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柄谷行人、
政治学、
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堺利彦「社会主義鳥瞰図」
(堺利彦「大杉君と僕」『生の闘争』(大杉栄著.新潮社.1914年)序文、宇野弘蔵『資本論五十年』上6頁より。本来は縦書き)
守銭奴__隠遁者__風流人__遊蕩家___________________
/ |
個人主義___自由主義__旧自由党、改進党_ /政友会 |
\_資本家主義____| _| 同志会 |
/ | / | 国民党 |
国家主義___帝国主義__藩閥官僚_____| / \中正会 |
/ |
国家社会主義_社会改良主義_____社会政策派_____ロイド・ジョージ |
\ |
労働組合主義__非政治派_____________________ |
\政治派____ | |
\____英国労働党___安部 | |
/ _ゾラ | |
社会主義 穏健派、修正派、提携派、入閣派_____ジョーレス_/_ショウ | |
\ | |
\_マルクス派、正当派、非提携派、非入閣派_____堺___ゴルキー | |
/ ___\__リープクネヒト | |
共産主義/ 直接行動派、シンデカリスト、非議会派/______________| |
|\ |
無政府共産主義____クロポトキン______大杉 \____オスカァ・ワイルド |
| \アナトル・フランス |
_スチルネル、ニイチェ_ | |
個人的無政府主義_/ トルストイ、イブセン \_| |
\_日本現時文芸家の多数_/___________________|
http://daruma3.cocolog-nifty.com/nh/2013/02/post-0343.html
1914年に書かれた「大杉君と僕」(堺利彦)という文章には、以下のように社会主義が解説されている。
「日本の社会主義運動に三派の別が生じていた。今でもボンヤリその形が残っている。
一、温和派(あるいは修正派)
一、マルクス派(あるいは正純派)
一、直接行動派(あるいは無政府的社会主義)
これを人について言えば、安部磯雄君は右翼に属し、幸徳秋水君は左翼に属し、僕自身は中間派に属していた。そのうち、幸徳君は殺されたが、安部君と僕とはほぼ昔のままの立場で続いている。そして今日、幸徳君の立場を継承している者は、すなわち大杉栄君である。・・・ すべて主義態度の範囲はそう明瞭に区分することのできるものではない。実際運動に当たっては、種々の便宜上、どこかに一線を画して、党派団体の区分をつけるけれど、理論の上から見る時には、あらゆる思想はみな濃淡のボカシをもって連続しているのである。この関係をやや明瞭に示すため、左に一つの表を作ってみる」
というふうにあり、上図のような「社会主義鳥瞰図」が載っている。
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堺利彦
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堺利彦
堺 利彦(さかい としひこ、1871年1月15日(明治3年11月25日) - 1933年(昭和8年)1月23日)は、日本の社会主義者・思想家・歴史家・著述家・小説家。号は枯川、別名は、貝塚渋六。
目次
1 生涯
2 著作
3 翻訳
4 参考文献
5 外部リンク
生涯
没落士族の3男として豊前国仲津郡長井手永大坂村松坂(現在の福岡県京都郡みやこ町犀川大坂字松坂)に生まれる。豊津中学校(現・育徳館高校)を首席で卒業。上京後、進学予備校であった共立学校(現 開成中高)にて受験英語を学び、第一高等中学校入学。学費滞納により一高から除籍処分を受けたのち、大阪や福岡で新聞記者や教員として勤めながら、文学の世界で身を立てるべく小説の執筆を始める。その後、同郷の末松謙澄に招かれて東京に設けられた毛利家編輯所で『防長回天史』の編纂に従事し、同僚の山路愛山らと親交を深める。
その後『萬朝報』の記者として活躍し、社会改良を主張する論説や言文一致体の普及を図る一方で、社主の黒岩涙香、同僚の内村鑑三、幸徳秋水らと理想団を結成。この時期に社会主義思想に共鳴し、非戦論を唱える。しかし『萬朝報』は、日露戦争に際し主戦論に路線転換したため、内村鑑三、幸徳秋水とともに退社。平民社を開業して週刊『平民新聞』を発行、非戦論・社会主義の運動を開始する。週刊『平民新聞』第53号(1904年11月13日)に幸徳との共訳で『共産党宣言』を翻訳して掲載した。これは、サミュエル・ムーア訳の英語訳からの重訳であったが、日本における最初の『共産党宣言』の翻訳であった。
1905年に社会主義機関誌『直言』にエスペラントに関する記事を掲載。その後、1906年に発足した日本エスペラント協会の評議員に就任した。
1906年に日本社会党を結成して評議員となり、日本の社会主義運動の指導者として活躍をはじめる。1908年の赤旗事件により2年の重禁固刑を受け、その入獄中に「大逆事件(幸徳事件)」が起こるが、獄中にいたため連座を免れて出獄。社会主義のいわゆる「冬の時代」は、売文社を設立して雑誌『へちまの花』、次いでその後継誌『新社会』の編集・発行をはじめとする事業をおこなって生活の糧とするとともに、全国の社会主義者との連絡を維持した。1920年には日本社会主義同盟が結成されるが翌年に禁止されてしまう。
1922年、日本共産党(第一次共産党)の結成に山川均、荒畑寒村らとともに参加するものの、山川らに同調して共産党を離脱、後に労農派に与する。その後東京無産党を結成して活動を続け、1929年に東京市会議員に当選した。
数多くの翻訳を通じて、欧米の社会主義思想、社会運動やロシア革命の動向、ユートピア文学をはじめとする西洋文学の紹介につとめた。
1932年の6月頃発狂し、翌月には家庭内暴力を起して青山脳病院(現・東京都立小児総合医療センター)に入院した。翌年の1月に脳溢血で死去(享年64)。
婦人運動家で社会大衆婦人同盟書記長・婦人有権者同盟会長を歴任した近藤真柄は長女。
著作
継母根性 堺枯川 図書出版 1893.8
はだか男 堺利彦 (枯川) 博文堂 1893.10
はだかの剛三 堺枯川 藤谷長吾 1895.9
破れ羽織 堺枯川 駸々堂 1896.1
普通文 言文一致 堺利彦 (枯川) 内外出版協会 1901.7
家庭夜話 堺利彦 (枯川) 内外出版協会 1902、1903
枯川随筆 内外出版協会 1903 (家庭文学)
家庭の新風味 堺利彦 (枯川) 内外出版協会 1904.12
半生の墓 堺枯川 平民書房 1905.8
婦人問題 金尾文淵堂 1907.8
社会主義綱要 堺利彦 (枯川)、森近運平 鶏声堂 1907.11
人間発生の歴史 有楽社 1907 (平民科学)
文章速達法 実業之世界社 1915 のち講談社学術文庫
猫のあくび 松本商会出版部 1919
猫の百日咳 アルス 1919
唯物史觀の立場から 三田書房 1919.8
マルクス伝 山川均共著 大鐙閣 1920 (レツド・カヴア叢書)
男女争闘史 栄川堂書店 1920
恐怖・闘争・歓喜 聚英閣 1920 (社会問題批判叢書)
火事と半鐘 三徳社 1921
楽天囚人 丙午出版社 1921
米泥棒 三徳社 1922
社会主義学説の大要 建設者同盟出版部 1922 (建設者パンフレット)
男女関係の発達 三徳社 1922 (民衆科学叢書)
一休和尚 東雲堂書店 1922
労農ロシアの資源及貿易 上田茂樹共著 実業之世界社 1925
現代社会生活の不安と疑問 文化学会出版部 1925 (社会問題叢書)
社会主義学説大要 無産社 1925 (無産社パンフレット)
弁証法的唯物論 無産社 1926 (無産社パンフレット)
社会主義の婦人観 山川菊栄共著 上西書店 1926
ロシヤ革命十一月七日 無産社 1926 (無産社パンフレット)
監獄学校 白揚社 1926
堺利彦伝 改造社 1926 のち中公文庫
天文・地文 南宋書院 1927 (無産者自由大学)
当なし行脚 改造社 1928
桜の国・地震の国 現代ユウモア全集刊行会 1928
猫の首つり 白星社 1929
社会主義とは何か 労農出版社 1930 (労農パンフレツト)
貧富戦と男女戦 中央公論社 1930
無産党全合同 共同戦線党 (単一無産党)の真意義 労農出版社 1931.1 (労農パンフレット)
荒畑寒村・白柳秀湖・大森義太郎・山川均編『堺利彦全集』全6巻、中央公論社、1933年5月-10月。
『堺利彦全集』全6巻、川口武彦編、法律文化社、1970年9月-1971年8月。
『堺利彦伝』中公文庫 1978年4月、改装版2010年10月 自伝
『文章速達法』 講談社学術文庫、1982年12月
