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金曜日, 1月 15, 2010

坂本龍馬が見た世界地図:『新製輿地全図』(付:「藩論」)


                       (リンク::::::歴史学
NAMs出版プロジェクト: 歴史学:インデックス
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坂本龍馬が見た世界地図:『新製輿地全図』(付:「藩論」)
http://nam-students.blogspot.jp/2010/01/blog-post_15.html@

2014 取材中に龍馬直筆の手紙発見!はしゃぐ「突撃!アッとホーム」公式 - Togetter
https://freeassociations2020.blogspot.com/2021/07/2014-togetter.html 

坂本龍馬が発掘した人材が実現した金融財政政策 - シェイブテイル日記2http://shavetail2.hateblo.jp/entry/20140408
《坂本龍馬が発掘した人材が実現した金融財政政策 2014-04-08
世界の金融史上、デフレはどうやって脱却できたかはこのブログの大きなテーマのひとつです。 今回は明治維新前後に活躍した三岡八郎(由利公正)を取り上げたいと思います。…》

NAMs出版プロジェクト: 高杉晋作 花燃ゆ 第20話
http://nam-students.blogspot.jp/2015/06/20.html
2019/1/5 坂本龍馬 トーキングヒストリー
https://yomu.tv/slide.php?cid=KSc5n
https://yomu.tv/KSc5n 書き起こし
Image from Gyazo

先日NHKの『プロフェッショナル』という番組で紹介された、龍馬が親戚の家で見たという世界地図。
リンク藩論
坂本龍馬:「新国家」専心 暗殺5日前の書簡発見 - 毎日新聞
http://nam-students.blogspot.jp/2017/01/blog-post_13.html















調べてみると、『新製輿地全図』(しんせいよちぜんず、弘化2年、1845年)というものらしい。











箕作省吾(1821〜1947)なる人物がフランス製の地図を模写して版木にし、巻物に刷った日本初の世界地図である。
1845年制作説もあるが、1844年制作だと龍馬(1836-1867)が八歳のときのことになる。その時から流通したとしても、生前見たのは間違いないだろう。『近世日本の世界像 』(川村博忠著 p.212)によるとかなりそれまでの世界地図と比べ比較的広く普及したらしい。

参考:
http://www.tsuyama-ct.ac.jp/honkou/moyooshi/senjyou99/pamphlet/you_02.htm

番組ではこうした見取り図を先に見ているメリットについて、脳科学者の方が「メタ認知」と呼んでいた。
龍馬の最後の言葉は「脳ヲヤラレタ」だったらしいから、(脳に関する)そうした自覚を龍馬も持っていたかもしれない。

追記:坂本龍馬とプルードンを比較したことがある。

「坂本龍馬とプルードン」

http://plaza.rakuten.co.jp/yojiseki/diary/200408110000/

 プルードン(1809-1865)と坂本龍馬(1835-1867)は同時代人である。龍馬の方が25歳ほど若いが、彼らは同じ「敵」と戦った。
 それは具体的にはナポレオン三世という名前で指し示され得る国内外の植民地主義と言えるだろう。当時ナポレオン三世のフランスは小栗らの幕府に軍艦を貸して、薩摩、長州と戦わせようとしていた。この計画が実行されれば、龍馬が画策した維新もなかったといわれている(日仏借款に関しては、日本側にそれほど危険はなかったという説もあるが、フランスのアジアの他地域における植民地政策を見ればそうは断言できない)。またナポレオン三世は、フランスではプルードンの社会革命を封じ込めようとしていた。
 ここで彼らが同じ「敵」と戦っていたことが、彼らの類似を指し示すだけではなく、対等な経済取り引きにもとづく平等を彼らが指向していたことが最重要である。これは両者がともに政治革命ではなく、(自主管理を原則とする)社会革命を志向していたということである*。
 プルードンと坂本龍馬、両者の連合の理論は共に経済的裏付けのあるものだ。
 龍馬は刀をピストルに、そしてピストルを『万国公法』(漢訳国際法)に持ち替えたといわれるが、そうした「法にもとづく平等(龍馬の用語でいえば「ナラシ」**)」も両者に共通した指向である(龍馬は『万国公法』の出版を海援隊で計画していたという。海援隊が情報集団として再評価される所以である)***。
 プルードンは、政治革命に熱狂する大衆からひとり距離をおき冷静だった。同じように龍馬も、剣=武力に頼った改革からはひとり距離をおいていた。龍馬は朝鮮、中国との同盟も、商船を通じて模索していたという。その同盟の原理はプルードンの相互主義と一致していると言える。
 プルードンは回船業の会計をやっていた経歴があり、晩年の国際的同盟への関心は龍馬との同時代性を指し示すものだ。ちなみに下士の生まれである龍馬は、町人の系譜を持った家系だったことが特筆される。また龍馬の作った海援隊は、海軍の基礎ともいわれるが、同時にその商業のコンセプトは三菱汽船に受け継がれている(それ以前の1865年に龍馬が長崎に作った、海援隊の前身・亀山社中は日本最初の株式会社ヘの試みとして著名である)。
 思想的に龍馬がアナーキストだとは言えないが、龍馬が、トランスバーサルな指向を持っていたことと、『老子』を読んでいた形跡を考えると(龍馬は手紙で一度、老子を連想させる「自然堂」を号している。また、今日では『老子』はアナーキズムの源泉としてとらえられる)、プルードンと龍馬には同じアナーキーと言ってもよいような行動と思想を見出せる。両者の主要な思想は、その手紙からうかがえるというのも相互主義的な観点から見て興味深い共通点である。 
 今日、江戸の環境の視点からの見直しがすすんでいるが、龍馬の業績と33年の生涯(龍馬はプルードンの死の二年後の1867年に亡くなった)を振り返ったあとで見えてくるものは大きいに違いない。

追記(2009/12/15):

両者の目指したものは産業的民主主義とも言っていい。
**
黒鉄ヒロシの曾祖母が「均しの時代が来るぜよ」という龍馬の言葉を聞いている。
***
龍馬は韓非子の講義を聴いていたことがある。ろくに聞いていないのにそれはおかしいと講師の間違いを正確に指摘したと言う証言がある。ちなみに韓非子は老子に対して肯定的で、『韓非子』には老子に関する考察が多々見られる。









薩長同盟 - Wikipedia


ja.wikipedia.org/wiki/薩長同盟
薩長同盟(さっちょうどうめい)は、江戸時代後期(幕末)の慶応2年1月21日(1866年3 月7日)に小松帯刀邸(京都市上京区)で締結された、薩摩藩と長州藩の政治的、軍事的 同盟である。薩長盟約、薩長連合ともいう。


資料
坂本龍馬の『藩論』

 『藩論』は龍馬の死の一年後、明治元年(1968年)一二月、二〇〇部限定版として世に出た(原本は半紙16枚)。長らく原本は確認されていなかったが、明治期(1870年)に駐日英国大使H・パークスの尽力によって英訳が英国で活字化され、一部の研究者には知られていた。ここに引用するのはその英訳からの重訳である。もともと無署名であるが、その後、原本の発見と共に、研究が進み、現在では海援隊と龍馬の協同執筆という説が有力である。

 その主張としては、1、二院制議会政治の指向、2、普通選挙など庶民の政治参加(「国家ヲ理ムルノ権ハ 唯人心ノ向フ処ニ帰スヘシ」原文より)、3、天皇絶対主義の否定(「天下国家ノ事、治ムルニ於テハ 民コノ柄ヲ執ルモ可ナリ 乱スニ於テハ 志尊之ヲ為スモ不可ナリ」原文より)が挙げられる。第一部では旧武士層による上院、第二部では様々な階級による下院制度の構想を知ることができる。特に第二部の3は衆愚政治をさけるための再選制が唱えられており、より具体的である。影響力の面では疑問があるとはいえ、後の自由民権運動の嚆矢という側面を持つ。

 原本では「平均シテ」(第二部:2)という言葉が使われているが、龍馬の言葉としては「平均(ナラシ)の時代が来るぜよ」(黒鉄ヒロシ『坂本龍馬』表紙文より)という言葉が伝えられている。

 以下、『近代日本の反権力思想?龍馬の「藩論」を中心に』関家新助著、法律文化社1986.10(p41-51)より引用(文中に数カ所ある省略は引用者による)。同書には現代語訳の他に原文と英訳も収録されている。

追記:
『龍馬暗殺の謎 』(木村幸比古著、PHP新書、2007/3)に「藩論」の現代語訳が掲載された。

///////////////////////

『藩論』

   ー『藩論』と題する日本の小冊子の翻訳ー

第一部 変革の一般論

 尊王政治の思想を汲みて(流れを汲み)東西をとわず諸藩は、このところお互にそれぞれ藩政改革の断行をきそいあっている。概して、それらの一般的なやり方は、刷新の適用が極度に遂行されると、改革運動に賛成しない人達はうろたえるか、また、古い慣習の破棄が徹底的に遂行されないと、それに期待をよせる人達の失望は感きわまるものとなる。そこで、上層部においては、尊王政治の主要政策の追求を不可能ならしめ、また、下層部に対しては、民衆の賛同を勝ちとることに失放し、従って、枢機に参与する参議や政務を執行する役人達は共々心ひそかに苦悶することとなる。ある人々は、「維新」の深い意義を認めることができず、あてもなく一時の流行にはやり、せっかちにも、西洋の書物の翻訳に目をやるか、渡来した人々に西洋の社会制度について質問し、たんに西洋諸国の慣習を日本に導入することにより、すべてを満足に処理しようと望んでいる。また、ある人々は『王制復古』(すでに翻訳した『復古論』という小冊子に関する言及。原文注)の内面的意味を誤解し、空しくも文学的な空想家の気まぐれな考えにまどわされ、ただ史書にのみたより、現代を過去から規定し、たんに過去の方法を今日に適応して民衆を統治しようと試みている。あわれにも、これらはまさに並なる藩主達の態度である。彼らの知能は、航海に出、あたかも羅針盤を失ったかのように、為すすべを知らないかのごとくではないだろうか。かくして、未熟な藩主は、制度の盛衰、体制の興廃が自然法によってあらかじめ定められていることを知らず、無能な家臣は政策の成敗、法律の損益が時代精神に基づくことに気付かず、思うに、このよぅな藩主や家臣は書物を最初から通読し、章が進んでも、結局大意を読みとることができないたぐいに属している。

 概して、以上のような制度の制定や政策の遂行において、もしその目的が自然の法則と矛盾したり、それらの執行が時代の風潮に適合しないならば、それらの失敗はさけがたい。自然の法則が順応したり逸脱するのは、時代の精神に適応するか背反するかである。しかし、自然の法則をみきわめ、ある制度の長短をほぼ正確に評価しうる人は実際すくない。

(中略)

 さて、尊王政治が確立されるならば、その統治が人民の手にすら委譲されるべきとしても、それは正義であり正当である。逆に、国家の行政を混乱に導くならば、その政治が至尊(すなわち、帝<みかど>)によっておこなわれたとしても、それは不正義であり不当である。この原理は、国家権力の行使が世論の賛否に基づくということである。従って、尊王政治に適応するこの法則は藩政にも十分応用することができる。

(中略)

 天が人々に与える恩恵は、ある者には優れた能力および知性を、他の者には劣った能力と知性を授けている。疑いもなく、それにはそれなりの理由がある。しかしながら、優れた能力を授けられた人の数はすくなく、圧倒的多数の人々が浅学である。ゆえに、下層階級の人々は、大部分が愚鈍であり、彼らは瞬時の快楽を妨げるささいな苦しみに恐れる本能をもっている。彼らは容易に落胆し、また彼らの依存性はたとえ将来の利益が大きくともそれを識別することばできない。だから、薬を飲むことは不快であり、潰瘍の切開手術は苦痛である。しかし、その不快や苦痛を理由に人は投薬や手術を拒むならば、彼の病気は治りえないし、やがて彼は死ぬであろう。そして同じことは政治についてもいえる。

(以下略)

  第二部 改革着手の基調を開く

 諸藩の組織と慣習を概観すると、明らかに、ほぼ大部分はにかよっているが、官職の配列と官史の数という点では異なっている。しかしながら、二、三の例外を除いて、あらゆる諸藩にみられる一つの慣例がある。つまり、すべての藩では社会的地位に尊卑の差別が、官の等級に上下のの差別が、また禄高の支給には大小の差別等がある。

藩政改革の基礎となるもののなかで、まず留意しなければならない方法に次の三点がある。

 一 藩主は、まず第一に藩士に対して旧い慣習を廃止し、まったく新しい体制に着手すべき趣旨の訓令を示し、さらに、藩主は、この手順に関する見解の不一致と目的の変更をなくすために、全藩に対して特別な誓いをたてさせ、宣誓式をおこなってそれを承認させなければならない。

(中略)

 二 藩主は、まず前述のような誓約に基づいて藩士を把握し、次に、家格の差別といった慣例を廃止して、世禄の慣行に終止符をうち、従来切すべての位を無視して一挙にあらゆる職制を解体すべきである。かくして、日常における公の集会のように、完全に平等な社会を構成するためには、藩の全臣民を一様にし、かつ彼らを同一線上に平等化しなければならない。これが次の段階に達すると、藩の大きさや家臣の数に応じて、あらかじめ定則数を定め、各人をして個人が選ぶ人を立候補させること、すなわち、一般大衆の選挙制度によって、多くの支持者を制する優秀な人々が選ばれるような選抜方法をこおじなければならない。

(中略)

 三 以上のような公選制度の実施がひとたび採用されると、それによって選ばれてしかるべき候補者がそうでない人達から識別される。それがおこなわれると、次に、藩主は予備投票で選抜された一群の人々を採用し、あらたに定足数を指示して、再選・決選をおこない最も有能な人々を選ぶべく彼らに命じなければならない。そして再選・決選に敗れた残りの人々には次の機会を待つようにしなければならない。

 概して、普通選挙により有能な人々を選ぶという習慣は、西洋のあらゆる文明国家では広く普及しており、そこでは長い伝統をもった制度であるので子供ですら親しみをもっている。しかし、我国の諸藩ではまだこのような習慣が存在していることを聞かない。しかるに、その制度が優れた妙案であるとしても、藩内には、つねに愚かな人々がおり、またその制度が真に文明国家の習慣であるとしても、藩にはえてして愚鈍な者がすくなくない。従って、知者が愚者にその案を説明し、啓蒙的藩主が愚鈍な家臣とともにその案を実施することは、盲人に色の濃淡をたずね、聾者に音の強弱を聞くのとまさに同じたぐいである。一般に大衆はまったくそのような問題をかくのごとく理解していない。しばしば、彼らが選挙をおこなうべく命令をうけた場合、彼らは指導者としての資格を確めることもなく、ただ個人の好みや妬みによって投票するか、さもなくば、彼らは直接面識のある者のなかからその親しさの度合いによって選び、能力ある者を選びぬくわけでもなければ、無能な者をふるい落とすわけでもない。さらに、彼らは有力者の力を恐れて彼を支持したり、逆に、上層階級をきらって身分の低い人を退けたりする。かくのごときは、世間の諺にいう「親の心子知らず」という場合の子供の行為であるといえる。以上のことから、当然、単純投票で最多数をえた人を単純に任命することば必ずしも最適任者をえることにはならない。これが再投票の規定が作られなければならない理由である。最初の選挙で選ばれた候補者に委任して、彼らが全藩を代表し最大得票数という基本的原理を維持しながらも、再選・決選をおこなわざるをえない理由である。この意図は、もちろん予備選挙でなされたなんらかの誤りをその過程の反復において取り除くということである。

 以上のことを実施したと仮定して、藩内の最終選挙を完了すると、選出された者が再度明確に任証される。これが終ると、次に領内の庶民(武士でない町人・農民)の選挙に移らなければならない。

 あらたに藩主と家臣とのあいだで誓われた契約にはじまり、有能な人間の予備選挙から最終選挙にいたる前述の方法の実施は、藩主が単独でおこなうベきもので、かつての名門なる家柄や役人にあえて委任してはならない。さらに、藩主は今後と豊法権および行政権についても同様の条件を維持しなければならない。

 上記の投票による選挙制度の実際的な適用については、各藩の大小や家臣の数の相違により、いまここで明らかにすることはできない。この問題は次巻に警れ、領民の選挙の問題とともに扱われることになろう。

/////関家新助『近代日本の反権力思想ー龍馬の「藩論」を中心に』p41-51より////

参考サイト(海援隊に関して詳しい。『藩論』の表紙写真あり):

http://www2.inforyoma.or.jp/~kaien/html/ziken6.htm
(残念ながらリンク切れ、移転先を捜索中)


以下、20161105不思議発見TBSより
亀山社中の日誌に残るカステラのレシピ

一坂太郎 『わが夫坂本龍馬 : おりょう聞書き

わが夫 坂本龍馬 (朝日新書) Kindle版 [2010]
一坂 太郎 (著)

第3章
陸奥 (陽之助 ・宗光 )が]持って来た手紙は 、饅頭屋の長次郎 ( * 6 )さんが長崎で切腹した事を知らせて来たのです 。 「長次さんはまったく一人で罪を引受けて死んだので 、俺がおったら殺しはせぬのじゃった 」と 、龍馬が残念がっておりました 。



近藤や小松が再評価されるが、


以下が龍馬の真筆ならば○○○という統整的理念だけでも龍馬評価は揺るがない


https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%B0%E6%94%BF%E5%BA%9C%E7%B6%B1%E9%A0%98%E5%85%AB%E7%AD%96


新政府綱領八策

新政府綱領八策(しんせいふこうりょうはっさく)は、坂本龍馬慶応3年(1867年)11月に示した維新後新政府設立のための政治綱領である。現在龍馬自筆本が2枚残っており、国立国会図書館下関市立長府博物館に所蔵されている。

内容編集

第一義 天下有名ノ人材を招致シ顧問ニ供フ
第二義 有材ノ諸侯ヲ撰用シ朝廷ノ官爵ヲ賜イ現今有名無実ノ官ヲ除ク
第三義 外国ノ交際ヲ議定ス
第四義 律令ヲ撰シ新タニ無窮ノ大典ヲ定ム律令既ニ定レバ諸侯伯皆此ヲ奉ジテ部下ヲ率ユ
第五義 上下議政所
第六義 海陸軍局
第七義 親兵
第八義 皇国今日ノ金銀物価ヲ外国ト平均ス
右預メ二三ノ明眼士ト議定シ諸侯会盟ノ日ヲ待ツテ云云
○○○自ラ盟主ト為リ此ヲ以テ朝廷ニ奉リ始テ天下萬民ニ公布云云
強抗非礼公議ニ違フ者ハ断然征討ス権門貴族モ貸借スル事ナシ
慶応丁卯十一月 坂本直柔
第一義では幅広い人材の登用、第二義では有材の人材選用、名ばかりの官役職廃止、第三義では国際条約の議定、第四義では憲法の制定、第五義では両院議会政治の導入、第六義では海軍陸軍の組織、第七義では御親兵の組織、第八義では金銀物価の交換レートの変更 が述べられている。
船中八策を簡略化して書かれたような内容になっている。 違いとして注目されるのは後半部分の○○○の伏せ字である。徳川慶喜山内容堂松平春嶽など様々な説があるが定説は明確になっていない。文字通り、これを見る人々が自由に名前を入れて読むことができるようにしたともいわれている。

新政府綱領八策(国立国会図書館)

関連項目


20180301:
編集

85 件のコメント:

  1. http://www.kodokei.com/dt_011_6.html
    わえいつういんいろはべんらん
    和英通韻伊呂波便覧


    慶応四年戊申三月 土佐海援隊蔵版
    尚友堂刊、木版、21丁、26x17.5cm

    坂本龍馬が率いた土佐海援隊の出版物ですが、実態は原著「商貼外和通韻便宝」を丸写した海賊本
    です。 出版された頃には龍馬は暗殺されてこの本は見る事が出来ませんでしたが、作る段階では目
    を通していた可能性は有ります。 簡単な和英辞典のようなもので、英語の読み方まで振り仮名を振
    って大きな字で分かりやすく書かれています。 その他時計や磁石、和時計と英国時計を対比した時
    刻の見方などが説明されています。

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  2. http://www.wul.waseda.ac.jp/kotenseki/html/bunko08/bunko08_c0643/index.html
    商貼外和通韻便寳 / 巻菱湖,コンシュルフローエンド 書 ; 小原竹堂 校

    返信削除
  3. 商貼外和通韻便寳 / 巻菱湖,コンシュルフローエンド 書 ; 小原竹堂 校
    ショウテン ガイワ ツウイン ベンポウ
    shoten gaiwa tsuin benpo
    ●このタイトルで早稲田大学蔵書目録を検索●
    著者/作者 巻 菱湖, 1777-1843
    マキ, リョウコ
    maki, ryoko
    ●この著者/作者で早稲田大学蔵書目録を検索●

    小原 竹堂
    オハラ, チクドウ
    ohara, chikudo
    ●この著者/作者で早稲田大学蔵書目録を検索●
    内容等 請求記号:文庫08 c0643
    出版書写事項:安政7[1860]序 宝善堂, 東都(江戸)
    形態:1冊 ; 28cm
    書名は題簽による 序題:和英接言
    序:宝善堂主人
    洋書調所改
    共同刊行:須原屋茂兵衛(東都)ほか
    和装
    印記:勝俣氏旧蔵書
    勝俣銓吉郎旧蔵
    キーワード 古典籍
    洋学文庫
    洋学(蘭学)
    勝俣銓吉郎
    公開者 早稲田大学図書館

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  4. 坂本龍馬の「藩論」から知る「140年経っても変わらない日本」 - 龍馬 ...
    PHP新書木村幸比古著「龍馬暗殺の謎」の巻末に第二海援隊を率いた長岡謙吉ら により明治元年12月に刊行された「藩論」の原文と説明文があった。140年たっても さして変わらない日本を感じた。「藩主」は「国会議員・政治家」に、「家臣」は「 ...
    blogs.yahoo.co.jp/ryoma_3260/9801949.html
    坂本竜馬とデモクラシー
    ところで、坂本龍馬のデモクラシーを知る上で、欠かすことのできない図書がある。それ が『藩論』である。しかし、『藩論』を知る人は意外に少ない。『近代日本の反権力思想 龍馬の『藩論』を中心に』(関家新助著※)によると、『藩論』は木版刷りで明治元年に 発行 ...
    homepage3.nifty.com/morrio/back2/history/ryoma.htm

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  5. 少年期 - 高知県立坂本龍馬記念館|調べる|龍馬の生涯
    http://www.ryoma-kinenkan.jp/study/life/1.php
    少年期


