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日曜日, 6月 16, 2019

IMCU ポール・デヴィッドソン(Paul Davidson、1930~)

参考:
2012年ポール・デビッドソン講演バンコール関連発言に反応するケルトン
https://love-and-theft-2014.blogspot.com/2021/01/2012.html 
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『国際貨幣経済理論』(ポスト・ケインジアン叢書10)、渡辺良夫・秋葉弘哉共訳、日本経済評論社、1986年 
 International Money and the Real World, 1982

 



#4:139~140
UMS―NUMSの区別
 貨幣とは,考察している経済制度において確立された契約法および慣習と直接的に関係をもつ人間の定めた制度である。貨幣とは法的な契約上の債務を履行するそうしたものである。とはいっても,貨幣は法定貨幣に限られる必要はない。近代国家においては,それは「国家または中央銀行が,それ自身への支払いに対して受領すること,あるいは強制的法貨と交換することを保証している」15)他のいかなるものも含むであるう。それゆえ,実際には,法定貨幣以外のものが国家あるいは中央銀行に対する負債の決済に習慣上受け容れられていれば,それらは民間の契約上の債務の履行に受け容れられるであろうし,それゆえそれらは貨幣となるのである。
 貨幣制度には二つの基本的なタイプがある一一統合通貨制度(UMS)と非統合通貨制度(NUMS)である。(閉鎖および開放経済のいずれにおいても)取引者間のすべての現物および先物契約が同一の名目単位で表示されているとすれば,そのような通貨制度は純粋なUMSである。異なる取引者間の異なる契約においてたとえ多種の名目単位が用いられようと,これらの多種の名自単位間の為替相場が(a)固定されている(そして転換費用は無視しうるものである),しかも6)契約の存続期間中は不変にとどまると期待されるかぎり,この制度は依然としてUMSである。多くの名目単位をともなったこのような契約上の諸取決めから`なる制度は,さまざまな通貨が完全流動資産であるような修正されたUMSと考えることができる。(完全流動資産の定義は,それ自身が契約の決済手段(貨幣)であるか,あるいは相場形成者が固定された不変の現物価格を「保証」する現物市場において契約を決済手段に転換できるような資産のことである。)もしひとつ以上の完全流動資産が存在し, またもしも法律あるいは慣習により契約の決済が支払者の選択によってどんな完全流動資産ででもなされうるとすれば,その制度は純粋なUMSと考えることができる。しかし,もし法律あるいは慣習が,被支払人の選択によって実際は契約上の貨幣に転換できるような完全流動資産を要求する場合は,その制度は純粋なUMSから一歩隔たっており,その隔たりの大きさは転換費用に依存している16)。

15) Keynes,CI弔′K,V,p.6.
16) それゆえ,近代の銀行貨幣経済においては,国民銀行制度の決済メカニズムをつうじて特定の完全流動資産の所有を即座に移転するために一覧払い為替手形を振り出す能力は,実際上,銀行の債務として知られている完全流動資産を「貨幣(monetizoする。

#10:305~7
 いろいろな国民銀行制度間の債務を清算するための,また一般の公衆の債務を決済するのに用いられるものとは異なった貨幣としての独立した独特のICMUの存在は,適切な管理と教育のもとで, こうしたインフレ的傾向――それらはいろいろなグループが独占,寡占あるいは他国の労働組合の力の国際的な行使によって始発される実質所得の喪失を他の人びとに押しつけようと試みる結果なのである一―の低下を育むのを助けることができる。ある国家が国内能率賃金を引き上げるのを許すときはいつでも,国内的標準の表示による地域通貨の購買力が低下するにつれて,ICMUは自動的に価値が増大するので,銀行間手形交換の決済にICMUを使用しなければならない貿易相手国は,地域的インフレーションを輸入することから完全に保護されるであろう。NPCICによって国内の所得分配を制御することを拒むいかなる国民もインフレ=ションをこうむるであろうし,それはもはや他の人びとをこの悪性の病に感染させることはできないであろう。しかしながら,ICMUのような貨幣制度は,もしそうした市場支配力を保持するグループがそれを利用したいと欲し,文明人のゲームのルールを欺く場合には,それ自身では国際的な経済支配力の行使を防ぐことができない。しかしそれでも,始末に負えないカルテルの場合には,国際清算同盟は依然としてインフレ的傾向を誘発したカルテルの国内的フィード0バック効果を制限し,諸国がそうした国際的カルテルや独占的支配力の行使に対する攻撃を調整するのを助けることができる。しかしながら,たぶんいっそう重要なことは,国際清算同盟のための独立した貨幣の存在が,国際貿易の成長とともに国際流動性に対する必要量の増大を充足させるための「弾力的」な国際通貨を準備する国際通貨制度を発展させる機会を与えるということである。国際清算同盟のためのケインズ本来の「バンコール」(banCOrs)機構のひとつの目的は諸中央銀行間の契約の決済手段をも
つことであったが1°),その供給は内生的に拡張されうるもの(真正手形主義)であり, しかしそれは貨幣の弾力性特質を保持していた。ひとつの決済手段としての内生的で容易に拡張可能な国際通貨に対する必要性は,バンコール制度のある変形が組織的・科学的な管理にとって利用しうるかぎり,国際決済手段および準備資産としての金の使用をケインズにとっては,(おそらくけっして使用される必要のない心理的な究極の準備資産として以外)それほど容認しうるものにはしなかった。そのもっとも純粋な形において,ケインズの清算同盟にかんする概念は究極的には,ある国の居住者が私的な決済のときに債務国からの追加的な輸入品の購入を拒む場合,債権国が清算同盟のバンコールをあらゆる海外債務を最終的に履行するものとして受け入れることに依拠していた。もちろん,いかなる閉鎖統合貨幣制度においても, 自己の稼得した請求権を契約決済期日に産業の生産物に支出するのを拒む債権者は銀行制度に対する請求権か,さもなければ債務者によって彼らに売却された流動資産を流動的な富貯蔵物として受け入れなければならない。ヶィンズの清算同盟は同じ閉鎖国際銀行制度を展開する試みであり,それは同時に,はっきりと特定化されたゲームのルーンレのもとで,内生的な国際貨幣供給を許すものであった。不確実性の世界において,企業家による流動性(貨幣あるいは低い持越費用をもった即時流動的な諸資産)の保持は,市場という場で生じるおびただしいシグナルを彼らが読みとり,いずれが無関係であるかを判断し,それらを濾過し,残りのシグナルを解釈する時間を与え,ついで現存する契約上の活動の満期が切れるとき,予想される将来の事象を利用するために取決めを変更する時間を与えるのである。しかしあらゆる集計的な活動の拡大は,稼動資産や準備資産の範ちゅうへのより多くの流動資産の投下を必要とする。それゆえに,その制度にとって付加的な流動準備資産の準備量がない場合,正味の流動的な安全性クッション(準備量)は国際的取引が増加するにつれて減少するであろう。流動性とは自由であり,流動的な準備基金の保持は「拡張を強いることはないが, しかしつねにそれを容易にする」11)ので,国際貿易の必要とともに国際通貨制度が拡大することができないとしたら,結局のところ,それはいつでも国際的拡張をいっそう困難にするであろう。たとえ将来における収益性のある拡大にかんする期待が適正であると判明するとしても,十分な流動性が存在しなぃか,あるいは当初のところ容易に利用可能でないならば,企業家は次の場合には少しもこの拡張を資金調達することができないであろう。すなわち,公衆が同時に(当初の利子率において)その流動性ポジションを減少させることを拒むか,あるいは銀行制度が完全流動資産の数量を増加させるのを拒否する場合である。適切に設計されよく管理された国際清算制度は,国際貿易の必要に対して内生的に拡大する「弾力的」な国際通貨を供給することができる。いかなる閉鎖システムにおいても,貨幣契約制度に信頼が存在するかぎり12),貨幣当局は追加的な流動性を創出することに問題はないし,契約上の受取人(債権者)は,契約債務の最終的な履行としての貨幣当局に対する(直接あるいは間接の)請求権を流動的タイム・マシンとしてつねに受け入れるであろう。貨幣当局はその場合,地域の銀行が準備を使い果たしたり,また同じ国民的制度内の異なった地域にある銀行との収支均衡の困難に陥ったりしないよう保証することが望ましいと思われるいかなる必要な処置もとることができるのである13)。

10)Keynes C17K,XXV
11) J.R Hicks,Cαzsα」ブ妙づ″Eσο″ο″たs(New York: Basic Books, 1979)p.94.
12) もちろん,もし貨幣契約制度に信頼の欠如が生じる場合には,長い契約期間の生産過程は市場指向・企業家経済では着手されないであろう./
13) これは,中央銀行がその管轄内で銀行間の国際収支(流動性)危機を防ぐため「最後の拠所としての貸手」としてつねに適宜行動してきた, ということを意味しない。それが意味するすべてのことは,中央銀行はしようと思えばそのようにしえたであろうということである。
シラカワスキー (@shirakawa_love)
そう言えばM&B[Part.16,Q1]で「貨幣は木に成るのか」というフレーズがあってティモちゃん何言ってるの?とずっと思ってたのだが根井先生の本でポール・デヴィドソンの論文に出てる話であることを遂に知った。 pic.twitter.com/8MwDP5sh2m

https://twitter.com/shirakawa_love/status/1161601957187821568?s=21

ティモワーニュTymoigneのブログから Money and Banking
M&B #16
Money and  Banking  Part  16:  FAQs  about  Monetary  Systems 
Posted  on  May  28,  2016  
by  Eric  Tymoigne  |  31  Comments By Eric Tymoigne 
 以下ではPost 15を詳しく説明するため、そしていくつかの点をさらに発展させるため、疑問に回答する。
 Q1.  ある商品a commodity  が貨幣性商品a monetary instrumentであるということはあり得るか?  
別の訊き方をすると、貨幣は木に成るのか? まずは「金は貨幣である」という発想を批判しよう。金のインゴットは明らかに貨幣性商品ではない。発行者もいなければ数字もなく、満期もなければその他いかなる金融的性格も持っていない。金のインゴットはただの商品だ。実物資産は金融資産ではない。だが金貨は貨幣性商品であったし、現在でもしばしば発行される… 

根井雅弘『異端の経済学』140頁
P.デビッドソン『ケインズ経済学の再生』107頁参照

新古典派にとって経営者はミスター・スポック(デビッドソン109頁)

ケインズ#12:3に関連 



 ケインズは、われわれが流動性と呼ぶところのものの特徴は、民間部門の労働力によって容易に生
産されるものでもないし、また流動性の目的から見て、労働によって作られる財貨と容易に代替しう
るものでもない耐久財とだけ関連づけられていると主張した。言葉を換えて言うと、流動性は、民間
部門で労働を使用して生産することは出来ないので、貨幣(および政府証券、上場企業の株式のよう
な流動的な証券類)は木にはならないのである。したがって、人々がより多くの流動性を持つため
に、所得から、例えば消費財に対する支出を減らす場合、消費財産業において非自発的に失業する労
働者は、民間部門が貨幣の木から追加的な流動資産を摘み取って、人々の増加した需要を充たすとい
うような方法で、再雇用されるというようなことはありえないのである。社会全体としての労働者に
対する有効需要は、低落するであろう。
デビッドソン106~7頁



 まず、貨幣の生産の弾力性がほとんどゼロであるとは、簡単に言えば、労働を投入しても貨幣
を生産することができないことを意味している(「金の成る木はない」)。もちろん、だからといっ
て、貨幣供給量が全く不変であるわけではない。というのは、「貨幣供給量は中央銀行の慎重な
行動を通じて外生的に拡大できるし、銀行 システムが金融需要の増加に応じるときには内生的
に増加する(10)」からである。しかし、とデヴィドソンは言う。「貨幣の生産弾力性がゼロなので、
貨幣需要が増加しても、貨幣を生産するために労働者に対する需要が比例的に増えることは
ない。(11)」

(10)ポール。デヴィドソン「ポスト·ケインジアンの経済学」、前掲、二三三ページ。
(11)前同。
根井140頁

ケインズ一般理論#17に関連


参考:

シドニー・ワイントラウプ(Sidney Weintraub、1914~1983)
NAMs出版プロジェクト: IMCU ポール・デヴィッドソン(Paul Davidson、1930~)

MMT界隈ではレイが国際通貨問題を扱っているそうである。
The Development and reform of the modern international monetary system
Foundations of International Economicsに所収
参考:
https://blog.goo.ne.jp/wankonyankoricky/e/4a8e75b9181cd6ec737a7cf13ff4a720
:The Development and reform of the modern international monetary system の話 :(4)

ミッチェルも新刊#31でケインズの超国家通貨案バンコールに触れている
この種の本では珍しい。レイの手によるものかも知れない。


ケインズのバンコールは実は減価マネーで有名なゲゼルのアイデアだ
(ケインズの証言はないのであくまで個人的推測に過ぎないが)
ゲゼルの図解がわかりやすい
(ケインズは通帳方式をゲゼルは実体通貨を考えていたが最終的には同じことである)
ポール・デヴィッドソンはこれを閉鎖システムとして不完全なものと考えているようだ
彼のIMCUInternational Money Clearing Unitー国際通貨清算単位)に関してはよく分からない。
通帳方式をとる限り閉鎖的になるがドルに対抗するには通帳方式(閉鎖システム?)である必要がある…

バンコールに関してはケインズ全集第25巻などを読む必要があるが一般には勧められない
研究者一歩手前の人には『ケインズの闘い』という本がオススメだが…
一般にはマイケル・ハドソンの邦訳書などから入るべきかも知れない
ちなみにケインズは国際的な備蓄(コモドコントロール案)も考えていてバンコールが
絵に描いた餅にならないようにしようとした
現行SDRがある程度ケインズ案を実現しているという説があるが疑わしい
本来ドル覇権とバンコールは相容れないからだ


IMCU ポール・デヴィッドソン(Paul Davidson、1930~)
https://nam-students.blogspot.com/2019/06/paul-davidson1930.html@


https://blog.goo.ne.jp/wankonyankoricky/e/4a8e75b9181cd6ec737a7cf13ff4a720
:The Development and reform of the modern international monetary system の話(4)2016/3/2
:先日、このブログで「L. R. Wray(あるいはMMT)は国際通貨問題については
関心があんまりなく、ワーキングペーパーもない」みたいなことを
書いてしまったが、先日自分のフォルダを整理していたら、
Wrayの開放体系理論のワーキングペーパーがまとめて出てきた。。。。
つまり開放体系モデルについて関心がなかったのはMMTではなく、
おいらだった、というわけだ。一応、コピーだけは取っておいてあったのだが
読みもしないですっかり忘れていた、というわけだ。。。いや、お恥ずかしい。

さて、その一方で、
現在粗訳を進めている"The Development and reform of the modern international monetary system" 
であるが、こちらは、ケインズのバンコールおよびP.デヴィッドソンのICMUを題材としてる。
したがって、MMT流の変動相場制推奨のような議論は出てこない。
むしろ変動相場制の下では不確実性が高まり、
国際的な経済活動水準を低くしてしまうことが強調されている。ところが、その結論へと
導くものは、やはりMMT流のネオ・カルタリズムなのである。

この論文を所収しているFoundations of International Economics
1999年に出版されている。Wray の単著Understanding Modern Money
出版されたのはその前年のことであるので、基本的には
この論文が書かれた時点ではすでにMMTの理論の概要は
整っていたとみていい。ただしUnderstanding Modern Moneyには
国際経済や開放マクロについてのまとまった叙述はなく、
この時点ではまだどちらにつくべきか――変動相場制か固定相場制か――、
本人が決しきれていなかった可能性もある。ただ、
この"The Developument and …"論文のほうには「ネオ・カルタリズム」という言葉は出てきているが
「MMT」という言葉は使われておらず、「ポスト・ケインズ派の国際通貨理論」というような言葉が
多用されている。実際、議論されているのは上記のとおり
ケインズとデヴィッドソンの理論だけであり、MMTに関するものは参照すら
されていない。この種の書物が編集されるとき、どのような手順が踏まれるのか
おいらは知らないのだが、もしかしたら、ここでは編集者の依頼で
あえてMMT的なものは抑制して、より「ポスト・ケインジアン」として知られている
議論に限定したのかもしれない。2年後にはA New Guide to Post Keynesian Economicsという
書物が出ており、これはもしかしたら翻訳がでてたんじゃなかったっけか?という気がするが
こちらではWray は"Money and Inflation" という章を担当しており、
国際通貨システムについては、やはりネオ・カルタリストである
John Smithin が書いている。このSmithinの論文のほうは、
固定相場制/変動相場制のどちらが推奨されるべきであるかについては、
先のWrayの前書の論文に比べると、ややあいまいな書き方がされているように思う。
https://blog.goo.ne.jp/wankonyankoricky/e/6b77d28a28eebcd662a8fcb0eb4792e0
:The Development and reform of the modern international monetary system の話(5)2016/3/5
https://blog.goo.ne.jp/wankonyankoricky/e/863ca10b129bf8692a1750456402bbab
:The Development and reform of the modern international monetary system の話(6)2016/3/5
https://blog.goo.ne.jp/wankonyankoricky/e/b1b1c10b14d112a4e6f4915798b7dff2
:The Development and reform of the modern international monetary system の話(7)2016/3/21
https://blog.goo.ne.jp/wankonyankoricky/e/fe86d635e401339814fc8ceba4caf0b8
:The Development and reform of the modern international monetary system の話(8)2016/4/2


Foundations of International Economics: Post-Keynesian Perspectives (English Edition) 1st Edition, Kindle版

マイケルエメットブレイディ
5つ星のうち4.0標準投稿ケインジアンの国際貿易扱い
2005年6月26日 - (Amazon.com)
これらのエッセイは、標準的なポストケインジアンの観点から国際貿易関連の問題を扱っています。国際収支の問題[黒字が非常に大きい国(例えば、日本と中国)および/または赤字(アメリカ)]およびそのような不均衡が他の国々の経済成長および発展、国際貿易および為替レート(固定または自由変動)、国際金融政策、国の通貨の相対的価値に対する流動性の高い金融資本の流動性の影響、生活水準および私は、Deprezによるエッセイ4と、彼の1936年の第20章と第21章で提示されたDZ分析の誤った仕様に焦点を当てる予定です。一般理論(1936; GT).Deprezは、Z = f(N)= pQ(pは価格、Qは出力(p.96)であるか、ZはZ = pQ =(1/2)であることを指定します。 ALPHA)WN、ここでWはお金の賃金、Nは雇用の量です(p.97)。ケインズの派生物を統合するのは簡単なことです(p.55-56、ft.2、またはp.282-286)。 Z = WN + Pであることを確認するためのGT、ここでPは期待経済利益。期待経済利益が0である一定の労働復帰率の場合にのみ正確である。同様に、97ページの図4.1は正しくない。総供給曲線、すべてのD = Z交点の軌跡は、N-maxで完全に垂直になる必要があります。この特別な場合、DとZは一致しています。 DeprezのZ曲線は、Z maxで垂直になる必要があります。代わりに、45度の線としてモデル化されます。

IMCU国際通貨清算単位)
'International Money Clearing Unit' (IMCU)





Reforming the Global Financial Architecture - Single Global ...

