日曜日, 6月 16, 2019

JGP関連



ーー

JGPについての個人的問題意識のひとつ ※画像の挿入の仕方が分かったので、記念にぐだぐだと。。。。

19/02/10 11:00

JGPの効果はどのようなものであろうか。
簡単に経済学の教科書に載っているようなイメージ図を使って
考えてみよう。部分均衡(他の条件を同一にして)の
比較静学的アプローチである。

周知の右上がりの労働供給曲線、
右下がりの労働需要曲線を前提にして描くと、
均衡点はA点であり、この点で
労働需要と労働供給が一致し、失業者が存在せず、
余剰が最大化されることになる。賃率はw0であり、
労働供給量=需要量はl0である。

図1



さて、ここで最低賃金法が導入されている場合と比較しよう。
なお、教科書では「最低賃金法を導入すると」というような
書き方が多かったのだが、これだと動学のようなものを
イメージさせかねないので、あくまでも「最低賃金が
導入されている場合とされていない場合」の比較である、という点は
強調しておこう。

図2



もしもともとの均衡点であるA点が最低賃金W1を上回っているなら
問題はない。しかし下回っている場合には本来雇用される人が
雇用されなくなり、雇用量は減少し、社会的余剰も
減少する。l1とl0の差が、「非自発的失業者」を
表している。

さらにやや一般均衡論的な発想も加え
労働需要曲線が総需要の増加関数であると想定すると、
この時、労働需要曲線は図に示されているより左側に
シフトしているはずであり、その場合には
雇用量は一層減少するであろう。

図3



雇用はl1からさらにl1'にまで減少し、非自発的失業者は
l2とl1'の差へと、増加する。



これに対してJGPの場合はどうなるか。
JGPの場合、W1をJGP賃金水準とすると(これは最低賃金と
同じか、高くなるはずだが、しかしJGP`が導入されて
しまえば、最低賃金がJGP賃金より低ければ
その賃金で雇用されようという労務者は、ここでは考慮しない
特別な事情がない限り存在しないはずであり、
実質的にJGP賃金が最低賃金となる)、労働需要曲線は
「民間部門の」労働需要曲線となり、
そして民間部門の雇用は労働需要曲線とW1の交点Bで決まるが、
W1賃金で働きたい、という労働供給がある限り
政府が直接雇用することになる。そしてW1と労働供給曲線の
交点Cに全雇用水準が決まる。これは賃金水準W1の下での
完全雇用水準である。先の例に従い、ここでも
民間労働需要供給曲線をやや一般均衡的に考えることにし、
総需要の増加関数とすると、民間労働需要曲線は
右シフトし、BはB'へと動くことになる。もしこの右シフトが
著しく大きく、C点を超えることになれば(B'')、その場合には
賃金上昇が始まるだろう。

図4



B点からC点までの間、民間の労働需要が増加しても
JGP賃金よりほんのわずかの賃率上昇で
JGPで雇用されている労働者がそちらへ移るであろう。
他方で、もしJGPがなければ景気後退期に
労働需要が減少し職を失った失業者は、
そのまま労働市場にとどまり続けることができるかどうかわからない。
すぐに景気回復し民間の労働需要が再び増加するなら
それほど大きな問題はないかもしれないが
不景気が長引き、失業保険も切れるようになってしまえば
もはやその労働者が労働市場にとどまり続けることは
不可能かもしれない。彼/彼女は犯罪を犯すか、自殺をするか、
何らかの反社会的行動に走ることになるかもしれない。
そうして労働市場が「調整」され、失業者がいなくなり
「均衡」が達成された場合、次に景気が回復したときには
すぐさま労働力不足に直面し、賃率は上昇するだろう。
輸入に制約がなく、市場が支配化されており、
企業によるコスト上昇の価格転嫁が容易な場合には
それはインフレへと結びつくだろう。不況を生き延びた労務者の
生活はあるいは改善されることもあるだろうが、
資本制経済に本来的な景気変動の波の中で再び
不況が来れば、同じことが繰り返される。これは
労働者一人一人の人生に関わることでもあるが
一国経済にとってしても、「労働力」という有限の経済的資源を
極度に無駄に浪費することになる。
JGPであれば、なるほどその賃金水準は定義上、
どうしたって最低賃金にならざるを得ない(JGPの賃金が最低というより
JGP賃金水準より高くなければ
誰も民間部門では雇用されようとは思わない)としても、
少なくともそこで雇用される労務者にとっては最低限の
所得は確保されるのであり、そしてその業務が地域社会において
必要とされるものであることが十分に知られているなら
「民間部門で雇用されなかった人は社会的なお荷物」という
イデオロギーに基づく劣等意識と社会的抑圧から、比較的
自由になれるであろう(皆無になることは、社会的な価値観の
転換が達成されるまでは、ありえないとしても)。これが
民間部門における不況期に、社会的な労働資源を
維持するうえで重要な意味を持つことは
容易に理解できるであろう。
さらには、JGPでは民間部門で雇用機会を得られなかった人々に対して
OJTレベルでの教育訓練を施すことができる。これにより
労働供給曲線はより安定するであろう。


