http://www.freeassociations.org/
だが、自由主義の伝統はもう一つある。これは、本質的に資本主義以前のものであり、アナキズムの熱望と多くの点で共通している。チョムスキーは次のように述べている。
アナキズムの思想は啓蒙主義から生じている。そのルーツはルソーの「不平等に関する対話 Discourse on Inequality」、フンボルトの「国家行動の限界 The Limits of State Action」、フランス革命を擁護した際のカントの主張にある。カントは、自由は、自由の成熟を獲得するための前提条件であって、自由の成熟が達成された時に与えられる贈り物ではない、と主張していた。予期されなかった新しい不公正システムである産業資本主義が発展するにつれ、啓蒙主義の急進的人道主義のメッセージ・古典的自由主義の理想を保持し拡充したのはリバータリアン社会主義であった。古典的自由主義の理想は出現しつつある社会秩序を維持するイデオロギーに歪められた。実際、古典的自由主義を社会生活に対する国家の介入に反対させた正に同じ前提のために、資本主義の社会的諸関係は許されないのだ。例えば、このことは、(ヴィルヘルム=フォン=)フンボルトの古典的著作「国家行動の限界 The Limits of State Action」から明らかである。この著作は、(ジョン=スチュアート=)ミルに先行し、彼を鼓舞したのであろう。この自由主義思想の古典は1792年に完成し、時期尚早ではあったが、その本質は完全に反資本主義である。その思想は、産業資本主義イデオロギーに変形され、見る影もなく希釈されてしまったに違いない。["Notes on Anarchism", For Reasons of State, p. 156]
チョムスキーは「言語と自由 Language and Freedom」というエッセイ(「国家の事由 For Reasons of State」と「チョムスキー読本 The Chomsky Reader」に収録されている)でさらに詳しくこのことを論じている。フンボルトとミル同様、こうした「前資本主義」自由主義者にはトーマス=ペインのような急進主義者も含まれる。ペインは、職人と小規模農家(つまり、前資本主義経済)に基づき、大雑把な社会的平等、そしてもちろん、最小限の政府を持つ社会を心に描いている。彼の思想は、世界中の労働者階級急進主義者を刺激した。E=P=トンプソンが思い出させてくれるように、ペインの「人間の権利 Rights of Man」は、『イングランド(とスコットランド)の労働者階級運動にとって基本的テキスト』だった。政府に関する彼の思想は『アナキズム理論に近い』一方で、彼の改良計画は『20世紀の社会立法に向かう基点となった。』[The Making of the English Working Class, p. 99, p. 101 and p. 102] 自由への関心と社会公正への関心の組み合わせが、彼をアナキズムに近くしているのである。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%A3%E3%83%B3%EF%BC%9D%E3%
82%B8%E3%83%A3%E3%83%83%E3%82%AF%E3%83%BB%E3%83%AB%E3%82%BD%E3%83%BC
書評:
The Limits of State Action [ペーパーバック]
Freiherr von Humboldt Wilhelm (著), J. W. Burrow (編集)
求む邦訳, 2008/4/24
http://www.amazon.co.jp/gp/product/0865971099/
レビュー対象商品: The Limits of State Action (ペーパーバック)
これは、チョムスキーがよく引用する書物で、一般に『国家活動の限界を決定するための試論』、『国家行為の限界』、『国家活動の 限界を確定せんがための試論』などと呼ばれ、一部のアナキズム、リバタリアニズム信奉者にとって聖書的な本となっている。
日本では『リバタリアニズム読本』、『フンボルト』(清水書院)、『人間形成と言語』(以文社)などで断片的に紹介されているが、まだ全訳は存在しない。
執筆されたのは1792年だが、検閲を恐れたため、刊行は1851年に著者の死後だったそうだ。
晩年のフンボルトは国家による教育などを許容する方向に向かったそうで必ずしもフンボルトの全体像を示した本ではないが、この書の古典としての今日性は揺るがないだろう。
