金曜日, 4月 05, 2013

ラカン、ドストエフスキー等によるプルードン評:メモ再掲

                       (リンク::::::

喜ばしいことに斉藤悦則氏による『経済的諸矛盾の体系』の翻訳が進行中らしい。
さらにジンメルによるプルードンへの言及を見つけたのを機に、以前、別ブログに書いていた各界著名人によるプルードン評をまとめてみた(ゲゼルによる言及はこちらのサイト ~「自然的経済秩序」~を参照)。中傷(ファーブル『昆虫記』冒頭等)や批判的なものは今後別にまとめたい。

以下、http://yojiseki.exblog.jp/i14より再掲。

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ゲルツェン、ボードレールによるプルードン評。

1848年当時のプルードンを知る貴重な資料として、ゲルツェン『過去と思索』(第五部41章)及びボードレールの回想(筑摩版全集全六巻)がある。

ゲルツェンは亡命ロシアの貴族で、プルードンの新聞『人民の声』のパトロンになった人物でもある。『過去と思索』の第五部41章(筑摩版世界文学全集のゲルツェン第二、83巻所収。三巻本では中巻)がプルードンに関する記述で、後半部をその古典的女性観の追究にあてている。
『神曲』の言葉を引用してプルードンを形容したり、あるいはその古典的女性観を批判したりして興味深いが、特に印象に残ったのは以下の部分である。

<ーーあなたの学説はたいへん気に入りましたーーあるイギリスの旅行者がプルドンに言った。
 ーーしかし、わたしには学説なんてものは全然ありませんーープルドンは不機嫌に答えた。そしてそのとおりだった。>
(世界文学全集ゲルツェン2pp113より)

ゲルツェンはプルードンの言葉を鵜呑みにしたが、その交換銀行計画のバックボーンである相互主義は十分学説たりうると思う。

一方、ボードレールはプルードンに対して、あなたは暗殺の標的になっているとストーカーまがいの手紙を送ったり(第6巻p201)、交換銀行に関してジャーナリスティックな批判をしたりしている(「国民論壇」第5巻p395)。
なかでも興味深いのは一緒に食事をとったという話だ。

<「文学者にしては、と私は彼に言いました、驚くほど召し上がりますね。」
「なすべき大きな事があるからです」と彼は私に答えました。きわめてあっさりとそう言ったので、真面目に話しているのか、おどけてみせたのか、察することもできませんでした。>
(筑摩版全集第6巻p543より)

ボードレールにとってはプルードンは文学者だったのかと思うと少し拍子抜けするが、こうしたプルードンの生きた時代を映画は無理でも漫画に出来たら面白いと思う。

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ラカンによるプルードン評
ラカンはプルードンの恋愛論(おそらく『革命と教会における正義』におけるそれ)に関して「セミナール2」において以下のように述べています。

「プルードンを読まれることを薦めます。この人は揺るぎない精神の持ち主で、教父のような確かな語調で語る人です。彼は人間の条件についてほんの少し身を引いて考察し、一般に考えられているよりずっと手を焼かされると同時に繊細なこの事柄、つまり貞節に接近しようとしました。(中略)プルードンの思考はことごとくロマンティックな幻想に刃向かうものですが、一見したところ神秘主義的とも見えるような文体で結婚における貞節を規定しようとします。そして彼が解答を見いだすのは象徴的契約としてしか認識できない何ものかにおいてなのです。」(「ソジー」『フロイト理論と精神分析技法における自我―1954-1955 (下) 』岩波書店pp146-7)

相手である異性を通して「すべての男/女」につながろうとする恋人同士の感情の奥に潜む無意識をラカンは、プルードンの相務的契約=相互主義的交換理論をヒントに読み解こうとしています。ラカンもプルードンも原理的な主張と政治的な主張を一つの文章の中で行なおうとしていて文章が難解になる点が似ているのですが、そこから明確な解答を得ようとする方向性も似ています。
二人とも交換=契約によってカオスを脱しようとしているのです。
もちろんラカンは「剰余享楽」(これはセミナール16にある用語)にも注意を払っています。マルクスの用語である剰余価値をラカンは「剰余享楽」と読み替えるなど、思い切った試みをしています。かつて、ラカンはフロイトよりもジャネの方がすぐれていると指摘したことがあるらしいですが(『ラカン』マローニ、新曜社)、マルクスやフロイトに対する見直しもラカンを鍵に行えるかもしれません。
ちなみに、プルードンの交換システムなどは、文学理論とは違う「現実界」のものですが、ラカンの立場からは「象徴界」と「想像界」を含むボロメオの結び目(これはイタリアのボロメオ家の紋章が名称の元になっている)をつなぐ試みとして考えることも出来るでしょう。ラカンとプルードンの違いをあえて指摘するならば、ラカンの方が、契約を保障する象徴的な第三項により多くの構造上の力点を置いている点でしょう。

