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■九州と大和の地名の一致
地名学者の鏡味完二氏はその著『日本の地名』(角川書店、1964年刊)のなかで、およそ次のようなことを述べている。
「九州と近畿の間で、地名の名付けかたが実によく一致している。これは単に民族の親近ということ以上に、九州から近畿への、大きな集団の移住があったことを思わせる」
「大きな集団の移住」、これは「邪馬台国東遷説」と重なり合うような考えである。福岡県の朝倉市と奈良県の朝倉の地との周りに、次のような驚くほどの地名の一致を見いだすことができる(地図1参照)。なお、『日本書紀』によれば、福岡県の朝倉市は、第37代斉命天皇の「朝倉の宮(朝倉の橘の広庭の宮)」があった場所であり、奈良県の朝倉の地は、第21代雄略天皇の「朝倉の宮(泊瀬の朝倉の宮)」のあった場所である。
■北九州(北の笠置山から始まって、時計の針の方向と逆に一周すれば)笠置山→春日→御笠山→住吉(墨江)神社→平群(へぐり)→池田→三井→小田→三輪→雲堤(うなで)→筑前高田→長谷山→加美(上)→朝倉→久留米→三潴(みづま)→香山(高山)→鷹取山→天瀬(あまがせ)→玖珠(くず)→上山田→山田市→田原→笠置山
■畿内(北の笠置[笠置山]から始まって同じく時計の方向と逆に一周すれば)笠置(笠置山)→春日→三笠山→住吉(墨江)神社→平群→池田→三井→織田→三輪→雲梯(うなで)→大和高田→長谷山→賀美(上)→朝倉→久米→水間(みづま)→天の香山(高山)→高取山→天ヶ瀬(あまがせ)→国樔(くず)→上山田→山田→田原→笠置山
これら23個の地名は、発音がほとんど一致している。23個の地の相対的位置も大体同じである。驚くほどの一致といってよいであろう。
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関連スレ
【邪馬台国畿内説が最有力に】〈動画あり〉卑弥呼の時代?纒向遺跡出土の桃の種 西暦135〜230年のものと判明 奈良・桜井市★13
http://egg.5ch.net/test/read.cgi/scienceplus/1546145230/
【邪馬台国の九州説に新説!?】古代史の真相に肉薄した一人の天才科学者 魏志倭人伝に示された距離の単位「里」を推定[12/07]
https://egg.5ch.net/test/read.cgi/scienceplus/1546267583/
https://ironna.jp/article/4548?p=1 九州と大和の地名の一致
地名学者の鏡味完二氏はその著『日本の地名』(角川書店、1964年刊)のなかで、およそ次のようなことを述べている。
「九州と近畿の間で、地名の名付けかたが実によく一致している。これは単に民族の親近ということ以上に、九州から近畿への、大きな集団の移住があったことを思わせる」
「大きな集団の移住」、これは「邪馬台国東遷説」と重なり合うような考えである。福岡県の朝倉市と奈良県の朝倉の地との周りに、次のような驚くほどの地名の一致を見いだすことができる(地図1参照)。なお、『日本書紀』によれば、福岡県の朝倉市は、第37代斉命天皇の「朝倉の宮(朝倉の橘の広庭の宮)」があった場所であり、奈良県の朝倉の地は、第21代雄略天皇の「朝倉の宮(泊瀬の朝倉の宮)」のあった場所である。
■北九州(北の笠置山から始まって、時計の針の方向と逆に一周すれば)笠置山→春日→御笠山→住吉(墨江)神社→平群(へぐり)→池田→三井→小田→三輪→雲堤(うなで)→筑前高田→長谷山→加美(上)→朝倉→久留米→三潴(みづま)→香山(高山)→鷹取山→天瀬(あまがせ)→玖珠(くず)→上山田→山田市→田原→笠置山
■畿内(北の笠置[笠置山]から始まって同じく時計の方向と逆に一周すれば)笠置(笠置山)→春日→三笠山→住吉(墨江)神社→平群→池田→三井→織田→三輪→雲梯(うなで)→大和高田→長谷山→賀美(上)→朝倉→久米→水間(みづま)→天の香山(高山)→高取山→天ヶ瀬(あまがせ)→国樔(くず)→上山田→山田→田原→笠置山
