木曜日, 12月 13, 2012

タルコフスキー『映像のポエジア』:書評


映像のポエジア(邦題)、ロシア語
http://tarkovskiy.su/texty/uroki/oglavlenie.html

    Сценарий 
    Замысел и его реализация 
    Замысел и его реализация (окончание лекции) 
    Монтаж

http://tarkovskiy.su/texty/uroki/uroki1.html
http://tarkovskiy.su/texty/uroki/uroki2.html
http://tarkovskiy.su/texty/uroki/uroki3.html
https://translate.google.com/translate?hl=&sl=ru&tl=ja&u=http%3A%2F%2Ftarkovskiy.su%2Ftexty%2Furoki%2Furoki3.html
http://tarkovskiy.su/texty/uroki/uroki4.html

NAMs出版プロジェクト: 「惑星ソラリス」採録シナリオ(校正済み)
NAMs出版プロジェクト: 「ストーカー」シナリオ(校正済み)

<なんのために芸術家は社会が求めている安定性を壊そうとしているのか。トーマス・マンの『魔の山』のセッテン ブリーニは、次のように言っている。「おそらくあなたは悪意にたいして少しも敵意をもっていらっしゃいませんな、 技師さん。私は悪意というものが、闇と醜悪さの力に対抗するための理性のもっとも輝かしい武器だと思っているん ですよ。悪意というのはね、これは批評の魂です。そして批評というのは、発展と啓蒙の源泉なんです。」芸術家は、 理想への志向のために、社会の存立するよりどころとなる安定性を破壊しようとする。社会は安定をめざし、芸術家 は無限をめざす。芸術家を引きつけるのは、絶対的真理である。それゆえ芸術家は前方を見つめ、ほかのだれよりも はやく気づくのだ。
 それでその結果はどうなるのか。われわれが責任を負うのは結果にではなく、われわれの選択にたいして、つまり 自分の義務を遂行するのかしないのか、ということにたいしてである。こうした視点が、自分の運命に責任を持つ義 務を芸術家に課すのである。私個人の未来は、私を避けて通ることのない杯なのだ。したがってその杯は飲まなけれ ばならない。>
(アンドレイ・タルコフスキー『映像のポエジア』キネマ旬報284−5頁)

<われわれ全員が共に、つまり人類が、ある文明を作り出しているということに言及するとき、世界で起こってることにたいする責任を、自分では気づ くことなく他人の肩に負わせ、個人の責任から絶えず逃走しようとしているのである。この根源的な前提ゆえに、個人と社会のあいだの葛藤は、いよいよ絶望的 なものとなり、個人と人類とを隔絶する壁が成長していくのだ。>
(同347頁)


映像のポエジア―刻印された時間    (→リンク
1988
キネマ旬報社
アンドレイ・タルコフスキー:著, 鴻 英良:訳

書評:


 他のタルコフスキー関連の本は手に入るのに、このもっとも重要な本が入手不可能であるということは、社会的な損失と言っていい。
 芸術に関して、また文明に対して、これほど正確に、かつ感動的に書かれた類書は存在しない。 
 キネマ旬報社はこの本を購入可能にし続けることでその存在意義を証明して欲しい。写真多数で、日本語版は英語版(こちらはアルセニー・タルコフスキーのロシア語原詩所収が画期的だが)よりも出来がよい。
 復刊が求められる。


以下、『映像のポエジア 刻印された時間』(アンドレイ・タルコフスキー 鴻英良訳)索引です。

アルテミエフ,203,
アントニオーニ,214
イオセリアーニ,222,231
イワーノフ(ヴャチェスラフ),159
ヴァレリー,88,142@,147,
エイゼンシュテイン,178,274,277
オービエ(パスカル・),172,178
カルパッチョ,71-3
キリスト,346,
クレール,139,
ゲーテ,255
ゲルツェン,247@
ゴーリキー,135,
ゴダール,110
ゴッホ,272,273@
黒澤明,103,166
シェークスピア,146
セルバンテス,75
ソロー,68@
大審問官,345,
タオ,357,
タルコフスキー(アンドレイ),
タルコフスキー(アルセーニー),136@,194
チャップリン,225
ドストエフスキー,64@,104,280@,
ドヴジェンコ,99,
ドライヤー,227,
トルストイ,79,162@,266,
 『戦争と平和』,79
ハイドン,139
パステルナーク,271@
ハムレット,219
プーシキン,328
フェリー二,184
ブニュエル.78
プルースト,84,190@
ブレッソン,224,226,282
プロタザーノフ,226
フロレンスキー,124
ベルイマン,216-,248(ペルソナ)
マルクス,167,248@,351,
-主義,338,
マン(トーマス・),80@,146 ,246,247,384(『魔の山』)@
ヨブ,354
ランダウ,339
レッシング,209
ロンム,131,
(随時追加、作成中。)

参考:
プルースト:メモ(下書き)
http://nam-students.blogspot.jp/2015/10/blog-post_30.html

『映像のポエジア』英語版(Sculpting in Time):
http://books.google.co.jp/books/about/Sculpting_in_Time.html?id=u-HRWkL6vnAC
http://ftf.vsmu.sk/files/Andrey_Tarkovsky_Sculpting_in_Time__2nd_edition_1987.pdf


「映画で何かを説明するのはいけないんじゃないか、
とぼくらは話し合ったもんです。ものを説明するのに映
画はいい形式ではない。見た人が感じとる以外にないん
じゃないか。いろんなふうに解釈されていいんだ。かれ
はそれにしても、あまりにも説明しなさすぎる。あそこ
まで徹底すると、すごい」(黒澤明)           
(『追悼タルコフスキー』1987 パンフより)
(上記は『大系黒澤明』第3巻(講談社2010年)に再録された。)

『ノスタルジア』ドメニコ演説の日本語字幕比較 - millions now living will never die.
http://d.hatena.ne.jp/kleinblue/20070517/1179419074
[シネヴィヴァンパンフ版]

いかなる祖先の声か? 
この私の声は同じ時には生きられない、頭と肉体の声だ。 
私はもはやひとりの人間ではない。 
自分がいくつもの無限定の事物として感じられる。 
我々の時代の不幸は大いなる人間が存在しないことだ。 
我々の心の道は影に覆われている。
 声は聞くべきではないか。 
無用と思われる声でも。 
脳がいかに下水道や壁やアスファルトや福祉事業で詰まっていようと、 
虫の羽音も入れるべきではないか。 
我々の目に耳におおらかな夢の一端が見えて聞こえてよいではないか。 
ピラミッドを造ると誰かが叫ぶべきなのだ。 
実現するしないは大事ではない。 
大事なのは夢を育み、
我々の魂をあらゆる所で果てしなく広がるシーツのようにのばしてやる事だ。 
世界が前を向く事を望むなら手に手をとって一つになろう。 
いわゆる健全な人も、病める人も。 
健全な人よ 何があなたの健全さなのだ? 
人類は今、崖っぷちを見つめている。 転落寸前の崖っぷちを。
 自由に何の意味があろう。
 あなた方が我々を正視する心を持たず、我々と共に食べ、
共に飲み、共に眠る心を持たないなら。
 健全な人々がこの世を動かし、そして今、破局の淵に来たのだ。 

 人よ! 聞いてくれ。
 君の中の水よ!火よ! 灰よ! 灰の中の骨よ! 骨よ! 灰よ! 
どこに生きる? 現実にも生きず、想像にも生きぬのなら。
 天地と新しい契約を結び、太陽が夜かがやき、
八月に雪を降らせるか? 大は滅び去り、小が存続する。
 世界は再び一体となるべきだ。 ばらばらになりすぎた。
 自然を見れば分る事だ。
 生命は単純なのだ。 
原初に戻ろう。 
道をまちがえた所に戻ろう。
 生命のはじまりに! 水を汚さぬ所にまで! 何という世界なんだ。
 狂人が恥を知れと叫ばねばならぬとは! 
母よ。母よ! 空気はこんなにも軽く顔にそよいでいる。
 微笑めばいっそう澄んでいる。 

Eugenia,  l’interprete,  dice  al  telefono  a  Andrej  Gorcˇacov  che  Domenico sta predicando a Roma ore e ore «come Fidel Castro» .


