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日曜日, 6月 23, 2019

トーマス・クーン Thomas Kuhnの1962年の本 The Structure of ScientificRevolutions(邦題:科学革命の構造)


ミッチェル講義より
MMT Is A Lens, Not A Regime (2017)Michell's lecture


レンズの比喩はフクロウの比喩のコンセプトに近い
COFFEE
MMT- the alternative to the fake world ...

・Modern Monetary Theory (MMT) offers a different lens for understanding how the monetary system operates
・It helps us better understand the choices available to a currency-issuing government
・It is not a regime but a perspective on reality
・It lifts the veil imposed by neo-liberal ideology and forces the real questions and choices out in the open

Centre of Full Employment and Equity  http://e1.newcastle.edu.au/coffee







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#2:32 トーマス・クーン Thomas Kuhnの1962年の本 The Structure of Scientific Revolutions(邦題:科学革命の構造)

207,bill
(神経生物学、考古学、経済学といった)学問分野は、既に構築された’パラダイム’の中で動いている。’パラダイム’は哲学者のThomas Kuhnの1962年の本 The Structure of Scientific Revolutions(邦題:科学革命の構造)の中で、”当座の間、専門家のコミュニティに対して定型問題とその解決法を提供する広範に認知された科学的業績”と定義されている。
典型的には、パラダイムと定義される知識体系は”初歩的及び発展的な科学の教科書で…詳説される”(Kuhn, 1996: 10)。
Kuhnは、”科学的”活動が直線的なプロセス…「研究者が新しい実証的証拠を基礎的知識に追加し、以前まで受け入られらていた考えを置き換えるというようなプロセスである」という考えに挑んだ。
そうではなく、支配的な観点は、受け入れがたい例外に直面し、革命(パラダイムシフト)が起こるまでは強固に残るのだとKuhnは主張した。新しいパラダイムは、古い理論が受け入れられないものであることを暴き、新しい概念を導入し、新しい疑問を立て、新しい言語や説明的な比喩を用いて新しい考え方を学生たちに提供するのである。
一度転換が起きれば、古い理論はもはや確立された知識とはみなされない。Kuhnはまた、支配的なパラダイムの中の専門家たちによる衆愚政治のようなものが存在することと、彼らが論理的ないし実証的な例外に直面しても自身らの見解に熱烈に固執するということを記している。
Academic disciplines (such as, neurobiologists, archaeology, economists etc.) work within organised ‘paradigms’, which philosopher Thomas Kuhn identified in his 1962 book – The Structure of Scientific Revolutions – as “universally recognized scientific achievements that, for a time, provide model problems and solutions for a community of practitioners”.
Typically, the body of knowledge that defines the paradigm are “recounted … by science textbooks, elementary and advanced” (Kuhn, 1996: 10).
Kuhn challenged the notion that ‘scientific’ activity is a linear process, whereby scholars add new empirically supported facts to the knowledge base to replace previously accepted notions.
Rather, Kuhn said that dominant viewpoints persist until they are confronted with insurmountable anomalies, whereupon a revolution (paradigm shift) occurs. The new paradigm exposes the old theories as inapplicable, introduces new concepts, asks new questions and provides students with a new way of thinking with a new language and explanatory metaphors.
Once supplanted, the old theories are no longer considered valid knowledge. Kuhn also noted that there is a sort of mob rule among practitioners within a dominant paradigm and they vehemently hold onto their views even in the face of logical or empirical anomaly.

MMTが与えてくれるのは、我々が住んでいる世界を見るための新しいレンズであり、我々の日常生活の中で重要な金融システム運用についてである。
この新しいレンズは、日常の基礎で経済に何が起きているかについての新しい洞察を広げる。MMT的世界は、移行すべき何かなのではなく、既にそこに存在するものなのだ。
新しい強力なレンズとしてのMMTは、新自由主義の物語では不明瞭になっている点についても明らかにしてくれる。
What MMT provides is a new lens to view the world we live in and the monetary system operations that are important in our daily lives.
This new lens opens up new insights into what is going on in the economy on a daily basis. It’s not something to move to, it already is.
MMT, as a new powerful lens, makes things that are obscured by neo-liberal narratives more transparent.

MMT Is A Lens, Not A Regime (2017)Michell's lecture
レンズの比喩はフクロウの比喩のコンセプトに近い

ミッチェルMitchell 2019 詳細目次
ミッチェル2019(ラーナー機能的財政の基本的な諸関係を改変):
             ______
            |      |・フクロウの比喩(第三の道)
            |  政策  |[]20~24
            |______|・自動運転のハンドルの比喩(金融緩和のアクセル、
         ___|________(消費税のブレーキ、など自動車の比喩は有効か)
        /            \
       /              \[]17~19 
      /      E非雇用      \
     /        /雇用       \・95本の骨/100匹の犬の比喩
    /____________________\
    |         Y所得        |[]11~16
    |____________________|
    |   | |      I投資     |  15.5
    |C(Y) |______________|・投資=もう一本の蛇口?
    |消費 | |I(i)  | i利子率  |  12.5,25.5
    |性向 | |投資 |  |_______|  
    |   | |機会 |  |i | |M |[] 9~10   
    |___| |___| (M,Y) |貨幣|・バスタブ、シンクの比喩
    ([])  []  流動性選好  
          25~26   /   
                 /
   歴史[]1~8,[]27~30,[]31~33現状,未来


ビル・ミッチェル「MMTが論ずるのは『現実が何か』であって、『現実がどうあるべきか』ではない」(2017年4月20日) — 経済学101
https://econ101.jp/%E3%83%93%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%83%9F%E3%83%83%E3%

ビル・ミッチェル「MMTが論ずるのは『現実が何か』であって、『現実がどうあるべきか』ではない」(2017年4月20日)