 
(Adobe PDF)

singleglobalcurrency.org/.../ ...
6.2.2 Advantages of the Bancor Plan . ...... Installation of an 'International Money Clearing Unit' (IMCU), which is the ...

戦後世界の形成 清算同盟 1940~44年の諸活動 (ケインズ全集vol.25) 単行本 – 1992/5^1980








R.レイのMMT入門 第三章第一節 国の通貨建てのIOU – 道草


econdays.net/?p=9737
2018年11月4日 ... R.レイのMMT入門 第三章第一節 国の通貨建てのIOU. (第七節 .... なぜ物理学者は経済学に惹かれるのか?





IOU 【名】借用証書◇【語源】I owe you.(あなたに借りがある)の音から - アルクがお届けするオンライン英和・和英辞書検索 ...





IOUとは - コトバンク

kotobank.jp/word/IOU-418371
大辞林 第三版 - IOUの用語解説 - 〔I owe you.(私は君に借りがある)という文のごろ合わせ〕 借用証書。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9D%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%
83%87%E3%83%B4%E3%82%A3%E3%83%83%E3%83%89%E3%82%BD%E3%83%B3

ポール・デヴィッドソン(Paul Davidson、1930年10月23日 - )は、ニューヨーク市生まれのアメリカ合衆国経済学者。アメリカにおけるポスト・ケインジアンの中心のひとりである。師はシドニー・ワイントラウプSidney Weintraub)である。
ポール・デヴィッドソン
ポスト・ケインジアン


生誕
1930年10月23日(88歳)
ニューヨーク,ブルックリン
国籍
アメリカ
研究機関
ラトガース大学
ペンシルヴァニア大学
テネシー大学
研究分野
マクロ経済学
母校
ブルックリン・カレッジ (BS, 1950)
ニューヨーク市立大学(MBA, 1955)
ペンシルヴァニア大学(PhD, 1959)
影響を受けた人物 ジョン・メイナード・ケインズ
論敵
ポール・サミュエルソン
ジェームズ・トービン
実績
Journal of Post Keynesian Economicsの共同創刊編集者


略歴
1930年 ニューヨークのブルックリンで生まれる。
1950年 ブルックリン・カレッジを卒業(専攻は化学と生物学)。
1950年1952年 ペンシルヴァニア大学で生化学専攻の大学院生であった。
その後、ニューヨーク市立大学のビジネス・プログラムをとる。
朝鮮戦争での軍務。
ニューヨーク市立大学MBAをとる。
ハーバード、MIT、バークレー、ブラウン、ペンシルヴァニアなどの大学院プログラムを履修(ペンシルヴァニア大学のシドニー・ワイントラウブ教授の影響をうける)。
ペンシルヴァニア大学Ph.D.をとる(博士論文「相対的分け前の諸理論」)。
ラトガース大学の助教授になる。
Continental Oil Companyのエコノミストとなる。
ペンシルヴァニア大学の助教授となる。
1970年1971年 ケンブリッジ大学に滞在。
1978年 ワイントロープとともに、Journal of Post Keynesian Economicsを創刊。
1986年 テネシー大学のJ.F.Holly Chair of Excellence in Political Economyという地位に就く。

人物・研究
・彼の息子であるNASAの天体物理学プログラムのアナリストであるグレッグ・デヴィッドソンとの共著で『文明社会の経済学』(原著1988年)を出版している。
また、P.デヴィッドソンの著作集は、彼の妻のルイーズによって編纂されており、第1巻は1990年に出版されている。
・デヴィットソンによると、戦後の主流派経済学である新古典派経済学は、完全雇用、自由放任、セーの法則を基礎にして、貨幣の中立性命題を公理として受け入れてきたという。これに対して、ケインズの経済学は、貨幣の中立性命題を短期だけでなく、長期においても否定し、その結果、セー法則を否定すると同時に、不完全雇用を一般的な経済状況とみなす。
・両派の貨幣観の違いは、さらに、経済における不確実性の取り扱いの違いから発生する。つまり、新古典派においては、ケインズ的な不確実性は問題にされず、未来は計測可能、あるいは人々は、未来は計測可能であるかのように行動するとみなされているのに対し、ケインズは、未来は不確実であるために、失敗を犯したり、あるいは未来について無知であるような人間の行動を問題にし、このような不確実性の下では、血気や企業家精神などの要素が経済の意思決定において重要な役割を果たすと主張する(『ケインズ経済学の再生』訳者あとがき)。
・金融動機

主要著作
(E・スモレンスキーと共著)『ケインズ経済学の新展開――総需要分析』、安部一成ほか訳、ダイヤモンド社、1966年
『貨幣的経済理論』(ポスト・ケインジアン叢書3)、原正彦監訳、金子邦彦・渡辺良夫共訳、日本経済評論社、1984年
『国際貨幣経済理論』(ポスト・ケインジアン叢書10)、渡辺良夫・秋葉弘哉共訳、日本経済評論社、1986年
『ケインズ経済学の再生――21世紀の経済学を求めて』、永井進訳、名古屋大学出版会、1994年
『ポスト・ケインズ派のマクロ経済学――21世紀の経済政策の基礎を求めて』、渡辺良夫・小山庄三共訳、多賀出版、1997年
(G・デヴィッドソンと共著)『文明社会の経済学――グローバル市場主義の落し穴』、小山庄三訳、多賀出版、1999年
『ケインズ・ソリューション――グローバル経済繁栄への途』(ポスト・ケインジアン叢書35)、小山庄三・渡辺良夫共訳、日本経済評論社、2011年

外部リンク
ポスト・ケインズ派の経済理論
Paul Davidson's homepage at the Univ. of Tennessee
VIdeo interview on WTTW Aug 9, 2011 on the S&P downgrade


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ポスト・ケインズ派のマクロ経済学―21世紀の経済政策の基礎を求めて 単行本 – 1997/4
ポール デヴィッドソン (著), Paul Davidson (原著), 渡辺 良夫 (翻訳), 小山 庄三 (翻訳)

国際貨幣経済理論 (ポスト・ケインジアン叢書 (10)) 単行本 – 1986/8
P.デヴィッドソン (著), 渡辺 良夫 秋葉 弘哉

文明社会の経済学 単行本 – 1999/4


#4:139~140
UMS―NUMSの区別
 貨幣とは,考察している経済制度において確立された契約法および慣習と直接的に関係をもつ人間の定めた制度である。貨幣とは法的な契約上の債務を履行するそうしたものである。とはいっても,貨幣は法定貨幣に限られる必要はない。近代国家においては,それは「国家または中央銀行が,それ自身への支払いに対して受領すること,あるいは強制的法貨と交換することを保証している」15)他のいかなるものも含むであるう。それゆえ,実際には,法定貨幣以外のものが国家あるいは中央銀行に対する負債の決済に習慣上受け容れられていれば,それらは民間の契約上の債務の履行に受け容れられるであろうし,それゆえそれらは貨幣となるのである。
 貨幣制度には二つの基本的なタイプがある一一統合通貨制度(UMS)と非統合通貨制度(NUMS)である。(閉鎖および開放経済のいずれにおいても)取引者間のすべての現物および先物契約が同一の名目単位で表示されているとすれば,そのような通貨制度は純粋なUMSである。異なる取引者間の異なる契約においてたとえ多種の名目単位が用いられようと,これらの多種の名自単位間の為替相場が(a)固定されている(そして転換費用は無視しうるものである),しかも6)契約の存続期間中は不変にとどまると期待されるかぎり,この制度は依然としてUMSである。多くの名目単位をともなったこのような契約上の諸取決めから`なる制度は,さまざまな通貨が完全流動資産であるような修正されたUMSと考えることができる。(完全流動資産の定義は,それ自身が契約の決済手段(貨幣)であるか,あるいは相場形成者が固定された不変の現物価格を「保証」する現物市場において契約を決済手段に転換できるような資産のことである。)もしひとつ以上の完全流動資産が存在し, またもしも法律あるいは慣習により契約の決済が支払者の選択によってどんな完全流動資産ででもなされうるとすれば,その制度は純粋なUMSと考えることができる。しかし,もし法律あるいは慣習が,被支払人の選択によって実際は契約上の貨幣に転換できるような完全流動資産を要求する場合は,その制度は純粋なUMSから一歩隔たっており,その隔たりの大きさは転換費用に依存している16)。

15) Keynes,CI弔′K,V,p.6.
16) それゆえ,近代の銀行貨幣経済においては,国民銀行制度の決済メカニズムをつうじて特定の完全流動資産の所有を即座に移転するために一覧払い為替手形を振り出す能力は,実際上,銀行の債務として知られている完全流動資産を「貨幣(monetizoする。

#10:305~7
 いろいろな国民銀行制度間の債務を清算するための,また一般の公衆の債務を決済するのに用いられるものとは異なった貨幣としての独立した独特のICMUの存在は,適切な管理と教育のもとで, こうしたインフレ的傾向――それらはいろいろなグループが独占,寡占あるいは他国の労働組合の力の国際的な行使によって始発される実質所得の喪失を他の人びとに押しつけようと試みる結果なのである一―の低下を育むのを助けることができる。ある国家が国内能率賃金を引き上げるのを許すときはいつでも,国内的標準の表示による地域通貨の購買力が低下するにつれて,ICMUは自動的に価値が増大するので,銀行間手形交換の決済にICMUを使用しなければならない貿易相手国は,地域的インフレーションを輸入することから完全に保護されるであろう。NPCICによって国内の所得分配を制御することを拒むいかなる国民もインフレ=ションをこうむるであろうし,それはもはや他の人びとをこの悪性の病に感染させることはできないであろう。しかしながら,ICMUのような貨幣制度は,もしそうした市場支配力を保持するグループがそれを利用したいと欲し,文明人のゲームのルールを欺く場合には,それ自身では国際的な経済支配力の行使を防ぐことができない。しかしそれでも,始末に負えないカルテルの場合には,国際清算同盟は依然としてインフレ的傾向を誘発したカルテルの国内的フィード0バック効果を制限し,諸国がそうした国際的カルテルや独占的支配力の行使に対する攻撃を調整するのを助けることができる。しかしながら,たぶんいっそう重要なことは,国際清算同盟のための独立した貨幣の存在が,国際貿易の成長とともに国際流動性に対する必要量の増大を充足させるための「弾力的」な国際通貨を準備する国際通貨制度を発展させる機会を与えるということである。国際清算同盟のためのケインズ本来の「バンコール」(banCOrs)機構のひとつの目的は諸中央銀行間の契約の決済手段をも
つことであったが1°),その供給は内生的に拡張されうるもの(真正手形主義)であり, しかしそれは貨幣の弾力性特質を保持していた。ひとつの決済手段としての内生的で容易に拡張可能な国際通貨に対する必要性は,バンコール制度のある変形が組織的・科学的な管理にとって利用しうるかぎり,国際決済手段および準備資産としての金の使用をケインズにとっては,(おそらくけっして使用される必要のない心理的な究極の準備資産として以外)それほど容認しうるものにはしなかった。そのもっとも純粋な形において,ケインズの清算同盟にかんする概念は究極的には,ある国の居住者が私的な決済のときに債務国からの追加的な輸入品の購入を拒む場合,債権国が清算同盟のバンコールをあらゆる海外債務を最終的に履行するものとして受け入れることに依拠していた。もちろん,いかなる閉鎖統合貨幣制度においても, 自己の稼得した請求権を契約決済期日に産業の生産物に支出するのを拒む債権者は銀行制度に対する請求権か,さもなければ債務者によって彼らに売却された流動資産を流動的な富貯蔵物として受け入れなければならない。ヶィンズの清算同盟は同じ閉鎖国際銀行制度を展開する試みであり,それは同時に,はっきりと特定化されたゲームのルーンレのもとで,内生的な国際貨幣供給を許すものであった。不確実性の世界において,企業家による流動性(貨幣あるいは低い持越費用をもった即時流動的な諸資産)の保持は,市場という場で生じるおびただしいシグナルを彼らが読みとり,いずれが無関係であるかを判断し,それらを濾過し,残りのシグナルを解釈する時間を与え,ついで現存する契約上の活動の満期が切れるとき,予想される将来の事象を利用するために取決めを変更する時間を与えるのである。しかしあらゆる集計的な活動の拡大は,稼動資産や準備資産の範ちゅうへのより多くの流動資産の投下を必要とする。それゆえに,その制度にとって付加的な流動準備資産の準備量がない場合,正味の流動的な安全性クッション(準備量)は国際的取引が増加するにつれて減少するであろう。流動性とは自由であり,流動的な準備基金の保持は「拡張を強いることはないが, しかしつねにそれを容易にする」11)ので,国際貿易の必要とともに国際通貨制度が拡大することができないとしたら,結局のところ,それはいつでも国際的拡張をいっそう困難にするであろう。たとえ将来における収益性のある拡大にかんする期待が適正であると判明するとしても,十分な流動性が存在しなぃか,あるいは当初のところ容易に利用可能でないならば,企業家は次の場合には少しもこの拡張を資金調達することができないであろう。すなわち,公衆が同時に(当初の利子率において)その流動性ポジションを減少させることを拒むか,あるいは銀行制度が完全流動資産の数量を増加させるのを拒否する場合である。適切に設計されよく管理された国際清算制度は,国際貿易の必要に対して内生的に拡大する「弾力的」な国際通貨を供給することができる。いかなる閉鎖システムにおいても,貨幣契約制度に信頼が存在するかぎり12),貨幣当局は追加的な流動性を創出することに問題はないし,契約上の受取人(債権者)は,契約債務の最終的な履行としての貨幣当局に対する(直接あるいは間接の)請求権を流動的タイム・マシンとしてつねに受け入れるであろう。貨幣当局はその場合,地域の銀行が準備を使い果たしたり,また同じ国民的制度内の異なった地域にある銀行との収支均衡の困難に陥ったりしないよう保証することが望ましいと思われるいかなる必要な処置もとることができるのである13)。

10)Keynes C17K,XXV
11) J.R Hicks,Cαzsα」ブ妙づ″Eσο″ο″たs(New York: Basic Books, 1979)p.94.
12) もちろん,もし貨幣契約制度に信頼の欠如が生じる場合には,長い契約期間の生産過程は市場指向・企業家経済では着手されないであろう./
13) これは,中央銀行がその管轄内で銀行間の国際収支(流動性)危機を防ぐため「最後の拠所としての貸手」としてつねに適宜行動してきた, ということを意味しない。それが意味するすべてのことは,中央銀行はしようと思えばそのようにしえたであろうということである。

政治経済学の一覧表
マクロ経済学&ラグナル・フリッシュ(Ragnar Frisch)1926,1933


社会主義-急進新ケインズ派ケインズ新古典派総合
-ケインズ派
マネタリスト
-新古典派
政治極左  左派    中間右派極右
貨幣 実物的諸力が強調される。貨幣はたんに現在の権力構造にとってー手段であるにすぎない。 実物的諸力が強調され、貨幣はそれを調整するものと仮定される。貨幣と実物的諸力は密接に関連している。貨幣は他のすべての事柄とともに重要である。貨幣だけが重要である。
賃金率と所得分配


賃金率は価値の基礎である。所得分配はもっとも重要な経済問題である。 貨幣賃金は価格水準に対するクサビである。所得分配はきわめて重要である。

貨幣賃金率は基本的に重要であるが,所得分配はそれほど重要ではない。賃金率は多くの価格のうちのひとつである。所得分配は一般均衡体系におけるすべての需給方程式の結果として生じるものである。所得分配は公正の問題であって「科学的」研究の問題である。


資本理論


剩余は産業予備軍によって生み出される。剰余は賃金を上回って必要とされる。   稀少性(準地代)理論   限界生産力説と適切な形状をした生産関数


雇用理論

いかなる雇用水準も可能である。時間をつう
じた雇用の成長を仮定する。完全雇用は資本主義の危機を生み出す。


完全雇用での成長が強調されるけれども,いかなる雇用水準をともなう成長もかのうである。いかなる雇用水準も可能である。
完全雇用が望ましい。 
完全雇用が想定される。失業は不均衡状態である。完全雇用が長期的に想定される。明示的な短期の雇用理論はない。
 
インフレーション
主として貨幣賃金の変化が原因であるが,利潤マージンの変化によって起こることも可能である。貨幣賃金あるいは利潤マージンの変化に起因する。貨幣賃金,生産性あるいは利潤マージンの変化に起因する。

長期では主としてポートフォリオ決定をつうじた貨幣供給に関連する貨幣的現象である。 短期では, フィリップス曲線に関連している。
ポートフォリオ決定をつうじた貨幣供給に関連しているという意味で、主として貨幣的現象である。
具体名ガルブレイスロビンソン、カルドア、スラッファハロッド、ミンスキーサミュエルソン、ソロー、トービン、アロー、ハーンフリードマン
             ポスト・ケインズ派
    
国際貨幣経済理論 (ポスト・ケインジアン叢書 (10)) 1986/8 
P.デヴィッドソン (著), 渡辺 良夫 秋葉 弘哉 2~3頁より

マクロ経済政策をめぐる学説毎の見解の際は下の表の通りである。 なおこの表は『クルーグマン マクロ経済学』503ページより引用
古典派ケインズマネタリズム現代マクロ経済学
拡張的金融政策は不況の克服に有効か×ほぼ×[5]特別の状況(流動性の罠)を除き○
財政政策は不況の克服に有効か××
金融ないし財政政策は長期の失業削減に有効か×××
財政政策は裁量的に運用すべきものか××特別の状況を除き×
金融政策は裁量的に運用すべきものか××論争中






____________________

The Development and reform of the modern international monetary system の話(1)






16/02/14 21:13
レイのミンスキー本の話は、一時中断。随時継続。気長にね。
(気乗りしないわけじゃないんだが、
簡単に書かれている箇所なんかも、ちょっと調べてみると
難しいな。。。。)


今回はMMTの国際貨幣システムに関する話題。というか、
また、粗訳でもやってみようかな、と。

これまでも何回か書いたけれど、
MMTの議論を見ていて個人的にとくに弱いと思っているのが
外国為替を扱った問題だ。
レイWray はゴドリーGodley がMMTに賛同しなかったのは、
結局のところ、外国為替について共通の見解に達しなかったからだ
というようなことを書いている。しかし、
これまでのところ、おいらが見た感じではMMTer が外国為替や国際通貨体制について
まとまった言及をしているものというものが目につかない。
個別的な議論であれば、例えば、Wray の「ユーロはサバイバルできるか」というような
タイトルのワーキングペーパーを読んだことはあるが、
一般的・包括的な内容のものはどうも記憶にない。誰も書いていない、ということは
ないと思うので、多分、よく探せば出てくるんだろうけれど。。。

そんな中で、今回から何回かに分けて粗訳しようと思っているのが
レイの、かなり古い論文で、
"The Development and reform of the modern international monetary system"。
これは
Foundations of International Economics; Post Keynesian Perspective
Edited by Johan Deprez and John T. Harvey, 1999
というかなり昔の書物の中に、所載されているものである。本書の第三部
International money and exchange rate
の2つ目の論文(第7章)である。