これら23個の地名は、発音がほとんど一致している。23個の地の相対的位置も大体同じである。驚くほどの一致といってよいであろう。
平野・遺跡・人口の分布
地図2~地図4をご覧いただきたい。
地図2をみれば分かるように、筑後川流域は、九州最大の平野部である。また、地図3は茨城大学の及川昭文氏が『東アジアの古代文化』の60号に発表した論文「シミュレーションによる遺跡分布の推定」で示された資料である。及川氏は、弥生遺跡の発掘された場所の標高、傾斜度、傾斜方向、地形、地質土壌などを調べ、それと同等の性質をもつ場所が、九州においてどのように分布しているかを示している。それが地図3である。 さらに、地図4は国立民族学博物館の小山修三氏が欧文雑誌『Senri Ethnological Studies』(『千里民俗学研究』No.2、1978年刊)に載せられた論文「Jomon Subsistence and Population(縄文時代の暮しと人口)」のなかで示されているものである。小山氏は、青森から鹿児島までの各都道府県教育委員会発行の遺跡地図に収められている集落、食糧貯蔵穴、土器大量出土地などの生活跡のデータを、コンピューターに入れ、時代別に分類し、人口の推計を行っている。そのうちの弥生時代の九州の人口(遺跡)の分布図が地図4である。
以上の地図2~地図4をみれば、筑後川流域は、九州最大の平野部で、遺跡・人口のもっとも密集している地域である。朝倉市などはその地域のなかにある。
箱式石棺の分布
宮崎公立大学の教授であった「邪馬台国=九州説」の考古学者、奥野正男氏は述べている。
「いわゆる『倭国の大乱』の終結を、二世紀末とする通説にしたがうと、九州北部では、この大乱を転換期として、墓制が甕棺から箱式石棺に移行している。つまり、この箱式石棺(これに土壙墓、石蓋土壙墓などがともなう)を主流とする墓制こそ、邪馬台国がもし畿内にあったとしても、確実にその支配下にあったとみられる九州北部の国々の墓制である」(『邪馬台国発掘』 PHP研究所、1989年刊)
「邪馬台国=畿内説」の考古学者、白石太一郎氏(大阪府立近つ飛鳥博物館長)も述べる。
「二世紀後半から三世紀、すなわち弥生後期になると、支石墓はみられなくなり、北九州でもしだいに甕棺が姿を消し、かわって箱式石棺、土壙墓、石蓋土壙墓、木棺墓が普遍化する」(「墓と墓地」、『三世紀の遺跡と遺物』 学生社、1981年刊所収)
このように、邪馬台国時代の九州での墓制は、甕棺の次の箱式石棺の時代であった。そのことは、邪馬台国「九州説」の学者も「畿内説」の学者も、ともに認めている。
最近、茨城大学名誉教授の考古学者、茂木雅博氏の大著『箱式石棺(付・全国箱式石棺集成表)』(同成社、2015年刊)が、刊行された。『箱式石棺』の本により、九州本島で、箱式石棺の出土数の多い「市と町」を示せば、図4のようになる。朝倉市がトップである。
また、箱式石棺の分布の様子を、地図上に示せば、地図5のようになる。箱式石棺は、朝倉市を中心として、分布しているようにみえる。
なお、『魏志倭人伝』は、倭人の墓制について「棺あって、槨(かく)なし」と記す。箱式石棺であれば「棺あって、槨なし」に合致する。奈良県の纒向遺跡のなかのホケノ山古墳は木槨があり、『魏志倭人伝』の記事に合わない。ホケノ山古墳よりも、時代的に後とみられる箸墓古墳も、竪穴式石室(石槨)」の時代のものとみられ、『魏志倭人伝』記述の墓制の時代よりも、後のものとみられる。
邪馬台国が、福岡県にあった確率
広島大学名誉教授であった川越哲志氏のまとめた本に、『弥生時代鉄器総覧』(広島大学文学部考古学研究室、2000年刊)がある。弥生時代の鉄器の出土地名表をまとめたものである。鉄器についての、膨大なデータが整理されている。
『魏志倭人伝』には、倭人は、「鉄鏃(てつぞく)」を用いる、などとある。『弥生時代鉄器総覧』の鉄器出土地名表を見ると、福岡県には49ページ割かれている。これに対し、奈良県には1ページも割かれていない。「邪馬台国=奈良県存在説」を説く人々には、この愕然とするほどの圧倒的な違いが目に入らないのだろうか。
例えば、弥生時代の鉄鏃の出土数をみれば、図5のようになる。『魏志倭人伝』に記されている事物(鎧・絹・勾玉など)で、遺跡・遺物を残し得るものはすべて、出土数において福岡県が奈良県を圧倒している。