さて、ここで少し話題を変えることにしよう。

実際に、JGPがない場合に不況期に失業した労務者は
どのように行動するだろうか。
(おいらのころの)教科書ではどのように教えていたか。
やや動学的な話になってしまうが、
JGPがない場合、A点で雇用されるのは
あくまでもその時点で最低限の標準的能力を備えた
労働者である。好況期はいいとしても不況になれば
彼らは職場を失い、その後、どうなるかわからない。多くの経済学の
教科書には、賃金に不満がある人は自発的に学校に戻ったり
主婦(夫)になる、とされていた。
ここで問題になるのは、このような都合のいい話は
普通に考えてあり得ない。(もしそんなことであれば、
そもそもなぜ失業が社会的問題になり得るのだろうか。)
職を失い、所得を失った失業者には
いくつかの選択肢が残されている。そのうちの一つは
生きるために他人の財産を奪うことである。
合理的な無差別曲線によって構成されている人々(人間とは
教科書に従うなら、
所詮はインプットをアウトプットに換える関数でしかない)が
賃金が低いから、といってアル中になる、自殺をする、犯罪者になる
というモデルは見たことがなかったが、そもそも
経済学のモデルでは合理的主体は自らの命より
他人の所有権を尊重する存在である、という多くの場合暗黙の仮定が
あるため、自らの意思で他人の財産を奪う、という選択肢は
最初から存在していない。無差別曲線が
合理的であろうとなかろうと自ら飢死しそうな状況にあるとき
目の前の店頭に並んでいるパンを、他人の所有物だから、
といって奪い取らないことが合理的な選択であるとしたら
その合理性にはいささか欺瞞があることにならないだろうか。



その昔、といったって、おいらが学生のころだけれど
ミクロ経済学の教程は、大体、以下のような感じだった。

最初に、まあ、教科書によるけれど
貨幣所得のある家計の消費決定または
プライステイカーである企業の、
1財投入1財生産S字型生産関数のもとでの利潤最大化あたりから
始まって、
家計の労働供給、
2財投入1財生産の企業の費用最小化等々の
主体的均衡条件を一通り学習すると、
部分均衡へと移り、
そこで余剰分析、自然独占、市場の失敗(外部性・公共財)、
などなどのトピックスが与えられ、
最後に純粋交換経済(生産を伴わない)の2経済主体、2財の
一般均衡モデル(ボックスダイアグラム)が示され、
そこでパレート最適が論じられ、そこで
1年時の教程が終えられることになっていた。
(もう少し気の利いた教科書だと、
屈折需要曲線や異時点間の均衡、不確実性の下での期待効用、
市場の差別化、生産を含む一般均衡なども
加わっていたが、こうしたものは大体2年時だったと思う。。。)
これが当時の標準的な入門ミクロ経済学の教科書であり、おいらなどが
学習した初年度の内容である。ゲーム論なんてのは
囚人のジレンマがちょこっと言及されるぐらいで
まだまだ学部の初年度で扱うことなんかなかった。

さて、こうした教科書はいったい1年間を通じて
学生たちに何を訴えたかったのか、
あるいは何を教え込もうとしていたのだろうか。
一言で言ってしまえば、私的所有権を前提とした自由市場経済のすばらしさである。
最終章の一般均衡モデルでは
自由な取引はコア経済を実現するのであり、コア経済においては
初期状態に比べて誰の効用水準も悪化していないが、よくなっている。
部分均衡で示されているのは、
自由な市場での取引が社会的余剰を最大化するのであり、
善意からであってもこれを阻もうとすれば、それはかえって
悪い結果になるのだ、ということだ。
もちろん、市場にも失敗はある。外部経済の存在は
費用の負担者と受益者を一致させない。そのため時には公害が発生し
時には公共財があったほうが社会的余剰を大きくできる、など。
こうしたことは実際にあるが、それは市場が悪いからそのような事態が
生じるのではなくて、市場が十分に機能しないから、そのような問題が
起こるのである。だから問題を解決するには
市場に代えて政府の裁量的判断を是とするのではなく、
市場が機能しないところでも
市場が機能しているかのように、もし市場が機能していたら
均衡点はどのようになっていたはずかを考える。そしてその均衡点を
実現するためには、何をすればよいのか、ということが問題となる。
その意味では、経済学に対する批判として
「市場万能主義」という言葉があるが、これに対する経済学側からの
批判として「いや、経済学では市場の失敗を
扱っている」というのは、やや的外れで自分たちがやっていることを
理解していない、と言えるだろう。「市場万能主義」が
批判されるのは、経済学において市場に任せれば
何一つ失敗することなく世の中がうまくいく、とされているからではなく、
市場(それは、公共財のモデルで典型的にみられるように、
架空のものかもしれない)を万事の判断の参照系として
取り扱っている点に向けられている。