ところで、『ジャック・ラカン伝』(河出書房新社、p26,69)を読むと、ラカンは若いころスピノザのエチカの構成を表す図面(色付の矢印つき)を部屋に飾っていたそうです。プルードンも『革命と教会における正義』で『エチカ』から引用していましたが(第5部定理20)、これは相互主義の理論的強化に役立つ部分でした。ラカンとプルードンのスピノザ理解(具体的にはラカンの飾った図はどのようなものだったのでしょうか?)も興味深いところです。

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プルードンとベンヤミン
「アンチノミーは解消されない。ヘーゲル哲学が全体として根本的にダメなところはここだ。アンチノミーをなす二つの項は互いに、あるいは、他のアンチノミックな二項との間でバランスをとる」*(プルードン『革命と教会における正義』、 斉藤悦則氏のHPより)

この言葉はベンヤミン『パサージュ論』邦訳第4巻(岩波現代文庫第4巻391頁)にも孫引きされている(アルマン・キュヴィリエ Cuvillier,Armand「マルクスとプルードン」1937未邦訳より)。ベンヤミンは『パサージュ論』で20箇所くらいプルードンに言及しているが(マルクスの半分以下だろう)、孫引きが多い。ボードレール論を書く際にもその素材をフーリエやブランキを描写したようには活用しなかった。このことは再度書いてみたい。

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ドストエフスキーとプルードン

ドストエフスキーの未公刊ノートにプルードンの名前を見つけた。
経済的矛盾の体系の書名の後にこう書かれている。

 さまざまな国民性の思想こそは、デモクラシイの新しい形態にほかならない。
 それはspontanément(自然発生的に。フランス語)現れた。
 われわれは人類の思想のspontanéité(自然発生。フランス語)を信じる。プルードン。

『ドストエフスキー 未公刊ノート』(筑摩書房、32〜3頁より、22頁にも名前がある)

これが記された1863〜4年は『地下室の手記』の直前だが、内容はプーシキン記念講演に近い。
青年時代の左翼的傾向や、トルストイ(もしくはゲルツェン)とプルードンとの関係を考えると、もっといろいろなものが見えて来る気がする。
(『地下室の手記』で表明された)中央集権的計画経済への嫌悪とネーションの称揚(プルードンが自主性なる用語で競争を擁護するのと対照的だ)が結びついていると考えられなくもない。
マルクスのザスーリチへの手紙とも主題的に重なる。
『悪霊』で批判されたバクーニン以外に、アナキズムのイメージをドストエフスキーが持っていたということは少なくとも言える(フーリエの名も28頁に出て来る)。

11 Comments:

Blogger yoji said...

以下、斉藤悦則氏サイトより引用。

http://www.kagomma.net/saito/works.html

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「プルードンの名著『貧困の哲学』の翻訳は
2012年5月から本格的に仕事を始めました。
平凡社ライブラリーで2013年には出るはずです。
もうしばらくお待ちください。」

プルードン『貧困の哲学――経済における矛盾の体系』(1846年)の
プロローグを翻訳した。
http://www.kagomma.net/saito/travaux/prologue.html
http://www.kagomma.net/saito/travaux/prologue.pdf

この部分は,神学談義みたいに読めるので
プルードンの経済学を期待している人にとっては厄介。
だけど、当時のひとびとの心をしっかりとらえ、多くの人に読まれた。
神の存在を仮定しておいて,結論としては無神論にいたる。
さらに,それが本書全体の体系づけにつながり
人間による社会の変革を励ます。
そういうアクロバチックな「妙技」が読者を楽しませた。

本書の翻訳は2013年ごろ、平凡社から出る予定だが
それに先だち「前宣伝」を兼ねて
冒頭部分の翻訳のみ,紹介する。

「つかみ」としてちゃんと機能するかどうか
そこが訳者として一番気にしている点である。

2012.06.27
http://www.kagomma.net/saito/travaux/prologue.html
http://www.kagomma.net/saito/travaux/prologue.pdf

9:00 午前  
Blogger yoji said...

