http://www.freeassociations.org/
NAMs出版プロジェクト: 歴史学:インデックス
http://nam-students.blogspot.jp/2013/04/blog-post_22.html構 成 | |
『史記』とは? | 中国最古の紀伝体の歴史書。 |
十二本紀 | 五帝、夏、殷、周、秦、秦始皇、項羽、高祖、呂后、孝文、孝景、孝武。 |
十表 | 三代(世表)、十二諸侯、六国、秦楚之際(月表)、漢興以来諸侯、高祖功臣侯者、恵景間侯者、建元以来侯者、建元已来王子侯者、漢興以来将相名臣。 |
八書 | 礼、楽、律、暦、天官、封禅、河渠、平準。 |
三十世家 | 呉太伯、斉太公、魯周公、燕召公、管蔡、陳杞、衛康叔、宋微子、晋、楚、越王句践、鄭、趙、魏、韓、田敬仲完、孔子、陳渉、外戚、楚元王、荊燕、斉悼恵王、蕭相国、曹相国、留侯、陳丞相、絳侯周勃、梁孝王、五宗、三王。 |
七十列伝 | 個人の伝記。 |
『史記』は本紀12巻・表10巻・書8巻・世家30巻・列伝70巻の計130巻から成っている。黄帝を初めとする五帝から夏・殷・周の三代、秦、漢楚抗争期を経て前漢の武帝までの歴史を著述した通史である。『漢書』以後の正史はみな一代の王朝のみを扱った断代史となったが、本紀と列伝を中心とする紀伝体の形式は以後も受け継がれた。
1.本紀
五帝から漢の武帝までの帝王の記録。各王朝ごとの政治的事件を年代順に記した部分である。また漢以後は皇帝一代ごとに巻を改めている。殷周の戦いなど太古の歴史については、主に『書経』を引用して著述が為されている。始皇帝以前の秦の歴史を記した秦本紀を置き(本来は諸侯の歴史を記した世家に入れるべき内容である。)、五年の覇権しか持ち得なかった項羽の事跡を記した項羽本紀を設け、そして呂后本紀を置いて恵帝や少帝の事跡もそこに含ませたのが変則的で、それについては古来議論が行われ、その正否が問われてきた。
秦本紀や項羽本紀を挿入したのは、周から秦、秦から前漢に移る過渡期の歴史を読者がより良く理解出来るようするための処置であると考えられている。また呂后本紀を置いたのは、恵帝から二人の少帝の時代は呂后を始めとする呂氏一族が実権を握っていたからである。当時の一般的な認識からも、恵帝本紀や少帝本紀を置くよりも、呂后本紀を置いた方が自然とされていたのであろう。
2.表
表は太古の王朝の系譜・東周期や漢代の諸侯の年表・漢王朝の官吏の在職年表等を記した部分である。名称の通り、内容を表にまとめて一覧出来るようになっている。
3.書
書は音楽・天文・治水・経済など古代の文化史・制度史をまとめた部分である。礼・楽・律・暦・天官・封禅・河渠・平準の八つに分かれている。ちなみに書は『漢書』以降の正史では、志と呼ばれるようになった。
4.世家
周代から前漢に至る諸侯の国の歴史を、本紀と同様に編年的に記している。呉太伯世家・斉太公世家などの周代の封建諸侯の歴史を著述した部分と、留侯世家・蕭相国世家などの漢王朝の功臣や王族の伝記を書いた部分とに分かれている。前者は『春秋左氏伝』と共通のエピソードが多く、特に春秋時代の部分は『左伝』のダイジェストとの印象を受ける。後者の内容は列伝とあまり変わりが無い。事実、漢王朝の功臣で諸侯となった者でも、韓信のように後に謀反人として処刑された者の伝記については、淮陰侯列伝など列伝の部に入れられている。
また孔子や陳勝・呉広らの伝記も世家に分類されている。彼らの伝記は本来なら列伝に入れるべきなのだが、司馬遷は彼らの果たした歴史的な役割を鑑みて世家に分類したのである。
5.列伝
列伝は個人の伝記を集めた部分で、その個人の生涯を通して社会的・文化的な様相を描き出している。いわば政治史を追った本紀・世家を内容的に保管する役目を持っている。
列伝は商君列伝・孟嘗君列伝など基本的に1人の伝記を記した単伝、管晏列伝・孫子呉起列伝など2~3人の同じ類型に属する人物の伝記を集めた合伝、そして酷吏列伝・貨殖列伝・游侠列伝など同じグループに属する人々の伝記を集めた類伝の3つに分かれる。中でも光彩を放っているのが、循吏・儒林・酷吏・游侠・佞幸・滑稽・貨殖といった類伝の部分である。また列伝部分の記述には、司馬遷が遊学中に得た体験なども盛り込まれており、(孟嘗君列伝の末尾、司馬遷が孟嘗君の領地であった薛について述べた箇所など)本紀や世家以上に多様な史料を用いて著述したことを想像させる。
司馬遷の父・司馬談は、『史記』を著述することにより天人相関説(天が常に人間の行いを監視し、良い行いをした者には福徳を下し、悪い行いをした者には罰を与えるという因果応報の思想。)を人間の歴史の中から明らかにしていくという構想を持っていたとされる。事実、例えば戦国時代の秦の武将・白起の伝記を扱った白起王翦列伝では、白起が趙との長平の戦いで降伏した敵兵40万人を結局騙して生き埋めにしてしまったことが天の怒りに触れ、結局白起自身も無実の罪で死ぬことになったと書かれている。ここでは悪業を行うといずれ天からその罰が与えられるという因果応報の法則が明らかにされているわけである。
ところが伯夷列伝では、伯夷・叔斉の兄弟や孔子の弟子であった顔回のような賢者が貧困の中で不本意な死を遂げたこと、それとは逆に盗蹠(とうせき)のような大泥棒が天寿を全うしたことを挙げ、「天道是邪非邪」(天道は是か非か?)と、天人相関説に対して疑問を投げかけている。これは言うまでもなく司馬遷が宮刑を受けたことが影響している。司馬談と司馬遷の天命に対する見方には、少しくズレが存在するわけである。
史記 - Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/史記『史記』(しき)は、中国前漢の武帝の時代に司馬遷によって編纂された中国の歴史書である。正史の第一に数えられる。二十四史のひとつ。計52万6千5百字。著者自身が名付けた書名は『太史公書』(たいしこうしょ)であるが、後世に『史記』と呼ばれるようになるとこれが一般的な書名とされるようになった。「本紀」12巻、「表」10巻、「書」8巻、「世家」30巻、「列伝」70巻から成る紀伝体の歴史書で、叙述範囲は伝説上の五帝の一人黄帝から前漢の武帝までである。このような記述の仕方は、中国の歴史書、わけても正史記述の雛形となっている。
