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● 見えてきた金融政策の限界 強まる財政政策への期待
米国で論争を巻き起こしている「現代貨幣理論(MMT、Modern Monetary Theory)」が、最近は日本でも議論になっている。
MMTは、分断が進む米国政治で急進派が財政拡張の論拠としていることや、「政府は無限に借金できる」という極端なレトリックに焦点が当たりがちなこともあり、多くの経済学者、エコノミストから異端の扱いを受けている。
全くの暴論なら、一刀両断に否定されて、そこで議論は終わるはずだが、現実にはそうなっていない。「異論」とは片付けられない何かを突きつけているのである。
筆者は、MMT自体にはやはり問題があると考えるが、昨今のMMT論争が、先進国の金融財政政策の在り方に一石を投じているのは確かだ。
一言で言えば、金融政策がほぼ限界に達したときの財政政策の活用をどう考えるか、という問いである。
MMTは必ずしも厳密には定義されていないようだが、その基本的な主張は、「通貨発行権を持つ国は、自国通貨建て国債で必ず財政ファイナンスができるので、インフレになるまでは財政赤字を積極的に活用すべき」といったところだろう。
これに対する主たる反論は、(1)行き過ぎたインフレになってしまう、(2)金利が大幅に上昇し財政は結局、破たんする、というものだ。
しかし、MMT論者は、あくまで低インフレ・低金利環境における条件付きの財政積極主義を主張しているつもりなのだろう。
● 物価が上がらず緩和常態化 次の景気後退に対応力乏しく
議論の根っこには、先進国で金融政策の限界が明らかになっていることがある。
日本銀行は2013年から大胆な金融緩和を続けているが、目標とする2%インフレが実現するめどは立っていない。
金利がひとたびゼロ近辺まで低下すれば、そこから緩和手段にさまざまな工夫を凝らしたところで、経済・物価に対する効果には限界がある。
日本の経済や雇用はこの6年間で改善しているので、2%インフレにならないこと自体は大きな問題ではない。
問題は、あくまで2%インフレが政策目標とされているために、経済が循環的な意味で正常化しても、金融政策は正常化に動けないことである。
いつかは次の景気後退が訪れるが、その時に金融政策の対応余力は極めて乏しい。
ユーロ圏の状況も日本とほぼ同じである。基調的なインフレ率は、日本よりやや高いとは言え、1%近辺でほぼ動かない状況が数年にわたって続いている。2%近くまで上昇する気配は見えてこない。
このままでは欧州中央銀行も、金融正常化の「出口」のあてなくマイナス金利を続けることになってしまう。
米国ですら、経済が好調な割にはインフレ率が上がらない。景気拡大期間はこの夏には史上最長の10年となり、失業率は半世紀ぶりの低水準である。それでもインフレ率は、目標の2%をやや下回っている。
このため連邦準備制度理事会(FRB)は、昨年末まで続けてきた緩やかな利上げを、差し当たり打ち止めとする方針を採っている。
現在の政策金利の水準は2.25~2.5%であり、日欧よりははるかにましだが、それでも金融危機前と比べれば半分以下の水準である。次の景気後退への備えは心もとない、とされている。
● 長く続かなかった 金融政策の「黄金期」
このように、米国ですら金融政策の限界を意識せざるをえない情勢のもとで、MMTには批判的な米経済学者の間でも、一定の財政赤字を許容する論調が強まっている。
例えば、ローレンス・サマーズ(元米財務長官)は、財政運営に一定の規律は必要としながらも、現在の低金利環境のもとでは財政赤字の縮小を急ぐべきではなく、むしろ次の景気後退に対応するための財政出動プランを考えておくべき、と主張している。
また、オリヴィエ・ブランシャール(元IMFチーフエコノミスト)も、国債の利回りが名目成長率を下回る環境では、政府債務残高が高水準のままでもそのコストは小さいと指摘している。
世界的に1970年代頃までは、景気変動に対して財政政策を裁量的に活用すべき、という考え方がむしろ主流だった。いわゆるケインズ政策全盛の時代である。
しかし、財政政策は、紙の上では単純な操作だが、現実には歳出や税制についての政治的な意思決定の束である。予算審議には時間もかかる。その時々の政治情勢に左右されて近視眼的な措置が選択される可能性が高く、その場合は長期的にさまざまなゆがみが蓄積する。
そうした欠陥が70~80年代に高インフレや政府債務の膨張という形で露呈した結果、90年代以降は、金融政策が景気平準化の役割を担うべき、という考え方が定着した。
