日曜日, 11月 11, 2018

基礎づけるとは何か(Qu’est-ce que fonder?) ドゥルーズ 2018/11/8


『カントの批判哲学』ドゥルーズ La philosophie critique de Kant par Gilles Deleuze 1963
http://nam-students.blogspot.jp/2015/11/blog-post_8.html
基礎づけるとは何か(Qu’est-ce que fonder?) ドゥルーズ 2018/11/8
http://nam-students.blogspot.com/2018/11/quest-ce-que-fonder-2018118.html

基礎づけるとは何か (ちくま学芸文庫) 文庫  2018/11/8
https://www.amazon.co.jp/dp/4480098879
ジル・ドゥルーズ (著), 國分 功一郎 (翻訳), 長門 裕介 (翻訳), 西川 耕平 (翻訳) 



176頁で紹介される文献は有賀暢迪 「活力論争とは何だったのか」『科学哲学科学史3』京大文学部2009年


【目次】基礎づけるとは何か
1 基礎づけるとは何か 1956-1957 ルイ=ル=グラン校講義
第一章 自然と理性
 第1章の結論
第二章「基礎すなわち根拠の本質をなすもの」(ハイデガー)
 第一節 ヒュームからカントへ カントにおける超越論的なものについての観念の形成
 第二節『純粋理性批判』における基礎の諸特徴
 第二章の結論
第三章 基礎と問い
 第一節 沈黙させる問い (キルケゴール、シェストフ)
 第二節 第二種の問い-あらゆる問題の解決に原理を与える問い(ライプニッツ)
 第三節 第三の種類の問い-批判的な問い 
 第三章の結論 
第四章 原理の基礎
 第一節 方法と体系 
 第二節 方法における原理と基礎
 第三節 体系とカント的批判
 第四節 有限性と基礎
 第四章の結論
全体の結論

2  ルソー講義 1959-1960 ソルボンヌ 
自然状態についての二つの可能な考え方
 古代の考え方/ホッブズのもたらした自然状態の新しい意味/自然状態の三つ目の考え方
『新エロイーズ』について
 ヴォルマールの計画/本源的善性/自然的善性/美徳
自然状態
 いかなる意味においてすべてがホッブズから始まるのか?/ルソーにおける「自然」の意味/
 自然状態は現実かそれとも虚構か
ルソーの著作の統一性
 いかにして自然状態から抜け出すか\いかにしてそこから抜け出すか\ルソーの作品の統一性
社会契約
 主権者をある一人の個人やある一つの集団に帰することはできない/主権者はその目的におい
 て分割不可能である\以上のことから、次のように結論づけられる/契約の積極的な性格とは
 何だろうか/約束という行為の本性/一般意志は何を意志するか?
ルソーにおける市民の法の観念

3 女性の記述~性別をもった他者の哲学のために

4 口にすることと輪郭

5 ザッヘル・マゾッホからマゾヒズムへ

 原註
 解題
解説 


Qu’est-ce que fonder? (1956-1957)

sur Jean-Jacques Rousseau (cours de la Sorbonne 1959-1960 )

Description de la femme. Pour une philosophie d'autrui sexuée  (1945)
Dires et profils (1946)
De Sacher-Masoch au masochisme (1961)



種子という出版社の謳い文句は正しくて、その後のドゥルーズの可能性の数々が秘められた表題講義録だ。
『スピノザ表現の問題』『襞』『ニーチと哲学』『差異と反復』を想起させる記述が多々ある。
訳注も充実している。表題作の訳注ではないがフロイトとユングについてのドゥルーズの評価に関しては別のひとつの論文になるくらいだ。
ただ数ある哲学者のなかでカントが最重要の存在ではある。

ネットで公開されている「ドゥルーズ哲学における思想的断絶と変遷 : 自然の問題を中心に」なる
小林卓也氏の論考にはこうある。

《…ドゥルーズ固有のカント理解を読み取るためには、そこで想定されている議論の問題背景を
あらかじめ理解しておく必要がある。そこで本節で参照するのは、1956年から 57 年にかけて
ドゥルーズが行った「基礎づけるとは何か」(Qu’est-ce que fonder?) と題された講義である。
この講義は、1953年の『経験論と主体性』と1963年の『カントと批判哲学』の間に位置し、その
当時のドゥルーズがどのような問題意識を持ち、どのような哲学史的文脈に自らを位置づけて
いたのかを知る手がかりとなるだろう。 》
https://ir.library.osaka-u.ac.jp/repo/ouka/all/33992/26827_%E8%AB%96%E6%96%87.pdf

