神秘主義
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ルルス
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易経
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スウェーデンボルグの死後の世界
ブルース・ヘンダーソン・著 鈴木泰之・訳 たま出版 1994年刊
●天界に行くか地獄に行くかを決定するものは、あなたが自分の人生の中で「何を行なうか」ではなく、「なぜそうするのか」である。
●天界でも地獄でも、あることを考えながら、しかもそれと違うことを行なうといった分離した心を持つことは許されない。基本的に善であるどんな間違いや悪も、次第に天界の真理と情愛に入れ替わってゆきます。
生活と愛を通して地獄を選んだ人には、これと逆のことが起こります。
●この世で固めてしまった性格を、死後に変えることはできません。あなたの愛したものがあなたを定めており、死後何か他のものを愛そうとするなら、あなたの生命に反してくるからです。
●どの人も、霊としての外側と内側を持っている。霊の外側とは、その世界で他人と付き合ってゆくために適応させる自分の身体(特に顔つき・話し方・態度)である。けれども霊の内側とは、その人固有の意図とその結果としての思考であって、これはめったに顔つき、話し方、また態度の中に明らかとなるものではない。人は子供のときから、自己固有の意図から考えることを隠して、友情・親切・誠実を装うことに慣らされている。そこで、習慣の問題として、自己の内面がどのようなものか気にもしないで、外面では道徳や市民生活を身につける。この習慣が、人の中に深く隠れているものや外面的なものに対するその人の意図について無知であることの源泉となっている。
●この世の極悪人ですら、外面的には賞賛に値する生活を送るでしょう。付き合いをよくし、親切にし、宗教儀式をおろそかにせず、よい評判を得ようとします。殺人を犯した者が「善良な人物」と見なされていたことを何度も聞いたことが有るでしょう。
このように、外側の生活は衣服を着るようなものであって、とうてい本当のその人を示すものではありません。内部の人である本当のその人が、天界あるいは地獄に自分のためにすでに用意されている住まいを見つけるのです。
この世では、自分の本当の気持ちを偽ることが容易にできます。来世では不可能です。
●スウェーデンボルグは、天界に行くか地獄に行くかを決定するものは、あなたが自分の人生の中で「何を行なうか」ではなく、「なぜそうするか」である、と説明しています。
●(私たちの「内部の記憶」とでもいうべき「生命の書」が)他界で開かれ、それに従って裁かれる。人はほとんどこのことを信じることができないが、まったく本当のことである。
その人にとって明確でなかった目的であっても、またその人が考えたことも、すべてのものが、その人の話し行なったあらゆるものと一緒になって、最も些細なことまでもその書の中にあり、そして主が許されるときにはいつでも、天使たちの前で白日の下に晒されるかのように、その書に内容が明らかにされる。このことは何度も私たちに示され、少しの疑いも残らないほど多くの経験で立証されている。
●スウェーデンボルグは、「主が最後の審判について予告されたとき、働き以外のものは調べない、また、よい働きをなした者は永遠の生命に入り、悪い働きをなした者は永遠の刑罰に入る(マタイによる福音書25章32~46)、と表明された(中略)」と言っています。
●最も高潔な人でさえ、ときどき心の中で「決してだれも気がつくはずがない」と考えて、地獄の誘惑を感じることがあります。ともすればこれは、私たちみんなを「自分は善人でない」と感じさせてしまいます。しかし、私たちの心に浮かんでくるものについて私たちに責任はなく、ただ私たちの生活の一部に選び取ったものについてだけ私たちに責任がある、と聖書は教えており、スウェーデンボルグがこれを確証しています。
●だれも悪の生活に対する罰としてあなたを地獄に送り込むことをしません。人はただ自分が本当に地獄に行きたいから地獄に行くのです。自分の選んだ生活が地獄にあるから、地獄に行きたいのです。そこが故郷だからです。
地獄は、嘘つき、泥棒、人殺し、姦淫する者、詐欺師など、他人を傷つけることを平気でやって、自分を満足させる人々の故郷です。(中略)