Bill Mitchell, MMT is what is, not what might be, Bill Mitchell-billy blog, April 20, 2017
これまで定番のように書いてきたことの一つに、「MMTで世界は変わる」症候群とでもいうべき、読者や第二世代MMTブロガーが犯しがちな誤りがある。
あるいは「世の中を良くするために、原則をMMTに変える必要がある」症候群とも言えるだろうか。
MMTがレジームチェンジを求めているという考えは間違いで、そういう考え方ではMMTの核の問題意識から乖離してしまうことになる。
このブログ記事では、そういった症候群やMMTの考えの発展の様々な側面を俎上に上げているが、この作業によって、MMTの核の(初期の)研究者たち(Mosler, Bell/Kelton, Wray, Mitchell, Tcherneva, Fullwiler)が1990年代前半にマクロ経済学のより良い方法を構築に着手したときに抱いていた鮮明なアイデアを、読者たちに提供するのに役立ちたいと思っている。
ポイントは、
「MMTは、学問の世界における経済学の思考法のレジームチェンジではあるが、実際の金融システムの運用法のレジームチェンジというわけではない」
というところである。
『MMTが論ずるのは「現実が何か」ということであって、「現実がどうあるべきか」ではない』という事実を受け入れるためには、MMTの学術的研究によって明らかとなった政策運用上の原則と、MMTの思想的価値観をきちんと区別する必要がある。