ドゥルーズはヒュームとカント以外にもソクラテスについて書いている。さらに第3章ソクラテス関連で
ドゥルーズが珍しくプルードンに批判的に言及しているが、あくまでマルクス『哲学の貧困』経由の
認識であり、原典に当たっていないのがわかる[2018年邦訳文庫版では49頁]

ただし、カルトのアンチノミー理解を受け継いだのはマルクスではなくプルードン(近年では柄谷行人)だ。
多分ドゥルーズはベンヤミンが引用した以下の言葉も知らない。



「アンチノミーは解消されない。ヘーゲル哲学が全体として根本的にダメなところはここだ。
アンチノミーをなす二つの項は互いに、あるいは、他のアンチノミックな二項との間でバランスをとる」
(プルードン『革命と教会における正義』未邦訳、斉藤悦則氏のHP「矛盾と生きる――プルードンの社会主義」より)

この言葉はベンヤミン『パサージュ論』(岩波現代文庫第4巻391頁)に孫引きされている。

ここからが肝心の点だがドゥルーズは実は思想史的に意図せずしてプルードンを受け継いでいる。
以下のプルードン経済学草手稿の一節は、ドゥルーズ+ガタリによる「器官なき身体」「欲望する諸機械」
といった用語の使用法を想起させる。
通常ならば帰納法の一言で片付けられかねないが。
先のアンチノミーは揚棄されないというプルードンの言葉と合わせて考えれば、ドゥルーズとプルードンを繋げ
るのはそれほど突飛なことではないだろう。

「経済学者たちの無能ぶりと科学の不条理さを目の当たりにして,私は仮説を変えた。つまり,定義された
諸観念を使いながら前に進むのではなくて,未定義の観念から出発した方がよいのではないかと考えたので
ある」
プルードン『経済学』草稿(未刊行、邦訳なし)、邦訳なしより
「プルードンの未発表手編『経済学』について」斉藤悦則から孫引き

なお、邦訳文庫版は
1基礎づけるとは何か? の他に、
2ルソー講義
3女性の記述
4口にすることの輪郭
5ザッヘル・マゾッホからマゾヒズムへ

を含みお得である
(3,4,5は『書簡その他』に別の邦訳が既にあるから初邦訳ではない)




ルソー講義におけるヘーゲルのルソー批判の文脈で
突然スピノザが出てくる(基礎190頁)。
訳注によると神学政治論16,20章の要約らしい。

《スピノザは社会状態においても自由を維持している。「私は単なる
必然性だけでは満足しない」とスピノザは言う。そこで維持される
新しい自由とは,近代世界においては思考の自由ということになろう。》

「国家論に関して私とホッブズとの間にどんな相違があるかとお尋ねでしたが、その相違は次の点にあり
ます。即ち私は自然権を常にそっくりそのまま保持させています( semper sartumtectum conservo )。
従って私は、どんな都市の政府も力において市民にまさっている度合に相当するだけの権利しか市民に対
して有しないものと考えています。自然状態においてはこれが常道なのですから。」*

*書簡50(1674年6月2日付のイエレス宛書簡)、『スピノザ往復書簡集』、畠中尚志訳、岩波文庫、
237-238頁。スピノザは『神学政治論』第16章の傍注(ⅩⅩⅩⅢ)でもホッブズの名を挙げて、ホッブズの
説との対比で自説の特色を述べている(岩波文庫上?301−2頁)。


