鶴見俊輔「方法としてのアナキズム」より
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アナキズムは、トマス・アキナスの『神学大系』とか、マルクスの『資本論』のような、まとまった理論的著作をもっていないし、もつことはないだろう。それは、人間の社会習慣の中に、なかばうもれている状態で、人間の歴史とともに生きて来た思想だからだ。習慣の中に無自覚の形である部分が大きく、自他にむかってはっきり言える部分は小さい。
アナキズムは、権力による強制なしに人間がたがいに助けあって生きてゆくことを理想とする思想だとして、まずおおまかに定義することからはじめよう。
人間は(おそらく人間以外の動物もそうだろうが)権力によって強制されて生きることを好まない。権力によって支配される関係から自由になることを夢みることは、あたりまえだ。このように道義感から見て自明のことに思える権力ぬきの助けあいの社会がどうして実現しないのか。このことについての認識が、多くの人に、自分の素朴な道義感のままにアナキズムにむかうことをためらわせる。また、若い時にアナキズムを自分の思想としてえらんだ人にとっても、自分の理想が実現しないということのいらだちが、アナキズムをたやすくテロリズムに転化させる。》
鶴見俊輔「方法としてのアナキズム」冒頭より
鶴見俊輔集9(22頁)所収。
『身振りとしてのアナキズム』iBooks他に再録。
プラグマティズムの紹介者として有名だが、
鶴見俊輔(1922~2015)はアナキストとして重要だ。そのアナキズムは民衆の身体に宿る経験主義の擁護として展開された(『災害ユートピア』を読めばわかるようにプラグマティズムとアナキズムは親和性が高い)。
上記「方法としてのアナキズム」もスペイン革命について孫引きで触れており、短文ながら読み応えがある。
ただしプルードンについて知らないからスペイン革命についての記述における経済的側面はその後深化しなかった。
『現代のアナーキズム』(一九六五年)とは、その後のアナキズムについて、もっとくわしく
ふれている。ゲランによれば、一九三一年のスペインの共和国宣言以後、「親戚の寄合い」と
呼ばれる自治の習慣の保護、直接民主制による村の運営の確認、自然崇拝と菜食主義と裸体
主義への好意の表現など、もとからあった社会習慣をはっきりさせて確認してゆく動きがあっ
たという。さらに、後に閣僚となったディエゴ・アバ・デ・サンティリアンの著書『革命の
経済組織』(一九三六年(*未邦訳))は、政治権力ではなくてたんなる調整機関、経済的行政
的な調節者の役を果たすべき経済連合議会の構想を明らかにしている。この評議会は、その
下部機関である(1)産業別部門の組合評議会、(2)経済地方評議会の両方に連合している工場評
議会からおおまかな指示をうける。この評議会にはつねに、経済の状況を知るための最新の
統計資料があたえられ、みずからの判断の基礎とされる。このようにして、サンティリアンは、
スペイン革命が、ロシア革命における革命政権の失敗からもマフノ運動の失敗からも多くを
まなんだ新しい構想をもつことができたという。しかし、ファシスト勢力との軍事闘争の中
で、スペインにたいするロシア共産党の指導は、一九二一年のソヴィエト・ロシアにおける
弾圧をもう一度ここで再生させ、やがてスペイン革命はファシスト勢力に敗れてゆく。》
「方法としてのアナキズム」『鶴見俊輔集9』(22頁)。より
『身振りとしてのアナキズム』iBooks他に再録。
鶴見俊輔(1922~2015)はアナキストとして重要だ。そのアナキズムは民衆の身体に宿る経験
主義の擁護として展開された。
上記「方法としてのアナキズム」でもスペイン革命について孫引きで触れており、短文ながら
読み応えがある。
ただし彼はプルードンについて知らないから(日本の近代アナキズム史はクロポトキン受容
の歴史だ)、アナキズムにおける経済的側面はその後深化しなかった。
http://dwardmac.pitzer.edu/Anarchist_Archives/unifiedbiblio.html
Horowitz, I.L. (ed.) (1964). The Anarchists. New York: Dell Publishing Co. House, J. (1993).