ただしこの論文、読んでみると、いささか肩透かしを食わされる感がある。
大体、論文の半分以上は、必ずしも国際貨幣問題には直結しない
「ポストケインズ派の」貨幣観・貨幣史観および「正統派(オーソドキシー)経済学」の
貨幣観批判に割かれており(この批判自体は、同時期に書かれた他の
論文やワーキングペーパーと同じ内容)、
なんだか外国為替の問題はいつ出てくるのか、
という感じである。また、その外国為替についての説明の仕方も
今日とはやや異なる印象を与えるもので、
まあ、これをMMTの貨幣理論と銘打って紹介するのも
ややためらわれる、というのも事実。さらに言えば、MMTの特徴ともいうべき内国通貨を扱う場合の
実務理論と実務的プロセスとを重視する姿勢が、ここでは希薄に感じられる点も
大いに気にかかる。

ただ他方で、まあ、国際貨幣関係についてあれこれ考えなければ
MMT(本論文の中では「ポスト・ケインジアンの」とされているが。。。)の考え方を
うまくまとめた論考ということになるので、今回粗訳をやってみよう、
と思いついた次第。1999年といえばタイバーツ危機の記憶も冷めやらぬころで、
ITバブルの崩壊が迫りつつある時期。ユーロはまだ下層通貨によるトライアル段階で稼働してはおらず、
現在とはだいぶ異なった歴史的背景の状況で書かれたものである。
また、これが書かれた後、主流派経済学にも大きな変化があった。今日読みなおすと
批判もやや古い感じがするが、まあ、そういうことも含めて
楽しんでもらえたら、という感じ。



P171 イントロダクション
 国際金融システムは危機に瀕している、といってよいだろう。通貨価値の変動を減らすためには
中央銀行やそのほかの国家的・国際的機関の介入を必要としている。経常収支赤字または黒字がなくなる様子は
ない。為替レートの変動によって均衡貿易へと向かうことなどないし、
為替レートの変動が国際的準備フローの動きを追っているようにも見えない。ある国々(特にドイツと日本)は
長期間黒字のままだし、他の国(特に合衆国)は長期的に赤字(しかも拡大しつつある)である。
「自由」貿易がリカードはの比較優位法則に従って作用しているようにも見えない。「自由」国際信用市場が
信用を、社会的に妥当な形で供給しているようにも見えない。ある国々、ある種の活動は、
あまりにも多すぎる信用を受け取っているように見えるし、
他はあまりに少なすぎると思われる。世界はほぼ全面的な不況に陥りつつあるが、各国政府はそれに対して
何かをする意思も能力もあるように見えない。
 中心論点に入る前に、本章では簡単に正統派経済学の「貨幣」観を説明する――国民レベルと国際レベル
両面から。正統派によるなら、貨幣は第一義的には国内的にも国際的にも財の流通を容易にするための交換媒体である。
したがって、内国貨幣政策は、第一義的にはインフレーションを最小化するために貨幣供給を
コントロールすることと考えられるべきとされる。国際貨幣政策は国際資本移動の自由に対する障害を取り除き、
自由な変動相場制を維持することに捧げられる。変動相場制であれば、国内政策を対外問題から
切り離すことが可能であるとされる。こうした制度によって対外バランスシートを急速に均衡へと調整することも
可能になる。
 ついで、ポスト・ケインジアンの貨幣観を検討しよう。そのためには少しばかり貨幣史へと脱線して、
貨幣というものが過去も現在も第一義的には、そしてもっとも昔から計算単位である、という点を明確にすることが
必要だ。そうすることで貨幣の様々な形態、すなわち信用貨幣、商品貨幣、準備貨幣といった諸形態の性格を
明確にしやすくなる。その後で、現代の国際金融システムの機能を理解することへと進むことができる。こうした理解の上で、
システム改革を設計することで、昔から議論されてきた、かつ今日国際金融システムが直面してもいる諸問題に
より簡単に対処しうることができるものを示すことができるであろう。

正統派の国内、国際貨幣観

サミュエルソンの引用から始めよう。筆者が普段目にするあらゆる貨幣、銀行関連書籍の説明は
どれも大体似たようなものである。これは歴史的には不正確だし、理論にはひびが入っている。

バーター取引は明らかに不便であるけれど、しかしあらゆる人がすべてよろず屋にならなければいけない
自給自足の状態からすれば、おおいなる前進であった。・・・・歴史を仮説的な、論理的ラインに沿って構築するなら、
バーター取引の時代の次には商品貨幣の時代が続いたと考えるべきである。歴史的にはきわめて多様な商品が
ここかしこで交換媒体として用いられた。・・・・タバコ、毛皮、奴隷、妻、・・・巨石、建造物、
タバコの吸いさし。商品貨幣の時代は、紙幣の時代に代わった。最後に紙幣の時代とともに、銀行貨幣、あるいは
銀行当座性預金[小切手発行用預金]の時代が到来した。
(Samuelson, 1973:274-6)

誰もが知るとおり、正統派の物語は交換経済から始まる。そこから貨幣には市場メカニズムを
潤滑にする効果があることが発見される。最初の貨幣は、サミュエルソンの「毛皮、奴隷あるいは妻」等々であり、
最終的に貴金属がよりすぐれた交換媒体であることが発見される。(希少性と物理的特性により、
持越しにかかる費用に比べその価値が高いことが確定する。金は、交換媒体として用いられながら
おそらく妻ほどは劣化しないというわけだ。)取引費用は、金賞が金を預かり、
金準備の裏付けのある紙幣を発行することでさらに削減される。金準備の量は発行済み紙幣の額に
きわめて近かったので、償還は確実であった。
 最後に政府の法定貨幣だか何だかを預金に対する払戻し準備として、銀行が保有することになる。しかしそれで
何かが変わったというわけではない。貨幣数量は以前として準備により決定される。中央銀行が準備の量を
決定しているわけだから、貨幣供給は中央銀行が決定していることになる。中央銀行が
過剰な準備を発行すれば、貨幣供給は急速に増加し、インフレーションを引き起こす。そうしたわけで、
正統派経済学に従うなら、貨幣政策とはインフレーションをコントロールするために準備を
コントロールすることだということになる。中央銀行の国内における第一義的責任は、インフレーションに対する
番犬であることとされる。
 国際貨幣に対する正統派の見解も同じくバーターパラダイムに基づいている。Hahn(1991;1)の言うとおり、
「国際貿易の純粋理論は金融問題とは何ら関係ないし、地域間の媒介物のない交換を対象としている」。単純に言えば
貨幣のないモデルに「諸外国」が付け加わっただけで、分析が複雑になるわけではない。各国はそれぞれ
バーターから導き出された均衡相対価格ベクトルを実現するための最適化エージェントとして扱われる。生産が
加わったモデルでは、リカードの比較優位法に従って分業化し、各国はそれぞれ国ごとの環境的特性に合わせて
優位な生産に専門化する(Davidson, 1992:116)。均衡が安定的であれば、タトマン過程を通じて、
技術と嗜好に合わせた相対価格ベクトルが実現するだろう。(注1[※注まで訳す気はないのであしからず。])
 諸国間の「自由」貿易によって、丁度国内において「自由」取引がそうであるように、
経済的効率が高まると考えられている。あらゆる取引は、論理的時間の枠組みで一瞬にして終わる。A国が行う
あらゆる日付つきの商品購入は、A国による日付つき商品の販売によって相殺される。貿易赤字は不可能である。
「各地域は、常にワルラス的均衡にある」(Hahn 1991;1) というわけだ。
 交換媒体として貨幣の利用を認めた途端、物事は急激に複雑になる。もちろん、ハーンの認識する通り(1983)、
一般均衡理論(GET)には貨幣の存在余地はないが、正統派の人々と一緒にその点は考えないことにしよう。貨幣を
認めるということになれば、次は、この国際経済は単一貨幣システム(UMS)で動いているのか、
非単一貨幣システム(NUMS)で動いているのかを決めなくてはならない(Davidson 1992)。単一貨幣システムとは、
すべての国が一つの貨幣単位を用いるシステム、あるいは、それぞれ異なった単位を使ってはいるのだけれど、
異なった貨幣単位の間の交換比率[※exchange rate=為替レート]自体は安定しており、同じであり続けると
期待されている。(これは必ずしも為替レートが固定されている必要はない。必要なのは、変動が完全に
予見されていることである。)非単一貨幣システムとは、数多くの貨幣単位が用いられており、
交換比率[※為替レート]が安定していないケースである。新古典派経済学(そして現実世界の安定)にとって
大きな問題の発生源となっているのがNUMSである。
 UMSが歴史的時間の中で動いているとした場合、ここで貿易赤字といっているものが可能になる。A国は
輸出するより多くのものを輸入できる。これによってA国の通貨が国外流出する。B国の経済主体がこの通貨を
受け取るときには、それがB国通貨に対してどの比率で交換されるかを知っている。ところが両国の通貨が
実際に別々のもので、B国内ではA国通貨は法貨として受け入れられないとしよう。そうすると、B国の主体は
後日、A国の輸出品を購入する際にそれが使える、という期待のみに基づいてこの通貨を保有することとなる。
そうでない場合には、A国通貨はB国通貨と交換されるであろう。これが実行されるには、通貨交換に専門化した
営利企業(手数料を取って通貨を交換する)が必要であろう。こうした両替ビジネスが成立するためには、取引相手に対し
様々な通貨交換の要請に応じられるように、それに相当する諸通貨の準備を保有していなければならない。そして
その際の手数料は、こうした「資金capital」準備が正常収益率を確保できるものでなければならない。
 一般均衡理論においては、通常、金本位制が想定されている。その場合、各国通貨は金に対する兌換性を持っている。
金は唯一の準備であり、これによって両替用の通貨準備の必要性は減り、結果として効率性が得られる。どの国でも
貿易黒字によって金準備が流入してくれば常に通貨が増加する。反対に貿易赤字となった国は金準備を失い、
その分、通貨供給量の減少させなくてはならない。シニョリッジは「中央銀行」の、両替に代わって
金準備を基礎にした通貨発行権力に対する手数料に変質することになるだろう。ハーン(1991;1)の論じる通り、
GE理論に金本位制の下でのUMS貨幣を追加しても、「『実質』均衡条件、つまり取引の均衡条件に変化はない」。
国内経済では貨幣は中立であったが、丁度それとな時で国際経済でも中立なのである。
 貿易不均衡は、正貨フローメカニズムによって速やかに調整されると想定されている。赤字国は金準備を失うであろう。
そして貨幣供給が収縮する。国内市民の購買力が失われ、商品価格が下落する。これは資産の損失ということに
帰着する(貨幣供給が収縮したわけだから)。その国の製品価格が競合他国の製品価格に比べ下落するので、
今度は輸出が伸びる。同時にその国の市民の資産が減ってしまったのだから、輸入も減る。いかなる国も
無限に貿易赤字を続けることはできないとされるが、それは単純に、いつかは金準備が底をつくから、
というだけの理由である。そういうことになる前に、通貨が減少し、輸入品が高価になり、輸出品が安価になる。
実際、新古典派理論のロジックに従うのであれば、変動為替相場制の採用によって、貿易均衡への調整速度は
速くなるものと思われる。ところが、自由変動相場制はUMSが作用するのに必要な条件とは矛盾する。変動為替相場制がUMSと
両立するのは、為替レートがさほど変動せず、そしてあまり変動しないものンと期待されている限りのことなのである。
 他方、自由変動相場制はNUMSと整合的である。この場合、すべての通貨が自由に金準備と
兌換可能だとしても、為替レートは貿易不均衡を調整するように制約なく調整される(と期待されている)。効率的
市場仮説によるなら、ここでもレッセ・フェールによって各国通貨間の相対価格をも含む均衡価格ベクトルが決まる。
中央銀行の役割は、単にいつでも要請に応じて内国通貨を金準備と兌換するだけのことである。これによってNUMSの
安定性が促されると信じられているのである。


…中途半端なところだが、首と肩が痛くなってしまったので
今日はここまで。。。。どうも、眼鏡があってないんだよな。。。
カテゴリー:MMT & SFC

最近の「MMT & SFC」カテゴリー


最近の「MMT & SFC」カテゴリー



MMTは日本で流行るべきではない。またはMoney in Motion の紹介(全然関係ない)

米国は次なるミンスキーモメントに直面しているのか?

Wray & Tymoigne の Money Manager Capitalism について、一面的に。

日銀の公表する「日中当座貸越残高」の件(字数制限のため「下」)

日銀の公表する「日中当座貸越残高」の件(字数制限のため「上」)

Minsky’s Money Manager Capitalism and the Global Financial Crisis by L. Randall Wray - 5

超高齢化社会の話


The Development and reform of the modern international monetary system の話(2)






16/02/20 12:01

P174:4
 NUSの下では、貿易赤字によって減価が強いられることで金準備が保護される。次いでこれは
「実質残高効果」によって国内支出を低下させ、貿易赤字が消化するに至る(Hahn 1991:1)。
ハーン(1991:6)によるなら、「変動相場制は」完全に伸縮的な国内物価に対する「(完全とは
言い難いが)理想的な代替案である」。例えば生産性ショックに見舞われた経済の中にあって、
賃金と物価が硬直的であるとしよう。この場合為替レートが固定されていれば、この経済が調整されるには
雇用と実質所得が低下するしかない。しかし為替レートが変動すると仮定すれば調整は、
通貨価値の下落によって外国製品価格に対して内国製品価格が相対的に低下することで行われる。
このように、変動相場態勢は、たとえ国内の物価が伸縮的でない場合であっても雇用に不利益な影響なく
ショックを調整することが可能であると考えられている。この意味で変動為替レートは
伸縮的国内物価の国際版代替物であるとみなされているのである。そして市場経済の伸縮性を高め、
均衡への調整速度を速めるわけだ。
 変動為替レートシステムによって為替レートは不確実性が生み出される。ところがハーンの論じるところでは
為替レートを巡る「不確実性」は雇用水準に関する「不確実性」に置き換わるだけである――というのは、
固定為替レートシステムでは硬直的賃金を維持するために失業が用いられるからである。というわけで、
ハーンにとっては変動為替相場システムのほうが固定為替レートシステムより好ましいとされた。「現実の
世界」では賃金は完全には伸縮的でないからである。
 要するに、正統派経済学によって受け入れ可能なのは、正貨フローメカニズムによって貿易均衡へと導く国際金本位制か、
通貨価値の変動によって貿易不均衡を調整する変動為替レート制のいずれかである。いずれにしても、問題となるのは
実物諸変数であり、貨幣はただ市場システムの潤滑油に過ぎない。いずれの場合も貨幣は中立(少なくとも長期的には)であり、
それ故厳密な新古典派モデルにはうまいこと導入することができないのである。制約のない伸縮的な価格(外国
通貨に対する内国通貨の「価格」も含む)によって一般均衡に導かれると考えられているのである(貨幣は
いまだかつて存在しないとはいえ)。変動為替レートシステムによって投機が生じることもあり得るだろう、という点は
認識されてはいるが、それは安定的なものと信じられており(これもまた厳密に示されたことは無いが)、
そして内国市場の硬直性を多少なりとも相殺できる、というわけだ。
 正統派の国内政策とは明示的な内国貨幣供給管理を通じてインフレーションを防ぐことに集約される(1980年代の経験から、
中央銀行が貨幣供給をコントロールできるとする正統派の主張にはかなりの疑問が提起されたのだが、しかしそうした
疑いをさしはさむ人たちの中にはインフレの直接管理を主張する人が少なかった。しかし、どうすれば中央銀行に
そんなことが可能なのかについては、神がかり的な話以外には何もなかった)。正統派の国際政策はUMSかNUMSのどちらであれ、
自由市場を通じて国際的資源配分を達成することと集約できる。そしてNUMSのほうがより伸縮的だと
信じられているのである。

P175 ポスト・ケインジアンの貨幣観

 上記のとおり、主流派の貨幣観(国内的であれ国際的であれ)は、まずバーターから始まり
次いで交換媒体として貨幣による取引の潤滑化へと進む。確かに全正統派経済学者が価値保蔵手段としての貨幣の役割を
認めてはいるものの、ケインズの指摘の通り、新古典派世界の中で貨幣に価値保蔵機能を認めるということは
月に憑かれでもしない限り[※頭が変にでもならない限り]、無理である。というのはケインズ流の不確実性が
新古典派の想定する世界からは締め出されてしまっているからである。本節では貨幣の利用を不確実性及び私有財産制と
連携して論じる。この場合、貨幣とは第一義的に、そして歴史の最初から、計算単位である――あるいは、
デヴィッドソン(1990)の論じる通り、私的契約がそれによって記述されるものである。そうであることで貨幣は、
契約が決済されるための手段、普遍的に認められる富の尺度、富が蓄積される形態と密接なつながりを持つことになる。
これは貨幣の交換媒体機能を否定しているわけではない。しかし貨幣の起源を理解すれば、
貨幣の本質がさらにわかりやすくなるであろう。そうすることを通じて国際貨幣システムを理解出来れば、
可能な改革への糸口もつかめるだろう。
 まず、貨幣と現代金融システムの発展を再構築しよう。ここでの観点は以下の通り要約できる。

