水曜日, 4月 01, 2020

【マネーの本質】なぜ、単なる「紙切れ」の紙幣で買い物ができるのか?20200401

【マネーの本質】なぜ、単なる「紙切れ」の紙幣で買い物ができるのか? | 中野剛志さんに「MMTっておかしくないですか?」と聞いてみた | ダイヤモンド・オンライン
https://diamond.jp/articles/-/230690

【マネーの本質】なぜ、単なる「紙切れ」の紙幣で買い物ができるのか?

1990年代から、日本は、国債を発行しまくって政府債務残高がどんどん増えて、多くの経済学者やエコノミストが「国債金利が高騰する、高騰する」と言い続けてきた。しかし、長期国債金利は世界最低水準にあるのが現状だ。なぜ、予測は外れてきたのか? 中野剛志氏は、「そもそも、貨幣を正しく理解していないこと」に問題があると言う。では、貨幣とは何か? なぜ、単なる「紙切れ」の紙幣で買い物ができるのか? 説明してもらった。(構成:ダイヤモンド社 田中泰)
Photo: Adobe Stock

単なる紙切れの「お札」で、なぜ買い物ができるのか?

――前回、中野さんは、主流派経済学が「貨幣」を正しく理解していないとおっしゃいました。では、MMTは「貨幣」をどう理解しているのですか?
中野剛志(以下、中野) かなり遠回りの説明になりますが、付き合ってくれますか?
――もちろんです。
中野 わかりました。では、それをご説明する前に、私から質問してもいいですか? あなたは、単なる紙切れの「お札」が、どうして「貨幣」として流通していると思いますか?
――そうですね……。みんながその「お札」を受け取ると信じているからでしょうか。
中野 そう答える人が多いですね。では、なぜ、みんなはその「お札」を受け取ると信じているのですか?
――うーん……。
中野 答えられないですよね? みんなが「お札」を受け取るのは、みんなが「お札」を受け取ると信じているから。では、なぜみんなが「お札」を受け取ると信じているかというと、みんなが信じているから……。これを「無限退行」と言いますが、説明になっていないわけです。
 しかし、実は、主流派経済学の標準的な教科書とされる『マンキューマクロ経済学Ⅰ 入門編』(グレゴリー・マンキュー著、東洋経済新報社、2010年)でも、同じような説明がされています。読んでみましょう。
「原始的な社会では、物々交換が行われていたが、そのうちに、何らかの価値をもった『商品』が、便利な交換手段(つまり貨幣)として使われるようになった。その代表的な『商品』が貴金属、とくに金である。これが、貨幣の起源である。
 しかし、金そのものを貨幣とすると、純度や重量など貨幣の価値の確認に手間がかかるので、政府が一定の純度と重量をもった金貨を鋳造するようになる。
 次の段階では、金との交換を義務づけた兌換紙幣を発行するようになる。こうして、政府発行の紙幣が標準的な貨幣となる。
 最終的には、金との交換による価値の保証も不要になり、紙幣は、不換紙幣となる。それでも、交換の際に皆が受け取り続ける限り、紙幣には価値があり、貨幣としての役割を果たす。」
 最後の一文をご覧ください。「交換の際に皆が受け取り続ける限り、紙幣には価値があり、貨幣としての役割を果たす」というのは、さきほどのあなたの意見と同じことです。要するに、「みんながおカネがおカネだと思っているから、みんながおカネをおカネだと思って使っている」というわけです。これが主流派経済学の標準的な貨幣論なんです。
 しかし、この主流派経済学の説が正しいとすると、貨幣の価値は「みんなが貨幣としての価値があると信じ込んでいる」という極めて頼りない大衆心理によって担保されているということになります。そして、もし人々がいっせいに貨幣の価値を疑い始めてしまったら、貨幣はその価値を一瞬にして失ってしまうわけです。
――そう言われると、ずいぶん頼りない議論ですよね……。
中野 はっきり言って、苦し紛れの説明です。なぜ、そのような説明をせざるをえないかというと、主流派経済学が「商品貨幣論」を採っているからです。
――商品貨幣論とは?

【マネーの本質】なぜ、単なる「紙切れ」の紙幣で買い物ができるのか?

