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日曜日, 3月 17, 2019

フェルナン・ブローデル Fernand Braudel (1902- 1985)


Fernand Braudel et l'histoire
Apostrophes : Fernand Braudel "La transparence et l'économie capitaliste...



定本柄谷行人集(付『世界共和国へ』『NAM原理』)総合索引
http://nam-students.blogspot.jp/2006/05/nam_31.html 
ブローデル.Braudel,Fernand,/❹A.44(→マントラン),=◉W.208[❹序説第3章「二つの帝国」が『世界共和国へ』終盤に使われた]

世界史の構造 索引
ブローデル.Braudel,Fernand,『物質文明・経済・資本主義(交換のはたらき×、世界時間○)1』(37)^473,(239)^490@,240^491

序文 注
(4) ブローデルはウォーラーステインをつぎのように批判した。そのとき、ブローデルは、流通過程を重視したマルクスを援用したのである。《わたしはイマニュエル・ウォーラーステインとはちがって、十六世紀の呪縛にはかかっていない。じっさい、彼が困惑している問題は、マルクスが提起した問題にほかならないのではあるまいか。マルクスは、ヨーロッパ資本主義は(彼は資本主義的生産は、とさえ語った)十三世紀のイタリアで始まった、と書いたことがある(のちになって、そのことを後悔したのだが)。以上のようなわけで、わたしはそう書いたときのマルクスと同意見である》(『物質文明・経済・資本主義 15‐18世紀 交換のはたらき?1』六〇─六一頁)。

(5) ブローデル、同前書、一九頁。 
^
序文
ブローデルはいう。《世界=経済はかならず極をなす都市を有する。すなわち、その商業活動の兵站中心地に位置する都市である。情報・商品・資本・信用・人間・注文・商用通信文がそこに流入してはまた出で立ってゆく》。

序説5
ウォーラーステインは、世界=経済は一六世紀のヨーロッパから出現したと考えた。しかし、世界=帝国と世界=経済は必ずしも継起的な発展段階をなすものではない。ブローデルが注意したように、世界=経済はそれ以前にも、たとえば、古典古代の社会にも存在した(21)。そこに、国家によって管理されない交易と市場が存在したのである。それがアジアの世界=帝国との決定的な違いである。
(21) ブローデル『物質文明・経済・資本主義 15‐18世紀 交換のはたらき1』山本淳一訳、みすず書房。


参考:
資本論1 

第二四章 いわゆる本源的蓄積

 第一節 本源的蓄積の秘密

…注

一八九 資本制的生産が最も早く発展したイタリーでは、農奴制諸関係の解消も最も早く行なわれた。ここでは農奴が、土地にたいする何らの時効的権利も確保しない前に解放された。だから、彼の解放はただちに彼を無一物なプロレタリアに転化したが、そのうえにこのプロレタリアは、すでにローマ時代からつづいてきたたいていの都市では、新たな主人がちゃんと出来ているのを見いだした。一五世紀末いらいの世界市場革命が北イタリーの商業的優越をくつがえしたとき、反対の方向に運動がおこった。都市労働者が大量的に農村へ駆逐され、そしてそこで、園芸方式で経営される小規模耕作に未曾有の隆盛をもたらした。

第六節 産業資本家の創生記

公信用すなわち国債の制度──その起原は、ゲヌアやヴェネチア〔いずれも北イタリーの古い共和国〕ではすでに中世に発見される──は、マニュファクチュア時代中に全ヨーロッパに普及した。海上貿易や商業戦争をともなう植民制度が、この制度の温室として役だった。かくして、この制度はまずオランダで確立された。 》(世界の大思想版)



1:13

第一三章 機械と大工業  第一節 機械の発達

八九 すでに彼以前に、きわめて不完全なものだったとはいえ機械が、前紡に──おそらく最初にはイタリーで──使用された。批判的な技術学史は、総じて、一八世紀のどんな発明も一個人に属することのいかに少ないかを証明するはずである。今までには、こうした著作はあらわれていない。ダーウィンは、自然的技術学の歴史、すなわち、動植物の生活のための生産用具としての動植物の諸器官の形成に、関心を向けた。社会的人間の生産…