【目次】基礎づけるとは何か
1 基礎づけるとは何か 1956-1957 ルイ=ル=グラン校講義
第一章 自然と理性
 第1章の結論
第二章「基礎すなわち根拠の本質をなすもの」(ハイデガー)
 第一節 ヒュームからカントへ カントにおける超越論的なものについての観念の形成
 第二節『純粋理性批判』における基礎の諸特徴
 第二章の結論
第三章 基礎と問い
 第一節 沈黙させる問い (キルケゴール、シェストフ)
 第二節 第二種の問い-あらゆる問題の解決に原理を与える問い(ライプニッツ)
 第三節 第三の種類の問い-批判的な問い 
 第三章の結論 
第四章 原理の基礎
 第一節 方法と体系 
 第二節 方法における原理と基礎
 第三節 体系とカント的批判
 第四節 有限性と基礎
 第四章の結論
全体の結論

2  ルソー講義 1959-1960 ソルボンヌ 
自然状態についての二つの可能な考え方
 古代の考え方/ホッブズのもたらした自然状態の新しい意味/自然状態の三つ目の考え方
『新エロイーズ』について
 ヴォルマールの計画/本源的善性/自然的善性/美徳
自然状態
 いかなる意味においてすべてがホッブズから始まるのか?/ルソーにおける「自然」の意味/
 自然状態は現実かそれとも虚構か
ルソーの著作の統一性
 いかにして自然状態から抜け出すか\いかにしてそこから抜け出すか\ルソーの作品の統一性
社会契約
 主権者をある一人の個人やある一つの集団に帰することはできない/主権者はその目的におい
 て分割不可能である\以上のことから、次のように結論づけられる/契約の積極的な性格とは
 何だろうか/約束という行為の本性/一般意志は何を意志するか?
ルソーにおける市民の法の観念

3 女性の記述~性別をもった他者の哲学のために

4 口にすることと輪郭

5 ザッヘル・マゾッホからマゾヒズムへ

 原註
 解題
解説 




NAMs出版プロジェクト: ドゥルーズ「書誌の計画」1989
http://nam-students.blogspot.jp/2016/11/1989.html


Qu’est-ce que fonder? (1956-1957)

sur Jean-Jacques Rousseau (cours de la Sorbonne 1959-1960 )


G. Deleuze, Lettres et autres textes (éd. D. Lapoujade)
http://www.fabula.org/actualites/deleuze-lettres-et-autres-textes_70813.php
G. Deleuze, Lettres et autres textes (éd. D. Lapoujade) Information publiée le 20 octobre 2015 par Marie Minger
Compte rendu publié dans Acta fabula (Octobre 2016, vol. 17, n° 5) : "Deleuze entre les lettres : pour un autre commencement" par Stéphane Massonet.

De Sacher-Masoch au masochisme

Description de la femme. Pour une philosophie d'autrui sexuée

Dires et profils


絶対精神を頂点とする弁証法は最悪だが
本来ヘーゲルの体系はAとBがアウフヘーベンされCになっても
CとAがさらにBにアウフヘーベンされるという循環システム(逆回りもある)
父と母から生まれた赤子もやがて親になり循環するというように
(キリスト=子には父がいないからそうした読みはできないが論理学、自然哲学全般、には妥当する)
カントの三批判もそうした読みが出来る
これでヘーゲルの体系を再評価できる
自分はプルードンのヘーゲル批判は歴史的には決定的だと考えるが
ただし根本的なものではないというのはわかる
より根本的には柄谷行人のように代替案(世界史の構造)を提示する必要がある
マルクスから影響を受けつつ柄谷体系がプルードン再評価を含むのは象徴的である





西川 耕平 - 研究者 - researchmap


researchmap.jp/nishikawakohei/
西川 耕平 - 現代フランスの哲学者ジル・ドゥルーズを研究しています。 ... ジル・ ドゥルーズ(担当:共訳, 範囲:「基礎づけるとは何か」「ルソーについてのソルボンヌ講義」 「女性についての記述」「口にすることと横顔」).