鈴木裕子編『堺利彦女性論集』、三一書房、1983年5月。
堀切利高編・解題『堺利彦』(平民社資料センター監修『平民社百年コレクション』第2巻)、論創社、2002年12月。ISBN 4-8460-0354-X
翻訳
百年後の新社会 ベラミー 平民社 1904
労働問題 エミール・ゾラ 春陽堂 1904.4
理想郷 ヰリアム・モリス 平民社 1904.12
小説 小桜新吉(オリヴァー・トウィスト)ヂッケンス 公文書院 1912.5
人と超人 シヨー 丙午出版社 1913
自由社會の男女關係 カアペンター 東雲堂書店 1915.12
女性中心説 レスター・ウオード 山川菊栄共訳 牧民社 1916
社会主義の世になったら エドワード・ベラミー 文化学会 1920
唯物史観解説 ヘルマン・ゴルテル 大鐙閣 1920 (レツド・カヴア叢書)
木の芽立(ジェルミナール) エミイル・ゾラ アルス 1921
人間発生の跡 ヰルヘルム・ベルシエ 三徳社書店 1921 (民衆科学叢書)
空想的及科学的社会主義 エンゲルス 大鐙閣 1921
労働と資本 マルクス 無産社 1922 (無産社パンフレット)
世界社会主義運動の現勢 レードラ アルス 1922
スパイ アプトン・シンクレア 志津野又郎共訳 天佑社 1923
社會主義倫理學 カルル・カウツキー 丙午出版社 1923.6
空想から科学へ 空想的及科学的社会主義 エンゲルス 白揚社 1924
国際労働組合運動 革命主義的潮流と改良主義的潮流 ロソヴスキー 白揚社 1925
石炭王 シンクレヤ 白揚社 1925
ホワイト・フアング 白牙 ジヤツク・ロンドン 叢文閣 1925
共産制より資本制まで 生産方法の歴史的小観察 ハインドマン 共生閣 1926
左翼小児病 レーニン 無産社 1926 (無産社パンフレット)
利潤の出処 マルクス 無産社 1926 (無産社パンフレツト)
底に動く アプトン・シンクレヤ 白揚社 1926
唯物論と宗教思想 エンゲルス 白揚社 1927
野性の呼声 Jack London 叢文閣 1928
経済学入門 賃労働と資本、価値と価格と利潤 マルクス 白揚社 1930
共産主義とは何ぞや マルクス、エンゲルス 白揚社 1931.6
社会主義と進化論 マルクス説とダアヰン説との関係 パンネコック 彰考書院 1947
参考文献
大田英昭「堺利彦の「家庭」論-親密性の社会主義」、『倫理学年報』第53集、2004年3月。
大田英昭「堺利彦における非戦論の形成―その平和的秩序観と暴力批判」、『初期社会主義研究』第17号、2004年11月。
大森かほる『捨石埋草を生きて-堺利彦と娘近藤真柄』、第一書林、1992年6月。
岡本宏「幸徳秋水・堺利彦」、田中浩編『近代日本のジャーナリスト』、御茶の水書房、1987年2月。
荻野富士夫「社会主義運動の展開-堺利彦とボルシェビズム」、鹿野政直・由井正臣編『近代日本の統合と抵抗』第3巻(1911年から1931年まで)、日本評論社、1982年4月。
尾原宏之「堺利彦の「ユートピア」-明治社会主義における「理想」の一断面」、『初期社会主義研究』第18号、2005年11月。
川上哲正「堺利彦と山川均がみた中国」、『初期社会主義研究』第14号、2001年。
川口武彦『日本マルクス主義の源流-堺利彦と山川均』、ありえす書房、1983年4月。
川口武彦『堺利彦の生涯』上・下、社会主義協会出版局、1992年6月 / 1993年2月。
木下比呂美「近代的婦人・家庭論の展開-堺利彦を中心として」、『歴史評論』第446号、1987年6月。
黒岩比佐子『パンとペン―社会主義者・堺利彦と「売文社」の闘い』、講談社、2010年。
小正路淑泰「堺利彦、真の出生地とその原風景」、『西日本文化』第326号、1996年11月。
小正路淑泰「堺利彦農民労働学校(一)-農村社会運動の諸相」、『部落解放史・ふくおか』第105号、2002年3月。
小正路淑泰「堺利彦農民労働学校の周辺(そのニ)―『ツバメ館』=常設校舎建設運動」、『初期社会主義研究』第17号、2004年11月。
小正路淑泰「堺利彦農民労働学校(四)-第三期講義内容の検討」、『部落解放史・ふくおか』第121号、2006年3月。
小正路淑泰「『堺利彦伝』-豊前人の心情を代弁」、『ふるほん九州』第4号、2007年1月。
近藤真柄『わたしの回想-父堺利彦と同時代と人びと』上、ドメス出版、1981年11月。
志村正昭「堺利彦-週刊『平民新聞』」、土屋礼子編著『近代日本メディア人物誌―創始者・経営者編』、ミネルヴァ書房、2009年6月。
銭昕怡「大正期社会主義思想における「階級」とナショナリズムの問題-堺利彦と雑誌『新社会』を中心に」、『同志社法学』第294号(第55巻3号)、2003年9月。
林尚男『評伝《堺利彦》-その人と思想』、オリジン出版センター、1987年4月。
久井英輔「明治後期における社会改良・家庭改良と「中等社会」-『万朝報』『家庭雑誌』等における堺利彦を中心に」、『日本社会教育学会紀要』第45号、2009年。
山泉進「堺利彦と佐竹音次郎のことなど-堺利彦の社会主義者としての出発」、『初期社会主義研究』第11号、1998年12月。
山泉進『平民社の時代―非戦の源流』、論創社、2003年。
山田眞實「堺利彦のモリス評価」、『同志社大学英語英文学研究』第39号、1985年12月。
「堺枯川」『近代文学研究叢書』第34巻、昭和女子大学近代文学研究室、1971年7月。
『初期社会主義研究』第10号(特集=堺利彦)、初期社会主義研究会、1997年9月。
『初期社会主義研究』第11号(小特集=堺利彦)、初期社会主義研究会、1998年12月。
外部リンク
堺利彦(文学者掃苔録 - 堺利彦の墓碑: 神奈川県横浜市鶴見区の総持寺)
堺 利彦:作家別作品リスト - 青空文庫
安部磯雄
日本の政治家
安部 磯雄
あべ いそお
安部磯雄の肖像写真
生年月日 1865年3月1日
出生地 福岡県福岡市
没年月日 1949年2月10日(満83歳没)
死没地 東京都新宿区
出身校 ベルリン大学 卒業
ハートフォード神学校 卒業
同志社英学校 卒業
前職 東京専門学校教授
現職 初代 日本学生野球協会会長(1946年-1949年)
所属政党 (社会民衆党→)
(社会大衆党→)
(勤労国民党→)
(無所属→)
日本社会党
称号 野球体育博物館特別表彰(1959年)
配偶者 安部 駒尾
衆議院議員
選挙区 東京府第2区
当選回数 5回
任期 1928年2月21日 - 1940年12月23日
初代 社会大衆党執行委員長
任期 1932年7月24日 - 1940年3月21日
初代 社会民衆党委員長
任期 1926年12月5日 - 1932年7月24日
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安部 磯雄(あべ いそお、元治2年2月4日(1865年3月1日) - 昭和24年(1949年)2月10日)は、日本の社会主義者。キリスト教的人道主義の立場から社会主義を活発に宣伝し、日本社会主義運動の先駆者であった。また、日本における野球の発展に貢献し「日本野球の父」と呼ばれる。 早稲田大学野球部創設者でもある。
目次 [非表示]
1 来歴・人物
2 野球との関わり
2.1 海外遠征のエピソード
3 家庭と家庭生活
4 早稲田大学時代
5 年譜
6 著書
7 関連書・研究書
8 関連項目
9 参考文献
10 外部リンク
11 脚注
来歴・人物[編集]
福岡藩士岡本権之丞の次男として福岡市に生まれる。安部姓を名乗るようになったのは徴兵忌避のためである。当時60歳以上の扶養家族がいれば徴兵免除の特典が与えられたため、60歳以上の老人のいる家を探して謝礼を支払い名義上安部家の養子となる[1]。
1879年3月、小学校を優秀な成績で卒業したが、明治維新後実家が貧しかったので上級学校には進まず、地元の私塾向陽義塾(現在の福岡県立修猷館高等学校の源流の一つ)に入門した。その後、同志社英学校(現・同志社大学)に入学していた義兄が磯雄の才能を惜しみ、磯雄を海軍軍人にするために同志社に学ばせようと父親を説き、学資の援助を申し出たことにより同志社英学校に入学することとなった。1884年同志社英学校卒業(在学中、新島襄より受礼)。その後、ハートフォード神学校(アメリカ)やベルリン大学に学ぶ。1895年に帰国後、同志社教授を経て1899年東京専門学校(早稲田大学の前身)の講師となる(1907年から教授)。
1901年、社会民主党を結成するが直後に禁止。日露戦争では非戦論を唱えた。公娼制度の廃止や産児制限など、初期の女性解放(フェミニズム)運動にも積極的に関与した。
1924年に日本フェビアン協会を設立。1928年、第16回衆議院議員総選挙に社会民衆党から立候補し、衆議院議員当選連続5回。また東京市議会議員も務めた。社会民衆党党首、社会大衆党執行委員長を歴任。