    坂本龍馬は、天保6(1835)年11月15日※、高知城に近い本町1丁目(現在の上町1丁目)に生まれた。父・八平(はちへい)、母・幸(こう)の間にはすでに4人の兄姉があり、龍馬は末っ子である。兄・権平(ごんぺい)とは21歳も歳が離れており、長女・千鶴(ちづ)とは19歳離れていた。次女の栄(えい)は生没年が分からないが、龍馬が最も慕っていた三女の乙女(とめ)は3歳年上であった。
    坂本家の本家は才谷屋(さいだにや)という商家で、龍馬の家はそこから分家して郷士の株を取得した下級武士の家であった。

    龍馬は幼い頃、愚童であったという説があるが、記録は全く残っていない。12歳から通い始めた楠山(くすやま)塾はすぐにやめてしまう。一説には上士の子と喧嘩(けんか)をして、喧嘩両成敗ということで父・八平がやめさせたともいわれている。この年に母・幸が亡くなり、以後龍馬は2番目の母・伊与(いよ)に教育を受ける。龍馬と乙女は、伊与の最初の嫁ぎ先であった川島家へ度々遊びに行き、「ヨーロッパ」というあだ名を持つ川島猪三郎(いさぶろう)から世界の話を聞いていた。


    14歳になると龍馬は日根野道場へ入門し、小栗(おぐり)流の剣術などを習い始め、めきめきと腕前を上げ、19歳の時に江戸へ剣術修行に出かけた。

    ※ 太陽暦では1836年1月3日


    2013-11-02
    251ch
    スカパー
    坂本龍馬Hch
    川島家にある世界地図

    海廻業との関連がプルードンと似ている

    返信削除

  6. http://ameblo.jp/ehime-ryoma/entry-10985728369.html
    太平洋を見ながら育った龍馬の本家は、「才谷屋」という城下でも指折り数えられる豪商でした。この才谷屋は質入れ業から酒造業、呉服商そして諸物品販売をおこなっており、九州から上方、江戸まで取引を広げていたと言われています。その付き合いから廻船問屋とも取引があり、海の向こうの情報は幼い龍馬にも身近なものとして聞かされていたと考えます。
    そして、それを決定づけたのは、川島家の人達です。龍馬の生母は12歳の時に他界しています。継母・伊与は海の近く種埼浦にある御船蔵御用商人で廻漕業を兼ねる川島家から再嫁した人でした。この川島家に龍馬は、姉・乙女とともに船を漕いで度々訪れたと言います。龍馬が13歳から江戸に出る19歳までの間のことです。
     当時の川島家の当主は、川島猪三郎と言い、廻漕業のかたわら学問を修め歌人でもありました。西洋事情に明るく、村の人は「ヨーロッパ」さんと呼んでいたと言います。この川島家には猪三郎が持っていたという弘化元年(1844)に作られた万国地図があり、龍馬も猪三郎から見せてもらったはずです。その後に出会う河田小龍や勝海舟との邂逅と共感は、この少年時代の影響が大きいのではないでしょうか。「海」と「船」への龍馬の興味は、この頃から強くなったと思います。

    返信削除
  7. 新製輿地全圖 大きさ: 34.0×141.5 cm 解像度: 354 dpi(Max) 戻る
    2-8 新製輿地全図 箕作省吾 弘化元(1844)年
    * 1835年に刊行されたフランス版世界地図をもとに、高橋景保の『新訂万国全図』(文化7(1810)年完成)の図形を踏襲して作図したもの。本図は、植民地支配をカタカナの記号で示している点に特色がある。

    返信削除
  8. http://www.tulips.tsukuba.ac.jp/exhibition/kochizu/gazou/lime/2-8.html
    flash
    朝鮮海の記述あり

    返信削除
  9. 【バースデイ】坂本龍馬、178回目の誕生日を祝う祭
    1 :ベガスφ ★:2013/11/15(金) 22:37:24.56 ID:???
    "龍馬の178回目の誕生日を祝う"

    幕末に活躍した坂本龍馬の誕生日と命日に当たる15日、全国の龍馬ファンが高知市に集まり、
    178回目の誕生日を祝う「龍馬誕生祭」が開かれました。

    この催しは、坂本龍馬の生誕の地である高知市上町の住民らが毎年開いていて、
    178回目の誕生日と命日に当たる15日は、全国の龍馬ファンらおよそ120人が集まりました。

    催しでは、龍馬生誕の地を示す石碑と龍馬の肖像画の前で神事が行なわれ、
    参加者らが玉串をささげて龍馬の功績をしのびました。
    このあと、地元の小学校に通う6年生の児童2人が龍馬に宛てた手紙を読み上げ、
    このうち伊東実穂さんは、「龍馬の生まれた町で学校生活を送れることを誇りに思います。
    人との出会いを大切にして自分の意見を持てる龍馬のような人になりたいです」と話していました。

    地元に住む86歳の女性は、「私たちの町から龍馬さんが生まれたことをありがたく思って毎年、
    誕生日にはここにお礼に来ています」と話していました。

    http://www3.nhk.or.jp/news/html/20131115/K10030877411_1311151451_1311151530_01.jpg
    11月15日 14時50分
    http://www3.nhk.or.jp/news/html/20131115/k10013087741000.html

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  10. http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=400&m=211376
    江戸の銀高金安による金の流出構造
     
    ファイテイングドックス 09/07/23 PM09 【印刷用へ】
    江戸末期には、日本の金が流出した。
    金銀の価値比率がその原因だが、その構造を紹介する。

    (引用開始)
    <江戸時代の貨幣制度 銀高金安>より(リンク)
    江戸時代末期、国内の金銀の相対比価は1対5でした。これに対して国際相場は1対13~16。海外の相場から大きく乖離し、「銀高金安」が進んでいたということです。もともと江戸時代の金相場は物価と相反する動きをしてきました。すなわち、物価上昇期には金相場が下落(銀高)が起こり、反対に物価下降期には金相場が上昇(銀安)が生じていたのです。
    しかし1850年以降には物価が加速度的に上昇しました。幕末になると、開港によって銀貨が「同種同量の原則」に基づき、素材価値は低いが重量のある洋銀と両替されることになりました。
    ここで洋銀→一分銀→小判→洋銀という裁定(利ザヤ取り)取引によって、相当量の金貨(小判)が海外へ流出する事態が発生しました。利益に敏感な米英の貿易商人や金融業者たちはもちろんのこと、各国の大使や公使までもが小判を買いあさりました。幕府は金貨の流出を防ぐために再び金貨を改鋳し、品質を落し、さらにインフレを助長したのです。現在なら内閣の閣僚は「即刻退陣」というところでしょう。
    「幕末の改鋳が江戸幕府を滅ぼした」と分析する経済学者は、改鋳により金貨の海外流出が進み、国内の通貨の価値を下落させ、物価高騰が起こり、経済混乱を招いたことで、討幕の動きが活発になったと指摘しています。
    江戸幕府が発行した最後の小判となった「万延小判」は、それまでの3分の1の大きさになり、純金量も慶長小判の約1/8しかありませんでした。下記にその推移を記します。
    ●慶長小判の金の含有量 15.351グラム
    ●元文小判の金の含有量 8.45グラム
    ●文政小判の金の含有量 7.28グラム
    ●天保小判の金の含有量 6.39グラム
    ●安政小判の金の含有量 5.13グラム
    ●万延小判の金の含有量 1.824グラム
    (万延小判からすれば、慶長小判の金の使用料は約8.4倍。幕末には、同じ金の量で8倍もの枚数の小判を発行していたということです)
    (引用おわり)

    江戸末期には、大量の日本の金が流出した。
    価値比率により儲けを狙った米英の貿易商人や金融業者達によるものだ。江戸幕府に開港を強要し、鎖国解除後に流出が起こっていることからも、欧米の金貸しなどによる圧力であると考えられる。

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  11. バイきんぐお手柄 龍馬の手紙を発見  2014年4月8日

    坂本龍馬が暗殺される前の10日以内に書いた手紙が発見され、大ニュースとなっているが、
    実はNHK総合のバラエティー「突撃!アッとホーム」(土曜、後8・00)の番組ロケで
    お笑いコンビのバイきんぐが“発掘”したものだった。

    番組の公式サイトが伝えているもので、12日の放送ではそのお手柄に至る経過と、
    専門家による鑑定額も公表される。

    また、準レギュラーとして出演している女優・足立梨花(21)は7日、ブログでその驚きを伝えた。
    「いま話題になってます坂本龍馬の手紙。直筆の手紙が見つかったってやつ!『突撃!」アッとホーム』
    のロケで見つけたみたいなんです。すごい大発見みたいで…!」

    バイきんぐが担当しているのは、「突撃!アッとホーム」の中で、家族との思い出に絡む宝物を
    紹介してもらう“ファミリートレジャーハンティング”企画。番組の公式サイトでは「大発見!!」
    とのタイトルを付けて「バイきんぐがロケで偶然出会った女性に見せてもらったのは、なんと幕末の英雄、
    坂本龍馬の手紙。これが専門家も驚く大スクープに!」と番組内容を予告している。

    また、サイトにはバイきんぐが手紙の持ち主である主婦に街頭インタビューしている写真も掲載されている。

    12日に放送される番組の収録は既に終わっており、足立は「そんな手紙…こんな間近で見ちゃったよー!笑」と、
    ブログに手紙との“ツーショット”を添付、「すごい。すごい。すごい。なんかテンションあがりました」と、
    バイキングのお手柄に興奮している。

    デイリースポーツ on line
    http://www.daily.co.jp/newsflash/gossip/2014/04/08/0006846802.shtml

    足立梨花オフィシャルブログ 坂本龍馬の手紙
    http://ameblo.jp/rika-adachi/entry-11816571488.html

    大発見!! 英雄・坂本龍馬の手紙!
    http://www.nhk.or.jp/athome/onair/20140412.html

    見つかったぜよ…暗殺直前に龍馬が書いた推薦状
    http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20140408-00050013-yom-ent
    http://amd.c.yimg.jp/amd/20140408-00050013-yom-000-4-view.jpg

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  12. 現代語訳
    越前行きの記
    十月二十八日福井に到着しました。奏者役(取り次ぎ役)の伴圭三郎が来たので(後藤から)預かった書簡(八月二十五日付松平春嶽宛て山内容堂書簡)を渡しました。直柔(私)の役名を問うので、海援隊惣官と答えました。
    その日の夜、大目付村田巳三郎が来て、用向きを問うので、近頃の時勢などを申し上げその上で越前藩(春嶽侯)のご意見を伺い、およそ明白な国論を海外までも聞かせなければならないと考えていることを伝えました。さて、この度こそ私たちも御国論を伺うことを心から願っています。村巳(村田)が言うには、老主人(春嶽)の出京は来月(十一月)二日に決まったが、多忙なのでお目にかかれませんでした。しかし、前条お尋ねのこと(国論を伺いたい旨)は、拙者(村田)より申し上げます。そうなれば、老主人出京後、かれこれ手順もあるでしょうが、将軍家が政権をお返ししたとなれば、将軍の職も共にお返ししなければ、とてもご反省していると申しても天下の人心の折り合いが付きません、と福井藩では考えています、云々。翌二十九日奏者役伴圭三郎が来て、返書を受け取りました。

    三十日朝、三岡八郎及び松平源太郎が来ました。但し、三八(三岡)に面会したい事は昨夕村巳に頼み置いたことです。三八は先年、罰を受けて幽閉されており、他国人に面会は堅く止められていたので、藩の政府の議論により、藩主側の中老が差し添えられました。それゆえに、三八が来た時、松平源を見て、「私は悪党ゆえ君側より番人が参りました」と言えば
    松平源も共に笑っていました。それより近頃の京都情勢を前後残らず談論し、話し尽くしました。
    深くお考えください。三八が言うには、将軍家が真に反省すれば、
    どうして早く形を以て天下に示さないのだろうか。近年来幕府は失策ばかりで、その上言葉で言うだけでは、天下の人が皆信じないだろう云々。(行動で示せということ) これより国で用いる金銭の事を論じました。かつて春嶽侯が総裁職(政事総裁職=文久三年=一八六三年)だった時、三八自ら幕府勘定局の帳面を調べたところ、幕府の金の内情は、ただ銀座局ばかり(本来、金座・銅座・銭座などがあるが機能していないという意味か)で、気の毒がっていました。お聞き置きください。総じて金銀物産等の事を論ずるには、この三八を置いて他に人はいません。

    十一月五日京都に帰り福岡参政(福岡孝弟)に春嶽侯の御返書を渡しました。
    大よそ右のようなことです。謹言
    直柔
    後藤先生

    近日、中根雪江(越前藩重臣)は、春嶽侯のお供。村田巳三郎は越前に残る。他の家老はかなりの者が京都へ出るとのことです。
    再拝再拝

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  13. 原文
    越行の記
    十月廿八日福井ニ達ス奏者役
    伴圭三郎来ル御書を相渡ス
    直柔が役名を問ふ、海援隊惣
    官を以てことふ
      同夜
    三十日朝大目付村田巳三郎来ル。
    用向無之哉を問ふニ曰ク、近時云々
    を言上仕り其うへ御論拝承仕度
    およそ明白なる国論を海外迠も
    不聞を恐るゝことニ御座候。扨此
    度こそ私共も御国論拝承仕り度
    心願在之候。村巳曰ク老主人出京
    も来月二日ニ取定めたり、事
    多端なれバ御目にかゝり不申。然ニ
    前條御尋の如きハ拙者より
    申上候。されバ老主人出京後彼
    是手順もあるべけれども将軍
    家政権を御帰しとなれバ将
    軍職も共に御帰し不被成ては
    とても御反正と申ても天下の人
    心折合不申と国論こゝに
         同廿九日
    在之候云々、此夜奏者伴
    圭三郎来り御答書を受
    取ル

    ■丗日
    朔日朝、三岡八郎及松平
    源太郎来ル 但シ三八に面会の事を昨夕
          村巳に頼置しニ三八儀は
    先ン年押込メラレし後ハ他国人ニ面会
    かたくさしとめられたり。故ニ政府の論儀ニより
    君側中老役松平源をさしそへたり。
    其故にや三八が来りし時、松平源を目
    して、私しハ悪党故君側より番人が
    参りました、といへバ
    松平源も共に笑ふ 夫より近時京
    師の勢前後不残談論ス
    此談至り尽シタリ
    深ク御案可被下  三八曰ク将軍家信
     反
    ニ返正すれバ何ぞ早く形を以て
    天下に示さゝる近年来幕
    府失策のミ其末言葉を以
    する事ハ天下の人皆不信さ
    るなり云々是より金銭国用
    の事を論ズ曽而春嶽侯
    惣裁職たりし時三八自ラ幕
    府勘定局の帳面をしらべしに
    幕の金の内つらハ唯銀座
    局斗りなりとて気の毒がり居
    候御聞置可被成候惣じて金
    銀物産とふの事を論じ
    候ニハ此三八を置かバ他ニ人な
    かるべし
    十一月五日京師ニ帰ル福岡
    参政に越老侯の御答書を渡ス
    右大よふ申上候謹言
    直柔
    後藤先生

    近日中根雪江は越老侯
    の御供村田巳三郎ハ国本のこる家
    老ハ可なりのもの出るとのこと再拝再拝

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  14. 解説
    慶応三年(一八六七)一〇月一五日に土佐藩の建白を基に、大政奉還が成立した。仕掛け人である龍馬と後藤象二郎は、その後の新政府のあり方を検討しており、その中で、越前福井藩の前藩主である松平春嶽の上京は必須と考えていた。本来土佐藩参政(実質、政治を司っている重役)である後藤本人が越前へ行くべきところだが、後藤は前土佐藩主・山内容堂に報告する必要があり、土佐へ帰るため、越前へは龍馬を代わりに派遣する。容堂と春嶽は親友で、幕府や日本の今後の展望に共通する考えを持っていた。また、薩摩・長州の武力倒幕論を押さえるためにも、容堂と春嶽の足並みを揃えた力が必要であった。そのため、龍馬と後藤はそれぞれに現状を説明しに行ったのだ。さらに、龍馬は以前から福井藩士三岡八郎(のちの由利公正)が財務に明るいことを知っており、新政府の財政担当として引き出すことを考えていた。
    龍馬の越前行きは、同行する岡本健三郎という土佐藩役人に出した同年一〇月二四日付け龍馬書簡(現存)で確認できる。同日、後藤から預かった書簡を持って、越前へ岡本と共に出発する。龍馬が預かった書簡は、容堂が春嶽に宛てた書簡で、八月二五日に書かれたもの。大政奉還前、上京する後藤に、いずれ春嶽への面会が必要になると思って持たせていたもので、それを龍馬が持って行ったことになる。(『山内家史料 幕末維新 第七編』)
    龍馬と岡本は、二八日に越前へ到着。越前での行動は、これまで龍馬や土佐藩側の記録が無く、福井藩の資料や、三岡の回顧録でのみ知ることができていた。しかし、最も詳しかった三岡の回顧録は、維新後時間を置いて語ったものだったので、正確かどうかは分からなかった。この文書は、三岡の談話を裏付けるもので、龍馬のリアルタイムの記述なので、大変価値が高い。
    龍馬と岡本は、一一月三日に越前を離れ、五日に帰京したことは、土佐藩重役の神山郡廉の日記で確認できる。後藤は龍馬の帰京を待たず、一一月三日に京を離れ、六日に土佐へ帰り着いていた。
    龍馬の越前行きは、後藤からの依頼であるため、後藤に対して復命の義務がある。また、春嶽と容堂の足並みを揃える意味からも報告の必要があった。そのため、本書簡は、後藤への復命書のようなもので、見え消しがあることや日付がないことから、草稿と考えられる。おそらく清書したものを土佐へ郵送したのだろうが、その文書は現在確認されていない。

    原文、現代語訳、解説
    『高知県立 坂本龍馬記念館』三浦夏樹主任学芸員
    http://www.nhk.or.jp/athome/onair/20140412c01.html#letter


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  15. <龍馬の手紙>鑑定額は1500万円 NHKの番組で発表
    まんたんウェブ 4月12日(土)20時24分配信

    「突撃!アッとホーム」で発見された坂本龍馬の文書=NHK提供
     NHKの情報バラエティー番組「突撃!アッとホーム」のロケで発見された坂本龍馬が暗殺される直前に書いた書簡「越行の記」の草稿とみられる文書の鑑定額が1500万円だったことが分かった。12日放送の同番組で発表された。

    【写真特集】衝撃の大発見 文書の検証写真を一挙公開

     文書は、東京都国立市の主婦の父が約30年前に古物商から1000円程度で購入したもので、主婦宅のちゃぶ台の下に置きっぱなしになっていた。古書店・安土堂書店の八木正自さんが番組に登場し、「新発見の手紙」「天下国家を論じた優れた内容」「桂小五郎(木戸孝允)が持っていた可能性がある」として鑑定額が1500万円であることを発表。番組のMCを務めるお笑いコンビ「さまぁ~ず」の三村マサカズさんは「何百万円かと思った……」と鑑定額に驚いた様子を見せた。

     龍馬直筆の手紙は2010年以来、約4年ぶりの発見で、文書は739字にもおよぶ。土佐藩の後藤象二郎に宛てた文書で、大政奉還後の新政府の財政担当者として福井藩士の三岡八郎(後の由利公正)を推す内容。龍馬が暗殺される近江屋事件直前の慶応3年11月5~15日(1867年11月30日~12月10日)に書かれたという。

     龍馬が大政奉還後、福井藩を訪れ、三岡と面会したことは以前から知られている。三岡は新政府の基本方針を示した「五箇条の御誓文」の起草に参画し、財政政策に携わった人物。2人の会談は三岡の回顧録で明らかになっていたが、龍馬が会談について記した資料が見つかったのは初めて。高知県立坂本龍馬記念館、下関市立長府博物館、京都国立博物館の鑑定によって本物であることが分かったという。

     番組「突撃!アッとホーム」は、全国の家族を取材し、笑えたりするエピソードを紹介する番組で、文書は3月にスタートした家族の思い出がつまった宝物を見せてもらう新コーナー「ファミリー トレジャー ハンティング」で発見された。番組放送後、公式サイトで文書の全文を公開。文書は、高知県立坂本龍馬記念館に寄託され、近日中に一般公開される予定。 

    【関連記事】

    http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20140412-00000011-mantan-ent


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  16. 【芸能】バイきんぐ発掘“坂本龍馬の手紙”の価値は1500万円!
    1 :三毛猫φ ★@転載禁止:2014/04/12(土) 22:54:39.91 ID:???0
     お笑いコンビ「バイきんぐ」がテレビ番組のロケ中に発見し、大きな話題となった
    坂本龍馬直筆の手紙の草稿に、1500万円の価値があることが、12日に放送された
    NHK情報バラエティー「突撃!アッとホーム 坂本龍馬 最後の手紙!? まさかの
    大発見しましたSP」で明らかになった。この“お宝”文書は高知県立坂本龍馬記念館に
    寄託され、近日中に一般公開される。

     龍馬の手紙は、番組の新コーナー、家族の思い出がつまった宝物を探す
    「ファミリートレジャーハンティング」で、バイきんぐの2人が都内で行った街頭インタビューから
    発見につながった。

     女性へ声を掛けたところ「父が美術商から“龍馬直筆の手紙”を買った」と話したことで、
    存在が判明。その後、女性の自宅を訪問。手紙の草稿はちゃぶ台の下に無造作に保管されていた。

     複数の研究者、専門家が「鳥肌が立つ」「トップクラスの重要性」と驚がくし、本物と鑑定された
    手紙は、女性の父親が約30年前に1000円で購入したという。この日放送された番組内で鑑定し、
    その価値は「1500万円」と発表されると、スタジオは騒然となった。

    、手紙は幕末に龍馬が暗殺される直前、土佐藩の重臣後藤象二郎へ宛てたもので
    「生前最後の手紙」の草稿という。内容は龍馬が大政奉還後の新政府の財政担当者として推薦した
    福井藩士に会ったことを報告している。

     同番組HPでは、この手紙の全文を「原文」と「現代語訳」で公開している。

    http://www.sponichi.co.jp/entertainment/news/2014/04/12/kiji/K20140412007963100.html

    NHK「突撃!アッとホーム」
    http://www.nhk.or.jp/athome/

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  17. http://ja.wikipedia.org/wiki/由利公正
    由利公正
    日本の政治家
    由利 公正
    ゆり きみまさ