Chapter 15: Machinery and Large-Scale Industry  1. THE DEVELOPMENT OF MACHINERY

happened. In his programme it was called a machine ‘to spin without fingers’.4

^

CHAPTER 15:

4. Spinning machines had already been used before his time, although very imperfect ones, and Italy was probably the country where they first appeared. A critical history of technology would show how



CHAPTER 26: THE SECRET OF PRIMITIVE ACCUMULATION

 1. In Italy, where capitalist production developed earliest,


876(1976年)というが未確認

https://books.google.co.jp/books?id=G2J6DwAAQBAJ&pg=PA132&dq=marx+capitalism+13th+italy+capitalist+production&hl=ja&sa=X&ved=0ah

UKEwj24MKDr4rhAhXBgbwKHaiND1IQ6AEINDAD#v=onepage&q=marx%20capitalism%2013th%20italy%20capitalist%20production&f=false



3:36

第三六章 先資本制的なるもの

一二世紀および一四世紀にヴェネチアやゲヌアでつくられた信用組合は、古風な高利の支配と貨幣取扱の独占とから自らを解放するという、海上貿易およびこれにもとづく卸売業の必要から生じたものである。



http://www.mlwerke.de/me/me23/me23_741.htm#M189

(189) In Italien. wo die kapitalistische Produktion sich am frühsten entwickelt, findet auch die Auflösung der Leibeigenschaftsverhältnisse am frühsten statt. Der Leibeigne wird hier emanzipiert, bevor er irgendein Recht der Verjährung an Grund und Boden gesichert hat. Seine Emanzipation verwandelt ihn also sofort in einen vogelfreien Proletarier, der überdem in den meist schon aus der Römerzeit überlieferten Städten die neuen Herren fertig vorfindet. Als die Revolution des Weltmarkts seit Ende des 15. Jahrhunderts die Handelssuprematie Norditaliens vernichtete, entstand eine Bewegung in umgekehrter Richtung. Die Arbeiter der Städte wurden massenweise aufs Land getrieben und gaben dort der nach Art des Gartenbaus getriebnen, kleinen Kultur einen nie gesehenen Aufschwung. <=


http://postcapitalistproject.org/node/39

Marx picks up and develops these multilinear threads of argument in new ways during his last decade, 1872-83. Three strands of his writings are important here. The first of these strands is found in the changes he introduced to the 1872-75 French edition of Capital.  I confine myself here to one passage that bears on the issue of multilinearism and which cannot be found in standard English or German editions, this one from the section on primitive accumulation, where he discussed the origin of capitalism in the expropriation of the peasantry. In the standard English and German editions, Marx writes: "The expropriation of the agricultural producer, of the peasant, from the soil, is the basis of the whole process.... Only in England, which we therefore take as our example, has it the classic form" (Marx 1976: 876; emphasis added). However, in the later French edition, this passage reads: "But the basis of this whole development is the expropriation of the peasants. So far, it has been carried out in a radical manner only in England.... But all the countries of Western Europe are going through the same development" (Marx 1963: 1170-71; emphasis added). Here, he left room for an alternative development for societies outside Western Europe, including India, China, and Russia.[3]




レパントの海戦の総括についての考察 Regard sur la Bataille de Lépante 浜 名 優 美 Masami HAMANA 

フェルナン・ブローデル Fernand Braudel (1902- 1985)
https://nam-students.blogspot.com/2019/03/fernand-braudel-1902-1985.html@
83%B3%E3%83%BB%E3%83%96%E3%83%AD%E3%83%BC%E3%83%87%E3%83%AB

ウォーラーステイン 世界システム論 Immanuel Wallerstein World-Systems Theory
https://nam-students.blogspot.com/2019/03/immanuel-wallerstein-world-systems.html