1938年3月3日、右翼団体の指示を受けた愚連隊によって襲撃された(詳細は安部磯雄襲撃事件を参照)。
1940年3月、斎藤隆夫が行った反軍演説の議員除名問題で、反対の立場を示し衆議院本会議を欠席すると、書記長麻生久の支配下にあった社会大衆党中央執行委員会により、党首でありながら、鈴木文治、西尾末広、片山哲、水谷長三郎らとともに党除名処分を受ける。
戦後は日本社会党の顧問。1949年2月10日、83歳で死去。
なお、同志社時代の1898年に、有志学生と共に日本で初めての大学生協「同志社消費組合」を結成している。
野球との関わり[編集]
「知識は学習から、人格はスポーツから」形成されると考え、特に日本に伝えられて日の浅い野球の普及・発展に力を注いだ。1901年には早稲田大学野球部の初代部長に就き早慶戦の糸口をつくっただけでなく、日露戦争まっただ中の1905年には同部で野球史初の海外遠征を強行し、野球発祥国アメリカで行われている数多くの技術・練習法などを持ち帰った。安部らはこれを早稲田部内の秘伝とせず著書や指導などによって日本全国に伝えた。これによって日本の野球技術発展の基礎をもたらした。また嘉納治五郎らとともに大日本体育協会を創立した。1930年東京六大学野球連盟初代会長就任(1932年の早稲田大学野球部の連盟脱退問題で引責辞任)、1946年日本学生野球協会初代会長就任。
こうした数々の功績から「日本野球の父」「学生野球の父」と呼ばれる。早稲田野球部の本拠地であった戸塚球場は安部が創設者大隈重信を説得して築いたもので、没後「安部球場」、合宿所を「安部寮」と名称を改められた。没後の1959年、この年創設された日本野球殿堂入り(特別表彰)。
海外遠征のエピソード[編集]
1904年春、野球部の集会が開かれた時、安部は「もし諸君が一高、慶応、学習院の3大強豪を破って、対抗試合に全勝したら、アメリカに連れて行きましょう」と言った。この年の秋、創部4年目の早稲田大学が強豪たちをなぎ倒して全勝した。外の教授は唖然としたが、安部は大隈総長に直接会って掛け合った。「いいだろう」、と大隈は答えた。1905年の理事会で臨時予算が5500円組まれた。掛け合って2等船室の値段で1等船室に泊まった。サンフランシスコで野球道具を買ったが、アメリカ人が払ってくれた。7勝19敗であったが、試合の態度でアメリカ人を称賛させた。アメリカ滞在中、日本海海戦で日本は勝利した[2]。
家庭と家庭生活[編集]
[3] 妻の駒尾との婚約と結婚は、安部21歳時、31歳時と離れているが、問題があったわけでなく、安部の留学と駒尾の学業の為である。安部にとって駒尾は愛妻であると共に友であり、よき話し相手であった。明治末期に「理想の夫婦」を実現している。安部は家庭生活を重要視していた。 安部の子供を整理すると
長女 富士。1896年生まれ。満9歳で夭折。
次女 京(中村)。1898年生まれ。津田英学塾を卒業し、早稲田大学野球部のOB 中村正雄(松尾鉱山社長)と結婚。
三女 静(赤木)。1900年生まれ。東京女子大学在学中に 在米日系二世の赤木英道と婚約し、渡米。戦後は自由学園教授。
長男 安部民雄。1902年生まれ。早稲田大学在学中からデビスカップ日本代表となったテニスの名選手。早稲田大学教授。
次男 安部道雄。1904年生まれ。東京大学理学部卒業の数学者。自由学園教授。
4女 愛(松原)。1907年生まれ。津田英学塾卒。教師を経て、医学者 松原正香と結婚。
5女 節(大井上)。1908年生まれ。津田英学塾卒。三菱重工(技術系)勤務の大井上博と結婚。
6女 夏(丸山)。1910年生まれ。日本女子大付属高女を卒業し、医学者 丸山千里(松原正香の実弟)と結婚。
安部は教育にあたっては、子供の主体性を重んじたが、遠足は強制していた。しかもその距離は半端でなく32キロとか36キロというもので、中年になっても妻と長い距離弁当持参でハイキングに行った。安部71歳時富士登山もしている。
早稲田大学時代[編集]
[4] 1917年に始まった早稲田騒動は、学長の座をめぐっての紛争事件である。安部は一方を支持したが、理事や高等予科長を辞任している。飛田穂洲によると、安部はもっと厚遇されるべきであるが、安部は不満を漏らしたことはなかった。便利屋(utility man)と称して与えられた仕事をこなした。野球における団体生活 がその背景にあると漏らしている。野球部長のみならず、競争部長、早稲田大学交響楽団初代部長(大学から金をひきだすために安部を利用した話がある)、図書館館長などを務めた。嘉納治五郎を助けて1912年のストックホルムオリンピック大会の国内委員も務めた。
早稲田大の安部球場は現在図書館になっており、胸像が立てられている。
http://kankyaku.sakura.ne.jp/WEBREVIEW/reviews/Utsukushikimonono-Densetsu.xml
美しきものの伝説
脚本:宮本研
演出:石澤秀二
上演:座・新劇 (初演:文学座/1968年)
@俳優座劇場 (1994年7月)
出演:
長克巳・益富信孝・弥生みつき・森塚敏・可知靖之・太刀川敬三・小山力也・河野正明・飛田晃治・志賀澤子・真野季節・加藤佳男・山本龍二・山崎夏江 ほか
あらすじ
大正時代。
ベル・エポックと呼ばれたこの時代、幸徳秋水による大逆事件以来、多くの知識人は水面下でその活動を活発にしていた。
大杉栄、堺利彦、荒畑寒村、伊藤野枝、平塚雷鳥、辻潤など。
時を同じくして、それまでの日本演劇とは一線を画す「新劇運動」が興される。
モスクワ留学から帰り、「どん底」の上演を行う小山内薫。
芸術座においてトルストイの「復活」を大当たりさせた島村抱月。
そしてまだ若き日の劇作家・久保栄。
演劇と思想は、実は切っても切れない関係にある。
ロマン・ロラン「民衆劇論」に代表されるように、演劇と民衆は密接に関わっている。
演劇は、大衆性を持つ娯楽作品として存在すべきなのか、それとも民衆を啓発する研究劇として存在すべきなのか。
島村抱月はその二極論の狭間で苦悩する。
ベル・エポックに存在した知識人たちが、それぞれの思想とぶつかり、そして向き合う様を描く群像劇。
評
ベル・エポック──新しい時代。
わずか15年しかなかった大正時代は、大正デモクラシーに代表されるように、様々な思想が日本にも輸入されてまさに新時代の到来を予感させました。
同時に、海を隔てたロシアで起きた革命の影響から、社会主義や無政府主義も輸入されました。
思想家たちにとってはベル・エポックとはいいながらも、実際は厳しい思想取締りの中でひっそりと活動せざるを得なかったのです。
大杉栄・堺利彦・荒畑寒村・幸徳秋水がその例です。
彼らは自らの思想を主張しながらも、同時に自らの思想とも戦っています。
しかし伊藤野枝・平塚雷鳥らが唱えた女性解放思想は別として、社会主義や無政府主義は決して花開くことはありませんでした。
この作品において「美しきもの」とは何であるのか、「伝説」とは何であるのか、そう考えたときにひとつの答えが浮かび上がりました。
美しきものとは、「叶えられなかった思想」のことであると。
後半になって大杉栄(クロポトキン)は堺利彦(四分六)の主張である社会主義を批判します。
ボリシェビキはロシア革命を通じて、権力という民衆の敵を倒した。
しかし結局はボリシェビキ自体が、ソ連という新たな国家(新たな権力)を作ってしまった──大杉はこのことを非常に嘆きます。
思想というものは、実現しないときが最も美しく輝いているものです。
ロシア革命のようにひとたび実現すると、それは針路を見誤って輝きを失ってしまう。
無政府主義も社会主義も、日本では花開きませんでした。
決して実現することのなかった美しいままの思想は、現在ではさながら「伝説」のように語り継がれるのみです。
むしろ彼らの「実現しなかった美しいままの思想」は、さながらファンタジーのように現実味を失った「美しい伝説」でしかないのです。
同時に、ある種の政治的意図をもって興隆した新劇の意図もまた「美しい伝説」であると宮本研は主張しています。
これは新劇の誕生を描いた作品でもあるのですが、その目的は決して聖誕劇のように新劇を礼賛するものではありません。
というのもモノローグの多様など、新劇としてはありえない手法、むしろアングラ劇のような「俳優が観客に向けて語りかける」手法をあえて取り入れているためです。
…
『堺利彦全集』全6巻
『堺利彦全集』全6巻(法律文化社、1970.9~1971.8)
http://kenkyuyoroku.blog84.fc2.com/blog-entry-531.html
第4巻 1971.6.15
『売文集』より‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 1