実際には、より上級のミクロ経済学に進むと
確かに話はしばしば大きく変わってきて、より技術的な側面が
大きくなり、そこでは「均衡点なき均衡」が出てきたり
辞書式効用関数が出てきたり、代理人問題が出てきたり、、、
と、簡単に自由な市場で常に万歳、という話に収束できない話題が
増えてくるように見える。不思議なことは
当時の1年時向けの教科書の教程はこうした学部上級向けの
話題とリンクしておらず、ついでに言っておけば
これはおいらの思い込みかもしれないが、
少なくとも日本では(だと思うが)、大学経済学部卒といっても
上に書いた1年時の内容すら学習していなかった人のほうが
多かったように思う。マルクス派の人たちは全く別の教程だったから
これはもう論外としても(他方で
マルクス派経済学のほうには標準的な教科書といえるようなものが
無かったように思う)。

さて、学部学生向けの教科書がなぜこのような構成になっていたのだろうか。
こうした構成はいかにも「科学的」な装いを保つように
作られていたわけだが、しかしちょっと考えるだけで
当時の世界情勢の中でイデオロギー的含意は明らかだった。
おいらが大学に入ったころは、もうすでにソ連も終末期に差し掛かっていた
頃だが(まだゴルバチョフではないチェルネンコ時代だった、、、いや
もうゴルビーだったかなあ。。。。アンドロポフはすでに
FGTHのTwo Tribesの時代には死んでたわけだから。。。。う~ん、、)
やはり社会主義の影響は大きかった。(というか、
一度確立した教科書の体系というのは
そうそう簡単に変更できない。
資格試験なんかにも使われちゃってるからね)

ミクロ経済学の教科書の暗黙の仮定とは
私的所有権である。少し考えればわかることだが、
私的所有権、というのは、経済学の教科書で仮定として明示的に書かれている
個人の自由な判断とは全く別の社会的現象である。
私的所有権とは、排他的所有権であり、つまり
「これは自分のものだ」と定められたものに対して
他人は(所有者の許可なしには)手を触れてはならない、ということである。
つまりこれは他人の自由な行動に対する制約である。
これはもちろん抽象化である。現実の世の中には
完全な意味では私的所有権を認められていないものが
多い。特に不動産に関しては
入会権や囲繞地交通権のようなものもある。
(「囲繞地交通権」というのは公道に接していない土地の所有者が
その土地に入るために行動に接している他人の所有地に
立ち入ることができる権利のこと。)
こうした事実があることは、経済学の教科書で
私的所有権をあたかも自然的な、個人的自由と一心同体なものとして
扱うことに対して、単純な疑問を投げかける。もちろん、
初年度向け経済学教科書のモデルでこうした問題を
明示的に取り込んでいない、ということは大した問題ではない。
問題は、私的所有権という概念の自明性を全く顧みることなく
モデルが構築されていることである。

私的所有権が、他人の行動を制限することで成立する権利であることは
昔から理解されていた。そもそも私的所有権自体
個人の権利として確立されたのはそれほど古いことではない。
ルソーは「ある人が、リンゴの木の周りに柵を作り、
『この木は今日から俺のものだ、俺以外の者がこの木の実を
勝手に取ることは許さない』と宣言した時から私的所有権は
生まれた」と論じたし、経済学の祖といわれ、
(神の)見えざる手を論じたA.スミスもまた
「夜警国家観」つまり政府は個人の財産生命を守る程度のことに
徹するべきだ(逆に言うなら、個人の財産は政府がその暴力装置や
司法権をつかって責任をもって守らなければならない)と
主張したのである。当然のことながら
私的所有権は経済学が形を整えた当初から自明どころか、
国家権力による特別な庇護を必要とするものとして
扱われていたのである。

こうした事実を最も強調したのはもちろん一連の
社会主義者・共産主義者・無政府主義者たちである。
とはいえ、無政府主義者はともかく、社会主義者や
共産主義者は、必ずしも私的所有権の廃絶を唱えていたわけではない。
マルクス派なども早くから
「『生産手段の』国有」へと話を切り替えており、
個人の私的財産はそのままである、という主張するようになっていた。
確かに、フォーディズム体制が確立し、
労働者にも一定の物的資産が得られるようになってくると、
「私的所有権の廃絶」はナンセンスな、古びた主張となっていった。
階級社会は資本家が「生産手段」を独占的に所有しているから問題になるのであって
生産手段が国有化され、生産が計画化されれば
不況も失業も発生しない、と、主張をそうした方向に切り替えざるを得なかった。
私的所有権の廃絶は、一部の極端なアナーキストによって
主張されるだけとなった。

おいらのころには、もう、こうした計画経済への幻想というものは
ほぼ皆無だったし、私的所有権の廃絶、なんて言葉が
おいらも含めて学生たちを惹きつけることもなかった。だが
そうした政治的主張に魅力があるか無いかと
およそ「経済学」と名を冠している、その名称からは
社会認識に係る学問であることを連想させる学問(そのような連想は
迷惑だ、という経済学者がいるのも事実であるが)において
その基盤である概念に全く無頓着であることの良し悪しとは
全く別のことである。