これらの話(及び私が書ききれないもっと多くの話)はレジームチェンジと関係している。新しいアイデアや説明が広く認知されている主流派と真っ向対立すると、事実が新しいアイデアを支持していることが自明となるまで中傷に晒されるという事が示されている。
(神経生物学、考古学、経済学といった)学問分野は、既に構築された’パラダイム’の中で動いている。’パラダイム’は哲学者のThomas Kuhnの1962年の本 The Structure of Scientific Revolutions(邦題:科学革命の構造)の中で、”当座の間、専門家のコミュニティに対して定型問題とその解決法を提供する広範に認知された科学的業績”と定義されている。
典型的には、パラダイムと定義される知識体系は”初歩的及び発展的な科学の教科書で…詳説される”(Kuhn, 1996: 10)。
Kuhnは、”科学的”活動が直線的なプロセス…「研究者が新しい実証的証拠を基礎的知識に追加し、以前まで受け入られらていた考えを置き換えるというようなプロセスである」という考えに挑んだ。
そうではなく、支配的な観点は、受け入れがたい例外に直面し、革命(パラダイムシフト)が起こるまでは強固に残るのだとKuhnは主張した。新しいパラダイムは、古い理論が受け入れられないものであることを暴き、新しい概念を導入し、新しい疑問を立て、新しい言語や説明的な比喩を用いて新しい考え方を学生たちに提供するのである。
一度転換が起きれば、古い理論はもはや確立された知識とはみなされない。Kuhnはまた、支配的なパラダイムの中の専門家たちによる衆愚政治のようなものが存在することと、彼らが論理的ないし実証的な例外に直面しても自身らの見解に熱烈に固執するということを記している。
支配的な集団は、Irving JanisがGroupthinkと呼ぶものに嵌りこんでしまい、新しい考え方を提案する人に対し、まず最初に中傷を仕掛けてしまう。
Joseph Altman, Jacques Cinq-Mars, Barry Marshal及び様々な研究領域における数えきれないほど多くの人々の仕事が、パラダイムシフトが起こり得ること、そしてその変化が不可避になるまで大衆たちから反発を受けたことを示している。
全ての新奇なアイデアがこの類の煉瓦壁に直面するわけではない。しかし、専門家たちがGroupthinkに嵌ってしまったり、とりわけ、地位やお金の危機(特に、商業的な危機)があったりするとき、抵抗は強烈で、かつ長引くものになる。
さて、どう考えても、上で論じた着想はそれぞれの分野のレジームチェンジにつながったと言えるだろう。
いくつかのケースでは、対決を受けたレジームは新しい知識の一部に割り当てられた(たとえばClovis社会の年代)が、それ以外では、古い知識に関係する多くの主張が「宙に浮く」こととなった。
また他のケースでは、知識が一から十まで偽物であるのに、その学問分野の支配が維持される。メディアや、専門的地位や昇進、学術基金へのアクセス、そしてその他外部者を真実から遠ざけるために築かれたさまざまなカムフラージュをコントロールすることによって。
主流派経済学は後者のカテゴリーに合致するケースだ。それは偽物の知識であり、元からずっとそうだった。しかし、研究職のGroupthinkはとても強固で、強制力が強い。その地位に対抗したことのある人なら、私の言いたいことが分かるだろう。
私は一度、ある権威あるカンファレンスで私のマクロ経済学観についての招待講演を行ったことがある。(発表者のバランスを取るために、私はケインジアン枠扱いで呼ばれたそうだ。ケインジアンではないのに!)
まあとにかく、私が発表を終えると、参加者の一人が(客寄せ口上のような耳障りな声で)”みなさん、今日は火星からの発表者のお出で頂いたようですね!”とコメントした。彼はそのあとほとんど何も言わず、ただ聴衆の笑いを取ろうとしただけだった。それが真剣な専門家たちの意見交換会の中で起きたことである。
いじめ以外の何物でもない。私の労力は大いに笑われた。しかし私はすでに上級教授で、このタイプの無視は長年経験していた。アヒルの背中に水をかけるような無意味な行いだ。私はこういったことに慣れていたのである。
私が研究を始めた頃、私の初期の雑誌投稿に対する査読報告は、一文ほどのものだった。(どれだけ長くても数ページ程度) それらは大抵こう書かれていた。「著者は明らかにLipseyの教科書の第一章を読んでいないか、理解していない。」 Lipseyの教科書は当時の有名な主流の教科書で、主流派マクロに進むための下らないことが書かれていたのだが。
それは間違っていなかった。私は論文の内容が非常に厳密であることを確実にするためには長い時間をかけていたし、その結果は正しかった。私はこれは挑戦なのだと考えていた。
しかし多くのより繊細な若い研究志望者たちは、そうした批判によって潰されていただろう。自信を打ち砕かれ、研究意欲が棄損されることによって。
経済学の専門家たちは乱暴だから、急所攻撃を食らっても生き残るため分厚い皮を持っておく必要がある。
Modern Monetary Theory(MMT)はこうした意味でのレジームチェンジを目指している。MMTは、支配的な経済学理論の嘘や欺瞞に直接的に対抗し、システマティックで首尾一貫した代替的な理論を提供している。
当初、我々は無視された――我々(上述した小さいグループで行った)の研究の少なくとも最初の10年の間はそうだった。
最初は、経済学の中でも先進的な分野(ポストケインジアン)が我々を批判しはじめた。――その主な理由は、彼らが類似のカンファレンスに参加していたからだ。MMTはポストケインジアンが未だ受け入れていた新自由主義のいくつかのコンセプトに挑戦するものなので、ポストケインジアンは我々に対して敵対的だった。
そしてメッセージがより広範に伝わるようになるにつれて、’第二世代’MMTerがより発言力を持つようになり、数も増え、現在は主流派経済学者からの攻撃を受けるようになっている。
