火曜日, 2月 19, 2019

ヘーゲル The Philosophy of History Georg Wilhelm Friedrich Hegel

The Battle of the Huns: Die Hunnenschlacht (1834–1837) :カウルバッハ 『 フン族の戦い』
http://nam-students.blogspot.jp/2010/07/battle-of-huns.html
Kaulbach The Tower of Babel, The Rise of Greece,The DestructionofJerusalem, The Battle of the Huns, The Crusades, and The Reformation.
http://nam-students.blogspot.jp/2016/07/kaulbach-tower-of-babel-rise-of.html
ヘーゲル歴史哲学

岩波文庫上
41
…東洋人はひとりが自由だと知るだけであり、ギリシャとローマの世界は特定の人びとが自由だと知り、わたしたちゲルマン人はすべての人間が人間それ自体として自由だと知っている…
ヘーゲル哲学の歴史
ヘーゲル体系 世界史

The Philosophy  of History Georg Wilhelm Friedrich Hegel
序文

追記、訂正:
カウルバッハ改訂版
 カウルバッハによるヘーゲル世界史の6枚のうち、ギリシャ篇は、

サラミスの海戦ではなくホメーロスだった。

Homer und die Griechen oder die Blüte Griechenlands

ホメロスとギリシャ人、あるいはギリシャの開花

岩波文庫下 第一篇 ギリシャ精神の諸要素11〜 
 18  王と臣下の関係や王と王との関係を見るには、ホメロスにあたるのが一番です。王と 家臣は法的な契約関係でむすばれるのではなく、富と財産と武装と個人的勇気の大きさ 洞察力と知恵の優秀さ、血統と先祖のよさにもとづいてむすびつき、英雄としてふるま う王侯は高貴な一族と見なされていました。人びとが王侯に服従するのは、カースト制 度にもとづく上下関係によるのでもなければ、屈服させられたからでもなく、また、首 長だけが部族や家族を代表するという家父長制支配によるのでもなければ、明文化され た法的支配の強要によるのでもなく、むしろ、ともに生きていくためには、命令するこ とに慣れた支配者に、嫉妬や悪意などはいだかないで服従する必要がある、とみんなが 感じとっていたからです。
 21 …詩人ホメロスはギリシャ民族の脳裡に、その若々しさと志気の高さを永遠の像として刻 みこみ、美しく男性的な英雄像は、ギリシャ世界の形成と発展の全期間をつうじて、民 族の模範とあおがれました。 … 
29 「イリアス」の冒頭、アキレ ウスはアガメムノンにむかっていきりたち、刀をぬきかかりますが、あわてて腕の動き をおしとどめ、アガメムノンとの関係を思って怒りをがまんする。詩人ホメロスの解釈 によると、アキレウスをおさえたのは、知恵と思慮の女神パラス・アテネだったといい ます。オデュッセウスがパイアケス人のもとで、だれよりも遠くに円盤をなげたとき、 パイアケス人のひとりがかれに好意をしめしますが、詩人はそれも女神パラス。アテネ のしわざだとしています。このように、できごとの意味は真の内面的な意味として認識 され、それを知る詩人たち、とりわけホメロスは、ギリシャ人の教師だったのです。



岩波文庫 
上 
321〜3
…スピノザはモーゼの律法書を、神がユダヤ人に懲罰の鞭としてあたえた ものだと考えています。
  ユダヤ人は、主体が自分の自立を意識しないがゆえに、魂の不死を信じるということ がない。主体は独立自存の存在ではないのです。が、主体が価値なきものとされるユダ ヤ教では、かわりに、家族の自立性がみとめられる。エホバ礼拝は家族の義務とされ、 洋家族こそが実体とされます。反面、国家はユダヤ教の原理にふさわしくないもの、モー ゼの律法になじまないものです。 … ダビデになると、征服の旅に出かけてさえいます。律法はもともと家族 だけを対象とするものですが、すでにモーゼ五書のうちに王をのぞむ声が聞かれます。
 下 64 
 ソロンは住民を財産の多寡によって四つの等級にわけ、もって党派の対立を緩和しょ うとしました。四つの等級のすべてが公共事業を審議し決定する民会には出席できるが、 公職につくことができるのは上位三等級にかぎられていました。 
 233  
 カール大帝はこの大王国を秩序のととのった国家につくりあげ、全体をまとめあげる ような確固たる機関を設置しました。といっても、憲法にもとづく王国体制をかれがい たるところにはじめてもちこんだというのではなく、以前に部分的に存在していた制度 が、かれのもとで発展させられ、明確でしっかりとした効力を発揮するようになったの です。王は国家官僚の頂点にたち、また、王位の世襲の原理もすでに確立されています。 王はまた軍隊の統率者でもあるし、最大の土地所有者でもあり、最高の裁判権もにぎっ ています。 

 324 
 フリードリヒ大王は、プロイセンをプロテスタン ト国家としてヨーロッパ列強の一角に食いこませただけでなく、近代ではほかに例のな い独特のことですが、哲学者の王でもありました。イギリスの王は理屈好きの神学者が 多く、絶対主義の原理を擁護する論を張ったりもしますが、フリードリヒはプロテスタ ントの原理を世俗の立場からとらえます。宗教上の論争がきらいで、論争の渦中にある 見解のいずれにもくみしないフリードリヒには、精神の奥深さと思考の自覚的な力をし めす普遍性の意識がそなわっています。

岩波文庫 @は追加メモ

■上巻目次

凡例

序論
  A 歴史のとらえ方
    (a) 事実そのままの歴史
    (b) 反省をくわえた歴史
    (c) 哲学的な歴史
  B 歴史における理性とはなにか
    (a) 精神の抽象的定義
    (b) 自由を実現する手段
    (c) 自由の実現体たる国家
  C 世界史のあゆみ
    (a) 発展の原理
    (b) 歴史のはじまり
    (c) 世界史のすすみかた
  D 世界史の地理的基礎
    (a) 新世界
    (b) 地理的条件
    (c) 旧世界
  E 世界史の時代区分

第一部 東洋世界
  第一篇 中国
  第二篇 インド
       (付録)仏教について
  第三篇 ペルシャ
    第一章 ゼンド民族
    第二章 アッシリア,バビロニア,メディア,ペルシャ
    第三章 ペルシャ帝国と帝国内の各地域
       一 ペルシャ
       二 シリアとセム族の住む小アジア
       三 ユダヤ@モーゼ
    第四章 エジプト
    第五章 ギリシャ世界への移行

■下巻目次

第二部 ギリシャ世界
  第一篇 ギリシャ精神の諸要素@ホメロス
  第二篇 美しき個人の形成
    第一章 主観的芸術作品
    第二章 客観的芸術作品
    第三章 政治的芸術作品
  第三篇 外交の時代
    第一章 ペルシャ戦争
    第二章 アテネ@ソロン
    第三章 スパルタ
    第四章 ペロポネソス戦争
    第五章 マケドニア王国
  第四篇 ギリシャ精神の没落

第三部 ローマ世界
  第一篇 第2回ポエニ戦争以前のローマ
    第一章 ローマ精神の諸要素
    第二章 第2回ポエニ戦争以前のローマ史
  第二篇 第2回ポエニ戦争から帝制成立までのローマ
  第三篇 帝制の時代
    第一章 帝制期のローマ
    第二章 キリスト教
    第三章 東ローマ帝国

第四部 ゲルマン世界
  第一篇 キリスト教=ゲルマン世界諸要素
    第一章 民族大移動
    第二章 イスラム教
    第三章 カール大帝のフランク王朝@カール大帝
  第二篇 中世
    第一章 封建制と位階組織
    第二章 十字軍の遠征
    第三章 封建制から君主制へ
    第四章 中世のおわりを告げる芸術と学問
  第三篇 近代
    第一章 宗教改革@ルター
    第二章 宗教改革が国家形成におよぼした影響@フリードリヒ大王
    第三章 啓蒙思想とフランス革命

   解説

@アレクサンダー大王、カエサル、ナポレオンをカウルバッハは選ばなかった。

参考:
カウルバッハ

ヴィルヘルム・フォン・カウルバッハWilhelm von Kaulbach1805年10月15日 - 1874年4月7日)はドイツ画家



         A.D.1517
                          A.D.1099
A.D.451                 


                               A.D.70
B.C.2050?                   B.C.80
 
カウルバッハ
Kaulbach 
The Tower of Babel, The Rise of Greece,The Destruction of Jerusalem, The Battle of the Huns,
The Crusades, and The Reformation. 

世界史そのものは3:2:3:3:+
以下はそれ以降の符合、
①1:3:2:2 The Tower of Babel,     紀元前2050年? ニネヴェ建設 バビロニア
②2:1:3:1 The Rise of Greece,     紀元前480年サラミスの海戦
③2:2:3:2 The Destruction of Jerusalem, 紀元70年
④3:1:1:1 The Battle of the Huns,    紀元451年
⑤3:2:2:2 The Crusades,       紀元1099年
⑥3:3:1:1 The Reformation.      紀元1517年


バビロニア

バビロニア古希: Βαβυλωνία: Babylonia)、またはバビュロニアは、現代のイラク南部、ティグリス川ユーフラテス川下流の沖積平野一帯を指す歴史地理的領域である。南北は概ね現在のバグダード周辺からペルシア湾まで、東西はザグロス山脈からシリア砂漠アラビア砂漠までの範囲に相当する[1]。その中心都市バビロンは『旧約聖書』に代表される伝説によって現代でも有名である。バビロニアは古代においては更に南部のシュメール地方と北部のアッカド地方に大別され、「シュメールとアッカドの地」という表現で呼ばれていた[1]

バビロニアは世界で最も古くから農耕が行われている地域の一つであり、前4000年期には既に中東の広い範囲との間に交易ネットワークが張り巡らされていた。前3000年期には文字が使用され始めた。初めて文字システム体系を構築したシュメール人やアッカド人たちはバビロニア南部でウルウルクニップルラガシュなどに代表される多数の都市国家を構築し、前3000年期後半にはアッカド帝国がバビロニアを含むメソポタミア全域への支配を打ち立て、更にウル第三王朝がそれに続いた。

前2000年期に入ると、アムル人(アモリ人)と呼ばれる人々がメソポタミア全域で多数の王朝を打ち立てた。その内の一つでバビロンに勃興したバビロン第1王朝は、ハンムラビ王(在位:前1792年-前1750年)の時代にメソポタミアをほぼ統一し、バビロンが地域の中心都市となる契機を作った。前2000年期後半にはカッシート人が作った王朝(バビロン第3王朝)が支配権を握り、古代オリエント各地の国々と活発に交流を行い、または戦った。カッシート人の王朝は東のエラムとの戦いによって滅亡した。

前1000年期前半にはバビロニアの王朝はアッシリアとの相次ぐ戦いの中で次第に劣勢となり、アッシリアの王ティグラト・ピレセル3世(在位:前745年-前727年)によってその支配下に組み込まれた。アッシリアによるバビロニアの支配は恒常的な反乱にも関わらず、短期間の中断を挟み100年以上継続したが、前625年にカルデア人ナボポラッサル(ナブー・アピル・ウツル、在位:前625年-前605年)がアッシリア人を駆逐し、新バビロニア王国(カルデア王国)を建設したことで終わった。新バビロニアは更に前539年にアケメネス朝(ハカーマニシュ朝)の王キュロス2世(クル2世、在位:前550年-紀元前529年)によって征服され、その帝国の一部となった。アケメネス朝を滅ぼしたアレクサンドロス3世(大王、在位:前336年-前323年)は遠征の途上、バビロンに入城し、また征服の後はバビロンで死去した。

アレクサンドロス大王の死後、後継者(ディアドコイ)の一人セレウコス1世(在位:前305年-前281年)がバビロニアの支配者となった。彼がバビロニアに新たな拠点としてティグリス河畔のセレウキアを建設するとバビロンの重要性は次第に失われて行き、続くアルサケス朝(アルシャク朝、パルティア王国)時代にはセレウキアとその対岸の都市クテシフォン(テーシフォーン)が完全にバビロニアの中心となってバビロン市は放棄された。それに伴い、シュメール時代から続けられていた楔形文字による文字体系も失われ、古くから伝承されたシュメール語バビロニア語の文学的伝統も途絶えた。

バビロニアは法律文学宗教芸術数学天文学などが発達した古代オリエント文明の中心地であり、多くの遺産が後代の文明に引き継がれた。政治体制は基本的に都市国家的な性格を強く残し、地域全体を包括する政治的統一が成し遂げられたのは特定の時代に限られる。アムル人、カッシート人、アラム人など外部からの頻繁な移住が行われ、地元の住民と衝突、混交した。地域の中心的な言語はシュメール語及びアッカド語(バビロニア語)からアラム語へと移り変わり、アレクサンドロス3世(大王)による征服の後にはギリシア語も普及した。

なお、歴史上のどの時点からをバビロニアと呼び、またそれはいつまでであるのかについて明確な定義があるわけではない。本項では便宜上、バビロン市が史料に初めて登場するアッカド帝国時代前後から、バビロン市が完全に放棄され楔形文字による文字記録が途絶えるまでを中心として述べる。現在において年代が確実な最期の楔形文字文書は西暦74/75年の天文記録であり、年代不明の文書の一部は1世紀以降まで時代が下る可能性がある。


ニネヴェ

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8B%E3%83%8D%E3%83%B4%E3%82%A7_(%E3%83%A1%E3%82%BD%E3%83%9D%E3%82%BF%E3%83%9F%E3%82%A2)

ニネヴェ英語: Nineveh)は、古代メソポタミア北部にあったアッシリアの都市[1]。アッシリア帝国の後期には首都が置かれた。なお、ニネヴェという名は旧約聖書ヨナ書など)の表記によるものであり、アッカド語ではニヌアと呼ばれる。新改訳聖書では、ニネベと表記される。現在は、対岸のモースル市域に含まれる。  
アッシリア
古アッシリア時代は、アッシリア語が古アッシリア語と呼ばれる形であった時代で、主に紀元前1950年頃から紀元前15世紀頃までを指す。アッシリア商人や、シャムシ・アダド1世の台頭によって多くの文書史料が残り、アッシリアの政治史が初めて具体的に復元されうる時代である。便宜上アッシュール・ナディン・アヘ2世までが古アッシリア時代とされるが、イシュメ・ダガン1世以降のアッシリア史は史料の欠落によってほとんどわかっておらず、政治史的には別時代である。

サラミスの海戦

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B5%E3%83%A9%E3%83%9F%E3%82%B9%E3%81%AE%E6%B5%B7%E6%88%A6

サラミスの海戦(サラミスのかいせん、ギリシア語: Ναυμαχία της Σαλαμίνας英語: Battle of Salamis)は、ペルシア戦争最中の紀元前480年9月、ギリシアのサラミス島近海で、ギリシア艦隊とペルシア艦隊の間で行われた海戦。ヘロドトスの『歴史』(第8巻)に詳しい。

この海戦でギリシア艦隊が勝利をおさめ、ペルシア戦争は新たな局面を迎えることになる。


エルサレム攻囲戦 (70年)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A8%E3%83%AB%E3%82%B5%E3%83%AC%E3%83%A0%E6%94%BB%E5%9B%B2%E6%88%A6_(70%E5%B9%B4)

エルサレム攻囲戦(エルサレムこういせん、英語: Siege of Jerusalem)は、西暦70年エルサレムを巡って起こった攻城戦ユダヤ属州ユダヤ人ローマ帝国の間に起こったユダヤ戦争(第一次ユダヤ戦争)の決戦になった。この戦いでローマ軍は、ユダヤ人の叛乱軍が66年以来立て籠もっていたエルサレムを陥落させ、市街のほか、聖地であるエルサレム神殿も破壊された。一部のユダヤ人はマサダ砦に逃れ、73年に玉砕するまで戦い続けた。

エルサレムの喪失で本拠地を失ったユダヤ民族は各地に離散した。神殿の崩壊した日は民族の悲劇の日とされ、今でもティシュアー・ベ=アーブと呼ばれる悲しみの記念日とされている。神殿の破壊を描いた絵画や、題材にした文学も現代まで数多く創作された。

 ④
カタラウヌムの戦い
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AB%E3%82%BF%E3%83%A9%E3%82%A6%E3%83%8C%E3%83%A0%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84

カタラウヌムの戦い(カタラウヌムのたたかい ラテン語: Pugna Catalaunica : Bataille des champs Catalauniques : Schlacht auf den Katalaunischen Feldern : Battle of the Catalaunian Plainsフランス語読みでシャロンの戦いとも、: bataille de Châlons : Battle of Châlons)は、451年6月20日カタラウヌム平原にて行われた戦闘。

西ローマ帝国の将軍アエティウス西ゴート族族長テオドリック1世らが率いる反フン族連合軍と、アッティラ率いるフン族とその隷下の部族らが衝突した。

この軍事作戦は西ローマ帝国が行った最後の軍事遠征の一つとされているが、このローマ帝国軍の大半を占めるのは、ローマに忠誠を誓ったフォエデラティと呼ばれるゲルマン人部隊であった[要出典]


十字軍 
1096-1272
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%81%E5%AD%97%E8%BB%8D
ヨーロッパ側がエルサレムを確保した期間は1099年から1187年、および1229年から1244年ということになる(以後、20世紀までイスラムの支配下に置かれる)。
西暦紀元
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A5%BF%E6%9A%A6%E7%B4%80%E5%85%83

ADの使用

ADは、「主の年に[神の年]」を意味する中世ラテン語「anno Domini」に基づく。

英語ではラテン語の語法に従い、年数の前に「AD」という略語を置くのが伝統的である。「AD」という略語は「第4世紀AD」や「2千年紀AD」のように世紀 (millenium) といった言葉の後にもしばしば用いられる。

BCの使用

一方、「BC」は年数の後ろに置く(例えば、68 BC)。「BC」はbefore Christ(キリストの生れる前) の略語である。このために「AD」がAfter Death(キリストの死後)の略語であると誤解されることがあるが間違いである。もし「AD」が文字通りの「キリストの死後」を意味するのであれば、イエスの生涯の約33年間が紀元前にも紀元にも含まれないことになってしまう。
____
Art in an Age of Civil Struggle, 1848-1871, Albert Boime - 2008年9月15日, University of Chicago Press - 出版社, https://play.google.com/store/books/details/Albert_Boime_Art_in_an_Age_of_Civil_Struggle_1848?id=sEb4RL2Ru1kC

上記によると、カウルバッハはヘーゲル歴史哲学を絵画で表現しようとしていたらしい。
https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEhoSS6yrFJ1I_6TzAsgBMumcsgCDpLB2nJ1k_D3Si1SAytbBiewL_XOkxEvlskPogNDZ0qcBhs3e_yVxRaOeSKzLQCga-I9NRkpBlU5blasdoh4SjBPxbTHf9hVX4Yw8eyRJFyNRg/s1600/blogger-image-1245617859.jpg



カウルバッハ
Kaulbach 
The Tower of Babel, The Rise of Greece,The Destruction of Jerusalem, The Battle of the Huns,
The Crusades, and The Reformation. 



The Tower of Babel

03.12.2013 Foto: Museum Georg Schäfer

Die Strafe Gottes: Wilhelm von Kaulbach, Der Turmbau zu Babel, 1844/47.

岩波文庫歴史哲学講義上299~301
《 ニネヴェは紀元前二〇五〇年に建設されたといいますから、アッシリア帝国の建国も
そこまでさかのぼります。ついでニノス王は、バビロニア、メディア、バクトリアを配
下におさめますが、とくにバクトリアの征服は大変な難事業だった。クテシアスの計算
によると、ニノスのひきいた軍勢は,百七十万人の歩兵とそれに見合う騎兵がいたとい
うのですから。バクトリアの包囲攻撃は長くつづき、その征服の軍功は、山の急斜面を
勇敢な軍団をひきいてかけのぼった、王妃セミラミスに帰せられます。セミラミスの人
物像は神話と歴史のあいだをゆれうごいている。「旧約聖書』中の最高の伝説の一つ、
バベルの塔の建設もかの女の手になるとされています。

 イギリス人ケル・ポーターが十二年ほど前に、古代のバビロンのあった地域を旅行し
(旅行全体は一八一七年から一八二〇年にわたりますが)、ある丘の上にバベルの塔の遺
跡を見つけたといっています。塔のまわりにはたくさんの廊下があって、その最上階に
はパール神の像がおかれていたという。ほかにも、あちこちの丘に古代の建物の遺跡が
あったそうです。煉瓦は、『旧約聖書』の塔建設の記事のとおりにならんでいて、広い
平地が無数の煉瓦におおわれていたという。もっとも、すでに何千年来煉瓦はたえず運
びさられ、古代バビロンの近くのヒラは、市全体がその煉瓦でたてられたとのことです
が。
 ヘロドトスの『歴史』には、バビロン人のおもしろい風習がいくつか紹介されていま
すが、それから判断すると、かれらは平和で友好的な民族だったらしい。バビロンでだ
れかが病気になると、病人を広場につれていって、通りすがりの人がだれでも病人に忠
告できるようにするという。また、娘が結婚適齢期になると、美人には高額の出費が命
じられ、それが醜女の結婚持参金にまわされるという。ただし、出費のいかんにかかわ
らず、どの女性も一生に一度ミュリッタの神殿で行きずりの男に身をまかせねばなら
ないという。そんな要求が宗教の概念に抵触しないのかどうか、たしかめるのが困難で
す。ヘロドトスによると、悪習が広がったのは、バビロンがおとろえた後のことだそう
ですが。美人が醜女にみつぐという風習や、病人をみんなの目の前にさらすという風習
には、全体のことを考えようとする配慮が見られます。》



Battle of Salamis( The Rise of Greece)

岩波文庫下61:
《サラミスの海戦では、統制のとれていないギリシャ軍にペルシャの艦隊が撃破され
ました。意気あがる勝利の日は、ギリシャの三大悲劇詩人にとっても、それぞれに意味
のある日となっています。アイスキュロスはともにたたかって勝利に貢献し、ソフオク
レスは戦勝祝賀式でおどりに興じ、エウリピデスはこの世に生をうけています。》


サラミスの海戦(サラミスのかいせん、ギリシア語Ναυμαχία της Σαλαμίνας英語: Battle of Salamis)は、ペルシア戦争最中の紀元前480年9月、ギリシアのサラミス島近海で、ギリシア艦隊とペルシア艦隊の間で行われた海戦。ヘロドトスの『歴史』(第8巻)に詳しい。
この海戦でギリシア艦隊が勝利をおさめ、ペルシア戦争は新たな局面を迎えることになる。


The Destruction of Jerusalem

岩波文庫下156:
《ティトゥス, トラヤヌス、アントニヌスなどは、自分をきびしく律した皇帝として有
名です。》

157:
《名声高いヴェスパシアヌス帝とティトゥス帝のあ
とをついだのは、冷酷非道な暴君ドミティアヌスでしたが、ローマの歴史家によれば、
暴君の治下でローマ世界は元気を回復したという。明るい光源があっても、なにもかわ
ることはなく、帝国の全体が重税と略奪に苦しみ、イタリアの人口は減少し、豊饒きわ
まる土地がほったらかしにされていた。》

167:
《ところで、家族の維持や土地の所有に見いだされる外形上の満足を、ユダヤ民族から
うばいとったのが、ローマ帝国のきたえあげの歴史です。すでにシリアの王がユダヤ民
族を弾圧していますが、ユダヤ人の民族としての存在を否定したのはローマ人が最初で
す。シオンの神殿は破壊され、神につかえる民族はちりぢりになった。かくて, 一切の
篇満足はうばいさられ、民族は最初の神話の立場になげかえされて、人間の内面的本性に
苦しむことになる。ローマ世界の突きつけてくる一般的運命にたちむかうのは、悪の意
識と主へのまなざしです。》
『ティトゥスによるエルサレム破壊』。ヴィルヘルム・フォン・カウルバッハ(Wilhelm von Kaulbach)の絵画。1846年
 
エルサレム攻囲戦 (70年) - Wikipedia
エルサレム攻囲戦(エルサレムこういせん、英語Siege of Jerusalem)は、西暦70年エルサレムを巡って起こった攻城戦で、ユダヤ属州ユダヤ人ローマ帝国の間に起こったユダヤ戦争(第一次ユダヤ戦争)の決戦でもある。この戦いでティトゥス率いるローマ軍は、ユダヤ人の叛乱軍が66年以来立て篭もっていたエルサレムを陥落させた。エルサレム市街のみならず、有名なエルサレム神殿ヘロデ大王が築いた第二神殿)もこのときに破壊された。なおも抵抗するユダヤ人はマサダの要塞に立て篭もり、73年まで戦い続けた。
神殿の破壊はユダヤ人の悲劇の日として語り継がれ、毎年ティシュアー・ベ=アーブの祭が行われている。この破壊を描いた絵画や文学も多い。一方、ローマはこの陥落を記念するティトゥスの凱旋門を建設し、これは今もローマ市内に残っている。
1846 Kaulbach  The Destruction of Jerusalem by Titus ARTchive @ PreteristArchive.com, The Internet's Only Balanced Look at Preterist Eschatology and Preterism
http://www.preteristarchive.com/ARTchive/Exhibits/1846_kaulbach_destruction.htm 

