18
王と臣下の関係や王と王との関係を見るには、ホメロスにあたるのが一番です。王と
家臣は法的な契約関係でむすばれるのではなく、富と財産と武装と個人的勇気の大きさ
洞察力と知恵の優秀さ、血統と先祖のよさにもとづいてむすびつき、英雄としてふるま
う王侯は高貴な一族と見なされていました。人びとが王侯に服従するのは、カースト制
度にもとづく上下関係によるのでもなければ、屈服させられたからでもなく、また、首
長だけが部族や家族を代表するという家父長制支配によるのでもなければ、明文化され
た法的支配の強要によるのでもなく、むしろ、ともに生きていくためには、命令するこ
とに慣れた支配者に、嫉妬や悪意などはいだかないで服従する必要がある、とみんなが
感じとっていたからです。
21
…詩人ホメロスはギリシャ民族の脳裡に、その若々しさと志気の高さを永遠の像として刻
みこみ、美しく男性的な英雄像は、ギリシャ世界の形成と発展の全期間をつうじて、民
族の模範とあおがれました。
…
ユダヤ人は、主体が自分の自立を意識しないがゆえに、魂の不死を信じるということ
がない。主体は独立自存の存在ではないのです。が、主体が価値なきものとされるユダ ヤ教では、かわりに、家族の自立性がみとめられる。エホバ礼拝は家族の義務とされ、
洋家族こそが実体とされます。反面、国家はユダヤ教の原理にふさわしくないもの、モー
ゼの律法になじまないものです。
…
ダビデになると、征服の旅に出かけてさえいます。律法はもともと家族
だけを対象とするものですが、すでにモーゼ五書のうちに王をのぞむ声が聞かれます。
ソロンは住民を財産の多寡によって四つの等級にわけ、もって党派の対立を緩和しょ
うとしました。四つの等級のすべてが公共事業を審議し決定する民会には出席できるが、
公職につくことができるのは上位三等級にかぎられていました。
カール大帝はこの大王国を秩序のととのった国家につくりあげ、全体をまとめあげる
ような確固たる機関を設置しました。といっても、憲法にもとづく王国体制をかれがい
たるところにはじめてもちこんだというのではなく、以前に部分的に存在していた制度
が、かれのもとで発展させられ、明確でしっかりとした効力を発揮するようになったの
です。王は国家官僚の頂点にたち、また、王位の世襲の原理もすでに確立されています。
王はまた軍隊の統率者でもあるし、最大の土地所有者でもあり、最高の裁判権もにぎっ
ています。
フリードリヒ大王は、プロイセンをプロテスタン
ト国家としてヨーロッパ列強の一角に食いこませただけでなく、近代ではほかに例のな
い独特のことですが、哲学者の王でもありました。イギリスの王は理屈好きの神学者が
多く、絶対主義の原理を擁護する論を張ったりもしますが、フリードリヒはプロテスタ
ントの原理を世俗の立場からとらえます。宗教上の論争がきらいで、論争の渦中にある
見解のいずれにもくみしないフリードリヒには、精神の奥深さと思考の自覚的な力をし
めす普遍性の意識がそなわっています。
エルサレム攻囲戦(エルサレムこういせん、英語: Siege of Jerusalem)は、西暦70年にエルサレムを巡って起こった攻城戦。ユダヤ属州のユダヤ人とローマ帝国の間に起こったユダヤ戦争(第一次ユダヤ戦争)の決戦になった。この戦いでローマ軍は、ユダヤ人の叛乱軍が66年以来立て籠もっていたエルサレムを陥落させ、市街のほか、聖地であるエルサレム神殿も破壊された。一部のユダヤ人はマサダ砦に逃れ、73年に玉砕するまで戦い続けた。
エルサレムの喪失で本拠地を失ったユダヤ民族は各地に離散した。神殿の崩壊した日は民族の悲劇の日とされ、今でもティシュアー・ベ=アーブと呼ばれる悲しみの記念日とされている。神殿の破壊を描いた絵画や、題材にした文学も現代まで数多く創作された。
④
カタラウヌムの戦い
⑤
十字軍
1096-1272
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%81%E5%AD%97%E8%BB%8D
ヨーロッパ側がエルサレムを確保した期間は1099年から1187年、および1229年から1244年ということになる(以後、20世紀までイスラムの支配下に置かれる)。
西暦紀元
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A5%BF%E6%9A%A6%E7%B4%80%E5%85%83
ADの使用
ADは、「主の年に[神の年]」を意味する中世ラテン語「anno Domini」に基づく。
英語ではラテン語の語法に従い、年数の前に「AD」という略語を置くのが伝統的である。「AD」という略語は「第4世紀AD」や「2千年紀AD」のように世紀 (millenium) といった言葉の後にもしばしば用いられる。
BCの使用
一方、「BC」は年数の後ろに置く(例えば、68 BC)。「BC」はbefore Christ(キリストの生れる前) の略語である。このために「AD」がAfter Death(キリストの死後)の略語であると誤解されることがあるが間違いである。もし「AD」が文字通りの「キリストの死後」を意味するのであれば、イエスの生涯の約33年間が紀元前にも紀元にも含まれないことになってしまう。
____
上記によると、カウルバッハはヘーゲル歴史哲学を絵画で表現しようとしていたらしい。
https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEhoSS6yrFJ1I_6TzAsgBMumcsgCDpLB2nJ1k_D3Si1SAytbBiewL_XOkxEvlskPogNDZ0qcBhs3e_yVxRaOeSKzLQCga-I9NRkpBlU5blasdoh4SjBPxbTHf9hVX4Yw8eyRJFyNRg/s1600/blogger-image-1245617859.jpg
カウルバッハ
Kaulbach
The Tower of Babel, The Rise of Greece,The Destruction of Jerusalem, The Battle of the Huns,
The Crusades, and The Reformation.
The Tower of Babel
03.12.2013 Foto: Museum Georg Schäfer
Die Strafe Gottes: Wilhelm von Kaulbach, Der Turmbau zu Babel, 1844/47.
岩波文庫歴史哲学講義上299~301
《 ニネヴェは紀元前二〇五〇年に建設されたといいますから、アッシリア帝国の建国も
そこまでさかのぼります。ついでニノス王は、バビロニア、メディア、バクトリアを配
下におさめますが、とくにバクトリアの征服は大変な難事業だった。クテシアスの計算
によると、ニノスのひきいた軍勢は,百七十万人の歩兵とそれに見合う騎兵がいたとい
うのですから。バクトリアの包囲攻撃は長くつづき、その征服の軍功は、山の急斜面を
勇敢な軍団をひきいてかけのぼった、王妃セミラミスに帰せられます。セミラミスの人
物像は神話と歴史のあいだをゆれうごいている。「旧約聖書』中の最高の伝説の一つ、
バベルの塔の建設もかの女の手になるとされています。
…
イギリス人ケル・ポーターが十二年ほど前に、古代のバビロンのあった地域を旅行し
(旅行全体は一八一七年から一八二〇年にわたりますが)、ある丘の上にバベルの塔の遺
跡を見つけたといっています。塔のまわりにはたくさんの廊下があって、その最上階に
はパール神の像がおかれていたという。ほかにも、あちこちの丘に古代の建物の遺跡が
あったそうです。煉瓦は、『旧約聖書』の塔建設の記事のとおりにならんでいて、広い
平地が無数の煉瓦におおわれていたという。もっとも、すでに何千年来煉瓦はたえず運
びさられ、古代バビロンの近くのヒラは、市全体がその煉瓦でたてられたとのことです
が。
ヘロドトスの『歴史』には、バビロン人のおもしろい風習がいくつか紹介されていま
すが、それから判断すると、かれらは平和で友好的な民族だったらしい。バビロンでだ
れかが病気になると、病人を広場につれていって、通りすがりの人がだれでも病人に忠
告できるようにするという。また、娘が結婚適齢期になると、美人には高額の出費が命
じられ、それが醜女の結婚持参金にまわされるという。ただし、出費のいかんにかかわ
らず、どの女性も一生に一度ミュリッタの神殿で行きずりの男に身をまかせねばなら
ないという。そんな要求が宗教の概念に抵触しないのかどうか、たしかめるのが困難で
す。ヘロドトスによると、悪習が広がったのは、バビロンがおとろえた後のことだそう
ですが。美人が醜女にみつぐという風習や、病人をみんなの目の前にさらすという風習
には、全体のことを考えようとする配慮が見られます。》
Battle of Salamis( The Rise of Greece)
岩波文庫下61:
《サラミスの海戦では、統制のとれていないギリシャ軍にペルシャの艦隊が撃破され
ました。意気あがる勝利の日は、ギリシャの三大悲劇詩人にとっても、それぞれに意味
のある日となっています。アイスキュロスはともにたたかって勝利に貢献し、ソフオク
レスは戦勝祝賀式でおどりに興じ、エウリピデスはこの世に生をうけています。》
この海戦でギリシア艦隊が勝利をおさめ、ペルシア戦争は新たな局面を迎えることになる。
The Destruction of Jerusalem
岩波文庫下156:
《ティトゥス, トラヤヌス、アントニヌスなどは、自分をきびしく律した皇帝として有
名です。》
157:
《名声高いヴェスパシアヌス帝とティトゥス帝のあ
とをついだのは、冷酷非道な暴君ドミティアヌスでしたが、ローマの歴史家によれば、
暴君の治下でローマ世界は元気を回復したという。明るい光源があっても、なにもかわ
ることはなく、帝国の全体が重税と略奪に苦しみ、イタリアの人口は減少し、豊饒きわ
まる土地がほったらかしにされていた。》
167:
《ところで、家族の維持や土地の所有に見いだされる外形上の満足を、ユダヤ民族から
うばいとったのが、ローマ帝国のきたえあげの歴史です。すでにシリアの王がユダヤ民
族を弾圧していますが、ユダヤ人の民族としての存在を否定したのはローマ人が最初で
す。シオンの神殿は破壊され、神につかえる民族はちりぢりになった。かくて, 一切の
篇満足はうばいさられ、民族は最初の神話の立場になげかえされて、人間の内面的本性に
苦しむことになる。ローマ世界の突きつけてくる一般的運命にたちむかうのは、悪の意
識と主へのまなざしです。》
『ティトゥスによるエルサレム破壊』。ヴィルヘルム・フォン・カウルバッハ(Wilhelm von Kaulbach)の絵画。1846年
エルサレム攻囲戦 (70年) - Wikipedia
The Battle of the Huns
岩波文庫下192:
《のちにはフン王アッティラがフン族の大軍をひきいてローマの近くまでやってくる--雷雨で増
水した川のように、なにもかも押しながしながらしばらくするとさっとひいていく、い
かにも東洋的な歴史現象の一典型で、かれらがのこした廃墟にかれらの痕跡をみとめる
3ことはできるが、かれらのすがたそのものはもはやどこにもありません。アッティラは
ガリアにも侵入し、四五一年、カタラウヌムのたたかいでアエティウス軍のはげしい抵
抗にさらされる。勝敗は不明です。アッティラはさらにイタリアへと軍をすすめ,四五
三年に死にます。その後まもなく、ローマはゲイセリクスのひきいるヴァンダル軍に占
領され、略奪される。ついに、西ローマ皇帝の位は名ばかりのものとなり、ヘルリ族の
王オドアケルがその称号にとどめをさします。》
The Crusades(十字軍)
岩波文庫下279:
《 多くの苦労と莫大な損害のすえに、正規軍はついに目的を達成しました。かれらは有
名な聖地のすべて, ベツレヘム、ゲッセマネ、ゴルゴタ、キリストの墓などを手にいれ
たのです。事件の全経過やキリスト教徒の行動全体をながめてみると、そこには、最高
の放縦と暴力行為から、最高の後悔と自省へとうつりゆく対照のあざやかさが、十字軍
の一般的性格として浮かびあがってきます。殺されたエルサレムの住民の返り血をあび
てびしょぬれになりながら、キリスト教徒は救世主の墓に顔をうずめ、熱烈な祈りをさ
さげるのです。
建設します。》
The Reformation (宗教改革)
岩波文庫下317:
《 ルターのおこなった聖書のドイツ語訳は、ドイツ国民にとってはかりしれぬ価値をも
つものでした。ドイツ語訳聖書は、カトリック世界のほかのどの国民にもない、国民の
書となりました。かれらにも祈禱書のたぐいは無数にあるが、国民の教化に役だつ根本
の書はないのです。近年、国民が自国語の聖書をもつことは目的にかなったことかどう
かの論争がもちあがりましたが、それのもたらすマイナスがなくはないとしても、それ
をはるかにしのぐ利点がある。外面的な歴史事実が、心や知性のつまずきのもとになる
可能性があるとしても、人びとにやどる宗教心は、その意味を弁別し、肝要な点をしっ
かりおさえて、つまずきを克服していくのです。最後にいえば、国民の書たるものはそ
う浅溥なものであってはならないが、とはいえ、国民の書たるには、それが唯一の書と
して尊敬されねばなりよせん。が、それが容易なことではない。いいものがつくられた
にしても、牧師がだれかれなくそれに文句をつけ、改訂版をつくりあげるからです。》
カラー版もネットにあった
中央はルターLuther
有名なポーズらしい
(後述)
_______
☆
202
The Tower of Babel
G.W.F. Hegel, The Philosophy of History, 202 Christ; consequently the founding of the Assyrian Kingdom is of no later date. Ninus reduced under his sway also Babylonia, Media and Bactriana; the conquest of which latter country is particularly extolled as having displayed the greatest energy; for Ctesias reckons the number of troops that accompanied Ninus, at 1,700,000 infantry and a proportionate number of cavalry. Bactra was besieged for a very considerable time, and its conquest is ascribed to Semiramis; who with a valiant host is said to have ascended the steep acclivity of a mountain. The personality of Semiramis wavers between mythological and historical representations. To her is ascribed the building of the Tower of Babel, respecting which we have in the Bible one of the oldest of traditions. — Babylon lay to the south, on the Euphrates, in a plain of great fertility and well adapted for agriculture. On the Euphrates and the Tigris there was considerable navigation. Vessels came partly from Armenia, partly from the South, to Babylon, and conveyed thither an immense amount of material wealth. The land round Babylon was intersected by innumerable canals; more for purposes of agriculture — to irrigate the soil and to obviate inundations — than for navigation. The magnificent buildings of Semiramis in Babylon itself are celebrated; though how much of the city is to be ascribed to the more ancient period, is undetermined and uncertain. It is said that Babylon formed a square, bisected by the Euphrates. On one side of the stream was the temple of Bel, on the other the great palaces of the monarchs. The city is reputed to have had a hundred brazen (i.e. copper) gates, its walls being a hundred feet high, and thick in proportion, defended by two hundred and fifty towers. The thoroughfares in the city which led towards the river were closed every night by brazen doors. Ker Porter, an Englishman, about twelve years ago (his whole tour occupied from 1817 to 1820) traversed the countries where ancient Babylon lay: on an elevation he thought he could discover remains still existing of the old tower of Babel; and supposed that he had found traces of the numerous roads that wound around the tower, and in whose loftiest story the image of Bel was set up. There are besides many hills with remains of ancient structures. The bricks correspond with the description in
275
Battle of Salamis( The Rise of Greece)
岩波文庫下61:
《サラミスの海戦では、統制のとれていないギリシャ軍にペルシャの艦隊が撃破され
ました。意気あがる勝利の日は、ギリシャの三大悲劇詩人にとっても、それぞれに意味
のある日となっています。アイスキュロスはともにたたかって勝利に貢献し、ソフオク
レスは戦勝祝賀式でおどりに興じ、エウリピデスはこの世に生をうけています。》
275 At the beginning of the Median wars, Lacedaemon was in possession of the Hegemony, partly as the result of having subjugated and enslaved the free nation of the Messenians, partly because it had assisted many Greek states to expel their Tyrants. Provoked by the part the Greeks had taken in assisting the Ionians against him, the Persian King sent heralds to the Greek cities to require them to give Water and Earth, i.e. to acknowledge his supremacy. The Persian envoys were contemptuously sent back, and the Lacedaemonians went so far as to throw them into a well — a deed, however, of which they afterwards so deeply repented, as to send two Lacedaemonians to Susa in expiation. The Persian King then despatched an army to invade Greece. With its vastly superior force the Athenians and Plataeans, without aid from their compatriots, contended at Marathon under Miltiades, and gained the victory. Afterwards, Xerxes came down upon Greece with his enormous masses of nations (Herodotus gives a detailed description of this expedition); and with the terrible array of land-forces was associated the not less formidable fleet. Thrace, Macedon, and Thessaly were soon subjugated; but the entrance into Greece Proper — the Pass of Thermopylae — was defended by three hundred Spartans and seven hundred Thespians, whose fate is well known. Athens, voluntarily deserted by its inhabitants, was ravaged; the images of the gods which it contained were “an abomination” to the Persians, who worshipped the Amorphous, the Unformed. In spite of the disunion of the Greeks, the Persian fleet was beaten at Salamis; and this glorious battle-day presents the three greatest tragedians of Greece in remarkable chronological association: for Æschylus was one of the combatants, and helped to gain the victory, Sophocles danced at the festival that celebrated it, and on the same day Euripides was born. The host that remained in Greece, under the command of Mardonius, was beaten at Plataea by Pausanias, and the Persian power was consequently broken at various points. Thus was Greece freed from the pressure which threatened to overwhelm it. Greater battles, unquestionably, have been fought; but these live immortal not in the historical records of Nations only, but also of Science and of Art — of the Noble and the
409
409 have been able to content itself with this sensuous presence of Deity; but when it is once granted that God exists in external phenomenal presence, this external manifestation immediately becomes infinitely varied; for the need of this presence is infinite. Thus innumerable instances will occur in the experience of the Church, in which Christ has appeared to one and another, in various places; and still more frequently his divine Mother, who as standing nearer to humanity, is a second mediator between the Mediator and man (the miracle-working images of the Virgin are in their way Hosts, since they supply a benign and gracious presence of God). In all places, therefore, there will occur manifestations of the Heavenly, in specially gracious appearances, the stigmata of Christ’s Passion, etc.; and the Divine will be realized in miracles as detached and isolated phenomena. In the period in question the Church presents the aspect of a world of miracle; to the community of devout and pious persons natural existence has utterly lost its stability and certainty: rather, absolute certainty has turned against it, and the Divine is not conceived of by Christendom under conditions of universality as the law and nature of Spirit, but reveals itself in isolated and detached phenomena, in which the rational form of existence is utterly perverted. In this complete development of the Church, we may find a deficiency: but what can be felt as a want by it? What compels it, in this state of perfect satisfaction and enjoyment, to wish for something else within the limits of its own principles — without apostatizing from itself? Those miraculous images, places, and times, are only isolated points, momentary appearances — are not an embodiment of Deity, not of the highest and absolute kind. The Host, the supreme manifestation, is to be found indeed in innumerable churches; Christ is therein transubstantiated to a present and particular existence: but this itself is of a vague and general character; it is not his actual and very presence as particularized in Space. That presence has passed away, as regards time; but as spatial and as concrete in space it has a mundane permanence in this particular spot, this particular village, etc. It is then this mundane existence [in Palestine] which Christendom desiderates, which it is resolved on attaining.