    由利公正
    生年月日 文政12年11月11日
    (1829年12月6日)
    出生地 越前国足羽郡福井城下
    没年月日 明治42年(1909年)4月28日
    東京府知事
    任期 明治4年7月23日(1871年9月7日) - 明治5年7月15日(1872年8月18日)
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    福井市中央公園の由利公正像
    由利 公正(ゆり きみまさ(こうせい)[1]、文政12年11月11日(1829年12月6日) - 明治42年(1909年)4月28日)は、日本の武士(福井藩士)、政治家、実業家。子爵、麝香間祗候。旧姓は三岡。通称を石五郎、八郎。字を義由、雅号に雲軒など。
    目次 [非表示]
    1 来歴
    2 政策
    3 人物
    3.1 名乗りについて
    3.2 家族
    3.3 坂本龍馬
    4 脚注
    5 関連項目
    来歴[編集]
    文政12年(1829年)、福井藩士・三岡義知(100石)の嫡男として越前国足羽郡福井城下に生まれる。嘉永6年(1853年)に家督相続。福井を訪れた横井小楠の殖産興業策に触発され、横井から財政学を学ぶ。橋本左内らと国事に奔走し、藩主・松平慶永から財政手腕を評されて抜擢され、藩札発行と専売制を結合した殖産興業政策で窮乏した藩財政を再建する。
    慶永が幕府政事総裁職に就任すると、慶永の側用人に就任する。長州征伐では、藩論を巡って対立した征伐不支持と薩摩藩や長州藩など雄藩支持の両派の提携を画策したものの、支持が得られず福井にて蟄居・謹慎処分となった。謹慎中に坂本龍馬の来訪を受けて交流を深める。坂本とは新政府が取るべき経済政策について談義し、このことが新政府への参画を求められたことへ結びついたのだと後に語っている。
    明治維新後、土佐藩の福岡孝弟らと共に五箇条の御誓文の起草に参画した(公正が作成した「議事之体大意」が原文となっている)。新政府では徴士参与として、金融財政政策を担当する。会計事務掛・御用金穀取締として、会計基立金募集や太政官札発行、商法司設置など積極的な政策を推進したものの、太政官札の流通難など政策に対する批判が高まった結果、明治2年(1869年)に辞職するに至った。
    明治4年(1871年)に東京府知事に就任。明治5年(1872年)5月、岩倉使節団の随行に加わることになりアメリカ、ヨーロッパへ渡航し、各国の自治制度・議会制度などを研究。明治7年(1874年)、板垣退助や江藤新平らと共に、政府に対して民撰議院設立建白書を提出する。
    明治8年(1875年)に元老院議官に任ぜられ、明治20年(1887年)に子爵に叙せられる。明治23年(1890年)には貴族院議員。同年10月20日、麝香間祗候となる[2]。明治27年(1894年)3月、京都にて有隣生命保険会社の初代社長に就任した。明治42年(1909年)に没す。享年81。



    人物[編集]
    名乗りについて[編集]

    生誕後、福井藩士時代までは「三岡八郎」の名を用い、明治維新後に「由利公正」に名を改めた。由利公正の読みについて「こうせい」か「きみまさ」かで長く議論があったが、「Yuri Kimimasa」とローマ字で自ら署名した東京府知事時代の公文書が平成26年(2014年)3月に発見された為、由利公正の読みについて福井県は「『ゆり・きみまさ』として今後は読みを行う」とする意向を示している[3]。

    家族[編集]
    公正の母親は家政の切り回しが上手な賢婦人として知られ、公正は幼少の頃より母を助けて家屋の修繕や菜園での農作業、父の乗馬の飼育などを手伝った一方で武道にも励んだとされる。
    坂本龍馬[編集]
    坂本龍馬とは大変気が合ったようで、龍馬2度目の福井来訪時、足羽川近くの山町のたばこ屋旅館にて、早朝から深夜まで延々日本の将来を語り合ったという。当時、謹慎中の公正には立会人として藩士が付き添ったにもかかわらず、龍馬は遠慮せずに「三岡、話すことが山ほどあるぜよ」と叫んだと伝えられる。五箇条の御誓文の原文となった「議事之体大意」は龍馬の船中八策(「船中八策」については史料上の疑義が多く、史料として現存している「新政府綱領八策」ではないかとの説もある)と思想的な基本が共通している。龍馬は公正と会見して帰京した時期に「新政府綱領八策」を自筆しているが、2014年にこれに関連する下書きが発見された[4]。
    龍馬2度目の福井訪問から約1週間後、公正は福井城下にて足羽川沿いの土手を歩いていた。そのとき突風が土手を歩く公正を襲い、懐中に忍ばせておいた龍馬の手紙を落としてしまった。そのときが京都にて龍馬が暗殺されたときだったという巷談が残る。
    脚注[編集]

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  18. 脚注[編集]
    [ヘルプ]
    ^ 国立国会図書館ホームページ 近代日本人の肖像
    ^ 『官報』第2195号、明治23年10月22日。
    ^ 由利公正、「きみまさ」読みで公務 署名の公文書を福井県が発見 福井新聞 2014年3月26日閲覧(Web魚拓による保存措置)
    ^ [1]

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  19. http://megalodon.jp/2014-0407-1934-40/www.fukuishimbun.co.jp/localnews/society/49389.html
    記事一覧
    由利公正、「きみまさ」読みで公務 署名の公文書を福井県が発見
    (2014年3月26日午前7時05分)


    ローマ字で「Yuri Kimimasa」(下)と署名されている明治時代の公文書(福井県提供)



     福井藩出身の幕末の偉人、由利公正が東京府知事時代に署名した公文書が見つかり、公務上「きみまさ」の読みを使っていたことが県の調べで25日までに分かった。これまで「こうせい」か「きみまさ」かで議論があったが、県は「サインが入った公文書が見つかった事実は大きい。これからは『きみまさ』と呼ぶこととする」としている。

     県によると、県都デザイン戦略に基づき、福井市中央公園の由利公正像を公正宅跡近くの幸橋南詰に移して広場を整備するのに合わせ、関連資料を収集。その過程で東京都公文書館に東京府知事時代の署名が入った公文書があると分かり、今年1月に県職員が実物を確認した。1871(明治4)年9月19日の「地券」と呼ばれる土地の権利書で、ローマ字の筆記体で「Yuri Kimimasa」と書かれていた。

     署名の前には「Tokeifu Chiji」とあり、当時は東京を「とうけい」と呼んでいたことも分かる。東京都公文書館はその読み方に注目していたが、県の担当者は「同じ文書を福井県から見ると、公正の名前に関心があった」と話している。

     公正の読み方をめぐっては小説「経綸のとき」(尾崎護著)は「きみまさ」、「国史大辞典」は読みが「こうせい」、通称は「きみまさ」とし、「由利公正の名乗をめぐって」(足立尚計著)は由利家の代々の呼称から「こうせい」とするなど見解が分かれていた。

     県の担当者は「公私で読み方を使い分けていた可能性もあるが、公文書の署名は大きい。何より由利公正について関心を持ってもらえる発見だ」としている。

     広場の完成式は29日に行われる。五箇条の御誓文の原案「議事之体大意」を作るなど由利公正の功績を紹介した看板には、名前の下に署名の文字「Yuri Kimimasa」の形を、そのまま写し取っている。

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  20. http://gajoen.jp/ryoma_honeymoon.html
    坂本龍馬は、慶応2年(1866年)1月23日深夜(新暦3月9日)、京都・伏見の寺田屋で伏見奉行所の役人に襲われ手傷を負う。
    おりょうが、薩摩藩に救援をもとめ、その後未明、負傷している龍馬を発見し薩摩藩邸に運び込み治療に当たる。
    しばらくして、小松帯刀、西郷吉之助の勧めもあり、薩摩で療養することになった。
    薩摩藩船「三邦丸」で大坂を発ち、3月10日(新暦4月24日)に、鹿児島・天保山に到着。
    しばらく小松帯刀の別邸に宿泊し、3月16日(新暦4月10日)、錦江湾の桜島を眺めつつ、船で浜之市港へ向かい、霧島を目指した。
    これらの厚待遇は、一介の脱藩浪士である龍馬によって実現した「薩長連合」締結など、薩摩藩にとって大いなる貢献をしたからに他ならない。
    龍馬は大事業を成し得た達成感とともに、最愛のおりょうと過ごしたこの日々は、おそらく人生で一番安らぎを覚えた時期であろう。

    行程の中心は塩浸温泉周辺、犬飼の滝、和気神社などであるが、実はこのエリアは妙見温泉にある「忘れの里 雅叙苑」を起点で周っても、充分に当時の雰囲気を味わえるコースとなっている。
    塩浸温泉は、現在宿泊施設はなく、その代わり、温泉の湧出が安定している妙見温泉がその代わりを担っている。
    脱藩してから、龍馬は全国を飛びまわり、結果的に全国にゆかりの地が誕生したわけだが、石碑や銅像などばかりで、当時の面影をうかがうものはほとんど無いのが実情。
    この龍馬の新婚旅行ルートが貴重なのは、妙見~霧島温泉周辺は、のどかな自然環境が残っており、散策ルートを歩くだけで、充分に幕末の名残りを感じ取れるからなのだ。

    (監修:大竹仁一/「貸切温泉どっとこむ」代表)
    薩摩の新婚旅行の行程
    1866年(慶応2年)

    ●3月10日(新暦4月24日)
    鹿児島に到着。
    日本人初の新婚旅行・・・温泉湯治や登山を楽しむ。

    ●3月16日(新暦4月30日)
    船で浜之市港に寄港→日当山温泉に宿泊 
    ※小松帯刀夫妻は3月14日より4月8日まで25日間霧島栄之尾温泉へ湯治に出発

    ●3月17日(新暦5月1日)
    塩浸温泉に到着する/この日から11泊して手傷の治療湯治をする

    ●3月28日(新暦5月12日)
    栄之尾温泉に滞在中の小松帯刀を見舞った後、霧島温泉に向かう

    ●3月29日(新暦5月13日)
    念願の高千穂峰の登山。途中、高千穂峰をスケッチする。華林寺に泊まる。

    ●3月30日(新暦5月14日)
    硫黄谷温泉に泊まる

    ●4月1日(新暦5月16日)
    再び塩浸温泉に戻り7泊する

    ●4月8日(新暦5月22日)
    再び日当山温泉に3泊する

    ●4月11日(新暦5月23日)
    浜之市に戻り船待ちで1泊(宿は不明)

    ●4月12日(新暦4月24日)
    乗船し鹿児島に戻る→小松帯刀の原良別邸で約50日間滞在

    鹿児島市の天保山から錦江湾を船でこの港に着く。
    「新婚旅行渡しの地」の碑が残る。

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  21. 革命の主体化において、
    民族が分母で階級が分子。
    日本の身分は分母にあたる
    坂本龍馬を考えると分かりやすい
    武士の中で下
    ただし商家として階級は上

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  22. 贈歌篇-坂本龍馬に贈られた歌
    http://ryomado.in.coocan.jp/Sakaryo/SRpoem/saryo_poem04-01.html

    故坂本ぬしにむかし逢ひしとき物語せし一言を書記しつる折り
    硯の海に うかふ思ひの かすかすの かきつくせぬは 涙なりけり
    いさをなく 我身は今に なからへて 世にも人にも はちさらめやは
    由利公正
     明治二十二年六月、三岡八郎こと由利公正が龍馬を偲び書きとめた歌。

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  23. http://tv.so-net.ne.jp/schedule/101024201405210040.action

    歴史秘話ヒストリア「新発見!龍馬最後の手紙~風雲児の筆が語る幕末の真実~」[解][字][再] ウェブ検索
    5/21 (水) 0:40 ~ 1:25 (45分) この時間帯の番組表
    NHK総合・東京(Ch.1)
    ドキュメンタリー/教養 - 歴史・紀行 , ドキュメンタリー/教養 - ドキュメンタリー全般 , ドキュメンタリー/教養 - カルチャー・伝統文化
    番組概要
    先月報道された“坂本龍馬の手紙”発見のニュース。実はこの手紙、龍馬の別の一面、そして未来への構想を物語る。新発見の手紙をどこよりも詳細に解説、とれたて龍馬秘話。
    番組詳細
    NHKの取材で偶然発見された“坂本龍馬の手紙”。それは暗殺の少し前に書かれたと推測される龍馬、最後の手記だった。書面は「大政奉還」直後、龍馬が越前藩(福井県)に赴き、誰と何を話したかが記され、龍馬だから語れる事実、新時代への展望などに満ちている。番組では今話題のこの手紙をどこよりもくわしく検証。ほかの龍馬の手紙とも比較しながら、龍馬の姿、そして幕末動乱の最終コーナーで起きていたドラマをお送りする。

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  24. 【高知】龍馬生誕180年で催し©2ch.net
    1 :coffeemilk ★ 転載ダメ©2ch.net:2015/02/24(火) 13:47:59.83 ID:??? ?2BP(1012)

    幕末の志士、坂本龍馬が生まれてことしで180年になることから生誕地の高知市では、この春から龍馬にちなんださまざまな催しを行って、去年、台風による大雨の影響で伸び悩んだ観光客の増加を図ることにしています。
    ことしは幕末に討幕運動で活躍した坂本龍馬が生まれてちょうど180年になります。

    これを受けて龍馬の生誕地の高知市では今後、春から秋にかけてさまざまな催しを企画しています。

    ▼5月には、桂浜にある坂本龍馬の銅像が昭和3年に建立されてから88年となり、人間でいうと「米寿」に当たることから、記念の式典を行う予定です。
    ▼また7月には、幕末、ともに倒幕運動に加わった薩摩藩と長州藩、現在の鹿児島県と山口県から中学生を招き、中学生同士がふるさとづくりについて話し合う公開討論会を開く予定です。
    ▼このほかにも、龍馬の誕生日の11月15日を中心に、さまざまな催しを計画しています。

    高知市観光振興課は「去年は台風による大雨が相次ぎ高知市を訪れる観光客の数が伸び悩んだが、龍馬生誕180年という節目の年をきっかけに観光を盛り上げたい」と話しています。

    02月24日 10時44分

    ソース元に動画あり
    http://www3.nhk.or.jp/lnews/kochi/8015608071.html?t=1424753241683

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  25. 5 :やまとななしこ:2015/02/24(火) 14:05:27.47 ID:8qfhy2Z5
     プルードン(1809-1865)と坂本龍馬(1835-1867)は同時代人である。龍馬の方が25歳ほど若いが、彼らは同じ「敵」
    と戦った。
     それは具体的にはナポレオン三世という名前で指し示され得る国内外の植民地主義と言えるだろう。当時ナポレオン三世
    のフランスは小栗らの幕府に軍艦を貸して、薩摩、長州と戦わせようとしていた。この計画が実行されれば、龍馬が画策し
    た維新もなかったといわれている(日仏借款に関しては、日本側にそれほど危険はなかったという説もあるが、フランスの
    アジアの他地域における植民地政策を見ればそうは断言できない)。またナポレオン三世は、フランスではプルードンの
    社会革命を封じ込めようとしていた。
     ここで彼らが同じ「敵」と戦っていたことが、彼らの類似を指し示すだけではなく、対等な経済取り引きにもとづく平等
    を彼らが指向していたことが最重要である。これは両者がともに政治革命ではなく、(自主管理を原則とする)社会革命を
    志向していたということである*。
     龍馬は刀をピストルに、そしてピストルを『万国公法』(漢訳国際法)に持ち替えたといわれるが、そうした「法にもとづく
    平等(龍馬の用語でいえば「ナラシ」**)」も両者に共通した指向である(龍馬は『万国公法』の出版を海援隊で計画してい
    たという。海援隊が情報集団として再評価される所以である)***。
     プルードンは、政治革命に熱狂する大衆からひとり距離をおき冷静だった。同じように龍馬も、剣=武力に頼った改革からは
    ひとり距離をおいていた。龍馬は朝鮮、中国との同盟も、商船を通じて模索していたという。その同盟の原理はプルードンの
    相互主義と一致していると言える。
     プルードンは回船業の会計をやっていた経歴があり、晩年の国際的同盟への関心は龍馬との同時代性を指し示すものだ。
    ちなみに下士の生まれである龍馬は、町人の系譜を持った家系だったことが特筆される。また龍馬の作った海援隊は、海軍
    の基礎ともいわれるが、同時にその商業のコンセプトは三菱汽船に受け継がれている(それ以前の1865年に龍馬が長崎に
    作った、海援隊の前身・亀山社中は日本最初の株式会社ヘの試みとして著名である)。
     思想的に龍馬がアナーキストだとは言えないが、龍馬が、トランスバーサルな指向を持っていたことと、『老子』を読ん
    でいた形跡を考えると(龍馬は手紙で一度、老子を連想させる「自然堂」を号している。また、今日では『老子』はアナ
    ーキズムの源泉としてとらえられる)、プルードンと龍馬には同じアナーキーと言ってもよいような行動と思想を見出せる。
    両者の主要な思想は、その手紙からうかがえるというのも相互主義的な観点から見て興味深い共通点である。 
     今日、江戸の環境の視点からの見直しがすすんでいるが、龍馬の業績と33年の生涯(龍馬はプルードンの死の二年
    後の1867年に亡くなった)を振り返ったあとで見えてくるものは大きいに違いない。

    6 :やまとななしこ:2015/02/24(火) 14:07:33.74 ID:8qfhy2Z5
    注:

    両者の目指したものは産業的民主主義とも言っていい。
    **
    黒鉄ヒロシの曾祖母が「均しの時代が来るぜよ」という龍馬の言葉を聞いている。
    ***
    龍馬は韓非子の講義を聴いていたことがある。ろくに聞いていないのにそれはおかしいと講師の間違い
    を正確に指摘したと言う証言がある。ちなみに韓非子は老子に対して肯定的で、『韓非子』には老子
    に関する考察が多々見られる。

    7 :やまとななしこ:2015/02/24(火) 14:10:33.25 ID:8qfhy2Z5
     『藩論』は龍馬の死の一年後、明治元年(1968年)一二月、二〇〇部限定版として世に出た(原本は半紙16枚)。
    長らく原本は確認されていなかったが、明治期(1870年)に駐日英国大使H・パークスの尽力によって英訳が英国で
    活字化され、一部の研究者には知られていた。ここに引用するのはその英訳からの重訳である。もともと無署名で
    あるが、その後、原本の発見と共に、研究が進み、現在では海援隊と龍馬の協同執筆という説が有力である。

     その主張としては、1、二院制議会政治の指向、2、普通選挙など庶民の政治参加(「国家ヲ理ムルノ権ハ 唯
    人心ノ向フ処ニ帰スヘシ」原文より)、3、天皇絶対主義の否定(「天下国家ノ事、治ムルニ於テハ 民コノ柄
    ヲ執ルモ可ナリ 乱スニ於テハ 志尊之ヲ為スモ不可ナリ」原文より)が挙げられる。第一部では旧武士層に
    よる上院、第二部では様々な階級による下院制度の構想を知ることができる。特に第二部の3は衆愚政治を
    さけるための再選制が唱えられており、より具体的である。影響力の面では疑問があるとはいえ、後の自由
    民権運動の嚆矢という側面を持つ。

     原本では「平均シテ」(第二部:2)という言葉が使われているが、龍馬の言葉としては「平均(ナラシ)の
    時代が来るぜよ」(黒鉄ヒロシ『坂本龍馬』表紙文より)という言葉が伝えられている。

     以下、『近代日本の反権力思想?龍馬の「藩論」を中心に』関家新助著、法律文化社1986.10(p41-51)
    より引用(文中に数カ所ある省略は引用者による)。同書には現代語訳の他に原文と英訳も収録されている。

    追記:
    『龍馬暗殺の謎 』(木村幸比古著、PHP新書、2007/3)に「藩論」の現代語訳が掲載された。

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  26. ばいキングが歴史を変えた!あの龍馬の最後の手紙を見てきた。高知県立坂本龍馬記念館から見た太平洋の絶景
    http://www.victory-blog.net/ryouma_saigonotegami
    歴史的に大切なことが書かれている、坂本龍馬最後の手紙は、
    大政奉還が終わったあと、龍馬は福井を訪ねていき、
    今後の日本がどう進むべきか、お金が無い新政府をどうすべきかという部分を
    相談していた内容になっていました。

    宛先は土佐藩の重役、後藤象二郎へ「後藤先生」となっています。

    世紀の大発見、その内容とは、

    「越行の記」と書かれているその書簡は、慶応3年の10月末から11月初め、
    大政奉還の直後、越前福井に八郎に会いに行く話です。
    新しい日本を作ることに翻弄していた龍馬、薩長同盟が成立したキーマンだった。
    その後土佐藩を動かし、朝廷に返上するよう幕府に働きかけた。

    慶応3年10月14日、大政奉還。そのわずか10日後、龍馬は福井へ。
    手紙はその内容が綴られていたのです。

    —————————————-
    十月二十八日福井に達す

    役名を問ふ
    我海援隊惣官を似てことふ
    —————————————-

    福井藩士に役名を問われた龍馬が、海援隊総官と名乗ったこととなります。
    龍馬の使命は、土佐藩 山内容堂の手紙を、福井藩 松平春嶽に手渡すこと。
    しかし、龍馬の思いはこれだけではない。新しい新政府の財政担当者を探すこと。

    —————————————-
    三十日朝 三岡八郎及び
    立会人の者来る
    —————————————-

    この時に龍馬が会ったのは、三岡八郎だった。
    福井藩で財政改革を成し遂げた人、どうしても新政府の財政を頼まないといけない。

    「生生しい越前行の資料となります」

    経済に詳しい三岡八郎が龍馬に言った言葉が、手紙に記されていました。

    —————————————-
    最近幕府は失策のみであり
    その上無策である

    このままでは人心の
    不振を招くのみである
    —————————————-

    二人は新政府の財政に関して論じたようです。
    最後に後藤象二郎にこう書いた。

    —————————————-
    金銀物産のことを
    論じ候にはこれ三八を置いて
    他に人なかるべし
    —————————————-

    新政府の財政担当に、強く三岡八郎を推薦したのです。
    日本の未来を見据えていた坂本龍馬。

    「その時代、みんなが幕府を倒すことだけを論じていたが、
    倒した後どうするかを考えていた人が何人いただろうか?

