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火曜日, 11月 03, 2015

「プラトン哲学の転倒」umgedrehter Platonismus:メモ

「プラトン哲学の転倒」umgedrehter Platonismus:メモ
http://nam-students.blogspot.jp/2015/11/umgedrehter-platonismus.html (本頁)
プラトンの洞窟の比喩と映画
http://nam-students.blogspot.jp/2012/11/test_18.html
ニーチェ:インデックス
http://nam-students.blogspot.jp/2013/04/blog-post_1686.html
ハイデガー『存在と時間』:メモ及び目次
http://nam-students.blogspot.jp/2011/11/blog-post_26.html
ドゥルーズ『差異と反復』:メモ
http://nam-students.blogspot.jp/2012/01/blog-post_20.html
NAMs出版プロジェクト: ドゥルーズ体系:メモ
http://nam-students.blogspot.jp/2015/10/blog-post_72.html

ドゥルーズ体系:     分子化
      スピノザ 【 分 析 】 Platoカント
     Hegel\   |   /Heidegger
           千のプラトー
        ライプニッツ| ベルクソン
             \|/
 【規定】差異と反復
シネマ①意味の論理学【反省】
             /|\     [修辞学?]
        フーコー/ | (ヒューム
       (Marxアンチ Freud
          /・オイディプス
      サルトル 【 総 合 】 ニーチェ

上はカントハイデガーの準備したマトリクスである。これらを
スピノザ
  ニーチェが横断し、マルクス、フロイト(懐疑論)が左右において上下の断絶を決定づける。
出発点にはサルトルSartreがいた。

DRは強度を外から捉えていて、LSは意味を内部から捉える。
AOは社会に留まり、MPは飛び立つ。
ただし、分析的(分子的)に物質を基礎付けるのはMPの方である。
アプリオリな分析はLeibnizにある。Platoプラトン哲学の転倒が課題となる。
Bergson的な質的な差異、さらには時間とともにシーニュはProustにある。


ニーチェからハイデガーを経由してドゥルーズへ
サルトルの思想もこれに近い。

《プラトンは、最初にプラトン哲学を転倒させる者、少なくとも最初にそのような転倒の方向を示す者であるべきではなかったのか。『ソピステス』のあの壮麗な結末を思い起してみよう。差異は置き換えられ、分割はおのれ自身に敵対し、逆に機能し、そして、(空想、影、反映、絵画といった)見せかけを深く究めることによって、その見せかけがオリジナルあるいは範型から区別できないということを証明しているのである。》DR#1


7[一五六]
 私の哲学は逆転したプラトン主義。真に存在するものから遠ざかれば遠ざかるほど、
より純粋に、より美しく、より良くなってゆく。仮象のうちなる生が目的。

http://www.capurro.de/platonismus.htm
"Meine Philosophie umgedrehter Platonismus: je weiter ab vom wahrhaft Seienden,
um so reiner sch?ner besser ist es. Das Leben im Schein als Ziel." (N I, S. 180)

1870年末-1871年4月
(ニーチェ「遺された断想」『ニーチェ全集』第1期第1巻白水社267頁より)

ハイデガー『ニーチェ1』(細谷貞雄監訳平凡社ライブラリー214頁、
ドゥルーズ『差異と反復』邦訳文庫版上169,487頁、単行本102,490頁参照)

http://deleuze.web.fc2.com/DR-1.html
<現代哲学の責務は「プラトン哲学の転倒」として定義された。ところが、
プラトン哲学の転倒には、数多くのプラトン哲学の特徴が保存されている
のであって、これは、たんに避けることができないというだけでなく、望
ましい事態でもある。>(ドゥルーズ『差異と反復』邦訳単行本p102) 

文庫上169,487差異と反復
487
ハイデガー1954
Vorträge und Aufsätze. 1954年に発表された『論文・講演集』
形而上学の克服  ... Die Überwindung der Metaphysik

「(プラトンにおける)弁証法(問答法)はイロニーであるのだが、この
イロニーは、問題および問いに関する技術である。」(p109)

(p114)「プラトンは最初にプラトンを転倒させるもの」であり、ソピ
ステスにおいて「見せかけを深く究めることによってその見せかけがオリ
ジナルあるいは範型から区別できないということを証明している。」



序 論:反復と差異
第1章:それ自身における差異(プラトン『
ポリティコス』『メノン』『ソピステス』)
第2章:それ自身へ向かう反復 (プラトン『ソピステス』
『パルメニデス』『メノン』
第3章:思考のイマージュ ◯第四の公準(プラトン『国家』)◯第五の公準(プラトン『テアイテトス』)◯第八の公準(プラトン『メノン』)
第4章 差異の理念的総合(プラトン『パルメニデス』
『パイドロス』)
第5章:感覚されうるものの非対称的総合
結 論:差異と反復 

 ドゥルーズ『差異と反復』:メモ
 http://nam-students.blogspot.jp/2012/01/blog-post_20.html
 

ちなみに、差異と反復では、 
http://cosmologia.zatunen.com/deleuze/a08_1968.htm
*プラトン『ポリティコス』1
*プラトン『パイドロス』4注
*プラトン『ソピステス』1、2
・プラトン『メノン』1、2、3:8
*プラトン『テアイテトス』3:5
・プラトン『国家』3:4
*プラトン『パルメニデス』2、4
意味の論理学では、
http://cosmologia.zatunen.com/deleuze/a10_1969.htm
プラトン『パイドロス』a
プラトン『ポリティコス』a
・プラトン『ピレボス』1注、18??、a
プラトン『ソピステス』a
プラトン『テアイテトス』a注
・プラトン『ティマイオス』a注
・プラトン『クラテュロス』1
プラトン『パルメニデス』23、a
が参照されていた。*は両方で言及。aは付録1「プラトンとシミュラクル」@。
  The Logic of Sense(Logique Du Sens)
 https://books.google.co.jp/books?id=X83asrKI_b0C
 『意味の論理学(上、下)』 ドゥルーズ:目次
 http://nam-students.blogspot.jp/2015/05/blog-post_21.html