二十四史の中でも『漢書』と並んで最高の評価を得ているものであり、単に歴史的価値だけではなく文学的価値も高く評価されている。
以下は初出を特記しない限り『史記』を原拠とするものである。([#]は横山光輝漫画電子書籍版)
諸子百家争鳴 - 史記(しき・太史公書) 130巻12本紀10表8書30世家70列伝 - 司馬遷(しば・せん) -
http://www.sunrain.jp/zhuzi_baijia/shiji.html嚢中の錐 - 故事ことわざ辞典[#6:1]
http://kotowaza-allguide.com/no/noutyuunokiri.html
嚢中の錐とは、すぐれた人物は、多くの人の中にいても自然に才能が現れ、目立つものだということのたとえ。
【嚢中の錐の解説】
【注釈】 「嚢」とは、袋のこと。
袋の中に入れた錐は、その先端がおのずと袋の外に突き出て目立つことから。
『史記・平原君伝』に「夫れ賢士の世に処るや、たとえば嚢中の錐に処るが若し」とあるのに基づく。
【出典】 『史記』
【注意】 -
【類義】 錐の嚢中に処るが如し/錐、嚢を通す/紅は園生に植えても隠れなし
【対義】 -
【英語】 -
【用例】 「彼は嚢中の錐だ。間違いなく大成するだろう」
中国では、当初は『春秋』のように編年体の史書が一般的であったが、司馬遷の著した『史記』(前91年成立)以来、紀伝体が盛んに行われるようになった。史記を継いで前漢王朝一代の歴史書とした班固の『漢書』からは王朝ごとに時代を区切った紀伝体の史書(いわゆる「断代史」)の体裁が流行した。しかし、「史記」「漢書」をはじめ、西晋の陳寿が書いた『三国志』(280年成立)、宋の范曄が書いた『後漢書』、梁の沈約が書いた『宋書』など、当初の紀伝体史書はみな個人の撰であった。
唐に至って、歴史書を編纂する事業は国家の事業となり、『晋書』『梁書』『陳書』『周書』『隋書』などが次々と編纂され、これまでの紀伝体の史書のうち史記や漢書、三国志などとあわせて「正史」とした。これらは北朝の系譜に連なる唐の編纂であるが故に、晋朝の後継国である南朝よりも、むしろ北朝の諸王朝を正統として扱う傾向があったといわれる。こうして唐以降、正史は王朝の支配の正統性を明らかにする道具となり、王朝が成立すると滅亡した前王朝の正史を編纂させるようになった。このため、正確さよりも政治的思惑が最優先されて歴史書としての価値は大きく損なわれる事になった。
唐代以降は、正史が編纂される手法も確立される。朝廷内で皇帝に侍る史官が、皇帝および国家の重大事を記録する「起居注」を蓄積し、皇帝が崩御すると、代ごとに起居注をまとめた「実録」が編纂される。王朝が滅んだ際には次に正統を継いだ王朝が国家事業として、前王朝の皇帝ごとの実録を元に正史を編纂する、というのが大まかな手順である。このため、たとえば正史の「明史」よりも「明実録」の方が記録は詳細に残されている。史料としては、実録が1次史料、正史が2次史料ということになるが、どちらがより真実に近いかはそれぞれの史料によって異なる。
清のとき、二十四書が正史として再度選ばれ、「二十四史」と呼ばれるようになったので、中国の正史といえば普通二十四史を指す。二十四史に、中華民国期に編纂された『新元史』や『清史稿』を含めて「二十五史」あるいは「二十六史」という呼び方も見られる。また、台湾国民政府によって、正史としての『清史』(実際は『清史稿』の改訂)が編纂されたが、中華人民共和国政府はこれを認めていない。中華人民共和国は国家清史編纂委員会を立ち上げ、独自の『清史』を2002年より編纂中。当初は2013年の完成を予定していたが、内容に万全を期すため、完成は2015年に先送りされた。
三年。章邯等。將其卒圍鉅鹿。楚上將軍項羽。將楚卒。往救鉅鹿。冬趙高為丞相。竟案李斯殺之。夏章邯等戰數却。二世使人讓邯。邯恐使長史欣請事。趙高弗見。又弗信。欣恐亡去。高使人捕追不及。欣見邯曰。趙高用事於中。將軍有功亦誅。無功亦誅。項羽急撃秦軍虜王離。邯等遂以兵降諸侯。八月己亥。趙高欲為亂。恐群臣不聽。乃先設驗。持鹿獻於二世曰。馬也。二世笑曰。丞相誤邪。謂鹿為馬。問左右。左右或默。或言馬。以阿順趙高。或言鹿者。高因陰中諸言鹿者以法。後群臣皆畏高。
三年、
楚の
冬、
夏、
趙高、
高、人をして
趙高、事を
将軍、功有るも誅せられ、功無きも亦た誅せられん、と。
項羽、急に秦軍を撃ち、
八月
乃ち先づ験を設け、鹿を持して二世に献じて曰く、
馬なり、と。
二世笑ひて曰く、
丞相誤れるか。
鹿を謂ひて馬と為す、と。
左右に問ふ。
左右或ひは黙し、或ひは馬と言ひ、以て趙高に
或ひは鹿と言ふ、高因りて
後、群臣皆な高を畏る。
二世皇帝の三年、章邯等は兵を率いて
楚の上将軍である項羽は楚の兵を率いて救援に向かい、これを撃破した。
冬、趙高は丞相と為り、ついに李斯を謀殺した。
夏、章邯等は項羽と戦闘して度々敗れた。
二世皇帝は人を遣わして章邯を非難した。
章邯は恐れ、長史の司馬欣を使者にして事情を訴えようとした。
趙高は司馬欣に会うことなく、また信じることもなかった。
司馬欣は趙高を恐れて逃亡した。
趙高は追っ手を差し向けたが及ばず、司馬欣は章邯の元に戻って言った。
趙高は全てを自分の思うがままに執り行っています。
将軍は功を為しても誅殺され、功が無くても誅殺されることになるでしょう、と。
項羽は急進して秦を攻め、
章邯等はついに手勢を率いて降伏した。
八月
群臣が自分に従うか心配した趙高は、一計を案じ、鹿を引いて二世皇帝に献じて言った。
馬です、と。
皇帝は笑って言った。
丞相は何を言っているのだ。
鹿を指して馬と為している、と。
そして左右に尋ねた。