実は、昔のミクロ経済学の教程は、この点と大いにかかわっていた、と思う。
上記のようなミクロ経済学の教程が整えられたころは
まだソビエトが魅力を持っていたし、その実態も
それほど知られていたわけではなかった。少なくない数の
旧西側植民地があるいは独立して社会主義化し、
あるいはソビエトの支援の下、独立し、そして
旧宗主国の資産を没収した。
そのため、アメリカを中心とする西側諸国では
社会主義者による批判、とりわけ私的所有権の否定は
絶対に見過ごすことができなかったはずである。それにもかかわらず
単純に私的所有権を自明のこととしてモデルの説明に
専心できたのはなぜだろう。

それは教科書の結論が、私的所有権を暗黙の前提とした
自由な個人の取引は、必ず初期状態より良い、少なくとも悪くない
状態を生み出すのであり、余剰を最大化することができる、という結論を
示したことにある。市場は失敗することもあるが
その回復でさえ、私的所有権をベースにした自由な取引の
否定ではなく、それをベースにしたモデルを参照系にすることによって
余剰を最大化することを目指すことによって改善する、とされたのである。
私的所有権を暗黙の前提とした自由な交換が
余剰の最大化と厚生の最大化を実現するなら、
それにどのような歴史的経緯があろうと、
なぜ今、それを否定する必要があるだろう。私的所有権は、
最初に前提とされるのではなく、あとから、結論において正統化される。
これが当時の学部向け主流派ミクロ経済学の教科書のαでありωであった。
私的所有権は、その原理によってではなく、
結果によって全面的に肯定されるのである――もちろん、
その結果の判定そのものが私的所有権を前提にした余剰分析や
効用最大化でしかないのだから、論理的には十分ではないのだが、
しかしそんなことはどうでもよかった。私的所有権と
市場での取引があれば、状況は初期状態より改善されるのであり、
そして現に、労働力しか売るものがなかった労働者の生活は
徐々にであれ実際に改善されてきたではないか、というわけである。


さて、では実際のところ労働者(便宜上、「彼」と呼ぶが、
「彼女」でも「にゃんこ」でも構わない)は、このモデルにおいて
どのように労働供給を決定していることになっていただろうか。

教科書によれば、こうである。
すでにわれわれは所得が一定の家計(というより個人)の消費選択モデルを
学習した。労働供給モデルも
これを敷衍すればよい。
いま、ある家計について賃金以外一切所得がないものとしよう。
この家計が売ることのできる唯一の商品は、
1日24時間の時間だけである。これが彼の予算制約である。
しかしながら、まさか人間24時間ずっと働きっぱなし、
というわけにはいかない。そりゃ、1日や2日、徹夜で頑張ることは
あっても、それは例外的で、人間は休息時間(睡眠、食事、
風呂、その他にかかる時間)を必要とする。こうした時間をまとめて
「余暇」と呼ぼう。そうするとこの労働者は
24時間のうち、どれだけ働き、どれだけを余暇に費やすか、
決めなければならない。これはどのようにして決まるか。
働いた結果得られる消費財から得られる限界効用と
余暇から得られる限界効用のいずれが大きいかによって決まるであろう。
もし1単位労働時間を延ばす(余暇時間を減らす)結果、得られる
消費税の効用と、余暇時間を減らされた結果減じる効用とを比べ
もし消費財の効用の増加分のほうが
余暇の減少による紅葉の減少分より大きければ
労働時間を増やすだろうし、逆なら余暇時間を増やすだろう。
消費財にしろ余暇にしろ、効用は逓減するであろう。
従って労働時間を1単位増やした時に得られる消費財から得られる
効用の増加分(消費財の限界効用)と余暇時間を1単位増やした
時に得られる効用の増加分(余暇の限界効用)とが
等しくなるところに、彼は余暇時間を定めることであろう。
これは完全に、所得が一定の2財の消費モデルと
同じである。但し、一つだけ違う点がある。というのは
最初にも書いたが労働者は余暇をゼロにはできないのである。
だから労働時間には上限がある。24時間をすべて労働に
費やすことはできない。仮に彼は、最低でも1日6時間の
睡眠その他の休息が必要でありそれを避けられないとしたら
予算制約線は労働時間18時間(というか、
余暇時間6時間)のところで屈折する。これを示したのが
図5である。

