土曜日, 12月 22, 2018

バディウ 推移的存在論 Alain Badiou Court traité d’ontologie transitoire

追記:
2019年12月ついにバディウの主著の邦訳が刊行される

存在と出来事 単行本 – 2019/12/26

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12月新刊
バディウ 推移的存在論

http://www.suiseisha.net/blog/?p=9985

目次
プロローグ 神は死んだ
第1章 今日の存在の問題
第2章 数学とは思考である
第3章 超限‐存在としての出来事
第4章 ドゥルーズの生気論的存在論
第5章 スピノザの閉じた存在論
第6章 プラトン主義と数学的存在論
第7章 アリストテレス的方向づけと論理学
第8章 論理学、哲学、「言語論的転回」
第9章 トポス概念についての初等的注解
第10章 論理学についての初等的な暫定的テーゼ
第11章 数の存在
第12章 カントの減算的存在論
第13章 群、カテゴリー、主体
第14章 存在と現れ

原著
Court traité d’ontologie transitoire, Paris, 1998
I'm reading 1998. Badiou, A. Court traité d'ontologie... on Scribd. 
Check it out:
Table
Prologue : Dieu est mort
1. La question de l'être auiourd'hui
2. La mathématique est une pensée
3. L'événement comme trans-être
4. L'ontologie vitaliste de Deleuze
5. L'ontologie fermée de Spinoza
6. Platonisme et ontologie mathématique.
7. L'orientation aristotélicienne et la logique
8. Logique, philosophie, 《tournant langagier 》
9. Premières remarques sur le concept de topos
10. Premières thèses provisoires sur la logique
11. L'être du nombre
12. L'ontologie soustractive de Kant
13. Groupe, catégorie, sujet
14. L'être et l'apparaître

Annexe
Textes publiés utilisés-comme matériau dans
la composition de ce livre


Table
Prologue : Dieu est mort
1. La question de l'etre auiourd'hui
2. La mathematique est une pensee
3. L'evenement comme trans-etre
4. L'ontologie vitaliste de Deleuze
5. L'ontologie fermee de Spinoza
6. Platonisme et ontologie mathematique.
7. L'orientation aristotelicienne et la logique
8. Logique, philosophie, 《tournant langagier 》
9. Premieres remarques sur le concept de topos
10. Premieres theses provisoires sur la logique
11. L'etre du nombre
12. L'ontologie soustractive de Kant
13. Groupe, categorie, sujet 
14. L'etre et l'apparaitre

L'ˆEtre et l'apparaˆıtre 
http://www.entretemps.asso.fr/Badiou/98-99.pdf 上より詳細なその後の講演録、図解入り、最後の記事参照

Annexe
Textes publies utilises-comme materiau dans
la composition de ce livre



Briefings on Existence: A Short Treatise on Transitory Ontology (Suny Series, Intersections: Politics And Critical Theory) (英語) 2006/3/1
Alain Badiou  (著)



#5
スピノザ論
2:21,1:公理6のカップリング(couplage 99頁)に着目していてさすが
ただし#12カント論の方がバディウの本質だろう
ハイデガーの第一批判初版称揚を批判している
訳者解説によると減算なる用語(存在ではなく出来事の属性)はメイヤスーに引き継がれた
バディウの存在と出来事(#3-p.69に要約あり)の不在は
構造主義なきポスト構造主義という日本の状況を象徴している

バディウは集合論を導入することで風通しのいい存在論、推移的存在論が可能となり
そこで捉えられない減算的な出来事が政治となるという
(バディウはドゥルーズと違い1=多の等価性、つまり政治的集合論を楽観視する)
バディウの論理はそうした枠組みでいいと思うが
日本人の感覚としては論理学は国語で数学は算数だから
ゲーデルを導入しない限り両者はまったく別々で
バディウ以上に存在と出来事の間の壁は大きい 
むしろ壁は大き過ぎて無意識化もしくは麻痺している
バディウの文脈なら先述したカップリングをヒュームの原理とを同一とみなして
論理と存在の基礎に据えることが
結局遠回りに見えるが案外近道だろう

「真の観念はその対象(観念されたもの)と一致しなければならぬ。」スピノザ『エチカ』第一部公理六


 定理二ー 精神のこの観念は、精神自身が身体と合一しているのと同様の仕方で精神と合一している。
 証明 精神が身体と合一していることを我々は身体が精神の対象であることから明らかにした(この部の定理一二および一三を見よ)。したがってこれと同じ理由により、精神の観念も、精神自身が身体と合一しているのと同様の仕方でその対象と、言いかえれば精神自身と、合一していなければならぬ。Q・E・D・  

2018年12月の新刊:推移的存在論

2018年 12月 5日 

バディウ 集合論
原著:
Court traité d’ontologie transitoire, Paris, éd. Seuil (collection "L'ordre philosophique"), 1998
Notre temps est sans aucun doute celui de la disparition sans retour des dieux. Mais cette disparition relève de trois processus distincts, puisqu'il y a eu trois dieux capitaux : celui des religions, celui de la métaphysique et celui des poètes.

