( 0044 Deutsche Wörter im Englischen ドイツ語由来の英語の言葉 参照)。これらは英語におけるジャーマニズムにあたります(Germanismus - Germanism, germanism - germanisme)。
英語の同義語としては world-pain や world-weariness などが挙げられますが、いずれも世界などと大上段に構えている、これらの言葉の使用頻度が高いとはお義理にも言えません。フランス語には入っておらず、mélancolie で訳されています。
では、ウィクショナリー英語版( Weltschmerz )の説明から見て行きましょう。
World-weariness; weltschmerz (profound depression regarding the human condition or the state of the world) (WTe, Weltschmerz)
世界倦厭感、世界苦(人間や世界の置かれた状態に関しての深い憂鬱)
そこには、ご丁寧にドイツ語訳も加えてあります。
Mein Weltschmerz entspringt aus dem Vergleich zwischen dem Guten, das der Mensch wirken kann, und dem Bösen, das er zu wirken pflegt.
My weltschmerz originates from a comparison between the good that man can do, and the evil that he is in the habit of doing. (ditto)
私の世界苦は、人間が行うことのできる善と常に行っている悪の比較に基づいているのです。
続けて大げさなところもある、一般的な言い方としても使えます。
Informal, often humorous: causeless sadness, undue self-pity (ditto)
非公式的、しばしばユーモラスに――理由なき悲哀、過度の自己憐憫
Jetzt mal Schluss mit dem Weltschmerz!
Now stop pitying yourself! (ditto)
もう世界苦に浸るのは止めにしなさい!
ドイツ語における言葉自体は、ゲーテと同時代の作家でゲーテと並ぶ巨匠とも言われたりしていますが、その割には読んだことがあると言う人をあまり見かけないジャン・パウルの造語のようです。哲学小説とも呼ばれている未発表の遺稿『セリーナ』が初出です。グリム辞典では、この世の苦悩の典型( inbegriff des irdischen leides )と説明されています。
Nur sein Auge sah alle die tausend Qualen der Menschen bei ihren Untergängen. Diesen Weltschmerz kann er, so zu sagen, nur aushalten durch den Anblick der Seligkeit, die nachher vergütet. (Jean Paul: Selina oder über die Unsterblichkeit der Seele. Cotta 1827. Erster Theil, S. 132.
ただ彼の眼のみが、滅亡してゆく人間の幾千の苦しみを見た。この世界苦は、後の審判により与えられる至福を見ることによってのみ、言ってみれば、耐えることができるのである。(ジャン・パウル『セリーナまたは不滅の魂』)
世界を憂う哀愁感というのが本来の意味ですが、ここから拡張された意味で一般的に憂鬱や憂愁を意味する使い方も出てきました。悲観的見方や気分とグリム辞典には出ています( eine pessimistische menschliche Geisteshaltung bzw. Stimmung)。
【憂鬱・憂愁 Schwermut, Wehmut, Melancholie, Depression, Niedergeschlagenheit, Gedrücktheit, Trübsinn, Trübsal - melancholy, depression, dejection, affliction, tribulation - mélancolie, dépression, spleen, affliction, cafard 】
同辞典を続けて見てみましょう。まずハインリッヒ・ハイネの例が挙げられていますが、その使い方は、まだ本来的と言えるでしょう。
'schmerz über die vergänglichkeit irdischer herrlichkeit'. in dieser bedeutung nimmt Heine 1831 den Jean Paulschen ausdruck auf:(über ein gemälde Delaroches, das Oliver Cromwell am sarge des hingerichteten Karl Stuart darstellt:) welchen groszen weltschmerz hat der maler hier mit wenigen strichen ausgesprochen! da liegt sie, die herrlichkeit des königtums ... elendiglich verblutend. Englands leben ist seitdem bleich und grau. (Grimm/Grimm, „Weltschmerz“)
“この世の栄華が無常であることに由来する痛み”。この意味においてハイネが 1831 年にジャン・パウルの表現を取り上げている(ドゥラローシュの描いた、処刑されたチャールズ・ステュワートの棺の傍に立つオリヴァー・クロムウェル)――この画家は何と大きな世界苦をこの絵のわずかな筆致で表現していることであろうか!王国の栄華がそこに安置されている […] 無残にも血みどろになって。英国の生活はこれ以来色褪せてグレー一色となった。(グリム辞典「世界苦」)
一般的な意味として挙げられているのは、
'schmerzlicher ekel, überdrusz, resignierende haltung in bezug auf welt und leben' (vgl. auch weltüberdrusz). (l.c.)