The Battle of the Huns


岩波文庫下192:
《のちにはフン王アッティラがフン族の大軍をひきいてローマの近くまでやってくる--雷雨で増
水した川のように、なにもかも押しながしながらしばらくするとさっとひいていく、い
かにも東洋的な歴史現象の一典型で、かれらがのこした廃墟にかれらの痕跡をみとめる
3ことはできるが、かれらのすがたそのものはもはやどこにもありません。アッティラは
ガリアにも侵入し、四五一年、カタラウヌムのたたかいでアエティウス軍のはげしい抵
抗にさらされる。勝敗は不明です。アッティラはさらにイタリアへと軍をすすめ,四五
三年に死にます。その後まもなく、ローマはゲイセリクスのひきいるヴァンダル軍に占
領され、略奪される。ついに、西ローマ皇帝の位は名ばかりのものとなり、ヘルリ族の
王オドアケルがその称号にとどめをさします。》



The Crusades(十字軍)
岩波文庫下279:
《 多くの苦労と莫大な損害のすえに、正規軍はついに目的を達成しました。かれらは有
名な聖地のすべて, ベツレヘム、ゲッセマネ、ゴルゴタ、キリストの墓などを手にいれ
たのです。事件の全経過やキリスト教徒の行動全体をながめてみると、そこには、最高
の放縦と暴力行為から、最高の後悔と自省へとうつりゆく対照のあざやかさが、十字軍
の一般的性格として浮かびあがってきます。殺されたエルサレムの住民の返り血をあび
てびしょぬれになりながら、キリスト教徒は救世主の墓に顔をうずめ、熱烈な祈りをさ
さげるのです。
建設します。》


The Reformation (宗教改革)
岩波文庫下317:
《 ルターのおこなった聖書のドイツ語訳は、ドイツ国民にとってはかりしれぬ価値をも
つものでした。ドイツ語訳聖書は、カトリック世界のほかのどの国民にもない、国民の
書となりました。かれらにも祈禱書のたぐいは無数にあるが、国民の教化に役だつ根本
の書はないのです。近年、国民が自国語の聖書をもつことは目的にかなったことかどう
かの論争がもちあがりましたが、それのもたらすマイナスがなくはないとしても、それ
をはるかにしのぐ利点がある。外面的な歴史事実が、心や知性のつまずきのもとになる
可能性があるとしても、人びとにやどる宗教心は、その意味を弁別し、肝要な点をしっ
かりおさえて、つまずきを克服していくのです。最後にいえば、国民の書たるものはそ
う浅溥なものであってはならないが、とはいえ、国民の書たるには、それが唯一の書と
して尊敬されねばなりよせん。が、それが容易なことではない。いいものがつくられた
にしても、牧師がだれかれなくそれに文句をつけ、改訂版をつくりあげるからです。》
 
カラー版もネットにあった
中央はルターLuther
有名なポーズらしい
(後述)
_______
202
The Tower of Babel

G.W.F. Hegel,  The Philosophy of  History, 202 Christ; consequently  the  founding of  the  Assyrian  Kingdom is of no  later date. Ninus  reduced under  his sway  also Babylonia, Media and Bactriana; the conquest of  which  latter country  is particularly  extolled  as having displayed  the greatest energy; for Ctesias  reckons  the number of  troops  that accompanied Ninus, at  1,700,000 infantry  and a proportionate  number  of  cavalry. Bactra was besieged for a very  considerable time, and  its conquest  is ascribed  to  Semiramis; who  with a valiant host is said to have  ascended  the steep acclivity  of  a mountain.  The personality  of  Semiramis wavers between  mythological and historical representations. To  her is ascribed  the building  of  the Tower  of  Babel, respecting which we  have in the Bible one of the oldest of  traditions. —  Babylon  lay  to  the south,  on  the Euphrates, in a plain of  great fertility  and  well adapted  for agriculture. On  the Euphrates and the Tigris there was considerable navigation. Vessels came partly  from  Armenia, partly  from  the South, to  Babylon, and  conveyed  thither  an immense amount  of  material wealth. The land  round  Babylon was intersected  by  innumerable  canals; more  for  purposes  of agriculture  —  to  irrigate  the  soil and  to  obviate  inundations — than  for  navigation.  The  magnificent  buildings of  Semiramis in Babylon itself  are  celebrated;  though how  much  of  the  city  is to be ascribed to the more ancient period,  is undetermined and uncertain. It is said that  Babylon  formed a square, bisected by the Euphrates. On one side  of  the  stream  was  the  temple of  Bel, on the other the great palaces of  the monarchs. The city  is reputed to  have had  a hundred  brazen  (i.e.  copper) gates,  its  walls  being a  hundred  feet  high,  and  thick  in  proportion,  defended by  two hundred  and  fifty  towers.  The  thoroughfares  in the  city which  led towards  the river were closed every  night  by  brazen  doors.  Ker Porter,  an  Englishman, about twelve  years ago (his whole tour occupied from  1817 to  1820) traversed the countries  where ancient Babylon lay:  on  an  elevation he  thought he  could discover  remains still existing of  the old  tower  of  Babel; and supposed that he  had found  traces  of  the  numerous  roads  that wound around  the tower, and  in whose loftiest story  the image of Bel was set up. There are besides many  hills with remains of ancient structures. The bricks  correspond with  the  description  in
275
Battle of Salamis( The Rise of Greece)

岩波文庫下61:
《サラミスの海戦では、統制のとれていないギリシャ軍にペルシャの艦隊が撃破され
ました。意気あがる勝利の日は、ギリシャの三大悲劇詩人にとっても、それぞれに意味
のある日となっています。アイスキュロスはともにたたかって勝利に貢献し、ソフオク
レスは戦勝祝賀式でおどりに興じ、エウリピデスはこの世に生をうけています。》

275 At  the beginning  of  the Median  wars, Lacedaemon  was in possession  of  the Hegemony, partly  as the result of  having subjugated and enslaved the free nation  of  the Messenians,  partly because it had assisted many  Greek  states  to  expel  their Tyrants. Provoked  by  the part the Greeks had  taken in assisting the Ionians against him,  the  Persian King sent heralds to  the  Greek cities to  require them  to  give Water  and  Earth,  i.e.  to acknowledge  his supremacy. The Persian  envoys  were contemptuously  sent  back, and the Lacedaemonians  went  so far as to  throw  them  into  a well — a deed, however, of  which they afterwards so deeply  repented,  as  to  send  two Lacedaemonians to Susa in  expiation.  The  Persian  King  then  despatched an  army to invade Greece.  With  its vastly  superior force the Athenians and Plataeans, without  aid  from  their compatriots, contended at Marathon under Miltiades, and  gained  the victory.  Afterwards, Xerxes came down  upon  Greece with  his enormous  masses of nations  (Herodotus  gives  a detailed  description  of  this expedition); and  with the terrible array  of  land-forces was associated the not less formidable  fleet. Thrace, Macedon, and Thessaly  were soon  subjugated; but the entrance  into Greece Proper —  the Pass  of  Thermopylae —  was  defended by  three hundred Spartans  and seven  hundred  Thespians,  whose  fate  is well known.  Athens,  voluntarily  deserted  by  its  inhabitants,  was ravaged; the images of  the gods which  it contained were “an abomination”  to  the Persians, who worshipped the  Amorphous, the  Unformed. In  spite of  the disunion  of  the Greeks, the  Persian fleet was beaten at Salamis; and  this  glorious battle-day  presents the three greatest tragedians  of  Greece in  remarkable chronological association:  for Æschylus  was  one  of  the combatants, and helped to  gain  the  victory,  Sophocles danced at the festival that celebrated it,  and  on  the same  day  Euripides was born.  The host that remained in  Greece, under the command of Mardonius, was beaten  at  Plataea by  Pausanias, and the Persian power was  consequently  broken  at  various  points. Thus  was  Greece freed from  the pressure which  threatened  to overwhelm it.  Greater  battles,  unquestionably,  have  been  fought; but these live immortal not in the historical records of  Nations only, but  also  of  Science and of  Art  —  of  the Noble  and  the
409
409 have  been  able to content  itself  with  this sensuous  presence of Deity; but when it  is  once  granted  that God  exists in external phenomenal presence, this external manifestation  immediately becomes infinitely  varied; for the need of  this presence is infinite.  Thus innumerable  instances  will occur  in  the  experience of  the  Church,  in  which  Christ has appeared to one and  another, in  various places; and  still more  frequently  his divine  Mother, who as standing nearer to humanity, is a second  mediator between  the Mediator and man  (the  miracle-working  images  of the Virgin  are  in  their way  Hosts, since they  supply  a benign  and gracious presence of  God). In  all places, therefore, there will occur manifestations  of  the Heavenly, in  specially  gracious appearances, the stigmata of  Christ’s  Passion, etc.; and the Divine will be  realized  in  miracles  as detached and isolated phenomena. In  the period in  question  the Church  presents the aspect of  a world of  miracle; to the community  of  devout  and pious persons natural existence  has utterly  lost its stability  and certainty: rather, absolute certainty  has turned  against it, and  the Divine is not conceived  of  by  Christendom  under  conditions of universality  as  the  law  and nature  of  Spirit,  but  reveals  itself  in isolated and detached phenomena, in  which  the  rational  form  of existence is utterly  perverted. In  this complete development of  the Church,  we  may  find  a deficiency:  but  what  can  be felt as a want  by  it?  What compels it,  in this state  of  perfect  satisfaction  and  enjoyment, to  wish for something else within the limits of  its own principles —  without apostatizing  from  itself?  Those miraculous  images,  places, and times, are only  isolated points,  momentary  appearances — are not  an  embodiment  of  Deity, not  of  the highest  and absolute kind. The Host,  the supreme manifestation,  is to be found  indeed in  innumerable  churches; Christ is therein transubstantiated  to  a present and  particular  existence: but this itself  is of  a  vague  and general character; it is not his actual and very  presence as particularized  in  Space.  That presence has  passed  away, as regards  time;  but as spatial and  as concrete in  space  it has a mundane permanence in this particular  spot, this particular village, etc.  It is then this mundane existence [in Palestine]  which Christendom  desiderates, which it is resolved  on  attaining.
410
410 Pilgrims  in crowds  had  indeed  been  able to  enjoy  it; but the approach to  the hallowed  localities  is  in the hands of  the Infidels, and  it  is a reproach  to Christendom  that the  Holy  Places  and  the Sepulchre of  Christ  in  particular are not  in  possession  of  the Church. In this feeling Christendom was  united;  consequently the Crusades were undertaken, whose object was not the  furtherance of  any  special interests on  the  part  of  the several states that engaged  in them, but simply  and  solely  the conquest of  the Holy Land. The  West  once  more  sallied  forth  in  hostile array  against the East. As  in the expedition  of  the  Greeks against Troy, so  here the invading hosts were  entirely  composed  of  independent  feudal lords and  knights; though  they  were  not united  under  a  real individuality, as were the Greeks under Agamemnon  or Alexander. Christendom, on  the  contrary, was engaged in  an undertaking  whose object was the securing  of  the  definite and present existence  [of  Deity]  — the  real culmination of Individuality. This object impelled  the West against the East,  and this is the essential interest of  the Crusades. The first and immediate commencement of  the Crusades  was made  in the West itself.  Many  thousands of  Jews  were massacred, and their property  seized; and after this terrible prelude  Christendom  began its march.  The  monk,  Peter  the Hermit  of  Amiens, led the way  with  an  immense troop of  rabble. This host passed  in the  greatest disorder  through Hungary,  and robbed and plundered as  they  went;  but  their  numbers  dwindled away, and only  a few  reached Constantinople. For rational considerations were out of  the question; the mass of  them believed that  God would be  their  immediate  guide and protector. The most  striking  proof  that  enthusiasm  almost  robbed the nations  of  Europe of  their senses, is  supplied by  the  fact  that  at a later time troops  of  children ran away  from  their parents, and went to  Marseilles,  there  to  take ship  for the Holy  Land. Few reached  it; the rest were  sold  by  the  merchants to  the Saracens as slaves. At  last, with much trouble and  immense  loss, more regular armies attained the desired object;  they  beheld themselves in possession  of  all the Holy  Places of  note  —  Bethlehem,


335
335 during their  time,  to  give  the  Roman Empire  an  organization of free social relationship: they  were only  a kind  of  happy  chance, which  passes  over without  a trace, and leaves  the condition  of things as it was. For these persons find  themselves  here in a position in which they  cannot be  said  to  act, since no  object confronts  them  in  opposition;  they  have  only  to will — well or ill — and  it  is  so. The praiseworthy  emperors Vespasian  and Titus were succeeded by that coarsest  and  most  loathsome tyrant, Domitian: yet the Roman historian tells us that  the Roman world enjoyed  tranquillizing  repose  under  him.  Those single points of light, therefore, effected no  change; the whole empire  was subject  to  the pressure of  taxation  and plunder;  Italy  was depopulated; the most  fertile lands  remained untilled: and this state of  things  lay  as a fate on  the Roman  world.
ティトゥスの名前
岩波文庫新版下157頁対応

337~411
The Destruction of Jerusalem, 
岩波文庫下156:
《ティトゥス, トラヤヌス、アントニヌスなどは、自分をきびしく律した皇帝として有
名です。》

157:
《名声高いヴェスパシアヌス帝とティトゥス帝のあ
とをついだのは、冷酷非道な暴君ドミティアヌスでしたが、ローマの歴史家によれば、
暴君の治下でローマ世界は元気を回復したという。明るい光源があっても、なにもかわ
ることはなく、帝国の全体が重税と略奪に苦しみ、イタリアの人口は減少し、豊饒きわ
まる土地がほったらかしにされていた。》

167:
《ところで、家族の維持や土地の所有に見いだされる外形上の満足を、ユダヤ民族から
うばいとったのが、ローマ帝国のきたえあげの歴史です。すでにシリアの王がユダヤ民
族を弾圧していますが、ユダヤ人の民族としての存在を否定したのはローマ人が最初で
す。シオンの神殿は破壊され、神につかえる民族はちりぢりになった。かくて, 一切の
篇満足はうばいさられ、民族は最初の神話の立場になげかえされて、人間の内面的本性に
苦しむことになる。ローマ世界の突きつけてくる一般的運命にたちむかうのは、悪の意
識と主へのまなざしです。》

337~

~353

337
Chapter  II. Christianity. It  has been  remarked  that  Caesar  inaugurated  the  Modern World on  the side of  reality,  while its spiritual and  inward existence  was unfolded  under  Augustus.  At the  beginning of  that empire, whose principle we  have  recognized  as  finiteness and particular  subjectivity  exaggerated  to  infinitude, the  salvation of the World  had  its birth in the same  principle  of  subjectivity  — viz., as a  particular  person,  in abstract subjectivity, but in  such a way  that conversely,  finiteness is only  the  form  of  his appearance,  while infinity  and  absolutely  independent existence constitute the essence and substantial being  which  it embodies. The Roman  World, as  it  has  been  described —  in  its  desperate condition and  the pain  of  abandonment by  God  — came to  an open rupture  with  reality,  and  made  prominent the general desire for a satisfaction such as can only  be  attained  in  “the inner  man,” the  Soul —  thus preparing the  ground  for  a  higher  Spiritual World. Rome  was the Fate that crushed down  the gods  and  all genial life in its hard  service, while it was the power  that purified the human heart from  all speciality. Its entire condition  is therefore analogous to  a  place of  birth,  and its pain  is like the travail-throes of  another and  higher Spirit, which manifested itself  in connection with the  Christian Religion.  This higher Spirit involves the reconciliation and  emancipation of  Spirit; while man obtains the  consciousness  of  Spirit in its universality and  infinity. The Absolute Object,  Truth,  is Spirit; and  as  man himself  is Spirit, he is present [is mirrored]  to  himself  in that object,  and  thus  in  his  Absolute Object has found  Essential Being and  his  own  essential being.21  But in order  that  the  objectivity  of Essential Being may  be  done away  with,  and  Spirit  be  no  longer alien  to  itself  — may  be  with  itself  [self- harmonized] — the
353 as  human. The distinction between Religion and  the World  is only this —  that  Religion  as  such,  is  Reason  in the soul and  heart — that it is  a  temple in which Truth and  Freedom  in God  are presented to the conceptive faculty: the State, on  the other  hand, regulated by  the selfsame  Reason, is a temple of  Human Freedom concerned  with the perception and  volition  of  a  reality, whose purport  may  itself  be called divine.  Thus  Freedom  in  the State is preserved  and established by  Religion,  since moral rectitude  in the State is only  the carrying  out  of  that which constitutes the fundamental principle of  Religion. The process displayed  in History  is only  the manifestation of  Religion as Human Reason — the production of the religious principle which dwells  in  the heart of  man,  under the form  of  Secular  Freedom. Thus the discord  between the  inner  life of  the heart and the actual world  is removed.  To  realize  this is, however, the vocation of another people —  or other peoples  —  viz., the  German.  In ancient Rome  itself,  Christianity  cannot find  a ground  on  which it may  become  actual, and develop an  empire.
411 Gethsemane, Golgotha, and even  the  Holy  Sepulchre.  In  the whole expedition — in all the acts of  the Christians — appeared that enormous  contrast  (a  feature characteristic of  the age) — the transition on  the part of  the  Crusading host from  the greatest excesses and  outrages to  the profoundest  contrition and humiliation.  Still dripping  with  the blood of  the slaughtered inhabitants of  Jerusalem,  the Christians  fell down  on  their faces at  the tomb  of  the Redeemer, and directed their fervent supplications to  him. Thus  did Christendom  come  into  the  possession  of  its  highest good. Jerusalem  was  made a kingdom,  and the entire feudal system was  introduced  there — a constitution which, in presence of  the Saracens,  was  certainly  the worst that could be adopted. Another crusade  in  the  year 1204 resulted in  the conquest  of Constantinople and  the establishment of  a Latin Empire there. Christendom, therefore, had appeased its religious  craving;  it could now  veritably  walk  unobstructed in  the footsteps  of  the Saviour. Whole shiploads of  earth were  brought from  the Holy Land  to  Europe. Of  Christ  himself  no corporeal  relics  could be obtained, for he  was  arisen:  the  Sacred Handkerchief, the Cross, and  lastly  the Sepulchre,  were the most venerated  memorials. But in the  Grave  is  found  the  real point of  retro-version; it is in the grave that all the vanity  of  the Sensuous perishes. At  the Holy Sepulchre the vanity of [the cherished] opinion passes away [the  fancies by  which the  substance  of  truth has  been  obscured disappear]  ; there  all  is  seriousness. In the negation of  that definite  and present  embodiment  — i.e.,  of  the  Sensuous — it is that  the turning-point in question is found, and  those words  have an application: “Thou wouldst not suffer  thy  Holy  One to  see corruption.” Christendom  was  not to  find  its ultimatum  of  truth in  the grave. At  this sepulchre the Christian  world received  a second  time  the  response given to  the  disciples when  they sought the body  of  the  Lord there:  “Why seek ye the living among the dead? He is  not  here, but  is  risen.”  You must not look  for the principle  of  your religion in the Sensuous, in the grave among the dead, but in the living Spirit in yourselves. We  have seen how the vast idea of  the union  of  the  Finite  with the Infinite was perverted to such  a degree  as  that men  looked for a  definite
354
The Battle of the Huns,

岩波文庫下192:
《のちにはフン王アッティラがフン族の大軍をひきいてローマの近くまでやってくる--雷雨で増
水した川のように、なにもかも押しながしながらしばらくするとさっとひいていく、い
かにも東洋的な歴史現象の一典型で、かれらがのこした廃墟にかれらの痕跡をみとめる
3ことはできるが、かれらのすがたそのものはもはやどこにもありません。アッティラは
ガリアにも侵入し、四五一年、カタラウヌムのたたかいでアエティウス軍のはげしい抵
抗にさらされる。勝敗は不明です。アッティラはさらにイタリアへと軍をすすめ,四五
三年に死にます。その後まもなく、ローマはゲイセリクスのひきいるヴァンダル軍に占
領され、略奪される。ついに、西ローマ皇帝の位は名ばかりのものとなり、ヘルリ族の
王オドアケルがその称号にとどめをさします。》
354 which  had glorified the Roman  world. Under him  the pagan temples were shut, the sacrifices and ceremonies  abolished,  and paganism itself forbidden: gradually however it entirely vanished of  itself.  The heathen  orators of  the time cannot sufficiently express their wonder and astonishment  at the monstrous contrast between  the days  of  their forefathers and their own.  “Our Temples have  become  Tombs. The  places  which  were formerly adorned with  the holy  statues of  the Gods  are  now  covered  with sacred bones (relics of  the Martyrs); men  who  have  suffered a shameful  death  for their crimes, whose bodies  are covered with stripes, and whose heads have  been  embalmed, are the  object  of veneration.” All that was contemned  is exalted;  all that was formerly  revered, is  trodden  in  the dust. The last  of  the pagans express this enormous contrast with profound  lamentation. The Roman  Empire  was  divided between  the two sons  of Theodosius.  The elder, Arcadius,  received  the Eastern  Empire: —  Ancient Greece, with  Thrace, Asia Minor, Syria, Egypt; the younger,  Honorius,  the  Western: —  Italy,  Africa,  Spain,  Gaul, Britain. Immediately  after the death  of  Theodosius,  confusion entered, and the Roman  provinces  were overwhelmed by  alien peoples. Already,  under the Emperor Valens, the Visigoths, pressed  by  the  Huns, had  solicited  a domicile on  the hither side of  the Danube. This was granted  them, on  the  condition  that they should  defend  the  border provinces  of  the empire. But maltreatment  roused  them  to revolt. Valens  was beaten  and fell on  the field. The later  emperors  paid  court  to the leader of  these Goths. Alaric, the bold  Gothic Chief,  turned  his arms  against Italy.  Stilicho, the general and  minister of  Honorius, stayed  his course,  A.D.  403, by  the battle of  Pollentia, as  at a later date  he also routed Radagaisus,  leader  of  the Alans, Suevi, and others. Alaric now  attacked  Gaul and  Spain, and  on  the fall of  Stilicho returned to Italy.  Rome  was  stormed  and  plundered by  him  A.D. 410. Afterwards  Attila advanced on  it  with  the  terrible  might  of the Huns  — one of those  purely Oriental phenomena, which,  like a mere storm-torrent, rise  to  a furious  height  and bear down everything  in  their course, but  in  a  brief  space are so completely spent, that nothing  is seen  of  them  but the traces they  have  left  in the ruins  which  they  have  occasioned.  Attila pressed  into  Gaul,
where,  A.D. 451,  a vigorous  resistance was  offered  him  by  Ætius, near Chalons  on  the Marne. Victory  remained  doubtful. Attila subsequently  marched upon  Italy  and  died  in  the year 453. Soon afterwards  however  Rome  was taken and  plundered  by  the Vandals under  Genseric. Finally, the dignity  of  the Western Emperors  became  a  farce,  and  their empty  title was abolished  by Odoacer, King  of  the Heruli.