文庫版下巻
付録
Ⅰ シミュラクルと古代哲学
 Ⅰプラトンとシミュラクル (
『ポリティコス』『パルメニデス』
  プラトンの弁証論:役割の意義  (
『パイドロス』『ポリティコス』『ソピステス』)☆
  請求者の選別
  コピーとシミュラクル
  シミュラクルの特徴 (
『ピレボス』、『テアイテトス』注『ティマイオス』)
  表象の歴史
  プラトニズムを転倒すること:現代芸術作品とシミュラクルの報復
  永遠回帰の顕示内容と潜伏内容(プラトンに対抗するニーチェ)
  永遠回帰とシミュレーション
  モデルニア

 ☆
『差異と反復』と違い、ハイデガーへの言及はない(付録冒頭にあるニーチェによるプラトン主義の転倒の話は本来はハイデガー経由の課題のはず)。

http://www.capurro.de/platonismus.htm
II. Nietzsches "Herausdrehung aus dem Platonismus"
Von hier aus wenden wir uns Nietzsches "Umkehrung des Platonismus" mit Blick auf Heideggers Interpretation zu. Heideggers Bezugspunkt ist das zwiespältige Verhältnis von Kunst und Wahrheit bei Platon. "Umdrehung des Platonismus" bedeutet die "Erschütterung des Vorranges des Übersinnlichen als des Ideals" (N I, S. 187). Bei Nietzsche heißt es:

"Meine Philosophie umgedrehter Platonismus: je weiter ab vom wahrhaft Seienden, um so reiner schöner besser ist es. Das Leben im Schein als Ziel." (N I, S. 180)

Heidegger stellt nun die Frage, wieso Nietzsche trotz der Umdrehung des Platonismus das Verhältnis zwischen Kunst und Wahrheit als Zwiespalt, und zwar als einen "Entsetzen erregenden", auffaßt. Denn gesetzt, daß dieses Verhältnis für Platon ein solches des Zwiespalts wäre - die Kunst bejaht das Sinnliche, das wahrhaft Seiende ist aber das Übersinnliche -, müsste er verschwinden, wenn das Sinnliche als das Wahre bejaht wird.


https://de.wikipedia.org/wiki/Martin_Heidegger


7[一五六]
 私の哲学は逆転したプラトン主義。真に存在するものから遠ざかれば遠ざかるほど、より純粋に、よ
り美しく、より良くなってゆく。仮象のうちなる生が目的。

1870年末-1871年4月
(ニーチェ全集第一期第一巻白水社267頁より)

ハイデガーの『思惟…?1954

My philosophy is inverted Platonism: the further a thing is from true being, the purer, the lovelier, the better it is. Living in illusion as a goal!
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Friedrich Nietzsche
Friedrich Nietzsche (1844–1900), German philosopher, classical scholar, critic of culture. Friedrich Nietzsche, Sämtliche Werke: Kritische Studienausgabe, vol. 7, p. 199, selection 7[156], eds. Giorgio Colli and Mazzino Montinari, Berlin, de Gruyter (1980). Unpublished fragments dating to Late 1870April 1871.

Read more athttp://quotes.dictionary.com/my_philosophy_is_inverted_platonism_the_further_a#TmdyV95MBcGQGdYT.99

http://www.capurro.de/platonismus.htm

"Meine Philosophie umgedrehter Platonismus: je weiter ab vom wahrhaft Seienden, um so reiner schöner besser ist es. Das Leben im Schein als Ziel." (N I, S. 180)

http://deleuze.web.fc2.com/DR-1.html
…存在の一義性の第三の契機はニーチェによるものである。…
「永遠回帰とは存在の一義性のことであり、この一義性の現実的な実在化
のことである。」(ドゥルーズ『差異と反復』p77)

現代哲学の責務は「プラトン哲学の転倒」として定義された。ところが、
プラトン哲学の転倒には、数多くのプラトン哲学の特徴が保存されている
のであって、これは、たんに避けることができないというだけでなく、望
ましい事態でもある。(p102)

(プラトンにおける)弁証法(問答法)はイロニーであるのだが、この
イロニーは、問題および問いに関する技術である。」(p109)

(p114)「プラトンは最初にプラトンを転倒させるもの」であり、ソピ
ステスにおいて「見せかけを深く究めることによってその見せかけがオリ
ジナルあるいは範型から区別できないということを証明している。」



http://blogs.yahoo.co.jp/saru107f/archive/2011/11/23
本来芸術は感性にもとづくものであり、この感性にもとづく生産能力から旧来の価値体系を転倒しようとする。感性とは時に激情であり、「力への意志」の「力」も「意志」も本質的に激情であるとハイデッガーは説明している。この芸術のもつ感性は超感性的なプラトニズムと正反対なものであり、超感性的なプラトニズムを転倒する基本原理であると言っている。





現代哲学の責務は「プラトン哲学の転倒」umgedrehter Platonismus として定義された。ところが、
プラトン哲学の転倒には、数多くのプラトン哲学の特徴が保存されている
のであって、これは、たんに避けることができないというだけでなく、望
ましい事態でもある。(p102)

文庫上169

487
ハイデガー1954
Vorträge und Aufsätze. 1954年に発表された『論文・講演集』Vorträge und Aufsätze



http://www.capurro.de/platonismus.htm
II. Nietzsches "Herausdrehung aus dem Platonismus"
Von hier aus wenden wir uns Nietzsches "Umkehrung des Platonismus" mit Blick auf Heideggers Interpretation zu. Heideggers Bezugspunkt ist das zwiespältige Verhältnis von Kunst und Wahrheit bei Platon. "Umdrehung des Platonismus" bedeutet die "Erschütterung des Vorranges des Übersinnlichen als des Ideals" (N I, S. 187). Bei Nietzsche heißt es:

"Meine Philosophie umgedrehter Platonismus: je weiter ab vom wahrhaft Seienden, um so reiner schöner besser ist es. Das Leben im Schein als Ziel." (N I, S. 180)