最近の攻撃については When mainstream economists jump the shark and lose it completely という記事で書いておいた。
これらの攻撃はより広範囲に広がっているが、それは我々の一連の考えが発展の次のステージに達していることを示している。
専門家たちの中の新自由主義的なGroupthinkerたちは現在、世界金融危機への対処の大いなる失敗の結果として、主流派経済学の価値観によりいっそう多くの人々が忌避感を抱き始めており、それによって彼らの地位が弱まっていることに気づき始めている。
しかし主流派経済学の失敗が明らかになると、衆愚政治的な動きが彼らのレジームを守るためのあらゆる防御策を講じ始めた。メディアでMMTにマウンティング攻撃するのもこれだ。
尤も、私が今まで話してきたそうしたレジームシフトは、ブロゴスフィアで主張されている’MMTが採用されれば世の中が良くなる’といった主張とは異なるものだ。
そういった類の所感は、十分な数の政治家を説得できれば’MMTレジーム’へのシフトが出来るという意味になってしまう。
理解すべきポイントは、MMTは、不換紙幣(fiat currency)金融システムがどのように運営されるかという仕組みへの理解、および現代金融経済において政府が行うことが出来る中心的な役割への理解に役立つ思索の体系であるということである。
現代金融経済は、貨幣(money)を財とサービスに対する支払いの計算単位として利用している。重要なのは、その貨幣が不換紙幣であり、交換できるのはそれ自体だけ(訳注:古い紙幣を持ち込んだら新しい紙幣に替えてもらえる、くらいの意味かと)で、政府には(例えば金本位制、ないし後期金本位制のように)金(gold)に交換する法的義務はないというところである。
主流派経済学の論評ではたいてい無視されるのが、1971年8月におけるブレトンウッズ体制の崩壊である。ブレトンウッズ体制は、1944年7月に有名なブレトンウッズ会議で合意された金融システムで、参加国の中央銀行にUSドルに対する固定為替相場の維持を要求するものだった。
そのシステムは機能しないことが証明され、ニクソン大統領がUSドルの金への互換性を破棄し、ほとんどの国は不換紙幣システムへと移行した。
不換紙幣システムの中では、政府は特定の不換紙幣を発行する独占的な権利を持つ。
その上、不換紙幣は、税の支払いおよび政府の要求する他の財政的請求に受け入れられる唯一の単位であり、このことが政府の政策手段の範囲を決める。
我々は、政府がただの’大きな家計’ではないことを知っている。家計は、通貨(currency)の利用者であり、支出に際して事前に通貨を調達しなくてはならない。翻って政府は、通貨の発行者であるので、もし(増税を)望むとしても、まず支出(民間銀行の銀行口座に貸方記帳)があり、このことにより借方記帳するということになっている。
はっきり言えることは、不換紙幣発行者である政府は、いかなるときも発行通貨(currency of issue)による支払い能力を持つという事である。
MMTはさらに、国定貨幣(State Money)(不換紙幣)の目的が、実物的な財・サービスを非政府主体(大部分は民間)から政府(公的)主体へとスムーズに移行することであることも教えてくれる。
この移行のために政府はまず徴税する。徴税により発行通貨の需要が発生する。非政府主体は、納税及び全体での純貯蓄に必要な資金を獲得するため、実物財・サービスを売りに出して、必要な通貨と交換しようとする。これはもちろん、非雇用者たちが労働を売ろうとするようになることをも含む。明白な結論として、失業は、全体での政府純支出が、納税の必要性と全体純貯蓄の欲求を満たすには少なすぎるときに起こるということが言える。
この分析は、政府の支出の限界 3 も設定する。政府支出が納税可能になる分だけ十分になされなくてはならないということは明らかだ。それに加えて、民間の貯蓄意欲に合わせる必要がある。
もし政府が納税と非政府部門の貯蓄欲求をカバーするのに十分な支出を行わなかったなら、その不足分は失業として現れるだろう。
この問題の根本は常に、政府純支出がその時の民間支出(貯蓄)決定に対して適切ではないことにあるのだ。
それぞれの国(あるいは複数の国によるブロック)では不換紙幣による支出能力をそれぞれ違う方法で構築・利用している。ユーロ圏メンバーの国は、フランクフルトに支出能力を自主的に委譲し、純支出に関して厳しいルールを自国自身に課している。
他の国々は違う形で発展している。
しかしポイントは、いつの時代も、どの国においても、金融システムはMMTが描写し説明している形で運用されているということである。
MMTは現実と非常に強い関係を持っている。一方で、主流派経済学は、現実の大部分を扱えない。
したがってMMTへと移行すること自体がより良い世界であると考えるのは、現実への誤解に基づいている。すべての形態及び規模の金融システムは、既にMMTに準じて運用されているのである。
よって、”もしMMTが導入されれば”とか、”MMT政策の下では”とか、”MMTが規範になるとき”という風に、『MMTは、もし社会がより啓発されれば、移行することのできるレジームであり、真に進歩的な政府に新しい範囲の政策手段を開拓するものである』と暗に意味しているかのようなコメントを読むと、この点が誤解されているということがわかるのである。
こうした誤解は、他のコメントにもある。特に、Job Guarateeに関するコメントだ。そうしたコメントではMMTとは進歩的な教義であるとか、あるいは経済政策決定における左派的なアプローチであるということになっている。あるいは、MMTがなかなか紹介されないのは、既成秩序を維持しようとする右派の陰謀だ、とされている。
こうした発言は善意からのものであるし、MMTがその理論の進む先に提案している政策手段のいくつかに、人々が純粋に魅了されているということは分かっている。
けれどもそのような理解は、私が「Job Guaranteeのような提案への教条的で不合理な抵抗」と考えていることと同類なのだ。
