初期仏教
初期仏教――ブッダの思想をたどる (岩波新書) 新書 – 2018/8/22
馬場 紀寿 (著)
商品の説明
内容紹介
2500年前、「目覚めた者」が説いたのは、「自己」と「生」を根本から問い直し、それを通してあるべき社会を構想する思想だった。その教えは、古代インドのいかなる社会環境から生まれてきたのか。現存資料を手がかりに、口頭伝承された「ブッダの教え」に遡ることは可能か。最新の研究成果を総動員して、仏教の原初の世界をさぐる。
内容(「BOOK」データベースより)
二五〇〇年前、「目覚めた者」が説いたのは、「自己」と「生」を根本から問い直し、それを通してあるべき社会を構想する教えだった。その思想は、なぜ古代インドに生まれたのか。現存資料を手がかりに、口頭伝承された「ブッダの教え」にまで遡ることは可能か。最新の研究成果によって、“はじまりの仏教”を旅する。
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「はじまりの仏教」では
・初期仏教の神々は寿命の長い天界の住人にすぎないので祈ることはしない
・宇宙原理も説かない
・生の不確実性を見据え、自己を再生産する「渇望」という衝動の克服を説く
というあたりから書き始め、パーリ語の仏典からの引用を中心に後世の諸教団(小乗、チベット)の解釈などは排除して解説、と原典主義を宣言しているのが潔い。
インドは文字の成立が遅れ、最古の資料はアショーカ王の碑文。ブラーフミー文字はアケメネス朝ペルシャで使われていたアラム文字から派生した可能性が指摘されている、あたりは凄いな、と。
ユダヤ教の写本(旧約聖書)はヘブライ語で書かれているけど、ユダヤ教徒もそれを古典を読むような感じで読んでいて、ローマ時代の話し言葉はアラム語。ナザレのイエスもおそらくアラム語で語っていたと言われているので、本当に胸熱。仏教、ユダヤ教、キリスト教の基層はササン朝ペルシャだったりして。
パーリ三蔵は1)出家者の生活規律と出家教団の運営方法を示した「律蔵」2)仏陀や弟子の教えを示した「経蔵」3)教理要綱の「論蔵」から成りますが、最初にまとめられたのは「律蔵」の経分部(出家者の生活規律)とけん度部(出家教団の運営方法な衣・薬などの使用方法)、「経蔵」の四部(経典)で、他の部派とも共通するので、ほぼインド本土で成立されたのは間違いない、と。その後に「論蔵」や付属する文書が追加された、と。他の部派でも似たような成立過程を経て、最後に「経蔵」へ小蔵を付け加えていった、と。教えである法に、各部派が付け加えていった小部に収録されている仏典は《もともと結集仏典に位置づけられなかったことを示している》そうです。
新約聖書でも、福音書の他に、いわゆるヨハネ教団が独自の書簡や黙示録をまとめたり、使徒の中でも別格の地位を占めていたパウロやペトロの名前をつかって新たな文書を各地の教会がつくっていった、という流れがあるのに似ているな、と。キリスト教の世界では、一時「史的イエス」の再構築が盛んに行われました。様々なパピルスが残っていたことなどから、比較検討が可能と考えられたのですが、多くは「私的イエス」の造詣に終わっています。仏教の場合、数十年にわたるこうした「史的イエス」の試みの失敗を見ていたのか、最初から「仏陀の肉声を復元しようというのではなく」という姿勢なんでしょうかね(p.78)。学問の進歩を感じます。
とにかくネパールや中央アジアのサンスクリット写本が7-8世紀につくられたのに対して、紀元前後から3~4世紀にさかのぼることができる写本がアフガン内戦などによって世に出てきたことから、文献学的な研究が進んでいるようです。
・初期仏教の神々は寿命の長い天界の住人にすぎないので祈ることはしない
・宇宙原理も説かない
・生の不確実性を見据え、自己を再生産する「渇望」という衝動の克服を説く
というあたりから書き始め、パーリ語の仏典からの引用を中心に後世の諸教団(小乗、チベット)の解釈などは排除して解説、と原典主義を宣言しているのが潔い。
インドは文字の成立が遅れ、最古の資料はアショーカ王の碑文。ブラーフミー文字はアケメネス朝ペルシャで使われていたアラム文字から派生した可能性が指摘されている、あたりは凄いな、と。
ユダヤ教の写本(旧約聖書)はヘブライ語で書かれているけど、ユダヤ教徒もそれを古典を読むような感じで読んでいて、ローマ時代の話し言葉はアラム語。ナザレのイエスもおそらくアラム語で語っていたと言われているので、本当に胸熱。仏教、ユダヤ教、キリスト教の基層はササン朝ペルシャだったりして。
