ビル・ミッチェル「MMTが論ずるのは『現実が何か』であって、『現実がどうあるべきか』ではない」(2017年4月20日)
Bill Mitchell, MMT is what is, not what might be, Bill Mitchell-billy blog, April 20, 2017★
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「…AOCはそれを支持する。初心者のための現代貨幣理論(MMT)入門」(2019年3月 21日)
Bill Mitchell, MMT is what is, not what might be, Bill Mitchell-billy blog, April 20, 2017★
Warren Buffett Hates It. AOC Is for It. A Beginner’s Guide to Modern Monetary Theory
Peter Coy, Katia Dmitrieva, Matther Boesler From New Economy Forum
突如議論を巻き起こした、かつては異端だった経済学派の思想の概説
現代貨幣理論(MMT)を巡って多くの議論が飛び交っている――いくつかは金切り声だ。批判者達は、現代貨幣理論は注目を集めているだけの出鱈目だ、と呼んでいる。ベントレー大学の経済学者スコット・サムナーは最近自身のブログで「MMTが構築しているものは、マクロ経済学に関する奇妙で非論理的で複雑怪奇な考えであり、真っ当に議論するに値しない」と主張している。MMTの支持者らは、批判者達は真っ当な論拠を受け入れることができていないからだ、と反論している――オーストラリアのMMT論者であるウィリアム・ミッチェルに言わせると「批判者自身が、信頼性を失った時代遅れのパラダイムの部品の一部だからだ」と。
このような混乱状態はよくない。現代貨幣理論は、かつてはブログや一握りの大学――カンザス・シティにあるミズーリ大学など――で限られた活動を行っているに過ぎなかったのだが、今や突如として注目の的になっているからだ。アメリカでは民主党左派が、MMTを引用して、化石燃料からの脱却を目的にしたグリーン・ニューディールや国民皆保険制度への巨額の政府支出を正当化している。MMTが、2020年の大統領選で争点化するのはほぼ確実だ。なので、今こそ現代貨幣理論について少し深入りする時だ――MMTとはいったい何なのか? ルーツはどこにあるのか? 長所と短所は?
幸運にも、MMTの理論に基づいた最初のアカデミックな教科書が、2月に出版されている。シンプルに『マクロ経済学』と題打たれた573ページの大著は、オーストラリアのニューカッスル大学の経済学者ミッチェル、ニューヨーク州アナンデール=オン=ハドソンにあるバード大学の経済学者ランダル・レイ、そしてニューカッスル大学の名誉教授マーティン・ワッツによって執筆されている。本記事は、この教科書と、MMT論者と批判者による学術論文やブログ記事に基づいて執筆されている。
最初に簡単に理解できるシンプルな説明から始めよう:MMTは以下のような提唱を行っている。アメリカのような自国通貨を持つ国家は、債務をどれほど多額に抱え込んでも心配する必要はない。どんな時でも求められた利払いに、さらなるマネーを刷ることで対応することができるからだ。なので、支出はインフレだけに制約されることになる。ここでのインフレとは、公共部門と民間部門が同時に多額の支出を行った場合に発生する可能性があるインフレのことだ。需要の増加に対してインフレを高進させることのない十分な労働力と設備がある限り、政府は雇用の維持や気候変動を食い止めるような目的の達成に必要な支出が可能となっている。
読者はここまで理解できれば、MMT批判者の多くに先んじていることになる。MMTは左派に紐付いているので、社会政策を行うために富裕層に法外にふっかけようとしていると、〔批判者の〕幾人かは邪推している。これは事実誤認で、MMTは富裕層課税は格差の縮小するために有用な手法だとしつつも、政府支出を行うにあたっては必要なわけではない、と主張しており、古臭いリベラルの教義を棄却している。「赤字はまったく問題ないとMMTは言っている」というのも別の誤解だ。3月13日に、シカゴ大学のブース・スクール・オブ・ビジネスが、桁はずれの赤字は激しいインフレを産む可能性がある、とのMMTの見解を無視し、上記のような誤解に基づいて、著名な経済学者らに調査を行っている。調査対象になった教授らは、この〔誤った〕説明に従ってMMTに激しく不同意を示した。MMT論者達は、激しく抗議している。
現代貨幣理論は、現世界は、ニクソン大統領が「ドルはもはや金に兌換しない」と宣言した1971年の金本位制の終焉に未だ対応できていないと主張している。MMTは、「不換」紙幣の時代である現代においては、アメリカ合衆国や他の経済大国は、紙幣の保証に十分な金の保有をもはや心配する必要はなく、国家は必要に応じて自由に紙幣を刷ることができる、と主張している。
「今日は火星からの発表者にお出で頂いたようですね!」
MMTは、大恐慌期にマクロ経済学分野を創始したイギリスのジョン・メイナード・ケインズの正統な理論的後継者であると主張している。ケインズは「倹約のパラドックス」という言葉を造りだした。ケインズが洞察したのは、一家計に限れば収入が低下した時は支出を削ることによって苦境から脱すことができるが、経済全体おいては支出を削っても苦境から脱することはできない、との事実だ。ある世帯の支出は、別の世帯の収入なので、もし皆で支出を削れば、誰もが収入が得られなくなる。結果、不況が発生することになり、これは政府だけが解決できる状況となる。なぜなら、民間セクターとは違い、政府は十分な支出を好きなだけ行うことができ、人々のポケットにお金をねじ込むことで、経済を〔正常な〕軌道に戻すことができるからだ。
ケインズの思想は、数十年かけて、ポール・サミュエルソンのような後継者達が、基礎的要素である不確実性の役割を軽視し、経済学を物理学のように非現実的に扱おうとしたことで、骨抜きにされたとMMTはみなしている。MMT論者は主流派学派の思想を「バスタードケインジアン(偽ケインジアン)」(故イギリスの経済学者ジョーン・ロビンソンの造語)と呼び、自らを主流派から敵視されるように振る舞ってきた。
MMTはまた、ロシア生まれのイギリス人経済学者アバ・ラーナーが1940年代に提唱した「機能財政」理論を取り入れている。「機能財政」とは、政府は目的を達成するためには赤字を気にせずに必要に応じて支出せねばならない、との理論だ。この後、イギリスのウェイン・ゴドリーが、セクター間収支のアイデアとして発展させることになる。ゴドリーのアイデアは、政府部門が赤字を出した時は、民間部門は黒字でなければならなず、これは逆もまたしかりである、という会計的事実に焦点を絞ったものだ。
1990年代に入って、この新進気鋭の運動は米領ヴァージン諸島在住で、政治から双胴船のデザインにまで広い知的関心を持つヘッジファンドのマネージャーであるウォーレン・モズラーによる財政的・知的援助を受けるようになる。そして、懐疑論とぶつかることになる。ミッチェルは経済学の学術会議でMMTの考えを発表した時のことを思い起している。出席者の最初コメントは「今日は火星からの発表者のお出で頂いたようですね!」だったのだ。★
MMTは、経済のコントロールで優先すべきは金利の上げ下げである、との〔主流派経済学の〕現在の統一見解を棄却している。MMT論者達は、不換紙幣の世界における自然利子率はゼロであり、利子率を高く固定することは投資家層へのプレゼントだと考えているのだ。MMT論者は、企業は資金コストではなく、成長期待に基づいて投資の意志決定行う為、金利による〔経済の〕微調整は効果的ではないと主張している。
MMT論者は、経済は、政府支出と税制度による財政政策によって操作されるべきだと論じている。論者は、中央銀行は財政当局の意向に応じて行動することを求めている。つまり、財務当局の資金需要に応じて、中央銀行はキー操作でベースマネーをほぼ無からアコモデート(創出)し、財務当局の当座預金口座に振り込むことを求めているのだ。MMTの新しい教科書によるなら、〔このMMTの求めとは逆に〕今日、政府は「金融政策のスタンスに矛盾しないように、財政政策のスタンスを不条理なまでに厳格に運用する傾向がある」とのことである。
MMTは、銀行は預金を元手に融資を行っている見かけと逆である、と主張している。見かけと逆、つまりは、銀行は貸し出し需要に応じて融資を行っており、その時に銀行からの借り手は借り入れた額を銀行に預け入れ〔預金が創出され〕ている。借り手が誰かに〔預金口座を持つ銀行の〕小切手を書いてお金を貸し出しすと、それはただ単に他銀行に小切手の受け手の預金が創出されることになる。言うならば、預金は融資の発生源ではなく、融資が預金を生み出しているのだ。これは、ドイツ連銀を含む保守的な中央銀行家でさえも認めているMMTの一要素である。
MMTは、雇用を安定させるために、連邦政府が拠出し、地方政府が雇用保障(ジョブ・ギャランティー)を公的運営することも提言している。政府は好況期より不況期に多く人を雇うことになる。これは、バード大学のレヴィ経済学研究所のパブリナ・チャーネバが実地計画を精緻化している。ニューヨークのブロンクス地区から下院議員に初当選した民主社会主義者であるアレクサンドリア・オカシオ・コルテス(AOC)は、雇用保障(ジョブ・ギャランティー)を支持し、MMTは「私たちの議論のより大きな部分」であるべきだ、と主張している。