Gilles Deleuze sur Jean-Jacques Rousseau (cours de la Sorbonne 1959-1960 )


 http://nam-students.blogspot.com/2016/11/1989.html
            (リンク::::::::::ドゥルーズ体系)
NAMs出版プロジェクト: ドゥルーズ「書誌の計画」1989
http://nam-students.blogspot.jp/2016/11/1989.html
『ドゥルーズ 書簡とその他のテクスト』
http://urag.exblog.jp/23145671/

NAMs出版プロジェクト: G・ドゥルーズ 「批評と臨床」

原書:Lettres et autres textes (Minuit, 2015)
ジル・ドゥルーズ著 宇野邦一・堀千晶 河出書房新社 2016年8月 頁408
G. Deleuze, Lettres et autres textes (éd. D. Lapoujade)
http://www.fabula.org/actualites/deleuze-lettres-et-autres-textes_70813.php


《--あなたは怪物ですか?
「怪物」というのはまず、混成的な存在です。そしてたしかに私は、一見すると多種多様な主題について書いてきました。怪物には第二の意味があります。すなわち、極端な規定が、未規定なものを十全に存続させておくような何かや誰かのことです(たとえばゴヤ風の怪物)。この意味で、思考とは怪物なのです。》
 邦訳『ドゥルーズ書簡』110~1頁より

…Êtes-vous un « monstre » ?
“ 'Monstre,' c'est d'abord un étre composite.Et c'est vrai que j 'ai écrit sur des sujets apparemment variés. 'Monstre' a un second sens: quelque chose ou quelqu'un dont l' extréme determination laisse subsister pleinement l'in—determine' (par exemple, un monstre a la Goya). En ce sens, la pensee est un monstre.” Gilles Deleuze
Keala Jewell 2001 ,Arnaud Villani RÉPONSES À UNE SÉRIE DE QUESTIONS (Novembre 1981) 1999

(ヒューム的認識だが柄谷の帝国主義論がなぜか想起される。リヴァイアサン…)


注目新刊:『ドゥルーズ 書簡とその他のテクスト』、ほか : ウラゲツ☆ブログ
http://urag.exblog.jp/23145671/

ドゥルーズ 書簡とその他のテクスト 原書:Lettres et autres textes (Minuit, 2015)
ジル・ドゥルーズ著 宇野邦一・堀千晶訳
河出書房新社 2016年8月 本体3,800円 46判上製408頁 ISBN978-4-309-24769-4

帯文より:「思考とは怪物なのです」(ドゥルーズ)。ガタリ、フーコー、クロソウスキー、そして親しい友人たちに宛てられた哲学者の素顔を伝える手紙、重要なヒューム講義、『アンチ・オイディプス』についての対話などの未刊テクスト、生前は刊行を禁じられた初期論考を集成。未来の哲学者による最後の遺産。

目次:
はじめに
謝辞
書誌の計画
書簡
 アラン・ヴァンソン宛て
 クレマン・ロセ宛て
 フランソワ・シャトレ宛て
 ジャン・ピエル宛て
 フェリックス・ガタリ宛て
 ピエール・クロソウスキー宛て ☆
 ミシェル・フーコー宛て
 ゲラシム・ルカ宛て
 アルノー・ヴィラニ宛て
 ジョゼフ・エマニュエル・ヴフレ宛て
 エリアス・サンバール宛て
 ジャン=クレ・マルタン宛て
 アンドレ・ベルノルド宛て
デッサンと様々なテクスト
 五つのデッサン ⑤☆☆
 三つの読解――ブレイエ、ラヴェル、ル・センヌ
 フェルディナン・アルキエ『シュルレアリスムの哲学』
 フェルディナン・アルキエ『デカルト、人と作品』
 ヒューム講義(一九五七-一九五八)①
 ザッヘル=マゾッホからマゾヒズムへ ★
 ロベール・ジェラール『重力と自由』
 教授資格試験用講義――ヒューム『自然宗教に関する対話』
 愛をこめて語られたインディオ
 ジル・ドゥルーズ、フェリックス・ガタリ――レーモン・ベルールとの
 『アンチ・オイディプス』についての討論
 音楽的時間 ⑤
 『フランシス・ベーコン 感覚の論理学』アメリカ版のための序文
初期テクスト
 女性の叙述――性をもつ他者の哲学のために ★
 キリストからブルジョアジーへ
 発言と輪郭 ★
 マテシス、科学と哲学
 ディドロ『修道女』のための序文
後記Ⅰ(堀千晶)
後記Ⅱ(宇野邦一)
人名索引