図5


この図で予算制約線の横軸切片と交差する点の傾きの絶対値が
貨幣賃率である。この予算制約線と
無差別曲線の接点において、実質賃金と余暇時間L(=24-労働時間l)が
決まる。但し、もしこの接点が6時間の点上であるなら、
その賃金は合理的とは必ずしも言えない(コーナーソリューション)であるが
それはまあ、今回の本題ではない。ただし、屈折点より左側まで
右下がりの予算制約線を延長したとき、
その延長した範囲内で無差別曲線と接するようであれば、
合理的な主体的均衡点は定まらない。これが何を意味しているかは
また後で改めて考えることにしよう。
そして賃率(wの傾きで示される)が
高くなればこの労働者は労働供給を増やすだろうし――ただし、
十分に高くなると、今度は余暇のほうを重視するようになるため、
労働供給は減少する、いわゆるバックワードベンディングカーブを
描くとされているが、これもまあ、どうでもいい――、
賃率が下がれば、働いてほんのわずかの消費財を得るよりは
余暇を選ぶであろう。この労働者は賃金のほかに収入源がなかったわけだが、
彼は労働市場を退出して、学校に戻ったり、主婦(夫)に
なったりするのだそうだ。不思議なことに、
賃金があまりにも上昇した時には労働者は労働時間を減らし始めるが、
賃金が減り続け、わずかなコメを得るためにも長時間労働をしなければ
ならないという時、この労働者は労働時間を増やすのではなく、
労働時間を減らし続け、最後には、ほかに何の収入もないのに
学校に戻るというのである。こうしてこの労働者は
幾ら賃金が低くなっても主体的に選択して
労働市場に供給する労働量を自ら決定する。彼は常に主体的均衡条件を
満たしており、合理的にふるまっている。
まあ、この点を細かく言うことにはあまり意味がないかもしれない。というのは
このモデルは、教程という観点からすると、実際には
本当の労働者の主体的均衡を扱っている、というよりは
単に本源的な経済的資源(労働、土地、天然資源)や供給量が
限られた資源(例えば一定の大きさを持つコンサートホールの
コンサートチケット)の供給者の行動原理など、
こうした供給者の行動原理一般への拡張を目論んで解説されているのであり、
必ずしも経験世界に現象する労働者の行動を説明しているもでは
無いからである。実際経済学において、経験世界で息づいている
人間が扱われることはないだろう。

ちなみに労働者は、労働以外にも金利や地代といった報酬を得ている可能性も
ある。その場合には、24時間すべてを余暇Lに費やしたとしても
一定の消費財の消費が可能であろう。そして18時間すべて(ここでは
最低でも6時間の余暇時間を必要と仮定している)を労働に費やした場合
得られる消費財はその分上昇するだろう。それを示したのが図6である。

図6



余暇と消費財が両方とも正常財である場合には、主体的均衡点は
A点からB点へと移るであろう。この時、接している無差別曲線は
より北東方向へ動いており、効用水準は改善されている。


さて、こうして所定の賃率の下、労働者がどれだけ労働を供給するかは
決定される。
この予算制約の傾きが貨幣賃金(縦軸をCとし、傾きをw/Pにすれば
容易に実質賃金になる)であったわけだが、
この傾きを変化させたときに無差別曲線と予算制約線の接点がどのように変化するかによって
労働供給曲線が決まる。縦軸を賃率、横軸を労働供給として
グラフを書き換えれば、この労働者の個別労働供給曲線が決まることになる。
こうして決まった個別労働供給曲線を「横に」足し合わせると――つまり
所定の賃率の下、個々の労働者の労働供給量を足し合わせることで――
市場労働供給曲線が導出される。

さて、これが教科書の労働供給曲線の導出である。
何かおかしくないだろうか。いや、おかしなところはたくさんあって、
さんざん批判もされつくしてはいるのだけれど(先に書いた通り
そもそもこのモデルには教程上の都合というものが優先されており、
とてもまともな労働市場の分析とは言えないがそれはともかく)、
今日はちょっと趣向を変え、教科書と同じ説明を、順番だけ入れ替えて
説明しよう。まあ、文字通り「順番だけ」というわけにはいかない。
余暇時間のほかにももう一つ制約をつけることになるが、
しかしそれは説明を順番を入れ替えた結果、必然的に
現れてくるものである。


さて今回は、いきなり最大24時間の労働時間があり、これが彼の予算制約だ、
という話から入るのではなく、
最初に彼が生命体として、あるいは社会的存在として
満たさなければならない条件から入ることにしよう。経済学においては
ただのランチはない。彼もまた、ただで労働力を再生産できるわけでは
無いのである。
彼はまず、24時間働き続けることはできない。最低限の余暇時間は
必要であろう。これを、最初のケースと同じく6時間としておこう。
しかしながら人間は休んでいさえすれば労働力を再生産できるわけではない。
彼は消費財を消費しなければならない。彼にはおそらく、
最低限必要な消費財というものがあるだろう。
これを仮にC0としよう。彼はまず、
労働を供給する以前に、その労働を行いながら、
これだけの余暇時間と消費財を消費せざるを得ないのである。それを示したのが
図7である。我々の議論では、まずこちらのほうが出発点となる。


図7



労働者にとって、この斜線を引いた部分は生活をする上で
最低限必要な「経済的資源」である。したがって、この斜線の部分は
彼にとって選択可能ではない領域である。もちろん、
個人的資質によって最低限必要な睡眠時間は変わるし、
家族構成などによって最低限必要な消費財も
変わってくるだろう。いずれにしても、これは彼にとって
「この範囲の中で選択しなければならない場合、
自分の経済的状態は悪化する」状況なのである。
この範囲、特に横線によって区切られた必要消費財の領域は
個人差が大きいだろう。中には自分の能力にかかわらず
極端に大きな消費財を求める人もいるかもしれない。
「時給100万円もらえなければ働く気になんか
なんねーよ」というわけだ。だがそれだけ稼がなければ
自分の持病の治療代を出せない、という人も
いるかもしれない。個人はそれぞれ様々な事情を抱えている。
こうしたものを無視して政策を決定するようなことがあっては困るが
しかし、今論じているような一時アプローチであまり
個別的な事情を考えていてもしょうがない。
ここでの議論は、とりあえず社会的に標準的な
ある種の「文化的最低限度の生活」を満たすのに必要な
消費水準がある、とだけしておけばよい。
なお、金利収入や地代収入その他の報酬があり
それゆえ、自給100万円もらわなければ働く気にならない、
というような人のことはここでは取り扱っていない。
あくまでも労働以外に売るものがない人のことである。


