火曜日, 5月 30, 2017

碧厳録79

碧厳録79

鈴木大拙が禅と日本#2で引用。岩波新書30頁
http://www17.plala.or.jp/tozanji/teisyou/hekiganroku/hekigan8.html

第七十九則 投子一切仏声 
見ずや僧問ふう、如何なるか是れ仏。投子云く、仏。如何なるか是れ道。投子云く、道。如何なるか是れ禅。云く、禅。



http://www17.plala.or.jp/tozanji/teisyou/hekiganroku/hekigan8.html


第七十九則 投子一切仏声 

本則・挙す、僧、投子に問ふ、一切声は是れ仏声と。是なりや否や。(也虎鬚を撫ずることを解す。晴天霹靂を轟かす。自尿臭きを覚えず。)投子云く、是。(一般の人をれんー貝に兼ー殺す。身を売りて汝に与へ了れり。一辺に拈放す。是れ什麼の心行ぞ。)僧云く、和尚とくー尺に豚の月なしー沸碗鳴声すること莫れ。(只錐頭の利を見て、鑿頭の方を見ず。什麼と道ふぞ。果然として敗缺を納る。)投子便ち打つ。(著。好打。放過せば則ち不可。)又問ふ、そー鹿三つー言及び細語、皆第一義に帰すと、是なりや否や。(第二回虎鬚を撫ず。臓を抱いて屈と叫んで什麼か作ん。東西南北、猶ほ影響の有る在り。)投子云く、是。(又是れ身を売りて汝に与へ了れり。陥虎の機。也是れ什麼の心行ぞ。)僧云く、和尚を喚んで一頭の驢と作し得てん麼。(只錐頭の利を見て、鑿頭の方を見ず。逆水の波有りと雖も、只是れ頭上に角無し。血を含んで人にそそぐ。)投子便ち打つ。(著。放過す可からず。好打。柱杖未だ折るに到らず、什麼に因ってか便ち休し去る。) 

投子山大同、青原下三世。一切声はこれ仏声と、そ言及び細語皆第一義に帰す=涅般経に出ずと、声という声は仏の声であると、ただこう知って本当には知らぬ、それじゃなんにもならぬ、釈迦牟尼仏の声と姿とと知れるときに、一切ものみな無音に消えて、正に成仏とも云わず、かつて省みるなし、涙することわずかにあり。是非のらち外です。是なりや否やと聞く、すでにしてそ言、敗北。(虎の鬚をなでる、知らぬが仏ですかあっはっは。知ってなずるはかつて未だし。青天の霹靂を轟かす、うっふっふそりゃまたご苦労さん、自分の小便臭さを弁えずとさ、打つによし。)投子云く、是と、そうだよと云って、わなを仕掛けるんですか、是であるから是と、わなにはまるのは向こうの勝手、是にあらずの分をひっかかる。(一般の人をれん殺す、乗り合いバスの全員を馬鹿にした、是というすべからく是、知らぬまんまの三百代言を量産ですか、まあさ。身を売りて汝に与え了れり、さあどうするっていうんです、虎がおっかぶさった、寸毫の隙なし、命ないんです。)僧云く、とく沸は下痢のびちびち、碗鳴はお碗に熱湯を注ぐとじゅうじゅう鳴る、仏声という乙にすましやがって、かくの如くをなんとするってんです、はい、とく沸碗鳴声という代わりにぶっ叩いた、(錐の頭だけを見て、鑿の頭を見ず、のこぎりの談というのがある、我のこぎりの山、汝のこぎりの谷、どこまで行ってもらちあかんというのへ、我はさにあらずとだけ。敵をやっつける気鋭という、そんなものが仏教じゃないんです、敗缺これ。)投子便ち打つ、(根本に出直せという、壁立万仞です、わかりますか、うっふわかったら三十棒。)又問ふ、そー鹿が三つで騒々しいんですか、言、細語愚にも付かぬ2チャンネル語ですか、たいてい意味をなさんです、蚊の泣くようなぴいぴい声、第一義廓然無聖ですか、これが他にはなく、是なりや否や。(二回虎の鬚をなでる、どあほ。臓物を抱いて屈託です、人間みなこれをやっている、坐って姿勢をまっすぐにして矯正も、わがものと身心をよこしまにするあれば、不自然屈託です、仏に帰す、彼岸にわたって下さい、ぱーらみーたー。東西南北、猶ほ影響の有る在りでは不都合。)投子云く、是。(また身を売って与え了る、陥虎の機、心行なしほど恐ろしいんです、間髪を入れず。)僧云く、和尚を喚んで驢となし得てんや、そんじゃ馬鹿と呼んでもいいんかいって、うっふっふこの僧けっこう面白いや、馬鹿顔ぬうっと差し出そうか。(逆水の波、帰り打ちするには頭上に角なし、虎退治には龍だってのにさ。血を含んで人にそそぐ、太公望云く、風に因って火を吹く、力を用いること多少。血を含んで人にそそぐ、先ずその口汚れと。まあさ、はいご苦労さんてこと。意図ありゃおしまいなんですよ、見え見え。)投子すなわち打つ。(よく見よという、こは何事か、放過すべからず、まさにもって悟るによし。だがこれ未だ決着つかず、打ってのち如何、タレントの記者会見じゃないんだよってさ。) 

