水曜日, 5月 17, 2017

金剛経 THE KONGOKYO OR DIAMOND SUTRA


              
            (リンク:::::::::仏教

Manual of Zen Buddhism by D.T. Suzuki 1935 便覧:解読 

The Dharanis,The Sutras(禅インド関連サブインデックス)

http://nam-students.blogspot.jp/2017/05/the-sutras.html

NAMs出版プロジェクト: 金剛経 THE KONGOKYO OR DIAMOND SUTRA

http://nam-students.blogspot.jp/2017/05/the-kongokyo-or-diamond-sutra.html

以下の鈴木大拙の金剛経英語訳は(特に後半が)要約になっている。

Manual of Zen Buddhism: III. The Sutras

http://www.sacred-texts.com/bud/mzb/mzb03.htm

以下の現代頃訳と並べてみた。

#13/32
般若即非の論理が重要。


「仏説二般若波羅蜜即非二般若波羅蜜是名二般若波羅蜜一」〔仏、般若波羅蜜と説くは、即ち般若波羅蜜にあらず、是を般若波羅蜜と名づく〕

AはAだというのは、   

AはAでない、   

故に、AはAである


《般若の智慧、すなわち霊性的直覚そのものから見れば、初めから山は山、川は川で、そこになんらの面倒も曲折もないのである。しかし感性的直覚から霊性的直覚に到る途は、ここでいうようには容易なものではない。》



日本的霊性角川ソフィア版

《「スブ ーティよ 、この法門は 《智慧の完成 》と名づけられる 。そのように記憶するがよい 。それはなぜかというと 、スブ ーティよ 、 『如来によって説かれた 《知慧の完成 》は 、智慧の完成ではない 』と如来によって説かれているからだ 。それだからこそ 、 〈智慧の完成 〉と言われるのだ。》岩波文庫

それで、こういう公案が出来た。「竹篦背触(しっぺいはいそく)」というのである〔『無門関』第四三則〕。それはどういうことかというと、ある禅坊さんが、竹篦を取り出して、「これを竹篦といえば触れる。そうでないというと背く。背かず、触れないでなんという」。》霊性




#10/32

応無所住而生其心

まさに住する所無くして 、しかもその心を生ずべし 。

とらわれない心をおこさなければならない 。何ものかにとらわれた心をおこしてはならない 。

六祖慧能がこれを聞いた時に悟りを開いた



諸菩薩摩訶薩應如是生清淨心 。不應住色生心 。不應住え聲香味觸法生心 。應無所住而生其心 。須菩提 。


この故に須菩提よ 、もろもろの菩 ・摩訶は 、まさに 、かくの如く 、清浄の心を生ずべし 。まさに色に住して心を生ずべからず 。まさに声香味触法に住して心を生ずべからず 。 まさに住する所無くして 、しかもその心を生ずべし 。須菩提よ 、譬えば 、


それだから 、スブ ーティよ 、求道者 ・すぐれた人々は 、とらわれない心をおこさなければならない 。何ものかにとらわれた心をおこしてはならない 。形にとらわれた心をおこしてはならない 。声や 、香りや 、味や 、触れられるものや 、心の対象 、にとらわれた心をおこしてはならない 。


参考:
以下、代表的なヘーゲル批判を孫引きする(山下正男『論理学史』p225より)。

「(ボルツァーノは) 例えばヘーゲルの好む表現  "運動とは質点Mが同じ瞬間に同じ場所 m にあり , そして , ないことである" (大論理学邦訳岩波中p79より)を論理学の自殺だときめつけ, 運動はそうした 矛盾律を犯さなくてもつぎのように正しく把握できると主張した.   " 質点Mが一定の時間 T に運動するとは ,  M が同一の場所に静止するような T の部分 t は一つも存在しないということである "  . 」


#1/10
また、修行者はものにとらわれて施しをしてはならない。
形にとらわれて施しをしてはならない。

#4/32
when a Bodhisattva practises charity he should not be cherishing any idea
practise charity without cherishing any idea of form. 

上はケルアックが『The Dharma Bums(達磨の導師・邦題はヒッピー)』冒頭付近で引用している部分。

正確には、
《I reminded myself of the line in the Diamond Sutra that says, "Practice charity without holding in mind any conceptions about charity, for charity after all is just a word." 》
鈴木大拙の訳語とは違っている。
参照:

金剛般若経』(こんごうはんにゃきょう)、正式名称『金剛般若波羅蜜経』(こんごうはんにゃはらみつきょう、Vajracchedikā-prajñāpāramitā Sūtraヴァジュラッチェーディカー・プラジュニャーパーラミター・スートラ)とは、大乗仏教般若経典の1つ。略して『金剛経』(こんごうきょう)とも言う。

原題は、「ヴァジュラ」(vajra)がインドラ武器である「金剛杵」あるいは「金剛石」(ダイヤモンド)、「チェーディカー」(chedikā)が「裁断」、「プラジュニャーパーラミター」(prajñāpāramitā)が「般若波羅蜜」(智慧の完成)、「スートラ」(sūtra)が「経」、総じて「金剛杵金剛石)のごとく(煩悩執着を)裁断する般若波羅蜜(智慧の完成)の経」の意。

場面設定編集

ある時、釈迦舎衛城祇園精舎に1250人の比丘と共に滞在していた。午前中の托鉢・食事を終え、午後になって帰ってきて身なりを整え、結跏趺坐する釈迦。釈迦を礼拝して一方の脇に坐していく比丘達。するとその中に座していた十大弟子の一人、スブーティ(須菩提)長老が腰を上げ、釈迦に菩薩のあり方について問うた。こうして釈迦によってその内容が語られていく。

内容編集

基本的に釈迦(ブッダ)と須菩提(スブーティ)との会話によって構成されており、釈迦が須菩提に対して質問をするシーンなども含まれている。例えば中村元訳によると《スブーティよ、どう思うか。永遠の平安への流れに乗った者が、(わたしは、永遠の平安への流れに乗った者という成果に達しているのだ)というような考えをおこすだろうか。》などが一例として挙げられる。

日本語訳(文庫判)編集

 

______

1/10

一切の仏と菩薩に帰依し奉る。

 

私が聞いたところによりますと、
あるとき師は1250人の修行僧たちとともに、
シュラーヴァスティー市のジェータ林、貧しい人に食事を施す長者の園に滞在しておられた。

師は朝の中に下衣をつけ、鉢と上衣をとって、
シュラーヴァスティー市に食物を乞いに歩かれた。
師は食事を終えられ、帰られると、鉢と上衣をかたづけて、
両足を洗い、台座にに両足を組んで、体をまっすぐにして、精神を集中して座られた。
そのとき、多くの修行僧たちは師が居られるところに近づいた。

そのとき、スブーティ長老もまた集まりに居合わせて座っていた。
長老は立ち上がると、上衣を一方の肩にかけ右の膝を地につけ、
師に合掌して次のように言った。

「如来、正しく目覚めた人によって、修行者が≪最上の恵み≫につつまれ、
≪最上の委嘱≫をあたえられている。
師よ、これは素晴らしいことです。
ところで、修行者はどのように生活し、行動し、心を保ったらよいのですか。」

師はスブーティ長老に向かって次のように答えられた。
「まことに、スブーティよあなたの言うとおりだ。
如来は修業者を最上の恵み、最上の委嘱を与えている。
だからスブーティよ聞き、よく考えるがよい。
修行の道に向かう者はどのように生活し、行動し、心を保つべきであるかということを、
私はあなたに話して聞かせよう。」

「そうして下さいますように、師よ。」
と、スブーティ長老は師に向かって答えた。

師はこのように話し出された。
「スブーティよ、修行の道に向かう者は次のような心をおこさなければならない。
『生き物の仲間である生きとし生けるもの、卵から生まれたもの、母胎から生まれたもの、
湿気から生まれたもの、他から生まれず自ら生まれ出たもの、
形あるもの、形ないもの、表象作用のあるもの、表象作用のないもの、
表象作用があるのでもなく無いのでもないもの、
その他の生き物の仲間として考えられる生きとし生けるものども、
それらのありとあらゆるものを、
私は≪悩みのない永遠の平安≫という境地に導き入れなければならない。
しかし、無数の生きとし生けるものを永遠の平安の導きに入れても、
誰ひとりとして永遠の平安に導き入れられたものはない。』と。
それはなぜかというと、もし修行者が≪生きているものという思い≫をおこすとすれば、
もはや彼は修行者とは言われないからだ。
それはなぜかというと、誰でも≪自我という思いを≫おこしたり、
≪生きているものという思い≫や、≪個体と言う思い≫や、
≪個人という思い≫などをおこしたりするものは、もはや修行者とは言われないからだ。