「物々交換から貨幣が生まれた」という学説は否定されている

中野 さきほどのマンキューの説明が典型ですが、「貨幣の価値は、貴金属のような有価物に裏付けられている」という学説です。物々交換は面倒くさいので、金や銀などのそれ自体で価値のあるモノを選んで、それを「交換の手段」としたというわけです。だけど、この商品貨幣論は間違いです。
――間違いですか? 日本でもかつてはコメが貨幣として流通していたそうですから、納得できるような気がするんですが……。
中野 いや、この考え方は間違いだと、本当は私たちはすでに知っています。なぜなら、1971年にドルと金の兌換が廃止されて以降、世界のほとんどの国が、貴金属による裏付けのない「不換貨幣」を発行しています。ところが、誰も貨幣の価値を疑いはしませんでした。そして、マンキューがそうであるように、商品貨幣論では、なぜ不換貨幣が流通しているのかについて納得できる説明ができないのです。
 そもそも、イギリスでは、17世紀後半、すり減って重量が減った銀貨が流通していましたが、物価や為替相場にまったく影響を与えませんでした。銀貨にはそれ自体に価値があるから流通しているのだとすれば、すり減った銀貨が同じ価値で流通しているのは“おかしな現象”ということになりますよね?
 それに、イギリスは19世紀に一時期、ポンドと金の交換を停止している時期がありましたが、そのころポンドは使われなくなったかというと、逆で、ポンドが国際通貨としての地位を確立したのは、まさにその時期だったんです。
――そうなんですか?
中野 ええ。
――ということは、かつて人々は金貨・銀貨それ自体に価値があるから貨幣として使っているつもりだったけれど、実は、別の原理によって貨幣の価値は裏付けられていたかもしれない、ということですか?
中野 そういうことになりますね。
 それに、貨幣の起源を研究した歴史学者や人類学者、社会学者たちも、今日に至るまで誰も、「物々交換から貨幣が生まれた」という証拠資料を発見することができませんでした。
 それどころか、硬貨が発明されるより数千年も前のエジプト文明やメソポタミア文明には、ある種の信用システムがすでに存在していたのです。
 例えば、紀元前3500年頃のメソポタミアにおいては、神殿や宮殿の官僚たちが、臣下や従属民から必需品や労働力を徴収するとともに、彼らに財を再分配していました。そして、神殿や宮殿の官僚たちが、臣下や従属民との間の債権債務を計算したり、簿記として記録するための計算単位として貨幣という尺度を使っていました。メソポタミアで出土した粘土板にその記録が遺されているのです。
 また、古代エジプトは私有財産や市場における交換は存在しない世界でしたが、そこに貨幣は存在していました。その貨幣もまた、国家が税の徴収や支払いなどを計算するための単位として使われていたのです。
――つまり、金貨や銀貨といった鋳貨よりも先に、帳簿で記録したり計算するための単位として貨幣が存在していたということですか?
中野 そういうことです。実際、世界史上、金属貨幣がはじめて鋳造されたのは小アジアのリディアで、メソポタミアや古代エジプトから遥か後の紀元前6世紀ごろのことだとされています。
――非常に興味深いですね。帳簿上の貨幣単位が先にあって、あとで現物貨幣が生まれたのが歴史的事実だとしたら、貨幣が物々交換や市場にける取引から生まれたとする商品貨幣論は、間違いということになりますね。
中野 ええ。歴史学・人類学・社会学における貨幣研究によって、商品貨幣論はすでに否定されています。もちろん、「貨幣とは何か?」については、現在もさまざまな説がありますが、少なくとも、商品貨幣論のような素朴な貨幣論をいまだに信じている社会科学は、もはや主流派経済学くらいのものです。
――では、商品貨幣論が間違いだとしたら、貨幣とはいったい何なのですか?

【マネーの本質】なぜ、単なる「紙切れ」の紙幣で買い物ができるのか?