生涯編集

出生から青年期まで編集

20世紀最大の歴史家のひとりとして数えられるフェルナン・ブローデルは、1902年、北仏ムーズ県バル=ル=デュックの40キロメートル南方に位置する小さな農村リュメヴァル=アン=オルノワ(Luméville-en-Ornois)で生まれた。父シャルル・イレール・ブローデルは小学校教師をしていた[1]。ブローデルの生まれた村はドイツ国境に近いロレーヌ地方に位置しており、虚弱児と診断されたブローデル[2]は、そこで祖母に預けられ、輪作水車小屋鍛冶屋のしごとなどを体験し、幼少のときから普仏戦争クリミア戦争の体験者の話を聞いて育った[1][2]1909年、父の転勤にともないパリ郊外のメリエルの小学校に入学した。ここで映画俳優ジャン・ギャバンとは同級生であった[1]第一次世界大戦におけるフランスの愛国的な雰囲気のなかで青年期をむかえ、進学したリセ(官立高等中学校)では漠然と医者になることを考えていたという[1]。リセ・ヴォルテール卒業後はパリソルボンヌ大学歴史学科に進み、地理に関心をもった[3]。そこでは、歴史家であり経済史家であるアンリ・オゼール(Henri Hauser1866年 - 1948年)などの講義を受けた。

リセ教師から研究者へ編集


パリ13区リュ・ブリア=サラヴァン(Rue Brillat-Savarin)のある建物に取り付けられた「フェルナン・ブローデル没地」の案内板
卒業後は、1923年から1926年まではアルジェリアコンスタンティーヌ、1926年から1932年まではアルジェリセの教壇に立ち[4]地中海世界に強い関心を抱く契機となった。この間、1925年と1926年には兵役によりラインラントを広く旅し、ドイツについて見聞を深める機会を得た。その後、1932年から1935年にはパリのリセの教師を務めた[5]。この間、1927年にはリセの学監のであったポーレット・ヴァリエと結婚したが離婚、そののち、1933年にはアルジェ時代の教え子であったポール・ブラデル(当時18歳)[6]と再婚した。
1935年から1937年にかけて、フランス政府の命令でブラジルサンパウロ大学で教壇に立ち[7]、1937年からはパリ高等研究実習院(EPHE)[8]の第4部門に勤務することとなり、歴史哲学の研究にたずさわることとなった。
1929年に歴史学誌『社会経済史年報(Annales d'histoire economique et sociale)』を創刊した歴史学者で、終生、ブローデルの「精神的な父」であった[1]リュシアン・フェーヴルとは1937年に出会った。フェーヴルの同僚で『年報』創刊に携わり、ユダヤ人であったため1944年ナチスによって銃殺されたマルク・ブロックとの親交が始まったのもこの頃であった。

捕虜生活編集

1939年、リュシアン・フェーヴルの別荘で、のちに『フェリペ2世時代の地中海と地中海時代』(日本語題『地中海』)として結実することとなる博士論文を書き始めたが、その年すぐに第二次世界大戦が勃発し、ブローデルは砲兵隊中尉としてライン戦線(マジノ線)に動員された。1940年6月29日にはドイツ軍捕虜となり、以後戦争の終わる1945年まで収容所で過ごすこととなった。その間、書き続けられた学習用ノートはフェーヴルのもとへ送られている。

マインツ大学(正式名称は「ヨハネス・グーテンベルク大学マインツ」)。2006年1月撮影
1940年6月から1942年春まではマインツ将校捕虜収容所に収容されたが、資料のない状態にもかかわらず記憶だけをたどって博士論文の執筆を継続した。1941年に初稿を受けとったとき、フェーヴルは「とてもいい。じつに秀逸で、独創的で、力強く、生き生きとしている」「書き直すことなんかありません。早く書き終えなさい」と応えている[9]
ブローデルは、1941年から収容所内の同輩に対し定期的に講義をおこない、研究指導もしていたために、「捕虜収容所大学学長」に任命されるなど特別待遇を受けることとなった。マインツ大学図書館の古文書館から文献資料を自由に借りることができたため、多くのドイツ語史料を渉猟することができたのである[10]。ブローデルは初稿を完成させるとすぐに第二草稿に取りかかった。ブローデルの書き直し方は、一部を手直しするというのではなく、章の最初からまるごと書き直すというものであった[11]。ブローデルはこののち1942年に、リューベックの収容所に移されるが、ここは懲罰目的の収容所であったため、マインツでのような自由特権はなかった。しかし、手元に資料がない状態でも、自他ともに認める「記憶力[10]によって原稿を書き進めることができた。ブローデルは、捕虜としてすごしたあいだ、戦争そのもの、あるいは外交政治の動向は、歴史を考える際、むしろそれほど重要ではないという認識をいだいたものと考えられる[11]