また、修行者はものにとらわれて施しをしてはならない。
なにかにとらわれて施しをしてはならない。
形にとらわれて施しをしてはならない。
声や、香りや、味や、触れられるものや、心の対象にとらわれて施しをしてはならない。
このように、修行者は跡を残したいという思いにとらわれないようにして
施しをしなければならない。

それはなぜかというと、修行者がとらわれることなく施しをすれば、
その功徳が積み重なって、計り知れないほどになるからだ。
スブーティよ、どう思うか。
東の方の虚空の量は容易に計り知れるだろうか。」

スブーティは答えた。
「師よ、計り知られません。」

師は問われた。
「南や西や北や下や上の方角など、あまねく十方の虚空の量は
たやすく計り知れるだろうか。」

スブーティは答えた。
「師よ、計り知られません。」

師は言われた。
「スブーティよ、これと同じことだ。
もし修行者がとらわれることなく施しをすれば、
その功徳の積み重なりはたやすくは計り知られない。
修行の道に向かう者は、このように跡をのこしたいという思いにとらわれないようにして
施しをしなければならないのだ。」

師は問われた。
「スブーティよ、如来は特徴をそなえたものと見るべきであろうか。」

スブーティは答えた。
「師よ、そう見るべきではありません。
如来は特徴をそなえたものと見てはならないのです。
なぜかというと、<特徴をそなえているということは特徴をそなえていないことだ>と、
如来が仰せられたからです。」

このように答えられたとき、師は次のように言われた。
「スブーティよ、特徴をそなえているといえば、それはいつわりであり、
特徴をそなえていないといえば、それはいつわりではない。
だから、特徴があるということと、特徴がないということの両方から
如来を見なければならないのだ。」

 


III

THE KONGOKYO OR DIAMOND SUTRA[2]

1. Thus I have heard.

At one time the Buddha stayed at Anathapindaka's Garden in the grove of Jeta in the kingdom of Sravasti; he was together with 1,250 great Bhikshus. When the meal time came the World-honoured One put on his cloak and, holding his bowl, entered the great city of Sravasti, where he begged for food. Having finished his begging from door to door, he came back to his own place, and took his meal.

[1. Dharanindhara in Sanskrit, "the supporter of the earth".

2 Kongokyo in Japanese. The full title in Sanskrit is Vajracchedika-prajna-paramita-sutra. It belongs to the Prajna class of Mahayana literature. Those who are not accustomed to this kind of reasoning may wonder what is the ultimate signification of all these negations. The Prajna dialectic means to lead us to a higher affirmation by contradicting a simple direct statement. It differs from the Hegelian in its directness and intuitiveness.

The present English translation is from Kumarajiva's Chinese version made between 402-412 C.E.]

When this was done, he put away his cloak and bowl, washed his feet, spread his seat, and sat down.

2. Then the Venerable Subhuti, who was among the assembly, rose from his seat, bared his right shoulder, set his right knee on the ground, and, respectfully folding his hands, addressed the Buddha thus:

"It is wonderful, World-honoured One, that the Tathagata thinks so much of all the Bodhisattvas and instructs them so well. World-honoured One, in case good men and good women ever raise the desire for the Supreme Enlightenment, how would they abide in it? how would they keep their thoughts under control?"

The Buddha said: "Well said, indeed, O Subhuti! As you say, the Tathagata thinks very much of all the Bodhisattvas, and so instructs them well. But now listen attentively and I will tell you. In case good men and good women raise the desire for the Supreme Enlightenment, they should thus abide in it, they should thus keep their thoughts under control."

"So be it, World-honoured One, I wish to listen to You."

3. The Buddha said to Subhuti: "All the Bodhisattva-Mahasattvas should thus keep their thoughts under control. All kinds of beings such as the egg-born, the womb-born, the moisture-born, the miraculously-born, those with form, those without form, those with consciousness, those without consciousness, those with no-consciousness, and those without no-consciousness--they are all led by me to enter Nirvana that leaves nothing behind and to attain final emancipation. Though thus beings immeasurable, innumerable, and unlimited are emancipated, there are in reality no beings that are ever emancipated. Why, Subhuti? If a Bodhisattva retains the thought of an ego, a person, a being, or a soul, he is no more a Bodhisattva.

4. "Again, Subhuti, when a Bodhisattva practises charity he should not be cherishing any idea, that is to say, he is not to cherish the idea of a form when practising charity, nor is he to cherish the idea of a sound, an odour, a touch, or a quality.[1] Subhuti, a Bodhisattva should thus practise charity without cherishing any idea of form. Why? When a Bodhisattva practises charity without cherishing any idea of form, his merit will be beyond conception. Subhuti, what do you think? Can you have the conception of space extending eastward?"

"No, World-honoured One ' I cannot."

"Subhuti, can you have the conception of space extending towards the south, or west, or north, or above, or below?"

"No, World-honoured One, I cannot."

"Subhuti, so it is with the merit of a Bodhisattva who practises charity without cherishing any idea of form; it is beyond conception. Subhuti, a Bodhisattva should cherish only that which is taught to him.

5. "Subhuti, what do you think? Is the Tathagata to be recognized after a body-form?"

"No, World-honoured One, he is not to be recognized after a body-form. Why? According to the Tathagata, a body-form is not a body-form."

The Buddha said to Subhuti, "All that has a form is an illusive existence. When it is perceived that all form is no-form, the Tathagata is recognized."

2/10

このように言われたとき、スブーティ長老は師に向かって次のように訊いた。
「師よ、後の世代になって第2の500年代に正しい教えが滅びる頃には、
このような経典の言葉が説かれても、真実だと思う人々がいるでしょうか。」

師は答えられた。
「スブーティよ、そういう風に言ってはならない。
これから先、このような経典の言葉が説かれるとき、
それが真実だとい思う人々がいるに違いない。
また、後の時世になって、徳高く、戒律を守り、智慧深い修行者は、
経典の言葉が説かれるとき、それは真実だと思うに違いない。
また、彼ら修行者は仏に近づき帰依したり、
ひとりの目ざめた人のもとで善の根を植えるだけでなく、
何十万という仏に近づき帰依したり、善の根を植えたりしたことのある人々であって、
このような経典の言葉が説かれるとき、ひたすらに清らかな信仰を得るに違いないのだ。

スブーティよ、如来は目ざめた人の智慧で彼らを知っている。
如来は目ざめた人の眼で彼らを見ている。
如来は彼らを覚っている。
彼らは計り知れず数え切れない功徳を積んで、
自分のものとするようになるに違いないのだ。

それはなぜかというと、修行者には自我と言う思いはおこらないし、
生存するものという思いも、個体という思いも、個人と思いもおこらないからだ。
また、修行者には≪ものという思い≫もおこらないし、
≪ものでないものという思い≫もおこらないからだ。

もし、修行者に≪ものという思い≫がおこるならば、
彼らには自我に対する執着があるだろうし、生きているものに対する執着、
個体に対する執着、個人に対する執着があるだろうから。
もし≪ものでないという思い≫がおこるならば、
彼らには自我に対する執着があるだろうし、生きているものに対する執着、
個体に対する執着、個人に対する執着があるだろうからだ。

それはなぜだろうか。
また、修行者は法をとりあげてもいけないし、
法でないものをとりあげてもいけないからだ。

それだから如来は次のようなことばを説かれた。
『笩の喩えの法門を知る人は方さえも捨てなければならない。
まして、法でないものはなおさらのことである。』と。」

 

6. Subhuti said to the Buddha: "World-honoured One, if beings hear such words and statements, would they have a true faith in them?"

The Buddha said to Subhuti: "Do not talk that way. In the last five hundred years after the passing of the Tathagata, there may be beings who, having practised rules of morality and, being thus possessed of merit, happen to hear of these statements and rouse a true faith in them. Such beings, you must know, are those who have planted their root of merit not only under one, two, three, four, or five Buddhas, but already under thousands of myriads of asamkhyeyas of Buddhas have they planted their root of merit of all kinds. Those who hearing these statements rouse even one thought

[1. Dharma, that is, the object of manovijnana, thought, as form (rupa) is the object of the visual sense, sound that of the auditory sense, odour that of the olfactory sense, and so forth.]

of pure faith, Subhuti, are all known to the Tathagata, and recognized by him as having acquired such an immeasurable amount of merit. Why? Because all these beings are free from the idea of an ego, a person, a being, or a soul; they are free from the idea of a dharma as well as from that of a no-dharma. Why? Because if they cherish in their minds the ,idea of a form, they are attached to an ego, a person, a being, or a soul. If they cherish the idea of a dharma, they are attached to an ego, a person, a being, or a soul. Why? If they cherish the idea of a no-dharma, they are attached to an ego, a person, a being, or a soul. Therefore, do not cherish the idea of a dharma, nor that of a no-dharma. For this reason, the Tathagata always preaches thus: 'O you Bhikshus, know that my teaching is to be likened unto a raft. Even a dharma is cast aside, much more a no-dharma.'

