ジョー・ヒルの生涯
私は3月20日二回に分けて「アメリカ共産党が史料を寄贈」と題するニュウヨーク・タイムスの記事を紹介した。知らない事ばかりであった。知らないのは私だけかもしれないが、ジョー・ヒルについて日本語版ウィキペディアになかったので、彼の生涯に限定して英語版の翻訳を試みた。彼の詩は改めて英詩として紹介する。
ジョー・ヒル(Joe Hill)(1879年10月7日―1915年11月19日)本名は Joel Emmanuel H??gglund または Joseph Hillstr??m 過激派のソングライター、労働運動の活動家、The Industrial Workers of the World (IWW)あるいは Wobblies のメンバー。彼は疑問の残る裁判で殺人罪で処刑された。その後彼はフォークソングのテーマになった。
青年時代とIWWの活動
ヒルはスウェーデンの G??strikland 州の町 G??vle で生まれた。1902年彼は合衆国に移民した。アメリカで彼は渡り労働者になりニューヨーク市からオハイオ州クリーブランド。最後には西海岸に移った。彼は1906年の地震の時はカリフォルニア州サンフランシスコにいた。ヒルは1910年ごろWobbliesに加わった。当時彼は、カリフォルニア州サンペドロのドックで働いていた。1910年の末ごろ IWW の新聞 Industrial Worker に手紙を送っているが、IWW のオレゴン州ポートランドの支部のメンバーと称している。
ヒルはIWWの組織で頭角を現し、IWW の旗のもとで労働者を組織すべく、各地を回った。さらに政治的な歌や風刺的な詩を書き、演説もした。彼は "pie in the sky"というフレーズを作り、これは彼の歌"The Preacher and the Slave"にも登場する。この歌は有名な賛美歌"In the Sweet Bye and Bye"のパロディである。ヒルが書いた有名な歌に"The Tramp"、"There Is Power in a Union"、"Rebel Girl"、 "Casey Jones--Union Scab"がある。
裁判と処刑
ジョー・ヒルは渡り労働者で西部を渡り歩いた。貨物列車に飛び乗り、職を転々とした。1914年の初め、ソウトレーク・シティから遠くない、ユタ州パーク市で The Silver King Mine の路面電車の労働者として働いていた。
1914年1月10日、ジョン G. モリスンと息子のアーリングがソートレーク・シティで赤いスカーフでマスクした二人組の侵入者によって殺された。アーリングは死亡する前にカウンターの後から拳銃を取り出し、一人を負傷させた。警察は盗まれたものがなかったので、恨みによる犯行であると考えた。モリスンは警察官だったので、敵があったと考えた。その同じ晩にジョー・ヒルは弾の傷を負って地元の医院の階段に現れた。彼の話によれば、彼は女のことで、喧嘩になり撃たれたといった。彼は女の名前は明かさなかった。医者はヒルがピストルを持っていたと警察に報告した。
モリスンは以前、警察官だったので彼が逮捕した数人の男が容疑者として逮捕された。ヒルが逮捕されて殺人罪で起訴される前に、12人がこの事件で逮捕された。赤いスカーフはヒルの部屋にあった。医院でヒルが持っていたとされるピストルはなかった。
ヒルはモリスンの強盗殺人の関与を断固否認した。彼によれば、彼らの撃たれたとき、彼は両手を頭にあげていた。彼のコートの弾の穴は彼の背中の傷より4インチ下にあるので、彼の主張を支持するように見えた。ヒルは裁判で証言しなかったが、彼の弁護士たちは同じ晩に他にも4人が弾の傷でソートレーク・シティーで治療されている事、盗みがないこと、ヒルはモリソンと面識がないので動機がないことを指摘した。
検察側12人の目撃証人を持ち出した。彼らは殺人者はヒルに似ているといった。その中には、犠牲者の息子であり、兄弟であるマーリン・モリソンもいた。彼は最初にヒルを見た時に「この男では絶対にない」と言っていたが、後にヒルを殺人者と断定した。陪審員は数時間をかけてヒルが殺人で有罪であるとした。
ユタ州の高等裁判所での上訴は却下された。上訴中ヒルの弁護人は言うには「州は、彼がIWWの一員だから有罪だと言いたいのだ」ヒルはIWWを裁判に持ち込むないように努力した。だが新聞はそのことを問題にした。
裁判所あての手紙で、ヒルは裁判官が有罪を支持するとは思わずに、州が傷の原因を調査する権利を否定し続けた。社会主義者の新聞 Appeal to Reason への投稿で、ヒルは「モリソン氏が著名であるがゆえに生け贄の羊がなければならない。友人のいないトランプ、スウェーデン野郎、なによりもIWWの一員、、こんな奴は生きる権利がない、だから生け贄の羊に選ばれたのだ」と書いている。
この事件はメディアの大事件となった。ウィルソン大統領、ヘレン・ケラー、スウェーデンが反対運動に加わった。この事件は国際的な組合の関心事になり、評論家はこの裁判と有罪が不当であると主張した。ずっと後になってユタ州は、今日の法律の下ではこの裁判に提供された証拠に基づいて処刑されることは無かったとの声明を出した。ヒルは1915年11月19日銃殺隊により処刑された。彼の最後の言葉は「撃て!」であった。処刑に先立ち、彼はIWWの指導者ビル・ヘイウッドに手紙を送った。内容は「哀悼に時間を費やすことはない、組織するのだ!」
彼の遺書は Ethel Raim が付曲した。
彼の遺書は
My will is easy to decide,
For there is nothing to divide,
My kin don't need to fuss and moan-
"Moss does not cling to a rolling stone."