410
410 Pilgrims in crowds had indeed been able to enjoy it; but the approach to the hallowed localities is in the hands of the Infidels, and it is a reproach to Christendom that the Holy Places and the Sepulchre of Christ in particular are not in possession of the Church. In this feeling Christendom was united; consequently the Crusades were undertaken, whose object was not the furtherance of any special interests on the part of the several states that engaged in them, but simply and solely the conquest of the Holy Land. The West once more sallied forth in hostile array against the East. As in the expedition of the Greeks against Troy, so here the invading hosts were entirely composed of independent feudal lords and knights; though they were not united under a real individuality, as were the Greeks under Agamemnon or Alexander. Christendom, on the contrary, was engaged in an undertaking whose object was the securing of the definite and present existence [of Deity] — the real culmination of Individuality. This object impelled the West against the East, and this is the essential interest of the Crusades. The first and immediate commencement of the Crusades was made in the West itself. Many thousands of Jews were massacred, and their property seized; and after this terrible prelude Christendom began its march. The monk, Peter the Hermit of Amiens, led the way with an immense troop of rabble. This host passed in the greatest disorder through Hungary, and robbed and plundered as they went; but their numbers dwindled away, and only a few reached Constantinople. For rational considerations were out of the question; the mass of them believed that God would be their immediate guide and protector. The most striking proof that enthusiasm almost robbed the nations of Europe of their senses, is supplied by the fact that at a later time troops of children ran away from their parents, and went to Marseilles, there to take ship for the Holy Land. Few reached it; the rest were sold by the merchants to the Saracens as slaves. At last, with much trouble and immense loss, more regular armies attained the desired object; they beheld themselves in possession of all the Holy Places of note — Bethlehem,
335
335 during their time, to give the Roman Empire an organization of free social relationship: they were only a kind of happy chance, which passes over without a trace, and leaves the condition of things as it was. For these persons find themselves here in a position in which they cannot be said to act, since no object confronts them in opposition; they have only to will — well or ill — and it is so. The praiseworthy emperors Vespasian and Titus were succeeded by that coarsest and most loathsome tyrant, Domitian: yet the Roman historian tells us that the Roman world enjoyed tranquillizing repose under him. Those single points of light, therefore, effected no change; the whole empire was subject to the pressure of taxation and plunder; Italy was depopulated; the most fertile lands remained untilled: and this state of things lay as a fate on the Roman world.
ティトゥスの名前
岩波文庫新版下157頁対応
337~411
The Destruction of Jerusalem,
岩波文庫下156:
《ティトゥス, トラヤヌス、アントニヌスなどは、自分をきびしく律した皇帝として有
名です。》
157:
《名声高いヴェスパシアヌス帝とティトゥス帝のあ
とをついだのは、冷酷非道な暴君ドミティアヌスでしたが、ローマの歴史家によれば、
暴君の治下でローマ世界は元気を回復したという。明るい光源があっても、なにもかわ
ることはなく、帝国の全体が重税と略奪に苦しみ、イタリアの人口は減少し、豊饒きわ
まる土地がほったらかしにされていた。》
167:
《ところで、家族の維持や土地の所有に見いだされる外形上の満足を、ユダヤ民族から
うばいとったのが、ローマ帝国のきたえあげの歴史です。すでにシリアの王がユダヤ民
族を弾圧していますが、ユダヤ人の民族としての存在を否定したのはローマ人が最初で
す。シオンの神殿は破壊され、神につかえる民族はちりぢりになった。かくて, 一切の
篇満足はうばいさられ、民族は最初の神話の立場になげかえされて、人間の内面的本性に
苦しむことになる。ローマ世界の突きつけてくる一般的運命にたちむかうのは、悪の意
識と主へのまなざしです。》
337~
~353
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Chapter II. Christianity. It has been remarked that Caesar inaugurated the Modern World on the side of reality, while its spiritual and inward existence was unfolded under Augustus. At the beginning of that empire, whose principle we have recognized as finiteness and particular subjectivity exaggerated to infinitude, the salvation of the World had its birth in the same principle of subjectivity — viz., as a particular person, in abstract subjectivity, but in such a way that conversely, finiteness is only the form of his appearance, while infinity and absolutely independent existence constitute the essence and substantial being which it embodies. The Roman World, as it has been described — in its desperate condition and the pain of abandonment by God — came to an open rupture with reality, and made prominent the general desire for a satisfaction such as can only be attained in “the inner man,” the Soul — thus preparing the ground for a higher Spiritual World. Rome was the Fate that crushed down the gods and all genial life in its hard service, while it was the power that purified the human heart from all speciality. Its entire condition is therefore analogous to a place of birth, and its pain is like the travail-throes of another and higher Spirit, which manifested itself in connection with the Christian Religion. This higher Spirit involves the reconciliation and emancipation of Spirit; while man obtains the consciousness of Spirit in its universality and infinity. The Absolute Object, Truth, is Spirit; and as man himself is Spirit, he is present [is mirrored] to himself in that object, and thus in his Absolute Object has found Essential Being and his own essential being.21 But in order that the objectivity of Essential Being may be done away with, and Spirit be no longer alien to itself — may be with itself [self- harmonized] — the
353 as human. The distinction between Religion and the World is only this — that Religion as such, is Reason in the soul and heart — that it is a temple in which Truth and Freedom in God are presented to the conceptive faculty: the State, on the other hand, regulated by the selfsame Reason, is a temple of Human Freedom concerned with the perception and volition of a reality, whose purport may itself be called divine. Thus Freedom in the State is preserved and established by Religion, since moral rectitude in the State is only the carrying out of that which constitutes the fundamental principle of Religion. The process displayed in History is only the manifestation of Religion as Human Reason — the production of the religious principle which dwells in the heart of man, under the form of Secular Freedom. Thus the discord between the inner life of the heart and the actual world is removed. To realize this is, however, the vocation of another people — or other peoples — viz., the German. In ancient Rome itself, Christianity cannot find a ground on which it may become actual, and develop an empire.
411 Gethsemane, Golgotha, and even the Holy Sepulchre. In the whole expedition — in all the acts of the Christians — appeared that enormous contrast (a feature characteristic of the age) — the transition on the part of the Crusading host from the greatest excesses and outrages to the profoundest contrition and humiliation. Still dripping with the blood of the slaughtered inhabitants of Jerusalem, the Christians fell down on their faces at the tomb of the Redeemer, and directed their fervent supplications to him. Thus did Christendom come into the possession of its highest good. Jerusalem was made a kingdom, and the entire feudal system was introduced there — a constitution which, in presence of the Saracens, was certainly the worst that could be adopted. Another crusade in the year 1204 resulted in the conquest of Constantinople and the establishment of a Latin Empire there. Christendom, therefore, had appeased its religious craving; it could now veritably walk unobstructed in the footsteps of the Saviour. Whole shiploads of earth were brought from the Holy Land to Europe. Of Christ himself no corporeal relics could be obtained, for he was arisen: the Sacred Handkerchief, the Cross, and lastly the Sepulchre, were the most venerated memorials. But in the Grave is found the real point of retro-version; it is in the grave that all the vanity of the Sensuous perishes. At the Holy Sepulchre the vanity of [the cherished] opinion passes away [the fancies by which the substance of truth has been obscured disappear] ; there all is seriousness. In the negation of that definite and present embodiment — i.e., of the Sensuous — it is that the turning-point in question is found, and those words have an application: “Thou wouldst not suffer thy Holy One to see corruption.” Christendom was not to find its ultimatum of truth in the grave. At this sepulchre the Christian world received a second time the response given to the disciples when they sought the body of the Lord there: “Why seek ye the living among the dead? He is not here, but is risen.” You must not look for the principle of your religion in the Sensuous, in the grave among the dead, but in the living Spirit in yourselves. We have seen how the vast idea of the union of the Finite with the Infinite was perverted to such a degree as that men looked for a definite
354
The Battle of the Huns,
岩波文庫下192:
《のちにはフン王アッティラがフン族の大軍をひきいてローマの近くまでやってくる--雷雨で増
水した川のように、なにもかも押しながしながらしばらくするとさっとひいていく、い
かにも東洋的な歴史現象の一典型で、かれらがのこした廃墟にかれらの痕跡をみとめる
3ことはできるが、かれらのすがたそのものはもはやどこにもありません。アッティラは
ガリアにも侵入し、四五一年、カタラウヌムのたたかいでアエティウス軍のはげしい抵
抗にさらされる。勝敗は不明です。アッティラはさらにイタリアへと軍をすすめ,四五
三年に死にます。その後まもなく、ローマはゲイセリクスのひきいるヴァンダル軍に占
領され、略奪される。ついに、西ローマ皇帝の位は名ばかりのものとなり、ヘルリ族の
王オドアケルがその称号にとどめをさします。》
354 which had glorified the Roman world. Under him the pagan temples were shut, the sacrifices and ceremonies abolished, and paganism itself forbidden: gradually however it entirely vanished of itself. The heathen orators of the time cannot sufficiently express their wonder and astonishment at the monstrous contrast between the days of their forefathers and their own. “Our Temples have become Tombs. The places which were formerly adorned with the holy statues of the Gods are now covered with sacred bones (relics of the Martyrs); men who have suffered a shameful death for their crimes, whose bodies are covered with stripes, and whose heads have been embalmed, are the object of veneration.” All that was contemned is exalted; all that was formerly revered, is trodden in the dust. The last of the pagans express this enormous contrast with profound lamentation. The Roman Empire was divided between the two sons of Theodosius. The elder, Arcadius, received the Eastern Empire: — Ancient Greece, with Thrace, Asia Minor, Syria, Egypt; the younger, Honorius, the Western: — Italy, Africa, Spain, Gaul, Britain. Immediately after the death of Theodosius, confusion entered, and the Roman provinces were overwhelmed by alien peoples. Already, under the Emperor Valens, the Visigoths, pressed by the Huns, had solicited a domicile on the hither side of the Danube. This was granted them, on the condition that they should defend the border provinces of the empire. But maltreatment roused them to revolt. Valens was beaten and fell on the field. The later emperors paid court to the leader of these Goths. Alaric, the bold Gothic Chief, turned his arms against Italy. Stilicho, the general and minister of Honorius, stayed his course, A.D. 403, by the battle of Pollentia, as at a later date he also routed Radagaisus, leader of the Alans, Suevi, and others. Alaric now attacked Gaul and Spain, and on the fall of Stilicho returned to Italy. Rome was stormed and plundered by him A.D. 410. Afterwards Attila advanced on it with the terrible might of the Huns — one of those purely Oriental phenomena, which, like a mere storm-torrent, rise to a furious height and bear down everything in their course, but in a brief space are so completely spent, that nothing is seen of them but the traces they have left in the ruins which they have occasioned. Attila pressed into Gaul,
where, A.D. 451, a vigorous resistance was offered him by Ætius, near Chalons on the Marne. Victory remained doubtful. Attila subsequently marched upon Italy and died in the year 453. Soon afterwards however Rome was taken and plundered by the Vandals under Genseric. Finally, the dignity of the Western Emperors became a farce, and their empty title was abolished by Odoacer, King of the Heruli.
