではミュージカルを舐めていた
http://tintinnabulum.seesaa.net/article/96422697.html
ダンスがイメージに流動的な世界を与えるというだけでなく、イメージの数だけ
世界があるということを発見したのは、ミネリであった。つまりサルトルがいっ
たように、「それぞれのイメージは、世界の雰囲気に包まれている」のである。
世界の複数性はミネリの第一の発見であり、映画における彼の天文学的な位置は
それに由来している。ではしかし、どのようにして一つの世界から別の世界へと
移行するというのか。ここに第二の発見がある。つまりダンスはもはや世界の単
なる運動ではなく、一つの世界から別の世界への移行であり、別の世界への入り
口、侵入、探検なのである。もはや、現実世界一般から個別的な夢幻的世界へと
移行することが問題なのではない。なぜなら現実的世界は、すでにそれらの架け
橋を仮定しているであろうし、『ブリガドーン』での逆転のように、逆に夢の世界
のほうが、それらの懸け橋をわれわれに感じているように見えるからである。…
https://www.amazon.co.jp/全貌フレデリック・ワイズマン――アメリカ合衆国を記録する-土本-典昭/product-reviews/4000258133
5つ星のうち4.0ルジャンドルの論考収録
投稿者yojiseki2012年1月19日
形式: 単行本
ルジャンドルの論考はドゥルーズ以降の映画論でもっとも重要なものだと思う(原文初出は以下『Frederick Wiseman』)。
ドゥルーズはドキュメンタリーに関して、その虚と実を内在的に変奏(『シネマ2』)しただけで、まとまっては論じていない。制度を描くという特徴を指摘している点で、フーコーを連想するが、ルジャンドルのそれにはよりアクチュアルな指摘が目立つ。「認証(authentification)」という法学の言葉が適用され、『モデル』(1980)がその頂点とされる。
これに比べると他の論考は貧しく、ワイズマン自身によるインタビューも聞き手が理屈っぽいので成功していない。土本典昭あたりとの対談が実現できれば良かったのだが、、、
記号と事件
目に相当するのはキャメラではなく、遮蔽幕(スクリーン)のほうです。
ドゥルーズ──視線の概念が本当に必要かどうか、疑わしいと思いますね。目ははじめから事物のなかにあるのだし、イメージの一部にもなっている。つまり、目というのはイメージの可視性のことなのです
記号と事件
『運動イメージ』について
ドゥルーズ──視線の概念が本当に必要かどうか、疑わしいと思いますね。目ははじめから事物のなかにあるのだし、イメージの一部にもなっている。つまり、目というのはイメージの可視性のことなのです。…
目に相当するのはキャメラではなく、遮蔽幕(スクリーン)のほうです。
眼がスクリーンになるとき ゼロから読むドゥルーズ『シネマ』 単行本 – 2018/7/26
福尾匠 (著)
5つ星のうち 5.0 4件のカスタマーレビュー
内容紹介
ついに、『シネマ』がわかる!
思想界に颯爽と現れた26歳の新鋭、衝撃のデビュー作!
「たんに見る」ことの難しさと創造性をめぐって書かれた画期的なドゥルーズ『シネマ』入門。
本書は、「見る」ことと「読む」ことの復権を同時に実現する。
「映画とは何かを考え抜いたジル・ドゥルーズの伝説的著作『シネマ』が、本書によって、ついにわかる。
『シネマ』のロジックを一步一步解きほぐす、目からウロコの超解読。
そして、これは映画だけの話ではない。あらゆる芸術・文化を考えるのに役立つツールがここにある。」
――千葉雅也(『動きすぎてはいけない』『勉強の哲学』著者)
20世紀最大の哲学者、ジル・ドゥルーズが著した芸術と哲学をめぐる二巻本『シネマ』。
本書は、『シネマ』にとって、映画は哲学の「フッテージ(footage)」、つまり「思考の素材=足場」であると捉えなおすことから議論を開始する。
その映画というフッテージに、もうひとりの重要な哲学者となるアンリ・ベルクソンの哲学が流しこまれる。そのとき映画はイメージ=映像による〈思考〉の実践として立ち現れてくるのだ。
『シネマ』と映画の関係、ドゥルーズとベルクソンの関係というふたつの問いは、哲学にとって「見る」ことと「読む」ことがいかにして概念の創造へと導かれるかということを指し示している。
映画という特殊な経験のシステムから立ちあがる、イメージがそれ以上でもそれ以下でもなく見たままで現れる地平、「眼がスクリーンになるとき」とはどのようなことか。
そのとき観客である私たちはどんな存在へと生成するのか。
また、「私は素朴な観客です」というドゥルーズの言葉どおり、「見たまま」を肯定する態度は、ドゥルーズの哲学の創造性とどのようなつながりがあるのだろうか。
映画から哲学へ、哲学から映画へ、まっすぐに『シネマ』の核心へとスリリングに論じぬく、新鋭のデビュー作 !
