木曜日, 12月 21, 2017

神認識=自己認識:カルヴァンの再評価

神認識=自己認識:カルヴァンの再評価

カルヴァン(Jean Calvin, 1509-1564)の『キリスト教綱要』第一篇第一章第一節には、

「神を知る認識と、われわれ自身を知る認識とは、互いに結びあったものであって、分割することができない」(『カルヴァン』清水書院117頁)

とある。

この主知的な言葉はスピノザと響きあう*。

当時のオランダでは体制側の正統派カルヴィニズムが反動化していたとはいえ**(『スピノザと政治的なもの』所収の柴田寿子論文及び『スピノザの精神と生涯』邦訳91頁他参照)、その勢力に対抗する動きも同じカルヴィニズムから生まれていた(抗議派)。
スピノザの蔵書にもあったその書は(クセジュ『スピノザ入門』54頁ほか参照)、定説とは異なりスピノザからゴドウィン***(こちらはカルヴァン派牧師の子であることが特筆される)にいたる反主流の思想家のバックボーンだ。ネグリは残念ながら触れていないが。

ウェーバーが資本主義の原動力を見たところに、反/脱資本主義の原動力もあったのだ。 
またその禁欲主義は、(外在的な目的論に服従するのではなく)自主的、自律的なもの****であるという点で重要だ(ここはカントを想起させるが、カントは体制に対して偶像崇拝の全否定といった決定的な反抗をしない分、ルターに近い*****)。

「神の真理によって規定される自己検討を行なう時、自己の能力についての一切の自信を遠く引き離し、一切の誇りの拠り所を奪い去って屈服させられるような認識を尋ね求むべきである。 理解と行動の正しい目標に到達しようと望むならば、この法則に従わなければならない。(中略)
そこで我々の良い点ばかり思いを引き留めておくような教師に耳を貸すならば、自己を認識することに何の進歩もなく、かえって最悪の無知へと拉し去られるのである。」(第2篇 第1章 2 )
http://blog.goo.ne.jp/takanori-1223/e/df1cdaf898f9c05573474cfde2d8b005

その人間の無力の認識は、スピノザの『エチカ』の構成(実体からはじまる)を思い起こさせる。ただ、その認識は神の認識と相似でもあるところが重要だ。
さらにそこには国家に対抗する普遍宗教、アソシエーション(柄谷行人)の萌芽がある。

「隣人よりも抜きんでようとし、うぬぼれて他者を軽蔑し、あるいは少なくとも自分より劣ったものとして見下そうとしている。貧しい人間は富んだ者に、平民は貴族に、召使いは主人に、無学な者は学のある者に屈しつつ、しかもだれもが心のなかで自分のほうがすぐれているという認識をはぐくんでいる。ひとりひとりが自分をおだて、心のなかに一種の王国を作り上げているのだ。」http://d.hatena.ne.jp/neverthere/20110403

さて、有名な予定論(スピノザが拒否した様な目的論ではない)は第三篇に記述され、必ずしも中心思想では無いらしいが、後にゴドウィンが小説で格闘したその主題は、反権力と言う意味合いでは重要になるだろう(カルヴァンもまた反抗的だが、ミュンツァーのような武装は考えず、かといってルターの様に体制側に立たず、その中間の代議士的なもの、つまり社会革命的なもの、と考えられよう。ゴドウィンはその権力/自由と言う問題意識を受け継いでいる)。
そこでは総ての『聖書』のテクストも含む情報=条件の開示が前提となるからだ。

http://www.ishizuech.com/
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http://www.ishizuech.com/予定論について/

「予定についての議論は、それ自体すでにある程度厄介な問題であるが、人間の好奇心が加わると、きわめて混乱した、危険なものとさえなる。すなわち、この好奇心はどのような枠を設けても、禁じられた脇道にさ迷いで、高く飛び上がることをとどめられないのである。そして、もし許されるなら、究明し、解明すべからざる隠れた奥義を神に残すことをしない。 このような無謀と不正とに、多くの人々がいたるところで陥っているので、かれらのうちのある人たちは、他の点では誤りを犯していないのをわれわれは見ているが、この点についての彼らの処する規準について、時期を見て忠告しておくことが適当である。そういうわけで、第1に彼らに思い起こさせねばならないことは、予定の問題を探求するに際して、自分達が神の知識の最も奥深いところに踏み込んでいるのであって、もし誰かが安心して、自信満々とここに飛び込むならば、その好奇心の満足は決して得られず、迷宮の中に入り、そこからの出口を何一つ発見できなくなる、という点である。何故なら、主がご自身の内に隠しておこうと欲したもうものを、人間が罰も受けないで、明け広げて見せたり、これによって、神がわれわれに驚きの思いを満たすために、理解させるのではなく、あがめようとしておられる気高い知恵を、昔から暴き出したりすることは正しくないからである。神はわれわれに啓示すべきであると考えたもうた、ご意思の隠されたところを、その御言葉によってあらわしたもうた。だが、われわれに関わりがあり、また益があると、あらかじめ見たもうた限りのことだけを、啓示すべきものとされた」。                                