1. 原始的なバーター取引からは、市場交換へ発展はしない。
2. 貨幣はバーター取引から発展はしない。
3. 信用貨幣は商品貨幣や政府貨幣に先行する――信用貨幣がまず最初である。
4. 信用貨幣の数量が金準備や政府貨幣準備の数量に制約されることはない。
 紙幅に限りがあるので、これらの論点すべてにわたって議論を展開することはできない。これらすべてを扱ったものとしては
Wray(1999 a)がある。ここでは簡単な要約を示すにとどめる。
 バーター物語から始めることにしよう。正統派は市場経済が貨幣に先行する、と想定している。そして市場は
バーターをベースにしている。これは歴史的のみならず、論理的にも誤りである。正統派のエコノミストや歴史家は、
バーターが部族社会に見出せる、と主張している。部族社会にも交換はあるだろうが、それが市場や貨幣に進んでゆくなど
あり得ない。部族交換とはバーターに基づいた市場ではないし、市場交換とは全く異なったものである。
 例えば、ポラニー(1971:75)は、こう論じている。部族社会で生じる交換は「当事者の身分に関わる、
あるいはそのほかそれ自体を目的として行われる公的活動である。」マリノフスキー(1932:86)によるなら、
こうした交換はその主要目的として「実用性のない生産物を交換」しなくてはならない。実際、ポラニー(1971:74)は
こういう。しばしば「まったく同一物がパートナーの間を行き来する。…交換の唯一の目的は、互酬による結びつきを
強化することを通じて、互いの関係を密接にすることにある。」さらに付け加えると、交換はしばしば富の平等化のためにも行われ、
相互に利益となる資源配分を達成することなど考えてもいない(Heinsohn and Steiger 1983、1989)。
部族社会においては、あらゆる交換は習慣によって決定される。一般的には交換される財の間には定まった交換比率はない。
交換比率は交換当事者の社会的地位に依存する。そして部族社会で目にするいわゆる原始的貨幣(サミュエルソンのいう
歴史的建築物とか巨岩、貝殻など)が計算単位として用いられ、異なる商品間の価値を比較するなどということは全くなかった。
自由な取引がなかったのだから、交換条件を測定する単位も必要なかったのである。
 こうした原資貨幣が債務を測定するための計算単位として使われることもなかった。支払いの繰り延べということも
なかったのであるから、後日いくら支払わなければならないか、など、測定する理由がないのである。事実、
原始的な社会では、言葉の現代的な意味における貸付金loanというものは存在しなかった。今日の貸付金は、
常にまず借りる人の申し入れから始まり、そして後日いくら返済しなければならないのか、貨幣によって測定される。
もし誰か借入金の返済に失敗すれば、彼ないし彼女は制裁を受ける。しかし原始的社会では、貸付は常に
貸し手側から「債務者」に無理やり押し付けられる。債務者はかなり決まったやり方で返済することになる。
返済条件は社会的な互酬規範によって定まっているのである。条件を個人的に交渉するということはない。そして
貸し手は、この貸付からなんら経済的利益を期待していない。貸付は貸手の富を、増やすよりむしろ破壊し、
そして互酬の結びつきを作り上げるのである。
 最後に、貨幣とは常に特定の目的を持つ。特定の貨幣がある特定の対象に対してのみ、社会的に特定されたやり方で、
取引される。例えば、貝殻のネックレスは、花嫁の家族に送られる、など。これは花嫁がネックレスの等価物であることを
意味しない。妻もネックレスも、貨幣ではない。花嫁の家族は、花嫁を貨幣として提供することで
ネックレスを手に入れたわけではない。単に原始的な「価値のあるもの」すなわちこのネックレスは、結婚のの贈り物として
ふさわしいのである(ドルトン 1982)。他の何ものとも置き換えが利かない。そして、他の社会的交流に際して
ネックレスが贈られることもない。ネックレスは常に結婚のためのものであり、そして「一般化された交換」のために
使われることはないのである。


短いけど、今日はここまで。相変わらず、区切りの悪いところで中断することになってしまったが、
おいらもいろいろと忙しいんだよ。。。。
今回出てきたHeinsohn and Steiger というのは、私的所有権の起源と
現代貨幣の結びつきという視点で貨幣を論じている人たちでMMTerというわけではないが、
後にJ. Smithin のWhat is Money ?には、Wray やIngham などとともに寄稿してる。
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The Development and reform of the modern international monetary system の話(3)






16/02/21 22:29
…(続き)

P177:3 
 明らかに原始的交換は、利潤追求市場行動という正統派の見方にはそぐわない。むしろ西洋社会では
クリスマスのプレゼント交換と同じような因習的行為(すなわち、社会的・文化的に確立された行動規範)
を表すものである。では、サミュエルソンの物語で引用された原始貨幣とは何なのか。個人の
富を最大化するために企図されたものでないとしたら、いったい交換とは何なのか。「貨幣」――というより
原始的価値のあるものprimitive valuablesとでもいうほうがいいような気がするが――による
原始的交換とは、実際には部族社会を再生産するために設計されているのであり、社会的儀礼を通じて成員間の
結びつきを強くするためのものなのだ。部族交換が貨幣の使用や市場経済の発展を促すことはなかった。
部族交換を通じて富の最大化を図ろうなどということがある道理もなかった。誰もが、
部族の能力のことを最も真剣に考えたのである。
 私有財産制は貨幣的生産、すなわち市場で販売し、貨幣、そして利潤を得ることを目的とした生産の発展を先行条件とする。
(Heisohn and Steiger 1983, 1989)。私有財産制の発展により、部族社会あるいは命令社会の集団的安全は破壊され、
そして「実存的不確実性」が生み出された。社会の成員は自分自身の責任で自身の安全を守ることとなった。
各家計は余剰(主として穀物備蓄の形態で)を蓄えることで困難な時期をやり過ごそうとした。
私的所有権の発展により貸付も可能となり、そして無所有の個人が発生することも可能となった。もし
ある家計が生存に十分な生産物を生産することができないと思えば、どこか別の家計の余剰備蓄から幾許かを
借りなくてはならない。私的貸付が行われるとき、貸手は自分の所有物を手放し、代わりに借手の発行するIOUを
得る。このIOUによって先物契約が結ばれることが記される。
 この私的契約には必ず利息プレミアムが含まれる。その大きさを決めるのは貸手が直面する実存的不確実性の評価である。
つまり、返済期日前にその貸出した所有物が必要になってしまう可能性である(注2)。つまり、あらゆる先物契約には
「未来のより多くの小麦のための、現在の小麦」条項が含まれており、これがつまり貨幣的条項なのである。
初期の貸付は現物貸借であった。後日の2ブッシュルのための今日の1ブッシュル等々である。当初は利息は
貸付けられた穀物の物質的生産物から支払われていたのであろう。今、1ブッシュルの小麦を借りると収穫期には
2ブッシュル返済することになる。
 しかし最終的には返済条件は小麦単位で標準化されることになる。(ケインズが発見したとおり、初期の計算貨幣は
小麦単位のままであった。)寺院が条件標準化に、すなわち計算貨幣の発展に、一役買った。債権者と債務者は
契約を結ぶため(さらにはそれを守らせるため)証人を必要とした(書面は作成されなかった)。後には書面が
寺院で発明され、債務契約及び各家計が寺院に収める貢物の記録がそこに保管されることとなった。寺院は貢納や、
契約の証人になる対価を現物で受領した。これはまた債権者による預金行為の起源ともなる。借手が
借入金を返済するとき、寺院が債権者の代わりに受け取ったのであろう。こうして寺院は大量の穀物や家畜を
保管することとなった。保管費用を減らすため、寺院は熱心に計算単位の標準化を押し進めた。まずは小麦。これは
保管費用が安いし、大きさも大体同じだったので選ばれたのである。しかし後には大麦。こちらの方がより均一だったから。
初期の計算単位はすべて一定量の小麦や大麦を基準とした重量である。例えばバビロニアで使われた初期の貨幣単位ミナminaがあるが
これは10,800粒の小麦の重量である。貨幣に先行するのは重量単位である。重量単位は寺院への供物の量を測るために
常に使われていたので、債務が測定される際の計算単位として採用された。のちに寺院は金属片を
発行するようになる。この金属片は、それが表示しているとされる一定量の大麦と同じ重量であり、その価値を示す刻印が
刻まれていた。これら刻印された金属片は、単に寺院のIOUであったにすぎず、小麦大麦の計算単位で測定されていたのである。
債権者が寺院から自分の預金の一部を払戻ししたいと思ったら、小麦の粒を数えるよりはこうした刻印付きの金属片のほうが
取引費用は少なくなる。こうして金属が私的取引に(支払い手段として――あるいは単なる契約の清算手段として)、あるいは
貢納を支払うために用いられるようになったが、しかしその価値は、それが代理している一定数量の大麦の重量によって
決められた。ここでもまた(小麦から大麦へと移行したときと同じく)技術的な進歩があったにすぎず、
貨幣の本質が変わることではなかった。
 この様に、最初の貨幣は「後日のより多くの小麦のための今の小麦」という先物取引契約の一環として発生したものなのである。
条件が標準化されたことで計算単位貨幣が生み出された。寺院が貨幣を作り出したわけではない。また、
そもそも貴金属だったわけでもない。そうではなくて、貨幣は私的に創り出されたのである。寺院は単に貨幣の技術的発展に
一役買ったに過ぎない。後には貴金属を貨幣単位を表示するための資産として用いることになった。それは金が本来的に
価値を持っていたからではなく、偽造しにくかったからである。金が初めて用いられた時でさえ、その価値は
同量の大麦計算単位によりきめられた。普遍的計算単位が存在するようになり、私的契約が証人あるいは記録により保護されるように
なると、私的に発行された信用貨幣(私的に発行された貨幣表示負債――次節参照)が第三者の間で流通するようになる。
これは決済手段として使うことができ、私的債務契約を償還し、そしておそらくは寺院への貢納にも使えたであろう。
したがって、貨幣は第一には計算単位だったのであり、その後、決済手段となった。交換媒体として出発したのではない。
結論として、貨幣は市場に先行する――出発点は私的貸借契約である。…



お風呂わいたので、今日はここまで。どんどん短くなるな。。。。
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The Development and reform of the modern international monetary system の話(4)






16/03/02 20:59
先日、このブログで、
「L. R. Wray(あるいはMMT)は国際通貨問題については
関心があんまりなく、ワーキングペーパーもない」みたいなことを
書いてしまったが、先日自分のフォルダを整理していたら、
Wrayの開放体系理論のワーキングペーパーがまとめて出てきた。。。。
つまり開放体系モデルについて関心がなかったのはMMTではなく、
おいらだった、というわけだ。一応、コピーだけは取っておいてあったのだが
読みもしないですっかり忘れていた、というわけだ。。。いや、お恥ずかしい。

というわけで、とりあえず今進めている粗訳のほうが一段落したら
そちらの方に話を進めるつもりではある。とはいっても、
すでに書いている通り、MMTの開放モデルというのは
要は為替自由化、資本移動自由化というのが基本線なので、
その結論自体には面白味はないが、しかし
その結論に至るまでの論理展開が独特で、その点は面白い。
とはいえ、やはりほとんどの日本人(おいらを含む)には
やっぱり釈然としないものが残るのではないか、と思う。


さて、その一方で、
現在粗訳を進めている"The Development and reform of the modern international monetary system" 
であるが、こちらは、ケインズのバンコールおよびP.デヴィッドソンのICMUを題材としてる。
したがって、MMT流の変動相場制推奨のような議論は出てこない。
むしろ変動相場制の下では不確実性が高まり、
国際的な経済活動水準を低くしてしまうことが強調されている。ところが、その結論へと
導くものは、やはりMMT流のネオ・カルタリズムなのである。

この論文を所収しているFoundations of International Economics
1999年に出版されている。Wray の単著Understanding Modern Money
出版されたのはその前年のことであるので、基本的には
この論文が書かれた時点ではすでにMMTの理論の概要は
整っていたとみていい。ただしUnderstanding Modern Moneyには
国際経済や開放マクロについてのまとまった叙述はなく、
この時点ではまだどちらにつくべきか――変動相場制か固定相場制か――、
本人が決しきれていなかった可能性もある。ただ、
この"The Developument and …"論文のほうには「ネオ・カルタリズム」という言葉は出てきているが
「MMT」という言葉は使われておらず、「ポスト・ケインズ派の国際通貨理論」というような言葉が
多用されている。実際、議論されているのは上記のとおり
ケインズとデヴィッドソンの理論だけであり、MMTに関するものは参照すら
されていない。この種の書物が編集されるとき、どのような手順が踏まれるのか
おいらは知らないのだが、もしかしたら、ここでは編集者の依頼で
あえてMMT的なものは抑制して、より「ポスト・ケインジアン」として知られている
議論に限定したのかもしれない。2年後にはA New Guide to Post Keynesian Economicsという
書物が出ており、これはもしかしたら翻訳がでてたんじゃなかったっけか?という気がするが
こちらではWray は"Money and Inflation" という章を担当しており、
国際通貨システムについては、やはりネオ・カルタリストである
John Smithin が書いている。このSmithinの論文のほうは、
固定相場制/変動相場制のどちらが推奨されるべきであるかについては、
先のWrayの前書の論文に比べると、ややあいまいな書き方がされているように思う。

と、言うわけで、現在粗訳を進めている当論文はMMTの国際通貨理論というわけにはいかないが
しかし、ネオ・カルタリズムの理論からどのようにして固定相場制が推奨されることになるのか、
という一つの視点がみられて面白い。読めばわかるとおり、この論文では、世界各国政府に対して
レンダー・オブ・ラストリゾートとして行動する国際的な中央銀行の
設立が提唱されている。しかし、多分ほぼすべての人が同意することだろうけれど、
我々の生きている間にそのような組織が実現する見込みは全くない。
おそらく、Wrayやその他MMTerの頭の中にあるのも同じではないだろうか。
各国政府に対してレンダー・オブ・ラストリゾートとしてふるまうことのできる世界的中央銀行の
設立の見込みがない以上、次善の策として国際貿易・決済安定化のため、
最も有効な手法が変動相場制であるという結論に至った、ということがあっても
不思議ではない(その結論に共感できるかどうかは、また別問題)。

また、本論文が重要性を持つとしたら、現在のユーロ問題との関連であろう。
ヨーロッパ中央銀行ECBはなぜユーロを安定させることができないのか。
ECBは、ユーロおよびヨーロッパの経済を安定させるために何をしなければいけないのだろうか。
これは、Wrayその他、多くのMMTerの関心事項となっていることでもある。
Wrayは、すでに2003年には"Is Euroland the Next Argentina ?" というかなり不吉なタイトルの
ワーキングペーパーを書いている。その後も繰り返し、ユーロに言及しているが
タイトルを見ただけでも、あまり肯定的なものとは言えないようだ。そして
ユーロ危機が始まってからは、それ見たことか、という感じである。
もっともそれら一連のワーキングペーパーを見ても、本ワーキングペーパーが
参照されていないのは、粗訳を始めてしまったおいらとしては、
ちょっとさみしい。。。。

んまあ、そんなわけで、本日もちょっとだけ
粗訳を進めてみる。

+++++++++++++++

P179 さて、こうしたことを証明する書かれた記録は、もちろん存在しない。もっとも古い文章は、
債務契約記録だったようで、またあらゆる初期の貨幣単位は重量単位で、
しかも常に特定数量の小麦または大麦を基準とするものである。これは、
ミナmina とシケル shekel に当てはまる。さらに全ヨーロッパで使われている計算単位についても
真である。すなわちポンド。ローマ・ポンドであろうと、イタリア・リラであろうと、
フランス・リーブルであろうと、ミラノ・ドゥカトーンであろうと、
初期の貨幣単位は常に重量単位である。これは一見して感じるほど論争的なことではない。
歴史家たちは永らく、ヨーロッパにおけるゴースト・マネーあるいは想像貨幣について語ってきた。
これらはシャルマーニュ時代から中世全体にわたって続いたものである。常に想像上のポンド計算単位によって
債務契約を記録しようとしていたのであり、こうした単位には、時にはそれに対応する鋳貨が
存在しないことさえあったのである。
 歴史家たちは、いつでもこうしたものを混乱や幻想に帰してきた。彼らにとっては、
例えばポンド鋳貨が存在しないのにポンドという計算単位で債務契約が書かれているのは
おかしなことに思えるのだ。典型的にはシリングが唯一の鋳貨だった時代がある。時がたつにつれ、
シリングの価値は低下してゆき、急速にポンドへ近づいて行った。ここには混乱もなければ新奇な話もない。
計算貨幣は常に重量単位であり、同じ単位の鋳貨があるかないかは全くどうでもいいのである。
造幣については後程説明するが、貨幣は鋳貨と同じものではない。かつ鋳貨も貨幣ではない。
歴史家たちの混乱は鋳貨を貨幣と同一視したことから、そして貨幣の交換媒体機能を強調しすぎたことから
生じたのである。代わりに歴史的時間の中で私的所有経済において機能している計算単位の
基本的な重要性というものを認識すれば、混乱は消滅する。(注3)
 市場が貨幣の発明に先行したという正統派の信念に戻ろう。大体、市場は貨幣に先行するはずない。
というのは個人の自立independence や私的所有が市場より先に存在していなければならないのだから。
部族社会では、自分自身が必要としないものを、市場で自分自身が必要とするものと交換するために
生産するということは無意味であった。部族社会ではあらゆる必要物は部族社会のやり方でできる範囲で
満たされていた。しかしすでに論じたとおり、私的所有や個人の自立が実現すれば、
その時点で貨幣存在のための必要な条件は整ってしまう。貸借の可能性と不確実性の存在である。
市場は個人が必要とするものを得る場ではない。市場とは人が債務を償還するための手段(または
契約された生産手段)――すなわち貨幣――を得る場なのである。ことの始めから、市場のための生産とは
貨幣を得るための生産である。必要な商品を物々交換するためではない。バーター経済とは
新古典派経済学の単なる仮説にすぎない。彼らは現代経済をあたかもバーター経済のごとくに扱い、
貨幣をその枠組みの中に落とし込み、そしてそうしたものとして分析する。分析に貨幣を加えるに際しては、
あたかもヘリコプターからばらまかれたかのように仮定する。しかしこの出発点からは完全に誤った貨幣観、
適切な貨幣政策についての不適切な結論へと行き着く。では、我々の考える貨幣経済についてより詳細に見てみよう。
 貨幣経済においては、生産は「必要」を満たすために行われるわけではない。貨幣形態での
富を蓄積する願望を満たすためである。生産を実行するのは、生産者であり同時に消費者でもある
ロビンソン・クルーソーのようなタイプの主体ではない。私有財産を持つもの、そして持たざるもの――
賃金のために働かざるを得ないもの――である。しかし財産を持たない労務者の存在によって市場の需要、
そして交換媒体としての貨幣の利用が生じるのである。言ってみれば、部族社会における生産とは違って、
資本制生産とは常に貨幣を含んでいるのである。資本家は労務者を雇って財を生産し、
その後それを市場で販売しなくてはならない。生産には時間がかかるので、
資本家は、今日、賃金を支払わなければならず、販売による収入を得るのは後日になる。さらに加えて、
将来は不確実であるため、販売による収入も不確実である。つまりそれ故、負債には
金利が支払われなくてはならないのであり、資本制生産は利潤が得られるという期待に基づいてのみ
実行されることとなるのである。そうして資本制生産は常に「後のより多くの貨幣のための、今の貨幣」という
プロセスを含むのである。

++++++++++++

今日も短いけど、ここまで。
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Minsky’s Money Manager Capitalism and the Global Financial Crisis by L. Randall Wray - 5

超高齢化社会の話


The Development and reform of the modern international monetary system の話(5)