「貨幣」とは「借用証書」である

中野 MMTが立脚しているのは「信用貨幣論」という学説です。
――信用貨幣論とは?
中野 イングランド銀行の季刊誌(2014年春号)の解説がわかりやすいので、それに基づいてご紹介しましょう。その解説は、「商品貨幣論が根強いけれども、それは間違ってます。信用貨幣論が正しいんですよ」という趣旨で書かれているのですが、そこに「今日、貨幣とは負債の一形式であり、経済において交換手段として受け入れられた特殊な負債である」という文章があります。要するに、貨幣は「特殊な借用証書」だというのが「信用貨幣論」なんです。
――ちょっと、何を言っているのかわかりません……。
中野 ですよね……。その季刊誌では、「信用貨幣論」の意味をわかりやすく説明するために「ロビンソン・クルーソーとフライデーしかいない孤島」という架空の事例を挙げています。
 その孤島で「ロビンソン・クルーソーが春に野苺を収穫してフライデーに渡す。その代わりに、フライデーは秋に獲った魚をクルーソーに渡すことを約束する」とします。この場合、春の時点で、クルーソーがフライデーに対して「信用」を与えるとともに、フライデーにはクルーソーに対する「負債」が生じています。そして、秋になって、フライデーがクルーソーに魚を渡した時点で、フライデーの「負債」は消滅するわけです。
 しかし、口約束では証拠が残りませんよね? そこで、約束をしたときに、フライデーがクルーソーに対して、「秋に魚を渡す」という「借用証書」を渡します。この「借用証書」が貨幣だというわけです。
――たしかに、クルーソーは、秋になってその「借用証書」をフライデーに渡せば、魚と交換できますから“貨幣っぽい”ような気はしますが、あくまでもクルーソーとフライデーの間での取り決めというだけではないですか?
中野 では、話を少しアレンジしましょう。
 この島には、クルーソーとフライデー以外に、火打ち石をもっているサンデーという第三者がいるとします。そして、サンデーが「フライデーは約束を守るヤツだ」と思っているとともに、「魚が欲しい」と思っていれば、クルーソーはフライデーからもらった「秋に魚を渡す」という「借用証書」をサンデーに渡して、火打ち石を手に入れることができるでしょう。
 さらに、この三人に加えて、干し肉を持っているマンデーという人もいたとします。そして、マンデーも「フライデーは約束を守るヤツだ」「魚が欲しい」と思っているとすれば、今度は、サンデーが例の「借用証書」をマンデーに渡して干し肉を手に入れることができるでしょう。
 その結果、フライデーは「秋に魚を渡す」という債務を、マンデーに対して負ったということになります。そして、秋になってマンデーがフライデーから魚を手に入れれば、フライデーの「借用証書(負債)」は破棄されるわけです。
――なるほど。たしかに、そのように「借用証書」が流通すれば、貨幣と言えそうですね。イングランド銀行の季刊誌が「貨幣とは負債の一形式である」と書いている意味が少しわかってきました。

【マネーの本質】なぜ、単なる「紙切れ」の紙幣で買い物ができるのか?