Heidegger stellt nun die Frage, wieso Nietzsche trotz der Umdrehung des Platonismus das Verhältnis zwischen Kunst und Wahrheit als Zwiespalt, und zwar als einen "Entsetzen erregenden", auffaßt. Denn gesetzt, daß dieses Verhältnis für Platon ein solches des Zwiespalts wäre - die Kunst bejaht das Sinnliche, das wahrhaft Seiende ist aber das Übersinnliche -, müsste er verschwinden, wenn das Sinnliche als das Wahre bejaht wird.


https://de.wikipedia.org/wiki/Martin_Heidegger




現代哲学の責務は「プラトン哲学の転倒」umgedrehter Platonismus として定義された。ところが、
プラトン哲学の転倒には、数多くのプラトン哲学の特徴が保存されている
のであって、これは、たんに避けることができないというだけでなく、望
ましい事態でもある。(p102)

文庫上169差異と反復

487
ハイデガー1954
Vorträge und Aufsätze. 1954年に発表された『論文・講演集』Vorträge und Aufsätze



http://www.capurro.de/platonismus.htm
II. Nietzsches "Herausdrehung aus dem Platonismus"
Von hier aus wenden wir uns Nietzsches "Umkehrung des Platonismus" mit Blick auf Heideggers Interpretation zu. Heideggers Bezugspunkt ist das zwiespältige Verhältnis von Kunst und Wahrheit bei Platon. "Umdrehung des Platonismus" bedeutet die "Erschütterung des Vorranges des Übersinnlichen als des Ideals" (N I, S. 187). Bei Nietzsche heißt es:

"Meine Philosophie umgedrehter Platonismus: je weiter ab vom wahrhaft Seienden, um so reiner schöner besser ist es. Das Leben im Schein als Ziel." (N I, S. 180)

Heidegger stellt nun die Frage, wieso Nietzsche trotz der Umdrehung des Platonismus das Verhältnis zwischen Kunst und Wahrheit als Zwiespalt, und zwar als einen "Entsetzen erregenden", auffaßt. Denn gesetzt, daß dieses Verhältnis für Platon ein solches des Zwiespalts wäre - die Kunst bejaht das Sinnliche, das wahrhaft Seiende ist aber das Übersinnliche -, müsste er verschwinden, wenn das Sinnliche als das Wahre bejaht wird.


https://de.wikipedia.org/wiki/Martin_Heidegger




Vorträge und Aufsätze. (書籍, 1954) [WorldCat.org]
http://www.worldcat.org/title/vortrage-und-aufsatze/oclc/1167373
Aufsatzsammlung
その他のフォーマット: Online version:
Heidegger, Martin, 1889-1976.
Vorträge und Aufsätze.
Pfullingen, G. Neske [1954]
(OCoLC)654695923
ドキュメントの種類: 図書
すべての著者/寄与者: Martin Heidegger
この著者についてさらに詳しく:
OCLC No.: 1167373
物理形態: 283 pages 21 cm
コンテンツ: Die Frage nach der Technik.--Wissenschaft und Besinnung.--Überwindung der Metaphysik.--Wer ist Nietzsches Zarathustra?--Was heisst Denken?--Bauen, Wohnen, Denken.--Das Ding--" ... Dichterisch wohnet der Mensch ..."--Logos (Heraklit, Fragment 50)--Moira (Parmenides, Fragment viii, 34-41)--Aletheia (Heraklit, Fragment 16).

10:14 午前
 削除

ハイデッガー全集 - 創文社
www.sobunsha.co.jp>ホーム>書籍検索
1 | 2 ≫. 書 名, 著訳編者名, シリーズ, 刊行年月, 本体価格.
ハイデガーにおけるエルンスト・ユンガーへの取り組みの再検討 ... - nifty (Adobe PDF) -htmlで見る
homepage3.nifty.com/h~hasegawa/study/data.../20120630.pdf
例えばハイデガーは、ユンガーの七十歳記念論文集に対する寄稿「こ. の<線> ... 簡体 論文「存在の問いへ」のなかで、次のように述べております。 ... であり、他には 1954 年刊の『講演と論文』(全集第 7 巻)に収められた「形而上学の超克」.




CiNii 図書 - 形而上学の克服 : 近代哲学の終焉
ci.nii.ac.jp/ncid/BA75212503
形而上学の克服 : 近代哲学の終焉 ... Die Überwindung der Metaphysik : zu einem Ende der neuzeitlichen Philosophie .... 第4章 形而上学の個人的な記述(ウィトゲン シュタイン); 第5章 形而上学の自己記述(ハイデッガー); 第6章 形而上学の克服; 第7 ...




67 Metaphysik und Nihilismus

Die Überwindung der Metaphysik
Das Wesen des Nihilismus

___________

http://www.ne.jp/asahi/net/jpn/segawa/dgd/essay_1.htm
『差異と反復』はじめに
「本書で論じられる主題は、明らかに、時代の雰囲気の中にある。その雰囲気のしるしとして、つぎの四つの点をあげて良いだろう。まず、 ハイデガーが存在論的≪差異≫の哲学にますます強く定位しようとしていること、つぎに構造主義の活動が或る共存の空間における差異的=微分的(différentiel)な諸特徴の配分に基づいていること、さらに現代小説という芸術がそのもっとも抽象的な省察ばかりでなくその実際的な技法においても差異と反復をめぐって動いていること、最後に無意識の、言語の、そして芸術の力でもあろうような反復本来の力(puissance)があらゆる種類の分野において発見されていること。これらのすべてのしるし(シーニュ)は、或る一般化した反ヘーゲル主義に数え入れることができる。つまり、差異と反復が、同一的なものと否定的なものに、同一性と矛盾に取ってかわったのである。」邦訳文庫上11-12頁

http://borges.blog118.fc2.com/blog-entry-1605.html
『差異と反復』
「本書で論じられる主題は、明らかに、時代の雰囲気の中にある。その雰囲気のしるしとして、つぎの四つの点をあげて良いだろう。まず、ハイデガーが、存在論的〈差異〉の哲学にますます強く定位しようとしていること」(p13)