頌・投子投子。(灼然。天下這の実頭の老漢無し。人家の男女を教壊す。)機輪阻無し。(什麼の他を奈何ともする処か有らん。也些子有り。)一を放って二を得たり。(汝が眼晴を換卻す。什麼の処にか投子を見ん。)彼に同じく此に同じ。(恁麼に来るも也棒を喫し、不恁麼に来るも也棒を喫す。闍黎他に替るも、便ち打たん。)燐むべし限りなき潮を弄するの人。(叢林の中一箇半箇を放出す。這の両箇の漢を放出す。天下の衲僧恁麼に去らんことを要す。)畢竟還って潮中に落ちて死す。(可惜許。争奈せん這の圏簣を出で得ざることを。愁人愁人に向かって説くこと莫れ。)忽然として活せば、(禅床震動。山僧を驚殺して、也倒退三千ならしむ。)百川倒流して閙かつー活のまんなかに耳ーかつたらん。(嶮。徒に佇思するに労す。山僧敢て口を開かず、投子老漢也須らく是れ柱杖を拗折して始めて得べし。) 

投子尋常道ふ、汝総に道ふ、投子実頭なりと。忽然として山を下ること三歩せんに、人有りって汝に問ふうて、如何なか是れ投子実頭の処と道はば、汝作麼生か抵対せんと。見ずや僧問ふう、如何なるか是れ仏。投子云く、仏。如何なるか是れ道。投子云く、道。如何なるか是れ禅。云く、禅。また問ふ、月未だ円ならざる時如何。投子云く、三箇四箇を呑卻す。円なる後如何。七箇八箇を吐卻すと。投子かくの如くとは如何、こりゃものすごい、舌を巻いてわずかに投子投子と、こんな師家と倶に有る、他何をか云わんや、ぶった切られて死す。(灼然、真っ赤っかです、天下箇の実頭の老漢なし、かつてもまさに無し、今の世さらに皆無、もって人家の男女を教壊す、人あり家ありのぬるま湯ですか、どうしようもないです、首くうくる縄もなし年の暮れ、ちったあ爪の垢。)機輪阻てなし、だれがどうだから、道の進捗を思慮ってなどいう紆余曲折ないんです、もとまったく紆余局曲折なし。(些子有り、ちったあ効き目ありってね、どうです、効いたか。)一を放って二を得たり、是と応じて、相手の臓物屈託をさらけだす、もはや元へ復さず、痛烈一回に知る。(いずれの処にか投子を見ん、ぶち抜くとはこれ。)彼に同じく此に同じ、細言そ語も驢となしえてんやも、まったく同じ、臭い懐総まくり、払い切るんです。(投子にもの云う、てめえのことをさらけ出すだけなんです、醜悪もってする、棒を喫す、その醜悪をしゃっ面に貼り付け。)あわれむべし限りなき潮を弄するの人、潮ですか、とくふつ碗鳴声すること莫れ、一頭の驢と作し得てんやと、噂の問題、仏の話題ですか、もとそんなものないんです、投子便ち打つ、投子投子と、雪竇ならずも舌を巻く所以、(叢林にあって一箇半箇を放出す、うさんくさいのを追い出す、湊泊し難し、さあやって下さい、真正面ついに投子を見ず。)畢竟かえって潮中に落ちて死す、噂の中に溺れ死ぬ連中ばかりが、うっふ。(惜しいかなって云うんです、けんきはわな、わなにはまらずに死ぬんなら、大往生。てめえの仕掛けた罠ですか、そりゃあ本望ってね。)忽然として活せば、大死一番です。(禅床震動、わしを驚殺して、倒退三千ならしむ、はいまさにかくの如く。)百川倒流して閙かつかつたらん、いっぺんに世界中の音声です、かつは流水の声、閙はさわがしい。おっちでつんぼが人間満足に返るさま。(嶮。だからさ佇思することなかれ、行けったら行けばいい、投子柱杖を折って始めて得べし、ものみな叩く要なし、さあて仏とは何か、糠に釘ですか、だったら道へ。) 

第八十則 趙州初生の孩子 

本則・挙す、僧、趙州に問ふ、初生の孩子還って六識を具するや也無しや。(閃電の機。什麼の初生の孩子とか説かん。)趙州云く、急水上に毬子を打す。(過也。俊鷂趁へども及ばず。也験過せんことを要す。)僧復投子に問ふ、急水上に毬子を打すと、意旨如何。(也是れ作家同じく験過す。還って会す麼。過也。)子云く、念念不停流。(葛藤を打するの漢。) 