解放そして復職編集

1945年5月初め、リューベックがイギリス軍の手に陥ち、ブローデルは解放された。この年の下旬にはオランダ経由でフランスに帰国している[11]1946年、ブローデルはパリ高等研究院第4部門に復職、また、同年にはパリ大学(ソルボンヌ大学)文学部長より高等教育教授資格試験の受験生を対象とするラテンアメリカの講義を任されている。
1947年3月には、5年におよぶ収容所生活で書きあげた『フェリペ2世時代の地中海と地中海時代』の公開口述審査を受けている。これは、パリ大学文学部に文学博士の学位を請求するための論文であった。1948年には、師リュシアン・フェーヴルの努力によって、経済学および社会科学を研究する高等研究院第6部門(のちの社会科学高等研究院)[12]が創設された。このとき、フェーヴルは研究院院長に昇進し、ブローデルは事務局長の職に任じられている[13]

『地中海』の刊行と「長期持続」編集

1949年、ブローデル47歳のとき『地中海』(博士論文『フェリペ2世時代の地中海と地中海時代』)が刊行され、公開に供された(詳細後述)。自費出版であった。三部構成であるが初版は一冊本になっており、1,600ページに達した[13]。当時の印刷事情を反映して、図版写真は一切なかった[13]。「全体史」を目指したこの大作は、その後の歴史学に多大な影響をおよぼし、「新しい歴史学」のさきがけとなった。なお、17年後の1966年には、豊富な図表や地図グラフ、挿図なども組み込まれ、二冊本の改訂版『地中海』が出版された。ここでは、イスラーム世界研究の進展や新しい史料の出現にもとづいてオスマン帝国に関する記載が大幅に変更されている。
いっぽう、1949年よりコレージュ・ド・フランス(CdF)の教授を務め、1956年にリュシアン・フェーヴルが死去したのちは雑誌『アナール』(1929年創刊。旧『社会経済史年報』)の編集長および高等研究院第6部門の責任者となって、フェーヴル後のアナール学派の中心的存在として数多くの人材を育て、また、歴史学と隣接諸科学の交流に大きな役割を果たすようになった。こうして、アナール学派からは、クロード・レヴィ=ストロース(人類学)やミシェル・フーコー(哲学思想史)、ピエール・ブルデュー(哲学・社会学・民族学)などの新しい思潮や人間諸科学から刺激を受け、多くの若手歴史家が輩出した。
1958年には、『アナール』誌に論文「長期持続—歴史と社会科学」を発表し、「歴史家にとって、いっさいは時間に始まり、時間に終わる」と唱えて、レヴィ=ストロースの構造主義の「無時間性」に反駁を加えて「新しい歴史学」(Nouvelle histoire)のリーダーとなった[14][15]。なお、ブローデルの唱える歴史学における「構造」とレヴィ=ストロースら「構造主義」における「構造」の違いについては1966年の『地中海』第二版の結論部分でも説明がなされている[15]
1959年には「『アナール』30年」と「マルク・ブロック称賛」を著して「新しい歴史学」の総括をおこなった。この年、第6部門の学績が認められて教育担当官庁から多額の助成金を得たため、数多くのポストが新しく設けられた。1962年には、ロックフェラー財団の援助で歴史学を中心とする社会科学の総合研究機関「人間科学館」が創設されている。また、62年には『アナール』誌の編集事務責任者の地位をマルク・フェローに譲っている[15]
1963年には、リセ用の教科書『現在の世界』[16]を執筆した。ここでは「歴史には世界の歴史しかない」という思想が貫かれており、ヨーロッパ中心の世界観は完全に克服されている[17]。ただし、この教科書が実際の教育現場で用いられることはなく、1960年代以降、学校教育において「新しい歴史」の授業実践も流行するが、ブローデル自身も後年、歴史の初学者には出来事史を中心に教えるべきで、「新しい歴史」はリセの最終学年で教授すべきものと語っている[17]。『地中海』第二版の刊行された1966年には、イタリアのミラノにおいて、フェリペ2世の父にあたる神聖ローマ帝国皇帝カール5世(スペイン王カルロス1世)に関する伝記『カール5世』を発表した[17]