Quale antenato parla in me?
Io non posso vivere contemporaneamente nella mia testa e nel mio corpo
Per questo non riesco ad essere una sola persona
Sono capace di sentirmi un infinità di cose contemporaneamente
Il male vero del nostro tempo è che non ci sono più i grandi maestri
La strada del nostro cuore è coperta d’ombra
Bisogna ascoltare le voci che sembrano inutili
Bisogna che nei cervelli occupati dalle lunghe tubature delle fogne
Dai muri delle scuole dall’asfalto e dalle pratiche assistenziali
Entri il ronzio degli insetti
Bisogna riempire gli orecchi gli occhi di tutti noi di cose che siano all’inizio di un grande sogno
Qualcuno deve gridare che costruiremo le piramidi
Non importa se poi non le costruiremo, bisogna alimentare il desiderio
Bisogna tirare l’anima da tutte le parti come se fosse un lenzuolo dilatabile all’infinito
Se volete che il mondo vada avanti  dobbiamo tenerci per mano
Ci dobbiamo mescolare ai cosiddetti sani e ai cosiddetti ammalati
Ehi voi Sani! Che cosa significa la vostra salute?
Tutti gli occhi dell’umanità stanno guardando il burrone dove stiamo tutti precipitando
La libertà non ci serve se voi non avete il coraggio di guardarci in faccia
Di mangiare con noi, di bere con noi, di dormire con noi
Sono proprio i cosiddetti sani che hanno portato il mondo sull’orlo della catastrofe

Uomo ascolta in te acqua fuoco e poi la cenere e le ossa dentro la cenere
Le ossa e la cenere
Dove sono quando non sono nella realtà
E  neanche nella mia immaginazione?
Faccio un nuovo patto col mondo
Che ci sia il sole di notte e nevichi d’agosto.
Le cose grandi finiscono sono quelle piccole che durano.
La società deve tornare unita e non così frammentata.
Basterebbe osservare la natura per capire che la vita è semplice
E che bisogna tornare al punto di prima
In quel punto dove voi avete imboccato la strada sbagliata.
Bisogna tornare alle basi principali della vita
Senza sporcare l’acqua.
Che razza di mondo è questo
Se è un pazzo che vi dice
Che dovete vergognarvi!
Adesso Musica... Musica... Musica... Oh madre...Oh madre... l'aria e' quella cosa leggera che ti gira intorno alla testa e diventa piu' chiara quando ridi.

Domenico's speech
https://youtu.be/zrjgPqX7nPs


Andrei Tarkovsky. Nostalghia. Ο λόγος του Domenico.
https://youtu.be/qjR2V_rUAwU


  以下のドキュメンタリーも(再編集された)上記のシーンから始まる。
Andreij Tarkovskij in Nostalghia Donatella Baglivo, 1984

49 Comments:

Blogger yoji said...

進化と良心とを対比させていたのが興味深い

348頁

8:19 午前  
Blogger yoji said...

685:吾輩は名無しである:2013/02/11(月) 08:03:45.08
 詩について言うならば、私は詩をジャンルとは考えていない。
詩、それは世界感覚 である。現実にたいする係わり方の特別
な方法なのだ。
 その場合、詩は生涯人を導く哲学になる。

タルコフスキー、「映像の自律性 ~ 詩的関連、詩の論理」

「詩」と呼ぼうが「歌」と呼ぼうが同じこと。祈りとは、超世界感覚だとも
言える。世界の外を措定せずに世界を意義づけることは出来ない。
祈りの文句は意識の形式を固定する。

タルコフスキーの『ストーカー』に「あの連中は信じるための器官が退化
してしまってる」というセリフがある。我々の尻尾は退化してしまってて、
尻尾の振り方が分からないのと同じ。

3:08 午後  
Blogger yoji said...


http://russiaeigasha.fc2web.com/index.htm
ロシア映画資料室

ロシア映画の[あらすじ][解説]などのデータを閲覧できます。 パンフレット図書館
エイゼンシュテイン映画の全貌  ジャズメン  クロイツェル・ソナタ  人魚姫 惑星ソラリス  ストーカー  ジプシーは空にきえる  火の馬  グリゴーリー・チュフライの世界  ふたりの駅

4:17 午前  
Blogger yoji said...

「惑星ソラリス」採録シナリオ
http://russiaeigasha.fc2web.com/arc/pamph/solaris/29.htm
スナウト「学間のためか? 馬鹿馬
鹿しい! こんな状況では凡人も天
才も同じように無力だよ.我々はど
んな宇宙も征服したくないと言うべ
きなんだ.我々は地球をその限界ま
で広げたいと望んでいる.我々は別
の世界にどう対処したら良いのか分
らない.我々には別の世界は必要な
いんだ.我々には,そうだ――必要
なのは鏡だ! …」

4:19 午前  
Blogger yoji said...


http://russiaeigasha.fc2web.com/arc/pamph/stalker/31.htm

ストーカー「何て奴らだ!」
妻「かわいそうな人たちなのよ。同
情してあげなくちゃ。」
ストーカー(むせびながら)「うつろ
な眼だったろう。自分を売りこむこ
としか、奴らは考えてないんだ。考
えるのも金づくだ。それで妙な使命
感を持ってやがる。あんな浅知恵で
何が信じられるもんか?」
妻の声「さあ、もう落着いて。少し
眠ったほうがいいわ。」
ストーカー(絶望的な表情で、むせ
びつつ)「誰も信じようとしない。あ
の二人だけじゃない。誰を連れて行
く? いちばん恐ろしいことは、誰
にもあの"部屋"が必要ないことだ。
俺の努力は無駄なんだ。」
妻の声「そんなふうに考えないで。」
ストーカー「もう、誰も違れて行か
ん。」
妻の声「私が一緒に行ってあげても
いい。」
ストーカー「一緒に行く?」
妻の声「別に望みはないけど。」
ストーカー「ダメだ。ダメだよ。」
妻の声「どうして?」
ストーカー(眼差を大きく見開いて)
「絶対ダメだ。お前に、もしものこ
とが起ったら……」
 ストーカー、寝返りを打って顔を
そむける。

4:28 午前  
Blogger yoji said...


http://russiaeigasha.fc2web.com/arc/pamph/stalker/31.htm

ストーカー「何て奴らだ!」
妻「かわいそうな人たちなのよ。同情してあげなくちゃ。」
ストーカー(むせびながら)「うつろな眼だったろう。自分を売りこむこ
としか、奴らは考えてないんだ。考えるのも金づくだ。それで妙な使命
感を持ってやがる。あんな浅知恵で何が信じられるもんか?」
妻の声「さあ、もう落着いて。少し眠ったほうがいいわ。」
ストーカー(絶望的な表情で、むせびつつ)「誰も信じようとしない。あ
の二人だけじゃない。誰を連れて行く? いちばん恐ろしいことは、誰
にもあの"部屋"が必要ないことだ。俺の努力は無駄なんだ。」
妻の声「そんなふうに考えないで。」
ストーカー「もう、誰も違れて行かん。」
妻の声「私が一緒に行ってあげてもいい。」
ストーカー「一緒に行く?」
妻の声「別に望みはないけど。」
ストーカー「ダメだ。ダメだよ。」
妻の声「どうして?」
ストーカー(眼差を大きく見開いて)
「絶対ダメだ。お前に、もしものことが起ったら……」
 

4:28 午前  
Blogger yoji said...

ドストエフスキー→『罪と罰』→コロンボ→三谷『古畑』
     ↓
   『悪霊』→キリーロフ→タルコフスキー『ノスタルジア』ドメニコ

9:05 午後  
Blogger yoji said...

「惑星ソラリス」採録シナリオ
http://russiaeigasha.fc2web.com/arc/pamph/solaris/29.htm
スナウト「学間のためか? 馬鹿馬鹿しい! こんな状況では凡人も天
才も同じように無力だよ.我々はどんな宇宙も征服したくないと言うべ
きなんだ.我々は地球をその限界まで広げたいと望んでいる.我々は別
の世界にどう対処したら良いのか分らない.我々には別の世界は必要な
いんだ.我々には,そうだ――必要なのは鏡だ! …」

9:06 午後  
Blogger yoji said...


http://russiaeigasha.fc2web.com/arc/pamph/stalker/28.htm
作家「これもまた一つの実験だ。実験とやらを重ねて、事実を見つけ出
すつもりか? 事実なんてものは、ありゃしない。ゾーンだって、そう
だ。すべて誰かの、ばかげた思いつさ。誰の思いつきか知りたいか?
ばからしい。そんな知識など、何の役にも立たん。誰の良心が知識を求
めて痛む?俺になんぞ良心はない。神経だけだ。どこかの阿呆に罵られ
て傷つき、別の阿呆に褒められて傷つく。奴らは俺の魂も心も食いつく
すんだ。俺の捨てた恥まで食らう。一人一人は教養もあるが、皆、感覚
的に飢えてるんだ。シャーナリストや編集者、批評家、次々と現われる
女たち、皆がまわりで騒ぎ立てる。"原稿をよこせ、よこせ"だ。俺が
作家だなんて。書くことを嫌悪している、この俺が。苦しみだ。病的で
恥ずべき行為だ。痔を押しつぶすような。俺は必要な人間だと思ってい
たが、全くの誤りだった。死ねば二日後には忘れられる存在でしかない。
俺は世界を作り直そうとしたが反対に作り直された。以前は未来が現
在の続きにすぎなかったが、地平線のあたりで混乱して、未来は現在に
合流した。それが分ってるのか?連中は食らうだけで知ろうとしない。」