たしか森鴎外が『食堂』でプルードンを物書きにすぎないと評している。

日本のアナキズムは主にクロポトキンの影響下だから言及は少ない。

柄谷のトラクリはその意味で画期的。

京都大学の共同研究が未だに最高峰である。

12:04 午前  
Blogger yoji said...

http://nam-students.blogspot.jp/2008/01/nam_20.html
『プルードン研究』(岩波書店)でも引用されていましたが、サルトルのプルードンへの言及をあらためて引用したいと思います。
ドゥルーズが晩年、サルトルを再評価していたのもうなづけます。
以下引用です。

「マルキシスムもまた競争相手の理論を吸収し、消化して、開かれたままでいなければならなかったにちがいない。ところが人も知るように実際につくり出されたのは、百の理論の代りに二つの革命的イデオロジーにすぎなかった。ブルードン主義者は、一八七〇年以前の労働者インターナショナルでは多数を占めていたが、パリ・コンミューンの失敗によっておしつぶされた。マルキシスムは敵対者に打勝ったが、その勝利は、マルキシスムがのり越えながらそのなかに含んでいたヘーゲル的否定の力によるものではなく、純粋に単純に二律背反の一方の項を押えた外力によるものであった。その光栄のない勝利がマルキシスムにとってどういう代価を意味したかは、何度いってもいい過ぎない。すなわち矛盾する相手が欠けたときに、マルキシスムは生命を失った。もしマルキシスムが最もよい状態にあり、絶えず戦い、征服するために自己を変革し、敵の武器を奪って己れのものにしていたとすれば、それは精神そのものとなっていたであろう。しかし、作家貴族がマルキシスムから千里もはなれたところで抽象的な精神性の番人になっている間に、マルキシスムは教会になったのである。」

サルトル『文学とは何か』(1947)第三章「誰のために書くか」(『シチュアシオン2』人文書院p141.加藤周一訳)より

『シチュアシオン』 Situations(1947–65年)
『文学とは何か』 Qu' est-ce que la littérature?(1948年)

上記の問題意識は『弁証法的理性批判 』(1960)の組織論、集団論につながる。

6:55 午後  
Blogger yoji said...




プルーストを読破する@立教 (@proust_rikkyo)
2018/05/27 0:55
【競売】正直、書簡などの売却額自体には関心がもてない(イメージもわかない)けれど、それがニュースになることじたいは興味深い。

それよりも、『花咲く乙女たちのかげに』で、心酔するプルードンの自筆書簡を「私」の祖母からプレゼントされたときのサン=ルーの赤面に心が動く(④481)。

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プルーストを読破する@立教 (@proust_rikkyo)
2018/05/27 0:55
「サン=ルーは、うやうやしく一枚一枚を手にとり、記された文言を記憶にとどめようとしながらむさぼるようにその手紙を読み、やおら立ちあがって、こんなに長居をしてしまいまして、と祖母に詫びを言いはじめたが、そのとき祖母がこういうのがその耳に届いた。→

Twitterアプリをダウンロードプルーストを読破する@立教 (@proust_rikkyo)
2018/05/27 0:55
→「『あらいいんですよ、それはお持ちください、あなたのものですから。差しあげようと思ってとり寄せたのです。』サン=ルーは、意志とは関係なく生じる肉体の兆候を抑えられないように、こみあげてくる歓びを抑えきれず、罰を受けた子供のように真っ赤になった。」(岩波④481)

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9:01 午後  
Blogger yoji said...