MMTは、財政赤字の増加は、その他が均衡している限りにおいて、金利を高騰させる傾向がある、という伝統的経済学のコアの原理に異議を唱えている。このMMTの異議は、不思議の国のアリスにおける白の女王のような矛盾した話のように聞こえるかもしれないが、MMTに言わせると、これはまさに正反対なのだ。政府が追加支出を行った場合、民間部門はマネーを受け取り、銀行システムに受け取ったマネーを預けることになる。銀行システム内にマネーが増えてもそのマネーに対する需要が増えない場合は、金利は高騰ではなく低下する傾向がある、とMMTは指摘している。つまり、政府が国債を売却することで準備預金を吸収することを選択しない限り、金利は上昇しないのだ。
政府が支出を行うのに、財務省有価証券を売却したり、税金を課す必要がない理由は、財政当局のコントロール下にある中央銀行が、キーボードマネー〔MB〕を練金することで、全てを支払うことが可能となっているからである。ただMMTが理想とする世界でも、税の存在価値はまだ残っている。MMTの理想世界における税の主目的は、不平等を減らすことの他に、インフレを抑制コントロールするための「オフセット(相殺)」手段なのだ。税は、経済全体の総支出が過剰に至らないように、消費者や企業からマネーを適正に吸い上げるものとされている。
MMTの財政政策のコンセプトは、主流派経済学の財政政策と本質的に同じものとみなしたくなる――「おや、MMTだって税が必要だとおもっているんじゃないか!」――と。しかしこれはあまり正しくない。MMT論者は、インフレの主要因は過熱した強い成長ではないと考えている。インフレは、企業が過度の価格設定能力を有していることに問題があると考えているのだ。なので、MMT論者達は、経済成長を抑制することでインフレの鎮静化を試みる前に、独占企業の解体や、市中銀行による過剰融資を止めることを試みるべきだとしている。3月1日のフィナンシャル・タイムズのアルファビル・コラムで「我々は、公共福祉のために、大企業を積極的に規制しなければならない。規制すればするほど、我々は完全雇用をより完璧に達成することができるのだ」と3人のMMT論者が主張している。
この教義故に、ウォール街では時に「MMTは金のなる魔法の木だ」と揶揄され、声高に批判されるのも不思議ではない。より驚くべきは、前財務長官で前ハーバード学長のラリー・サマーズのようなMMTに当然同調していると思われているリベラルな経済学者達が、MMTの考え方に対して、大量の激しい批判を行っていることだ。サマーズは、先進国は「長期停滞」に苦しんでおり、景気停滞を避けるために政府による恒常的な財政赤字による刺激策が必要である、とMМTの主張と似たような処方箋を提唱している。しかしながら、最近のワシントン・ポストの論説でサマーズは、MMTを「重層的な誤りがある」と批判した。
サマーズや他のリベラルな経済学者達は、自身らが依って立つ従来型のハト派の財政赤字観に、MMTが汚名を着せることを心配しているかもしれない。ノーベル賞経済学者でニューヨーク市立大学教育センターの教授であるポール・クルーグマンは「標準的なマクロ経済学は全て間違えているとMMT論者達が言い続ける限り、反論する必要があるだろう」とニューヨーク・タイムズのブログで書いている。
MMTの批判者達は、財政政策を使用して経済を操作しようとする試みは、議会や大統領は不況に対して過去に迅速な対応をほとんど行えなかったことでもって、失敗が証明されている、と論じている。また批判者達は、政治家が、国民に痛みを課すような増税や歳出削減によって、インフレの鎮圧を行うことも期待できない、と主張している。MMT論者達は、自分たちも裁量政策での経済の微調整には反対しており、代わりに経済の軌道安定には、雇用保障(ジョブ・ギャランティー)を含む、自動安定化装置を求めているのだ、と反論している。
MMTの批判者達は、財政当局と中央銀行が協調すべきだという考えに懐疑的だ。FRBは、第二次世界大戦中は、財務省の入札〔直接引き受け〕に応じたが、その後、〔財政当局の〕この「与信」特権は散発的にしか使用されず、1981年には完全に終わることになっている。これはまさに、経済学者達が、従属的な中央銀行はインフレの制御ができなくなってしまう、と警鐘を鳴らしたからだ。批判者達は、雇用保証を行う際の政府の支払い賃金があまりに低い場合は、失業者や経済の救済として役に立たないだろうし、逆にあまりに高すぎる場合は、民間雇用を毀損するだろうと主張しており、雇用保障にも懐疑的だ。チャーネバの計画では、雇用保障は時給15ドルと提唱されている。MMTは、公的雇用された労働者は、経済が活気づけば民間部門に戻っていくと想定している。ただ、この場合、政府部門のいくつかが機能しなくなってしまうかもしれない。レイは電子メールでの質問に、公的雇用制度は周期的に変動しても制御可能である、と答えた。
MMTの批判者達は、自国通貨を持つ国は赤字について心配する必要はない、というMMTの保証を棄却している。世の投資家の信頼を失った国家は、結局は通貨の急落に至るであろうことが示されているからだ。最近の事例では、1976年にイギリスは、ポンドの価値を安定化させるために、IMFに助けを求めざるをえなくなっている。レイは、イギリスは、自国通貨ポンドをドルに連動させる過ちを犯したからであり、ポンドの変動を認めたことで通貨危機は治まった、と主張している。
これ以外の意見の相違は、素人には理解するのが難しいものとなっている。例えば、金利の決定プロセスや、政府部門と民間部門が貯蓄を奪い合っているのかどうか、等々を巡って込み入った論争が行われている。主流派の経済学者達は、MMTの内で正しいものは別段新しいものでなく、新規な要素は間違えている、と主張している。しかしながら、MMT論者は、主流派の知的権威は――特に10年前の世界金融危機の予見に失敗したことで――近年その名声を維持できなくなっている、と主張している。大手証券銀行であるパシフィック・インベストメント・マネジメント社の前チーフ・エコノミストのポール・マッカリーは、「僕はMMT結社に入会はしていないですよ。ただMMTは『不換紙幣の世界に堅牢な建築物』を築いてみせた、と考えています」と話している。
ともあれ、新しい教科書の出版は、MMTをさらに勢いづかせることになっている。ポール・サミュエルソンはベストセラーになった経済学の基礎原理書の1990年版の序文で「私は自身による経済学の教科書を書くことができるなら、誰が法律を書こうと、高度な条約が締結されようとどうでもよいのだ」と書いているようにだ。バーモント州選出の無党派の上院議員バーニー・サンダースが2016年の大統領選に出馬した際の経済顧問を務め、ブルームバーグのオピニオン・コラムニスであるMMT論者ステファニー・ケルトンは、潮目が変わったと見ている。このストーニー・ブルック大学の経済学者がプレゼンテーションでよく好んで持ち出す格言がある。「私たちは最初は無視され、次に嘲笑され、さらには排撃されるでしょう。しかしそれこそ、私たちが勝ったということなのです」。
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Bill Mitchell, MMT is what is, not what might be, Bill Mitchell-billy blog, April 20, 2017
これまで定番のように書いてきたことの一つに、「MMTで世界は変わる」症候群とでもいうべき、読者や第二世代MMTブロガーが犯しがちな誤りがある。
あるいは「世の中を良くするために、原則をMMTに変える必要がある」症候群とも言えるだろうか。
MMTがレジームチェンジを求めているという考えは間違いで、そういう考え方ではMMTの核の問題意識から乖離してしまうことになる。
このブログ記事では、そういった症候群やMMTの考えの発展の様々な側面を俎上に上げているが、この作業によって、MMTの核の(初期の)研究者たち(Mosler, Bell/Kelton, Wray, Mitchell, Tcherneva, Fullwiler)が1990年代前半にマクロ経済学のより良い方法を構築に着手したときに抱いていた鮮明なアイデアを、読者たちに提供するのに役立ちたいと思っている。
ポイントは、
「MMTは、学問の世界における経済学の思考法のレジームチェンジではあるが、実際の金融システムの運用法のレジームチェンジというわけではない」
というところである。
『MMTが論ずるのは「現実が何か」ということであって、「現実がどうあるべきか」ではない』という事実を受け入れるためには、MMTの学術的研究によって明らかとなった政策運用上の原則と、MMTの思想的価値観をきちんと区別する必要がある。
私は最近、2001年に有名な進化生物学者エルンスト・マイヤーが書いた”What Evolution Is”という本を読んだ。マイヤーは彼の研究分野の創始者であり、現代における生物多様性の考え方に確実に大きな影響をもたらした。
彼は進化の世俗的な説明の強調に影響を及ぼした。1 1999年のインタビューで、彼はこう質問された。
EDGE(オンラインマガジン)のインタビュアー: 科学者のコミュニティの多数の人々の持つダーウィニズムの影響にも拘わらず、あまりに多くの人々が神を畏怖し、”8日間の創造”を信じているというこの国の現実を、あなたはどう説明しますか?