9:14 午後  
Blogger yoji said...


http://russiaeigasha.fc2web.com/arc/pamph/stalker/24.htm

●ゾーン・井戸
 何か落ちる音に続き、銀に被われ
た水面がはね、波紋を描く。
ストーカーの声「希望はかなうもの
だ/信じて欲しい/情熱など頼りに
ならぬ/彼らの言わゆる情熱は心の
活力でない/塊と外界の軋轢なのだ
/大切なのは自分を信じること/幼
な子のように無力であること/なぜ
なら無力こそ偉大であって、力は空
しい……。」
●ゾーン・ダム
 ストーカー、窓枠を越えて外に出
ると、外壁に這いつくばるようにし
て管(パイプ)までたどりつく。
ストーカー(モノローグ)「人が生れ
る時は軟弱で/死ぬ時に枯れ回まる
/木も成長する時に軟らかく/乾き
固くなるのは死ぬ時なのだ/硬直と
力は死と隣りあっている/弾力と軟
弱こそ若さの象徴だ/凝結したもの
に希望はない。」
 ストーカー、管の入口を伝って建物
の内部に入る。

9:16 午後  
Blogger yoji said...


http://russiaeigasha.fc2web.com/arc/pamph/stalker/24.htm

●ゾーン・井戸
 何か落ちる音に続き、銀に被われた水面がはね、波紋を描く。
ストーカーの声「希望はかなうものだ/信じて欲しい/情熱など頼りに
ならぬ/彼らの言わゆる情熱は心の活力でない/塊と外界の軋轢なのだ
/大切なのは自分を信じること/幼な子のように無力であること/なぜ
なら無力こそ偉大であって、力は空しい……。」
●ゾーン・ダム
 ストーカー、窓枠を越えて外に出ると、外壁に這いつくばるようにし
て管(パイプ)までたどりつく。
ストーカー(モノローグ)「人が生れる時は軟弱で/死ぬ時に枯れ回まる
/木も成長する時に軟らかく/乾き固くなるのは死ぬ時なのだ/硬直と
力は死と隣りあっている/弾力と軟弱こそ若さの象徴だ/凝結したもの
に希望はない。」
 ストーカー、管の入口を伝って建物の内部に入る。

9:17 午後  
Blogger yoji said...

http://www.cinematopics.com/cinema/works/output2.php?oid=3955
タチはヌーヴェルヴァーグの映画作家たちにも愛された。フランソワ・トリュフォーは批評家時代、有名な論文「フランス映画のある種の傾向」の中で、タチの『ぼくの伯父さんの休暇』を“作家の映画”としてロベール・ブレッソンの『田舎司祭の日記』と並び絶賛した。1967年、『プレイタイム』が批評家たちに酷評されたとき、憤慨したトリュフォーはタチ宛に熱い支持表明の書簡を送った。さらにトリュフォーは、70年の監督作『家庭』の中で、ユロ氏を登場させた。またタチと同じくアメリカ・モダニズムに影響を受けたゴダールは、自作『右側に気をつけろ』で、タチの『左側に気をつけろ』にオマージュを捧げている。なお、

タルコフスキーの遺作『サクリファイス』の冒頭、子供が郵便配達の自転車を木に結び付け、郵便配達が転びそうになるシーンは、タチが生んだ人気キャラクター、郵便配達フランソワを意識したものだ。日本でも、『男はつらいよ』の車寅次郎のキャラクターはユロ氏に多大な影響を受けており、『ぼくの伯父さん』と副題がついたエピソードもある。

4:57 午前  
Blogger yoji said...

172


http://www.filmsdocumentaires.com/films/1208-le-dormeur
Le dormeur (9 mn)

Rimbaud revisité... Un plan séquence exceptionnel en pleine montagne et une bande son à couper le souffle !

En bonus sur le coffret 2 DVD "Valparaiso Valparaiso / Le chant du départ" de Pascal Aubier

7:04 午前  
Blogger yoji said...

 芸術作品の場合、〈探求〉ということばほど意味を持たないものはない。そのことばによって、無力や内的空白、真に創造的意識の欠如、くだらない見栄などが隠蔽されてしまうのだ。〈探求する芸術家〉――このことばの背後に、貧困にたいする、なんという小市民的な大赦が隠されていることか― 芸術は、学問とはちがい実践を許容するようなことはない。実験が、作品の完成にいたる過程で、芸術家によって克服される私的な段階ではなく、たんなる実験のレベルに止まるならば、芸術の目的それ自体は達成されないままに終わるであろう。この点に関して、興味深い考え方を、同じポール・ヴァレリーがエツセー『ドガ、ダンス、デザイン』のなかで書いている。
「彼ら(ドガと同時代の画家のある者――タルコフスキー)は、練習と創造とを混同し、単なる手段でしかないものを目的にしいる。これこそ《モダニズム》(強調は引用者――タルコフスキー)である。作品を〈完成させる〉ということは、その製作の瞬間を示したり、暴露したりするものをすべてことごとく隠してしまうことを意味する。芸術家は(この時代遅れになった要請によれば)、自分の文体だけで見せなければならないし、作業の痕跡を消しさるまで努力し続けなければならない。しかし、瞬間的なもの、個人的なものについての配慮が、徐々に、作品それ自体とその永続的な存在についての思想を打負かすようになったとき、完璧さへの要求は、個人的なもの、内気なものになるだけでなく、〈真実〉や〈天才性〉のあらわれへの〈感受性〉に敵対するものになったのである。個人的なものが、一般大衆にとってすら、もっとも本質的なものに思われるようになった! デッサンが絵と同じ価値を持つようになった。」

12:13 午後  
Blogger yoji said...

 芸術作品の場合、〈探求〉ということばほど意味を持たないものはない。そのことばによって、無力や内的空白、真に創造的意識の欠如、くだらない見栄などが隠蔽されてしまうのだ。〈探求する芸術家〉――このことばの背後に、貧困にたいする、なんという小市民的な大赦が隠されていることか― 芸術は、学問とはちがい実践を許容するようなことはない。実験が、作品の完成にいたる過程で、芸術家によって克服される私的な段階ではなく、たんなる実験のレベルに止まるならば、芸術の目的それ自体は達成されないままに終わるであろう。この点に関して、興味深い考え方を、同じポール・ヴァレリーがエッセー『ドガ、ダンス、デザイン』のなかで書いている。
「彼ら(ドガと同時代の画家のある者――タルコフスキー)は、練習と創造とを混同し、単なる手段でしかないものを目的にしいる。これこそ《モダニズム》(強調は引用者――タルコフスキー)である。作品を〈完成させる〉ということは、その製作の瞬間を示したり、暴露したりするものをすべてことごとく隠してしまうことを意味する。芸術家は(この時代遅れになった要請によれば)、自分の文体だけで見せなければならないし、作業の痕跡を消しさるまで努力し続けなければならない。しかし、瞬間的なもの、個人的なものについての配慮が、徐々に、作品それ自体とその永続的な存在についての思想を打負かすようになったとき、完璧さへの要求は、個人的なもの、内気なものになるだけでなく、〈真実〉や〈天才性〉のあらわれへの〈感受性〉に敵対するものになったのである。個人的なものが、一般大衆にとってすら、もっとも本質的なものに思われるようになった! デッサンが絵と同じ価値を持つようになった。」

映像のポエジア

12:14 午後  
Blogger yoji said...

タルコフスキー『映像のポエジア』p356

《人類をとらえた多くの不幸の原因はわれわれが容赦しがたいぐらい、罪深いほどに、
絶望的に物質的になったからなのだということをわれわれは認めようとしない。つま
り、自分を学問の支持者と考え、いわゆるわれわれの学問的な目論見の、いわば駄目
を押そうとして、われわれは、分かつことのできようはずのない人間の、唯一のプロ
セスを縦に分割し、その一方の、目に見えるばねを明らかにし、それをすべての事柄
の唯一の原因とみなし、そのばねを過去の誤りを説明するために使うばかりではなく、
われわれの未来の青写真をつくるためにも使っているのだ。》

10:21 午後  
Blogger yoji said...

この件については、ゲーデルやヒューム以上にタルコフスキーが正確に語っている。

《人類をとらえた多くの不幸の原因はわれわれが容赦しがたいぐらい、罪深いほどに、
絶望的に物質的になったからなのだということをわれわれは認めようとしない。つま
り、自分を学問の支持者と考え、いわゆるわれわれの学問的な目論見の、いわば駄目
を押そうとして、われわれは、分かつことのできようはずのない人間の、唯一のプロ
セスを縦に分割し、その一方の、目に見えるばねを明らかにし、それをすべての事柄
の唯一の原因とみなし、そのばねを過去の誤りを説明するために使うばかりではなく、
われわれの未来の青写真をつくるためにも使っているのだ。》
タルコフスキー『映像のポエジア』p356

10:23 午後  
Blogger yoji said...

