ソレルは国家の強制力(force)に対抗し、個人の自由と権利(droit)を擁護するための、下からの暴力(violence)を主張した。
Georges Sorel
1847~1922
そこには『暴力論』の付録でも言及されているプルードンの『戦争と平和』(トルストイの小説ではない〜とはいえトルストイの小説の題名自体がプルードンからの影響だという説もある〜)の影響があると思われる。
プ
ルードンは国家の強制力または権力(force)に対し市民の権利(droit)を必然的な二項として付随させるので、暴力とは言っていない。『戦争と平
和』の後半部ではむしろエンゲルスが抜き書きしたように経済学的な分析に戦争の原因と回避方法を見つけているからだ(「戦争の恒久的な根本原因は(略)貧
窮である。」大月書店マルエン全集補巻第四巻p129)。
それは端的に言えば「戦争の動機を欲望から必要へ移す」(邦訳『戦争の機械』ダニエル・ピック.p61)ということだ。
た
だし、ダニエル・ピックの文脈では戦争を社会の内在的な力として両義的にとらえた『戦争と平和』の前半部にプルードンの面白さがあるということになる。そ
れは端的にはソレルのような下からの暴力の肯定になるし、後述するドゥルーズのような「戦争機械」の欲望の流れを平滑空間に解き放つ(=不在の民衆に取り
戻す)ことを意味する。
好戦的なものとして誤解されることもあるが、プルードンの真意は、暴力に基礎づけられた国家それ自体を疑問にふすことなくして戦争を止めることは出来ないというものだが、そのことは貧困をなくさずに「暴力」をなくすことは出来ないということでもある。
中上健次は、在日作家のつかこうへいによるインタビューで以下のように語っている。
「俺、
それまで大江健三郎の影響をものすごく受けていて、戦後民主主義の路線にとらわれていた。そうなんだ、平和と民主主義をほとんど鵜呑みという感じでね。そ
れが、あの一〇・八でゲバ棒を持ったとき、一八〇度転換した。無茶苦茶に殴りかかってくる機動隊に対して、自衛のために棒を持ったわけだろう。その棒一本
で、完全に大江健三郎の言ってることなんかが引っくり返った。
要するに、暴力に対してどう思うか、暴力をどんなふうに位置づけるかということなんだ。
それで、いろんな本を読んだよ。その中で、なるほど、これじゃないかと思ったのがフランツ・ファノン。暴力には二種類ある。権力をフォルスと言う、それに
対して抑圧された者が押し返す力をバイオレンスと言う。これが暴力なんだとファノンは言うわけね。だから、暴力というのは、弱い人間にふるうものとは違う
んだ。弱いからこそ打ち返すんだという暴力論が、俺たちの間で信念となっていた。
目がさめた気がしたね。あっこれなんだと思ったんだよ。それで
俺は大江を超える、大江の文学論からの呪縛を超える。それは同時に、戦後民主主議を超える論法を身につけることなんだ。そうすると、俺は自前で考えなく
ちゃいけない。それで、二十二ぐらいのときに初めて、自前でものを考えるということが出てきた。
そうだね。その頃、すでに書き始めていたから、
そういう考え方はぴったり俺の書くものにくっついている、そうだろう。しょっちゅう機動隊に殴られていたんだよ、それまで。それで自衛のために棒を持って
打ち返した。そのとき、打ち返さなくちゃいかんという」論法に転換したんだよ。」
(つかこうへいによるインタビュー。『中上健次発言集成5』p138-9、及び『現代文学の無視できない10人』所収)
中上はソレルとファノンを混同しているが主旨はよく分かる。
ソレルの時代から大分経つが、日本において状況はそれほど変わっていないのだ。
かつてトルストイはプルードンから歴史が一人の英雄ではなく民衆によって創られると言う集合力理論を得たとするなら、ソレルはもっと根源的な力(violence)をプルードンの理論から読み取った。
プルードンからソレルへ受け継がれた思考は、誤解を含みながらも間接的に、日本の被差別部落出身の作家にまで影響を及ぼしていると言えるが、それをプルードンの誤読に起因するものとして断罪することは出来ないだろう。
差別や貧困を生み出し続けている資本主義というシステムがまだ作動し続けているからだ(先の金融危機はトカゲの尻尾切りにすぎない)。
特に後年の中上健次は、ソレルの暴力論に飽き足らず、むしろ一本の木材(ゲバ棒ではない〜中上は材木業を題材にしたのだ)を描写することで『資本論』と同じことを小説において構造的に行おうとしていたのだから、、、、
さて、ドゥルーズなどはプルードンの「戦争の動機を欲望から必要へ移す」思考法を、その1968年からの非転向故に受け継いでいないかのように見える。ドゥルーズは何よりも欲望の人だからだ。
それでもその思考法にプルードンの決して揚棄されない二項の変奏と、内在的なセリーの展開の系譜を見出せるのは、(政治哲学がすすんでいたがゆえにドイツよりも「哲学の貧困」が現象としてみられたフランスにおける風土的なものだとしても)偶然ではないだろう。
追記:
プルードン『戦争と平和』フランス語版は以下で読むことができる。
http://books.google.co.jp/books?id=mr7K5V6A3iEC
邦訳がないので仏文のままざっとみわたすと(検索可能)、「暴力」は虐待と同列に使われたりすることからわかるようにポジティブには扱われていない。
以下同書p206より
「力の法が義務だとする間違いを法律家は犯した(略)その間違いの原因は、彼らが暴力と虐待の強さは理解しても、正義の進歩を認めることができずに、(略)自由と権利の喪失が力の単純な法への回帰をもたらすという以外のものの見方が出来なかったからである。」
(原文は以下。自信がないのでどなたか正確な日本語訳をお願いします。)
"Ce
qui a causé l'erreur des juristes à l'égard du droit de la force, c'est
que ce droit était, pour ainsi dire, masqué sous l'épaisse ramure des
droits de toute sorte qui avaient poussé sur ce tronc antique; c'est
qu'ils n'ont compris de la force que la violence et l'abus; c'est
qu'enfin, comme ils n'avaient pas su reconnaître dans le progrès de la
justice une sorte de développement et de différenciation du droit du
plus fort, de même, aux époques de décadence et de dissolution, ils
n'ont pas su voir non plus que la perte des libertés et des droits était
un retour au droit simple de la force."
また、ソレルの問題意識から、そこに暴力よりも法の力を読み取った系譜として、ベンヤミン、デリダがいる。デリダに関しては
以前このブログで触れたことがある。
2 Comments:
戦争機械は柄谷の言う二種類の遊動性のうち国家に依存したものとして批判されうる
「力の法則に関して法学者の過ちを引き起こしたのは、この権利がいわばこの古代の幹で成長したあらゆる種類の権利の厚い先例の下に隠されていたということです。 なぜなら彼らは強さを暴力と虐待としてしか理解していないからです。なぜなら彼らは最終的には正義の進展においてある種の発達と差別化を認識することに失敗したからです。 同様に、崩壊と解散の時代の最強の法則から、彼らはまた、自由と権利の喪失が単純な権力への回帰であることを理解することができなかった。」
コメントを投稿
<< Home