Crusades, 


岩波文庫下279:
《 多くの苦労と莫大な損害のすえに、正規軍はついに目的を達成しました。かれらは有
名な聖地のすべて, ベツレヘム、ゲッセマネ、ゴルゴタ、キリストの墓などを手にいれ
たのです。事件の全経過やキリスト教徒の行動全体をながめてみると、そこには、最高
の放縦と暴力行為から、最高の後悔と自省へとうつりゆく対照のあざやかさが、十字軍
の一般的性格として浮かびあがってきます。殺されたエルサレムの住民の返り血をあび
てびしょぬれになりながら、キリスト教徒は救世主の墓に顔をうずめ、熱烈な祈りをさ
さげるのです。
建設します。》
407~
Crusades, 
Chapter  II. The Crusades. The Church  gained  the  victory  in the  struggle  referred  to  in the previous  chapter; and in  this way  secured as decided a
408 supremacy  in  Germany,  as  she did in  the other states of  Europe by  a calmer process. She made  herself  mistress of  all the relations  of  life, and of  science and art;  and  she was the permanent repository  of  spiritual treasures. Yet notwithstanding this full  and  complete  development  of  ecclesiastical life, we  find a deficiency  and  consequent  craving  manifesting  itself  in Christendom, and which  drove it  out  of  itself.  To  understand this want,  we  must revert to  the nature of  the  Christian  religion  itself, and  particularly  to  that aspect of  it by  which it has a footing  in the Present in  the consciousness of  its votaries. The objective doctrines of  Christianity  had been  already  so firmly  settled  by  the Councils of  the Church,  that neither the mediaeval  nor any  other  philosophy  could  develop them  further, except  in  the way  of  exalting them  intellectually, so  that they might be satisfactory as presenting  the  form  of  Thought.  And  one essential point in this doctrine was  the  recognition  of  the Divine Nature as not in  any  sense an  other-world  existence [ein Jenseits],  but as in unity  with Human Nature in the Present and Actual. But this Presence is at the same  time exclusively Spiritual Presence. Christ as a particular human personality  has left  the  world;  his  temporal  existence is only  a past one —  i.e., it  exists only  in mental conception. And  since the Divine existence on  earth  is essentially  of  a spiritual character, it cannot appear  in the  form  of  a  Dalai-Lama.  The  Pope,  however  high his position as Head  of  Christendom  and  Vicar  of  Christ, calls himself  only  the Servant of  Servants. How  then did  the Church realize Christ as a  definite  and present  existence?  The principal form  of  this  realization  was, as remarked above, the Holy Supper, in the form  it presented  as the Mass: in this  the  Life, Suffering,  and Death  of  the actual Christ were verily  present, as an  eternal and daily  repeated sacrifice. Christ appears as a definite and present existence in  a sensuous  form  as the  Host, consecrated  by  the Priest; so  far all is satisfactory:  that is to  say, it is the Church,  the Spirit of  Christ, that attains in this ordinance direct  and full assurance. But the most prominent feature in  this sacrament is, that the process  by  which Deity  is manifested, is conditioned  by  the limitations of  particularity  —  that the Host, this  Thing,  is set up  to be adored as God. The Church  then  might
409 have  been  able to content  itself  with  this sensuous  presence of Deity; but when it  is  once  granted  that God  exists in external phenomenal presence, this external manifestation  immediately becomes infinitely  varied; for the need of  this presence is infinite.  Thus innumerable  instances  will occur  in  the  experience of  the  Church,  in  which  Christ has appeared to one and  another, in  various places; and  still more  frequently  his divine  Mother, who as standing nearer to humanity, is a second  mediator between  the Mediator and man  (the  miracle-working  images  of the Virgin  are  in  their way  Hosts, since they  supply  a benign  and gracious presence of  God). In  all places, therefore, there will occur manifestations  of  the Heavenly, in  specially  gracious appearances, the stigmata of  Christ’s  Passion, etc.; and the Divine will be  realized  in  miracles  as detached and isolated phenomena. In  the period in  question  the Church  presents the aspect of  a world of  miracle; to the community  of  devout  and pious persons natural existence  has utterly  lost its stability  and certainty: rather, absolute certainty  has turned  against it, and  the Divine is not conceived  of  by  Christendom  under  conditions of universality  as  the  law  and nature  of  Spirit,  but  reveals  itself  in isolated and detached phenomena, in  which  the  rational  form  of existence is utterly  perverted. In  this complete development of  the Church,  we  may  find  a deficiency:  but  what  can  be felt as a want  by  it?  What compels it,  in this state  of  perfect  satisfaction  and  enjoyment, to  wish for something else within the limits of  its own principles —  without apostatizing  from  itself?  Those miraculous  images,  places, and times, are only  isolated points,  momentary  appearances — are not  an  embodiment  of  Deity, not  of  the highest  and absolute kind. The Host,  the supreme manifestation,  is to be found  indeed in  innumerable  churches; Christ is therein transubstantiated  to  a present and  particular  existence: but this itself  is of  a  vague  and general character; it is not his actual and very  presence as particularized  in  Space.  That presence has  passed  away, as regards  time;  but as spatial and  as concrete in  space  it has a mundane permanence in this particular  spot, this particular village, etc.  It is then this mundane existence [in Palestine]  which Christendom  desiderates, which it is resolved  on  attaining.
410 Pilgrims  in crowds  had  indeed  been  able to  enjoy  it; but the approach to  the hallowed  localities  is  in the hands of  the Infidels, and  it  is a reproach  to Christendom  that the  Holy  Places  and  the Sepulchre of  Christ  in  particular are not  in  possession  of  the Church. In this feeling Christendom was  united;  consequently the Crusades were undertaken, whose object was not the  furtherance of  any  special interests on  the  part  of  the several states that engaged  in them, but simply  and  solely  the conquest of  the Holy Land. The  West  once  more  sallied  forth  in  hostile array  against the East. As  in the expedition  of  the  Greeks against Troy, so  here the invading hosts were  entirely  composed  of  independent  feudal lords and  knights; though  they  were  not united  under  a  real individuality, as were the Greeks under Agamemnon  or Alexander. Christendom, on  the  contrary, was engaged in  an undertaking  whose object was the securing  of  the  definite and present existence  [of  Deity]  — the  real culmination of Individuality. This object impelled  the West against the East,  and this is the essential interest of  the Crusades. The first and immediate commencement of  the Crusades  was made  in the West itself.  Many  thousands of  Jews  were massacred, and their property  seized; and after this terrible prelude  Christendom  began its march.  The  monk,  Peter  the Hermit  of  Amiens, led the way  with  an  immense troop of  rabble. This host passed  in the  greatest disorder  through Hungary,  and robbed and plundered as  they  went;  but  their  numbers  dwindled away, and only  a few  reached Constantinople. For rational considerations were out of  the question; the mass of  them believed that  God would be  their  immediate  guide and protector. The most  striking  proof  that  enthusiasm  almost  robbed the nations  of  Europe of  their senses, is  supplied by  the  fact  that  at a later time troops  of  children ran away  from  their parents, and went to  Marseilles,  there  to  take ship  for the Holy  Land. Few reached  it; the rest were  sold  by  the  merchants to  the Saracens as slaves. At  last, with much trouble and  immense  loss, more regular armies attained the desired object;  they  beheld themselves in possession  of  all the Holy  Places of  note  —  Bethlehem,
411 Gethsemane, Golgotha, and even  the  Holy  Sepulchre.  In  the whole expedition — in all the acts of  the Christians — appeared that enormous  contrast  (a  feature characteristic of  the age) — the transition on  the part of  the  Crusading host from  the greatest excesses and  outrages to  the profoundest  contrition and humiliation.  Still dripping  with  the blood of  the slaughtered inhabitants of  Jerusalem,  the Christians  fell down  on  their faces at  the tomb  of  the Redeemer, and directed their fervent supplications to  him. Thus  did Christendom  come  into  the  possession  of  its  highest good. Jerusalem  was  made a kingdom,  and the entire feudal system was  introduced  there — a constitution which, in presence of  the Saracens,  was  certainly  the worst that could be adopted. Another crusade  in  the  year 1204 resulted in  the conquest  of Constantinople and  the establishment of  a Latin Empire there. Christendom, therefore, had appeased its religious  craving;  it could now  veritably  walk  unobstructed in  the footsteps  of  the Saviour. Whole shiploads of  earth were  brought from  the Holy Land  to  Europe. Of  Christ  himself  no corporeal  relics  could be obtained, for he  was  arisen:  the  Sacred Handkerchief, the Cross, and  lastly  the Sepulchre,  were the most venerated  memorials. But in the  Grave  is  found  the  real point of  retro-version; it is in the grave that all the vanity  of  the Sensuous perishes. At  the Holy Sepulchre the vanity of [the cherished] opinion passes away [the  fancies by  which the  substance  of  truth has  been  obscured disappear]  ; there  all  is  seriousness. In the negation of  that definite  and present  embodiment  — i.e.,  of  the  Sensuous — it is that  the turning-point in question is found, and  those words  have an application: “Thou wouldst not suffer  thy  Holy  One to  see corruption.” Christendom  was  not to  find  its ultimatum  of  truth in  the grave. At  this sepulchre the Christian  world received  a second  time  the  response given to  the  disciples when  they sought the body  of  the  Lord there:  “Why seek ye the living among the dead? He is  not  here, but  is  risen.”  You must not look  for the principle  of  your religion in the Sensuous, in the grave among the dead, but in the living Spirit in yourselves. We  have seen how the vast idea of  the union  of  the  Finite  with the Infinite was perverted to such  a degree  as  that men  looked for a  definite

412 embodiment of the Infinite  in  a mere isolated outward object [the Host]. Christendom found the empty Sepulchre, but not the union of  the Secular and  the Eternal; and  so  it lost the Holy  Land. It was practically  undeceived;  and  the result which it brought back with it was of  a negative  kind:  viz., that the  definite  embodiment which it was seeking, was to  be  looked  for in  Subjective Consciousness  alone,  and  in no  external object; that the definite form  in question, presenting the union  of  the Secular with the Eternal, is the Spiritual self-cognizant independence of  the individual. Thus  the  world  attains the conviction that man must look  within himself  for that  definite  embodiment  of  being  which is of  a divine  nature:  subjectivity  thereby  receives absolute authorization, and  claims  to  determine for itself  the  relation  [of all  that  exists] to  the Divine.32  This then was  the  absolute  result of  the  Crusades,  and  from  them  we  may  date the commencement of  self-reliance  and  spontaneous activity. The West bade  an eternal farewell to  the East at  the  Holy  Sepulchre,  and  gained  a comprehension of  its  own principle of  subjective infinite Freedom. Christendom  never appeared again  on  the scene of history  as  one  body. Crusades of  another kind, bearing  somewhat the character of wars  with  a  view  to  mere  secular  conquest,  but which involved a religious interest also, were the contests waged  by  Spain against the Saracens in  the peninsula itself.  The Christians  had been  shut  up  in  a corner by  the Arabs;  but  they  gained upon  their adversaries  in  strength,  because the Saracens in  Spain  and  Africa were  engaged in  war in  various  directions, and were divided among themselves.  The  Spaniards,  united  with  Frank knights, undertook  frequent  expeditions  against the Saracens; and  in  this collision of  the Christians  with the chivalry  of  the East — with its freedom  and perfect independence of  soul  — the former became  also  partakers  in  this freedom. Spain  gives us  the  fairest picture of  the  knighthood  of  the Middle Ages, and its  hero is  the Cid. Several Crusades, the records of  which  excite our unmixed loathing  and  detestation,  were  undertaken against the  South of France also. There an  aesthetic culture had  developed  itself:  the Troubadours had introduced a freedom of manners similar to that which prevailed  under  the  Hohenstaufen  Emperors  in Germany;

413 but with this difference, that the former  had  in it something affected, while the latter  was of  a  more  genuine kind. But as in Upper Italy,  so also in  the South  of  France fanatical  ideas of purity  had been  introduced;33  a Crusade was therefore preached against that country  by  Papal  authority. St. Dominic entered it with  a  vast  host  of  invaders, who, in  the most  barbarous  manner, pillaged  and  murdered  the innocent and  the  guilty indiscriminately, and  utterly laid  waste the fair region  which they inhabited. Through the Crusades  the  Church reached the completion of its authority: it had  achieved  the perversion  of  religion and  of  the divine Spirit; it  had  distorted  the principle of  Christian Freedom to  a  wrongful and  immoral  slavery of  men’s souls; and  in so doing,  far from  abolishing  lawless caprice and violence and supplanting them  by  a  virtuous rule  of  its  own,  it had  even enlisted them  in  the service  of  ecclesiastical authority. In  the Crusades  the  Pope  stood at  the head of  the secular power:  the Emperor  appeared  only  in a subordinate position, like the other princes, and  was obliged  to  commit both the initiative and  the executive to the Pope, as the manifest generalissimo  of  the expedition. We  have  already  seen the noble house of Hohenstaufen  presenting  the aspect of  chivalrous, dignified and cultivated  opponents  of  the Papal power, when  Spirit [the  moral and  intellectual element in Christendom]  had  given up  the contest. We  have seen how  they  were ultimately  obliged  to  yield to  the  Church; which,  elastic  enough to  sustain any  attack,  bore down  all opposition  and would not move  a step towards conciliation. The fall of  the Church was not to  be  effected  by open violence; it  was  from  within  —  by  the power  of  Spirit and by  an  influence  that  wrought its way  upwards  —  that  ruin threatened it. Respect for the Papacy  could not but be weakened by  the very  fact that the lofty  aim  of  the Crusades  — the satisfaction  expected from  the enjoyment of  the sensuous Presence — was not attained.  As  little  did  the  Popes succeed  in keeping  possession  of  the Holy  Land. Zeal  for the holy  cause was exhausted among the princes of Europe.  Grieved  to  the heart by  the defeat of  the Christians, the Popes again  and again  urged them  to  advance to  the rescue; but lamentations  and  entreaties

414 were vain, and they  could effect  nothing.  Spirit,  disappointed with regard  to  its craving for  the  highest form  of  the  sensuous presence of  Deity, fell back  upon  itself.  A  rupture, the first of  its kind  and profound  as it was novel, took  place. From  this  time forward  we  witness religious and  intellectual movements in which Spirit — transcending the repulsive and  irrational existence  by  which  it is surrounded  — either finds its sphere of exercise within  itself,  and draws upon  its  own resources for satisfaction, or  throws  its energies  into  an  actual world  of  general and morally  justified aims, which  are therefore aims  consonant with  Freedom. The efforts thus  originated are now  to be described:  they  were the means by  which Spirit was to  be prepared to comprehend  the grand purpose  of  its Freedom  in  a form  of  greater purity  and moral elevation. To  this class of  movements  belongs  in  the first place the establishment of monastic and chivalric orders, designed to carry out those rules of  life which the Church had  distinctly  enjoined upon  its members.  That  renunciation of  property,  riches, pleasures,  and  free will, which the Church had  designated  as  the highest  of  spiritual  attainments,  was  to  be  a reality  — not a  mere profession.  The existing monastic and  other  institutions that  had adopted this  vow  of  renunciation,  had  been  entirely  sunk in the corruption  of  worldliness.  But  now  Spirit sought to  realize  in the sphere of  the principle of  negativity  — purely  in itself  — what the  Church  had  demanded. The more immediate occasion  of  this movement was the  rise  of  numerous  heresies  in the  South of France and Italy,  whose tendency  was  in  the direction  of enthusiasm;  and  the  unbelief which was now gaining  ground,  but which  the  Church  justly  deemed  not so  dangerous as  those heresies. To  counteract these evils,  new  monastic  orders  were founded, the chief  of  which  was  that  of  the Franciscans, or Mendicant Friars, whose founder,  St.  Francis  of  Assisi — a man possessed  by  an  enthusiasm  and ecstatic  passion  that  passed  all bounds — spent his life in continually  striving for the loftiest purity. He gave an impulse  of  the same  kind  to  his order; the greatest fervor of  devotion,  the sacrifice of  all pleasures in contravention of  the prevailing worldliness of  the Church, continual penances, the severest  poverty  (the  Franciscans lived

415 on  daily  alms) — were therefore peculiarly  characteristic of  it. Contemporaneously  with  it arose the  Dominican  order,  founded by  St. Dominic;  its  special business was preaching.  The mendicant friars  were  diffused  through Christendom  to  an incredible extent; they  were, on  the one hand, the standing apostolic army  of  the Pope, while, on  the other hand, they strongly  protested against  his worldliness. The Franciscans were powerful allies of  Louis of  Bavaria in  his resistance of  the Papal assumptions, and they  are said to have  been  the authors of  the position, that a General Council was higher authority  than the Pope; but  subsequently  they  too  sank down into  a torpid  and unintelligent  condition.  In the same way the ecclesiastical  Orders of  Knighthood  contemplated  the attainment of  purity  of  Spirit. We have already  called  attention to  the peculiar  chivalric spirit which  had  been developed  in Spain through the  struggle  with the Saracens: the same  spirit was diffused as the result of  the Crusades  through  the  whole  of  Europe.  The  ferocity  and  savage valor that  characterized the predatory  life of  the barbarians  — pacified  and  brought to  a  settled  state  by  possession,  and restrained by  the presence of  equals — was elevated by  religion and  then  kindled  to  a  noble  enthusiasm  through contemplating the boundless magnanimity of Oriental prowess. For Christianity also contains  the element of  boundless abstraction  and freedom; the Oriental chivalric spirit found  therefore  in  Occidental hearts a response, which  paved the way  for their attaining  a  nobler virtue  than  they  had  previously  known. Ecclesiastical orders of knighthood were instituted on  a basis  resembling  that of  the monastic  fraternities.  The  same  conventual  vow  of  renunciation was imposed  on  their  members —  the  giving up  of  all that  was worldly.  But at the same  time they  undertook  the defence of  the pilgrims: their first duty  therefore was knightly  bravery; ultimately,  they  were  also  pledged  to  the sustenance and  care  of the poor and the sick. The Orders  of  Knighthood were divided into  three: that of  St.  John,  that  of  the  Temple, and  the Teutonic Order.  These  associations  are  essentially  distinguished  from  the self-seeking  principle of  feudalism.  Their members sacrificed themselves  with  almost suicidal bravery  for a common  interest. Thus  these Orders transcended the circle of  their immediate

416 environment,  and  formed  a network of  fraternal coalition over the whole of  Europe. But their members  sank down to  the level of  vulgar interests, and the Orders became  in  the sequel a provisional institute for the nobility  generally, rather  than anything else. The Order of  the Temple was even  accused of forming a  religion of  its  own,  and  of  having renounced  Christ in the  creed  which, under  the influence of  the Oriental Spirit, it had adopted. A  second  impulsion, having  a  similar origin, was that in the direction of  Science.  The  development  of  Thought —  the abstractly  Universal — now  had its commencement. Those fraternal associations  themselves, having  a common  object, in whose  service  their members were enlisted, point  to the fact  that a  general principle  was beginning to  be  recognized,  and  which gradually  became conscious  of  its power. Thought was first directed to  Theology,  which  now  became Philosophy  under the name  of  Scholastic Divinity. For philosophy  and  theology  have the  Divine  as  their  common object; and  although the  theology  of the Church  was a stereotyped dogma, the impulse now  arose to justify  this  body  of  doctrine in  the  view  of  Thought.  “When we have arrived  at Faith,” says  the  celebrated  scholastic,  Anselm, “it is a piece  of  negligence  to  stop short of  convincing  ourselves, by the  aid  of  Thought,  of  that  to  which  we  have  given credence.” But  thus  conditioned  Thought was not free,  for  its material  was already  posited  ab extra; it was to  the proof  of  this  material  that philosophy devoted its energies.  But Thought suggested a variety of  questions, the complete answer  to  which was not given directly  in  the symbols  of  the Church; and since the Church  had not decided  respecting them, they  were legitimate subjects of controversy.  Philosophy  was  indeed called an  ancilla  fidei,  for  it was in subjection to  that material of  the Church’s  creed,  which had  been already  definitely  settled;  but yet it was impossible for the opposition  between Thought and  Belief not to  manifest itself. As Europe presented the spectacle of chivalric contests generally — passages of  arms  and  tournaments —  it was now  the  theatre for intellectual jousting also. It  is  incredible  to  what an extent the abstract  forms of  Thought were  developed,  and  what  dexterity was acquired  in the use of  them.  This  intellectual  tourneying for

417 the sake of  exhibiting skill,  and  as a diversion (for  it was not the doctrines themselves, but only  the  forms in which they  were couched  that made the subject  of  debate), was  chiefly prosecuted and brought  to  perfection  in France.  France,  in fact,  began at  that time to be regarded as the centre of  Christendom  : there  the scheme  of  the first Crusades originated,  and French  armies carried  it out: there  the  Popes took  refuge  in their  struggles  with the German  emperors and with  the  Norman  princes of  Naples and Sicily, and there  for a time they  made a continuous  sojourn. — We  also observe  in  the period subsequent  to the Crusades, commencements  of  Art — of  Painting,  viz.: even  during  their continuance a peculiar  kind  of  poetry  had made it appearance. Spirit, unable to  satisfy  its cravings, created  for itself  by imagination  fairer forms and in  a calmer and freer  manner than the actual world could offer. Chapter  III. The Transition from  Feudalism  to Monarchy.


The Reformation (宗教改革)
岩波文庫下317:
《 ルターのおこなった聖書のドイツ語訳は、ドイツ国民にとってはかりしれぬ価値をも
つものでした。ドイツ語訳聖書は、カトリック世界のほかのどの国民にもない、国民の
書となりました。かれらにも祈禱書のたぐいは無数にあるが、国民の教化に役だつ根本
の書はないのです。近年、国民が自国語の聖書をもつことは目的にかなったことかどう
かの論争がもちあがりましたが、それのもたらすマイナスがなくはないとしても、それ
をはるかにしのぐ利点がある。外面的な歴史事実が、心や知性のつまずきのもとになる
可能性があるとしても、人びとにやどる宗教心は、その意味を弁別し、肝要な点をしっ
かりおさえて、つまずきを克服していくのです。最後にいえば、国民の書たるものはそ
う浅溥なものであってはならないが、とはいえ、国民の書たるには、それが唯一の書と
して尊敬されねばなりよせん。が、それが容易なことではない。いいものがつくられた
にしても、牧師がだれかれなくそれに文句をつけ、改訂版をつくりあげるからです。》
↑その後探したらカラー版もネットにあった
中央はルターLuther
有名なポーズらしい

431~446
and The Reformation. 
Chapter  I. The Reformation The Reformation  resulted  from  the  corruption of  the Church. That  corruption  was not an  accidental phenomenon; it was  not the mere  abuse  of  power and dominion.  A  corrupt  state  of  things is very  frequently  represented  as  an  “abuse”; it is taken for granted  that the foundation was good  —  the  system, the institution itself  faultless  —  but that the passion, the subjective interest, in short the arbitrary  volition of  men has made  use of that  which  in  itself  was  good  to  further  its  own  selfish  ends, and that all that is  required  to  be  done  is to  remove these adventitious elements. On this showing  the institute in question escapes obloquy, and  the  evil  that  disfigures it appears something foreign to  it.  But when  accidental abuse of  a good thing  really  occurs,  it is limited  to  particularity. A  great and  general corruption affecting  a body  of  such  large and comprehensive scope as  a Church, is quite another  thing.  —  The corruption of  the Church was a native growth; the principle of  that corruption is to  be looked for in  the fact  that  the  specific and definite  embodiment of  Deity  which it recognizes, is sensuous  —  that  the external in a coarse  material form, is enshrined  in its inmost being. (The refining transformation which Art supplied  was  not  sufficient.) The higher Spirit — that of  the World — has already  expelled the Spiritual from  it; it finds nothing to  interest it  in the Spiritual or  in  occupation with it; thus it retains that specific and  definite embodiment; —  i.e.,  we  have  the  sensuous immediate subjectivity, not refined  by  it  to  Spiritual subjectivity. — Henceforth  it occupies a  position  of  inferiority to  the  WorldSpirit; the latter  has already  transcended  it, for it has become capable  of  recognizing the  Sensuous  as  sensuous,  the  merely outward  as merely  outward;  it has learned  to  occupy  itself  with the Finite in a finite  way,  and  in this very  activity  to  maintain an independent and  confident position as a valid  and  rightful subjectivity.35 The  element in question which is innate in the Ecclesiastical principle  only  reveals itself  as a corrupting  one  when  the  Church has  no  longer  any  opposition  to  contend  with  —  when  it  has

432 become  firmly  established. Then  its elements are free to display their  tendencies without let or  hindrance. Thus it is that externality  in the Church itself  which becomes evil and corruption,  and  develops  itself  as a negative principle in its  own bosom.  — The forms which this corruption assumes are coextensive with the relations  which the Church itself  sustains, into  which consequently  this vitiating element enters. The  ecclesiastical  piety  of  the period displays  the very  essence of  superstition — the fettering  of  the  mind  to  a sensuous object, a  mere  Thing —  in the  most various forms: —  slavish deference to  Authority;  for Spirit, having renounced  its  proper  nature in its most essential  quality  [having sacrificed  its characteristic liberty to  a  mere  sensuous object],  has lost its Freedom,  and  is held  in adamantine  bondage to  what is alien to  itself;  — a credulity  of the most absurd and childish  character  in  regard  to  Miracles,  for the Divine  is  supposed to  manifest  itself  in  a perfectly disconnected  and  limited  way, for purely  finite and  particular purposes;  —  lastly, lust  of  power, riotous  debauchery, all  the forms  of  barbarous  and vulgar corruption,  hypocrisy  and deception  — all this manifests itself  in  the Church; for  in  fact the Sensuous  in  it  is  not  subjugated and trained by  the Understanding; it has become  free,  but only  in a  rough and barbarous way. — On the other  hand  the  virtue  which the  Church presents,  since  it  is  negative only  in  opposition  to sensual appetite, is but abstractly  negative; it does  not  know  how  to exercise a moral  restraint In  the indulgence of  the senses; in actual life  nothing is left for  it but avoidance,  renunciation, inactivity. These contrasts which the Church exhibits — of barbarous vice and lust on  the one hand, and an  elevation  of  soul  that is ready  to renounce  all  worldly  things, on  the other hand  — became still wider  in  consequence of  the energetic position which man is sensible  of  occupying  in  his  subjective power over outward and material things in the natural  world,  in which he feels himself free, and  so  gains for himself  an  absolute right. — The Church whose office it is to  save souls from  perdition, makes this salvation  itself  a mere external appliance, and is now  degraded so  far  as to  perform  this office in a merely  external fashion.  The