★は基礎…2018に別訳?が掲載。

・まもなく発売。原書は、Lettres et autres textes (Minuit, 2015)です。巻頭の「はじめに」と「謝辞」は、特に記名はありませんが、編者のダヴィッド・ラプジャード(David Lapoujade, 1964-)によるものかと思います。周知の通りラプジャードはドゥルーズの死後に刊行された論文集成『無人島』『狂人の二つの体制』(いずれも二分冊で河出書房新社より訳書が出版されています)の編者であり、卓抜なドゥルーズ論『ドゥルーズ 常軌を逸脱する運動』(堀千晶訳、河出書房新社、2015年9月)を上梓しています。

・堀さんの「後記Ⅰ」によれば本書は『無人島』『狂人の二つの体制』に続く「「三巻目にして最終巻」(原書裏表紙)となることが告知されており、ミニュイ社からのドゥルーズの著作物の刊行は、これで一段落することになるだろう」とのことです。宇野さんの「後記Ⅱ」によれば翻訳の分担は「私が担当したのは、後半部分の「ザッヘル=マゾッホからマゾヒズムへ」以降のテクスト、対談記録であるが、そのうち「教授資格試験用講義――ヒューム『自然宗教に関する対話』」だけは堀千晶さんが担当した」とのことです。

・宇野さんによる後記をもう少し参照しますと「後半の最後のパート「初期テクスト」は、ドゥルーズが二十歳から二十二歳のあいだに雑誌に発表したテクストや、書物の序文を収録している。ドゥルーズ自身は、これらのテクストの単行本収録を認めていなかったが、研究者のあいだでコピーが流通し、〔・・・〕遺族の許可をえてここに収録されることになった。/二十歳そこそこの青年の書いた五編の哲学的エセーはすでに驚異的である」と。なお、初期テクストのうち「キリストからブルジョアジーへ」については加賀野井秀一訳注『哲学の教科書――ドゥルーズ初期』(河出文庫、2010年)でも読むことができます。

・宇野さんはこうも指摘されています。「初期テクストは、しばしば哲学のアカデミズムからまったく自由な奇抜なスタイルで書かれ、挑発的なアイロニーを生々しく露出させている。そしてすでにかなり風変わりで強力な哲学的推論もいたるところに披瀝されている」。たしかに、5篇のなかでも「発言と輪郭〔Dires et profils〕」(1946年)はとりわけ個性的で、若きドゥルーズの才覚を見る思いがします。なお、原書の目次詳細はこちらでご覧になれます。

G. Deleuze, Lettres et autres textes (éd. D. Lapoujade)
http://www.fabula.org/actualites/deleuze-lettres-et-autres-textes_70813.php
G. Deleuze, Lettres et autres textes (éd. D. Lapoujade) Information publiée le 20 octobre 2015 par Marie Minger
Compte rendu publié dans Acta fabula (Octobre 2016, vol. 17, n° 5) : "Deleuze entre les lettres : pour un autre commencement" par Stéphane Massonet.

***
Gilles Deleuze, Lettres et autres textes, Paris: Éditions de Minuit, 2015.
Édition préparée par David Lapoujade
EAN13: 9782707329394 320 pages 19.50 EUR

Table des matières
Présentation
Projet de bibliographie
 Lettres
À Alain Vinson
À Clément Rosset
À François Châtelet
À Jean Piel
À Félix Guattari
À Pierre Klossowski ☆
À Michel Foucault
À Gherasim Luca
À Arnaud Villani
À Joseph Emmanuel Voeffray
À Elias Sanbar
À Jean-Clet Martin
À André Bernold
Dessins et textes divers
 Cinq dessins
Trois lectures: Bréhier, Lavelle et Le Senne
Ferdinand Alquié, Philosophie du surréalisme
Ferdinand Alquié, Descartes, l'homme et l'œuvre
Cours de Hume (1957-1958)
De Sacher-Masoch au masochisme
Robert Gérard, Gravitation et liberté
Cours d'agrégation: les Dialogues sur la religion naturelle de Hume
Des Indiens contés avec amour
Gilles Deleuze, Félix Guattari: entretien sur L'Anti-Œdipe avec Raymond Bellour
Le temps musical
Préface pour l'édition américaine de Francis Bacon, Logique de la sensation
 Textes de jeunesse
Description de la femme. Pour une philosophie d'autrui sexuée
Du Christ à la bourgeoisie
Dires et profils
Mathèse, science et philosophie
Introduction à La Religieuse de Diderot
Index des noms

