G・ドゥルーズ 『批評と臨床』
NAMs出版プロジェクト: ドゥルーズ「書誌の計画」1989
http://nam-students.blogspot.jp/2016/11/1989.html
Joyce, Beckett, Artaud ( paranoid, hebephrenic, catatonic)妄想、破瓜、緊張型
http://nam-students.blogspot.jp/2017/03/joyce-beckett-artaud-paranoid.htmlNAMs出版プロジェクト: What's the difference?:再々投稿
http://nam-students.blogspot.jp/2013/05/whats-difference.htmlGilles Deleuze, Critique et Clinique, Les Éditions de Minuit, 1993.
文學界2017年12月号 - 2017/11/7
▼松本卓也「健康としての狂気とは何か―ドゥルーズ『批評と臨床』試論」
これは、本格的でよかった。
ドゥルーズが扱った「狂気」が強調されて取り上げられることが多い中、
ドゥルーズ自身は病的でも狂人でもなかったという観点からの解説。
ポスト構造主義的問題系の「深層(profondeur)」と「表面(surface)」、
ラカン派による病跡学的アプローチ。
松本論考、前半は『意味の論理学』を扱い、
キャロル
ルーセル
ウルフソン
____
アルトー
ヘルダーリン
というように表面と深層に分け
ドゥルーズは深層の精神分裂病から上へ、キャロルの自閉症スペクトラム(アスペルガー症候群)評価へ移行したという論理としては二項を超えた可能性を各作家に見たという
(サドとマゾ(プルースト、カフカも批評と臨床の対象)のように外に開くための二項…)
ただしラカン(=脱ラカン的父権主義)を引くならスキゾ症例三種を
ベケット
ジョイス
アルトーに見た浅田&花村(『ダブル・バインドを超えて』1985)の方が有益だ
同書1985をさらに敷衍するとそれぞれ
想像界
象徴界
現実界の欠損を持った作家ということになる
ジョイス
____ベケット
__\__/__
\/
アルトー
あるいは、
象徴界 I 想像界
ジョイス I ベケット(=分裂症ではなくパーソナリティ障害、アスペルガー症候群)
ヘルダーリンI キャロル、ルーセル、ウルフソン
______I___________
I
現実界 I x
アルトー I
欠損の箇所が作家の生きる場所である
(フーコー、ハイデガーの着目したヘルダーリンはジョイスに、キャロル等はベケットに近い。)
ドゥルーズもベケットに近いがじつは xを志向している(ベケット論は映画研究の一環だが、シネマ2の「系列」がシネマ1の狂気に対する応答だということを考えれば臨床と呼べなくもない)
プラトン的詩人狂人論、ロマン主義的詩人論(フロイト的神経症の裏返し)、からドゥルーズが遠いことは確かだが、ベケット論がないとそれがわかりにくい。
ベケット(断片的論考#)は批評と臨床でも重要な位置(場所)にあるし、ベケット論の消尽したものは
ドゥルーズの実質的遺書でもある- Joyce 妄想型 paranoid https://i.imgur.com/2biUldM.gif Ulysses メタファーBeckett 破瓜(はか)型 hebephrenic https://i.imgur.com/9FIyMsE.gif Quad リテラルArtaud 緊張型 catatonic https://i.imgur.com/rwKgu01.gif La coquille et la clergyman カット・オフ
破瓜型は近年では解体型と呼ばれ、また、ダブルバインドのような理論の多くは
統合失調症の原因というよりも、パーソナリティ障害の原因らしいと言われている。母
なるものを批判的に扱うことも批判される(岡田尊司『統合失調症』PHP新書)。
アルトー、ヘルダーリン以外は統合失調症ではなくアスペルガー症候群(ASD)というのが松本論考の病跡学的主張なので、この流れに沿う。ちなみにアルトーを擁護するならアルトーは自身の身体に物自体を見たのである。深いという形容はそのことから目をそらす(誰だって身体を抱えている)。
ドゥルーズはアルトーのような病気ではなかったから素晴らしい、というのであれば反動思想にすぎない。
一応想像界(の欠損)に置いたが、ベケット(を論じたドゥルーズ)において三つの界は一つになっている
#《アイルランドの司教・バークリーが言ったように、存在するとは知覚されることである(esse est percipi)というのが真実だとすれば、知覚から逃れることは、はたして可能だろうか?…》
言葉に表されていない意味にばかり偏執する(妄想型)1
言葉の文字通りの意味にしか反応しなくなる(破瓜型[解体型])2