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「ゼロから読む」という名前のとおり、この本はジル・ドゥルーズの『シネマ』という書物の入門的な解説書だ。したがって本書を読むにあたって、ドゥルーズについても、哲学についても、映画理論についても知っている必要はない。映画をどれだけ見たことがあるかということもまったく問題にならない。いずれにせよ本を読みながら映画を見ることはできないのだから。
本書「はじめに」より抜粋
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【目次】
はじめに
第一章 映画と哲学、ベルクソンとドゥルーズ
1-1 『シネマ』と映画
1-2 ベルクソンにおけるイメージと運動
1-3 ベルクソンの「映画的錯覚」批判とベルクソニズムによるその解決
第二章 運動イメージ――感覚-運動的に思考する映画
2-1 運動イメージの分化――宇宙の構築
2-2 運動イメージの種別化――主観性の物質的アスペクト
2-3 映画的思考1――全体とフィギュールの思考、画面外と音声
第三章 運動と時間
3-1 運動から時間へ?――ランシエールの『シネマ』批判をめぐって
3-2 零次性としての知覚イメージ――物の知覚
3-3 眼がスクリーンになるとき――運動と時間
第四章 第一、第二の時間イメージ――視-聴覚的に思考する映画
4-1 結晶イメージの境位――知覚と記憶の同時性
4-2 過去の共存と現在の同時性――「脳」と「宇宙」の新しい意味
4-3 映画的思考2――〈外〉と定理の思考、視-聴覚的映画
補遺 ドゥルーズの「減算と縮約」
第五章 第三の時間イメージ――ひとつのおなじ結論の三つの異なるバージョン
5-1 私に身体を与えてください――瞬間に持続を導入する
5-2 偽なるものが力能になるとき――『シネマ』の物語論
5-3 ふたたび『シネマ』と映画、ベルクソンとドゥルーズ
文献一覧
あとがき
内容(「BOOK」データベースより)
映画とは何かを考え抜いたジル・ドゥルーズの伝説的著作『シネマ』が、本書によって、ついにわかる。「たんに見る」ことの創造性をめぐる、『シネマ』入門。新鋭による衝撃のデビュー作!
著者について
福尾匠(ふくおたくみ)
1992年生まれ。横浜国立大学博士後期課程、日本学術振興会特別研究員(DC1)。現代フランス哲学、芸術学、映像論。論文に「映像を歩かせる——佐々木友輔『土瀝青 asphalt』および「揺動メディア論」論」(『アーギュメンツ#2』、2017年)など。翻訳にアンヌ・ソヴァニャルグ「リゾームと線」(小倉拓也との共訳、『ドゥルーズ——没後20年新たなる転回』河出書房新社、2015年)。
著者略歴 (「BOOK著者紹介情報」より)
福尾/匠
1992年生まれ。横浜国立大学博士後期課程、日本学術振興会特別研究員(DC1)。現代フランス哲学、芸術学、映像論(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)
商品の概要に戻る
眼がスクリーンになるとき ゼロから読むドゥルーズ『シネマ』 単行本 – 2018/7/26
福尾匠 (著)
また、「私は素朴な観客です」というドゥルーズの言葉どおり、「見たまま」を肯定する態度は、
ドゥルーズの哲学の創造性とどのようなつながりがあるのだろうか。
映画から哲学へ、哲学から映画へ、まっすぐに『シネマ』の核心へとスリリングに論じぬく、
新鋭のデビュー作 !
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「ゼロから読む」という名前のとおり、この本はジル・ドゥルーズの『シネマ』という書物の入門的
な解説書だ。したがって本書を読むにあたって、ドゥルーズについても、哲学についても、映画理
論についても知っている必要はない。映画をどれだけ見たことがあるかということもまったく
問題にならない。いずれにせよ本を読みながら映画を見ることはできないのだから。
本書「はじめに」より抜粋
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【目次】
はじめに
第一章 映画と哲学、ベルクソンとドゥルーズ
1-1 『シネマ』と映画
1-2 ベルクソンにおけるイメージと運動
1-3 ベルクソンの「映画的錯覚」批判とベルクソニズムによるその解決
第二章 運動イメージ――感覚-運動的に思考する映画
2-1 運動イメージの分化――宇宙の構築
2-2 運動イメージの種別化――主観性の物質的アスペクト
2-3 映画的思考1――全体とフィギュールの思考、画面外と音声
第三章 運動と時間
3-1 運動から時間へ?――ランシエールの『シネマ』批判をめぐって
3-2 零次性としての知覚イメージ――物の知覚
3-3 眼がスクリーンになるとき――運動と時間
第四章 第一、第二の時間イメージ――視-聴覚的に思考する映画
4-1 結晶イメージの境位――知覚と記憶の同時性
4-2 過去の共存と現在の同時性――「脳」と「宇宙」の新しい意味
4-3 映画的思考2――〈外〉と定理の思考、視-聴覚的映画
補遺 ドゥルーズの「減算と縮約」
第五章 第三の時間イメージ――ひとつのおなじ結論の三つの異なるバージョン
5-1 私に身体を与えてください――瞬間に持続を導入する
5-2 偽なるものが力能になるとき――『シネマ』の物語論
5-3 ふたたび『シネマ』と映画、ベルクソンとドゥルーズ
『記号と事件』より、『運動イメージ』について
《ドゥルーズ──視線の概念が本当に必要かどうか、疑わしいと思いますね。目ははじめから事物のなかにあるのだし、
イメージの一部にもなっている。つまり、目というのはイメージの可視性のことなのです。…
…
目に相当するのはキャメラではなく、遮蔽幕(スクリーン)のほうです。》
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