ヴィルヘルム・フンボルト(兄の方)は言語学者としての見直しが現在進行形だが、並行してこうした政治的な方面も見直されてほしい。
参考:
http://ja.wikipedia.org/wiki/ジョン・スチュアート・ミル
ヴィルヘルム・フォン・フンボルト「国家活動の限界を決定するための試論」(1851年、刊行)はミルの「自由論」にも大きな影響を与えた。ミルは『自由論』において、政府がどの程度まで国民の自由を制限できるか、国民はどの程度の客観的証拠による注意によって、自らの自由な注意によってどの程度まで政府に干渉されずに、自由な意思決定をなすべきなのか考察を行なった。例として毒薬の薬品の注意書きは政府によって命令されるべきか、自らの自由な意思によって注意すべきかを挙げて考察している。もし自らの意思によって注意すべきであるならば、政府は注意書きをつけるように強制すべきではないが、それが不可能ならば政府は注意書きを強制すべきであると論じ、国民の能力の問題をも取り上げることとなった。 酒や、タバコの注意書きや、それと類似に経済学的に意味がある酒税や、タバコ税の意味についても同じことがいえる。もし注意すべきではないということになれば警察国家となるであろうし、一方リバタリアンのように経済的なことのみに注意すべきであるということも可能であろうし、またスウェーデンのような福祉国家を主張することも可能であるということになる。
11 Comments:
人間形成と言語
著者名等 W.v.フンボルト/〔著〕 ≪再検索≫
著者名等 C.メンツェ/編 ≪再検索≫
著者名等 クラウス・ルーメル/〔ほか〕訳 ≪再検索≫
出版者 以文社
出版年 1989.4
大きさ等 22cm 236,4p
注記 Bildung und Sprache./の翻訳 著者の肖像あり
NDC分類 134.3
内容 フンボルト略年譜:p205~212 文献目録(抄):p215~223
書誌番号 3-0190302793
所蔵情報 ( 資料情報 | 予約情報 )
リバタリアニズム読本
著者名等 森村進/編著 ≪再検索≫
出版者 勁草書房
出版年 2005.3
大きさ等 21cm 212,8p
NDC分類 309.1
件名 自由主義 ≪再検索≫
要旨 「そうか、私はリバタリアンだったのか。」もはや無視しえない、何よりも国家権力の制
限を求める「自由尊重主義」のキーワード・作品を整理・紹介するはじめてのガイドブッ
ク。ロック、フンボルト、コンスタン、バスティアらの古典的著作からハイエク、ランド
、フリードマン、ノージックらの必要不可欠な代表的著作まで、読者はさらなる読書へい
ざなわれるだろう。
目次 第1部 リバタリアニズムのキーワード(右翼(右派)と左翼(左派);家族;企業家
ほか);第2部 リバタリアニズムの25冊(ジョン・ロック『統治論』;アダム・スミ
ス『国富論』;トマス・ペイン『人間の権利』 ほか);第3部 リバタリアニズムの古
典から(ヴィルヘルム・フォン・フンボルト『国家活動の限界を推定せんがための試論』
;バンジャマン・コンスタン『近代人の自由と比較された古代人の自由について』;リチ
ャード・コブデン パンフレットと演説から ほか)
ISBN等 4-326-10154-7
1859年に出版された初版の表題紙
『自由論』(じゆうろん、英: On Liberty)は、ジョン・スチュアート・ミルによる自由についての政治学の著作。1806年にイギリスで生まれたミルは、現実政治について批判する著作を発表しており、1859年の本書『自由論』は当時のヨーロッパ、特にイギリスの政治・社会制度の問題を自由の原理から指摘することを試みた。ここで論じられている自由とは国家の権力に対する諸個人の自由であり、これを妨げる権力が正当化される場合は他人に実害を与える場合だけに限定され、それ以外の個人的な行為については必ず保障される。なぜならば、ミルによれば文明が発展するためには個性と多様性、そして天才が保障されなければならない。また当時参政権の拡大をもたらしていた民主主義の政治制度は大衆による多数派の専制をもたらす危険性があり、これをミルは警戒していた。
目次
構成 編集
第1章 - 序論
第2章 - 思想と討論の自由
第3章 - 幸福の一要素としての個性について
第4章 - 個人に対する社会の権威の限界について
第5章 - 応用
翻訳 編集
中村正直が最初に訳した(1872年)。当時は『自由之理』という書名であった。
日本語訳 編集