*
On peut lire sur nonfiction.fr un article sur cet ouvrage :
"Deleuze vingt ans déjà", par H.-S. Afeissa.
Url de référence :
http://www.leseditionsdeminuit.com/f/index.php?sp=liv&livre_id=3183



1971年4月21日クロソウスキー宛
《…あなたは下部構造のなかに欲望を注入している、あるいは結局同じことですが、逆に、欲望のなかに生産の範疇を注入しているのです。この点がきわめて大きな重要性をもつように思います。なぜならそれこそが、(1)マルクス-フロイト、貨幣-糞便といった不毛な並行論から、こうしたあらゆる愚鈍さから抜け出すための唯ーの手段だからであり、(2)ライヒが、その天才にもかかわらず失敗した地点で成功するための手段だからです(なぜならライヒは、イデオロギー批判の水準に留まっていたために、彼もまた下部構造のなかに欲動が挿人される地点を見落としたのです)。
 こうして、またふたたび、私はあなたの後を追いかけているのです(私はケインズに取り組む必要さえあるでしょう。なぜなら、ケインズは欲望,貨幣の奇妙な関係を発見しているというあなたの指摘を信じるからです)。あなたがなさっていることのなかには、マルクス主義-精神分析という二重の現状維持主義を揺り動かし、もしかしたら吹き飛ばしさえするものが存在しています。そうなったら愉快でしょうね。…》書簡88頁より

(クロソウスキー『生きた貨幣』刊行は1969年)
______
☆☆


Monstre n°10.
「怪物 n°10 怪物は息を吹きかけて指を形成する」

19 Comments:

Blogger yoji said...

革命のと教会の正義

10:51 午前  
Blogger yoji said...

革命のと教会のとの正義

10:51 午前  
Blogger yoji said...

革命のと教会におけるのとの正義

10:52 午前  
Blogger yoji said...

革命におけるのと教会における正義

10:53 午前  
Blogger yoji said...

革命と教会、双方における正義

10:55 午前  
Blogger yoji said...

ゴルギアス

ソクラテス
より優れてはいるが、しかし、より弱くて、また力も劣る、ということがあるのか。あるいはまた、より強く

カル リクレス

5:32 午後  
Blogger yoji said...

ドゥルーズにとって決定的な切断は68年ではなく第二次大戦だろう
(ABCで詳細に語っている)
だからシネマ1,2が重要になる
ニューアカはこうした切断を経ていない
前提として自明視しているものが多すぎるから普遍的思考にならない
東浩紀は社会的インフラを前提にし
浅田彰はテクノロジーを前提にし
柄谷行人は翻訳を前提にしている
柄谷だけが第二次大戦の断絶を経験している…


ドゥルーズを世代論で片付けられはしないが。

《--あなたは怪物ですか?
「怪物」というのはまず、混成的な存在です。そしてたしかに私は、一見すると多種多様な
主題について書いてきました。怪物には第二の意味があります。すなわち、極端な規定が、未
規定なものを十全に存続させておくような何かや誰かのことです(たとえばゴヤ風の怪物)。
この意味で、思考とは怪物なのです。》
 邦訳『ドゥルーズ書簡』110~1頁より

7:17 午後  
Blogger yoji said...

1747年 04月22日 『活力測定考』Gedanken von der wahren Schätzung der lebendigen Kräfte
関連論考:
http://www.cscd.osaka-u.ac.jp/user/rosaldo/16_immanuel_kant.html

ドゥルーズ基礎づけるとは何か?
邦訳は注が充実しているのだが
カントの『活力測定考』(1747)に言及していないのは惜しい。

運動量をmvとすると、運動エネルギーは1/2mv^2であらわされる。
18世紀これはそれぞれデカルト派とライプニッツ派に分かれて論争になった。
物質を上から落とした時の衝撃がmv^2だ

『活力測定考』(1746)ではライプニッツ的な形而上学的視点を重視しながらもその不備を指摘することでデカ
ルト派(mv)とライプニッツ(mv^2)の両者を調停しようとしたのだ(多くの研究者はそれが失敗に終わったと考えている)。

7:39 午後  
Blogger yoji said...