神がたえず私たちを天界に引き上げようとなされている間、地獄はたえず私たちを引きずり込もうとしています。
あざむき、嘘つき、他人を傷つけるといった、私たちが悪いと知っていることを行なうとき、特にこれらを何の良心のとがめもなく喜んで行なうとき、地獄に味方し、地獄を自分に引き寄せています。(中略)
地獄に行く人たちはこの世で地獄への道を歩み始める、ということにスウェーデンボルグは同意します。彼らはもっぱら自己中心の生活を送ることでこの道を歩み始めます。
http://ja.wikipedia.org/wiki/エマヌエル・スヴェーデンボリ#.E8.A9.95.E4.BE.A1
スヴェーデンボリへの反応は当時の知識人の中にも散見され、例えば哲学者イマヌエル・カントは『視霊者の夢』中で彼について多数の批判を試みている。一方で、限定的に「スヴェーデンボリの考え方はこの点において崇高である。霊界は特別な、実在的宇宙を構成しており、この実在的宇宙は感性界から区別されねばならない英知界である」(K・ ペーリツ編『カントの形而上学講義』から)と評価も下している。
http://ja.wikipedia.org/wiki/イマヌエル・カント#cite_note-10
1766年、『視霊者の夢』を出版[注釈 3][6]。カントはエマヌエル・スヴェーデンボリについてこう述べている[7]。 「別の世界とは別の場所ではなく、別種の直感にすぎないのである。-(中略)-別の世界についての以上の見解は論証することはできないが、理性の必然的な仮説である。スエーデンボルグの考え方はこの点において非常に崇高なものである。-(中略)-スエーデンボルグが主張したように、私は、〔身体から〕分離した心と、私の心の共同体を、すでにこの世界で、ある程度は直感することはできるのであろうか。-(中略)-。私はこの世界と別の世界を同時に往することはできない。-(中略)-。来世についての予見はわれわれに鎖されている。」
3^ エマヌエル・スヴェーデンボリ(英語読みではスウェーデンボルグ)の千里眼という超常現象については、それが存在するのか自分は判断できないとして、読者に判断を委ねている。
6^ 須田朗『視霊者の夢のカント』(哲学会誌17、1982)pp.1‐20
7^ K・ペーリツ編、甲斐実道、斎藤義一訳、『カントの形而上学講義』(三修社、1979)pp222-227
「スウェーデンボルグの思想」1995年
高橋和夫
講談社現代新書1235番 第一刷発行
P200-P206
2 カントによる千里眼批判
超能カ者スウェーデンボルグ
スウェーデンボルグの心霊的な能力は社会生活においてもしばしば発揮され、多くの逸
話を生んだ。霊媒として故人の消息を家族に伝えるとか、ちょっとした未来予知とか、現
在PSI(超常現象)として知られている出来事が、彼に関して報告されている。
彼自身はこうした異常な出来事に好奇の目で関心を示す態度を、人間の健全な精神生活
にとって有害かつ危険なものと考え、他人から頼まれ、それが正当な理由を持つ場合以外
は、こうした超常能力を行使することはなかった。
友人ロブサーム(82ぺージ参照)があるときスウェーデンボルグに、一般の人々も他界と交
流できるかどうかを尋ねた。その際スウェーデンボルグは、断固としてこう答えている。
「こうした交流は狂気へ直通する道ですから、注意してください。というのは、人間に隠さ
れている霊的な事柄を注視する状態において、人間は地獄の妄想から自らを引き離してお
く方法を知らないうえ、そうした妄想は、人間が自分の把握を超えた天界の事柄をひとり
よがりの思索によって発見しようとすると、その人間を混乱させてしまうからです。あな
たは、不必要な探究によって自分を見失ってしまう神学生や、とりわけそうしたことをし
たがる神学者たちが、どれほどしばしば理解力を損なうことになったかを、十分ご存知で
しょう」(ターフェル、前掲書1)。
ストックホルム大火災を見通した千里眼
スウェーデンボルグのPSI能力に深い関心を示した同時代者のひとりが、ドイツの哲
学者、若きカントだった。批判哲学を確立し後世の哲学や神学に強力な影響を及ぼしたカ
ントの、スウェーデンボルグヘの接近は興味深い問題なので、ここで取り上げてみたい。
『天界の秘義』の出版完了後わずか二年して、スウェーデンボルグは第七次外国旅行に発