ある者は黙して答えず、ある者は同調して馬といい、趙高を恐れて曲従した。
中には鹿と答えた者も居たが、趙高はこれを法に引っかけて罪に陥れた。
これより後、群臣の誰もが趙高に恐怖した。
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横山光輝の『史記』で学ぶ故事成語 | 横山光輝 | 歴史学 | Kindleストア | Amazon
https://www.amazon.co.jp/横山光輝の-史記-で学ぶ故事成語-横山光輝-ebook/dp/B01ID2AXOO/史記 (15) - 漫画(マンガ)・電子書籍ならeBookJapan
http://www.ebookjapan.jp/ebj/8424/volume15/史記 (横山光輝の漫画) - Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/史記_(横山光輝の漫画)『史記』(しき)は、横山光輝による歴史漫画作品。『ビッグゴールド』(小学館)に、1992年(創刊号)から1997年にかけて本編が、1998年から1999年(休刊号)にかけて「史記列伝」が連載された。単行本は全16巻(文庫版は全11巻)が同社から発売されている。
時は漢時代、漢に仕える太史令司馬談の子として生まれた司馬遷は学問に優秀で、35歳で出世街道に乗ることが出来た。そのとき、漢時代は絶頂期を迎え、7代武帝は封禅の儀式を行い、父・司馬談もその儀式を調査し参加していた。だが、父が病に倒れ、封禅の儀式には参加できなかった。司馬談は死ぬ間際に司馬遷に対し、遺命として「太史令になり後世まで語り継がれる賢人や名君の記録を残してくれ」と頼み、この世を去った。
司馬遷は遺言を聞き入れ、太史令となり太初暦を完成させた。だが、友人の李陵が匈奴との戦いで援軍無く矢尽きて匈奴に降ったことを擁護したため、武帝の怒りを買って牢獄に入れられ、死刑か大金を納付するか宮刑を受けるかを選択させられた。父の遺言を守るため、司馬遷は宮刑を受けて生き延びた。
武帝は司馬遷を宮刑にしたことを気にし、中書令に任命する。司馬遷は宮廷の書物が自由に見られることから、『史記』をつづり娘に託し、父の遺言を果たした。
司馬遷は最後に亡き父司馬談のことを回顧して「お父上、あとは後世の評価を待つだけでございます」と述べた。
過度な演出は控えてあり、省略は非常に多いものの、実際に描かれた場面については司馬遷の『史記』にかなり忠実と言えるが、差異は随所に見られる。
私的漫画世界|横山光輝|史記
http://www.geocities.jp/msakurakoji/901Comics/85.htm第1巻 | ● 司馬遷(史記の著者) |
第2巻 | ● 平王(楚王,暴虐な性格) |
第3巻 | ● 西門豹(魏の官吏,因習を打破) |
第4巻 | ● 昭王(燕王) |
第5巻 | ● 恵文王(趙王,和氏の璧) |
第6巻 | ● 平原君(趙の宰相) |
第7巻 | ● 呂上韋(秦の相国) |
第8巻 | ● 王翦(秦の将軍) |
第9巻 | ● 陳勝(秦末の農民一揆を指揮) |
第10巻 | ● 樊噲(劉邦の義弟,妻同士が姉妹) |
第11巻 | ● 韓信(漢の大将軍) |
第12巻 | ● 韓信(漢の大将軍,斉王となる) |
第13巻 | ● 鐘離眜(楚の将軍) |
第14巻 | ● 灌嬰(漢の将軍,呂氏に反乱する) |
第15巻 | ● 呉王(呉楚七国の乱,誅殺される) |
1:
第1話 司馬遷1
第2話 名宰相·管仲2
第3話 驪姫の陰媒3
第4話 漂泊の覇者·文公4
2:
第1話 復譬の鬼·前編5
復誓の鬼·後編
第2話 臥薪嘗胆6
第3話 呉の逃亡7
3:
第1話 因習打破8
第2話 改革者の悲劇9
第3話 孫子の兵法10
第4話 業因強国策11
4:
第1話 先從隗始12
第2話 奇謀詭策13
第3話 食客三千14
5:
第1話 刎頚の友15
第2話 長平の大合戦16
第3話 便所の屈辱17
6:
第1話 嚢中の錐18
第2話 老いの野望19
第3話 主を震わす者20
第4話 奇貨 居くべし21
7:
第1話 嫪アイの乱[嫪毐の乱]22
第2話 我れ鳥獸にあらず23
第3話 刺客荊軻24
8:
第1話 保身の術25
第2話 始皇帝(1)26
第3話 始皇帝(2)27
第4話 趙高の陰謀28
9:
第1話 農民王陳勝29
第2話 項羽立つ30
第3話 劉邦亭長31
第4話 馬と鹿32
10:
第1話 函谷関ヘの道33
第2話 関中一番乗り34
第3話 鴻門の会35
第4話 咸陽炎上36
11:
第1話 国士無双37
第2話 壊れた友情(前編)38
第3話 壊れた友情(後編)
第4話 唯水の合戦39
12:
第1話 背水の陣40
第2話 離間の策41
第3話 四面楚歌42
13:
第1話 准陰公韓信43
第2話 禍、これより始まらん44
第3話 後継者争い45
第4話 呂公専横46
14:
第1話 呂氏の陰媒47
第2話 呂氏誅伐48
第3話 栄光と恐怖49
第4話 直言居士·袁盎50
15:
第1話 呉楚七国の乱(前編)51
呉楚七国の乱(後編)
第2話 大単干冒頓52
最終話 禍の男53
史記列伝 (ビッグコミックスゴールド) | 横山 光輝 |本 | 通販 | Amazon
https://www.amazon.co.jp/史記列伝-ビッグコミックスゴールド-横山-光輝/dp/4091881467諸子百家争鳴 - 史記(しき・太史公書) 130巻12本紀10表8書30世家70列伝 - 司馬遷(しば・せん) - 生没年:前145? - 前87? 姓:司馬 名:遷 字:子長 出身地:左馮翊夏陽
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16 Comments:
太史公曰く-桃李言わざれど 下自ら蹊を成す- 李将軍列伝第四十九 史記 漢文 i think; therefore i am!