1747年 04月22日 『活力測定考』Gedanken von der wahren Schätzung der lebendigen Kräfte
関連論考:
http://www.cscd.osaka-u.ac.jp/user/rosaldo/16_immanuel_kant.html

ドゥルーズ基礎づけるとは何か?
邦訳は注が充実しているのだが
カントの『活力測定考』(1747)に言及していないのは惜しい。

1747年 04月22日 『活力測定考』Gedanken von der wahren Schätzung der lebendigen Kräfte
関連論考:
http://www.cscd.osaka-u.ac.jp/user/rosaldo/16_immanuel_kant.html
他に『思想の中の数学的構造』山下正男p205がわかりやすい。


運動量をmvとすると、運動エネルギーは1/2mv^2であらわされる。
18世紀これはそれぞれデカルト派とライプニッツ派に分かれて論争になった。
物質を上から落とした時の衝撃がmv^2だ

『活力測定考』(1746)ではライプニッツ的な形而上学的視点を重視しながらもその不備を指摘することでデカ
ルト派(mv)とライプニッツ(mv^2)の両者を調停しようとしたのだ(多くの研究者はそれが失敗に終わったと考えている)。

7:41 午後  
Blogger yoji said...


ドゥルーズ基礎づけるとは何か?
邦訳は注が充実しているのだが
カントの『活力測定考』(1747)に言及していないのは惜しい。

1747年 04月22日 『活力測定考』Gedanken von der wahren Schätzung der lebendigen Kräfte
関連論考:
http://www.cscd.osaka-u.ac.jp/user/rosaldo/16_immanuel_kant.html
他に『思想の中の数学的構造』山下正男p205がわかりやすい。

運動量をmvとすると、運動エネルギーは1/2mv^2であらわされる。
18世紀これはそれぞれデカルト派とライプニッツ派に分かれて論争になった。
物質を上から落とした時の衝撃がmv^2だ

『活力測定考』(1746)ではライプニッツ的な形而上学的視点を重視しながらもその不備を指摘することでデカ
ルト派(mv)とライプニッツ(mv^2)の両者を調停しようとしたのだ(多くの研究者はそれが失敗に終わったと考えている)。

7:42 午後  
Blogger yoji said...


ドゥルーズ基礎づけるとは何か?
邦訳は注が充実しているのだが
カントの『活力測定考』(1747)に言及していないのは惜しい。

1747年 04月22日 『活力測定考』Gedanken von der wahren Schätzung der lebendigen Kräfte
関連論考:
『思想の中の数学的構造』山下正男p205がわかりやすい。

運動量をmvとすると、運動エネルギーは1/2mv^2であらわされる。
18世紀これはそれぞれデカルト派とライプニッツ派に分かれて論争になった。
物質を上から落とした時の衝撃がmv^2だ

『活力測定考』(1746)ではライプニッツ的な形而上学的視点を重視しながらもその不備を指摘することでデカ
ルト派(mv)とライプニッツ(mv^2)の両者を調停しようとしたのだ(多くの研究者はそれが失敗に終わったと考えている)。

7:57 午後  
Blogger yoji said...


ドゥルーズ基礎づけるとは何か?95頁あたり
邦訳は注が充実しているのだが
カントの『活力測定考』(1747)に言及していないのは惜しい(176頁に関連注)。

1747年 04月22日 『活力測定考』Gedanken von der wahren Schätzung der lebendigen Kräfte
関連論考としては『思想の中の数学的構造』山下正男p205がカントの自然哲学を説明していてわかりやすい。

運動量をmvとすると、運動エネルギーは1/2mv^2であらわされる。
18世紀これはそれぞれデカルト派とライプニッツ派に分かれて論争になった。
物質を上から落とした時の衝撃がmv^2だ

『活力測定考』(1746)ではライプニッツ的な形而上学的視点を重視しながらもその不備を指摘することで
デカルト派(mv)とライプニッツ(mv^2)の両者を調停しようとしたのだ(多くの研究者はそれが失敗に終
わったと考えている)。

8:52 午後  
Blogger yoji said...