『自由論』 塩尻公明・木村健康訳、岩波文庫
『自由論』 山岡洋一訳、光文社古典新訳文庫、2006年
新版『自由論』日経BP社、2011年
『自由論』 斉藤悦則訳、光文社古典新訳文庫、2012年。山岡訳の移行による新訳
「自由論」 早坂忠訳、『世界の名著38 ベンサム/ミル』 中央公論社、1967年
脚注・出典 編集
関連項目 編集
功利主義論
外部リンク 編集
自由について(日本語訳)
ミルの業績の中でもとりわけ彼の名が刻まれているのは政治哲学での貢献であろう。ミルの著わした『自由論』(1859年)は自由とは何かと問いかけるものに力強い議論を与える。ミルは、自由とは個人の発展に必要不可欠なものという前提から議論を進める。ミルによれば、私たちの精神的、道徳的な機能・能力は筋肉のようなもので、使わなければ衰えてしまう。しかし、もしも政府や世論によっていつも「これはできる。あれはできない。」と言われていたら、人々は自らの心や心の中に持っている判断する力を行使できない。よって、本当に人間らしくあるためには、個人は彼、彼女自身が自由に考え、話せる状態(=自由)が必要なのである。ここで、ミルの功利主義はその提唱者であるベンサムとはたもとを分かつ。簡単に述べると、ミルの功利主義は、快楽について、ベンサムが唱えた量的なものよりも質的な差異をみとめ精神的な快楽に重きを置いた。それは次のミルの有名な言葉で表されている。
「満足な豚であるより、不満足な人間である方が良い。
同じく、満足な愚者であるより、不満足なソクラテスである方が良い。 そして、その豚もしくは愚者の意見がこれと違えば、それはその者が自分の主張しか出来ないからである。 」
— 『功利主義』第二章
ミルの『自由論』は個人にとって自由とは何か、また社会(国家)が個人に対して行使する権力の道徳的に正当な限界について述べている。『自由論』の中でも取り分け有名なものに、彼の提案した「危害の原理」がある。「危害の原理」とは、人々は彼らの望む行為が他者に危害を加えない限りにおいて、好きなだけ従事できるように自由であるべきだという原理である。この思想の支持者はしばしば リバタリアンと呼ばれる。リバタリアンという言葉が定義するものは広いが、通常は危害を加えない行為は合法化されるべきだという考え(=「危害の原理」)を含む。現代において、この「危害の原理」を基盤に幾人かのリバタリアンが合法化されることを支持するものとしては売春や現在非合法の薬物も含めた薬物使用がある。
ヴィルヘルム・フォン・フンボルト「国家活動の限界を決定するための試論」(1851年、刊行)はミルの「自由論」にも大きな影響を与えた。ミルは『自由論』において、政府がどの程度まで国民の自由を制限できるか、国民はどの程度の客観的証拠による注意によって、自らの自由な注意によってどの程度まで政府に干渉されずに、自由な意思決定をなすべきなのか考察を行なった。例として毒薬の薬品の注意書きは政府によって命令されるべきか、自らの自由な意思によって注意すべきかを挙げて考察している。もし自らの意思によって注意すべきであるならば、政府は注意書きをつけるように強制すべきではないが、それが不可能ならば政府は注意書きを強制すべきであると論じ、国民の能力の問題をも取り上げることとなった。 酒や、タバコの注意書きや、それと類似に経済学的に意味がある酒税や、タバコ税の意味についても同じことがいえる。もし注意すべきではないということになれば夜警国家となるであろうし、一方リバタリアンのように経済的なことのみに注意すべきであるということも可能であろうし、またスウェーデンのような福祉国家を主張することも可能であるということになる。
ミルは自由論の中でオーギュスト・コントの実証主義哲学を次のように解釈している。
M. Comte, in particular, whose social system, as unfolded in his Système de Politique Positive, aims at establishing (though by moral more than by legal appliances) a despotism of society over the individual, surpassing anything contemplated in the political ideal of the most rigid disciplinarian among the ancient philosophers.