My body? Ah, If I could choose,
I would to ashes it reduce,
And let the merry breezes blow
My dust to where some flowers grow.
Perhaps some fading flower then
Would come to life and bloom again.
This is my last and final will,
Good luck to all of you, Joe Hill
遺骨
ヒルの死体はシカゴに送られ、そこで火葬された。彼は冗談でユタで埋められてたまるものかと言っていたが、事はそのように運んだ。彼の遺灰はIWWの各支部に送られた。1988年に発見されたことだが、「潜在的破壊活動」との理由で、一通の封筒が郵便局で差し押さえられていたのである。この封筒には写真があり、「ジョー・ヒル資本家階級によって殺害さる1915年11月19日」との説明文が付いていた。この封筒はthe National Archivesに収められている。
交渉の結果、ヒルの最後の遺灰(遺灰の入った封筒ではない)は1988年 IWW に戻された。The weekly In These Times はこの遺灰のことをお知らせ、この遺灰をどうするか、読者に意見を求めた。ワシントンのAFL-CIO本部に安置するという意見から、今日の「ジョー・ヒル」というべき、Billy Bragg や Michelle Shockedに食べさせる、という意見まで様々だった。Bragg は実際に、遺灰のひとかけらを飲み込んだ。アメリカ、カナダ、スウェーデン、オーストラリア、ニカラグアでは、遺灰の大部分は風で飛ばされた。スウェーデンに送られた遺灰は一部だけ風にで飛ばされた。遺灰のほとんどは、スウェーデン南部の小都市 Landskrona のある組合の壁に埋葬された。壁にはヒルを追悼するパネルがある。組合の部屋は、市の図書館の読書室になっている。ほんの一握りの遺灰はコロラド州ラファイエットで埋葬されたIWWの炭鉱労働者の記念碑の除幕式で撒かれた。武器を所持していない6人のストライキ参加者が、機関銃で、殺された。1927年の Columbine 虐殺である。1989年まで、このうち5人の墓にはなんの印もなかった。もう一人の有名な Wobbly である、Carlos Cortez の墓には、記念のためにジョー・ヒルの遺灰が撒かれた。
ジョー・ヒル(Joe Hill)(1879年10月7日―1915年11月19日)本名は Joel Emmanuel H??gglund または Joseph Hillstr??m 過激派のソングライター、労働運動の活動家、The Industrial Workers of the World (IWW)あるいは Wobblies のメンバー。彼は疑問の残る裁判で殺人罪で処刑された。その後彼はフォークソングのテーマになった。
青年時代とIWWの活動
ヒルはスウェーデンの G??strikland 州の町 G??vle で生まれた。1902年彼は合衆国に移民した。アメリカで彼は渡り労働者になりニューヨーク市からオハイオ州クリーブランド。最後には西海岸に移った。彼は1906年の地震の時はカリフォルニア州サンフランシスコにいた。ヒルは1910年ごろWobbliesに加わった。当時彼は、カリフォルニア州サンペドロのドックで働いていた。1910年の末ごろ IWW の新聞 Industrial Worker に手紙を送っているが、IWW のオレゴン州ポートランドの支部のメンバーと称している。
ヒルはIWWの組織で頭角を現し、IWW の旗のもとで労働者を組織すべく、各地を回った。さらに政治的な歌や風刺的な詩を書き、演説もした。彼は "pie in the sky"というフレーズを作り、これは彼の歌"The Preacher and the Slave"にも登場する。この歌は有名な賛美歌"In the Sweet Bye and Bye"のパロディである。ヒルが書いた有名な歌に"The Tramp"、"There Is Power in a Union"、"Rebel Girl"、 "Casey Jones--Union Scab"がある。
裁判と処刑
ジョー・ヒルは渡り労働者で西部を渡り歩いた。貨物列車に飛び乗り、職を転々とした。1914年の初め、ソウトレーク・シティから遠くない、ユタ州パーク市で The Silver King Mine の路面電車の労働者として働いていた。
1914年1月10日、ジョン G. モリスンと息子のアーリングがソートレーク・シティで赤いスカーフでマスクした二人組の侵入者によって殺された。アーリングは死亡する前にカウンターの後から拳銃を取り出し、一人を負傷させた。警察は盗まれたものがなかったので、恨みによる犯行であると考えた。モリスンは警察官だったので、敵があったと考えた。その同じ晩にジョー・ヒルは弾の傷を負って地元の医院の階段に現れた。彼の話によれば、彼は女のことで、喧嘩になり撃たれたといった。彼は女の名前は明かさなかった。医者はヒルがピストルを持っていたと警察に報告した。