マイヤー: その質問に対して”上品”な回答は出来ないということはおわかりでしょう。
インタビュアー: この場では、上品でない回答、配慮のない回答を歓迎しますよ。
マイヤー: 彼らは最近の女学生の集団をテストしただろうか? 彼らは「メキシコがどこにあるか」を質問しただろうか? あなたはほとんどの子供たちが「メキシコがどこにあるのか」を知らないということをご存知だろうか? 私はただ事実を描出するためにそう言っている……こういう発言をするのをお許し願いたいのだが、平均的なアメリカ人は、あらゆることに対して驚くほどに無知です。もし彼らがもっと情報を得たなら、どうして進化論を否定することができるでしょう? もし進化論を受け入れないなら、生物学上の事実のほとんどは意味不明になる。私は国全体がなぜここまで無知なのかは説明できませんが、事実として無知はそこにあるのです。
こうした洞察は私がマクロ経済学に対して抱いている考えとほとんど一緒だ。この論点には後にすぐに立ち戻る。
進化に関する彼の説明は興味深く、他のアイデアの発展の経路についても応用が利く。それには経済学のアイデアも含む。
ある意味, マイヤーの仕事は彼の分野において既存の権威ある学者たちからの反抗の後に「レジームチェンジ」を成し遂げたと言える。言い換えると、彼の進化に関する議論それ自体が、アイデアが発生して、「受容されない状態」から「広範に受容される状態」へと移行する経路そのものを辿ったと言えるのである。
マイヤーの研究に従えば、進化とは、新奇性のことであり、新種への変化である。そして、変化は蓄積するものだ。
我々の理解は、経時的プロセスにおいて、我々を袋小路に追いやったり、新しいアイデアが現実に対して試されたときに生まれる脱出路を覆い隠してしまったりする。
しかし、これらの認識上の「失敗」は重要だ。なぜなら、そうした間違った認識が関心事についての現実を理解するのに役に立たないとき、より優れた考え方で物事を観察できるようになるのに役立つ他の情報を供給してくれるからである。
経済学においては、私は主流派理論の大部分を「偽物の知識」を呼ぶようにしている。この点についてより詳しい議論を知りたい方は、The failure of economics-reality and language- という私の記事を読んでほしい。
主流派理論は、金融システムの運用方法を理解するのに役に立たない。主流派の説明やキャラクタリゼーションはただ明確に誤りである。そして体系的に一つの”神話”はリンクしていき、他の部分を「論理的だが無価値な一連の体系」へと補強・強化していくことになる。
しかし、正しく評価すればどうやっても「ただ明確に誤っている」と評するしかない主流派が、なぜ今日のような立場を得ているのだろうか?という疑問を持ったならば、その疑問への探求は洞察に満ちている。なぜならイデオロギー、そしてその思想が果たしている既存のパワーエリートを強化する役割についての世界に入っていくからである。
「自由市場」というコンセプトの採用が、エリートにとって実物資源と所得が得られるポジションの維持に役立っているのは明らかだ。
この話に関連して、The Nationに最近(March 6. 2017)載った興味深い記事…Our political economy is designed to create poverty and inequality がある。
故に、いかに主流派経済学が戯言めいているとしても、その”役割”を理解することは重要で、それによって、なぜ”より優れた”考えが 「思想競争」において優位性を獲得することに奮闘しなくてはならないことになっているのかが理解できるようになる。
そのような「思想競争」の例はたくさんある。
私は以前、アメリカ人生物学者のJoseph Altmanの奮闘について記述したことがある。
この点についてより深い議論を知りたいなら、私のブログのWhatever – its either employment or unemployment buffer stocks という記事をお読みいただきたい。
彼は神経生物学の専門家で、1960年代に成人のニューロン新生を発見した。彼は成人の脳が新しいニューロンを創造することを示したが、その考えはその当時強く拒絶された。
かの研究領域のパワーエリートたちは、新しいアイデアからの挑戦を受けた。
他の科学者(Elizabeth Gould, 1999年)がこれを”再発見”したことで、ようやく流行することになったのだ。ニューロン新生はいまや神経科学の最重要領域の一つとなっている。
なぜAltmanの発見は約30年もの間無視されてしまったのか?
2008年にExperimental Brain Researchに掲載されたThree before their time: neuroscientists whose ideas were ignored by their contemporaries という記事で、Charles Grossはこう書いている。
「…”ニューロン新生はない”というドグマは広範に保持され、当時最も有力で指導的な立場であった霊長類発達解剖学たちによって精力的に防衛された。」
既存主流派の支配権が脅威にさらされるとき、パラダイムは変化を拒否するのである。
以前、私はJacques Cinq-Marsについて調べたことがある。彼はフランス系カナダ人の考古学者で、”ユーコン川岸と岩陰遺跡における氷河期時代の狩猟者の痕跡”の調査のためのフィールドワークを行った人物だ。
彼は、1977年から1987年に北西カナダのBluefish Cavesで行った調査と、その後の分析により、2万4千年前からその地域に人類が生活していたことを立証した。
その発見は、当時の主流見解に挑戦するものであった。Clovis-First theoryと呼ばれる見解では人類が”アメリカ”に到達したのは1万3千年前ということになっていた。
Heather Pringleの最近(2017年3月7日)の記事 From Vilified to Vindicated: the Story of Jacques Cinq-Mars は、この論争についての分かりやすい紹介をしてくれている。
2013年の3月、Natureの社説 Yong Americansは、Cinq-Marsが彼の発見を公表し、”あらゆる科学の中で最も辛辣で、そして非生産的な論争の一つ”の導火線に火をつけたとき、何が起きたかについて描写している。Cinq-Marsは:
「論争相手たちからの酷い批判に耐えなくてはならなかった。彼らは彼の言うことや彼の証拠を公平に聞こうとはしなかった。Clovis以前の史跡の報告に対抗してClovis-first modelを支援した科学者たちは、学識不足の見本のようだった。」
Cinq-Marsが研究による発見を公表したときに、彼が学術界から受けた批判と圧力を、Heather Pringleが次のように描写している。
「Cinq-Marsの受けた仕打ちはスペイン異端審問になぞらえられるひどいものだった。カンファレンスでは、聴衆たちはCinq-Marsのプレゼンにほとんど耳を貸さず、提示した証拠はぞんざいな扱いを受けた。他の研究者は礼儀正しく耳を傾け、その上でCinq-Marsの能力について疑問を呈した。結果はいつも同じだった…Canadian Museum of Historyの自分のオフィスで、Cinq-Marsは心を閉ざして苛立った。彼のBluefish Caves調査の資金は尽きていき、結局彼のフィールドワークはだんだん失速し、絶えてしまった。」
現在の研究は「人類はClovis文明よりずっと前にアメリカに到達した」という彼の最初の主張を裏付けている。しかし、真実かどうかは問題ではなかった。それがこの研究分野の支配的見解に対する挑戦だったことが重要だった。
Pringleが書いているように、「今日、数十年後になって、Clovis first modelは瓦解した」。それは完全に偽物の知識だったのだが、実績と影響力を築き上げたのである。
最初のアメリカ人に関する主張の結果として輝かしい実績を上げ、強力な社会的地位を築き上げた高給取りの教授たちは、突如白眼視されるようになった。偽物の知識を喧伝していたのだから。
その抵抗のインパクトは、いまだになくなってはいない。
Pringleはこう書いている。
『この重要な問題について、主流の考古学者たちは反対意見を蔑ろにしたのだろうか? もしそうしたなら、それは北アメリカの考古学にどんなインパクトを齎しただろうか? Clovis以前の史跡に対する強烈な批判は、ぞっとするような影響を生じ、新しいアイデアを抑制し、より早期の史跡の研究を妨げたのだろうか? テネシーのヴァンダービルト大学の考古学者で、チリの史跡であるMonte Verdeの主任研究員であるTom Dillehayが考える回答は明白だ。Dillehayはこう回想している。科学界の雰囲気は「明らかに有害で、科学を妨害したのだ」と。』
同様に、政策担当者が主流派経済学が提示する偽物の知識を信奉することで、多くの人々が不必要な失業や貧困に苦しむはめになっているのであろうか? その答えは明確にyesだということになる。
元の話題に戻る前の最後の例えは、ごく身近なものだ。ヘリコバクター・ピロリについての話だ。もし私が何について書こうとしているのかを知らないなら、びっくりする話だろう。偽物の知識の維持によって利権を確立した人々による新しい知見への抵抗の具体例として。
このケースは、巨大な製薬会社は、疑いもしない患者に不必要な薬を強要し、患者が信頼する医師たちを圧力下に置き、患者を無知なままにし続けることによって巨大な利益を得ることができるということを示している。
当時の主流の研究者たちは、潰瘍が”精神的混乱”によって生ずると考えていた。(下のNew Yorkerのリンクを見てほしい)
このNew Yorkerの記事(2003年3月3日)Marshall’s Hunchは、かの論争における興味深い洞察を与えてくれる。
その記事は、1983年にMarshallが彼の研究を最初に発表したときの様子を詳しく書いている。
「…ブリュッセルの感染症のエキスパートたちの集まりの中で発表された。聴衆は軒並み重鎮ばかりだった…Marshallが話すのを終えたとき…科学者たちはくすくす笑い、ひそひそと話し、首を横に振り、デビューが大失敗に終わった年若い同僚に対して少し当惑した……」
一人の科学者は、Marshallの理論は「これまで聞いた中で一番バカげたもので、この男は気が狂っているのかと思った」と言った。
Marshallにとって不幸だったのは、製薬会社の大物であるGlaxo(SmithKline)が、医師たちが胃潰瘍と診断した人々にZantacを売りつけて莫大な利益を得ているという点だった。その薬はあくまで緩和剤で、症状(痛み)を和らげるだけのものだった。
医師は定期的に高価な大腸内視鏡検査2 を潰瘍があるかどうかを’見る’だけの検診を行い、痛みをコントロールする場合はZantacその他を処方する、という単純なルーチンに当時の患者たちは乗せられていた。
これらすべては不必要であるとMarshallは示してしまった。
現在、Marshallの発見は医療セクターでの常識となっているが、この発見を抑圧して自身の市場を守ろうとする巨大な製薬会社の影響下にあった一般開業医たちにそのメッセージが届くまでには長い時間がかかった。
これらの話(及び私が書ききれないもっと多くの話)はレジームチェンジと関係している。新しいアイデアや説明が広く認知されている主流派と真っ向対立すると、事実が新しいアイデアを支持していることが自明となるまで中傷に晒されるという事が示されている。
(神経生物学、考古学、経済学といった)学問分野は、既に構築された’パラダイム’の中で動いている。’パラダイム’は哲学者のThomas Kuhnの1962年の本 The Structure of Scientific Revolutions(邦題:科学革命の構造)の中で、”当座の間、専門家のコミュニティに対して定型問題とその解決法を提供する広範に認知された科学的業績”と定義されている。
典型的には、パラダイムと定義される知識体系は”初歩的及び発展的な科学の教科書で…詳説される”(Kuhn, 1996: 10)。
Kuhnは、”科学的”活動が直線的なプロセス…「研究者が新しい実証的証拠を基礎的知識に追加し、以前まで受け入られらていた考えを置き換えるというようなプロセスである」という考えに挑んだ。
そうではなく、支配的な観点は、受け入れがたい例外に直面し、革命(パラダイムシフト)が起こるまでは強固に残るのだとKuhnは主張した。新しいパラダイムは、古い理論が受け入れられないものであることを暴き、新しい概念を導入し、新しい疑問を立て、新しい言語や説明的な比喩を用いて新しい考え方を学生たちに提供するのである。
一度転換が起きれば、古い理論はもはや確立された知識とはみなされない。Kuhnはまた、支配的なパラダイムの中の専門家たちによる衆愚政治のようなものが存在することと、彼らが論理的ないし実証的な例外に直面しても自身らの見解に熱烈に固執するということを記している。
支配的な集団は、Irving JanisがGroupthinkと呼ぶものに嵌りこんでしまい、新しい考え方を提案する人に対し、まず最初に中傷を仕掛けてしまう。
Joseph Altman, Jacques Cinq-Mars, Barry Marshal及び様々な研究領域における数えきれないほど多くの人々の仕事が、パラダイムシフトが起こり得ること、そしてその変化が不可避になるまで大衆たちから反発を受けたことを示している。
全ての新奇なアイデアがこの類の煉瓦壁に直面するわけではない。しかし、専門家たちがGroupthinkに嵌ってしまったり、とりわけ、地位やお金の危機(特に、商業的な危機)があったりするとき、抵抗は強烈で、かつ長引くものになる。
さて、どう考えても、上で論じた着想はそれぞれの分野のレジームチェンジにつながったと言えるだろう。
いくつかのケースでは、対決を受けたレジームは新しい知識の一部に割り当てられた(たとえばClovis社会の年代)が、それ以外では、古い知識に関係する多くの主張が「宙に浮く」こととなった。
また他のケースでは、知識が一から十まで偽物であるのに、その学問分野の支配が維持される。メディアや、専門的地位や昇進、学術基金へのアクセス、そしてその他外部者を真実から遠ざけるために築かれたさまざまなカムフラージュをコントロールすることによって。
主流派経済学は後者のカテゴリーに合致するケースだ。それは偽物の知識であり、元からずっとそうだった。しかし、研究職のGroupthinkはとても強固で、強制力が強い。その地位に対抗したことのある人なら、私の言いたいことが分かるだろう。
私は一度、ある権威あるカンファレンスで私のマクロ経済学観についての招待講演を行ったことがある。(発表者のバランスを取るために、私はケインジアン枠扱いで呼ばれたそうだ。ケインジアンではないのに!)