図5のような分布を示すいくつかのデータから、邪馬台国が福岡県にあった確率や、奈良県にあった確率を計算によって求めることができる。県ごとの確率は、表1のようになる。
これについて詳しくは、拙著『邪馬台国は99.9%福岡県にあった』(勉誠出版、2015年刊)を、ご参照いただきたい。この確率計算にあたってご指導、ご協力をいただいた現代を代表する統計学者、松原望氏(東京大学名誉教授、聖学院大学教授)は述べている。 「統計学者が『鉄の鏃』の各県出土データを見ると、もう邪馬台国についての結論は出ています」
卑弥呼の墓
私は卑弥呼の都、邪馬台国は、朝倉市を中心とする地域にあったと考える。ただ、卑弥呼の墓は、福岡県の糸島市の「平原王墓」であろうと考える。これと同じ考えは、すでに、医師の中尾七平氏が、その著『「日本書紀」と考古学』(海鳥社、1998年刊)で述べている。
また、考古学者の原田大六氏は、平原王墓を天照大御神の墓とする。同じく考古学者の奥野正男氏は、平原王墓を卑弥呼の墓とする。考古学者の高島忠平氏も、平原王墓は卑弥呼の墓である可能性があるとする。
(1) 平原王墓出土の鏡は、主に方格規矩鏡と内行花文鏡で、これは邪馬台国時代の鏡とみるのにふさわしい。
(2) 平原王墓出土の巨大内行花文鏡を、原田大六氏は日本神話にあらわれる「八咫の鏡(やたのかがみ)」とみて、その根拠を詳しく述べている。かなり説得的である。
(3) 都の地と墓の地とが離れているケースは、古代においてはよくある。例えば、第12代景行天皇や第13代成務天皇はいずれも、滋賀県にあった「高穴穂の宮」で亡くなり、陵は奈良県にある。第15代応神天皇の都は奈良県にあり、陵は大阪府の古市古墳群にある。第35代の斉明天皇は、福岡県の「朝倉の宮」で亡くなり、陵は奈良県の高取町にある。
(4) 「平原王墓」のある伊都国の地は『魏志倭人伝』によれば、女王国に統属している地であり、特に「一大率(一人の統率者)」を置いた地であった。
(5) 「平原王墓」の出土品は、断然他を圧倒している。わが国では弥生時代~古墳時代を通じ、約5千面の青銅鏡が出土している。その5千面ほどの青銅鏡の面径の大きさのランキングのベストテンをとれば、次の表2のようになる。
ベストテンの半分の5面は「平原王墓」が占める。
また、一つの墓からの青銅鏡の副葬数のランキングのベストテンをとれば、次の表3のようになる。
古墳時代になって、あれだけ多数の前方後円墳が発掘されながら、それらを含めても、弥生時代の「平原王墓」が、鏡の多数副葬のランキングにおいて、なお、第2位を占めるのである。副葬されている鏡の質と量とにおいて、「平原王墓」を超える弥生時代の墳墓が今後出現する可能性は、まずないといってよい。
(6) 『魏志倭人伝』には、卑弥呼の墓について、「大いに塚をつくること径百余歩(約150メートル)」とある。この径百余歩は、すでに、考古学者の森浩一が指摘しているように「墓域(兆域)」と考えるべきである。
たとえば、『延喜式(えんぎしき)』の「諸陵寮」は、第15代応神天皇の陵の「兆域」を「東西五町(約545メートル)、南北五町」とする。応神天皇陵古墳の墳丘全長425メートルよりも、ずっと大きい。第38代天智天皇陵の「兆域」の「東西十四町、南北十四町」などは、一辺63.75メートルの墳丘の大きさを遥かに超える。
(7) 『魏志倭人伝』には、卑弥呼が死んだとき、徇葬(殉葬)の奴婢は百余人であった、と記されている。この奴婢の墓を求める見解がある。しかし奴婢の場合、死体を土にうずめるだけなので、墓は残らないと考えられる。
邪馬台国問題の解決のためには、つぎの四つの問題について、統一的総合的な見解が与えられる必要があると考えられる。
(1) 卑弥呼は、日本の古典に記されている誰にあたるのか。
(2) 邪馬台国はどこか(これは7万戸の人のすむ広い地域)
(3) 卑弥呼の宮殿はどこか(これは狭い地域)
(4) 卑弥呼の墓はどこか。
これらを、どれだけ統一的に説明できるかによって説の優劣が決まる。
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