パーリ三蔵は1)出家者の生活規律と出家教団の運営方法を示した「律蔵」2)仏陀や弟子の教えを示した「経蔵」3)教理要綱の「論蔵」から成りますが、最初にまとめられたのは「律蔵」の経分部(出家者の生活規律)とけん度部(出家教団の運営方法な衣・薬などの使用方法)、「経蔵」の四部(経典)で、他の部派とも共通するので、ほぼインド本土で成立されたのは間違いない、と。その後に「論蔵」や付属する文書が追加された、と。他の部派でも似たような成立過程を経て、最後に「経蔵」へ小蔵を付け加えていった、と。教えである法に、各部派が付け加えていった小部に収録されている仏典は《もともと結集仏典に位置づけられなかったことを示している》そうです。
新約聖書でも、福音書の他に、いわゆるヨハネ教団が独自の書簡や黙示録をまとめたり、使徒の中でも別格の地位を占めていたパウロやペトロの名前をつかって新たな文書を各地の教会がつくっていった、という流れがあるのに似ているな、と。キリスト教の世界では、一時「史的イエス」の再構築が盛んに行われました。様々なパピルスが残っていたことなどから、比較検討が可能と考えられたのですが、多くは「私的イエス」の造詣に終わっています。仏教の場合、数十年にわたるこうした「史的イエス」の試みの失敗を見ていたのか、最初から「仏陀の肉声を復元しようというのではなく」という姿勢なんでしょうかね(p.78)。学問の進歩を感じます。
とにかくネパールや中央アジアのサンスクリット写本が7-8世紀につくられたのに対して、紀元前後から3~4世紀にさかのぼることができる写本がアフガン内戦などによって世に出てきたことから、文献学的な研究が進んでいるようです。
2018年10月17日
筆者は、日本の仏教学の中でも王道で意欲的な若手学者さんです。きちんと文献研究や発掘資料にもとづいて書かれているので、仏教を知りたい人は読むべき1冊だと思います。飛ばしてない分、面白くないと感じる人もいるでしょうが、基礎は大切。
2018年8月26日
わずか200ページ程度でこれほどまでに明晰に「初期仏教」について語った本は今まで見たことがありません。馬場先生がとてつもなく優秀だという噂はかねてより聞いていたのですが(その経歴からも自明ではあります)、全体の構成や文章、論理の精微さから、その一端を垣間見る事ができました。
内容についても少しだけ言及をすると、本書では初期仏教の思想が「構造」という観点から整理されており、一見別々のものに見られてしまう諸々の概念が、実は不可分で有機的に繋がっているものだという事が明快に示されます。
無記に関する箇所など個人的には少し同意しかねる点も複数あったのですが、そんなものはこの本の評価に影響を与えるものではありません。(無記については魚川祐司著 『仏教思想のゼロポイント』が詳しい)
仏教に興味のあるすべての人にオススメです。
内容についても少しだけ言及をすると、本書では初期仏教の思想が「構造」という観点から整理されており、一見別々のものに見られてしまう諸々の概念が、実は不可分で有機的に繋がっているものだという事が明快に示されます。
無記に関する箇所など個人的には少し同意しかねる点も複数あったのですが、そんなものはこの本の評価に影響を与えるものではありません。(無記については魚川祐司著 『仏教思想のゼロポイント』が詳しい)
仏教に興味のあるすべての人にオススメです。
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著者は初期仏教を解明するために、文献学的に証拠としての信頼性を重視して「律」に焦点を当てている。これは学問的研究の姿勢として妥当であるし、必要不可欠な条件である。ただ、その研究から導かれる結論が、初期仏教の彼方に霞んで見える釈尊の意図を明らかに出来たかどうかを期待して読んだ。
残念ながら、結論は尻切れトンボであった。多分、著者は釈尊の説いた実践をしていないのだと思う。現代の仏教徒が取り組んでいる形骸化した瞑想修行ではなく、初期仏教から漏れ出て輝く釈尊の教法に基づいた正見獲得修行をしなければ釈尊に肉薄することは不可能である。
***
正見を獲得すれば、釈尊の教法の輝きは次のように見えて来るはずである。
初転法輪の説法以来、釈尊が目指したのは、凡夫に「遠塵離垢(けがれから遠ざかり、煩悩から離れること)の法眼」を生じさせて第一段階の聖者・預流(シュダオン)に進化させることである。
凡夫を第一段階の聖者・預流に進化させる「法眼」とは何か?