16/03/05 11:55
取り急ぎ入力だけ。後で修正するんで。。。


P180:2 貨幣契約は常に利息を含み、そして常により多くの貨幣のための今の貨幣という性格と持つのであるから、貨幣契約が存続するためには常に成長することが必要となり、そして成長率を決定する要因の一つは利子率になる(Wray 1993 b)。
これは蓄積のロジックを作り出す。あらゆる貨幣経済は成長しなければならない。もし成長しなければ蓄積は不安定となり、名目契約は満了しない。そして貨幣的生産のころロジックによって、名目経済成長が必要となる。これは貨幣供給量を固定してしまっては実行不可能だし、新しい発見によってのみ量を拡張できる商品貨幣によっても不可能である。すなわち、計算貨幣の供給を決定するのは債権者と債務者の間の私的契約なのである。小麦計算貨幣の量は現存する小麦の量によって制約されることなどありえない。むしろ契約によって生み出された小麦貨幣の量を契約しているのは、借手の、後で「より多くの(小麦単位)貨幣」を返済する能力として認められたものなのである。ここから直接内生的貨幣アプローチと呼ばれるものが導かれる。貨幣は常に内生的なものであり、その量を決定しているのは、貨幣単位(あるいは計算単位)によって秤量された債務契約である。この原則は貨幣単位として何が選ばれるかに関わらず(ドルであろうと円であろうと)、また交換媒体として何が用いられるかに関わらず(銀行券、銀行預金、金貨あるいは法的貨幣であろうと)、それらが貨幣単位で表示されていれば、成立するのである。
 私的に生み出された貨幣の流通力を高めるためには、そうしたIOUが信頼に足る個人・機関によって「受領され」なくてはならない。つまりIOUを保証する裏書が必要になる。まず最初にこの役割を果たしたのは寺院であった。だが後には、数多くの期間・個人がこの役割を果たすようになる。政府から商人、高名で、通常は裕福な個人、そして銀行。こうした指摘IOUのいい例が、為替手形である。実際、これは中世から実に19世紀まで、交換媒体として、そして決済手段として用いられた貨幣表示資産としては最大の重要性を持つものである。これは裏書によって流通する。事実、銀行が裏書するとこれは金縁(きんぶち)gilt-edge と呼ばれることになった。その意味は、それが金と同様によいものであることを銀行が保証する、ということである。とはいえ、全くその通りだったわけではない。ここから私的に創り出された貨幣の基本問題に行き着く。発行者は債務不履行に陥るかもしれない。もし債務不履行となれば、債権者は裏書人の許へと向かう――が、裏書人も債務不履行に陥ることがあり得る。したがって、私的IOUの流通力を高めるためには、それが他の交換媒体に兌換されるようになればよい。例えば、寺院が発行していた小麦単位で秤量された貴金属の延べ棒である。最後に刻印された鋳貨が発展すると、民間負債は通貨[鋳貨]に兌換されることとされるようになった。
 こうして最後に「金匠」段階すなわち、正統派の出発点へとたどり着いた。金匠に預けられた商品貨幣(金)が存在しており、そして金匠が「預金創造プロセス」を思いついた、という物語の出発点へ。現実には、このプロセスは逆である。商品貨幣は計算貨幣――私的契約の必然的な結果――より先に発展するはずもなかった。商品貨幣が発展したのは技術的理由によるものだ。私的に発行された信用貨幣には債務不履行リスクが付き物だったので、準備貨幣となったのである。預けられた商品貨幣が貸し付けられ、信用貨幣が生まれたわけではない。
むしろ、貸付と信用貨幣があったから、兌換に確実に応じるために、少額の商品貨幣を準備として保有しようという願望が生じたのである。金だのなんだのは貨幣ではないし、貨幣であったためしもない。貨幣とは社会的に決定された計算単位なのである。それは小麦貨幣であり、リラ貨幣であり、ドル貨幣である。しかし、あらゆる私的に発行された貨幣は、少なくとも多少は債務不履行リスクがあり、そしてそのリスクをマイルドなものにするため、私的に発行された信用貨幣は他の貨幣表示の負債に兌換されることとされたのである。商品貨幣は社会的価値尺度の、無リスクの表象物である。そうしたものとして、商品貨幣が私的に発行された貨幣の「究極的」裏付けとして選ばれた。ところが商品貨幣の利用可能量では、計算貨幣の供給量を縛ることはできない。これはつまり、すべての私的IOUの卸元兌換(「流動化」)に応じることは不可能だ、ということである。すなわち、商品貨幣準備をベースにした信用貨幣経済は、兌換への意志があれば、崩壊するのである。
 あらゆる私的所有経済において貨幣を特徴づけているのは、それが支払約束だという点である。こうした約束は、ピラミッド状に進化する――各契約は、ピラミッドのより上位にある約束によって保障される(か、兌換される)。ゲームのルールは自分のIOUが免除されるには第三者のIOUを提供する、ということだ。(いかなる民間主体も、自分自身で決済手段を発行することで自分自身の債務を免れることはできない。)しばしば支払うべき第三者のIOUが債務ピラミッドのより上位にいる主体によって発行されたものであることが必要とされる。
例えば、為替手形負債は銀行券を支払うことで償還される。銀行券負債は、イングランド銀行券を支払うことで償還される。イングランド銀行券は金準備を支払うことで償還される。当然のことだが、負債は「貨幣」と関わる特定の機能を満たすのに使えるからといって、貨幣のすべての機能を有しているわけではない。あるものは一般的交換媒体として使えるだろう。他の物は債務ピラミッドのより下位にある負債の決済手段としてしか使えない。時代とともに、流通することになる負債のタイプは不断に狭められてゆき、ピラミッドの最上位にあるものへと絞り込まれていった。この様にして金融システムは、広範に渡る種類の負債が流通するものから、流通する「貨幣供給」の大部分が政府負債および銀行負債によって占められるシステムへと進化していった。同様に負債を償還するための決済手段として受領される負債の範囲も狭まっていったが、こちらは交換手段ほど明瞭だったわけではない。
 最初の中央銀行は、(例外なく)政府の資金調達のために設立された。政府は概して借入能力が著しく制約されていたのだが、おそらくそれは財政的に困窮している国王の債権者になるということは、銀行にとって健全なことではなかったからである。概して政府が借入できたのは、そのIOUを高名な個人が裏打ちする場合であった。(これはもちろん、今日とは全く違う。現代では政府のほうが民間の負債に保証を与えている。)君主は最も信用に足らない借手であった。借入は個人的な保証の範囲でのみ行われた。国王は通常、他の借手よりかなり高い金利を払わなければならなかった。そして王家の債務は、ほとんど弁済されなかった。(注4)
 いずれにしても政府の借入は容易ではなく、法定不換貨幣も発行できなかった。政府貨幣はそれに含まれている貴金属の金額に基づいてのみ、流通し得た。中世の全貨幣史は、政府による鋳造材料としての金発見の歴史か、政府による鋳貨の貶化の歴史――王家が所有する一定量の金からなるべく多くの鋳貨を得ようとする試みの歴史――である、といってもいいだろう。貶化のせいで、中世全体にわたり鋳貨の価値は下落し続けた。時にはとても急激なこともあった。 
ここから再びゴースト・マネーの話に戻る。正統派の分析では、政府鋳貨の価値が絶えず低下し続けた理由を、流通に「多すぎる」貨幣が投入されたことにより生じたインフレに帰している――貨幣がインフレを引き起こした、というわけだ。実際には貨幣が多すぎたことによってインフレが引き起こされたのではない。事実、計算ゴーストマネー(例えばポンド)で測られた商品貨幣は、実に安定しているのである。政府鋳貨は鋳貨に含まれている金と同じ価値しかなかったため、貶化によって国王鋳貨単位での物価は上昇したのであろうが、その一方で、計算貨幣単位では上昇しなかったのである。繰り返すと、これは政府の債務が受領されなかったため生じたのである――貶化した鋳貨とは、事実上、政府の債務であった。そのため、素材である貴金属の価値で測って、下落したのである。
 民間機関が発行していた貨幣表示資産の価値は安定していた。いわゆるジャイロ・マネーgiro moneys である。関係者が負債の発行者を信頼している限り、この負債はゴースト・マネー単位で安定していた。というわけで、民間機関が法定不換貨幣――すなわち、ポンドで表示されたIOU――を発行できたのである。しかしながら、王家は信用に値しなかったので、鋳貨を貶化させたり金を減らしたりして常に購買力を得ようとしていたため、その負債は信用がなくなり、だから政府貨幣は素材である金属の価値でしか流通しなかったのであった。現にイングランド銀行が設立されたのは、金庫にあった金を使い切ってしまい、対フランス戦争の戦費を民間の貸し手から借入れることができなかったためである。そこで中央銀行が自分で手形[※紙幣、note ]を発行することで政府債務を買い取るために創られたのである。基本的にはこうした発展があって、政府は法定不換貨幣を発行することが可能になった。中央銀行券は、ポンド表示でよかった――民間の銀行券がポンドで表示されていたのと全く同じことである。(注5)
 数多くの理由があるが、中央銀行は徐々に負債ピラミッドの頂上へのぼりつめていった。英国の場合、地方銀行はロンドンの銀行を準備銀行として利用していた。それゆえ、ロンドンの銀行がピラミッドの頂点になることは当初より合意されていた。イングランド銀行は、ロンドンの他の銀行が銀行券を発行することを禁止する法律を通すことに成功したが、これによって大きな優位を得た。最終的にロンドンの銀行は、自分たちの負債をイングランド銀行の銀行券と兌換可能とすることで、イングランド銀行を中心としたピラミッドを展開することになった。こうして非銀行負債が銀行負債と交換可能となり、そして銀行の負債が中央銀行の負債と兌換可能となった。すべての資本制国家が類似の単一準備システムを発展させ、そして各国で中央銀行負債が準備として用いられることになった。金本位制の下では、中央銀行負債は金へと兌換される。こうして金がピラミッドの頂点に立つ究極的準備となったのである。
 後の時代になって、国家は次のことを発見した。租税を課すということは、国家自身の負債で償還する債務を納税者に発生させることである。この債務によって、政府の「法定不換」貨幣(すなわち、政府が発行する貨幣表示の短期負債――基本的には銀行券と変わらない)に対する需要を生み出すことになるのだ。最終的に政府債務は、決済手段および交換媒体として受け入れられた。この時点で金も中央銀行も必要なくなった。政府は単に「カネを刷る」ことで買うことができるのである。国民はそれを喜んで受け取るであろう。なぜならそれは租税を支払う手段だからである。(注6)おそらく、この意味が十分認識されていなかったため、国家はある種のフィクションを続けた。中央銀行へ「国債を売る」。これで増えるのは、中央銀行の負債(準備および銀行券)である。中央銀行なしで済ましたほうが簡単ではあったろうが、それはあまりにも露骨すぎるという問題があった。政府は、国内で内国計算貨幣と交換されるために販売されているものであれば何でも、法定不換貨幣を提供するだけで獲得できる。租税がこの法定不換貨幣の需要を保証している。
 しかし、中央銀行はピラミッドの頂点という立場によって、最後の貸し手として機能することができるということを少しずつ理解し始めた――歴史的に言えば、これは中央銀行の第二の主要な機能である(これが最終的に理解されるのは、19世紀半ば以降のことであるが)。基本的には単に他の銀行の資産を割り引くだけでいくらでも準備を供給できるのだから、中央銀行はいつでも取り付け騒ぎを食い止めることができたのである。ところがこうした行動をとるには、中央銀行は狭い意味での自己利益を放棄しなければならない。このように展開するまでには、イングランド銀行法が通過してから2世紀近くを要したのである。これによって、資本制システムの安定性は著しく高められた。これによって商品貨幣準備システムの基本的問題が解決されたからである。準備の供給は、まさに準備が必要とされる瞬間に弾力的となり、そして市場の秩序を保つのである。しかし金本位制の下では、中央銀行をもってしても最終的には金準備によって縛られてしまっているので、危機を食い止める能力は限られてしまう。これがどの国でも金融危機が発生したときには金本位制を停止せざるを得ない理由であり、また金本位制が資本制経済の安定と両立しない理由である。
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The Development and reform of the modern international monetary system の話(6)






16/03/05 23:24
昼間の続き。
いや、実は昼間は、突然本日のスケジュールが変更になったので、あわてて
ワードに入力したものを丸々コピーだけして、そのまま後で
行変更とか、いろいろやろうと思ったんだが、
今見直してみたら、行変更しなくても、かえって、このままのほうがいいかな、、、、みたいな気がしてきたので。。。
(自分では、ちょっとわからない。。。)

まあ、方針がコロコロ変わってなんなんだが。。。。

さて、昼間入力した部分と、今回入力する部分とで、この論文の中心的な個所は終了する。。。。
だって、全然本題の「国際経済」が登場しないじゃないか、とお感じかもしれませんが、
おいらのせいじゃない。
まあ、次回からちょっと出てくるので。。。。

それにしても、(4)から、今回の(6)まであたりは、まあ、
MMTer(あるいは、ポスト・ケインジアンといったほうがいいのか?)の中心的な論点である。
近代社会になってからの「実存的不安」(?)のせいで必然的に貨幣性資産を必要とするようになったと
いうようなG.L.S.シャックル流の議論や
実物資産の生産-供給価格(フロー価格)と需要価格(資産価格)の矛盾といったミンスキー流の
議論など、確かにポスト・ケインジアン理論を総ざらいしたような雰囲気もまあ、
あるような気がするといえばそう言えなくもないが、
その一方で、中央銀行による最後の貸し手機能、そしてミューチュアル・ファンド・マネー批判
といったものは、現在WrayやTymoigne が進めているマネー・マネージャー・キャピタリズム批判や
ユーロ危機の解釈などに重なるところが大いにあり、MMTの核になる部分、
といえば、そうも言えるのかなあ、、、、みたいな。。

と、いうわけで(何がどう、「と、いうわけ」なのか、よくわからないが)、昼間に続いて、今回も改行を挿入するなどなしで
ワードから直接コピーしてみる。読みにくかったら
そうコメントください。。。。

+++++++++++++++++++++++++++++++++++++
P184:1 金本位制を放棄することは、大きな革新であった。というのは、これにより準備の供給が完全に弾力的となり、債務デフレと、マクロ経済レベルにおける滞留在庫廃棄をなくしたからである。経済安定のためには弾力的な準備の供給が必要である。そして中央銀行が準備の伸びを抑えようとしている限り、持続的蓄積に対する責任を放棄することになる。こうしてみると、正統派による貨幣および貨幣政策へのアプローチが歴史的にも論理的にも矛盾したものであることがわかる。貨幣政策の処方箋(準備の数量を密接にコントロールすること)は大きな後ろ向きジャンプであり、蓄積が簡単に逆流するような不安定なシステムへと向かう。そればかりか、マネタリストの政策では、貨幣供給をよりよくコントロールすることなどとてもできないだろう。準備供給(小麦であろうと金であろうと、あるいは中央銀行の債務であろうと)が貨幣供給量を決定したことなどない。
 現代のシステムは中央銀行の準備をベースにしているのだが、これは商品貨幣システムから進化したものなどではない。むしろ貨幣経済の問題の一つを解決するため、内生的貨幣システムの方から、商品貨幣のほうへと進化していったのである。いかなる貨幣経済であっても、計算貨幣で表示された負債の(事実上、資産一般の)大部分は民間のIOUから成り立っており、そしてその価値は、それを発行した主体の経済的条件に依存しているのである。商品貨幣は社会的計算単位の無リスクの代理物として発展したのである。私的に発行された貨幣が商品貨幣へと交換されたのは単に流通を強化するためだけに過ぎないのであり、現存する貨幣の数量によってその発行が制約されることはなかった。これで理解しやすくなると思うが、外生的貨幣システムというものは、名目的蓄積を基礎とする経済では可能ではないのである。商品準備システムは可能ではあるが、中銀準備システムと比べれば不安定どころではない。中央銀行を縛ることで、中央銀行の負債をあたかも商品貨幣準備システムであるかのように供給しようとするよりは、国内経済では現在のアコモデーション準備システムを維持するほうがはるかにいいだろう。後でみるように、同じことが国際経済にも当てはまるのである。