『物質文明・経済・資本主義』の執筆と晩年編集

1967年、のちにブローデル2冊目の大作と評される1979年刊行の『物質文明・経済・資本主義—15〜18世紀』の原型となった『物質文明と資本主義』が刊行された[17]1969年には、ブローデルは『アナール』編集から退き、エマニュエル・ル・ロワ・ラデュリジャック・ル・ゴフ、マルク・フェローに編集を委ねた。69年には、方法論的省察として『歴史論』を執筆、また、スペイン王フェリペ2世の伝記をミラノで出版している[18]
多くの後継者を育てたブローデルは、1972年社会科学高等研究院(高等研究院第6部門)[12]とコレージュ・ド・フランスを70歳で退職した。この年は、『地中海』の英語版が刊行された年でもあった[18]。退職後も執筆活動を継続し、1978年には『地中海の記憶』、1979年には前掲『物質文明・経済・資本主義』、1985年には『資本主義の力学』[19]を著し、1984年にはアンドレ・シャンソン(André Chamson)の後を受けてアカデミー・フランセーズ会員(座席番号15)に選ばれた[18]。1985年11月27日、フランス南東部のサヴォアの別荘において、最後の大作『フランスの歴史』の執筆なかばにして死去した。83歳であった[18]

学問上の功績編集

歴史学におけるブローデルの貢献のなかで重要とされるのが、歴史的時間における重層性の発見である。代表作『地中海』(原題『フェリペ2世時代の地中海と地中海時代』)では、歴史を「長波」・「中波」・「短波」の三層構造として把握することを提唱しており、表層にはまたたく間に過ぎ去る歴史、個人および出来事史という「短波」があり、そして、ゆっくりとリズムを刻む社会の歴史、すなわち、ひとつの局面、人口動態、国家そして戦争などの「中波」があり、さらに最も深層において、不変の、あるいはほとんど動くことのない自然環境構造、「長期持続」(la longue durée)などの「長波」があって、とくに最後の「長期持続」の相を重視する点で従来の歴史学とは一線を画した。ブローデルは、すべては緩慢な歴史すなわち「長期持続」の歴史の周りを回っていると把握したのである[20]。つまりそれは、人類史の内部において歴史を動かす本質的な要因として決定的な作用を及ぼしてきた構造的ないし現実的な諸原型の総体であり、緩慢に生成・変化・消滅する諸事実の構造(組み合わせ)であり、さらには、諸要素として持続的に有効にはたらいてきた深層における座標の全体である[20]。ただし、カルロス・ロハス(Carlos Antonio AGUIRRE ROJAS)は、「長期持続」に対し、こうした形式的定義をあたえることは比較的たやすいことであるのに対し、実際に、現実的に起こった歴史の経緯を分析して、そこに長期持続を見いだし、説明していくことは難事業である、と述べている[20][21]
「本来の歴史は逸話的構成によってしか綴れない」[22]と述べたいっぽうで、事件や出来事よりも「構造」に重きをおいたブローデルの歴史的思考は、フィリップ・アリエスピエール・グベール(Pierre Goubert)、ジョルジュ・デュビーロベール・マンドルー(Robert Mandrou)、ピエール・ショーニュ(Pierre Chaunu)、ジャン・ドリュモー(Jean Delumeau)、ジャック・ル・ゴフ、マルク・フェロー、モーリス・アギュロン(Maurice Agulhon)、エマニュエル・ル・ロワ・ラデュリ、ミシェル・ヴォヴェルら、「生きた歴史」を標榜するアナール学派の歴史家たちに深く、広汎な影響をあたえた。そこでは、歴史における重要な一主人公としての環境、社会史にかかわる態度や日常生活の底に流れる心性(マンタリテ)や感性の歴史(心性史)、マクロ的な価値変動や人口動態をはじめとする数量史、日常生活をささえる衣食住などの物質文明、あるいは歴史の深層構造の理解など、長期的に持続するものが主として研究の対象となっている。