通常の仏教書では「貪・瞋・痴」の「三毒」を断じて「悟り」を得ると表現するが、これでは大雑把すぎるのである。
厳密には、「五下分結」の最初の「三結」=「身見・疑惑・戒禁取」が「欲界の無明」であり、これを断じて「欲界の智慧」(これが法眼である)を初めて獲得するからこそ、凡夫は第一段階の聖者・預流になるのである。その「欲界の智慧」があるからこそ、「欲界の欲貪」と「欲界の瞋恚」を弱体化させることも可能になり、第二段階の聖者・一来(シダゴン)に進化する。さらに、その勢いで「欲界の欲貪」「欲界の瞋恚」を消滅させれば、第三段階の聖者・不還(アナゴン)に進化する。不還の聖者は二元性の概念が支配する「欲界」から完全に自由となるので、非二元性が支配する「純粋な色界」(これは阿羅漢および第一段階のブッダの境涯である)を垣間見ることが出来る。しかし、凡夫は二元性の概念で覆われた「塵垢の色界」しか想像することができない。
参考までに言うと、「純粋な無色界」は第二段階のブッダの境涯であり、凡夫は二元性・物質性の概念で覆われた「塵垢の無色界」しか想像できない。つまり、凡夫は色界・無色界を語り得ない。
***
ここで述べた「法眼」の獲得原理を、私が復元した<釈尊の教法の真義>で説明する。
凡夫を聖者にするのは、『心の量子トンネル現象』である。「ブッダの心」が「凡夫の心」に染み込む『心の量子トンネル現象』は、「欲界の痴」=「身見+疑惑+戒取」=「三結(三煩悩)」に気づいた瞬間に始まる。「身見」は『私』、『私のもの』、『私の本質(自我)』という自尊心(自己中心の思い込み)のこと、「疑惑」は「懐疑心・偽善心に基づく失敗への怖れや不安(焦燥感)」のこと、「戒取(戒禁取)」は「古い固定観念(仏教修行に関する迷信や過った先入観)」を絶対視することである。一旦、『心の量子トンネル現象』が開始すれば、その影響が継続し、「三結」を断じて第一段階の聖者・預流(シュダオン)となり「欲界の智慧」を獲得する。その「欲界の智慧」を用いて「欲界の貪ぼり(欲貪)」と「欲界の怒り(瞋恚)」が減少すれば第二段階の聖者・一来(シダゴン)となる。さらに、「欲界の貪・瞋・痴」=「身見+疑惑+戒取+欲貪+瞋恚」=「五下分結」が消滅すれば第三段階の聖者・不還(アナゴン)になる。「不還」になれば、欲界との縁が切れるので、人間界(欲界)への輪廻転生はない。欲界との縁が切れた「不還」は、間もなく、第四段階の聖者「阿羅漢」(=第一段階のブッダ)になる。
***
上記したことの図解を以下に示す。第3密度は凡夫の領域(欲界)、第4密度は阿羅漢(第一段階のブッダ)の領域(純粋な色界)である。第3密度から第4密度に向かう右上から左下に向かう斜めの線が「凡夫の心」の存在割合を示す。一方、第4密度から第3密度に向かう左上から右下に向かう斜めの線が「ブッダの心」の存在割合を示す。預流の聖者に進み始めた瞬間に、「ブッダの心」が量子トンネル効果によって現れる、不還の聖者に進み始めると「凡夫の心」と「ブッダの心」の存在割合が逆転する。さらに、第5密度は第二段階のブッダの領域(純粋な無色界)である。
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第5 第4 不還 預流 第3
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「心の量子トンネル効果」を理解すれば、本書でも解明できないままの「十無記」(p.193)の正しい読み解き方が出来る。「如来の死後」に関する「四句分別」を読み解いてみる。