445
445 the view  in  which  the sale of  Indulgences originated : for as eternal  salvation  could  be secured for money,  so  by  paying  the price  of  one’s salvation  through a  compact  made  with the  Devil, the riches of  the  world  and  the  unlimited  gratification  of  desires and passions  could be  secured.  Thus  arose that  famous  legend  of Faust, who  in disgust at the unsatisfactory  character  of speculative  science,  is said  to  have  plunged  into  the  world  and purchased  all its glory  at the  expense of  his salvation. Faust, if we  may trust the poet, had  the enjoyment of  all that the world could give, in  exchange  for his  soul’s  weal;  but  those poor women  who  were  called  Witches  were  reputed  to  get nothing more by  the bargain than  the  gratification  of  a petty  revenge by making a  neighbor’s cow  go  dry  or  giving a  child  the  measles. But in awarding punishment it was not the magnitude  of  the injury  in the loss of  the milk  or  the  sickness  of  the child  that was considered; it  was  the abstract power of  the Evil One in  them  that was attacked. The belief  in  this abstract, special power whose dominion is the world  — in the Devil and  his devices — occasioned an  incalculable number of  trials for witchcraft  both in Catholic and  Protestant  countries.  It  was impossible to  prove the guilt of  the accused;  they  were only  suspected  : it was therefore  only  a  direct  knowledge  [one  not mediated by  proofs] on  which this fury  against the evil principle professed  to  be based.  It was indeed necessary  to have  recourse to evidence,  but the basis of  these judicial processes was simply  the belief  that certain  individuals  were possessed by  the power of  the Evil  One. This delusion  raged  among the nations in the sixteenth  century with the fury  of  a pestilence. The main impulse was suspicion. The principle of  suspicion assumes a similarly  terrible shape during  the sway  of  the Roman  Emperors, and under Robespierre’s  Reign  of  Terror; when  mere disposition, unaccompanied by  any  overt act or expression,  was made an object of  punishment. Among the Catholics, it was the Dominicans to  whom  (as was the Inquisition in all its branches) the trials  for  witchcraft  were intrusted.  Father Spee, a noble Jesuit, wrote a treatise against them  (he is also the author of  a collection of  fine poems  bearing the title  of  “Trutznachtigall,”) giving  a full exposure of  the  terrible character of  criminal justice

446 in  proceedings  of  this kind.  Torture, which  was only  to be applied  once, was continued  until a confession  was extorted.  If the accused fainted under  the  torture  it was averred that the Devil was giving them  sleep: if convulsions supervened,  it  was said that  the  Devil was laughing in  them;  if they  held  out steadfastly, the Devil  was  supposed  to  give  them  power. These persecutions spread like  an  epidemic sickness through Italy,  France,  Spain and Germany.  The earnest remonstrances of  enlightened men,  such as Spec and  others,  already  produced a considerable effect. But it  was  Thomasius,  a Professor of  Halle,  who  first  opposed this prevalent superstition  with  very  decided  success. The entire phenomenon is  in itself most remarkable when we  reflect that we have not long been  quit  of  this frightful barbarity  (even as late as the year 1780 a  witch  was  publicly  burned at  Glarus  in Switzerland). Among  the Catholics persecution  was directed against heretics  as  well  as  against witches: we  might  say  indeed that they  were placed in  one category;  the unbelief  of  the heretics was regarded as none  other  than  the indwelling  principle of  Evil — a possession  similar  to  the other. Leaving  this abstract form  of  Subjectiveness we  have  now  to consider the  secular  side  — the constitution  of  the  State and  the advance  of  Universality  —  the recognition of  the universal laws of  Freedom. This is the second  and  the essential point. Chapter  II. Influence of  the Reformation on Political Development. In tracing  the course of  the political development of  the peri







カウルバッハ
Kaulbach 
The Tower of Babel, The Rise of Greece,The Destruction of Jerusalem, The Battle of the Huns,
The Crusades, and The Reformation. 


Art in an Age of Civil Struggle, 1848-1871, Albert Boime - 2008年9月15日, University of Chicago Press - 出版社, https://play.google.com/store/books/details/Albert_Boime_Art_in_an_Age_of_Civil_Struggle_1848?id=sEb4RL2Ru1kC

上記によると、カウルバッハはヘーゲル歴史哲学を絵画で表現しようとしていたらしい。


The Tower of Babel


Battle of Salamis( The Rise of Greece)

岩波文庫下61:
《サラミスの海戦では、統制のとれていないギリシャ軍にペルシャの艦隊が撃破され
ました。意気あがる勝利の日は、ギリシャの三大悲劇詩人にとっても、それぞれに意味
のある日となっています。アイスキュロスはともにたたかって勝利に貢献し、ソフオク
レスは戦勝祝賀式でおどりに興じ、エウリピデスはこの世に生をうけています。》


サラミスの海戦(サラミスのかいせん、ギリシア語Ναυμαχία της Σαλαμίνας英語: Battle of Salamis)は、ペルシア戦争最中の紀元前480年9月、ギリシアのサラミス島近海で、ギリシア艦隊とペルシア艦隊の間で行われた海戦。ヘロドトスの『歴史』(第8巻)に詳しい。
この海戦でギリシア艦隊が勝利をおさめ、ペルシア戦争は新たな局面を迎えることになる。


The Destruction of Jerusalem

岩波文庫下156:
《ティトゥス, トラヤヌス、アントニヌスなどは、自分をきびしく律した皇帝として有
名です。》

157:
《名声高いヴェスパシアヌス帝とティトゥス帝のあ
とをついだのは、冷酷非道な暴君ドミティアヌスでしたが、ローマの歴史家によれば、
暴君の治下でローマ世界は元気を回復したという。明るい光源があっても、なにもかわ
ることはなく、帝国の全体が重税と略奪に苦しみ、イタリアの人口は減少し、豊饒きわ
まる土地がほったらかしにされていた。》

167:
《ところで、家族の維持や土地の所有に見いだされる外形上の満足を、ユダヤ民族から
うばいとったのが、ローマ帝国のきたえあげの歴史です。すでにシリアの王がユダヤ民
族を弾圧していますが、ユダヤ人の民族としての存在を否定したのはローマ人が最初で
す。シオンの神殿は破壊され、神につかえる民族はちりぢりになった。かくて, 一切の
篇満足はうばいさられ、民族は最初の神話の立場になげかえされて、人間の内面的本性に
苦しむことになる。ローマ世界の突きつけてくる一般的運命にたちむかうのは、悪の意
識と主へのまなざしです。》
『ティトゥスによるエルサレム破壊』。ヴィルヘルム・フォン・カウルバッハ(Wilhelm von Kaulbach)の絵画。1846年
 
エルサレム攻囲戦 (70年) - Wikipedia
エルサレム攻囲戦(エルサレムこういせん、英語Siege of Jerusalem)は、西暦70年エルサレムを巡って起こった攻城戦で、ユダヤ属州ユダヤ人ローマ帝国の間に起こったユダヤ戦争(第一次ユダヤ戦争)の決戦でもある。この戦いでティトゥス率いるローマ軍は、ユダヤ人の叛乱軍が66年以来立て篭もっていたエルサレムを陥落させた。エルサレム市街のみならず、有名なエルサレム神殿ヘロデ大王が築いた第二神殿)もこのときに破壊された。なおも抵抗するユダヤ人はマサダの要塞に立て篭もり、73年まで戦い続けた。
神殿の破壊はユダヤ人の悲劇の日として語り継がれ、毎年ティシュアー・ベ=アーブの祭が行われている。この破壊を描いた絵画や文学も多い。一方、ローマはこの陥落を記念するティトゥスの凱旋門を建設し、これは今もローマ市内に残っている。
1846 Kaulbach  The Destruction of Jerusalem by Titus ARTchive @ PreteristArchive.com, The Internet's Only Balanced Look at Preterist Eschatology and Preterism
http://www.preteristarchive.com/ARTchive/Exhibits/1846_kaulbach_destruction.htm 

The Battle of the Huns



岩波文庫下192:
《のちにはフン王アッティラがフン族の大軍をひきいてローマの近くまでやってくる--雷雨で増
水した川のように、なにもかも押しながしながらしばらくするとさっとひいていく、い
かにも東洋的な歴史現象の一典型で、かれらがのこした廃墟にかれらの痕跡をみとめる
3ことはできるが、かれらのすがたそのものはもはやどこにもありません。アッティラは
ガリアにも侵入し、四五一年、カタラウヌムのたたかいでアエティウス軍のはげしい抵
抗にさらされる。勝敗は不明です。アッティラはさらにイタリアへと軍をすすめ,四五
三年に死にます。その後まもなく、ローマはゲイセリクスのひきいるヴァンダル軍に占
領され、略奪される。ついに、西ローマ皇帝の位は名ばかりのものとなり、ヘルリ族の
王オドアケルがその称号にとどめをさします。》




The Crusades(十字軍)

岩波文庫下279:
《 多くの苦労と莫大な損害のすえに、正規軍はついに目的を達成しました。かれらは有
名な聖地のすべて, ベツレヘム、ゲッセマネ、ゴルゴタ、キリストの墓などを手にいれ
たのです。事件の全経過やキリスト教徒の行動全体をながめてみると、そこには、最高
の放縦と暴力行為から、最高の後悔と自省へとうつりゆく対照のあざやかさが、十字軍
の一般的性格として浮かびあがってきます。殺されたエルサレムの住民の返り血をあび
てびしょぬれになりながら、キリスト教徒は救世主の墓に顔をうずめ、熱烈な祈りをさ
さげるのです。
建設します。》


The Reformation (宗教改革)
岩波文庫下317:
《 ルターのおこなった聖書のドイツ語訳は、ドイツ国民にとってはかりしれぬ価値をも
つものでした。ドイツ語訳聖書は、カトリック世界のほかのどの国民にもない、国民の
書となりました。かれらにも祈禱書のたぐいは無数にあるが、国民の教化に役だつ根本
の書はないのです。近年、国民が自国語の聖書をもつことは目的にかなったことかどう
かの論争がもちあがりましたが、それのもたらすマイナスがなくはないとしても、それ
をはるかにしのぐ利点がある。外面的な歴史事実が、心や知性のつまずきのもとになる
可能性があるとしても、人びとにやどる宗教心は、その意味を弁別し、肝要な点をしっ
かりおさえて、つまずきを克服していくのです。最後にいえば、国民の書たるものはそ
う浅溥なものであってはならないが、とはいえ、国民の書たるには、それが唯一の書と
して尊敬されねばなりよせん。が、それが容易なことではない。いいものがつくられた
にしても、牧師がだれかれなくそれに文句をつけ、改訂版をつくりあげるからです。》
 
カラー版もネットにあった
中央はルターLuther
有名なポーズらしい









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WILHELM VON KAULBACH - Core

 
(Adobe PDF)
 
core.ac.uk/download/pdf/32979665.pdf
Wilhelm von Kaulbach. 129. DOR VISCHERS verwandt ist. VISCHER hatte Hegels Konzeption der dritten Stufe.


Wilhelm von Kaulbach - peintre philosophe und modern painter. Zu Kaulbachs Weltgeschichtszyklus im Berliner Neuen Museum

Busch, Werner
In: Gethmann-Siefert, Annemarie (Hrsg.): Welt und Wirkung von Hegels Ästhetik (Hegel-Studien : Beiheft ; 27). Bonn 1986, pp. 117-138
[img]PDF, German
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    Document type:Book Section
    Version:Secondary publication
    Date Deposited:31 Aug 2011 16:36
    Faculties / Institutes:Research Project, Working Group > Individuals
    DDC-classification:Painting
    Controlled Subjects:Kaulbach, Wilhelm von, Berlin / Neues Museum, Treppenhaus, Wandmalerei, Geschichte 1847–1863
    Subject (classification):Artists, Architects
    Countries/Regions:Germany, Switzerland, Austria
    Paper series:
    Schriften von Werner Busch20









    Wilhelm von Kaulbach - peintre philosophe und modern painter. Zu ...

    archiv.ub.uni-heidelberg.de/artdok/1521/
    Wilhelm von Kaulbach - peintre philosophe und modern painter. ... In: Gethmann- Siefert, Annemarie (Hrsg.): Welt und Wirkung von Hegels Ästhetik (Hegel-Studien : Beiheft ; 27).

    ベルリン新博物館
    Das erste und zweite Obergeschoss wurden durch einen Wandarchitrav getrennt, der den Sockel für die Wandgemälde des Obergeschosses bildete. In Stülers ursprünglichem Entwurf waren die Wände durch korinthische Pilaster einfach gegliedert. Friedrich Wilhelm IV. bestimmte persönlich die Wände des zweiten Obergeschosses für großflächige Freskenmalereien in der Absicht, „… auch der neuern monumentalen Kunst ein Feld der Entfaltung einzuräumen, wodurch sie sich als ebenbürtig mit der antiken erweise, und beförderten bei dem Künstler die Freude an dem übernommenen Auftrag, die hauptsächlichsten Epochen der Weltgeschichte in 6 grossen Bildern darzustellen.“[10] Der Künstler war der damals bekannte Münchner Hofmaler Wilhelm von Kaulbach, der für die Fresken eigens aus München abgeworben wurde. Friedrich Wilhelm IV. nahm regen Einfluss auf die Gestaltung der Wandgemälde, beratend wirkten unter anderem der Generaldirektor der Königlichen Museen, Ignaz von Olfers, Friedrich Wilhelm Joseph von Schelling aber auch Alexander von Humboldt und andere Geistesgrößen der Zeit. In Analogie zu den sechs Schöpfungstagen sollten sechs Wendepunkte der Weltgeschichte dargestellt werden. Der Zyklus ist beeinflusst von der Hegelschen Geschichtsphilosophie der Höherentwicklung des Menschen, der Aufwärtsentwicklung durch permanente Selektion, der Emanzipation von äußeren religiösen Mächten. Zwischen dem König und dem Künstler entstand ein zähes Ringen um die darzustellenden Themen, das teilweise Jahre dauerte. Kaulbachs Zyklus mit den Fresken Der Babylonische TurmHomer und die Griechen oder die Blüte GriechenlandsDie Zerstörung von JerusalemDie HunnenschlachtDie Kreuzfahrer vor Jerusalem und Das Zeitalter der Reformation durchzog das gesamte Obergeschoss des monumentalen Treppenhauses und war damit gegen 75 Meter lang. Die Breite der einzelnen Fresken war etwa 7,50 Meter, die Höhe 6,70 Meter. Die Bilder wurden von Kaulbach von 1847 bis 1866 in Stereochromie ausgeführt. Mit dieser Technik lassen sich die Bilder wie mit Öl malen und werden nachträglich erst mit Wasserglas mit dem Mauerwerk fest verbunden, wobei sich ein Freskeneffekt einstellt. Die Malereien im Neuen Museum waren die erste Anwendung im großen Maßstab der kurz zuvor erfundenen Technik. Beim Bau wurden bereits Vorkehrungen getroffen für schnelles Austrocknen der Wandflächen und damit ein schnelles Anbringen der Fresken, indem durch Hochstellen jeder zweiten Ziegellage im Innern der Wand und durch unregelmäßige Öffnungen eigentliche Luftkanäle im Mauerwerk geschaffen wurden.
    Zur Trennung der Hauptbilder ließ Stüler die Bilder über den Türen und zwischen den Fresken auf Goldgrund malen. Die Bilder über den Türen zeigten eine Allegorie der Sage, mit einem Runenstab im Boden nach der Vergangenheit wühlend, während die Raben Hugin und Munin ihr Haupt umkreisen, Klio als Muse der Geschichte, die Geschichte der Völker auf eine Tafel eintragend, die Allegorie der Kunst und die Allegorie der Wissenschaft. Die Zwischenbilder auf Goldgrund zwischen den Fresken stellten die großen Gesetzgeber als Sitzfiguren dar, über denen schwebende Figuren die Länder ihres Wirkens charakterisierten. Die Paare sind Solon mit der von Eroten umschwebten Venus als Verkörperung Griechenlands, Moses mit den Gesetzestafeln, den Fuß auf das zertrümmerte Goldene Kalb setzend, und Isis als Verkörperung Ägyptens, Karl der Große und die Verkörperung Italiens und Friedrich II. und Germaniaals Verkörperung Deutschlands. Das restliche Wandgliederungssystem war in Grisaillemalerei im zurückhaltenden Grüngrau gehalten, den oberen Abschluss bildete ein Fries von Putten und Kindern mit Parodien ägyptischer, griechischer und römischer Geschichtsereignisse. Die Schmalseiten links und rechts der Fenster schmückten Allegorien der Baukunst, der Bildhauerkunst, der Malerei und der grafischen Kunst. Die Farbe der nicht von Malereien bedeckten Wände war ein tiefes pompejanisches Rot mit mildem Glanz.
    Die flachgeneigte Kassettendecke war mit Arabeskenmalerei auf tiefrotem Grund bemalt und wurde durch ein offenes Pfettendach mit sechs mächtigen Bindern getragen. Das eigentliche Dach war von innen nicht sichtbar und lag ungefähr 2,50 Meter höher. Die Binder waren mit vergoldeten PanthernDamhirschenHippogryphenLöwenStieren und Greifen sowie Ornamenten aus Zinkguss verziert, die Stüler direkt aus dem Entwurf Schinkels für den Königspalast übernommen hatte.

    1階と2階は壁の台座で仕切られており、上階に壁画の台座が形成されています。 Stülerのオリジナルデザインでは、壁はコリント式ピラスターによって単純に構成されていました。フレデリック・ウィリアム4世は個人的に大規模なフレスコ画のために2階の壁を選択しました。「...新しい記念碑的な芸術に発展の分野を与え、こうして骨董品と等しいことを証明し、芸術家の喜びを促進しました。それは世界の歴史の最も重要な時代を6つの大きな絵で描くように依頼された。 Frederick William IVは、王立美術館長官、Ignaz von Olfers、Frederick William Joseph von Schellingだけでなく、Alexander von Humboldtや当時の他の知的偉人を含む壁画のデザインに活発な影響を与えました。 6日間の創造と同様に、世界史における6つのターニングポイントが提示されるべきです。このサイクルは、人間のより高度な発達、恒久的な選択による上方成長、外部の宗教的権力の解放という歴史のヘーゲル哲学に影響されます。王と芸術家の間でテーマが提示されるために粘り強い闘争が起こりました、そしてそれは時々年かかりました。バウルの塔、ホーマーとギリシャ人またはギリシャの花、エルサレムの破壊、エルサレムの前の十字軍、そして改革の時代は、記念碑的な階段の上層階全体を横切っていました。各フレスコ画の幅は約7.50メートル、高さは6.70メートルでした。写真は1847年から1866年までカウルバッハによって立体色で製作された。このテクニックで、絵は油のように塗られることができて、その後、Freskeneffektが調整することで、しっかりと接続された石積みで水ガラスだけであります。ノイエス美術館の絵画は、直前に発明された技術の最初の大規模な応用でした。建設においては、壁表面の急速な乾燥のための措置がすでに取られており、したがって壁の内側の他の煉瓦層を1つおきに不規則な開口部を通して上げることによって、実際の空気チャネルによるフレスコ画の素早い付着が組積造りで作られた。

    メイン写真を分けるために、Stülerは金色の地面のドアの上とフレスコ画の間に絵を描いてもらいました。ドアの上の写真は伝説の寓意を示していました、そして、フュービンとムニンが彼らの頭の周りを回っている間ルーンのルーンと歴史の博物館として黒人の人々の歴史を刻むKlio、芸術の寓意そして科学の寓意。フレスコ画の間の金色の背景の中間の絵は着席した人物として偉大な立法者を表していました、その上にホバリングする人物が彼らの仕事の国を特徴付けました。夫婦はソロン、ギリシャの具現化として金星がエロテの周りをホバリング、モーセが砕かれた黄金のふくらはぎの上に足を踏み入れ、そしてイシス、シャルルマーニュの具現化、そしてイタリアの具現化としてのフレデリックIIとゲルマニア、壁システムの残りの部分は束縛されたグリーングレーのグリザイユ絵画で装飾され、上端はエジプト、ギリシャ、ローマの歴史的出来事のパロディを持つプッティと子供たちのフリーズを形成しました。窓の左右の狭い辺は建築、彫刻、絵画そしてグラフィックアートの寓意を飾っています。塗られていない壁の色は、穏やかな輝きのある濃いポンペイ赤でした。

    傾斜した間仕切りの天井は真っ赤な地面に唐草模様で塗りつぶされ、6つの強力な紐で開いた母屋の屋根で支えられていました。実際の屋根は内側から見えず、約2.50メートル高かった。バインダーは金メッキされたパンサー、ダマジカ、ヒッポグリフ、ライオン、雄牛とグリフィン、そしてStülerが王宮のためにSchinkelのデザインから直接取った亜鉛の装飾品で装飾されていました。
    1842 begannen die Planungen für Kaulbachs Hauptwerk, die Bilder zu einer „Weltgeschichte“ im Treppenhaus des Neuen Museums in Berlin.[8] Die Vollendung zog sich bis 1865 hin. Sie wurden im Zweiten Weltkrieg vollständig zerstört.
    Wenig später begann Kaulbach die Arbeit an den Fresken an der Neuen Pinakothek in München mit Szenen zur zeitgenössischen deutschen Kunst. 1859 malte er das Fresko Öffnung der Gruft Karls des Großen im Dom zu Aachen durch Kaiser Otto III. für das neu entstehende Germanische Nationalmuseum in Nürnberg; der ursprüngliche Standort war die Südwand der in das Museum integrierten Kartäuserkirche (1920 aus konservatorischen Gründen in den ehemaligen Saal I übertragen, dort bei Abbrucharbeiten 1962 zerstört).
    In den 1850er Jahren begannen die Arbeiten an den erneut sehr populären Illustrationen zur „Goethe-Galerie“ des Verlegers Friedrich Bruckmann.
    1842年に、カウルバッハのハウプトヴァークの計画、ベルリンの新博物館の階段にある「世界史」のイメージが始まった[8]。 完成は1865年まで続いた。 それらは第二次世界大戦中に完全に破壊されました。

    しばらくしてカウルバッハはミュンヘンのノイエ・ピナコテークで現代ドイツ美術の場面でフレスコ画の仕事を始めました。 1859年に彼は皇帝オットー3世によってアーヘン大聖堂でシャルルマーニュの墓のフレスコ画の開口部を描いた。 ニュルンベルクで新しく出現したゲルマニア国立博物館のために。 もともとの場所は、博物館の南壁、カルタジア博物館に建てられたものです(1920年に保護のために私が移転した元ホールにあり、1962年に破壊され破壊されました)。

    1850年代に、作品は出版社フリードリッヒ・ブルックマンの「ゲーテ・ギャラリー」のために再び非常に人気のあるイラストで始まった。

    In seinen letzten Lebensjahren war Kaulbach vor allem mit der Arbeit an dem monumentalen Gemälde „Die Schlacht bei Salamis“ für das Maximilianeum beschäftigt.
    彼の最後の年に、カウルバッハは主にMaximilianeumのための記念碑的な絵「サラミスの戦い」の仕事に関心を持っていました。

    [8] Siehe: Menke-Schwinghammer 1994 (Literaturverzeichnis); sowie: Margret Dorothea Minkels: Die Stifter des Neuen Museums Friedrich Wilhelm IV. von Preussen und Elisabeth von Baiern. Norderstedt 2012, S. 255–282, S. 486.
    [8]参照:Menke-Schwinghammer 1994(書誌)。 そして:Margret Dorothea Minkels:プロイセンの新しい博物館Friedrich Wilhelm IVとElisabeth von Baiernの創設者。 Norderstedt 2012、pp.255−282、p.486。

    Wilhelm von Kaulbach, Das Zeitalter der Reformation (1854/55)

    Abb. 1: Wilhelm von Kaulbach, Das Zeitalter der Reformation, 1854/55; 900 x 800 cm; Wandgemälde im Neuen Museum zu Berlin (kriegszerstört); Abbildung: Luthersammlung IKZG-RE
    [図1:ヴィルヘルム・フォン・カールバッハ、改革の時代、1854/55; 900×800 cm。 Neues Museum zu Berlinの壁画(戦争で破壊された) フィギュア:ルターコレクションIKZG-RE]
    その後探したらカラー版もネットにあった
    中央はルターLuther
    有名なポーズらしい
    ベルリン新博物館に行けば6枚全部一度に見ることが出来るのだろうか?(エルサレムの破壊はミュンヘンにあるらしい)
    第二次大戦で破壊されたようなのでさすがに複製は飾らないかも知れない



    動画を見ると破壊されたままを展示していて元の絵画の所在はよく分からない



    Titusタイタスによって破壊されたエルサレムは以下で展示されているようだ








    ノイエ・ピナコテーク - Wikipedia

    ja.wikipedia.org/wiki/ノイエ・ピナコテーク
    ノイエ・ピナコテーク(Neue Pinakothek)は、ドイツのミュンヘンにある美術館である。 目次. 1 概要; 2 主な収蔵品; 3 ギャラリー ...