図8



さて、図8は、先の図6に3種類の賃率で予算制約線というか、
賃率を示す直線を書き加えたものである。見やすくするため、
斜線部分を大きくとってある。

αは、この労働者にとって
十分に選択可能領域を横切っている。この場合、
無差別曲線の形状にもよるが、
結果は教科書に書かれているものと同じである。
βは、選択可能領域を区切る縦線と横線の交点で
両曲線と交わる。この場合、無差別曲線と賃率曲線とが
この点の上で接している場合、その場合に限って
彼の生活は維持される。
そして、賃率曲線が選択不可能な領域をしか通らない場合(γ)、いったい
何事が起きるだろうか。

彼はそれでも、その領域内で無差別曲線と賃率曲線とが
接する点で労働を供給するかもしれない。いや、
実を言えば、この領域内では無差別曲線にはもともと意味がない。
彼は選択の余地がない。どれほど賃率が低かろうと
他に収入の余地がなければ、その賃率で労働を行うことは
十分にあり得る話だ。
そして、経済学的に言えば、彼は自分の意思で誰からも強制されることなく
その賃率で働くことを選択したのである。現にもしその賃率で
働くことを受け入れなかったとしたら、彼は生存を続けることができない。
同じ生存を続けることができなくても、
労働を供給さえしていれば、数日は長生きできるであろう。
彼の状態は改善された。パレート最適である。

しかし本当にそう言えるだろうか。
彼には本当に働くしか選択の余地はないのだろうか。
実際には彼には、与えられた賃率で働くのではなく、
他人が私的所有している生活資材を強奪することによって
最低限の彼の生活を維持することも可能ではないだろうか。
彼が、明らかに生命が脅かされるような賃率で働かなければならないのは、
国家警察によって、他人の私有財産が守られているからではないのか。
もしも国家の介入がなければ
彼は自分自身の状況を悪化させる賃率で働くより、
他人が排他的所有している財産をかすめ取ることを選択するという道も
あったのではないだろうか。

一応念のために言っておくが、これは何も
低賃金で働くぐらいなら、万引きでもしたほうが良い、などということを
主張しているわけではない――経済モデルからそのような結論が
出てきたとしても、おいらの責任ではない――。議論は実証的であり、
善悪の話ではない。彼がなぜ、効用最大化を目的に生きているにもかかわらず
そうした行動をとらないか、である。
おそらくは、ゆくゆくは飢え死にするしかないような低賃金を受け入れ、
強盗になることを避ける理由は、単に警察権力の存在ばかりではない。
子供のころから培われた道徳観念のためでもあるだろうし、
社会的評判を気にしてのことでもあるだろう。その結果、
たとえαの予算制約線上であっても、あえて右側の斜線部で
労働供給をせざるを得ない状況に追い込まれることもある。
高給取りの仕事であっても過労によってノイローゼや
自殺が発生するシチュエーションであるが、これを「自らの合理的選択」と
「仮定」するのであれば、もはや社会認識に関わる学問としての
地位を放棄することであろう。

いずれにしても斜線部における労働供給とは
原点に向かって凸の形状をした、接することなく稠密かつ
連続的に効用増加する無差別曲線群という意味で合理的な選択者の
行動からは導き出せない選択であり決断である。
それ故こうした決定はいつひっくり返るかわからない。
こうした選択不可能領域での選択を強いられている人たちが集まれば
常に暴動、集団的な破壊行動へと結びつくだろう。
図9では、給料は十分にいいのだが、過労死したりノイローゼになってしまう
ケース、あるいは、そうした条件を拒否し、選択可能領域で
働いている(まあ、充分な所得があるといっていい)ケースを
取り上げている。

図9



αの予算制約線はA点で無差別曲線と接している。これは労働者にとっては
給料はいいが過酷な労働条件であり、早晩、過労死なりノイローゼなり鬱なりを
避けられない状況である。いったい彼はなぜこのような選択をしたのであろうか。
人にもよるが、多くの人はむしろこのような均衡を捨てて(というか、
文字通り自らの意志で「選択可能」であるなら、選択しないであろう)、
選択可能領域(選択可能領域を区分する縦横の線とαの予算制約線によって
囲まれた領域)での労働供給を「選択」するであろう。しかしながら
見て明らかなとおり、ここでは余暇と消費財の間の合理的な交換比率(限界代替率)は
決まらない。ただ所定の消費財価格の下、所定の労働時間働くことで
生存は維持されるであろう。この時、賃率は賃金所得/労働時間で
決まるだけだし、実際には労働者にとってはそれで十分であり、
賃金財と余暇の間の限界代替率など何の意味もないのである。
彼がどれだけ労働供給を行い、その結果、平均賃率がいくらになるかは
「消費財と余暇の限界代替率」などというものによって決められるのではなく
全く別の要因によって決められなければならない。実際、
多数の過労死やノイローゼ、仕事に起因する家族崩壊等々があるということは
こうした個々の事象の個別的問題というよりは
労働市場における労働供給と賃率の決定にとって
「消費財と余暇の限界代替率」などというものは全く問題外なのであって、
つまり、労働者は一般的にこの意味では全く主体的均衡の
埒外で労働供給を決定しているのが一般的であり
このような均衡条件を満たさなければならない、というのは
きわめて特殊な仮定であり、ほとんどの労務者にとって経験世界とは無意味な
他愛のない、特殊な世界(経済学)における「ゲームのルール」に過ぎない、と
いうことである。