また、師はスブーティ長老に向かって問われた。
「スブーティよ、如来がこの上ない正しい覚りであるとして
現に覚っている法がなにかあるだろうか。
また、如来によって教え示された法がなにかあるのだろうか。」

スブーティ長老はこう答えた。
「師よ、私が師の説とかれたことの意味を理解したところによると、
如来がこの上ない正しい覚りであるとして現に覚っておられる法というものは
なにもありません。
また、如来が教えを示されたという法もありません。
なぜかといえば、如来が現に覚られたり、教えを示されたりした法と言うものは、
認識することもできなければ、口で説明することもできないからです。
それは、法でもなく、法でないものでもありません。
それはなぜかというと、正しく目ざめた人というのは
無限定なものによって顕されているからです。」

 

師は問われた。
「スブーティよ、修行者が≪はてしなく広い宇宙≫を7つの宝で満たして、
如来に施したとすると彼らは多くの功徳を積んだことになるのであろうか。」

スブーティは答えた。
「修行者はそのことによって、多くの功徳を積んだことになります。
なぜかというと<如来によって説かれた功徳を積むということは、
功徳を積まないということだ>と如来が説かれているからです。
それだから、如来は<功徳を積む、功徳を積む>と説かれるのです。」

師は言われた。
「ところで、修行者がいてこのはてしなく広い宇宙を7つの宝で満たして、
如来に施すとしても、この法門から四行詩ひとつでもとり出して、
他の人たちの為に詳しく示し説いて聞かせる者があるとすれば、
こちらの方がはるかに多くの功徳を積むことになるのだ。
それはなぜかというと、如来の正しい覚りもそれから生じたのであり、
目ざめさせた人もそこから生まれたのだ。
なぜかというと、<目ざめた人の理法、
目ざめた人の理法と言うのは、目ざめた人の理法ではない>と如来が説いているからだ。
それだからこそ、目ざめた人の理法と言われるのだ。」

7. "Subhuti, what do you think? Has the Tathagata attained the supreme enlightenment? Has he something about which he would preach?"

Subhuti said: "World-honoured One, as I understand the teaching of the Buddha, there is no fixed doctrine about which the Tathagata would preach. Why? Because the doctrine he preaches is not to be adhered to, nor is it to be preached about; it is neither a dharma nor a no-dharma. 'How is it so? Because all wise men belong to the category known as non-doing (asamskara), and yet they are distinct from one another.

8. "Subhuti, what do you think? If a man should fill the three thousand chiliocosms with the seven precious treasures and give them all away for charity, would not the merit he thus obtains be great?"

Subhuti said: "Very great, indeed, World-honoured One."

"Why? Because their merit is characterized with the quality of not being a merit. Therefore, the Tathagata speaks of the merit as being great. If again there is a man who, holding even the four lines in this sutra, preaches about it to Others, his merit will be superior to the one just mentioned. Because, Subhuti, all the Buddhas and their supreme enlightenment issue from this sutra. Subhuti, what is known as the teaching of the Buddha is not the teaching of the Buddha.


3/10

師は言われた。
「スブーティよ≪永遠の平安への流れに乗った者≫が、
<わたしは、永遠の平安の流れに乗った者になった>というような考えを起こすだろうか。」

スブーティは答えた。
「師よ、そういうことはありません。
永遠の平安への流れに乗った者が、
<わたしは、永遠の平安への流れに乗った者というなった>
というような考えをおこすはずはありません。
それはなぜかというと、彼はなにものも得ているわけではないからです。
だからこそ、≪永遠の平安への流れに乗った者≫と言われるのです。
彼らは形を得たのではなく、声や、香りや、味や、触れられるものや、
心の対象を得たわけでもありません。
それだからこそ、≪永遠の平安への流れに乗った者≫と言われるのですよ。
もし、永遠の平安への流れに乗った者が、
<わたしは、永遠の平安への流れに乗った者になった>
というような考えをおこしたとすると、彼には自我に対する執着があることになり、
生きている者に対する執着、個体に対する執着、
個人に対する執着があるということになりましょう。」

師は問われた。
「≪もう一度だけ生まれかわって覚る者≫が、
<わたしは、もう一度だけ生まれかわって覚る者になった>
というような考えを起こすだろうか。」

スブーティは答えた。
「そういうことはありません。もう一度だけ生まれかわって覚る者が、
<わたしはもう一度だけ生まれかわって覚る者になった>
というような考えをおこすはずがありません。
それはなぜかというと、もう一度だけ生まれかわって覚るものになったといっても、
なにもそういうものがあるわけではないからです。
だからこそ、≪もう一度だけ生まれかわって覚る者≫と言われるのです。」

師は問われた。
「≪もう決して生まれかわって来ない者≫が、
<わたしはもう決して生まれかわって来ない者になった>
というような考えを起こすだろうか。」

スブーティは答えた。
「そういうことはありません。もう決して生まれかわって来ない者が、
<わたしはもう決して生まれかわって来ない者になった>
というような考えをおこすはずはありません。
なぜかというと、もう決して生まれかわって来ない者になったといっても、
なにもそういうものがあるわけではないからです。
それだからこそ、≪もう決して生まれかわって来ない者≫と言われるのです。」




師は問われた。
「≪尊敬されるべき人≫が、
<わたしは尊敬されるべき人になった>というような考えをおこすだろうか。」

スブーティは答えた。
「そういうことはありません。尊敬されるべき人が、
<わたしは尊敬されるべき人になった>というような考えをおこすはずがありません。
なぜかというと、尊敬されるべき人といわれるようなものはなにもないからです。
だからこそ、≪尊敬されるべき人≫と言われるのです。
もし、尊敬されるべき人が<私は尊敬されるべき人になった>
というような考えをおこしたとすると、彼には自我に対する執着があることになり、
生きている者に対する執着、個体に対する執着、
個人に対する執着があるということになりましょう。

なぜかというと、如来は私のことを、
≪争いのない境地を楽しむ第一人者≫と仰せられました。
私は尊敬されるべき人であり、欲望をはなれています、
しかし、私は<私は尊敬されるべき人であり、欲望をはなれている>
というような考えを起こしません。
もし、私が<私は尊敬されるべき人に達している>
というような考えを起こしていたとするならば、如来が私のことを、
『立派な若者であるスブーティは争いを離れた境地を楽しむ第一人者であり、
どこにもとらわれないから、争いを離れたものである。』
などと断言したりはなさらなかったでしょう。」

師は問われた。
「如来が、然燈如来のもとで得られたものが、なにかあるだろうか。」

スブーティは答えた。
「そういうことはありません。
如来が然燈如来のみもとで得られたものは、なにもありません。」

師は言われた。
「もし、ある修行者が『私は国土の建設をなしとげるだろう』と、
このように言ったとすれば、彼は間違った事を言ったことになるのだ。
なぜかというと、如来は<国土の建設というのは、国土の建設でないことだ>
と説かれているからだ。だからこそ、<国土の建設>と言われるのだ。

それだから、修行者はとらわれない心をおこさなければならない。
何ものかにとらわれた心をおこしてはならない。形にとらわれた心をおこしてはならない。
声や、香りや、味や、触れられるものや、心の対象にとらわれた心をおこしてはならない。
たとえば、ここに一人の人がいて、
その体は整っていて大きく山の王のようであったとするならば、
彼の身体は大きいであろうか。」

スブーティは答えた。
「その体は大きいですとも。
なぜかというと、如来は『体、というがそんなものはない』と仰せられたからです。
だからこそ、<体>と言われるのです。それは有でもなく、無でもないのです。
だからこそ、<体>といわれるのです。」


9. "Subhuti, what do you think? Does a Srotapanna think in this wise: 'I have obtained the fruit of Srotapatti'?"