栄誉編集

脚注編集

[ヘルプ]
  1. a b c d e 浜名優美「ブローデル小伝」『入門・ブローデル』(2003)p.228-229
  2. a b ポール・ブローデル「歴史家ブローデル誕生秘話」『入門・ブローデル』(2003)p.181
  3. ^ 浜名優美「ブローデル小伝」『入門・ブローデル』(2003)p.230
  4. ^ 生徒のなかにはアルベール・カミュジャック・ベルクポール・ロベールなどがいた。
  5. ^ この時期にブローデルが勤務したリセは、ヌイイ=シュル=セーヌLycée Pasteur de Neuilly-sur-Seine、パリ8区のLycée Condorcet、パリ5区のLycée Henri-IVであった。
  6. ^ 彼女の本名は、初婚相手と同じ「ポーレット」であったが、通常は「ポール」と呼称している。
  7. ^ 人類学者レヴィ=ストロースとは、サンパウロ大学で同僚だった。
  8. ^ フランス語École pratique des hautes études。パリ大学(ソルボンヌ大学)の大学院に相当する。
  9. ^ ポール・ブローデル「歴史家ブローデル誕生秘話」『入門・ブローデル』(2003)p.177
  10. a b ポール・ブローデル「歴史家ブローデル誕生秘話」『入門・ブローデル』(2003)p.178-179
  11. a b c 浜名優美「ブローデル小伝」『入門・ブローデル』(2003)p.237
  12. a b 1975年、高等研究実習院第6部門は、学位の出せる研究機関である社会科学高等研究院(フランス語École des hautes études en sciences sociales)に昇格している。
  13. a b c 浜名優美「ブローデル小伝」『入門・ブローデル』(2003)p.238
  14. ^ レヴィ=ストロースはこの年(1958年)、『構造人類学』を出版している。
  15. a b c 浜名優美「ブローデル小伝」『入門・ブローデル』(2003)p.240-241
  16. ^ のちに『文明の文法』という題で刊行された。
  17. a b c d 浜名優美「ブローデル小伝」『入門・ブローデル』(2003)p.242-243
  18. a b c d 浜名優美「ブローデル小伝」『入門・ブローデル』(2003)p.244-247
  19. ^ 日本では『歴史入門』と題して太田出版より刊行版された。
  20. a b c カルロス・アントーニオ・アギーレ・ロハス「長期持続と全体史」『入門・ブローデル』(2003)p.13-66
  21. ^ ブローデル自身も、歴史における速いテンポ、より緩やかなテンポ、ほとんど動かないテンポについては、いろいろ試行錯誤した結果であって、最初から操作概念があったのではないとしている。カルロス・アントーニオ・アギーレ・ロハス「長期持続と全体史」『入門・ブローデル』(2003)p.56 原出典はブローデル "Manela"、1986。
  22. ^ ISIS本座-『物質文明・経済・資本主義』フェルナン・ブローデル(松岡正剛の千夜千冊2010.5.19)-松岡正剛。原出典はブローデル『物質文明・経済・資本主義』、1975。

著書(日本語訳)編集

  • 「貨幣と文明 ― スーダンの金からアメリカ大陸の銀へ ― 地中海のドラマ」(物々交換から銀の流通へ / ポルトガル経由のスーダンの金 / スペインとアメリカ大陸の銀, 1946年) (浜名優美、尾河直哉訳) ― 叢書『アナール 1929-2010』歴史の対象と方法(エマニュエル・ル・ロワ・ラデュリ & アンドレ・ビュルギエールフランス語版監修, 浜名優美監訳, 藤原書店)第II巻:1946-1957 (2011年06月刊) 第1章
  • 「長期持続」(歴史学とさまざまな持続 / 短期の時間をめぐる論争 / コミュニケーションと社会数理 / 歴史家の時間、社会学者の時間, 1958年) (山上浩嗣、浜名優美訳) ― 上掲書 第III巻:1958-1968 (2013年12月刊) 第1章