「惑星ソラリス」採録シナリオ
http://russiaeigasha.fc2web.com/arc/pamph/solaris/31.htm
言って…….あたしはあなたに,あ
なたに嫌われているんでしょう?
こんなあたしは,嫌なんでしょ?」
クリス「ハリー,違う.それは違
う!」
ハリー「嘘だわ……」
クリス「違うんだ!」
ハリー「嘘よ」
クリス「やめなさい」
ハリー「嘘よ」
 スナウト,自分の部屋から走り出
ようとしてドアに上衣を一度引っ掛
ける.廊下を走り去るが,反対側か
ら金属箱を手にして現われ,床に並
んで坐っているクリスとハリーの傍
を走り過じる.
クリス「やめなさい」
ハリー「嫌いに決まってるわ!」
クリス「何を言ってるんだ」
ハリー「あたしに触らないで!」
 ハリー,だんだん気をとり戻す.
● ソラリスの海
 変色し,波が渦まいている.
● クリスの部屋
 水をたたえた水差し.底にいろい
ろなものが沈んでいる.ケープを肩
にかけたまま,くずれるようにべッ
ドに身を投げるハリー.クリスも重
なるように横たわる.
ハリー「(泣き乍ら)好きよ」
クリス「ハリー,一体どうしたん
だ?」
ハリー「(泣いている)別に……」
クリス「(ハリーを抱き寄せて)僕は
地球へは帰らない.僕は君と一緒に
ステーションで暮らすよ」
ハリー「あのね,あたし恐いわ」
 夢でうなされているクリス.ハリ
ーの枕の上に彼女のケープがあるが,
ハリーはいない.汗ばみ,苦しそう
に呻くクリス.ハリーがベッドに現
われ,眠っている.やっと起き上が
ったクリスが,部屋を出て行く.

● 一階の廊下
 裸足で廊下に立ちつくすクリス.
その後姿.大儀そうに廊下を歩き,
床に落ちている絵を拾い上げ,眺め,
投げ捨てる.床に落ちる犬の絵.な
おも歩き続けるクリス.
● 二階の廊下
 廊下を歩いて行ったクリスは,窓
際に立っているスナウトに近づく.
スナウトがクリスに手を貸す.スナ
ウトに支えられながら,別の窓の前
に立ち止まって海を覗くクリス.
スナウト「海は活動を始めたようだ
な.これは君の脳電図が役に立った
んだ」
クリス「同情心を起こすと,我々は
ダメですな.苦しむと人生は暗く,
疑り深いものになっていくというが, もしかすると,それは本当かもしれ
ない.(窓に手をかけ)しかし,僕は
賛成できない.そうだ,認められな
い……,我々の生活に必要がないも
のは,生活に有害だと言えるだろう
か? いや,そんなことはない,害
にはならないんだ.勿論だ.トルス
トイをわかっているかな? 彼の苦
悩は人類を愛することができないと
いうことにあった.そうだ…….あ
れからどれ位たったんだ? わたし
はどうしても分らないんだ…….助
けてくれ……」
● ソラリスの海の泡立つ海面
クリスの声「つまり僕は君を愛して
いる.だが,この愛は体験すること
はできるが,説明できないような感
情だ.観念としては説明できるがね.
失うかもしれないものを――自分と
か,女とか,祖国とかを愛するとか
ね.今日まで,人類とか地球とかま
では愛は届いていないんだ.何を言
っているかわかるか? スナウト,
我々は本当に僅かなものだ.たかだ
か何十億位じゃないか! もしかす
ると,我々がここにいるのは,人々
をそうした愛の根源として初めて実
感するためかもしれないんだな?」
● 一階の廊下
 クリス,ハリーとスナウトに支え
られて歩いて行く.
スナウト「熱があるようだな」
クリス「ギバリャンはどんな風に死
んだんだ? 君はこれまで話してく
れなかったじゃないか」
スナウト「話して聞かせるから.あ
とで……」
クリス「ギバリャンは恐ろしくて死
んだのではない…….彼は恥じて死
んだんだ! 恥のためだ!(スナウ
トとハリーに支えられたまま)これ
が人類を救う感情なのだ!」
● 地球(クリスの幻覚)
 夕暮れ.ケルヴィン家の客間.
● 鏡の間(クリスの幻覚)
 ベッドに横たわり,うわごとを言
うクリス.ベッドの傍に花瓶.
● クリスの部屋(ステーション)
 うわごとを言うクリス.クリスの
枕辺に寄り,傍に屈んで不安げに見
つめるハリー.
● クリスの部屋(クリスの幻覚)
 ケープを脱ぐハリー.同じケープ
を肩にかけたクリスの母.ハリーは
浴室に行く.窓際には別のハリーが
いる.花瓶の横を通りすぎる第三の
ハリー.椅子に腰かけたハリーの傍
をもう一人のハリーが通る.
● 地球(クリスの幻覚)
 ケルブィン家の寝室.ベッドから
起き上がったクリス,若い頃の母親
に近づき,彼女と抱き合う.

9:07 午前  
Blogger yoji said...

http://russiaeigasha.fc2web.com/arc/pamph/solaris/31.htm
● ソラリスの海の泡立つ海面
クリスの声「つまり僕は君を愛している.だが,この愛は体験すること
はできるが,説明できないような感情だ.観念としては説明できるがね.
失うかもしれないものを――自分とか,女とか,祖国とかを愛するとか
ね.今日まで,人類とか地球とかまでは愛は届いていないんだ.何を言
っているかわかるか? スナウト,我々は本当に僅かなものだ.たかだ
か何十億位じゃないか! もしかすると,我々がここにいるのは,人々
をそうした愛の根源として初めて実感するためかもしれないんだな?」
● 一階の廊下
 クリス,ハリーとスナウトに支えられて歩いて行く.
スナウト「熱があるようだな」
クリス「ギバリャンはどんな風に死んだんだ? 君はこれまで話してく
れなかったじゃないか」
スナウト「話して聞かせるから.あとで……」
クリス「ギバリャンは恐ろしくて死んだのではない…….彼は恥じて死
んだんだ! 恥のためだ!(スナウトとハリーに支えられたまま)これ
が人類を救う感情なのだ!」

9:10 午前  
Blogger yoji said...


http://russiaeigasha.fc2web.com/arc/pamph/solaris/21.htm
メッセンジャー教授「(発言を続け
て)そのような限界を人為的に定め
ることで,思考の無限性という考え
方に打撃を与え,前進する動きを妨
げ,後退する動きを助けることにな
ると思われませんか?」
バートン「(腰かけたまま)ですが,
もう一度お聞きします。“わたしが
もたらした報告が殆ど事実に即さな
い”というのは,どういうことです
か? わたしはこの眼ですべて見た
んです.“殆ど”というのはどうい
う意味でしょうか?」
● ブラウン管(委員長の部屋)
シェンノン「(バートンに返答して)
“殆ど”というのは,何か,ある実
際の現象が,あなたの幻覚を引き起
こしたに違いないという意味です.
その……風のある時など,揺れる茂
みを生物と間違えることもあります
よ.他の惑星のことですからね.だ
からこれは何もあなたに失礼なこと
を申しあげているのではないので
す」
● ブラウン管(会議室)
バートン「(席に坐ったまま)わたし
としてはメッセンジャー教授の特別
意見がどんな扱いを受けるか,知り
たいのですが」
● ブラウン管(委員長の部屋)
 騒然とする学者達,退出し始める.
シェンノン「(退出しながら)実際に
はどうにもなりません.つまり,こ
の点での研究はもう行なわれません.
(声のする方に向かって)いま,行
きます!」
バートンの声「そのことについて,
まだ申し上げたいことがあります」
● スクリーン(会議室)
 退出する学者達のざわめき.
バートン「(席についたまま)委員会
はわたしを侮序したのではないし,
わたしなど,ここでは問題じゃない
です.委員会が侮犀したのは探険の
精神です.ですからわたしは発言し
ます……」
● ケルヴィンの部屋
バートン「(スイッチを切り,立ち
上がって)ま,そういうわけです。
今ではバートン報告を笑い話にして
も,失礼にはならんというわけです
よ」
アンナ「(立ち上がり,部屋の戸口
の方に歩きながら)ありがとう,パ
ートン,長いおつきあいなのに,わ
たし,あなたのことを何も知らなか
ったわ。とても美男子だったわね」
バートン「ご冗談でしょう,どっち
にしてもありがとうございます」
アンナ「(出て行こうとして,戸口
で入ってきた父親とがつかり)まあ!
ごめんなさい」

9:15 午前  
Blogger yoji said...