Subhuti said: "No, World-honoured One, he does not. Why? Because while Srotapanna means 'entering the stream' there is no entering here. He is called a Srotaparma who does not enter [a world of] form, sound, odour, taste, touch, and quality.

"Subhuti, what do you think? Does a Sakridagamin think in this wise, 'I have obtained the fruit of a Sakridagamin'?"

Subhuti said: "No, World-honoured One, he does not. Why? Because while Sakridagamin means 'going-and-coming for once', there is really no going-and-coming here, and he is then called a Sakridagamin."

"Subhuti, what do you think? Does an Anagamin think in this wise: 'I have obtained the fruit of an Anagamin'?"

Subhuti said: "No, World-honoured One, he does not. Why? Because while Anagamin means 'not-coming' there is really no not-coming and therefore he is called an Anagamin."

"Subhuti, what do you think? Does an Arhat think in this wise: 'I have obtained Arhatship'?"

Subhuti said: "No, World-honoured One, he does not. Why? Because there is no dharma to be called Arhat. If, World-honoured One, an Arhat thinks in this wise: 'I have obtained Arhatship,' this means that he is attached to an ego, a person, a being, or a soul. Although the Buddha says that I am the foremost of those who have attained Aranasamadhi,[1] that I am the foremost of those Arhats who are liberated from evil desires, World-honoured One, I cherish no such thought that I have attained Arhatship. World-honoured One, [if I did,] you would not tell me: 'O Subhuti,

[1. That is, Samadhi of non-resistance. Arana also means a forest where the Yogin retires to practise his meditation.]

are one who enjoys the life of non-resistance.' Just because Subhuti is not at all attached to this life, he is said to be the one who enjoys the life of non-resistance."

10. The Buddha said to Subhuti: "What do you think?

When the Tathagata was anciently with Dipankara Buddha did he have an attainment in the Dharma?"

"No, World-honoured One, he did not. The Tathagata while with Dipankara Buddha had no attainment whatever the Dharma."

"Subhuti, what do you think? Does a Bodhisattva set any Buddha-land in array?"

"No, World-honoured One, he does not."

"Why? Because to set a Buddha-land in array is not to set it in array, and therefore it is known as setting it in array. Therefore, Subhuti, all the Bodhisattva-Mahasattvas should thus rouse a pure thought. They should not cherish any thought dwelling on form; they should -not cherish any thought dwelling on sound, odour, taste, touch, and quality; they should cherish thoughts dwelling on nothing whatever. Subhuti, it is like unto a human body equal in size to Mount Sumeru; what do you think? Is not this body large?"

Subhuti said: "Very large indeed, World-honoured One. Why? Because the Buddha teaches that that which is no-body is known as a large body."




4/10

師は問われた。
「スブーティよ、ガンジス河の砂の数だけガンジス河があるとしよう。
それらの河にある砂は多いであろうか。」

スブーティは答えた。
「師よ、それだけのガンジス河でさえも、おびただしい数にのもぼりましょう。
まして、それらのガンジス河にある砂の数に至ってはなおさらのことです。」

師は言われた。
「あなたに理解させよう。
それらのガンジス河にある砂の数だけの世界をある人が7つの宝で満たして、
如来に施したとしよう。
そのことによって、その人は多くの功徳を積んだことになるであろうか。」

スブーティは答えた。
「その人はそのことによって、多くの計り知れない功徳を積んだことになるのです。」

11. "Subhuti, regarding the sands of the Ganga, suppose there are as many Ganga rivers as those sands, what do you think? Are not the sands of all those Ganga rivers many?"

Subhuti said: "Very many, indeed, World-honoured one."

"Considering such Gangas alone, they must be said to be numberless; how much more the sands of all those Ganga rivers! Subhuti, I will truly ask you now. If there is a good man or a good woman who, filling all the worlds in the three thousand chiliocosms--all the worlds as many as the sands of these Ganga rivers--with the seven precious treasures, Uses them all for charity, would not this merit be very large?"

Subhuti said: "Very large indeed, World-honoured One."

Buddha said to Subhuti: "If a good man or a good woman holding even four lines from this sutra preach it to others, this merit is much larger than the preceding one.


師は言われた。
「その人がそれだけの世界を7つの宝で満たして如来に施すとしても、
もしもこの訪問から四行詩ひとつでもとり出して他の人々のために示し
説いて聞かせるとすれば、こちらの方がいっそう多くの功徳を積むことになるのだ。

さらに、どのような地方でもこの法門から四行詩ひとつでもとり出して、
話したり説いて聞かせたりされるとすれば、
その地方は神々と人間と阿修羅たちを含む世界にとって、尊いものとなるだろう。
まして、この訪問を余すところなく記憶し、読み、研究し、
他の人々の為に詳しく説いて聞かせる者どもがあるとすれば、
彼らは≪最高の徳をそなえた者≫となるに違いない。
そういう地方には師と仰がれる者が住み、様々な≪聡明なる詩の地位にある者≫が住むのだ。」

このように言われた時に、スブーティ長老は師に向かって問うた。
「この法門の名は何と申しますか。
また、これをどのように記憶したらよいでしょうか。」

師はこう答えられた。
「この法門は≪智慧の完成≫と名付けられる。そのように記憶するがよい。
なぜかというと、『如来によって説かれた≪智慧の完成≫は、智慧の完成ではない』と
如来によって説かれているからだ。だからこそ、<智慧の完成>と言われるのだ。

如来によって説かれた法というものがなにかあるだろうか。」
スブーティは答えた。
「そういうものはありません。如来によって説かれた法というものはなにもありません。」

師は問われた。
「このはてしなく広い宇宙の大地の塵は多いであろうか。」

スブーティは答えた。
「それは多いですとも。なぜかというと、
『如来によって説かれた大地の塵は、大智の塵ではない』と
如来によって説かれているからです。
それだからこそ、大智の塵と言われるのです。
また、『如来によって説かれたこの世界は、世界ではない』と
如来によって説かれているからです。
それだからこそ、<世界>と言われるのです。」

師は問われた。
「如来は偉大な人物に具わる32の特徴によって見分けられるであろうか。」

スブーティは答えた。
「そいうではありません。
如来は偉大な人物に具わる32の特徴によって見分けられるものではありません。
なぜかというと、
『如来によって説かれた、偉大な人物に具わる32の特徴は、特徴ではない』
と如来が説かれているからです。
だからこそ、<偉大な人物に具わる32の特徴>と言われるのです。」

師は言われた。
「ひとりの人が毎日、ガンジス河の砂の数だけの体を捧げ続けたとしても
この法門から四行詩ひとつでもとり出して、他の人々のために教え示し、
説いて聞かせるものがあるとすれば、
こちらの方がいっそう多くの功徳を積むことになるであろう。」

12. "Again, Subhuti, wherever this sutra or even four lines of it are preached, this place will be respected by all beings including Devas, Asuras, etc., as if it were the Buddha's own shrine or chaitya; how much more a person who can hold and recite this sutra! Subhuti, you should know that such a person achieves the highest, foremost, and most wonderful deed. Wherever this sutra is kept, the place is to be regarded as if the Buddha or a venerable disciple of his were present."

13. At that time, Subhuti said to the Buddha: "World-honoured One, what will this sutra be called? How should we hold it?"

The Buddha said to Subhuti: "This sutra will be called the Vajra-prajna-paramita, and by this title you will hold it. The reason is, Subhuti, that, according to the teaching of the Buddha, Prajnaparamita is not Prajnaparamita and therefore it is called Prajnaparamita. Subhuti, what do you think? Is there anything about which the Tathagata preaches?"

Subhuti said to the Buddha: "World-honoured One, there is nothing about which the Tathagata preaches."

"Subhuti, what do you think? Are there many particles of dust in the three thousand chiliocosms?"

Subhuti said: "Indeed, there are many, World-honoured One."

"Subhuti, the Tathagata teaches that all these many particles of dust are no-particles of dust and therefore that they are called particles of dust; he teaches that the world is no-world and therefore that the world is called the world.

"Subhuti, what do you think? Is the Tathagata to be recognized by the thirty-two marks [of a great man]?"

"No, World-honoured One, he is not."

"The Tathagata is not to be recognized by the thirty-two marks, because what are said to be the thirty-two marks are told by the Tathagata to be no-marks and therefore to the thirty-two marks. Subhuti, if there be a good man or a good woman who gives away his or her lives as many as the sands of the Ganga, his or her merit thus gained does not exceed that of one who, holding even one gatha of four lines from this sutra, preaches them for others."