貨幣と信用の関係、ちょっとした余談

 正統派理論では貨幣はしばしばストックとみなされる。これは支出フローを容易にするための交換媒体として使われる。他方で信用は内国あるいは外国貯蓄フローと同一視される。これは内国または外国投資フローあるいは輸入フローの資金調達のために使われる。Tsiang(1980)のような一部の新古典派経済学者は貯蓄の取り崩しから生じる貨幣ストックを貸付資金需要を満たすための貯蓄フローに加算可能なハイブリッド・モデルを作成しようと試みている。しかし後にも論じる通り、信用は貯蓄ではないし、貯蓄取り崩しでもない。
 貨幣を巡る議論では数多くの混乱が生じるが、その大部分は貨幣を、特定の物理的貨幣表象物と同一視することから生じる。例えば政府紙幣や鋳貨、銀行券、小切手、あるいは諸種のタイプの預金を記録しているコンピューター・テープに入力された数字など。この様に物的対象に焦点を合わせてしまうと、信用が実際には複雑な社会関係を表象しているという事実があいまいになってしまう。信用貨幣(筆者としてはそう呼びたいが)とは、私的な、貨幣表示の負債なのである。
 第一に、信用貨幣は社会的計算単位(合衆国におけるドル)で表示される。計算単位は、そもそもの性質からして社会的であり、そして社会的文脈の外では意味を持たない。第二に、信用貨幣はある経済主体が社会的計算単位で表示された負債を発行し、そしてその負債が他の経済主体によって受領されたときに「創造される」。信用貨幣は倉庫に蓄えたり、市場に投げ込むことができるように作るわけにはいかない。それはただ「借手」と「貸手」の間の社会関係の一つとして創り出されるのである。この信用関係の履行を強いるものもまた社会的である――債務契約を記録し、その履行を義務付けることは、常に社会を通じて実行される。(注7)しばしば信用貨幣が創り出されたことによって、「後で支払う」約束で「今、買う」ことが可能になる。この場合、後日に計算単位で金額表示された第三者の負債を提供することになる。決済(債務の償還と信用の廃棄)でさえ、社会的(ある第三者の負債を提供するきまり)であり、そして決済する能力は、かなりの程度、社会的な経済パフォーマンスに依存して決まることとなるだろう。
 これは新古典派の交換あるいは「効果的資源配分」の考え方と対照をなすものといえる。新古典派の考え方では希少資源が無制限の欲求と付き合わされる。相対価格体系は、資源配分が効率的になるように決定される。ところが信用は希少な資源ではない。ある意味では信用は無限に供給される(数量を制限するのは「借手」の負債を発行しようという意思と、「貸手」のそれを受領しようという意思だけである)。不確実性、取引費用、外部性を欠いた新古典派の世界では、信用の「効率的」価格はゼロであろう。あらゆる無限に供給される財の効率的価格がゼロであるのと同じである。驚くには値しないが、新古典派の世界では貨幣契約は使われていない。
 もし信用に価格があるとするなら、それは無限の欲望を前にした希少資源の故ではない。そうではなく、不確実な世界では、実存は流動性を好み――流動性選好(注8)――そうした実存が信用貨幣に関係せざるを得ないからである。流動性選好が資産の価格体系を作り出す。あらゆる金融資産は負債を代表しているのであり、そしてすべての金融資産=負債は価格を持つ。金融資産の価格体系がその他の全経済にインパクトを与えるのは、投資(そしてより少ない程度でそれ以外の支出)に対する影響を通じてである。資本(すなわち生産手段)もまた価格を持たねばならない。その供給価格は経常生産物の価格体系の内で決まり、同時にその需要価格は資産価格体系の内で決まる。資本が新たに生産されるのは、その需要価格が供給価格を上回るときだけである(Minsky 1986)。こここそ流動性選好がその役割を果たす場である。というのは、最大の流動資産(通常は、ハイ・パワード・マネーHPM)の報酬を決定しているのは流動性選好だからである。その他すべての資産に対する報酬は、流動性に対するこの報酬より大きくなかったら居場所を見つけることができないはずだ。こうして資産価格によって期待報酬は均等化されるのである。ケインズ(1964)の論じる通り、流動性に対する報酬によって、すべての価格が達成しなくてはならない標準報酬が設定されるのである。
 紙幅の制約もあり、このイントロダクションでこれ以上、流動性選好とその資産価格に対する影響について話を続けるわけにはいかないが、「信用」の価格を決定するのが希少性ではない、という点は記しておきたい。(注9)むしろ、各負債の「価格」によって、それら負債の所有者に対する期待報酬がすべて均等化されるのである。つまり、1年後に1ドルを支払うと約束している負債は、一般的には今日は1「ドル」では売れない。割り引かれざるを得ないわけだが、しかしそれは時間選好率が正であるからなどではなくて、流動性選好のためである。それゆえ、この負債の本日のスポット価格は、例えば90セントというようなことになる。この負債の保有者の期待報酬は、1年後の10セントに等しい。こうした負債の「価格」は、信用を「効率的に配分」などしない。むしろ期待報酬が均等化されるうえで必要となる割引を一貫性あるように秩序付ける。こうしたものが必要とされるのは不確実性の故であり、そして不確実性こそ流動性選好を生み出しているのである。どんなものであれ、何か特定の負債の「供給が増加した」(「希少性が減少した」)場合、その効果は価格(あるいは割引率)にははっきりと表れない。(注10)同様に、信用に関してはその「供給」と「需要」の独立を語ることには意味がない。負債が、それ自体を在庫するために発行されることはない。[※例えばいくら貸借証文を印刷してそれを倉庫に積み上げたところで、それは信用の組成にはならない、という意味。信用とは債権と債務とが同時に発生するのであり、債権だけ、あるいは債務だけが創られ、翌期以降に持ち越されることはあり得ない。]したがって、信用に対する「需要の価格」の影響とは、単純にその「価格」に対するものだけでは済まない。そして、「希少な信用資源」の「効率的配分」を確実にするため、信用の価格伸縮性について語ることは全く意味がないのである。
 正統派マネタリストたちは中央銀行が「貨幣供給」を緊密にコントロールすることを推奨しているが、それに対して、その他正統派自由市場主義者たちが推奨しているのは完全な規制緩和の下での「競争的貨幣システム」である。「自由市場」を解放し、「ミューチュアル・ファンド・マネー」――即ち、民間で発行される交換媒体で、その価値は市場で決まることになる――を供給してはどうかという提案には数多くの基本的問題がある。そうした問題の中で小さからぬものの一つを挙げると、この提案は歴史を読み誤っており、かつ「貨幣」を誤解しているのである。貨幣とは社会的計算単位であり、それによって債務が測量されるもののことである。そうしたものであるから、信用を測量する際にも用いられる。この貨幣単位と比較して、価値が変動する負債が決済システムの基盤になったりしたら、深刻な問題が発生する。これこそ、すべての貨幣制諸国において今では常に額面価値で流通する負債を用いる決済システムが採用されている理由である――そして「自由市場」が自発的に「ミューチュアル・ファンド・マネー」を放棄し、負債をこの計算単位の額面価値で交換できるジャイロ・システムとゴースト・マネーとを基礎とするシステムを作り出そうとした理由である。これは政府が自由銀行システムをよりよく機能させるため介入したということではない。これは2000年の進化とイノベーションの結果であり、その2000年間に行われた実験から、最もうまくいきそうなものとして、結果的に残ったものなのである。額面通りに流通する(すなわち、スポット市場で割引されることなく流通する)負債を発行することが可能になった機関は自然と優位に立つ。というのは、その機関の負債は他の負債を決済システムから駆逐するであろうから。時を経て、ピラミッド型の構造が発展する。この中では諸負債は、より上位にある負債と額面通りに交換され得るように作られている。しかしそのためには、より高位の機関は無制限に負債を発行し、より低位の機関が発行する債務と自分の負債を置き換えられることが必要である。これがすべての資本制諸国において「最後の貸し手」機能が発達し、その負債が需要に応じて供給されることで、ピラミッドの低位にある機関の負債の平価が維持されることになった理由である。最後の貸し手ファシリティに直接・間接にアクセスできない主体では、平価を維持することはできず、従って決済手段あるいは交換媒体を発行することはできないのである。
 最後の貸し手にアクセスできない機関により発行された「ミューチュアル・ファンド・マネー」の明らかな問題点とは、確信が崩壊したときには合理的行動の結果として、取り付けが発生することである。自己利益だけでは、最後の貸し手は発生しない。究極的な最後の貸し手とは、取り付けが発生したときにはいつでもシステム全体を守るため、狭い自己利益に反して行動しなくてはならない。個人の自己利益の上で作動しているシステムは安定しえない。なぜなら負債の市場価値は資産価値と結びつかざるを得ないからである。資産に想定外の価格下落があれば、負債の「自由市場」価値は下がる。そして取りつきが始まる。額面価値が維持できるのは、取り付けがやみ、負債発行者が問題を解決する時間を稼ぐことができる場合だけである。そのためには、最後の貸し手活動が行われるかも知れないし、資本注入もあるかもしれない。時間を稼ぐこと。そうすれば資産によっては、価値を回復するかもしれないし、負債発行者が将来の利益見通しの改善によって損失を吸収することもできるようになるかもしれない。
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The Development and reform of the modern international monetary system の話(7)






16/03/21 21:03
え~、、やっぱり、ワードを改行せずそのままペソったのでは
読みにくい、というコメントをいただきましたので(後で
自分で読んでも、やっぱりそうかな、と思ったんですけどね。。。。)、
いろいろ改行を挟むことにしますた。。。。

今回からは、本題に入るわけですが
これはMMTというより、ケインズとデヴィッドソンの議論を
Wrayなりに要約したもの、ということになります。というわけで、
普段MMTを読んでいると、ずいぶん違うこと書くなあ、という感じなんですが。。。



P187 国際金融システムに対する含意

 「自由」市場による「自由」変動相場態勢の下での為替レート決定は、
内国経済で「ミューチュアル・ファンド」マネーが逢着したのと類似の問題にぶつかる。
ミューチュアル・ファンド・マネーによるシステムは、デヴィッドソンの用語でNUMSと呼ばれている。
先に論じたとおり、NUMSの下では「自由変動」為替をアンカーするものは慣習しかない。
ある通貨への/からの投機的取り付けによって、大量の通貨が簡単に交換媒体機能から流出入する。
そのため、当期は一時的に経常収支バランスに関わる「ファンダメンタルズ」を左右することもある。
 自由市場主義者たちの議論ではこうなることになっている。為替レートが伸縮的であれば
経常収支バランスは速やかに調整される。というのは赤字国は外貨準備を失い、通貨が
減価するからである。だが実際には、ラテンアメリカ諸国や合衆国では、
為替レートが伸縮具合を増したことによって、さらに経常赤字が長期化したのである。
主流派経済学者たちはさらに、為替レートが伸縮的であることによって各国は内国貨幣・財政政策追求という面で
より独立性を高めることになるであろうとも論じてきた。その根拠となっているのは
変動相場制であれば、国内緊縮プログラムを必要とすることなく、貿易不均衡をなくすことができるという
信念である。しかし実際には、緊縮政策は大部分の赤字国(合衆国は除く)で
主要な調整メカニズムとして用いられている。各国の政策追求の独立性を高めることが可能になるどころか、
変動相場制のため、主要先進国間で調整する必要性が一層高まっている。こうした結果が生じたのは、
一つには変動相場制とは投機を誘発しがちだからである。時として、「資本流出入」あるいは
通貨に対する投機的需要によって購買力平価が支配され為替レートが決まることもある。そして
協調介入によって通貨の切り上げ(または切り下げ)が必要となる。(注11)要するに、
1980年代には自由市場主義者にとっては心休まる時期ではなかった。正統派の考え方とは、
国際金融フローとは単に国際的な財やサービスのフローを反映しているに過ぎない、というものであるが、
これこそ変動相場制の利益についての彼らの矛盾した予言の基礎となっているものである。
 最も重要なのは、次の点を理解することである。あらゆる貨幣表示の負債は価格を持った資産であり、
そしてその価格は各資産がしかるべく期待報酬(q - c + l + a )を生み出すものでなくてはならない。(注12)
[※注12:この分析はケインズ(1964)に由来する。ケインズはqを資産の収入(またはクーポン)、
cを持越し費用(「減耗」、減価)lを流動性に対する報酬、aを名目単位の増加/減価と定義した。
流動性に対する報酬とは主観的な報酬であり、流動的であるほど大きな主観的金額と評価される。
非流動的資産はごくわずかなlしか獲得できないが、qのほうは大きいということもあり得る。
持越費用(c)は減価(機械は摩耗し、小麦は腐る)する物理的資産には大きく、他方、
貨幣のように高い流動性を持つ資産の場合は無視してもいいかもしれない。均衡においては全報酬q-c+l+aは、
諸資産について均等化する。]外国資産の場合、各qは表記上の利子率により決まり、
aはその外国通貨の期待上昇(または下落)率により決まる。外国負債の流動性は、流通市場の組織化と、
市場内の序列orderlinessに依存する――こうした秩序は、さらに為替レートの変動を制限する
マーケット・メーカーの存在に依存する。自由な変動相場制の下では、外国債務の流動性は低い。期待される
各qおよびaは、その低い流動性の下で報酬を出す値でなければならないため、非常に高額とならざるを得ない。
安定している(あるいは価値が上昇する)と期待される通貨によって価値が表記されている負債だけが
高い流動性を持つだろう。国際的流動性選好が上昇するとき、こうした通貨への集中、つまり
秩序化された市場を持たない通貨からの逃避が発生する。国際負債のqが調整されなくてはならない――
非流動的資産(とりわけ今後の減価が期待される通貨建てのもの)の期待qが一番大きくなる(つまり
割引率が大きくなることで、資産価格が低下し、収入が大きくなる)。
 マーケット・メーカーが不在の場合、減価が期待されている通貨建ての負債の需要は急激に下落するに
違いない――これはさらに価格下落の期待を不安定化させる。Davidson(1992)の論じる通り、
仮に期待の弾力性が1を超えれば(市場参加者の半数以上がさらに減価が進むと期待する)、
自己利益追求行動によって、累積的減価が(「再帰的過程reflexive process」を通じて)引き起こされ、
そして逃避が発生する。この場合、伸縮的為替レートシステムが安定しうるのは、
マーケット・メーカーが介入して原価を食い止めるべく原価中の計算単位で価値表記されている負債の価格に
床を設定する以外にないのである。
 UMSの場合、貨幣表記負債は将来の決済、例えば1年後の100ドルの支払いを約束している。これは
例えば今日はスポット価格90ドルで販売されるであろう。支払われることになっている100ドルは、
決済手段(または契約で指定された清算手段)の形態をとるであろう――大概は、短期の銀行負債である。一つの
UMS内部における銀行負債は計算単位ドルに対して額面通りの交換を保証されているので、このUMSの内部で
取り決められた先渡し契約条件を満了するため1年後に支払いに使われるであろう決済手段との交換比率について、
不確実性はない。しかしNUMSでは、もし先渡し契約が外国通貨で記載されているとしたら、
追加的な不確実性が発生するであろう。たとえ決済手段が額面通りで通用することが保障されているとしても、
それが外国通貨だとしたら、外国計算単位と内国計算単位の間の交換比率がどのように変化するだろうか、知るすべは
勿論ない。もし入手される外国決済手段が外国の計算単位と額面で固定されていないとしたら、不確実性は
一層大きくなるだろう。現代の資本制諸国は、国内では「ミューチュアル・ファンド・マネー」を放棄し、
国内の計算単位に対して固定されたスポット価格を持つ交換媒体及び決済手段を用いることで
この不確実背を取り除いてきた。
 同様に、通貨間の為替レート[※交換比率]を巡る不確実性を取り除く試みが行われてきた。先に論じたとおり、
金本位制は為替レートを固定し、UMSを創り出すための比較的近年の試みを代表している。しかし
これが最初の試みだったわけではない。いわゆるジャイロ・マネーやゴースト・マネーもまた、
小さなものではあったけれど、UMSを創り出した。しばしばUMSは民間によって創り出されたし、政府によって
作られたこともあった。しかし、民間の利潤追求機関によって運営されるUMSの問題点は、先にも述べたとおり、
市場を創る機能が個人的な自己利益と矛盾する可能性がある点だ。中央銀行の金準備をベースにしたUMSの問題点は、
準備が非弾力的な点である。
 最後の借手によって、資産価格に床が与えられること――すなわち、市場に秩序を作ること――が必要である。
中心的な交換媒体及び決済手段(あるいは契約上の清算手段)として使われる資産について言うなら、
最後の借手は通常、資産価格が1に等しくなること、あるいはハイ・パワード・マネーに対し
額面通りの取引が行われることを保証する。(そうすることで、これら資産はデヴィッドソンの用語でいえば
完全流動資産であることが保障される。)もちろん、こうした資産の先渡し価格が1に等しくなる必要性が
あるわけではない。割引率は、流動性選好の状態によるであろう。しかし保障スポット価格を所与とすれば、
先渡し契約はこのUMSで記されるであろう。これによって将来支払われなければならない決済手段の額が特定されるのである。
国際的な最後の貸し手によって、国際的な計算単位との比較で各国の計算単位の価値に床が設定されることになる
――たとえ明示的な国際単位(たとえばゴースト・ポンド)が存在しないとしても。そうなるには、
各国計算単位の間の相対的交換比率が一定に保たれることが必要である。実務上、これを達成できるのは、
国内における中央銀行に代わる国際的な最後の貸し手である。実際、中央銀行は各国国内では
最後の貸し手として活躍しているのである。
 固定為替レートを実行することに困難がないわけではない。合衆国内部では永らくUMSが守られてきた。これは
国内全域にわたって固定為替レートが作用していた、ということである。こうした固定為替レートは
さまざまな格差[※不平等性]を生み出してきている。例えば国内のある地域は他の地域に比べ間違いなく
生産性が高い。(注13)これには異なる二つのやり方で対応がされてきた。各地の連邦準備銀行は、
それぞれ独立して割引率を設定するように取り決められていた。こうすることで、後進的な地域の先渡し契約には
低い割引率を定めることが可能となった。そうすれば、その地域経済が刺激されるだろうと信じられていたのである。
実際には、割引率を地域ごとに替える政策が合衆国内で大々的に用いられたことはない。おそらく
低割引率の恩恵を確実にその地域内だけに限定するのは困難だからであろう。UMSの不平等性を減らすために取られた
もう一つの方法は、地域ごとに異なる物価(とりわけ、生産過程への投入財価格)を認めてきたことである。
(もちろん、これらの他にも不均等発展に対処するためには様々な政策が採用されてきた。例えば
諸種の財政政策――所得再分配、優遇税制等々――しかし、ここではそれらは無視しよう。)Hahn(1991)の認める通り、
地域内部の伸縮価格は地域間の伸縮的為替レートに代わるといえる(ただし、確かに彼の言うとおり
「理想的な代替物」ではないが)。
 もし国際的なUMSが採られたなら、ある国の為替レートが「高すぎ」、他の国が「低すぎ」に設定されることから
不可避的に問題が発生するであろう。繰り返すが、国際的な最後の貸し手は、国によって異なった割引率を用いることで
不平等を減らすことができる。つまり為替レートが「高すぎる」ように思われる国々に対しては、
低い割引率が提供される。同様に国によっては、インフレまたはデフレ(つまり「伸縮的国内物価」)によって
為替レートの不適切を調整することが可能である――合衆国によってとられた方策である。ただし、
特にデフレは先渡し契約を用いている経済――すなわちすべての貨幣経済――にとっては常に負担が大きくなるのであり、
そして重大なデフレによって先渡し契約のデフォルトが引き起こされないということはあり得ない。こうした理由により、
為替レートが高すぎる国にとっては、デフレによる調整が期待できるとは言うわけにはいかない。調整の重荷は
為替レートが低すぎる国にとってのみ負担しうるもので、つまりインフレによる調整だけが可能なのである。
貨幣経済では、インフレは常にデフレよりはましなのだ。
 しかしより好まれるやり方は、為替レート自体を再調整することであろう。一国の通貨にとって「適切な」
為替レートを決めることが簡単ということでは全くない。ただ通貨に対する投機がなければ多少は
簡単になるだろう。投機がなかったとしたら、購買力平価が為替レート決定の上でより中心的役割を担うことだろう。(注14)
しかし投機を排除するためには、為替レートは変化しないという期待を創ることが絶対必要である。それができれば
「高すぎる」か「低すぎる」か、その判定はかなり容易になるだろう。投機がある場合には、その判定は不可能に近い。
というのは為替レートは基本的に習慣でby convention 決まってしまうからである。投機の反復を避けるには、
為替レートは変わらないという期待が必要なのである。したがって、変更はまれにしか行うべきではない。
 仮にUMSの世界に移るとすると、何が国際的計算単位に使われるだろうか。選択肢の一つは、
ある普遍的計算単位を定めて、各国内、各国間で使うということだ。これは現在合衆国で使われている国内UMSと
同じような感じである。この伝でいくと、国際単位は現存するどこかの国の単位(たとえばドル)を基礎としたものに
なりそうだ。あるいは新しい単位を創ってもいい(たとえばゴースト・ポンド)。ただし、
政治的なことを考えると前者は無理そうだ。例えば、人口に膾炙した次のような考え方がある。現在、
事実上、最も国際取引に使われているのはドルであるが、これは不公平である。なぜならこれにより
合衆国は外国の生産物買う能力を無限に持っているのであり、そして長期的な赤字を続けることができるのだ、
という話である。しかし、実際には、もちろんドル負債が発行されるとき、これを受け取った人は合衆国の製品、
サービス、資産に対する請求権を得ているのである。保有者がそのドル建て資産を金融資産という形態のままで
保有し続けることを選好するから、合衆国は貿易赤字を「強いられる」ことになるのである。それは
合衆国製品を購入する力を持つ人々が、その力を行使するのを拒否しているということである。
ドルが国際的計算単位として使われることによって、合衆国に特別な優位が与えられることはない――が、
このような話が膾炙していることからもわかるとおり、これに対する政治的抵抗は、大きいのである。
[※ここにはMMT的な議論が顔をのぞかせている。だが、実際には、例えば国際的な原油取引価格や卑金属穀物他素材取引価格が
ドル建てで発表されているとしたらどうだろうか(現実にそうである)。まさに本稿で主張されている通りの理由により、
ドル通貨に対する需要を生み出すだろう。こうした不確実性をベースにしたドル需要が存在するからこそ、
多くの人がドル建て資産を求めるのであり、それゆえ、合衆国はいくら赤字を出しても、他国の
経済主体が合衆国に対する請求権を行使しない、というメリットを享受できるという面は見落とせないのでは?]
 ゴースト・ポンドが採用されたと仮定しよう。すべての主体がゴースト・ポンド建てで負債を発行できるというわけだ。
単一通貨システムの下では、為替レートの変動はあり得ない。すべての調整は二つの価格システムを通じて行われる。
経常生産物価格システムと資産価格システムである。すべての負債がゴースト・ポンド建てになるのであるが、
それぞれの負債の価値は、q - c + l + a で決まる。しかし、各国の中央銀行は――市場の秩序を維持するための
最後の貸し手機能を通じて――、ゴースト・ポンドに対し常に1のスポット価格が維持される負債を決めるであろう。
各国中央銀行は、ゴースト計算貨幣建ての準備を無制限に供給できるので、資産のスポット価格には床を常時設定することが可能だ。
 この取り決めの問題点はすでに明らかであろう。こうした最後の貸し手は、市場に「秩序」を創り出すであろうが、
「市場規律」を破壊する。中央銀行が狭い自己利益にこだわることをやめて国家的配慮を優先するようになれば、
最後の貸し手活動は拡大してゆき最終的にはすべての負債が保証対象となってしまうこともあり得る。基本的にこれは、
自分自身の債務を自分のIOUで償還することができない、というルールに対する侵犯である――中央銀行が
常にあらゆるIOUを保証するなら、誰も自分の債務の償還を強いられないであろう。各国で使われている
「ゴースト・ポンド」間で為替レートが再現することになり、UMSは間違いなく破綻するであろう。
 おそらく国際的なゴースト・ポンドを計算単位として用いるには、世界が統合される――つまり、真の
国際金融システムと唯一の中央銀行が存在する――ことが必要であろう。というのは、計算単位の社会的性格のためである。
おそらくどの負債が計算単位に対して常にスポット価格が維持されるかを決める力が、
国民経済の自立性の最後の砦なのであろう。ケインズは、彼が次のように論じた時、そのことを認識していたように思える。
すなわち「国債清算同盟」(いつでも議論になる)「は、将来の世界経済政府の中心軸となるであろう。」
(ケインズ、1980:189)
 「ゲームのルール」と矛盾しない、しかし必要な時には抜け道のあり得る代替案が必要である。この精神に基づき、
ケインズは計算単位バンコールをベースにした国際清算同盟(ICU)の創設を求めた。そしてバンコールは、
金との相対価値が固定され、そしてICUに参加するすべての国の通貨はバンコールに対する相対価値を固定される。
バンコールは、諸国間の清算という目的だけに使われる。各国はICUから金を提供することでバンコールを購入することが
できるが、しかしバンコールを金で払戻しすることはない。こうすれば、バンコールがシステムからなくなることはない
――バンコールに対する取り付けが生じるか可能性は全くなくなる。
 バンコール準備は最初、前期の輸出入水準に基づいて国ごとの配賦量が決定される。貿易黒字を続ける国はそこから
さらにバンコール準備を蓄積するであろうし、赤字国は失うであろう。ICUは準備を使い果たした国に対しては
当座貸越を提供する。準備はシステムから流出することはあり得ないので、ICUがバンコールの供給を拡張するには、
単純に赤字国に立て替え払いadvance だけすればよい。加えて、黒字国はバンコール準備を使って赤字国へ貸付をするか、
投資をするか、片務的援助を与えるなどが可能である。
 ICUは債務者や、長期的に貿易黒字を続ける(そしてバンコール準備をため込む)諸国に対し、
罰則ルールを採用することになる。ケインズは、貿易均衡を促すため、あまりに当座貸越残高が多い国及び1ないし
2パーセントの超過準備残高を持つ国には罰金を科すことを提案した。赤字国が取りうるその他の手立ては例えば;
通貨価値切り下げ、資本移動管理、金準備没収、そして「国際収支均衡を取り戻すのに適切と思われる」
(Keynes 1980:462)国内政策。黒字国が取りうるその他の手立ては例えば;国内需要の拡張、通貨価値の切下げ、
関税引き下げその他貿易障壁の除去、そして国際開発融資の増額(前出:463)。最後にIOUはその力を経済発展のために
使うことができる。当座貸越を再生事業のため、や商品の緩衝在庫を積み増ししてゆき、「常時備蓄」を創るため、
または国際投資会社を設立するために使い、そして、物価の安定に役立てることができるであろう(前出:190)。
 同様にデヴィッドソン(1992)は、国債UMSに参加する中央銀行の間だけで使われる国際準備として、
国債清算貨幣単位(ICMU) の利用を提案している。国際計算貨幣との間の交換比率[為替レート]は固定されるであろう
(ただし、特定の状況下では調整の余地が与えられている)。中央銀行間の清算は、国際中央銀行のICMU建てで
記載された帳簿上で行われることになる。ICMUは中央銀行間の清算という目的のためだけに用いられる。
ケインズの案と同じように、継続的にICMUを引き出している国及び継続的に蓄積している国には罰則が
科されることになる。デヴィッドソンの説明の通り、こうすることで与信国も赤字国とともに調整の重荷を
担うことになる。これを正当化する理由は二つある。(a) 与信国には、調整コストを担うだけの「余裕」がある。
(b) 与信国も他国の赤字の「責め」を負うべきである。(c) 調整の重荷を赤字国にだけ負担させれば
その国は緊縮に向かうであろうが、その結果、世界的不況を後押しすることになる。ケインズ―デヴィッドソンの案では、
債権国のICUM準備は、その国自身が使わない限り、ただ減少することとなる。そうであれば債権国には、
自国経済刺激策をとって、それで生じる輸入の増加や対外投資を支えるために、ICUM準備を使おうとする
インセンティブが与えられることになる。他にも超過ICMUは援助として移転されることもあるかもしれない。
国際中央銀行は、赤字国のICMU準備が枯渇した場合には、最後の貸し手として行動するであろう。ただし、この介入は、
国債中央銀行によるルールあるいは裁量的な行動から成る諸条件を含むものということになるであろう。
債権国側も国際収支バランスの調整を強いられているのだから、赤字国側の調整は、そう難しくはないであろう。
債権国が輸入を増やそうと励んでいるまさにその時に、輸出を増やす努力をすれば良いのだから。
 ICMUは、国際中央銀行によって常に無限に拡張することができるわけだから、国際的な計算単位間の交換比率を
一定に保とうと思えば、通貨価値が減価しそうな国の中央銀行の債務を買い取りさえすれば良い。基本的には、
国際中央銀行が債務ピラミッドの最長点にあるICMUを使って、究極的なマーケット・メーカーとして
オペレーションを行う。そうすることで、全中央銀行の負債が国際的に完全に流動化される。そして各中央銀行は、
国内で完全に流動的となる負債を決定する。ただし、継続的に引き出し権を利用している国々に対しては、
国際中央銀行が罰則を科すことになるので、そうした国々の中央銀行は、国内で適切な行動をとるように
強いられるであろう。記憶されなくてはならないことは、資産価格に床を設定すること自体は(国内的であろうと
国際的であろうと)、全く簡単なのである。それよりはるかに難しいのは、天井を設けることだ。
ひとたび破綻の恐怖が取り除かれてしまえば、「市場規律」によって資産価格を制約することはできない。
資産価格を決定しているのが希少性でないことは先にも論じたとおりで、価格はq – c + l + a で決まる。
減価の可能性がなくなり、流動性が完全に保証されれば、資産価格の決定に際して考慮されるのはこちらである。
であるから、最後の貸し手による保証が採用される場合には、介入が生じる時点で必ず適用される罰則体系が
示されなくてはならない。
 ケインズ―デヴィッドソンの提案は、先に示した計算単位としての貨幣に焦点を合わせた分析と完全に
整合しているように思われるのだが、ケインズがICUを推奨するために用いた議論は、実際には、
交換媒体貨幣観をベースにしたものであった。勿論、ケインズの採用した議論というのはプラグマティックなものであり、
提案には政治的含意のほうが先にあったのである。そのため、彼は自分の提案の理論的基礎には
関心なかったのかもしれない。しかしここで彼の議論を簡単に検討し、批判することにしよう。
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The Development and reform of the modern international monetary system の話(8)