第1編 剣と針 ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 3
序(売文社の記)‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 3
唯物的歴史観‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 9
唯物的歴史観研究―山路愛山兄の批評に答う―‥‥14
宗教とは何ぞや‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥25
子に対する僕の態度‥‥‥‥‥‥‥‥‥31
木下尚江君の態度を評す‥‥‥‥‥‥‥36
第2編 露と雫 ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥41
暮春の古服‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥41
死の趣味‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥45
墓地見物‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥51
寸馬豆人‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥56
逆徒の死生観‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥70
浮世顧問‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥82
『近代思想』より
大杉と荒畑‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥85
大杉君と僕‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥87
…
アナーキスト≠テロリスト
アナーキストという韓国映画でも誤解していたが
アナーキズムはもともと自主管理の思想
プルードンよりバクーニンが有名だから仕方ないが
バクーニンもスイスの時計職人に支持されるなど、必ずしも暴力的なわけではない
10 :(´・ω・`)(`ハ´ )さん@転載は禁止:2014/12/10(水) 03:01:52.99 ID:JDMEmMn9
●●●●●●●●●●●●●●
世界の公務員平均年収(2012/6)
1 日本 898万円
2 アメリカ 357万円
3 イギリス 256万円
4 カナダ 238万円
5 イタリア 217万円
民間サラリーマン平均給与は408万円で2年連続で減少
消費税を『一律10%以上』にしてる国はない。
食料品は無税にしたりあっても3%と抑えたり、
生産/流通/小売全てに掛けてるのは日本だけ。
普通の消費税は完成品に1回だけ掛けるものです。
●●●●●●●●●●●●●●
11 :(´・ω・`)(`ハ´ )さん@転載は禁止:2014/12/10(水) 03:02:58.57 ID:JDMEmMn9
●日本
国会議員722人(人口1億2800万、面積377km2)
年収2106万円+手当
文書交通費1200万円(領収書不要で口座に振り込まれるので実質給料)
公設秘書、立法事務費、政務調査費、交通機関パス、高級宿舎家賃ほぼタダ同然、天下り利権
●アメリカ
国会議員535人(人口3億1000万、面積9857km2)
年収1357万
ドイツ947万円
フランス877万円
12 :(´・ω・`)(`ハ´ )さん@転載は禁止:2014/12/10(水) 03:03:59.01 ID:JDMEmMn9
●●●●●●●●●●●●●●●●●●
なぜ牛乳やチーズ他の乳製品が品薄にならずバターだけか。
原因は天下り農畜産業振興機構のバター輸入独占業務です。
バター不足を演出し貪っています。
(しかもTPP聖域にもなろうとしてます)
http://www.alterna.co.jp/13436
●●●●●●●●●●●●●●●●●●
未来に理想のモデルを設定するのが左翼
過去に理想のモデルを見出すのが右翼
ただ、右翼に統制派と皇道派があるように
左翼にもマルクス主義者とアナキストがいる
《アーウィング・ホロウィッツの『アナーキストたち』(一九六四年)とダニエル・ゲランの
『現代のアナーキズム』(一九六五年)とは、その後のアナキズムについて、もっとくわしく
ふれている。ゲランによれば、一九三一年のスペインの共和国宣言以後、「親戚の寄合い」と
呼ばれる自治の習慣の保護、直接民主制による村の運営の確認、自然崇拝と菜食主義と裸体
主義への好意の表現など、もとからあった社会習慣をはっきりさせて確認してゆく動きがあっ
たという。さらに、後に閣僚となったディエゴ・アバ・デ・サンティリアンの著書『革命の
経済組織』(一九三六年(*未邦訳))は、政治権力ではなくてたんなる調整機関、経済的行政
的な調節者の役を果たすべき経済連合議会の構想を明らかにしている。この評議会は、その
下部機関である(1)産業別部門の組合評議会、(2)経済地方評議会の両方に連合している工場評
議会からおおまかな指示をうける。この評議会にはつねに、経済の状況を知るための最新の
統計資料があたえられ、みずからの判断の基礎とされる。このようにして、サンティリアンは、
スペイン革命が、ロシア革命における革命政権の失敗からもマフノ運動の失敗からも多くを
まなんだ新しい構想をもつことができたという。しかし、ファシスト勢力との軍事闘争の中
で、スペインにたいするロシア共産党の指導は、一九二一年のソヴィエト・ロシアにおける
弾圧をもう一度ここで再生させ、やがてスペイン革命はファシスト勢力に敗れてゆく。》
「方法としてのアナキズム」『鶴見俊輔集9』(22頁)。より
『身振りとしてのアナキズム』iBooks他に再録。
鶴見俊輔(1922~2015)はアナキストとして重要だ。そのアナキズムは民衆の身体に宿る経験
主義の擁護として展開された。
上記「方法としてのアナキズム」でもスペイン革命について孫引きで触れており、短文ながら
読み応えがある。
ただし彼はプルードンについて知らないから(日本の近代アナキズム史はクロポトキン受容
の歴史だ)、アナキズムにおける経済的側面はその後深化しなかった。
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《アーウィング・ホロウィッツの『アナーキストたち』(一九六四年)とダニエル・ゲランの
『現代のアナーキズム』(一九六五年)とは、その後のアナキズムについて、もっとくわしく
ふれている。ゲランによれば、一九三一年のスペインの共和国宣言以後、「親戚の寄合い」と
呼ばれる自治の習慣の保護、直接民主制による村の運営の確認、自然崇拝と菜食主義と裸体
主義への好意の表現など、もとからあった社会習慣をはっきりさせて確認してゆく動きがあっ
たという。さらに、後に閣僚となったディエゴ・アバ・デ・サンティリアンの著書『革命の
経済組織』(一九三六年(*未邦訳))は、政治権力ではなくてたんなる調整機関、経済的行政
的な調節者の役を果たすべき経済連合議会の構想を明らかにしている。この評議会は、その
下部機関である(1)産業別部門の組合評議会、(2)経済地方評議会の両方に連合している工場評
議会からおおまかな指示をうける。この評議会にはつねに、経済の状況を知るための最新の
統計資料があたえられ、みずからの判断の基礎とされる。このようにして、サンティリアンは、
スペイン革命が、ロシア革命における革命政権の失敗からもマフノ運動の失敗からも多くを
まなんだ新しい構想をもつことができたという。しかし、ファシスト勢力との軍事闘争の中
で、スペインにたいするロシア共産党の指導は、一九二一年のソヴィエト・ロシアにおける
弾圧をもう一度ここで再生させ、やがてスペイン革命はファシスト勢力に敗れてゆく。》
「方法としてのアナキズム」『鶴見俊輔集9』(22頁)。より
『身振りとしてのアナキズム』iBooks他に再録。
鶴見俊輔(1922〜2015)はアナキストとして重要だ。そのアナキズムは民衆の身体に宿る経験
主義の擁護として展開された。
上記「方法としてのアナキズム」でもスペイン革命について孫引きで触れており、短文ながら
読み応えがある。
ただし彼はプルードンについて知らないから(日本の近代アナキズム史はクロポトキン受容
の歴史だ)、アナキズムにおける経済的側面はその後深化しなかった。
【生前退位】天皇陛下のお気持ち表明は10分間 自らの原稿読み上げ©2ch.net
1 :DQN ★ 転載ダメ©2ch.net:2016/08/05(金) 23:25:54.19 ID:CAP_USER9