共著・編著編集

伝記研究編集

関連項目編集

外部リンク編集



アナール学派 - Wikipedia

ja.wikipedia.org/wiki/アナール学派

アナール学派(仏: L'école des Annales、英: Annales School)は、20世紀 ... 雑誌『 アナール』は伝統的な歴史学への批判から出発したが、1930年代にフェーヴルが .... ドイツやイギリスの史学者の多くはアナール学派には懐疑的であった一方、構造面に着目 ...

概要-『アナール』創刊-ブローデル『地中海』-各国への影響

歴史学派 - Wikipedia

ja.wikipedia.org/wiki/歴史学派

歴史学派(れきしがくは / 独:Historische Schule)は、19世紀初めのドイツにおいて法学・経済学の分野で起こった学派で、啓蒙 ...

社会史とアナール学派 - 一橋大学附属図書館

www.lib.hit-u.ac.jp/service/tenji/abe/annales.html

新聞、雑誌はあたかもそれがフランスのアナール学派の影響下に起っているかのように説いている。そういう側面がばあい ... 歴史と社会』が現代ドイツ史とナチスの社会構造に力点を置いていた。大野さんはその中心 ...

Title 1950・60年代西ドイツ歴史学とフランス・アナール学派 Sub Title ...

(Adobe PDF)

koara.lib.keio.ac.jp/.../AN00234610-20130101-0127.pdf?...

アナール学派の研究方法がドイツ歴史学界ではどのように議論され,. ドイツの社会史的な歴史学の成立にどのように関連した ...

ドイツ歴史学派 (German Historical School) - Cruel.org

cruel.org/econthought/schools/historic.html

ドイツ歴史学派は、19 世紀終わりにカール・メンガーやオーストリア学派との長い Methodenstreit 論争を開始するまでは、自分 ...




2 件のコメント:

  1. 歴史を語る32ページ

    同質化し、帝国主義が他民族に同質性を強要するのと対照的である。これはローマ帝国に固有の原
    理ではない。たとえば、二〇世紀まで続いたオスマン帝国について、アナール学派のロベール·マン
    トランは述べている。

    オスマン帝国時代には、地方住民をイスラム化することも、オスマン化することもけっしてな
    かったのです。この現実を現代政治の諸問題がいかに押し隠そうとも、事実はそうなのです。地
    方住民は、自分たち固有の民族性や宗教、 、ときには政治体制や独立性、経済活動までも、
    独自に保持していたのです。トルコ人たちは金や産物や奴隷を要求しましたが、各住民や各集団
    を、是が非でもオスマン化·トルコ化しようとはしませんでした。各地域は固有の性格を保って
    いたのです。このことは、一八世紀ととりわけ一九世紀における民族主義の勃興を、説明してく
    れるでしょう。(Tブローデル歴史を語る?』福井憲彦、松本雅弘訳、新曜社)32ページ


    オスマン·トルコというr帝国」の解体、アラビアの諸民族の独立は、西欧諸国家の「帝国主義」
    の下になされた。しかし、そのとき、西欧の諸国家は、オスマン·トルコの帝国主義から諸民族を解
    放するのだ、と思念していたのである。そして、そのことが近代の帝国主義の特徴なのだ。つまり、
    「帝国主義」とは、「帝国」の原理なしに、ネーション=ステートが他のネーションを支配することである。
    したがって、オスマン・トルコを解体させた西洋列強は、たちまちアラブの民族主義者の反抗に出会うほかなかった。


    定本4-44ページ
    「帝国

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  2. 世界共和国へ

    国民国家の延長としての帝国は 、旧来の 「帝国 」ではなく 、 「帝国主義 」と呼ばれるべきものです 。ここ

    返信削除