モリスンは以前、警察官だったので彼が逮捕した数人の男が容疑者として逮捕された。ヒルが逮捕されて殺人罪で起訴される前に、12人がこの事件で逮捕された。赤いスカーフはヒルの部屋にあった。医院でヒルが持っていたとされるピストルはなかった。
ヒルはモリスンの強盗殺人の関与を断固否認した。彼によれば、彼らの撃たれたとき、彼は両手を頭にあげていた。彼のコートの弾の穴は彼の背中の傷より4インチ下にあるので、彼の主張を支持するように見えた。ヒルは裁判で証言しなかったが、彼の弁護士たちは同じ晩に他にも4人が弾の傷でソートレーク・シティーで治療されている事、盗みがないこと、ヒルはモリソンと面識がないので動機がないことを指摘した。
検察側12人の目撃証人を持ち出した。彼らは殺人者はヒルに似ているといった。その中には、犠牲者の息子であり、兄弟であるマーリン・モリソンもいた。彼は最初にヒルを見た時に「この男では絶対にない」と言っていたが、後にヒルを殺人者と断定した。陪審員は数時間をかけてヒルが殺人で有罪であるとした。
ユタ州の高等裁判所での上訴は却下された。上訴中ヒルの弁護人は言うには「州は、彼がIWWの一員だから有罪だと言いたいのだ」ヒルはIWWを裁判に持ち込むないように努力した。だが新聞はそのことを問題にした。
裁判所あての手紙で、ヒルは裁判官が有罪を支持するとは思わずに、州が傷の原因を調査する権利を否定し続けた。社会主義者の新聞 Appeal to Reason への投稿で、ヒルは「モリソン氏が著名であるがゆえに生け贄の羊がなければならない。友人のいないトランプ、スウェーデン野郎、なによりもIWWの一員、、こんな奴は生きる権利がない、だから生け贄の羊に選ばれたのだ」と書いている。
この事件はメディアの大事件となった。ウィルソン大統領、ヘレン・ケラー、スウェーデンが反対運動に加わった。この事件は国際的な組合の関心事になり、評論家はこの裁判と有罪が不当であると主張した。ずっと後になってユタ州は、今日の法律の下ではこの裁判に提供された証拠に基づいて処刑されることは無かったとの声明を出した。ヒルは1915年11月19日銃殺隊により処刑された。彼の最後の言葉は「撃て!」であった。処刑に先立ち、彼はIWWの指導者ビル・ヘイウッドに手紙を送った。内容は「哀悼に時間を費やすことはない、組織するのだ!」
彼の遺書は Ethel Raim が付曲した。
彼の遺書は
My will is easy to decide,
For there is nothing to divide,
My kin don't need to fuss and moan-
"Moss does not cling to a rolling stone."
My body? Ah, If I could choose,
I would to ashes it reduce,
And let the merry breezes blow
My dust to where some flowers grow.
Perhaps some fading flower then
Would come to life and bloom again.
This is my last and final will,
Good luck to all of you, Joe Hill
遺骨
ヒルの死体はシカゴに送られ、そこで火葬された。彼は冗談でユタで埋められてたまるものかと言っていたが、事はそのように運んだ。彼の遺灰はIWWの各支部に送られた。1988年に発見されたことだが、「潜在的破壊活動」との理由で、一通の封筒が郵便局で差し押さえられていたのである。この封筒には写真があり、「ジョー・ヒル資本家階級によって殺害さる1915年11月19日」との説明文が付いていた。この封筒はthe National Archivesに収められている。
交渉の結果、ヒルの最後の遺灰(遺灰の入った封筒ではない)は1988年 IWW に戻された。The weekly In These Times はこの遺灰のことをお知らせ、この遺灰をどうするか、読者に意見を求めた。ワシントンのAFL-CIO本部に安置するという意見から、今日の「ジョー・ヒル」というべき、Billy Bragg や Michelle Shockedに食べさせる、という意見まで様々だった。Bragg は実際に、遺灰のひとかけらを飲み込んだ。アメリカ、カナダ、スウェーデン、オーストラリア、ニカラグアでは、遺灰の大部分は風で飛ばされた。スウェーデンに送られた遺灰は一部だけ風にで飛ばされた。遺灰のほとんどは、スウェーデン南部の小都市 Landskrona のある組合の壁に埋葬された。壁にはヒルを追悼するパネルがある。組合の部屋は、市の図書館の読書室になっている。ほんの一握りの遺灰はコロラド州ラファイエットで埋葬されたIWWの炭鉱労働者の記念碑の除幕式で撒かれた。武器を所持していない6人のストライキ参加者が、機関銃で、殺された。1927年の Columbine 虐殺である。1989年まで、このうち5人の墓にはなんの印もなかった。もう一人の有名な Wobbly である、Carlos Cortez の墓には、記念のためにジョー・ヒルの遺灰が撒かれた。
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