まあとにかく、私が発表を終えると、参加者の一人が(客寄せ口上のような耳障りな声で)”みなさん、今日は火星からの発表者のお出で頂いたようですね!”とコメントした。彼はそのあとほとんど何も言わず、ただ聴衆の笑いを取ろうとしただけだった。それが真剣な専門家たちの意見交換会の中で起きたことである。
いじめ以外の何物でもない。私の労力は大いに笑われた。しかし私はすでに上級教授で、このタイプの無視は長年経験していた。アヒルの背中に水をかけるような無意味な行いだ。私はこういったことに慣れていたのである。
私が研究を始めた頃、私の初期の雑誌投稿に対する査読報告は、一文ほどのものだった。(どれだけ長くても数ページ程度) それらは大抵こう書かれていた。「著者は明らかにLipseyの教科書の第一章を読んでいないか、理解していない。」 Lipseyの教科書は当時の有名な主流の教科書で、主流派マクロに進むための下らないことが書かれていたのだが。
それは間違っていなかった。私は論文の内容が非常に厳密であることを確実にするためには長い時間をかけていたし、その結果は正しかった。私はこれは挑戦なのだと考えていた。
しかし多くのより繊細な若い研究志望者たちは、そうした批判によって潰されていただろう。自信を打ち砕かれ、研究意欲が棄損されることによって。
経済学の専門家たちは乱暴だから、急所攻撃を食らっても生き残るため分厚い皮を持っておく必要がある。
Modern Monetary Theory(MMT)はこうした意味でのレジームチェンジを目指している。MMTは、支配的な経済学理論の嘘や欺瞞に直接的に対抗し、システマティックで首尾一貫した代替的な理論を提供している。
当初、我々は無視された――我々(上述した小さいグループで行った)の研究の少なくとも最初の10年の間はそうだった。
最初は、経済学の中でも先進的な分野(ポストケインジアン)が我々を批判しはじめた。――その主な理由は、彼らが類似のカンファレンスに参加していたからだ。MMTはポストケインジアンが未だ受け入れていた新自由主義のいくつかのコンセプトに挑戦するものなので、ポストケインジアンは我々に対して敵対的だった。
そしてメッセージがより広範に伝わるようになるにつれて、’第二世代’MMTerがより発言力を持つようになり、数も増え、現在は主流派経済学者からの攻撃を受けるようになっている。
最近の攻撃については When mainstream economists jump the shark and lose it completely という記事で書いておいた。★★
これらの攻撃はより広範囲に広がっているが、それは我々の一連の考えが発展の次のステージに達していることを示している。
専門家たちの中の新自由主義的なGroupthinkerたちは現在、世界金融危機への対処の大いなる失敗の結果として、主流派経済学の価値観によりいっそう多くの人々が忌避感を抱き始めており、それによって彼らの地位が弱まっていることに気づき始めている。
しかし主流派経済学の失敗が明らかになると、衆愚政治的な動きが彼らのレジームを守るためのあらゆる防御策を講じ始めた。メディアでMMTにマウンティング攻撃するのもこれだ。
尤も、私が今まで話してきたそうしたレジームシフトは、ブロゴスフィアで主張されている’MMTが採用されれば世の中が良くなる’といった主張とは異なるものだ。
そういった類の所感は、十分な数の政治家を説得できれば’MMTレジーム’へのシフトが出来るという意味になってしまう。
理解すべきポイントは、MMTは、不換紙幣(fiat currency)金融システムがどのように運営されるかという仕組みへの理解、および現代金融経済において政府が行うことが出来る中心的な役割への理解に役立つ思索の体系であるということである。
現代金融経済は、貨幣(money)を財とサービスに対する支払いの計算単位として利用している。重要なのは、その貨幣が不換紙幣であり、交換できるのはそれ自体だけ(訳注:古い紙幣を持ち込んだら新しい紙幣に替えてもらえる、くらいの意味かと)で、政府には(例えば金本位制、ないし後期金本位制のように)金(gold)に交換する法的義務はないというところである。
主流派経済学の論評ではたいてい無視されるのが、1971年8月におけるブレトンウッズ体制の崩壊である。ブレトンウッズ体制は、1944年7月に有名なブレトンウッズ会議で合意された金融システムで、参加国の中央銀行にUSドルに対する固定為替相場の維持を要求するものだった。
そのシステムは機能しないことが証明され、ニクソン大統領がUSドルの金への互換性を破棄し、ほとんどの国は不換紙幣システムへと移行した。
不換紙幣システムの中では、政府は特定の不換紙幣を発行する独占的な権利を持つ。
その上、不換紙幣は、税の支払いおよび政府の要求する他の財政的請求に受け入れられる唯一の単位であり、このことが政府の政策手段の範囲を決める。
我々は、政府がただの’大きな家計’ではないことを知っている。家計は、通貨(currency)の利用者であり、支出に際して事前に通貨を調達しなくてはならない。翻って政府は、通貨の発行者であるので、もし(増税を)望むとしても、まず支出(民間銀行の銀行口座に貸方記帳)があり、このことにより借方記帳するということになっている。
はっきり言えることは、不換紙幣発行者である政府は、いかなるときも発行通貨(currency of issue)による支払い能力を持つという事である。
MMTはさらに、国定貨幣(State Money)(不換紙幣)の目的が、実物的な財・サービスを非政府主体(大部分は民間)から政府(公的)主体へとスムーズに移行することであることも教えてくれる。
この移行のために政府はまず徴税する。徴税により発行通貨の需要が発生する。非政府主体は、納税及び全体での純貯蓄に必要な資金を獲得するため、実物財・サービスを売りに出して、必要な通貨と交換しようとする。これはもちろん、非雇用者たちが労働を売ろうとするようになることをも含む。明白な結論として、失業は、全体での政府純支出が、納税の必要性と全体純貯蓄の欲求を満たすには少なすぎるときに起こるということが言える。
この分析は、政府の支出の限界 3 も設定する。政府支出が納税可能になる分だけ十分になされなくてはならないということは明らかだ。それに加えて、民間の貯蓄意欲に合わせる必要がある。
もし政府が納税と非政府部門の貯蓄欲求をカバーするのに十分な支出を行わなかったなら、その不足分は失業として現れるだろう。
この問題の根本は常に、政府純支出がその時の民間支出(貯蓄)決定に対して適切ではないことにあるのだ。
それぞれの国(あるいは複数の国によるブロック)では不換紙幣による支出能力をそれぞれ違う方法で構築・利用している。ユーロ圏メンバーの国は、フランクフルトに支出能力を自主的に委譲し、純支出に関して厳しいルールを自国自身に課している。
他の国々は違う形で発展している。
しかしポイントは、いつの時代も、どの国においても、金融システムはMMTが描写し説明している形で運用されているということである。
MMTは現実と非常に強い関係を持っている。一方で、主流派経済学は、現実の大部分を扱えない。
したがってMMTへと移行すること自体がより良い世界であると考えるのは、現実への誤解に基づいている。すべての形態及び規模の金融システムは、既にMMTに準じて運用されているのである。
よって、”もしMMTが導入されれば”とか、”MMT政策の下では”とか、”MMTが規範になるとき”という風に、『MMTは、もし社会がより啓発されれば、移行することのできるレジームであり、真に進歩的な政府に新しい範囲の政策手段を開拓するものである』と暗に意味しているかのようなコメントを読むと、この点が誤解されているということがわかるのである。
こうした誤解は、他のコメントにもある。特に、Job Guarateeに関するコメントだ。そうしたコメントではMMTとは進歩的な教義であるとか、あるいは経済政策決定における左派的なアプローチであるということになっている。あるいは、MMTがなかなか紹介されないのは、既成秩序を維持しようとする右派の陰謀だ、とされている。
こうした発言は善意からのものであるし、MMTがその理論の進む先に提案している政策手段のいくつかに、人々が純粋に魅了されているということは分かっている。
けれどもそのような理解は、私が「Job Guaranteeのような提案への教条的で不合理な抵抗」と考えていることと同類なのだ。
つまり、「進歩的政策によって資本家の搾取の軛から自由になれるMMT的世界へ我々は移行すべきである」というような考えは、完全に間違っている。
事実として、我々は既にMMT的世界に生きているのである。我々はいつだってMMT世界の中で関わりあっているのだ。アメリカでも、オーストラリアでも、ユーロ圏のどの国でも、金融システムはMMT的体系の中で運用されている。
だから、MMT的世界と一般に呼ばれているような新しい理想郷へ向かうなんていうことはあり得ない――我々は既に、MMT的世界に居るのだから。
MMTが与えてくれるのは、我々が住んでいる世界を見るための新しいレンズであり、我々の日常生活の中で重要な金融システム運用についてである。
この新しいレンズは、日常の基礎で経済に何が起きているかについての新しい洞察を広げる。MMT的世界は、移行すべき何かなのではなく、既にそこに存在するものなのだ。
新しい強力なレンズとしてのMMTは、新自由主義の物語では不明瞭になっている点についても明らかにしてくれる。
というのは、政策決定と非政府部門の意思決定の因果と結果の理解から我々の注意をそらすために、保守派が推進した一連の連結された神話を暴く、という意味である。
保守派の政治家や企業家たちが、「政府はお金を使い切っており、そのため失業者に対してこれまでと同レベルの給付支援をする余裕はない」と主張しているとき、MMTはそれが嘘であり、それとは別の指針が存在するに違いないということを気づかせてくれる。
MMTはこのように、現実への理解について学ぼうとしたり、それまで問おうと思うことも出来ず、それどころか無関係であった疑問への問い方を学ぼうとしたりする人々に、その力を与えてくれる。
以前は、政治家が「政府はお金を使い果たした」とか「政府はクレジットカード満額まで使い切った」と発言すれば、情報の無い人々はそうした発言を尤もだと捉えてしまっていただろう。
しかしMMTのフレームワークを理解すれば、そのレンズによって人々は”お金を使い果たす”という錯乱を却下し、逆に、政府が特定の政策手段を用いたがらない理由を知ろうと欲するようになるだろう。
これまで、政治家とそのアドバイザーは、(彼らが操作対象としている)一般市民が適切に知らない・理解していない偽物の経済学的議論を用いて新しい政策手段や政策方針を即座に却下してきたが、MMTは、そうして却下されてきた政策手段・政策方針の実現可能性を政策論議に導入する。
MMTはかのように、我々が生きている世界の金融システムがどのように運用されているかということと、通貨発行主体(curreny-issuing)であり、我々の幸福を志向すべき政府が、どのような潜在能力や政策手段を持っているか、ということを理解するためのフレームワークなのである。
MMTは、政府の通貨発行能力(currency-issuing status)(為替操作能力や中央銀行による金利設定能力を含む)を実際の統治体から分離したらどんな結果を齎し得るかということを理解するのにも役に立つ。
後者に関して我々は、MMTのレンズによって、ユーロ圏が構成国に非常に悪い結果を齎す形で失敗した理由をクリアに理解することができる。
また、MMTは左派でも右派でもない。