    三岡八郎をスカウトするなり、日本の未来を考えていた、
    龍馬の視野の広さ、活動の雄大さをよく示す資料です。」





    NHKで発見された坂本龍馬最後の手紙の内容
    http://www.victory-blog.net/ryouma_saigonotegami

    新政府の財政担当に、強く三岡八郎を推薦したのです。
    日本の未来を見据えていた坂本龍馬。

    「その時代、みんなが幕府を倒すことだけを論じていたが、
    倒した後どうするかを考えていた人が何人いただろうか?
    三岡八郎をスカウトするなり、日本の未来を考えていた、
    龍馬の視野の広さ、活動の雄大さをよく示す資料です。」

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  27. 現代語訳
    越前行きの記
    十月二十八日福井に到着しました。奏者役(取り次ぎ役)の伴圭三郎が来たので(後藤から)預かった書簡(八月二十五日付松平春嶽宛て山内容堂書簡)を渡しました。直柔(私)の役名を問うので、海援隊惣官と答えました。
    その日の夜、大目付村田巳三郎が来て、用向きを問うので、近頃の時勢などを申し上げその上で越前藩(春嶽侯)のご意見を伺い、およそ明白な国論を海外までも聞かせなければならないと考えていることを伝えました。さて、この度こそ私たちも御国論を伺うことを心から願っています。村巳(村田)が言うには、老主人(春嶽)の出京は来月(十一月)二日に決まったが、多忙なのでお目にかかれませんでした。しかし、前条お尋ねのこと(国論を伺いたい旨)は、拙者(村田)より申し上げます。そうなれば、老主人出京後、かれこれ手順もあるでしょうが、将軍家が政権をお返ししたとなれば、将軍の職も共にお返ししなければ、とてもご反省していると申しても天下の人心の折り合いが付きません、と福井藩では考えています、云々。翌二十九日奏者役伴圭三郎が来て、返書を受け取りました。

    三十日(朔日を訂正)朝、三岡八郎及び松平源太郎が来ました。但し、三八(三岡)に面会したい事は昨夕村巳に頼み置いたことです。三八は先年、罰を受けて幽閉されており、他国人に面会は堅く止められていたので、藩の政府の議論により、藩主側の中老が差し添えられました。それゆえに、三八が来た時、松平源を見て、「私は悪党ゆえ君側より番人が参りました」と言えば
    松平源も共に笑っていました。それより近頃の京都情勢を前後残らず談論し、話し尽くしました。
    深くお考えください。三八が言うには、将軍家が真に反省すれば、
    どうして早く形を以て天下に示さないのだろうか。近年来幕府は失策ばかりで、その上言葉で言うだけでは、天下の人が皆信じないだろう云々。(行動で示せということ) これより国で用いる金銭の事を論じました。かつて春嶽侯が総裁職(政事総裁職=文久三年=一八六三年)だった時、三八自ら幕府勘定局の帳面を調べたところ、幕府の金の内情は、ただ銀座局ばかり(本来、金座・銅座・銭座などがあるが機能していないという意味か)で、気の毒がっていました。お聞き置きください。総じて金銀物産等の事を論ずるには、この三八を置いて他に人はいません。

    十一月五日京都に帰り福岡参政(福岡孝弟)に春嶽侯の御返書を渡しました。
    大よそ右のようなことです。謹言
    直柔
    後藤先生

    近日、中根雪江(越前藩重臣)は、春嶽侯のお供。村田巳三郎は越前に残る。他の家老はかなりの者が京都へ出るとのことです。
    再拝再拝

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  28. 原文
    越行の記
    十月廿八日福井ニ達ス奏者役
    伴圭三郎来ル御書を相渡ス
    直柔が役名を問ふ、海援隊惣
    官を以てことふ
      同夜
    三十日朝大目付村田巳三郎来ル。
    用向無之哉を問ふニ曰ク、近時云々
    を言上仕り其うへ御論拝承仕度
    およそ明白なる国論を海外迠も
    不聞を恐るゝことニ御座候。扨此
    度こそ私共も御国論拝承仕り度
    心願在之候。村巳曰ク老主人出京
    も来月二日ニ取定めたり、事
    多端なれバ御目にかゝり不申。然ニ
    前條御尋の如きハ拙者より
    申上候。されバ老主人出京後彼
    是手順もあるべけれども将軍
    家政権を御帰しとなれバ将
    軍職も共に御帰し不被成ては
    とても御反正と申ても天下の人
    心折合不申と国論こゝに
         同廿九日
    在之候云々、此夜奏者伴
    圭三郎来り御答書を受
    取ル

    ■丗日
    朔日朝、三岡八郎及松平
    源太郎来ル 但シ三八に面会の事を昨夕
          村巳に頼置しニ三八儀は
    先ン年押込メラレし後ハ他国人ニ面会
    かたくさしとめられたり。故ニ政府の論儀ニより
    君側中老役松平源をさしそへたり。
    其故にや三八が来りし時、松平源を目
    して、私しハ悪党故君側より番人が
    参りました、といへバ
    松平源も共に笑ふ 夫より近時京
    師の勢前後不残談論ス
    此談至り尽シタリ
    深ク御案可被下  三八曰ク将軍家信
     反
    ニ返正すれバ何ぞ早く形を以て
    天下に示さゝる近年来幕
    府失策のミ其末言葉を以
    する事ハ天下の人皆不信さ
    るなり云々是より金銭国用
    の事を論ズ曽而春嶽侯
    惣裁職たりし時三八自ラ幕
    府勘定局の帳面をしらべしに
    幕の金の内つらハ唯銀座
    局斗りなりとて気の毒がり居
    候御聞置可被成候惣じて金
    銀物産とふの事を論じ
    候ニハ此三八を置かバ他ニ人な
    かるべし
    十一月五日京師ニ帰ル福岡
    参政に越老侯の御答書を渡ス
    右大よふ申上候謹言
    直柔
    後藤先生

    近日中根雪江は越老侯
    の御供村田巳三郎ハ国本のこる家
    老ハ可なりのもの出るとのこと再拝再拝


    http://www.nhk.or.jp/athome/onair/20140412c01.html#cnum02

    返信削除
  29. 解説
    慶応三年(一八六七)一〇月一五日に土佐藩の建白を基に、大政奉還が成立した。仕掛け人である龍馬と後藤象二郎は、その後の新政府のあり方を検討しており、その中で、越前福井藩の前藩主である松平春嶽の上京は必須と考えていた。本来土佐藩参政(実質、政治を司っている重役)である後藤本人が越前へ行くべきところだが、後藤は前土佐藩主・山内容堂に報告する必要があり、土佐へ帰るため、越前へは龍馬を代わりに派遣する。容堂と春嶽は親友で、幕府や日本の今後の展望に共通する考えを持っていた。また、薩摩・長州の武力倒幕論を押さえるためにも、容堂と春嶽の足並みを揃えた力が必要であった。そのため、龍馬と後藤はそれぞれに現状を説明しに行ったのだ。さらに、龍馬は以前から福井藩士三岡八郎(のちの由利公正)が財務に明るいことを知っており、新政府の財政担当として引き出すことを考えていた。
    龍馬の越前行きは、同行する岡本健三郎という土佐藩役人に出した同年一〇月二四日付け龍馬書簡(現存)で確認できる。同日、後藤から預かった書簡を持って、越前へ岡本と共に出発する。龍馬が預かった書簡は、容堂が春嶽に宛てた書簡で、八月二五日に書かれたもの。大政奉還前、上京する後藤に、いずれ春嶽への面会が必要になると思って持たせていたもので、それを龍馬が持って行ったことになる。(『山内家史料 幕末維新 第七編』)
    龍馬と岡本は、二八日に越前へ到着。越前での行動は、これまで龍馬や土佐藩側の記録が無く、福井藩の資料や、三岡の回顧録でのみ知ることができていた。しかし、最も詳しかった三岡の回顧録は、維新後時間を置いて語ったものだったので、正確かどうかは分からなかった。この文書は、三岡の談話を裏付けるもので、龍馬のリアルタイムの記述なので、大変価値が高い。
    龍馬と岡本は、一一月三日に越前を離れ、五日に帰京したことは、土佐藩重役の神山郡廉の日記で確認できる。後藤は龍馬の帰京を待たず、一一月三日に京を離れ、六日に土佐へ帰り着いていた。
    龍馬の越前行きは、後藤からの依頼であるため、後藤に対して復命の義務がある。また、春嶽と容堂の足並みを揃える意味からも報告の必要があった。そのため、本書簡は、後藤への復命書のようなもので、見え消しがあることや日付がないことから、草稿と考えられる。おそらく清書したものを土佐へ郵送したのだろうが、その文書は現在確認されていない。

    原文、現代語訳、解説
    『高知県立 坂本龍馬記念館』三浦夏樹主任学芸員

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  30. 10 :やまとななしこ:2015/02/24(火) 14:31:21.82 ID:8qfhy2Z5
    伊藤博文暗殺以上に暗殺者側のデメリットが大きかった
    日本の未来を考えたら殺してはいけなかった

    坂本龍馬最後の手紙
    これまでの放送|NHK「突撃!アッとホーム」20140412
    http://www.nhk.or.jp/athome/onair/20140412c01.html#cnum02


    12 :やまとななしこ:2015/02/24(火) 14:34:51.99 ID:8qfhy2Z5
    ソフトバンクの孫正義は坂本龍馬の信奉者で
    社旗に亀山社中の社旗の色違いを使っている

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  31. 政治的闘争だとリーダーが一人殺されれば終わる場合が多いが
    経済による社会革命の場合、必ずしもリーダーを必要としない
    複数の中心を持つからだ

    返信削除
  32. 坂本龍馬は藩にとらわれず日本全体を見ていたと言われるが
    むしろ東アジア貿易を視野に入れていたと言うべきだ
    高杉晋作からアヘン戦争以後の上海の実情を聞いていただろうからだ
    そうでなければ海援隊の意義が説明できない

    返信削除
  33. 坂本龍馬は藩にとらわれず日本全体を見ていたと言われるが
    むしろ東アジア全体(の貿易)を視野に入れていたと言うべきだ
    高杉晋作からアヘン戦争以後の上海の実情を聞いていただろうからだ
    そうでなければ海援隊の意義が説明できない

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  34. 黒澤用心棒は坂本龍馬の格好を模しているという説がある

    返信削除
  35. 【高知】坂本龍馬の子孫 代々伝わる全史料を坂本龍馬記念館に寄託・寄贈へ©2ch.net
    1 :白夜φ ★ 転載ダメ©2ch.net:2015/07/01(水) 11:21:00.12 ID:???
    坂本龍馬の子孫が全史料を寄託・寄贈へ 高知市の記念館に
    引用元:高知新聞 2015年06月30日08時08分
    http://www.kochinews.co.jp/?&nwSrl=340174&nwIW=1&nwVt=knd

    札幌市に住む坂本龍馬の血縁の子孫が、代々伝わる書画や写真アルバムなどの史料を、高知市浦戸の高知県立坂本龍馬記念館に近く寄託・寄贈することになった。
    龍馬ら維新の志士を描いた公文菊僊(きくせん)の日本画、西郷隆盛や勝海舟の直筆の書のほか、明治中期から開拓農民として北海道に移った坂本家の足跡を刻む写真や手紙など多彩な内容。
    今年中に一部が公開される予定だ。

    ・「末永く引き継いで」 高齢で管理難しく決断

    維新の志士にまつわる書画など坂本家に残る全史料が、高知県立坂本龍馬記念館(高知市浦戸)に寄託・寄贈されることになった。
    決めたのは、龍馬のおい、坂本直寛の孫で、山岳画家としても知られる直行さん(1906~82年)の妻、ツルさん(97)と長男、登さん(78)ら6人の子。
    ツルさんは長年、坂本家に伝わる史料類を札幌市内の自宅で管理していたが、7年ほど前から高齢者施設に移り、家は無人に。
    子どもも含めて今後の管理を話し合い、「龍馬が生まれた高知の龍馬記念館に預けるのが一番いい」と結論付けたという。
    (引用ここまで 全文は引用元参照)

    【写真】前田由紀枝課長=奥=が坂本家の子孫=手前=らと西郷隆盛や勝海舟の直筆書などを確認。
    高知へ運ぶ作業が行われた(札幌市西区の坂本ツルさんの自宅)=(写真左)、
    http://www.kochinews.co.jp/NewsImages?&ss=&nwSrl=340174&nwIF=1
    龍馬の立像などを描いた公文菊僊(きくせん)の巻物(札幌市西区の坂本ツルさんの自宅)=(写真中央)、
    http://www.kochinews.co.jp/NewsImages?&ss=&nwSrl=340174&nwIF=2
    寄託・寄贈史料を集めた部屋には直行さんの遺影や油絵などが飾られていた=(写真右)
    http://www.kochinews.co.jp/NewsImages?&ss=&nwSrl=340174&nwIF=3

    ▽関連リンク
    高知県立坂本龍馬記念館
    http://www.ryoma-kinenkan.jp/

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  36. 2ちゃんねる ★スマホ版★ ■掲示板に戻る■ 全部 1- 最新50
    【高知】坂本龍馬、「北辰一刀流」免許皆伝 「剣の達人」示す文書、記念館が確認©2ch.net
    1 :シャチ ★ 転載ダメ©2ch.net:2015/10/14(水) 15:39:32.34 ID:???*
    産経
    http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20151014-00000102-san-cul
    幕末の剣豪・千葉周作が創始した「北辰一刀流」の免許皆伝書を坂本龍馬が取得していたことを示す文書を、
    高知県立坂本龍馬記念館が初めて確認した。千葉一門の道場で剣術を学んだ龍馬は、後世の証言などから
    剣の達人だったとする説がある一方、剣術の皆伝書が現存しないため疑問視する説もあった。
    剣の達人だったことを裏付ける貴重な史料になりそうだ。

     北海道にある坂本家が今夏、同館に寄贈した龍馬の関連史料の中から見つかった。同館によると、
    皆伝書の存在を示す文書は、7代当主の弥太郎が明治43年8月30日付で、龍馬のおいの妻に書いた預かり書。
    北海道で行われた坂本龍馬遺品展に出品する際に書き記したもので、秘伝巻物として「北辰一刀流兵法皆伝」
    「北辰一刀流兵法箇条目録」「北辰一刀流長刀(なぎなた)兵法皆伝」-と書かれていた。

     さらに、別の展覧会に出品した(龍馬の)遺物の目録(昭和4年)では、
    「千葉周作ヨリ受ケタル皆伝目録ハ全部焼失セリ 於釧路市」と書かれていた。
    これらの記述から、大正2年に釧路で起きた大火で坂本家が延焼した際、
    剣術の皆伝書は焼失したとみられる。現在、北辰一刀流の長刀の皆伝書は残っている。

     前田由紀枝・学芸課長の話「記述を確認して本当に驚いた。
    北辰一刀流の(剣術の)皆伝書の存在を示した初めての史料といえる。
    今後の調査研究が重要となるが、(龍馬が剣の達人かどうかの)論議にも一石を投じるものだ」

    画像 「北辰一刀流兵法皆伝」などの記述が残されていた預かり書の一部(コピー)(写真:産経新聞)
    http://amd.c.yimg.jp/amd/20151014-00000102-san-000-7-view.jpg

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  37.  プルードン(1809-1865)と坂本龍馬(1835-1867)は同時代人である。龍馬の方が25歳
    ほど若いが、彼らは同じ「敵」と戦った。
     それは具体的にはナポレオン三世という名前で指し示され得る国内外の植民地主義と言える
    だろう。当時ナポレオン三世のフランスは小栗らの幕府に軍艦を貸して、薩摩、長州と戦わせ
    ようとしていた。この計画が実行されれば、龍馬が画策した維新もなかったといわれている
    (日仏借款に関しては、日本側にそれほど危険はなかったという説もあるが、フランスの
    アジアの他地域における植民地政策を見ればそうは断言できない)。またナポレオン三世は、
    フランスではプルードンの社会革命を封じ込めようとしていた。
     ここで彼らが同じ「敵」と戦っていたことが、彼らの類似を指し示すだけではなく、対等な
    経済取り引きにもとづく平等を彼らが指向していたことが最重要である。これは両者がともに
    政治革命ではなく、(自主管理を原則とする)社会革命を志向していたということである。
     龍馬は刀をピストルに、そしてピストルを『万国公法』(漢訳国際法)に持ち替えたといわ
    れるが、そうした「法にもとづく平等(龍馬の用語でいえば「ナラシ」)」も両者に共通した
    指向である(龍馬は『万国公法』の出版を海援隊で計画していたという。海援隊が情報集団と
    して再評価される所以である)。
     プルードンは、政治革命に熱狂する大衆からひとり距離をおき冷静だった。同じように龍馬
    も、剣=武力に頼った改革からはひとり距離をおいていた。龍馬は朝鮮、中国との同盟も、
    商船を通じて模索していたという。その同盟の原理はプルードンの相互主義と一致していると
    言える。
     プルードンは回船業の会計をやっていた経歴があり、晩年の国際的同盟への関心は龍馬との
    同時代性を指し示すものだ。ちなみに下士の生まれである龍馬は、町人の系譜を持った家系だっ
    たことが特筆される。また龍馬の作った海援隊は、海軍の基礎ともいわれるが、同時にその商業
    のコンセプトは三菱汽船に受け継がれている(それ以前の1865年に龍馬が長崎に作った、海援隊
    の前身・亀山社中は日本最初の株式会社ヘの試みとして著名である)。

    NHKで発見された坂本龍馬最後の手紙の内容
    http://www.victory-blog.net/ryouma_saigonotegami
    新政府の財政担当に、強く三岡八郎を推薦したのです。日本の未来を見据えていた坂本龍馬。
    「その時代、みんなが幕府を倒すことだけを論じていたが、倒した後どうするかを考えていた人が何人いただろうか?
    三岡八郎をスカウトするなり、日本の未来を考えていた、龍馬の視野の広さ、活動の雄大さをよく示す資料です。」

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  38. 『藩論』を読めばわかるが、
    中江兆民など
    坂本龍馬は自由民権運動に繋がる

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  39. 万機公論

    再放送予定 - 英雄たちの選択 - NHK
    http://www4.nhk.or.jp/heroes/2/
    11月5日木午前8時00分
    「“オールジャパン”への挑戦~龍馬・未完の国家構想~」

    幕末、“オールジャパン”の新生日本を夢見た龍馬。番組では暗殺まで5か月間の龍馬の行動に密着。敵対する様々な勢力をつなぎ、挙国一致を求め続けた龍馬の執念に迫る。

    幕末のスーパーヒーロー、坂本龍馬。龍馬が、倒幕運動に奔走しながら夢見たのは、藩や身分の垣根を越え、広く有能な人材を集めて創る“オールジャパン”の新生日本だった。暗殺直前に認められた新発見の龍馬書簡。その新たな解析から浮かび上がった驚くべき国家構想とは?番組では、龍馬最後の5か月間の行動に密着。敵対するさまざまな勢力を行き来しながら、あくまで挙国一致を求め続けた龍馬の執念に迫る。

    【司会】磯田道史,渡邊佐和子,【出演】岩下哲典,萱野稔人,斎藤環,瀧本哲史,【語り】松重豊

    返信削除
  40. 松平容保が龍馬暗殺の黒幕でOKですか?会津藩の手代木直右... - Yahoo!知恵袋
    http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1255808957
    「最もその可能性が高い人物」という表現が妥当でしょう。

    坂本龍馬暗殺犯については京都見廻組が定説になっています。
    これは新撰組隊員からの証言で見廻組の今井信郎が自供した
    刑部省口書と本人が罪を認め服役している事実によるものです。
    今井以外の見廻組関係者も
    龍馬を暗殺したこと自体は否定していません。
    渡辺篤などは罪悪感から、今際の際に
    「これを公に発表して世間に事の真相を告白し、誤謬を正してもらいたい」
    と言い残し、むしろ見廻組による犯行だということを
    積極的に公言してほしいと考えていたようです。

    にもかかわらず暗殺犯に諸説ある印象を受けるのは、
    龍馬人気に便乗したいい加減な作家・自称研究者の本や、
    維新後の薩長中心史観に反感を持つ佐幕派寄りの歴史作家の人々が
    先入観から根拠のない主張を繰り返しているせいです。
    見廻組以外の犯行を裏付ける具体的な史料はありません。
    また「武力討幕派の薩摩が平和主義の龍馬を邪魔に感じて~」
    というイメージのみに由来する話は成立し得ません。
    実際の龍馬達は倒幕勢力の鎹として働いていました。

    龍馬は当時志士として有名人でしたが、藩を動かす権限はなく、
    土佐や薩摩の責任者らの障害には成り得ないのです。

    暗殺実行犯のリーダーであった見廻組の佐々木只三郎、
    彼の兄で松平容保の側近だった会津藩公用人・手代木直右衛門が
    晩年「某諸侯」からの指示だったと証言していたので、
    更に黒幕がいるとすれば見廻組直属の上司、
    大政奉還に反発していた会桑勢のうち、見廻組・手代木・佐々木と
    繋がりの強い会津藩主の京都守護職・松平容保でしょうね。
    佐々木只三郎はこの時期、松平容保の私兵だったようです。

    hagetokeyaさんへ
    松平春嶽の部下に面会した当の手代木直右衛門が主君松平容保も我々と同じく大政奉還反対派であると言いに来ているのですよ(「丁卯日記」による)。
    戦後会津の「京都守護職始末―旧会津藩老臣の手記」等による一連の名誉回復運動の中で発行された物は同時代の他の記録としばしば整合性がなく信憑性の薄い代物です。
    当時の主だった幕閣周辺の記録と照合することをお勧めします。
    実際『京都守護職始末』を編纂していた山川兄弟が史談会に出席を要請された所、「聞き学問であるし事実に当たったものでない」との理由で断りを入れていますしね。
    違反報告
    質問した人からのコメント2011/02/19 14:41:44
    つまり「某諸侯」に当てはまる藩主は
    京都守護職(会津藩主)松平容保→側近の会津藩公用人手代木直右衛門→実弟の京都見廻組与頭・佐々木只三郎ルートがいちばん手堅いってことですね!

