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(カントはビュフォンに言及している。カントは無論だが、
ライプニッツやヘーゲルにも博物学的側面がある。)
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北イタリアのコムム(現在のコモ)生まれ[2]。プリニウスは思想的にはストア派で、論理と自然哲学と倫理学を信奉していた。ストア派の第一の目的は、自然法則にしたがって徳の高い生き方をすることであり、自然界の理解が必要であった。甥の小プリニウスによると、プリニウスは夜明け前から仕事をはじめ、勉強している時間以外はすべて無駄な時間と考え、読書をやめるのは浴槽に入っている時間だけだったという。[3]
23歳のころ軍隊にはいり、ゲルマニア遠征に従軍した。50年代にローマにもどり法学を学んだが、弁論家としては成功せず、学問研究と著作に専念した。70年ごろから72年にかけて、ヒスパニア・タラコネンシス(スペイン北部)に皇帝代官として赴任した。このときに現在では世界遺産にもなっているラス・メドゥラスの採鉱作業にも接している。最後はイタリアに戻って、直接ウェスパシアヌス帝に仕える要職に就いた。この仕事は一日の大半を自由に使えたため、プリニウスは精力的に筆をふるい、ローマ史31巻をまとめ、ネロ帝の時代から材料をまとめ続けていた『博物誌』37巻の大半を書き上げた。[3]
小プリニウスの伝えるところによれば、プリニウスはスタビアエの町で休息していたが、火山性地震が激しくなったため、建物の倒壊を恐れて海岸へ避難した。避難者たちが海岸にいると、濃い煙と硫黄の臭いが立ち込めたため、人々は算を乱して逃げ出したが、プリニウスは動けずその場で倒れた。噴火が始まって三日目に収容された彼の遺体は眠るがごとくであったという。プリニウスの死因について小プリニウスは、喘息持ちであったため、煙で気管支がふさがれ窒息死したのだと記述する。硫黄臭や気管支の損傷についての記述は、硫化水素や二酸化硫黄などの火山ガスによる中毒死を強く示唆しており、現代の伝記ではプリニウスが有毒ガスで死んだと記述されることも極めて多いが、実際には史料からの憶測の域を出ない。
プリニウスは、歴史や科学に関する多数の著作をあらわした。プリニウスの著作は全部で102にもおよぶが、現存するのは77年に完成した『博物誌』のみである。騎兵による投げ槍の使用についての論著、甥である小プリニウスのために書いたと思われる、弁論家養成の3巻本、語形変化と活用について論じた8巻本、ゲルマニアでの戦争を記述した20巻の歴史書、そして41~71年のローマ史31巻などがあるが、いずれも現在では失われている。
プリニウスの著作で唯一現存しているのが、自然と芸術についての百科全書的な37巻の大著『博物誌』である。自然界の歴史を網羅する史上初の刊行物であった。ローマ皇帝ティトゥスへの献辞の中で彼自身がのべているように、この書物には、100人の著者によるおよそ2000巻の本(その大半は現在に伝わっていない)を参照し、そこからピックアップした2万の重要な事項が収録されている。メモや調査の記録は160冊にもなろうかという分量だった。最初の10巻は77年に発表され、残りは彼の死後おそらく小プリニウスによって公刊された。この百科全書は、膨大な参考文献表から始まり[3]、天文学、地理学、民族学、人類学、人体生理学、動物学、植物学、園芸、医学と医薬、鉱物学と冶金、美術にまでおよび、余談にも美術史上、貴重な話がふくまれている。直接見聞きしたものはほとんどなく、受け売りの論評と迷信がないまぜになった風変わりな書物である。約200枚の手書き原稿が現存している。[3]プリニウスの名前は8~9世紀の文献にも登場し、中世には『博物誌』が重視された。怪しげな情報を採用したり、科学の素養がないため間違いを犯している点もあるが、よく整理された知識が記載されており、古代研究の分野ではルネサンスまで『博物誌』が唯一の情報源であった。
- 『馬上からの投げ槍について』(De iaculatione equestri)
- 『ポンポニウス・セクンドゥスの生涯』(De vita Pomponi Secundi)
- 『博物誌』(Naturalis historia)、77年[4]。
日本語文献編集
- 小プリニウス『プリニウス書簡集 ローマ帝国一貴紳の生活と信条』
- ヴェスヴィオ火山噴火と大プリニウスの死の記述がある。国原吉之助訳注、講談社学術文庫
- 中野里美 『ローマのプリニウス』 光陽出版社、2008年
- 澁澤龍彦 『私のプリニウス』 青土社、1986年
- ロバート・ハクスリー 著、植松靖夫 訳 『西洋博物学者列伝 アリストテレスからダーウィンまで』 悠書館、2009年
大プリニウスを描いた作品編集
- プリニウスを主人公にした澁澤龍彦による短編小説。『文藝』(河出書房新社)1979年4月号に発表。河出文庫『唐草物語』(ISBN 978-4-309-40473-8)に収録。
- プリニウスを主人公にしたヤマザキマリととり・みきによる漫画。『新潮45』(新潮社)誌上で2014年1月号から連載中。詳細は該当項目を参照。
- ^ 佐藤洋一郎『食の人類史 ユーラシアの狩猟・採集、農耕、遊牧』中央公論新社、2016年、250頁。ISBN 978-4-12-102367-4。
- ^ 池上英洋『美しきイタリア 22の物語』光文社、2017年、27頁。ISBN 978-4-334-04303-2。
- ^ a b c d ロバート・ハクスリー 著、植松靖夫 訳 『西洋博物学者列伝 アリストテレスからダーウィンまで』 悠書館、2009年
- ^ 邦訳:『プリニウスの博物誌』全3巻、中野定雄・中野里見・中野美代訳、雄山閣、1986年がある。ただし、これはLoeb Classical Libraryの英訳からの重訳であり、用語の問題や誤訳などが散見されるため、引用の際には注意が必要である。ラテン語原典からの日本語初訳として、大槻真一郞編集による『プリニウス博物誌 植物篇』『プリニウス博物誌 植物薬剤篇』八坂書房、1994年がある。
外部リンク編集
ラテン語版ウィキソースに本記事に関連した原文があります。
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プリニウスの金言https://blog.goo.ne.jp/irienohotori/e/144cf2d3429a1bd99cdfdca3538bd4c3
JIS+2D21「人生における最大の罪は、初めて金を自分の指につけた人物によって侵された」
(註:古くからローマ人には指輪をつける風習があった。当初
は鉄製のものが使われたらしい)
JIS+2D22「儲けの多い怠惰な生活の最初の源は貨幣の発明にあった。急速に、もはやただの貪欲というものではなく、金に対する絶対的な飢餓が、一種狂乱状態をもって燃え上がった」
JIS+2D23「人生から金が完全に放逐できたらよいのだが。金は世界のもっとも賢明な人びとに毒づかれながらも、ただ人生を破壊するためにのみ発見されたのだ」
これこそまさにプリニウスの「金」言である。