MMTの理論的・描写的側面と、その上に付加されているMMT提唱者の価値観を混同してしまうという錯乱的な嘘が存在している。
私が左派の立場から解説してしまうせいで、MMTは左派だと思われているかもしれない。しかし、それは間違った推論だ。
どんな立場からであれ、思想的信念というのは、価値観と、その価値観から進展して提示される政策的処方箋によって明らかになるものだろう。
MMTが出来るのは、ある人が特定の政策提案を推進するときに、その思想的信念をより明瞭にすることである。
例えば、失業率上昇に直面している政治家が「政府にはこれほど多い失業を解決するほど職を提供するだけの財政的余地はない」と発言しているとき、MMTのレンズを通じてそのコメントを考察すると、「政府には、必要以上に失業率を高く維持したい理由がなにかあるに違いない」ということが即座にわかるだろう。
我々はそこに’隠された’指針があるということがわかる。なぜなら、我々の理解では、政府には通貨発行能力(currency-issuing capacity)があるために、その財政的余地というのは利用可能な実物資源で決定するからである。もし大量の失業があるなら、そこには利用可能な実物資源が存在するということがわかる。
では、なぜ政府は彼らを雇って生産的用途に利用しないのだろうか?
そのとき焦点は「その理由が何か」というところに移り、その疑問は、例えば、政府が完全雇用維持のために通貨発行能力を利用するのを拒否することによって随伴的に生じるであろう影響への考察に繋がるだろう。
逆に、MMTに感化された右派の政治家が、賃金を抑圧し、利益(右派政治家はこれを労働者の尊厳etcより価値が高いと考えている)を高めるために、大量の失業の予備を確保するという欲望を実現しようとするとき、彼らは財政赤字の削減を提案するだろう。なぜなら、MMTの知的訓練によって、それが彼らの目標を達成する手段であると分かるからである。
MMTは、我々の価値観を政策選択を通じて社会へ適用した結果どうなるかについてしか教えてくれない。そうした価値観は、どんな政治的ないし思想的性質でもありえるのである。
私はこの議論がこのタイプの問題について論争している人々の助けになることを望んでいる。
来週、私は”メランションが大統領になった場合のフランスの最初の100日間”を予測するブログを書くつもりだ。
右派の経済学者は、まるで日々の稽古のように、既に偽物の知識を交換している。実に滑稽だ。私は彼らよりもう少し真面目にやるつもりだ。
今日はこれでおしまい!
There was an Op Ed last week from an Australian academic who attacked Modern Monetary Theory (MMT) along the lines that its proponents are “a bunch of cranks” and practice “charlatanism”. He also considers us to be sellers of “snake oil” and other nasty things. It was an extraordinary public intervention given that the argument was based on assertions drawn from an intermediate mainstream macroeconomics textbook, bereft of historical understanding and bereft of any real knowledge of the way the monetary system and the institutions within it (government, central bank, commercial banks) actually work. The MMT critique went like this: (a) misrepresent MMT through attributing claims to its proponents that are not remotely to be found in the literature; (b) claim you are not misrepresenting the MMT literature by selective quotes that are not actually consistent with the misrepresentations; (c) bring in one liners from textbooks that have been demonstrated to have no real world application and are patently wrong in many key elements of the banking system and the way bond markets operate; (d) call us fools for not knowing any of this. Well, it doesn’t take long into the article to realise who the fool is. The other point is that MMT is now clearly at the stage of development where the mainstream think they have to attack us and put us down. That is the next stage in our development (following years of being totally ignored). Progress is being made.
Here is a song to get us in the mood. It is from Steeleye Span – Who’s the fool now – from the Live At A Distance CD.
While the theme of the song is the ravages of drink, it could equally apply to the delusion that Groupthink invokes.
First, I prefer not to deal with the Conversation through their portal. In the past, I have found their editorial policy to be restrictive and selective of issues they want to promote rather than what the authors want to write.
Further, the editors get paid while the authors do not. If the model is to be voluntary then everyone should be bound by the same rules.
So my reply is here.
The Conversation also holds itself out as promoting “Academic rigour, journalistic flair”.
In the case of the article by a University of New South Wales academic, Richard Holden (January 19, 2017) – Printing more money isn’t the answer to all economic ills – there is very little evidence of “Academic rigour”.
So, in this case, I guess the editors abandoned their corporate mission to only publish articles that have a solid basic in logic and fact.
Instead, in this case, they published an Op Ed that is so deeply flawed that it is hard to know where to engage.
Holden starts with ad hominen – which you always know signals that there is very little substance to follow. In this particular case, zero substance.
Modern Monetary Theory (MMT) academics like Randy Wray, Stephanie Kelton, myself and long-standing financial market makers like Warren Mosler are dismissed from the outsets as “a bunch of cranks”.
Warren Mosler, for example, has created some of the most innovative trades and products in the history of financial markets and has a deep practical knowledge of the banking and finance industry.
While I only ‘talk the talk’, he has walked it.
Holden, himself, has no published track record in macroeconomics or monetary economics and his teaching does not involve macroeconomics. So, his intervention is hardly from the perspective of the cutting edge and his reliance on simplistic textbook notions is evidence of that.
The other point to note from the outset is that Holden pulls the second mainstream economics ploy that Modern Monetary Theory (MMT) is not gound in mathematical exposition and is therefore deficient.
He wrote as a put down to follow the “bunch of cranks” insult that:
For starters, it is not formal, it is made in prose and is subject to all the pitfalls that come with attempts to make precise statements with imprecise tools.