...ドゥルーズは正確に、「永遠回帰における車輪は、差異から出発しての反復の生産である」(p78)と述べているが、もしも「反復」の概念を起源に設定した場合、「差異」は各様態に「選別」されていると考えられている。このように、ドゥルーズの規定する「存在」は一義的であるのだが、これは「差異の回帰」すなわち「反復」を意味する。ドゥルーズにもしもハイデッガー的な意味での「存在論」があるとすれば、それは「永遠回帰」を本質とした「差異の回帰」の存在論なのである。
 我々がドゥルーズと「観覧車」の問題に注目する一つの決定的な理由となるテクストは以下である。「神話の構造は、プラトンにおいて明瞭に現れている。その構造とは、二つの動的な機能、すなわち、〈回転し、還帰すること〉、および〈配分すること、つまり割り振ること〉という二つの機能をもった円環である――分け前〔運命〕の割り振りは、永遠回帰の輪廻として回転する車輪に属しているのだ」(p107)。ドゥルーズはここで、プラトンの『パイドロス』、『ポリティコス』などの神話のモデルに「回転する車輪」の構造が見出されると述べている。この箇所は、永遠回帰の存在論とプラトニズムにおける「イデア」の概念が接合されている点でいっそう興味深く、また神秘的である。ドゥルーズによれば、プラトンの『パイドロス』には、「天球の外側に乗って循環するプシューケー(魂)たちによって観照されるイデアたち」(p107)という神話的モデルが見出される。また、『ポリティコス』には、「宇宙の循環的運動を自ら司る〈神―牧養者〉」(p107)という原理がやはり登場する。見落とすべきではないのは、ドゥルーズが「循環するもの」を円、ないし球体として把捉し、その「中心」は常に不動であったという神話の記述を重視している点である。かつては「中心」に「神」や「イデア」が設定されたが、ドゥルーズは現代思想においてその機能を持つ概念を「差異」に見出す。『差異と反復』は、少なくとも第一章において伝統的な神話体系、古代ギリシア哲学の中心原理を相続しつつ、新しい「語彙」によって表象=再現前化している。
 ドゥルーズは永遠回帰を可能にするのは「差異」の選別を可能にする「反復」であると述べるわけだが、永遠回帰というこの円環の中心に存在するのは「差異」であると規定する。永遠回帰の法則に従えば、全てのありとあらゆる事物はけして同一的であることができず、見られる対象だけでなく我々が見る対象の視点も常に多義的であり、画一的ではない。例えば空に浮かぶ雲は刻一刻と姿を差異化させるが、それらを見る我々の内在意識も時間によって差異化する。こうした諸差異の中で、事物は「八つ裂き」(p99)にされていると表現されている。また、永遠回帰という概念は「オリジナル/コピー」という概念の考察にも寄与する。ドゥルーズによれば、「もの」は常に反復されることによってでしか存在し得ないのであり、「もの」はそれぞれ背後に「オリジナル」なものを起源として控えてはいないのである。「もの」たちはただコピーをコピーする。したがって、「もの」は動物であろうと他の何であろうと、常に永遠回帰においてはシミュラークル(見せかけ)の状態として維持されるのである。これは我々、存在了解を有する「現存在」においても妥当する。ハイデッガーは基礎存在論において現存在の情動性に注目し、「不安」を人間存在に特有の明かし得ぬ本質として定義したが、ドゥルーズはこういった心理的概念を捨象する。彼はより大胆に、我々の本質はシミュラークルに過ぎないという事実を前提にしている。
 永遠回帰の存在論から明らかになるのは、「もの」だけでなく「事象」も含め、全ては「反復」しているという構造である。「反復」は「差異」を中心原理として回転する円環である。だとすれば、ボルヘスがいみじくも述べたように、「失う」という動詞は「発見する」という動詞と再帰的関係にあると言えるのではないだろうか? 実はドゥルーズも第一章の記念すべきラストで、以下のように述べている。「どのセリーも他のセリーの回帰によってのみ存在する以上、何も失われはしないのである。全てはシミュラークルへと生成したのだ」(p117)。「もの」は原理的には失われることができない。何故なら、失われた対象は再び回帰して表象=再現前化されるからである。第二章でも、この章の深い考察で獲得されたドゥルーズの概念は形式を変えて再演されている。例えば、以下のテクストはまさに上記のテクストの換言であろう。「常に置き換えられ、また偽装される対象の特徴である〈ジャメ・ヴュ(未視)〉は、その対象がそこから引き出される当の純粋過去一般の特徴たる〈既視(デジャ・ヴュ)〉の中に潜んでいる」(p174)。


【読書メモ】ハイデッガー「形而上学の超克」 documents/ウェブリブログ

http://42286268.at.webry.info/201411/article_3.html
マルティン・ハイデッガー「形而上学の超克」(1936年-46年)
テキスト=関口浩訳『技術への問い』(平凡社、2009年)所収

画像


「訳者後記」によるとこのテキストは、1936年から46年までの間に書かれた手記の一部だそうです。
「一」から「二八」までの断章から成っていて、論理展開が分かりにくいところ、いまの私にはどうしても解釈できないところが多々あります。
そこで、まずはそれぞれの断章の大まかな内容を並べて、その後で全体的な論旨をまとめる、という形にします。

専門分野ではないですし、本当に難しかったので、たぶん間違っているところも少なからずあります。眉に唾をつけてご覧ください。

  一 〔標題について〕

「形而上学の超克」という標題は暫定的なものであり、誤解を生みかねない。
現在、形而上学は「終わりつづけること」に達しており、しかし「終りつづけること」は継続するだろう。

  二 〔形而上学は消え去ることはない〕

形而上学はたとえ「超克」されたとしても消滅するものではなく、「労働する生物」としての人間が大地の荒廃の中をさまよう現代を支配している。
ただ、そのような現状は、いつか本当に「存在」の真理が出来する事態の前兆なのかもしれない。

  三 〔現代は「存在するものの真理の没落」の時代である〕

形而上学は人間を「理性的動物」ととらえてきた末に、現在「労働する動物」として確立した。
「労働する動物」として確立された人間は、「存在」に隠された真理を拒絶しており(=「存在忘却」に対して盲目であり〔※〕)、それと同時に、<意志への意志>にとりつかれている〔※〕ので、自分でも分からないうちに無価値な無ばかりを求めて、大地を荒廃させる。
大地の荒廃は、「形而上学の完結」という形で「存在するものの真理の没落」〔※〕を引き起こしている。
世界大戦などの破滅的な出来事は、「存在するものの真理の没落」の結果である。

