木曜日, 5月 02, 2019

クルーグマン vs フリードマン???

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クルーグマン vs フリードマン???

David Glasnerのヒックス論

David Glasnerの非常に興味深いブログのこのポスト Hicks on Keynes and the Theory of the Demand for Money でヒックスの論文を引いて、ケインズとヒックスが、限界革命以前に別々であった貨幣論と価値の理論を統合したか、そして「流動性選好」を使ったケインズの理論がいかに優れていたかを示している。

ヒックスは彼自身も同様な考えを持っていたがケインズのやり方の優位性を認めている。ヴィクセルはそこそこうまくやったが貨幣の限界効用へと導けなかった。ミーゼスも挑戦したが、彼は貨幣は限界効用を持たない、金のゴーストだと結論した。つまり、ケインズは多くの先人が失敗した、限界効用仮説に立脚した価値の理論に整合的な形で貨幣需要の理論を確立し、そのことをもって極めて重要な理論的進歩である、とヒックスは称賛するのである。

それゆえフリードマンが流動性選好仮説を受け入れないからといって、貨幣需要の理論をケインズとは無関係に確立したと主張することはできない、と指摘する。

So there was no excuse for Friedman to present a theory of the demand for money which he described “as part of capital or wealth theory, concerned with the composition of the balance sheet or portfolio of assets,” without crediting Keynes for that theory, just because he rejected the idea of absolute liquidity preference.

(それゆえ、フリードマンが完璧な流動性選好のアイディアをたんに拒絶したことを理由にケインズをクレジットせず、「バランスシートの構成あるいは資産のポートフォリオに関連する資本あるいは富の理論の一部として」貨幣需要の理論を提示した、というのは言い訳にならないのである。)

クルーグマン登場

これに反応したのがクルーグマンである。「過去の人、ミルトン・フリードマン」というポストで次のように述べている。

Friedman was indeed more or less a Keynesian, or maybe Hicksian — certainly that was the message everyone took from his Monetary Framework, which was disappointingly conventional. And Friedman’s attempts to claim that Keynes added little that wasn’t already in a Chicago oral tradition don’t hold up well either.

(実際のところフリードマンは多かれ少なかれケインジアン、あるいはひょっとしたらヒクシアンであった。もちろんこれは皆が彼の「Monetary Framework」から得たメッセージであったわけだが、この本の主張は残念なくらいに当たり前のものであった。そしてフリードマンは、ケインズは既にシカゴの口承伝統として存在したものにわずかばかり付け加えたに過ぎないと主張したが、それも妥当ではない。)

そして、ケインズ、あるいはハイエクでさえも復活している現在の経済論争の中で、フリードマンが存在感を欠いていることを指摘している。数年まででは考えられなかったことである。フリードマンが亡くなった時にはマンキューは世紀の経済学者として彼を讃え、バーナンキは90歳の誕生日に有名なスピーチをしている。

なぜか?とクルーグマンは問う。

Part of the answer is that at this point both of Friedman’s key contributions to macroeconomics look hard to defend.

(マクロ経済学に対するフリードマンの2つの貢献の両方が現時点で非常に疑わしくなったことが理由の一部として挙げられる。)

First, on monetary policy: Even if you give him a pass on the 3 percent growth in M2 thing, which was abandoned by almost everyone long ago, Friedman was still very much associated with the notion that the Fed can control the money supply, and controlling the money supply is all you need to stabilize the economy. In the wake of the 2008 crisis, this looks wrong from soup to nuts: the Fed can’t even control broad money, because it can add to bank reserves and they just sit there; and money in turn bears little relationship to GDP. And in retrospect the same was true in the 1930s, so that Friedman’s claim that the Fed could easily have prevented the Great Depression now looks highly dubious.

(一つ目は金融政策。M2などの貨幣供給量の3%成長について批判したとしよう。これは随分前にほとんど誰からも見向きもされなくなったものであるが、フリードマンはそれでもFRBはマネーサプライをコントロールできるし、マネーサプライのコントロールさえしていれば経済の安定は達成できるのだという観念に強く取り憑かれているだろう。2008年の危機の始まりの時、これは何から何までおかしいように見えた。FRBは広義流動性すらコントロールできずにいた。なぜなら銀行準備を増やしても、ただそこに居座るだけで、貨幣はGDPとの関連をほとんど失っていた。そして振り返ると1930年代に起きたことも同じであり、フリードマンの「FRBは大恐慌を簡単に防ぐことができた」という主張は非常に疑わしいものになった。)

Second, on inflation and unemployment: Friedman’s success, with Phelps, in predicting stagflation was what really pushed his influence over the top; his notion of a natural rate of unemployment, of a vertical Phillips curve in the long run, became part of every textbook exposition. But it’s now very clear that at low rates of inflation the Phillips curve isn’t vertical at all, that there’s an underlying downward nominal rigidity to wages and perhaps many prices too that makes the natural rate hypothesis a very bad guide under depression conditions.

(二つ目はインフレと失業についてである。スタグフレーションを予言したことによるフリードマン(およびフェルプス)の成功は、彼の影響力を本当に最高レベルに押し上げた。自然失業率仮説—垂直な長期的フィリップス曲線—はどの教科書にも記述されるようになった。しかし今となっては低いインフレ率の状態ではフィリップス曲線はまるで垂直ではないことが極めて明らかであり、名目賃金の下方硬直性のみならず、もしかしたら多くの価格の下方硬直性が存在することも明らかである。このとき、自然失業率仮説は恐慌的条件のもとでは非常にスジ悪な指針になるのである。)

フリードマンの問題はこれだけではない。と、クルーグマンは言う。

I’d argue, is that he was, when all is said and done, a man trying to straddle two competing world views — and our political environment no longer has room for that kind of straddle.

(彼は結局のところ2つの対立する世界を股にかけようとした男であった。そして今の政治状況はそのような男の存在を許さないのである。)

フリードマンは一方ではレッセフェールを語り、他方ではマクロ経済に関するリアリストであった。市場は不況や恐慌を解決することはなく、安定化政策が必要だと考えていた。しかし、その手段は金融政策で十分であり汚らわしい財政政策などは不要である、金融政策も裁量は一切不要であると主張した。

フリードマンは自由主義など一つの型に収まるような人間でないが、それゆえ今の世界で存在感を失っていると持ち上げる一方で、金融危機によりその理論的正当性に大きなクエスチョンマークがついたために存在感を失った、ともクルーグマンは語っている。そして最後に強烈な一文。

I suspect that a few decades from now, historians of economic thought will regard him as little more than an extended footnote.

(今から2、30年たつと、経済思想史家はフリードマンをちょっと長めの脚注程度に扱うであろう。)

個人的には非常に余計な一言だと思うが、これがクルーグマンらしさである。そして予想通りの波紋を呼ぶ。

to be continued…