16/04/02 23:13
中途半端に数ページ残ってしまったので、
これをやっつけて、今日はおしまい。

ここで展開されている国際清算同盟の話は
MMTの考え方とはだいぶかけ離れているが、
しかし、ユーロ体制を批判するときの視座は
ここで展開された清算同盟の必要条件を
ユーロ銀行が全く満たしていない、という点に求められてもいる。

今振り返ってみると、この後、2000年代に入ってからWrayの議論は
結局のところ、ほとんど開放マクロの議論に集中している。
今になって、どうして気づかなかったのかなあ、、、と思ってしまうのだけれど、
2003年のLouis=Philippe Rochon & Serigio Rossi の
Modern Theory of Moneyに所収されている
"Seigniorage or Sovereignty ?" も、P. Merhling の理論を批判する、
という形ではあるが、結局のところ、開放マクロの理論になっている。
実際、ここで展開されている理論は、その翌年の
ワーキングペーパー"International aspects of Current Monetary Policy"の
最後のページにひょっこり顔を出しているわけで、
ああ、学者ってのは、こうやって問題意識をつなげていくもんなんだな、
と、勝手に判ったような気になっている。
まあ、それはそれとして、、、、、

すでに読んでくださった方はご理解いただけたものと思うが
今回、粗訳を進めている論文は
国際通貨問題について、為替レートの変動という要因による不確実性が
投機を生み出し、それが国内の経済的安定を脅かす原因となっているので
それを取り除くには国際的な中央銀行が必要である、
しかし、中央銀行が中央銀行として機能するためには
(つまり、傘下の銀行の個別の負債である預金が
通貨として一貫性を持つためには)、ただ
国際中央銀行が傘下の各国中央銀行の決済に
自分自身の負債を使わせる、というだけではだめで、
各国中央銀行が国内の民間銀行に提供しているのと同種の
諸種のセーフティーネットを提供しなければならない、
という組み付けになっている。これ自体は
まあ、ケインズおよびデヴィッドソンから引っ張ってきた議論で、
オリジナリティーのかけらもないが、
そこに行き着くまでの議論展開として
わざわざネオ・カルタリズムの議論を持ち出しているところが
面白かった(そして洗練されていた)ので
紹介した、というのはこの論文の粗訳を始めた最初に説明したとおり。
そういう意味では、今日訳出する部分は何の面白味もないのだが、
途中でやめちゃうのも何なので、
まあ、最後までやるだけやろうか、みたいな。




P193;3 ケインズは自分の目標を、あたかも諸国間で「モノとモノが交換される」かのように
作用する国際通貨システムを設計することである、とする(Keynes 1980;18)。「主要目的は
一文で説明できる。ある一国に対してモノを売却したことによって稼がれる貨幣は、
どこかほかの国の製品を購入するために使えるようにしよう」(前出;270)
ICUのオペレーションはバンコール準備が退蔵により失われることは絶対にないように設計されるであろう。
むしろ一国の準備が他国の当座貸越の基礎を形成することになる。
ケインズは、自分の議論は単に「どの一国内閉鎖システムにでもみられる銀行の基本原理を
一般化したものに過ぎない」という(前出;171)。これは停滞傾向を拡張傾向に取り換えるであろう。

 要するに、一国の国内銀行システムとのアナロジーは完璧なのである。
いかなる地方銀行の預金者も、自分自身の余剰資金でもある預金残高が、
誰かほかの人の事業への融資に使われていることで
苦境に陥ることはない。国内銀行システムの発展によって、さもなければ現代産業の発展を阻害したであろう
デフレ的プレッシャーはかなり相殺された。従って同じ原則を国際分野にも拡張することで、
コンストラクショニストの圧力を相殺する希望を持てるのではないか、と思うのである。
そうでもしなければこの圧力は社会全体に蔓延し、社会的無秩序、現代世界に対する善き希望を
打ち砕くことへとつながるであろう。退蔵から信用メカニズムへと変わることで、
かつて国内に生じた奇跡と同じことが、国際分野でも繰り返され、石ころがパンに代わることであろう。
(Keynes 1980:177)
つまり準備が退蔵されることで、総需要と雇用水準とは引き下げられてしまうのである。
もし変わって、準備が貸出のベースを形作るようになれば、世界の需要と雇用は拡大するであろう。
 先の議論に従うなら、ケインズの議論には二つの難点がある。第一に、
国際貨幣システムを、あたかも「モノとモノ」の取引のように設計することはできない。
すべての資本制経済の基本的活動とは、貨幣単位で表示される総所得が生み出されることを
期待しての資産のポジション取得によって構成されるからである。外国人による
資産の取得が認められている限り、国際貨幣システムはその点を考慮して設計されなくてはならない。
筆者は「自由市場資本移動」を推奨するものではないが、「資本移動」を排除することを
よいこととも思っていない。ケインズのICUやデヴィッドソンのICMUは、
国際取引を「モノとモノ」に制限することを目標としているのではなくて、
変動相場制から生じる各国通貨に対する投機を排除することを狙っていたはずである。
言い換えれば、なすべきことは、外国資産がもたらすであろう超過収益の構成要因としての通貨高期待を
取り除くことである(注15)。
 第二に、ケインズによる銀行の比喩は混乱している。彼がこう断言するとき、それは正しい。すなわち、
バンコールの金兌換を禁止することによって、バンコールに取り付けが発生することはなくなるであろう。
だが、彼の議論では、ICUの存在によって、バンコール準備が貸付金を必ず形成する、というのであるが、
これは矛盾している(注10)。もともと彼の提案は、単に準備が[※退蔵貯蓄によるリーケージがなく]
システム内にとどまっているから拡張主義的だ、ということではない。
為替レートの不確実性を取り除き、先渡契約の利用を促し、
投機と予防的な準備保有を減らすから拡張的なのである。もし債権国が
赤字国の生産物に対する国内需要を増加させることや、
赤字国に投資をしてその国の雇用を拡大することに力を入れるように仕向けることができるというのなら、
ケインズのプランはなるほど拡張主義的であろう。他方で、もし、
債権国が黒字を単に紙の上の外国に対する請求権のままで保有することを好むのであれば、[※金貨幣であろうと
預金通貨であろうと]彼の案によって世界の需要が刺激されることもないであろう。
債権国がいずれの形態で資産を保有するかの選択は、
もちろん、流動性選好の状態にかかっている。基本的には固定為替レートシステムのほうが
流動性に対する報酬を引き下げ、そうすることで資本への投資のために期待される報酬(q-c+l+a)を引き上げ、
世界の需要を刺激する、と期待できる。

 結論

 筆者としては、貨幣を計算単位と考える「ポスト・ケインジアン」の立場および
交換媒体や決済手段と計算単位の間の平価を維持する必要性とによって、
ケインズの提案に関して、ケインズ自身が進めた議論以上に強力な理論的根拠が得られるものと期待している。
再び貨幣を第一義的に交換媒体とする立場に戻った場合、あるいは貨幣に
市場メカニズムを単に潤滑化するだけの役割しか与えない「実物交換」に焦点を合わせるにしても、
固定為替レートを支持する議論は強化されない。なるほど、一般均衡価格ベクトルには、
通貨の「価格」としての為替レートが入り込む余地があるはずだ。だが、相対価格をサインとして扱う
バーターパラダイムに身を置き続けるのであれば、固定為替レートを支持する根拠は得られない。
ハーンの言うとおり、為替レートの不確実性を持ち出したところで、為替レートが固定されていれば
雇用の不確実性が減少するからというだけの理由では、固定為替レートを支持する説得力ある議論を
創り出すことはできない。
 反対に、ポスト・ケインジアンの立場に立てば、固定為替レートが即座に正当化される。
為替レートは貿易から生まれる相対価格であるとは単純にみなされない。これは
貨幣的契約が書かれる計算単位の比率である。国際金融システムの包括的な改革の一部として、
これらの比率を固定するということは、すべての先進国で国内でとられているステップを
国際レベルにも適用するに過ぎない。国内面では、資本制諸国は「ミューチュアル・ファンド・マネー」から、
金準備をベースにした「本位貨幣」へ、そして最後に中央銀行準備をベースにした「本位貨幣」へと動いた。
国際面では、ジャイロ&ゴースト・マネーという「ミューチュアル・ファンド・マネー」から
金準備へと動き、そして固定為替レートへと反転している。
 要約すると、固定為替レートを確立することによって、バンコールあるいはICMUおよび国際中央銀行は、
下記の利益を得る。

1. 資産価格決定に際し、期待通貨価値の上昇/下落はもはや役割を果たさなくなる。
2. 先渡し契約の利用が促進される。為替レートを巡る不確実性が取り除かれるからである。
3. 通貨への投機が取り除かれる。
4. 各国中央銀行や民間経済主体により保蔵されなくてはならない(投機的あるいは予備的目的で)
準備(金あるいは外貨)の量が減少する。
5. 貿易不均衡を処理する手法が緊縮以外にも創り出される。これは国内でしばしばとられる
実務処理の国際版への拡張である。(国内では、普通ある地域がそのほかの地域に対して
取引が赤字だからという理由で緊縮を迫られることはない。もちろん、合衆国はこの種の国内不均衡を
もう少し合理的に処理することが可能なはずだが)。
6. 国際的な調整の必要性を減らす。自由市場主義者たちの主張とは反対に、変動為替相場システムは
実際には政府による外貨通貨市場への介入を増やす。変動為替システム自体が多くの問題をもたらし、
政府がそれに対応しようとするためである。
7. バンコールまたはICMU計画によって、世界経済から不況志向的性向が取り除かれる。
資本制経済には貨幣表記資産の蓄積が必要だと認識されるからである。
 おそらく、変動為替相場制の基本的結果というのは、各国中央銀行が他の課題に振り向きもせず
国内インフレ管理を追求できるようになったことであろう。非対称的調整問題、すなわち、
貿易赤字国による緊縮政策(貿易黒字国による拡張政策の埋め合わせを伴わない)によって引き起こされた
不況的影響が重なると、世界的不況に拍車がかかる。ケインズのバンコール案であれば
黒字国は拡張に取り組みやすくなるし、赤字国の緊縮政策は制限される。本稿の枠を超える話になってしまうが、
国内政策もまた、インフレ対策から向きを転じなくてはならない。しかし銘記しておくべきことだが、
皮肉なことに、正統派経済学者はインフレによって国内経済に発生する不確実性のことはあれほど
あれこれ考えているのに、為替レートの変動から生じる不確実性については顧みようとしないのである。
緩やかなインフレによって生み出された不確実性など、
為替レートの荒々しい変動によって生み出される不確実性に比べるなら、
ごく小さな文字で書いておけば済むことを示唆する理論とエビデンスがあるときでさえ。

(Fin)
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ーーー

11 件のコメント:

  1. MMT界隈ではレイが国際通貨問題を扱っているそうである。
    The Development and reform of the modern international monetary system
    Foundations of International Economicsに所収
    https://www.amazon.co.jp/dp/B000FA5XLG/
    参考:
    https://blog.goo.ne.jp/wankonyankoricky/e/4a8e75b9181cd6ec737a7cf13ff4a720
    :The Development and reform of the modern international monetary system の話 (4)
    https://blog.goo.ne.jp/wankonyankoricky/e/fe86d635e401339814fc8ceba4caf0b8 :…(8)