※「存在忘却」とは、「存在」自体の真理を忘れていること。
名高い「存在論的差異」のことを考えればよいのですが、ハイデガーによると、従来の形而上学があつかってきた「存在」の概念の中では、じつは以下の2つの側面が混同されていました。
・「存在者」:存在するもの。
・「存在」:存在すること。存在者を存在させている(不思議な)はたらき。
ハイデガーはここでは、
・従来の形而上学はこの存在論的差異を分かっておらず、世界内の「存在するもの」ばかりを見ていたため、「存在」それ自体の真理について洞察できなかった。
・世界内のあらゆる「存在するもの」を、たんに労働の対象としてのみとらえる(そして「存在」そのものの真理を一顧だにしない)ような「労働する動物」としての人間像は、形而上学によって作られたものだ。
ということを言っているのだと思います。

※<意志への意志>とは、文字どおり、意志することを意志すること。
人間と世界との関係を、「意志」という形でとらえようとすること。
形而上学の歴史は<意志への意志>という方向に発展し、「労働する動物」(主体としての人間が意志によって自然を加工する)としての人間像を作りあげた、というふうにハイデガーは言っているのだと思います。

※「存在するものの真理の没落」は、よく分かりません。
ニーチェの「没落」の概念を、ハイデガー流に解釈し直すことで、ニーチェを批判しているのだと思いますが。
「存在」の真理を忘却したうえに、「存在者」を「用象」(=役に立つ側面。「技術への問い」参照)としてしか見なくなる、みたいなことでしょうか。

存在するものの真理の没落とは次のことを意味する。すなわち、存在するものの、しかもただ存在するもののみの顕示性が決定的なものであるべきだという要求はこれまで比類のないものであったが、その比類なさが失われるということである。


  四 〔形而上学は人間の本性に属している。近代形而上学の始まりとしてのデカルト〕

形而上学的に作られた「理性的動物」としての人間は、形而上学的にとらえられた世界しか見ることができない。
そういう意味で、形而上学は現代の人間像と切っても切れない関係にある。
そこで、近代の形而上学が人間と世界をどのようにとらえてきたのか、検討してゆく。
まずはデカルトの理論を現象学的に解釈する。
デカルトの「コギト」とは、目の前に対象を立てる「基体」である。
デカルトが「基体」としてのコギトを作ったとき、「立てること」としての「対象性」が生まれた。〔これが以後引き継がれてゆく〕

  五 〔存在論の近代的形態としてのカントの認識論〕

存在論の近代的形態は、カントのような超越論的哲学であり、それは認識論になる。
カントの認識論において、〔デカルトの「対象性」の発想が継承されて〕世界内の「存在するもの」〔=存在者〕は「対象」としてとらえられた。
さらに、カントの認識論において、真理とは〔「存在」それ自体の真理ではなく〕表象の「確実性」のこととされたせいで、形而上学はそれ自体の本質と根拠〔=探究すべき「存在」それ自体の真理〕を知りえなくなってしまった。

  六 〔形而上学の「完結」の始まりとしてのヘーゲル〕

ヘーゲルはすべてを「意志」〔としての主体〕の運動だと考えることで、形而上学を<意志への意志>という形に「完結」させる過程をスタートさせた。
ヘーゲルの規定した「現実性」とは、「確実性」という意味での存在者性の支配〔=世界内に存在する現実的な対象とは、あれこれの存在者だけである、という考え方?〕である。
〔つまりヘーゲルは、意志としての主体/存在者としての客体、という形で形而上学の「完結」を開始した、ということでしょうか〕

  七 〔形而上学は「存在」を問うてこなかった〕

アリストテレスの「エネルゲイア」という概念には、「存在」の真理を問う姿勢がみられるが、それ以後の形而上学は、「自然」としての客体と「理性」や「自由」としての主体、という方向に発展し、「存在」の真理自体を問うことがなかった。

  八 〔形而上学は西欧的思考の宿命となり、本質が無視されてきた〕

「存在」と「存在するもの」との「二重襞」〔=存在論的差異〕は、従来の形而上学において解明されることはなく、そのため、「存在」の真理は西欧的思考から宿命的に排除されてしまう。
現在、そのような形而上学は「完結」し、世界全体を無制約的に支配していっている。
だが、この形而上学の「完結」の後にはじめて、「存在」の真理が出来する可能性が生まれる〔?〕。

  九 〔「形而上学の超克」をどのように考えるべきか〕

ニーチェは「形而上学の超克」を目指したが、そこでは「超克」されるべき「形而上学」はプラトン主義〔=感性によってとらえられるものを、感性を超えたものが支配しているという考え方〕に限定されていた。
したがってニーチェの「形而上学の超克」は、プラトン主義のたんなる逆転にすぎず、じつは形而上学の枠内のものでしかない。
本当は、「形而上学の超克」は、存在忘却〔=「存在」の真理を忘れてしまっていること〕の原初的耐え忍び〔?〕の前兆として考えられるべきである。〔これが分かりません……〕

  一〇 〔<意志への意志>としての技術〕

ニーチェに至るまでの形而上学が作りあげてきた<意志への意志>とは、「存在」の「命運」の忘却であり、これによって「完結」した形而上学の時代が、現在始まろうとしている。
<意志への意志>は現在、技術という形で出現している。
〔人間は、「自らの意志で世界内の存在者を加工したい」という意志をもち、それが技術という形になっている〕

  一一 〔ニーチェの<力への意志>にたいする批判〕

ニーチェの称揚する「生の高揚」すなわち<力への意志>とは、じつは「計算」する「理性」〔=対象をとらえ、計量し、役立てる主体のはたらき〕の無制約的支配を意味してしまう。
ニーチェの思想は「存在」への深い省察にもとづくものではなく、熱狂であり、文学的現象として支持されてきたものでしかない。