    Neue Pinakothek München – Das offizielle Stadtportal muenchen.de

    www.muenchen.de/sehenswuerdigkeiten/.../119199.htm...









    エルサレム攻囲戦 (70年) - Wikipedia

    ja.wikipedia.org/wiki/エルサレム攻囲戦_(70年)
    エルサレム攻囲戦(エルサレムこういせん、英語: Siege of Jerusalem)は、 ... ティトゥス はエルサレムに対し水と食糧の供給を絶つ兵糧攻めを行った。ティトゥスは過越の祭でエルサレムに来る巡礼には入市を認めた ...








    ティトゥス - Wikipedia

    ja.wikipedia.org/wiki/ティトゥス
    ティトゥス・フラウィウス・ウェスパシアヌス(ラテン語: Titus Flavius ... アヌスがローマへ皇帝宣言のため赴くと、エルサレム攻略の司令官となり、70年にはエルサレムを占領し、73年まで抵抗を続けたマサダを陥落させ ...








    ユダヤ戦争 - Wikipedia

    ja.wikipedia.org/wiki/ユダヤ戦争
    ユダヤ戦争(ユダヤせんそう、ヘブライ語: המרד הגדול 、アルファベット ... ウェスパシアヌスは息子ティトゥスらと共に出動すると、エルサレムを攻略する前に周辺の都市を落として孤立させようと考え、ユダヤの周辺都市を ...

    下61:
    サラミスの海戦では、統制のとれていないギリシャ軍にペルシャの艦隊が撃破され
    ました。意気あがる勝利の日は、ギリシャの三大悲劇詩人にとっても、それぞれに意味
    のある日となっています。アイスキュロスはともにたたかって勝利に貢献し、ソフオク
    レスは戦勝祝賀式でおどりに興じ、エウリピデスはこの世に生をうけています。
    にぎり,と、くに
    側についたのを知って、ペルシャ王はギリシ
    罪滅ぼしにふたりのスパルタ人をスーサに派遣することになりほすが9かくて、·ベル
    ジャに軍隊を派遣します。ペルシャの圧倒的な大軍を相手に,アテネ·N
    マラトンの地で単独のたたかいをいどみ、
    し臣従のしるしに水と土地を提供するよう要求しました。使者は
    スパルタでは川になげこまれたほどでした。(のちに、スパ2タ人はこの行為
    てギリシャ
    シャ王はギリ
    ,ルティアデスの指揮下、
    は大軍をひきい
    ㄔㄔㄧ工の連合軍はミ
    ペルシャ王クセルクセス
    に、それにおとらず強力な艦隊が随行します。トラキア、マケドニア、テッサリアはま
    たたくまに征服されたが、ギリシャ本土への入口にあたるテルモピレーの峠道は、三百
    人のスパルタ人と七百人のテスピア人が,よく知られているように,ペルシャの大軍を
    相手に必死のたたかいをいどみ、容易に通過をゆるさなかった。やがて、ペルシャ軍は
    アテネを占領するが、住民が自発的に去っていったアテネは荒廃し,そこにのこされた
    神々の像は、形なき幾何学的紋様を崇拝するペルシャ人には、身の毛のよだつものでし
    た。サラミスの海戦では、統制のとれていないギリシャ軍にペルシャの艦隊が撃破され
    ました。意気あがる勝利の日は、ギリシャの三大悲劇詩人にとっても、それぞれに意味
    のある日となっています。アイスキュロスはともにたたかって勝利に貢献し、ソフオク
    レスは戦勝祝賀式でおどりに興じ、エウリピデスはこの世に生をうけています。その後、
    ギリシャの奥地に退却したマルドニス指揮下のペルシャ軍は、プラテーエのたたかいで
    パウサニアスに敗れ、つづいて各地で敗北を喫しました。
    こうしてギリシャは、自分をおしつぶしかねない重荷から解放されました。歴史上、
    これよりもっと大規模な戦闘での勝利がいくつか見られるのはたしかですが、このペル
    シャ戦争は、民族の歴史にのこる不滅の記念碑である 学問と芸術の歴史
    伺体精神の歴史にのこる不滅の記念碑でもあります。というのも、このたた
    はかりでなく、

    156:
    ティトゥス, トラヤヌス、アントニヌスなどは、自分をきびしく律した皇帝として有
    名です。》

    157:
    名声高いヴェスパシアヌス帝とティトゥス帝のあ
    とをついだのは、冷酷非道な暴君ドミティアヌスでしたが、ローマの歴史家によれば、
    暴君の治下でローマ世界は元気を回復したという。明るい光源があっても、なにもかわ
    ることはなく、帝国の全体が重税と略奪に苦しみ、イタリアの人口は減少し、豊饒きわ
    まる土地がほったらかしにされていた。》

    167:
    ところで、家族の維持や土地の所有に見いだされる外形上の満足を、ユダヤ民族から
    うばいとったのが、ローマ帝国のきたえあげの歴史です。すでにシリアの王がユダヤ民
    族を弾圧していますが、ユダヤ人の民族としての存在を否定したのはローマ人が最初で
    す。シオンの神殿は破壊され、神につかえる民族はちりぢりになった。かくて, 一切の
    篇満足はうばいさられ、民族は最初の神話の立場になげかえされて、人間の内面的本性に
    苦しむことになる。ローマ世界の突きつけてくる一般的運命にたちむかうのは、悪の意
    識と主へのまなざしです。》

    156:
    高貴な性格と資質の持主もいること
    きわだって教養ゆたかな、
    から,皇帝のなかには、
    はいたのです。
    ティトゥス, トラヤヌス、アントニヌスなどは、自分をきびしく律した皇帝として有
    名です。が, かれらとて国家,になんの変化ももたらさなかった。ローマ国民に自由な共
    かれらにできることではなかった。
    皇帝が人格者で
    同生活の組織を
    あたえることなど、
    あったことなど、なんの痕跡ものこさずにすぎさる幸運な偶然にすぎず、状況は相もか
    わらずもとのままです。というのも、個々の皇帝は、自分に抵抗してくれるものをなに
    ももたないため、いわば行動することのできない状況におかれていたからです。いいこ
    とであれ、わるいことであれ、かれらはただ意思するだけでよかった。意思すると、そ
    のとおりの現実がそこにあるのです。名声高いヴェスパシアヌス帝とティトゥス帝のあ
    とをついだのは、冷酷非道な暴君ドミティアヌスでしたが、ローマの歴史家によれば、
    暴君の治下でローマ世界は元気を回復したという。明るい光源があっても、なにもかわ
    ることはなく、帝国の全体が重税と略奪に苦しみ、イタリアの人口は減少し、豊饒きわ
    まる土地がほったらかしにされていた。こうした状況がローマ世界に運命のごとくのし
    かかっていたのです。
    第二にとりあげるべき帝制の特色は、
    個人が人格としてとらえられることです。』個人
    は完全に平等であり(奴隷にもごくわずかの差別しかなかった)、しかも政治的権利はあ
    たえられなかった。すでに同盟都市戦争(前九--八八)ののちに、イタリア全土の住民
    カラカラ帝のもとで、
    がローマの市民権を得、
    すべての差別が撤廃されます。
    ついで、
    isr
    全ローマ帝国内の臣民について
    私法の発達が市民の平等を完全


    167:

    つまり、
    とすると、
    人間が精神によって、
    ばです。神が蛇のことばを追認している。
    個の認識によって、神そのものをとらえるという命題は、絶対の真理をあらわして
    いることになる。が,それを最初にいうのが、神であって、分裂の状態にある人間では
    ないことに注意したい。和解の満足はいまだ人間のものではなく、人間の全存在にかか
    わる絶対究極の満足はいまだ見いだされず、ただ、神のみがそれを知っているのです。
    遍と
    当分は、苦しみの自己感情がこえることのできない最後の境地であって、人間の見いだ
    す満足は、家族をまもったり、カナンの地を所有するといった、つかのぼの満足にすぎ
    ず、神のうちに満足を見いだしてはいない。神殿で神に犠牲をささげ、目に見える犠牲
    や内面の悔悟によって神への贖罪はおこなわれているのですが。
    いけにえ
    いけにえ
    ところで、家族の維持や土地の所有に見いだされる外形上の満足を、ユダヤ民族から
    うばいとったのが、ローマ帝国のきたえあげの歴史です。すでにシリアの王がユダヤ民
    族を弾圧していますが、ユダヤ人の民族としての存在を否定したのはローマ人が最初で
    す。シオンの神殿は破壊され、神につかえる民族はちりぢりになった。かくて, 一切の
    篇満足はうばいさられ、民族は最初の神話の立場になげかえされて、人間の内面的本性に
    苦しむことになる。ローマ世界の突きつけてくる一般的運命にたちむかうのは、悪の意
    識と主へのまなざしです。ここでの唯一の関心事は、善悪の意識という根本理念が客観
    IST
    的で一般的な意味を獲得し、
    人間の本性を満たす具体的な本質としてとらえられること

    192:
    のちにはフン王アッティラがフン族の大軍をひきいてローマの近くまでやってくる--雷雨で増
    水した川のように、なにもかも押しながしながらしばらくするとさっとひいていく、い
    かにも東洋的な歴史現象の一典型で、かれらがのこした廃墟にかれらの痕跡をみとめる
    3ことはできるが、かれらのすがたそのものはもはやどこにもありません。アッティラは
    ガリアにも侵入し、四五一年、カタラウヌムのたたかいでアエティウス軍のはげしい抵
    抗にさらされる。勝敗は不明です。アッティラはさらにイタリアへと軍をすすめ,四五
    三年に死にます。その後まもなく、ローマはゲイセリクスのひきいるヴァンダル軍に占
    領され、略奪される。ついに、西ローマ皇帝の位は名ばかりのものとなり、ヘルリ族の
    王オドアケルがその称号にとどめをさします。》

    192:

    第3部
    ローマ世界
    スティリコが暗殺されたのち、
    アラリクスは、
    イタリアにかえってくる。
    92
    方向を転じてガリアとスペインにむかい、
    かれは四10年にローマに突撃し、
    略奪します。
    のちにはフン王アッティラがフン族の大軍をひきいてローマの近くまでやってくる--雷雨で増
    水した川のように、なにもかも押しながしながらしばらくするとさっとひいていく、い
    かにも東洋的な歴史現象の一典型で、かれらがのこした廃墟にかれらの痕跡をみとめる
    3ことはできるが、かれらのすがたそのものはもはやどこにもありません。アッティラは
    ガリアにも侵入し、四五一年、カタラウヌムのたたかいでアエティウス軍のはげしい抵
    抗にさらされる。勝敗は不明です。アッティラはさらにイタリアへと軍をすすめ,四五
    三年に死にます。その後まもなく、ローマはゲイセリクスのひきいるヴァンダル軍に占
    領され、略奪される。ついに、西ローマ皇帝の位は名ばかりのものとなり、ヘルリ族の
    王オドアケルがその称号にとどめをさします。
    東ローマ帝国はその後も長くつづきますが、西ローマ帝国のあとには,侵入した蛮族
    のなかから新しいキリスト教民族がうみだされます。キリスト教ははじめは国家からは
    なれた位置にあって、教義や内部組織や宗規などの整備がもっぱらの活動だったが、い
    まや帝国内に大きく広がり、一政治権力として政治的課題を担うようになります。ここ
    に、キリスト教は二つの形をとることになる。つまり、一方には、蛮族のキリスト教が
    あって、
    かれらはこれからあらたに文明をきずかねばならず、
    学問や法制度や国家体制
    を最初の第/歩からつくりあげねばならないが、
    他方
    には、
    ギリシャの学問と優美な東
    嵂のAeyft所看,する、文明民族のキリスト教があります。
    文明民族の場合には、
    ローマ

    279:
    《 多くの苦労と莫大な損害のすえに、正規軍はついに目的を達成しました。かれらは有
    名な聖地のすべて, ベツレヘム、ゲッセマネ、ゴルゴタ、キリストの墓などを手にいれ
    たのです。事件の全経過やキリスト教徒の行動全体をながめてみると、そこには、最高
    の放縦と暴力行為から、最高の後悔と自省へとうつりゆく対照のあざやかさが、十字軍
    の一般的性格として浮かびあがってきます。殺されたエルサレムの住民の返り血をあび
    てびしょぬれになりながら、キリスト教徒は救世主の墓に顔をうずめ、熱烈な祈りをさ
    さげるのです。
    建設します。》

    279:
    ルが、
    列は,
    巨大なならずものの群集をひきいて先頭を行きます
    乱れに乱れ、
    いたるところで強盗や略奪がおこな
    コンスタンティノープルについたのは
    をよく
    て戦列をはなれ、
    神が直接に自分たちを
    民衆の興奮はやがて狂気へといたるのですが,
    みちびき、まもっ
    それ
    両親のもとをはなれた子どもの一団がマルセイユ
    に進軍し、そこから船に乗りこんで約束の地にむかった事実です。目的地に到着したの
    はわずかで、ほかの子どもは人買いにつかまって、奴隷としてサラセン人に売られまし
    多くの人びとは、
    考えた上での行軍ではなく、
    てくれると信じていたのですから。
    をもっともよくしめすのは、
    のちに、
    た。
    《 多くの苦労と莫大な損害のすえに、正規軍はついに目的を達成しました。かれらは有
    名な聖地のすべて, ベツレヘム、ゲッセマネ、ゴルゴタ、キリストの墓などを手にいれ
    たのです。事件の全経過やキリスト教徒の行動全体をながめてみると、そこには、最高
    の放縦と暴力行為から、最高の後悔と自省へとうつりゆく対照のあざやかさが、十字軍
    の一般的性格として浮かびあがってきます。殺されたエルサレムの住民の返り血をあび
    てびしょぬれになりながら、キリスト教徒は救世主の墓に顔をうずめ、熱烈な祈りをさ
    さげるのです。
    建設します。》 こうしてキリスト教徒は最高の宝を手にいれました。エルサレム王国が建設され、そ
    こに封建制度が全体として導入されますが、サラセン人にとってみれば、これは考えう
    P-るかぎり最悪の制度です。つぎの十字軍は1110四年にコンスタンティノープルを占領
    し、そこにラテン帝国を

    317:

    《 ルターのおこなった聖書のドイツ語訳は、ドイツ国民にとってはかりしれぬ価値をも
    つものでした。ドイツ語訳聖書は、カトリック世界のほかのどの国民にもない、国民の
    書となりました。かれらにも祈禱書のたぐいは無数にあるが、国民の教化に役だつ根本
    の書はないのです。近年、国民が自国語の聖書をもつことは目的にかなったことかどう
    かの論争がもちあがりましたが、それのもたらすマイナスがなくはないとしても、それ
    をはるかにしのぐ利点がある。外面的な歴史事実が、心や知性のつまずきのもとになる
    可能性があるとしても、人びとにやどる宗教心は、その意味を弁別し、肝要な点をしっ
    かりおさえて、つまずきを克服していくのです。最後にいえば、国民の書たるものはそ
    う浅溥なものであってはならないが、とはいえ、国民の書たるには、それが唯一の書と
    して尊敬されねばなりよせん。が、それが容易なことではない。いいものがつくられた
    にしても、牧師がだれかれなくそれに文句をつけ、改訂版をつくりあげるからです。》
    317:
    第3
    ,wie
    てどういっているかを見てみるだけでしし
    個人を攻撃するだけでなく
    やがて教義の全体におよび、
    ぎられていたが、
    いや、
    ついには教会の権rarそのものを攻
    ありかたや修道院生活や司教の世俗支配を攻撃するものとなった。ローマ教皇や公論
    聖妻と人間
    決議のやりかた全体、
    かわりに、
    の 個々の誓をこえて、
    の"aaromzをよりどころとしました。
    聖書そのものがキリスト教会の基礎にされたことはこ
    の上なく重要で、
    各人がみずから聖書に学び、
    いまや
    聖書にもとづいて良心のありよ
    ぅをたしかめるべきだとされるのです。これは、おそるべき原理の転換といってよく,
    教会の伝統全体と屋台骨が問題視され、教会の権威が原理的にくつがえされたのです。
    《 ルターのおこなった聖書のドイツ語訳は、ドイツ国民にとってはかりしれぬ価値をも
    つものでした。ドイツ語訳聖書は、カトリック世界のほかのどの国民にもない、国民の
    書となりました。かれらにも祈禱書のたぐいは無数にあるが、国民の教化に役だつ根本
    の書はないのです。近年、国民が自国語の聖書をもつことは目的にかなったことかどう
    かの論争がもちあがりましたが、それのもたらすマイナスがなくはないとしても、それ
    をはるかにしのぐ利点がある。外面的な歴史事実が、心や知性のつまずきのもとになる
    可能性があるとしても、人びとにやどる宗教心は、その意味を弁別し、肝要な点をしっ
    かりおさえて、つまずきを克服していくのです。最後にいえば、国民の書たるものはそ
    う浅溥なものであってはならないが、とはいえ、国民の書たるには、それが唯一の書と
    して尊敬されねばなりよせん。が、それが容易なことではない。いいものがつくられた
    にしても、牧師がだれかれなくそれに文句をつけ、改訂版をつくりあげるからです。》フ
    ランスでは国民の書の必要が痛感され、

    高額の賞金がかけられたが、
    いまいう理由から

    参考:
    NAMs出版プロジェクト: 『世界史の構造』索引:作業中(単行本版目次詳細)
     序文____『世界史の構造』の構造______ (C字型)
    |     |アジア  |2(氏族社会)1   |
    | 1国家 |3世界帝国|贈与と呪術| 定住革命|
    |    第2部 ギリシア    第1部    |
    |___世界=帝国___|__ミニ世界システム_|
    |    (B)    |    (A)    |
    |     |     |     |序説   |
    |2世界貨幣|4普遍宗教|     |交換様式論|
    |_____|_____|_____|_____|
    |     |3    |     |     |
    |1近代国家|ネーション|     |     |
    |    第3部    |    第4部    |
    |_近代世界システム__|___現在と未来___|
    |    (C)4   |1   (D) 2  |
    |2産業資本|アソシエー|世界資本主|世界   |
    |     |ショニズム|義の段階と|共和国へ |
    |_____|_____|反復___|_____|


    世界史そのものは3:2:3:3:+
    以下はそれ以降の符合、
    1:3:2:2 The Tower of Babel, ❶
    2:1:3:1 The Rise of Greece,❷
    2:2:3:2 The Destruction of Jerusalem, ❸
    3:1:1:1 The Battle of the Huns,❹
    3:2:2:2 The Crusades, ❺
    3:3:1:1 The Reformation.❻
     序文____『世界史の構造』の構造______ (C字型)
    |     |アジア ❶|2(氏族社会)1   |
    | 1国家 |3世界帝国|贈与と呪術| 定住革命|
    |    第2部 ギリシア    第1部    |
    |___世界=帝国__❷|__ミニ世界システム_|
    |    (B)    |    (A)    |
    |     |    ❸|     |序説   |
    |2世界貨幣|4普遍宗教|     |交換様式論|
    |_____|_____|_____|_____|
    |    ❻|3  ❺❹|     |     |
    |1近代国家|ネーション|     |     |
    |    第3部    |    第4部    |
    |_近代世界システム__|___現在と未来___|
    |    (C)4   |1   (D) 2  |
    |2産業資本|アソシエー|世界資本主|世界   |
    |     |ショニズム|義の段階と|共和国へ |
    |_____|_____|反復___|_____|


    The Tower of Babel

    03.12.2013 Foto: Museum Georg Schäfer

    Die Strafe Gottes: Wilhelm von Kaulbach, Der Turmbau zu Babel, 1844/47.

    ゲオルク・シェーファー美術館 - Wikipedia

    ja.wikipedia.org/wiki/ゲオルク・シェーファー美術館

    ゲオルク・シェーファー美術館(ゲオルク・シェーファーびじゅつかん、Museum Georg Schäfer)は、ドイツのバイエルン州シュヴァ ...



    哲学史講義宗教哲学講義美学講義
    『エンチクロペディー』、参照:http://hegel.net/、作業中:http://nam21.sakura.ne.jp/hegel/jp/e0.htm
    リンク哲学体系目次論理学自然哲学精神哲学
                   /\
                  /_哲学
                 /\絶対的
                芸術_\/_宗教
               /\<精神哲学> /世界史
              心理学\   家族/人倫\市民
             /\主観的\   /\客観的(=法の哲学)
            人間学\/現象学 /法_\/道徳\
           /\               /\
          /__\  『エンチクロペディー』/__\
         /\概念論\           /有機体学\
        /__\/__\         /__\/__\
       /\ <論理学>/\       /\ <自然哲学>/\
      /__\    /__\     /__\     /__\
     /\有論/\  /\本質論\   /\力学/\   /\物理学\
    /__\/__\/__\/__\ /__\/__\ /__\/__\

    (ギリシア追記全体系=別サイト版)



    以前のブログ記事の改訂版です(Firefox,Safari推奨、Explorerは文字化けします)。
    精神哲学絶対的精神映画版
                                   /\
                                  /__\
                                 /\哲学/\
                                /__\/__\
                               /\<絶対的精神>\
                              /__\     /__\    
                             /\芸術/\   /\宗教/\
                            /__\/__\ /__\/__\
                           /\               /(世界史)
                          /__\    『精神哲学』 (国内)国家(国際法)
                         /\心理学\           /\人倫/\
                        /__\/__\         /家族\/市民\
                       /\<主観的精神>\       /\ <客観的精神>\
                      /__\    /__\     /__\     /__\
                     /人間学/\  /\現象学\   /\法 /\   /\道徳/\
                    /__\/__\/__\/__\ /__\/__\ /__\/__\
                   /\                              /\
                (絶対理念)\                            /__\
               (生命) 理念 (認識)                          /\動物/\
                /______\       『エンチクロペディ』       /__\/__\
               /\       /\                      /\<有機体学> /\ 
              /推論\ 概念論 /__\                    /__\     /__\ 
             / 主観的\   /客観  \                  /地質学/\   /\植物/\
            /[概念]_判断_\ /______\                /__\/__\ /__\/__\
           /\               /\              /\               /\
          /  \             /   \            /__\    『自然哲学』   /化学\
         /限度  \   『論理学』   /現実性 \          /絶対力学\           /\個別的個体
        /______\         /______\        /__\/__\         /形態\/_特殊化
       /\ <有論> /\       /\  <本質論>/\      /\ <力学> /\       /\ <物理学> /\
      /  \    /  \     /  \     /  \    /__\    /__\    元素の過程     /(音)(熱)
     / 質  \  / 量  \   /存在本質\   / 現象 \  空間と時間\  /有限力学\   一般的個体\   /特殊個体  
    /______\/______\ /______\ /______\/__\/__\/__\/__\ /天体\/元素\ /重力\/凝集力


    世界史の哲学講義(上) ベルリン 1822/23年 (講談社学術文庫) 文庫 – 2018/10/12

    G・W・F・ヘーゲル(1770-1831年)は、『精神現象学』、『大論理学』などを公刊し、その名声を確かなものとしたあと、1818年にベルリン大学正教授に就任した。その講義は人気を博したが、中でも注目されることが多いのが1822年から31年まで10年近くにわたって行われた「世界史の哲学講義」である。
    この講義はヘーゲル自身の手では出版されず、初めて公刊されたのは1837年のことだった。弟子エドゥアルト・ガンスが複数の聴講者による筆記録を編集したものであり、表題は『歴史哲学講義』とされた。3年後には息子カール・ヘーゲルが改訂を施した第二版が出版され、これが今日まで広く読まれてきている。日本でも、長谷川宏氏による第二版の訳が文庫版『歴史哲学講義』として多くの読者に手にされてきた。
    しかし、第一版は最終回講義(1830/31年)を基礎にしながらも複数年度の筆記録を区別をつけずに構成したものであり、その方針は初回講義(1822/23年)の「思想の迫力と印象の鮮やかさ」を取り戻すことを目指した第二版も変わらない。つまり、これでは初回講義の全容が分からないのはもちろん、10年のあいだに生じた変化も読み取ることはできない。
    本書は初回講義を完全に再現した『ヘーゲル講義筆記録選集』第12巻の全訳を日本の読者諸氏に提供する初の試みである。ここには、教室の熱気とヘーゲルの息遣いを感じることができる。今後、本書を手にせずしてヘーゲルの「歴史哲学」を語ることはできない。