Du dieu des religions, il faut seulement déclarer la mort. Le problème, qui est en dernière instance politique, est de parer aux effets désastreux qu'entraîne toute subjectivation obscure de cette mort.

Du dieu de la métaphysique, il faut achever le parcours par une pensée de l'infini qui en dissémine la ressource sur l'étendue entière des multiplicités quelconques.

Du dieu de la poésie, il faut que le poème désencombre la langue, en y césurant le dispositif de la perte et du retour.

Engagés dans la triple destitution des dieux, nous pouvons déjà dire, nous, habitants du séjour infini de la Terre, que tout est ici, toujours ici, et que la ressource de la pensée est dans la platitude égalitaire fermement avertie, fermement déclarée, de ce qui nous advient, ici.

A.B.
https://books.google.co.jp/books?isbn...
Alain Badiou - 1998 - スニペット表示 - 他の版
lect donnent sens à la singularisation existentielle de Dieu en tant que substance infinie. ... Appelons ontologie implicite de Spinoza — qui est aussi l'ensemble des opérations de fermeture de sa pensée de l'être - tout ce qui est requis pour ...
英訳:

Briefings on Existence: A Short Treatise on Transitory Ontology (Suny Series, Intersections: Politics And Critical Theory) (英語) ペーパーバック – 2006/3/1


バディウ 推移的存在論
推移的存在論推移的存在論
アラン・バディウ(著)
近藤和敬+松井久(訳)

判型:四六判上製
頁数:251頁
定価:3000円+税
ISBN:978-4-8010-0384-2 C0010
装幀:宗利淳一
12月14日頃発売!

存在論とは数学である。
「神は死んだ」――もはや宗教の神に出会うのでもなく、形而上学の原理の下に隠すのでもなく、ロマン主義のメランコリーに賭けるのでもなく、存在を思考することはいかにして可能となるのか。主著『存在と出来事』のエッセンスから出発して、集合論と圏論を携えてプラトンからカントまでを一挙に横断し、数学=存在論を宣言したバディウ哲学の転回点!

《わたしが「推移的存在論」と呼ぶのは、存在としての存在の学、つまり純粋な多の理論と、現れの学、つまり実際に現前した諸々の宇宙の一貫性の論理とのあいだで折り開かれる存在論のことである。》

目次
プロローグ 神は死んだ
第1章 今日の存在の問題
第2章 数学とは思考である
第3章 超限‐存在としての出来事
第4章 ドゥルーズの生気論的存在論
第5章 スピノザの閉じた存在論
第6章 プラトン主義と数学的存在論
第7章 アリストテレス的方向づけと論理学
第8章 論理学、哲学、「言語論的転回」
第9章 トポス概念についての初等的注解
第10章 論理学についての初等的な暫定的テーゼ
第11章 数の存在
第12章 カントの減算的存在論
第13章 群、カテゴリー、主体
第14章 存在と現れ

著者について
アラン・バディウ(Alain Badiou)
1937年、モロッコのラバトに生まれる。哲学者、作家。主な著書に、『存在と出来事』(L’Être et l’événement, Seuil, 1988)、『世界の論理』(Logique des mondes. L’être et l’événement, 2, Seuil, 2006)、『真理の内在性』(L’Immanence des vérités. L’être et l’événement, 3, Fayard, 2018)、『コミュニズムの仮説』(市川崇訳、2013年)、『議論して何になるのか』(共著、的場寿光・杉浦順子訳、2018年、いずれも水声社)などがある。

訳者について
近藤和敬(こんどうかずのり)
1979年、兵庫県に生まれ、福井県で育つ。大阪大学大学院人間科学研究科博士後期課程単位取得退学。現在、鹿児島大学法文学部准教授。専攻、哲学・哲学史。主な著書に、『カヴァイエス研究』(月曜社、2011年)、『数学的経験の哲学 エピステモロジーの冒険』(青土社、2013年)、主な訳書に、ジャン・カヴァイエス『論理学と学知の理論について』(月曜社、2013年)などがある。
松井久(まついひさし)
1972年、大阪府に生まれる。パリ・ナンテール大学博士課程修了(哲学)。現在、法政大学兼任講師。専攻、生命科学の哲学、生命科学史。主な訳書に、アンリ・ベルクソン『創造的進化』(共訳、筑摩書房、2010年)がある。

アラン・バディウの本
ベケット 果てしなき欲望/2000円
議論して何になるのか/アラン・フィンケルクロートとの共著/2800円
コミュニズムの仮説/3000円
サルコジとは誰か?/2200円
愛の世紀/ニコラ・トリュオングとの共著/2200円