コントは特に『実証主義政治システム(Système de Politique Positive)』の中で展開したように、古代の哲学者たちのあいだで最も厳格なしつけ主義者の政治的理想として目論まれていた、いかなるものも超克することによって(法的な適用によるよりも、むしろ道徳によって)個人に対しての社会の専制主義を確立する社会システムを目指した。
— 『自由論』
このヴィルヘルム・フォン・フンボルトとコントの考え方がミルの自由論の根底にあったのである。
アイザイア・バーリンは、これをさらに押し進めた。バーリンが用いた積極的自由、消極的自由という概念に従えば、ミルの『自由論』の議論の多くは消極的自由についてとなる。バーリンが提唱する消極的自由とは、障害、妨害、強制(抑圧)の欠如を意味する。また一方の積極的自由とは、行為できる(可能性的なものも含めた)能力、自由であるための必要条件 - 物質的資源、(ある人における)啓蒙の度合い、参政の機会など - の存在を指す[1]。
この思想は明治時代においては「自由之理」として中村正直に翻訳され、大隈重信の立憲改進党の思想に大きく影響を与えた。
ミルは、他者に危害を加えない行為をするために、個人の自由な行ないを邪魔する法などの障害を取り除くのは政府の役目であると説いている。ミルは実際の自由の行使 - 例えば貧しい市民が生産的な仕事を得ること - を許す必要条件については議論を展開せず、それにはその後のチャーティスト運動に待たなくてはならなかった。
その後、『自由放任の終焉』を書いた経済政策の ケインズなどに代表される20世紀の思想家の登場を待たなければならなかった。しかしニューディール政策を含め自由主義の運動には常にミルの自由論が大きく影響を与えたことは否めないといいうる。
また、ミルは『女性の隷属』(1861年)、『代議政治論』なども著わしている。実際の政治家(下院議員)としてのミルについては上段を参照せよ。
論理学におけるミル 編集
論理学の分野では、『論理学体系』(1843年)を著わした。同書においてミルは、因果関係と真理性の問題を解明する目的を持ちつつ、「ミルの方法」と呼ばれる帰納の方法を五つ提唱している。
ミルは、実証主義的な社会科学方法論の確立をめざし、帰納法によって発見された経験法則を再度現象の予測に適用して法則の真理性を確認するという、オーギュスト・コントの歴史的方法を基にした逆演繹法を確立した。
経済学におけるミル 編集
Essays on economics and society, 1967
リカード後の古典派経済学の代表的な経済学者であり、『経済学原理』(1848年)を著わす。この長大な著作は古典派経済学の代表的な教科書として、マーシャルの「経済学原理」の登場(1890年)まで君臨したと言える。ただし、厳密にはミルの著作のタイトルは政治経済学 political economy の教科書であり、マーシャルのそれは経済学 economics の教科書だった。その後、新古典派や、マルクスとその後継者たちによって、「過渡期の経済学」としてさまざまな批判にさらされたが、近年では再評価が進んでいる。
ミルの経済学は、おおまかに言えばリカード以来の古典派経済学モデルのフレームワークに従っている。19世紀の英国は、産業革命や植民地獲得競争の勝利で、急激に物質的な豊かさを獲得した。しかし、そうした史上空前の繁栄にもかかわらず、貧富の格差や植民地の増加などの社会変化の中で、古典派元来の自由放任政策は行き詰まりを見せていた。経済学者ミルの課題は、そうした当時の「豊かな先進国」イギリスの社会問題に対して、具体的で実現可能な処方箋を書くことにあった。(例えば、同時代のディケンズの描く貧困層のスケッチなどを見よ。)
基本的にミルは自由放任政策の支持者であったが、ロバート・オウエンなどのユートピア社会主義者の潮流の影響を受けて社会主義的な色合いを帯びており、マルクスとはしばしば対比される。『経済学原理』の版によってその社会主義への接近の度合いは変動し、最終版では社会主義に対してやや距離を置いている。これは、勃興する急進的な社会主義運動の実勢に、ミルが幻滅したためではないかと考えられている。社会主義体制の持つであろう恣意的な分配、表現の自由の圧殺などの考えられる弱点について、手厳しく、かつ先見性に富む予言をしている。