5/10

そのとき、スブーティ長老は法に感動して涙を流した。
彼は涙を拭ってから、師に向かってこのように言った。
「師よ、まったくすばらしいことです。
≪この飢えない道に向かう人々≫、≪もっとも勝れた道に向かう人々≫のために、
この法門を如来が説かれたということは。それによって、私に智が生じたということは。
私は、このような種類の法門を未だかつて聞いたことがありません。
この経が説かれるのを聞いて真実だという思いを生ずる修行者は、
この上ないすばらしい性質を具えた人々でありましょう。
それはなぜかというと、真実だという思いは、真実でないという思いだからです。
だからこそ、如来は<真実だという思い>と説かれるのです。

〔しかし、この法門が説かれているときに、
私がそれを受け入れ理解するということはそれほど難しいことではありません。
しかし、これから先の正しい教えが滅びる頃に、
ある人々がこの法門をとりあげて、記憶し、唱え、研究し、
他の人々のために詳しく説明するでありましょうが、
その人々は最も素晴らしい性質を具えた者ということになるでしょう。〕

けれども、それらの人々には自己という思いはおこらないし、
生きているものという思いや、個体という思いや、個人という思いもおこらないでしょう。
また、それらの人々には思うということも、思わないということもおこりません。
なぜかというと、自己という思いは思わないということにほかなりませんし、
生きているものという思いも、個体という思いも、個人という思いも、
思わないということに他ならないからです。
なぜかというと、みほとけである彼らは一切の思いを遠く離れているからです。」

このように言われたとき、師はスブーティ長老に向かって言われた。
「その通りだ。この経が説かれるときに、驚かず、怖れず、恐怖に陥らない人々は、
この上ない素晴らしい性質を具えた人々である。
なぜかというと、如来の説かれたこの最上の完成は、実は完成ではないからだ。
如来が最上の完成であると説いたそのことを多くの修行者が説いているからだ。
だからこそ、<最上の完成者>と言われるのだ。

けれども、如来における忍耐の完成は、実は完成ではないのだ。
なぜかというと、かつてある悪魔がわたちの体や手足から肉を切り取ったその時にさえも、
私は自己という思いも、生きものという思いも、個体という思いも、
個人という思いもなかったし、思うということも、
思わないということもなかったからである。

それはなぜかというと、あの時に私に自己という思いがあったとすると、
その時の私に≪怨みの思い≫があったに違いないし、
もし、生きているものという思いや、個体という思いや、個人という思いがあったとすると、
その時に私に怨みの思いがあったに違いないからだ。

なぜかというと、私は思い出すのだ。
過去の世に、500の障害の間わたしが≪忍耐を説く者≫という名の仙人であったことを。
その際にも私には自己という思いはなかったし、生きているものという思いもなかったし、
個体という思いもなかったし、個人という思いもなかったからだ。

それだから、修行僧は一切の思いを捨てて
この上なく正しい目ざめに心をおこさなければならない。
形にとらわれた心をおこしてはならない。
声や、香りや、触れられるものや、心の対象にとらわれた心をおこしてはならない。
法にとらわれた心をおこしてはならない。
法でないものにとらわれた心をおこしてはならない。
どんなものにもとらわれた心をおこしてはならない。
なぜかというと、とらわれているということは、とらわれていないということだからだ。
それだから、如来は<修行者はとらわれることなく施しをしなければならぬ。
形や、声や、香りや、触れられるものや、心の対象にとらわれないで、
施しをしなければならぬ>と説かれたのだ。

さらにまた、修行者は生きとし生けるもののために
このような施しを与えなければならない。
なぜかというと、この生き物という思いは、思いでないということに他ならないからだ。
このように、如来が生きとし生けるものと説かれたこれらのものどもは、
実は生き物ではない。
なぜかというと、如来は真実を語る者であり、ありのままに語る者であり、
あやまりなく語る者であるからだ。如来はいつわりを語る者ではないのだ。

さらに、如来が現に覚られ、示され、思いめぐらされた法の中には、
真理もなければ、虚妄もない。
これをたとえると、〔たとえ眼が合っても〕闇の中に入った人が
なにものも見ないようなものだ。
ものごとの中に堕ちこんだ修行者もそのように見なすべきである。
彼は物事の中に堕ちこんで施しを与えるのだ。

またこれをたとえると、眼を持った人は夜が明けて太陽が昇ったときに、
いろいろな彩をみることができるようなものだ。
ものごとの中に堕ちこまない修行者もそのように見なされるべきである。
彼らは物事の中に堕ちこまないで施しを与えるのだ。

さて、立派な修行者がこの法門をとり上げ、記憶し、唱え、理解し、
他の人々に詳しく説いて聞かせるとしよう。
如来は、目ざめた人の智慧でこういう人々を知っている。
如来は目ざめた人の眼でこういう人々を見ている。
如来はこういう人々を覚っている。
これらすべての人々は計り知れない福徳を積んで、
自分のものとするようになるに違いないのだ。」


14. At that time Subhuti, listening to this sutra, had a deep understanding of its signification, and, filled with tears of gratitude, said this to the Buddha: "Wonderful, indeed, World-honoured One, that the Buddha teaches us this sutra full of deep sense. Such a sutra has never been heard by me even with an eye of wisdom acquired in my past lives. World-honoured One, if there be a man who listening to this sutra acquires a pure believing heart he will then have a true idea of things. This one is to be known as having achieved a most wonderful virtue. World-honoured One, what is known as a true idea is no-idea, and for this reason it is called a true idea.

"World-honoured One, it is not difficult for me to believe, to understand, and to hold this sutra to which I have now listened; but in the ages to come, in the next five hundred years, if there are beings who listening to this sutra are able to believe, to understand, and to hold it, they will indeed be most wonderful beings. Why? Because they will have no idea of an ego, of a person, of a being, or of a soul. For what reason? The idea of an ego is no-idea [of ego], the idea of a person, a being, or a soul is no-idea [of a person, a being, or a soul]. For what reason? They are Buddhas who are free from all kinds of ideas."

The Buddha said to Subhuti, "It is just as you say. If there be a man who, listening to this sutra, is neither frightened nor alarmed nor disturbed, you should know him as a wonderful person. Why? Subhuti, it is taught by the Tathagata that the first Paramita is no-first-Paramita and therefore it is called the first Paramita. Subhuti, the Paramita of humility (patience) is said by the Tathagata to be no-Paramita of humility, and therefore it is the Paramita of humility. Why? Subhuti, anciently, when my body was cut to pieces by the King of Kalinga, I had neither the idea of an ego, nor the idea of a person, nor the idea of a being, nor the idea of a soul. Why? When at that time my body was dismembered, limb after limb, joint after joint, if I had the idea either of an ego, or of a person, or of a being, or a soul, the feeling of anger and ill-will would have been awakened in me. Subhuti, I remember, in my past five hundred births, I was a rishi called Kshanti, and during those times I had neither the idea of an ego, nor that of a person, nor that of a being, nor that of a soul.

"Therefore, Subhuti, you should, detaching yourself from all ideas, rouse the desire for the supreme enlightenment. You should cherish thoughts without dwelling on form, you should cherish thoughts without dwelling on sound, odour, taste, touch, or quality. Whatever thoughts you may have, they are not to dwell on anything. If a thought dwells on anything, this is said to be no-dwelling. Therefore, the Buddha teaches that a Bodhisattva is not to practise charity by dwelling on form. Subhuti, the reason he practises charity is to benefit all beings.

"The Tathagata teaches that all ideas are no-ideas, and again that all beings are no-beings. Subhuti, the Tathagata is the one who speaks what is true, the one who speaks what is real, the one whose words are as they are, the one who does not speak falsehood, the one who does not speak equivocally.

"Subhuti, in the Dharma attained by the Tathagata there is neither truth nor falsehood. Subhuti, if a Bodhisattva should practise charity, cherishing a thought which dwells on the Dharma he is like unto a person who enters the darkness, he sees nothing. If he should practise charity without cherishing a thought that dwells on the Dharma, he is like unto a person with eyes, he sees all kinds of forms illumined by the sunlight.

"Subhuti, if there are good men and good women in the time to come who hold and recite this sutra, they will be seen and recognized by the Tathagata with his Buddha-knowledge, and they will all mature immeasurable and innumerable merit.