宮内庁は5日、天皇陛下がお気持ちを表明したビデオメッセージを8日午後3時に公表すると発表した。天皇の位を皇太子さまに譲る考えを周囲に示していた天皇陛下が、象徴天皇としてのお務めについての考えを、自ら示す内容になるという。
ビデオメッセージの形式は、2011年3月の東日本大震災後に天皇陛下が国民にお気持ちを表明して以来2度目。宮内庁は「天皇陛下のお言葉、お気持ちが国民に確実、正確に分かりやすく伝わるのに一番ふさわしい方法」と説明した。
お気持ちは約10分間にわたり、天皇陛下が自ら用意した原稿をカメラに向かって読み上げるという。テレビ各局が放送する予定で、宮内庁のホームページでも見ることができる。
陛下が生前に皇位を譲るには皇室典範の改正が必要だが、憲法で天皇の政治的発言は禁じられている。そこで、退位などの表現は用いず、象徴天皇としての思いを表明する内容になりそうだ。英訳も宮内庁のホームページで公表されるという。
宮内庁の山本信一郎次長は5日、「陛下が国民一人一人にお話しされることになった。大変重いことだと思う」と説明。事前に表明の日時を公表した理由については「多くの方々に関心を持っていただきたいため」と話した。
お気持ち表明の日程をめぐっては、8月初旬に公表する案もあったが、すでに決まっていた公務のほか、広島、長崎の原爆の日にあたる8月6日と9日、全国戦没者追悼式の15日を避け、8日に決まった。リオ五輪開催中でもあり、競技日程と重ならない時間帯として午後3時に設定したという。
安倍晋三首相は8日中にも記者団の質問に答える形で、政府としての受け止めを示す方向で検討している。大島理森衆院議長と伊達忠一参院議長もそれぞれ、コメントを発表する方向で調整している。(島康彦、多田晃子)
朝日新聞:http://www.asahi.com/articles/ASJ852VVZJ85UTIL006.html
【皇室】天皇陛下のお気持ち表明、全文 ★4©2ch.net
http://daily.2ch.net/test/read.cgi/newsplus/1470639018/-100
【皇室】天皇陛下のお気持ち表明、全文 ★4©2ch.net
1 :Charlotte ★ 転載ダメ©2ch.net:2016/08/08(月) 15:50:18.89 ID:CAP_USER9
天皇陛下「お気持ち」表明 【全文】
日本テレビ系(NNN) 8月8日 15時47分配信
2
象徴としてのお務めについての天皇陛下お言葉
戦後七十年という大きな節目を過ぎ、二年後には、平成三十年を迎えます。
私も八十を越え、体力の面などから様々な制約を覚えることもあり、ここ数年、天皇としての自らの歩みを振り返るとともに、この先の自分の在り方や務めにつき、思いを致すようになりました。
本日は、社会の高齢化が進む中、天皇もまた高齢となった場合、どのような在り方が望ましいか、天皇という立場上、現行の皇室制度に具体的に触れることは控えながら、私が個人として、これまでに考えて来たことを話したいと思います。
即位以来、私は国事行為を行うと共に、日本国憲法下で象徴と位置づけられた天皇の望ましい在り方を、日々模索しつつ過ごして来ました。伝統の継承者として、これを守り続ける責任に深く思いを致し、更に日々新たになる日本と世界の中にあって、日本の皇室が、いかに伝統を現代に生かし、いきいきとして社会に内在し、人々の期待に応えていくかを考えつつ、今日に至っています。
そのような中、何年か前のことになりますが、二度の外科手術を受け、加えて高齢による体力の低下を覚えるようになった頃から、これから先、従来のように重い務めを果たすことが困難になった場合、どのように身を処していくことが、国にとり、国民にとり、また、私のあとを歩む皇族にとり良いことであるかにつき、考えるようになりました。既に八十を越え、幸いに健康であるとは申せ、次第に進む身体の衰えを考慮する時、これまでのように、全身全霊をもって象徴の務めを果たしていくことが、難しくなるのではないかと案じています。
私が天皇の位についてから、ほぼ二十八年、この間私は、我が国における多くの喜びの時、また悲しみの時を、人々と共に過ごして来ました。私はこれまで天皇の務めとして、何よりもまず国民の安寧と幸せを祈ることを大切に考えて来ましたが、同時に事にあたっては、時として人々の傍らに立ち、その声に耳を傾け、思いに寄り添うことも大切なことと考えて来ました。天皇が象徴であると共に、国民統合の象徴としての役割を果たすためには、天皇が国民に、天皇という象徴の立場への理解を求めると共に、天皇もまた、自らのありように深く心し、国民に対する理解を深め、常に国民と共にある自覚を自らの内に育てる必要を感じて来ました。こうした意味において、日本の各地、とりわけ遠隔の地や島々への旅も、私は天皇の象徴的行為として、大切なものと感じて来ました。皇太子の時代も含め、これまで私が皇后と共に行って来たほぼ全国に及ぶ旅は、国内のどこにおいても、その地域を愛し、その共同体を地道に支える市井(しせい)の人々のあることを私に認識させ、私がこの認識をもって、天皇として大切な、国民を思い、国民のために祈るという務めを、人々への深い信頼と敬愛をもってなし得たことは、幸せなことでした。
天皇の高齢化に伴う対処の仕方が、国事行為や、その象徴としての行為を限りなく縮小していくことには、無理があろうと思われます。また、天皇が未成年であったり、重病などによりその機能を果たし得なくなった場合には、天皇の行為を代行する摂政を置くことも考えられます。しかし、この場合も、天皇が十分にその立場に求められる務めを果たせぬまま、生涯の終わりに至るまで天皇であり続けることに変わりはありません。
天皇が健康を損ない、深刻な状態に立ち至った場合、これまでにも見られたように、社会が停滞し、国民の暮らしにも様々な影響が及ぶことが懸念されます。更にこれまでの皇室のしきたりとして、天皇の終焉に当たっては、重い殯(もがり)の行事が連日ほぼ二ヶ月にわたって続き、その後喪儀に関連する行事が、一年間続きます。その様々な行事と、新時代に関わる諸行事が同時に進行することから、行事に関わる人々、とりわけ残される家族は、非常に厳しい状況下に置かれざるを得ません。こうした事態を避けることは出来ないものだろうかとの思いが、胸に去来することもあります。
続く
http://headlines.yahoo.co.jp/videonews/nnn?a=20160808-00000065-nnn-soci
1の立った時間: 2016/08/08(月) 15:10:55.93
※前スレ
【皇室】天皇陛下のお気持ち表明、全文 ★3
http://daily.2ch.net/test/read.cgi/newsplus/1470638139/
2 :Charlotte ★ 転載ダメ©2ch.net:2016/08/08(月) 15:50:30.30 ID:CAP_USER9
>>1の続き
始めにも述べましたように、憲法の下、天皇は国政に関する権能を有しません。そうした中で、このたび我が国の長い天皇の歴史を改めて振り返りつつ、これからも皇室がどのような時にも国民と共にあり、相たずさえてこの国の未来を築いていけるよう、そして象徴天皇の務めが常に途切れることなく、安定的に続いていくことをひとえに念じ、ここに私の気持ちをお話しいたしました。
国民の理解を得られることを、切に願っています。
【皇室】「憲法は天皇陛下の生前退位を禁じていない。改憲議論は不要。法律改正で対応を」 共産・志位委員長 ★2©2ch.net
1 :かぜのこ ★ 転載ダメ©2ch.net:2016/08/09(火) 02:04:57.88 ID:CAP_USER9
【天皇陛下「お気持ち」】
共産党志位和夫委員長 記者会見全文 「憲法は生前退位を禁じていない」
共産党の志位和夫委員長は8日、天皇陛下が「生前退位」のご意向を示されたことを受け、党本部で記者会見し、
天皇制について「綱領上、その存廃については国民的な合意を得て決められるべきだということに留めている」と述べた。
志位氏の発言は以下の通り。
◇ (略)
Q.--今回の陛下のお言葉を受けた国会対応は基本的に法律改正などで、憲法改正について議論する必要はないという考えか
「それはそう思っております。日本国憲法でですね、生前退位を禁じているとか、そういうことは一切ありません。
私は日本国憲法に照らせば、これは1人の方が亡くなるまで、仕事を続けるというあり方は、これは見直すというのが日本国憲法の
根本の精神に照らせば、そういうことになるのではないかと考えております。ですからこれは、法律の問題だというのが私たちの理解です」
Q.--具体的にはどういうことか
「今言ったことに尽きます」
Q.--基本的人権の観点か
「やはり、人権、人間としての権利、これは広く保障されなければならないということです」