つまり、「進歩的政策によって資本家の搾取の軛から自由になれるMMT的世界へ我々は移行すべきである」というような考えは、完全に間違っている。
事実として、我々は既にMMT的世界に生きているのである。我々はいつだってMMT世界の中で関わりあっているのだ。アメリカでも、オーストラリアでも、ユーロ圏のどの国でも、金融システムはMMT的体系の中で運用されている。
だから、MMT的世界と一般に呼ばれているような新しい理想郷へ向かうなんていうことはあり得ない――我々は既に、MMT的世界に居るのだから。
MMTが与えてくれるのは、我々が住んでいる世界を見るための新しいレンズであり、我々の日常生活の中で重要な金融システム運用についてである。
この新しいレンズは、日常の基礎で経済に何が起きているかについての新しい洞察を広げる。MMT的世界は、移行すべき何かなのではなく、既にそこに存在するものなのだ。
新しい強力なレンズとしてのMMTは、新自由主義の物語では不明瞭になっている点についても明らかにしてくれる。
というのは、政策決定と非政府部門の意思決定の因果と結果の理解から我々の注意をそらすために、保守派が推進した一連の連結された神話を暴く、という意味である。
保守派の政治家や企業家たちが、「政府はお金を使い切っており、そのため失業者に対してこれまでと同レベルの給付支援をする余裕はない」と主張しているとき、MMTはそれが嘘であり、それとは別の指針が存在するに違いないということを気づかせてくれる。
MMTはこのように、現実への理解について学ぼうとしたり、それまで問おうと思うことも出来ず、それどころか無関係であった疑問への問い方を学ぼうとしたりする人々に、その力を与えてくれる。
以前は、政治家が「政府はお金を使い果たした」とか「政府はクレジットカード満額まで使い切った」と発言すれば、情報の無い人々はそうした発言を尤もだと捉えてしまっていただろう。
しかしMMTのフレームワークを理解すれば、そのレンズによって人々は”お金を使い果たす”という錯乱を却下し、逆に、政府が特定の政策手段を用いたがらない理由を知ろうと欲するようになるだろう。
これまで、政治家とそのアドバイザーは、(彼らが操作対象としている)一般市民が適切に知らない・理解していない偽物の経済学的議論を用いて新しい政策手段や政策方針を即座に却下してきたが、MMTは、そうして却下されてきた政策手段・政策方針の実現可能性を政策論議に導入する。
MMTはかのように、我々が生きている世界の金融システムがどのように運用されているかということと、通貨発行主体(curreny-issuing)であり、我々の幸福を志向すべき政府が、どのような潜在能力や政策手段を持っているか、ということを理解するためのフレームワークなのである。
MMTは、政府の通貨発行能力(currency-issuing status)(為替操作能力や中央銀行による金利設定能力を含む)を実際の統治体から分離したらどんな結果を齎し得るかということを理解するのにも役に立つ。
後者に関して我々は、MMTのレンズによって、ユーロ圏が構成国に非常に悪い結果を齎す形で失敗した理由をクリアに理解することができる。
また、MMTは左派でも右派でもない。
MMTの理論的・描写的側面と、その上に付加されているMMT提唱者の価値観を混同してしまうという錯乱的な嘘が存在している。
私が左派の立場から解説してしまうせいで、MMTは左派だと思われているかもしれない。しかし、それは間違った推論だ。
どんな立場からであれ、思想的信念というのは、価値観と、その価値観から進展して提示される政策的処方箋によって明らかになるものだろう。
MMTが出来るのは、ある人が特定の政策提案を推進するときに、その思想的信念をより明瞭にすることである。
例えば、失業率上昇に直面している政治家が「政府にはこれほど多い失業を解決するほど職を提供するだけの財政的余地はない」と発言しているとき、MMTのレンズを通じてそのコメントを考察すると、「政府には、必要以上に失業率を高く維持したい理由がなにかあるに違いない」ということが即座にわかるだろう。
我々はそこに’隠された’指針があるということがわかる。なぜなら、我々の理解では、政府には通貨発行能力(currency-issuing capacity)があるために、その財政的余地というのは利用可能な実物資源で決定するからである。もし大量の失業があるなら、そこには利用可能な実物資源が存在するということがわかる。
では、なぜ政府は彼らを雇って生産的用途に利用しないのだろうか?
そのとき焦点は「その理由が何か」というところに移り、その疑問は、例えば、政府が完全雇用維持のために通貨発行能力を利用するのを拒否することによって随伴的に生じるであろう影響への考察に繋がるだろう。
逆に、MMTに感化された右派の政治家が、賃金を抑圧し、利益(右派政治家はこれを労働者の尊厳etcより価値が高いと考えている)を高めるために、大量の失業の予備を確保するという欲望を実現しようとするとき、彼らは財政赤字の削減を提案するだろう。なぜなら、MMTの知的訓練によって、それが彼らの目標を達成する手段であると分かるからである。
MMTは、我々の価値観を政策選択を通じて社会へ適用した結果どうなるかについてしか教えてくれない。そうした価値観は、どんな政治的ないし思想的性質でもありえるのである。
私はこの議論がこのタイプの問題について論争している人々の助けになることを望んでいる。
来週、私は”メランションが大統領になった場合のフランスの最初の100日間”を予測するブログを書くつもりだ。
右派の経済学者は、まるで日々の稽古のように、既に偽物の知識を交換している。実に滑稽だ。私は彼らよりもう少し真面目にやるつもりだ。
今日はこれでおしまい!
  1. ここでいう「世俗的な説明」は、「神話的な説明」(神が万物を創造したという神話に基づく説明)に対する対義語である []
  2. 上部消化管内視鏡の間違い? []
  3. 文中では下限がフォーカスされているが、「それ以上支出すればインフレになる」という意味での上限も存在する []