Crusades,
岩波文庫下279:
《 多くの苦労と莫大な損害のすえに、正規軍はついに目的を達成しました。かれらは有
名な聖地のすべて, ベツレヘム、ゲッセマネ、ゴルゴタ、キリストの墓などを手にいれ
たのです。事件の全経過やキリスト教徒の行動全体をながめてみると、そこには、最高
の放縦と暴力行為から、最高の後悔と自省へとうつりゆく対照のあざやかさが、十字軍
の一般的性格として浮かびあがってきます。殺されたエルサレムの住民の返り血をあび
てびしょぬれになりながら、キリスト教徒は救世主の墓に顔をうずめ、熱烈な祈りをさ
さげるのです。
建設します。》
407~
Crusades,
Chapter II. The Crusades. The Church gained the victory in the struggle referred to in the previous chapter; and in this way secured as decided a
408 supremacy in Germany, as she did in the other states of Europe by a calmer process. She made herself mistress of all the relations of life, and of science and art; and she was the permanent repository of spiritual treasures. Yet notwithstanding this full and complete development of ecclesiastical life, we find a deficiency and consequent craving manifesting itself in Christendom, and which drove it out of itself. To understand this want, we must revert to the nature of the Christian religion itself, and particularly to that aspect of it by which it has a footing in the Present in the consciousness of its votaries. The objective doctrines of Christianity had been already so firmly settled by the Councils of the Church, that neither the mediaeval nor any other philosophy could develop them further, except in the way of exalting them intellectually, so that they might be satisfactory as presenting the form of Thought. And one essential point in this doctrine was the recognition of the Divine Nature as not in any sense an other-world existence [ein Jenseits], but as in unity with Human Nature in the Present and Actual. But this Presence is at the same time exclusively Spiritual Presence. Christ as a particular human personality has left the world; his temporal existence is only a past one — i.e., it exists only in mental conception. And since the Divine existence on earth is essentially of a spiritual character, it cannot appear in the form of a Dalai-Lama. The Pope, however high his position as Head of Christendom and Vicar of Christ, calls himself only the Servant of Servants. How then did the Church realize Christ as a definite and present existence? The principal form of this realization was, as remarked above, the Holy Supper, in the form it presented as the Mass: in this the Life, Suffering, and Death of the actual Christ were verily present, as an eternal and daily repeated sacrifice. Christ appears as a definite and present existence in a sensuous form as the Host, consecrated by the Priest; so far all is satisfactory: that is to say, it is the Church, the Spirit of Christ, that attains in this ordinance direct and full assurance. But the most prominent feature in this sacrament is, that the process by which Deity is manifested, is conditioned by the limitations of particularity — that the Host, this Thing, is set up to be adored as God. The Church then might
409 have been able to content itself with this sensuous presence of Deity; but when it is once granted that God exists in external phenomenal presence, this external manifestation immediately becomes infinitely varied; for the need of this presence is infinite. Thus innumerable instances will occur in the experience of the Church, in which Christ has appeared to one and another, in various places; and still more frequently his divine Mother, who as standing nearer to humanity, is a second mediator between the Mediator and man (the miracle-working images of the Virgin are in their way Hosts, since they supply a benign and gracious presence of God). In all places, therefore, there will occur manifestations of the Heavenly, in specially gracious appearances, the stigmata of Christ’s Passion, etc.; and the Divine will be realized in miracles as detached and isolated phenomena. In the period in question the Church presents the aspect of a world of miracle; to the community of devout and pious persons natural existence has utterly lost its stability and certainty: rather, absolute certainty has turned against it, and the Divine is not conceived of by Christendom under conditions of universality as the law and nature of Spirit, but reveals itself in isolated and detached phenomena, in which the rational form of existence is utterly perverted. In this complete development of the Church, we may find a deficiency: but what can be felt as a want by it? What compels it, in this state of perfect satisfaction and enjoyment, to wish for something else within the limits of its own principles — without apostatizing from itself? Those miraculous images, places, and times, are only isolated points, momentary appearances — are not an embodiment of Deity, not of the highest and absolute kind. The Host, the supreme manifestation, is to be found indeed in innumerable churches; Christ is therein transubstantiated to a present and particular existence: but this itself is of a vague and general character; it is not his actual and very presence as particularized in Space. That presence has passed away, as regards time; but as spatial and as concrete in space it has a mundane permanence in this particular spot, this particular village, etc. It is then this mundane existence [in Palestine] which Christendom desiderates, which it is resolved on attaining.
410 Pilgrims in crowds had indeed been able to enjoy it; but the approach to the hallowed localities is in the hands of the Infidels, and it is a reproach to Christendom that the Holy Places and the Sepulchre of Christ in particular are not in possession of the Church. In this feeling Christendom was united; consequently the Crusades were undertaken, whose object was not the furtherance of any special interests on the part of the several states that engaged in them, but simply and solely the conquest of the Holy Land. The West once more sallied forth in hostile array against the East. As in the expedition of the Greeks against Troy, so here the invading hosts were entirely composed of independent feudal lords and knights; though they were not united under a real individuality, as were the Greeks under Agamemnon or Alexander. Christendom, on the contrary, was engaged in an undertaking whose object was the securing of the definite and present existence [of Deity] — the real culmination of Individuality. This object impelled the West against the East, and this is the essential interest of the Crusades. The first and immediate commencement of the Crusades was made in the West itself. Many thousands of Jews were massacred, and their property seized; and after this terrible prelude Christendom began its march. The monk, Peter the Hermit of Amiens, led the way with an immense troop of rabble. This host passed in the greatest disorder through Hungary, and robbed and plundered as they went; but their numbers dwindled away, and only a few reached Constantinople. For rational considerations were out of the question; the mass of them believed that God would be their immediate guide and protector. The most striking proof that enthusiasm almost robbed the nations of Europe of their senses, is supplied by the fact that at a later time troops of children ran away from their parents, and went to Marseilles, there to take ship for the Holy Land. Few reached it; the rest were sold by the merchants to the Saracens as slaves. At last, with much trouble and immense loss, more regular armies attained the desired object; they beheld themselves in possession of all the Holy Places of note — Bethlehem,
411 Gethsemane, Golgotha, and even the Holy Sepulchre. In the whole expedition — in all the acts of the Christians — appeared that enormous contrast (a feature characteristic of the age) — the transition on the part of the Crusading host from the greatest excesses and outrages to the profoundest contrition and humiliation. Still dripping with the blood of the slaughtered inhabitants of Jerusalem, the Christians fell down on their faces at the tomb of the Redeemer, and directed their fervent supplications to him. Thus did Christendom come into the possession of its highest good. Jerusalem was made a kingdom, and the entire feudal system was introduced there — a constitution which, in presence of the Saracens, was certainly the worst that could be adopted. Another crusade in the year 1204 resulted in the conquest of Constantinople and the establishment of a Latin Empire there. Christendom, therefore, had appeased its religious craving; it could now veritably walk unobstructed in the footsteps of the Saviour. Whole shiploads of earth were brought from the Holy Land to Europe. Of Christ himself no corporeal relics could be obtained, for he was arisen: the Sacred Handkerchief, the Cross, and lastly the Sepulchre, were the most venerated memorials. But in the Grave is found the real point of retro-version; it is in the grave that all the vanity of the Sensuous perishes. At the Holy Sepulchre the vanity of [the cherished] opinion passes away [the fancies by which the substance of truth has been obscured disappear] ; there all is seriousness. In the negation of that definite and present embodiment — i.e., of the Sensuous — it is that the turning-point in question is found, and those words have an application: “Thou wouldst not suffer thy Holy One to see corruption.” Christendom was not to find its ultimatum of truth in the grave. At this sepulchre the Christian world received a second time the response given to the disciples when they sought the body of the Lord there: “Why seek ye the living among the dead? He is not here, but is risen.” You must not look for the principle of your religion in the Sensuous, in the grave among the dead, but in the living Spirit in yourselves. We have seen how the vast idea of the union of the Finite with the Infinite was perverted to such a degree as that men looked for a definite
412 embodiment of the Infinite in a mere isolated outward object [the Host]. Christendom found the empty Sepulchre, but not the union of the Secular and the Eternal; and so it lost the Holy Land. It was practically undeceived; and the result which it brought back with it was of a negative kind: viz., that the definite embodiment which it was seeking, was to be looked for in Subjective Consciousness alone, and in no external object; that the definite form in question, presenting the union of the Secular with the Eternal, is the Spiritual self-cognizant independence of the individual. Thus the world attains the conviction that man must look within himself for that definite embodiment of being which is of a divine nature: subjectivity thereby receives absolute authorization, and claims to determine for itself the relation [of all that exists] to the Divine.32 This then was the absolute result of the Crusades, and from them we may date the commencement of self-reliance and spontaneous activity. The West bade an eternal farewell to the East at the Holy Sepulchre, and gained a comprehension of its own principle of subjective infinite Freedom. Christendom never appeared again on the scene of history as one body. Crusades of another kind, bearing somewhat the character of wars with a view to mere secular conquest, but which involved a religious interest also, were the contests waged by Spain against the Saracens in the peninsula itself. The Christians had been shut up in a corner by the Arabs; but they gained upon their adversaries in strength, because the Saracens in Spain and Africa were engaged in war in various directions, and were divided among themselves. The Spaniards, united with Frank knights, undertook frequent expeditions against the Saracens; and in this collision of the Christians with the chivalry of the East — with its freedom and perfect independence of soul — the former became also partakers in this freedom. Spain gives us the fairest picture of the knighthood of the Middle Ages, and its hero is the Cid. Several Crusades, the records of which excite our unmixed loathing and detestation, were undertaken against the South of France also. There an aesthetic culture had developed itself: the Troubadours had introduced a freedom of manners similar to that which prevailed under the Hohenstaufen Emperors in Germany;
413 but with this difference, that the former had in it something affected, while the latter was of a more genuine kind. But as in Upper Italy, so also in the South of France fanatical ideas of purity had been introduced;33 a Crusade was therefore preached against that country by Papal authority. St. Dominic entered it with a vast host of invaders, who, in the most barbarous manner, pillaged and murdered the innocent and the guilty indiscriminately, and utterly laid waste the fair region which they inhabited. Through the Crusades the Church reached the completion of its authority: it had achieved the perversion of religion and of the divine Spirit; it had distorted the principle of Christian Freedom to a wrongful and immoral slavery of men’s souls; and in so doing, far from abolishing lawless caprice and violence and supplanting them by a virtuous rule of its own, it had even enlisted them in the service of ecclesiastical authority. In the Crusades the Pope stood at the head of the secular power: the Emperor appeared only in a subordinate position, like the other princes, and was obliged to commit both the initiative and the executive to the Pope, as the manifest generalissimo of the expedition. We have already seen the noble house of Hohenstaufen presenting the aspect of chivalrous, dignified and cultivated opponents of the Papal power, when Spirit [the moral and intellectual element in Christendom] had given up the contest. We have seen how they were ultimately obliged to yield to the Church; which, elastic enough to sustain any attack, bore down all opposition and would not move a step towards conciliation. The fall of the Church was not to be effected by open violence; it was from within — by the power of Spirit and by an influence that wrought its way upwards — that ruin threatened it. Respect for the Papacy could not but be weakened by the very fact that the lofty aim of the Crusades — the satisfaction expected from the enjoyment of the sensuous Presence — was not attained. As little did the Popes succeed in keeping possession of the Holy Land. Zeal for the holy cause was exhausted among the princes of Europe. Grieved to the heart by the defeat of the Christians, the Popes again and again urged them to advance to the rescue; but lamentations and entreaties
414 were vain, and they could effect nothing. Spirit, disappointed with regard to its craving for the highest form of the sensuous presence of Deity, fell back upon itself. A rupture, the first of its kind and profound as it was novel, took place. From this time forward we witness religious and intellectual movements in which Spirit — transcending the repulsive and irrational existence by which it is surrounded — either finds its sphere of exercise within itself, and draws upon its own resources for satisfaction, or throws its energies into an actual world of general and morally justified aims, which are therefore aims consonant with Freedom. The efforts thus originated are now to be described: they were the means by which Spirit was to be prepared to comprehend the grand purpose of its Freedom in a form of greater purity and moral elevation. To this class of movements belongs in the first place the establishment of monastic and chivalric orders, designed to carry out those rules of life which the Church had distinctly enjoined upon its members. That renunciation of property, riches, pleasures, and free will, which the Church had designated as the highest of spiritual attainments, was to be a reality — not a mere profession. The existing monastic and other institutions that had adopted this vow of renunciation, had been entirely sunk in the corruption of worldliness. But now Spirit sought to realize in the sphere of the principle of negativity — purely in itself — what the Church had demanded. The more immediate occasion of this movement was the rise of numerous heresies in the South of France and Italy, whose tendency was in the direction of enthusiasm; and the unbelief which was now gaining ground, but which the Church justly deemed not so dangerous as those heresies. To counteract these evils, new monastic orders were founded, the chief of which was that of the Franciscans, or Mendicant Friars, whose founder, St. Francis of Assisi — a man possessed by an enthusiasm and ecstatic passion that passed all bounds — spent his life in continually striving for the loftiest purity. He gave an impulse of the same kind to his order; the greatest fervor of devotion, the sacrifice of all pleasures in contravention of the prevailing worldliness of the Church, continual penances, the severest poverty (the Franciscans lived