この青年は貴族にして不遜なスポーツマンに見えたが、実のところ、精神的な事柄、ことに伯母にはあまりに莫迦げたものに思われていた文学と藝術の現代的作品にしか敬意と好奇心を持たなかった。他方、彼は伯母が社会主義者の仰々しい演説と呼んでいたものにたっぷり染まっていたから、自分のカーストに最大級の軽蔑を覚え、ニーチェやプルードン(184)の研究に何時間も費やしていた。つまり彼は本にのめり込み、ただ高遠な思想のことだけを考え、何事にもすぐに感嘆するあの「知識人(185)」の一人だった。サン・ルーの場合、すこぶる抽象的な形で表れるそうした傾向はふだんの私の関心事から遠く離れたところへ彼を連れていってしまうので、感動的に見える一方でじつは少々退屈だった。こういうことは言えるかもしれない。つまり、すでに遠く過ぎ去ったひとつの時代のきわめて特殊な優雅さを体現していたかの有名なマルサント伯爵にまつわる逸話が豊富に集められた回想録をいくつか読んだばかりの頃、彼の父親が誰なのかを知り、夢想しがちでマルサント氏の送った生活を詳しく知りたいと考えていた私からすれば、ロベール・ド・サン・ルーが当のマルサント伯爵の息子であることに満足せず、また、その父親の生涯がそうであったような、今では古めかしい小説の世界に私を導いてくれることができたのにそうしようともしないで、ニーチェやプルードプルードンを愛するまでに自らを成長させたことが何とも残念でならなかったのだと。もっとも父親のマルサント氏は私と同じようにそれを残念だとは思わなかっただろう。彼自身知的な人間であって、社交界の人間の生活

9:07 午後  
Blogger yoji said...

プルーストのプルードン評価は微妙



この青年は貴族にして不遜なスポーツマンに見えたが、実のところ、精神的な事柄、ことに伯母にはあまりに莫迦げたものに思われていた文学と藝術の現代的作品にしか敬意と好奇心を持たなかった。他方、彼は伯母が社会主義者の仰々しい演説と呼んでいたものにたっぷり染まっていたから、自分のカーストに最大級の軽蔑を覚え、ニーチェやプルードン(184)の研究に何時間も費やしていた。つまり彼は本にのめり込み、ただ高遠な思想のことだけを考え、何事にもすぐに感嘆するあの「知識人(185)」の一人だった。サン・ルーの場合、すこぶる抽象的な形で表れるそうした傾向はふだんの私の関心事から遠く離れたところへ彼を連れていってしまうので、感動的に見える一方でじつは少々退屈だった。こういうことは言えるかもしれない。つまり、すでに遠く過ぎ去ったひとつの時代のきわめて特殊な優雅さを体現していたかの有名なマルサント伯爵にまつわる逸話が豊富に集められた回想録をいくつか読んだばかりの頃、彼の父親が誰なのかを知り、夢想しがちでマルサント氏の送った生活を詳しく知りたいと考えていた私からすれば、ロベール・ド・サン・ルーが当のマルサント伯爵の息子であることに満足せず、また、その父親の生涯がそうであったような、今では古めかしい小説の世界に私を導いてくれることができたのにそうしようともしないで、ニーチェやプルードンを愛するまでに自らを成長させたことが何とも残念でならなかったのだと。もっとも父親のマルサント氏は私と同じようにそれを残念だとは思わなかっただろう。彼自身知的な人間であって、社交界の人間の生活を逸脱していたからである。

光文社4
土地の名・名

9:10 午後  
Blogger yoji said...

183 家系図的には甥と又甥では異なるが、ここでは両者がともに使われている。
184 ピエール・ジョゼフ・プルードン(一八〇九~六五年)。フランスの社会主義者。アナキズムの創始者。

9:23 午後  
Blogger yoji said...

ファーブル昆虫記冒頭と同じパターン

9:58 午後  
Blogger yoji said...

http://nam-students.blogspot.jp/2008/01/nam_20.html
『プルードン研究』(岩波書店)でも引用されていましたが、サルトルのプルードンへの言及をあらためて引用したいと思います。
ドゥルーズが晩年、サルトルを再評価していたのもうなづけます。
以下引用です。

「マルキシスムもまた競争相手の理論を吸収し、消化して、開かれたままでいなければならなかったにちがいない。ところが人も知るように実際につくり出されたのは、百の理論の代りに二つの革命的イデオロジーにすぎなかった。ブルードン主義者は、一八七〇年以前の労働者インターナショナルでは多数を占めていたが、パリ・コンミューンの失敗によっておしつぶされた。マルキシスムは敵対者に打勝ったが、その勝利は、マルキシスムがのり越えながらそのなかに含んでいたヘーゲル的否定の力によるものではなく、純粋に単純に二律背反の一方の項を押えた外力によるものであった。その光栄のない勝利がマルキシスムにとってどういう代価を意味したかは、何度いってもいい過ぎない。すなわち矛盾する相手が欠けたときに、マルキシスムは生命を失った。もしマルキシスムが最もよい状態にあり、絶えず戦い、征服するために自己を変革し、敵の武器を奪って己れのものにしていたとすれば、それは精神そのものとなっていたであろう。しかし、作家貴族がマルキシスムから千里もはなれたところで抽象的な精神性の番人になっている間に、マルキシスムは教会になったのである。」

サルトル『文学とは何か』(1947)第三章「誰のために書くか」(『シチュアシオン2』人文書院p141.加藤周一訳)より

『シチュアシオン』 Situations(1947–65年)
『文学とは何か』 Qu' est-ce que la littérature?(1948年)

上記の問題意識は『弁証法的理性批判 』(1960)の組織論、集団論につながる。

8:57 午後  
Blogger yoji said...

