土曜日, 1月 12, 2019

ライプニッツレモン宛書簡より



以下ライプニッツレモン宛書簡より(佐々木ライプニッツ術20~2頁


《私はこれまで啓蒙活動に精を出してきましたが、それだけではなく、哲学上のさまざまな学派の考え
方の下に埋もれたり散らばっていたりする真理を掘り出し結び合わせることにも努めてきました。そ
れらの考え方に私の考え方の何ほどかを付け加えて幾分なりとも前進させたものと思っております。
こうしたことが私にとって難しくなかったのは、少年時代から折に触れていろいろと勉強をしてきた
おかげです。子どもの頃にはアリストテレスを学びました。スコラの学者たちも私は嫌ではありませ
んでした。いまも毛嫌いしているわけではありません。しかしその頃から、プラトンやプロティノス
にも満足を覚えるようになりました。その後に目にした他の古代の人々もそうです。ありきたりの学
校教育から解放されてからは、近代の人々にのめり込みました。いまでも思い出しますが、一五歳の
時にライプツィヒ近郊のローゼンタールという森を一人で散歩しながら実体形相の説を支持したもの
かどうかじっくりと考えたものでした。結局は機械論が勝ち、数学に身を入れることにしたのです。
もちろん、私が数学の最も深いところにまで入り込んだのはパリでホイヘンス氏と出会ってからの
ことでした。ところが、機械論の究極根拠や運動の法則それ自体の根拠を求めたとき、それを数学的
なものの中に探すことはできない、形而上学に立ち戻ら なければならない、ということがわかって
たいそう驚きました。…


多くの学派は、自分たちが主張する点の大部分においては正当なのに、否定する点においてはそれほ
ど正当ではないようです。プラトン主義者やアリストテレス主義者のような形相主義者(Formalistes)
が事物の源泉を目的因や形相因の中に求めているのは正当です。しかし作用因や質料因を否定し、英
国のヘンリー·モア氏やその他のプラトン主義者が言ったように機械的には説明できない現象がある
などと考えた点では誤っています。しかし他方で、唯物論者(Materialistes)つまり機械論の哲学にべつ
たりの人たちは、形而上学的考察を拒んだり形に見えるものですべてを説明しようとしたりしている
点で誤っています[一七一四年1月10日レモン宛, GP-III, 607]。》


エイトン35頁によれば15歳ではなくもっと後
学士号を取得したときかもっとあと


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