    [目次]
    〔序論〕世界史の概念
    〔A〕歴史の取り扱い方
    〔B〕人間的自由の理念
    〔C〕国家の本性
    〔D〕世界史の区分
    〔本論〕世界史の行程
    〔第一部〕東洋世界
    〔第一章〕中国
    〔第二章〕インド
    〔第三章〕ペルシア
    〔第四章〕エジプト(以上、上巻)
    〔第二部〕ギリシア世界
    〔第一章〕ギリシアの民族精神の起源
    〔第二章〕ギリシア精神の成熟
    〔第三章〕衰退と没落
    〔第三部〕ローマ世界
    〔第一章〕ローマの権力の形成
    〔第二章〕ローマの世界支配
    〔第三章〕ローマの没落
    〔第四部〕ゲルマン世界
    〔第一章〕初期中世の準備
    〔第二章〕中世
    〔第三章〕近代の歴史



    http://publikationen.ub.uni-frankfurt.de/opus4/frontdoor/deliver/index/docId/13012/file/Das_Goethezeitportal_Kaulbach_Zwoelf_Bilder_zu_Schillers_Dramen.pdf


    Politische Karrikatur 1849.Zum Vergrößern klicken Sie bitte auf das Bild.Erinnerungen an Wilhelm von Kaulbach und sein Haus mit Briefen und hundertsechzig Abbildungengesammelt von Josefa Dürck-Kaulbach. München: Delphin-Verlag 1917, S. 286. Kaulbach an seine FrauJosephine, August 1849: "Von Politik schreibe ich Dir nichts, das ist mir ein gar verhaßtes Kapitel." Ebd. -König Friedrich Wilhelm IV. von Preußen lehnte 1849 die Würde eines Kaisers der Deutschen ab, zu derihn die Deutsche Nationalversammlung gewählt hatte. Die Karikatur zeigt einen in der Sonnezerbröckelnden Schneemann als König, dem vom deutschen Michel die Kaiserwürde (Reichsapfel = Kugelmit Kreuz) angetragen wird.*

    Politische Karrikatur 1849.拡大するには絵をクリックしてくださいJosephDürck-Kaulbachが集めたウィルヘルム・フォン・カウルバッハと彼の家の手紙と160のイラストの思い出。 ミュンヘン:Delphin-Verlag 1917年、p。286。1849年8月、彼の妻JosefineへのKaulbach: "私は政治についてあなたに手紙を書きません。これは私にとって嫌いな章です。"同上。 プロイセンのフレデリックウィリアム4世王は1849年に彼がドイツ国会を選出したドイツ人の皇帝の尊厳から辞退した。 似顔絵には、日が砕けている雪だるまが王として描かれており、ドイツのミシェルが帝国の尊厳を披露しています(Reichsapfel = Kugelmit Kreuz)。



    Nachdem Kaulbach 1847 Direktor der Münchener Kunstakademie geworden war, ging er nach Berlin, umdie Ausmalung des Treppenhauses im Neuen Museum daselbst zu beginnen. Der umfangreiche, instereochromischer Manier ausgeführte Bilderzyklus besteht aus sechs großen kulturgeschichtlichenDarstellungen, einer vierfachen Reihe von Zwischen- und Nebenbildern und einem das Ganze krönendenFries, einer arabeskenartig verschlungenen Zusammenstellung von Kinder- und Tierfiguren, worin derKünstler das Streben und Ringen des menschlichen Geistes, das sich in jenen großen historischenTatsachen offenbart, in humoristisch-satirischer Weise widerspiegelt. Die sechs großen Bilder stellen dieZerstörung des babylonischen Turmes, die Blüte Griechenlands, die Zerstörung Jerusalems, dieHunnenschlacht (diese beiden nur Wiederholungen früherer Kompositionen), das Zeitalter der Kreuzzügeund das der Reformation dar. Die Zwischen- und Nebenbilder sind: 1) Isis. Venus, Italien undDeutschland; 2) Moses, Solon, Karl d. Gr. und Friedrich d. Gr.; 3) Sage, Geschichte, Poesie undWissenschaft; 4) Architektur, Plastik, Malerei und graphische Kunst. Trotz des großen Aufwandes anGedanken und Darstellungskraft fehlt es dem ganzen Zyklus doch an einem logischen Zusammenhang;auch eignet sich diese Art geschichtsphilosophischer Symbolik überhaupt wenig für malerische Darstellung.


    1847年にミュンヘン美術アカデミーのディレクターになった後、カウルバッハはベルリンに行き、ノイエス美術館の階段の絵画を始めました。斬新な方法で行われた広範囲にわたるイメージのサイクルは、6つの素晴らしい文化的 - 歴史的表現、4倍の間奏とサブイメージ、そして唐草のような織り交ぜられた子供と動物の像のセットから成ります。ユーモラスで風刺的な方法で反映されているそれらの偉大な歴史的事実に明らかにされた。 6つの素晴らしい画像は、バビロニアの塔の破壊、ギリシャの開花、エルサレムの破壊、フンの戦い(これらの2つの初期の作曲の繰り返し)、十字軍の時代、そして改革の時代を描いています。金星、イタリア、ドイツ。 2)モーセ、ソロン、カールd。 GR。とフリードリヒd。 GR。; 3)伝説、歴史、詩と科学。 4)建築、彫刻、絵画、グラフィックアート。大量の思考と想像力にもかかわらず、サイクル全体は論理的なつながりを欠いています。この種の歴史哲学的象徴主義は絵画的表現にもほとんど役に立たない。


    以下がいいらしい 1906

    https://ia801409.us.archive.org/25/items/wilhelmvonkaulba00ostiuoft/wilhelmvonkaulba00ostiuoft.pdf

    120pに6枚の歴史画について記述あり

    https://nam-students.blogspot.com/2019/02/technil-der-verliner-muscnmsfrcstcn-ist_21.html

    復刻された

    Wilhelm Von Kaulbach (英語) ハードカバー– 2016/5/17

    Wilhelm von Kaulbach

    33 Comments:

    Blogger yoji said...

    カウエルバッハの選択は映画イントレランスと3つの時代でおおよそダブる


    ☆:INTOLERANCE

           /\
          /_ D\20世紀
         /\  /\
        /__\/C _\16世紀   
    前1〜/\前6から21/\ 
    1世紀B _\    /__\
     /\  /\  /\  /\
    /A _\/__\/__\/__\
    前6世紀              

    Aバビロニア編   紀元前539年の新バビロニア王国。
    Bユダヤ編     紀元前4年のエルサレム。
    C中世編      16世紀のパリ。『王妃マルゴ』でも描かれた1572年の聖バーソロミューの虐殺。
    D現代編      20世紀初頭のある西洋の町。


    地政学的制約は、国家の歴史的発展にも影響を及ぼす。
    以下、『世界共和国へ』(p63,60)より


    グリフィスのイントレランスには
    ギリシア
    フン族
    十字軍
    がない

    8:20 午後  
    Blogger yoji said...

    カウエルバッハの選択は映画イントレランスと3つの時代でおおよそダブる


    ☆:INTOLERANCE

           /\
          /_ D\20世紀
         /\  /\
        /__\/C _\16世紀   
    前1〜/\前6から21/\ 
    1世紀B _\    /__\
     /\  /\  /\  /\
    /A _\/__\/__\/__\
    前6世紀              

    Aバビロニア編   紀元前539年の新バビロニア王国。
    Bユダヤ編     紀元前4年のエルサレム。
    C中世編      16世紀のパリ。『王妃マルゴ』でも描かれた1572年の聖バーソロミューの虐殺。
    D現代編      20世紀初頭のある西洋の町。


    グリフィスのイントレランスには
    ギリシア
    フン族
    十字軍
    がない

    8:20 午後  
    Blogger yoji said...

    カウエルバッハの選択は映画イントレランスと3つの時代でおおよそダブる


    ☆:INTOLERANCE

           /\D20世紀
          /_ _\
         /\  /\
        /C_\/_ _\16世紀
       /\      /\ 
      /_A\    /_B\前6世紀、前1世紀
     /\  /\  /\  /\
    /__\/__\/__\/__\
               

    Aバビロニア編   紀元前539年の新バビロニア王国。
    Bユダヤ編     紀元前4年のエルサレム。
    C中世編      16世紀のパリ。『王妃マルゴ』でも描かれた1572年の聖バーソロミューの虐殺。
    D現代編      20世紀初頭のある西洋の町。


    グリフィスのイントレランスには
    ギリシア
    フン族
    十字軍
    がない

    8:24 午後  
    Blogger yoji said...

    サン・バルテルミの虐殺(サン・バルテルミのぎゃくさつ フランス語:Massacre de la Saint-Barthélemy)は、1572年8月24日にフランスのカトリックがプロテスタントを大量虐殺した事件である。聖バルテルミーの虐殺あるいは(英語表記から)聖バーソロミューの虐殺(St. Bartholomew's Day Massacre)とも表記される。

    宗教改革者ジャン・カルヴァンの思想がフランスでも勢力を持ち、プロテスタントはカトリック側から「ユグノー」と呼ばれた。1562年以降、フランスはカトリックとユグノーとの内乱状態(ユグノー戦争)となっていた。

    8:26 午後  
    Blogger yoji said...

    宗教改革(しゅうきょうかいかく、英: Protestant Reformation)とは、16世紀(中世末期)のキリスト教世界における教会体制上の革新運動である。贖宥状に対するルターの批判がきっかけとなり、以前から指摘されていた教皇位の世俗化、聖職者の堕落などへの信徒の不満と結びついて、ローマ・カトリック教会からプロテスタントの分離へと発展した。


    カウエルバッハは近代を描いたが

    8:27 午後  
    Blogger yoji said...

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    Kuperstich von Gustag Eilers nach Wilhelm Kaulbach 'Die Reformation'

    Source: Wilhelm Kaulbach's Wandgemälde im Treppenhaus des neue Museums zu Berlin, Verlag Alexander Dunckel, 1871



    Public domain
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    Neues Museum (Berlin)

    8:31 午後  
    Blogger yoji said...

    https://commons.m.wikimedia.org/wiki/File:Die_Reformation_Gustav_Eilers_nach_Wilhelm_von_Kaulbach.jpg#mw-jump-to-license

    nm
    https://de.m.wikipedia.org/wiki/Neues_Museum_(Berlin)

    8:37 午後  
    Blogger yoji said...

    Vestibül und Treppenhaus
    Bearbeiten

    Treppenhaus im Neuen Museum um 1850
    Durch den Haupteingang in der Mitte der Ostfassade gelangten die Besucher ins Hauptvestibül, dessen kassettierte Decke von vier dorischen Säulen aus Pavonazetto-Marmor aus Carrara getragen wurde. Der helle Marmor mit dem kräftigen, dunkelvioletten Geäder setzte sich gut vom rotbraunen Sockel und den polierten, gelblichen Wänden aus dem Marmorimitat Marmorino ab. Die Deckenkonstruktion war eine Konstruktion aus Eisenbalken, „an welchen unterhalb verzierte Bronzeleisten befestigt sind, um die Metall-Construction auch in der Decoration erscheinen zu lassen“[6] – diese Eisenkonstruktion wollte Stüler offenbar zumindest indirekt zeigen. Links führte eine Tür aus poliertem Palisanderholz zur Sammlung der nordischen Altertümer, rechts in die Ägyptische Sammlung.

    8:38 午後  
    Blogger yoji said...

    前庭と階段
    編集します

    1850年頃のノイエス美術館の階段
    東側ファサードの真ん中にあるメインエントランスを通って、訪問者はメインの前庭を訪れました。そして、その天井はカララからのPavonazetto大理石の中の4つのDoricコラムによって支えられました。 豊かで濃い紫色の静脈のある明るい大理石は、赤褐色の台座と、光沢のある黄色がかった大理石の模造品Marmorinoの壁から際立っていました。 天井構造は鉄の梁の構造であり、「金属構造を装飾の中に見えるようにするために、装飾された青銅の帯が下に取り付けられています」 - この鉄の構造は、少なくとも間接的にStülerを見せたかったのです。 左側には洗練されたローズウッドのドアがあり、右側にはエジプト人のコレクションがありました。

    8:39 午後  
    Blogger yoji said...

    einen Wandarchitrav getrennt, der den Sockel für die Wandgemälde des Obergeschosses bildete. In Stülers ursprünglichem Entwurf waren die Wände durch korinthische Pilaster einfach gegliedert. Friedrich Wilhelm IV. bestimmte persönlich die Wände des zweiten Obergeschosses für großflächige Freskenmalereien in der Absicht, „… auch der neuern monumentalen Kunst ein Feld der Entfaltung einzuräumen, wodurch sie sich als ebenbürtig mit der antiken erweise, und beförderten bei dem Künstler die Freude an dem übernommenen Auftrag, die hauptsächlichsten Epochen der Weltgeschichte in 6 grossen Bildern darzustellen.“[10] Der Künstler war der damals bekannte Münchner Hofmaler Wilhelm von Kaulbach, der für die Fresken eigens aus München abgeworben wurde. Friedrich Wilhelm IV. nahm regen Einfluss auf die Gestaltung der Wandgemälde, beratend wirkten unter anderem der Generaldirektor der Königlichen Museen, Ignaz von Olfers, Friedrich Wilhelm Joseph von Schelling aber auch Alexander von Humboldt und andere Geistesgrößen der Zeit. In Analogie zu den sechs Schöpfungstagen sollten sechs Wendepunkte der Weltgeschichte dargestellt werden. Der Zyklus ist beeinflusst von der Hegelschen Geschichtsphilosophie der Höherentwicklung des Menschen, der Aufwärtsentwicklung durch permanente Selektion, der Emanzipation von äußeren religiösen Mächten. Zwischen dem König und dem Künstler entstand ein zähes Ringen um die darzustellenden Themen, das teilweise Jahre dauerte. Kaulbachs Zyklus mit den Fresken Der Babylonische Turm, Homer und die Griechen oder die Blüte Griechenlands, Die Zerstörung von Jerusalem, Die Hunnenschlacht, Die Kreuzfahrer vor Jerusalem und Das Zeitalter der Reformation durchzog das gesamte Obergeschoss des monumentalen Treppenhauses und war damit gegen 75 Meter lang. Die Breite der einzelnen Fresken war etwa 7,50 Meter, die Höhe 6,70 Meter. Die Bilder wurden von Kaulbach von 1847 bis 1866 in Stereochromie ausgeführt. Mit dieser Technik lassen sich die Bilder wie mit Öl malen und werden nachträglich erst mit Wasserglas mit dem Mauerwerk fest verbunden, wobei sich ein Fresk

    8:41 午後  
    Blogger yoji said...

    上層階の壁画のための台座を形成したwallarchitravを分離しました。 Stülerのオリジナルデザインでは、壁はコリント式ピラスターによって単純に構成されていました。フレデリック・ウィリアム4世は個人的に大規模なフレスコ画のために2階の壁を選択しました。「...新しい記念碑的な芸術に発展の分野を与え、こうして骨董品と等しいことを証明し、芸術家の喜びを促進しました。それは世界の歴史の最も重要な時代を6つの大きな絵で描くように依頼された。 Frederick William IVは、王立美術館長官、Ignaz von Olfers、Frederick William Joseph von Schellingだけでなく、Alexander von Humboldtや当時の他の知的偉人を含む壁画のデザインに活発な影響を与えました。 6日間の創造と同様に、世界史における6つのターニングポイントが提示されるべきです。このサイクルは、人間のより高度な発達、恒久的な選択による上方成長、外部の宗教的権力の解放という歴史のヘーゲル哲学に影響されます。王と芸術家の間でテーマが提示されるために粘り強い闘争が起こりました、そしてそれは時々年かかりました。バウルの塔、ホーマーとギリシャ人またはギリシャの花、エルサレムの破壊、エルサレムの前の十字軍、そして改革の時代は、記念碑的な階段の上層階全体を横切っていました。各フレスコ画の幅は約7.50メートル、高さは6.70メートルでした。写真は1847年から1866年までカウルバッハによって立体色で製作された。このテクニックで、絵画は油のように塗られることができて、その後、フレスコ画で、水ガラスだけで石積みに接続されます

    8:42 午後  
    Blogger yoji said...

    https://www.y-history.net/appendix/wh0102-085.html
     ペルシア戦争(前500~前449年)の最終段階、サラミスの海戦でアテネ海軍の活躍でギリシアのポリス連合軍は勝利を占めた。海軍力を新調させたアテネは、ペルシアの再襲来に備えて、エーゲ海域の諸ポリスと攻守同盟であるデロス同盟を結成し、その盟主として全ギリシアから東地中海一帯の海上までその支配を拡大し、前443年に将軍職となったペリクレスのもとで全盛期を迎えていた。それにたいして、すでにスパルタはペロポネソス半島の諸ポリスとの間にペロポネソス同盟を結成していたが、アテネの勢力拡大にさらに強い警戒感をもつようになった。
     こうしてギリシアはアテネを中心としたデロス同盟諸国と、スパルタを盟主とするペロポネソス同盟の対立というあらたな段階に入り、両陣営は前431年に戦争に突入、27年間にわたって続いた戦争は前404年に講和して終わった。両軍の戦いは、ギリシア本土とエーゲ海全域にわたり、さらにエーゲ海上から遠く西地中海のシチリア島まで及んでいる。古代地中海世界の世界戦争と捉えることができる。
     アテネとスパルタはギリシアの覇権を争う二大ポリスであったが、アテネが典型的な民主政を発展させたポリスであったのに対し、それに対してスパルタは貴族政(寡頭政)のもとで、貴族の中から王を選び、少数の貴族階級が多くの半自由民(ペリオイコイ)と奴隷(ヘイロータイ)を抑えるために軍国主義を採っているというように、国家体制に大きな違いがあった。

    9:29 午後  
    Blogger yoji said...


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    Wikipedia
    1
    サラミスの海戦 (紀元前450年)
    編集このページをウォッチする別の言語で閲覧
    サラミスの海戦(英:Battle of Salamis)はキュプロス島のサラミスで紀元前450年にデロス同盟艦隊とアケメネス朝ペルシア艦隊によって戦われた海戦である。

    サラミスの海戦
    戦争:ペルシア戦争
    年月日:紀元前450年
    場所:キュプロス島のサラミス
    結果:デロス同盟の勝利
    交戦勢力
    デロス同盟
    Standard of Cyrus the Great (Achaemenid Empire).svgアケメネス朝
    指導者・指揮官
    不明
    不明
    戦力
    140隻
    不明
    損害
    不明
    不明
    ペルシア戦争
    イオニア マラトン テルモピュライ アルテミシオン サラミス プラタイア ミュカレ ビュザンティオン エイオン エウリュメドン キティオン サラミス
    表示
    紀元前451年にアテナイとスパルタは第一次ペロポネソス戦争における五年期限の休戦条約を結んだ。これによってギリシアでの戦いから解放されたアテナイはキモンをデロス同盟艦隊200隻と共にキュプロス島へと派遣した。そのうち60隻はペルシアに反旗を翻したエジプトのアミュルタイオス王の元へ援軍として送られ、残りはキュプロスのキティオンを包囲した。しかしその最中キモンが病死し、また糧秣に不足しだしたため、デロス同盟艦隊はキティオンを離れてキュプロスのサラミスへ向かった。同地でデロス同盟艦隊はフェニキア人、キュプロス人、キリキア人らと海陸で戦い、両方で勝利を得た。そしてその頃エジプトに派遣した艦隊も戻ってきたため、彼らは帰国した[1]。

    しかし、ディオドロスはより詳細ではあるが、トゥキュディデスとは異なった記述をしている[2]。キュプロスに着いたキモンはキティオンとマリオンを落とし、次いでキリキアとフェニキアからのペルシア艦隊を破って100隻を拿捕し、余勢を駆ってキリキアの将軍メガビュゾスの軍を破り、再びキュプロスへと戻った。その後キモンはサラミスを包囲したが、包囲中にキモンは病死した。その間、デロス同盟軍の連勝を受けてペルシア王アルタクセルクセス1世はアテナイと講和した(カリアスの和約)。

    その後、第二次神聖戦争が起こり、フォキスに味方したアテナイはデルフォイに味方したスパルタと対立し、アテナイとスパルタとの戦いは再燃した[3]。




    編集
    ^ トゥキュディデス, I. 112
    ^ ディオドロス, XII. 3-4
    ^ トゥキュディデス, I. 112
    参考文献
    編集
    ディオドロスの『歴史叢書』の英訳
    トゥキュディデス著、小西晴雄訳、『トゥーキュディデース 世界古典文学全集11』、筑摩書房、1971年
    ノート
    最終編集: 2 か月前、Nazki rhetorica
    関連ページ
    ビュザンティオン包囲戦 (紀元前478年)
    エウリュメドン川の戦い (紀元前466年)
    キティオン包囲戦
    Wikipedia

    コンテンツは、特に記載されていない限り、CC BY-SA 3.0のもとで利用可能です。
    プライバシーデスクトップ

    9:29 午後  
    Blogger yoji said...

    1:3:2:2
    The Tower of Babel,

    2:1:3:1
    The Rise of Greece,

    2:2:3:2
    The Destruction of Jerusalem,

    3:1:1:1
    The Battle of the Huns,

    3:2:2:0
    The Crusades,

    3:3:1:2?
    The Reformation.

    1:43 午前  
    Blogger yoji said...



    Art in an Age of Civil Struggle, 1848-1871, Albert Boime - 2008年9月15日, University of Chicago Press - 出版社,
    https://play.google.com/store/books/details/Albert_Boime_Art_in_an_Age_of_Civil_Struggle_1848?id=sEb4RL2Ru1kC

    上記によると、カウルバッハはヘーゲル歴史哲学を絵画で表現しようとしていたらしい。
    世界史そのものは3:2:3:3:+
    以下はそれ以下の符合、
    1:3:2:2 The Tower of Babel, バベルの塔
     https://2.bp.blogspot.com/-wECbrf67J30/XG2LLEoFifI/AAAAAAABgiI/zI9XMX3BZxYlQqnbLS-eV0TxVPrhgNVxwCLcBGAs/s1600/IMG_9221.JPG
    2:1:3:1 The Rise of Greece,サラミスの海戦
     https://lh3.googleusercontent.com/-cBdl-SN-3qI/V4aolCt-xGI/AAAAAAABBBY/3oVtwO1OYQU/s1600/blogger-image-1797702465.jpg
    2:2:3:2 The Destruction of Jerusalem,ティトゥスによるエルサレム破壊
     https://lh3.googleusercontent.com/-AMnOTliZz3Q/V4biF3ELPpI/AAAAAAABBB8/n2RGKPW7ydA/s1600/blogger-image--283976643.jpg
    3:1:1:1 The Battle of the Huns,フン族の戦い
     https://lh3.googleusercontent.com/-hHJBE1yAYlQ/V4aoiS-jTCI/AAAAAAABBBU/1aZKEEOoSb4/s1600/blogger-image-1092259838.jpg
    3:2:2:2 The Crusades,十字軍
     https://lh3.googleusercontent.com/-XTdKkbVeRsE/V4aono5q0VI/AAAAAAABBBc/hgyhPKyJleE/s1600/blogger-image-1544682345.jpg
    3:3:1:1 The Reformation.宗教改革
     https://ikzg-re.ekvw.de/fileadmin/_processed_/0/e/csm_Geck_Retusche_11022016_b0195a276d.jpg

    まとめると
    https://2.bp.blogspot.com/-2rFWU7zApRQ/XG2OPK_yMXI/AAAAAAABgig/7lVyAdWypDsRVNQKrvjZSl0ZnpDlsQ3mACLcBGAs/s1600/IMG_9223.PNG

    9:53 午前  
    Blogger yoji said...