415 on daily alms) — were therefore peculiarly characteristic of it. Contemporaneously with it arose the Dominican order, founded by St. Dominic; its special business was preaching. The mendicant friars were diffused through Christendom to an incredible extent; they were, on the one hand, the standing apostolic army of the Pope, while, on the other hand, they strongly protested against his worldliness. The Franciscans were powerful allies of Louis of Bavaria in his resistance of the Papal assumptions, and they are said to have been the authors of the position, that a General Council was higher authority than the Pope; but subsequently they too sank down into a torpid and unintelligent condition. In the same way the ecclesiastical Orders of Knighthood contemplated the attainment of purity of Spirit. We have already called attention to the peculiar chivalric spirit which had been developed in Spain through the struggle with the Saracens: the same spirit was diffused as the result of the Crusades through the whole of Europe. The ferocity and savage valor that characterized the predatory life of the barbarians — pacified and brought to a settled state by possession, and restrained by the presence of equals — was elevated by religion and then kindled to a noble enthusiasm through contemplating the boundless magnanimity of Oriental prowess. For Christianity also contains the element of boundless abstraction and freedom; the Oriental chivalric spirit found therefore in Occidental hearts a response, which paved the way for their attaining a nobler virtue than they had previously known. Ecclesiastical orders of knighthood were instituted on a basis resembling that of the monastic fraternities. The same conventual vow of renunciation was imposed on their members — the giving up of all that was worldly. But at the same time they undertook the defence of the pilgrims: their first duty therefore was knightly bravery; ultimately, they were also pledged to the sustenance and care of the poor and the sick. The Orders of Knighthood were divided into three: that of St. John, that of the Temple, and the Teutonic Order. These associations are essentially distinguished from the self-seeking principle of feudalism. Their members sacrificed themselves with almost suicidal bravery for a common interest. Thus these Orders transcended the circle of their immediate
416 environment, and formed a network of fraternal coalition over the whole of Europe. But their members sank down to the level of vulgar interests, and the Orders became in the sequel a provisional institute for the nobility generally, rather than anything else. The Order of the Temple was even accused of forming a religion of its own, and of having renounced Christ in the creed which, under the influence of the Oriental Spirit, it had adopted. A second impulsion, having a similar origin, was that in the direction of Science. The development of Thought — the abstractly Universal — now had its commencement. Those fraternal associations themselves, having a common object, in whose service their members were enlisted, point to the fact that a general principle was beginning to be recognized, and which gradually became conscious of its power. Thought was first directed to Theology, which now became Philosophy under the name of Scholastic Divinity. For philosophy and theology have the Divine as their common object; and although the theology of the Church was a stereotyped dogma, the impulse now arose to justify this body of doctrine in the view of Thought. “When we have arrived at Faith,” says the celebrated scholastic, Anselm, “it is a piece of negligence to stop short of convincing ourselves, by the aid of Thought, of that to which we have given credence.” But thus conditioned Thought was not free, for its material was already posited ab extra; it was to the proof of this material that philosophy devoted its energies. But Thought suggested a variety of questions, the complete answer to which was not given directly in the symbols of the Church; and since the Church had not decided respecting them, they were legitimate subjects of controversy. Philosophy was indeed called an ancilla fidei, for it was in subjection to that material of the Church’s creed, which had been already definitely settled; but yet it was impossible for the opposition between Thought and Belief not to manifest itself. As Europe presented the spectacle of chivalric contests generally — passages of arms and tournaments — it was now the theatre for intellectual jousting also. It is incredible to what an extent the abstract forms of Thought were developed, and what dexterity was acquired in the use of them. This intellectual tourneying for
417 the sake of exhibiting skill, and as a diversion (for it was not the doctrines themselves, but only the forms in which they were couched that made the subject of debate), was chiefly prosecuted and brought to perfection in France. France, in fact, began at that time to be regarded as the centre of Christendom : there the scheme of the first Crusades originated, and French armies carried it out: there the Popes took refuge in their struggles with the German emperors and with the Norman princes of Naples and Sicily, and there for a time they made a continuous sojourn. — We also observe in the period subsequent to the Crusades, commencements of Art — of Painting, viz.: even during their continuance a peculiar kind of poetry had made it appearance. Spirit, unable to satisfy its cravings, created for itself by imagination fairer forms and in a calmer and freer manner than the actual world could offer. Chapter III. The Transition from Feudalism to Monarchy.
The Reformation (宗教改革)
岩波文庫下317:
《 ルターのおこなった聖書のドイツ語訳は、ドイツ国民にとってはかりしれぬ価値をも
つものでした。ドイツ語訳聖書は、カトリック世界のほかのどの国民にもない、国民の
書となりました。かれらにも祈禱書のたぐいは無数にあるが、国民の教化に役だつ根本
の書はないのです。近年、国民が自国語の聖書をもつことは目的にかなったことかどう
かの論争がもちあがりましたが、それのもたらすマイナスがなくはないとしても、それ
をはるかにしのぐ利点がある。外面的な歴史事実が、心や知性のつまずきのもとになる
可能性があるとしても、人びとにやどる宗教心は、その意味を弁別し、肝要な点をしっ
かりおさえて、つまずきを克服していくのです。最後にいえば、国民の書たるものはそ
う浅溥なものであってはならないが、とはいえ、国民の書たるには、それが唯一の書と
して尊敬されねばなりよせん。が、それが容易なことではない。いいものがつくられた
にしても、牧師がだれかれなくそれに文句をつけ、改訂版をつくりあげるからです。》
↑その後探したらカラー版もネットにあった
中央はルターLuther
有名なポーズらしい
431~446
and The Reformation.
Chapter I. The Reformation The Reformation resulted from the corruption of the Church. That corruption was not an accidental phenomenon; it was not the mere abuse of power and dominion. A corrupt state of things is very frequently represented as an “abuse”; it is taken for granted that the foundation was good — the system, the institution itself faultless — but that the passion, the subjective interest, in short the arbitrary volition of men has made use of that which in itself was good to further its own selfish ends, and that all that is required to be done is to remove these adventitious elements. On this showing the institute in question escapes obloquy, and the evil that disfigures it appears something foreign to it. But when accidental abuse of a good thing really occurs, it is limited to particularity. A great and general corruption affecting a body of such large and comprehensive scope as a Church, is quite another thing. — The corruption of the Church was a native growth; the principle of that corruption is to be looked for in the fact that the specific and definite embodiment of Deity which it recognizes, is sensuous — that the external in a coarse material form, is enshrined in its inmost being. (The refining transformation which Art supplied was not sufficient.) The higher Spirit — that of the World — has already expelled the Spiritual from it; it finds nothing to interest it in the Spiritual or in occupation with it; thus it retains that specific and definite embodiment; — i.e., we have the sensuous immediate subjectivity, not refined by it to Spiritual subjectivity. — Henceforth it occupies a position of inferiority to the WorldSpirit; the latter has already transcended it, for it has become capable of recognizing the Sensuous as sensuous, the merely outward as merely outward; it has learned to occupy itself with the Finite in a finite way, and in this very activity to maintain an independent and confident position as a valid and rightful subjectivity.35 The element in question which is innate in the Ecclesiastical principle only reveals itself as a corrupting one when the Church has no longer any opposition to contend with — when it has
432 become firmly established. Then its elements are free to display their tendencies without let or hindrance. Thus it is that externality in the Church itself which becomes evil and corruption, and develops itself as a negative principle in its own bosom. — The forms which this corruption assumes are coextensive with the relations which the Church itself sustains, into which consequently this vitiating element enters. The ecclesiastical piety of the period displays the very essence of superstition — the fettering of the mind to a sensuous object, a mere Thing — in the most various forms: — slavish deference to Authority; for Spirit, having renounced its proper nature in its most essential quality [having sacrificed its characteristic liberty to a mere sensuous object], has lost its Freedom, and is held in adamantine bondage to what is alien to itself; — a credulity of the most absurd and childish character in regard to Miracles, for the Divine is supposed to manifest itself in a perfectly disconnected and limited way, for purely finite and particular purposes; — lastly, lust of power, riotous debauchery, all the forms of barbarous and vulgar corruption, hypocrisy and deception — all this manifests itself in the Church; for in fact the Sensuous in it is not subjugated and trained by the Understanding; it has become free, but only in a rough and barbarous way. — On the other hand the virtue which the Church presents, since it is negative only in opposition to sensual appetite, is but abstractly negative; it does not know how to exercise a moral restraint In the indulgence of the senses; in actual life nothing is left for it but avoidance, renunciation, inactivity. These contrasts which the Church exhibits — of barbarous vice and lust on the one hand, and an elevation of soul that is ready to renounce all worldly things, on the other hand — became still wider in consequence of the energetic position which man is sensible of occupying in his subjective power over outward and material things in the natural world, in which he feels himself free, and so gains for himself an absolute right. — The Church whose office it is to save souls from perdition, makes this salvation itself a mere external appliance, and is now degraded so far as to perform this office in a merely external fashion. The
…
445
445 the view in which the sale of Indulgences originated : for as eternal salvation could be secured for money, so by paying the price of one’s salvation through a compact made with the Devil, the riches of the world and the unlimited gratification of desires and passions could be secured. Thus arose that famous legend of Faust, who in disgust at the unsatisfactory character of speculative science, is said to have plunged into the world and purchased all its glory at the expense of his salvation. Faust, if we may trust the poet, had the enjoyment of all that the world could give, in exchange for his soul’s weal; but those poor women who were called Witches were reputed to get nothing more by the bargain than the gratification of a petty revenge by making a neighbor’s cow go dry or giving a child the measles. But in awarding punishment it was not the magnitude of the injury in the loss of the milk or the sickness of the child that was considered; it was the abstract power of the Evil One in them that was attacked. The belief in this abstract, special power whose dominion is the world — in the Devil and his devices — occasioned an incalculable number of trials for witchcraft both in Catholic and Protestant countries. It was impossible to prove the guilt of the accused; they were only suspected : it was therefore only a direct knowledge [one not mediated by proofs] on which this fury against the evil principle professed to be based. It was indeed necessary to have recourse to evidence, but the basis of these judicial processes was simply the belief that certain individuals were possessed by the power of the Evil One. This delusion raged among the nations in the sixteenth century with the fury of a pestilence. The main impulse was suspicion. The principle of suspicion assumes a similarly terrible shape during the sway of the Roman Emperors, and under Robespierre’s Reign of Terror; when mere disposition, unaccompanied by any overt act or expression, was made an object of punishment. Among the Catholics, it was the Dominicans to whom (as was the Inquisition in all its branches) the trials for witchcraft were intrusted. Father Spee, a noble Jesuit, wrote a treatise against them (he is also the author of a collection of fine poems bearing the title of “Trutznachtigall,”) giving a full exposure of the terrible character of criminal justice
446 in proceedings of this kind. Torture, which was only to be applied once, was continued until a confession was extorted. If the accused fainted under the torture it was averred that the Devil was giving them sleep: if convulsions supervened, it was said that the Devil was laughing in them; if they held out steadfastly, the Devil was supposed to give them power. These persecutions spread like an epidemic sickness through Italy, France, Spain and Germany. The earnest remonstrances of enlightened men, such as Spec and others, already produced a considerable effect. But it was Thomasius, a Professor of Halle, who first opposed this prevalent superstition with very decided success. The entire phenomenon is in itself most remarkable when we reflect that we have not long been quit of this frightful barbarity (even as late as the year 1780 a witch was publicly burned at Glarus in Switzerland). Among the Catholics persecution was directed against heretics as well as against witches: we might say indeed that they were placed in one category; the unbelief of the heretics was regarded as none other than the indwelling principle of Evil — a possession similar to the other. Leaving this abstract form of Subjectiveness we have now to consider the secular side — the constitution of the State and the advance of Universality — the recognition of the universal laws of Freedom. This is the second and the essential point. Chapter II. Influence of the Reformation on Political Development. In tracing the course of the political development of the peri
33 Comments:
カウエルバッハの選択は映画イントレランスと3つの時代でおおよそダブる
☆:INTOLERANCE
/\
/_ D\20世紀
/\ /\
/__\/C _\16世紀
前1〜/\前6から21/\
1世紀B _\ /__\
/\ /\ /\ /\
/A _\/__\/__\/__\
前6世紀
Aバビロニア編 紀元前539年の新バビロニア王国。
Bユダヤ編 紀元前4年のエルサレム。
C中世編 16世紀のパリ。『王妃マルゴ』でも描かれた1572年の聖バーソロミューの虐殺。
D現代編 20世紀初頭のある西洋の町。
☆
地政学的制約は、国家の歴史的発展にも影響を及ぼす。
以下、『世界共和国へ』(p63,60)より
グリフィスのイントレランスには
ギリシア
フン族
十字軍
がない
カウエルバッハの選択は映画イントレランスと3つの時代でおおよそダブる
☆:INTOLERANCE
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/_ D\20世紀
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/__\/C _\16世紀
前1〜/\前6から21/\
1世紀B _\ /__\
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/A _\/__\/__\/__\
前6世紀
Aバビロニア編 紀元前539年の新バビロニア王国。
Bユダヤ編 紀元前4年のエルサレム。
C中世編 16世紀のパリ。『王妃マルゴ』でも描かれた1572年の聖バーソロミューの虐殺。
D現代編 20世紀初頭のある西洋の町。
グリフィスのイントレランスには
ギリシア
フン族
十字軍
がない
カウエルバッハの選択は映画イントレランスと3つの時代でおおよそダブる
☆:INTOLERANCE
/\D20世紀
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/C_\/_ _\16世紀
/\ /\
/_A\ /_B\前6世紀、前1世紀
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Aバビロニア編 紀元前539年の新バビロニア王国。
Bユダヤ編 紀元前4年のエルサレム。
C中世編 16世紀のパリ。『王妃マルゴ』でも描かれた1572年の聖バーソロミューの虐殺。
D現代編 20世紀初頭のある西洋の町。
グリフィスのイントレランスには
ギリシア
フン族
十字軍
がない
サン・バルテルミの虐殺(サン・バルテルミのぎゃくさつ フランス語:Massacre de la Saint-Barthélemy)は、1572年8月24日にフランスのカトリックがプロテスタントを大量虐殺した事件である。聖バルテルミーの虐殺あるいは(英語表記から)聖バーソロミューの虐殺(St. Bartholomew's Day Massacre)とも表記される。
宗教改革者ジャン・カルヴァンの思想がフランスでも勢力を持ち、プロテスタントはカトリック側から「ユグノー」と呼ばれた。1562年以降、フランスはカトリックとユグノーとの内乱状態(ユグノー戦争)となっていた。
宗教改革(しゅうきょうかいかく、英: Protestant Reformation)とは、16世紀(中世末期)のキリスト教世界における教会体制上の革新運動である。贖宥状に対するルターの批判がきっかけとなり、以前から指摘されていた教皇位の世俗化、聖職者の堕落などへの信徒の不満と結びついて、ローマ・カトリック教会からプロテスタントの分離へと発展した。
カウエルバッハは近代を描いたが
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Kuperstich von Gustag Eilers nach Wilhelm Kaulbach 'Die Reformation'
Source: Wilhelm Kaulbach's Wandgemälde im Treppenhaus des neue Museums zu Berlin, Verlag Alexander Dunckel, 1871
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Wilhelm von Kaulbach
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Vestibül und Treppenhaus
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Treppenhaus im Neuen Museum um 1850
Durch den Haupteingang in der Mitte der Ostfassade gelangten die Besucher ins Hauptvestibül, dessen kassettierte Decke von vier dorischen Säulen aus Pavonazetto-Marmor aus Carrara getragen wurde. Der helle Marmor mit dem kräftigen, dunkelvioletten Geäder setzte sich gut vom rotbraunen Sockel und den polierten, gelblichen Wänden aus dem Marmorimitat Marmorino ab. Die Deckenkonstruktion war eine Konstruktion aus Eisenbalken, „an welchen unterhalb verzierte Bronzeleisten befestigt sind, um die Metall-Construction auch in der Decoration erscheinen zu lassen“[6] – diese Eisenkonstruktion wollte Stüler offenbar zumindest indirekt zeigen. Links führte eine Tür aus poliertem Palisanderholz zur Sammlung der nordischen Altertümer, rechts in die Ägyptische Sammlung.
