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六祖法寶壇經淺釋 上宣下化老和尚講述http://www.drbachinese.org/online_reading/sutra_explanation/SixthPat/sixthpat_10.htm
自性動用。共人言語。外於相離相。內於空離空。若全著相。即長邪見。若全執空。即長無明。執空之人有謗經。直言不用文字。既云不用文字。人亦不合語言。只此語言。便是文字之相。又云直道不立文字。即此不立兩字。亦是文字。見人所說。便即謗他言著文字。汝等須知。自迷猶可。又謗佛經。不要謗經。罪障無數。
「 此れは是れ三十六対の法なり。若し解く用うれば、即ち一切の経法を通貫す。
出入して即ち両辺を離るるには、自性の動用なり。
人と言語するに、外は相に於て相を離れ、内は空に於て空を離れよ。
若し全く相に着すれば、即ち邪見を長じ、若し全く空に執すれば、
即ち無明を長じ、又た却って経を謗(そし)って、文字を用いずと直言す。
既に文字を用いずと云わば、人も亦た合(まさ)に語言すべからず。
只だ此の語言は、便ち是れ文字の相なり。又た文字を立てずと直道するも、
即ち此の不立の両字も亦た是れ文字なり。
現代語訳:
このとき、六祖大師は、弟子の法海、志誠、法達、神会、智常、智通、
志徹、志道、法珍、法如らを呼び出して言った、
「君たち十人の者よ、以前から君たちは普通の人とは異なっていた。
私の死後、それぞれの地方の指導者になりなさい。
私はいま君たちが教えを説くとき宗旨のかなめを失わないようにしてあげよう。
まず『三科の法門』を取り上げ、『三十六対』を運用して、
その相対をなすものを出入させて、相対性を除いてゆかねばならぬ。
どんな教えを説くにも、自己の本性の座を離れてはならぬ。
もし誰かが君たちに教えを求めたなら、
言葉のすべてを相対的に構成し、すべて対の方法を用いよ。
出てくるものと去りゆくものとが互いに条件となって、
けっきょく一双の相対性がすっかり取り除かれ、(それを設定する)場所もまったくなくなる。
『三科の法門』というのは、陰と界と入である。
陰とは五陰であって、色、受、想、行、識のことである。
入とは十二入であって、外の六塵は、色、声、香、味、触、法であり、
内の六門は、眼、耳、鼻、舌、身、意のことである。
界とは十八界のことであって、六塵と六門と六識のことである。
自己の本性はちゃんと万物の事象をも道理をも包みこんでいることを含蔵識という。
もし分別を起こすと、たちまち転識というものが働き、
意識が展開されて六識が生れ、六門から出て、六塵を見るのである。
六識・六門・六塵の三乗から成る十八界は、自己の本性から働きを起こすのである。
自己の本性がゆがんでいると、ゆがんだ十八界を作ることになり、
自己の本性が正しいと、正しい十八界を作ることになる。
含蔵識が悪を含んで働けば、衆生の働きであり、善を含んで働けば、仏の働きである。
その働きは何から出るかといえば、自己の本性から出てくるのである。
対にする方法とは、外界の対象について心のない五対がある。
天は地と対し、日は月と対し、明は暗と対し、陰は陽と対し、水は火と対している。
これが五対である。次に万物のあり方をいうことばに十二対がある。
語は法と対し、有は無と対し、有色は無色と対し、有相は無相と対し、
有漏は無漏と対し、色は空と対し、動は静と対し、清は濁と対し、
凡は聖と対し、僧は俗と対し、老は少と対し、大は小と対している。
これが十二対である。
次に自己の本性が働きを起こす十九対がある。
長は短と対し、邪は正と対し、痴は慧と対し、愚は智と対し、乱は定と対し、
慈は毒と対し、戒は非と対し、直は曲と対し、実は虚と対し、
険は平と対し、煩悩は菩提と対し、常は無常と対し、悲は喜と対し、
喜は瞋と対し、捨は慳と対し、進は退と対し、生は滅と対し、
法身は色身と対し、化身は報身と対している。
これが十九対である。」
師は言った、
「以上が三十六対の方法である。もしこれらを運用できたならば、
すべての経典の教えの全部を通貫することができ、
これらの出し入れによって相対の立場を脱却するのは、自己の本性の働きである。
人と対話するとき、外的には形の上に立ちながら形に執われないし、
内的には空の立場にありながら空に執われない。
もしすっかり形に執われれば、ゆがんだ考えをつのらせることになり、
もしすっかり空に執われれば、無知をつのらせることになって、
さては経典をそしって、『文字は不用だ』というまでに至る。
文字は不用なら、人は言葉を使ってはならぬことになる。
[なぜならば]この言葉こそは、文字のすがたなのであるから。
また『文字を立てぬ』とまでいっておるが、
その〈不立〉ということばがやはり文字であるのだ。
(そういう偏見のやからは)人が説くのを見ると、すぐさまその大をそしって、
『彼は文字に執われている』といいたてる。
君たちはよく心得ておかねばならぬ、自分で本心を見失うのはまだしも、
仏の経典をまでそしるに至っていることを。
経典をそしってはならぬ。
そのための罪は数えきれぬものとなる。
外面的な形に執われながら、作られた立場で真理を探し求め、
あるいは広大な道場をしつらえて、有無ということの過失を説きたてる。
このような大は無限の時を重ねても、自己の本性を見ることはできない。
教えに従って修行することをすすめないで、ただ人の説法を聞くという修行なのだから。
また何ものをも思わないで、菩提の本性を妨げてはならない。
もし話を聞くだけで修行しないなら、かえって人によこしまな思いを起こさせる。
ただ教えに従って修行し、執着を離れた説法をせよ。
もし君たちが悟って、これ(三十六対法)によって説き、
これによって運用し、これによって修行し、これによって作為するなら、
宗旨の本すじを失わないであろう。
もし人が君の意見を尋ねるとして、有を問われたら無で答え、
無を問われたら有で答え、凡を聞かれたら聖で答え、聖を問われたら凡で答えよ。
対立した一双の概念が相互に条件となって、中正の道理の意味が出てくるのだ。
君は一つ問われたら、その一つだけに答えるのだ。
その他の問いにもすべてそのようにするならば、道理をはずすことにならないであろう。
もし人が『何を暗と呼ぶのか』と尋ねたら、こう答えよ、
『明が因であり、暗は縁である。明が沈むと暗である』と。
このように明でもって暗をあらわし、暗でもって明をあらわし、
もち出すものととり去るものとが相互に条件となって、
中正の道理の意味が完成するのである。
その他の質問にもすべてこのようにするのだ。」
のちに師は十人の僧に法を伝え、
同時に『壇経』をつぎつぎに教え授けていって、
宗旨を見失わぬようにと指示された、
「君たちはこれで私の法を得たからには、この『壇経』を代々世に広めてゆくのだ。
後世の人はこの『壇経』に出会うことができたなら、
目のあたりに私の教えを受けるのと同じことだ。
もし『壇経』を読めば、きっと自己の本性を悟ることができよう。」
解釈とコメント:
慧能は晩年に3科36対の法を説いたと言われる。
それにしても10.1章の慧能の説法は大変長く複雑な内容である。
3科36対の法は整理して表にすると表9のようになる。
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