「如来は死後存在する」=「肉体を有しても純粋な色界の如来は欲界で死後、純粋な無色界に存在する」
「如来は死後存在しない」=「如来は欲界で死後、もはや欲界には存在しない」
「如来は死後存在し、また存在しない」=「如来は死後、無色界で存在し、また欲界では存在しない」
「如来は死後存在しないし、また存在しないのでもない」=「如来は死後、欲界では存在しないし、また欲界以外に存在しないのでもない」
以上のことは当時の阿羅漢であれば理解していた筈である。ただし、これは釈尊の掌に置いたシンサパーの葉ではなく、森の木々の葉に相当する智慧なのである。
残念ながら、結論は尻切れトンボであった。多分、著者は釈尊の説いた実践をしていないのだと思う。現代の仏教徒が取り組んでいる形骸化した瞑想修行ではなく、初期仏教から漏れ出て輝く釈尊の教法に基づいた正見獲得修行をしなければ釈尊に肉薄することは不可能である。
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正見を獲得すれば、釈尊の教法の輝きは次のように見えて来るはずである。
初転法輪の説法以来、釈尊が目指したのは、凡夫に「遠塵離垢(けがれから遠ざかり、煩悩から離れること)の法眼」を生じさせて第一段階の聖者・預流(シュダオン)に進化させることである。
凡夫を第一段階の聖者・預流に進化させる「法眼」とは何か?
通常の仏教書では「貪・瞋・痴」の「三毒」を断じて「悟り」を得ると表現するが、これでは大雑把すぎるのである。
厳密には、「五下分結」の最初の「三結」=「身見・疑惑・戒禁取」が「欲界の無明」であり、これを断じて「欲界の智慧」(これが法眼である)を初めて獲得するからこそ、凡夫は第一段階の聖者・預流になるのである。その「欲界の智慧」があるからこそ、「欲界の欲貪」と「欲界の瞋恚」を弱体化させることも可能になり、第二段階の聖者・一来(シダゴン)に進化する。さらに、その勢いで「欲界の欲貪」「欲界の瞋恚」を消滅させれば、第三段階の聖者・不還(アナゴン)に進化する。不還の聖者は二元性の概念が支配する「欲界」から完全に自由となるので、非二元性が支配する「純粋な色界」(これは阿羅漢および第一段階のブッダの境涯である)を垣間見ることが出来る。しかし、凡夫は二元性の概念で覆われた「塵垢の色界」しか想像することができない。
参考までに言うと、「純粋な無色界」は第二段階のブッダの境涯であり、凡夫は二元性・物質性の概念で覆われた「塵垢の無色界」しか想像できない。つまり、凡夫は色界・無色界を語り得ない。
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ここで述べた「法眼」の獲得原理を、私が復元した<釈尊の教法の真義>で説明する。
凡夫を聖者にするのは、『心の量子トンネル現象』である。「ブッダの心」が「凡夫の心」に染み込む『心の量子トンネル現象』は、「欲界の痴」=「身見+疑惑+戒取」=「三結(三煩悩)」に気づいた瞬間に始まる。「身見」は『私』、『私のもの』、『私の本質(自我)』という自尊心(自己中心の思い込み)のこと、「疑惑」は「懐疑心・偽善心に基づく失敗への怖れや不安(焦燥感)」のこと、「戒取(戒禁取)」は「古い固定観念(仏教修行に関する迷信や過った先入観)」を絶対視することである。一旦、『心の量子トンネル現象』が開始すれば、その影響が継続し、「三結」を断じて第一段階の聖者・預流(シュダオン)となり「欲界の智慧」を獲得する。その「欲界の智慧」を用いて「欲界の貪ぼり(欲貪)」と「欲界の怒り(瞋恚)」が減少すれば第二段階の聖者・一来(シダゴン)となる。さらに、「欲界の貪・瞋・痴」=「身見+疑惑+戒取+欲貪+瞋恚」=「五下分結」が消滅すれば第三段階の聖者・不還(アナゴン)になる。「不還」になれば、欲界との縁が切れるので、人間界(欲界)への輪廻転生はない。欲界との縁が切れた「不還」は、間もなく、第四段階の聖者「阿羅漢」(=第一段階のブッダ)になる。