ミルは、生産が自然の法則によって与えられる のに対して分配は社会が人為的に変更可能であることに着目し、政府の再分配機能によって、漸進的な社会改革を行なうことに期待している。その意味では「大きな政府」によるセーフティ・ネットの構築に、激化する階級対立の処方箋を見出したと言える。長い時間はかかったが、おおよそ英国社会はマルクスの激越な革命の予言ではなく、ミルの書いた穏健な処方箋の方向へ徐々に進んだともいえる。
後にフェビアン協会へと連なっていく英国の社会民主主義に、具体的な、正統派経済学からの理論的裏づけを与えた最初の経済学者の1人としても評価できる。 なお、現代経済学の中では、アマルティア・センの平等主義的な経済学文献の中にも、しばしばミルの引用が見られる。
経済成長を自明のものとしなかったため、いわゆる「定常型社会」論の先駆と見なされることもある。また、当時の英国に深刻な不安を投げかけていたマルサス『人口論』以来の人口問題については、労働者階級の自発的な出生率の抑制による出生率の制御に期待する、という考え方(新マルサス主義)で臨んでいた。
国家活動の限界 単行本 – 2019/8/8
フンボルト (著), 西村 稔 (編集, 翻訳)
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単行本
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単行本: 696ページ
出版社: 京都大学学術出版会 (2019/8/8)
言語: 日本語
ISBN-10: 4814002378
ISBN-13: 978-4814002375
発売日: 2019/8/8
国家活動の限界
シリーズ名
近代社会思想コレクション ≪再検索≫
著者名等
ヴィルヘルム・フォン・フンボルト/著 ≪再検索≫
西村稔/編訳 ≪再検索≫
出版
京都大学学術出版会 2019.8
大きさ等
20cm 666p
NDC分類
311
件名
国家 ≪再検索≫
書誌番号
3-0500712465
詳細情報
著者等紹介
【西村稔】岡山大学名誉教授・京都大学名誉教授。専門は西洋法史。主な著訳書『文士と官僚-ドイツ教養官僚の淵源』(木鐸社、1998年)ほか。(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)
注記
文献あり 索引あり 原タイトル:Ideen zu einem Versuch die Grenzen der Wirksamkeit des Staats zu bestimmen
要旨
J.S.ミルが激賞した「教養」思想家、ベルリン大学創設に賭けた官僚、そして、ドイツ統一を目指した国政家ヴィルヘルム・フォン・フンボルト―その全貌に迫る。
目次
第1部 国家活動の限界(一七九二年)(序論;人間の究極目的 ほか);第2部 『国家活動の限界』の周辺(国家体制についての理念―新フランス憲法を契機にして(一七九二年一月);『国家活動の限界』草稿―ゲンツ宛フンボルト書簡二通(一七九二年一月九日など) ほか);第3部 官僚制・国家試験・大学(高等試験委員会の組織に関する鑑定書(一八〇九年七月八日);ベルリン大学設立の提議(一八〇九年七月二四日) ほか);第4部 参考資料ドイツ憲法論(ドイツ憲法論(一八一三年一二月);ゲンツ宛覚書(一八一四年一月) ほか)
ISBN
978-4-8140-0237-5 4-8140-0237-8
フンボルト(Humboldt)は、ドイツ語圏の姓。多くの場合、18世紀後期~19世紀前半にかけてドイツで活躍したフンボルト兄弟をさすことが多い。また、この兄弟の業績により、「フンボルト」の冠名をつける用語が多く存在する。
ヴィルヘルム・フォン・フンボルトは、ドイツの言語学者、政治家。ベルリン大学の創設に尽力。
アレクサンダー・フォン・フンボルトは、ドイツの博物学者、探検家、地理学者。1.の弟。近代地理学の基礎である大著「コスモス」を著す。