http://members.jcom.home.ne.jp/diereichsflotte/ShikiPP/Taishikoh-Rikoh.html
太史公曰。
伝曰、
「其身正不令而行、
其身不正雖令不従。」
其李将軍之謂也。
余睹李将軍、悛悛如鄙人、
口不能道辞。
及死之日、
天下知与不知皆為尽哀。
彼其忠実心、誠信於士大夫也。
諺曰、
「桃李不言、下自成蹊。」
此言雖小、可以大也。 太史公曰はく。
伝に曰はく、
「其の身正しかれば令せずして行はれ、
其の身正しからざれば令すと雖も従はれず。」と。
其れ李将軍の謂ひなり。
余李将軍を睹るに、悛悛として鄙人のごとく、
口道辞する能はず。
死の日に及びて、
天下知ると知らざると皆為に哀しみを尽くせり。
彼の其の忠実心、誠に士大夫に信ぜられたるなり。
諺に曰はく、
「桃李言はざれど、下自ら蹊を成す。」
此の言小なりと雖も、以て大をふべきなり。
参考文献:史記二 明治書院
日本語訳/通釈
太史公言う。
伝に「その身が正しければ命令せずとも実行され、
その身が正しくなければ命令しても従われない」というのがある。
これは、李将軍のことを言っているようなものだ。
私が李将軍を見たところ、
慎み深く、田舎者のようで、
口は、うまく話すことができないようだった。
しかし、李将軍の死の日には、
天下、彼を知る者も知らない者も、皆強く悲しんだ。
彼の、その忠実な心は、本当に士大夫に信用されていたものだった。
諺に「桃やすももは何も言わないが、その下には、自然と小道ができる」というのがある。
この言葉そのものは、小さなことを言っているが、
大きなことをも喩えられる言葉でもあるのだ。
解説
★太史公曰。伝曰、「其身正不令而行、其身不正雖令不従。」
たいしこういはく。でんにいはく、「そのみただしかればれいせずしておこなはれ、そのみただしからざればれいすといへどもしたがはれず。」と。
「太史公」とは、司馬遷の自称である。
「雖(いへど-モ)」は逆接の意。
★其李将軍之謂也。余睹李将軍、悛悛如鄙人、口不能道辞。
それりしやうぐんのいひなり。よりしやうぐんをみるに、しゆんしゆんとしてひじんのごとく、くちだうじ(どうじ)するあたはず。
「睹」は"見る"。
「悛悛」は"慎み深いさま"。
「鄙」は"いなか"をあらわす。
「道辞」はいずれも"述べる"意。
★及死之日、天下知与不知皆為尽哀。彼其忠実心、誠信於士大夫也。
しのひにおよびて、てんかしるとしらざるとみなためにかなしみをつくせり。かれのそのちうじつしん、まことにしたいふにしんぜられたるなり。
「尽」は強調の意味の副詞であるが、訓読では動詞として読む。
「誠に」は"本当に"。
「於士大夫」の「於」は受身の対象を表している。
★諺曰、「桃李不言、下自成蹊。」此言雖小、可以大也。
ことわざにいはく、「たうりいはざれど、しもおのづからけいをなす。」このげんせう(しょう)なりといへども、もつてだいをたとふべきなり。
「桃李」は"ももとすもも"。
「蹊」は"小道"。
「自(おのづか-ラ)」は"自然に"。「自(みづか-ラ)」ならば"自分から"。
「」は「喩」に通じる。
「桃李言わざれど下自ら蹊を為す」というのは、
桃やすももは何も言わないが、その果実に誘われて人が集まってくるので、
その下には自然と小道ができる、ということである。
松坂桃李、本名「桃李」の由来を明かす (シネマトゥデイ) - Yahoo!ニュース
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20150203-00000023-flix-ent
俳優の松坂桃李が1日放送のバラエティー番組「ヨルタモリ」(フジテレビ系)にゲスト出演し、自身の名前「桃李」の由来を明かした。
松坂桃李がオネエに!フォトギャラリー
「ヨルタモリ」は、とあるお店らしき空間を舞台に、番組レギュラーのタモリと宮沢りえがゲストとトークを繰り広げる番組。宮沢から「桃李はどこから?」とその由来について聞かれた松坂は、「本名です。うちの父が、司馬遷の言葉で『桃李もの言わざれども下自ら蹊(みち)を成す』という中国の故事から取ってきまして」と告白。
タモリが「『桃』『李(すもも)』、そういうおいしいものの下には何もしなくても人が集まるということだよね」とうんちくを披露すると、宮沢は「予言していらしたのね、こういう仕事をするって」と感心しきり。
しかし、松坂は「いや、どうなんですかね。父も母も大学関係の仕事をしていたので、ちょっと頭が固いというか、芸能関係の仕事に対して変なイメージを持っていたのか、ものすごくこの仕事に反対していたので……」とデビュー当初のエピソードも語っていた。
松坂は現在、若きバイオリニストを演じた主演映画『マエストロ!』が公開中のほか、SEX依存症の天才外科医にふんした『エイプリルフールズ』、初のオネエ役に挑戦した『ピース オブ ケイク』など話題作が公開を控える。(編集部・中山雄一朗)
二世皇帝の三年、章邯等は兵を率いて鉅鹿きょろくを包囲した。
楚の上将軍である項羽は楚の兵を率いて救援に向かい、これを撃破した。
冬、趙高は丞相と為り、ついに李斯を謀殺した。
夏、章邯等は項羽と戦闘して度々敗れた。
二世皇帝は人を遣わして章邯を非難した。
章邯は恐れ、長史の司馬欣を使者にして事情を訴えようとした。
趙高は司馬欣に会うことなく、また信じることもなかった。
司馬欣は趙高を恐れて逃亡した。
趙高は追っ手を差し向けたが及ばず、司馬欣は章邯の元に戻って言った。
趙高は全てを自分の思うがままに執り行っています。
将軍は功を為しても誅殺され、功が無くても誅殺されることになるでしょう、と。
項羽は急進して秦を攻め、王離おうりを虜にした。
章邯等はついに手勢を率いて降伏した。
八月己亥きがいの日、趙高は悪化する形勢が皇帝に露見してしまうことを恐れ、謀反を起こそうと考えた。
群臣が自分に従うか心配した趙高は、一計を案じ、鹿を引いて二世皇帝に献じて言った。
馬です、と。
皇帝は笑って言った。
丞相は何を言っているのだ。
鹿を指して馬と為している、と。
そして左右に尋ねた。