六識は眼耳鼻舌身識を前五識とし、意識を六識とす。八識は第七末那識=能く去って世間一切の影事を執持して、人をして煩悩して自由自在ならしむと。大八識阿頼耶識=一切善悪の種子を含蔵すと。これ人の意識のありようまさにかくの如く、仏教のたとえというより、かくの如く行なわれていることを知るによく、心理学だろうが別に尽くさず、これを用いるにしたがい不便です、滞り醜悪、百害あって一利なしですか、心理分析や一覧表じゃないんです、科学という観察被観察の無益を知って下さい。この故にこの僧殊更に聞く、初生の孩子、生まれたての赤ん坊です、かえって六識を具するやまた無しや。(八識を了じ終わるんですか、なんのとらわれもないんです、つうと云えばかあ、元の木阿弥これ、機という大機大用そのもの、塵芥なし他なしになって閃電です、これをもってん什麼の初生の孩子とか説かん、生まれたての赤ん坊に返れという、無眼耳鼻舌身意、無色声香味触法、面倒な言い種いらんです、まずはこれを知って下さい、本来のありようこれ、通幻寂霊禅師、路傍の石に生爪を剥がし、痛いことは痛い、どこが痛いか解からない、玉露宙に浮かぶ、命の向こうっかわに行っちまったようです、赤ん坊に返って、八識の由来を知る、仏教の始まりです、みなこれここに到って始めて得るんです、しゃしゃらくらくという、清澄の万倍これ、筆舌に尽くし難し、まさに命を知る、浮き世に生まれて200%ですか、生まれ本来=生まれる以前、なんという歓喜済々ですか。)趙州云く、急水上に毬子を打す。急流に毬をなげる、意識としてまったく滞るなしを云う、自然とはこれ。(はやぶさが追っても及ばずとさ、験してみりゃいいです、でなきゃ意味ないです。)僧また投子に問ふ、急水上に毬子を打すと、意旨如何、どういうこったと云うんです。(こやつちゃーんと知ってたな、もっともどこまでやったか、さあてわからん。)子云く、念念不停流。念というもととどまらず、そいつを停めようとするから不都合、あらゆる一切の苦厄を生ず、苦しみ悩みのこれが原因です、念念不停流に任せ切ることをしてごらんなさい、坐禅の根本です、容易なこっちゃできないです、(葛藤を打する漢、こやつができればボーディサットバ修菩薩行、そうそう初関を透るんですよ、さあおやり下さい。)

頌・六識無功一問を伸ぶ。(眼有って盲の如く耳有って聾の如し。明鏡台に当り明珠掌に在り。一句に道尽す。)作家曾て共に来端を弁ず。(何ぞ必ずしもせん。也箇の緇素を弁ぜんことを要す。唯証して乃ち知る。)茫茫たる急水を打す。(始終一貫。過也。什麼と道ふぞ。)落処停らず誰か看ることを解せん。(看ば即ち瞎す。過也。灘下に接取せよ。) 

六識功無くです、無眼耳鼻舌身意、無色声香味触法、元の木阿弥こうあって元の木阿弥大用現前です、功と数える、どこまで行こうが尽くさず、この平地から一問を伸ぶ、これ仏教です、あるときこありあるときこうある、ついに無心に返る、如何なるか是れ道、道は籬の外に在り、狗子に仏性有りや、云く無、そうしてまた云く有と、功なく仏なく六識六塵まったくに付くなし、まさにこれを知る。(眼あって盲の如く耳有って聾の如し、眼無うして知り耳無うして現前です、もとかくの如しは、明鏡また台にあらず、菩提本樹にあらず、形影あい見るが如く、一句に道尽す、なにさ朝打三千暮打八百、毎日坐って下さい、俳句は行きて返る心の味という、これは行きて返らぬ無心です、そうさなあ万物宇宙を恋人ですか、せっかく口説く勢いがないとねずみ一匹、あっはっは油断大敵、大安心これ。)作家は趙州と投子と、来端はまるっきり云い得るんです、仏以外になし、ほかただもう曖昧の我田引水、無始劫来過ちのもと、有耶無耶世界からどうぞ一歩踏み出して下さい、はじめて人生、(これ選仏場なりと知って、緇素を弁ず、よしあし黒白の判断が付くんです、よくよく看て取って下さい、ただし証せずんば露われず。)茫茫たる急水、はーいさ、まったく知らんのです、知っている分が嘘です、いやらしいですかはっはっは、醜悪、師家と雖ど卻って堕地獄。(終始一貫すればかえって過つ、何と云うべき、さあどうです、云うてみりゃいい。(落処停まらず誰か看ることを得ん。行って帰らぬ無心、口説くには結果を知らず、(見りゃ瞎漢、死人ですよ。灘下に接取もはあて余計ごと。ついに知らんのです。)