    Wilhelm von Kaulbach - Wikipedia, the free encyclopedia
    https://en.wikipedia.org/wiki/Wilhelm_von_Kaulbach#History_of_Mankind



    Art in an Age of Civil Struggle, 1848-1871, Albert Boime - 2008年9月15日, University of Chicago Press - 出版社,
    https://play.google.com/store/books/details/Albert_Boime_Art_in_an_Age_of_Civil_Struggle_1848?id=sEb4RL2Ru1kC

    上記によると、カウルバッハはヘーゲル歴史哲学を絵画で表現しようとしていたらしい。
    世界史そのものは3:2:3:3:+
    以下はそれ以下の符合、
    1:3:2:2 The Tower of Babel, バベルの塔
     https://2.bp.blogspot.com/-wECbrf67J30/XG2LLEoFifI/AAAAAAABgiI/zI9XMX3BZxYlQqnbLS-eV0TxVPrhgNVxwCLcBGAs/s1600/IMG_9221.JPG
    2:1:3:1 The Rise of Greece,サラミスの海戦
     https://lh3.googleusercontent.com/-cBdl-SN-3qI/V4aolCt-xGI/AAAAAAABBBY/3oVtwO1OYQU/s1600/blogger-image-1797702465.jpg
    2:2:3:2 The Destruction of Jerusalem,ティトゥスによるエルサレム破壊
     https://lh3.googleusercontent.com/-AMnOTliZz3Q/V4biF3ELPpI/AAAAAAABBB8/n2RGKPW7ydA/s1600/blogger-image--283976643.jpg
    3:1:1:1 The Battle of the Huns,フン族の戦い
     https://lh3.googleusercontent.com/-hHJBE1yAYlQ/V4aoiS-jTCI/AAAAAAABBBU/1aZKEEOoSb4/s1600/blogger-image-1092259838.jpg
    3:2:2:2 The Crusades,十字軍
     https://lh3.googleusercontent.com/-XTdKkbVeRsE/V4aono5q0VI/AAAAAAABBBc/hgyhPKyJleE/s1600/blogger-image-1544682345.jpg
    3:3:1:1 The Reformation.宗教改革
     https://ikzg-re.ekvw.de/fileadmin/_processed_/0/e/csm_Geck_Retusche_11022016_b0195a276d.jpg

    まとめると
    https://2.bp.blogspot.com/-2rFWU7zApRQ/XG2OPK_yMXI/AAAAAAABgig/7lVyAdWypDsRVNQKrvjZSl0ZnpDlsQ3mACLcBGAs/s1600/IMG_9223.PNG

    9:56 午前  
    Blogger yoji said...

    一番有名なのはフン族の戦いでマルクスがドイツイデオロギーで、フロイトが自我とエスで言及している

    原画を飾っていた博物館は第二次大戦で破壊されたが原画そのものは各地に分散し無事のようだ(未確認)

    9:59 午前  
    Blogger yoji said...

    Wilhelm von Kaulbach - Wikipedia, the free encyclopedia
    https://en.wikipedia.org/wiki/Wilhelm_von_Kaulbach#History_of_Mankind

    Art in an Age of Civil Struggle, 1848-1871, Albert Boime - 2008年9月15日, University of Chicago Press - 出版社,
    https://play.google.com/store/books/details/Albert_Boime_Art_in_an_Age_of_Civil_Struggle_1848?id=sEb4RL2Ru1kC

    上記によると、カウルバッハは[国王からの依頼で]ヘーゲル歴史哲学を[6枚の]絵画で表現しようとしていたらしい。
    世界史そのものは3:2:3:3:+
    以下はそれ以下の符合、
    1:3:2:2 The Tower of Babel, バベルの塔
     https://2.bp.blogspot.com/-wECbrf67J30/XG2LLEoFifI/AAAAAAABgiI/zI9XMX3BZxYlQqnbLS-eV0TxVPrhgNVxwCLcBGAs/s1600/IMG_9221.JPG
    2:1:3:1 The Rise of Greece,サラミスの海戦
     https://lh3.googleusercontent.com/-cBdl-SN-3qI/V4aolCt-xGI/AAAAAAABBBY/3oVtwO1OYQU/s1600/blogger-image-1797702465.jpg
    2:2:3:2 The Destruction of Jerusalem,ティトゥスによるエルサレム破壊
     https://lh3.googleusercontent.com/-AMnOTliZz3Q/V4biF3ELPpI/AAAAAAABBB8/n2RGKPW7ydA/s1600/blogger-image--283976643.jpg
    3:1:1:1 The Battle of the Huns,フン族の戦い
     https://lh3.googleusercontent.com/-hHJBE1yAYlQ/V4aoiS-jTCI/AAAAAAABBBU/1aZKEEOoSb4/s1600/blogger-image-1092259838.jpg
    3:2:2:2 The Crusades,十字軍
     https://lh3.googleusercontent.com/-XTdKkbVeRsE/V4aono5q0VI/AAAAAAABBBc/hgyhPKyJleE/s1600/blogger-image-1544682345.jpg
    3:3:1:1 The Reformation.宗教改革
     https://ikzg-re.ekvw.de/fileadmin/_processed_/0/e/csm_Geck_Retusche_11022016_b0195a276d.jpg

    まとめると
    https://2.bp.blogspot.com/-2rFWU7zApRQ/XG2OPK_yMXI/AAAAAAABgig/7lVyAdWypDsRVNQKrvjZSl0ZnpDlsQ3mACLcBGAs/s1600/IMG_9223.PNG

    この中で一番有名なのは「フン族の戦い」でマルクスが『ドイツイデオロギー』で、フロイトが「自我とエス」で言及している
    原画を飾っていた博物館は第二次大戦で破壊されたが原画そのものは各地に分散し無事のようだ(未確認)

    10:02 午前  
    Blogger yoji said...

    Wilhelm von Kaulbach - Wikipedia, the free encyclopedia
    https://en.wikipedia.org/wiki/Wilhelm_von_Kaulbach#History_of_Mankind

    Art in an Age of Civil Struggle, 1848-1871, Albert Boime - 2008年9月15日, University of Chicago Press - 出版社,
    https://play.google.com/store/books/details/Albert_Boime_Art_in_an_Age_of_Civil_Struggle_1848?id=sEb4RL2Ru1kC

    上記によると、カウルバッハは[国王からの依頼で]ヘーゲル歴史哲学を[6枚の]絵画で表現しようとしていたらしい。
    世界史そのものは3:2:3:3:+
    以下はそれ以降の符合、
    1:3:2:2 The Tower of Babel, バベルの塔
     https://2.bp.blogspot.com/-wECbrf67J30/XG2LLEoFifI/AAAAAAABgiI/zI9XMX3BZxYlQqnbLS-eV0TxVPrhgNVxwCLcBGAs/s1600/IMG_9221.JPG
    2:1:3:1 The Rise of Greece,サラミスの海戦
     https://lh3.googleusercontent.com/-cBdl-SN-3qI/V4aolCt-xGI/AAAAAAABBBY/3oVtwO1OYQU/s1600/blogger-image-1797702465.jpg
    2:2:3:2 The Destruction of Jerusalem,ティトゥスによるエルサレム破壊
     https://lh3.googleusercontent.com/-AMnOTliZz3Q/V4biF3ELPpI/AAAAAAABBB8/n2RGKPW7ydA/s1600/blogger-image--283976643.jpg
    3:1:1:1 The Battle of the Huns,フン族の戦い
     https://lh3.googleusercontent.com/-hHJBE1yAYlQ/V4aoiS-jTCI/AAAAAAABBBU/1aZKEEOoSb4/s1600/blogger-image-1092259838.jpg
    3:2:2:2 The Crusades,十字軍
     https://lh3.googleusercontent.com/-XTdKkbVeRsE/V4aono5q0VI/AAAAAAABBBc/hgyhPKyJleE/s1600/blogger-image-1544682345.jpg
    3:3:1:1 The Reformation.宗教改革
     https://ikzg-re.ekvw.de/fileadmin/_processed_/0/e/csm_Geck_Retusche_11022016_b0195a276d.jpg

    まとめると
    https://2.bp.blogspot.com/-2rFWU7zApRQ/XG2OPK_yMXI/AAAAAAABgig/7lVyAdWypDsRVNQKrvjZSl0ZnpDlsQ3mACLcBGAs/s1600/IMG_9223.PNG

    この中で一番有名なのは「フン族の戦い」でマルクスが『ドイツイデオロギー』で、フロイトが「自我とエス」で言及している
    原画を飾っていた博物館は第二次大戦で破壊されたが原画そのものは各地に分散し無事のようだ(未確認)

    10:02 午前  
    Blogger yoji said...


    ヘーゲル 歴史哲学講義 岩波文庫下192頁
    《…のちにはフン王アッティラがフン族の大軍をひきいてローマの近くまでやってくる--雷雨で増
    水した川のように、なにもかも押しながしながらしばらくするとさっとひいていく、い
    かにも東洋的な歴史現象の一典型で、かれらがのこした廃墟にかれらの痕跡をみとめる
    ことはできるが、かれらのすがたそのものはもはやどこにもありません。アッティラは
    ガリアにも侵入し、四五一年、カタラウヌムのたたかいでアエティウス軍のはげしい抵
    抗にさらされる。勝敗は不明です。アッティラはさらにイタリアへと軍をすすめ、四五
    三年に死にます。その後まもなく、ローマはゲイセリクスのひきいるヴァンダル軍に占
    領され、略奪される。ついに、西ローマ皇帝の位は名ばかりのものとなり、ヘルリ族の
    王オドアケルがその称号にとどめをさします。》
    >>726
    >https://lh3.googleusercontent.com/-hHJBE1yAYlQ/V4aoiS-jTCI/AAAAAAABBBU/1aZKEEOoSb4/s1600/blogger-image-1092259838.jpg

    マルクス ドイツイデオロギー 1846
    《 一八四五年度の『ヴィーガント季刊誌』第三巻のなかで、カウルバッハによって予言的に描かれた匈奴の戦いが
    現実におこっている。死んでもなお怨み消えやらぬ斃(たお)された者、たちの霊どもが空中でどよめかす叫喚と
    号哭に戦いの音、鬨(かちどき)の声、剣、楯、鉄車の響きがまざる。しか問題は地上の事どもにあるのではない。
    聖なる戦いは保護関税、憲法、馬鈴薯病、銀行制度、鉄道のためにおこなわれるのではなくて、霊のいとも神聖
    なる関心事、つまり「実体」、「自己意識」、「批判」、「唯一者」、「真の人間」のためなのでる、われわれ
    は教父たちの宗教会議の座にいるのである。彼らはこの種の人たちの最後の標本であり、それにおらくはこれが
    至高のもの、つまり絶対的なものの事柄で弁護がおこなわれる最後の機会であろうから、審理の模様について
    記録をとるだけの値うちはある。
     まずはじめに聖ブルーノがいる。….》(大月全集3,74頁)

    フロイト「自我とエス」1923
     《超自我の発生史の教えるところでは、自我とエスの対象備給との早期の葛藤が、その対象備給の遺産である
    超自我との葛藤として受け継がれることがありうる。もし自我がエディプス・コンプレクスを支配するのに成功
    しなかったならば、エスに由来するコンプレクスのエネルギー備給は、ふたたび自我理想の反動形成となって
    作用するだろう。この理想とこの無意識的な衝動興奮とのおびただしい交通は、理想自身が大部分は無意識であり、
    自我に通じることができないままでいるという謎を解くであろう。深層で荒れ狂い、すみやかな昇華作用と同一視
    によって終りにならなかった戦いは、フン族の戦闘を描いたカウルバハの絵のように、より高い領域でつづいている。》
    (「自我とエス」フロイト著作集6,284頁)

    7:13 午後  
    Blogger yoji said...


    Luther's 1534 bible
    ルター聖書(独:Lutherbibel)は、マルティン・ルターによるヘブライ語及び古典ギリシア語からの旧約聖書と新約聖書のドイツ語訳である。まず、ルターは独力で新約聖書の翻訳を行ったが、旧約聖書の翻訳に際してはカスパール・アクィラら複数の専門家から助言を受けた。新約聖書の翻訳に於いては特にヴルガータの影響が強く感じられる。『翻訳に関する書簡』の中でルターは、自分の翻訳原則についての釈明を行っている。(当時の読者にとっての)流麗な翻訳を志した一方、聖書の文面が格別深い意味を表しているように見える部分では、すべて直訳がなされたというのである。

    ルターはその死に至るまで自ら訳稿を改稿し、またそれぞれの版に序文を付した。ルターの死後、ルター聖書のテクストは出版社の恣意に任されるようになった。これは何よりもまず正書法に関することであるが、それだけではなかった。19世紀後半になって初めてテクストは統一を経験することになった。ますますルターの明らかな誤訳が目に付くようになったのである。誤訳はルターが古典古代世界や古代オリエント世界について専門知識を欠いていたことによるものであった(例えば、飼兎、ユニコーン、ツゲの木など、動物学的、植物学的に言ってオリエントにとって一般的ではないもの)。しかし、とりわけ重要なのはテクストの基礎が一変してしまったことである。ルターはいわゆるテクストゥス・レセプトゥスをもとに翻訳を行っていた。これは、ビザンツ帝国時代に統一されたものであり非常に普及していた新約聖書のテクストであった。これに対して、テクスト・クリティークによってより古い時代からの多数のパピルス断片が集積、評価されたのである。これらは部分的には別のテクストを提示するものであった。決定的かつ学問的な新約聖書のテクストであるネストレ・アーラントには、これらのパピルス断片を参照した上で起草された古代の写本にはまったく拠らない混合テクストが含まれている。こうした学問的なテクストは重要な現代聖書翻訳の基盤となっている。にも拘らず、テクストクリティークをまったく拒絶し、伝承テクストの文面を霊感に満ちたものと見做す諸グループも存在する。

    1975年の修正ではこの問題についてはもはや触れられず、代わってルター聖書を現代語の慣用に近づけることが図られた。例えば、「光をシェッフェルの下には置かない/新共同訳:ともし火をともして升の下に置くものはいない」(マタイ5.15)という諺的な言葉は削除された。穀物の計量器としての「シェッフェル(大きな桶)」はもう知られていないからである。代替として「アイマー(バケツ)」が用いられたため、1975年の翻訳は「アイマー聖書(バケツ聖書)」の名前を持つことになった。しかしながら1975年版テクストは、クリスマスの挿話の部分に於いて多くの読者が暗記するほど愛好していた文面に介入してしまったため、最終版として成功することはなかった。この事情は同時に、なぜ1984年の修正があれほど成功したのかについても教えてくれる。1984年版は、よく知られていない箇所では学問的厳密さに拘ってルターの文面から隔たっており、装飾過剰な構文を解消してしまっているのだが、クリスマス挿話その他の愛好されてきたテクストには一切手をつけていないのである。

    目次
    ルター訳の成立過程
    編集
    ヴォルムス帝国議会からヴィッテンベルクへの帰路、誤ってザクセン選帝侯フリードリヒ賢公のものであると考えられている誘いによって、ヴァルトブルクに招かれた後、当地で「ユンカー・イェルク(Junker Jörg)」として潜伏しつつルターは聖書翻訳を開始した。1522年9月には翻訳が完了した新約聖書が大版で印刷された(「9月聖書」)が、既に同年12月にはテクストが改稿され挿絵も訂正されている。その後数年に渡ってこの聖書は少しずつ拡張され、改稿されていった。

    1524年10月にはモーセ五書・歴史書・詩書が完成され、おそらくは1526年3月にヨナ書、1526年6月にハバクク書、1528年1月にゼカリヤ書、1528年10月にイザヤ書が完成している。

    1529年、新約聖書が基礎から校正され、1530年には最終的な編集が行われた。諸書への取り組みはさらに進み、同時に注釈作成も行われた。1529年6月にはソロモンの知恵が、1530年4月にはダニエル書が浩瀚な注釈付の序言と共に完成され、同年6月にはエゼキエル書の注釈付きの38章・39章が成立した。1531年には詩篇が新たに最終的な形で作成された。

    1532年3月、ハンス・ルフトは預言書を印刷した。翌年の1月にはシラの書が、その後すぐに第一マカバイ記が、スザンナとダニエルの話及びベルと竜の話が補われて、ルターによる第2版として完成された。

    1533年には、完全版への直接的な準備があり、そこでは旧約聖書のモーセ五書・歴史書・詩書、中でも創世記のさらなる校正が行われた。1534年の10月4日から11日にかけてはミカエル・ミサが開催されていたが、そこで900枚の未製本の完全原稿が6部構成でそれぞれにタイトルページとページ番号が付いた形で登場した。モーセ五書、歴史書及び諸詩書、預言書、外典、そして新約聖書である。

    1545年

    9:55 午後  
    Blogger yoji said...

    岩波文庫歴史哲学講義上299~301
    《 ニネヴェは紀元前二〇五〇年に建設されたといいますから、アッシリア帝国の建国も
    そこまでさかのぼります。ついでニノス王は、バビロニア、メディア、バクトリアを配
    下におさめますが、とくにバクトリアの征服は大変な難事業だった。クテシアスの計算
    によると、ニノスのひきいた軍勢は,百七十万人の歩兵とそれに見合う騎兵がいたとい
    うのですから。バクトリアの包囲攻撃は長くつづき、その征服の軍功は、山の急斜面を
    勇敢な軍団をひきいてかけのぼった、王妃セミラミスに帰せられます。セミラミスの人
    物像は神話と歴史のあいだをゆれうごいている。「旧約聖書』中の最高の伝説の一つ、
    バベルの塔の建設もかの女の手になるとされています。

     イギリス人ケル・ポーターが十二年ほど前に、古代のバビロンのあった地域を旅行し
    (旅行全体は一八一七年から一八二〇年にわたりますが)、ある丘の上にバベルの塔の遺
    跡を見つけたといっています。塔のまわりにはたくさんの廊下があって、その最上階に
    はパール神の像がおかれていたという。ほかにも、あちこちの丘に古代の建物の遺跡が
    あったそうです。煉瓦は、『旧約聖書』の塔建設の記事のとおりにならんでいて、広い
    平地が無数の煉瓦におおわれていたという。もっとも、すでに何千年来煉瓦はたえず運
    びさられ、古代バビロンの近くのヒラは、市全体がその煉瓦でたてられたとのことです
    が。
     ヘロドトスの『歴史』には、バビロン人のおもしろい風習がいくつか紹介されていま
    すが、それから判断すると、かれらは平和で友好的な民族だったらしい。バビロンでだ
    れかが病気になると、病人を広場につれていって、通りすがりの人がだれでも病人に忠
    告できるようにするという。また、娘が結婚適齢期になると、美人には高額の出費が命
    じられ、それが醜女の結婚持参金にまわされるという。ただし、出費のいかんにかかわ
    らず、どの女性も一生に一度ミュリッタの神殿で行きずりの男に身をまかせねばなら
    ないという。そんな要求が宗教の概念に抵触しないのかどうか、たしかめるのが困難で
    す。ヘロドトスによると、悪習が広がったのは、バビロンがおとろえた後のことだそう
    ですが。美人が醜女にみつぐという風習や、病人をみんなの目の前にさらすという風習
    には、全体のことを考えようとする配慮が見られます。》

    9:04 午後  
    Blogger yoji said...

    ヘーゲルは、フォルメルツ・エポック(1815-1848)の支配的な哲学者であったため、おそらく適切にそうなっていると思われます。1
     
     ミュンヘンの巨匠ヴィルヘルム・フォン・コールバッハは、ベルリンの新博物館の壁に、ヘーゲルの歴史哲学の全体像を、6つの複雑な百科事典のようなイメージで表現するという野心的な試みを行った。バベルの塔」、「ギリシャの勃興」、「エルサレムの破壊」、「フン族の戦い」、「十字軍」、「宗教改革」である。しかし、20年の歳月をかけて1865年に完成させたコールバックは、その宣言的な性格があまりにも時代にそぐわないため、自ら嘲笑するようになってしまいました(図7.I)。
    フランスのヴェルネのように奔放な性格のコールバッハは、大規模な視覚的スペクタクルを好み、バイエルンのルートヴィヒ1世やフリードリヒ・ヴィルヘルム4世のように、市民のための改善を目指すトンネル的なビジョンに魅力を感じていた。私は、ヘーゲルが同時代の人々に直接影響を与えたと仮定するよりも、彼の思想が3月以前の文化を代表する人々の仕事とどのような共通点があるのかを、コールバッハが映し出したものよりも大げさではない形で検証すべきだと考えています。
    カウルバッハは、最初はデュッセルドルフ、次にミュンヘンでペーター・フォン・コーネリアスに記念碑画を学んでおり、19世紀のドイツ美術の発展においてナザレ人が中心的な役割を果たしていたことを思い起こさせる。王政復古期には、絵画に2つの異なる系統が生まれたが、いずれもナザレ人からの刺激を受けたものであった。ナザレの影響を受けたもので、美術の教育と普及を支配した。

    www.DeepL.com/Translator(無料版)で翻訳しました。

    10:40 午前  
    Blogger yoji said...



    Art in an Age of Civil Struggle, 1848-1871, Albert Boime - 2008年9月15日, University of Chicago Press - 出版社,
    https://play.google.com/store/books/details/Albert_Boime_Art_in_an_Age_of_Civil_Struggle_1848?id=sEb4RL2Ru1kC

    上記によると、カウルバッハはヘーゲル歴史哲学を絵画で表現しようとしていたらしい。

    10:41 午前  
    Blogger yoji said...


    core, and perhaps appropriately so, since Hegel was the dominant philosophcr of the Vormärz epoch (1815-1848). 1
     The Munich master Wilhelm von Kaulbach made an ambitious attempt to represent the whole of Hegel's philosophy of history on the walls of the New Museum in Berlin in six complex, encyclopedie images : The Tower or Babel, The Rise of Greece,The Destruction of Jerusalem, The Battle of the Huns, The Crusades, and The Reformation. By the time Kaulbach completed the twenty-year project in 1865, however, its declamatory character was so out of touch with the times that he wound up ridiculing it himself (fig · 7. I).
    An ebullient personality like Vernet in France, Kaulbach's taste for large-scale visual spectacles appealed to kings Ludwig I of Bavaria and Friedrich Wilhelm IV and their tunnel vision of civic improvements. Rather than posit Hegel's direct inßuence on his contemporaries, I believe we should examine what his ideas had in common with the work of other representatives of culture in the pre-March period-in a less grandiose format than that projected by Kaulbach.
    Kaulbach had studied monumental painting under Peter von Cornelius, first at Düsseldorf and than at Munich, reminding us of the central role of the Nazarenes in the development of nineteenth-century German art. Two diverging strains in painting develop during the Restoration, both receiving impulses from the Nazarenes, who now dominate the teaching
    and dissemination of the fine arts : the snug, domestic style of Biedermeier,

    10:42 午前  
    Blogger yoji said...

    https://lh3.googleusercontent.com/-orq4LqabD0g/V4ajlkxObPI/AAAAAAABBBI/tpMsPdtGNYA/s640/blogger-image--579535160.jpg

    https://lh3.googleusercontent.com/-WgczFwHAqJw/V4ahNbhF1pI/AAAAAAABBA8/zh-D7blws88/s640/blogger-image--182742340.jpg

    10:43 午前  
    Blogger yoji said...