ある者は黙して答えず、ある者は同調して馬といい、趙高を恐れて曲従した。
中には鹿と答えた者も居たが、趙高はこれを法に引っかけて罪に陥れた。
これより後、群臣の誰もが趙高に恐怖した。
出典・参考・引用
司馬遷著,塚本哲三編「史記」第1巻146-147/297
志心達だって
夕刊フジは漢字の読み方も知らんのか
達心志の原典は司馬遷の「史記」だろう
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20170713-00000000-ykf-spo
心志を達す
史記ではない
■244「達心志」=しんしをたっす
心に思うことを果たすこと。目的を遂げること。【顔魯公・唐】
Wikipedia
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顔真卿
字は清臣、中国唐代の屈指の忠臣であり代表的な書家
『晩笑堂竹荘畫傳』より
顔真卿(がん しんけい、 709年(景龍3年) - 785年(貞元元年))は、唐代の政治家、書家。字は清臣。中国史でも屈指の忠臣とされ、また当代随一の学者・芸術家としても知られる。
目次
出自
経歴
書
楷書
多宝塔碑
顔勤礼碑
顔氏家廟碑
行書
争座位帖
祭姪文稿
後世への影響
著書
伝記
参考文献
関連項目
出自 編集
琅邪臨沂(山東省)の顔氏の出身であり、顔回(孔子の弟子)の末裔と称した。同族に後漢の武将顔良がいる。生まれは長安であり、『顔氏家訓』で知られる顔之推の5世の孫にも当たり、顔惟貞の子。顔氏は、代々学問で知られ、また能書家が多く、世に学家と称された。
経歴 編集
737年(開元25年)に進士及第し、742年(天宝元年)に文詞秀逸科に挙げられ、監察御史に昇進し、内外の諸官を歴任した。ただ、生来が剛直な性質であったが為に、権臣の楊国忠に疎んじられ、753年(天宝12載)に平原郡(山東省徳県)の太守に降格された。
時まさに安禄山の反乱軍の勢いが熾烈を極めた時期に当たり、河北や山東の各地がその勢力下に帰属する中にあって、顔真卿は、族兄(お互いの5世代前の男系祖先が同じ)で常山郡(河北省正定県)の太守であった顔杲卿とあい呼応して、唐朝に対する義兵を挙げた。その後、756年(至徳元載)に平原城を捨て、鳳翔県(陝西省)に避難中であった粛宗の許に馳せ参じて、憲部尚書(刑部尚書)に任じられ、御史大夫をも加えられた。
「祭姪文稿」(部分)台湾故宮博物院 蔵
しかし、長安に帰った後、再度、宦官勢力や宰相の元載のような実権者より妬まれ、反臣の淮西節度使李希烈に対する慰諭の特使に任じられ、そこで捕えられた。李希烈は真卿を惜しみ、自らの部下となるよう何度となく説得したが真卿は断固拒否し続け、唐への不変の忠誠心を表す「天中山」を記すに至り李希烈は説得を断念、殺された。この最期は非常に劇的であったため、後世忠臣の典型例として、靖献遺言に取り上げられている。
書 編集
顔氏は顔真卿以前より能書家の家系として知られており、真卿も壮年期には張旭に筆法を学び、書論『張長史十二意筆法記』を残している。
楷書
中国性灵文学思想研究 - 31 ページ
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吴兆路 - 1995 - スニペット表示
顔真卿《孫文公集序》曰:「古之爲文者,所以導達心志,發揮性靈,本乎詠歌,中乎雅頌。」 元稹《敘詩寄樂天書》:「識足下時,有詩數百首矣。習慣性靈,遂成病蔽。」其《唐故工部員外郎杜君墓志銘》又云:「宋齊之間... ...文章以風容、色澤、放曠、精煉爲高,蓋吟寫性靈, ...
中華大典: 文學典 - 第 2 巻、第 1 部 - 77 ページ
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中華大典工作委員會 - 1999 - スニペット表示 - 他の版
然而文勝質,則「繊其 8 者,所以導達心志,發揮性靈。本乎詠歌,終乎《雅》、《頌》。帝庸作而君臣顔真卿《贈尙害右僕射孫逖文公集序》(《顔魯公文集》卷 I 二〉古之爲文知恥,貢公不遺榮,或可優貪競,豈足稱達生。」此三例,非用 15 。古詩:「胡馬依北風,越鳥巢南枝 ...
多宝塔碑: 唐顔真卿
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顔真卿, 二玄社編集部 - 2012 - プレビューは利用できません
古典を拡大し半紙大に六字を収めた手本集
涵芬樓古今文鈔 - 第 11~20 巻
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1910 - スニペット表示 - 他の版
u-m - - - - unn 朝唐刑部侍郎文公孫逃文集序真卿-古之為文者所以導達心志發揮性靈本乎詠歌終乎雅頌帝庸作而君臣動色王澤竭而風化不行政之興衰實繫于此然而文勝質則繡其蒙悅而血流漂林質勝文則野於禮樂而木訥不華歷代相因莫能適中故詩人之 ...
顏魯公全集
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顏真卿 - 1936 - スニペット表示 - 他の版
顏真卿 序尚書刑部侍郎贈尚書右僕射孫邀文公集序永%元年《月古之為丈者所以導達 心志發揮性靈本乎詠歌終乎雅頌帝庸作而君臣動色王澤竭而風化不行政之興衰臂繫於此然而丈勝質則繡其盤脫而血流漂梓質勝文則野於禮樂而九調不華歷代相因莫能 ...
Sui Tang Wu dai wen xue pi ping zi liao hui bian
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Liantian Luo - 1978 - スニペット表示 - 他の版
Liantian Luo 顏皂咱公文集一則顏奧卿贈尚書右僕射孫逃文公集序古之為文者夕所以導達心志夕發揮性靈。本乎詠歌夕終乎雅頌。帝庸作而君臣動色夕王澤竭而風化不行夕政之興衰 b 實繫於此。然而文勝質則統其擊悅而血流漂梓夕質勝文則野於禮樂而 ...