「主の御言葉こそ、彼について当然知るべきすべてのことを捜すための唯一の道であり、彼について見るべきすべてのことを見通すために、我々を照らす唯一の光であるとの考えが、我々の心を占めているならば、我々は容易に一切の無思慮から引き留められ、抑制される。何故なら、我々は御言葉の限界を超えるやいなや、道を外れて闇の内を進み、そこで繰り返し繰り返し迷い、滑り、躓かざるをえない、ということを知っているからである。従って、我々はこのことを第一に目の前に据えよう。いわく、神の言葉によって明らかにされる以外に、予定について知ろうと志すことは、人が道のないところを突進したり、闇の中で物を見たりするのに劣らず、狂気の沙汰である。また、我々はある種の無知の知が成立するこの件について、何か知らない事があるのを恥じてはならない。むしろ、我々はそれを渇望することが愚かであると共に危険であり、更に破滅的であるような知識を求めることを進んで自制する。しかし、もし、我々の気ままな好奇心が我々をせき立てるなら、それを抑制する次の言葉を常に対置すべきである。即ち、多すぎる蜜が良くないように栄誉を求めることは、好奇心の持ち主にとって栄誉にならない。何故なら、これが我々を破滅に突き落とすことができるのを見るとき、この大胆不敵さを我々が思い留まるのに十分な理由があるからである。」 

「聖書は聖霊の学校であって、そこでは、知らねばならないこと、また知って益あることは、何1つ省略されていないが、知るに役立つこと以外は、何1つ説かれていないからである。従って、およそ予定に関して聖書の内に示されているすべてのことを、信仰者達に隠すことがないように注意しなければならない。それは、我々が信仰者たちから、彼らの神の恵みを意地悪くだまし取ったように思われたり、あるいは、隠しておいてこそ有益なものを、聖霊が公開したとして、我々が聖霊を告発し、侮辱しているように思われないためである。私は言う、我々は、キリスト者が彼に向けられた神のあらゆる語りかけに、精神と耳とを開くのを禁じないようにしよう。但し、その際、主が聖なる御口を閉じたもうやいなや、人もまた問い尋ねる道を直ちに断ち切る、という態度を守らなければならない。」 
(ジャン・カルヴァン著「キリスト教綱要3巻21章」より)





参考:

人間的自由と神の認識14 【りらっくま神学序論】
2006年1月4日 投稿者: rirakuma2006
キリスト教の文献からいくつかを取り上げ、詳細に検討するようなこともしていきたいと思っています。今回取り上げるのは、宗教改革者ジャン・カルヴァン(1509-1564)の『キリスト教綱要(christianae religionis institutio)』の冒頭部です。 ... また初版では、引用した冒頭文の後、以下のような構成で、「神認識」と「自己認識」の内容が鏡像のような相似形で、要約されて提示されます。 a. 神認識: 私たちは神について次のことを知るべきである 1. 神は無限の知恵、義、善、憐れみ、力、また生命である。 ...



追記:

カルヴァンが最も多く引用したのは、「キリストは神に立てられて、わたしたちの知恵となり、義と聖とあがないとになられたのである」(コリント人への第一の手紙、1:30)だそうだ(清水書院前掲書146頁)。知恵を真っ先にもってくる部分を引用したのは、やはり主知的と言える。

以下、メモ:

義 |聖
__|__
あが|
ない|知

**
『神学政治論』は1670 年、著者名を伏せて、発行者と発行所を偽って世に出たが、アムステルダムのカルヴァン派長老法院は臨時の会議を開き、同書を「卑猥で涜?神の」書とした。1672 年のあるパンフレットは、『神学政治論』を「異端のユダヤ人と悪魔が地獄で作り出した」書として扱っている。
『神学政治論』には、人間は自由を求めて隷属を得るというような、カルヴァン派の内部闘争が批判的に揶揄されていると見なされる部分がある。
参考:スピノザ研究――『神学政治論』における「自由」の概念(3) 福島清紀pdf

***
以下wikiより。
「カルヴァン派の牧師であった経歴はゴドウィンを理解する場合重要である。神の王国が倫理的共産主義である。外的世界の印象が、人間の心を善くも悪くもする。しかし権力と暴力に基づいた政府は、正義や幸福に反するすべての制度を温存させ、自由を阻害する。このような政府は、罪悪であり反自然である。
このような前提により、ゴドウィンは政府のない社会・富の平等な分配を要求する。」

****
「権威と自由」というカルヴァンの問題意識は、先述した様にゴドウィンを経由して、プルードンにまでつながる。

*****
カントの両親はルター派の(ドイツ)敬虔主義を奉じていたという。

なお、スピノザが直接交流していたのは無教会主義のコレギアント派であるが、彼等の聖書中心主義をスピノザが受け入れていたわけではない。

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(ホルバイン作と言われるカルヴァンの肖像画) 

マルクスはユダヤ人差別も宗教問題も政治的に解決しないといけないと考え

さらにその政治も経済が解決すると考えた

政治的解決=経済的解決なのだ

ここで国家と経済という異なる原理が混同された


ウェーバーはそこに精神的要素を加えた

マルクスの経済決定論に対してウェーバーのそれは精神決定論とも言える

(ウェーバーは精神の優位をとなえたのであって国家の優位をとなえたのではない)


(哲学的にはスピノザまで回帰するべきだが)

柄谷はこれらの錯綜する問題意識を交換というタームを使って上手くときほぐしたと思う

計量経済学的にはカレツキのような手続きが必要だろうが