カール・ヴィルヘルム・フォン・フンボルト(Friedrich Wilhelm Christian Karl Ferdinand Freiherr von Humboldt、1767年6月22日 - 1835年4月8日)は、ドイツの言語学者・政治家・貴族。フンボルト大学(ベルリン大学)の創設者。
ヴィルヘルム・フォン・フンボルト
生誕
1767年6月22日
ポツダム
死没
1835年4月8日
Tegel
地域
Western Philosophy
影響を受けた人物:
イマヌエル・カント, ヨハン・ゴットリープ・フィヒテ[1]
影響を与えた人物:
アウグスト・シュライヒャー, Valentin Voloshinov, Alexander Potebnja, ホセ・アスルメンディ, ジョン・スチュアート・ミル, ノーム・チョムスキー
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目次
人物 編集
言語哲学や言語人類学にも大きな貢献をしたが、その姿勢は、インド・ヨーロッパ語族主義に立った差別的なものだった。プロイセン王国政府の外交官としても活躍。ゲーテやシラーなどとも親交があったことでも知られている。ヨーロッパの知識人にバスク語を普及させた功績も有名。
アレクサンダー・フォン・フンボルト - Wikipedia
1769年9月14日、ベルリンでプロイセン貴族の家[3]に次男として生まれ、国王の侍従であった父親は、温厚で優しい人物であったが、フンボルトが9歳の時亡くなった。母親は、孤高で、冷たく、尊大で、清教徒的な人であった。兄弟の教育は家庭教師がついて行われた。読み書き計算術を教えたのはヨアキム・ハインリヒ・カンペという若者であった。その後任はゴットロープ・クントで、兄弟には歴史や数学の基礎を教え、さまざまな語学に重点を置き、二人が大きくなるとより進んだ学習が出来るようにと専門家たちを招いて学習させた[4]。
フンボルトは、幼いときから自然に著しく関心を示し、花・蝶・その他の昆虫類、貝や石ころなどを探し収集し、これらを分類しラベルを貼るなどの整理をしていた。また、暇があれば本を読み、外国旅行や冒険を夢見ていた。10代の前半には、兄は勉学で才能を発揮していたが、フンボルトは物覚えが悪く、ひ弱で、落ち着きのない子であった。16歳の時、ユダヤ人の医師マルクス・ヘルツを紹介されたことが契機となって科学へと傾倒していった。ヘルツからは物理学や哲学に関する一般向けの講義や科学的な実験などを交えた説明を聞いた[5]。
18歳の時、母親の希望でオーデル湖畔のフランクフルト・アム・オーデル大学に入学した[6]。ゲッティンゲン大学、フライベルク鉱山専門学校で学んだ。ジェームズ・クックの第2回探検隊の隊員だったゲオルク・フォルスターと知り合い、彼とヨーロッパ旅行をしたことがフンボルトを世界探検へと旅立たせるきっかけとなった。
南北アメリカ旅行
1796年11月、母がガンでなくなった。55歳であった。フンボルトは、家庭との絆から解放されるとともに、遺言によって相当額の遺産を相続した。1797年2月に鉱山の職を辞任し、本格的な探検調査に乗り出した。彼の計画は、兄一家とともにイタリア旅行し、火山を研究し、そしてパリで科学調査の機器を購入し、イングランドで西インド諸島行きの舟を捕まえることであった[7]。6月の初め、まずザクセンの首都ドレスデンに向かった。そこでフォレル男爵(スペイン、マドリード駐在ザクセン大使)の兄弟と知り合うことになった。ナポレオン軍が一進一退を繰り返しおり、イタリアの情勢は不安定であったが、10月にはカンポ・フォルミオ条約が結ばれた。フンボルトはウィーンで探検に役立つ諸科学を学習していた[8]。
スペイン首相の後援を受けて、当時のスペイン領アメリカへ向かうことになった。カナリア諸島のテネリフェ島で流星雨の観察を行い、その周期性の研究は今日の天体観測の基礎となった。
さらに南米大陸へと渡り、オリノコ川とアマゾン川が支流で結ばれていると断定し、様々な動植物の調査を行った。そしてコロンビアからアンデス山脈伝いにペルーまで困難な探検を行い、チンボラソ火山の山頂まで400mの地点まで到達し、リマに到達した。このとき、ペルー沿岸を流れる海流の調査をしたことにちなんで、フンボルト海流の名がつけられた。