『プルードン研究』(岩波書店)でも引用されていましたが、サルトルのプルードンへの言及をあらためて引用したいと思います。
ドゥルーズはプルードンを評価しませんでしたが、晩年、サルトルを再評価していたのもうなづけます。
以下引用です。

「マルキシスムもまた競争相手の理論を吸収し、消化して、開かれたままでいなければならなかったにちがいない。
ところが人も知るように実際につくり出されたのは、百の理論の代りに二つの革命的イデオロジーにすぎなかった。
ブルードン主義者は、一八七〇年以前の労働者インターナショナルでは多数を占めていたが、パリ・コンミューンの
失敗によっておしつぶされた。マルキシスムは敵対者に打勝ったが、その勝利は、マルキシスムがのり越えながら
そのなかに含んでいたヘーゲル的否定の力によるものではなく、純粋に単純に二律背反の一方の項を押えた外力に
よるものであった。その光栄のない勝利がマルキシスムにとってどういう代価を意味したかは、何度いってもいい
過ぎない。すなわち矛盾する相手が欠けたときに、マルキシスムは生命を失った。もしマルキシスムが最もよい状態
にあり、絶えず戦い、征服するために自己を変革し、敵の武器を奪って己れのものにしていたとすれば、それは精神
そのものとなっていたであろう。しかし、作家貴族がマルキシスムから千里もはなれたところで抽象的な精神性の番
人になっている間に、マルキシスムは教会になったのである。」

サルトル『文学とは何か』(1947)第三章「誰のために書くか」(『シチュアシオン2』人文書院p141.加藤周一訳)より

『シチュアシオン』 Situations(1947–65年)
『文学とは何か』 Qu' est-ce que la litterature?(1948年)

上記の問題意識は『弁証法的理性批判 』(1960)の組織論、集団論につながる。

8:59 午後  
Blogger yoji said...

コピペばかりで申し訳ないですが誤字脱字訂正のうえ、サルトルのプルードンへの言及を紹介します。
ドゥルーズはプルードンを評価しませんでしたが、晩年、サルトルを再評価していたことは再確認すべきでしょう。
(ちなみに柄谷行人はデリダにサルトルの影響を見ています)
サルトルの弁証法理解はそのままドゥルーズに受け継がれていると思います。
以下引用です。

「マルキシスムもまた競争相手の理論を吸収し、消化して、開かれたままでいなければならなかったにちがいない。
ところが人も知るように実際につくり出されたのは、百の理論の代りに二つの革命的イデオロジーにすぎなかった。
ブルードン主義者は、一八七〇年以前の労働者インターナショナルでは多数を占めていたが、パリ・コンミューンの
失敗によっておしつぶされた。マルキシスムは敵対者に打勝ったが、その勝利は、マルキシスムがのり越えながら
そのなかに含んでいたヘーゲル的否定の力によるものではなく、純粋に単純に二律背反の一方の項を押えた外力に
よるものであった。その光栄のない勝利がマルキシスムにとってどういう代価を意味したかは、何度いってもいい
過ぎない。すなわち矛盾する相手が欠けたときに、マルキシスムは生命を失った。もしマルキシスムが最もよい状態
にあり、絶えず戦い、征服するために自己を変革し、敵の武器を奪って己れのものにしていたとすれば、それは精神
そのものとなっていたであろう。しかし、作家貴族がマルキシスムから千里もはなれたところで抽象的な精神性の番
人になっている間に、マルキシスムは教会になったのである。」

サルトル『文学とは何か』(1947)第三章「誰のために書くか」(『シチュアシオン2』人文書院p141.加藤周一訳)より

『シチュアシオン』 Situations(1947–65年)
『文学とは何か』 Qu' est-ce que la litterature?(1948年)

上記の問題意識は『弁証法的理性批判 』(1960)の組織論、集団論につながります。

9:03 午後  

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