 詩について言うならば、私はそれをジャンルとは考えていない。詩、それは世界感覚である。現実にたいする関係の、特別な方法なのだ。その場合詩は、生涯人を導く哲学になる。アレクサンドル・グリーンのような芸術家たちの運命や性格のことを思い出してほしい。グリーンは飢えで死にかけていたとき、自家製の弓を手にして山にはいり、野獣を射ようとした。この場合を、この人間が生きていた時代のことを考えてみれば、こうした態度は夢想家の悲劇的相貌をあきらかにするだろう。
 ヴァン・ゴッホの運命はどうだろうか。
 プリーシュヴィンのことを思い出してほしい。彼の相貌は、深い愛とともに彼が描いたロシアの自然の姿のなかに現われている。
 マンデリシュタームのことを思い出してほしい。パステルナークを、チャップリンを、ドヴジェンコを、溝口のことを思い出して欲しい。そうすれば、どれほど巨大な力が、これら高揚した、あるいはより正確に言えば、飛翔するようなイメージのなかに詰めこまれているか、理解できるだろう。これらのイメージのなかで、芸術家は、人生の研究者としてだけでなく、高度な精神的価値と、唯一、詩にのみ従属するあの特別の美の創造者として登場してくるのである。
30~1

このような詩的論理に従う道程で、きわめて多くの妨害に出会うことになる。一歩あゆむたびに、敵に待ち伏せされるのである。詩の論理が、文学の論理や演劇のドラマトゥルギー上の論理と同じように、正当であるにもかかわらずである。構成の原理は同じである、ただその構成要素が変わるだけなのだ。このことに関して、ヘルマン・ヘッセの憂欝なことばが思い出されてくる。「詩人は、そうであることは許されるが、そうなることは許されないなにかなのだ。」まさにそのとおりである。
42

一八二六年、次の詩を書いたペンを手にしていたのは、アレクサンドル・プーシキンだけではなく、その背後に佇んでいた誰かでもあったのだと、私には思われる。

魂の渇きに苦しみ
暗い荒野をわたしはさまよい歩いた
すると六枚の翼をつけたセラフィムが
わかれ道でわたしのまえに現われた
夢のようにかろやかな指で
セラフィムはわたしのひとみに触れた


死体のようにわたしは荒野に横たわっていた
神の声がわたしを呼んだ
「立て、予言者よ、目をあけ、耳をひらけ
わが意思にみたされよ
海をめぐり陸をめぐり
人の心をことばで焼きつくせ」

328~9

 マルクスとエンゲルスは、あるところで、歴史が自分の発展のために選択したのはその最悪のバリエーションであった、と指摘している。この問題を存在の物質的側面からのみ見るならば、確かにその通りである。歴史が観念論の最後の一滴をしぼりとり、個人の精神的意味が、歴史のプロセスのなかでどんな意味も持ちえなくなったとき、彼らはこのような結論に達した。彼らはその原因を分析することなしに、こうした事態を確認したのだ。ところで、その原因は、人間がその精神的原理にたいする責任を忘却したことにあったのである。はじめは人間が、歴史を精神の存在しない孤立したシステムのようなものに変えたのだけれども、やがて歴史の機械は、動き続けるために、人間の命を歯車として必要とするようになったのだ。
 この結果、人間はなによりも社会的に有用な動物と見なされるようになる。問題はただ、どこに社会的有用性を見るかということなのだ。ある人の活動の社会的有用性に固執するあまり、その人個人の利益のことを忘れているとするならば、人間の悲劇のためのあらゆる前提を作るという、許しがたい誤りを犯していることになる。

351


/////////

以下、タルコフスキー『映像のポエジア』より
 
 詩について言うならば、私はそれをジャンルとは考えていない。詩、それは世界感覚である。
現実にたいする関係の、特別な方法なのだ。その場合詩は、生涯人を導く哲学になる。

このような詩的論理に従う道程で、きわめて多くの妨害に出会うことになる。一歩あゆむたびに、
敵に待ち伏せされるのである。詩の論理が、文学の論理や演劇のドラマトゥルギー上の論理と同
じように、正当であるにもかかわらずである。構成の原理は同じである、ただその構成要素が変
わるだけなのだ。このことに関して、ヘルマン・ヘッセの憂欝なことばが思い出されてくる。
「詩人は、そうであることは許されるが、そうなることは許されないなにかなのだ。」まさに
そのとおりである。

ふたたび、タルコフスキー『映像のポエジア』より

 マルクスとエンゲルスは、あるところで、歴史が自分の発展のために選択したのはその最悪の
バリエーションであった、と指摘している。この問題を存在の物質的側面からのみ見るならば、
確かにその通りである。歴史が観念論の最後の一滴をしばりとり、個人の精神的意味が、歴史
のプロセスのなかでどんな意味も持ちえなくなったとき、彼らはこのような結論に達した。
彼らはその原因を分析することなしに、こうした事態を確認したのだ。ところで、その原因は、
人間がその精神的原理にたいする責任を忘却したことにあったのである。はじめは人間が、
歴史を精神の存在しない孤立したシステムのようなものに変えたのだけれども、やがて歴史の
機械は、動き続けるために、人間の命を歯車として必要とするようになったのだ。
 この結果、人間はなによりも社会的に有用な動物と見なされるようになる。問題はただ、
どこに社会的有用性を見るかということなのだ。ある人の活動の社会的有用性に固執するあまり、
その人個人の利益のことを忘れているとするならば、人間の悲劇のためのあらゆる前提を作ると
いう、許しがたい誤りを犯していることになる。


タルコフスキー『映像のポエジア』より
 
 詩について言うならば、私はそれをジャンルとは考えていない。詩、それは世界感覚である。
現実にたいする関係の、特別な方法なのだ。その場合詩は、生涯人を導く哲学になる。アレク
サンドル・グリーンのような芸術家たちの運命や性格のことを思い出してほしい。グリーンは
飢えで死にかけていたとき、自家製の弓を手にして山にはいり、野獣を射ようとした。この
場合を、この人間が生きていた時代のことを考えてみれば、こうした態度は夢想家の悲劇的相
貌をあきらかにするだろう。
 ヴァン・ゴッホの運命はどうだろうか。
 プリーシュヴィンのことを思い出してほしい。彼の相貌は、深い愛とともに彼が描いたロシア
の自然の姿のなかに現われている。
 マンデリシュタームのことを思い出してほしい。パステルナークを、チャップリンを、ドヴジ
ェンコを、溝口のことを思い出して欲しい。そうすれば、どれほど巨大な力が、これら高揚した、
あるいはより正確に言えば、飛翔するようなイメージのなかに詰めこまれているか、理解できる
だろう。これらのイメージのなかで、芸術家は、人生の研究者としてだけでなく、高度な精神的
価値と、唯一、詩にのみ従属するあの特別の美の創造者として登場してくるのである。

このような詩的論理に従う道程で、きわめて多くの妨害に出会うことになる。一歩あゆむたびに、
敵に待ち伏せされるのである。詩の論理が、文学の論理や演劇のドラマトゥルギー上の論理と同
じように、正当であるにもかかわらずである。構成の原理は同じである、ただその構成要素が変
わるだけなのだ。このことに関して、ヘルマン・ヘッセの憂欝なことばが思い出されてくる。
「詩人は、そうであることは許されるが、そうなることは許されないなにかなのだ。」まさに
そのとおりである。


一八二六年、次の詩を書いたペンを手にしていたのは、アレクサンドル・プーシキンだけではなく、
その背後に佇んでいた誰かでもあったのだと、私には思われる。

魂の渇きに苦しみ
暗い荒野をわたしはさまよい歩いた
すると六枚の翼をつけたセラフィムが
わかれ道でわたしのまえに現われた
夢のようにかろやかな指で
セラフィムはわたしのひとみに触れた


死体のようにわたしは荒野に横たわっていた
神の声がわたしを呼んだ
「立て、予言者よ、目をあけ、耳をひらけ
わが意思にみたされよ
海をめぐり陸をめぐり
人の心をことばで焼きつくせ」

タルコフスキー『映像のポエジア』より
328~9

5:51 午前  
Blogger yoji said...

未知との遭遇完全版の羽織を着た主人公と
サクリファイスの主人公は似ている

8:33 午後  
Blogger yoji said...