 MMT is what is, not what might be – Bill Mitchell – Modern Monetary Theory

MMT is what is, not what might be

One of the things I have noted with regularity is that readers and other second-generation Modern Monetary Theory (MMT) bloggers often fall into the error which we might characterise as the “When we have MMT things will be different” syndrome. Or the “we need to change to MMT principles to make things better” syndrome. Thinking that MMT constitutes a regime change is incorrect and steers one away from the core issues. In this blog, I reflect on that syndrome and some other aspects of the development of ideas, which I hope will provide readers with a clearer picture of what the core (early) MMT developers (Mosler, Bell/Kelton, Wray, Mitchell, Tcherneva, Fullwiler) had in mind when we set out in the early 1990s to construct a better way of doing macroeconomics. The point is that while MMT constitutes a regime change in economic thinking within the academy it does not constitute a regime change in the way the monetary system operates. We need to separate the operational principles exposed by MMT academics from their ideological values to really come to terms with the fact that MMT is what is, not what might be.
I have been reading the 2001 book What Evolution Is by the famous evolutionary biologist Ernst Mayr recently. He took on the establishment in his area of research and has definitely been a major influence on the way we think about biodiversity in modern times.
He was influential in the emphasis on secular explanations for evolution. In one interview in 1999 he was asked:
EDGE: How do you account for the fact that in this country, despite the effect of Darwinism on many people in the scientific community, more and more people are god fearing and believe in the 8 days of creation?
MAYR: You know you cannot give a polite answer to that question.
EDGE: In this venue we appreciate impolite, impolitical, answers.
MAYR: They recently tested a group of schoolgirls? They asked where is Mexico? Do you know that most of the kids had no idea where Mexico is? I’m using this only to illustrate the fact that and pardon me for saying so the average American is amazingly ignorant about just about everything. If he was better informed, how could he reject evolution? If you don’t accept evolution then most of the facts of biology just don’t make sense. I can’t explain how an entire nation can be so ignorant, but there it is.
That insight has bearing on how we think about macroeconomics as well and I will return to that soon.
His account of evolution is interesting and has parallels with the way other ideas develop, including those in economics.
To some extent, Mayr’s work constituted a ‘regime change’ in his discipline after resistance from the established thinkers. in another sense, his discussion of evolution itself has relevance to the ways ideas emerge and move from being unacceptable to broadly accepted.
Evolution, in Mayr’s work, involves novelty, changes to some species. Changes accumulate.
Our understanding of this process through time sometimes takes us down dead-ends or blind alleys as the new ideas are tested against reality.
These ‘mistakes’ in perception are important though, because while they cannot help us understand the reality of interest, they do provide other information that helps us see things in better perspective.
In economics, I characterise most of the mainstream theory as ‘fake knowledge’. Please read my blog – The failure of economics – reality and language – for more discussion on this point.
It doesn’t help us understand the way the monetary system operates. The mainstream explanations and characterisations are just plain wrong – and systematically so – one myth links into and reinforces another in a stream of logical nonsense.
But if you then ask why the mainstream adopt the position that they do, which in any reasonable assessment is ‘just plain wrong’ – then exploring that question is insightful because we enter the world of ideology and the role that ideas have in reinforcing existing power elites.
It is clear that the adoption of ‘free market’ conceptions help maintain the elite position in the deployment of real resources and the income flows that are derived.
There was a recent and interesting article in The Nation (March 6, 2017) – Our political economy is designed to create poverty and inequality – along these lines.
So, while mainstream economics is bunkum, understanding its role is important and helps us understand why ‘better’ ideas struggle to gain ascendancy in the contest of ideas.
There are many examples of such ‘contests’ in the evolution of ideas. 
I have previously noted the struggle of American biologist Joseph Altman.
Please read my blog – Whatever – its either employment or unemployment buffer stocks – for more discussion on this point.
He specialised in neurobiology and discovered adult neurogenesis in the 1960s. He showed that adult brains could create new neurons but the idea was fiercely denied by contemporary thought at the time.
The power elites in his field were challenged by the new ideas.
It wasn’t until the phenomenon was ‘rediscovered’ by another scientist (Elizabeth Gould in 1999) that the proposition became fashionable. Neurogenesis is now one of the most significant areas in neuroscience.
Why were Altman’s discoveries ignored for almost 30 years?
In an article – Three before their time: neuroscientists whose ideas were ignored by their contemporaries – which came out in 2008 in Experimental Brain Research. Charles Gross wrote:
… the dogma of ‘no new neurons’ was universally held and vigorously defended by the most powerful and leading primate developmental anatomist of his time.
Paradigms reject change when establishment hegemony is threatened.
A while ago I followed the story of Jacques Cinq-Mars who was a French-Canadian archaeologist who did fieldwork, searching “the Yukon riverbanks and rock shelters for traces of Ice Age hunters”.
His work in the Bluefish Caves in the North-West of Canada between 1977-87 and his subsequent analysis established that human life in that area existed 24,000 years ago.
The findings challenged the established view at the time – the so-called Clovis-First theory – which had dated the arrival of humans to ‘America’ at 13,000 years.
A recent article (March 7, 2017), by Heather Pringle – From Vilified to Vindicated: the Story of Jacques Cinq-Mars – provides an accessible introduction to this controversy.
On May 3, 2013, the editorial in the journal Nature – Young Americans – described what happened when Cinq-Mars released his findings and sparked “one of the most acrimonious — and unfruitful —in all of science”.
Cinq-Mars:
… endured brutal criticism from opponents who did not give them, or their evidence, a fair hearing. Scientists who supported the Clovis-first model countered that reports of pre-Clovis sites were examples of poor scholarship.
Heather Pringle describes the criticism and pressures that Cinq-Mars was put under by the academy as he unveiled the findings of his research:
It was a brutal experience, something that Cinq-Mars once likened to the Spanish Inquisition. At conferences, audiences paid little heed to his presentations, giving short shrift to the evidence. Other researchers listened politely, then questioned his competence. The result was always the same … In his office at the Canadian Museum of History, Cinq-Mars fumed at the wall of closed minds. Funding for his Bluefish work grew scarce: his fieldwork eventually sputtered and died.
And studies now support his earlier claims “that humans reached the Americas well before the Clovis culture”. But the facts were not the issue – it was the challenge to the hegemony in this area of study that mattered.
As Pringle writes: “Today, decades later, the Clovis first model has collapsed”. It was fake knowledge all along but built careers and influence.
Well-paid professors who had made a lucrative career and garnered massive social status as a result of their claims about the first Americans were suddenly staring at a void – they had been peddling fake knowledge.
The impacts of the resistance are still being worked out.
Pringle writes:
Did archaeologists in the mainstream marginalize dissenting voices on this key issue? And if so, what was the impact on North American archaeology? Did the intense criticism of pre-Clovis sites produce a chilling effect, stifling new ideas and hobbling the search for early sites? Tom Dillehay, an archaeologist at Vanderbilt University in Tennessee and the principal investigator at the Chilean site of Monte Verde, thinks the answer is clear. The scientific atmosphere, recalls Dillehay, was “clearly toxic and clearly impeded science.”
Similarly, does an adherence by policy makers to the fake knowledge offered by mainstream macroeconomics force millions of people to endure unemployment and poverty unnecessarily. The answer is clearly yes.
A final example before I move on is closer to home. I refer to the story of Helicobacter Pylori. If you do not know what I am referring to then it is an amazing case of the resistance to new knowledge by those who had entrenched interests in maintaining fake knowledge.