以前、バディウの動画を紹介したが、他にも興味深い資料を見つけたので紹介したい。
ネグリのマルチチュードを批判した書でもあるアガンベンの『ホモ・サケル』でバディウの数学的存在論が紹介されていたのを見つけたのも動機の一つだ。
バディウは最近では『サルコジは何の名前か?』で話題になったが政治主義的(これはフランス知識人のアリバイ工作にすぎず、悪い部分だと思う)な発言の背後に集合論があったというのは発見だった。

以下、アラン・バディウの講演より(図<存在と外観>はwikipediaより)

badiou

http://en.wikipedia.org/wiki/Image:Badiou_being_and_appearance.png

Alain Badiou, scan of a drawing on paper given to the audience of the lecture titled "Art's Imperative: Speaking the Unspeakable" March 8, 2006 at Drawing Center, NYC Presented by LACANIAN INK
http://www.lacan.com/issue26.htm

音声
http://www.lacan.com/space/badiou2.mp3

http://www.lacan.com/space/badiou3.mp3


多数の存在が下方の平面に写像することによって、現象として存在する。
講演では触れられていないが、複数の存在が集合(A,B,C,D)として、四つ描かれたのは偶然ではないだろう。
詩(芸術)、愛、政治、科学(数学)の4つの集合によって世界は構成されているというのがバディウのグランド理論だからだ。

存在していない要素(e)を含む集合(図ではD)というのが謎だが、ここに出来事として生成する現在のとらえどころのなさたる由縁があるのだ(バディウ、邦訳『哲学宣言』解説参照)。
プロセスとしての真理は集合から見出せる不完全な要素から強制法(フォーシング、数学用語、上記書籍p.191参照)によってその都度見出すしかない。現出がキーワードであるということは『存在と出来事』の続編『諸世界の論理』を参照するといいのだと思うが、未邦訳であり原著も参照していない。

論理学の専門家からは批判もあるし(http://hblo.bblog.jp/entry/314239/)、 マオイストだったバディウは「ボルシェビキ」とかつてドゥルーズに揶揄されたそうだが、その政治性を失うことなく政治を分節化している点には共感を覚える(「多」と「数」の区別がついていないというのがドゥルーズのバディウへの批判だが、これは「一」に還元されがちな「多」を指摘していて正論だと思う。また、バディウもドゥルーズを「書かれたものはすべてひとつの始まりとして読まなければならない」と『存在の喧騒』<邦訳p.7>と評していて、晩年には互いによき理解者であったことが偲ばれる)。

また、ヴィトゲンシュタインの厳密な思考とドゥルーズの連結する思考(運動する「離接的総合」<前掲書p.129>)との調停としても興味深い。

この講演を公開しているlacan dot comのような組織がもっと日本にもあって良いと思う。
山口二郎氏が北海道で始めているし、神保町でも市民大学のようなものが行われているが、その公開性においてもっとウェブが活用されるべきだろう。

以下は、政治についての講義より

http://en.wikipedia.org/wiki/Image:Badiou-an_original_drawing.jpg
a drawing by Alain Badiou, handed out during his Nov 18, 2006 lecture entitled "Truth procedure in politics, with some original drawings" held at the Miguel Abreu Gallery in New York City. Presented by LACANIAN INK.

badiou2

















追記:
かつて、NAMという組織を集合論的に論じたことがあるが(http://nam-students.blogspot.com/2008/05/nam.html)、バディウのような原理論としてではなく、重なり合う和集合を具体的に分析する手段として集合論を使うべきだとも思う。現実には我々の生活における集合は重なり合うのが自然であり(『フェアトレード』、『都市はツリーではない』参照)、重なり合わない集合は政治的に一面化されたあとの残像にすぎないなのだ、、、




2018年12月の新刊:推移的存在論
#5スピノザ論
エチカ2:21,1:公理6☆のカップリング(couplage 99頁)に着目していてさすが
ただし#12カント論の方がバディウの本質だろう
ハイデガーの第一批判初版称揚を批判している
訳者解説によると減算なる用語はメイヤスーに引き継がれた
バディウの存在と出来事の邦訳不在が惜しまれる

スピノザ『エチカ』第一部公理六
「真の観念はその対象(観念されたもの)と一致しなければならぬ。」

第二部
 定理二ー 精神のこの観念は、精神自身が身体と合一しているのと同様の仕方で精神と合一している。
 証明 精神が身体と合一していることを我々は身体が精神の対象であることから明らかにした
(この部の定理一二および一三を見よ)。したがってこれと同じ理由により、精神の観念も、
精神自身が身体と合一しているのと同様の仕方でその対象と、言いかえれば精神自身と、
合一していなければならぬ。Q・E・D・