欽定全唐文 - 第 68~74 巻
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1901 - スニペット表示 - 他の版
... 桑間濮上胡為乎縣古之時正始皇風笑獨乎凡今之代蓋波雖無害於過正權其中論不亦傷於厚誣何則雅鄭在人理亂觀盧黃門之序陳拾遺也而云道喪五百歲而得陳君若激昂碩受噬於後學是以沈隱侯之論謝康樂也乃云靈均已來此未古之為文者所以導達 心志 ...
唐文粹 - 第 3 巻 - 31 ページ
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姚鉉, 許增, 郭麐 - スニペット表示 - 他の版
... V ^一 3 》\ 11^31^勝質則繡其搫蛻而血 I 镲文^纾呤禮券瞇^ :翁圭、醫〈冗 1 "让^ ^ 115^ 91 、|作而君臣動色王澤竭而嵐化不行欧.之 98 ^卿^ !乍 1 ^ * 111&&&拳嗟, " ^ ?匕^一了文)一^II11 ^^ 33,^3 V、古之潔文者所以導達心志 83 ^ 81 ^ 11 ^嘆卿〕3\ I.
歷代別集序跋綜錄: . 漢
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钱仲联 - 2005 - スニペット表示 - 他の版
然而文勝質,則「繍其搫蛻」,而「血流漂杵」;質勝文,則野古之爲文者,所以導達心志,發揮性靈,本乎詠歌,終乎《雅》、《頌》。帝庸作而君臣動色,王澤顏真卿序孫逖《孫逖文集》(叙 I 彙編本)舉,授山陰尉,歷仕左拾遣、集賢院學士、考功員外郎、刑部侍郎等職。
尚書刑部侍郎贈尚書右僕射孫逖文公集序 - 維基文庫,自由的圖書館
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尚書刑部侍郎贈尚書右僕射孫逖文公集序
尚書刑部侍郎贈尚書右僕射孫逖文公集序
作者:顏真卿 唐
本作品收錄於:《全唐文/卷0337》
古之為文者,所以導達心誌,發揮性靈,本乎詠歌,終乎雅頌。帝庸作而君臣動色,王澤竭而風化不行。政之興衰,實係於此。然而文勝質,則繡其鞶帨,而血流漂杵;質勝文,則野於禮樂,而木訥不華。曆代相因,莫能適中。故詩人之賦麗以則,詞人之賦麗以淫,此其效也。漢魏已還,雅道微缺;梁陳斯降,宮體韋興。既馳騁於末流,遂受嗤於後學。是以沈隱侯之論謝康樂也,乃雲靈均已來,此未及睹;盧黃門之序陳拾遺也,而雲道喪五百歲,而得陳君。若激昂頹波,雖無害於過正;榷其中論,不亦傷於厚誣。何則?雅鄭在人,理亂由俗。《桑間》、《濮上》,胡為乎綿古之時?正始、皇風,奚獨乎凡今之代?蓋不然矣。其或斌斌羨慕彪炳,鬱鬱相宣,膺期運以挺生,奄寰瀛而首出者,其惟僕射孫公乎?公諱逖,河南鞏人。其先自樂安武水,寓於涉而徙焉。父嘉之,以詞學登科,官至宋州司馬。公風裁澂明,天才傑出。學窮百氏,不好非聖之書;文統三變,特深稽古之道。故逸氣上躋,而高情四達,羌索隱乎?混元之始,表獨立於常均之外,不其盛歟,年數歲,即好屬文。十五時,相國齊公崔日用試《土火爐賦》,公雅思遒麗,援翰立成。齊公駭之,約以忘年之契,爾後遂有大名。故其試言也,年未弱冠,而三擅甲科。吏部侍郎王邱試《竹簾賦》,降階約拜,以殊禮待之。相國燕公張說覽其策而心醉。其序事也,則《伯樂川記》及諸碑誌,皆卓立千古,傳於域中。其為詩也,必有逸韻佳對,冠絕當時,布在人口。其詞言也,則宰相張九齡欲掎摭疵瑕,沈吟久之,不能易一字。公之除庶子也,苑鹹草詔曰「西掖掌綸,朝推無對」,議者以為知言。凡斯夥多,庸可悉數。故燕國深賞公才,俾與張九齡、許景先、韋述同遊門庭,命子均、垍申伯仲之禮。江夏李邕,自陳州入計,繕寫其集,齎以詣公,托知已之分。其為先達所重也如此。公又雅有清鑒,典考功時,精覈進士,雖權要不能逼。所獎擢者二十七人,數年間宏詞判等,入甲第者一十六人,授校書郎者九人,其餘鹹著名當世,已而多至顯官。明年典舉,亦如之,故言第者必稱孫公而已。夫然,信可謂人文之宗師,國風之哲匠者矣。公凡所著詩歌、賦序、策問、讚、碑誌、表疏、制誥,不可勝紀,遭二朝之亂,多有散落。子宿、絳、成等,夙奉過庭之訓,鹹以文章知名,同時台省。乃編次公文集為二十卷,列之於左。庶乎?好事者傳寫諷誦,以垂乎無窮,亦何必藏名山而納石室也?真卿昔觀光乎?天府,實荷公之獎擢,見命為序,豈究端倪?時則永泰元年仲秋之月也。至若世係閥閱,蓋存之別傳,此不復雲。
PD-icon.svg 本唐朝作品在全世界都屬於公有領域,因為作者逝世已經遠遠超過100年。
以上のことから、「ばか」を「馬鹿」と書くのは、当て字と考えられる。 馬鹿の語源の俗説には、『史記(秦始皇本紀)』の故事「鹿をさして馬となす」からというものがある。 これは、秦の趙高が二世皇帝に、鹿を「馬である」と言って献じた。 群臣は趙高の権勢を恐れて「馬です」と答えたが、「鹿」と答えた者は暗殺された。
バカ・馬鹿(ばか) - 語源由来辞典
http://gogen-allguide.com/ha/baka.html
馬鹿 - Wikipedia
ja.wikipedia.org/wiki/馬鹿
語源についてはいくつか説があるが、決定的なものはない。ただし、文献による初出が太平記における「馬鹿 ...