前庭と階段
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1850年頃のノイエス美術館の階段
東側ファサードの真ん中にあるメインエントランスを通って、訪問者はメインの前庭を訪れました。そして、その天井はカララからのPavonazetto大理石の中の4つのDoricコラムによって支えられました。 豊かで濃い紫色の静脈のある明るい大理石は、赤褐色の台座と、光沢のある黄色がかった大理石の模造品Marmorinoの壁から際立っていました。 天井構造は鉄の梁の構造であり、「金属構造を装飾の中に見えるようにするために、装飾された青銅の帯が下に取り付けられています」 - この鉄の構造は、少なくとも間接的にStülerを見せたかったのです。 左側には洗練されたローズウッドのドアがあり、右側にはエジプト人のコレクションがありました。
einen Wandarchitrav getrennt, der den Sockel für die Wandgemälde des Obergeschosses bildete. In Stülers ursprünglichem Entwurf waren die Wände durch korinthische Pilaster einfach gegliedert. Friedrich Wilhelm IV. bestimmte persönlich die Wände des zweiten Obergeschosses für großflächige Freskenmalereien in der Absicht, „… auch der neuern monumentalen Kunst ein Feld der Entfaltung einzuräumen, wodurch sie sich als ebenbürtig mit der antiken erweise, und beförderten bei dem Künstler die Freude an dem übernommenen Auftrag, die hauptsächlichsten Epochen der Weltgeschichte in 6 grossen Bildern darzustellen.“[10] Der Künstler war der damals bekannte Münchner Hofmaler Wilhelm von Kaulbach, der für die Fresken eigens aus München abgeworben wurde. Friedrich Wilhelm IV. nahm regen Einfluss auf die Gestaltung der Wandgemälde, beratend wirkten unter anderem der Generaldirektor der Königlichen Museen, Ignaz von Olfers, Friedrich Wilhelm Joseph von Schelling aber auch Alexander von Humboldt und andere Geistesgrößen der Zeit. In Analogie zu den sechs Schöpfungstagen sollten sechs Wendepunkte der Weltgeschichte dargestellt werden. Der Zyklus ist beeinflusst von der Hegelschen Geschichtsphilosophie der Höherentwicklung des Menschen, der Aufwärtsentwicklung durch permanente Selektion, der Emanzipation von äußeren religiösen Mächten. Zwischen dem König und dem Künstler entstand ein zähes Ringen um die darzustellenden Themen, das teilweise Jahre dauerte. Kaulbachs Zyklus mit den Fresken Der Babylonische Turm, Homer und die Griechen oder die Blüte Griechenlands, Die Zerstörung von Jerusalem, Die Hunnenschlacht, Die Kreuzfahrer vor Jerusalem und Das Zeitalter der Reformation durchzog das gesamte Obergeschoss des monumentalen Treppenhauses und war damit gegen 75 Meter lang. Die Breite der einzelnen Fresken war etwa 7,50 Meter, die Höhe 6,70 Meter. Die Bilder wurden von Kaulbach von 1847 bis 1866 in Stereochromie ausgeführt. Mit dieser Technik lassen sich die Bilder wie mit Öl malen und werden nachträglich erst mit Wasserglas mit dem Mauerwerk fest verbunden, wobei sich ein Fresk
上層階の壁画のための台座を形成したwallarchitravを分離しました。 Stülerのオリジナルデザインでは、壁はコリント式ピラスターによって単純に構成されていました。フレデリック・ウィリアム4世は個人的に大規模なフレスコ画のために2階の壁を選択しました。「...新しい記念碑的な芸術に発展の分野を与え、こうして骨董品と等しいことを証明し、芸術家の喜びを促進しました。それは世界の歴史の最も重要な時代を6つの大きな絵で描くように依頼された。 Frederick William IVは、王立美術館長官、Ignaz von Olfers、Frederick William Joseph von Schellingだけでなく、Alexander von Humboldtや当時の他の知的偉人を含む壁画のデザインに活発な影響を与えました。 6日間の創造と同様に、世界史における6つのターニングポイントが提示されるべきです。このサイクルは、人間のより高度な発達、恒久的な選択による上方成長、外部の宗教的権力の解放という歴史のヘーゲル哲学に影響されます。王と芸術家の間でテーマが提示されるために粘り強い闘争が起こりました、そしてそれは時々年かかりました。バウルの塔、ホーマーとギリシャ人またはギリシャの花、エルサレムの破壊、エルサレムの前の十字軍、そして改革の時代は、記念碑的な階段の上層階全体を横切っていました。各フレスコ画の幅は約7.50メートル、高さは6.70メートルでした。写真は1847年から1866年までカウルバッハによって立体色で製作された。このテクニックで、絵画は油のように塗られることができて、その後、フレスコ画で、水ガラスだけで石積みに接続されます
https://www.y-history.net/appendix/wh0102-085.html
ペルシア戦争(前500~前449年)の最終段階、サラミスの海戦でアテネ海軍の活躍でギリシアのポリス連合軍は勝利を占めた。海軍力を新調させたアテネは、ペルシアの再襲来に備えて、エーゲ海域の諸ポリスと攻守同盟であるデロス同盟を結成し、その盟主として全ギリシアから東地中海一帯の海上までその支配を拡大し、前443年に将軍職となったペリクレスのもとで全盛期を迎えていた。それにたいして、すでにスパルタはペロポネソス半島の諸ポリスとの間にペロポネソス同盟を結成していたが、アテネの勢力拡大にさらに強い警戒感をもつようになった。
こうしてギリシアはアテネを中心としたデロス同盟諸国と、スパルタを盟主とするペロポネソス同盟の対立というあらたな段階に入り、両陣営は前431年に戦争に突入、27年間にわたって続いた戦争は前404年に講和して終わった。両軍の戦いは、ギリシア本土とエーゲ海全域にわたり、さらにエーゲ海上から遠く西地中海のシチリア島まで及んでいる。古代地中海世界の世界戦争と捉えることができる。
アテネとスパルタはギリシアの覇権を争う二大ポリスであったが、アテネが典型的な民主政を発展させたポリスであったのに対し、それに対してスパルタは貴族政(寡頭政)のもとで、貴族の中から王を選び、少数の貴族階級が多くの半自由民(ペリオイコイ)と奴隷(ヘイロータイ)を抑えるために軍国主義を採っているというように、国家体制に大きな違いがあった。
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サラミスの海戦 (紀元前450年)
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サラミスの海戦(英:Battle of Salamis)はキュプロス島のサラミスで紀元前450年にデロス同盟艦隊とアケメネス朝ペルシア艦隊によって戦われた海戦である。
サラミスの海戦
戦争:ペルシア戦争
年月日:紀元前450年
場所:キュプロス島のサラミス
結果:デロス同盟の勝利
交戦勢力
デロス同盟
Standard of Cyrus the Great (Achaemenid Empire).svgアケメネス朝
指導者・指揮官
不明
不明
戦力
140隻
不明
損害
不明
不明
ペルシア戦争
イオニア マラトン テルモピュライ アルテミシオン サラミス プラタイア ミュカレ ビュザンティオン エイオン エウリュメドン キティオン サラミス
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紀元前451年にアテナイとスパルタは第一次ペロポネソス戦争における五年期限の休戦条約を結んだ。これによってギリシアでの戦いから解放されたアテナイはキモンをデロス同盟艦隊200隻と共にキュプロス島へと派遣した。そのうち60隻はペルシアに反旗を翻したエジプトのアミュルタイオス王の元へ援軍として送られ、残りはキュプロスのキティオンを包囲した。しかしその最中キモンが病死し、また糧秣に不足しだしたため、デロス同盟艦隊はキティオンを離れてキュプロスのサラミスへ向かった。同地でデロス同盟艦隊はフェニキア人、キュプロス人、キリキア人らと海陸で戦い、両方で勝利を得た。そしてその頃エジプトに派遣した艦隊も戻ってきたため、彼らは帰国した[1]。
しかし、ディオドロスはより詳細ではあるが、トゥキュディデスとは異なった記述をしている[2]。キュプロスに着いたキモンはキティオンとマリオンを落とし、次いでキリキアとフェニキアからのペルシア艦隊を破って100隻を拿捕し、余勢を駆ってキリキアの将軍メガビュゾスの軍を破り、再びキュプロスへと戻った。その後キモンはサラミスを包囲したが、包囲中にキモンは病死した。その間、デロス同盟軍の連勝を受けてペルシア王アルタクセルクセス1世はアテナイと講和した(カリアスの和約)。
その後、第二次神聖戦争が起こり、フォキスに味方したアテナイはデルフォイに味方したスパルタと対立し、アテナイとスパルタとの戦いは再燃した[3]。
註
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^ トゥキュディデス, I. 112
^ ディオドロス, XII. 3-4
^ トゥキュディデス, I. 112
参考文献
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ディオドロスの『歴史叢書』の英訳
トゥキュディデス著、小西晴雄訳、『トゥーキュディデース 世界古典文学全集11』、筑摩書房、1971年
ノート
最終編集: 2 か月前、Nazki rhetorica
関連ページ
ビュザンティオン包囲戦 (紀元前478年)
エウリュメドン川の戦い (紀元前466年)
キティオン包囲戦
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1:3:2:2
The Tower of Babel,
2:1:3:1
The Rise of Greece,
2:2:3:2
The Destruction of Jerusalem,
3:1:1:1
The Battle of the Huns,
3:2:2:0
The Crusades,
3:3:1:2?
The Reformation.