そうなってくると
「現にその賃金で働いているのだから、彼の主体的均衡条件は
満たされているのであり、効用は最大化されており、
改善されているのだ」という言説には意味がない。
こうした言葉に意味があるのは、最低でも
その労働力の供給が上記の意味で選択可能な領域で行われている場合に
限ってのことであり、それが確認できない限り
社会的余剰の最大化にもパレート最適にも意味がない。そもそも
均衡などしていない。すべては空疎であり、欺瞞に過ぎない。
ソビエトが崩壊してから10年以上もたって、ようやっと
行動経済学なども認知されるようになり、ここ10年ぐらいでは
初年度の学部教科書でも紹介(おそらくは必要な
「毒抜き」を済ませたうえで)されるようになったことには、
恐らくこうした社会経済的背景の変化もあるだろう。


それでも、一方でソビエトのような社会主義体制が現実に対立している状況の下、
フォーディズムによって労働者の生活条件が徐々に改善されているような
状況の下では、余剰最大化にもパレート最適にも
それなりに意味があるという幻想を共有できた。労働者は、確かに上記の意味で
選択可能領域で労働を供給している、という意識があったのだろう。
もちろん世の中は常に甘いわけではない。フォーディズムといったって
仕事でノイローゼになる人もいれば自殺をする人も、犯罪に走る人もいくらでもいた。
が、それは、それぞれの特殊事情や異常な行動、単純な反社会的な
行動として片づけることもできた。精神的労働と肉体的労働の分離、
労働現場における過剰抑圧、こうしたものは
賃金上昇による消費財の現実的増加や将来の可能性によって
比較的容易にあがなうことができた。この意味でグラムシが
酒税法の失敗とフォーディズムを結びつけていることは、
確かに重要な意味があるように思われる。選択不可能な領域での
労働供給を「自主的に選択」せざるを得なかった労務者たちが
酒に逃避するのは当然のことだし、それを、労働の標準化を推し進めるため
警察権力による暴力で抑圧しようとしても、無理なことである。
労務者が酒に逃避することは実質的なサポタージュ運動の
先取りという結果になった。これに対しては
当然のことながら、酒税法によるサポタージュ禁止などより
賃金引上げのほうがはるかに効果があったことだろう。そしてそれによって
労働の標準化が可能になれば、テイラー式の合理的生産管理によって
生産性が飛躍的に改善される。経済成長が意味を持つのは
こうしたフォーディズムの下で生産性上昇の成果が資本と労働とに
分配される状態の下でのみであろう。J.ロビンソンは
主流派経済学者が『資本論』とりわけ再生産表式をまじめに
読んでいれば、ハロッド・ドーマ流の成長モデルは
20年は早く開発されていただろうと主張しているが、これは怪しい。
恐らく「経済成長」という「問題設定」自体、可能になるためには
ケインズ主義政策やフォーディズム体制による「管理資本制経済」が
必要であったろうし、そうして生産力成長が
労賃上昇へと結びつかない限り、「経済成長」は「資本蓄積」でしか
無かったろう。こうしたフォーディズム体制の下でのみ
あるいはそのもとであれば、ミクロ経済学の教義は
どれほど馬鹿げたものであっても意味があったろう。排他的個人所有と
それを守るための国家権力による暴力行使を
暗黙の前提とした市場での自由競争によって、市場参加者は
全員改善(あるいは悪くなることはない)のである。
排他的所有権をベースに存立している資本制経済を支える上で
主としてマルクス派による反資本制の教義に対する
資本制・私的所有権神格化の教義として
十分に機能を発揮することができたわけだ。