    返信削除
  41. NHKで発見された坂本龍馬最後の手紙の内容
    http://www.victory-blog.net/ryouma_saigonotegami
    新政府の財政担当に、強く三岡八郎(=由利公正)を推薦したのです。日本の未来を見据えていた坂本龍馬。
    「その時代、みんなが幕府を倒すことだけを論じていたが、倒した後どうするかを考えていた人が何人い
    ただろうか?
    三岡八郎をスカウトするなり、日本の未来を考えていた、龍馬の視野の広さ、活動の雄大さを
    よく示す資料です。」

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  42. 20170113
    坂本龍馬:「新国家」専心 暗殺5日前の書簡発見 - 毎日新聞
    http://mainichi.jp/articles/20170113/k00/00e/040/286000c?fm=mnm
    写真特集へ
    坂本龍馬

    「新国家」専心 暗殺5日前の書簡発見

    毎日新聞2017年1月13日 13時00分(最終更新 1月13日 20時25分)
    高知県


    新たに見つかった坂本龍馬の書簡。当時としては珍しい「新国家」という表現が使われている=東京都千代田区で2017年1月13日午前10時34分、竹内紀臣撮影
     幕末の志士、坂本龍馬が慶応3(1867)年に京都で暗殺される5日前に記した直筆の書簡が見つかった。高知県が13日午後、発表した。約1カ月前に将軍、徳川慶喜が大政奉還したことを受けて福井藩の重臣に宛てた書簡で、文中には「新国家の御家計(財政)」という言葉が使われ、同藩士の新政府の財政担当者への出仕を懇願している。龍馬研究の進展が期待できる一級の史料といえ、研究者は「龍馬が新しい国家の樹立を目指して活動していたことが明確になり、歴史的価値は極めて高い」と評価している。【錦織祐一、最上聡】

    【写真特集】新たに見つかった坂本龍馬の書状
    <今回見つかった坂本龍馬の書簡全文>
    福井藩重臣宛て 財政担当者への出仕懇願
     書簡は縦16センチ、横92センチで、11月10日の日付。京都の福井藩邸に滞在していた同藩重臣、中根雪江宛てで、本文中には「龍馬」の署名があった。

     大政奉還を受け、徳川家の親藩だった福井藩の前藩主、松平春嶽の京都入りを「千万の兵を得たる心中」と歓迎。龍馬は同藩士の三岡八郎(後の由利公正)を新政府の財政担当者に推挙していたが、三岡は幕府に強硬な姿勢だったため謹慎処分中だった。そのため、書簡で「三岡兄の御上京が一日先に相成候得ハ新国家の御家計御成立が一日先に相成候(三岡の京都入りが1日遅れれば、新国家の財政成立が1日遅れてしまう)」と訴えている。

     三岡は龍馬暗殺の翌月に京都に入り、新政府の五箇条の御誓文の起草に関わったほか、初期の財政も担当した。

     龍馬の書簡で「新国家」という言葉が確認されたのは初めて。鑑定した京都国立博物館の宮川禎一上席研究員は「龍馬が死の直前まで新政府の樹立、新国家の建設に専心していたことをよく示す、貴重な史料だ。龍馬と福井藩との関係の研究も進展する」と話す。

     書簡は、大政奉還と明治維新から150年を記念して高知県が開催する歴史博覧会「志国高知・幕末維新博」のため、全国の史料を調査する中で発見された。どのように保管されていたかや発見の詳しい経緯は明らかになっていない。3月4日から県立高知城歴史博物館(高知市)で公開される。龍馬の書簡は、暗殺される2日前の11月13日の日付で海援隊士だった陸奥宗光に宛てたものが現存では最後とされる。

    考え色濃く
     三浦夏樹・高知県立坂本龍馬記念館学芸員の話 「新国家」建設に向け、龍馬が尽力していたことを示すものだ。龍馬の文字の特徴は出ているが、数ある書状の中でもきれいで丁寧に書かれており、松平春嶽に見られることも意識したのでは。何よりも国家建設には財政・経済が重要で、その任を担えるのが三岡だという、龍馬の考えが色濃く出て

    坂本龍馬:暗殺5日前の書簡全文 - 毎日新聞
    http://mainichi.jp/articles/20170113/k00/00e/040/288000c
    関連ニュースはこちら
    坂本龍馬

    暗殺5日前の書簡全文

    毎日新聞2017年1月13日 13時01分(最終更新 1月13日 13時53分)

    新たに見つかった坂本龍馬の封書と書状=東京都千代田区で2017年1月13日午前10時25分、竹内紀臣撮影
     幕末の志士、坂本龍馬が慶応3(1867)年に京都で暗殺される5日前に記した直筆の書簡が見つかった。書簡の全文は以下の通り。

    一筆啓上仕候、

    此度越前老侯

    御上京相被成候段

    千万の兵を得たる

    心中に御座候、

    先生ニも諸事

    御尽力御察申上候、

    然るに先頃御直ニ

    申上置キ三岡

    八郎兄の御上京

    御出仕の一件ハ急を

    用する事に存候得ハ、

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  43. 坂本龍馬:暗殺5日前の書簡全文 - 毎日新聞
    http://mainichi.jp/articles/20170113/k00/00e/040/288000c
    関連ニュースはこちら
    坂本龍馬

    暗殺5日前の書簡全文

    毎日新聞2017年1月13日 13時01分(最終更新 1月13日 13時53分)
    社会
    話題
    速報

    新たに見つかった坂本龍馬の封書と書状=東京都千代田区で2017年1月13日午前10時25分、竹内紀臣撮影
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     幕末の志士、坂本龍馬が慶応3(1867)年に京都で暗殺される5日前に記した直筆の書簡が見つかった。書簡の全文は以下の通り。

    【封筒には龍馬の偽名が記されている】
    <坂本龍馬 暗殺5日前の書簡見つかる>
    一筆啓上仕候、

    此度越前老侯

    御上京相被成候段

    千万の兵を得たる

    心中に御座候、

    先生ニも諸事

    御尽力御察申上候、

    然るに先頃御直ニ

    申上置キ三岡

    八郎兄の御上京

    御出仕の一件ハ急を

    用する事に存候得ハ、

    何卒早々御裁可

    あるへく奉願候、三岡

    兄の御上京が一日

    先に相成候得ハ

    新国家の御家

    計御成立が一日先に

    相成候と奉存候、

    唯此所一向ニ御尽力

    奉願候

         誠恐謹言

    十一月十日

             龍馬

    中根先生

       左右

    追白 今日永井玄蕃

    頭方ニ罷出候得とも

    御面会相不叶候、

    談したき天下の

    議論数々在之候ニテ

    明日又罷出候所存ニ

         御座候得ハ

    大兄御同行相叶候ハヽ

    実ニ大幸の事ニ奉存候

             再拝

    (封紙)

    越前御藩邸

     中根雪江様 才谷楳太郎

           御直披

    (封紙に付いた朱書の付箋)

    「坂本先生遭難直前之

    書状に而他見ヲ憚ルモノ也」



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  44. 新たに見つかった坂本龍馬の封書と書状=東京都千代田区で2017年1月13日午前10時25分、竹内紀臣撮影
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     幕末の志士、坂本龍馬が慶応3(1867)年に京都で暗殺される5日前に記した直筆の書簡が見つかった。書簡の全文は以下の通り。

    【封筒には龍馬の偽名が記されている】
    <坂本龍馬 暗殺5日前の書簡見つかる>








    一筆啓上仕候、此度越前老侯

    御上京相被成候段 千万の兵を得たる

    心中に御座候、先生ニも諸事

    御尽力御察申上候、然るに先頃御直ニ

    申上置キ三岡八郎兄の御上京

    御出仕の一件ハ急を用する事に存候得ハ、

    何卒早々御裁可あるへく奉願候、三岡

    兄の御上京が一日先に相成候得ハ

    新国家の御家計御成立が一日先に

    相成候と奉存候、唯此所一向ニ御尽力

    奉願候

         誠恐謹言

    十一月十日

             龍馬

    中根先生

       左右

    追白 今日永井玄蕃頭方ニ罷出候得とも

    御面会相不叶候、談したき天下の

    議論数々在之候ニテ明日又罷出候所存ニ

         御座候得ハ

    大兄御同行相叶候ハヽ実ニ大幸の事ニ奉存候

             再拝

    (封紙)

    越前御藩邸

     中根雪江様 才谷楳太郎

           御直披

    (封紙に付いた朱書の付箋)

    「坂本先生遭難直前之書状に而他見ヲ憚ルモノ也」

    返信削除
  45. <坂本龍馬>10代目当主「龍馬が導いてくれた」…書簡発見 (毎日新聞) - Yahoo!ニュース
    http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20170113-00000107-mai-soci
    <坂本龍馬>10代目当主「龍馬が導いてくれた」…書簡発見
    毎日新聞 1/13(金) 21:54配信

    <坂本龍馬>10代目当主「龍馬が導いてくれた」…書簡発見
    発見された書簡を鑑定し「疑う余地のない龍馬の親筆」と解説する宮川禎一・京都国立博物館上席研究員=東京都千代田区丸の内3の東京国際フォーラムで2017年1月13日午後2時12分、錦織祐一撮影

     高知県の尾崎正直知事は13日、東京都内で記者会見し、慶応3(1867)年に京都で暗殺される5日前に坂本龍馬が記した直筆の書簡が見つかったことについて、「この手紙を見た瞬間、背筋がぞぞっとした。まさに歴史の封印が解かれたという思いだ」と興奮気味に語った。

    【写真特集】新たに見つかった坂本龍馬の書状

     記者会見では、書簡を鑑定した宮川禎一・京都国立博物館上席研究員が意義を解説した。筆跡に加えて、福井藩士の三岡八郎との面会などこれまでに見つかっている他の史料の内容と一致することから、「疑う余地のない龍馬の親筆」と説明した。

     尾崎知事はこの書簡を、3月4日に開幕する「志国高知・幕末維新博」に合わせ、県立高知城歴史博物館(高知市追手筋2)で一般公開することも発表。「龍馬の息吹を感じに博覧会に来てください」と呼びかけた。

     龍馬、三岡、当時は前福井藩主だった松平春嶽、書簡の宛先の同藩重臣・中根雪江の子孫もこの記者会見に出席。坂本家10代目当主の坂本匡弘(まさひろ)さん(51)は「この書簡が大政奉還から150年という節目に見つかったのは、単なる偶然ではなく、龍馬が導いてくれたとしか思えない。ご子孫と一堂に会することができたのも龍馬のおかげと感謝しています」。

     三岡の子孫の三岡慶胤(よしたね)さん(39)は「八郎は、新政府の財政基盤が弱かった時に文字通り命懸けで担い、近代国家の基盤をつくった。功績はあまり知られていないが、書簡発見を機に広く知ってほしい。博覧会にも協力したい」と語った。【錦織祐一/デジタル報道センター】

    【関連記事】
    <坂本龍馬、書簡の現代語訳>

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  46. 20170202
    龍馬

    宗光


    原敬

    返信削除
  47. 【高知】幕末の志士・中岡慎太郎の手紙発見 偽名に合わせ筆跡使い分け…用心深い性格示す史料[03/16]©2ch.net

    1 : のっぺらー ★ 転載ダメ©2ch.net2017/03/16(木) 22:37:06.85 ID:CAP_USER
    慶応3(1867)年に坂本龍馬とともに暗殺された幕末の志士、
    中岡慎太郎の手紙が見つかったと、高知県北川村の中岡慎太郎館が16日、発表した。
    偽名を使い筆跡も変えており、命を狙われていた慎太郎の用心深い性格を示す貴重な史料という。

    同館が、志士らの書状が貼られた屏風(京都大学附属図書館所蔵)を調べたところ、
    この中から、慎太郎が使っていた偽名「横山勘蔵」の手紙を確認した。
    複数の専門家が慎太郎の筆跡と断定した。

    手紙の大きさは縦16センチ、横40センチ。
    領内への立ち入りが厳しかった長州藩の藩士に対し、
    「山中」と名乗る志士に通行許可証を発行するよう依頼する内容。
    暗殺前の慶応2~3年頃に書かれたとみられる。

    慎太郎の偽名の手紙はこれまでに20通以上見つかっている。
    今回は細長く繊細な文字で記されており、他の手紙とは字の太さなどが異なる。

    慎太郎が偽名に合わせ、筆跡も使い分けていたことがうかがえ、
    同館の学芸員は「本名をほとんど使わず、厳重に情報管理をしていた慎太郎の慎重な性格が読み取れる」と話す。

    4月29日から同館の企画展で展示する。

    写真:新たに見つかった中岡慎太郎の手紙。偽名だけでなく、筆跡も使い分けていた
    http://www.sankei.com/images/news/170316/wst1703160070-p1.jpg

    以下ソース:産経west 2017.3.16 21:24
    http://www.sankei.com/west/news/170316/wst1703160070-n1.html
    2 : やまとななしこ2017/03/16(木) 22:40:05.75 ID:1Z+Yl3pJ

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  48. 龍馬の手紙、新たに6枚発見 寺田屋事件を生々しく (朝日新聞デジタル) - Yahoo!ニュース
    https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20170615-00000114-asahi-soci
    龍馬の手紙、新たに6枚発見 寺田屋事件を生々しく
    6/15(木) 23:01配信朝日新聞デジタル

    龍馬の手紙、新たに6枚発見 寺田屋事件を生々しく
    新たに見つかった龍馬の手紙の1枚目。小松帯刀などの文字が確認できる(高知県提供)

     坂本龍馬(1836~67)が兄・権平の家族に宛てた手紙が新たに6枚見つかった。高知県が15日、明らかにした。龍馬が幕府側に襲撃された寺田屋事件や、幕府と長州の戦争を生々しく記述。文中には西郷隆盛(吉之助)や小松帯刀、高杉晋作など維新の志士たちの名前も登場する。

    【写真】「龍馬」の署名が確認できる手紙

     県などによると、6枚の手紙はいずれも縦25センチで、幅は30センチ前後。龍馬が慶応2年12月4日(1867年1月)に記した。手紙の存在は写本で知られ、原本の一部も見つかっていたが、この6枚は初めて原本が確認された。6枚は手紙全体の4割に相当する部分だという。

     手紙の1枚目は寺田屋事件について記述。66年に京都の寺田屋にいた龍馬が幕府側に襲撃された事件で、龍馬は負傷しながら薩摩藩邸に逃れたとされる。手紙には薩摩藩の小松帯刀や西郷隆盛と語り合い、笑ったことなどが書かれている。

     手紙の3枚目は、寺田屋事件と同じ年にあった幕府と長州の戦争を描写している。長州藩の高杉晋作が錦ののぼり旗を振って指示を出したり、味方に酒を振る舞って戦意高揚を図ったりする様子などが書かれている。
    https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20170615-00000114-asahi-soci.view-000
    朝日新聞社
    【関連記事】
    薩長同盟、倒幕狙ってなかった? 龍馬の役割にも異説

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  49. http://www.asahi.com/articles/photo/AS20170615005429.html

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  50. NAMs出版プロジェクト: 高杉晋作 花燃ゆ 第20話
    http://nam-students.blogspot.jp/2015/06/20.html
    上海を回想する。

    1862年5月13日…イギリス領事館から五、六間ほど離れ、新大橋と名付けられた橋がある。今から七年前、古い橋が朽ちて崩れてしまったが、支那人には再建する力が無かった。そこでイギリス人がこの橋を架けた。支那人は通行するたびに、イギリス人に一銭を貢がなければならないという。

    『高杉晋作の「革命日記」』(一坂太郎著)より、現代語訳

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  51. 【歴史】[ヴィトン] 日本初かばん購入者は板垣退助 本店照会で判明[06/29] [無断転載禁止]©2ch.net

    1 : 朝一から閉店までφ ★@無断転載は禁止2017/06/29(木) 19:51:21.83 ID:CAP_USER
    毎日新聞 2017年6月29日 19時15分(最終更新 6月29日 19時21分)
    (画像)
    板垣退助が購入したルイ・ヴィトンのトランク=高知市立自由民権記念館提供
    (画像)
    板垣退助が購入したルイ・ヴィトンのトランクについていたタグ=高知市立自由民権記念館提供
    https://mainichi.jp/articles/20170630/k00/00m/040/046000c

     仏高級ブランド「ルイ・ヴィトン」のかばんを日本で初めて購入したのは誰か--。この謎に高知県はこれまで、土佐藩士の後藤象二郎と紹介してきたが、さらに3週間早く自由民権運動の指導者、
    板垣退助が購入していたことが分かった。板垣を顕彰する「板垣会」の公文豪・副理事長(68)がルイ・ヴィトンジャパン(東京都)を通じてパリ本店に照会して判明した。

     ともに土佐藩士だった板垣と後藤は1882(明治15)年、横浜からフランスの郵船に乗り、香港などを経てパリに到着。その後もロンドンなどを外遊し、翌83年に帰国した。

     公文副理事長によると、ルイ・ヴィトンジャパンの初代社長、秦郷次郎氏が著書の中で、後藤の顧客カードを、写真と共に紹介。これがもとで「後藤が日本人初の顧客だった」との説が広まった。

     しかし、昨年、東京都内であったルイ・ヴィトンの展覧会を機に、公文副理事長が同社を通じて購入記録を照会。記録によると、1883年1月9日に「Itagaki」という人物が、シリアルナンバー「7720」のトランクを購入していることが判明し、
    名前とナンバーが、板垣の子孫が保管していたトランクと一致した。この3週間後の同月30日、後藤が二つのトランクを購入した記録があるが、現物が確認されておらず、後藤はこれより前にパリを出発していたという。

     公文副理事長らによると、板垣や後藤よりも8年早い75年、元薩摩藩士でフランス公使の「鮫島尚信」とみられる購入記録もあるが、現物が未発見で、実物で裏付けられる最初の購入者は板垣とみられる。

     板垣のトランクは現在、高知市立自由民権記念館に寄託されている。公文副理事長は「板垣の洋行に関わる第一級の資料だ」と指摘。県観光政策課は「あくまで通説の一つとして『後藤が最初』と説明してきた。新事実をきっかけに幕末や明治維新への関心が高まればいい」としている。【松原由佳】

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  52. 坂本龍馬の西郷隆盛評: nouse
    http://yeblog.cocolog-nifty.com/nouse/2016/05/post-9eb3.html
    坂本龍馬の西郷隆盛評

    坂本龍馬の西郷隆盛評「少しく叩けば少しく響き、大きく叩けば大きく響く」が、[礼記] 中の [学記第十八] の一節を踏まえた表現であることは、知っている人なら知っているだろう。
    これが、[学記] とは別に龍馬の独創であったかもしれぬと云う想像は、論ずるに値しない。同じく [礼記] から特に挙げられて、[四書] 中に並べられている [大学] 及び [中庸] ほどではないにしろ、[礼記] 全体が [五経] の一つなのだから、儒教思想の根幹をなしている。また、卑近な例でいえば、[学記] は、人口に膾炙する「玉、みがかざれば器とならず。人、学ばざれば道を知らず」の出典でもある。「偶然の一致」とするのは迷妄にしかなりえない
    ただ、だからと言って、龍馬が [礼記] なり、あるいは、その一篇としての [学記] を手に取り「勉強」したことがあるかどうかは、私には断定できない。しかし、そのことは問題にならない。龍馬が所属していた社会集団は、当然何重にも交錯していたはずだが、そのうちの「思想性」が接着剤となる集団では、その基本リテラシの中に、教育理念の祖型として「礼記」が組み込まれていに違いないからだ、たとえ、「机に向かって勉強」したことがなくとも、所謂「耳学問」をしていたことはありうる。
    脱線するが、「玉、みがかざれば器とならず。人、学ばざれば道を知らず」は、昭憲皇太后御歌 (明治20年 [女子学習院] に下賜と云う事実を踏まえるなら「皇后御歌」の方が適切かもしれない。もっとも「皇太后」と云う追号に就いては、「イキサツ」があったらしい。参照: Wikipedia「昭憲皇太后」)「金剛石もみがかずば、珠のひかりはそはざらむ。人もまなびてのちにこそ、まことの徳はあらはるれ」の出典であるのも論を俟たない。皇太后 (又は、その「ブレーン」) が、[学記] を踏まえて詠んだものなのだろう。ちなみに、[学記] 原文は、「玉不琢、不成器、人不學、不知道」(明治書院「新釈漢文大系28」[礼記中] p.543)。
    そもそも -- などと大仰なことを言ってしまって申し訣ないが -- 問題の「少しく叩けば少しく響き、大きく叩けば大きく響く」の「元ネタ」自体が、諸橋轍次の[中国古典名言事典]に採録されている (講談社学術文庫版 p.276)。「折紙」付の「名言」である訣だ。
    話が後先になった。肝心の原典を示すことにしよう。
    善待問者、如撞鐘、叩之以小者則小鳴、叩之以大者則大鳴
    善く問を待つ者は、鐘を撞くが如し、之を叩くに小なる者を以てすれば則ち小さく鳴り、之を叩くに大なる者を以てすれば則ち大きく鳴る。
    --明治書院「新釈漢文大系28」[礼記中] p.552
    そして、龍馬の西郷評として知られているものは、次の勝海舟の「雑談」に由来する。
    坂本龍馬が、かつておれに、先生しばしば西郷の人物を賞せられるから、拙者も行つて会ツて来るにより添書をくれといツたから、早速書いてやつたが、その後、坂本が薩摩からかへつて来て言ふには、成程西郷といふ奴は、わからぬ奴だ。少しく叩けば少しく響き、大きく叩けば大きく響く。もし馬鹿なら大きな馬鹿で、利口なら大きな利口だらうといつたが、坂本もなかなか鑑識のある奴だヨ。
    --講談社文庫 (勝海舟) [氷川清話] 「西郷隆盛」p.60 (私の手元にあるものは、40年ほど前に発行されたもので、多分現在絶版。後継の版が、講談社学術文庫に収められているようだ。なお、引用文中「しばしば」及び「なかなか」の後半は、原文では「踊り字」の「くの字点」)
    しかし、私に言わせれば、この西郷評の眼目は、「少しく叩けば少しく響き、大きく叩けば大きく響く」と云う cliché ではない。核心は、「西郷といふ奴は、わからぬ奴だ」、そして、「馬鹿なら大きな馬鹿、利口なら大きな利口」の方だ。これは、勿論、西郷を大いに褒めている訣で、それは、この表現のネガ「西郷といふ奴は分かりやすい奴だ」と「馬鹿なら小さな馬鹿、利口なら小さな利口」を考えてみれば良い。だからこそ、西郷贔屓の勝安房守が「なかなか鑑識のある奴」とご満悦だった訣だ。
    実際、龍馬の西郷評の後で、海舟自らが「答え合わせ」をするように「西郷は、どうも人にはわからないところがあつたヨ。大きな人間ほどそんなもので……小さい奴なら、どんなにしたつてすぐ腹の底まで見えてしまふが、大きい奴なるとさうでもないノー」と語っている。--講談社文庫 (勝海舟) [氷川清話] 「西郷隆盛」p.61
    逆に言えば、「西郷贔屓」である勝を得心させるようなコースの変化球として、龍馬は自らの感想を海舟の心の中に投げ込んだと言える。勿論、これは単純な追従といったレベルのことではなくて、海舟と云う「師匠」と龍馬と云う「弟子」の間に孕む緊張感が許す細いただ一本の糸のようなコースであっただろう。

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  53. じつをいいますと、西郷は幕府を倒したものの、新国家の青写真をもっていなかったのです。新国家の青写真をもっていた人物は、私の知るかぎりでは土佐の坂本龍馬だけでした」(『「明治」という国家』上巻、第四章「

    「司馬遼太郎」で学ぶ日本史 NHK出版新書 Kindle版
    磯田 道史 (著)201705

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  54. 201710ブラタモリでも地図が出てくる


    君子は鐘の如し - ひぐらし - Gooブログ
    blog.goo.ne.jp/wind_s/.../9fb5726abf164f8e20e2f27bd0b4b1...
    人の器量を鐘にたとえるのは、坂本竜馬が西郷隆盛を評し、「大きく叩けば大きく響き、 小さく叩けば小さく響く」と言ったのは、礼記の影響なのではないか。江戸時代は寺子屋 制度もあり、質はともかく日本の教育は進んでいて、当時の識字率は ...
    鳴鐘(めいしょう)の偈 | 光邦山 徳成寺(とくじょうじ)
    tokujoji.jp>コンテンツ>新着情報
    鳴鐘の偈三塗八難 息苦停酸 法界衆生 聞声悟道さんずはーなん そっくじょうさん ほっかいしゅじょう もんしょうごどう この鐘の音に響いたそれぞれが、仏道の歩みを深め ますようにという願いを込めて撞くのです。 尚、今年も除夜の鐘は11時45 ...
    『師匠は鐘の如し』 | 夕焼け閑話 | 1580 - TeaCup
    8209.teacup.com/m3823903/bbs/1580
    礼記に「善く問いを待つ者は鐘を撞くが如し、之を叩くに小を以てすれば小鳴し、 之を叩く に大を以てすれば大鳴す」とある。 司馬さんはこれを西郷隆盛にたとえて、西郷と言うお 人は 小さく叩けば小さく応え、大きく叩けば大きく応えると記述して ...