“痛ましい嫌悪、倦厭、世界と生活についての諦観的姿勢”(世界倦厭も参照)(同上)
続けてハイネとも親交のあった劇作家カール・インマーマンの使用例が挙げられています。
Ich war […] eben so geistreich, halbirt, kritisch und ironisch geworden, wie viele; genial in meinen Ansprüchen […]; kurz, ich war dem schlimmeren Theile meines Wesens zu Folge, ein Neuer, hatte Weltschmerz, wünschte eine andere Bibel, ein anderes Christenthum, einen andern Staat, eine andere Familie und mich selbst anders mit Haut und Haar. (Immermann, Münchhausen, Bd. I, S. 397)
私は【…】皆の多くと同じように機転が利いて、生半可で、批評家で、非肉屋になったのです――自分の要求を主張することにかけては天才的でしたが【…】。簡単に言うと、私は自分の本性の劣悪な部分に従って、新たな自分を見出し、世界苦に悩み、別の聖書、別のキリスト教、別の国家、別の家族、それに髪の毛も肌の色も違った、別の自分になることを願ったのです。(インマーマン『ミュンヒハウゼン』)
歴史家のハインリッヒ・トライチュケもこの言葉を使っています。
ich glaube fast: wie wir uns in der zeit, wo das selbständige denken beginnt, in phantastischen abstraktionen ergehn, bis dann als rückschlag der weltschmerz eintritt, so ist in unserm jetzigen alter die selbstanklage für jeden denkenden unvermeidlich (19. 7. 1856) Treitschke (Grimm/Grimm, „Weltschmerz“)
【…】自立した思考が始り、空想的な抽象にまで膨れ上がり、やがて世界苦の反動がやって来るという、そういう時期に私たちが今いるように、私たちの今の年代においては思考する人であるならば、誰でも自己告発は避けられないものとなっていると思います。トライチュケ。(グリム辞典「世界苦」)
https://kimugoq.blog.so-net.ne.jp/2012-06-02
《第240回》
2月5日に那覇の松山小学校でおこなわれた国男の講演は「世界苦と孤島苦」と題されていた。以前にも触れた講演ではあるが、ここでは晩年の『故郷七十年』の回想にしたがって、その内容をもう一度紹介することにしよう。先島諸島をまわり、ふたたび沖縄本島に戻って、明日はまた鹿児島に向かう船に乗る前日の話だという点に着目する必要がある。宮古島や石垣島での経験が反映されている。
『故郷七十年』では、講演の内容がこんなふうに語られている。
〈沖縄の文化には中心があるから、どうしてもそれをはずれると、割引をしなければならぬような食い違いが免れられない。私の知り合いの比嘉春潮君などは珍しくそういう偏頗(へんぱ)のない人だが、多くの人はみなその癖をもっていて「何島だからねえ」というようなことをすぐいう。八重山[主島は石垣島]とか宮古島とかいう、割に大きな島でも特殊扱いされていたのだから、もっと小さな離島はかなり別扱いされていたに相違ない。……
沖縄に行って話した演題を「世界苦と孤島苦」としたのも、そんなわけからであった。世界苦というのはほかにもお連れがあるから、皆と一緒につきあっていっていいが、この孤島苦のほうを沖縄の人が気づかないようでは駄目だ、沖縄県でも自分の村の仲間のうちの一つ低いものを軽くみるようでは駄目だということを、かなり強い言葉で話したのである。すると、大体の人はみな一様にちょっと嫌な顔をしたが、それ以来、沖縄には複雑な内容と気持ちとをもった孤島苦という言葉が行き渡っているらしい〉