    G.W.F・ヘーゲル and 1 more
    世界史の哲学講義(下) ベルリン 1822/23年 (講談社学術文庫)

    3.9 out of 5 stars
    (2)

    5.0 out of 5 stars
    ヨーロッパの歴史を俯瞰
    Reviewed in Japan on September 8, 2020
    上巻が東洋世界の歴史を扱ったのに対して、この下巻は古代ギリシアから近代のゲルマン世界まで、ヨーロッパの歴史を扱っています。これまで翻訳されてきた旧版と比べると、最初の「世界史の哲学講義」を訳したこの新版は、特にゲルマン世界の評価がずいぶんと違った印象があります。旧版では、ゲルマン世界は万人が自由であるというイメージが強いのに対して、新版では万人の自由はキリスト教の、特にルター派の宗教理念であって、近代のゲルマン世界は領邦国家に分裂した、万人の自由から程遠い状態であることが率直に論じられています。ドイツ人であったヘーゲルの苦々しい想いが伝わってきます。各段落に付けられた注は、世界史の勉強にもなって役立ちます。

    内容紹介
    G・W・F・ヘーゲル(1770-1831年)は、『精神現象学』、『大論理学』などを公刊し、その名声を確かなものとしたあと、1818年にベルリン大学正教授に就任した。その講義は人気を博したが、中でも注目されることが多いのが1822年から31年まで10年近くにわたって行われた「世界史の哲学講義」である。
    この講義はヘーゲル自身の手では出版されず、初めて公刊されたのは1837年のことだった。弟子エドゥアルト・ガンスが複数の聴講者による筆記録を編集したものであり、表題は『歴史哲学講義』とされた。3年後には息子カール・ヘーゲルが改訂を施した第二版が出版され、これが今日まで広く読まれてきている。日本でも、長谷川宏氏による第二版の訳が文庫版『歴史哲学講義』として多くの読者に手にされてきた。
    しかし、第一版は最終回講義(1830/31年)を基礎にしながらも複数年度の筆記録を区別をつけずに構成したものであり、その方針は初回講義(1822/23年)の「思想の迫力と印象の鮮やかさ」を取り戻すことを目指した第二版も変わらない。つまり、これでは初回講義の全容が分からないのはもちろん、10年のあいだに生じた変化も読み取ることはできない。
    本書は初回講義を完全に再現した『ヘーゲル講義筆記録選集』第12巻の全訳を日本の読者諸氏に提供する初の試みである。ここには、教室の熱気とヘーゲルの息遣いを感じることができる。今後、本書を手にせずしてヘーゲルの「歴史哲学」を語ることはできない。

    [目次]
    〔序論〕世界史の概念
    〔A〕歴史の取り扱い方
    〔B〕人間的自由の理念
    〔C〕国家の本性
    〔D〕世界史の区分
    〔本論〕世界史の行程
    〔第一部〕東洋世界
    〔第一章〕中国
    〔第二章〕インド
    〔第三章〕ペルシア
    〔第四章〕エジプト(以上、上巻)
    〔第二部〕ギリシア世界
    〔第一章〕ギリシアの民族精神の起源
    〔第二章〕ギリシア精神の成熟
    〔第三章〕衰退と没落
    〔第三部〕ローマ世界
    〔第一章〕ローマの権力の形成
    〔第二章〕ローマの世界支配
    〔第三章〕ローマの没落
    〔第四部〕ゲルマン世界
    〔第一章〕初期中世の準備
    〔第二章〕中世
    〔第三章〕近代の歴史
    内容(「BOOK」データベースより)
    『精神現象学』、『大論理学』で名声を確立したヘーゲルは、一八二二年から没年(一八三一年)まで、「世界史の哲学」と題された講義を行う(於ベルリン大学)。大哲学者が主題にした「普遍的な世界史」とは何か?本書は、初年度講義の筆記録を完全に再現した貴重な記録である。下巻は、本論第二部「ギリシア世界」から第四部「ゲルマン世界」まで収録。
    著者について
    G.W.F・ヘーゲル
    1770-1831年。ドイツ観念論を代表する哲学者。弁証法を創始し、壮大な哲学体系を構想した。代表作は『精神現象学』、『大論理学』、『エンチクロペディー』、『法哲学』など。

    伊坂 青司
    1948年生まれ。東北大学大学院文学研究科博士課程満期退学。現在、神奈川大学教授。専門は、哲学。著書に、『ヘーゲルとドイツ・ロマン主義』、『市民のための生命倫理』ほか。訳書に、『シェリング著作集』第3巻、『ハイデッガー全集』第42巻(共訳)ほか。

    11:37 午後  
    Blogger yoji said...







    G.W.F・ヘーゲル and 1 more
    世界史の哲学講義(上) ベルリン 1822/23年 (講談社学術文庫)

    2018


    5.0 out of 5 stars
    旧版を一新
    Reviewed in Japan on July 24, 2020
    ヘーゲルの歴史哲学講義は、これまでの旧版(晩年の講義)では中国について評価が低く、軽視されているような印象が強かったのですが、今回の新版(最初の講義)を元にした翻訳を読んでみて、分量的にも内容的にも充実していて、ヘーゲルが中国を高く評価していることが分かりました。新版の訳によって、旧版の訳が一新された感が強いです。



    [目次]
    〔序論〕世界史の概念
    〔A〕歴史の取り扱い方
    〔B〕人間的自由の理念
    〔C〕国家の本性
    〔D〕世界史の区分
    〔本論〕世界史の行程
    〔第一部〕東洋世界
    〔第一章〕中国
    〔第二章〕インド
    〔第三章〕ペルシア
    〔第四章〕エジプト(以上、上巻)
    〔第二部〕ギリシア世界
    〔第一章〕ギリシアの民族精神の起源
    〔第二章〕ギリシア精神の成熟
    〔第三章〕衰退と没落
    〔第三部〕ローマ世界
    〔第一章〕ローマの権力の形成
    〔第二章〕ローマの世界支配
    〔第三章〕ローマの没落
    〔第四部〕ゲルマン世界
    〔第一章〕初期中世の準備
    〔第二章〕中世
    〔第三章〕近代の歴史

    11:41 午後  
    Blogger yoji said...







    G.W.F・ヘーゲル and 1 more
    世界史の哲学講義(上) ベルリン 1822/23年 (講談社学術文庫)

    G.W.F・ヘーゲル and 1 more
    世界史の哲学講義(下) ベルリン 1822/23年 (講談社学術文庫)

    2018




    5.0 out of 5 stars
    旧版を一新
    Reviewed in Japan on July 24, 2020
    ヘーゲルの歴史哲学講義は、これまでの旧版(晩年の講義)では中国について評価が低く、軽視されているような印象が強かったのですが、今回の新版(最初の講義)を元にした翻訳を読んでみて、分量的にも内容的にも充実していて、ヘーゲルが中国を高く評価していることが分かりました。新版の訳によって、旧版の訳が一新された感が強いです。


    5.0 out of 5 stars
    ヨーロッパの歴史を俯瞰
    Reviewed in Japan on September 8, 2020
    上巻が東洋世界の歴史を扱ったのに対して、この下巻は古代ギリシアから近代のゲルマン世界まで、ヨーロッパの歴史を扱っています。これまで翻訳されてきた旧版と比べると、最初の「世界史の哲学講義」を訳したこの新版は、特にゲルマン世界の評価がずいぶんと違った印象があります。旧版では、ゲルマン世界は万人が自由であるというイメージが強いのに対して、新版では万人の自由はキリスト教の、特にルター派の宗教理念であって、近代のゲルマン世界は領邦国家に分裂した、万人の自由から程遠い状態であることが率直に論じられています。ドイツ人であったヘーゲルの苦々しい想いが伝わってきます。各段落に付けられた注は、世界史の勉強にもなって役立ちます。

    [目次]
    〔序論〕世界史の概念
    〔A〕歴史の取り扱い方
    〔B〕人間的自由の理念
    〔C〕国家の本性
    〔D〕世界史の区分
    〔本論〕世界史の行程
    〔第一部〕東洋世界
    〔第一章〕中国
    〔第二章〕インド
    〔第三章〕ペルシア
    〔第四章〕エジプト(以上、上巻)
    〔第二部〕ギリシア世界
    〔第一章〕ギリシアの民族精神の起源
    〔第二章〕ギリシア精神の成熟
    〔第三章〕衰退と没落
    〔第三部〕ローマ世界
    〔第一章〕ローマの権力の形成
    〔第二章〕ローマの世界支配
    〔第三章〕ローマの没落
    〔第四部〕ゲルマン世界
    〔第一章〕初期中世の準備
    〔第二章〕中世
    〔第三章〕近代の歴史


    『精神現象学』、『大論理学』で名声を確立したヘーゲルは、一八二二年から没年(一八三一年)まで、「世界史の哲学」と題された講義を行う(於ベルリン大学)。大哲学者が主題にした「普遍的な世界史」とは何か?本書は、初年度講義の筆記録を完全に再現した貴重な記録である。

    著者について
    G.W.F・ヘーゲル
    1770-1831年。ドイツ観念論を代表する哲学者。弁証法を創始し、壮大な哲学体系を構想した。代表作は『精神現象学』、『大論理学』、『エンチクロペディー』、『法哲学』など。

    伊坂 青司
    1948年生まれ。東北大学大学院文学研究科博士課程満期退学。現在、神奈川大学教授。専門は、哲学。著書に、『ヘーゲルとドイツ・ロマン主義』、『市民のための生命倫理』ほか。訳書に、『シェリング著作集』第3巻、『ハイデッガー全集』第42巻(共訳)ほか。

    内容紹介
    G・W・F・ヘーゲル(1770-1831年)は、『精神現象学』、『大論理学』などを公刊し、その名声を確かなものとしたあと、1818年にベルリン大学正教授に就任した。その講義は人気を博したが、中でも注目されることが多いのが1822年から31年まで10年近くにわたって行われた「世界史の哲学講義」である。
    この講義はヘーゲル自身の手では出版されず、初めて公刊されたのは1837年のことだった。弟子エドゥアルト・ガンスが複数の聴講者による筆記録を編集したものであり、表題は『歴史哲学講義』とされた。3年後には息子カール・ヘーゲルが改訂を施した第二版が出版され、これが今日まで広く読まれてきている。日本でも、長谷川宏氏による第二版の訳が文庫版『歴史哲学講義』として多くの読者に手にされてきた。
    しかし、第一版は最終回講義(1830/31年)を基礎にしながらも複数年度の筆記録を区別をつけずに構成したものであり、その方針は初回講義(1822/23年)の「思想の迫力と印象の鮮やかさ」を取り戻すことを目指した第二版も変わらない。つまり、これでは初回講義の全容が分からないのはもちろん、10年のあいだに生じた変化も読み取ることはできない。
    本書は初回講義を完全に再現した『ヘーゲル講義筆記録選集』第12巻の全訳を日本の読者諸氏に提供する初の試みである。ここには、教室の熱気とヘーゲルの息遣いを感じることができる。今後、本書を手にせずしてヘーゲルの「歴史哲学」を語ることはできない。

    11:44 午後  
    Blogger yoji said...


    G.W.F・ヘーゲル and 1 more
    世界史の哲学講義(上) ベルリン 1822/23年 (講談社学術文庫)

    G.W.F・ヘーゲル and 1 more
    世界史の哲学講義(下) ベルリン 1822/23年 (講談社学術文庫)
    2018

    5.0 out of 5 stars
    旧版を一新
    Reviewed in Japan on July 24, 2020
    ヘーゲルの歴史哲学講義は、これまでの旧版(晩年の講義)では中国について評価が低く、軽視されているような印象が強かったのですが、今回の新版(最初の講義)を元にした翻訳を読んでみて、分量的にも内容的にも充実していて、ヘーゲルが中国を高く評価していることが分かりました。新版の訳によって、旧版の訳が一新された感が強いです。


    5.0 out of 5 stars
    ヨーロッパの歴史を俯瞰
    Reviewed in Japan on September 8, 2020
    上巻が東洋世界の歴史を扱ったのに対して、この下巻は古代ギリシアから近代のゲルマン世界まで、ヨーロッパの歴史を扱っています。これまで翻訳されてきた旧版と比べると、最初の「世界史の哲学講義」を訳したこの新版は、特にゲルマン世界の評価がずいぶんと違った印象があります。旧版では、ゲルマン世界は万人が自由であるというイメージが強いのに対して、新版では万人の自由はキリスト教の、特にルター派の宗教理念であって、近代のゲルマン世界は領邦国家に分裂した、万人の自由から程遠い状態であることが率直に論じられています。ドイツ人であったヘーゲルの苦々しい想いが伝わってきます。各段落に付けられた注は、世界史の勉強にもなって役立ちます。

    [目次]
    〔序論〕世界史の概念
    〔A〕歴史の取り扱い方
    〔B〕人間的自由の理念
    〔C〕国家の本性
    〔D〕世界史の区分
    〔本論〕世界史の行程
    〔第一部〕東洋世界
    〔第一章〕中国
    〔第二章〕インド
    〔第三章〕ペルシア
    〔第四章〕エジプト(以上、上巻)
    〔第二部〕ギリシア世界
    〔第一章〕ギリシアの民族精神の起源
    〔第二章〕ギリシア精神の成熟
    〔第三章〕衰退と没落
    〔第三部〕ローマ世界
    〔第一章〕ローマの権力の形成
    〔第二章〕ローマの世界支配
    〔第三章〕ローマの没落
    〔第四部〕ゲルマン世界
    〔第一章〕初期中世の準備
    〔第二章〕中世
    〔第三章〕近代の歴史


    『精神現象学』、『大論理学』で名声を確立したヘーゲルは、一八二二年から没年(一八三一年)まで、「世界史の哲学」と題された講義を行う(於ベルリン大学)。大哲学者が主題にした「普遍的な世界史」とは何か?本書は、初年度講義の筆記録を完全に再現した貴重な記録である。

    著者について
    G.W.F・ヘーゲル
    1770-1831年。ドイツ観念論を代表する哲学者。弁証法を創始し、壮大な哲学体系を構想した。代表作は『精神現象学』、『大論理学』、『エンチクロペディー』、『法哲学』など。

    伊坂 青司
    1948年生まれ。東北大学大学院文学研究科博士課程満期退学。現在、神奈川大学教授。専門は、哲学。著書に、『ヘーゲルとドイツ・ロマン主義』、『市民のための生命倫理』ほか。訳書に、『シェリング著作集』第3巻、『ハイデッガー全集』第42巻(共訳)ほか。

    内容紹介
    G・W・F・ヘーゲル(1770-1831年)は、『精神現象学』、『大論理学』などを公刊し、その名声を確かなものとしたあと、1818年にベルリン大学正教授に就任した。その講義は人気を博したが、中でも注目されることが多いのが1822年から31年まで10年近くにわたって行われた「世界史の哲学講義」である。
    この講義はヘーゲル自身の手では出版されず、初めて公刊されたのは1837年のことだった。弟子エドゥアルト・ガンスが複数の聴講者による筆記録を編集したものであり、表題は『歴史哲学講義』とされた。3年後には息子カール・ヘーゲルが改訂を施した第二版が出版され、これが今日まで広く読まれてきている。日本でも、長谷川宏氏による第二版の訳が文庫版『歴史哲学講義』として多くの読者に手にされてきた。
    しかし、第一版は最終回講義(1830/31年)を基礎にしながらも複数年度の筆記録を区別をつけずに構成したものであり、その方針は初回講義(1822/23年)の「思想の迫力と印象の鮮やかさ」を取り戻すことを目指した第二版も変わらない。つまり、これでは初回講義の全容が分からないのはもちろん、10年のあいだに生じた変化も読み取ることはできない。
    本書は初回講義を完全に再現した『ヘーゲル講義筆記録選集』第12巻の全訳を日本の読者諸氏に提供する初の試みである。ここには、教室の熱気とヘーゲルの息遣いを感じることができる。今後、本書を手にせずしてヘーゲルの「歴史哲学」を語ることはできない。

    11:44 午後  
    Blogger yoji said...

    岩波文庫

    321
    第3篇 ペルシ
    eあると考えられる。「おまえが地上に長く生きられるようにつとめよ」というわけで
    for o

    ここには、歴史的なものの見かたの可能性もみとめられる。限定され輪郭のはっきり
    したものをしかるべき位置に位置づけ、それ独自の限定された形をきちんととらえるよ
    うな散文的知性が、ここにあらわれているからです。こうして、人間は神の化身ではな
    く、ひとりの個人として、また、太陽や木は、精神や意思を内部にもつことのない、た
    んなる太陽、たんなる木として、とらえられます。
    ユダヤ民族には、純粋思想(唯一神)との関係において苛酷な奉仕が強制されます。絶
    対神が具体的な精神としてとらえられず、精神がいまだ精神なきものとしてあらわれる
    がゆえに、具体的な主体は自由になってはいません。純なる心、改俊の情、信心ぶかさ
    といった精神の内面性はたしかにみとめられるが、この特殊具体的な主体が絶対神のう
    ちに自分を対象とすることはなく、したがって、儀礼や法につかえるにあたっては、純
    粋かつ抽象的な自由を行使する神に、きびしく拘束されることになる。ユダヤ人の存在
    は、唯一神によってあたえられたものであり、したがって、主体は自分本来の自由をも
    たないのです。スピノザはモーゼの律法書を、神がユダヤ人に懲罰の鞭としてあたえた
    ものだと考えています


    322
    第1部 東洋世界
    322
     ユダヤ人は、主体が自分の自立を意識しないがゆえに、魂の不死を信じるということ
    がない。主体は独立自存の存在ではないのです。が、主体が価値なきものとされるユダ
    界ヤ教では、かわりに、家族の自立性がみとめられる。エホバ礼拝は家族の義務とされ、
    洋家族こそが実体とされます。反面、国家はユダヤ教の原理にふさわしくないもの、モー
    ゼの律法になじまないものです。ユダヤ人のものの見かたからすると、エホバはアブラ
    ハムとイサクとヤコプの神であり、エジプト脱出の命令もかれらに発せられたし、カナ
    ンの地もかれらにあたえられたのです。三人の族長の物語は興味ぶかいもので、そこに
    は、家父長制の遊牧生活から農耕生活へと移行していくさまが見てとれます。一般にユ
    ダヤの物語は壮大な展開をしめしますが、難をいえば、神の名による他民族の排斥(た
    とえば、カナンの地の住民の抹殺)や教養の不足や(選民意識のもたらす)迷信の存在な
    どが物語を不純なものにしています。奇跡がよくあらわれることも、この物語に歴史を
    見ようとする上では障害になる。具体的意識が自由でないがゆえに、認識も具体的事実
    に即して自由に展開するというわけにはいかない。自然が神聖視されることはなくなっ
    たが、知性によって自然を理解するところまではまだ行っていないのです
    カナン征服によって家族は一部族へと成長し、土地を手にいれ、エルサレムに共同の
    神殿を建設しました。が、国家としてのまとまりといえるようなものはなかった。危機



    64

    第2部 ギリシャ世界
    3柄とそれに関連する生活様式のちがいにもとづいて、つぎの三つの党ができあがってい
    ます。平地民からなる平野党は富裕な貴族の党であり、山地民からなる山岳党はワイン
    やオリープの栽培者と牧人の党で、数が一番多く、中間に位置する海岸住民の海岸党は
    穏健な党です。政治形態は貴族制と民主制のあいだをゆれうごいています。
     ソロンは住民を財産の多寡によって四つの等級にわけ、もって党派の対立を緩和しょ
    うとしました。四つの等級のすべてが公共事業を審議し決定する民会には出席できるが、
    公職につくことができるのは上位三等級にかぎられていました。注目すべきは、ソロン
    の生前に、かれが出席して異議をとなえた民会で、僧主ペイシストラトスが権力をにぎ」
    ったことで、ソロンの法がいまだ血となり肉となるにいたらず、いまだ共同体の社会秩
    序をささえる習慣とはなっていなかったのです。さらに注目すべきは、ペイシストラト
    スがソロンの立法になんの変更もくわえず、告訴されたときには、みずからアレオパゴ
    ス (評議会)に出頭したことです。ペイシストラトスとその息子たちの支配は、有力な家
    族や分派の権力をおさえ、秩序と平和を確立し、市民をソロンの立法になじませるため
    には、やむをえぬものであったようにも思われる。それが達成されると、支配は余計な
    ものとなり、自由の法がペイシストラトス家の権力と矛盾をきたしてくる。ペイシスト
    ラトス家は追放され、息子のヒッパルコスは殺され、ヒッピアスは流刑に処せられます

    233

    第1篇 キリスト教= ゲルマン……
     カール大帝はこの大王国を秩序のととのった国家につくりあげ、全体をまとめあげる
    ような確固たる機関を設置しました。といっても、憲法にもとづく王国体制をかれがい
    たるところにはじめてもちこんだというのではなく、以前に部分的に存在していた制度
    が、かれのもとで発展させられ、明確でしっかりとした効力を発揮するようになったの
    です。王は国家官僚の頂点にたち、また、王位の世襲の原理もすでに確立されています
    王はまた軍隊の統率者でもあるし、最大の土地所有者でもあり、最高の裁判権もにぎっ
    ています。兵制は強制召集権を基礎としています。自由民は国家防衛のために武器をと
    る義務があり、各人は一定期間自活していかねばならなかった。いまふうにいえば国土
    防衛軍ともいうべきこの軍隊は、高級官僚たる伯および辺境伯の指揮下におかれます
    (辺境伯とは、国境周辺(辺境)に大領地をもつ伯です)。国の所有地はガウとよばれる行
    政区に分割され、一ガウをひとりの伯が統轄します。カロリング朝の後期には、伯の上
    に公爵がおかれ、公爵はケルン、レーゲンスプルクその他の大都市を居住地としました
    それにともなって、国土もいくつかの公国に分割されたので、アルザス、ロートリンゲ
    シ、フリースランド、テューリンゲン、レーティアなどは、そうしてできた公国です
    公爵を任命するのは皇帝です。征服されたあとも旧領主の支配していた領土は、かれら
    が反乱をおこすと、ただちにこの特権をうしない、公爵の支配するところとなった。ア

    346

    第4部 ゲルマン世界
    こなうことで、自国の独立をしめしました。かれは、グスタフ。アドルフのように個人
    としてプロテスタントの英雄であったばかりではなく、一国家の元首でもありました。
    七年戦争それ自体は宗教戦争ではなかったが、その明確な結果からしても、また、兵士
    や権力者の心理からしても、宗教戦争といえるものでした。ローマ教皇はダウン元帥の
    剣を聖別したし、連合軍の主要なねらいは、プロテスタント教会の保護者たるプロイセ
    ン国家を鎮圧することにありました。フリードリヒ大王は、プロイセンをプロテスタン
    ト国家としてヨーロッパ列強の一角に食いこませただけでなく、近代ではほかに例のな
    い独特のことですが、哲学者の王でもありました。イギリスの王は理屈好きの神学者が
    多く、絶対主義の原理を擁護する論を張ったりもしますが、フリードリヒはプロテスタ
    ントの原理を世俗の立場からとらえます。宗教上の論争がきらいで、論争の渦中にある
    見解のいずれにもくみしないフリードリヒには、精神の奥深さと思考の自覚的な力をし
    めす普遍性の意識がそなわっています
    第三章啓蒙思想とフランス革命
    プロテスタントにおいて、内面性の原理が宗教的解放感や自己充足感とともに導入さ


    12:20 午前  
    Blogger yoji said...

    上323
    323
    第3篇 ペルシャ
    に際しては、英雄があらわれて軍勢をひきいることはあったが、民族は全体としては訣
    属状態にあった。のちに王が選ばれるようになって、ようやく民族としての自立がかち
    とられました。ダビデになると、征服の旅に出かけてさえいます。律法はもともと家族
    だけを対象とするものですが、すでにモーゼ五書のうちに王をのぞむ声が聞かれます。
    王は祭司が選ぶことになっていて、外国人と、大部隊の騎兵隊員と、たくさんの妻をも
    つ男は失格とされています。ヘプライ王国は、つかのまの栄光ののち、内紛をおこし
    分裂します。王国には、部族としてはレビ族だけ、神殿はエルサレムの神殿だけでした
    が、分裂と同時にすぐさま偶像崇拝が生じてきます。ちがった神殿で同一の神を崇拝す
    るわけにはいかないし、二つの王国が同一の宗教を信じるわけにはいかないからです
    客体としての神は、純粋に精神的なものと考えられたけれども、崇拝する主観の側は偶
    像にとらわれ、非精神的になっていたのです。分裂後のイスラエルとユダの二王国は、
    ただちに内外の不幸な戦乱にまきこまれ、最終的に、アッシリアと新バビロニアの支配」
    するところとなります。キュロス王のもとで、イスラエル人は故郷にかえって自分たち
    の法律にしたがって生きることをゆるされました

    12:23 午前  
    Blogger yoji said...

    岩波文庫上41
    41
    B 歴史における理性とはなにか
    命題であって、思想の本質をなすものとしてそれをしっかりおさえておかねばなりませ
    ん。ここではこのちがいが、自由の自己意識というキリスト教の原理をめぐってうかび
    あがっていますが、ちがいは、その本質からして、自由の原理一般をめぐっても生じて
    きます。世界史とは自由の意識が前進していく過程であり、わたしたちはその過程の必
    然性を認識しなければなりません。 真辺世さる
    わたしは民族における自由の認識のちがいについて一般的にのべ、東洋人はひとりが
    自由だと知るだけであり、ギリシャとローマの世界は特定の人びとが自由だと知り、わ
    たしたちゲルマン人はすべての人間が人間それ自体として自由だと知っている、といい
    ましたが、この三区分は、同時に、世界史の区分のしかたとあつかいかたをも示唆する
    ものです。ただ、ここでは区分の議論には深入りせず、以下、歴史哲学にかかわるなお
    いくつかの概念について説明しておきます。
    精神の自由についての意識と精神の自由の実現は、精神世界の定義として、さらには
    精神世界こそが実体的な世界であり、物理世界は精神世界に従属するもの(哲学的
    -世界の究極目的として、
    にいえば、精神世界に真理をうばわれたもの)である以上·
    提示されています。このようなものとして提示された自由が、しかし、いまだあいまい
    で、無限に多様な意味をもつことばであること、それが最高の概念であるがゆえに、無

    1:07 午前  

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