コミュニケーションそのものから逃避する(緊張型)3
ベイトソンの1956年に発表した論文「精神分裂症の理論化に向けて」
(『精神の生態学 』新思索社,299~308頁)参照
「疫学の見地から見た精神分裂」(1955,1971)同287頁も参照。
①そこから逃げることのできない人間関係の場において、
②一定のメッセージが与えられ、
③しかもそのメッセージを否定するメタメッセージが同時に与えられる状況をダブル・バインド状況といい、
④それが反復されると分裂症を生む…》
(浅田76頁)
参考:
http://nomadicartsfestival.com/wp-content/uploads/2015/02/Gregory-Bateson-Ecology-of-Mind.pdf
p.216~7
邦訳(2000),299~300頁

PPAP(Pen-Pineapple-Apple-Pen Official)ペンパイナッポーアッポーペン/PIKOTARO
(ピコ太郎)
https://youtu.be/0E00Zuayv9Q
ドゥルーズ『意味の論理学』より
11.ナンセンスについて(カバン語)
11.ナンセンスについて
…カバン語それ自体が二者択一の原理であり、この原理によってカバン語は二つの関係項を
作る(frumieux=fumant〔湯気が立つ〕+furieux〔怒った〕、 もしくは furieux+fumant)。こうした
語のそれぞれの潜在的な部分は、他の部分の意味を指示するか、逆にその部分を指示する
他 の部分を表現する。この形式のもとでも、語の全体はそれ自体の意味を語り、この新しい
資格でナンセンスである。実際、意味を与えられた名の、第二の通常の法則は、それらの名
の意味は、それらの名が入って行く二者択一を決定できないということである。したがって、ナ
ンセンスには二つのかたちがある。ひとつは退行的な綜合に対応するかたちであり、もうひ
とつは分離的綜合に対応するかたちである。
こうしたことのすべては、何を語ろうとするものでもないという反対論がある。定義によって、
ナンセンスには意味がないのであるから、ナンセンスがそれ自体の意味を語るとするのは
駄洒落だというのである。こうした反対論には根拠がない。ナンセンスには意味がないという
意味があると語るのは、ことばのたわむれである。しかし、われわれの仮説はそんなことでは
ない。ナンセンスがそれ自体の意味を語るというとき、われわれはむしろ意味とナンセンスは、
真偽の関係を写すものではありえない特別な関係、つまり、単なる排他関係とは考えられえ
ない関係を持っていると言いたいのである。これが、意味の論理学の最も一般的な問題であ
る。真実の領域から意味の領域へと上昇したとしても、もしもそれが意味とナンセンスとのあい
だに、真と偽とのあいだにあるものと似た関係を見出すためであるならば、何の役にも立たな
いだろう。われわれはすでに、可能性の単なる形式として、条件付けられたものと類推して条
件を考えるために、条件付けられたものから条件へと上昇することがむだであることを指摘し
ておいた。条件とその否定との関係は、条件付けられたものとその否定との関係と、同じタイ
プのものではありえない。
G・ドゥルーズ 「批評と臨床」 Critique et clinique
http://hisaaki.net/2010/10/g.html
2010年10月30日 14:03 | Permalink
ドゥルーズの読み手には
『批評と臨床』が今年になって河出文庫化されたのは
よろこばしいコトにちがいない。
全17章の目次を以下に網羅します。
1.文学と生
2.ルイス・ウルフソン、あるいは手法
3.ルイス・キャロル
4.最も偉大なるアイルランド映画―ベケットの『フィルム』
5.カント哲学を要約してくれる四つの詩的表現について
6.ニーチェと聖パウロ、ロレンスとパトモスのヨハネ
7.マゾッホを再び紹介する
8.ホイットマン
9.子供たちが語っていること
10.バートルビー、または決まり文句
11.ハイデガーの知られざる先駆者、アルフレッド・ジャリ
12.ニーチェによるアリアドネの神秘
13.……と彼は吃った
14.恥辱と栄光―T・E ロレンス
15.裁きと訣別するために
16.プラトン、ギリシア人たち
17.スピノザと三つの『エチカ』
いかがですか?
あなたがドゥルーズの読み手であり、
かつ、未読=「批評と臨床」状況であるとしたら、
これらの章タイトルのキーワードにふれただけで、
一も二もなく入手に走るでしょう。
僕はこれまで何度も、繰り返し、読んでます。
どこを開いてもオーケー。
章の途中から読んでも何の問題もない。
たちどころにドゥルーズの概念が展開されます。
それは彼の他の諸作品の概念に通底しています。
矛盾するかのような概念でさえ、
パラドックスのなかで通じあっています。