誰かが誰かに「負債」を負ったときに、「貨幣」は生まれる

中野 ここで重要なポイントが2つあります。
 第一に重要なのは、クルーソーとフライデーの野苺と魚の取引が、同時に行われるのではなく、春と秋という異なる時点で行われるということです。だからこそ、そこに「信用」と「負債」が生まれ、フライデーが負った「負債=借用証書」が貨幣として機能しているのです。
 もしも、野苺と魚を同時に交換する「物々交換」であったならば、取引が一瞬で成立するので、「信用」や「負債」は発生しません。そして、そこには「借用証書」=「貨幣」も必要とされないということになります。
――なるほど。そう考えると、先ほどのメソポタミアの粘土板に刻まれた記録の意味もわかる気がします。神殿や宮殿の官僚たちが、臣下や従属民から必需品や労働力を徴収するとともに、彼らに財を再分配していたとのことですが、徴収と再配分は異なる時点で行われるはずですから、誰からどれだけ徴収して、その人にどれだけ再配分しなければいけないかを記録する必要がありますものね。そして、その「信用」と「負債」の記録が貨幣の起源となった、と。
中野 そうです。だから、先ほど私は、「エジプト文明やメソポタミア文明には、ある種の信用システムがすでに存在していた」と言ったのです。貨幣は「物々交換」から生まれたのではなく、「信用システム」から生まれたのです。
――つまり、こう考えてもいいわけですか? フライデーがクルーソーに「秋に魚を渡す」という負債を負ったために「借用証書」が生まれたように、誰かが誰かに負債を負った瞬間に「貨幣」は生まれる、と。
中野 そういうことですね。貨幣を創造するとは、負債を発生させることだということなんです。これは「信用貨幣論」の非常に重要なポイントなので、よく覚えておいてください。
 ただし、ここで2つめの重要なポイントがあります。
 というのは、債務を負った人は「借用証書」を発行しますが、誰が発行した「借用証書」でも貨幣として流通するわけではないからです。負債には常に、「デフォルト(債務不履行)」、つまり借り手が貸し手に返済できなくなるという可能性があります。そこには、必ず「不確実性」が存在しているのです。
 だから、誰の負債でも、貨幣として受け取られるということにはなりません。先ほどのクルーソーたちの島でも、フライデーのことを「あいつは約束を守るヤツだ」と信頼していなければ、誰もフライデーの「借用証書」を受け取らないでしょうから、貨幣として流通することはないわけです。
 つまり、デフォルトの可能性がほとんどないとすべての人々から信頼される「特殊な負債」のみが貨幣として受け入れられ、流通するようになるのです。これを、イングランド銀行の季刊誌では、貨幣は「信頼の欠如という問題を解決する社会制度である」と表現しています。
――なるほど。つまり、信用貨幣論によれば、円・ポンド・ドルなどの貨幣は、デフォルトの可能性がほとんどない政府(中央政府+中央銀行)が発行する「借用証書」だから、貨幣として受け入れられ、流通しているということですね?
中野 まぁ、一応はそう言うことができますね。
――だけど、すごくモヤモヤします。1万円札が政府の「借用証書」だとしたら、それを政府に持っていったら何かをもらえるはずですよね? クルーソーがフライデーに「借用証書」をもっていったら、魚をもらえるように……。かつての金本位制のように「金」と交換してもらえるなら、「借用証書」だと思えますが、いまはそうではないですよね?

【マネーの本質】なぜ、単なる「紙切れ」の紙幣で買い物ができるのか?

それでしか税金を支払えないから、「紙切れ」に価値が生まれる

中野 そうなんですよ。実際、イギリスの5ポンド紙幣には「要求あり次第、合計5ポンドを所持人に支払うことを約束する」と述べる女王の姿が描かれているだけです。
――本当ですか? いくら女王様が保証してくださっても、5ポンド紙幣と引換えに、別の5ポンドを渡されるのでは意味がないですよ。そんな約束をしているだけの貨幣は、やっぱり“ただの紙切れ”としか言えないのではないですか? 信用貨幣論についていろいろお話を伺ってきましたが、「単なる紙切れの『お札』が、どうして『貨幣』として流通しているのか?」という最初の質問に、結局のところ応えられないじゃないですか?
中野 そんなに怒らないでください(笑)。
 MMTは、その問いにこう応えます。
 まず、政府は円やポンドやドルを自国通貨として法律で定めますが、次に何をするかというと、国民に対して税を課して、法律で定めた通貨を「納税手段」として定めるわけです。
 これで何が起こるかというと、国民にとって法定通貨が「納税義務の解消手段」としての価値をもつことになります。納税義務を果たすためには、その法定通貨を手に入れなければなりませんからね。ここに、その貨幣に対する需要が生まれるわけです。

 こうして人々は、通貨に額面通りの価値を認めるようになり、その通貨を、民間取引の支払いや貯蓄などの手段として――つまり「貨幣」として――利用するようになるのです。
 要するに、人々がお札という単なる紙切れに通貨としての価値を見出すのは、その紙切れで税金が払えるから、というのがMMTの洞察です。貨幣の価値を基礎づけているのは何かというのを掘って掘って掘り進むと、「国家権力」が究極的に貨幣の価値を保証しているという認識に至ったのです。
――なるほど……。つまり、フライデーが発行した「借用証書」をクルーソーがフライデーに持っていったら魚がもらえるように、政府が発行した「借用証書」を政府に持っていったら、「租税債務」を解消してもらえるということですね?
中野 そういうことです。
――たしかに、その説明には説得力を感じます。納税義務に違反すれば罰則を科せられるという「強制力」が、貨幣の価値の根本にあるというのはリアリティがありますよね。しかも、納税義務は国民に一斉に課すことができるものですから、一斉に貨幣需要が生まれることにもなります。

中野 ええ。国家の徴税権力というのは強烈な権力ですからね。それに、これは歴史的にも実証されていることです。

【マネーの本質】なぜ、単なる「紙切れ」の紙幣で買い物ができるのか?