In this case, it also involved the capacity of large pharmaceutical companies to make huge profits by forcing unnecessary drugs onto unsuspecting patients, kept in ignorance by their trusted doctors, who under pressure from the pharmaceutical companies to resist adopting new discoveries.
It involves the research of Dr Barry J. Marshall, who was a young doctor at the Fremantle Hospital in Perth, Western Australia in 1984. He discovered that the bacterium Helicobacter Pylori was associated with the incidence of stomach ulcers. Further research convinced Marshall and his team that the association was causal.
The mainstream of the profession at the time considered ulcers to be caused by “psychological turbulence” (see New Yorker link below).
This New Yorker article (May 3, 2003) – Marshall’s Hunch – provides an interesting insight into the controversy.
It recounts how Marshall first presented his work in 1983:
… at a gathering of infectious disease experts in Brussels. The audience was full of heavyweights … When Marshall finished speaking … The scientists chuckled and murmured and shook their heads, a little embarrassed for a junior colleague whose debut was such a disaster …
One scientist said Marshall’s theory was “the most preposterous thing I’d ever heard … I thought, This guy is a madman”.
The problem for Marshall was that up to that point the pharmaceutical giant Glaxo(SmithKline) were making massive profits selling Zantac to people whose doctors had diagnosed stomach ulcers. The drugs were palliative only – moderated symptoms (pain).
Patients were then on a treadmill where doctors would perform expensive and regular investigative colonoscopy procedures to ‘see’ whether the ulcer was contained and in between times would ingest Zantac and other remedies to control the pain.
They were put on special diets (cutting out things they liked) to stop the ulcer from erupting.
All of which Marshall demonstrated was unnecessary.
Now, Marshall’s findings are standard fare for the medical sector but it took many years before the message got through to GPs who were under the influence of the large drug companies, intent on suppressing the findings and keeping their markets.
All of these stories (and there are many more I could write about) involve regime change. They involve a new set of ideas or explanations coming headlong against the perceived mainstream and then being undermined until it becomes self-evident that the facts support the new idea.
Academic disciplines (such as, neurobiologists, archaeology, economists etc.) work within organised ‘paradigms’, which philosopher Thomas Kuhn identified in his 1962 book – The Structure of Scientific Revolutions – as “universally recognized scientific achievements that, for a time, provide model problems and solutions for a community of practitioners”.
Typically, the body of knowledge that defines the paradigm are “recounted … by science textbooks, elementary and advanced” (Kuhn, 1996: 10).
Kuhn challenged the notion that ‘scientific’ activity is a linear process, whereby scholars add new empirically supported facts to the knowledge base to replace previously accepted notions.
Rather, Kuhn said that dominant viewpoints persist until they are confronted with insurmountable anomalies, whereupon a revolution (paradigm shift) occurs. The new paradigm exposes the old theories as inapplicable, introduces new concepts, asks new questions and provides students with a new way of thinking with a new language and explanatory metaphors.
Once supplanted, the old theories are no longer considered valid knowledge. Kuhn also noted that there is a sort of mob rule among practitioners within a dominant paradigm and they vehemently hold onto their views even in the face of logical or empirical anomaly.
The dominant group becomes trapped in what Irving Janis called Groupthink and initially vilifies those who propose new ways of thinking.
The work of Joseph Altman, Jacques Cinq-Mars, Barry Marshall and countless others across all discplines represented the potential for a paradigm shift and was resisted by the mob until change became ineluctable.
Not all novel ideas face this sort of brick wall. But when the professional bodies become trapped by Groupthink and, typically, there is status and money at stake (particularly, commercial edge) then resistance can be fierce and prolonged.
So we can fairly say that the ideas discussed above resulted in regime change in their particular areas. In some cases, the regime confronted was dominated with real knowledge (such as the dating of the Clovis society) but some assertions relating to that knowledge become exposed.
In other cases, the knowledge is fake all along and the dominance of the discipline is maintained through control of media, professional appointment and promotion, access to research funds, and other smokescreens that are erected to deter outsiders from knowing what the facts are.
Mainstream macroeconomics fits into that latter category. It is fake knowledge and always has been. But the Groupthink discpline among the profession is very tight and coercive. Anyone who has ever challenged its position will know what I mean.
I was giving an invited presentation once at a prestigious conference on my macroeconomic views (I was the token Keynesian they used to have along to say they were providing a balanced roster of speakers! Not!).
Anyway, after I had given the presentation, the discussant started off by saying (with a whirring noise to start his spiel) “ladies and gentlemen, I think we are being visited by a presence from Mars today!” He said very little after that and just rode on the laughter in the audience. That was meant to be serious professional interchange.
It was nothing more than bullying. There was huge laughter at my expense – but by this stage I was a senior professor and had experienced years of this sort of ignorance. Always water off a duck’s back! I was inured to it.
When I was starting out, my very first referee’s report on a journal submission was one sentence long (they are normally, at least, a few pages long). It said “the author obviously hasn’t read or understood the first chapter in Lipsey”, which was a major mainstream textbook at the time, preaching the sort of rubbish that goes for mainstream macro.
That was it. I had spent hours working on the paper ensuring it was very tight and all I got was that. I took it as a challenge. But many more sensitive younger aspirants would have been destroyed by it – their confidence shot and their motivation damaged.
The economics profession is brutal and you have to have a thick hide to survive if you take it on.
So in this sense, Modern Monetary Theory (MMT) constitutes a regime change. It directly challenges (and exposes) the lies and deceptions of the dominant economic theories and provides a systematic and consistent alternative.
At first we were ignored – for the first 10 years at least of our work (the small group I noted above). Then the progressive side of economics (Post Keynesians) started criticising us – mainly because they attended similar conferences. They were hostile because MMT challenges some of the neo-liberal baggage that Post Keynesians still accept.
But as the message has spread further and the ‘second-generation’ MMTers on social media have become more vocal and numerous, there is now attacks coming from the mainstream economists.
I wrote about a recent attack in this blog – When mainstream economists jump the shark and lose it completely.
These attacks are becoming widespread and represent the next stage in our development as a set of ideas. The neo-liberal Groupthinkers in the profession are now sensing that their position is weakening as more and more people are starting to eschew the value of the mainstream economics as a result of its massive failure in dealing with the GFC.
That event exposed my profession, which for years had been operating under the radar, so to speak. But its failures were manifest and the mob rule has began to erect all sorts of defences to protect their regime, including mounting public attacks on MMT.
But the regime shift that I have been talking about up to now is not the same thing as the blogosphere claims that ‘things will be better when MMT is adopted’.
That sort of sentiment implies that we can shift to a ‘MMT regime’ if enough politicians are convinced.
The point to understand is that MMT is a system of thought that allows us to understand how a fiat currency monetary system operates and the central role that government can play in a modern monetary economy.
Modern monetary economies use money as the unit of account to pay for goods and services. An important notion is that money is a fiat currency, that is, it is convertible only into itself and not legally convertible by government into gold, for instance, as it was under the gold standard or later versions of the gold standard.
What is mostly ignored in mainstream economic commentary is that in August 1971, the monetary system agreed at the famous Bretton Woods conference in July 1944, which required the central banks of participating nations to maintain their currencies at agreed fixed rates against the US dollar, collapsed.
The system proved unworkable and when President Nixon abandoned the convertibility of the US dollar into gold, most nations moved to a fiat currency system.