6/10

また、スブーティよ修行者が午前中にガンジス川の砂の数ほどの身体を捧げ、
同じように昼にも体を捧げ、夜にも体を捧げ、この方法によって無限の間、
体を捧げるとしても、この法門を聞いて謗ったりしないならば、
こちらの方がさらに多くの計り知れない福徳を積むことになるのだ。
また、書き写してから学び、記憶し、誦え、理解し、他の人々に詳しく説いて
聞かせるものがあれば、なおさらのことだ。

さらに、この法門は不可思議で比べるものがない。
如来はこの法門をこの上ない道に向かう人々のために、最も優れた人々のために説かれた。
ある人々はこの法門をとりあげ、記憶し、誦え、理解し、
他の人々に詳しく聞いて聞かせるだろう。
如来は目ざめた人の智慧によってこういう人々を知っている。
如来はこういう人々を覚っている。
これらすべての人々は計り知れない福徳を積んだことになるだろう。
不可思議で、比べるものがなく、限りなく、無量の福徳を積んだことになるだろう。
これらすべての人々は、みずから目ざめにあずかるようになるだろう。

それはなぜかというと、この法門を理解の劣った人間は聞くことができないからだ。
自己に対する執着の見解のある人、生きている者に対する執着の見解のある人、
個体に対する執着の見解のある人、
個人に対する執着の見解ある人々は聞くことができないからだ。
修行者の誓いを立てない人々はこの法門を聞いたり、あるいは取り上げたり、
記憶したり、誦えたり、理解したりすることはできない。
そのようなことわりはあり得ないのだ。

けれども、どのような地方でもこの経が説かれる地方は、
神々と人間と阿修羅たちを含む世界が供養すべきこととなるだろう。
この地方は右回りに礼拝されることとなるだろう。
その地方は塔廟にもひとしいものとなるだろう。

 

これども、立派な修行者たちがこのような経典をとり上げ、
記憶し、誦え、理解し、十分に思いめぐらし、他の人々に詳しく説いて聞かせたとしても。
そういう人たちが辱められたりすることがあるかも知れない。
なぜかというと、こういう人たちは前の生涯において、
罪の報いに導かれるような幾多の汚れた行いをしていたけれども、
現在において、辱められることによって前の障害の不浄な行いの償いをしたことになり、
目ざめた人の悟りを得るようになるのだ。

それなぜかというと、私はありありと思い出す。
数え切れないほど無限の昔に然燈という如来がおられ、
それよりも以前、もっと以前に、数限りない目ざめた人々がおられた。
私はこれらの人々に仕えて喜ばせ、仕えて喜ばせてはやめることがなかった。

私はこれらの目ざめた人々に仕えて喜ばせるのを休むことはなかったけれども、
後の時世になって第2の500年代に正しい教えが滅びる頃になって、
このような経典をとり上げ、記憶し、誦え、理解し、
他の人々に詳しく説いて聞かせる者があるとすれば、
実にこちらの方の福徳の積み方に比べると、前の福徳の積み方は
その百分の1にも及ばないし、千分の1にも、万分の1にも、
億分の1にも、兆分の1にも、百千億兆分の1にも及ばないのだ。
数量にも、区分にも、計算にも、喩えにも、類比にも、相似にも値することができないのだ。

もしも私がこれらの立派な若者たちや修行者たちの積む福徳について説明するとしたならば、
その際にこれらの立派な者たちが福徳を積んだり、身につけたりするかを聞くに及んで、
人々は気が変になったり、心が錯乱したりするようになるだろう。
また、この法門は不可思議であると如来は説かれたが、
その酬いも不可思議であると期待されるのだ。

 


15. "Subhuti, if there is a good man or a good woman who would in the first part of the day sacrifice as many bodies of his or hers as the sands of the Ganga, and again in the middle part of the day sacrifice as many bodies of his or hers as the sands of the Ganga, and again in the latter part of the day sacrifice as many bodies of his or hers as the sands of the Ganga, and keep up these sacrifices through hundred-thousands of myriads of kotis of kalpas; and if there were another who listening to this sutra would accept it with a believing heart, the merit the latter would acquire would far exceed that of the former. How much more the merit of one who would copy, hold, learn, and recite and expound it for others!

"Subhuti, to sum up, there is in this sutra a mass of merit, immeasurable, innumerable, and incomprehensible. The Tathagata has preached this for those who were awakened in the Mahayana (great vehicle), he has preached it for those who were awakened in the Sreshthayana (highest Vehicle). If there were beings who would hold and learn and expound it for others, they would all be known to the Tathagata and recognized by him, and acquire merit which is unmeasured, immeasurable, innumerable, and incomprehensible. Such beings are known to be carrying the supreme enlightenment attained by the Tathagata. 'Why? Subhuti, those who desire inferior doctrines are attached to the idea of an ego, a person, a being, and a soul. They are unable to hear, hold, learn, recite, and for others expound this sutra. Subhuti, wherever this sutra is preserved, there all beings, including Devas and Asuras, will come and worship it. This place will have to be known as a chaitya, the object of worship and obeisance, where the devotees gather around, scatter flowers, and burn incense.

7/10

そのときスブーティ長老は、師に向かって次のように問うた。
「師よ、修行者の道に進んだ者はどのように生活し、行動し、心を保ったらよいのですか。」

師は答えられた。
「スブーティよ、修行者の道に進んだものは次のような心をおこすべきだ。
すなわち、『私は生きとし生ける者を、
汚れのない永遠の平和の境地に導き入れなければならない。
しかも、生きとし生ける者を導き入れても、
実は誰一人として永遠の平和に導き入れられたものはないのだ。』と。

それはなぜかというと、もし修行者が≪生存するもの≫という思いをおこすとすれば、
かれはもはや修行者とは言われないからだ。
個体という思いや、個人という思いなどをおこしたりする者は、
修行者とはいわれないからだ。
なぜかというと、<修行者の道に向かった人>というようなものは存在しないからだ。

スブーティよ、どう思うか。
如来が然燈如来のみもとで、この上ない正しい覚りを現に覚ったというようなことがらが
なにかあるのだろうか。」

このように問われたときに、スブーティ長老は師に向かって次のように答えた。
「私が師の仰せられた言葉の意味を理解している限りでは、如来が然燈如来のみもとで、
この上ない正しい覚りを現に覚られたというような事柄は何もありません。」

師は長老に向かってこのように言われた。
「そのとおりだ。
如来が然燈如来の元でこの上ない正しい覚りを現に覚られたというようなことがらは
なにもないのだ。

もし、如来が現に覚られた方法が何かあるとするならば、
然燈如来が私のことを『若君よ、あなたは未来の世に釈迦牟尼という名の
如来となるだろう』などと予言したりはなさらなかっただろう。

けれども今、如来がこの上ない正しい覚りとして現に覚られたような法は
なにもないのだから、私は然燈如来によって
『若者よ、貴方は未来の世に釈迦牟尼という名の如来となるだろう』と予言されたのだ。

それはなぜかというと、<如来>というのは真如の異名なのだ。
〔如来というのは、生ずることはないという存在の本質の異名なのだ。
これは、存在の断絶の異名なのだ。究極的に不生であるということの異名なのだ。
なぜかというと、生ずることがないというのが最高の真理だからだ。〕

もしも誰かが、『如来がこの上ない正しい覚りを現に覚られた』と言ったとすると。
その人は誤りを言ったことになる。
彼は真実でないことに執着して、私を謗っていることになるだろう。
なぜかというと、如来がこの上ない正しい覚りを現に覚ったというような事柄は、
なにもないからだ。
また、如来が現に覚りを示された法には真実もなければ虚妄もないのだ。
それだから如来は『あらゆる法は、目ざめた人の法である』と説くのだ。
なぜかというと、『あらゆる法というものは実は法ではない』と、
如来によって説かれているからだ。それだからこそ≪あらゆる法≫と言われるのだ。

例えば、身が整い大きな人があるというようなものだ。」

スブーティ長老は言った。
「如来が、<身が整い大きな人>と説かれたかの人は、
実は体のない人であると如来は説かれました。
それだからこそ、<身が整い大きい>と言われるのです。」

師は言われた。
「そのとおりだ。
もし、ある修行者が『私は生きとし生ける者どもを永遠の平和に導くだろう』と、
言ったとすればその人は修行者であるとは言うことはできない。
なぜかというと、一体かの修行者と名付けられるようなものがなにかあるのだろうか。」

スブーティ長老は答えた。
「そうではありません。かの修行者と名付けられるようなものはなにもありません。」

師は言われた。
「『<生きているもの><生きているもの>というのは、実は生きているものではない』
と如来は言っている。だからこそ、生きているものと言われるのだ。
それだから如来は、『すべてのものには自我というものはない、
すべてのものには生きているというものはない。
個体というものはない。個人というものはない。』と言われるのだ。

16. "Again, Subhuti, there are some good men and good women who will be despised for their holding and reciting this sutra. This is due to their previous evil karma for the reason of which they were to fall into the evil paths of existence; but because of their being despised in the present life, whatever evil karma they produced in their previous lives will be thereby destroyed, and they will be able to attain the supreme enlightenment.