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  55. 201710ブラタモリでは地図は1835年製

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  56. 完全受注生産 超豪華本『坂本龍馬大鑑~没後150年目の真実~』2017年7月14日(金)より予約開始!

    株式会社KADOKAWA 2017年7月14日 12時00分

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    株式会社KADOKAWA(本社:東京都千代田区、代表取締役社長:松原眞樹)は、坂本龍馬没後150年を迎えた2017年に、完全受注生産となる『坂本龍馬大鑑~没後150年目の真実~』を刊行いたします。予約申し込み期間は、2017年7月14日(金)から2017年9月15日(金)まで。発売は【龍馬の命日】である11月15日(水)を予定しております。
    精巧に再現した直筆書簡等に触れて、「真実の坂本龍馬像」を体感!
    2016年12月に発見された直筆の手紙や重要文化財など、
    全10点の貴重な複製お宝資料&オリジナルDVD収蔵。
    ※商品デザイン及び写真はイメージです。 実際の商品とは異なる場合があります。※本リリース末尾、注意書きを参照してください。
    ※商品デザイン及び写真はイメージです。 実際の商品とは異なる場合があります。※本リリース末尾、注意書きを参照してください。



    【「読んで」「見て」「触れて」「感じる」龍馬という漢。】
    薩長同盟、大政奉還などの実現に奔走し、近代日本の礎を築いた幕末の英雄、龍馬はどんな人物だったのか? 龍馬に関する最新の知見と資料を集めてまとめた豪華書籍と、全10点の選び抜かれた貴重な複製お宝資料&オリジナルDVDを収蔵。この機会を逃したら二度と手に入らない、特別保存版です。

    (書誌情報)
    『坂本龍馬大鑑 ~没後150年目の真実~』 ISBN:978-4-04-895913-1
    【ご予約期間: 2017年7月14日(金)から2017年9月15日(金)まで(予定)】
    ●完全受注生産となります。予約終了後の受付はいたしません。お早目にご予約ください。
    2017年11月15日【龍馬の命日】発売予定 価格(本体15,000円+税)
    ■A4判上製(縦297mm×横210mm×厚42mm)・外箱付/192ページ 全10点複製お宝資料■DVD
    監修・執筆:小美濃清明 企画協力:高知県立坂本龍馬記念館/京都国立博物館/全国龍馬社中 等
    ※お申し込み多数の場合は、発売日以降に準備出来次第随時発送させて頂く場合がございます。ご了承ください。
    ※商品デザイン及び写真はイメージです。実際の商品とは異なる場合があります。
    ※お宝資料、DVDおよび本書の内容は変更になる場合がございます。

    ●「坂本龍馬大鑑」特設サイト:http://store.kadokawa.co.jp/shop/pages/sakamotoryoma.aspx

    <本書の内容>
    第一章   新国家をつくる
    第二章   高知城下に生まれて
    第三章   幕末東アジア情勢
    第四章   剣術修行開眼
    第五章   土佐藩の枠にとらわれず
    第六章   脱藩決行
    第七章   勝海舟に心奪われて 
    第八章   薩摩の志士たちと“日本の洗濯”へ
    第九章   長崎の港を見つめて ~海援隊誕生~
    第十章   運命の薩長同盟締結
    第十一章  秘境竹島に夢をもとめて
    第十二章  本懐全う~「新国家創造」に夢と愛を捧げた志士~
    第十三章  新国家の財政計画
    +【特別付録DVD】約1年間に及ぶ本書取材の記録
    ※お宝資料、DVDおよび本書の内容は変更になる場合がございます。
    監修・執筆:小美濃清明(おみのきよはる)
    早稲田大学卒。作家。幕末史研究会会長。全国龍馬社中副会長。主な著書に「龍馬の遺言〔近代国家への道筋〕」(藤原書店)、「龍馬八十八話」(右文書院)、「坂本龍馬と刀剣」、「坂本龍馬・青春時代」(ともに新人物往来社)などがある。

    ●収蔵お宝(複製)の一部紹介

    ■新発見の「新国家」記載書簡を複製収蔵
    ※本リリース末尾、注意書きを参照してください。
    ※本リリース末尾、注意書きを参照してください。


    ↑「坂本龍馬から中根雪江宛」 2016年12月新発見。慶応3年11月10日、暗殺の5日前。文章に新国家と書かれている。(個人蔵)

    ■重要文化財
    ※本リリース末尾、注意書きを参照してください。
    ※本リリース末尾、注意書きを参照してください。


    ↑「龍馬から乙女姉へ」 文久3年6月29日、日本を今一度洗濯~記載の有名な手紙〈一部抜粋にて複製〉。(京都国立博物館蔵)

    精巧に再現した貴重な10点のお宝で、龍馬に“触れる”全く新しい歴史体験が味わえる完全受注生産 超豪華本『坂本龍馬大鑑 ~没後150年目の真実~』は、カドカワストア他、全国の郵便局(一部、簡易郵便局を除く) 、書店にて予約受付中! 予約受付期間は、2017年7月14日(金)から2017年9月15日(金)まで。発売は龍馬の命日である11月15日(水)を予定しております。この機会にぜひお求めください。
    ※完全受注生産となります。予約終了後の受付はいたしません。お早目にご予約ください。

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  57. Kyoto no T (@Kyoto_no_T)
    2017/11/15 23:09
    本日11月15日は坂本龍馬と中岡慎太郎が亡くなった日。
    今年で150年です。
    京都霊山護国神社では、墓前祭が行われ、2人が食べれなかった軍鶏鍋が振る舞われてました。私もおいしくいただきました。
    俳優の前川泰之さんも参列されてましたよ。 #京都 #幕末 #こげなくそ pic.twitter.com/t1OZBgj1Pv

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  58. http://www.bi-p.co.jp/essay/155/
    2008/10/14 TV『篤姫』が“尚五郎さん”と呼んだ、『龍馬を超えた男 小松帯刀』

    ―読書の秋 日本を元気にする100年の視野と智慧、勇気を求めて(5)―


     今回は、企業リーダーでなく、日本の社会変革、開国という激動の時代の国家リーダーを紹介します。薩摩藩家老となった「幕末最大の英傑」小松帯刀(こまつたてわき)を取り上げます。帯刀は、幼名・肝付尚五郎(きもつきなおごろう)といい、島津小松家の養子となった。TV『篤姫』に準主役で登場している“尚五郎”の知られざる歴史的偉業に目を開かされた。原口泉著『龍馬を超えた男 小松帯刀』(グラフ社 2008年4月)が実に面白く、新鮮な史実と切り口に一気に読んだ。彼は、時代の主役である。小説や映画・TVドラマの影響で個人の英雄像に成りがちな我々の歴史群像をも問い直す。

     NHK大河ドラマ『篤姫』がクランクアップしたことが大ニュースになる程人気である。
    私も毎週欠かさず見ており、毎回面白く、盛り上がる。あと3ケ月、TV『篤姫』脚本家田淵久美子さんが描き出す“尚五郎”の展開と、TV『篤姫』時代考証家 原口泉氏の本が描くリーダー“帯刀”をパラレルに味わえる楽しみが増えた。

    (1)知られざる龍馬と帯刀の出会いと深いつながり

     私自身、以下の内容は初耳が多く、意外であった。自分の認識が正され、良かった。

     『龍馬は天保六年(1835)、帯刀と同年の生まれです。・・(略)・・その出会いとは、神戸にあった勝海舟の海軍塾、神戸海軍操練所が閉鎖され、その塾頭だった龍馬を大坂の薩摩藩邸に引き取ったときでした。
     実は、それ以来、後に海援隊となる亀山社中を作ったのも、薩長同盟のための遊説に路銀を与えて龍馬を送り出したのも、度重なる談合場所に京都の小松邸を提供して「薩長同盟」を実現させたのも、「大政奉還」実現のために、十五代将軍・慶喜にその受け入れを説得したのも帯刀でした。しかし、それを知る人はあまりにも少ないのです。』
    (同書6-7ページ)

     何故なのでしょうか。その疑問にも、原口氏は、回答を用意しています。
     
     帯刀は何度となく叙位を辞退しています。それは「無私」の発露であったと言う。しかし、『小松帯刀の類稀な「無私」の精神は、やがて後世における帯刀の名自体をも、葬り去ったのではないかと私には思えるのです。』
    (同書242ページ)

     
    (2)「帯刀なくして、龍馬・西郷・大久保の活躍はなかった」

     原口氏は、時代考証家である。膨大な調査と研究によって、史実からこう語っている。

     『維新の推進は、これら草莽の志士による活動をばねにしながら、結局は、挙藩体制と、薩長雄藩連合によるしかなかったのです。・・(略)・・帯刀は、龍馬と同様、西郷や大久保といった幕末の英雄の中ではもっとも若かったわけですが、その出自を考えれば、彼がリーダーシップをとったことは想像に難くありません。
     次に列挙するように、その他にもさまざまな歴史の局面で、帯刀は偉業を成し遂げています。
    ・ 島津斉彬(なりあきら)の遺志を継ぎ、薩摩藩の近代工業導入に努力
    ・ 薩英戦争における善戦とみごとな戦後処理
    ・ 禁門の変の先頭に立ち、勝利を導く
    ・ 勝海舟の軍艦奉行罷免に際し、龍馬ら神戸繰練所塾生30名を保護
    ・ 開成所(洋学校)の設置
    ・ 英国留学生の派遣
    ・ 薩長同盟を主導
    ・ 英国公使パークスの招聘
    ・ 大和交易コンパニーの設立
    ・ 薩土盟約を主導
    ・ パリ万博への薩摩藩独自参加を推進
    ・ 二条城大会議で徳川慶喜(よしのぶ)に迫り、大政奉還を決意させる
    ・ 明治新政府の「外務大臣」として堺事件、兵庫事件を解決
     もちろん、すべてが帯刀一人の力によるものではありません。しかし、少なくとも、藩主・島津忠義と国父・久光に代わって、すべての最高責任者を務めたのは帯刀でした。』
    (同書19-20ページ)

    (3)「帯刀が龍馬・西郷らを超えていた点」

     原口氏の論点は、単なる個人の比較でない。維新の特徴と薩摩藩の役割との観点で歴史的視点から個人をみる必要性を述べているのではないかと推察する。

     第1は、誤解を恐れずに、敢えて小説と歴史の視点の違いを述べている。
     
    『司馬遼太郎氏はじめ、小説家が書く歴史小説は、ある個人の英雄物語になることがほとんどです。人々が幕末維新史を語るときもまた、「あのとき龍馬が、このとき西郷が・・・」といった具合に、個人の力が維新という大事業をやったかのようになります。
    しかし、一国を個人が動かすことができるでしょうか。私は、それは不可能であって、やはり、世の中は動いていく原動力は組織だと考えています。』
    (同書228ページ)
    『私が小松帯刀について語りたいと思ったのは、こうした組織の持つ力について考えてみたかったからです。』
    (同書229ページ)

    第2は、薩摩藩の影響力の重要な要素に、藩の分裂回避による藩力の強さを指摘する。無血変革を望んだ帯刀、龍馬等の願いに反して、結局は軍事力の衝突となった。

    『薩摩藩が、倒幕の維新の中心的な存在になり得た最大の理由は、これまで述べてきたように、薩摩藩が分裂することなく維新を迎えたということに尽きます。もちろん、国父である島津久光の力が大きいことは動かぬ事実です。しかし、藩を決定的に分裂させなかった力はどこにあったのかを考えると、やはり帯刀と大久保に行き着くのです。
    大久保を軽輩の代表とすれば、帯刀は門閥の代表です。二人の共通点は、言うまでもなく、藩から脱出せずに、最後まで薩摩藩の人間として活動したことです。幕末史を語るとき、こうした組織力を語らないのは、片寄った見方というべきでしょう。』 (同書234ページ)

    (4)“騎士道”の国の外交官が見た“武士道”

     原口氏は、当時のイギリス外交官、アーネスト・サトウの著書『一外交官の見た明治維新』(岩波書店)の以下一文を紹介する。

    『小松は、私が知っている日本人の中で、一番魅力のある人物で、家老の家柄だが、そういう階級の人間に似合わず、政治的才能があり、態度にすぐれ、それに友情が厚く、その点で人々に傑出していた。』

     当時の武士は、支配階級であるが、同時に政治・経済・道徳のリーダーであった。

    以上
     (追記)2008年3月3日BIエッセイ「雛祭り-NHKTVドラマ 宮﨑あおい主演『篤姫』人気を探る」で、原口泉氏の著作『篤姫-わたしこと一命にかけ(グラフ社)』を紹介しています。
    thumbnail_sasaki佐々木 昭美(ささき あきよし)

    取締役会長 総合研究所所長

    経営コンサルタント(経営改善、事業開発、ビジネスモデル、 人事戦略、IPO、M&A、社外取締役)

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  59. https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E6%9D%BE%E6%B8%85%E5%BB%89
    文久元年(1861年)に北郷作左衛門とともに長崎出張を命じられ、1月17日に蒸気船「天佑丸」に乗船して前之浜を出立した[13]。長崎では通詞を雇い、オランダ軍艦に乗船して軍艦操作、破裂弾・水雷砲術学などを修学、八木玄悦、石河正龍らとともに研究している[14]。帰鹿した同年6月に石河によって忠義臨席のもと電気伝導で水雷を爆発させる実演が行われ、これらの功績によって同年5月18日、島津久光の側役に抜擢されている[15]。10月に入って大幅な人事異動のもと久光体制が確立すると、清廉は御改革御内用掛に任命され、藩政改革に取り組んだ[16]。配下に大久保利通がいた。文久2年(1862年)には久光による上洛に随行し、帰国後は家老職に就任した。薩英戦争では、研究した水雷を鹿児島湾に配置するなど尽力する。戦後は集成館を再興して特に蒸気船機械鉄工所の設置に尽力する一方で、京都にあって主に朝廷や幕府、諸藩との連絡・交渉役を務め、参与会議等にも陪席した。他方で御軍役掛や御勝手掛、蒸気船掛、御改革御内用掛、琉球産物方掛、唐物取締掛などを兼務して藩政をリードし、大久保や町田久成とともに洋学校「開成所」を設置した。禁門の変では、幕府の出兵要請に対して消極的な態度を示したが、勅命が下されるや薩摩藩兵を率いて幕府側の勝利に貢献した。戦後、長州藩から奪取した兵糧米を戦災で苦しんだ京都の人々に配った。第一次長州征討では長州藩の謝罪降伏に尽力している。

    在京中に土佐藩脱藩浪士の坂本龍馬と昵懇となった。亀山社中(のちの海援隊)設立を援助したり、龍馬の妻・お龍の世話をしている。長州の井上馨と伊藤博文を長崎の薩摩藩邸にかくまってグラバーと引き合わせ、その後、鹿児島へ井上を伴って薩長同盟の交渉を行った。なお薩長同盟における密約や桂小五郎が滞在したのも、京都における清廉の屋敷であったと伝えられる。

    イギリスと薩摩の友好に尽力し、五代友厚らを密かにイギリスへ留学させた。また英国公使ハリー・パークスを薩摩に招き、島津久光と引き合わせた。兵庫が開港されると、大和交易コンパニーという株式会社を設立して貿易拡大にも努めた。第二次長州征討には反対し、慶応3年(1867年)の薩土盟約や四侯会議など、諸藩との交渉に関与した。討幕の密勅では請書に、西郷隆盛・大久保利通とともに署名している。大政奉還発表の際は藩代表として徳川慶喜に将軍辞職を献策し、摂政・二条斉敬に大政奉還の上奏を受理するよう迫った。西郷・大久保を率いて薩摩に戻って藩主・島津忠義の率兵上洛を主張する。上洛の随行が命じられるも、病によりこれを断念している。明治2年(1869年)9月、明治維新の功により賞典禄1,000石が授けられる。


    禰寝・小松家歴代墓所にある小松清廉の墓
    新政府においては、総裁局顧問、徴士参与や外国事務掛、外国官副知官事、玄蕃頭などの要職を歴任した。フランスが、江戸幕府の借金を新政府が返済しないなら横須賀造船所を差し押さえると主張した際、清廉と大隈重信はイギリスから資金を借りてフランスに返済して窮地を脱している。他にも堺事件や浦上四番崩れの交渉を行った。またグラバーや五代友厚とともに、日本初の西洋式ドックを備えた小菅修船場を建設した。

    明治2年(1869年)1月11日には大久保に版籍奉還の申し出を催促し、1月20日に吉井友実とともに鹿児島に帰藩する。同年1月8日付大久保宛書状ではこの頃オランダ人のアントニウス・F・ボードインの診察を受けたことが記されている[17]。小松の病状に関しては万延元年頃から「足痛」を患っており、たびたび入湯による治癒を行っている[18]。明治元年10月8日には「胸痛」、同年12月8日には「肺病」が記されているが、この症状は以後触れられておらず、同年9月中旬には左下腹部の腫瘍の存在を記しており、ボードウィンは切除困難と判断したという[19]。

    医師3月10日には長崎で井上馨らと協議し、2月1日に再び帰藩する。2月4日には病気により領地・家格の返上を願い出て、5月15日に官吏公選により退職する。版籍奉還では、久光を説得し率先して自らの領地を返上して範を示し、8月17日には領地返上が許可され、永世禄300石を給せられ、さらに9月26日には賞典禄1000石を給与される[20]。9月には下腹部の腫瘍が悪化し、大阪薩摩掘(大阪市西区立売堀)に借宅する[21]。

    明治3年(1870年)1月には大久保や木戸らが小松を見舞うが、この頃には遺言書を作成している。7月18日に数え年36歳で大阪にて病死し、最期は側室三木琴(琴仙子)が看取った。葬儀は同年7月21日に天王寺村夕日岡(大阪市天王寺区夕陽丘)で神式により行われた[22]。明治9年には遺骨が小松家の旧領吉利の園林寺廃寺跡である鹿児島県日置市日吉町吉利の禰寝・小松家歴代墓所に移される。

    人物 編集


    鹿児島市山下町にある小松帯刀像

    小松帯刀寓居跡石碑(京都市上京区)
    愛妻家で、新婚時代の安政3年4月23日から5月6日(1856年5月26日から6月8日)にかけて当時珍しい新婚旅行で霧島の栄之尾温泉に滞在した記録がある。この滞在には千賀の父も同行した。ちなみに日本初の新婚旅行を行ったとされる龍馬は寺田屋事件直後の慶応2年(1866年)であり、実際には清廉のほうが10年早く新婚旅行を行っていたことになる[23]。
    寛容で雄弁明快な人柄で人望が厚く、若くして薩摩藩の重職に取り立てられた。西郷隆盛に初めて会いに行った際、西郷が、身分としては遥かに上とはいえ自らより7歳若い小松の度量を試そうと、わざと部屋で横になり小松を待っていたところ、小松はその姿を見て立腹することなく、むしろ西郷のために枕を持って来るよう従者に促したため、西郷はその一言を聞くや居住まいを正し小松に詫び、忠誠を誓ったという[24]。新政府においても将来を嘱望された。
    妾の琴は帯刀清廉の死後、長男・安千代を鹿児島の千賀に預け、帯刀と親交の厚かった五代邸で長女の壽美とともに暮らした。
    大正11年(1922年)、時の鉄道大臣は、清廉の子孫である伯爵・小松重春に品川駅立売営業権を許可している。これは、清廉が慶応3年(1867年)に鉄道敷設建白書を呈上した功績を考慮したことに因んでいる。これにより、小松家は「株式会社常盤軒」として省線(現JR)品川駅で駅弁などの販売を開始した。しかし2010年(平成22年)の品川駅改装を機に、駅ビルのルミネ・ザ・キッチンに移ったが程なく閉店した。駅蕎麦屋や仕出し弁当などは引き続き営業している。
    坂本龍馬の新政府の人事構想では、西郷や大久保、桂らを抑えて、筆頭に挙げられていた。
    下記参考文献中の瀬野富吉によれば、清廉は乗馬の達人で、夜、提灯をさして馬に乗っても、提灯が揺れなかったという。
    幕末に英国の外交員として派遣されていたアーネスト・サトウの著書[25]において、「私の知っている日本人の中で最も魅力的な人物」「家老の家柄だが、そういう階級の人間に似合わず、政治的才能があり、態度が人にすぐれ、それに友情が厚く、そんな点で人々に傑出していた。」と評されている。