Q.--国会で共産党として議論に応じるということか
「もちろんです。政治の責任として生前退位についても真剣な検討が必要だと考えますと述べたわけですから、そういう方向で責任を
果たしていくということが今後必要になってくると思います。ただ、どういう段取りでね、あるいはどういう時間軸でやるかについては、
これは今何とも言えません。慎重な対応が必要だと思います。それから先ほども申しましたが、憲法4条のですね、政治権能を有しないという
この制限条項はしっかり守っていく必要が政治の側にも求められるわけですね。これは。ですからそこも良く考えて対応が必要になってくると思います」
(ソース全文はリンク先を参照してください)
http://www.sankei.com/politics/news/160808/plt1608080042-n5.html
前スレ [★1日時:2016/08/08(月) 22:55:02.94]
http://daily.2ch.net/test/read.cgi/newsplus/1470664502/
縲
IhAVpYrk0
大化 白雉 朱鳥 大宝 慶雲 飛鳥時代
和銅 霊亀 養老 神亀 天平 天平感宝 天平勝宝 奈良時代
天平宝字 天平神護 神護景雲 宝亀 天応 延暦
大同 弘仁 天長 承和 嘉祥 仁寿 斉衡 天安 貞観 平安時代
元慶 仁和 寛平 昌泰 延喜 延長 承平 天慶 天暦
天徳 応和 康保 安和 天禄 天延 貞元 天元 永観
寛和 永延 永祚 正暦 長徳 長保 寛弘 長和 寛仁
治安 万寿 長元 長暦 長久 寛徳 永承 天喜 康平
治暦 延久 承保 承暦 永保 応徳 寛治 嘉保 永長
承徳 康和 長治 嘉承 天仁 天永 永久 元永 保安
天治 大治 天承 長承 保延 永治 康治 天養 久安
仁平 久寿 保元 平治 永暦 応保 長寛 永万 仁安
嘉応 承安 安元 治承 養和 寿永 元暦 文治
建久 正治 建仁 元久 建永 承元 建暦 建保 承久 鎌倉時代
貞応 元仁 嘉禄 安貞 寛喜 貞永 天福 文暦 嘉禎
暦仁 延応 仁治 寛元 宝治 建長 康元 正嘉 正元
文応 弘長 文永 建治 弘安 正応 永仁 正安 乾元
嘉元 徳治 延慶 応長 正和 文保 元応 元亨 正中
嘉暦 元徳 元弘 正慶
建武 延元 暦応 興国 康永 貞和 正平 観応 文和 室町時代
延文 康安 貞治 応安 建徳 文中 天授 永和 康暦
弘和 永徳 元中 至徳 嘉慶 康応 明徳 応永 正長
永享 嘉吉 文安 宝徳 享徳 康正 長禄 寛正 文正
応仁 文明 長享 延徳 明応 文亀 永正 大永 享禄
天文 弘治 永禄 元亀
天正 文禄 慶長 安土桃山時代
元和 寛永 正保 慶安 承応 明暦 万治 寛文 延宝 江戸時代
天和 貞享 元禄 宝永 正徳 享保 元文 寛保 延享
寛延 宝暦 明和 安永 天明 寛政 享和 文化 文政
天保 弘化 嘉永 安政 万延 文久 元治 慶応
明治 大正 昭和 平成
【金利】公務員の定期預金の利率は破格の「2.46%」・・・50万円を10年預ければ利子が10万円超え、民間はたった597円にしかならず★4 ©2ch.net
1 :孤高の旅人 ★ 転載ダメ©2ch.net:2017/01/01(日) 03:59:02.64 ID:CAP_USER9
先週、訓練で陸自の朝霞駐屯地で5日間を過ごしました。駐屯地には福利厚生棟があり、コンビニや図書室、喫茶店や床屋が入っており、職員の憩いの場となっています。
そこの掲示板を見ていて驚きました。「定期貯金の利率2.46%」とあります。
自衛隊員のいわば社内預金にあたる共済組合貯金の利率は、普通貯金で0.99%、1年以上の預け入れが条件の定期貯金は2.46%です。
来年4月から下げるそうですが、それでも普通貯金で0.49%、定期貯金で1.23%と、銀行預金や民間企業の財形貯蓄と比べて破格の高利です。私はため息をつきました。
この冬のボーナスの使途についていろいろな機関が調査をしていますが、いずれもトップは預貯金という結果です。高齢化と財政・年金への不安から消費より貯蓄に向かうようです。
けれども、日銀のマイナス金利政策のおかげで利息はほとんどつきません。日銀統計で、今月20日にタンス預金が100兆円を突破したというニュースもありました。
今、銀行の定期預金の利率は100万円以下なら0.01%です。財形貯蓄なら少し高くて0.015%です(財形貯蓄の運用委託先大手の中央労働金庫の利率)。
例えば、50万円を10年預けた場合を比べてみましょう。自衛隊なら税引き後で60万9605円、利子分は10万円を超えます。民間の財形では50万597円、利子は1コイン程度にしかなりません。
なぜこんなに違うのでしょうか?
防衛省共済組合本部預金係に27日、電話で尋ねてみました。すると、「本部の業務は26日で終了したので、担当者が休みに入ってしまいわかりません」とお気楽な答えが返ってきました。
調べてみると、自衛隊だけではなく、国や自治体でも職員貯金の利率は超高利でした。許せない官民格差です。
http://www.nikkan-gendai.com/articles/view/news/196788
★1:2016/12/29(木) 08:15:36.62
前
http://daily.2ch.net/test/read.cgi/newsplus/1483050769/
【話題】小林よしのり氏 天皇が能力評価と無縁なら竹田恒泰氏でいい©2ch.net
http://hayabusa8.2ch.net/test/read.cgi/mnewsplus/1483918043/-100
【話題】小林よしのり氏 天皇が能力評価と無縁なら竹田恒泰氏でいい©2ch.net
1 : 鉄チーズ烏 ★@無断転載は禁止 ©2ch.net2017/01/09(月) 08:27:23.23 ID:CAP_USER9
天皇陛下の生前退位について、賛成、反対両陣営の“筆頭”である小林よしのり氏と八木秀次氏が150分の激論を交わした。
* * *
八木秀次:ご公務の問題ですが、今の国民は、被災地訪問をはじめとする天皇陛下の精力的な活動を深く理解し、感謝の念を持っていますよね。そこに私は危うさを感じる。というのも、天皇陛下は全身全霊で公務を務めてこそ天皇だとお考えになっていて、それができなくなるから退位を望まれている。すると国民は、今の皇太子殿下が即位した後も同じように精力的な活動を期待するでしょう。
しかし、同じことができるとは限らない。そのとき国民は前天皇と現天皇を比較して、能力評価する。そこで国民が対立して、権威が二分化することを私は懸念します。
小林よしのり:そんな対立は今でもあるよ。「今上天皇より昭和天皇のほうが良かった」という人もいれば、「いや明治天皇が一番だ」と思う人もいるでしょう。
だいたい、天皇が能力評価と無縁であるべきだというなら、竹田恒泰にやらせたっていいじゃない。彼が皇族になるのをみんなが拒絶するのは、人格や能力の点でダメだと思ってるからやろ? だから、国民が天皇を能力評価するのは仕方ない。それぞれの時代に能力を示して、国民がそれを信頼しないと皇位は安定しない。
ロボットじゃないんだから、普遍的な天皇像を押しつけるのは無理。皇太子殿下がどんな天皇になるかは未知数だけど、だからこそ、わしなんかは「どんな天皇像を作ってくれるのかな」とワクワクする。
八木:しかし天皇に退位の自由を認めると、即位の自由も認めることになるから、皇太子が即位を拒否することもあり得る。明らかに皇位は不安定化する。
天皇には「存在」と「機能」の両面があるが、天皇陛下は今回のお言葉で機能の部分を強調された。でも、機能の前提は存在です。今は皇位継承者が数人になり、その部分がきわめて不安定になっている。
退位と即位の自由を認めると、もともと不安定なものがさらに不安定化することになる。退位のための理屈づけが今の天皇陛下に限定されれば話は別かもしれないが、そういうわけにはいかないでしょう。
麗澤大学教授・八木秀次氏
小林:もし退位と即位の自由が否定されたら、天皇陛下や皇太子殿下は「なんでこんな立場を無理やり押しつけられるんだ」とモチベーションがゼロになるだろうね。自由意思も人権も否定されてロボット扱いされたら、人間なんだから気持ちが荒むよ。そのほうがよほど皇統を滅ぼすと思う。
この制度は、国民と天皇の相互信頼でしか成り立たない。わしは、天皇陛下が「もうやらない」とおっしゃるなら、共和制になっても仕方がないと思ってます。だから、不自由な制度であることは承知しながらも、やっていただいていることに感謝してるわけ。
続けていただくには、天皇陛下や皇太子殿下のモチベーションを損なわないようにしなければいけない。あなたも、もっと天皇陛下を信じるべきだよ。なんでそんなに猜疑心を持って弓を引くの? それじゃ逆賊だよ?