    ミッチェルも新刊#31でケインズの超国家通貨案バンコールに触れている
    この種の教科書では珍しい。レイの手によるものかも知れない。

    ケインズのバンコールは実は減価マネーで有名なゲゼルのアイデアだ
    (ケインズの証言はないのであくまで個人的推測に過ぎないが)
    ゲゼルの図解がわかりやすい
    http://1.bp.blogspot.com/-Q6ag7KSaTgI/TulW5cug6OI/AAAAAAAAEns/owmf9jPOXqw/s1600/a0024841_8563499.jpg
    (ケインズは通帳方式を、ゲゼルは実体貨幣を考えていたが最終的には同じことである)
    ポール・デヴィッドソンはこれを閉鎖システムとして不完全なものと考えているようだ
    彼のIMCU(International Money Clearing Unitー国際通貨清算単位)に関してはよく分からない。
    通帳方式をとる限り閉鎖的になるが…

    バンコールに関してはケインズ全集第25巻などを読む必要があるが一般には勧められない
    一般人はマイケル・ハドソンの邦訳書などから入るべきかも知れない
    ちなみにケインズは国際的な備蓄(国際緩衝在庫案、コモドコントロール案)も考えていてバンコールが
    絵に描いた餅にならないようにしようとした(全集27)
    現行SDR(特別引出権)がある程度ケインズ案を実現しているという説があるが疑わしい
    本来ドル覇権とバンコールは相容れないからだ

    返信削除
  2. MMT界隈ではレイが国際通貨問題を扱っているそうである。
    The Development and reform of the modern international monetary system
    Foundations of International Economicsに所収
    https://www.amazon.co.jp/dp/B000FA5XLG/
    参考:
    https://blog.goo.ne.jp/wankonyankoricky/e/4a8e75b9181cd6ec737a7cf13ff4a720
    :The Development and reform of the modern international monetary system の話 (4)
    https://blog.goo.ne.jp/wankonyankoricky/e/fe86d635e401339814fc8ceba4caf0b8 :…(8)

    ミッチェルも新刊#31でケインズの超国家通貨案バンコールに触れている
    この種の教科書では珍しい。レイの手によるものかも知れない。

    ケインズのバンコールは実は減価マネーで有名なゲゼルのアイデアだ
    (ケインズの証言はないのであくまで個人的推測に過ぎないが)
    ゲゼルの図解がわかりやすい
    http://1.bp.blogspot.com/-Q6ag7KSaTgI/TulW5cug6OI/AAAAAAAAEns/owmf9jPOXqw/s1600/a0024841_8563499.jpg
    (ケインズは通帳方式を、ゲゼルは実体貨幣を考えていたが最終的には同じことである)
    ポール・デヴィッドソンはこれを閉鎖システムとして不完全なものと考えているようだ
    彼のIMCU(International Money Clearing Unitー国際通貨清算単位)に関してはよく分からない。
    通帳方式をとる限り閉鎖的になるが…テクノロジーで克服可能なのだろう

    バンコールに関してはケインズ全集第25巻などを読む必要があるが一般には勧められない
    一般人はマイケル・ハドソンの邦訳書などから入るべきかも知れない
    ちなみにケインズは国際的な備蓄(国際緩衝在庫案、コモドコントロール案)も考えていてバンコールが
    絵に描いた餅にならないようにしようとした(全集27)
    現行SDR(特別引出権)がある程度ケインズ案を実現しているという説もある

    返信削除

  3. MMT界隈ではレイが国際通貨問題を扱っているそうである。
    The Development and reform of the modern international monetary system
    Foundations of International Economics(kindle版あり)に所収

    参考:
    https://blog.goo.ne.jp/wankonyankoricky/e/4a8e75b9181cd6ec737a7cf13ff4a720
    :The Development and reform of the modern international monetary system の話 (4)
    https://blog.goo.ne.jp/wankonyankoricky/e/fe86d635e401339814fc8ceba4caf0b8 :…(8)

    ミッチェルも新刊#31でケインズの超国家通貨案バンコールに触れている
    この種の教科書では珍しい。レイの手によるものかも知れない。

    ケインズのバンコールは実は減価マネーで有名なゲゼルのアイデアだ
    (ケインズの証言はないのであくまで個人的推測に過ぎないが)
    ゲゼルの図解がわかりやすい
    http://1.bp.blogspot.com/-Q6ag7KSaTgI/TulW5cug6OI/AAAAAAAAEns/owmf9jPOXqw/s1600/a0024841_8563499.jpg
    (ケインズは通帳方式を、ゲゼルは実体貨幣を考えていたが最終的には同じことである)
    ポール・デヴィッドソンはこれを閉鎖システムとして不完全なものと考えているようだ
    彼のIMCU(International Money Clearing Unitー国際通貨清算単位)に関してはよく分からない。
    通帳方式をとる限り閉鎖的になるが…テクノロジーで克服可能なのだろう

    バンコールに関してはケインズ全集第25巻などを読む必要があるが一般には勧められない
    一般人はマイケル・ハドソンの邦訳書などから入るべきかも知れない
    ちなみにケインズは国際的な備蓄(国際緩衝在庫案、コモドコントロール案)も考えていてバンコールが
    絵に描いた餅にならないようにしようとした(全集27)
    現行SDR(特別引出権)がある程度ケインズ案を実現しているという説もある

    返信削除
  4. MMT界隈ではレイが国際通貨問題を扱っているそうである。
    The Development and reform of the modern international monetary system
    Foundations of International Economicsに所収
    https://www.amazon.co.jp/dp/B000FA5XLG/
    参考:
    https://blog.goo.ne.jp/wankonyankoricky/e/4a8e75b9181cd6ec737a7cf13ff4a720
    :The Development and reform of the modern international monetary system の話 :(4)
    https://blog.goo.ne.jp/wankonyankoricky/e/fe86d635e401339814fc8ceba4caf0b8 :(8)

    ミッチェルも新刊#31でケインズの超国家通貨案バンコールに触れている
    この種の本では珍しい。レイの手によるものかも知れない。

    C. Sardoni & L. Randall Wray, 2007. "Fixed and Flexible Exchange Rates and Currency Sovereignty," Economics Working Paper Archive wp_489, Levy Economics Institute,
    https://ideas.repec.org/p/lev/wrkpap/wp_489.html
    http://www.levyinstitute.org/pubs/wp_489.pdf

    ケインズのバンコールは実は減価マネーで有名なゲゼルのアイデアだ
    (ケインズの証言はないのであくまで個人的推測に過ぎないが)
    ゲゼルの図解がわかりやすい
    http://1.bp.blogspot.com/-Q6ag7KSaTgI/TulW5cug6OI/AAAAAAAAEns/owmf9jPOXqw/s1600/a0024841_8563499.jpg
    (ケインズは通帳方式をゲゼルは実体通貨を考えていたが最終的には同じことである)
    ポール・デヴィッドソンはこれを閉鎖システムとして不完全なものと考えているようだ
    彼のIMCU(International Money Clearing Unitー国際通貨清算単位)に関してはよく分からない。
    通帳方式をとる限り閉鎖的になるがドルに対抗するには通帳方式(閉鎖システム?)である必要がある…

    バンコールに関してはケインズ全集第25巻などを読む必要があるが一般には勧められない
    研究者一歩手前の人には『ケインズの闘い』という本がオススメだが…
    一般にはマイケル・ハドソンの邦訳書などから入るべきかも知れない
    ちなみにケインズは国際的な備蓄(コモドコントロール案)も考えていてバンコールが
    絵に描いた餅にならないようにしようとした
    現行SDRがある程度ケインズ案を実現しているという説があるが疑わしい
    本来ドル覇権とバンコールは相容れないからだ

    返信削除
  5. ポスト・ケインズ派の経済理論 単行本 – 2009/11
    J.E. キング (編集), J.E. King (原著), 小山 庄三 (翻訳), & 1 その他
    カスタマーレビューを書きませんか?
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    単行本
    ¥52,704 より
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  6. 根井雅弘

    異端の経済学 1995
    TKMT
    5つ星のうち5.0「異端の経済学」を入門的に学べる現代的良書!
    2006年11月4日
    形式: 単行本Amazonで購入
    根井教授の本を比較的多く読んでいるせいもあってか、ガルブレイス(第1章)とシュンペーター(第5章)に関する記述にはさほど新鮮味を感じなかったが、ワイントロープ(第2章)、ミュルダール(第3章)、デヴィドソン(第4章)の論述内容はなかなか面白く勉強になった。特にワイントロープとデヴィドソンにこうした一章を割いて、彼らの生い立ちと学問的貢献を平易な文章で綴ったものを私は知らない。本書では主要内容と併せて「間奏曲」と題されたものが章と章の間に挿入され、R・カーン、P・スラッファ、M・カレツキ、J・イートウェルについて簡潔な紹介がなされている。これが印象深い。ケインズ一般理論の形成への貢献(ことに乗数理論)をなしたカーンの生い立ちとともに、ポストケインズ派の代表的論者であるイートウェルの仕事内容(スラッファ理論に基づく価値と分配の問題への古典派=剰余アプローチやケインズ理論の長期的雇用理論としての再定式化)の解説も貴重な意味を有している。根井氏のカレツキ論は幾度か眺めた経緯があるが、ケインズ理論との共通点と相違点、貨幣経済論の特徴、制度的フレームワークを重要視したカレツキの社会哲学など、たしかに一般にもよく知られている内容ではあるが、社会主義者としてのカレツキという側面からの考察も読んでみたい(都留重人氏が書いていた記憶あり)。ガルブレイスが亡くなり、彼の学問的履歴にも関心が高まっているが、本書の第1章はそうした動きに先駆けている観がなくもない(同年に著者は『ガルブレイス』を刊行)。本書の最後をシュンペーターで締めくくっているのも、彼の思想と理論への格別なる想いがあるような気がしてならない。「異端派」の経済学であるからといって、「正統派」のそれに劣るわけでは決してない以上、我々は偏見を持たず、両方を冷静な態度で学ぶ必要がある。著者のメッセージはその辺にあるのだろう。
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  7. Money and the Real World ペーパーバック – 1978/2/23
    Paul Davidson (著)
    5つ星のうち3.8 2件のカスタマーレビュー
    他のフォーマットおよびエディションを非表示にする

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  8. Controversies in Post Keynesian Economics ペーパーバック – 1991/7/1
    Paul Davidson (著)
    5つ星のうち4.6 2件のカスタマーレビュー

    邦訳

    ケインズ経済学の再生

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  9. Controversies in Post Keynesian Economics ペーパーバック – 1991/7/1
    Paul Davidson (著)
    5つ星のうち4.6 2件のカスタマーレビュー

    邦訳

    ケインズ経済学の再生
    1994

    返信削除

  10. 『国際貨幣経済理論』(ポスト・ケインジアン叢書10)、渡辺良夫・秋葉弘哉共訳、日本経済評論社、1986年
    International Money and the Real World, 1982?

    返信削除


  11. 『国際貨幣経済理論』(ポスト・ケインジアン叢書10)、渡辺良夫・秋葉弘哉共訳、日本経済評論社、1986年
    International Money and the Real World, 1982?

    #4:139~140
    UMS―NUMSの区別
     貨幣とは,考察している経済制度において確立された契約法および慣習と直接的に関係をもつ人間の定めた制度である。貨幣とは法的な契約上の債務を履行するそうしたものである。とはいっても,貨幣は法定貨幣に限られる必要はない。近代国家においては,それは「国家または中央銀行が,それ自身への支払いに対して受領すること,あるいは強制的法貨と交換することを保証している」15)他のいかなるものも含むであるう。それゆえ,実際には,法定貨幣以外のものが国家あるいは中央銀行に対する負債の決済に習慣上受け容れられていれば,それらは民間の契約上の債務の履行に受け容れられるであろうし,それゆえそれらは貨幣となるのである。
     貨幣制度には二つの基本的なタイプがある一一統合通貨制度(UMS)と非統合通貨制度(NUMS)である。(閉鎖および開放経済のいずれにおいても)取引者間のすべての現物および先物契約が同一の名目単位で表示されているとすれば,そのような通貨制度は純粋なUMSである。異なる取引者間の異なる契約においてたとえ多種の名目単位が用いられようと,これらの多種の名自単位間の為替相場が(a)固定されている(そして転換費用は無視しうるものである),しかも6)契約の存続期間中は不変にとどまると期待されるかぎり,この制度は依然としてUMSである。多くの名目単位をともなったこのような契約上の諸取決めから`なる制度は,さまざまな通貨が完全流動資産であるような修正されたUMSと考えることができる。(完全流動資産の定義は,それ自身が契約の決済手段(貨幣)であるか,あるいは相場形成者が固定された不変の現物価格を「保証」する現物市場において契約を決済手段に転換できるような資産のことである。)もしひとつ以上の完全流動資産が存在し, またもしも法律あるいは慣習により契約の決済が支払者の選択によってどんな完全流動資産ででもなされうるとすれば,その制度は純粋なUMSと考えることができる。しかし,もし法律あるいは慣習が,被支払人の選択によって実際は契約上の貨幣に転換できるような完全流動資産を要求する場合は,その制度は純粋なUMSから一歩隔たっており,その隔たりの大きさは転換費用に依存している16)。

    15) Keynes,CI弔′K,V,p.6.
    16) それゆえ,近代の銀行貨幣経済においては,国民銀行制度の決済メカニズムをつうじて特定の完全流動資産の所有を即座に移転するために一覧払い為替手形を振り出す能力は,実際上,銀行の債務として知られている完全流動資産を「貨幣(monetizoする。

    #10:305~7
     いろいろな国民銀行制度間の債務を清算するための,また一般の公衆の債務を決済するのに用いられるものとは異なった貨幣としての独立した独特のICMUの存在は,適切な管理と教育のもとで, こうしたインフレ的傾向――それらはいろいろなグループが独占,寡占あるいは他国の労働組合の力の国際的な行使によって始発される実質所得の喪失を他の人びとに押しつけようと試みる結果なのである一―の低下を育むのを助けることができる。ある国家が国内能率賃金を引き上げるのを許すときはいつでも,国内的標準の表示による地域通貨の購買力が低下するにつれて,ICMUは自動的に価値が増大するので,銀行間手形交換の決済にICMUを使用しなければならない貿易相手国は,地域的インフレーションを輸入することから完全に保護されるであろう。NPCICによって国内の所得分配を制御することを拒むいかなる国民もインフレ=ションをこうむるであろうし,それはもはや他の人びとをこの悪性の病に感染させることはできないであろう。しかしながら,ICMUのような貨幣制度は,もしそうした市場支配力を保持するグループがそれを利用したいと欲し,文明人のゲームのルールを欺く場合には,それ自身では国際的な経済支配力の行使を防ぐことができない。しかしそれでも,始末に負えないカルテルの場合には,国際清算同盟は依然としてインフレ的傾向を誘発したカルテルの国内的フィード0バック効果を制限し,諸国がそうした国際的カルテルや独占的支配力の行使に対する攻撃を調整するのを助けることができる。しかしながら,たぶんいっそう重要なことは,国際清算同盟のための独立した貨幣の存在が,国際貿易の成長とともに国際流動性に対する必要量の増大を充足させるための「弾力的」な国際通貨を準備する国際通貨制度を発展させる機会を与えるということである。国際清算同盟のためのケインズ本来の「バンコール」(banCOrs)機構のひとつの目的は諸中央銀行間の契約の決済手段をも
    つことであったが1°),その供給は内生的に拡張されうるもの(真正手形主義)であり, しかしそれは貨幣の弾力性特質を保持していた。ひとつの決済手段としての内生的で容易に拡張可能な国際通貨に対する必要性は,バンコール制度のある変形が組織的・科学的な管理にとって利用しうるかぎり,国際決済手段および準備資産としての金の使用をケインズにとっては,(おそらくけっして使用される必要のない心理的な究極の準備資産として以外)それほど容認しうるものにはしなかった。そのもっとも純粋な形において,ケインズの清算同盟にかんする概念は究極的には,ある国の居住者が私的な決済のときに債務国からの追加的な輸入品の購入を拒む場合,債権国が清算同盟のバンコールをあらゆる海外債務を最終的に履行するものとして受け入れることに依拠していた。もちろん,いかなる閉鎖統合貨幣制度においても, 自己の稼得した請求権を契約決済期日に産業の生産物に支出するのを拒む債権者は銀行制度に対する請求権か,さもなければ債務者によって彼らに売却された流動資産を流動的な富貯蔵物として受け入れなければならない。ヶィンズの清算同盟は同じ閉鎖国際銀行制度を展開する試みであり,それは同時に,はっきりと特定化されたゲームのルーンレのもとで,内生的な国際貨幣供給を許すものであった。不確実性の世界において,企業家による流動性(貨幣あるいは低い持越費用をもった即時流動的な諸資産)の保持は,市場という場で生じるおびただしいシグナルを彼らが読みとり,いずれが無関係であるかを判断し,それらを濾過し,残りのシグナルを解釈する時間を与え,ついで現存する契約上の活動の満期が切れるとき,予想される将来の事象を利用するために取決めを変更する時間を与えるのである。しかしあらゆる集計的な活動の拡大は,稼動資産や準備資産の範ちゅうへのより多くの流動資産の投下を必要とする。それゆえに,その制度にとって付加的な流動準備資産の準備量がない場合,正味の流動的な安全性クッション(準備量)は国際的取引が増加するにつれて減少するであろう。流動性とは自由であり,流動的な準備基金の保持は「拡張を強いることはないが, しかしつねにそれを容易にする」11)ので,国際貿易の必要とともに国際通貨制度が拡大することができないとしたら,結局のところ,それはいつでも国際的拡張をいっそう困難にするであろう。たとえ将来における収益性のある拡大にかんする期待が適正であると判明するとしても,十分な流動性が存在しなぃか,あるいは当初のところ容易に利用可能でないならば,企業家は次の場合には少しもこの拡張を資金調達することができないであろう。すなわち,公衆が同時に(当初の利子率において)その流動性ポジションを減少させることを拒むか,あるいは銀行制度が完全流動資産の数量を増加させるのを拒否する場合である。適切に設計されよく管理された国際清算制度は,国際貿易の必要に対して内生的に拡大する「弾力的」な国際通貨を供給することができる。いかなる閉鎖システムにおいても,貨幣契約制度に信頼が存在するかぎり12),貨幣当局は追加的な流動性を創出することに問題はないし,契約上の受取人(債権者)は,契約債務の最終的な履行としての貨幣当局に対する(直接あるいは間接の)請求権を流動的タイム・マシンとしてつねに受け入れるであろう。貨幣当局はその場合,地域の銀行が準備を使い果たしたり,また同じ国民的制度内の異なった地域にある銀行との収支均衡の困難に陥ったりしないよう保証することが望ましいと思われるいかなる必要な処置もとることができるのである13)。

    10)Keynes C17K,XXV
    11) J.R Hicks,Cαzsα」ブ妙づ″Eσο″ο″たs(New York: Basic Books, 1979)p.94.
    12) もちろん,もし貨幣契約制度に信頼の欠如が生じる場合には,長い契約期間の生産過程は市場指向・企業家経済では着手されないであろう./
    13) これは,中央銀行がその管轄内で銀行間の国際収支(流動性)危機を防ぐため「最後の拠所としての貸手」としてつねに適宜行動してきた, ということを意味しない。それが意味するすべてのことは,中央銀行はしようと思えばそのようにしえたであろうということである。

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