これらの体験を活かし、従来は互いに独立していた思われていた、動植物の分布と緯度や経度あるいは気候などの地理的な要因との関係を説き、近代地理学の方法論の先駆的業績ともいえる大著『コスモス』が書かれた。
南米からの帰国後、フンボルトはイタリアのベスビオ火山の調査研究を行い、1807年にベルリンで『自然の風景』を出版、それまでの研究成果をまとめるためにパリに居を定めた。この頃になると、彼の名声はヨーロッパ中に轟き、ナポレオンに次いで有名な人物とも言われた。
既に1794年までにフンボルトは、全ての生命の形態と自然環境との関係を説く『世界の自然』を考えていたという。彼は熱帯アメリカの山地における調査によって自然地理学と地球物理学の基礎を築いた。フンボルトは地形、気象、地磁気の研究に様々な化学的器具を用い、植物とその環境との関係を調査して6万種に及ぶ膨大な標本を収集したが、その中には数千種に及ぶ新しい種や属が含まれていた。この時、電気ウナギが馬を感電させたという記録も残している[9]。
フンボルトの写実的記録が、科学分野に大きな進展をもたらした事は確実で、等温線図の作成(1817年)により、彼は様々な国の気候条件を比較する考えや方法を示し、また初めて海抜高度の増大に伴う気温の減少率を明らかにし、あるいは熱帯性暴風雨の起源を追求して高緯度での大気の擾乱を支配する複雑な法則を発見する手がかりを得た。さらに植物学に関する彼の論文は、有機体の分布が異なる自然条件に影響されるという、当時としては全く新しい考えに基づいたものであった。また、地球の磁力の強さが極から赤道に向かって減少することを発見したのもフンボルトであった。
ベルリンに戻る
フンボルトは自由な科学者との交流が得られ、気候がベルリンよりも温暖なパリを好んだ。プロイセン宮廷の職を得た後も、理由をつけてできるだけパリにとどまった。
1827年2月、20年間の思い出に別れを告げ、パリを後にし、ロンドン経由でベルリンに帰った。ロンドンでは4月の末にテムズ河の河底を掘ってトンネルを作り、ワッピングとローザハイズの両岸を結ぶ仕事を見学・体験した[10]。ベルリンに帰った後も、年に数カ月はパリで過ごした。
80歳の誕生日がテーゲル館[11]で祝われた。その頃は、午前9時から午後3時まで務め、午前3時よりも前に就寝することは希であった。睡眠は大概7~8時まで眠っている[12]。財政的にも困っていたので、定収入を得るために宮廷の職から引退しなかった[13]。 晩年には、洪水のような訪問客があり、また、一年に平均で三千通あまりの手紙を受け取っており、そのうち二千通にはフンボルト自身が返事を書いて、コストも負担した。彼は残りの人生を、自らの課題、とりわけ『コスモス』(第3巻1850年刊、第4巻1858年刊)第5巻の完成に力を注いでいた[14]。
1859年に89歳で没した際には、国葬が執り行われた。 5月11日、フンボルトの棺は、兄とその妻カロリーネの傍らに埋葬された。一家の墓所であった[15]。
人物 編集
なお終身独身で、男性との交友を好んだという。
フンボルトは、社交的であるばかりでなく、無類の筆まめで、年によっては一年間に一千通をこなすほどであった[16]。
Humb.は、植物の学名で命名者を示す場合にアレクサンダー・フォン・フンボルトを示すのに使われる。(命名者略記を閲覧する/IPNIでAuthor Detailsを検索する。)
参考文献 編集
ダグラス・ボッティング『フンボルト 地球学の開祖』 西川治・前田伸人訳、東洋書林、2008年
日本語文献 編集
著作 編集
フンボルト『新大陸赤道地方紀行』 大野英二郎・荒木善太訳、岩波書店〈17・18世紀大旅行記叢書〈第2期〉9・10・11巻〉、2001-2003年。抄訳版
フンボルト『自然の諸相 熱帯自然の絵画的記述』 木村直司訳、ちくま学芸文庫、2012年
伝記・小説 編集
ピエール・ガスカール『探検博物学者フンボルト』 沖田吉穂訳、白水社、1989年
ダニエル・ケールマン『世界の測量 ガウスとフンボルトの物語』 瀬川裕司訳、三修社、2008年