フェリーニ、ボッカチオ70はこの映画化だが、、、

:『聖アントニウスの誘惑』 - livedoor Blog(ブログ)
http://blog.livedoor.jp/yojisekimoto/archives/52431411.html
2010年02月08日
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『聖アントニウスの誘惑』
タルコフスキーが計画していた映画のリストに『聖アントニウスの誘惑』がある。
最近ネット上でこれはフローベールの『聖アントワヌの誘惑』が原作なのではないかと言う議論があったようだ。
結論から言うとタルコフスキーはもっと古い資料(聖アタナシウスによる伝記等)から影響を受けたという説が濃厚だが、フローベールの原作について考察することがまったく無意味という訳でもないと思う。

というのはフローベールがこの作品の執筆に30年近くかかったように彼にとっての代表作のひとつであるということもあるが、デリダがこの原作をめぐって、ほとんど唯一スピノザに言及しているのだ(『Psyche』未邦訳*)。

フロベールの原作のなかの悪魔が、スピノザの汎神論らしきものを展開するのだが、これは『ソラリス』の倫理的葛藤とパラレルと考えられなくもない。

具体的に言えば、『ソラリス』のラストで主人公が汎神論につつまれるように、『サクリファイス』では主人公はマリアと一夜を共にする(多分、タルコフスキーの構想は『サクリファイス』のなかで完全に形象化されている)。

フローベールとまったく違って、タルコフスキーは(そのロシア正教的外観にも関わらず)スピノザの側に立っていたとも考えられるのだ。


注*:
『プヴァールとペキュシェ』(岩波文庫中第八章)の哲学談義でフローベールはスピノザを引用しており、デリダの論考もどちらかと言えばこちらがメインだ。

8:31 午後  
Blogger yoji said...


トーマス・マン『魔の山』より
「おそらくあなたは悪意にたいして少しも敵意をもっていらっしゃいませんな、 技師さん。
私は悪意というものが、闇と醜悪さの力に対抗するための理性のもっとも輝かしい武器だと
思っているん ですよ。悪意というのはね、これは批評の魂です。そして批評というのは、発展
と啓蒙の源泉なんです。」


「…あなたは意地の悪さに反対ではないでしょうね、エンジニア? わたしの見るところでは、意地の悪さこそ暗黒と醜悪の諸勢力に対する理性のもっともかがやかしい武器なのです。意地の悪さとは、あなた、批評の精神であなた、批評の精神であり、批評とは進歩と啓蒙の根源なのです」そして急にペトラルカについて話しはじめ、ペトラルカを「近代の父」と呼んだ。

魔の山
第三章
悪魔(サタナ)
kindle版

12:08 午前  
Blogger yoji said...

アンドレイ・タルコフスキー(ロシア語:Андрей Арсеньевич Тарковский, アンドレイ・アルセーニエヴィチ・タルコフスキー, 英語:

Andrei Arsenyevich Tarkovsky,

1932年4月4日 - 1986年12月29日)

は、ソ連の映画監督である。「映像の詩人」と呼ばれ、叙情的とも言える自然描写、とりわけ「水」の象徴性を巧みに利用した独特の映像美で知られる。深い精神性を探求し、後期から晩年にかけて、人類の救済をテーマとした作品を制作・監督する。表現の自由を求めてソ連を亡命し、故郷に還ることなく、パリにて54歳で客死する。

5:54 午後  
Blogger yoji said...

1970三島
1975パゾリーニ
1980サルトル
1986タルコフスキー
1989手塚治虫
1994ドゥルーズ
1998黒澤明

5:56 午後  
Blogger yoji said...

カストロで想起するのは、タルコフスキー『ノスタルジア』の「カストロのように何時間も演説している」というセリフ。
ずっと気になっていた。タルコフスキーは純粋映画を目指しているわけではない。詩的な映画における、世界から政治をなくすという政治的使命。

7:13 午後  
Blogger yoji said...

『ノスタルジア』ドメニコ演説の日本語字幕比較 - millions now living will never die.
http://d.hatena.ne.jp/kleinblue/20070517/1179419074
■[映画]『ノスタルジア』ドメニコ演説の日本語字幕比較Add Star
<A>BS放送版 <B>岩波ホールパンフ採録版 <C>日本語ビデオ版

最初に観たビデオ版が最も印象に残っています。
口語調で、「ピラミッドをつくろうではないか!」あたりの訳し方がいい。
明らかに他と意味が異なる部分があるのもビデオ版の特徴です。
ややくどく分かりやすいのは岩波版、簡潔なのはBS版といったところでしょうか。

<A>
語るのは私の祖先だ 今の時代 私の頭と体では生きていけない だから私は単一の人格ではいられず 無限のことを同時に感じることができる 今の時代の不幸は- 偉大な指導者がいないことだ 心の道は影に覆われている 無益だと思える声に耳を傾ける必要がある 下水管や学校の壁に占拠された頭脳に- アスファルトや社会事業に占拠された頭脳に- 虫の羽音を入れるのだ 大いなる夢の始まりとなるもので- 我々みんなの耳と目を満たすのだ 誰かがピラミッド建設を叫ばねばならない 完成できなくてもいい願いをもつことが肝心だ 魂をあらゆる面で広げるのだ 無限に広がってゆくシーツのように この世界を- 存続させたければ 手をつなぐべきだ いわゆる健全な者と病む者が一つになるのだ 健全な者よ その健全さが何になる 人類すべてががけっぷちに立ち 奈落に落ちかけている 我々とまっすぐ見つめあい ともに食べともに飲み ともに寝る勇気のない者に 自由が何になる 健全と呼ばれる人々が- 世界を破局の縁に導いてきたのだ 人間よ 耳を傾けろ 君の中の水に 火に そして灰に 灰の中の骨に 骨と 灰に 言い忘れた 母よ 母よ 空気は軽いものだ 母の頭を囲み 母が笑えば ますます澄む
<B>
いかなる祖先の声か? この私の声は同じ時には生きられない、頭と肉体の声だ。 私はもはやひとりの人間ではない。 自分がいくつもの無限定の事物として感じられる。 我々の時代の不幸は大いなる人間が存在しないことだ。 我々の心の道は影に覆われている。 声は聞くべきではないか。 無用と思われる声でも。 脳がいかに下水道や壁やアスファルトや福祉事業で詰まっていようと、 虫の羽音も入れるべきではないか。 我々の目に耳におおらかな夢の一端が見えて聞こえてよいではないか。 ピラミッドを造ると誰かが叫ぶべきなのだ。 実現するしないは大事ではない。 大事なのは夢を育み、我々の魂をあらゆる所で果てしなく広がるシーツのようにのばしてやる事だ。 世界が前を向く事を望むなら手に手をとって一つになろう。 いわゆる健全な人も、病める人も。 健全な人よ 何があなたの健全さなのだ? 人類は今、崖っぷちを見つめている。 転落寸前の崖っぷちを。 自由に何の意味があろう。 あなた方が我々を正視する心を持たず、我々と共に食べ、共に飲み、共に眠る心を持たないなら。 健全な人々がこの世を動かし、そして今、破局の淵に来たのだ。 人よ! 聞いてくれ。 君の中の水よ!火よ! 灰よ! 灰の中の骨よ! 骨よ! 灰よ! どこに生きる? 現実にも生きず、想像にも生きぬのなら。 天地と新しい契約を結び、太陽が夜かがやき、八月に雪を降らせるか? 大は滅び去り、小が存続する。 世界は再び一体となるべきだ。 ばらばらになりすぎた。 自然を見れば分る事だ。 生命は単純なのだ。 原初に戻ろう。 道をまちがえた所に戻ろう。 生命のはじまりに! 水を汚さぬ所にまで! 何という世界なんだ。 狂人が恥を知れと叫ばねばならぬとは! 母よ。母よ! 空気はこんなにも軽く顔にそよいでいる。 微笑めばいっそう澄んでいる。
<C>
語りかけるのは誰か 私の頭脳と肉体は同時には生きられない だから一個の人格にはなりえない 私は同時に無限のものを感じることができる 我々の時代の不幸は偉大な人間になれないことだ 我々の心は影に覆われている 無意味と思えることにも耳を傾けよう 例えば排水溝のことや 学校の壁やアスファルト 奉仕活動に忙しい人や虫の声にも耳を貸そう 我々の視覚と聴覚そのすべてで感じることが 我々の大いなる夢のはじまりとなるのだ だれかが叫ぶべきだ”ピラミッドを作ろうではないか” 重要なのは完成ではない 願いを持続することなのだ 我々はあらゆる意味で魂を広げるべきだ まるで無限に広がるシーツのように もし君たちが進歩を望むなら 一つに混じり合うことだ 健全な人も病める人も手を取り合うのだ 健全な人よ、あなたの健全さが何になる 人類すべてが崖っぷちにいる 転落する運命にある それを直視し ともに食べ眠る勇気がないなら 我々にとって自由は何の役にも立たない いわゆる健全な人々が世界を動かし破滅に直面する 人間よ、従うのだ! 君の中の水に 火に そして灰に 灰の中の骨に 骨と灰だ! 私はどこに存在するのだろう 現実にも空想にも存在しない 太陽が夜中に昇り 夏に雪が降れば 強者が滅びて弱者が生き延びるだろう 混沌とした世界を統一するのだ 自然を観察すれば人生は単純だと分かる 原点へ戻ろうではないか 単純な原点に 道を間違えた場所まで戻るのだ 水を汚すことなく根元的な生活へ戻ろう 愚かな人間よ 君たちが蔑む愚か者から ”恥を知れ”と罵られる 母よ、母よ 風は軽いものだ 私が微笑めば 風もそっと動く
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subterraneansubterranean 2007/05/19 12:33
丁寧な字幕比較、面白く拝見しました。

>口語調で、「ピラミッドをつくろうではないか!」あたりの訳し方がいい。
そうですね。アジテーションの場面ですから、正確さもさることながら、スピード感が生む強度が損なわれないことが良い条件なんでしょうね。
kleinbluekleinblue 2007/05/19 22:27
ピラミッドと、それに続く「重要なのは完成ではない 願いを持続することなのだ」ここが一番好きですね。
ゲスト

6:42 午後  
Blogger yoji said...