ちロンドンヘ行った。そこで一年間に五冊の著作(「ロンドン五部作」と言われる)を出版して、
一七五九年に帰国した。「スウェーデンボルグの千里眼」として後世の語り種となった事件
は、この帰国の途次に起こったのである。
七月一九日、土曜の夕方のことであった。スウェーデンボルグはイギリスから帆船に乗
って、スウェーデン西海岸の都市イェーテボリに到着した。そして同市の商人だった友人、
ウィリアム・カーステルの夕食会に招かれた。現在もサールグレン家として残っているカ
ーステルの家には、ほかにも一五人の客が招かれていた。
食事中、スウェーデンボルグは極度に興奮し、顔面が蒼白となった。不安と焦燥に満ち
た様子で、彼は幾度となく食卓を離れた。そして、騒然となった一同に向かって、
「今、ストックホルムで大火災が猛威を振るっている」
と、告げたのである。そして落ち着きを失ったまま再び外へ出て行き、戻って来ると、ひ
とりの友人に向かって言った。
「あなたの家は灰になった。私の家も危険だ」
その晩八時頃、もう一度外へ出て戻って来た彼は、大声で叫んだ。
「ありがたい!火は私の家から三軒目で消えた」
同夜、来客のひとりが州知事にこの話をしたため、知事の依頼に応じて翌日、スウェー
デンボルグは火事の詳細を話した。火事のあった二日後、通商局の使者がストックホルム
からイェーテボリに到着した。両都市は約四八○キロメートルも離れていたが、この使者
の火災報告とスウェーデンボルグの語った内容とは、薄気味悪いほど一致していたのであ
る。
カントによる批判と評価
ヨーロッパ中に知れ渡ったこの出来事に深い関心を抱いたカントは、かなり大がかりな
調査を姶めた。三九歳のカントが、その後援者の娘クノープロッホ嬢宛の手紙でこの事件
の詳細な調査報告をしたのは、大火の四年後である。彼はその中で、スウェーデンボルグ
の千里眼は「何よりも強力な証明力を持ち、およそ考えられる一切の疑念を一掃してしま
うように思われる」(『視霊者の夢』B版収録のカントの手紙)と述べている。
この手紙の中でカントはまた、スウェーデンボルグに手紙を書き、自分の質問事項にス
ウェーデンボルグが新刊書の中で答えるという約束をとりつけた、とも述べている。カン
トの依頼を受け実際にスウェーデンボルグに会った友人の伝えるところによると、スウェ
ーデンボルグは「理性的で、親切で、率直な」人物であったという。
ところが二年経っても、スウェーデンボルグが新刊書の中でカントの質問に答えた形跡
もなく(おそらく単純な失念と思われる)、またスウェーデンボルグの著作を送るという前述の
友人の約束も果たされなかった。苛立った(いらだった)カントは八巻もの分厚い『天界の秘義』を自ら
買い込んで読み、一七六六年にスウェーデンボルグヘの枇判書『視霊者の夢』の出版に踏み切ったのである。
カントの批判の痛烈さは、次のような言葉に反映している。「この著者の大著はナンセン
スに満ち」「完全に空で理性の一滴も含まない」。実際、カント学者K・フィッシャーは『視
霊者の夢』を評して、カントにとって形而上学とスウェーデンボルグは「一撃でぴしゃり
と殺されるべき二匹のハエ」だった、と述べている。
しかしカントは、表面上はともかく、スウェーデンボルグの心霊能力や思想に対しての
みならず、霊的な存在一般に対して終始、両面価値的(アンビヴアレント)な態度を見せている。すなわち、カ
ント自身、超自然的なものをどう処理してよいか、まだ確信が持てなかったのである。だ
からこそカントは、スウェーデンボルグの「大著は理性の一滴も含まない。それにもかか
わらず、その中には、同様の対象に関して理性の最も精細な思弁がなしうる思考との、驚
くべき一致が見られる」(『視霊者の夢』B版)と述べざるをえなかったのである。この批判書
において彼はまた、スウェーデンボルグの千里眼に関して、「真実であるという完全な証明
が容易に与えられるに違いない種類」の出来事である、と明言している。
その思索の方法は異なるものの、カントの哲学とスウェーデンボルグの思想には、英知
界と感性界(スウェーデンボルグでは霊界と自然界)というニ世界の分立、時間と空間の観念性、
霊魂の不死に関する思索、宗教における道徳性の強調などの点で、本質的に共通している
部分がある。
カントは『視霊者の夢』出版の四年後、ケーニヒスベルク大学の教授になり、そののち