アンドレア・ウルフ『フンボルトの冒険』 鍛原多惠子訳、NHK出版、2017年
研究文献 編集
手塚章 編『続・地理学の古典 フンボルトの世界』 古今書院 1997年
山野正彦『ドイツ景観論の生成 フンボルトを中心に』 古今書院 1998年
西川治『地球時代の地理思想 フンボルト精神の展開』 古今書院 1988年
佐々木博『最後の博物学者 アレクサンダー=フォン=フンボルトの生涯』 古今書院 2015年
木村直司『フンボルトのコスモス思想 自然科学の世界像』 南窓社 2019年
脚注 編集
[脚注の使い方]
^ Rupke, Nicolaas A., Alexander von Humboldt. A Metabiography. Corrected edition. (Chicago and London: University of Chicago Press, 2008). p.54
^ Humboldt attended Schelling's lectures at the University of Berlin (Schelling taught there 1841� 1845), but never accepted his natural philosophy (see "Friedrich Wilhelm Joseph Schelling - Biography" at egs.edu, Lara Ostaric, Interpreting Schelling: Critical Essays, Cambridge University Press, 2014, p. 218, and Rupke 2008, p. 116).
^ ベルリンから20キロ離れた松林と砂丘のなかにある大邸宅テーゲル館(ダグラス・ボッティング(2008年) 1ページ)
^ ダグラス・ボッティング(2008年) 2ページ
^ ダグラス・ボッティング(2008年) 2-3ページ
^ ダグラス・ボッティング( 2008年 7ページ
^ ダグラス・ボッティング(2008年) 52ページ
^ ダグラス・ボッティング(2008年) 53ページ
^ 馬も倒せる? デンキウナギは水面から飛び出して敵に攻撃することが判明
^ ダグラス・ボッティング(2008年) 275-276ページ
^ フンボルトが生まれ育った館、ベルリンから20キロ離れたところにある
^ ダグラス・ボッティング(2008年) 337ページ
^ ダグラス・ボッティング(2008年) 338ページ
^ ダグラス・ボッティング(2008年) 343ページ
^ ダグラス・ボッティング(2008年) 355ページ
^ ダグラス・ボッティング(2008年) 361ページ
フンボルト(Humboldt)は、ドイツ語圏の姓。多くの場合、18世紀後期~19世紀前半にかけてドイツで活躍したフンボルト兄弟をさすことが多い。また、この兄弟の業績により、「フンボルト」の冠名をつける用語が多く存在する。
ヴィルヘルム・フォン・フンボルトは、ドイツの言語学者、政治家。ベルリン大学の創設に尽力。
1767~1835
アレクサンダー・フォン・フンボルトは、ドイツの博物学者、探検家、地理学者。1.の弟。近代地理学の基礎である大著「コスモス」を著す。
1769~1859
カール・ヴィルヘルム・フォン・フンボルト(Friedrich Wilhelm Christian Karl Ferdinand Freiherr von Humboldt、1767年6月22日 - 1835年4月8日)は、ドイツの言語学者・政治家・貴族。フンボルト大学(ベルリン大学)の創設者。
ヴィルヘルム・フォン・フンボルト
生誕
1767年6月22日
ポツダム
死没
1835年4月8日
Tegel
地域
Western Philosophy
影響を受けた人物:
イマヌエル・カント, ヨハン・ゴットリープ・フィヒテ[1]
影響を与えた人物:
アウグスト・シュライヒャー, Valentin Voloshinov, Alexan
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