Many critics of Modern Monetary Theory (MMT) use this line of attack as it appears to be a scientific refutation based on the authority of mathematical reasoning.
Remember the New Keynesian attack from Simon Wren-Lewis (March 16, 2016) – MMT: not so modern – where he opened up by saying that:
MMTers also seem curiously averse to equations.
Remember Tom Palley’s 2013 attack that (Source):
MMT-ers have failed to provide a formal model that explicates their claims …
The mainstream promote the idea that an economic proposition that is not backed up by some mathematical expressions is clearly inferior and likely to be wrong.
Suffice to say that the great works of Marx and Keynes, among others would be disregarded if the inclusion of mathematical squiggles was the demarcation criteria between deficient and sound analysis.
But it is also not correct that MMT economists have avoided formal expressions when they consider them to be useful in advancing comprehension.
For example, in my 2008 book with Joan Muysken – Full Employment abandoned – there is a lot of mathematical exposition, where appropriate and effective.
Further, the expression Garbage-In, Garbage-Out applies in this case.
A formal mathematical model is just a logical construct following the rules of mathematics. Whether it has traction with the real world is another matter all together and that depends, in part, on the assumptions we start with to ‘set up’ the formal model.
So if we start by assume there is a ‘representative agent’ (representing us all to overcome intractable aggregation problems) that is always rational and maximising and who follows the formal dictates of rational expectations (which assume on average the guesses about the future are always correct) and can ‘solve’ complex intertemporal (across time) maximising problems that require understanding of the techniques, such as random process, measure theory, Lebesque integrals, Ito Calculus and the rest, then it is pretty certain, the output from such an exercise will be nonsense.
Hence, the failure to predict the Global Financial Crisis or even see that there was any problem at all developing.
The evidence is clearly that people within social systems do not behave remotely like the ‘single person’ (agent) in the mainstream macroeconomics models.
The introduction of rational expectations into the literature (in the late 1960s but the idea really gathered pace in the late 1970s) led to mainstream economists talking endlessly about ‘forward-looking maximising behaviour’.
John Muth (1961), who introduced the idea to economists, claimed (p.316) that:
[Reference: Muth, J.F. (1961) ‘Rational Expectations and the Theory of Price Movements’, Econometrica, 29(3), 315-35.]I should like to suggest that expectations, since they are informed predictions of future events, are essentially the same as the predictions of the relevant economic theory …
In other words, when we make guesses about the future, we are assumed to be acting as if we know the actual data generating process that will deliver that future. We are sometimes wrong but on average our errors net to zero – which means we have more or less perfect foresight.
William Poole summarised the literature in this way (p.468):
[Reference: Poole, W. (1976) ‘Rational Expectations in the Macro Model’, Brookings Papers on Economic Activity, 2, 463-514.]The rational-expectations hypothesis is that the market’s psychological anticipation … [future price] … equals the true model’s expectation …
The economic modelling task then came down to the following steps:
1. Assume – that is, assert without foundation – that all persons are rational and deploy rational expectations. They interact within efficient, competitive markets (that is, where prices shift to balance demand and supply to ensure the configuration of outcomes (resource usage) is optimal for all.
2. Write some mathematical equations reflecting this.
3. Solve the equations for the unknown outcomes.
4. Shock the ‘solution’ with some policy change and ‘prove’ it is ineffective because as a result of (1) all agents predict in advance the shock and act to negate it.
5. Write ridiculous articles that claim that fiscal policy is ineffective.
The New Keynesians add some price stickiness to this format of reasoning but end up with identical long-term results (when the stickiness goes).
Arthur Okun (hardly a radical economist) once mused that if the mathematical depiction of decision making represented by the rational expectations literature was correct then all the economists on payrolls around the world were redundant because even the person delivering the post ‘knew’ the underlying economic model that generated the empirical observations we call economic data.
While reflecting on the usefulness of rational expectations, James Tobin noted in 1980 that (p.796):
[Reference: Tobin, J. (1980) ‘Are New Classical Models Plausible Enough to Guide Policy?’, Journal of Money, Credit and Banking, 12(4), 788-799.]Herbert Simon and others have accumulated considerable evidence to support the hypothesis that decision makers, from students and consumers to executives and statesmen, use “rules of thumb” in the face of uncertainties and complexities that defy detailed anaylsis and explicit optimization. Decision making itself is costly. The rules that simplify decisions are not unalterable, of course, but they tend to persist unless the environment is perceived to have changed drastically or they yield disastrous results.
There has been a long-standing tradition of institutional researchers who have understood that individuals do not behave in the way depicted by these streamlined mathematical frameworks deployed by economists. The more recent behavioural economics research has ratified the conclusions of those past understandings.
Tobin had earlier written (1972, p.13):
Lucas’ paper provides a rigorous defense of the natural rate hypothesis, and the study’s rigor and sophistication have the virtue of making clear exactly what the hypothesis requires. The structure of the economy, including the rules guiding fiscal and monetary policy, must be stable and must be understood by all participants. The participants not only must receive the correct information about the structure but also must use all of the data correctly in estimating prices and in making quantity decisions. These participants must be better econometricians than any of us at the Conference. If they are, they will always be – except unavoidable mistakes due to purely random elements in the time sequence of aggregate money demand – at their utility- and profit-maximizing real positions.
The was a touch of humour here but the point he was making was obvious. The sort of requirements that these mathematical models that mainstream economists deploy place such unrealistic demands on human reasoning that they are of little use in understanding what actually goes on in the real world.
[Reference: Tobin, J. (1972) ‘The Wage-Price Mechanism: Overview of the Conference’, in Eckstein, O. (ed.) The Econometrics of Price Determination, Board of Governors of the Federal Reserve System and Social Science Research Council, Washington, 5-15.]But research communities that become crippled by the onset of Groupthink avoid these intersections with reality.
The modern New Keynesian models, which priortise so-called mathematical rigour over reality, fail at the most elemental level to capture key questions – such as unemployment.
They work out that their optimising models (which are simplistic so as to be mathematically solvable) are incapable of capturing real world dynamics.
So, notwithstanding the air of rigour, the New Keynesian results are still always conjunctions of abstract starting assumptions and ad hoc additions to make any traction with reality.
That is, they make stuff up (for example, put lags into relationships that cannot be derived from their first optimising principles etc).
This indicates an important weakness of the New Keynesian approach. The mathematical solution of the dynamic stochastic models as required by the rational expectations approach forces a highly simplified specification in terms of the underlying behavioural assumptions.
But then, the claimed theoretical robustness of the New Keynesian models give way to empirical fixes, which leave the econometric equations indistinguishable from other competing theoretical approaches where inertia is considered important. And then the initial authority of the rigour is gone anyway.
This general ad hoc approach to empirical anomaly cripples the New Keynesian models and strains their credibility. When confronted with increasing empirical failures, proponents of New Keynesian models have implemented these ad hoc amendments to the specifications to make them more realistic.
I could provide countless examples which include studies of habit formation in consumption behaviour; contrived variations to investment behaviour such as time-to-build , capital adjustment costs or credit rationing.
Even mainstreamers like Willem Buiter described DSGE modelling as “The unfortunate uselessness of most ‘state of the art’ academic monetary economics”. He noted that:
Most mainstream macroeconomic theoretical innovations since the 1970s (the New Classical rational expectations revolution … and the New Keynesian theorizing … have turned out to be self-referential, inward-looking distractions at best. Research tended to be motivated by the internal logic, intellectual sunk capital and esthetic puzzles of established research programmes rather than by a powerful desire to understand how the economy works – let alone how the economy works during times of stress and financial instability. So the economics profession was caught unprepared when the crisis struck … the Dynamic Stochastic General Equilibrium approach which for a while was the staple of central banks’ internal modelling … excludes everything relevant to the pursuit of financial stability.
The essence of a community trapped by Groupthink.
Among other blogs covering these issues, see:
1. GIGO …
3. A continuum of infinitely lived agents normalized to one – GIGO Part 3
4. Mainstream macroeconomic fads – just a waste of time
5. Mainstream macroeconomics in a state of ‘intellectual regress’
The obsession with formal modelling, despite the fact that economists, parading as hard scientists, generally use relatively inferior mathematical tools, really hides the fact that there is little substance in the analysis.
I remind readers of the observation by American (Marxist) economist Paul Sweezy who wrote in the 1972 Monthly Review Press article – Towards a Critique of Economics – that orthodoxy (mainstream) economics:
… remained within the same fundamental limits … of the C19th century free market economist … they had … therefore tended … to yield diminishing returns. It has concerned itself with smaller and decreasingly significant questions … To compensate for this trivialisation of content, it has paid increasing attention to elaborating and refining its techniques. The consequence is that today we often find a truly stupefying gap between the questions posed and the techniques employed to answer them.
Not much has changed since 1972 in this regard.
Mathematics is just a language – one of many. Sometimes it helps to sort out problems that other languages cannot solve. Usually that is not the case, especially is a social science like economics.
The use of formality is only justified if it simplifies what cannot be easily said in words. Otherwise, it just perpetuates the idea that economics is just a cult of the cognoscenti who have learned a few elementary rules of pure mathematics.
It is used as a faux authority to discourage people who are outside the camp, from challenging the assertions.
So when a mainstream economist opens a critique of a new idea (outside the Groupthink mob rule) by claiming there is no formal mathematics being used, it is equivalent to Donald Trump saying, during the primaries in Detroit (March 2016):
Look at those hands, are they small hands? And he … [referring to Rubio] …. referred to my hands, ‘if they’re small something else must be small.’ I guarantee you there’s no problem, I guarantee it.