八木:逆賊じゃないですよ。たしかに当事者にとっては不自由な制度ですが、そのことによって制度そのものが安定する設計になっているんです。天皇陛下のお気持ちに沿えないのは心苦しいが、退位を実現すると天皇の存在自体を危うくしてしまう。それによって結果的に陛下を傷つけてしまうことを恐れているんです。
小林:とはいえ、もはや政治的には退位を実現するしかないわけだから。
八木:その理屈が立たないから困ってる。共産党をはじめとする左翼が退位に賛成してますが、彼らは憲法上疑わしい状態になるのを待ってるんです。皇太子殿下が即位した瞬間に手の平を返して「この即位は憲法上、正統性に問題あり!」と騒ぎ出すかもしれない。
小林:そうならないために理屈を考えるのが、あなたの役割でしょう。うまい理屈を立ててあげなさいよ。そうしたら少しは尊敬するから(笑)。
【PROFILE】こばやし・よしのり/1953年生まれ。『おぼっちゃまくん』でギャグ漫画に新風を巻き起こす。現在、本誌にて『大東亜論 自由民権篇』を連載中。今年2月下旬に刊行予定の『天皇論 平成29年』を鋭意執筆中。
【PROFILE】やぎ・ひでつぐ/1962年生まれ。早稲田大学法学部・同大学大学院法学研究科修士課程を経て、同大学大学院政治学研究科博士課程を中退。専門は憲法学。昨年11月、「天皇の公務の負担軽減等に関する有識者会議」で八木氏にヒアリングが行われた。
※構成/岡田仁志(フリーライター)
※SAPIO2017年2月号
2017.01.09 07:00
http://www.news-postseven.com/archives/20170109_479761.html?PAGE=1
【森友】交渉時のデータ消去へ 財務省がシステム更新©2ch.net
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1むぎとろ納豆 ★@無断転載は禁止 ©2ch.net2017/06/03(土) 01:52:54.37ID:CAP_USER9
今回、財務省が更新したシステムは2013年1月から使用していたもの。学園が国有地取得要望書を提出した同年9月から、学園に国有地を売却した昨年6月までの全期間で使われていた。職員に貸与されていたパソコンも一斉に更新された。
システムや職員のパソコンには交渉記録などのデータが物理的に残っている可能性があり、野党は保存の必要性を指摘。「犯罪捜査でも消去したデータの復元を行っている。このまま更新したら国民から隠蔽(いんぺい)と思われる」(民進党の高井崇志氏)などと更新の凍結を求めた。しかし、財務省は見直しを拒否した。
NPO「情報クリアリングハウス」は財務省と近畿財務局が持つ関連電子データの証拠保全を東京地裁に申し立てたが、先月31日に却下された。財務省はNECに7月31日までの物理的な消去を求めている。同NPOは「(裁判所の)決定は法の趣旨を誤解している」として、週明けに抗告する方針だ。
一方、民進、共産両党は2日、国有財産売却などの手続きに関する透明性を確保する狙いから、各省庁に関連する情報開示を義務づける国有財産法改正案を共同で参院に提出した。(南彰、中崎太郎)
http://www.asahi.com/articles/ASK625VXNK62UTFK015.html
【SAPIO】沖縄が日本から独立する可能性は十分にありえる [無断転載禁止]©2ch.net
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1ニライカナイφ ★2017/08/12(土) 09:05:35.75ID:CAP_USER9>>24>>33>>50>>73>>83>>89>>90
1990年代は、生々しい戦争の記憶を持つ世代がまだ多く存命していた。
だからこそ、唯一の陸上戦を強いられた沖縄の苦しみにも思いが至り、本土もそれに向き合えた最後の時代だった。
思想史研究家の片山杜秀氏と、元外交官・作家の佐藤優氏が、1990年代を振り返りながら、沖縄の問題に向き合った。
片山:終戦から50年が過ぎた1995年9月、沖縄米兵少女暴行事件(※1)で、戦後の日米関係のひずみが浮き彫りになりました。
【※1/1995年9月4日、米兵3人が12歳の女子小学生を拉致、暴行した事件。
沖縄県警に身柄引き渡しを求められた米軍は日米地位協定を理由に拒否した】
当時はまだ本土の人たちは、防衛の最前線として大きな犠牲を強いた沖縄に対する負い目を共有していた。
終戦時20歳だった人は70歳。30歳なら80歳。生々しい記憶が刻まれていました。
しかし、その後は急激に世代交代が進む。記憶がどんどん薄らいで今日に至っているように感じます。
佐藤:沖縄と本土の関係の変化は、昨年4月に起きた米軍の軍属による強姦殺人事件(※2)を振り返ると分かりやすい。
1995年の暴行事件とは、本土での世論のハネ方がまったく違った。
強姦殺人という凶悪事件なのに本土の反応はとても冷ややかでした。
【※2/2016年4月28日、うるま市で20歳の女性が元米海兵隊員で軍属の男に殺害された。5月19日、殺人や強姦致死などの罪で男を逮捕】
片山:それだけ本土と沖縄の距離は離れてしまったと言えますね。
しかしそんな状況で、沖縄を繋ぎ止めようと今上天皇は沖縄と向き合い続けてきました。
佐藤:私は今上天皇と皇后が琉歌を詠んでいることに注目しているんです。
琉歌の基本形は、本土の短歌や俳句の定型である五七調や新体の七五調とは違う八・八・八・六。
今上天皇はリズムが異なる琉歌を一生懸命に学び、沖縄について必死に勉強している。
そうしないと沖縄が理解できない。
片山:言語学者の服部四郎は日本語を本土の日本語と南方の日本語に分けていたと思います。
後者は琉球語でしょう。
方言ではなく同系の対等な日本語同士なのですね。
つまり対等の兄弟と見なくてはいけない。
ところが明治以後、本土は沖縄を帝国主義的に植民地のように扱った。
単に辺境の遅れた地域と見ていた。
しかし、やがて南方進出が叫ばれ、「大東亜共栄圏」のイメージへと発展する過程で、沖縄は地政学的な重要拠点と位置づけられ直していった。
そのクライマックスが沖縄戦です。
この歴史を記憶していれば今のように本土は振る舞えないでしょう。
ひたすらひずみを引き受けさせてきた不遇の兄か弟が沖縄なのですから。
でも、歴史は忘却される一方のようで。
佐藤:基地を巡る状況も大きく変わっています。
安倍政権は辺野古の海に土砂を投入すれば、沖縄は抵抗を諦めると考えている。
一方の沖縄では、いまは我慢して100年後に基地を壊して原状回復してやるというくらいの気持ちで抵抗を続けている。
沖縄出身の芥川賞作家・大城立裕さんが「辺野古遠望」という小説で、抵抗することは我慢することなんだ、と書いている。
そんな思いが沖縄の人たちに内在する分離独立気運につながっています。
片山:しかし安倍政権にその連鎖は見えていない。短期的な結果を求めるから中長期的な視野が持てない。
佐藤:そうなんです。
今後、沖縄が日本から独立する可能性は十分にありえるでしょう。
私は平成という時代がそのプロセスになると見ているんです。
http://www.news-postseven.com/archives/20170811_601538.html?PAGE=1#container
天皇陛下 沖縄 『琉歌四十首のノート』 |保守宣言 デモまとめ 逆襲の日本行くぞ!!