"Subhuti, as I remember, in my past lives innumerable asamkhyeya kalpas ago I was with Dipankara Buddha, and at that time I saw Buddhas as many as eighty-four hundred. thousands of myriads of nayutas and made offerings to them and respectfully served them all, and not one of them was passed by me.

"If again in the last [five hundred] years, there have been people who hold and recite and learn this sutra, the merit they thus attain [would be beyond calculation], for when this is compared with the merit I have attained by serving all the Buddhas, the latter will not exceed one hundredth part of the former, no, not one hundred thousand ten millionth part. No, it is indeed beyond calculation, beyond analogy.

"Subhuti, if there have been good men and good women in the last five hundred years who hold, recite, and learn this sutra, the merit they attain thereby I cannot begin to enumerate in detail. If I did, those who listen to it would lose their minds, cherish grave doubts, and not believe at all how beyond comprehension is the significance of this sutra and how also beyond comprehension the rewards are."[1]



もし、ある修行者が『私は国土の建設を成し遂げるだろう』と言ったとすれば、
この人もまた修行者ではないと言わなければならない。
なぜかといと、如来は『<国土の建設>、<国土の建設>とうのは、建設でないことだ』
と説いているからだ。だからこそ、<国土の建設>と言われるのだ。

もし、修行者が<ものには自我がない。ものには自我がない。>と信じて理解すれば、
如来はその人を如来であると説くのだ。」

 

師は問われた。
「スブーティよ、どう思うか。如来には肉眼があるだろうか。」

スブーティは答えた。
「師よ、その通りです。如来には肉眼があります。」

師は問われた。
「如来には天眼があるだろうか。」

スブーティは答えた。
「その通りです。如来には天眼があります。」

師は問われた。
「如来には智慧の眼があるだろうか。」

スブーティは答えた。
「その通りです。如来には智慧の眼があります。」

師は問われた。
「如来には法の眼があるだろうか。」

スブーティは答えた。
「その通りです。如来には法の眼があります。」

師は問われた。
「如来には仏眼があるだろうか。」

スブーティは答えた。
「その通りです。如来には仏眼があります。」

師は問われた。
「ガンジスの大河にある限りの砂、その砂を如来は説いたであろうか。」

スブーティは答えた。
「その通りです。如来はその砂を説かれました。」

師は問われた。
「ガンジスの大河にあるかぎりの砂の数だけガンジス河があり、
そしてそれらの中にある砂の数だけの世界があるとすれば、その世界は多いであろうか。」

スブーティは答えた。
「その通りですとも。それらの世界は多いでありましょう。」

師は言われた。
「これらの世界にある限りの生きものたちの、様々な心の流れを私は知っているのだ。
なぜかというと、『<心の流れ>というのは、流れではない』と如来は説いているからだ。
それだからこそ、<心の流れ>と言われるのだ。
それはなぜかというと、過去の心はとらえようがなく、未来の心はとらえようがなく、
現在の心はとらえようがないからなのだ。

18. The Buddha said to Subhuti: "Of all beings in those innumerable lands, the Tathagata knows well all their mental traits. Why? Because the Tathagata teaches that all those mental traits are no-traits and therefore they are

[1. This finishes the first part of the Diamond Sutra as it is usually divided here and passes on to the second part. The text goes on in a similar strain through its remaining section. Indeed, there are some scholars who think that the second part is really a repetition of the first, or that they are merely different copies of one and the same original text, and that whatever variations there are in these two copies arc the result of the glosses mixed into the text itself. While I cannot wholly subscribe to this view, the fact is that passages containing similar thoughts recur throughout the whole Prajnaparamita literature. In view of this I quote in the following only such ideas as have not fully been expressed in the first part.]

known to be mental traits. Subhuti, thoughts[1] of the past are beyond grasp, thoughts of the present are beyond grasp, and thoughts of the future are beyond grasp."

23. "Again, Subhuti, this Dharma is even and has neither elevation nor depression; and it is called supreme enlightenment. Because a man practises everything that is good, without cherishing the thought of an ego, a person, a being, and a soul, he attains the supreme enlightenment. Subhuti, what is called good is no-good, and therefore it is known as good."


8/10

スブーティよ、立派な修行者がこのはてしなく広い宇宙を7つの宝で満たして、
如来に施したとすると、彼らはそのことによって多くの福徳を積んだことになるだろうか。」

スブーティは答えた。
「師よ、多いですとも。」

師は言われた。
「その通りだ。立派な修行者はそのことによって多くの福徳を積むことになるのだ。
それはなぜかというと、『<功徳を積む>ということは、積まないということだ』
と如来が説いているからだ。それだからこそ、<功徳を積む>と言われるのだ。
もし功徳を積むということがあるとすれば、如来は<功徳を積む>
とは説かなかったであろう。
どう思うか。如来を、端麗な身体を完成している者として見るべきであろうか。」

スブーティは答えた。
「そうではありません。如来を端麗な身体を完成している者として
見るべきではありません。
なぜかというと、『<端麗な身体を完成している>というのは、
実はそなえていないということなのだ』と、如来が説かれているからです。
だからこそ、<端麗な身体を完成している>と言われるのです。」

師は問われた。
「如来は特徴をそなえた者として見るべきであろうか。」

スブーティは答えた。
「そうではありません。如来は特徴をそなえたものであると見なしてはならないのです。
なぜかというと、『特徴をそなえていると如来の説かれたことは、
実は特徴をそなえていないということだ』と如来が仰せられたからです。
それだからこそ、<特徴をそなえている>言われるのです。」

 

師は問われた。
「<私が法を教え示した>というような考えが如来に起こるだろうか。」

スブーティは答えた。
「そうではありません。<私が法を教え示した>
というような考えが如来におこるとはありません。」

師は問われた。
「『如来は法を教え示した』と、このように説くものがあるとすれば、
彼は誤りを説くことになるのだ。
彼は真実ではないもの執着して、私を謗るのだ。
なぜかというと、<法の教示>というけれども、
法の教示として認められるような事柄は何も存在しないからだ。」

このように言われたときに、スブーティ長老は師に向かって問うた。
「これから先、後の世になって第2の500年代に正しい教えが滅びる頃に、
このような法を聞いてしんずるような人々が果たしているでありましょうか。」

師は答えられた。
「彼らは生きているものでもなければ、生きているものでないものでもない。
それはなぜかというと、『<生きているもの>というものは、
すべて生きているものではないということだ』と如来が説かれているからだ。
それだからこそ、<生きているもの>といわれるのだ。



スブーティよ、どう思うか。
如来がこの上ない正しい覚りを覚ったというようなことが何かあるだろうか。」

スブーティは答えた。
「そういうことはありません。
如来がこの上ない正しい覚りを覚られたというようなことは何もありません。」

師は言われた。
「その通りだ。ことがらはそこに微塵ほどにも存在しないし、
認められはしないのだ。それだからこそ、<この上ない正しい覚り>と言われるのだ。

さらに、その法は平等であって、いかなる差別もない。
それだからこそ、≪この上ない正しい覚り≫と言われるのだ。
この覚りは、自我がない、生きているものがない、個体がない、個人がない、
ということによって平等であり、あらゆる善の法によって現に覚られるのだ。
なぜかというと、『<善の法>というのは法でない』と如来は説いているからだ。
それだからこそ、≪善の法≫と言われるのだ。

さらにまた、ひとりの修行者がはてしなく広い宇宙にある限りの山の数だけの
7つの宝を集めて持っていて、それを如来に施すとしても、
また、他方で立派な修行者がこの智慧の完成という法門から四行詩ひとつでもとり出して、
他の人々に説いたとすれば、前の功徳の積み方はこちらの積み方に比べると、
その百分の一にも及ばないし、類似にも値しない。

スブーティよ、どう思うか。
<私は生きている者どもを救った>というような考えが如来に起こるだろうか。
このように見なしてはならないのだ。
それはなぜかというと、如来が救ったというような生きものは何もないからである。
また、如来が救ったというような生きものがなにかあるとすれば、
如来に自我、生きているもの、個体、個人に対する執着があるということになるだろう。
『自我に対する執着とは執着がないということだ』と如来は説かれた。
しかし、愚かな人々はそれに執着するのだ。
<愚かな人々>というのは、愚かな人々たちでないにほなからぬ』と如来は説いた。
それだからこそ、≪愚かな人々たち≫と言われるのだ。