A macho sort of my theory is ‘bigger’ than yours because we use mathematics, when, in fact, the very use of the techniques might cripple any chance the approach has of reflecting on reality.
So Holden starts with the insult, followed by the ‘mine is bigger than yours’ gambit – a sure sign of a loser.
Once he gets to attempted substance, it is as though he is quoting from a very poor second-year (intermediate) undergraduate macroeconomics textbook.
He characterises Modern Monetary Theory (MMT) in this way:
Modern monetary theory, a term coined by Australian economist Bill Mitchell, says the following: (1) Countries that control their own currency cannot default on sovereign obligations because they can always print more money. (2) Thus, said countries can provide unlimited resources, pay for whatever they want, and create full employment. Nirvana, here we come!
MMT is far more than this but even this characterisation misses the nuances.
1. Countries that control their own currency never have to for financial reasons (which is different from “cannot default”) default on any outstanding liabilities issued in that currency.
This has nothing to do with having a Mint that can print bank notes. Governments do not spend by running printing presses.
2. MMT does not say that a currency-issuing government “can provide unlimited resources”. Rather, it distinguishes between financial and real capacity. Such a government can only purchase what is for sale (real resources) in that currency of issue. There is nothing unlimited about it.
They can always create full employment, however, if the available unemployed labour chooses to work in return for a wage. A currency-issuing governemnt can always provide that monetary wage.
Whether any incomes generated in the economy translate into higher material standards of living depends on the availability of real resources, which are not unlimited.
So Holden is not off to a very good start.
He seems to think it is erudite to ask – “if it is so easy to fix a nation’s economic ills – just run the printing presses round the clock – then why doesn’t everyone do it”.
Well, the “printing press” scare reference notwithstanding, there is a simple question of ideology to deal with. This is something that mainstream economists deny is important.
In her 1962 book Economic Philosphy, Joan Robinson tried to “distinguish ideology from science” and concluded that “An ideology is more like an elephant than like a point”, the latter being a logical abstraction, which “has position but no magnitude”.
She said that economics was a “branch of theology” in the sense that the role of mainstream economics is to maintain social control in a similar way that the traditional religious institutions had served.
The dominant neo-liberal ideology has led to an abandonment of full employment in favour of sustaining a pool of underutilised labour that creates downward pressure on wages and has led to the redistribution of national income towards profits over the last three decades.
There are strong vested interests that militate against governments using their fiscal capacity to create full employment.
But moreoever we lived through several decades immediately after the end of the Second World War, when unemployment was at its frictional level (people moving between jobs) and there was zero underemployment. This full employment period was marked by governments using their fiscal capacity actively to ensure there were enough jobs.
There were informal buffer stocks of jobs throughout the public sector, where anyone could get a job on almost any day if they so desired. Those buffers were abandoned as the Monetarist onslaught took hold in the late 1970s.
Paul Ormerod wrote in his book Death of Economics that the Post-WWII period of strong GDP growth, balance of payments stability, and high investment could have occurred without the low unemployment (pp.202-03):
The sole difference would have been that those in employment would have become even better off than they did, at the expense of the unemployed.
The higher tax rates and buoyant government sectors allowed the flux and uncertainty of aggregate demand to be shared.
While the bulk of the OECD has abandoned this method of sharing, some economies have maintained high levels of employment into the current period.
Most significantly, Ormerod wrote that:
… the countries which have continued to maintain low unemployment have maintained a sector of the economy which effectively functions as an employer of the last resort, which absorbs the shocks which occur from time to time, and more generally makes employment available to the less skilled, the less qualified.
A Job Guarantee-type capacity.
A commentator that there was no reason why Australia could not introduce a “job guarantee with full employment”, to which Holden responded “… when exactly did we have “full employment” …?
He was told by another commentator that “we had a full employment policy prior to 1975”, and Holden responded “and what was the unemployment rate then?”
He was told that “Avg unemployment from 1945-46 to 1973-74 was 2%”.
To which he responded “not at all clear – please provide the data” and then went onto to smugly challenge the commentator with “should we print money like crazy then” to get lower unemployment.
Which brings up the next problem.
Clearly Holden’s field is not macroeconomics nor is it labour economics. Everyone expert in those fields know that there is an irreducible minimum unemployment rate governed by the frictions of moving between jobs. 2 per cent was about that minimum.
We called that full employment because anyone who wanted a job could find one and any employer who wanted a worker could hire one.
The problem is that students of economics in the neo-liberal era are not required to study economic history as part of their education. So we have a generation of PhDs in economics, particularly those from most mainstream American programs, who have very little understanding of history and what has gone before them.
They are trained up in mathematical models – assume this, tweak this, find this – that is equivalent to ‘counting the number of angels on the top of a pinhead’.
But they are not at all savvy about history and the experience it brings. Holden discloses that naivety when he demanded the commentator provide data to prove that the average unemployment was 2 per cent in the Post World War 2 period up to the mid-1970s.
Professional standards should dictate that anyone who claims to profess an intellectual discipline (such as a professor of economics) be well-read in the wide-fields encompassed by that discipline, which in this case, spans history of economic thought (and the philosophy of science), economic history and the intersection of economics with other social sciences, such as sociology and psychology.
It is just basic required knowledge for a professor of economics to know that Australia’s unemployment rate was at or below 2 per cent with zero underemployment for more than 3 decades following the Great Depression.
A stunning ignorance was revealed in that particular interchange. But it was not the exception.
His main argument is summarised by this paragraph:
But here’s the essential substantive problem. Suppose a government wants to pay for some “stuff”. If the government prints money and doesn’t back that by issuing bonds then there is inflation. That inflation leads to the government needing to print more money to pay for the stuff. Which leads to more inflation. And pretty soon that leads to wheelbarrows of cash being pushed around, hyperinflation, the destruction of all savings in the economy, and (in some notable cases) world war.
Okay, Weimer Republic overtones.
He even intones the Zimbabwe case. An understanding of history tells us that these two historical episodes, where hyperinflation became a problem were largely driven by supply contractions (first) followed by excessive nominal demand.
In the latter case, the supply contraction was sourced to the farm takeovers that Mugabe enforced, which reduced productive capacity by more than 50 per cent. Other problems then emerged.
Please read my blog – Zimbabwe for hyperventilators 101 – for more discussion on this point.
But lets go through the monetary operations that he claims will be inflationary. I have done it many times before but here is a summary.
The mainstream macroeconomic textbooks always introduce the so-called Government Budget Constraint that alleges that governments have to “finance” all spending either through taxation; debt-issuance; or money creation.
In the real world, however, government spending is performed in the same way – crediting bank accounts – irrespective of the accompanying monetary operations.
The mainstream (which Holden represents) then claim that money creation (borrowing from central bank) is inflationary while the latter (private bond sales) is less so.
This is the essence of Holden’s claim that government deficit spending not backed by bond issuance is inherently inflationary.
The claim is that spending via ‘money creation’ adds more to aggregate demand than spending via bond sales, because the latter forces up interest rates which crowd out some private spending.
All these claims are without foundation in a fiat monetary system and an understanding of the banking operations that occur when governments spend and issue debt helps to show why.
So what would happen if a sovereign, currency-issuing government (with a flexible exchange rate) ran a fiscal deficit without issuing debt?
Like all government spending, the Treasury would credit the reserve accounts held by the commercial bank at the central bank. The commercial bank in question would be where the target of the spending had an account. So the commercial bank’s assets rise and its liabilities also increase because a deposit would be made.
The transactions are clear: The commercial bank’s assets rise and its liabilities also increase because a new deposit has been made. Further, the target of the fiscal initiative enjoys increased assets (bank deposit) and net worth (a liability/equity entry on their balance sheet).
Taxation does the opposite and so a deficit (spending greater than taxation) means that reserves increase and private net worth increases.
This means that there are likely to be excess reserves in the ‘cash system’ which then raises issues for the central bank about its liquidity management. The aim of the central bank is to sustain a particular target interest rate and so it has to ensure that competitive forces in the interbank market do not compromise that target.
When there are excess reserves there is downward pressure on the overnight interest rate (as banks scurry to seek interest-earning opportunities), the central bank then has to sell government bonds to the banks to soak the excess up and maintain liquidity at a level consistent with the target.
The alternative, which is now in vogue after the GFC, is that the central bank can offer a return on overnight reserves which reduces (or eliminates) the need to sell debt as a liquidity management operation.
In other words, the excess reserves remain in the banking system and are rewarded with a competitive return provided by the central bank.
Which sounds awfully like an interest-bearing asset to me.
If the central bank does conduct open market operations (swaps government bonds for excess bank reserves), there is no sense that it is helping to finance government spending.
The bond sales are a monetary operation aimed at interest-rate maintenance.
But in terms of the government deficit spending not matched by primary bond issuance, all that happens is that M1 (deposits in the non-government sector) rise without a corresponding increase in bond liabilities.
It is this result that leads to the MMT conclusion that that deficits increase net financial assets in the non-government sector.
What would happen if there were bond sales? All that happens is that the banks reserves are reduced by the bond sales but this does not reduce the deposits created by the net spending. So net worth is not altered. What is changed is the composition of the asset portfolio held in the non-government sector.
The only difference between the Treasury ‘borrowing from the central bank’ and issuing debt to the private sector is that the central bank has to use different operations to pursue its policy interest rate target.
If debt is not issued to match the deficit then it has to either pay interest on excess reserves (which most central banks are doing now anyway) or let the target rate fall to zero (the long-standing solution of the Bank of Japan).
There is no difference to the impact of the deficits on net worth in the non-government sector.
But, mainstream economists (like Holden) claim that by draining the reserves, the central bank has reduced the ability of banks to lend which then, via the money multiplier, expands the money supply.