Within a fiat currency system, the government has the exclusive legal right to issue the particular fiat currency.
Further, given that this money is the only unit which is acceptable for payment of taxes and other financial demands of the government presents the government with a range of options.
We know that the government is not just a ‘large household’. The latter is the user of the currency and must finance its spending beforehand, ex ante, whereas government, the issuer of the currency, necessarily must spend first (credit private bank accounts) before it can subsequently debit private accounts, should it so desire (raising taxes).
Clearly, a fiat-currency issuing government is always solvent in terms of its own currency of issue.
MMT also teaches us that the purpose of State Money (fiat currency) is to facilitate the movement of real goods and services from the non-government (largely private) sector to the government (public) domain.
Government achieves this transfer by first levying a tax, which creates a notional demand for its currency of issue. To obtain funds needed to pay taxes and net save, non-government agents offer real goods and services for sale in exchange for the needed units of the currency. This includes, of-course, the offer of labour by the unemployed. The obvious conclusion is that unemployment occurs when net government spending is too low to accommodate the need to pay taxes and the desire to net save.
This analysis also sets the limits on government spending. It is clear that government spending has to be sufficient to allow taxes to be paid. In addition, net government spending is required to meet the private desire to save.
If the Government doesn’t spend enough to cover taxes and the non-government sector’s desire to save the manifestation of this deficiency will be unemployment. The basis of this deficiency is at all times inadequate net government spending, given the private spending (saving) decisions in force at any particular time.
Different nations (or blocs of nations) structure and use the capacity possessed by a fiat currency in different ways. The Eurozone Member States voluntarily ceded the capacity to Frankfurt and then imposed harsh rules on themselves with respect to net spending.
Other nations have evolved differently.
But the point is that every day, across every nation, monetary systems are in place that operate along the lines described and explained by MMT.
MMT has a very close relationship to reality, whereas mainstream macroeconomics is largely incapable of dealing with reality.
So to think that a better world is just a matter of moving to MMT is to misunderstand the reality. Monetary systems of all shapes and sizes already operate according to MMT.
So when I read comments like “if we introduced MMT …” or “under MMT policies …” or “when MMT becomes the norm”, which all imply that MMT is a regime that we would move to if society was more enlightened and would open up a new range of policy options that a truly progressive government might pursue I know that this point has been misunderstood.
This is tied in with other comments, specifically about the Job Guarantee, which suggest that MMT is a progressive doctrine or a left-wing approach to economic policy-making and what is holding MMT back from being introduced is the right-wing conspiracy to maintain hegemony.
I understand all these comments are well intended and people are genuinely attracted to some of the policy options that MMT proponents advance. This is notwithstanding, what I consider to be some doctrinal and irrational resistance to proposals such as the Job Guarantee.
But the conception that we might move to an MMT world where enlightened policy will free us from the yoke of capitalist exploitation is plain wrong.
The fact is that we are already living in the MMT world. We interact with each other every day in the MMT world. The monetary system, whether it be in the US, Australia, Japan or any of the Eurozone nations, operates along MMT lines.
So it is not about moving to some new Shangri-La, which we might call the MMT world – we are already in, that world.
What MMT provides is a new lens to view the world we live in and the monetary system operations that are important in our daily lives.
This new lens opens up new insights into what is going on in the economy on a daily basis. It’s not something to move to, it already is.
MMT, as a new powerful lens, makes things that are obscured by neo-liberal narratives more transparent.
It means that the series of interlinked myths that are advanced by conservative forces to distract us from understanding causality and consequence in policy-making and non-government sector decision-making are exposed.
So when a Conservative politician or corporate leader claims that the government has run out of money and therefore cannot afford income support for the unemployed any longer at the levels previously enjoyed, MMT alerts us to the fact that this is a lie and that there must be an alternative agenda.
MMT thus empowers a population who learn about it to see things for what they are and to ask questions that they never previously would have thought possible to ask or even relevant.
Previously, when a politician has said the government will run out of money or is maxing out its credit card, an uninformed population will take that statement as granted.
But an understanding of the MMT framework all its lens would mean that the population will now reject the “run out of money” obfuscation and instead demand to know why the government doesn’t want to support a particular policy option.
MMT thus, introduces into the policy debate, the possibility of new policy options and directions that have previously been dismissed out of hand through the use of spurious economic arguments that the politicians and their advisors know will not be properly scrutinised nor understood by the general population who they are trying to manipulate.
MMT is thus, a framework for understanding how the monetary system we live in operates and the capacities and options that are currency-issuing government has to advance our well-being.
It also allows us to understand the likely consequences of deviating from a truly sovereign state, which we define in terms of the currency-issuing status of the government (incorporating exchange-rate arrangements and central bank interest rate setting capacities).
In the latter context, the MMT lens provided us with a clear understanding of why the Eurozone would be a failure with significant negative consequences for the Member States.
Further, MMT is neither left-wing nor right-wing. 
Where the confusion lies is in conflating the theoretical and descriptive content of MMT with the value systems that the proponents of MMT overlay on this content.
It might be thought that MMT is left-wing because the values I expound are from the left. But that would be a wrongful inference.
The ideological persuasion of any perspective will manifest in the values that are expounded and the policy prescriptions that are proposed to advance those values.
What MMT has allowed is for the ideological persuasion to become much clearer when a person advances a particular policy proposal.
For example, when a politician, faced with rising unemployment, says that there is no fiscal space for the government to create jobs to deal with the mass unemployment, a person considering that comment through the MMT lens, will immediately realise that the government must have a reason for maintaining higher than necessary unemployment.
We know there must be a ‘hidden’ agenda because our understanding tells us that the government fiscal space is defined in terms of available real resources that the government can purchase with its currency-issuing capacity. So if there is mass unemployment then we know that there are such available real resources.
So why would the government refuse to purchase them and bring them back into productive use?
The focus then shifts on what that reason is and questions are likely to lead, for example, to an examination of corporate influence that might be leading the government to refuse to use their currency-issuing capacities to maintain full employment.
But when a right-wing politician inspired by MMT expresses a desire to ensure there is a reserve army of unemployed because it will suppress wage demands and enhance profits (which he/she values above worker dignity etc) then they would propose cutting the fiscal deficit because their MMT training tells them that is how they will achieve their goal.
MMT just tells us what the consequences of imposing our values on society via policy choices will be. Those values can take any political or ideological colour.

Conclusion

I hope that discussion helps some readers out there who have been struggling with this sort of issue.
Next week, I will present a blog forecasting the “first 100 days of a Melenchon Presidency for France”. Right-wing economists trading in fake knowledge have already published such an exercise. It is comical. I will try to be more serious.
That is enough for today!
(c) Copyright 2017 William Mitchell. All Rights Reserved.

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