アンドレイ・タルコフスキー関連リンク - millions now living will never die.
http://d.hatena.ne.jp/kleinblue/20070516/1179331293
2007-05-16
■[映画]アンドレイ・タルコフスキー関連リンクAdd Star
タルコフスキー。象徴(Symbols)とイメージ(Image)と隠喩(Metaphors)について。
タルコフスキーは語る 象徴について

Mysterious elements in my films? I think people somehow got the idea that everything on screen should be immediately understandable. In my opinion events of our everyday lives are much more mysterious than those we can witness on screen. If we attempted to recall all events, step by step, that took place during just one day of our life and then showed them on screen, the result would be hundred times more mysterious than my film [Stalker]. Audiences got used to simplistic drama. Whenever a moment of realism appears on screen, a moment of truth, it is immediately followed by voices declaring it "confusing." Many think of Stalker as a science fiction film. But this film is not based on fantasy, it is realism on film. Try to accept its content as a record of one day in lives of three people, try to see it on this level and you'll find nothing complex, mysterious, or symbolic in it.

私の映画の神秘的な要素? スクリーンに映ったものは何でもすぐに理解できるべきだと誰もが思っているみたいですね。私の意見では、私たちの日常生活の出来事のほうがスクリーン上に目撃できるものよりずっと神秘的です。人生のたった一日の間に起きた出来事を、ひとつひとつ、全部思い出そうとしてそれを全部スクリーンに映し出すなら、その結果は私の映画[『ストーカー』]よりも百倍も神秘的になるでしょう。観客はどうしようもなく単純なドラマに慣れてしまった。実在の瞬間、真実の瞬間が銀幕に出現すると必ず、「訳がわからん」と叫ぶ声が聞こえるのです。多くの人が『ストーカー』をSF映画だと思っています。しかしこの映画はファンタジーに基づくものではなく、フィルムに定着されたリアリズムなのです。その内実を3人の人物の人生の1日を記録したものとして、受容するようにしてみてください。そのようなレベルでこの映画を見るようにしてください。そうすれば複雑なもの、神秘的なもの、象徴的なものは何もないとお分かりになるでしょう。
タルコフスキー、ギデオン・バックマンと語る 内面への旅
武満徹インタビュー・タルコフスキー追悼
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6:44 午後  
Blogger yoji said...

タルコフスキー映像のポエジア#5,225頁

 [ベルイマン論に続けて]

 それではチャップリンはどうだろうか。はたしてこれは喜劇だろうか。そうではない。これはただチャップリンであるというだけであって、それ以外のものではなく、繰り返すことのできないユニークな現象なのだ。ここにあるのは完全な誇張であるが、重要なのはショットのなかの存在のどの瞬間においても、チャップリンはその主人公の行動の真実によって衡撃を与えてくれるということなのである。もっともばかげた状況においてさえも、チャップリンはまったく自然であり、それゆえ滑稽なのだ。チャップリンの主人公は、彼をとりまく誇張された世界のばかばかしさに、その途方もない論理に、気づいていないかのように見える。チャップリンが死んだのは、三百年もまえのことではなかったのかと思えることがある。チャップリンはそれほど完全な古典作家であり、完全な存在である。

 スパゲッティを食べている人間が、天丼から吊りさがっている紙のリボンを、気づかずに飲み込みはじめるという状況ほど、ばかげた、真実らしくないことはありうるだろうか。しかしながらチャップリンの演技において、こうした行動は自然主義のように本質的なものになっている。こうしたすべてが、思いつきであり、誇張されたものであるということをわれわれは知っているが、誇張された構想に基づく演技がまったく真実に似ており、自然であり、それゆえ確実にかつ、気違いじみたほど滑稽であるということを、われわれは知っている。チャップリンは演じているのではない。彼はこうした、ときとしてばかげた状況のなかで、まったく本能的に生きているのだ。

NAMs出版プロジェクト: タルコフスキー『映像のポエジア』:書評
http://nam-students.blogspot.jp/2012/12/blog-post_5454.html

11:45 午前  
Blogger yoji said...


《 嘘をつくことのできない人がいる。霊感に満たされたように確信的に嘘をつく人もいる。嘘をつく能力もないのに
嘘をつかないわけにはいかず、へたな面白味のない嘘をついている人もいる。いま問題にしている状況、つまり人生
の論理をきわめて正確に遵守しなければならないという状況では、第二の範疇の人、つまり生き生きと嘘をつける人
だけが、真実の鼓動を感じることができるのだし、自分の空想の力だけで、人生の真実の気まぐれなひだのなかに、
ほとんど幾何学的な正確さで入り込むことができるのだ。》

タルコフスキー『映像のポエジア』邦訳158頁

5:04 午前  
Blogger yoji said...


「映画で何かを説明するのはいけないんじゃないか、
とぼくらは話し合ったもんです。ものを説明するのに映
画はいい形式ではない。見た人が感じとる以外にないん
じゃないか。いろんなふうに解釈されていいんだ。かれ
はそれにしても、あまりにも説明しなさすぎる。あそこ
まで徹底すると、すごい」
(「タルコフスキーは詩人だった」黒澤明) 

6:42 午後  
Blogger yoji said...

https://twitter.com/tiikituukahana/status/983617273737789440
Andreij Tarkovskij in Nostalghia Donatella Baglivo, 1984
https://youtu.be/GYf0De_CZsc?t=1h15m
https://i.imgur.com/nPjeCr0.gif

1:10 午前  
Blogger yoji said...

ストーカーの最初に出てくるバーテンと
途中で出てくるバイクに乗った警官は
同一人物
一人二役だと思う
警官はATというマークをヘルメットにつけている
この世界がアンドレイ・タルコフスキーによる創作であるという刻印

10:37 午前  
Blogger yoji said...

 《スピノザの哲学は (「人間」的なものの籠絡からの)静かなデタッチメントの哲学だ。
すなわち、われわれの身体が物質宇宙の一部分であるように、われわれの思考も無限な
思考宇宙 の一部分である。われわれに思考があるのにわれわれがその部分である自然
に思考がないとするのは不自然である。われわれの中で事物自身が事物自身について
肯定したり否定したりするようになったとき、われわれの精神は「自動機械」となって、自分
のいる場所(自然)がずっと「神」であったとわかる。カメラが引いていくと、帰還した地球の
故郷が実は惑星ソラリスの変様部分であるのが判明するあのタルコ フスキー監督の「惑星
ソラリス」のラストシーンを思い出す。》
(上野修、講談社『本』5月号「スピノザから見える不思議な光景」より)

7:39 午前  
Blogger yoji said...

ちなみにパゾリーニ『豚小屋』演劇版ではスピノザ本人が出てきて
主人公と会話する
映画版でも片鱗が見られる

7:42 午前  
Blogger yoji said...

Диван пружинный

Андрей Тарковский: начало--и пути : воспоминания, интервью, ...
https://books.google.co.jp/books?id...

Андрей Арсеньевич Тарковский, ‎М Ростоцкая - 1994 - ‎スニペット表示
начало--и пути : воспоминания, интервью, лекции, статьи Андрей Арсеньевич Тарковский М Ростоцкая ... То есть вылезает та самая "пружина из матраса", против обнаружения которой предостерегал еще Маркс. В конечном ...

11:50 午後  
Blogger yoji said...

春のソファ

Andrei Tarkovsky:はじめに - そして方法:思い出、インタビュー、…
https://books.google.co.jp/books?id ...

Andrey Arsenyevich Tarkovsky、M Rostotskaya - 1994 - スニペット表示
はじめに - そして方法:メモ、インタビュー、講演、記事Andrei Arsenyevich Tarkovsky M. Rostotskaya ...つまり、まさに「マットレスからの春」が、マルクスが警告した発見に反して出てきます。 最後には…

11:51 午後  
Blogger yoji said...

Новейшая история отечественного кино: Р-Я: - 438 ページ
https://books.google.co.jp/books?id...