However, the reality is that:
The private banks are able to create as much credit as they can find credit-worthy customers to hold irrespective of the operations that accompany government net spending.
This doesn’t lead to the conclusion that deficits do not carry an inflation risk. All components of aggregate demand carry an inflation risk if they become excessive, which can only be defined in terms of the relation between spending and real productive capacity.
It is totally fallacious to think that private placement of debt reduces the inflation risk.
Please read the following blogs – Building bank reserves will not expand credit and Building bank reserves is not inflationary – for further discussion.
Think about it this way.
Assume there is surplus productive capacity – that is, firms have the capacity to produce more goods and services if their sales improve.
1. Case 1 – a private entity (firm or consumer) gets their credit card out and goes shopping. They come homewith an armful of purchases and prices don’t move a bit. Firms respond to the increased orders from shops for more inventory by increasing production.
2. Case 2 – a government official places a procurement order to a firm for some “stuff”. The products are delivered and prices don’t move a bit. Firms respond to the increased orders from shops for more inventory by increasing production.
When was the last time, a checkout operator in a shop asked you whether you were a government or a non-government purchase?
The point is that all spending carries an inflation risk. Public spending is not privileged in any way over private spending in this regard (or vice versa).
The economy responds to increased nominal demand by utilising its productive capacity and bringing unused capacity back into production. When nominal spending outstrips that capacity then firms have only one option left – to increase prices.
The evidence is that they do not increase prices before full capacity is reached because they fear they will lose market share.
At full capacity, as long as nominal spending grows in proportion with the growth in new capacity (from capital formation investment) then the money supply can continue to grow (to match the larger nominal transactions) without any price pressures.
Holden thus reveals he fails to understand that bond-issuance does not reduce the inflation risk of spending. The other way of thinking about that is that the funds to buy the bonds are part of the non-government wealth portfolio and were not being spent anyway. All that the purchasers do is swap one asset (presumably one that is not earning interest) for the bond, which does.
But then think about the case where the central bank pays interest on excess reserves and the treasury does not issue bonds.
That is equivalent to issuing bonds.
What actually happens is that the funds are conceptually moved from one account at the central bank (non-interest earning reserves) into another account (bonds or interest-earning reserves).
So when Holden berated a commentator with this smug retort:
… don’t you understand the difference between printing money and printing money backed by bonds. really?
We know whose face the egg was plastered all over and then some.
He further entrenched himself in embarassment when he was asked by a commentator to explain how a rise in a fiscal deficit of $1 without being matched by a bond sale would be inflationary.
His smug response was:
sure. MV = PY
And at that point you know he has his second-year textbook open and either doesn’t know how stupid that response was or thinks everyone else is so stupid that they won’t see through it.
The accounting statement MV = PY is what is known as the Quantity Theory of Money (QTM), the main theory of inflation prior to the release of Keynes’ General Theory (which demolished it).
It still hangs around among the ignorant or those who have anti-government agendas to push.
Mainstream economists use the QTM to link the expansion of the money supply with accelerating inflation. It is the most intuitive part of the neo-liberal story and the one that resonates with the public. That is why they continue to promote it, despite it being nonsensical to do so.
While the QTM was formulated in the 16th century, the idea still forms the core of what became known as Monetarism in the 1970s.
First, a small bit of theory. The QTM postulates the following relationship: M times V equals P times Y, which can be easily described in words as follows. M is a symbol for how much money there is in circulation, that is, the money supply. V is called the velocity of circulation in the textbooks but simply means how many times per period (say a year) the money supply ‘turns over’ in transactions.
To understand velocity, think about the following example. Assume the total stock of money is $100, which is held between the two people that make up this hypothetical economy. In the current period, Person A buys goods and services from Person B for the $100 it currently holds. In turn, Person B uses the $100 to buy goods and services from Person A.
The total transactions equal $200 yet there is only $100 in the economy. Each dollar has thus been used ‘twice’ over the course of the year. So the velocity in this economy is two.
When we make transactions we hand over money, which then keeps being circulated in subsequent purchases. The result of M times V is equal to the total monetary transactions in the economy per period, which is a flow of dollars (or whatever currency is in use).
The P times Y is the average price in the economy (P) times real output produced (Y), which sums to what we call nominal Gross Domestic Product (GDP). The national statistician estimates the total sum of all the goods and services produced to get real GDP and then values this in some way using the price level to get a monetary measure of total production.
So P times Y is the total money value of the output produced in the period.
At this level, the relationship M times V equals P times Y is nothing more than an accounting statement that says that the total value of spending (M times V) in a period must equal the total monetary value of output (P times Y), that is, a truism.
It is true by definition and thus totally unobjectionable.
How does the QTM become a theory of inflation? The answer is that the mainstream economists use a sleight of hand.
The Classical economists, who pioneered the use of the QTM, assumed that the labour market would always be at full employment, which means that real GDP (the Y in the formula) would always be at full capacity and thus could not rise any further in the immediate future.
They also assumed that the velocity of circulation (V) was constant (unchanged) given that it was determined by customs and payment habits. For example, people are paid on a weekly or fortnightly basis and shop, say, once a week for their needs. These habits were considered to underpin a relative constancy of velocity.
These assumptions then led to the conclusion that if the money supply changed, the only other thing that could change to satisfy the relationship M times V equals P times Y was the price level (P).
The only way the economy could adjust to more spending when it was already at full capacity was to ration that spending off with higher prices. Financial commentators simplify this and say that inflation arises when there is ‘too much money chasing too few goods’.
The problem with the QTM is that neither of the assumptions that are required to making it a theory of inflation hold in the real world.
First, there are many studies which have shown that velocity of circulation varies over time quite dramatically.
Second, and more importantly, capitalist economies are rarely operating at full employment. They typically have spare productive capacity.
The Classical theory essentially denied the possibility of unemployment. The fact that economies typically operate with spare productive capacity and often with persistently high rates of unemployment, means that it is hard to maintain the view that there is no scope for firms to expand the supply of real goods and services when there is an increase in total spending growth.
If a firm has poor sales and lots of spare productive capacity, why would it hike prices when sales improved? The evidence is that they act as ‘quantity-adjusters’ rather than ‘price-adjusters’.
Thus, if there was an increase in availability of credit and borrowers used the deposits that were created by the loans to purchase goods and services, it is likely that firms with excess capacity will respond by increasing the supply of goods and services to maintain or increase market share rather than push up prices.
In other words, an evaluation of the inflationary consequences of increased spending in the economy should be made with reference to the state of the economy.
If there is idle capacity then it is most unlikely that an increased nominal spending growth will be inflationary. At some point, when unemployment is low and firms are operating at close to or at full capacity, then any further spending growth beyond the growth in productive capacity will likely introduce an inflationary risk into the policy deliberations.
MMT emphasises that conditionality.
So when Holden challenges a commentator:
… do you seriously question that expanding the money supply massively leads to inflation?
I, for one, do seriously question the proposition.
The historical evidence is very clear. There is no clear relationship between money supply movements and inflation. And that is because capacity utilisation varies as does velocity (the former being more important).
This discussion comes to a head when Holden quoted a deceased economist Zvi Griliches as saying:
… one can only get so much lemon juice out of a lemon …
True but the analogy is fraught. If the lemon is forever growing (subject to cycles of growth) then the lemon capacity is also growing.
And on this theme, Holden responded to the claims that he was mispresenting MMT with this:
Here’s Mitchell in his own words: “the Federal government is not financially constrained and can spend as much as it chooses up to the limit of what is offered for sale. There is not inevitability that this spending will be inflationary and it does not necessarily require any increase in government debt”.
maybe he is misrepresenting himself?
He kept repeating that quotation as if it was a sort of trump card (no pun).
When he was confronted on this by several commentators, Holden chose not to respond. How could he? He had nothing sensible to say.
He just repeated the quote as if I was walking the plank in my own words.
Well the quote is fine and succintly captures the point that Holden seems to miss.
1. The currency-issuing government can spend what it likes as long as there are goods and services for sale in the currency it issues. That cannot be denied.
2. “Up to the limit of what is offered for sale” is the operative conditionality.
3. That means that as long as there is ‘real resource’ space (a central MMT proposition), there is unlikely to be an inflationary spike following the government purchases, just as there won’t be in the case of private purchases.
4. Selling government debt to match the deficit does not alter the ‘real resource space’ on iota.
Holden appears to wound up in his certainty to realise that when he wrote:
… the problem with modern monetary theory is that, in short, there is only a finite amount of real economic resources that can be extracted through seigniorage …
He is really quoting core propositions of MMT.
And then he blows his cover (that he is representing MMT faithfully) when he issues his challenge:
Please state a formal, precise, economic model in which a monetary authority can extract an infinite amount of real resources through seigniorage. Or be quiet.
Here is a character, full of bravado, but light on knowledge telling us to be quiet.
But, moreover, my challenge to him is to produce within the academic MMT literature any evidence that we have written (or said) that the government “can extract an infinite amount of real resources” by spending without matching bond issues.”
That assertion has never been made by any one of us and is anathema to our understanding of the way the monetary system and the government within it operates.
Moreover, I could write a mathematical model which did show that a monetary authority could do that. I would start with the assumption – assume an infinite array of real resources; and so it would go.
Nothing at all to do with the real world but full of infinitely-lived maximising agents acting rationally and optimising outcomes.
But that isn’t far off what these precise (which become ad hoc quickly) mainstream macroeconomic models actually look like.
I could go on but that is enough.
Holden finished as he began, with insults. Defeated from the start – blabber – then back to the aspersions. Good work.
I wonder how Mr Holden understands Japan.
That is enough for today!
(c) Copyright 2017 William Mitchell. All Rights Reserved.
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