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上記したことの図解を以下に示す。第3密度は凡夫の領域(欲界)、第4密度は阿羅漢(第一段階のブッダ)の領域(純粋な色界)である。第3密度から第4密度に向かう右上から左下に向かう斜めの線が「凡夫の心」の存在割合を示す。一方、第4密度から第3密度に向かう左上から右下に向かう斜めの線が「ブッダの心」の存在割合を示す。預流の聖者に進み始めた瞬間に、「ブッダの心」が量子トンネル効果によって現れる、不還の聖者に進み始めると「凡夫の心」と「ブッダの心」の存在割合が逆転する。さらに、第5密度は第二段階のブッダの領域(純粋な無色界)である。
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第5 第4 不還 預流 第3
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「心の量子トンネル効果」を理解すれば、本書でも解明できないままの「十無記」(p.193)の正しい読み解き方が出来る。「如来の死後」に関する「四句分別」を読み解いてみる。
「如来は死後存在する」=「肉体を有しても純粋な色界の如来は欲界で死後、純粋な無色界に存在する」
「如来は死後存在しない」=「如来は欲界で死後、もはや欲界には存在しない」
「如来は死後存在し、また存在しない」=「如来は死後、無色界で存在し、また欲界では存在しない」
「如来は死後存在しないし、また存在しないのでもない」=「如来は死後、欲界では存在しないし、また欲界以外に存在しないのでもない」
以上のことは当時の阿羅漢であれば理解していた筈である。ただし、これは釈尊の掌に置いたシンサパーの葉ではなく、森の木々の葉に相当する智慧なのである。
2018年8月29日
馬場氏一流の自己陶酔したナルシスト文体が鼻につきますが、興味深く読まさせていただきました。
とくに、中村先生の学説は学界では殆ど淘汰されているそうですが、本著がそれが広く知られる切っ掛けになってとても良いと思いました。
残念だった点を一つあげれば、タイトルに『初期仏教――ブッダの思想をたどる』とありながら、結局最後まで「初期仏教」と「ブッダその人」の境界があやふやなまま終わってしまったという感じを受けました。明らかに成立が遅い散文資料によって構築される「初期仏教」が、「ブッダその人」にどこまで遡りえるものなのか、これについては今後の課題なのでしょう。
とくに、中村先生の学説は学界では殆ど淘汰されているそうですが、本著がそれが広く知られる切っ掛けになってとても良いと思いました。
残念だった点を一つあげれば、タイトルに『初期仏教――ブッダの思想をたどる』とありながら、結局最後まで「初期仏教」と「ブッダその人」の境界があやふやなまま終わってしまったという感じを受けました。明らかに成立が遅い散文資料によって構築される「初期仏教」が、「ブッダその人」にどこまで遡りえるものなのか、これについては今後の課題なのでしょう。
posted by yoji at 1:41 午後
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