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  60. リアルタイム一覧
    施設案内と「たまくすの木」 横浜開港資料館
    www.kaikou.city.yokohama.jp/guide/tamakusu.html
    たまくす」は、江戸時代、横浜がちいさな農漁村であったころからこの地にあり、1854(嘉永7)年のペリー来航時に艦隊に随行してきた画家ハイネが描いた「横浜上陸」(2)や、「 水神の祠」(3)などに描かれた木がそれにあたると考えられています。 (2) ハイネの原画による石版画「横浜上陸」, (3) 『ペリー艦隊日本遠征記』(1856-58年刊)の挿絵に. 1859 (安政6)年、横浜は開港場となり、外国人居留地と日本人市街とをわける位置にある「 たまくす」は、浮世絵にも登場しています(4)。しかし、関内地区に大きな ...
    横浜開港資料館 - 横浜市
    www.city.yokohama.lg.jp>...>横濱もののはじめ探訪
    もと英国総領事館、現在の横浜開港資料館の中庭に、「玉楠」の木がある。タマグスは、 楠(樟)と 同じクスノキ科に属するタブノキの異称で、沿海の暖湿地に植生する日本の代表的な常緑広葉樹である。 かつて横浜の海岸と丘陵を広く覆っていたという。 資料館の玉楠も、開港のずっと以前から枝葉を広げていた大木で、その間近で歴史的な日米和親条約 が締結された(1854(安政元)年)。米艦隊の随行画家ハイネの『ペリー横浜上陸図』にも、その玉楠は応 接場とともに描き込まれている。 この歴史の ...
    玉楠(日米和親条約締結の地に残るタブノキ) - 関内 - 中区日本大通3
    ja.foursquare.com>アウトドア&レクリエーション>木
    横浜市地域史跡。横浜開港資料館の中庭に立つ大きな楠は、樹齢300年とも言われる巨木。1923年の関東大震災にて一度焼失するも、根の一部が生きていてそこから復活を遂げ現在の雄姿を見せています。ありあけ本舗ハーバーズムーンの店舗入り口にはこの玉楠をモチーフにしたモニュメントが飾られています。 7枚の写真. 関連する検索. 玉 楠(日米和親条約締結の地に残るタブノキ) 横浜市; •; 玉楠(日米和親条約締結の地に残るタブノキ) 横浜市 photos; •; 玉楠(日米和親条約締結の地に残るタブノキ) 横浜市 ...
    横浜開港資料館 - Wikipedia

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  61. 【歴史】龍馬と亀山社中、関係薄い? 船中八策は虚構の可能性★2

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    1ばーど ★2018/02/26(月) 15:16:40.37ID:CAP_USER9>>10>>38
    https://www.asahicom.jp/articles/images/c_AS20180224001143_comm.jpg

    幕末の志士・坂本龍馬が創設した、日本初の商社兼私設海軍といえば「海援隊」。前身の「亀山社中」は、長州藩と薩摩藩を結びつける役割を果たしたといわれる。だが、最近の研究で、龍馬との関わりは薄かった可能性が高くなっている。

     私たちの知る「亀山社中」と、後身とされる「海援隊」の設立経緯は以下のようだ。

     神戸にあった幕府の海軍操練所が閉鎖されると、土佐浪士だった坂本龍馬は慶応元(1865)年夏、長崎に日本初の商社兼私設海軍「亀山社中」を設立する。

     同年7~10月には、長州藩のために、武器や軍艦(ユニオン号)などの兵器を薩摩藩名義で購入。当時、険悪だった両藩の関係の修復を試みた。

     慶応2年1月には、社中の一員だった近藤長次郎が盟約に反した罪で切腹するものの、同年6月の第2次幕長戦争では、ユニオン号で海戦に参加。その志は慶応3年に設立された商社兼私設海軍「海援隊」に受け継がれたとされる。

    ■私設海軍の見方「事実誤認」

     だが、専門家からは、こうした通説は再検討すべきとの指摘が出ている。

     明治維新史学会理事を務める、神田外語大学准教授の町田明広さん(幕末維新史)によると、亀山社中の「社中」は「グループ」という程度の意味。「薩摩藩名義で買い上げた軍艦を、薩摩の指示のもとで運航していた土佐の脱藩浪人の集団というのが実態。私設海軍や商社などとするのは事実誤認」

     坂本龍馬との関係も希薄とみる… 残り:1537文字/全文:2121文字

    2018年2月26日09時08分
    朝日新聞デジタル
    https://www.asahi.com/articles/ASL2P4SDXL2PULZU00K.html?iref=sptop_8_06

    ★1が立った時間 2018/02/26(月) 12:27:15.54
    前スレ
    https://asahi.5ch.net/test/read.cgi/newsplus/1519615635/

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  62. 坂本龍馬が目指したのは政治革命ではなく社会革命
    それが理解されていない

    贈歌篇-坂本龍馬に贈られた歌
    http://ryomado.in.coocan.jp/Sakaryo/SRpoem/saryo_poem04-01.html

    故坂本ぬしにむかし逢ひしとき物語せし一言を書記しつる折り
    硯の海に うかふ思ひの かすかすの かきつくせぬは 涙なりけり
    いさをなく 我身は今に なからへて 世にも人にも はちさらめやは
    由利公正
     明治二十二年六月、三岡八郎こと由利公正が龍馬を偲び書きとめた歌。

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  63. 私設海軍の見方「事実誤認」
     だが、専門家からは、こうした通説は再検討すべきとの指摘が出ている。

     明治維新史学会理事を務める、神田外語大学准教授の町田明広さん(幕末維新史)によると、亀山社中の「社中」は「グループ」という程度の意味。「薩摩藩名義で買い上げた軍艦を、薩摩の指示のもとで運航していた土佐の脱藩浪人の集団というのが実態。私設海軍や商社などとするのは事実誤認」

     坂本龍馬との関係も希薄とみる。「社中のメンバーは、海軍操練所の解散後、薩摩藩の大坂屋敷に潜伏していた近藤長次郎、高松太郎といった面々で、そこに龍馬の名はない。発足時にも龍馬はそこにいなかった」

     龍馬が奔走し西郷隆盛の協力をとりつけて、薩摩藩の名義で長州藩のために武器と軍艦を買い付けた――という逸話も裏付けに乏しいという。「史料を見る限り、軍艦と武器購入のため、長崎の薩摩屋敷に派遣されたのは長州藩の井上馨と伊藤博文。彼らが薩摩藩重職の小松帯刀に名義借りを懇願し、それがかなって買い入れができた。龍馬も西郷も出てこない」

     町田さんの新説について、佛教大学の青山忠正教授(明治維新史)は「意外かもしれないが、龍馬に関わる研究は実はあまり進んでいない。きちんと史料を読みこめば、今後も新事実が次々と明らかになってくるはずだ」と冷静に受け止める。

    西郷の登場、なぜ?
     それにしても、なぜ関わっていない西郷が登場するのか。

     「西郷は当時、薩摩藩の下役で、名義貸しを判断できる立場になかった。だが、何にでも西郷が関わったとしたかった後世の人が、後付けで役割を入れ込んだのだろう」と町田さん。龍馬と社中の関わりも「当時、龍馬が長崎にいなかったことは調べればすぐわかる。でも、皆、なぜかそこはスルーしてきた」。

     龍馬が関わっていないなら、「亀山社中」のリーダーは誰だったのか。町田さんは、近藤長次郎に着目する。1838年に高知の饅頭(まんじゅう)商人の子として生まれたが、山内容堂に認められ、名字帯刀を許されて海軍操練所にも関わった。

     近藤が薩摩藩の上層部にあてた上書では天皇の権威向上、通商条約容認、富国強兵、海軍振興などを論じている。論旨も明快で非常な秀才だったようだ。

     町田さんによると、近藤たちは薩摩藩に受け入れられ、対外的には「薩摩藩士」として活動していた。「龍馬を『薩摩藩士の坂本』と書いた史料もある。龍馬は社中とは関わりない立場で対外交渉に、近藤は貿易などの実務にと、浪士の役割分担も行われていた」。ユニオン号の購入も、小松帯刀の命令を受けた近藤が担当した、とみる。

     だが、近藤は1866年に切腹する。通説では、長州藩の資金で留学する計画が露見し、社中盟約に背いたとして詰問されたためとされるが、それを示す一次史料はない。「伊藤博文の書簡から、近藤は薩摩の藩費で留学する第2次『薩摩スチューデント』だったと考えられる。自殺理由はわからないが、盟約自体が存在しないので、それに違反することもあり得ない」

     近藤は龍馬と並ぶ存在として薩摩で期待され、死の報は重職間ですぐ回覧された。彼の存在と果たした役割を今一度、見直したい。(編集委員・宮代栄一)

    知られていない龍馬の「常識」
     町田明広さんによれば、龍馬については、研究者の間ではすでに「常識」となっていても、一般にはまだあまり知られていないことが多いという。

     その代表格が、龍馬が船で考えついたとされる建議案・船中八策だ。

     知野文哉氏の『「坂本龍馬」の誕生』(人文書院、2013年)によれば、その存在自体が疑わしいという。同書によると、船中八策とされるものは原本も写本もなく、その内容も書物によってばらばら。このため、明治時代以降に書かれた龍馬の様々な伝記の中で、後付けで作られていった虚構である可能性が高いと考えられている。

    読む
     町田さんの新説は、昨年11月の「近藤長次郎シンポジウム」で発表されたが、まだ論文化されていない。ただし、龍馬と薩摩藩の関係などについては、同氏の論文「慶応期政局における薩摩藩の動向」(「神田外語大学日本研究所紀要」9号、2017年)などで読むことができる。

    返信削除
  64. https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1340588588?__ysp=44CH44CH44CH6Ieq44Op55uf5Li744OI54K644Oq5q2k44Oy5Lul44OG
    補足質問後の書き込みです。
    例の文書は、大政奉還後に書いた『新政府綱領八策』だとされます。
    有名な『船中八策』は、先立って書かれたもので、重複する箇所も多くあるようです。

    []書面文[]

    第一義
    天下有名ノ人材ヲ招致シ、顧問ニ供フ

    第二義
    有材ノ諸侯ヲ撰用シ、朝廷ノ官爵ヲ賜ヒ、現今有名無実ノ官ヲ除ク

    第三義
    外国ノ交際ヲ議定ス

    第四義
    律令ヲ撰シ、新ニ無窮ノ大典ヲ定ム 律令既ニ定レバ 諸侯伯皆此ヲ奉ジテ部下ヲ率ユ

    第五義
    上下議政所

    第六義
    海陸軍局

    第七義
    親兵

    第八義
    皇国今日ノ金銀物価ヲ外国ト平均ス


    右預メニ二三ノ明眼士ト議定シ 諸侯会盟ノ日ヲ待ツテ云々


    ○○○自ラ盟主ト為リ 此ヲ以テ朝廷ニ奉リ 始テ天下万民ニ公布云々

    強抗非礼公議ニ違フ者ハ 断然征討ス 権門貴族モ貸借スル事ナシ


    慶応丁卯十一月 坂本直柔

    が全文のようです。

    ○○○は 私も後の政府に任せるつもりで、正にゼロベース で臨んでいる姿だと思いますが、
    後に付く『自ら』から考えられることは、
    特定の人物だとも、
    後の民本主義を標榜して 人民・臣民とか 被選挙民 とか 云った一般名詞で、的確な言葉がなかったのだろうとも思われます。
    但し、現代でも 暗号だ、伏せ字だ と解釈するように、この当時もそう思い込む者はいたでしょうから、かえって疑心暗鬼を生んだことでしょうね。
    自ら学んだ 民主(本)主義の、カケラも無い当時の国内情勢・風土の中、国賊扱い されかねない時代背景だったが故の躊躇とも考えられます。

    龍馬 決死の意中 を記した、それ故に複数書き残した‥これは本物だと思いますよ。
    偽物なら 明確に書くだろうからです。

    先見の明に過ぎた龍馬の、
    後世の我々のために残した、政治理念と同時に、公のダイイング・メッセージ だったのかもしれませんね。
    『船中八策』より ある意味 感慨深いですよね。

    返信削除
  65. 奮闘!坂本龍馬と亀山社中 - 文太郎の思考のDNA
    katobuntaro.blog18.fc2.com/blog-entry-317.html?sp
    坂本龍馬と亀山社中 ・歴史ヒストリア 歴史秘話ヒストリア 奮闘!坂本龍馬と亀山社中 俺たちは“負け組”じゃない。 幕末のヒーロー、坂本龍馬。長崎での写真。横にゴム布が付いていて、ブーツを履いている。サイドコア。世界的なスタイルだ。 .... 近藤長次郎切腹、享年29。 長崎を留守にしていた坂本龍馬は、自分がいれば死なせなかったのに、と悔やんだという。 夢を求めた男たちの亀山社中で起きた悲劇だった。 勝海舟の弟子になったときの姉への自慢の手紙、「エヘン」の表現。 「ニッポンを今一度洗濯 ...
    杜の熊日記 龍馬伝で気になる二人 - FC2
    morikuma33.blog116.fc2.com/blog-entry-123.html
    激動の時代を生きた日本で最も有名な偉人、坂本龍馬が主人公です。 今もまさに ... 近藤長次郎の切腹 龍馬暗殺の1年ほど前に、仲間に無断で一人だけイギリス船に密航しようとしたことがばれてしまいます。更に調べを進めたところ、亀山社中の金を横流し( 留学資金か手数料の為らしいです)していた事実まで発覚。間の悪い事に龍馬が不在だったため庇う者もおらず、亀山社中の隊士から切腹を申し渡されてしまいます。 のち龍馬は「自分が居れば長次郎を死なせたりしなかった」と述懐しています。
    坂本龍馬の親友【近藤長次郎】の悲しい事件の真相!
    rekishisuki.com>ホーム>江戸時代
    まとめ. 坂本龍馬のお話には必ずと言っていいほど登場する近藤長次郎さん。 しかも最後は悲運の死として取り上げられ感動を呼びます。 しかし、真実は全く違ったところにありました。 けれどこれもまた歴史の中の仮説でしかないのです。 やっぱり坂本龍馬に信頼され、死を嘆かれた偉大な人物であってほしいと思います。 本当にドラマでは良い人なんだよなー。
    近藤長次郎の切腹から見た海援隊という組織 - 長崎ギフト南蛮館
    nanbankan.blog72.fc2.com/blog-entry-423.html?sp
    この画像は ブログ仲間のイナッキーさんから拝借しました。 場所を知りたい方はここをクリック 「梅花書屋氏墓」は、小曾根邸の離れの屋敷名をとって墓碑に記されているそうだ。 筆跡は龍馬のものとされている今日の龍馬伝 先週見れなかった。 残念である 今日はぜひ見るぞ との意気込みで夕方から どこへも出かけなかった。 そこで長次郎のことであるが 亀山社中の本来の仕事である長州までの武器の運搬は 近藤長次郎の手腕によって運営されてた。 薩摩から命を受け、武器商人グラバーから新式 ...
    龍馬伝の近藤長次郎 : Kumaouji Books - くまおうじ書店
    kumaouji.exblog.jp/11137561/
    龍馬伝も中盤の山場を迎えようとしてますねグラバー商会からの武器買い付けで活躍した饅頭屋長次郎は薩長同盟成立直前に自刀させられます。 気になるのは、龍馬がコレを知っていたかどうかですね。 亀山社中は実質坂本龍馬が頭領なので命に浪士への処分はまず龍馬に知らせるのが常識だろう。 知らせるんではなくて、それでいいかと許可を得るのが普通だろう。 なにせ長次郎は龍馬の古い友人なので。。 お龍がのちに、 龍馬は「知っていれば死なせはしなかった」と語ったというのが本当なら、社 ...
    近藤長次郎の顕彰碑が、眼鏡橋近くに建立。 : 68歳現役ボーカリスト
    aibiki.exblog.jp/15224258/
    その事件の時、龍馬は長崎にいなかったのです。 おそらく、京都じゃなかったかな? 長崎へ帰って来て、それを知り、わしがいたら死なせなかったと泣いたようです。 龍馬伝を見た人、彼の事を覚えているでしょうか? 昨年の放送では、大泉洋が演じていました。 随分、昔って感じるのは、いなめない。 その切腹した近藤長次郎は、今、長崎の地で眠っている。 高知の人だけど、そう言う訳もあり、今回、顕彰碑の建立となったのでは・・ 。 その近藤長次郎の顕彰碑が、眼鏡橋のすぐそばに建立され、3月の末日 ...

    返信削除
  66. 一坂太郎 『わが夫坂本龍馬 : おりょう聞書き

    わが夫 坂本龍馬 (朝日新書) Kindle版
    一坂 太郎 (著)
    5つ星のうち 4.1 17件のカスタマーレビュー

    返信削除
  67. 一坂太郎 『わが夫坂本龍馬 : おりょう聞書き

    わが夫 坂本龍馬 (朝日新書) Kindle版
    一坂 太郎 (著)

    第3章

    持って来た手紙は 、饅頭屋の長次郎 ( * 6 )さんが長崎で切腹した事を知らせて来たのです 。 「長次さんはまったく一人で罪を引受けて死んだので 、俺がおったら殺しはせぬのじゃった 」と 、龍馬が残念がっておりました 。

    返信削除
  68. マルクスには政治革命から社会革命への構想の転換が出来なかった
    坂本龍馬は志士たちが政治革命に邁進する中で一人冷静に社会革命の道を歩んだ
    マルクスに対するプルードンのように
    孫正義は坂本龍馬の信奉者だから龍馬の社会革命志向を一応受け継いでいる

    返信削除
  69. 暗殺後の詠いは描かれない


    坂本龍馬が生きていたら「乃木坂46は存在してない」説に古舘伊知郎「面白すぎる!」と驚愕
    ドラマ
    2019.01.05 up
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    フリーアナウンサーの古舘伊知郎が、番組で新たに掘り起こした事実を含め「歴史上の出来事を実況」するシリーズの第3弾『古舘トーキングヒストリー 〜幕末最大の謎 坂本龍馬暗殺、完全実況〜』が、1月5日(土)21時からテレビ朝日系にて放送される。
    古舘伊知郎「坂本龍馬暗殺」を完全実況!龍馬がロマンチストと描かれてきたことに反発を感じた理由は?
    今回のテーマは、幕末最大の謎「坂本龍馬暗殺」。再現ドラマパートでは渡辺大が演じる坂本龍馬を主人公に、古舘が実況を担当。「寺田屋襲撃事件」では伏見奉行所の捕り方に追われる龍馬(渡辺)と、その護衛役・三吉慎蔵(濱津隆之)の決死の逃走劇をノーカット1カメ撮影。龍馬の手紙や三吉の日記などの史実をもとに再現する。
    渡辺大と橋本マナミ、龍馬とおりょう役で共演!同い年とは思えない色気…『古舘トーキングヒストリー』
    スタジオでは、それぞれの出来事が起きた背景などを歴史学者の磯田道史氏の解説を交えて紹介。幕末のヒーロー坂本龍馬がどういう人間でどんなところに秀でていたのか、「寺田屋襲撃事件」で伏見奉行所に目をつけられたのはなぜか、なぜ暗殺されなければならなかったのか。そして、龍馬を暗殺したのは誰か? 様々な謎や定説を番組独自の視点から分析、坂本龍馬やその時代を知る人には新鮮に、知らなかった人には驚きを与えるようなトークを展開する。
    スタジオにはNHK大河ドラマ『龍馬伝』で龍馬の姉・坂本乙女(とめ)を演じた寺島しのぶ、同作品で龍馬の少年時代を演じた濱田龍臣など、龍馬にゆかりのある俳優がゲストとして登場。磯田氏が展開する龍馬の真実に改めて聞き入っていた。その磯田氏が無邪気に「見たい! 見たい!」とテンションを上げたのが、龍馬と三吉の寺田屋からの逃走劇のシーン。見終えた時には「たまらない」と大感激。「過去にもドラマで再現されているが、もっとも緻密に描かれたドラマでした」と絶賛した。
    そして、気になるのは「もし龍馬が生きていたら?」という仮定。「今の日本も変わっていたのだろうか?」という問いかけに、磯田氏はきっぱりと「我々の人生すべてに影響していたと思います」と言い切る。例えば、龍馬は大政奉還後の新政府の要職に徳川慶喜を迎えようとしていた。となれば、明治新政府の形も違ったものになっていたはず。果たして日本はどのような国家になっていたのか? 磯田説に注目だ。
    さらに、その影響は現代にも及び「乃木坂46も恐らくは存在していないでしょう」と大胆な予測を披露。これにはスタジオゲストの秋元真夏も驚くが、その理由を聞いて思わず納得、古舘も「先生、面白すぎます!」と磯田説に感心していた。坂本龍馬が生きていれば、なぜ乃木坂46も存在しなかったのか? そんな身近な話題にまで影響を与えた「龍馬暗殺」。謎が明らかになる瞬間を目撃してみては?