  一二 〔ニーチェにおいて哲学は「完結」してしまった〕

ニーチェの<力への意志>の形而上学は、形而上学の「完結」であり、この「意志」の原理が大地を秩序づける土台となってしまった。
このように秩序づけられた世界には、もはや哲学の余地がない。

  一三 〔ニーチェにおける「真理」とはなにか〕

ニーチェの言う「真理」とは、本当に「存在」の真理なのだろうか。

  一四 〔存在論的差異の考え方の導入〕

これまで、「存在するもの」(存在者)ばかりが考えられ、「存在」自体が問われたことはないのではないか。

  一五 〔形而上学の歴史のまとめ〕

形而上学は、以下のような歴史をたどった。
1.「私は思う」の確実性〔=疑えなさ〕
2.客体としての「対象」を概念的に把握すること
3.客体としての「対象」について無制約的に思考すること〔=どこまでもくまなく支配できると考えること〕

  一六 〔「対象性」の思考はどのように生まれたか〕

「一致すること」としての真理が「確実性」としての真理となり、イデアが認知となっているとき、何かを目の前に立てる「表象」が生まれる。
この「表象」という「存在するもの〔存在者〕との関連」を前提にして、「反省」〔=「我思う」〕が生まれる。
この「反省」をもとにして、「存在」が「対象性」として規定されてしまう。
〔従来の形而上学の基盤である「対象性」はこのようにして「反省」から生まれ、存在論的差異が無視され、「存在」の真理が忘却された〕

  一七 〔「反省」と「自我性」〕

カントは「反省」の本質を熟慮する途上にあった。
カントが検討した形而上学は、「自我性」にもとづいていた。

  一八 〔形而上学が育てた「自我性」は、「人間学」を作り出す〕

デカルトの「自我」はまだ一般的な「自我性」から考えられたものではなく、個別的な人格としての「自我」だったが、「自我性」の萌芽はそこにあった。
デカルトの「自我」は、自我自身と表象されたものとの関わりとしての「確実性」に支配されていた。
ここから形而上学は、表象との関わりとしての〔構造的な〕「自我性」を作り出し、それに支配されることになった。〔必然的に、「自我性」の前に立つものとしての「対象性」の概念が生まれる〕
「完結」した形而上学の時代において、哲学は、「自我性」にもとづく「人間学」〔=すべてを人間にたいして用立てるような思考〕となってしまい、滅びることになる。

  一九 〔技術と「人間学」〕

<意志への意志>の中で、技術は「存在」の真理に関する無思慮と相通ずるものになってしまう。〔技術は人間の「意志」による用立てになってしまうから〕
そのような時代において、「人間学」は人間の研究だけにとどまらず、人間中心主義の全体化〔=「存在」の真理を無視して、あらゆるものに関して人間に役立つかどうかということだけを考えること〕を引き起こしてしまう。

  二〇 〔<力への意志>は「正しいもの」だが「真なるもの」ではない〕

ニーチェの<力への意志>は、無制約的に確かである「正しいもの」だが、その「正しさ」とは、「意志」のために世界のすべてが確保されるという考え方があらゆる事態の説明として妥当してしまうというだけの意味である。
真理の原初的な本質は<力への意志>にはない。
<力への意志>の「正しさ」は、「真なるもの」を排除してしまう。

  二一 〔純粋な形式となる<意志への意志>〕

カントの純粋意志に始まり、ニーチェの<力への意志>に至るまで、形而上学が育ててきた<意志への意志>とは、計算〔=主体が対象を計ること〕の、計算による自己確保という無制約的な意識である。
<意志への意志>は、なにも目的を持たないので、自身の確保以外の何も考慮しなくなり、ただの形式になる。

  二二 〔<意志への意志>は世界を一様なものにする〕

人間が<意志への意志>を作り出すのではなく、<意志への意志>が人間を意欲する。〔人間は<意志への意志>の運動から疎外される〕
この<意志への意志>の運動は、世界を一様なものに均質化してしまう。

  二三 〔<意志への意志>は秩序を作ろうとする〕

<意志への意志>は目的を持たないが、自らを正当化するため、「任務」を捏造して秩序を作ろうとする。〔この「任務」がよく分かりません……〕

  二四 〔力をめぐる戦いの中で、人間は存在から見放される〕

<意志への意志>は、力をめぐる戦いを生む。
人間たちはその力に支配され、存在忘却から脱出する可能性を奪われる。
その結果、人間は命運〔=存在と存在者との本質的な関係のこと?〕から閉め出され、存在から見放される。

  二五 〔ニヒリズムとは存在から見放されること〕

<意志への意志>の支配の下、人間は、「人間はすべての現実的なものを意のままにできるし、真理を知っている」と思い込んでしまう。
そこにニヒリズムが生まれる。
ニヒリズムとは、存在から見放されること〔=「存在」の真理が現われなくなること〕である。

  二六 〔存在から見放された現代の世界〕

存在から見放された人間は、無理やりに世界を秩序づけようとしたり、消費に走ったりする。
消費は無制約的で目的のない濫用に至る。
「存在するもの」を動員〔=「技術への問い」における「挑発」〕し濫用する「迷誤」の中で、世界は非世界になり、戦争と平和の区別がなくなる。
「存在するもの」を動員するための確保と秩序づけの必要性から、必然的に「指導者」の登場が要請される。
指導者は「超人」にして、本能的な「直観力」をもつという意味で動物的であり、つまり、「人間以上」にして「人間以下」の存在であるが、このような存在は、人間を「理性的動物」として規定してきた形而上学の産物にほかならない。
人間は濫用の主体になりうるという意味で最も重要な資源なので、人的資源の生産と統制が行われるだろう。
技術による代用品の大量生産から、消費のための濫用が循環しつづける。
動員と濫用の「業務」はグローバル化し、歴史を一様化すると同時に、人間を画一化する。

  二七 〔大地との関わり〕

大地は本来、<可能なもの>というつつましさの範囲内において事物を生み出したり消滅させたりしている。
しかし、技術と「意志」は大地を濫用し、<不可能なもの>であるように強いているので、現在の大地は荒廃している。
人間には、以下の2つの生き方がある。
 (A) 大地をただ利用する生き方。
 (B) 大地の恵みを受領し、大地の掟に従って存在の秘密を見守るため、故郷に住み慣れる生き方。
〔従来の形而上学は、存在論的差異を無視して主体と対象という形で世界を見てきたせいで、(A)の生き方の元凶となってしまった。本当の「形而上学の超克」とは、存在論的差異から「存在」の真理を洞察することで、(B)の生き方を作り出すことでなければならない〕