しかしながら、現実の賃金水準が選択可能領域を通過しないことが
一般的になり、あるいは選択可能領域を横切っているのにもかかわらず
あえてそこではなく、それよりはるかに右側の水準で労働を供給することを
強いられそしてそれがその賃率を得るための条件とされ
それに労働者が逆らうことが出来な状況が普通に生み出されるようになってくると
こうした教義による資本制・私有財産の正統性確保の補助は難しくなってくる。
このような教義に意味があるのは、実際に労務者たちが
自分たちの生活が改善されている、という実感のある間だけであろう。
そうである限り、一般市民がミクロ経済学などまじめに学習する必要はない。
ただソビエトのような体制と比較される時だけ、
「自由競争のほうが自由でかつ経済効率的なのだ」と言えればいいのである。
これが、ほんの少し考えればばかばかしいとすぐわかる
教義が教義として意味を持ち続けるための条件だった。
一方で、社会主義体制が崩壊したことにより、
教義による体制の正統化という機能の意義に疑義が生じる。
他方で、このような明らかに瑕疵のあるモデルから導き出される含意には
経験世界の現象により「細かい前提にはこだわらない」ことが必要であるが
こうした経験世界における支えが、今や失われつつある。
もはや現在のミクロ経済学教科書によって現時点で生じている矛盾を
正統化することは不可能になりつつある。
低賃金に対し、「これが自然なのであり、これより賃金を引き上げることは
かえって労働者の生活を苦しくするのである」とする理論、
典型的には図2に示されるような形での説得は
均衡点の賃金・労働時間が図6の選択可能領域にある場合のみ
意味を持つ。そうでなければ、一時的にはこうした状況を保つことはできても
しばらくたてば結局のところ、より深刻な問題、社会的騒乱や破壊活動、深刻な
社会全体での労働意欲の退潮、職場秩序・社会秩序の崩壊などを
引き起こすことにならざるを得ないだろう。これは「均衡」などでは
無いのである。明らかに図8のγの予算制約のもとで働かなければ
ならない人たちがいる、ということは
たとえ選択可能領域で労働供給をしている労務者であっても
実際には主体的均衡条件など、ほとんど何も関係ない。図2のA点における
「社会的余剰最大化」など、欺瞞の最大化でしかない。

JGPは資本制経済を「実際に」相対的に安定化させるための装置として
機能すると同時に、イデオロギー的な「正統化」の役割も
担うことになるだろう。JGP賃率は、丁度図8の選択可能領域を
区切る縦線と横線の交点(それよりはほんの少しだけ
北東より)に定められるべきであろう。といっても、この選択可能領域を
区切る直線の位置は、細かいことを言えば千差万別である。だからそこには
一定の社会的合意が必要になる。ある程度多くの人にとって
交点より大きく北東側によることになるかもしれない。あるいは
ある程度の数の人にとっては(特に金利や地代など、他に収入があったり
老後や教育資金などの蓄えをはるかに上回る資産を保有している人たちに
取っては)この交点を全く下回るものになってしまうかもしれない。
それでも残念ながら、図9のA点で労働供給をしなくてはならない人たちの
存在を、当面はゼロにはできないだろう――問題は
なぜA点での選択が合理的である、と思えるような「無差別曲線郡」が
形成されてしまうか、である。現在の日本の労働環境の下、
「個人の選択」で済まされる状態ではない(なぜ
海外からの「実習生」がこれほどの問題を引き起こしているか、
考えるべきである)。JGPがこの点で効果を発揮できるようになるためには
導入されてからも相当な時間が必要になるだろう。しかしそれでも
効果的に運用されさえすれば(どのようにすれば効果的に運用できるのかは
また別問題だが)、こうした問題も含めて労働市場全体の
改革へとつながることであろう。


最後に一つ追加しておかねばならないのは
最初に戻って、図4である。民間部門で雇用されなかった人を
政府が雇用することによって国内の商品需要が下支えされ
民間労働需要曲線が右へシフトする、という見通しである。
これは多少なりとも、国内商品市場が閉鎖的であることを前提としている。
もし国内商品市場が完全に開放されていれば、
経済学によるなら、ほんのわずかでも国内市場で価格が上昇すれば
海外からの輸入品によって代替されることになる。
労賃がw0の場合とw1の場合とを比較すると、w1の場合は国内での
生産が不利になり、輸入品が増えるか、あるいは輸出が不利になる。
その結果、国内の生産は減少し、労働需要曲線は右にではなく、
左にシフトすることであろう。モズラーやレイは、そんなことは
いっこうにかまわない、という。純粋な貿易モデルによるなら
こうした貿易不均衡は長期的には為替の変動によって修正されることで
あろうし(為替が変動すれば、輸入が不利になり輸出が有利になるので
それほど大きなインフレ要因にはならない)、
それが起こらないとしたら、他の国の人々が
アメリカ合衆国の銀行が発行する負債を欲しがっているからであり、
そしてアメリカは、ただ負債のデータを発行するだけで
いくらでも海外から商品を輸入できるのである。政府が貨幣を産み出し
労働者を直接雇用しても、この場合にはインフレは起こらない。
ただまあ、こうした議論はアメリカのような国だから説得力があるのであって、
日本にはストレートには当てはまらないように感じる。まあ実際に
JGPによって民間の労働需要曲線がどう動くのかはさっぱりわからないが
(民間の労働需要曲線を決定する要因も、労働供給の決定同様、
極めて複雑であり、単純に経済学的な意味での予算制約と限界代替率とで
決まるものではないので)、貿易をどのように考えるのか
(当然のことながら、自分の国が市場を閉鎖しておきながら
他の国に対してはいくらでも輸出します、という態度では
お話にならない)、また別途検討することが
必要になるのであろう、
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