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  70. それが大政奉還推進派で平和的解決派で…。
    土佐藩…龍馬がいた土佐藩ですよ。
    龍馬の元上司にあたります。
    この大幹部である後藤象二郎。
    それからお殿様が山内容堂。
    こういうところがどっちかというと大政奉還を…っていうふうに推進してるんだけど。
    この考えの違う2つをまた龍馬が水面下で動いて取り持って大政奉還をやる。
    ほとんどの大名が土佐藩と同じ考えで本当に武力で幕府をすり潰そうなんていう大名は薩摩と長州の2つぐらいしかない。
    海運会社今で言う商事会社を起こしてる。
    とってもモダンでグローバリストでイギリスとの付き合いがある。とは言うもののこっちをうまく結びつけながら戦争を起こさないでこっちの言う事に沿ってやろうかと…。
    2つ3つ同時並行ですか考え方は。
    もし大政奉還にのってこなかったら龍馬も武力討幕いった可能性強いですよね。
    ああ~2段階目でこっち付いてもいいと思ってるんだ龍馬は。

    返信削除
  71. 磯田のってくるんだったら戦争をなくして幕府をなくす事できるわけですし新しい段階へ行けるわけですから。
    いやだからねこの人はね…。僕なんか付け焼き刃もいいとこですけど。素人ですけど。
    3段重ねのお重みたいになってるんですよ。
    磯田そうですそうです…。
    この1段目なくなったらこっち。でも1段目で済むなら1段目からつついてみようかという。
    だから平気なんですよね。
    違う意見全部まとめちゃうというか。
    不思議ですね。プランを複数持って有利なものから1つずつやっていくというやり方…。
    商人みたいですやっぱり。うーん…。
    キャパの広さというか考えが柔軟なのか…。
    だから逆に敵も作ったんだと思いますけど。
    そう!そこですよ。
    「龍馬がある人物を怒らせた」ってこれ赤く書いてありますよ。
    これしゃべりすぎると駄目だってさっきディレクターに言われたんです。
    あとにしろと。お前なんでも先出しするから。

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  72. 古舘トーキングヒストリー ~幕末最大の謎 坂本龍馬暗殺、完全実況~
    関白だと?
    ♪~
    ♪~
    だから大政奉還の事を理解してくださいよみたいな根回ししてるんですよ。(伊集院)ああ~。
    これはちょっと驚くのは慶喜にこの人が上申できるわけですそういう話を。
    そうすると大政奉還の方向に動いていくわけですよ。
    本当に全部絵描いてるんですよねこの人が。


    伊集院すげえなあ。もうね言葉を失いますよ。
    だってこういう所まで会いに行って…。
    内側外側会いに行って…。
    そのバランスがやっぱり今でもスーパーヒーローって言われるゆえんなのかなってちょっとこうやっぱり深く知れば知るほど思ってきました。

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  73. 春嶽 福井 龍馬に関するQ&A(7件)-Yahoo!知恵袋
    Q.
    坂本龍馬が松平春嶽から借りた5千両 調べても全然わからなかった...
    A.
    これは、坂本龍馬の個人的な借金ではなく、 松平春嶽による勝海舟が創設した神戸海軍塾に対する...
    解決済み-回答数:1-質問日時:2014年5月1日

    Q.
    sakamoto tome へ 私は 坂本龍馬が 商人とは 言...
    A.
    武士の精神や武士は、簡単な一言では括れないと思います。 その時代、その時代で、武士...
    解決済み-回答数:3-質問日時:2012年7月20日

    Q.
    NHk 大河ドラマ 龍馬伝で、坂本龍馬が、越前福井藩の松平春嶽...
    A.
    一両の価値と言うのは、時代や換算するものによってかなり変わってきますので一概に言うのは難しいと思います。 一両を米...
    解決済み-回答数:3-質問日時:2010年5月17日

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  74. 詳細
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    番組名 英雄たちの選択 「参勤交代を緩和せよ!~松平春嶽 幕政の根幹に物申す~」
    放送日時 2018年09月13日(木)
    午後08:00~午後08:59
    登録局 東京
    本放送 BSP 2018年09月13日(木)
    午後08:00~午後08:59
    番組名1 英雄たちの選択
    番組名2
    個別番組名 「参勤交代を緩和せよ!~松平春嶽 幕政の根幹に物申す~」
    内容時間 00:59:00
    映像モード HV
    映像アスペクト ワイド
    音声モード ステレオ
    番組内容 「参勤交代を緩和せよ!~松平春嶽 幕政の根幹に物申す~」
    場所
    共同制作
    中断ニュース
    制作
    EPG番組記述 幕末、外国船が出没し海防が課題になるが諸藩は財政難に苦しんでいた。原因は参勤交代にかかる莫大な費用。そこで参勤交代緩和を唱えたのが越前福井藩主の松平春嶽だった。
    EPG番組内容 参勤交代は諸大名が将軍に忠誠を示す幕藩体制の骨格ともいえる制度。その費用が諸藩の財政を圧迫し海防ができない、と松平春嶽は緩和を訴えるが、譜代大名が仕切る幕府は受け入れない。そこで春嶽は有力大名たちを説き、党派を作って政治改革を目指すが、大老・井伊直弼と対立、謹慎処分となる。数年後、幕府の力が衰えると春嶽が政権を握ることになる。参勤交代緩和に踏み切るチャンスだが、逆に諸大名が幕府から離れる恐れも。

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  75. http://shavetail2.hateblo.jp/entry/20140408

    坂本龍馬が発掘した人材が実現した金融財政政策

    2014-04-08
    世界の金融史上、デフレはどうやって脱却できたかはこのブログの大きなテーマのひとつです。 今回は明治維新前後に活躍した三岡八郎(由利公正)を取り上げたいと思います。

    f:id:shavetail1:20140408100417j:image:w240:right 昨夜のNHKニュース9で、坂本龍馬が暗殺される直前に土佐藩の重臣、後藤象二郎宛てに書いたとみられる手紙の草稿が見つかったと報じられています。

    この手紙の中で、龍馬は、江戸幕府が朝廷に政権を返上する「大政奉還」の直後、新政府の財政担当の候補だった福井藩の藩士、三岡八郎に会いに行き、後藤にその結果を報告しました。

    三岡八郎は、福井藩の財政再建で手腕を振るった人物で、後に由利公正と名を改め、五箇条の御誓文の起草者としても知られ、明治新政府では初期のころに金融や財政に携わりました。

    三岡八郎(由利公正)が実際にどのような財政政策を採ったのか、成書にはあまり記載がないように思いますが、丹羽春喜・日本経済再生政策提言フォーラム会長(大阪学院大学経済学部名誉教授)により、その業績は詳しく紹介されています。

    「太政官札」発行の断行こそが明治維新成功の鍵であった

    維新の財政支出の94%をまかなった!

    私(注:丹羽春喜氏)は、十年も前から、現在のわが国の財政・経済危機を克服するためには、いわば明治維新のさいの「太政官札」(不換政府紙幣)発行の故知にならい、「国(政府)の貨幣発行特権」の直接的あるいは間接的な大規模発動を断行し、それにより事実上無尽蔵な国家財政財源を確保して、わが国を亡国の悲境より救えと提言してきた。

     しかし、この私の提言(ないしノーベル賞受賞者スティグリッツ教授の同様な提言など)への反論という含意で、「太政官札」とそれに続く「民部省札」および「新紙幣」など明治維新時の一連の不換政府紙幣の発行を、維新史の一大汚点だと決め付け、「太政官札の轍を踏むな!」と叫ぶ議論も、かなり声高に行なわれている。

     「太政官札」の発行を失敗ないし汚点であったとする明治維新史の見かたは、総じて、左翼陣営の歴史家たちのステレオタイプな姿勢である。しかし、坂本竜馬と三岡八郎(由利公正)の夜を徹しての協議(慶応3年10月末)で基本方針が定められ、慶応4年(明治元年)2月から実施されはじめた「太政官札」の発行は、客観的に見れば、明治維新を成功させた決定打として役立った施策であったのである。

     王政復古(維新政府樹立)の大号令が発せられた慶応3年末から戊辰戦争が終わった直後の明治2年の9月までの期間をとって見てみると、維新政府は、戊辰戦争の戦費をも含めて5129万円の財政支出を行なっているのであるが、そのうちの実に94パーセントの4800万円が「太政官札」という不換政府紙幣発行の造幣益でまかなわれている(『明治前期財政経済資料集成』第4巻、48〜61頁)。当時の維新政府は、まだ基盤が脆弱で、威令も十分には行なわれておらず、租税を組織的に徴収する力も弱く、まさに、累卵の上に立つような危ない状況にあった。したがって、戊辰戦役の戦費支出をも含む巨額の財政支出の94パーセントもをまかなった「太政官札」発行による造幣益が、もしも無かったとしたならば、維新政府は存続しえなかったにちがいない。すなわち、「太政官札」の発行を断行しえたことこそが、維新の大業を成功させた決定的な要因であったと、考えねばならないのである。

    太政官札インフレなどは無かった

    「太政官札」の発行開始から2年後には小額紙幣として「民部省札」の発行もはじまったが、これも不換政府紙幣であった。明治5年からは、「太政官札」と「民部省札」は、印刷をいっそう巧緻なものとした「新紙幣」とよばれた紙幣に取り替えられたが、これも兌換紙幣(一定レートで金貨・銀貨への交換を公約している紙幣)ではなく、不換紙幣としての政府紙幣であった点では、なんら変わりはなかった。

     もちろん、維新政府の基盤が固まり、税収が増えるにつれて、毎年の財政支出が政府紙幣の発券による造幣益に依存する程度は徐々に下がっていったのであるが、それでも、たとえば明治5年になっても、財政支出が政府紙幣の造幣益に依存していた割合は、いぜんとして30パーセントにおよんでいた。しかも、これほどにも巨額の不換政府紙幣が発行され、その造幣益を財源として、文明開化のためのインフラストラクチャー整備や防衛力充実のための巨額の財政支出と諸産業への政府融資が大々的になされ、さらには、廃藩置県にともなう旧藩の藩札等債務の償還なども少なからぬ額で行なわれたにもかかわらず、当時のわが国の国内物価は西南戦争が勃発した明治10年ごろまでは、基本的には安定していたのである。

     明治元年の物価水準が、その前年の慶応3年の物価水準に比べて10パーセントも下がったあと、さすがに戊辰戦役の影響をもろに受けた明治2年には物価の上昇がある程度は生じたが、それ以降はわが国の物価はむしろ下がり気味となり、明治4年ごろになると、物価水準は明治元年の物価水準とほぼ同じところに落ち着き、そして、明治10年の物価水準になると、それは明治元年のそれよりも8パーセント低く、慶応3年の物価水準と比べると18パーセントも低くなっていた(山本有造『両から円へ』、12頁参照)。なお、その後の西南戦争の戦費支出に起因する物価上昇は、明治11年ごろから生じたことであった。

     当時は、国内で流通していた不換政府紙幣と対外決済用の銀貨(メキシコ銀貨が多用されていた)との交換比率である「銀紙比率」の相場が、毎日たっていたのであり、これが現在の「為替レート」に該当しているわけであるが、この「銀紙比率」も、明治10年まではむしろ安定的であった。この時期で国内紙幣の銀貨に対する交換価値が最安値になったのは──すなわち、現在の感覚で言えば最も「円安」になったのは──明治7年のことであるが、そのときの「銀紙比率」でさえも1.038にすぎなかった。すなわち、わずかに3.8パーセントの相対的な「円安」であっただけであり、不換政府紙幣の価値暴落といった状況とは、全くほど遠かった。だからこそ、上記のごとく、わが国の国内物価は安定していたのである。

    まさにケインズ経済学のセオリーどおり

    要するに、「太政官札インフレ」などというものは無かったのである。ということは、明治初年のころには、徳川幕府倒壊による先行き不安から経済活動の萎縮が生じ(江戸の街が灯の消えたようにさびれた)、マクロ的な生産能力の遊休、つまり、デフレ・ギャップが巨大に発生していたということを物語っている。すなわち、不換政府紙幣の大量発行を財源としてなされた文明開化政策や軍備近代化の推進などによる有効需要支出の大幅な増大に対応して、そのような遊休生産能力が稼動しはじめ、諸種の物資や商品の供給も順調に増えることができたからこそ、物価は安定していたのである。

     まさに、ケインズ経済学のセオリーどおりのプロセスが妥当していたということである。 驚くべきことに、由利公正は、ケインズ理論が体系化される七十年も前に、このようなプロセスを見通していたらしいのである。故村松剛氏の名著『醒めた炎』でも、「太政官札」発行による由利公正の財政政策が、まさに、そのように意義づけられているのである(同書、下巻、283〜286頁)。
                       『カレント』誌、平成17年2月号所収

     NHKの報道によれば、見つかった手紙の草稿の中で、三岡が江戸幕府の帳面を調べた結果、幕府の財政政策が旧態依然として「気の毒」だと評していたことが書かれていたとか。
    そのうえで、龍馬は新政府の財政を任せられるのは三岡をおいてほかにはいないと後藤象二郎に進言した、とのことです。

     マクロ経済学など知る由もない三岡八郎が、財政の大半を税収でもなく、国債でもなく、ましてや金塊でもない、「国家信用」(その実体は国内生産力)にのみ裏付けられた政府紙幣で幕末・明治初期の財政を賄った事実はもっと知られても良いでしょう。

     また、現代日本での金融・財政政策、つまり金融政策は銀行へのマネー積み上げ、財政政策は消費税5%増税などの緊縮財政という組み合わせと、坂本龍馬に発掘された人材、三岡八郎が明治維新の大変革を支える財政をまかなうと同時に、当時の通貨不足によるデフレも抑制したことを比較すると、現代日本が早期にデフレ脱却をするために、現在の経済政策をどちらに転換すべきかの示唆も見えてくるように思います。

    返信削除
  76. 2014 取材中に龍馬直筆の手紙発見!はしゃぐ「突撃!アッとホーム」公式 - Togetter
    https://togetter.com/li/653047

    取材中に龍馬直筆の手紙発見!はしゃぐ「突撃!アッとホーム」公式
    龍馬直筆の手紙の草稿見つかる
    幕末の志士、坂本龍馬が暗殺される直前に土佐藩の重臣、後藤象二郎宛てに書いたとみられる手紙の草稿が東京都内の民家で保管されていたことが分かりました。
    龍馬が新政府で重要な財政担当の適任者を選び出すいきさつが書かれていて、専門家は「全く存在が知られていなかったもので、大変な発見だ」と話しています。

    これは、東京都内の男性が30年以上前に骨とう品売り場で購入したのを自宅で保管していたもので、NHKの番組の取材過程で見つかりました。
    複数の専門家が鑑定したところ、筆跡や内容から坂本龍馬の直筆とみて間違いないと判断しました。
    鑑定によりますと、龍馬が慶応3年、1867年の11月15日に京都で暗殺される1週間ほど前に土佐藩の重臣、後藤象二郎に送った手紙の草稿だということです。
    この中で龍馬は、江戸幕府が朝廷に政権を返上する「大政奉還」の直後、新政府の財政担当の候補だった福井藩の藩士、三岡八郎に会いに行き、後藤にその結果を報告しています。
    三岡八郎は、福井藩の財政再建で手腕を振るった人物で、後に由利公正と名を改め、五箇条の御誓文の起草者としても知られ、明治新政府では初期のころに金融や財政に携わりました。
    手紙の草稿の中で、三岡が江戸幕府の帳面を調べた結果、幕府の財政政策が旧態依然として「気の毒」だと評していたことが書かれています。
    そのうえで、龍馬は新政府の財政を任せられるのは三岡をおいてほかにはいないと後藤象二郎に進言しています。
    「大政奉還」の直後に、龍馬が三岡と面会したという記録は残っていましたが、龍馬がそのいきさつを書いたとみられる手紙の草稿が見つかったのは初めてです。
    鑑定者の1人、京都国立博物館の宮川禎一企画室長は「これまで全く存在が知られていなかったもので、大変な発見だ。新政府を作るにあたって、財政の重要性を理解していた龍馬の思想や考えを知るうえでも貴重な資料だ」と話しています。

    手紙には生々しいやり取りも
    今回発見された手紙の草稿は、江戸幕府が朝廷に政権を返上する「大政奉還」が成立したあとに、坂本龍馬が新政府の財政運営をどうするか、構想を練っていたことを裏付けるものとして、専門家が注目しています。
    慶応3年10月15日(1868年11月10日)、土佐藩の建白書に基づき、大政奉還が実現すると、龍馬は土佐藩の重臣、後藤象二郎の命を受け、北陸の福井藩に向かいました。
    新政府の財政担当者として、福井藩の財政再建で活躍した三岡八郎、後の由利公正と会うためです。
    このとき、三岡は福井藩内部の対立に巻き込まれ、謹慎処分を受けていたので、面会するためには主君である福井藩主・松平春嶽の許しが必要でした。
    龍馬は松平春嶽とは面識があり、三岡とも親しかったため、使者として選ばれ、急いで福井藩を訪れたのです。
    手紙の草稿によりますと、龍馬は松平春嶽には面会することはできなかったものの、藩士の立ち会いのもと、三岡八郎と会うことができ、三岡が「私は悪党なので、番人が一緒に来ました」と冗談を言うと、立会人もそれを聞いて笑ったというエピソードが書かれています。
    龍馬と三岡はその場で政治情勢について話し合ったということで、手紙には松平春嶽が江戸幕府の「政事総裁職」という要職にあったときに、部下の三岡が幕府の財政について帳面を基に調べたと書かれています。
    三岡は藩札という紙幣を独自に発行するなどして福井藩の財政再建に腕を振るったことで知られていて、手紙の草稿の中で、三岡が江戸幕府の帳面を調べた結果、幕府の財政政策が旧態依然として「気の毒」だと評していたことが書かれています。
    この手紙の草稿は、文面にある日付から龍馬が福井から京都に帰った11月5日以降に書かれたものとみられ、手紙の最後で、龍馬は新政府の財政を任せられる人材は三岡をおいてほかにはいないと、後藤象二郎に進言しています。
    龍馬はその直後、11月15日に暗殺されましたが、三岡八郎は新政府最初の紙幣、「太政官札」の発行や、現在の国債に当たる「会計基立金(もとだてきん)」の募集などの財政政策に携わりました。
    こうしたいきさつは、三岡の回顧談にも記されていますが、今回、会談の直後に龍馬がしたためた生々しいやり取りが初めて見つかり、今後の龍馬研究にも役立つと注目されています。

    「龍馬の直筆」決め手は独特の筆跡
    見つかった手紙の草稿が龍馬の直筆であると鑑定された決め手の1つとされたのが、龍馬独特の筆跡です。
    例えば、京都国立博物館に所蔵されている龍馬が妻の「おりょう」に宛てた手紙の筆跡と比較すると、「後藤」、「此」などの文字の書き方の癖が一致しているということです。
    また、書かれていた龍馬の実名「直柔」(なおなり)の署名も、龍馬が新政府の政治綱領を書き記した書、「新政府綱領八策」などに書かれた署名と一致しているということです。
    また、龍馬は手紙を書く際、紙の上下にあまり余白を作らず、上から下まで使いきるように文字を書く癖があり、今回見つかったものもこの癖がよく現れていました。
    さらに、書かれていた内容の具体性も判断の決め手とされました。
    龍馬の手紙として発見されるものには偽物もありますが、こうした偽物は内容を「例の件」などとぼかし、ごく短い手紙の一部を装ったものが多いということです。
    しかし、今回は龍馬と三岡八郎の具体的なやり取りが生々しくつづられ、偽造したものとは考えにくいということです。
    龍馬に関する歴史資料の研究に詳しい京都国立博物館の宮川禎一企画室長は、「文字は第一印象で龍馬に間違いないと思いました。細部を比べても問題ありませんし、全体の印象から見ても龍馬の真筆であることは疑いようがないものです」と話しています。

    この手紙の草稿は、NHKの番組の取材で明らかになったもので、詳しい過程はNHK総合テレビ、12日夜8時からの「突撃!アッとホーム」でお伝えします。



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  78. 2017 暗殺5日前、龍馬の手紙 「新国家」の文字、初確認:朝日新聞デ ジタル

    https://www.asahi.com/sp/articles/ASK1C416WK1CPLPB003.html?
    ref=amp_login&_gl=1*z2jtny*_ga*YW1wLWRKVkZVbjdLSjJzZjRLVmtRRGQ
    yZDBySUl3WXdiN2J1YXhJcG4taElnY2tqUkhLXzF6UTJlSzItaUtsdDR3ZXY.

    暗殺5日前、龍馬の手紙 「新国家」の文字、初確認
    朝日新聞デジタル
    坂本龍馬が福井藩重役の中根雪江に宛てて書いた手紙。ほぼ中央に「新國家」の文字が見える=isana提供
     坂本龍馬(1836~67)が暗殺される直前に書いた手紙が新たに見つかった。高知県などが13日発表した。福井藩の重役に旧知の藩士を新政府に出仕させるよう求め、一日先になれば「新国家の御家計(財政)御成立」が一日先になるとせかす内容。専門家は「『新国家』の言葉は龍馬のほかの手紙でも見たことがなく、最後まで新政府の樹立に専心したことがわかる重要な資料」と話す。

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     3月4日に開館する高知県立高知城歴史博物館(高知市)で展示する。県内の文化施設などが同日から始める観光キャンペーン「志国高知 幕末維新博」のPR会社「isana(イサナ)」(東京都中央区)が昨年8月、外部から購入。「全書簡現代語訳 坂本龍馬からの手紙」などの著書がある京都国立博物館の宮川(みやかわ)禎一・上席研究員ら複数の研究者が、筆跡や内容から「真筆」と判断した。研究者の間でも存在は知られていなかったという。

     手紙は縦16・3センチ、横92・5センチで、宛先は福井藩重役で京都滞在中だった中根雪江(1807~77)。藩内の政争で謹慎中だった藩士の三岡(みつおか)八郎(1829~1909、後に由利公正と改名)について、「(新政府への)出仕は急を要する。早々に(藩の)ご裁可が下りますよう願い奉ります」(現代語訳)と記している。日付は慶応3(1867)年の11月10日で、龍馬は5日後の15日に暗殺された。

     三岡は藩の財政改革を進めた経…

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  79. slowslow2772
    ⁦‪@slowslow2772‬⁩


    ⁦‪@tweetsoku1‬⁩ NHKで発見された坂本龍馬最後の手紙の内容
    victory-blog.net/ryouma_saigono…
    新政府の財政担当に、強く三岡八郎(=由利公正)を推薦したのです。日本の未来を見据えていた坂本龍馬。
    「その時代、みんなが幕府を倒すことだけを論じていたが、倒した後どうするかを考えていた人が何人いただろうか?」

    2024/04/07 1:35


    https://x.com/slowslow2772/status/1776650046475579450?s=61

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  80. 死の5日前に書かれた坂本龍馬の書簡見つかる! https://youtu.be/r1oXVuExpRs?si=zWYFfoYdb1_o9B3e @YouTubeより
    2017

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  81.  手紙は縦16・3センチ、横92・5センチで、宛先は福井藩重役で京都滞在中だった中根雪江(1807~77)。藩内の政争で謹慎中だった藩士の三岡(みつおか)八郎(1829~1909、後に由利公正と改名)について、「(新政府への)出仕は急を要する。早々に(藩の)ご裁可が下りますよう願い奉ります」(現代語訳)と記している。日付は慶応3(1867)年の11月10日で、龍馬は5日後の15日に暗殺された。

     三岡は藩の財政改革を進めた経…

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  82. 坂本龍馬を評価するには政治革命ではなく社会革命という視座が必要でしょう。
    近年発見された二通の手紙もそれを証言しています。

    新政府の財政担当に、強く三岡八郎(=由利公正)を推薦したのです。日本の未来を見据えていた坂本龍馬。
    「その時代、みんなが幕府を倒すことだけを論じていたが、倒した後どうするかを考えていた人が何人いただろうか?」
    (京都国立博物館の宮川禎一上席研究員)

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  83. 関本洋司
    ⁦‪@yojisekimoto‬⁩


    ⁦‪@keizokuramoto‬⁩ 坂本龍馬を評価するには政治革命ではなく社会革命という視座が必要でしょう。
    近年発見された二通の手紙…
    新政府の財政担当に、強く三岡八郎(=由利公正)を推薦した龍馬。
    「その時代、みんなが幕府を倒すことだけを論じていたが、倒した後どうするかを考えていた人が何人いただろうか?」

    2024/05/03 19:29


    https://x.com/yojisekimoto/status/1786342424039903294?s=61

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