  二八

〔ここはよく分かりません……〕

  まとめ

以上、読んできたことを私なりにまとめると、以下のようになると思います。

デカルトに始まり、カントを経てヘーゲルに至って「完結」しはじめる形而上学は、世界内に存在するものを「対象」としてとらえ、対象に向かい合う人間の側に「自我」「主観」「意志」を置いた。
ニーチェは形而上学を「超克」することを目論んだが、しかしじつは、<力への意志>によって世界を見るニーチェの思想も、上記のような形而上学の延長線上のものであった、
これらの形而上学によって育てられてきたのは<意志への意志>、すなわち、「人間の意志が対象としての存在者を加工する」という形で世界をとらえようとする姿勢である。
人間が作為によって世界内のあらゆる存在者を際限なく利用する現代の「作為機構」は、このような形而上学にもとづく西欧的精神が、グローバルな規模に拡大したものである。
この「作為機構」(現代技術のシステム)は、必然的に世界戦争やファシズム、環境破壊を生む。
なぜこのようなことになったのか。
それは、従来の形而上学が世界内の存在者を「対象」としてとらえる方向に完成されていったせいであり、そもそも存在者と存在の違い(存在論的差異)を洞察できなかったせいである。
もしも存在論的差異が深く洞察され、存在そのものの真理が明らかになるならば、そのときはじめて、大地から資源を挑発して濫用するような生き方ではなく、大地の掟のもとに真理を見守りながら住み慣れるような生き方が可能になるだろう。

存在論的差異への洞察が大地への住み慣れにつながるというのは、たとえば木を見てそれをただの「存在者」としてしかとらえられない(従来の形而上学における「対象」の)考え方だと、切って木材にするだけですが、そこに木が芽生え育って「存在していること」自体の神秘に思いを致すなら、接し方も変わるという話かなと思います。



《7[一五六]
 私の哲学は逆転したプラトン主義。真に存在するものから遠ざかれば遠ざかるほど、
より純粋に、より美しく、より良くなってゆく。仮象のうちなる生が目的。
1870年末-1871年4月》
(ニーチェ「遺された断想」『ニーチェ全集』第1期第1巻白水社267頁より)

【読書メモ】ハイデッガー「形而上学の超克」 要約

http://42286268.at.webry.info/201411/article_3.html
ハイデッガー「形而上学の超克」1936年-46年(『技術への問い』平凡社、2009年、所収)

《 九 〔「形而上学の超克」をどのように考えるべきか〕
ニーチェは「形而上学の超克」を目指したが、そこでは「超克」されるべき「形而上学」は
プラトン主義〔=感性によってとらえられるものを、感性を超えたものが支配しているという
考え方〕に限定されていた。
したがってニーチェの「形而上学の超克」は、プラトン主義のたんなる逆転にすぎず、じつは
形而上学の枠内のものでしかない。
本当は、「形而上学の超克」は、存在忘却〔=「存在」の真理を忘れてしまっていること〕の
原初的耐え忍びの前兆として考えられるべきである。》

http://deleuze.web.fc2.com/DR-1.html
《現代哲学の責務は「プラトン哲学の転倒」として定義された。ところが、
プラトン哲学の転倒には、数多くのプラトン哲学の特徴が保存されている
のであって、これは、たんに避けることができないというだけでなく、望
ましい事態でもある。》(ドゥルーズ『差異と反復』邦訳単行本p102) 

《プラトニズムの転倒とは、シミュラークルを上昇させ、イコンもしくは
コピーのあいだでのその権利を確認することである。》『意味の論理学』付論1より



プラトニズムの転倒とは、シミュラークルを上昇させ、イコンもしくはコピーのあいだでのその権利を確認することである。問題は、本質と仮象、もしくはモデルとコピーという区別にはもはやかかわらない。この区別の全体は、表象の世界のなかで作用している。重要なのは、《偶像の黄昏》というこの世界のなかでの破壊である。シミュラークルは程度の落ちたコピーではなく、オリジナルとコピー、モデルと複製を否定する積極的な力を隠している。少なくともシミュラークルのなかに内化された分岐した二つのセリーのうち、どちらをオリジナルとし、どちらをコピーにするかは決められない



〈私ハ思考スル〉(コギト)は、この命題がおのれ自身とおのれの意味とを言うのだと主張するかぎりにおいて、必然的にひとつのナンセンスである。

ドゥルーズ
差異と反復結論
 

シェストフは、ドストエフスキーに、『純粋理性批判』の結末を、すなわちその完了と出口を見ていた。しばしわたしたちには、〔フローベールにおける〕ブヴァールとペキュシェに、『方法序説』の結末を見させていただきたい。で、コギトは、ひとつの愚劣なのだろうか。〈私ハ思考スル〉は、この命題がおのれ自身とおのれの意味とを言うのだと主張するかぎりにおいて、必然的にひとつのナンセンスである。しかし、コギトはまた、《私》は思考するという規定作用が、《私》は存在するという未規定な存在を直接的に対象としながらも、同時にそうした未規定なものが規定されうるものになるための形式を指定しないかぎりにおいて、反意味でもある(それは、カントが指摘していたことである)。デカルト的コギトの主体は、思考しているのではなく、ただ、思考する可能性をもっているだけであり、その可能性のただなかで依然として愚鈍であり続けるのだ。コギトには、規定されうるものの形式が欠けているのである。規定されうるものの形式といっても、それは、質料に形相を与える種的な特性、種的な形式ではなく、また現在に形式を与える記憶でもなく、それは、時間の純粋で空虚な形式なのである。思考がそれから出発して思考するようになる当の《差異》を、すなわち未規定なものと規定作用との差異としての《差異》を、思考に持ち込み思考において構成するのは、まさに時間の空虚な形式である。まさにその差異こそが、おのれ自身の両側に、抽象的な線によってひび割れた《私》と、その《私》が観照する無底(サン・フォン)から生まれた受動的自我とを割りふるのである。まさにその差異こそが、思考のなかに思考するという作用を産出するのである。なぜなら、思考は、あの脱根拠化の点のまわりにおいては差異によってはじめて思考するようになるからである。まさに差異こそが、あるいは、規定されうるものの形式こそが、思考を、すなわち、未規定なもの〔私は存在する〕と規定作用〔私は思考する〕との機械の全体を機能させるのだ。思考に関する理論は、言わば絵画であって、この理論は、おのれを表象=再現前化から抽象芸術へ移行させるような転回を必要としているのである。それこそ、イマージュなき思考に関する理論の対象なのである。