沖縄は世界苦を味わっているというのが、当時の地元のとらえ方だった(そして、それは平成の現在でも緩和されるどころか、より深刻化しているというべきだろう)。世界苦とは何か。それは世界=中央からいやおうなく押しつけられる負担や桎梏のことである。沖縄にとって、世界苦とは「ヤマト世」の苦にほかならない。
ところが、那覇の講演で、国男は世界苦のことよりも孤島苦について話した。沖縄人は世界苦を味わっていると感じているが、自分たちがほかの島々に孤島苦を味わわせていることに気づいていないのではないか。
おそらく国男はこんなふうに話したはずだ(「島々の話」による)。
〈沖縄は決して最後の沖の小島ではない。宮古、八重山の島人らが、永い歳月のあいだ中山[琉球王国]の首都に対して感じている不便と不満とも同じものなれば、さらにまた宮古にあっては多良間の島、その多良間に対しては水納(みんな)の島の青年が、やはりこれを経験しているはずである。八重山の主島[石垣島]に対する与那国の波照間(はてるま)も、事情は等しくして、なお一層の不幸は、彼らが最後であり、また訴えても聴く人のなかったことである〉
この講演に立ち会った沖縄の人びとはおそらく虚をつかれたはずである。国男はまもなく「与那国の女たち」というエッセイを書くが、これは孤島苦にたいする見方をかれなりに示したものといえるだろう。
ここで国男が示そうとしたのは世界の構造である。世界には中心があって、周縁をみずからのルールに従わせようとする。ところが、その周縁も〈小中央〉を形づくり、さらにその周縁を支配しようとする。その連鎖が「世界苦と孤島苦」となってあらわれるのだ。
それは日本と沖縄の関係だけではない。日本自体も「世界苦」を味わっていた(それ自体が「孤島苦」でもあった)。この苦の連鎖、転嫁に次ぐ転嫁をどこかで断ち切ることはできないのだろうか。「この境遇にある者の鬱屈は、多数の凡人を神経質にし、皮肉にし、不平好きにするに十分だ」。だが、それでは何もはじまらない。
のちの記憶による再現ではあるが、国男は講演で、さらにこんなふうに話したと思われる。
〈諸君の不平には限界があってはならぬ。ひるがえってまた、諸君の「中央」と名づけているものも、こんな小さな地球においてすら、決して真の中央ではないのだ。……外交論といえば陰弁慶(かげべんけい)で、正論と身勝手の差別がわからぬ。これがわれわれの日本のいまの悩みで、同時に沖縄人の孤島苦をただ鏡餅の上下ぐらいに差等づけたにすぎぬものだ。論理が徹底しないと反抗にも価値がない。もう国の戸は開けたのに、独りで自分を縦からみたり、横からみたり、いたずらに憐れんでいても仕方がない。ひろい共同の不満を攻究してみようではないか〉
簡単な解決法や処方箋などない。むやみに詠嘆したり、ただ身勝手に主張したりするだけでは、前進にはつながらない。「共同の不満」を徹底して攻究すること、それがすべての出発点だと国男は訴えた。
最晩年にあっても、国男の沖縄研究にたいする意欲は衰えなかった。
『故郷七十年』でも、こう語っている。
〈もう一つ沖縄には500年この方、王朝があったといい、そしてその前にも1万2000年もつづいた王朝があったと文献に出ている。その考えが強く残っていて、歴史を書くときにも王朝のことばかり書いて琉球の歴史であるというので、そうではありませんといおうとすると、どうも衝突を起こす。琉球でも国際交通のはじまった元、明、清とだんだん文化が高まり、天下という観念がひろくなって、どうしても[琉球王国が]その中心ということを考えるようになった。それさえなければ離れた島々がのんびりと生活を楽しめるのではないか[楽しめたのではなかったか]という点がたくさんあるようである。沖縄のすぐれた学者であった伊波普猷君などは、王朝時代、藩政時代を経て明治になった当座の、明るくなった気持ちを主として書こうとしていたのではないかと思う[日琉同祖論もそのひとつだ]。私はさらにもう一つ前の三朝三代[三山時代、第一尚氏時代、第二尚氏時代]にさかのぼって、それ以来のことをずっと勉強しなければならないのではないかと考えている〉
国男はさまざまな話題を思いつくままに語っているが、すくなくともこうした姿勢を、日本の沖縄支配をロマン主義的に補完する「南島イデオロギー」と片づけるわけにはいかないだろう。
国男の旅をさらに追ってみることにしよう。
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