9/10

スブーティよ、どう思うか。
如来は特徴を具えたものであると見るべきであろうか。」

スブーティは答えた。
「師よ、そうではありません。
私が師の仰せられた言葉の意味を理解している所によると、
如来は特徴を具えたものであると見なしてはならないのです。」

師は言われた。
「まことに、あなたの言うとおりだ。
如来は特徴を具えたものであると見てはならないのだ。
それはなぜかというと、もし如来が特徴を具えたものであると見られるようであるならば、
転輪聖王もまた如来であるということになるだろう。
それだから、如来は特徴を具えたものであると見てはならないのだ。」

スブーティ長老は、師に向かって次のように言った。
「私が師の仰せられた言葉の意義をきわめたところによると、
如来は特徴を具えたものであると見てはならないのです。」
さて、師はこの折に次のような詩を歌われた。
かたちによって、わたしを見、
声によって、わたしを求めるものは、
まちがった努力にふけるもの、
かの人たちは、わたしを見ないのだ。
〔目ざめた人々は、法によって見られるべきだ。
もろもろの師たちは、法を身とするものだから。
そして法の本質は、知られない。
知ろうとしても、知られない。〕

 

どう思うか。特徴を具えていることによって如来はこの上ない正しい覚りを現に覚ったのか。
けれども、あなたはそのように見てはならないのだ。
それはなぜかというと、特徴を具えていることによって、
如来がこの上ない正しい覚りを現に覚ったというようなことはないからだ。
さらに、誰かが、『修行者の道に向かう者には、何かの法が滅んだり、
断ち切られたりするようになっている』と、このように言うかも知れない。
けれども、このように見てはならない。
なぜかというと、修行者の道に向かう者にはいかなるものも滅びたり、
断ち切られたりするようにはなっていないからだ。

 

また、立派な修行者がガンジス川の砂の数だけの世界を7つの宝で満たして、
それを如来、正しく目覚めた人に施したとしよう。
他方では修行者が、<法は自我というものがなく、生ずることもない>
と容認し得たとすれば、この方が計り知れない数多くの功徳を積んだことになるだろう。
けれども、修行者は積んだ功徳を自分のものにしてはならないのだ。」

スブーティ長老は訊ねた。
「修行者は、積んだ功徳を自分のものにすべきではないのでしょうか。」

師は答えられた。
「自分のものにすべきであるけれども、固執すべきではない。
それだからこそ、≪自分のものにすべきである≫と言われるのだ。

 

さらに、もし誰かが『如来は去り、あるいは来たり、住し、坐り、床に臥す。』と、
このように説くとするとその人は私が語った言葉の意味を理解していないのだ。
なぜかというと、如来と言われるものはどこにも去らないし、どこからも来ないからである。
それだからこそ、≪如来であり、正しく目ざめた人である≫と言われるのだ。

 



26. "Subhuti, what do you think? Can a man see the Tathagata by the thirty-two marks [of a great man]?"

Subhuti said: "So it is, so it is. The Tathagata is seen by his thirty-two marks."

The Buddha said to Subhuti, "If the Tathagata is to be seen by his thirty-two marks, can the Cakravartin be a Tathagata?"

Subhuti said to the Buddha: "World-honoured One, as I understand the teaching of the Buddha, the Tathagata is not to be seen by the thirty-two marks."

Then the World-honoured One uttered this gatha: "If any one by form sees me, By voice seeks me, This one walks the false path, And cannot see the Tathagata."

29. "Subhuti, if a man should declare that the Tathagata is the one who comes, or goes, or sits, or lies, he does not understand the meaning of my teaching. Why? The Tathagata does not come from anywhere, and does not depart to anywhere; therefore he is called the Tathagata.


また、立派な修行者がこのはてしない宇宙にあるかぎりの大地の埃の数だけの世界を、
無数の努力によって、原子の集合体のような粉にした場合にその集合体は多いであろうか。」

スブーティは答えた。
「師よ、その通りです。原子の集合体は多いのです。
それはなぜかというと、もし、原子の集合体が実体であったとすれば、
師は≪原子の集合体≫と説かれなかったであろうからです。
それはななぜかというと、『如来の説かれた原子の集合体は、集合体ではない』
と如来が説いておられるからです。それだからこそ、≪原子の集合体≫と言われるのです。

また、『如来が説かれたはてしない宇宙は宇宙ではない』と如来は説かれています。
それだからこそ、≪はてしない宇宙≫と言われるのです。
なぜかというと、もし宇宙というものがあるとすれば
≪全一体という執着≫があることになりましょう。
しかも、『釈迦の説かれた全一体という執着は、執着ではない』と如来が説いています。
それだからこそ、≪全一体の執着≫と言われるのです。」

師は言われた。
「スブーティよ、≪全一体に対する執着≫は言葉で表現できないものなのだ。
それはものでもないし、≪ものでもないもの≫でもない。
それは、愚かな人々が執着するものなのだ。

[1. Citta stands for both mind and thought. The idea expressed here is that there is no particularly determined entity in us which is psychologically designated as mind or thought. The moment we think we have taken hold of a thought, it is no more with us. So with the idea of a soul, or an ego, or a being, or a Person, there is no such particular entity objectively to be so distinguished, and which remains as such eternally separated from the subject who so thinks. This ungraspability of a mind or thought, which is tantamount to saying that there is no soul-substance as a solitary unrelated "thing" in the recesses of consciousness, is one of the basic doctrines of Buddhism, Mahayana and Hinayana.]


 

それはなぜかというと、誰かが、『如来は自我についての見解を説いた。
生きているもの、個体、個人についての見解を如来は説いた』と説いたとしよう。
その人は正しく説いたということになるだろうか。」

スブーティは答えた。
「そうではありません。その人は正しく説いたことにはなりません。
それはなぜかというと、『如来の説かれたかの自我についての見解は、見解ではない』
と如来が説かれているからです。
だからこそ、≪自我についての見解≫と言われるのです。」

師は言われた。
「実にその通りだ。修行者の道に進んだものは、全ての事柄を知らなければならないし、
見なければならないし、理解しなければならない。
しかも、ことがらという思いさえも止まらないように、知らなければならないし、
見なければならないし、理解しなければならないのだ。
それはなぜかというと、『ことがらという思いというのは、実は思いではない』
と如来が説かれたからだ。それだからこそ、≪ことがらという思い≫と言われるのだ。

 

さらに、修行者が計り知れない数ほどの世界を7つの宝で満たして如来に施したとしよう。
また他方では、立派な修行者がこの智慧の完成という法門から四行詩ひとつでもとり上げて、
記憶し、誦え、理解し、他の人々に詳しく説いて聞かせたとすれば、
この方がさらに多くの功徳を積むことになるのだ。
それでは、どのように説いて聞かせるのであろうか。
説いて聞かせないようにすればよいのだ。
だからこそ、≪説いて聞かせる≫と言われるのだ。
現象界というものは、
星や、眼の翳、燈し火や、
まぼろしや、露や、水泡や、
夢や、雷光や、雲のよう、
そのようなものと、見るがよい。」
師はこのように説かれた。
スブーティ上座は歓喜し、他の修行者や在家の信者たち、
神々や人間や阿修羅やガンダルヴァたちを含む世界のものどもは、
師の説かれたことをたたえたという。

 

尊ぶべき智慧の完成を終わる。

 

以上で、『金剛般若経』の現代語訳は終了となります。
ここまで読んで下さって、本当にありがとうございました。


32. "How does a man expound it for others? When one is not attached to form, it is of Suchness remaining unmoved. Why?

"All composite things (samskrita)
Are like a dream, a phantasm, a bubble, and a shadow,
Are like a dew-drop and a flash of lightning;
They are thus to be regarded."


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以下、代表的なヘーゲル批判を孫引きする(山下正男『論理学史』p225より)。

「(ボルツァーノは) 例えばヘーゲルの好む表現  "運動とは質点Mが同じ瞬間に同じ場所 m にあり , そして , ないことである" (大論理学邦訳岩波中p79より)を論理学の自殺だときめつけ, 運動はそうした 矛盾律を犯さなくてもつぎのように正しく把握できると主張した.   " 質点Mが一定の時間 T に運動するとは ,  M が同一の場所に静止するような T の部分 t は一つも存在しないということである "  . 」