http://ameblo.jp/hosyuyamato/entry-11135717911.html
以前読んで感動した記事をご紹介致します。
これと併せて、沖縄縣護國神社の社報もご覧下さい。
沖縄県護国神社 社報 うむい十号
天皇陛下御即位二十年奉祝記念号 pdf
http://www.okinawa-gokoku.jp/UserFiles/File/umui/No10umui.pdf
----------------
2008年7月号 諸君!掲載
外間守善先生『琉歌四十首のノート』より抜粋
1975年(昭和50年)、沖縄国際海洋博覧会で両殿下(当時)が沖縄を初めて訪問されることになったある日、私は東宮御所に呼ばれ、尋ねられた。「戦没者鎮魂のため南部戦跡を訪ねたいのですが、外間さんはどう思いますか」と。当初の予定には、博覧会場だけで南部戦跡は入っていなかった。これには宮内庁も博覧委員会も大反対で、一人で悩んでおられたようだ。南部戦跡が日程に入ることになったのには、殿下の強いご意志があったのである。
出発の前日には、殿下が自ら「談話」との一文を書かれた。私は英訳担当の学者と二人、東宮御所で深夜まで検討を重ねた。
帰り際に私が「何が起こるかわかりませんから、ぜひご用心して下さい」と申し上げたところ、殿下は静かに「何が起きても、受けます」とおっしゃった。並々ならぬご決意が伝わってきた。
(中略)
沖縄から帰られてすぐに殿下から「琉歌になりますか」と二首の歌を見せられた。
ふさかいゆる木草 めぐる戦跡
くり返し返し 思ひかけて
花よおしやげゆん 人知らぬ魂
戦ないらぬ世よ 肝に願て
無名戦士の塔に詣でて、戦争のない世界を祈願なさったであろう両殿下のお姿が髣髴として私には万感胸にせまる思いがあった。摩文仁の戦跡地を巡られた思いを「くり返し返し思ひかけて」と結句されたのは、殿下の悲痛なご心中の飾りのない表白であったのだろと推察した。「くり返し返し」という表現は、琉歌世界の慣用句になっているものではあるが、殿下は「私の実感として、どうしても『くり返し返し』『思ひ』をかけたいのです」とおっしゃった。木や草がふさふさと繁っているさまを沖縄方言ではフサケーユンという。それを古典的琉歌語で「ふさかいゆる」と表現なさったことも殿下がご自身で選ばれた用語であり、古典琉歌の作法通りの表現である。いつのまにそのような琉歌語を学ばれたのであろうかと私は不思議に思ったが、ふとした折にそれらの謎が氷解したことがある。しばらく後のことであるが、殿下が、ご自身の実感にふさわしい言葉の選択に難渋なさった時に、やおらノートを取り出されたことがある。なんとそのノートには琉球国王の詠んだ琉歌が四十数種、びっしりと書きこまれていた。殿下ご自身でノートなさったものだということであった。琉歌の意味と用字用語、表記法の規範は、国王の琉歌にあるというご明察があったからのご学習だったのであろう。それにしても、三千余首の中から国王の琉歌を選り抜かれて、ノートに書き綴る殿下のご学習には頭のさがる思いだった。
----------------ここまで
天皇陛下がお詠みになった琉歌「ふさかいゆる木草~」は沖縄全戦没者追悼式前夜祭で「瓦屋節」(からやーぶし)という琉球古典音楽にのせて毎年献奏されています。
キャンドルで「平和」祈る きょう慰霊の日
ふさかいゆる木草 めぐる戦跡
くり返し返し 思ひかけて
フサケユルキクサ ミグルイクサアトゥ
クリカイシガイシ ウムイカキテイ
生い茂っている千草の間を巡ったことよ 戦いの跡に
くり返し思いをはせながら
花よおしやげゆん 人知らぬ魂
戦ないらぬ世よ 肝に願て
ハナユウシヤギユン フィトゥシラヌタマシイ
イクサネラヌユユ チムニニガティ
花を捧げます 人知らぬ御霊に
戦いのない世を心から願って
$保守宣言 デモまとめ 逆襲の日本行くぞ!!
追記
【沖縄】天長節奉祝パレードin那覇 (2012.12.23)
http://youtu.be/HyvwtVzhCCM
・チーム沖縄 天長節奉祝パレードのご報告
天皇弥栄
すめらみこといやさか
$保守宣言 デモまとめ 逆襲の日本行くぞ!!
<実行委員挨拶:仲村俊子>
http://blog.goo.ne.jp/jiritsukokka/e/db962cf09ea4dfdd3d21d120a75636e8
本日は、天皇誕生日おめでとうございます!私は満90歳になりました。生きていてよかったと思います。
それには2つ理由があります。
その一つが、天長節奉祝パレードin那覇の実行委員会が立ち上がり、私は戦後はじめて奉祝パレードに参加する事ができたことです。
2つ目がその実行委員会を立ち上げたのが若い青年たちであることです。
私にとって、一番うれしいのは若い人たちが立ち上がってくれたことです。
沖縄の未来に明るい光が見えた感じで喜びの心でいっぱいです。
うれしくてたまりません。それで馳せ参じでまいりました。
私は今、日本人に生まれてよかったと思って居ります。
皆さんもおわかりのように、東日本大震災の様な苦難があった時でも日本人は、秩序正しく思いやりの心を忘れず暴動が起きるようなこともなく、世界中の人々が感動していると伝えられています。
その優れた國民性が培われたのは皇室のお陰であると思って居ります。
万世一系のご皇室が代々にわたって國民の幸せを神様に祈り続けてくださったお陰と心から感謝申し上げております。
私たちが先月の豊かな海づくり大会で天皇、皇后両陛下を拝して自ら涙があふれて来たのが何よりの証だと思います。
このような国は、世界中を見渡してもどこにもないと思います。
今日は、天皇陛下の79歳の誕生日でございます。心からご皇室の弥栄を願い、天皇陛下に心からの感謝を込めてパレードを行いたいとおもいます。皆さんよろしくお願い致します。
天皇陛下 沖縄 『琉歌四十首のノート』
http://ameblo.jp/hosyuyamato/entry-11135717911.html
沖縄県護国神社 社報 うむい十号
天皇陛下御即位二十年奉祝記念号 pdf
http://www.okinawa-gokoku.jp/UserFiles/File/umui/No10umui.pdf
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2008年7月号 諸君!掲載
外間守善先生『琉歌四十首のノート』より抜粋
1975年(昭和50年)、沖縄国際海洋博覧会で両殿下(当時)が沖縄を初めて訪問される
ことになったある日、私は東宮御所に呼ばれ、尋ねられた。「戦没者鎮魂のため南部
戦跡を訪ねたいのですが、外間さんはどう思いますか」と。当初の予定には、博覧会場
だけで南部戦跡は入っていなかった。これには宮内庁も博覧委員会も大反対で、一人で
悩んでおられたようだ。南部戦跡が日程に入ることになったのには、殿下の強いご意志が
あったのである。
出発の前日には、殿下が自ら「談話」との一文を書かれた。私は英訳担当の学者と二人、
東宮御所で深夜まで検討を重ねた。
帰り際に私が「何が起こるかわかりませんから、ぜひご用心して下さい」と申し上げたところ、
殿下は静かに「何が起きても、受けます」とおっしゃった。並々ならぬご決意が伝わってきた。
(中略)
沖縄から帰られてすぐに殿下から「琉歌になりますか」と二首の歌を見せられた。
ふさかいゆる木草 めぐる戦跡
くり返し返し 思ひかけて
花よおしやげゆん 人知らぬ魂
戦ないらぬ世よ 肝に願て
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