Александр Голутва, ‎Любовь Аркус - 2001 - ‎スニペット表示
1960 Каток и скрипка (ср/м) 1962 Иваново детство 1963 Я шагаю по Москве 1966 Андрей Рублев (восст. и вып. в 88 - Страсти по Андрею) 1969 Не горюй! 1972 Солярис 1973 Совсем пропащий 1975 Они сражались за Родину 1977 Юлия Вревская 1980 Карл Маркс. ... Паспорт, в т. ч. о В. Ю.); Туровская М. 7 '/„ или Фильмы Андрея Тарковского. — М., Искусство. 1991 (в т. ч. инт. с В. Ю); ...
Андрей Тарковский: начало--и пути : воспоминания, интервью, ...
https://books.google.co.jp/books?id...

Андрей Арсеньевич Тарковский, ‎М Ростоцкая - 1994 - ‎スニペット表示
начало--и пути : воспоминания, интервью, лекции, статьи Андрей Арсеньевич Тарковский М Ростоцкая ... То есть вылезает та самая "пружина из матраса", против обнаружения которой предостерегал еще Маркс. В конечном ...


статьи

前表紙
Андрей Арсеньевич Тарковский
ВГИК, 1994 - 204 ページ
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123 ページ

11:52 午後  
Blogger yoji said...

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Andrey Tarkovsky:はじめに - そして方法:思い出、インタビュー、講演、記事

表紙
Andrey Arsenyevichタルコフスキー
VGIK、1994年 - 204ページ
0レビュー

11:53 午後  
Blogger yoji said...

Matratzenfeder Marx

12:04 午前  
Blogger yoji said...




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テキスト 」 Andrei Tarkovsky「映画製作に関する講義」

Andrei Tarkovsky「映画製作に関する講義」


Андрей Тарковский «Уроки режиссуры»
映画製作に関する講義は、Andrei Tarkovsky氏がより高い脚本家の講義室で、ソビエト連邦国家映画と映画撮影協会の理事で行われました。
講義の筆記録は、1981年にK. Lopushanskyの監督によって印刷用に準備され、Andrei Tarkovskyによって承認されました。
1990年の第7-10号に、雑誌「Art of Cinema」に講演が掲載されました。 出版物はK. LopushanskyとM. Chugunovaによって作成されました。
K.LOPUSHANSKY - 脚本家と監督の上級コースの卒業生。 彼はAndrei Tarkovskyの講義を聞き、彼が彼の先生であると考えています。 Lenfilmフィルムスタジオでプロダクションディレクターとして働いています。 彼は映画を作りました:「死者のメモ」と「博物館への訪問者」。
M.Chugunova - VGIKの映画教員(R.Yurenevaのワークショップ)を卒業しました。 彼女はAndrei Tarkovskyの映画 "Solaris"のアシスタントディレクターとして働いていました。 「ミラー」と「ストーカー」。 Andrei Tarkovskyの文学アーカイブ、遺産の出版物に従事。

台本
アイデアとその実装
アイデアとその実行(講義終了)
集会
オーフスシステム

12:15 午前  
Blogger yoji said...

http://deacademic.com/dic.nsf/dewiki/76705

Die Kunstauffassung Tarkowskis

Um die filmspezifische Einstellung von Tarkowski verstehen zu können, muss erst seine Meinung über den Oberbegriff Kunst erläutert werden: Für ihn hat Kunst die hohe Aufgabe, den Sinn und Zweck menschlichen Daseins zu erläutern oder zumindest die Frage danach zu provozieren. In diesem Zusammenhang betont er die Funktion des Erkennens und des Begreifens, die sich auf das Wesen des Lebens und seine unendlichen Möglichkeiten erstreckt. Der Mensch ist zur Suche nach der absoluten Wahrheit verdammt und die Kunst hilft ihm dabei, indem sie immer wieder neue Bilder der Welt entwirft. Innerhalb diesen Strebens hat die Kunst den Anspruch, allumfassend zu sein, denn im Gegensatz zur Wissenschaft gelingt es (mit) ihr, Begriffe wie Unendlichkeit durch Symbole darzustellen und somit die Welt zu erklären. Eine wissenschaftliche Erkenntnis ist ein stufenweiser Prozess ohne absehbares Ende, alles baut aufeinander auf und funktioniert nicht ohne die vorhergegangenen Schritte. Kunst hingegen umfasst auf Anhieb jede Gesetzmäßigkeit des uns Umgebenden, sie entwirft sich jedes Mal neu und ist einzigartig. Tarkowski sieht zwar sowohl die Wissenschaft als auch die Kunst als zwei Arten der Wahrheitsfindung, doch er betont immer wieder, dass es der Kunst vorbehalten ist (im Gegensatz zu jedem verbalen Erklärungsansatz) die Unendlichkeit erfahrbar zu machen (Zitat: …denn der Gedanke ist kurzlebig, das Bild aber ist absolut). Für ihn darf Kunst niemals der reinen Selbstverwirklichung oder ähnlichen egoistischen Zielen dienen, sondern er beschreibt die Kunst als etwas Uneigennütziges, etwas höherem bestimmtes, dessen der Künstler in einer gewissen Form von Selbstaufopferung zu dienen hat. Von Aristoteles nicht weit entfernt, glaubt Tarkowski, dass ein Kunstwerk den Betrachter im tiefsten Innern anspricht, in ihm eine reinigende Erschütterung hervorruft, durch die die Menschen das Gute in sich selbst erkennen und sich ihrer innigsten Gefühle bewusst werden. Trotzdem wird der Mensch niemals in der Lage sein, das Gute zu lernen, er wird durch die Kunst nur dazu befähigt. Die Kunst darf nach Tarkowskis Auffassung niemals eindeutig sein, sie muss vielmehr Widersprüchlichkeiten in sich vereinen im Sinne von Marx (Die Tendenz in der Kunst muss unbedingt versteckt werden, damit sie nicht wie eine Sprungfeder aus dem Sofa ragt) und Engels (Je verborgener die Absichten eines Autors, um so besser ist es für die Kunst). Der Künstler soll nach Harmonie und Ausgewogenheit streben, nach dem höchsten Glück, auch wenn dieses als rein abstrakter Begriff niemals zu erreichen ist, sondern vielleicht gerade der Weg dahin die höchste erreichbare Form des Glücks darstellt.

2:04 午前  
Blogger yoji said...

Tendenz in der Kunst muss unbedingt versteckt werden, damit sie nicht wie eine Sprungfeder aus dem Sofa ragt) u

2:05 午前  
Blogger yoji said...

サクリファイス
https://video.twimg.com/ext_tw_video/1226368531521929221/pu/vid/1280x720/o9THS4PiHn4GVwI8.mp4

10:49 午前  
Blogger yoji said...


終わりなきタルコフスキー 単行本 – 2022/1/22
忍澤勉 (著)
https://www.amazon.co.jp/dp/4909281401/


ref=sr_1_1?__mk_ja_JP=カタカナ&crid=9MSL8GZWJEUE&keywords=終わりなきタルコフスキー&qid=1692660265&sprefix=終わりなきタルコフスキー+%2Caps%2C146&sr=8-1

タルコフスキーは死の約二ヵ月前の一九八六年一〇月一六日の日記に、 「······だが真の不幸は、新たな戦争、 核戦争は、実はオッペンハイマーが実験場で実験爆弾に点火したあの時点で既に始まっていたという点にある。.....もうながらく核戦争は続いており、恐るべき惨禍を振り撒いている広島、長崎、ビキニ環礁、海を挟んだ両側での幾たびもの地下実験、地上実験、数々の原子力発電所の建設、平和目的・軍事目的を問わず利用される核エネルギー。五〇年というもの各政府は、核エネルギー利用を推進することで、人類に対し恒常的に犯罪を重ねてきている。」と書いている。 この一文によって、彼の核に対する考え方は明らかだろう。
**

12:08 午前  
Blogger yoji said...

該当日記は邦訳2

12:15 午前  
Blogger yoji said...

AT
https://x.com/slowslow2772/status/1651127143039111168?s=61

The barman at the beginning of the stalker and the
the cop on the motorcycle who appears in the middle of the story is the
The same person.
I think it's a double role.
The cop wears the symbol "AT" on his helmet.
The mark of this world is the creation of Andrei Tarkovsky.

7:02 午前  
Blogger yoji said...




slowslow2772
⁦‪@slowslow2772‬⁩


⁦‪@DannyDrinksWine‬⁩ x.com/slowslow2772/s…
The barman at the beginning and the the cop on the motorcycle who appears in the middle of the story is the The same person.
I think it's a double role.The cop wears the symbol "AT" on his helmet.
The mark of this world is the creation of Andrei Tarkovsky.

2024/03/10 0:04


https://x.com/slowslow2772/status/1766480154719908200?s=61

7:05 午前  

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