Art in an Age of Civil Struggle, 1848-1871, Albert Boime - 2008年9月15日, University of Chicago Press - 出版社,
https://play.google.com/store/books/details/Albert_Boime_Art_in_an_Age_of_Civil_Struggle_1848?id=sEb4RL2Ru1kC
上記によると、カウルバッハはヘーゲル歴史哲学を絵画で表現しようとしていたらしい。
世界史そのものは3:2:3:3:+
以下はそれ以下の符合、
1:3:2:2 The Tower of Babel, バベルの塔
https://2.bp.blogspot.com/-wECbrf67J30/XG2LLEoFifI/AAAAAAABgiI/zI9XMX3BZxYlQqnbLS-eV0TxVPrhgNVxwCLcBGAs/s1600/IMG_9221.JPG
2:1:3:1 The Rise of Greece,サラミスの海戦
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2:2:3:2 The Destruction of Jerusalem,ティトゥスによるエルサレム破壊
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3:1:1:1 The Battle of the Huns,フン族の戦い
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3:2:2:2 The Crusades,十字軍
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3:3:1:1 The Reformation.宗教改革
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まとめると
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Wilhelm von Kaulbach - Wikipedia, the free encyclopedia
https://en.wikipedia.org/wiki/Wilhelm_von_Kaulbach#History_of_Mankind
Art in an Age of Civil Struggle, 1848-1871, Albert Boime - 2008年9月15日, University of Chicago Press - 出版社,
https://play.google.com/store/books/details/Albert_Boime_Art_in_an_Age_of_Civil_Struggle_1848?id=sEb4RL2Ru1kC
上記によると、カウルバッハはヘーゲル歴史哲学を絵画で表現しようとしていたらしい。
世界史そのものは3:2:3:3:+
以下はそれ以下の符合、
1:3:2:2 The Tower of Babel, バベルの塔
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2:1:3:1 The Rise of Greece,サラミスの海戦
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2:2:3:2 The Destruction of Jerusalem,ティトゥスによるエルサレム破壊
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3:1:1:1 The Battle of the Huns,フン族の戦い
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まとめると
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一番有名なのはフン族の戦いでマルクスがドイツイデオロギーで、フロイトが自我とエスで言及している
原画を飾っていた博物館は第二次大戦で破壊されたが原画そのものは各地に分散し無事のようだ(未確認)
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Art in an Age of Civil Struggle, 1848-1871, Albert Boime - 2008年9月15日, University of Chicago Press - 出版社,
https://play.google.com/store/books/details/Albert_Boime_Art_in_an_Age_of_Civil_Struggle_1848?id=sEb4RL2Ru1kC
上記によると、カウルバッハは[国王からの依頼で]ヘーゲル歴史哲学を[6枚の]絵画で表現しようとしていたらしい。
世界史そのものは3:2:3:3:+
以下はそれ以下の符合、
1:3:2:2 The Tower of Babel, バベルの塔
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2:1:3:1 The Rise of Greece,サラミスの海戦
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2:2:3:2 The Destruction of Jerusalem,ティトゥスによるエルサレム破壊
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3:1:1:1 The Battle of the Huns,フン族の戦い
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3:2:2:2 The Crusades,十字軍
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3:3:1:1 The Reformation.宗教改革
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まとめると
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この中で一番有名なのは「フン族の戦い」でマルクスが『ドイツイデオロギー』で、フロイトが「自我とエス」で言及している
原画を飾っていた博物館は第二次大戦で破壊されたが原画そのものは各地に分散し無事のようだ(未確認)
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Art in an Age of Civil Struggle, 1848-1871, Albert Boime - 2008年9月15日, University of Chicago Press - 出版社,
https://play.google.com/store/books/details/Albert_Boime_Art_in_an_Age_of_Civil_Struggle_1848?id=sEb4RL2Ru1kC
上記によると、カウルバッハは[国王からの依頼で]ヘーゲル歴史哲学を[6枚の]絵画で表現しようとしていたらしい。
世界史そのものは3:2:3:3:+
以下はそれ以降の符合、
1:3:2:2 The Tower of Babel, バベルの塔
https://2.bp.blogspot.com/-wECbrf67J30/XG2LLEoFifI/AAAAAAABgiI/zI9XMX3BZxYlQqnbLS-eV0TxVPrhgNVxwCLcBGAs/s1600/IMG_9221.JPG
2:1:3:1 The Rise of Greece,サラミスの海戦
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2:2:3:2 The Destruction of Jerusalem,ティトゥスによるエルサレム破壊
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3:1:1:1 The Battle of the Huns,フン族の戦い
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3:2:2:2 The Crusades,十字軍
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3:3:1:1 The Reformation.宗教改革
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まとめると
https://2.bp.blogspot.com/-2rFWU7zApRQ/XG2OPK_yMXI/AAAAAAABgig/7lVyAdWypDsRVNQKrvjZSl0ZnpDlsQ3mACLcBGAs/s1600/IMG_9223.PNG
この中で一番有名なのは「フン族の戦い」でマルクスが『ドイツイデオロギー』で、フロイトが「自我とエス」で言及している
原画を飾っていた博物館は第二次大戦で破壊されたが原画そのものは各地に分散し無事のようだ(未確認)
ヘーゲル 歴史哲学講義 岩波文庫下192頁
《…のちにはフン王アッティラがフン族の大軍をひきいてローマの近くまでやってくる--雷雨で増
水した川のように、なにもかも押しながしながらしばらくするとさっとひいていく、い
かにも東洋的な歴史現象の一典型で、かれらがのこした廃墟にかれらの痕跡をみとめる
ことはできるが、かれらのすがたそのものはもはやどこにもありません。アッティラは
ガリアにも侵入し、四五一年、カタラウヌムのたたかいでアエティウス軍のはげしい抵
抗にさらされる。勝敗は不明です。アッティラはさらにイタリアへと軍をすすめ、四五
三年に死にます。その後まもなく、ローマはゲイセリクスのひきいるヴァンダル軍に占
領され、略奪される。ついに、西ローマ皇帝の位は名ばかりのものとなり、ヘルリ族の
王オドアケルがその称号にとどめをさします。》
>>726
>https://lh3.googleusercontent.com/-hHJBE1yAYlQ/V4aoiS-jTCI/AAAAAAABBBU/1aZKEEOoSb4/s1600/blogger-image-1092259838.jpg
マルクス ドイツイデオロギー 1846
《 一八四五年度の『ヴィーガント季刊誌』第三巻のなかで、カウルバッハによって予言的に描かれた匈奴の戦いが
現実におこっている。死んでもなお怨み消えやらぬ斃(たお)された者、たちの霊どもが空中でどよめかす叫喚と
号哭に戦いの音、鬨(かちどき)の声、剣、楯、鉄車の響きがまざる。しか問題は地上の事どもにあるのではない。
聖なる戦いは保護関税、憲法、馬鈴薯病、銀行制度、鉄道のためにおこなわれるのではなくて、霊のいとも神聖
なる関心事、つまり「実体」、「自己意識」、「批判」、「唯一者」、「真の人間」のためなのでる、われわれ
は教父たちの宗教会議の座にいるのである。彼らはこの種の人たちの最後の標本であり、それにおらくはこれが
至高のもの、つまり絶対的なものの事柄で弁護がおこなわれる最後の機会であろうから、審理の模様について
記録をとるだけの値うちはある。
まずはじめに聖ブルーノがいる。….》(大月全集3,74頁)
フロイト「自我とエス」1923
《超自我の発生史の教えるところでは、自我とエスの対象備給との早期の葛藤が、その対象備給の遺産である
超自我との葛藤として受け継がれることがありうる。もし自我がエディプス・コンプレクスを支配するのに成功
しなかったならば、エスに由来するコンプレクスのエネルギー備給は、ふたたび自我理想の反動形成となって
作用するだろう。この理想とこの無意識的な衝動興奮とのおびただしい交通は、理想自身が大部分は無意識であり、
自我に通じることができないままでいるという謎を解くであろう。深層で荒れ狂い、すみやかな昇華作用と同一視
によって終りにならなかった戦いは、フン族の戦闘を描いたカウルバハの絵のように、より高い領域でつづいている。》
(「自我とエス」フロイト著作集6,284頁)
Luther's 1534 bible
ルター聖書(独:Lutherbibel)は、マルティン・ルターによるヘブライ語及び古典ギリシア語からの旧約聖書と新約聖書のドイツ語訳である。まず、ルターは独力で新約聖書の翻訳を行ったが、旧約聖書の翻訳に際してはカスパール・アクィラら複数の専門家から助言を受けた。新約聖書の翻訳に於いては特にヴルガータの影響が強く感じられる。『翻訳に関する書簡』の中でルターは、自分の翻訳原則についての釈明を行っている。(当時の読者にとっての)流麗な翻訳を志した一方、聖書の文面が格別深い意味を表しているように見える部分では、すべて直訳がなされたというのである。
ルターはその死に至るまで自ら訳稿を改稿し、またそれぞれの版に序文を付した。ルターの死後、ルター聖書のテクストは出版社の恣意に任されるようになった。これは何よりもまず正書法に関することであるが、それだけではなかった。19世紀後半になって初めてテクストは統一を経験することになった。ますますルターの明らかな誤訳が目に付くようになったのである。誤訳はルターが古典古代世界や古代オリエント世界について専門知識を欠いていたことによるものであった(例えば、飼兎、ユニコーン、ツゲの木など、動物学的、植物学的に言ってオリエントにとって一般的ではないもの)。しかし、とりわけ重要なのはテクストの基礎が一変してしまったことである。ルターはいわゆるテクストゥス・レセプトゥスをもとに翻訳を行っていた。これは、ビザンツ帝国時代に統一されたものであり非常に普及していた新約聖書のテクストであった。これに対して、テクスト・クリティークによってより古い時代からの多数のパピルス断片が集積、評価されたのである。これらは部分的には別のテクストを提示するものであった。決定的かつ学問的な新約聖書のテクストであるネストレ・アーラントには、これらのパピルス断片を参照した上で起草された古代の写本にはまったく拠らない混合テクストが含まれている。こうした学問的なテクストは重要な現代聖書翻訳の基盤となっている。にも拘らず、テクストクリティークをまったく拒絶し、伝承テクストの文面を霊感に満ちたものと見做す諸グループも存在する。
1975年の修正ではこの問題についてはもはや触れられず、代わってルター聖書を現代語の慣用に近づけることが図られた。例えば、「光をシェッフェルの下には置かない/新共同訳:ともし火をともして升の下に置くものはいない」(マタイ5.15)という諺的な言葉は削除された。穀物の計量器としての「シェッフェル(大きな桶)」はもう知られていないからである。代替として「アイマー(バケツ)」が用いられたため、1975年の翻訳は「アイマー聖書(バケツ聖書)」の名前を持つことになった。しかしながら1975年版テクストは、クリスマスの挿話の部分に於いて多くの読者が暗記するほど愛好していた文面に介入してしまったため、最終版として成功することはなかった。この事情は同時に、なぜ1984年の修正があれほど成功したのかについても教えてくれる。1984年版は、よく知られていない箇所では学問的厳密さに拘ってルターの文面から隔たっており、装飾過剰な構文を解消してしまっているのだが、クリスマス挿話その他の愛好されてきたテクストには一切手をつけていないのである。
目次
ルター訳の成立過程
編集
ヴォルムス帝国議会からヴィッテンベルクへの帰路、誤ってザクセン選帝侯フリードリヒ賢公のものであると考えられている誘いによって、ヴァルトブルクに招かれた後、当地で「ユンカー・イェルク(Junker Jörg)」として潜伏しつつルターは聖書翻訳を開始した。1522年9月には翻訳が完了した新約聖書が大版で印刷された(「9月聖書」)が、既に同年12月にはテクストが改稿され挿絵も訂正されている。その後数年に渡ってこの聖書は少しずつ拡張され、改稿されていった。
1524年10月にはモーセ五書・歴史書・詩書が完成され、おそらくは1526年3月にヨナ書、1526年6月にハバクク書、1528年1月にゼカリヤ書、1528年10月にイザヤ書が完成している。
1529年、新約聖書が基礎から校正され、1530年には最終的な編集が行われた。諸書への取り組みはさらに進み、同時に注釈作成も行われた。1529年6月にはソロモンの知恵が、1530年4月にはダニエル書が浩瀚な注釈付の序言と共に完成され、同年6月にはエゼキエル書の注釈付きの38章・39章が成立した。1531年には詩篇が新たに最終的な形で作成された。
1532年3月、ハンス・ルフトは預言書を印刷した。翌年の1月にはシラの書が、その後すぐに第一マカバイ記が、スザンナとダニエルの話及びベルと竜の話が補われて、ルターによる第2版として完成された。
1533年には、完全版への直接的な準備があり、そこでは旧約聖書のモーセ五書・歴史書・詩書、中でも創世記のさらなる校正が行われた。1534年の10月4日から11日にかけてはミカエル・ミサが開催されていたが、そこで900枚の未製本の完全原稿が6部構成でそれぞれにタイトルページとページ番号が付いた形で登場した。モーセ五書、歴史書及び諸詩書、預言書、外典、そして新約聖書である。
1545年
岩波文庫歴史哲学講義上299~301
《 ニネヴェは紀元前二〇五〇年に建設されたといいますから、アッシリア帝国の建国も
そこまでさかのぼります。ついでニノス王は、バビロニア、メディア、バクトリアを配
下におさめますが、とくにバクトリアの征服は大変な難事業だった。クテシアスの計算
によると、ニノスのひきいた軍勢は,百七十万人の歩兵とそれに見合う騎兵がいたとい
うのですから。バクトリアの包囲攻撃は長くつづき、その征服の軍功は、山の急斜面を
勇敢な軍団をひきいてかけのぼった、王妃セミラミスに帰せられます。セミラミスの人
物像は神話と歴史のあいだをゆれうごいている。「旧約聖書』中の最高の伝説の一つ、
バベルの塔の建設もかの女の手になるとされています。
…
イギリス人ケル・ポーターが十二年ほど前に、古代のバビロンのあった地域を旅行し
(旅行全体は一八一七年から一八二〇年にわたりますが)、ある丘の上にバベルの塔の遺
跡を見つけたといっています。塔のまわりにはたくさんの廊下があって、その最上階に
はパール神の像がおかれていたという。ほかにも、あちこちの丘に古代の建物の遺跡が
あったそうです。煉瓦は、『旧約聖書』の塔建設の記事のとおりにならんでいて、広い
平地が無数の煉瓦におおわれていたという。もっとも、すでに何千年来煉瓦はたえず運
びさられ、古代バビロンの近くのヒラは、市全体がその煉瓦でたてられたとのことです
が。
ヘロドトスの『歴史』には、バビロン人のおもしろい風習がいくつか紹介されていま
すが、それから判断すると、かれらは平和で友好的な民族だったらしい。バビロンでだ
れかが病気になると、病人を広場につれていって、通りすがりの人がだれでも病人に忠
告できるようにするという。また、娘が結婚適齢期になると、美人には高額の出費が命
じられ、それが醜女の結婚持参金にまわされるという。ただし、出費のいかんにかかわ
らず、どの女性も一生に一度ミュリッタの神殿で行きずりの男に身をまかせねばなら
ないという。そんな要求が宗教の概念に抵触しないのかどうか、たしかめるのが困難で
す。ヘロドトスによると、悪習が広がったのは、バビロンがおとろえた後のことだそう
ですが。美人が醜女にみつぐという風習や、病人をみんなの目の前にさらすという風習
には、全体のことを考えようとする配慮が見られます。》
ヘーゲルは、フォルメルツ・エポック(1815-1848)の支配的な哲学者であったため、おそらく適切にそうなっていると思われます。1
ミュンヘンの巨匠ヴィルヘルム・フォン・コールバッハは、ベルリンの新博物館の壁に、ヘーゲルの歴史哲学の全体像を、6つの複雑な百科事典のようなイメージで表現するという野心的な試みを行った。バベルの塔」、「ギリシャの勃興」、「エルサレムの破壊」、「フン族の戦い」、「十字軍」、「宗教改革」である。しかし、20年の歳月をかけて1865年に完成させたコールバックは、その宣言的な性格があまりにも時代にそぐわないため、自ら嘲笑するようになってしまいました(図7.I)。
フランスのヴェルネのように奔放な性格のコールバッハは、大規模な視覚的スペクタクルを好み、バイエルンのルートヴィヒ1世やフリードリヒ・ヴィルヘルム4世のように、市民のための改善を目指すトンネル的なビジョンに魅力を感じていた。私は、ヘーゲルが同時代の人々に直接影響を与えたと仮定するよりも、彼の思想が3月以前の文化を代表する人々の仕事とどのような共通点があるのかを、コールバッハが映し出したものよりも大げさではない形で検証すべきだと考えています。
カウルバッハは、最初はデュッセルドルフ、次にミュンヘンでペーター・フォン・コーネリアスに記念碑画を学んでおり、19世紀のドイツ美術の発展においてナザレ人が中心的な役割を果たしていたことを思い起こさせる。王政復古期には、絵画に2つの異なる系統が生まれたが、いずれもナザレ人からの刺激を受けたものであった。ナザレの影響を受けたもので、美術の教育と普及を支配した。
www.DeepL.com/Translator(無料版)で翻訳しました。
Art in an Age of Civil Struggle, 1848-1871, Albert Boime - 2008年9月15日, University of Chicago Press - 出版社,
https://play.google.com/store/books/details/Albert_Boime_Art_in_an_Age_of_Civil_Struggle_1848?id=sEb4RL2Ru1kC
上記によると、カウルバッハはヘーゲル歴史哲学を絵画で表現しようとしていたらしい。
core, and perhaps appropriately so, since Hegel was the dominant philosophcr of the Vormärz epoch (1815-1848). 1
The Munich master Wilhelm von Kaulbach made an ambitious attempt to represent the whole of Hegel's philosophy of history on the walls of the New Museum in Berlin in six complex, encyclopedie images : The Tower or Babel, The Rise of Greece,The Destruction of Jerusalem, The Battle of the Huns, The Crusades, and The Reformation. By the time Kaulbach completed the twenty-year project in 1865, however, its declamatory character was so out of touch with the times that he wound up ridiculing it himself (fig · 7. I).
