土曜日, 12月 22, 2018

バディウの集合論的存在論



以前、バディウの動画を紹介したが、他にも興味深い資料を見つけたので紹介したい。
ネグリのマルチチュードを批判した書でもあるアガンベンの『ホモ・サケル』でバディウの数学的存在論が紹介されていたのを見つけたのも動機の一つだ。
バディウは最近では『サルコジは何の名前か?』で話題になったが政治主義的(これはフランス知識人のアリバイ工作にすぎず、悪い部分だと思う)な発言の背後に集合論があったというのは発見だった。

以下、アラン・バディウの講演より(図<存在と外観>はwikipediaより)

badiou

http://en.wikipedia.org/wiki/Image:Badiou_being_and_appearance.png

Alain Badiou, scan of a drawing on paper given to the audience of the lecture titled "Art's Imperative: Speaking the Unspeakable" March 8, 2006 at Drawing Center, NYC Presented by LACANIAN INK
http://www.lacan.com/issue26.htm

音声
http://www.lacan.com/space/badiou2.mp3

http://www.lacan.com/space/badiou3.mp3


多数の存在が下方の平面に写像することによって、現象として存在する。
講演では触れられていないが、複数の存在が集合(A,B,C,D)として、四つ描かれたのは偶然ではないだろう。
詩(芸術)、愛、政治、科学(数学)の4つの集合によって世界は構成されているというのがバディウのグランド理論だからだ。

存在していない要素(e)を含む集合(図ではD)というのが謎だが、ここに出来事として生成する現在のとらえどころのなさたる由縁があるのだ(バディウ、邦訳『哲学宣言』解説参照)。
プロセスとしての真理は集合から見出せる不完全な要素から強制法(フォーシング、数学用語、上記書籍p.191参照)によってその都度見出すしかない。現出がキーワードであるということは『存在と出来事』の続編『諸世界の論理』を参照するといいのだと思うが、未邦訳であり原著も参照していない。

論理学の専門家からは批判もあるし(http://hblo.bblog.jp/entry/314239/)、 マオイストだったバディウは「ボルシェビキ」とかつてドゥルーズに揶揄されたそうだが、その政治性を失うことなく政治を分節化している点には共感を覚える(「多」と「数」の区別がついていないというのがドゥルーズのバディウへの批判だが、これは「一」に還元されがちな「多」を指摘していて正論だと思う。また、バディウもドゥルーズを「書かれたものはすべてひとつの始まりとして読まなければならない」と『存在の喧騒』<邦訳p.7>と評していて、晩年には互いによき理解者であったことが偲ばれる)。

また、ヴィトゲンシュタインの厳密な思考とドゥルーズの連結する思考(運動する「離接的総合」<前掲書p.129>)との調停としても興味深い。

この講演を公開しているlacan dot comのような組織がもっと日本にもあって良いと思う。
山口二郎氏が北海道で始めているし、神保町でも市民大学のようなものが行われているが、その公開性においてもっとウェブが活用されるべきだろう。

以下は、政治についての講義より

http://en.wikipedia.org/wiki/Image:Badiou-an_original_drawing.jpg
a drawing by Alain Badiou, handed out during his Nov 18, 2006 lecture entitled "Truth procedure in politics, with some original drawings" held at the Miguel Abreu Gallery in New York City. Presented by LACANIAN INK.

badiou2

追記:
かつて、NAMという組織を集合論的に論じたことがあるが(http://nam-students.blogspot.com/2008/05/nam.html)、バディウのような原理論としてではなく、重なり合う和集合を具体的に分析する手段として集合論を使うべきだとも思う。現実には我々の生活における集合は重なり合うのが自然であり(『フェアトレード』、『都市はツリーではない』参照)、重なり合わない集合は政治的に一面化されたあとの残像にすぎないなのだ、、、