非人称的な個体化と前個体的な特異性  




3 件のコメント:

  1. 《7[一五六]
     私の哲学は逆転したプラトン主義。真に存在するものから遠ざかれば遠ざかるほど、
    より純粋に、より美しく、より良くなってゆく。仮象のうちなる生が目的。
    1870年末−1871年4月》
    (ニーチェ「遺された断想」『ニーチェ全集』第1期第1巻白水社267頁より)

    【読書メモ】ハイデッガー「形而上学の超克」 要約
    http://42286268.at.webry.info/201411/article_3.html
    ハイデッガー「形而上学の超克」1936年-46年(『技術への問い』平凡社、2009年、所収)

    《 九 〔「形而上学の超克」をどのように考えるべきか〕
    ニーチェは「形而上学の超克」を目指したが、そこでは「超克」されるべき「形而上学」は
    プラトン主義〔=感性によってとらえられるものを、感性を超えたものが支配しているという
    考え方〕に限定されていた。
    したがってニーチェの「形而上学の超克」は、プラトン主義のたんなる逆転にすぎず、じつは
    形而上学の枠内のものでしかない。
    本当は、「形而上学の超克」は、存在忘却〔=「存在」の真理を忘れてしまっていること〕の
    原初的耐え忍びの前兆として考えられるべきである。》

    http://deleuze.web.fc2.com/DR-1.html
    《現代哲学の責務は「プラトン哲学の転倒」として定義された。ところが、
    プラトン哲学の転倒には、数多くのプラトン哲学の特徴が保存されている
    のであって、これは、たんに避けることができないというだけでなく、望
    ましい事態でもある。》(ドゥルーズ『差異と反復』邦訳単行本p102)

    《プラトニズムの転倒とは、シミュラークルを上昇させ、イコンもしくは
    コピーのあいだでのその権利を確認することである。》『意味の論理学』付論1より

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  2. https://kotobank.jp/word/ゼノンの逆説-308710
    ゼノンの逆説(ゼノンのぎゃくせつ)とは - コトバンク大辞林 第三版の解説

    ゼノンのぎゃくせつ【ゼノンの逆説】


    ギリシャのエレア学派のゼノンが、師パルメニデスの「一にして不動の存在」を弁護するために、多と運動とを容認すれば矛盾が帰結することを証明した論法。「アキレスは先行する亀に追いつけない」「飛んでいる矢は静止している」など。 → アキレスの論証

    出典|三省堂大辞林 第三版について | 情報
    デジタル大辞泉の解説

    ゼノン‐の‐ぎゃくせつ【ゼノンの逆説】

    エレア学派のゼノンが、自分の学派の説を守るために提示した逆説。運動を否定するための「アキレスと亀」や「飛ぶ矢は止まっている」などが有名。ゼノンのパラドックス。
    出典|小学館デジタル大辞泉について | 情報 凡例
    日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

    ゼノンの逆説
    ぜのんのぎゃくせつ

    師パルメニデスを弁護するためにゼノン(エレアの)が考案した逆説(パラドックス)。それは〔1〕多否定論、〔2〕二分法、〔3〕アキレスと亀(かめ)、〔4〕飛矢、〔5〕競技場、である。〔1〕多くのものが存在すれば、おのおのが一つのものであって大きさをもたないゆえに無限に小さく、他方おのおのは無でない限り大きさをもつはずで、大きさは無限に分割できるゆえに無限に大きい。〔2〕目的地に行くには出発点との中間点を通らざるをえず、その中間点から目的地までのまた中間点を通らざるをえず、同様にして出てくる無限個の中間点を通過できないゆえに目的地に到達できない。〔3〕アキレスが、亀のいた地点に追い付くと、その間に亀は少し先に進んでいる。亀の進んだその地点にふたたびアキレスが追い付くと、その間に亀はまたすこし先に進んでいる。かくしてアキレスは亀に無限に近づくがけっして追い付けない。〔4〕飛んでいる矢は、今という瞬間には一定地点にあり、次の瞬間にも次の一定地点にある。こうして飛矢は各瞬間には静止しており、静止を積み重ねても運動は出てこない。〔5〕については詳細不明。[山本 巍]

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  3. 7[一五六]
     私の哲学は逆転したプラトン主義。真に存在するものから遠ざかれば遠ざかるほど、
    より純粋に、より美しく、より良くなってゆく。仮象のうちなる生が目的。

    http://www.capurro.de/platonismus.htm
    "Meine Philosophie umgedrehter Platonismus: je weiter ab vom wahrhaft Seienden,
    um so reiner sch?ner besser ist es. Das Leben im Schein als Ziel." (N I, S. 180)

    1870年末-1871年4月
    (ニーチェ「遺された断想」『ニーチェ全集』第1期第1巻白水社267頁より)



    ハイデガー『ニーチェ1』(細谷貞雄監訳平凡社ライブラリー214頁、
    ドゥルーズ『差異と反復』邦訳文庫版上169,487頁、単行本102,490頁参照)

    http://deleuze.web.fc2.com/DR-1.html
    《現代哲学の責務は「プラトン哲学の転倒」として定義された。ところが、
    プラトン哲学の転倒には、数多くのプラトン哲学の特徴が保存されている
    のであって、これは、たんに避けることができないというだけでなく、望
    ましい事態でもある。》(ドゥルーズ『差異と反復』邦訳単行本p102)

    『意味の論理学』でも言及される

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