An ebullient personality like Vernet in France, Kaulbach's taste for large-scale visual spectacles appealed to kings Ludwig I of Bavaria and Friedrich Wilhelm IV and their tunnel vision of civic improvements. Rather than posit Hegel's direct inßuence on his contemporaries, I believe we should examine what his ideas had in common with the work of other representatives of culture in the pre-March period-in a less grandiose format than that projected by Kaulbach.
Kaulbach had studied monumental painting under Peter von Cornelius, first at Düsseldorf and than at Munich, reminding us of the central role of the Nazarenes in the development of nineteenth-century German art. Two diverging strains in painting develop during the Restoration, both receiving impulses from the Nazarenes, who now dominate the teaching
and dissemination of the fine arts : the snug, domestic style of Biedermeier,
https://lh3.googleusercontent.com/-orq4LqabD0g/V4ajlkxObPI/AAAAAAABBBI/tpMsPdtGNYA/s640/blogger-image--579535160.jpg
https://lh3.googleusercontent.com/-WgczFwHAqJw/V4ahNbhF1pI/AAAAAAABBA8/zh-D7blws88/s640/blogger-image--182742340.jpg
G.W.F・ヘーゲル and 1 more
世界史の哲学講義(下) ベルリン 1822/23年 (講談社学術文庫)
3.9 out of 5 stars
(2)
5.0 out of 5 stars
ヨーロッパの歴史を俯瞰
Reviewed in Japan on September 8, 2020
上巻が東洋世界の歴史を扱ったのに対して、この下巻は古代ギリシアから近代のゲルマン世界まで、ヨーロッパの歴史を扱っています。これまで翻訳されてきた旧版と比べると、最初の「世界史の哲学講義」を訳したこの新版は、特にゲルマン世界の評価がずいぶんと違った印象があります。旧版では、ゲルマン世界は万人が自由であるというイメージが強いのに対して、新版では万人の自由はキリスト教の、特にルター派の宗教理念であって、近代のゲルマン世界は領邦国家に分裂した、万人の自由から程遠い状態であることが率直に論じられています。ドイツ人であったヘーゲルの苦々しい想いが伝わってきます。各段落に付けられた注は、世界史の勉強にもなって役立ちます。
内容紹介
G・W・F・ヘーゲル(1770-1831年)は、『精神現象学』、『大論理学』などを公刊し、その名声を確かなものとしたあと、1818年にベルリン大学正教授に就任した。その講義は人気を博したが、中でも注目されることが多いのが1822年から31年まで10年近くにわたって行われた「世界史の哲学講義」である。
この講義はヘーゲル自身の手では出版されず、初めて公刊されたのは1837年のことだった。弟子エドゥアルト・ガンスが複数の聴講者による筆記録を編集したものであり、表題は『歴史哲学講義』とされた。3年後には息子カール・ヘーゲルが改訂を施した第二版が出版され、これが今日まで広く読まれてきている。日本でも、長谷川宏氏による第二版の訳が文庫版『歴史哲学講義』として多くの読者に手にされてきた。
しかし、第一版は最終回講義(1830/31年)を基礎にしながらも複数年度の筆記録を区別をつけずに構成したものであり、その方針は初回講義(1822/23年)の「思想の迫力と印象の鮮やかさ」を取り戻すことを目指した第二版も変わらない。つまり、これでは初回講義の全容が分からないのはもちろん、10年のあいだに生じた変化も読み取ることはできない。
本書は初回講義を完全に再現した『ヘーゲル講義筆記録選集』第12巻の全訳を日本の読者諸氏に提供する初の試みである。ここには、教室の熱気とヘーゲルの息遣いを感じることができる。今後、本書を手にせずしてヘーゲルの「歴史哲学」を語ることはできない。
[目次]
〔序論〕世界史の概念
〔A〕歴史の取り扱い方
〔B〕人間的自由の理念
〔C〕国家の本性
〔D〕世界史の区分
〔本論〕世界史の行程
〔第一部〕東洋世界
〔第一章〕中国
〔第二章〕インド
〔第三章〕ペルシア
〔第四章〕エジプト(以上、上巻)
〔第二部〕ギリシア世界
〔第一章〕ギリシアの民族精神の起源
〔第二章〕ギリシア精神の成熟
〔第三章〕衰退と没落
〔第三部〕ローマ世界
〔第一章〕ローマの権力の形成
〔第二章〕ローマの世界支配
〔第三章〕ローマの没落
〔第四部〕ゲルマン世界
〔第一章〕初期中世の準備
〔第二章〕中世
〔第三章〕近代の歴史
内容(「BOOK」データベースより)
『精神現象学』、『大論理学』で名声を確立したヘーゲルは、一八二二年から没年(一八三一年)まで、「世界史の哲学」と題された講義を行う(於ベルリン大学)。大哲学者が主題にした「普遍的な世界史」とは何か?本書は、初年度講義の筆記録を完全に再現した貴重な記録である。下巻は、本論第二部「ギリシア世界」から第四部「ゲルマン世界」まで収録。
著者について
G.W.F・ヘーゲル
1770-1831年。ドイツ観念論を代表する哲学者。弁証法を創始し、壮大な哲学体系を構想した。代表作は『精神現象学』、『大論理学』、『エンチクロペディー』、『法哲学』など。
伊坂 青司
1948年生まれ。東北大学大学院文学研究科博士課程満期退学。現在、神奈川大学教授。専門は、哲学。著書に、『ヘーゲルとドイツ・ロマン主義』、『市民のための生命倫理』ほか。訳書に、『シェリング著作集』第3巻、『ハイデッガー全集』第42巻(共訳)ほか。
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世界史の哲学講義(上) ベルリン 1822/23年 (講談社学術文庫)
2018
5.0 out of 5 stars
旧版を一新
Reviewed in Japan on July 24, 2020
ヘーゲルの歴史哲学講義は、これまでの旧版(晩年の講義)では中国について評価が低く、軽視されているような印象が強かったのですが、今回の新版(最初の講義)を元にした翻訳を読んでみて、分量的にも内容的にも充実していて、ヘーゲルが中国を高く評価していることが分かりました。新版の訳によって、旧版の訳が一新された感が強いです。
[目次]
〔序論〕世界史の概念
〔A〕歴史の取り扱い方
〔B〕人間的自由の理念
〔C〕国家の本性
〔D〕世界史の区分
〔本論〕世界史の行程
〔第一部〕東洋世界
〔第一章〕中国
〔第二章〕インド
〔第三章〕ペルシア
〔第四章〕エジプト(以上、上巻)
〔第二部〕ギリシア世界
〔第一章〕ギリシアの民族精神の起源
〔第二章〕ギリシア精神の成熟
〔第三章〕衰退と没落
〔第三部〕ローマ世界
〔第一章〕ローマの権力の形成
〔第二章〕ローマの世界支配
〔第三章〕ローマの没落
〔第四部〕ゲルマン世界
〔第一章〕初期中世の準備
〔第二章〕中世
〔第三章〕近代の歴史
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世界史の哲学講義(上) ベルリン 1822/23年 (講談社学術文庫)
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世界史の哲学講義(下) ベルリン 1822/23年 (講談社学術文庫)
2018
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旧版を一新
Reviewed in Japan on July 24, 2020
ヘーゲルの歴史哲学講義は、これまでの旧版(晩年の講義)では中国について評価が低く、軽視されているような印象が強かったのですが、今回の新版(最初の講義)を元にした翻訳を読んでみて、分量的にも内容的にも充実していて、ヘーゲルが中国を高く評価していることが分かりました。新版の訳によって、旧版の訳が一新された感が強いです。
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ヨーロッパの歴史を俯瞰
Reviewed in Japan on September 8, 2020
上巻が東洋世界の歴史を扱ったのに対して、この下巻は古代ギリシアから近代のゲルマン世界まで、ヨーロッパの歴史を扱っています。これまで翻訳されてきた旧版と比べると、最初の「世界史の哲学講義」を訳したこの新版は、特にゲルマン世界の評価がずいぶんと違った印象があります。旧版では、ゲルマン世界は万人が自由であるというイメージが強いのに対して、新版では万人の自由はキリスト教の、特にルター派の宗教理念であって、近代のゲルマン世界は領邦国家に分裂した、万人の自由から程遠い状態であることが率直に論じられています。ドイツ人であったヘーゲルの苦々しい想いが伝わってきます。各段落に付けられた注は、世界史の勉強にもなって役立ちます。
[目次]
〔序論〕世界史の概念
〔A〕歴史の取り扱い方
〔B〕人間的自由の理念
〔C〕国家の本性
〔D〕世界史の区分
〔本論〕世界史の行程
〔第一部〕東洋世界
〔第一章〕中国
〔第二章〕インド
〔第三章〕ペルシア
〔第四章〕エジプト(以上、上巻)
〔第二部〕ギリシア世界
〔第一章〕ギリシアの民族精神の起源
〔第二章〕ギリシア精神の成熟
〔第三章〕衰退と没落
〔第三部〕ローマ世界
〔第一章〕ローマの権力の形成
〔第二章〕ローマの世界支配
〔第三章〕ローマの没落
〔第四部〕ゲルマン世界
〔第一章〕初期中世の準備
〔第二章〕中世
〔第三章〕近代の歴史
『精神現象学』、『大論理学』で名声を確立したヘーゲルは、一八二二年から没年(一八三一年)まで、「世界史の哲学」と題された講義を行う(於ベルリン大学)。大哲学者が主題にした「普遍的な世界史」とは何か?本書は、初年度講義の筆記録を完全に再現した貴重な記録である。
著者について
G.W.F・ヘーゲル
1770-1831年。ドイツ観念論を代表する哲学者。弁証法を創始し、壮大な哲学体系を構想した。代表作は『精神現象学』、『大論理学』、『エンチクロペディー』、『法哲学』など。
伊坂 青司
1948年生まれ。東北大学大学院文学研究科博士課程満期退学。現在、神奈川大学教授。専門は、哲学。著書に、『ヘーゲルとドイツ・ロマン主義』、『市民のための生命倫理』ほか。訳書に、『シェリング著作集』第3巻、『ハイデッガー全集』第42巻(共訳)ほか。
内容紹介
G・W・F・ヘーゲル(1770-1831年)は、『精神現象学』、『大論理学』などを公刊し、その名声を確かなものとしたあと、1818年にベルリン大学正教授に就任した。その講義は人気を博したが、中でも注目されることが多いのが1822年から31年まで10年近くにわたって行われた「世界史の哲学講義」である。
この講義はヘーゲル自身の手では出版されず、初めて公刊されたのは1837年のことだった。弟子エドゥアルト・ガンスが複数の聴講者による筆記録を編集したものであり、表題は『歴史哲学講義』とされた。3年後には息子カール・ヘーゲルが改訂を施した第二版が出版され、これが今日まで広く読まれてきている。日本でも、長谷川宏氏による第二版の訳が文庫版『歴史哲学講義』として多くの読者に手にされてきた。
しかし、第一版は最終回講義(1830/31年)を基礎にしながらも複数年度の筆記録を区別をつけずに構成したものであり、その方針は初回講義(1822/23年)の「思想の迫力と印象の鮮やかさ」を取り戻すことを目指した第二版も変わらない。つまり、これでは初回講義の全容が分からないのはもちろん、10年のあいだに生じた変化も読み取ることはできない。
本書は初回講義を完全に再現した『ヘーゲル講義筆記録選集』第12巻の全訳を日本の読者諸氏に提供する初の試みである。ここには、教室の熱気とヘーゲルの息遣いを感じることができる。今後、本書を手にせずしてヘーゲルの「歴史哲学」を語ることはできない。
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世界史の哲学講義(上) ベルリン 1822/23年 (講談社学術文庫)
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2018
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旧版を一新
Reviewed in Japan on July 24, 2020
ヘーゲルの歴史哲学講義は、これまでの旧版(晩年の講義)では中国について評価が低く、軽視されているような印象が強かったのですが、今回の新版(最初の講義)を元にした翻訳を読んでみて、分量的にも内容的にも充実していて、ヘーゲルが中国を高く評価していることが分かりました。新版の訳によって、旧版の訳が一新された感が強いです。