ドゥルーズ基礎づけるとは何か?95頁あたり、
邦訳は注が充実しているのだが(176頁に関連注)
カントの『活力測定考』(1747)に言及していないのは惜しい。

1747年 04月22日 『活力測定考』Gedanken von der wahren Schätzung der lebendigen Kräfte
関連論考としては『思想の中の数学的構造』山下正男p205がカントの自然哲学を説明していてわかりやすい。

運動量をmvとすると、運動エネルギーは1/2mv^2であらわされる。
18世紀これはそれぞれデカルト派とライプニッツ派に分かれて論争になった。
物質を上から落とした時の衝撃がmv^2だ

『活力測定考』(1746)ではライプニッツ的な形而上学的視点を重視しながらもその不備を指摘することで
デカルト派(mv)とライプニッツ(mv^2)の両者を調停しようとしたのだ(多くの研究者はそれが失敗に終
わったと考えている)。

8:53 午後  
Blogger yoji said...

分析哲学系の人が論理学の文字につられて意味の論理学を読むと失望するだろう
意味の論理学はレトリックや修辞学を扱っているから
そしてなおかつ本質的な修辞学があり得るという話だから

同じ主題を差異と反復が扱っていてこちらの方が構築的という意味で論理学的だが
比喩を軽視する人には面白くないだろう
比喩というよりも思考モデルと言いたいが
新たな概念の創造に興味がなければドゥルーズを読む必要はない

それでも哲学史に興味があれば差異と反復は最高の哲学史

例えばソーカルはライプニッツも読まずドゥルーズを批判し
ソシュールも読まずラカンを批判している
哲学史に疎いとわからないこともある

2:33 午後  
Blogger yoji said...

567 考える名無しさん[sage] 2018/12/06(木) 07:09:45.99 ID:0
ドゥルーズの21世紀 単行本 – 2019/1/17
檜垣 立哉 (編集), 小泉 義之 (編集), 合田 正人 (編集)
単行本: 560ページ
出版社: 河出書房新社 (2019/1/17) 6,264 円

ドゥルーズはなぜ新しいのか。最強の論者が結集した記念碑的論集。
宇野邦一、江川隆男、千葉雅也、國分功一郎、小倉拓也、近藤和敬他

https://www.amazon.co.jp/gp/product/4309248969

2:33 午後  
Blogger yoji said...

文学を軽視する人にはドゥルーズがライプニッツの手紙を要約した以下の言葉を紹介したい
ちなみに『アストレー』はロメールが遺作として映画化している

「ライプニッツは、欺かない神についてのデカルトの推論をかなり警戒し、これに不共可能性の水準で
新しい根拠を与えている。神は戯れるが、戯れの規則を与 えるのだ(略)。この規則とは可能世界は神が
選んだ世界と不共可能的ならば、存在にたどりつくことがないということだ。ライプニッツによれば
『アストレー』のような小説だけが、われわれにこのような不共可能的なものの理念を与えるので
ある。」(ドゥルーズ『襞 ライプニッツとバロック』邦訳邦訳 p110)

2:40 午後  
Blogger yoji said...

ドゥルーズの議論はラッセルの『ライプニッツの哲学』あたりが前提にある
邦訳は絶版なのでここら辺が日本ではミッシングリンクになっている

ロメールの遺作『我が至上の愛 アストレとセラドン』冒頭及び予告編
https://youtu.be/vdj-P7m5fII
https://youtu.be/0JRwGGndvyk

10:40 午後  
Blogger yoji said...

ドゥルーズは巨大な独我論だから全部が主体で全部が構造、全部が他者
論理的矛盾はなく差異だけがある
そこでガタリとの共闘が必然的になる
意味というのは最終的に生まれるものだから前提にするのはそれこそ意味がない

6:49 午前  
Blogger yoji said...

670 考える名無しさん[sage] 2018/12/09(日) 00:48:50.70 ID:0
美学的には意味を留保することに意義がある

7:49 午前  

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