一〇年以上の長い沈黙期間を経て『純粋理性批判』を出版し、不動の名声を確立した。こ
の沈黙の期間の講義で彼が再びスウェーデンボルグに言及し、次のように評したことは注
目に値しよう。
「スウェーデンボルグの思想は崇高である。霊界は特別な、実在的宇宙を構成しており、
この実在的宇宙は感性界から区別されねばならない英知界である、と彼は述べている」(K・
ぺーリツ編『カントの形而上学講義』)。
ユングの「共時性」による千里眼理解
今世紀に入ると、C・G・ユングがスウェーデンボルグの千里眼に注目した。医学生の
頃にスウェーデンボルグの分厚い七巻の書物を読んだユングは、彼を「偉大な科学者にし
て神秘家」と称えた。また、物理学者W・パウリとの共著『自然の解明と精神』(1952)
において、自分の「共時性(シンクロニシテイ)」の理論の例証として、前述のスト
ックホルムの大火の件を引き合いに出し、こう述べている。
〔前喀〕ストックホルムにおいて火事が起こっているという幻視がスウェーデンボルグの内
に起こったとき、その二者間に何も証明できるようなもの、あるいは考えられるような
つながりすらもないのに、その時そこで実際に火事がいかり狂っていた。
〔中略〕彼を「絶対知識」に接近させた意識閾の低下が存在したと、われわれは想像する。
ある意味で、ストックホルムにおける火事は、彼の心の内でも燃えていた。無意識の精
神にとって空間と時間は相対的であるように思われる。つまり、空間はもはや空間でな
く、また時間はもはや時間でないような時-空連続体の中で、知識はそれ自身を見出すの
である。それゆえ、無意識が、意識の方向にポテンシャルを保ち、発展させるならば、
そのとき、並行事象が知覚されたり「知られ」たりすることは可能である。
(河合隼雄・村上陽一郎共訳『自然現象と心の構造』海鳴社、一九七六年)
ユングは因果律の原理を認めながらも、意味深い偶然の一致という現象を説明するため
参考: 『視霊者の夢』カント(1766年):メモ
http://nam-students.blogspot.jp/2012/12/blog-post_14.html?m=0
1995
https://www.amazon.co.jp/オリオン・ミステリー―大ピラミッドと星信仰の謎-ロバート-ボーヴァル/dp/4140802154
商品の説明
内容(「BOOK」データベースより)
砂漠に点在するピラミッド。建設の裏には、王が星の世界へ再生するためのマスター・プランがあった。
内容(「MARC」データベースより)
古代エジプト人はかなり高度な天文学の知識をもって文明を築いたのだとして、天文学の見地からピラミッドの謎にいどむ。発表後イギリスで反響を呼び、NHKテレビでも放映された「星相関説」を紹介する。
登録情報
単行本: 370ページ
出版社: 日本放送出版協会 (1995/03)
言語: 日本語
ISBN-10: 4140802154
ISBN-13: 978-4140802151
5つ星のうち4.0基本文献
投稿者yo2009年1月4日
形式: 単行本
ボーヴァルの発見は、ピラミッド番組などで紹介されるが、その意義は正当に評価されているとは言えない。
(メンカウラー王の小ピラミッドは、本当は、ほかの二基と同じ大きさにする予定だったのだろう、という反論も、本書で証明された当時のオリオン信仰〜それはシュメール経由であり太陽神ラーと対立し消滅寸前だったと思われる〜を否定できない。)
10,500年前の星の位置を意図しただけであってピラミッド製造年がその年とは限らないとは思うが、、、
その説は十分科学的であり、トンデモ本として回収するべきではない。
今日ではメキシコのテオティワカンのピラミッドも相似系だとされているし、世界各国のオリオン信仰(あるいは太陽信仰との相克)の再発見は途上にある。
ちなみに、より厳密には魂の再生を願う民間信仰は以下の推移をたどっていると思う。
トーテム信仰(スフィンクスを含む)→星信仰(航海での位置把握手段。北極星信仰を含む)→太陽信仰(権力者の統制の強化と併行)→歴史忘却及び再発見(現代)。
日本では住吉大社、古代古墳にオリオン信仰の跡がみられる。
視覚に訴える説なので、決定版としてBBC番組のDVD発売が待たれる。
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