5.0 out of 5 stars
ヨーロッパの歴史を俯瞰
Reviewed in Japan on September 8, 2020
上巻が東洋世界の歴史を扱ったのに対して、この下巻は古代ギリシアから近代のゲルマン世界まで、ヨーロッパの歴史を扱っています。これまで翻訳されてきた旧版と比べると、最初の「世界史の哲学講義」を訳したこの新版は、特にゲルマン世界の評価がずいぶんと違った印象があります。旧版では、ゲルマン世界は万人が自由であるというイメージが強いのに対して、新版では万人の自由はキリスト教の、特にルター派の宗教理念であって、近代のゲルマン世界は領邦国家に分裂した、万人の自由から程遠い状態であることが率直に論じられています。ドイツ人であったヘーゲルの苦々しい想いが伝わってきます。各段落に付けられた注は、世界史の勉強にもなって役立ちます。
[目次]
〔序論〕世界史の概念
〔A〕歴史の取り扱い方
〔B〕人間的自由の理念
〔C〕国家の本性
〔D〕世界史の区分
〔本論〕世界史の行程
〔第一部〕東洋世界
〔第一章〕中国
〔第二章〕インド
〔第三章〕ペルシア
〔第四章〕エジプト(以上、上巻)
〔第二部〕ギリシア世界
〔第一章〕ギリシアの民族精神の起源
〔第二章〕ギリシア精神の成熟
〔第三章〕衰退と没落
〔第三部〕ローマ世界
〔第一章〕ローマの権力の形成
〔第二章〕ローマの世界支配
〔第三章〕ローマの没落
〔第四部〕ゲルマン世界
〔第一章〕初期中世の準備
〔第二章〕中世
〔第三章〕近代の歴史
『精神現象学』、『大論理学』で名声を確立したヘーゲルは、一八二二年から没年(一八三一年)まで、「世界史の哲学」と題された講義を行う(於ベルリン大学)。大哲学者が主題にした「普遍的な世界史」とは何か?本書は、初年度講義の筆記録を完全に再現した貴重な記録である。
著者について
G.W.F・ヘーゲル
1770-1831年。ドイツ観念論を代表する哲学者。弁証法を創始し、壮大な哲学体系を構想した。代表作は『精神現象学』、『大論理学』、『エンチクロペディー』、『法哲学』など。
伊坂 青司
1948年生まれ。東北大学大学院文学研究科博士課程満期退学。現在、神奈川大学教授。専門は、哲学。著書に、『ヘーゲルとドイツ・ロマン主義』、『市民のための生命倫理』ほか。訳書に、『シェリング著作集』第3巻、『ハイデッガー全集』第42巻(共訳)ほか。
内容紹介
G・W・F・ヘーゲル(1770-1831年)は、『精神現象学』、『大論理学』などを公刊し、その名声を確かなものとしたあと、1818年にベルリン大学正教授に就任した。その講義は人気を博したが、中でも注目されることが多いのが1822年から31年まで10年近くにわたって行われた「世界史の哲学講義」である。
この講義はヘーゲル自身の手では出版されず、初めて公刊されたのは1837年のことだった。弟子エドゥアルト・ガンスが複数の聴講者による筆記録を編集したものであり、表題は『歴史哲学講義』とされた。3年後には息子カール・ヘーゲルが改訂を施した第二版が出版され、これが今日まで広く読まれてきている。日本でも、長谷川宏氏による第二版の訳が文庫版『歴史哲学講義』として多くの読者に手にされてきた。
しかし、第一版は最終回講義(1830/31年)を基礎にしながらも複数年度の筆記録を区別をつけずに構成したものであり、その方針は初回講義(1822/23年)の「思想の迫力と印象の鮮やかさ」を取り戻すことを目指した第二版も変わらない。つまり、これでは初回講義の全容が分からないのはもちろん、10年のあいだに生じた変化も読み取ることはできない。
本書は初回講義を完全に再現した『ヘーゲル講義筆記録選集』第12巻の全訳を日本の読者諸氏に提供する初の試みである。ここには、教室の熱気とヘーゲルの息遣いを感じることができる。今後、本書を手にせずしてヘーゲルの「歴史哲学」を語ることはできない。
岩波文庫
上
321
第3篇 ペルシ
eあると考えられる。「おまえが地上に長く生きられるようにつとめよ」というわけで
for o
中
ここには、歴史的なものの見かたの可能性もみとめられる。限定され輪郭のはっきり
したものをしかるべき位置に位置づけ、それ独自の限定された形をきちんととらえるよ
うな散文的知性が、ここにあらわれているからです。こうして、人間は神の化身ではな
く、ひとりの個人として、また、太陽や木は、精神や意思を内部にもつことのない、た
んなる太陽、たんなる木として、とらえられます。
ユダヤ民族には、純粋思想(唯一神)との関係において苛酷な奉仕が強制されます。絶
対神が具体的な精神としてとらえられず、精神がいまだ精神なきものとしてあらわれる
がゆえに、具体的な主体は自由になってはいません。純なる心、改俊の情、信心ぶかさ
といった精神の内面性はたしかにみとめられるが、この特殊具体的な主体が絶対神のう
ちに自分を対象とすることはなく、したがって、儀礼や法につかえるにあたっては、純
粋かつ抽象的な自由を行使する神に、きびしく拘束されることになる。ユダヤ人の存在
は、唯一神によってあたえられたものであり、したがって、主体は自分本来の自由をも
たないのです。スピノザはモーゼの律法書を、神がユダヤ人に懲罰の鞭としてあたえた
ものだと考えています
322
第1部 東洋世界
322
ユダヤ人は、主体が自分の自立を意識しないがゆえに、魂の不死を信じるということ
がない。主体は独立自存の存在ではないのです。が、主体が価値なきものとされるユダ
界ヤ教では、かわりに、家族の自立性がみとめられる。エホバ礼拝は家族の義務とされ、
洋家族こそが実体とされます。反面、国家はユダヤ教の原理にふさわしくないもの、モー
ゼの律法になじまないものです。ユダヤ人のものの見かたからすると、エホバはアブラ
ハムとイサクとヤコプの神であり、エジプト脱出の命令もかれらに発せられたし、カナ
ンの地もかれらにあたえられたのです。三人の族長の物語は興味ぶかいもので、そこに
は、家父長制の遊牧生活から農耕生活へと移行していくさまが見てとれます。一般にユ
ダヤの物語は壮大な展開をしめしますが、難をいえば、神の名による他民族の排斥(た
とえば、カナンの地の住民の抹殺)や教養の不足や(選民意識のもたらす)迷信の存在な
どが物語を不純なものにしています。奇跡がよくあらわれることも、この物語に歴史を
見ようとする上では障害になる。具体的意識が自由でないがゆえに、認識も具体的事実
に即して自由に展開するというわけにはいかない。自然が神聖視されることはなくなっ
たが、知性によって自然を理解するところまではまだ行っていないのです
カナン征服によって家族は一部族へと成長し、土地を手にいれ、エルサレムに共同の
神殿を建設しました。が、国家としてのまとまりといえるようなものはなかった。危機
下
64
第2部 ギリシャ世界
3柄とそれに関連する生活様式のちがいにもとづいて、つぎの三つの党ができあがってい
ます。平地民からなる平野党は富裕な貴族の党であり、山地民からなる山岳党はワイン
やオリープの栽培者と牧人の党で、数が一番多く、中間に位置する海岸住民の海岸党は
穏健な党です。政治形態は貴族制と民主制のあいだをゆれうごいています。
ソロンは住民を財産の多寡によって四つの等級にわけ、もって党派の対立を緩和しょ
うとしました。四つの等級のすべてが公共事業を審議し決定する民会には出席できるが、
公職につくことができるのは上位三等級にかぎられていました。注目すべきは、ソロン
の生前に、かれが出席して異議をとなえた民会で、僧主ペイシストラトスが権力をにぎ」
ったことで、ソロンの法がいまだ血となり肉となるにいたらず、いまだ共同体の社会秩
序をささえる習慣とはなっていなかったのです。さらに注目すべきは、ペイシストラト
スがソロンの立法になんの変更もくわえず、告訴されたときには、みずからアレオパゴ
ス (評議会)に出頭したことです。ペイシストラトスとその息子たちの支配は、有力な家
族や分派の権力をおさえ、秩序と平和を確立し、市民をソロンの立法になじませるため
には、やむをえぬものであったようにも思われる。それが達成されると、支配は余計な
ものとなり、自由の法がペイシストラトス家の権力と矛盾をきたしてくる。ペイシスト
ラトス家は追放され、息子のヒッパルコスは殺され、ヒッピアスは流刑に処せられます
233
第1篇 キリスト教= ゲルマン……
カール大帝はこの大王国を秩序のととのった国家につくりあげ、全体をまとめあげる
ような確固たる機関を設置しました。といっても、憲法にもとづく王国体制をかれがい
たるところにはじめてもちこんだというのではなく、以前に部分的に存在していた制度
が、かれのもとで発展させられ、明確でしっかりとした効力を発揮するようになったの
です。王は国家官僚の頂点にたち、また、王位の世襲の原理もすでに確立されています
王はまた軍隊の統率者でもあるし、最大の土地所有者でもあり、最高の裁判権もにぎっ
ています。兵制は強制召集権を基礎としています。自由民は国家防衛のために武器をと
る義務があり、各人は一定期間自活していかねばならなかった。いまふうにいえば国土
防衛軍ともいうべきこの軍隊は、高級官僚たる伯および辺境伯の指揮下におかれます
(辺境伯とは、国境周辺(辺境)に大領地をもつ伯です)。国の所有地はガウとよばれる行
政区に分割され、一ガウをひとりの伯が統轄します。カロリング朝の後期には、伯の上
に公爵がおかれ、公爵はケルン、レーゲンスプルクその他の大都市を居住地としました
それにともなって、国土もいくつかの公国に分割されたので、アルザス、ロートリンゲ
シ、フリースランド、テューリンゲン、レーティアなどは、そうしてできた公国です
公爵を任命するのは皇帝です。征服されたあとも旧領主の支配していた領土は、かれら
が反乱をおこすと、ただちにこの特権をうしない、公爵の支配するところとなった。ア
346
第4部 ゲルマン世界
こなうことで、自国の独立をしめしました。かれは、グスタフ。アドルフのように個人
としてプロテスタントの英雄であったばかりではなく、一国家の元首でもありました。
七年戦争それ自体は宗教戦争ではなかったが、その明確な結果からしても、また、兵士
や権力者の心理からしても、宗教戦争といえるものでした。ローマ教皇はダウン元帥の
剣を聖別したし、連合軍の主要なねらいは、プロテスタント教会の保護者たるプロイセ
ン国家を鎮圧することにありました。フリードリヒ大王は、プロイセンをプロテスタン
ト国家としてヨーロッパ列強の一角に食いこませただけでなく、近代ではほかに例のな
い独特のことですが、哲学者の王でもありました。イギリスの王は理屈好きの神学者が
多く、絶対主義の原理を擁護する論を張ったりもしますが、フリードリヒはプロテスタ
ントの原理を世俗の立場からとらえます。宗教上の論争がきらいで、論争の渦中にある
見解のいずれにもくみしないフリードリヒには、精神の奥深さと思考の自覚的な力をし
めす普遍性の意識がそなわっています
第三章啓蒙思想とフランス革命
プロテスタントにおいて、内面性の原理が宗教的解放感や自己充足感とともに導入さ
上323
323
第3篇 ペルシャ
に際しては、英雄があらわれて軍勢をひきいることはあったが、民族は全体としては訣
属状態にあった。のちに王が選ばれるようになって、ようやく民族としての自立がかち
とられました。ダビデになると、征服の旅に出かけてさえいます。律法はもともと家族
だけを対象とするものですが、すでにモーゼ五書のうちに王をのぞむ声が聞かれます。
王は祭司が選ぶことになっていて、外国人と、大部隊の騎兵隊員と、たくさんの妻をも
つ男は失格とされています。ヘプライ王国は、つかのまの栄光ののち、内紛をおこし
分裂します。王国には、部族としてはレビ族だけ、神殿はエルサレムの神殿だけでした
が、分裂と同時にすぐさま偶像崇拝が生じてきます。ちがった神殿で同一の神を崇拝す
るわけにはいかないし、二つの王国が同一の宗教を信じるわけにはいかないからです
客体としての神は、純粋に精神的なものと考えられたけれども、崇拝する主観の側は偶
像にとらわれ、非精神的になっていたのです。分裂後のイスラエルとユダの二王国は、
ただちに内外の不幸な戦乱にまきこまれ、最終的に、アッシリアと新バビロニアの支配」
するところとなります。キュロス王のもとで、イスラエル人は故郷にかえって自分たち
の法律にしたがって生きることをゆるされました
岩波文庫上41
41
B 歴史における理性とはなにか
命題であって、思想の本質をなすものとしてそれをしっかりおさえておかねばなりませ
ん。ここではこのちがいが、自由の自己意識というキリスト教の原理をめぐってうかび
あがっていますが、ちがいは、その本質からして、自由の原理一般をめぐっても生じて
きます。世界史とは自由の意識が前進していく過程であり、わたしたちはその過程の必
然性を認識しなければなりません。 真辺世さる
わたしは民族における自由の認識のちがいについて一般的にのべ、東洋人はひとりが
自由だと知るだけであり、ギリシャとローマの世界は特定の人びとが自由だと知り、わ
たしたちゲルマン人はすべての人間が人間それ自体として自由だと知っている、といい
ましたが、この三区分は、同時に、世界史の区分のしかたとあつかいかたをも示唆する
ものです。ただ、ここでは区分の議論には深入りせず、以下、歴史哲学にかかわるなお
いくつかの概念について説明しておきます。
精神の自由についての意識と精神の自由の実現は、精神世界の定義として、さらには
精神世界こそが実体的な世界であり、物理世界は精神世界に従属するもの(哲学的
-世界の究極目的として、
にいえば、精神世界に真理をうばわれたもの)である以上·
提示されています。このようなものとして提示された自由が、しかし、いまだあいまい
で、無限に多様な意味をもつことばであること、それが最高の概念であるがゆえに、無
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