概説-実在する動物:馬鹿(ばろく)-馬鹿キャラ-日本国外における馬鹿
バカ・馬鹿(ばか) - 語源由来辞典
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馬鹿は、サンスクリット語で「無知」や「迷妄」を意味する「baka」「moha」の音写「莫迦( ばくか)」「募何(ぼか)」が転じたとされる。
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馬鹿
【意味】 馬鹿とは、愚かなこと(人)。知能の働きがにぶいこと(人)。莫迦。
【馬鹿の語源・由来】馬鹿は、サンスクリット語で「無知」や「迷妄」を意味する「baka」「moha」の音写「莫迦(ばくか)」「募何(ぼか)」が転じたとされる。
日本では、鎌倉時代末期頃から「ばか」の用例があり、室町中期の「文明本説用集」には、馬鹿の異表記として「母娘」「馬娘」「破家」をあげ、「とんでもない」の意味で「狼藉之義也」と説明している。
以上のことから、「ばか」を「馬鹿」と書くのは、当て字と考えられる。
馬鹿の語源の俗説には、『史記(秦始皇本紀)』の故事「鹿をさして馬となす」からというものがある。
これは、秦の趙高が二世皇帝に、鹿を「馬である」と言って献じた。
群臣は趙高の権勢を恐れて「馬です」と答えたが、「鹿」と答えた者は暗殺された。
このことより、自分の権勢をよいことに矛盾したことを押し通す意味として「馬鹿」と言うようになったというものである。
しかし、「鹿」を「か」と読むのは大和言葉で、漢文では「ばろく」と読むため、この故事が「ばか」の語源とは考え難く、「ばか」に「馬鹿」の字が当てられた由来として考慮するにとどまる。
その他、「おこがましい」の語源となる「をこ」を語源とする説もあるが、「をこ」から「ばか」という音変化は考え難い。
【映画】<キングダム>長澤まさみが演じた「山の民」史実と異なる?
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1Egg ★2019/05/04(土) 19:24:59.03ID:oAceCh1r9>>65
古代中国の辺境に住む「山の民」を、武力で束ねる美しき女王・楊端和──女優の長澤まさみが公開中の映画『キングダム』で激しいアクションとともに演じているのは、そんな役どころだ。しかし、史実として残る楊端和の人物像はまったく異なるという。歴史作家の島崎晋氏が解説する。
* * *
映画『キングダム』では、女優・長澤まさみの激しいアクションシーンも見どころの一つだ。長澤が演じた楊端和(ようたんわ)は、「山の民」の頂点に君臨する山界の王の設定で、戦いにめっぽう強く、原作漫画では「山の民」から畏敬の念を込めて「死王」の異名で呼ばれ、ミステリアスな存在として際立っている。
楊端和は司馬遷の『史記』にも名の見える実在の人物である。ただし、『史記』には秦の武将として登場しており、異民族でもなく、しかも男性である。史実として女性が将軍を務めることはありえないが、異民族の長ならばありえる。原作者の原泰久は、全体に女性キャラが少ないこともあって、あえてこのような工夫を施したのであろう。実に効果的な設定と言える。長澤まさみという人選も正解だった。
『キングダム』作中の「山の民」は秦西方の山中に居住し、高度な建築技術を有しながら、原始的な生活を送る異民族として描かれている。加えて、400年前に秦王・エイ政(後の始皇帝)の遠い祖先である秦の穆公(ぼくこう)と友好関係を結んだ「野人」の後裔であるとの設定もある。
400年前の故事とは以下のようなものだ。穆公が西方に出かけた際、岐山(きざん)の麓に住む「野人」たちが穆公の馬を捕まえて食べてしまった。それを知った穆公は罰するどころか逆に、馬肉に合う美酒を彼らにふるまってやった。この一件に感激した「野人」たちは後日、穆公が東方の晋国(紀元前376年に滅亡した春秋時代の一国)との戦いで窮地に陥ったとき救援に駆け付け、わずか300人で穆公を救っただけでなく、逆に晋の君主を捕虜にしたというものである。
『キングダム』では、秦と「野人」=「山の民」との友好関係は穆公の死とともに途切れ、一転して差別と迫害の対象となった「野人」は山中へ戻り、秦の人間を恨みながら、穆公への恩義は忘れず、両者の交流の場であった別荘の維持管理を400年もの間続けたとしている。
この400年の歳月を経ても彼らは多くの点で文明を拒絶する生活を送っていたとの解釈が、原泰久の『キングダム』だけでなく、同氏も影響を受けただろう台湾の漫画家・鄭問の『東周英雄伝』でも採用されているのだが、実のところこの点に関しては根本的な誤解がある。それは「野人」という言葉の解釈である。
現代でこそ「野人」といえば、ヒマラヤ山脈のイエティ(雪男)や北米のビッグフットなどと同じく、中国湖北省で目撃例のあるUMA(未確認動物)を指す言葉として定着しているが、古文献に出てくる「野人」は被支配層すなわち一般庶民を指す言葉。秦でも西方の岐山の麓にいた「野人」とは辺境の民にほかならず、異民族の襲撃が日常化していたから、彼らはなまじっかの兵卒よりは腕っ節も強く、戦い慣れもしていた。少数精鋭の強者ぞろいだったのだ。
2019年5月3日 16時0分
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履正不畏とは 春の高校野球から
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履正社と平安の決勝戦の最中、家人に「履正」の意味を問われた。
正(せい)を履(ふ)むか、とでも答えようと思ったが自信がない。履正社高校は我が家から30分圏内。校名に疑問を持たなかった。頑張っている。応援席が写り、「履正不畏」の鉢巻き姿を見つけた。
「正を履(ふ)んで畏(おそ)れず」か、と答えたが、近くにいて知らないのはおかしい。
きょう、野畑図書館の参考室にこもる。分厚い辞書。この前観た映画『船を編む』編集者たちの苦労を思い浮かべながら調べたが「履正」の組み合わせはない。数冊目、諸橋轍次監修の『大漢和辭典』で見つけた。索引付きで13冊の世界最大の漢和辞典である。
そこに「正道を踏み行ふ」とあった。出典は「魏志、崔林伝」。不畏はない。「おそれるなかれ」の意味であろう。
同校のホームページには、創立者兼初代校長、釜谷善藏先生が説かれた建学の精神である校訓「履正不畏・勤労愛好・報本反始」が全ての教育活動の根源であると記しているが、四字熟語?についての解説はない。