独立性の強い中央銀行が、透明性の高い形で中長期的に「物価の安定」を目指せば、経済にゆがみが蓄積される問題も起こりにくい、と考えられたのである。
しかし、金融政策の「黄金期」も長くは続かなかった。
グローバル金融危機を境に3つの問題が明らかになった。
第1に、「物価の安定」を目指しても金融危機は防げなかった。
第2に、金融危機後に経済が緩やかに回復する中でも、金融政策が低インフレを押し上げる力には限界があった。
第3に、それでも中央銀行が限界に挑み続けたことで、超低金利が常態化してしまったことだ。
このうち、第1の問題は、金融規制・監督の強化による対応が進められた。しかし、第2、第3の問題は、どう対応すべきかもわからないまま今日に至っている。
金融政策の手詰まり感や副作用への懸念が強まる中、財政政策への期待が強まるのは自然な流れだともいえる。
財政政策の積極的な活用は、金融政策の機能復活をも助ける。
そもそも2%程度までインフレ率を高めた方が良いとされている主な理由は、その方が平常時の金利水準も相応に高くなり、景気後退に対する金融政策の「のりしろ」を確保できるという点にある。
しかし、その考え方を2%インフレの実現が難しい中で採り続けると、むしろいつまでも緩和から脱却できず「のりしろ」がつくれない、という本末転倒な結果になってしまう。
● 財政積極活用にも条件が必要 MMTの発動基準は乱暴
一方で、景気後退には財政政策で機動的に対応する、という政策割り当てが明確であれば、金融政策の「のりしろ」は小さくてもよい。
「のりしろ」が小さいままで済むなら、そもそも2%インフレを目指す必要もなく、金融政策は経済情勢に応じて正常化できる。つまり、財政政策を景気下支えの主役にすれば、逆説的だが、金融政策もある程度は「のりしろ」が回復し、景気後退時に使えるようになるのである。
問題は、前述した財政政策の弊害をどうクリアするかである。
そのためには、(1)財政政策の発動や停止に関する適切な基準、(2)長期的に政府債務の持続性を確保するための一定のルール、などが必要だろう。
特に日本の場合は、政府債務残高が既に高水準であることや、人口の高齢化が今後さらに進むことも勘案しなければならない。
この点で、「インフレにならない限り財政赤字はいくら拡大しても問題ない」というMMTの財政発動基準は、やはり乱暴過ぎるのである。
いかなる経済政策にも、「持続性のある形で経済成長に貢献する」という視点が欠かせない。そこには、資源配分を無用にゆがめないことや、金融市場が政府債務の持続性に疑念を抱く可能性がないようにすることも、当然含まれる。
インフレになるかならないか、という単純な基準だけで財政政策は決められないのである。
ただ、それは金融政策も同じである。インフレ率という単純な基準だけで、金融緩和を続けるかどうかを決めるのは危うい。インフレ率に野心的な目標を掲げている場合は、なおのことそうである。
財政であれ金融であれ、経済が「普通」の状態まで戻ったら、将来の経済にとってリスクになる政策はなるべく続けない、という大原則を持つべきである。
そうした哲学が堅持されてこそ、景気の悪化局面で強力な政策対応を繰り出す余力が確保できるし、またそうした政策対応に伴う副作用への心配も抑えられる。
● 物価で判断しにくくなった 持続可能な経済の均衡状態
問題は、物価が経済活動の健全度を測る「体温計」としてかつてほど機能しなくなった中で、経済が「普通」、つまり持続可能な均衡状態にあるかどうかを判定するのが、簡単ではないことだ。
これは最終的には総合判断というほかはない。
だが少なくとも、完全雇用でも低インフレという組み合わせが世界的に常態化している現実を踏まえると、インフレが高まるまで需要を刺激すべき、という政策運営では経済は「普通」を通り越してしまう。
日本でも、2016年半ば、結果的には世界経済の同時拡大が始まりつつあったタイミングで、消費税率の引き上げが延期された。また、政府は財政の中長期的な試算において、楽観的すぎる経済成長の前提を今も使い続けている。
こうしたポピュリズム傾向を目の当たりにすると、やはり財政政策は意識的に規律を重視するぐらいでちょうどよいのではないか、とも思いたくなる。
しかし、金融政策に限界がきている現実から目を背けるわけにもいかない。
財政政策と金融政策の役割分担について、そしてその際にインフレという基準をどこまで重視するかについて、現状よりは良い答えが存在するはずである。
MMT自体は切り捨ててもよいが、そこから考えさせられる課題は重い。
(みずほ総合研究所エグゼクティブエコノミスト 門間一夫)
門間一夫
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