歴史が証明する「貨幣の真実」

――そうなんですか?
中野 ええ。かつてヨーロッパでは、民間銀行が独自の銀行券を発行して流通させていました。たとえば、17世紀のイギリスにおける金匠銀行がそうです。金匠銀行は顧客から預かった貴金属などに対して金匠ノート(受領証)を発行し、それが「貨幣」として流通していました。
 ところが、金匠銀行が金庫に保管している貴金属を、顧客が一斉に引き出しにくることはないことに気づいて、預かった貴金属に基づかない金匠ノート(受領証)を発行して融資するようになりました。こうすることで貨幣流通量が増えて、イギリスの経済活動が活発になる一方で、金匠銀行の経営基盤が脆弱なために貨幣価値はなかなか安定しないという問題がありました。
 ところが、政府は、1694年に設立されたイングランド銀行に銀行券の発行業務の独占を認めるとともに(金匠銀行は発券業務を放棄)、イングランド銀行の銀行券を国家への納税などの支払い手段として認めるようになってから、貨幣価値が安定し始めたのです。
――へぇ、そうなんですね。
中野 これと同じような現象は、イギリスのみならず、近代ヨーロッパで数多く観察されることです。民間銀行が発行する銀行券にはデフォルトの可能性という不確実性が伴うため、貨幣価値が安定しなかった。その不確実性を最大限にまで低減し、貨幣に価値を与えたのが国家の関与であり、究極的には「徴税権力」だったというのがMMTの洞察であり、理解なんです。
 別の言い方をすれば、貨幣経済を扱うのは経済学の領域だと思われていますが、その貨幣の価値は「権力」という政治学の領域で基礎づけられているということになります。
――たしかに、そうなりますね。
中野 ただ、MMTは、貨幣が、納税とは無関係に、社会慣習によって交換手段として受け入れられる場合も確かにあると認めています。だから、MMTは、租税の支払い手段となることは、貨幣が人々に受け入れられる「必要条件」ではなく、「十分条件」だとみなしています。つまり、租税の支払い手段として法定通貨を定めれば、それを担保しうる徴税権力が確立した国家においては、必ず貨幣として流通するのだ、と。
――なるほど。
中野 さて、ここまで、ずいぶん遠回りをしたようですが、MMTの「貨幣論」の骨子をご理解いただけましたか?
――はい、一応……。
中野 では、話を先に進めましょう。
(次回に続く)
中野剛志(なかの・たけし)
1971年神奈川県生まれ。評論家。元・京都大学大学院工学研究科准教授。専門は政治経済思想。1996年、東京大学教養学部(国際関係論)卒業後、通商産業省(現・経済産業省)に入省。2000年よりエディンバラ大学大学院に留学し、政治思想を専攻。2001年に同大学院より優等修士号、2005年に博士号を取得。2003年、論文“Theorising Economic Nationalism”(Nations and Nationalism)でNations and Nationalism Prizeを受賞。主な著書に山本七平賞奨励賞を受賞した『日本思想史新論』(ちくま新書)、『TPP亡国論』『世界を戦争に導くグローバリズム』(集英社新書)、『富国と強兵』(東洋経済新報社)、『国力論』(以文社)、『国力とは何か』(講談社現代新書)、『保守とは何だろうか』(NHK出版新書)、『官僚の反逆』(幻冬社新書)、『目からウロコが落ちる奇跡の経済教室【基礎知識編】』『全国民が読んだら歴史が変わる奇跡の経済教室【戦略編】』(KKベストセラーズ)など。『MMT 現代貨幣理論入門』(東洋経済新報社)に序文を寄せた。