校訓「履正不畏」は、自分が正しいと思うことを勇気と責任を持って実践すること。真に自由人になろうという教えです。校訓「勤労愛好」は、働くことは、まさに自己実現です。勤労を通して国や市会に貢献する。そんな人材を育てたいという願いです。校訓「報本反始」は、常に初心に返り、自分を育ててくれた両親や先人の恩に報いる心を育てること。この心が人間性を高めます。と記している。「本(もと)に報むくい始に反(かえ)る」と訓読する。
この夏の履正社高校の挑戦に期待しよう。
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なぜ「桃李」なのか、由来をご存じでしょうか
2017.12.11
こんにちは、ひろです。
「てん、わろうてくれて、ありがとう。これからも、ずっと、わろてんか」
NHK連続テレビ小説『わろてんか』97話【藤吉、死す「てん わろうてくれてありがとう」】で、北村笑店の創業者、北村藤吉は42歳で脳卒中で亡くなりました。
北村藤吉は吉本興業の創業者、吉本吉兵衛(よしもときちべえ、本名・吉本吉次郎、享年39)がモデルになっているといわれますが、その北村藤吉を演じた、松坂桃李さんの「桃李」の名前の由来にも、並々ならぬ親心が込められているようです。
今回は、桃李さんの名前の由来に、スポットを当ててみました。
「桃李」さんの名前の由来
松坂さんのお父さんが「桃李」に込めた心は、中国の『史記』の、
桃李もの言わざれど、下自ら蹊を成す(桃李不言 下自成蹊)
「とうりものいわざれとも、したおのずからこみちをなす」
の一節に由来しているそうです。意味は、
桃や李(すもも)は、物は言わないが、花を咲かせ、実を結ぶと、その香気にひかれて人が集まり、下は人の往来で踏み分けられた小道ができる。
「桃」と「李(すもも)」を人徳の象徴とし、人格者にはその徳を慕い、人が集まることから、桃や李を、徳の備わった人格者に例えられています。
「徳のある、誰からも慕われる人になってほしい」
という願いが、「桃李」という名前に込められているといわれます。
またお母さんが「桃李」に込めたのは、日本三大説話集『古今著聞集』(こきんちょもんしゅう)の
春は桜梅桃李(おうばいとうり)の花あり、秋は紅蘭紫菊(こうらんしぎく)の花あり、皆これ錦繍(きんしゅう)の色、酷烈(こくれつ)の匂(におい)なり。
にある、桃李からきているようです。意味は、
桜、梅、桃、李(すもも)とそれぞれの花が、鮮やかに、見事に咲き薫ることよ。秋には赤い紅色の蘭や紫の菊の花が香り、美しい花が心を癒し、香気が強く惹きつけるなぁ。
各々が、ありのままの姿で、人生の花を咲かせ、実を結ぶことができることを、四季折々の花になぞらえているといわれます。
「桃李」には、「自分らしさを大切に、幸せになってほしい」という願いを込めて、とのことでした。ひとかたならぬ親心が伝わってきます。
「桃李」のような魅力的な人になるにはどうすればよいのでしょうか
私たちも、「桃李」のような魅力的な人になりたいものですが、それにはどうすればよいでしょうか。
京セラ創業者であり、経営危機に陥った日本航空(JAL)をわずか2年半で再上場させたことで知られる稲盛和夫さんも勧める「六度万行(ろくどまんぎょう)」を実行していけば、きっと魅力的な人間になれるでしょう。
六度万行とはブッダの教えであり、『稲盛和夫の哲学』には、こう書かれてあります。
六度万行は普通の人間が生きるための知恵として、ぜひ取り入れるべきだと私は信じます。
(稲盛和夫『稲盛和夫の哲学』)
六度万行の「万行(まんぎょう)」とは「よろずの善い行い」のことです。たくさんの善いことを、万行といわれています。
その万行をブッダは6つにまとめて、すばらしい善い行いだからやりなさいよと教えています。
布施(ふせ)…親切すること
持戒(じかい)…言行一致させること
忍辱(にんにく)…忍耐をすること
精進(しょうじん)…努力すること
禅定(ぜんじょう)…反省すること
智慧(ちえ)…修養すること
世間でも身の修養に努めるといいますが、修養とは「人格を磨いていくこと」といわれます。人格を磨いていくとは、前の5つの善を実行すればするほど人格が形成され、磨かれていくといわれます。
六度万行の最大の特徴は、6つの中で、自分のやりやすいものを、どれか一つ実行すれば、あとの5つも実践することになるというところが、最も素晴らしいところだといわれます。だから6つのうち、どれか1つを自分のテーマにすればいいのですね。
この六度万行を実践していけば、人間関係の様々な問題が解決し、明るい未来が開けてくるに違いありません。
例えば「笑い、笑顔」は、1番目の「布施」の1つです。
これを「和顔愛語(わげんあいご)」とブッダは教えられました。
・和顔……顔を和ませる、笑顔になること
・愛語……やさしい言葉をかけること
笑顔で優しい言葉をかけることを、和顔愛語といいます。
数日前、電車を下り改札口を出て、階段を下ると、居酒屋の呼び込みをしている人がありました。「お仕事お疲れさまでした。よろしければお食事していかれませんか」と笑顔で声をかけてきました。「ありがとうございます」と言ってお断りしましたが、その笑顔がとても自然で、優しいいたわりの言葉に、こちらも「ありがとう」が出てきたのだと思います。寒空のもとで、とても心がほっこりしました。
優しい言葉と笑顔は、人を幸せにするのだと知らされます。
笑顔は周囲を明るくし、良い印象を与えて、その人の魅力を2倍にも3倍にも割り増しするといわれます。
人類初の宇宙飛行士を決める最終選考で、体重が重く不利であったガガーリンが選ばれたのは、その笑顔だったといわれています。選考責任者から「素晴らしい君の笑顔は、いつも心が安定している証拠だ」と評価され、「地球は青かった」の名言を生んだといわれます。
私たちも「桃李」のように香り高き人を目指し、和顔愛語に心がけ、とびきりの笑顔で「これからも、ずっと、わろてんか」。
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桜梅桃李 - Wikipedia
ja.wikipedia.org/wiki/桜梅桃李
桜梅桃李(おうばいとうり)とは、桜、梅、桃、李(すもも)のこと。転じて、それぞれが独自の花を咲かせること。
松坂桃李 名前の由来は「中国の古典」 : J-CASTテレビウォッチ
初めまして。
史記、面白く拝見しております。
文章だとなかなか読めないですからね。
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